シェイクスピア講座2018 
第6回 山口宏子さん

蜷川幸雄と世界と日本のシェイクスピア

15分版・120分版の視聴方法は こちらをご覧ください。

山口宏子さんの

プロフィール

この講座について

演劇記者としてみつめてきた演出家・蜷川幸雄さんの演劇の世界を解説しながら、日本人はシェイクスピアをどのように受け入れて自分たちのものにしてきたのかを、わかりやすく語ってくださいました。西洋由来の芸術に日本人がどう向き合うかは永遠の課題であることが改めてよくわかります。蜷川さんという「文化遺産」を語り継ぐという山口さんの強い意思も感じられる講義です。(講義日:2018年3月27日)

講義ノート

今日は「蜷川幸雄と世界と日本のシェイスピア」と、タイトルがすごく大きいんですけれども(笑)、前半は、日本のシェイクスピアの概略みたいなことを、後半は、蜷川さんがどんな作品を残したか、それにはどんな特徴があるのか、というようなことをお話ししたいと思います。

日本語で観るシェイクスピア

私は新聞記者で、学者でも作り手でもないものですから、劇場で観てきた経験をもとにお話ししようと思います。私は「観る側」と申し上げましたが、それは、「日本語で観る」ということでもあります。英語に堪能ではないので、日本語に翻訳されたものを観る立場なわけです。ですので、シェイクスピアの何割かはそこでもう手からこぼれているわけですね。英語のリズムや韻律、そういうのはこぼれているけれど、それでもたくさんのものは手の中に残る。そういう話をしたいと思います。

シェイクスピアが日本に入ってきてからずっと、日本人はその問題に折り合いをつけながら受け入れてきたのではないかと思います。それを前提にお話しさせていただければと思います。まず前半、これまでの講義ででてきた名前や事柄を、ざっと説明します。見取り図を作ると分かりやすいと思うので。これは新聞記者が得意なところです。その上で、後半、なぜ蜷川さんについて語るかと言うと、日本のシェイクスピア上演の中で屹立した存在だと思うからです。蜷川さんの舞台を考えることはいろんなことを考えることにつながると思います。

新聞記者というのは、作る側の近くまで行って見てくる。そして、見てきたことを、基本的に文字で伝える者です。そこで覚えてきたことを他のところで使って、応用していく知識を皆さんに知っていただくのが私の仕事と言えるんじゃないかと思っています。2年前に亡くなられた蜷川さんはじめ、お話を聞かせていただいたなかで亡くなった方が多くなってきています。もちろん作品が残っていたり、作家だったら書いたものがたくさん残ったりしていますが、その方々と直接触れ合って、創造の現場を近くで見せてもらうという非常にありがたい経験を私はしています。そして、それをお話しする機会を最近たくさんいただいています。たとえば去年は、ロンドンで「NINAGAWAマクベス」の上演があって、それにあわせたレクチャーがあり、なんとロンドンに行って、この私の流暢な日本語でレクチャーをしてきました。

そうすると、自分は何だろうと思うわけです。たとえば琵琶法師が旅に出て、あちこちで話を伝えるみたいな、人を介して何かを伝えていくような役回りかな、と思いました。なので、そんなような人間が話す言葉、話だと聞いていただけると嬉しいです。

蜷川さんと一緒に、この本(『蜷川幸雄の仕事』蜷川幸雄・山口宏子共著・新潮社)を作らせていただいたのが亡くなる前の年です。とても思い出に残っている仕事です。コンパクトに蜷川さんの仕事がまとまっていますから、どこかで見たらお手に取っていただけると嬉しいです。

超高速・日本のシェイクスピア

では、ここから「超高速・日本のシェイクスピア」、江戸末期から現代までを一気にいきたいと思います。相当なスピードですので、あやしいところもありますが、よろしくお願いします(笑)。シェイクスピアが日本の文献に初めて出たのは、天保十二(1841)年と言われています。あとで「天保十二年のシェイクスピア」の話をしますが、江戸の後期から明治になって西洋の文化が入ってくる中で、シェイクスピアは日本に入ってきます。

