シェイクスピア講座2018 
第13回 古川日出男さん

平家物語と蜘蛛巣城とマクベス

15分版・120分版の視聴方法は こちらをご覧ください。

古川日出男さんの

プロフィール

この講座について

「むかしむかし」と「ミライミライ」を交錯させる豪腕物語作者が、シェイクスピアと『平家物語』をリミックスして語るという、どこにもない講義をしてくださいました。「滅びの文学」をキーワードに語られる『平家物語』とシェイクスピアの『マクベス』――通底するものに驚かされます。(講義日:2018年7月10日)

講義ノート

僕も大体みなさんと同じ立場で、どういうふうに同じかというと、シェイクスピアの専門家でも何でもない。それなのになぜここに立っているかというと、まあ、ほかに話せることがおそらくあるからであろうとご指名を受けてやっています。今日は2時間半という長い時間なので、みなさんに助けてもらったりしながらやりたいと思います。

この学校、何度か聴講させてもらいましたけど、シェイクスピアをやっている。誰がやっているかというと、日本にいる我々がやっている。シェイクスピアがいつ生まれたかは、ヒトゴロシ、1564年ですね(笑)。イギリスの人です。イギリスは日本からすると大体地球の裏側で、ヨーロッパが新大陸・北米を発見したのは1492年。同じふうに日本も発見されているわけです。マルコ・ポーロが『東方見聞録』で、ジパング=黄金の国があると書いたけれど、本当にあるのかヨーロッパ人は知らなかった。では、いつヨーロッパ人が日本を発見したかというと1543年。みなさんが習ったように種子島に鉄砲が伝来した年です。シェイクスピアが生まれる21年前にやっと日本は発見された。それくらいイギリスから見て日本は遠い。シェイクスピアが死んだのは1616年で、今は2018年ですから、大体400年前のシェイクスピアのことを知ることで、みなさんは、自分たちはどう学べるか、何を身につけられるのかというのをやってきたと思うんです。

でも、若干、罠があると思っています。単純に400年という時間だけが我々の間にある隔たりなのかというと、シェイクスピアが生まれる21年前にやっと日本が発見されたぐらい空間的にも遠いわけです。我々はここに400年という時間を見ていたけれど、400年前のことをわかろうとしても、シェイクスピアはわからないのではないだろうか。では、どうしたらいいか? 空間の隔たりをどうやって埋めたらいいのだろう? 僕は小説家なので、日本のことでやればいいと思いました。そうすると、400年に、地球の裏側までの距離を足してさらに昔のことを知れば、けっこうわかってくるのではないかと思ったわけです。

1185年に壇ノ浦で源平合戦最終戦が行われて、平家が源氏に敗れた。そのあと、僕が現代語に訳した『平家物語』が徐々に成立するんですが、『平家物語』がいつできたか、はっきりしません。承久の乱の頃か、あるいはその少し前かといわれている。そうすると、承久は1219年から1221年なので、それより少し前で1218年とすると、ここにシェイクスピアからさらに400年がある。『平家物語』とシェイクスピアを考えると、もしかしたら今までになかったわかり方ができるのではないかと勝手なことを思いました。

でも、800年を自分の国で遡るのも大変です。僕も古語の『平家物語』を現代日本語に変えるというのは、知らない言葉とか知らない感情とか、異国のように考えなくちゃいけないのかなとも思うんだけども、やはり我々はひとつの連続した日本なので……大晦日になるとアレをやるわけですね。テレビで大晦日恒例というと? 『紅白歌合戦』です。運動会も紅白です。なんで赤と白かといったら、赤が平家の旗印、白が源氏の旗印です。つまり、源平というのは800年経っても僕たちの中に残る文化なのです。

ただ、それでも戦国時代より前、室町時代中頃から後は、日本の価値観がすごく変わったようです。なので、まずこの変わる前の時代で、イギリスのものと日本のものを比較するとどうなるんだろうと考えたわけです。実際、そういうことをやった人がいる。黒澤明です。1606年に成立したという説が強い『マクベス』が『蜘蛛巣城』という映画になるんですけど、どういうふうに日本に移し替えたかというと、戦国時代に移し替える。すると、イギリス・スコットランドの『マクベス』の世界が日本の世界に変わるんじゃないかと黒澤明は試みた。個人的には『蜘蛛巣城』はすごい傑作だと思っていて、黒澤作品の中でもすごく好きです。そこで、巨匠・黒澤明がやってくれた『マクベス』を日本に移し替えるという作業が、一体何をしたのかということを、みなさんと協力して確認してみたいと思うんです。何人か参加してもらって、声に出してやってもらいたいんです。

(受講生、戯曲を読む)

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お手元にいくつか謎の戯曲がありますが、バンクォーとかマクベスが出るほうがシェイクスピアの『マクベス』で、三木や鷲津が出るほうが黒澤の『蜘蛛巣城』ということではありません。勝手に入れ替えています。正解、不正解はどうでもいいんです。今の4組の朗読を聞いて、どれが黒澤の撮った『蜘蛛巣城』っぽくて、どれがシェイクスピアの書いた『マクベス』っぽいかを、みなさんに判断してほしいと思います。〈その一〉が『蜘蛛巣城』だと思った人。3人ですね。〈その二〉が『蜘蛛巣城』だと思った方。41人ですね。〈その三〉は8人。〈その四〉は20人。ということは、圧倒的に〈その二〉が『蜘蛛巣城』で、〈その四〉も『蜘蛛巣城』っぽいと。答えから言うと、〈その二〉が『蜘蛛巣城』です。『マクベス』は福田恆存が訳したものです。福田恆存訳は1955年に一旦できています。新潮社の福田個人訳シェイクスピア全集に入ったのが1961年。『蜘蛛巣城』と同じ時代に、シェイクスピアを日本語にするならこういう日本語だっただろうと考えた福田恆存の言葉と、時代がかったものをやった『蜘蛛巣城』の言葉を入れ替えたテキストを、僕、一生懸命作ったので、勘違いしてくれて嬉しいです。

大事なのは、この4つにバラけてしまったけど本当は2つのテキスト、黒澤明の戯曲チームが作った『蜘蛛巣城』のシナリオと、1955年に福田恆存という文学者が訳したシェイクスピアの日本語テキストの、似ている部分。なぜ戦国時代と、シェイクスピアが1606年に書いた『マクベス』が似てくるのか。何が共通した要素だったかを、今やってくれた人は体を通してやったし、それを見ていた人たちは耳を澄まして聞いたと思うんですけど、ふたつの共通要素って何でしょうね。

受講生:武将がいる。

古川:武将、なるほど。武将がいるから2つの世界は一緒になってくる。面白いですね。

受講生:主従関係。

古川:上の人間がいて下の人間がいて、下の人間は上を狙っている。

受講生:ちょっと持ち上げてるみたいな。おべっかを使って、上に上にあげようとしてる。

古川:魔女とか老婆とかが、「もっと上があるんだよ。どう? どう?」って。なるほど。

受講生:野心がある。

古川:野心。その通りですね。

受講生:下剋上。

受講生:予言。

受講生:城。

古川:『マクベス』の世界でも戦国の世界でも、城という武将たちの拠点が出てくる、と。

受講生:現実と幻の世界のやりとり。魔女とか。

古川:魔女とか魔界のもの、つまりアンリアルなものがあるということですね。

受講生:空気感。薄暗いとか、おどろおどろしいとか……。

古川:風景が見えてくる。空気感が共通している。とりあえずこんな感じですかね。おもしろいのはやはり、主従関係があるから野心が出る、というあたりは近いですね。主に対して従である家来たちが野心を持ってしまうと下剋上になる。もうひとつは現実と幻。魔女とか、老婆。それと近いところに予言がある。空気感という言葉を聞いておもしろかったのは、もうみなさん習ったと思いますけど、シェイクスピアの時代だと、照明もない、天井が開いているような空間で、闇とか霧とかを台詞によって観客がイメージする。それで醸成されてくる空気感。黒澤の『蜘蛛巣城』を見ると、ドライアイスを使ったり、ペットショップ2軒分の鳥を飛ばしたりしてリアルに見せるんだけども、シェイクスピアの場合は台詞だけで見せる。だけど、共通してくる空気感があるということですね。

