講師紹介岡崎哲也さん

学校長の推薦コメント

初めて会ったとき、
「この人は知識も愛情もハンパじゃないが、
歌舞伎のいわば“絶対音感”を持っている!」と
直感しました。歌舞伎好き、役者の贔屓を語る人は
あまたあれど、岡崎さんほど
「空気のように歌舞伎を吸って」育った
“申し子”のような人は珍しいでしょう。

結果、役者の持ち味、芸の細やかさから、
地方(じかた)さんの顔ぶれ、客席の様子、観客の心理、
梨園の歴史、興行の勘どころなど‥‥歌舞伎にまつわる
何から何までを熟知する稀有な存在となりました。

こういう人が 華やかな舞台裏の制作サイド にいて、
汗をかきかき上演を盛り立てているのです。

そのことを是非知っていただきたいと思います。

講師のことば

物心ついたときには、歌舞伎座におりました。

累代母方が江戸っ子で、母方の祖母四姉妹と母が
そろって芝居が大好きだったものですから、
赤ん坊のころからの歌舞伎座育ちです。

幼稚園が終わる昼頃には地下鉄の蔵前から5駅分
地下鉄に乗せられて、歌舞伎座通い。

祖母たちが役者さんはじめご関係の皆さんと親しかったので、
いつも誰かしらが面倒をみてくれたようです。

柳橋の生まれですから相撲にも通いました。

本場所のある1月、5月、9月は、
月の半分は芝居に通い、5日間くらいは相撲、
寄席も好きだったので月に何度かは「末広亭」や
「鈴本」にも通うような日々でした。

勉強もそれなりにはいたしましたが、
芝居漬けだったために、こんなことがありました。

中学の歴史の答案で、史実と芝居がごっちゃになり、
いわゆる『源平盛衰記』のフィクションのほう
(『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』)の、
「熊谷直実(くまがいなおざね)は我が子を、
平敦盛(たいらのあつもり)の身代わりに討った」
と書いてしまい、先生に
「これは源氏と平家の史実とは違う。芝居の見過ぎだ!」
と笑われました。

大好きな歌舞伎に関わろうと松竹に入り、
一年目は三代目市川猿之助(現・猿翁)さんの一座の
プロデューサー見習いをさせていただき、翌年、
歌舞伎座の監事室に配属になりました。

舞台に関わるすべてのことがらについて、
制作プロデューサーの方々の補佐をし、大道具、
照明のスタッフとともに俳優や作家、
演出家らと関わることのできる不思議なポストです。

知識は無いよりはあったほうが良いですが、
学問だけでは解決しないのが常です。

トラブルが起きると処理に奔走しなきゃいけない
難しさはありますが、基本的には
芝居を観ていてお給料がもらえる、
私にとってはいちばん栄養になった時間だったと思います。

亡き永山武臣前会長には22年お仕えして多くを学びました。

大先輩の制作者である現在の安孫子副社長と、
入社以来、ほとんどの時間をご一緒していることも幸せです。

制作は、俳優さんに頭を下げて役をお願いして、
諸事を整えて幕を開けるというような仕事です。

胃が痛くなるような場面もありますが、
亡き中村勘三郎さんと復活させた芝居や
坂東三津五郎さんと作った新作をはじめ、
話せばキリがないくらい、いろいろな出来事がありました。

お話できないこともあります(笑)。

50年以上見続けてきた歌舞伎ですが、
いまも毎月本当におもしろいと思って観ています。

客席が沸くときの、劇場がひとつになる高揚感は格別。

たくさんの方にそれを味わっていただけるよう、
私が関わってきた歌舞伎のお話をしたいと思います。

岡崎哲也おかざきてつや

松竹株式会社・常務取締役。

慶應義塾大学卒業後、1984年松竹入社。

戦後の歌舞伎発展に尽力した故永山武臣・松竹前会長に仕え、演劇制作部長などを経て2014年より現職。

1987年の旧ソ連をはじめ、フランス、イタリア、アメリカ、ドイツ、ルーマニア、韓国中国など多数の海外公演にて事務局を務める。

川崎哲男のペンネームで歌舞伎、舞踊の脚本を執筆。

『壽三升景清(ことほいでみますかげきよ)』の脚本を松岡亮さんと共同執筆、2015年に大谷竹次郎賞に輝いた。

クラシック音楽にも造詣が深く、季刊誌『ステレオサウンド』に連載を持っている。

1961年生まれ。