たとえば、仮名垣魯文という人が1875(明治8)年に『ハムレット』の翻案を書きます。長く上演されないで、20世紀の後の方になって、歌舞伎で市川染五郎(現・幸四郎)さんの主演で「葉武列土倭錦絵」としてやっと上演されました。『ヴェニスの商人』は「人肉質入裁判」や「何桜彼桜銭世中」などの翻案で上演されました。もうひとつ明治初期の日本人とシェイクスピアの出会いというと、岩倉使節団があります。当時の政府高官らが2年もかけて西洋の文化や政治や経済を勉強しに行って、マンチェスターで「ヘンリー8世」を観ます。これがおそらく日本人が本場のシェイクスピアを観た最初でしょう。伊藤博文は帰って来て九代目の市川団十郎に、「スケールが大きくて、戦闘や殺人は劇中で実際やらないで言葉で伝えられる。ラブシーンもあるけれども、エロくない。日本も大いに見習うべきである」と語っているそうです。研究者の方に伺った話ですが、そういうふうに最初から見習うべきものとして語られているのが、特徴として言えると思います。

そんなふうにして徐々にシェイクスピアが入ってきて、やがて坪内逍遥がシェイクスピアに取り組みます。逍遥はご存知のように作家で、翻訳家で評論家。現代演劇を日本に根付かせるのに功績がありました。この人が、明治から昭和までかけてシェイクスピアの37戯曲(今は40本とも言われていますけど、37がすべてと長く言われてきました)を全部翻訳しました。それまでは戯曲の一部を抜き出し、歌舞伎などに翻案して上演されてきたシェイクスピア劇を、逍遥は1884年に初めて全幕翻訳します。「ジュリアス・シーザー」で上演は1901年。タイトルが凄い。「該撤奇談 自由太刀余波鋭鋒」。訳文は浄瑠璃形式です。自分たちにもわかる文化に書き換えて取り入れたといえるでしょう。

昭和に入りますと、1937(昭和12)年に、後に俳優座を創った千田是也さんが、新築地劇團で「ウィンザァの陽気な女房たち」を演出しています。築地小劇場で上演しました。とても良い作品だったと記録にあるのですが、ここから一気に戦争に進むので、シェイクスピアの喜劇をおおらかに上演するようなことは、この先時代が許さなくなっていきます。

戦争が終わったあとの1946年。6月に帝国劇場で「真夏の夜の夢」(今は「夏の夜の夢」と言いますが)が合同公演として上演されます。新劇の人たちが大勢参加して上演するという形で、新たなシェイクスピアの時代がやってきました。

一気に明治から戦後まできました。1970年代が日本のシェイクスピア上演にとってひとつの大きなポイントになりますが、その前に、シェイクスピアの翻訳でも名高い福田恆存さんと芥川比呂志さんのコンビによる文学座の「ハムレット」の上演が話題になるなど、シェイクスピアの本格的な上演がさかんになってきます。ここでちょっとおもしろいなと思ったのは、1955年の福田演出の「ハムレット」の批評です。福田さんがイギリスに行って勉強してきたことを規範にしてやって、なかなか結構なものができたというようなことがとてもポジティブに書かれている。西洋に見習うべき何かがあって、それをどう学んできて日本に伝えるか。それがとても良いことであり、シェイクスピアを受け入れる知的で正しい態度であるというような書き方になっています。このことはちょっと覚えておいてください。この後の話につながってきます。

1970年に、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが初来日します。シェイクスピア上演の総本山みたいな劇団です。当時の新聞をみると、すごい。オリンピック並みの扱いなんです。なるほど、これほど大事件だったのか、と改めてビックリします。

そして、1973 年。3度目の来日は「真夏の夜の夢」。ピーター・ブルックの演出です。ピーター・ブルックは現代演劇の巨匠として日本でもファンが多いですし、ことあるごとに語られる人ですね。この73年の公演を生で観た人はみんな威張ります(笑)。それほど画期的な上演だったわけですね。さらにこの頃、ピーター・ブルックの『なにもない空間』や、ヤン・コットという演劇学者の『シェイクスピアはわれらの同時代人』といった古典的名著が相次いで日本で刊行されます。