『マクベス』と『平家物語』

では、そんなあたりで何かつながっていくものを少し分析して解説していきたいと思います。まず『平家物語』とは何かというと、源氏と平氏の争い。普通は平家と言ってますが、氏でそろえるなら源氏と平氏。武将たちが争ってトップになろうとしている構図と似ていますね。『マクベス』だとダンカン王という王様がいて、家来たちがいろいろやっているわけだけど、日本とイギリスの歴史で違うのは、日本の場合は天皇とか上皇とかが王のように存在していて、武将は王になるわけではない。でも、彼らもある意味、王になりたかった。天皇がいるのに絶対権力を持つためにどうしたらいいかを、源平合戦が起きた時代に武士たちは考え始めていて、その後、鎌倉幕府ができます。鎌倉幕府ができると、「将軍」というのは政治の権力のトップにある。本当は朝廷があって天皇あるいは上皇がトップにいるはずなんだけれども、武士のまま、王様みたいなことを王様と名乗らずにできるようなシステムを作った。ダンカン王を殺して王になりたいという『マクベス』の世界と同じように、『平家物語』の中でも、武将たちが「将軍」という自分らが新しく作る王になろうとしていました。

源頼朝は自分が将軍の位に就いて武家政権を作ったわけだけども、その前に平家のトップであった平清盛は、朝廷の中でトップの太政大臣をやりながら武士として世を治めて、幕府とか名乗ることなく、武将としてトップに立とうとしていたわけです。いってみれば、平清盛という『平家物語』の人物であり実際にいた人物、これはマクベスです。その対抗馬として源氏が出てくる。源氏というのは『マクベス』の中では、バンクォーというマクベスの友達。「おまえの子孫は王になっていくんだ」と予言される。本人は将軍になれないけれど、子孫が将軍になると言われたのに等しいわけです。

みなさん、保元・平治の乱というのを聞いたことがあると思います。保元の乱(皇位継承などをめぐって朝廷内が分裂し、武力衝突に至った政変)が起きたときに、最初、平清盛と源氏の若大将(トップではなく息子)が組みました。1156年、後白河天皇と崇徳上皇が争った。そして、平清盛と源義朝が天皇の側について勝利した。このときはバンクォーとマクベスが手を組んでダンカン王に勝利をもたらしたのと同じ構図になります。ところが、その3年後に平治の乱が起きる。今度は後白河天皇(二条天皇に譲位して上皇になっている)に対して、藤原信頼が反乱を起こす。そのときに、誰の武力を頼んだかというと源義朝です。天皇と上皇を幽閉して勢いにのっていたが、清盛が都に戻ってきて源義朝をやっつける。いってみれば、マクベスがバンクォーを暗殺したのと同じような構図になります。

そのあと平家は軍事的トップになって、「平家にあらずんば人にあらず」という時代が来ますが、その後、源平合戦が起きて、最後には凋落する。そして、源義朝の息子が源頼朝。このバンクォーの子孫みたいなのがまさに王としての将軍になって、そのまま継いで、源氏3代、鎌倉幕府の将軍が続く。『マクベス』と、現実の源氏と平家の流れが同じような気がしました。「あなたのお子様はやがてスコットランドの王様よ」と魔女に言われる、それと同じことが起きているんだなと。下剋上を起こした平清盛とマクベスという2人の人物は、だから、ある意味共通しているとも感じるわけです。

マクベスも実在した人ですね。まずダンカン王という人がいた。『マクベス』にも出てきます。1034年から40年まで在位していた。それに対して、王様になれる系統がもうひとつあって、そちらにいたのがマクベス。この人はダンカンを殺して王位を継承して、1040年から57年まで在位した。バンクォーは、虚構の人物という説と、「(『年代記』の著者)ホリンシェッドによれば実在」と僕はメモしてるんですけど、たぶん実在したんだと思います。ダンカンの息子のマルカムがマクベスを殺して、その系統が王位を握るという現実の物語がある。『平家物語』も実際にいた人物たちの、実在の国の重大事件をモチーフとしている。マクベスも清盛も、もとは王のために力を尽くして忠臣だと言われたけれど、下剋上を起こしてのし上がった。その2人を物語にしたのが『マクベス』と『平家物語』。実際のマクベスはけっこういい王様だったらしい。でも、それではドラマにならないので、シェイクスピアはマクベスをちょっとひどい人間にしたし、長いあいだ王様でいたことにしなかった。『平家物語』も歴史書のように扱われることがありますけれど、ドラマチックに盛り上げるために人物の造形は変えてあるし、事件の細かいディテールも変えられています。

清盛は実際には政治的センスに優れていたけれど、『平家物語』では感情的な人物として描かれる。笑いを誘うようなところは強調して作ってあり、女好きな面も強調されている。ドラマを作るためにはどこでもやっていることです。ただ、物語の中で清盛とマクベスを見ると、清盛は政治的センスがあるように書かれているけれど、マクベスは政治的センスがないから、あっさりみんなに裏切られるように書かれていて、ここは極端に違うと思います。また、物語の清盛はすぐ激高する感情的なキャラクターですが、『マクベス』のマクベスは思索的というか……あらすじだけで考えると、マクベスは王位が欲しくていろんなことをやった人間のように見えるけれど、シェイクスピアの戯曲を何度か読み返すと、マクベスってあんまり王位欲しくなさそうだと思うんですよね。「いや、本当に欲しいのかな? ちょっといやだな」と思っていると、マクベス夫人に「何言ってんの。欲しいに決まってるじゃない」みたいなことを言われる。そのくだりを読んで考えていると、テレビとかで美味しそうなものが映って、それまでそんなもの食べたくなかったのに、見ちゃったから食べたくなっちゃった。「俺、焼きそばなんて全然興味なかったし食いたくなかったんだけど、『あなたは焼きそばを堪能するであろう』とかCMで言われて、え、焼きそばかよ」となっちゃったような感じがマクベスかなと思うんです。

『平家物語』の清盛は最初から、貴族という(天皇ではない)普通の人間の中でトップに立ってやる、武士としてトップに立ってやると考えていて、太政大臣という朝廷のトップまで実際に上る。これはすごく難しい。なぜ難しいかというと、武士は血を流す。平安時代ぐらいまでの一番のタブーが血の穢れです。だから、朝廷の内裏に、血と触れているような者は絶対入れてはならなかったのに、人を殺して力で支配している人間が政治のトップに入ってきた。できないことなのに、清盛はそれをやりたい、そして実行した。これがマクベスと清盛の違いかなと思います。

マクベスと清盛の死に様

ただ、『マクベス』と『平家物語』を読み進めていくと、最終的には2人には共通するところがあります。それは死に方です。死に方の部分をちょっと読んでみます。清盛は体中から何だかわからない熱を発して、恨みつらみの中で死んでいく。そのとき、どんなことを言ってるかというと、こういうこと。

