講師紹介
梯久美子さん

学校長の推薦コメント

戦時中に詠まれた秀歌を集めた
『昭和万葉集 巻六(昭和十六年〜二十年)を
丹念に読み込んだ梯さんは、
あるエッセイで、こう述べています。

「なんと多くの人々が、あの戦争を、
そのなかを生きる自分を、短歌という形式に託して
うたったことか。戦地では将軍から兵卒までが、
銃後では老婆から女学生までがみな歌を詠んだ。

そしてそれは戦後も続く」
実際、毎年8月がくるたびに、
新聞の短歌欄には戦争体験を詠んだ歌が
いまなお掲載されています。

「有史以来、世界中で無数の戦争があったが、
これほどおびただしい数の詩を生み出した戦いは
なかったのではないか」
兵士たちが遺した歌は、
『万葉集』の防人(さきもり)の歌に通じます。

故郷や家族のもとを離れて遠い任地に赴き、
歴史の大きな渦に巻き込まれた人々が
歌に託したそれぞれの思い。

梯さんとともに、彼らや彼らを見守った妻や子の、
いまと変わらない心情を味わってみたいと思います。

講師のことば

昭和54(1979)年から翌年にかけて刊行された
『昭和万葉集』には、『万葉集』と同じように、
有名無名たくさんの人々の歌が集められています。

『昭和万葉集』六巻に収められた太平洋戦争中の歌と、
『万葉集』の防人の歌とを比べると、
故郷を遠く離れた兵士と、
その帰りを待つ家族が互いに思いをはせる心情は
時を経ても変わらないことがわかります。

もうひとつ共通するのが、土地に寄せた歌が多いこと。

私は戦争の取材をするなかで、
土地は歴史を記憶すると思うようになりました。

太平洋戦争中の兵士の歌からは、
国の外、はるか遠くの土地で
死ななければならなかった人たちの声が聞こえてきて、
『万葉集』の時代とは
またちがう悲劇性があって胸を打たれます。

16、17歳の若い兵士や、
出撃していく18歳くらいの特攻隊員が
たくさんの歌を残しています。

こんなにみんながこぞって歌を残した戦争は
他に聞かないし、こぞって歌を詠んできた
国民性も珍しいのではないでしょうか。

それはなぜかと考えると
三十一文字という定型の力、
伝統の力、ではないかと思うのです。

何も言わないまま死んでいきたくはない。

でも、くどくどと語りたくもない。

そんな、さまざまな思いを受け止める
「うつわ」が三十一文字だったように思うのです。

ぎりぎりのところに立たされた人が、
歴史の中で、生き死にを繰り返してきた人たちの
列の最後に自分が並ぶような、
そんな感覚があったかもしれません。

また、ノンフィクション作家として思うのは、
『万葉集』『昭和万葉集』ともに、
歴史の証言集としても読めるということです。

私の好きな戦時中の歌を一首紹介します。

配給の品々とともに求めこし矢車草も家計簿にしるす

北原白秋門下の歌人で、宮柊二の妻・英子の歌です。

戦時下の東京での新婚生活を歌ったものですが、
配給といっても無料ではなく、
お金を出して買うものだったことがわかりますし、
(実は私、長いこと、配給は
タダだったと思い込んでいました)
これは敗色が濃くなって、
庶民の暮らしも大変になってきた
昭和19年の歌なんですが、
そんな中で矢車草が売っていたんだ、など、
当時の暮らしぶりについて発見があります。

『万葉集』にも、食べ物や家の中の様子など
生活感あふれる歌がいくつもあります。

リアリティがあって、とてもおもしろいものです。

そんな読み方もいっしょに楽しみましょう。

ふつうの人々の隣に、
いつも和歌や短歌はありました。

いままた、ツイッターなどを使いながら、
若い人が、若者の生活実感を
新しい形で「歌」にしていて、
それはそれで新鮮です。

案外、歌の心は脈々と受け継がれているのです。

歌という「うつわ」の力について
考えてみたいと思います。

梯久美子かけはしくみこ

ノンフィクション作家。編集者などを経て、2001年よりフリーライター。『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2014年から同賞選考委員。2017年『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』で読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞、講談社ノンフィクション賞受賞。『世紀のラブレター』『昭和の遺書―55人の魂の記録』『百年の手紙―日本人が遺した言葉』『勇気の花がひらくとき やなせたかしとアンパンマンの物語』『原民喜―死と愛と孤独の肖像』など著書多数。