ピーター・ブルックはイギリス出身の演出家ですが、その後パリに渡ってさまざまな国の人たちを集めた実験的な演劇をやって今も90代で健在です。ヤン・コットの『シェイクスピアはわれらの同時代人』の考え方をベースにした「リア王」(現代の不条理劇のリア王みたいなもの)を、1960年代にロンドンで上演していて、これが画期的な上演とされています。これは、この後登場する小田島雄志さんに伺った話ですけれど、ちょうどそれを上演している時に『なにもない空間』を訳された高橋康也さんがイギリスに留学されていて、その「リア王」を観たそうです。あまりに素晴らしいので、友人である小田島さんに「すぐに観に来い」と葉書を出したんです。それを東京で受け取った小田島さんは「すぐに来い」って言われてもなあと思ったそうですが、そのぐらい高橋さんは感動したそうです。

そして小田島さんのシェイクスピア全訳が始まります。1972年に文学座がシェイクスピア・フェスティバルを催します。文学座は信濃町にアトリエを持っていて、自由な空間がある。そこで、若い劇団員と若い演出家たちが、スピード感のある新しいシェイクスピアを作ろうと取り組みました。よく言われるのが、江守徹さんの「ハムレット」が素晴らしかったということ。それまでシェイクスピアというのはイギリスに倣ってキチンとやるみたいなことがあったのですが、そこからもっと自由闊達な上演が行われるようになった。小田島訳はスピード感があるし、言葉のリズムなどが当時の若い人たちの気持ちにあっていた。やさしい日本語で書かれていて読みやすいこともあって、シェイクスピアを身近にするという意味で、大きな役割があったと思います。

そして、演出家の出口典雄さんが「劇団シェイクスピアシアター」を作り、渋谷にあったジァン・ジァンという小劇場で、ものすごい勢いで全作連続上演をやった。3ヶ月に1本新作をやるような勢いで、81年までに全作上演を完走しました。ジァン・ジァンにいらしたことがある方もいらっしゃるかも知れませんけど、柱はあるし、ちゃんと舞台装置を飾れるようなところではないんですが、そういうところでカジュアルな服装の若者たちが舞台に立つ。「ジーパンシェイクスピア」とあだ名されたスタイルが、シェイクスピアの新しい上演のあり方としてひとつ確立したと言えると思います。そこで育った俳優さんもたくさんいて、吉田鋼太郎さんもその一人です。そんななか、蜷川幸雄さんが初めてシェイクスピアに取り組むのが1974年です。が、これはちょっとあとでお話しします。

盛り上がった70年代の後に80年代がやってきます。景気が良くなって、バブルに向かう時代ですね。そういう時、新大久保に「東京グローブ座」が出来ました。これは、シェイクスピアの時代にシェイクスピアが拠点としていたロンドンの劇場を模した形の劇場です。中曽根総理大臣の時代に、民間の活力を使った大きな都市開発で生まれた劇場で、時代の象徴的な建物だと思います。そこに海外からたくさんのカンパニーがやってきました。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーはもちろん、イングマール・ベルイマン演出の「ハムレット」や、ケネス・ブラナーのカンパニーなどがどんどん来ました。そして、日本の演劇人たちも、ここでいろんなシェイクスピアを上演しました。

私事ですが、私の演劇記者のスタートはちょうど、東京グローブ座のオープニングの頃です。加藤直さん演出の「ハムレット」の記者会見に行ったのが演劇記者としてのスタートでした。主演は風間杜夫さん。ちょっと意外ですよね。つまり、そういうシェイクスピアも試みられていた、そんな時代だったのです。

その後に、もうひとつシェイクスピアに関する山が来ます。1991年の「ジャパンフェスティバル」。日本の文化をロンドンに持って行こうという国のプロジェクトで、大相撲ロンドン場所をはじめ、いろんなものが行きました。その中に当時の染五郎さんの歌舞伎版「ハムレット」もありました。狂言の野村万作さんのために高橋康也さんが『ウィンザーの陽気な女房たち』を狂言スタイルにした「法螺侍」も上演されています。今の視点からこれを見ると、明治の人たちがシェイクスピアの物語を受け入れて日本風にやろうと思った「歌舞伎版ハムレット」と、20世紀終盤のシェイクスピアの大学者が、日本の古典様式にシェイクスピアをあてはめて作った実験的な舞台が、並んでロンドンに行ったのは、とても象徴的な気がするんですね。この100年で、日本人がシェイクスピアとどうつきあってきたか、それを日本の演劇の形でどう表現するかということが二つ並んでいたのはおもしろいなぁと、今回資料を整理して、改めて感じました。