(朗読)『古川訳 平家物語』

「俺は、保元の乱と平治の乱このかた、たびたび朝敵を平らげ、俺は、身にあまるご恩賞を賜わり、ああ俺は、畏れ多くも帝のご外戚となって、太政大臣にまで上り、その栄華は子孫にまで及んだ。だから俺、俺、俺は、現世の望みは残さず達したぞ。それでも俺、俺の、俺の未練というのはだ、伊豆の国の流人、前の兵衛の佐の源頼朝が首を見なかったこと。これだけは、だけは、愉快ではない。俺が死んだら堂も塔も建てるな。供養の手間などかけるな。さっさと討っ手を送り込んで頼朝の首を刎ね、その、その首、その首を俺の墓の前にかけろ。それが何よりの供養だ。俺の」

さすが平清盛、まことに罪深い。

これが自分が訳したところなんですけど、「仏教的な供養なんかしなくていい。俺が欲しいのは頼朝の首だ。あいつ絶対許さん。あいつの首を切ってきて俺の墓の前にかけてくれればそれでいい」と言って、「熱い」と叫びながら死んでいった。マクベスは途中思索的な、「本当は俺、下剋上とか嫌なんだけど、カミさんずっと言ってんだよね」とか言っているのに、終わり頃にカミさんは死んでしまう。魔女の予言は当たって外れる。外れるように予言しておいたので、ある意味魔女たちは当てている。「女の腹の中から生まれた奴には殺されませんよ」と予言したんだけど、帝王切開で生まれてきたマクダフと最後に一騎討ちになる。そこで、さっきの清盛みたいに、どう言ってるかというと、これは松岡和子さんの訳です。

『マクベス』
降参してたまるか、
若造のマルカムの足元に口づけし、
野次馬の罵詈雑言の餌食になるなどまっぴらだ。
バーナムの森がダンシネインに向かってこようが、
女から生まれなかった貴様が刃向かってこようが、
最後まで闘う。百戦錬磨の盾を掲げ
この体を守る。さあ、来い、マクダフ。
先に「参った」と言った方が地獄行きだ。

そして、ト書きで「マクベス殺される」と。もうとにかく殺す。供養とか何とか救われるのではなくて、戦っていく。マクベスと平清盛の2人はともに死に際は壮絶で、僕は、このときのマクベスがいちばんカッコいいと思います。不敵で。それまで、なんか振り回されてて、食べたくない焼きそばを食べろと言われて、食べたくないのに奥さんが「絶対買ってこないと、離婚よ」みたいな感じになっちゃって、どうするかなと思ったら、もう焼きそばも何もなくて、「俺、自由じゃん」と言って、目の前の敵の首を斬って「俺は武将だ」って証して、やっと悩んだりしないで「そのまま生きるんだ」となっていくマクベスの、生身の、ただ生きている姿と、清盛の「俺の欲望はこうだから、こうしかしない。仏も何もねえよ」と言って死んでいく部分は、すごく似ているような気がして、これは『マクベス』と『平家物語』の、つまり海を渡って400年と、海を渡らないで800年の、武将たちの共通点なのかなと思いました。

ところで、みなさん何度も聞いてるように、『マクベス』は上演するとき祟りがあるかもしれないというんですね。なぜかといったら、やはり実在の人物だからだと思うし、実在の人物をちょっとひどいやつ、ダメなやつ、だから面白い劇を作らせてくれる主人公に起用できるやつとして書いた。そういうことをやっていて、「まずいよね」と思う気持ちが祟りを引き起こすのかもしれません。

『平家物語』にはそういうことはないのかというと、『平家物語』を訳すのに2年ぐらいかかったんですけど、全部で全12巻ともう1巻の13巻あって、11巻目ぐらいに来て、そろそろ終わりが近いなというときに、朝起きようとして、「痛い」と思った。胸が痛くて肋骨が痛いんです。20年前ぐらいに肋骨を折ったときと同じような痛みが来て、動けないと思った。それでも必死に起き上がって、痛いまま、万年筆と原稿用紙で訳していて、2日ぐらいすると、フッと痛みが消えて、何なんだろうと思ったら、結局、自分がそこで訳していたのは壇ノ浦のシーンだったんです。最後の合戦のシーン。そういうことなんか考えもしなかったし、信じてもいなかったんだけども、その合戦の中で、誰か斬られただろうし、矢を射られただろうし、死ぬしかない一門は死んでいっただろう。そこを俺は訳している。ただ字を書いてるだけだけど、この人たち全員、実在の人だよと。フィクションじゃない。それをもう1回訳すということは、この人たちの死をもう1回書くこと。現代語訳することによって、私はもう1回殺していくんだということをわかってなかった。安徳天皇という幼い天皇が、おばあちゃんの二位尼に抱かれて海に沈む。自殺させられる。入水させられる。そういう平家一門の終わりを訳していくという覚悟が、祟られることを恐れないでやるしかないようなものであった。そこがまだわかっていなかった。ただ、そのシーンを訳し終えたら痛みが抜けたということは、必死に本気で訳したから小さな成仏ができたのだと思うんです。訳すことによって、不幸な平家の一門は死を迎えたけれども、この訳を読んだ人が、「ああ、悲しい」「かわいそうだ」と思えば、その読者の感情ひとつひとつが供養になっている。その供養の種を蒔けたのかもしれない。それで痛みが取れて、自分なりのお祓いができたのかなと思いました。

本当は、みなさんに渡したテキストは、もう1個あるんですけど、さっき予想外にみんなの演技がうまかったので、こっちはやらなくてもいいかなと思っています。やりたかったのは、これは僕じゃなくて、ほぼ日の学校スタッフの気づきですけど、映画『蜘蛛巣城』は1957年に劇場公開されて、前の年、56年に制作していた。ということは、この人たちは、福田恆存の翻訳で『マクベス』を読んでいたわけではないのではないか。つまり、もしかすると坪内逍遙訳ではないかと。そこで、坪内逍遙が大正年間に訳していたものを引っ張ってきて、その中でマクベスと魔女のシーンを鷲津と老婆のシーンで台詞を変え、同じシーンの『蜘蛛巣城』でどんなふうになったのか。どれが(逍遙が)日本が初めてちゃんと訳したシェイクスピアに見え、どれが戦国時代を舞台にして黒澤が渾身で作った『蜘蛛巣城』に見えるのか、その感じを見てほしいと思ったんです。ちょっと読んでみますね。答えを言っちゃうと、〈その一〉に書いてあるのは、坪内逍遙訳を『蜘蛛巣城』のキャラクターの名前と固有名詞を入れ替えたもの。固有名詞というのは、バーナムの森を『蜘蛛巣城』に出てくる蜘蛛手の森に変えるとかそういうことです。で、変えてみるとどうなるか。

★資料「ふたたび四つの変奏曲」ダウンロード★

(朗読 その一)

鷲津 やい、こら、深夜に密かにものすごいことをする婆ァ! 何をしているんだ?

老婆 名のつけようのないことをしているんじゃ。

鷲津  きさま はどうして預言するかしらんが、はたして預言する通力があるなら、懇願する、返答してくれ。よしんばそのために「風」が釈き放されて寺々をさえ震動さする 暴風 あらし が起ころうと、怒濤が捲き起こって船舶を呑み込もうと、穀類が莢から叩き散らされようと、樹木が吹き倒されようと、 城塞 とりで が衛兵の頭の上へ 顛覆 ひっくりかえ ろうと、宮殿や三稜塔が土台へ傾ごうと、破壊そのものすら 厭倦 うんざり するほど、貴い万物の種がことごとくごっちゃになろうと、 かま ったこたァない、俺が今訊ねることに返答してくれ。

老婆 お言いなさい。

鷲津 おう!

