講師紹介
木ノ下裕一さん

学校長の推薦コメント

木ノ下さんは、歌舞伎の現代化を
最前線でやっている若いホープです。

木ノ下さんの舞台がどのように
作られているのか。

そのプロセスをじっくり聞いたことがあります。

驚きました。

緻密な準備作業、アカデミックな検証、
古典に対する深い造詣、歴史的な知識。

橋本治さんが古典を現代語訳するときの
作業とほとんど重なって見えることに
気づかされました。

妥協をしないで、陰でものすごい
努力をしているにもかかわらず、
そういうところを一切見せず、
作品一本で勝負する。

それも二人に共通する姿勢です。

橋本治さんは江戸歌舞伎が好きで、
江戸の人たちの思考やセンスに
限りなく近づきながら歌舞伎を楽しんでいました。

にもかかわらず、直接歌舞伎を論じた著作は
決して多くはありません。

木ノ下さんなら、
橋本さんがどのように歌舞伎の世界に
分け入っていったのか、
それを嗅ぎ当てることができるのではないか。

そんな勘が働きました。

そして、もうひとつの楽しみは、
木ノ下さんが橋本さんという存在と向き合い、
それをどう受け止め、どのように
ご自身の滋養にしてくれるか。

それも確かめられれば幸いです。

講師のことば

改めて歌舞伎の解説者としての
橋本治さんを考えるとき、
一貫してその立ち位置が江戸時代の歌舞伎側にいる
というところがおもしろいです。

現代人のはずの橋本治が江戸歌舞伎側にいる。

橋本さんにとって、「母国語」は19世紀の歌舞伎で、
むしろ現代の歌舞伎は外国語のような、
妙な距離感なんです。

現代人からしたら、江戸時代の歌舞伎って
筋立てが荒唐無稽だったり、
演出が突拍子もないもののように映るところも多々あって、
すべては娯楽の精神性とか、教養の基盤とか、
創作のロジックが大きく異なるからなんですけど、
そういう差異ががわからないと、
「へん」の一言で片づけがちなんですよね。

橋本さんは、その「へん」を言葉を尽くして
私たちにもわかるように翻訳、解説
しようとしてくれていたように感じます。

そして、実は「へん」と感じる部分にこそ、
江戸歌舞伎の神髄があるというか、
日本人独特のロジックとか倫理観が働いていて、
ある意味、日本文化特有の精神が
詰まっているのだということを明かしていく。

それこそが「歌舞伎」の魅力なんじゃないか、
ということを伝えようとしてくれていたように思うんです。

現代のいろんな歌舞伎の解説書は、
基本的に現代の立ち位置から歌舞伎を
見ているものが圧倒的に多いんです。

たとえば「一日中飲み食い、出入り自由の
江戸の芝居小屋という空間は、
現代でいうところの
音楽フェスのようなものだったと思ってください」
というように、今の視点から
江戸時代の歌舞伎を説明しようとする。

それはそれで、古典がぐっと身近になりますし、
敷居を下げるためには必要な手段なんですけど、
やりすぎると、視点が偏ってしまう。

だいたい、歌舞伎と音楽フェスは別物ですし‥‥。

橋本さんはそういうものとは立ち位置が全然違う。

あくまで、江戸の側から、現代を見ている。

そういうポジションから
歌舞伎を説明する人は、いまほとんどいないので、
あらためて、橋本治的視点で歌舞伎を見ることが
大切なんじゃないかと思っています。

あとは、橋本さんの翻訳者としての
仕事にとても興味があります。

たとえば、「桃尻語訳」のすごさ。

もしかすると一見ぶっ飛んだ訳に
思われるかもしれないけど、
そんなことまったくないんですよね。

いくつかの確固たるいくつかの制約(ルール)を決めた上で、
原文を尊重して訳していて、
結果的にできあがった訳がとても自由な感じがする。

一種の「型」の中で、それを守りながら翻訳し、
結果生まれたのが、あの「春って曙よ!」の破壊力です。

型があるからこそ、自由がある。

そうした「型」みたいなものを自分に課して、
その中で暴れるというのは
江戸の作者っぽい自由の獲得の仕方です。

そういった橋本治の中に流れている
「江戸的なるもの」「江戸劇作家のDNA」を
「歌舞伎」という装置を通して考えていきたいと思います。

木ノ下裕一きのしたゆういち

2006年に古典演目上演の補綴・監修を自らが行う木ノ下歌舞伎を旗揚げ。代表作に「黒塚」「東海道四谷怪談—通し上演—」「三人吉三」「心中天の網島」「義経千本桜—渡海屋・大物浦—」など。また渋谷・コクーン歌舞伎「切られの与三」の補綴を務めたほか古典芸能に関する執筆、講座など多岐にわたって活動を展開している。「三人吉三」再演にて読売演劇大賞2015年上半期作品賞にノミネート、16年上演の「勧進帳」にて平成28年度文化庁芸術祭新人賞を受賞。平成29年度芸術文化特別奨励制度奨励者。