その後もたくさんのシェイクスピア作品が上演されていることは、皆さんご存知の通りだと思います。だから、演劇イコールとまでは言いませんが、演劇を象徴するのがシェイクスピアということは定着しているのではないかと思います。三谷幸喜さんが作った「ショウ・マスト・ゴー・オン 幕を降ろすな」という喜劇があります。芝居の上演中に起こる様々な騒動を描いた作品ですが、その劇中で上演されてるのもシェイクスピア劇。昔だったら忠臣蔵だったかもしれないけれど、90年代になると、シェイクスピアのほうが演劇としてイメージしやすいということだろうと思うんです。大急ぎでこれまでの大きな流れをお話しして、ここから今日の柱である蜷川さんのお話をしたいと思います。

蜷川さんとシェイクスピア

蜷川幸雄さんは1935年に埼玉県川口市で生まれました。高校を卒業したあとに、劇団青俳という新劇系の劇団で俳優になり、そこから演出家になった方です。蜷川さんのたどってきた道と蜷川さんが作るシェイクスピア劇は、とても深く関わっていると思います。蜷川さんが生まれた川口は、ある程度ご年配だと、「キューポラのある町」という映画でお馴染みだと思いますが、町工場がたくさんある職人さんの町です。山の手の気取った感じとはちょっと違います。実家は洋服屋さんで、お父さんも職人さんでした。芸術的なことに関心があったということで、蜷川さんも小さい頃からお芝居を観たりしていたようですが、庶民的なところで育ったわけです。

蜷川さんは東京の開成中学に入ります。進学校ですね。地元の中学に行ってる同級生もたくさんいて、彼らと東京の名門校の制服を着て会うのが、すごく恥ずかしかったといいます。それを誇らしいと感じる人もいると思うんですが、蜷川さんは恥ずかしいと感じた。その「恥ずかしい」というのを、勝手に因数分解してみると、エリート風であったり、教養があることをひけらかすように見えるのではないかということだと思うんです。教養や文化的なことにリスペクトはあるんだけれども、そのことに振り回されるのは恥ずかしいという意識が子供心にもあった。そういう蜷川さんの気持ちのありようは、演出にも表れてるのではないかというのが私が感じるところです。

蜷川さんは最初画家を志しましたが、芸大受験で挫折して、劇団に入ります。1955年です。イギリスで学んだ教養に裏打ちされた福田恆存さんの「ハムレット」が評価された時代です。そういう時に新劇の俳優になるわけです。そこには大学の英文学の先生が来て教えたり演出したりしている。そこで、教養を大事にする、あるいは戯曲を読んで分析して学ぶということを叩き込まれるわけです。それは、蜷川さんの大きな栄養になるんですけど、一方で彼は反発も覚えるわけです。ちょうど60年代、若者たちの反体制運動が盛り上がってくる頃です。教養や語学力があることで、大学人が演劇の現場で主導権をとることに蜷川さんも反発しはじめるわけです。葛藤する20代を過ごして、1969年に現代人劇場という自分たちの劇団を作ります。いわゆるアングラ劇団です。そこで「真情あふるる軽薄さ」という清水邦夫さんの戯曲で本格的に演出家としてデビューします。当時の仲間は石橋蓮司さん、蟹江敬三さん、後に蜷川さんと結婚する真山知子さん。そういう方たちと一緒に、アングラ演劇を新宿の小劇場で上演する刺激的な活動をしていたわけです。今日はシェイクスピアがメインなので、そのことはあまり語りませんが、非常にとんがった活動をしてたということをイメージしておいてください。