老婆 お訊きなさい。

鷲津 おう!

老婆 答えましょう。(中略)「だれが怒ろうと、むずかろうと、謀反を企もうと、関うな。鷲津武時は、あの大きな蜘蛛手の森が、蜘蛛巣城へ攻め寄せてこないうちは、戦に負けることはないんだ」。

鷲津 そんなこたァあろうはずがない。だれが森を徴発することができよう、地に生えついている木をだれが動かしうるものか? 愉快な 預言 しらせ だ!  絶好 けっこう

これ、『蜘蛛巣城』に見えますよね。これは坪内訳に『蜘蛛巣城』の固有名詞が入っているものです。この、何というかな、言葉の強さ。やっぱり最後なんて「絶好」を「けっこう」、「預言」で「しらせ」とか来ると、時代感が出てきてすごいなと。『蜘蛛巣城』の実際の台詞、シナリオから抜いたのは〈その三〉です。

★映画『蜘蛛巣城』のシーン77「蜘蛛の森・古戦場」を朗読しました。

(監督:黒澤明、脚本:小国英雄/橋本忍/菊島隆三/黒澤明)

こうしてみると、やっぱり〈その一〉がスピード感があってシェイクスピアに思えたり、〈その三〉もスピード感があってシェイクスピアに思える。そして、〈その一〉の坪内訳に『蜘蛛巣城』の固有名詞を入れたものは、むしろこの時代感がすごく戦国時代だなと思います。これをもしも〈その二=坪内訳オリジナル〉のあとに〈その四=黒澤台本にオリジナル固有名詞〉を読んで、〈その三〉をやってから〈その一〉をやって、みなさんの考えを聞くとすごい混乱が生じるのではないかと思っていたわけです。やっぱりここに出てくるものは同じ空気感を拾っているから、こんな組み合わせのシャッフルが生まれてくるんじゃないかと思います。武将だ、城だ、という問題が出てきて、人の立ち位置や、人が欲望をどこに持つか、守りたいものは何か、と作るから、こういう共通したドラマが生まれてくるのではないかと思いました。

六波羅という場所

キーワードに城という言葉が出てくると思わなかったので、おもしろいなと思ったんですけど、平家というのは、京都の中でもすごく不思議なところに拠点を置いていたんです。京都というのは平安京があって、平安京というのは御所があって真ん中で分かれて、天皇から見て左が左京、右が右京です。794年に平安京ができてから、中国の都の作り方をまねして、最初はきれいにしていたんですけど、日本人はずっときっちりすることができなくて、だんだん一部が荒れてくる。鴨川のこっち側には魔物が出るみたいな話がでるけれど、意外にそんなところに上皇が住んだりしたわけです。実際そこには墓があって、墓の手前に住みたくないのに、その六波羅に住んだのが平家一門。これが『平家』の冒頭に書いてあります。

(朗読)

しかしながら、ごく最初の例こそは格別ちゅうの格別。ええ、六波羅の入道でございます。賀茂川の東、五条大路の末と六条大路の末とのあいだの 辺土 へんど やしき を構えた、前の太政大臣、平朝臣清盛公にございますよ。

「辺土」というのは、要するに魔物のいる場所。そこに平家の一門は自分たちの拠点を構えた。『マクベス』で、魔女たちが最初に出てくるところは、荒れ地。スコットランドのどこかの、魔女が出るような荒れ地。そして、平家が住んだのは、墓場の前で、あの世とこの世の境い目の場所。あの世とこの世の境界線から出て来た連中が、武士なのに貴族政治の頂点まで上り詰めて、「平家にあらずんば人にあらず」といって権力を全部握って、最後は上皇や天皇を無視してやりたい放題やって、滅びていった。そこもすごく似ている部分だと思うんです。もうひとつ、平清盛がやったひどいこと、それもマクベスと意外に似てるのかなと思ったのは、変な者たちを清盛はスパイに使うことです。読みます。

(朗読)

さて、いかなる賢王賢主のご政治でありましても、摂政関白のご執政でありましても、巷には文句というのは生まれます。ろくでなしの無頼な連中などが、人の聞いていないところでなんとなく悪口を叩く、これは世間によくあることですが、この清盛全盛の時代にはそれがない。いささかもない。なぜでございましょうか。入道相国が謀りましたことには、十四歳から十五、六歳の少年を三百人揃える、これらの髪を短く切って揃えて童形のあの 禿 かぶろ というのにする。赤い 直垂 ひたたれ を着させて恰好も揃える、そうやって召し使う。この少年どもを京の まち じゅうに満ちみちさせて、往来させたのです。偶然にも平家を悪しざまに言う者がおりますと、ただ一人が聞きつけても仲間にたちまち触れ回る、その批判者の家に揃って乱入する、家財道具を没収する、当人を縛りあげる、六波羅に引っ立てる、とまあこうした始末。これでは世間が だんま りに陥るのは当然でして、平家の横暴をいろいろと目撃して心の中では憤りましても、口に出しては非難しない。なにしろ、六波羅殿の禿とさえ言えば道を通る馬も車も避けてゆきましたから。

自分たちの悪口を言う奴を捕まえる連中を使っていた。この 禿 かぶろ をどこから雇ってきたかというと、ある説によると、京都の外。京都の中に住めない人たち。この人たちを追い出して平家は住んだのだけれど、「中に住めない連中」というのは、いってみれば悪い人たちです。そういう人を、ただ追い出すだけでなく、平清盛は自分の家来にして、スパイとして使った。そういう六波羅の先住民を自分の手下にして秘密警察を作っていったのではないかといわれてます。秘密警察なんて『マクベス』には出ないだろうと思っていると、これまた松岡和子さんの訳ですけど、マクベスが独裁者になってからのシーンで、マクベス夫人としゃべるところにこんなところがあるんです。マクベスがある武将に関して文句を言っていることにマクベス夫人が答える。

(朗読)

マクベス どう思う、マクダフのやつ、王の命令だというのに出席を断りやがった。

マクベス夫人 使いはお出しになったの?

マクベス 人づてに聞いたのだ。だが使いも出そう。

誰の館にも必ず一人、俺が手なずけた召使いを送り込んである。

スパイはどこにでもいる。秘密警察がいるわけです。つまり、清盛もマクベスも独裁者で、その政治を恐怖政治として徹底するために、悪口を言うやつは処分する。こういうものが物語の中に出てくるのは、政治権力を握った人たちが実際にそういうことをやるからだと思います。ここにも、マクベスと清盛のつながりがあると思う。

次に予言ですけど、『平家物語』の中に予言があるかというと、あります。当時の人々は、武士の一族がいきなり政治のトップになった、天皇に文句を言えるぐらい偉くなった意味がわからない。どうしてそんなことになったのか。これは何か予言があって当たったからではないかと考えると納得できるのではないかと考えて、こういうエピソードを入れています。

(朗読)