そこに運命の1974年がやってきます。東宝のプロデューサーだった中根公夫さんという人がいます。この人はヨーロッパに長く留学し、ヨーロッパの演劇のムーヴメントや優れた舞台をたくさん見てきて、「日本でもこういうのをやろう」と思った。映画「ロミオとジュリエット」を監督したフランコ・ゼフィレッリというイタリアの巨匠を招聘して「ロミオとジュリエット」を上演しようとします。ゼフィレッリも承諾したんですが、ドタキャンされる。困った東宝は、どうせなら日本の若手を起用しようと考えた。その候補の一人が蜷川さんだったんですね。中根さんは、京都で俳優として撮影中の蜷川さんに会いに行きます。蜷川さんは「ロミオとジュリエットを、俺ならこうやる」と語ったと、中根さんから伺いました。蜷川さんはそれまでの新宿の小劇場からいきなり、日比谷の大劇場・日生劇場に行きました。三層の壁のようにそそり立つ巨大なセットを作り、上下の動きを使って躍動的な演出をしたというのが語り継がれていますけれど、それが蜷川さんの大劇場デビューであり、シェイクスピアデビューです。

人の本質はデビュー作に宿るとよく言いますが、蜷川さんのシェイクスピア劇のポイントも、ここで出そろっています。ひとつは大勢の群衆。ただし、蜷川さんは「群衆」という言葉が嫌いでした。人を束にして見てるから嫌だと。「人が大勢いる場面」って言っていました。人がワーッといるけれど、一人一人の違う生き方がそこで見えなくちゃいけないんだっていうのが、蜷川さんのポリシーだった。だから、大勢の場面が非常に躍動的であり、かつ、複雑でした。

もうひとつは、上下の動きですね。上と下の関係でパッと視覚的に状況を表す。もうひとつは、しがない人生を送る一般の人々が憧れる輝かしいものを示すこと。それに憧れて、それと自分が結びつくことで、自分の人生を輝くものにしたいという民衆の思いが、蜷川さんの作品でよく感じることなんです。「ロミオとジュリエット」なんてまさにそうですよね。貴族の娘と息子の純愛は、自分たちは到底実現できないけれど、その人たちの輝かしさを見ることへの強い憧れがある。そういう輝かしいスターと等価で普通の人がいるというのが蜷川さんの作品の根幹だと思うんですけれど、初期の「ロミオとジュリエット」にそれはすでに表れていたと思います。

教養には敬意を持つけれど、教養をひけらかしたり、インテリぶったりするのは恥ずかしいっていうのが、蜷川さんの考えです。だからそういう態度の批評に対して怒るわけです。「ロミオとジュリエット」も、シェイクスピアはこんなんじゃない、って怒った“専門家”や“批評家”がいたそうですが、そういう人と常に戦うのが蜷川さんの姿勢でした。そんな蜷川さんのシェイクスピア観を表しているのが、次の映像です。「天保十二年のシェイクスピア」という作品で、井上ひさしさんの戯曲を蜷川さんが演出したものです。ロンドンのグローブ座を模したところに、いかにもな感じの西洋の、ザ・シェイクスピアといった衣装の人がうろうろしてる。「シェイクスピアってこういうもんだと思ってるでしょ、みなさん」っていうのが最初の場面で

「天保十二年のシェイクスピア」劇中歌

もしも――
シェイクスピアがいなかったら
文学博士になりそこなった
英文学者がずいぶん出ただろう

もしも――
シェイクスピアがいなかったら
全集、出せずに儲けそこない
出版会社はつくづく困ったろう

もしも――
シェイクスピアがいなかったら
創作劇に貧しく乏しい
新劇界はほとほと弱ったろう

シェイクスピアは米びつ 飯の種
あの方がいるかぎり 飢えはしない
シェイクスピアは米の倉 腹の足(たし)
あの方がいるかぎり 死にはしない
シェイクスピアは ノー・スペア
あの方に身がわりは いないのさ

もしも――
シェイクスピアがいなかったら
女は弱い、などという
あの誤解は生れなかっただろう

もしも――
シェイクスピアがいなかったら
バンシュタインはウェストサイドを
とても作曲できなかっただろう

そうなりゃ――
「ツーナイト、ツーナイト、
……………………ツーナイト」
というヒット曲(ソング)も生れなかったろう

もしも――
シェイクスピアがいなかったら
これから始まるはずの
このお芝居もここでおしまいさ

シェイクスピアはドル箱 金の蔓
あの方がいるかぎり 金には困らぬ
シェイクスピアは不動産 親の脛
あの方がいるかぎり われらは安泰
シェイクスピアは ノー・スペア
あの方に身がわりは いないのさ

『井上ひさし全芝居 その二』(新潮社)より

これは蜷川さんの古希、70歳の記念の公演で、豪華絢爛なキャストが出演したんですけれども、シェイクスピアの37作品すべての要素を1本に盛り込むという趣向の戯曲で、藤原竜也さんや唐沢寿明さんら、シェイクスピア劇の本当の主役たちがパロディをやるという大変豪華な芝居でした。井上ひさしさんと蜷川幸雄さんは1歳しか違わなくて、かたや日本を代表する劇作家、かたや日本を代表する演出家なんですが、ずっと縁がなかった。この時に初めて二人は直接出会って、それ以降、蜷川さんは井上さんの作品をいくつも上演することになるんです。

戦後、日本の演劇界の真ん中には新劇がドーンと権威あるものとしてあった。蜷川さんは新劇の出身だけれども、中核劇団ではないところの出身で、俳優として大成功したわけではない。だから、新劇のある種権威的な感じに反発を持っていた。かたや井上さんは、浅草のストリップ劇場の文芸係のアルバイトからスタートして、その後はテレビの放送作家で、喜劇に力を入れていた。権威に反発したところからスタートしている二人が出会った。しかもこの作品は、新劇なんかの権威主義を徹底的に攻撃している作品です。ふんどしひとつで、肥桶を担いだお百姓さんたちが、気取ったグローブ座をガンガン壊しちゃう。つまりそれが、「俺たちのシェイクスピアへのアプローチだぜ」という闘争宣言みたいなオープニングだと思います。

もうひとつ、蜷川さんの演出の特徴に、「幕開き3分」というのがあります。最初の3分で、一気に日常からどこかへバーンと連れ去るような、強烈なインパクトをぶつけるわけです。その典型的なものをご覧に入れたいと思います。「リチャード三世」です。(VTR)

映像だと迫力が今ひとつ伝わらないんですけど、劇場で観たらすごい。実物大に近い馬が上からドーンと落ちてくる。蜷川さん、でたらめに物を落としたりしてるわけではないんです。文献をみると、当時のロンドンは、窓からゴミなどがどんどん落ちてきて非常に汚かった。そして、「リチャード三世」の最後のセリフは「馬、馬」ですよね。だから、馬が走ってきて倒れるってことは、「リチャード三世」というドラマのエッセンスをここでバーンと見せるわけです。びっくりさせるのも単にこけおどしじゃなくて、観終わると「あぁそういうことか」と思える。こういうのが蜷川さんの演出のすごいところです。

蜷川さんの作品は、小さい空間でやることもなくはないけれど、基本的に大きな劇場での公演です。つまり、大勢が観る。だからわかる人にわかればいい、ではない。シェイクスピアに造詣が深いとか、演劇に理解力があるといった人たちだけではなく、ごく普通の人が楽しく観られる。詳しくない人にもおもしろい舞台を見せなくちゃいけないということを彼は常に思っていました。そのためにいろいろな手を使います。典型的な作品をご紹介しようと思いますが、「NINAGAWAマクベス」です。今日の中心的な作品なので、このあと映像を観ていただきますけれども、この作品をきっかけに蜷川さんはイギリスの演劇界でも尊敬されるようになります。けれど、作っているときはそんなことは意識してないわけですね。スコットランドの王様になろうとした武将マクベスを日本の観客にどう見せるかっていったときに、翻案とか日本化ということではなくて、日本人の記憶と交差して、「ああ、わかるなっていうものにしなきゃいけないよね」っていうのが蜷川さんのアプローチだったわけです。

この作品は、舞台全体が仏壇になっていて、その中でマクベスのドラマが起きるというしつらえになっています。ご存知の方も多いと思いますけれども、スタイルは安土桃山時代、お侍が出てきます。だからイギリスでは「侍マクベス」と呼ばれてます。私たちは「仏壇マクベス」って言うんですけどね。セリフはまったく変えてません。中身は変えないけど、見た目が「あ、侍同士の戦いの話ね」とわかる。そして仏壇の中に入っていることで、死の影のある話だということが私たちはパッとわかる。そういう風にして、自分たちの気持ちとつながりのある作品だということをビジュアルでバーンと見せるわけです。