(平家が)このように繁栄した謂れはなんなのかと尋ねれば、どうも紀州の熊野権現のご利益のようです。来歴をばご説明いたしましょう。昔、清盛公がいまだ安芸の守であった当時、伊勢の海から船で熊野に参詣されたことがございました。その途次、大きな すずき が船の中に躍り入ったのです。これは何事か、何事であろうか。参詣を先導しておりました修験者は、「熊野権現のご加護です。急いでお食べになるがよろしい」と申しました。そこで清盛は「そうだった。周の武王の船に白魚が躍り込んできたという外国の故事があったぞ。よってすなわち、これは吉事だぞ」と言われて、直前まではあれほど厳しく十戒を守り、精進潔斎を続けてきた道中ではあったのですけれども、この鱸を料理いたします。それから「家の子」という一門の庶流となる武士たちに、また「侍」と呼びならわされるそれ以外の家来たちに食べさせました。そのためであったのでしょう。以後、吉事ばかりが続いたのです。太政大臣という極位にいたったのですよ。清盛に限ったことではございません。その子孫の官位昇進も、まあ速やかなことでした。竜が雲にのぼるよりも速やかでしたよ。

これが予言だと。あのスズキを食ったから平家一門は力を握ったと、こういうふうに予言を入れてある。もうちょっとはっきりした予言もあって、これは魔女ではなく、夢を見ます。平安時代の人はよく夢を見ていて、幻ですね、それを現実ではない世界、異界、そういったものからの本当の声だと考える。つまり幻は本当のことを言うんだというふうに夢を捉えていきます。清盛がすごく良いことをした。それは厳島神社を修理したんですが、そのときに夢を見る。

(朗読)

御宝殿の中から天童が出てきたのでした。天童は、髪を左右に結って両耳の辺りに束ねているのでした。僕は大明神のお使いだ、と言うのでした。

「汝は、この剣をもって天下を鎮めよ。朝廷のおん守りとなれ」

角髪 びんずら の天童は言われたのでした。そして銀の 蛭巻 ひるまき をした 小長刀 こなぎなた を賜わるのでした。もちろん夢路にてです。けれども、目覚めてからご覧になると、おお、現実にその小長刀が枕もとに立っていたのです。

その霊夢では、さらに大明神のご託宣も下されましたよ。

「汝は知っているか。もちろん忘れてはいるまいよ。高野山で、ある聖をして言わせたことをだ。しかし悪行があればそこまで。汝の栄華は一代限りで、子孫にまでは及ぶまいぞ」

おおせられて、厳島の大明神は去られたのです。いや、これはまことに結構。

まさに、「おまえの一門がうまくやればこうなるよ」ということです。「でも悪いことするとダメだよ」と。これは予言だと。つまり、「おまえは絶対成功するよ。王になるよ」みたいなこと。物語としての『平家物語』と『マクベス』の中では、展開としては当たる予言をしているのだけれども、そこには最初から「外れる」というのが入っていて、そういう意味では、「当たると外れる」ということを実現していると僕には読めました。これで前半終わらせていただきます。

(休憩)

現実を脅かす幻の世界

これから怪談、怖い話を少しします。現実対幻という話でいったら、幻のいる世界、現実を脅かす世界、現実を揺るがしてしまう世界ですから基本的には怖い。『マクベス』は怖いことがいっぱい出てくるから、空気感みたいなもので、戦国時代の怖さと『マクベス』の怖さが共通して描かれている。『平家物語』の中で具体的に怖い話があるのかというと、こんなことが書いてあるんだと僕が訳していて思ったのはいくつかあります。ちょっと読みますね。「物怪之沙汰」。もののけの出来事、ですね。平清盛の周りで異様なことが起こっていたと。

(朗読)

また、これはある朝のこと。入道相国が帳台から出て妻戸を押し開き、中庭をご覧になると、死人の 髑髏 しゃれこうべ がそこには幾つという数もわからぬほど充ち満ちている。それらが上になり下になり、転がりぶつかり離れ、端のほうの髑髏が中に来て、中のほうの髑髏が端へ行って、転げ込んだわ転がり落ちたわ、からからからぁととんでもない音を立てております。入道相国は「誰か、誰かいないか」と呼ばれるのですけれども、折悪しく参る者がない。と、そのうちに白骨の頭がつぎつぎ一つに固まりあい、いったい幾つ固まったのか中庭の内に入り切れないほどの大きさになって、ついには高さが十四、五丈はあろうかと思われる山のような代物になったのです。その一つの大頭に、今度は生きている人間の眼のように大きな眼がまたまた数知れず出てきて、入道相国を揃ってじっと睨んで瞬きもしません。が、入道は少しも騒がずに猛烈に睨み返して、しばし立っておられました。すると大頭はあまりに強く睨まれて、霜や露の類いが日に当たって消えるように跡形もなく失せてしまったのでした。

庭に髑髏がひしめいてる。それが集まって大きな一つの髑髏になる。今の単位でいうと4、50メートルの高さのでっかい髑髏。無数の目が浮かんで、清盛を睨む。すごい怖いんですけど、そこで幻が勝つのかというと、清盛があまりにも現実離れしたすごい奴なんで、睨み返したら消えちゃったという。普通の人だったら卒倒してるんですけど、しない。怖い話というより超常的。その次の行にもあります。

(朗読)

このほかにも例がございます。お馬でございます。入道相国がもっとも上等の馬をつなぐ第一の厩に入れて、大勢の舎人をお付けになり、朝夕片時もうちやらず大切に世話をして飼われていたお馬の尾に、わずか一夜にして鼠が巣を作り、子を産むという一件が。これは尋常なことではない

すごいですね。馬のしっぽに鼠が巣を作って、子を産んだと、朝廷は大騒ぎになるんです。ただ、こういうふうに記録されるということは、なにかリアルに平安時代末期の院政の人たち、あるいはそれ以後の『平家物語』を聞いてきた聴衆は、「そりゃ怖い」とか、「それはあるわ」と思う。あるから怖い。スーパーナチュラルだけど、信じられるから怖いと思ったと思うんですよね。僕が訳した『平家物語』のテキストは琵琶法師のテキストなので、演奏して声に出して、集まったお客さんに聞いてもらう。その人たちが信用したり、怖がったり、面白がったりしてくれないとウケないから、ウケることをやっていたわけで、ここには「リアリティ」があったと思うんです。スーパーナチュラルだけど、「おっ、その幻は現実に迫ってくるな」というリアリティ。

『マクベス』を読んで思うのは、魔女ですよね。魔女などいないと思ってお客さんは劇を見ていたのか? やっぱりお客さんは、魔女はいるんだろうと思っていた。シェイクスピアの時代の少し前には、魔女の法律、つまり「魔女が何々したら首を斬る」みたいな法律があったみたいだから、当時のイギリスのお客さんは魔女を信じていたのでしょう。信じているものが演劇として見られたり、琵琶法師の演奏として聞かれて見られたりしたわけですが、僕は『平家物語』を訳していて、これはこの作者(シェイクスピアと違って、『平家物語』の作者が何人いるかわかんないし、いつできたかもよくわからないのですが)、何人もの作者たちがリアリティがあるものとして、こういう怪談のような変なエピソードを書き込んでいったのだろうと思います。

わからないのは、シェイクスピアは魔女がいたと信じて書いたのかどうか。17世紀はじめの人間として、魔女というものを、ある種実在するものとして、『マクベス』を書いていったのかどうか。ゲスト席の専門家の方、どうですかね? シェイクスピアにとって魔女はリアルなものとして、『平家物語』でいえば神や仏のようなものと信じて書いたのでしょうか。

(翻訳家・松岡和子さん)どうでしょうねえ。『マクベス』の魔女は暗くて、不幸を呼ぶような存在ですけれど、ほかの超常的なものというと『夏の夜の夢』の妖精たち。私は言葉で付き合っていると、まったく信じていないものをあれほどのリアリティを持って書けるはずがないというか、書いているうちにやっぱり声が聞こえてきたり、私自身が、なんかね、巫女じゃないですけれども、そういう……