これが、冒頭で申し上げた「日本語でシェイクスピアを観る」ということなんです。イギリス人がリズムや朗誦でシェイクスピアを楽しむのとは違う楽しみ方をせざるを得ないわけです。そのときに蜷川さんは視覚から入る。その中で、俳優さんたちの肉体を生き生きと見せることで、言葉の芸術だけではないシェイクスピアを、日本の人たちに見せようとしたわけです。

劇中でホントの焼きそば

同じように、日本人の記憶と交差させた例として、「テンペスト」があります。孤島に流されるプロスペローは、日本人にとっては、佐渡に流された世阿弥だなと蜷川さんは思うわけです。それで、初演のときは、「佐渡の能舞台でのリハーサル」という副題をつけてやりました。それによって、私たちの気持ちとつながる。遠い国の話ではない、そういう風に見せてくれるわけです。もうひとつが「夏の夜の夢」。これはベニサンピットという、蜷川さんのもうひとつの拠点だった小劇場でやったんですが、このイメージは竜安寺の石庭です。そこで、いろんな魔法が起こるんです。職人たちが劇中劇のために集まる場面をどうするか。蜷川さん、庶民の場面の演出はすごく張り切ります。彼らはまず焼きそばをホントに作るんです。劇場が匂いでいっぱいになる。でも確かに、仕事を終えた職人さんたちが芝居の稽古をしようぜって集まったら、まずは腹ごしらえ、ですよね。なるほどという感じがします。そういうことによって、美しくてファンタジックだけれど、同時に身近で庶民的。そういういくつもの層をこの作品に作っていたわけですね。

そして、パックは京劇の俳優。日本だけじゃなくて、アジアの強い身体、特別に訓練された素敵な身体を持っている人を妖精に使った。そのことによって、ヨーロッパのピーター・ブルックの舞台に対するある種のアジアからの「返歌」にしたのです。

NINAGAWAマクベス

後半はじめます。休憩の間に松岡和子先生からのダメ出しがありました。この「夏の夜の夢」のパックは、単に京劇俳優がやっていたというだけではなくて、複数の人が演じていたと。大勢のパックが出てきて、これは画期的な演出である。そのことに言及していないのはけしからんと叱られました(笑)。向井万起男先生からは、ピーター・ブルックの「真夏の夜の夢」を2度も観たってさんざん自慢されました。ことほど左様に、芝居について語るのは楽しいんですよ。

では、「NINAGAWAマクベス」を映像で観ていただきたいと思います。まずオープニングのシーン。おばあさんが客席から出てきます。日本の民衆の象徴がこのおばあさん2人と言えるのではないかと思います。おばあさんたちは、ずっと舞台の袖で座ったまま舞台を観客と一緒に見守ります。

次は、マクベス夫妻がダンカン王を暗殺した翌朝の混乱の場面です。一瞬、真ん中に王子2人がいて、マクベスと バンクォとマクダフという、主要中心人物が三角形にパシっと決まる場面、キレイでした。ああいうところの「決まる」感じ、蜷川さん、得意なんですよね。さらに、ずっと半鐘が鳴っている。半鐘の乱打で非常事態だとわかるわけですよね。生活感覚の中でパッと思い浮かぶ。そういう音の効果もうまく使っていると思います。

次は、バーナムの森がダンシネインにのぼってきます。「バーナムの森がダンシネインに来るまではマクベスは滅びない」と魔女に言われた、その森が動くのを桜が動くことで表現してるとてもキレイな場面です。……というのが、超高速「NINAGAWAマクベス」でした。蜷川さんの典型的な作品で、日本人の記憶と交差させる例をお話ししました。

大衆性も、蜷川さんのひとつ特徴です。だから、おもしろいこともしてくれるわけです。彩の国さいたま芸術劇場でシェイクスピア作品の連続上演をするなかで、オールメールシリーズ=全部男性でやる。女優が出ない。そんな芸能的楽しみっていうのもあります。また、美しくなきゃ蜷川作品じゃないということもあります。代表例が、タイタス・アンドロニカス。シェイクスピア作品の中で最も陰惨な作品です。これが舞台を真っ白な世界にして、すごくきれいなんです。血は細いひもで表現している。グエルシェークスピアカンパニーのいろんな舞台を集めた写真集の表紙に、この舞台の写真が使われていました。

ちょっと駆け足でごめんなさい。蜷川さん、「ハムレット」を8通りもやって、その都度いろんな演出をしています。民衆の心という話をしましたけれど、とてもユニークなハムレットをひとつ作っています。彩の国さいたま芸術劇場で「さいたまネクストシアター」という20代の若者と一緒に作った劇団でやった「ハムレット」なんですけれど、ちょっと観て驚いて下さい。「尼寺へ行け」の場面。こまどり姉妹が登場します。10代から流しをやって苦労してきた演歌の双子歌手・こまどり姉妹の歌の揺さぶる力に、シェイクスピアをやっている俺たちは拮抗できるのか、と問うわけです。同時に、大衆に根差したところへのリスペクトというか、そういうところと自分たちは決して離れているわけではないという意思表明でもある。こまどり姉妹がキラキラのお着物で「しあわせになりたい」って歌うことと、王子と貴族の娘のやり取りの部分を対比することで、自分たちとシェイクスピアとの近さ遠さみたいなことを考えさせるわけですね。これは蜷川さん会心の作だと言われています。

‥‥と、いろんなタイプの蜷川作品をご紹介してきたんですけれども、蜷川さんがやり続けたのは何かということを最後にちょっとだけ、私の個人的な意見を言わせていただこうと思います。

蜷川さんやはり近代以降、西洋をお手本にして、学んで追いつくことがいいとされたなかで、シェイクスピアの有り様にNOを突きつけたんじゃないかと思うんです。シェイクスピアの素晴らしさや作品としてのおもしろさ、あるいは言葉とか教養ってものに対して最大限の敬意を払いつつ、それを理解することを自分にとって恥ずかしくない表現、自分にとって苛立たしくない表現にして、多くの人と共有するにはどうするのかを考えてきたと思うんですね。近代以降、日本人が西洋と向き合う歴史の中で、一人で戦ってきた演出家として、その総体と戦ってきたんじゃないかなあという気がいたします。

イギリス人は「NINAGAWAマクベス」を高く評価しています。だけど、仏壇のことを知らない。桜も美しくてはかないとは思う。だけど日本人にしてみると、桜は死のイメージであったり、あるいは狂気ですね。そういうことは伝わってないわけです。それでもいいんですけれど、つまりイギリスで評価されて理解されるのはいいけれども、そのことに照準を合わせるのは違うよねっていうことを、蜷川さんはやり続けてきたんじゃないかと思うんです。

画家の山口晃さんの『変な日本美術史』という本があります。油絵を芸大で勉強した山口さんは、日本人が西洋画を描くことの意味みたいなことを考えてるんですね。蜷川さんと問題意識が重なると思って、2015年に対談してもらったんですけれども(『蜷川幸雄の仕事』に収録)、やはり、西洋由来の芸術に日本人がどう向き合うか、シンクロする話でした。さらに、フィギュアスケートの羽生結弦さんが、記者会見で「日本の音楽で金メダルをとったことに意味がある」って言ったんですね。フィギュアというヨーロッパ由来の競技で、日本人が日本の音楽でメダルが取れたことに意味があると語るのを聞いて、80代、40代、20代のトップアーティストが同じような問題意識を口にしているのは、とても興味深いと思いました。蜷川さんというひとつの人生を振り返ることで、そのことを私はとても深く学んだり考えたりするきっかけになりました。

長い時間ありがとうございました。

受講生の感想

  • それほどシェイクスピアに興味があったわけではなかったが「ほぼ日が開校する学校」ということのほうに大いなる魅力を感じて受講を決めた。
    生徒全員でセリフを音読したり、「音」のように声を出してみたり、蜷川シェイクスピアに見入ったり。「座学」だけではない、生きた授業を受けている。今ではシェイクスピアの奥深さにはまりにはまってしまった。

    仕事帰りでへとへとになっているときもある。だが、その疲労感をすっかり忘れさせてくれるのが、ほぼ日のシェイクスピア講座なのだ。隔週火曜日の「非日常の世界」が、今の私の原動力になっている。

  • 素晴らしい講義でした。 授業のあと、海外を含めていろんなシェイクスピア劇の様子をネットで拾い見するようになりました。実生活と舞台の距離が、山口先生のおかげで近くになったのだと思います。 授業で紹介された山口晃さん、ピーター・ブルック、ヤン・コットの本も読み漁っています。