古川:うんうん、日本語に変えるための巫女として。

松岡:そういう思いもするので、どうなのかな? シェイクスピアがどういう環境で子ども時代を過ごしたかを考えると、やはり何か日常を超えたものは感じていたんじゃないかなと。これは私の個人的な感想です。

古川:おもしろいですね。松岡さんがシェイクスピアを訳されて、寄り添えば寄り添うほど、そういう実在感を感じていく。僕も、『平家物語』は現代語訳ですけど、平安時代の小説などを書くときには、この時代には神も仏もいて、呪いによって人は死んだりするし、お告げによって運命が変わったりするというのを信じて書いているところがあります。でも、受け取る人たちは現代の我々。400年前、しかも海を挟んで日本にいると、「ああ、なんかおもしろい話だね。魔女とか信じないけど」って思うけれど、日本でも、やっぱり墓場にはあまり行きたくないとか、お正月は初詣に行くとかはある。それと同じレベルで、神とか仏とか霊とかがいるように書いたシェイクスピアも、何らかの信仰心とか、忌むべきもの、怖いもの、あるいはおののいてしまうものって当然あるよ、といった気持ちの中で、観客もやはりそう思うから出していったという感じがします。それがまた妖精まで含めて、というのがおもしろいことで、そうなるとシェイクスピアを見たり読んだりというのは、これをリアルなものとして捉えた世界がかつて存在していて、今その劇を鑑賞することで、その世界をもう一回、観客は生きていける。我々は空想を見ているんじゃなくて、当時の人たちの現実を、その作品を見ることによって体験し直すことができる。そういうことをやっているのかなあとも思いますね。

通底する信仰

やはり信仰というのがいろんなところに出てくる。『マクベス』でダンカン王を殺したあとにマクベスが夫人の前に戻ってきて、マクベスが「なんて情けないざまだ」と言うと、「手を血まみれにした自分自身のことを言っている」という注を松岡さんが書かれています。

(朗読)

マクベス なんて情けないざまだ。

マクベス夫人 馬鹿なことを、情けないざまだなんて。

マクベス 一人が眠ったまま笑いだし、もう一人が「人殺し!」と叫んだ。

そして二人とも相手の声で目を覚ます。俺はじっと聞き耳を立てた。

だが、祈りを唱え、また眠ろうとしていた。

マクベス夫人 王子は二人とも次の間だわ。

マクベス 一人が「神よ、お慈悲を」と叫び、「アーメン」ともう一人。

この首切り役人の手をした俺を見たのか。

その恐怖の声を聞きながら、俺は「アーメン」と言えなかった。

あいつらが「神よ、お慈悲を」と言ったのに。

この「アーメン」という言葉が、『平家物語』に出てくるある言葉とすごく似てると思ったんです。僕ら、「アーメン」って聞いても、「ああ、キリスト教徒なの?」と思うだけだけれど、極限状態に来たときにパッと出す言葉として、『平家物語』の中でも似たような言葉が何度も出てくる。想像つくものってありますか? 祈りの言葉。

受講生:南無阿弥陀仏。

そのとおりです。南無阿弥陀仏が何度も出てくる。南無阿弥陀仏は、何か厳しいことがあったときに返す。自分が救われようとして返す。何かあったら「南無阿弥陀仏」、「アーメン」と唱える。しかも、「アーメン」がヘブライ語であるように、「南無」というのはサンスクリット語です、梵語。自分たちが使っている言語ではないものを頭に当てはめて、「阿弥陀仏」は仏様の名前ですけど、「アーメン」と「クライスト」をくっつけるように「南無阿弥陀仏」といって、それを繰り返していく。

その気持ちを考えると、シェイクスピアが「魔女がいることは自分が生きている世界の前提だ」と思って書いたかもしれない世界で、「人々がアーメンと唱えるべきときに言えないマクベス」の世界は、『平家物語』の中で、壇ノ浦で最後まで平家を率いていた平清盛の息子の一人・宗盛が、自分が首を斬られるときに南無阿弥陀仏と言わなくちゃいけないのに、それよりも、一緒に殺される息子のことが気になってしまう、このあたりの表現なんかすごく、マクベスのアーメンのシーンと似ていると思うんですよね。

それ以上に、『平家物語』と『マクベス』を一発でつなぐのは、実はもう冒頭の冒頭にあるような気がするんです。というのは、僕が読まなくてもみなさん全員知っている書き出しです。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」。諸行無常というのは、生きているものは常に形を変え、そのままの形では留まらない。子どもは大人になる。すべて変わる。つまり絶対的な形がない。それって、(『マクベス』の)「きれいは汚い、汚いはきれい」かなと。絶対的な価値観じゃなくて、逆転すらしてしまう。『平家物語』のテーマは無常感だけれども、その冒頭に出てくる諸行無常と同じことが、結局あの、「王になるけど王にならない」、「きれいが汚い」、「戦に負けて勝つ」ではないのか。要するに諸行無常、すべて変わるんだから、同じじゃないか。そういうことを言っているのではないかと思うんです。

そう考えてくると、400年前にイギリスでシェイクスピアが書いた『マクベス』と、800年前に現実の事件が起きて、その数十年後に制作され始めた『平家物語』というフィクションのストーリーは、同じような何かを感じさせてくれるのではないか。そして、いちばん感じるのが、実は主人公のマクベスや平清盛ではなくて、マクベス夫人と平清盛の妻・二位尼と呼ばれる平時子、この2人の近さかなと思うんです。

『マクベス』を僕が読んだ印象は、「俺、王になりたい」というよりも、マクベス夫人に「なりなさいよ。私だったら赤ん坊殺してでも」みたいに言われて、それで、やる。彼女は最終的には良心の咎なのか何なのか、死んでしまうんだけど、その死ってどういう死かわからない。マクベス夫人は消えていくけれど、マクベスを突き動かしていたものとしてマクベス夫人がいる。平清盛の妻の二位尼は、清盛が死んだあともずっと生き延びて、清盛の息子、自分が産んだ宗盛の後見人のように一族と一緒に西の海、瀬戸内海を漂いながら転々としていく。そして、壇ノ浦で源氏に追い詰められる。追い詰められると二位尼は何をするかというと、さっきも話したように、安徳天皇を道連れに海の中に沈んでいく。そのときに、三種の神器のうちの1つ、神璽(=勾玉)の箱を脇に持って、もう1つの神剣(=草薙剣)を腰に差して、安徳天皇を抱いて沈む。天皇を殺し、天皇の位を引き継ぐための三種の神器というツールも全部沈めてしまう。要するに日本を終わらせてやる、と。もう私たちの王の位、王位はダメになるんだから、こんなものなくしてしまうという勢いで海に沈んでいく。この強さはマクベス夫人の強さです。ところで、安徳天皇は8歳で死んだといわれていますが、数えの8歳です。満でいうとたった6歳です。6歳の子どもの天皇を抱いて、三種の神器のうちの2つを持って沈んでいって、「源氏ざまあ見ろ、日本ざまあ見ろ」という、その強さ。マクベス夫人と二位尼は「ヤバい」ということで共通しているんです(笑)。

さきほど、清盛が「頼朝の首が欲しい」と言って熱の中で死んでいったと言いましたが、二位尼ともいう清盛の妻・時子は、その直前にすごく変な夢を見ているんです。予言の夢、霊夢なんですけども、そのひどい夢を清盛に話す。ちょっと気合を入れて読みますね。

(朗読)

恐ろしいこととしては、あの夢が。

入道相国の北の方であられる二位殿のご覧になった、あの夢が。

こうでございますよ。猛火に包まれている車がある。烈しく燃えあがる車があって、それを門の内へ引き入れた。その車の前後に立っている者は、あるいは馬のような顔であり、あるいは牛のような顔である。車の前には「無」という文字だけが見える鉄の札が付けてある。二位殿はその夢の中でお尋ねになる。

「あの車は」とお尋ねになる。「どこから来たのです」

「閻魔の庁から」と申す。「平家太政入道殿のお迎えに参りましたよ」

「ところで」とさらにお尋ねになる。「その札はなんという札なのです」

南閻浮堤 なんえんぶだい すなわち人間世界の金銅十六丈の 蘆遮那仏 るしゃなぶつ を焼き滅ぼされた罪により」と申す。「無間地獄の底にお沈みになることが閻魔の庁でお定まりになりましたが、その無間の『無』が書かれて、『間』の字がまだ書かれていないのですよ」

二位殿はそこで目覚められたのです。もう、びっしょりの冷や汗で。これを人々に話されると、聞く人はみな恐ろしさに身の毛がよだったのでした。

こういう夢を見る人もすごいけれど、それをまわりに話しちゃって、清盛という旦那は地獄に行っちゃうんだよと言うわけですね。牛車が屋敷の門に入ってくる。地獄の番人の牛頭、馬頭がその車を引いて、無間地獄の「無」が書いてあるプレートが貼られた車がある。「これに乗せられてあんたの旦那、行くから」って言われたことを全部話してしまう。これも予言の一種、予知夢です。

おもしろいのは、マクベス夫人は死んでしまうけれど、彼女はその過程で夢遊病になっている。夢遊病の中で告白していて、医者が「何言ってんの、これ。王様を殺したとか言って、ずっと手を洗ってる」みたいな話になる。2人とも夢の中で、1人は自分の滅ぶ夢、もう1人は旦那の滅ぶ夢を見て、実際にマクベス夫人は、それによって自分が滅んでいく。二位尼はその夢を見たことによって、その予言の成就によって夫を死に追いやっている。この夢を見たせいで、もう清盛は地獄に行くしかないわけですから、ここにも中世の世界の人たちの夢というものの存在感がある。夢は現実から見たら幻の世界なのに、幻の世界からの声だからこそ、真実を明らかにする。夢から来たお告げ、夢の中で言ってしまう告白は全部真実であるといって、現実の境界を超えてドラマを展開させてしまう。それは同じように『マクベス』と『平家物語』の中にあって、僕は、女性2人がこういう夢を見ながら物語を一気に展開させていく力というのは、中世の人たちもそうだし、今の僕らが見ても、なるほど、今、世界が変動するなら、その夢のような真実の見え方なのではないかということを、物語を読みながら、あるいは劇を鑑賞しながら、体感するのではないかなと思いました。

そして、そういう何か、現実ではない世界から来たものを現実と感じさせてしまうものは何なんだろうというと、それを『マクベス』は「運命」と言っていると思うし、『平家物語』もやはり、それを「運命」と言っているように思います。どんなに個人が頑張ったり、あるいは個人がそんなことを思っていなくとも振り回されてしまう、予言のようなもの。あるいは、「あれ? 平家は天下を取っていたのに、なんで5年とかで源氏に負けて一門絶滅してるの?」っていうと、『平家物語』に書いてあるのは、「いやいや、それは運命。源氏が勝つのも運命。これ運命」と、ずっと「運命、運命」と言っている。個人がどんなに意志を持っていても、運命にはある意味抗えない。そういう感覚が、実は現代の日本、あるいはグローバル化によってネットで情報が入る「距離がなくなった世界」の人間にはわからなくなってしまっているものなのかなと思います。

この世には運命があって、それは個人ではどうにもならない。でも、僕たちは、頑張ればどうにかなると思っている。不幸なことがあったら、「おまえが悪い、おまえのやり方が悪い」。うまくいかなかったら、「おまえの努力が足りない」。どんな家系に生まれたって、「俺は貧乏な家に生まれたから、教育費があった人に勝てないよ」と言っても、「いやいや、個人の努力だ」と言われてしまう。でも、本当は、「いや、運命だよなあ。君も金持ちの家に生まれればね」って言ったりしてくれるほうが納得できるかもしれない。頑張ったからといって、いきなりトップには立てない、天皇にはなれない、スコットランドの王様にはなれない。そういう人たちは、「全部運命」。なれるはずの人が、裏切られて、なれなかったら、「ああ、運命」。逆に、なれるはずのない武士が太政大臣になっちゃったら、「おお、運命」。納得するために。納得できなかったら、個人はすごく辛い。そんなものはドラマを見ても本を読んでも物語を読んでも、当時の人たちはおもしろくない。喝采を浴びせるものは、なるほどと納得できるもの。魔女が出てくれば、「魔女がいるからすごく怖い」と思い、マクベスが天下を取ったら、「すげえ、取った」。数週間でダメになったら、「ダメになった。運命、なるほど」と言って、劇が終わると、「そういうことだったのかな」って感じていくのではないかなと思うんですよね。

滅びの文学

とにかく『マクベス』が『平家物語』と近いなと思ったのは、「滅びの文学」であるから。『平家物語』は、今はずっと清盛の話をしていますが、平清盛だけに焦点が当たるのではなく、清盛は前半部分で死んでしまう。後半は、木曾義仲が木曾の山奥から来て、平家に勝って、京の都の中まで来て、すぐに追い出されて、だんだん部下が減って最後は乳母子といって乳母が一緒の兄弟みたいに育った奴と2人だけになって死んでいく。これがぐっと泣かせるんです。そのあと誰が目立つのかというと、頼朝ではなくて義経です。義経は、あれだけ勝って、一ノ谷の合戦でも勝った、屋島でも勝った、壇ノ浦でも勝った。『平家物語』には出てこないけれど、八艘飛びみたいなことをして「勝ってるぜ」という感じ。でもどうなるかというと、兄貴に嫌われて、鎌倉にも入れなくて、殺されてしまう。中心人物といえる3人が、ある意味勝てない。清盛だけは、「俺は死ぬけど、頼朝の首持って来い」とか言って、『マクベス』の終わりのマクベスみたいにカッコいいんだけど、基本的には滅んでいく、負けていってしまう人たち。そういう意味で、『マクベス』と『平家物語』は全然遠くない。『平家物語』の中に書かれている「負けてしまう人たち」のことを、僕たちは国民文学として愛して、「やっぱり源義経だよね」と言って、負けている人たちを応援したりする。僕だったら、訳していて、「ダサい木曾の山猿」といわれる木曾義仲が一番カッコいいと思って、なんかグッと来させるように訳したいと真剣に考えて訳すような、そういう努力をさせる力というのは、なんか近いのかな。木曾義仲はどういうふうに訳すと一番いいのかなと考えたんです。木曾の山の中で、強いんだけれど、公家みたいな修行してない連中ばかり部下につけて軍団を作って出てきて、勝って京都に行くと「田舎者」と笑われて、「ヤンキーやん」と思った(笑)。それで、ヤンキー口調で訳したら、読者に「泣けました」と言われて、悪くはなかったなと思いました。

ここで少し学校長の話をしますね。おととい、河野さんとお話をしまして、河野さんのご先祖が『平家物語』の中に実際の人物として出てくると。家系の歴史を記した物語がある。河野さんは「こうの」と読むけれど、『平家物語』の中では「かわの」と訳してある、と。なぜかと聞かれて、そういえば訳したときに考えたなと思ったんです。

人名が多過ぎるんですね、『平家物語』。1000人ぐらいいるから大変ですけど、なんかそれ真剣に考えた記憶があると思ったら、原典に「かわの」とルビが振ってあるんですよね。これは小学館のテキストなんですけど、これだけじゃなくて、4種類のテキストを当たった。そのうち、手元にあった講談社のものと岩波のものを見たら、1個は1箇所「こうの」だけど、注には「かわの」とあって、それ以降ずっと「かわの」。もう1個は最初のところはルビがない。あとは全部「かわの」。現代に訳すなら統一しないといけないですから、そういうことをいろいろ考えて「かわの」にしたんだなあと思いだした。なんでそんなことが起こったのかなと考えると、「こうのしろう」、ススッと流れるじゃないですか。「かわのしろう」って、パパパパンッと来ます、リズムが。どれぐらいのリズムかっていうと、原文の短いところを読みましょうか。

(朗読)

その 後、四国の 兵共 つわものども 、みな河野(の)四郎に従ひつく。熊野(の)別当 湛増 たんぞう も平家 重恩 じゅうおん の身なりしが、それもそむいて源氏に同心の よし 聞えけり。 およそ 東国・北国ことごとくそむきぬ、南海・西海かくのごとし。 夷狄 いてき の蜂起耳を驚かし、 逆乱 げきらん の先表 しきり に奏す。 四夷 しい たちまち に起れり。世は只今失せなんずとて、必ず平家一門ならね ども 、心ある人ゝのなげきかなしまぬはなかりけり。

こういう全体のリズムの中で、「こうのしろう」と言うより「かわのしろう、かわのしろう」って、しかも「かわののしろう」と、わざわざ「の」を苗字と名前のあいだに入れて、タンタンタンッ、刻むようにつけていったんじゃないかなと思うんです。この刻むようなリズムは、現代語訳してもなかなか出せなくて、意味をまず伝えることを優先して、現代語として訳した場合こう聞こえるというのが僕の訳です。

(朗読)

以後、四国の武士どもはみな河野四郎に従いつきました。熊野の別当湛増も代々平家から恩をうけた身であったのに、これも平家に叛き、源氏に味方したとの噂が伝わりました。およそ東国、北国はすっかり平家に叛きました。四国、九州もこのとおり。地方では続々と挙兵があり、その報告が人々を驚かせ、しきりと奏上されるのは動乱の先触れの事件ばかり。東西南北、それら蛮敵の蜂起はたちまち。これでは今にもこの世が滅ぶはず。おお、そのように、平家一門に属しているのではない者までも、心ある人々はみな歎いたのです。

歎き、悲しんだのです。

頑張りましたね(笑)。シェイクスピアを英語から訳すときに、ずっと授業を聴講させてもらって、やっぱり意味が通るだけではなくて、もともと詩で書かれているもののリズムをどう生かすか苦心されて、何度も訳しても、もう一回考え直していくというのを聞いたときに、「ああ、同じだ」と。『平家物語』を現代語訳するときは、意味が伝わればいいんだけれど、意味だけでは『平家物語』じゃなくて、「これ原文読んだほうがカッコいいじゃん」というのに対し、翻訳文でもどうリズムを残すか考えたんです。なぜそれが一番重要だと思えたかというと、『平家物語』を語ったのが琵琶法師だから。琵琶法師が自分で演奏し、声に出した。「かわの・こうの問題」のように僕がリズム重視だったのは、琵琶法師が覚えるためでもあったと思うんです。彼らは見えない。書いてあっても読めない。目が見えない人が暗記するには、リズムのある文章、強弱のある文章、そういう音楽性が前に出た文章じゃなかったら決してやっていけない。だから『平家物語』の原文はリズムや音楽性を出してきたのではないかと思って、それを現代語訳として出さなくちゃいけないと考えました。

読み物なのに、もともと声に出して、あるいは演奏して耳で聞く、あるいは琵琶法師が演奏するのを目で見る、こういう文学作品って何だろうと思ったら、戯曲ですよね。だから、シェイクスピアも耳で聞いたときに心地良いようにしていく。音楽的なリズムを持った台詞であったというのは、やはり近い。そこにも共通点があると思います。とくにシェイクスピアは、ただの台詞というよりも、韻文で書かれている。それ自体が音楽である。そこには、この時期の、日本だったら800年前、あるいは『平家物語』のテキストが定着してくるのは600年前ぐらいなんですけど、だんだん時代が下って完成してくるんですが、そういう時代。600年前といったら1400年ぐらいですよね。1600年のイギリスにもやはり、定着させるための同じような技術があったのではないかと思います。

同時に『平家物語』には、原文にリズムがあるだけでなく、和歌や漢詩が織り込まれていて、詩をそのまま詩として出していくこともやっています。和歌の場合だったら、これは訳をどうしようかなって、ここもすごく考えました。最初に出てくる和歌に、こういうのがあります。「有明の 月も明石の うら風に 浪ばかりこそ 寄るとみえしか」。普通このあとに現代語訳をつけるしかない。でも、それでは現代語訳にリズムがないなと思って、「有明の」だったらまずそこで改行するんです。「月もあかしの」で改行して、五・七・五・七・七でまず改行した。で、その下に五の訳、七の訳と、古語、現代語、古語、現代語と読んでいってもある種の音楽的リズムが出ないかとちょっと挑戦してみたんですね。読んだ人がそういうふうにこのページに書かれた文字を読んでいったかどうかわからないけど、僕の意図としては、とにかく5文字の古語と現代語、7文字の古語と現代語、それが五・七・五・七・七までいくようにしてみました。やってみると、

有明の     明け方の

月も明石の   残月も明るい、あの明石の

うら風に    浦の風に

浪ばかりこそ  ああ、浪ばかりが

寄るとみえしか 寄ると見える夜でした

こうやっていくことで、訳文を読んでも何か読者の頭の中、あるいは胸の奥にリズムが来るようになったらいいなあと思って。

今日は強引にシェイクスピアと話をつなげなくちゃいけなかったんですが(笑)、最終的にはシェイクスピアを訳している方々の姿勢と、『平家物語』を現代の日本語に移し替えようという自分の姿勢が、すごく似ていたのではないかなと思います。シェイクスピア全般については全然語れませんが、『蜘蛛巣城』が好きだったので、『マクベス』と『平家物語』をつなげて語るために『蜘蛛巣城』にご登場願って、『蜘蛛巣城』はみなさんにやっていただいて、ここまでやってきました。

シェイクスピア全体についていえば、『平家物語』の作者は誰かわからない。『徒然草』に信濃前司行長という人物だと書かれたりして、定説として教科書に載っていたかもしれないですけど、今は否定されています。そういう決定的な人物ではない。何人もいるに違いないとか、いろんなふうに言われていて、作者はわからない。『平家物語』は琵琶法師が読んだと言いましたが、演奏するものだけじゃなくて、黙読するだけの本の系統もあるんです。『平家物語』は50種類以上あるんです。謎だらけです。

シェイクスピア講座の2回目の河合祥一郎先生の話で、シェイクスピアには別人説もあると聞きました。要するにシェイクスピアは謎に満ちているから、みんなが見て、読んでいるんだと思いました。『平家物語』が生き残った理由も、結局よくわからないからではないか。謎に満ちているんだけれど、今日やったように、聞いたり読んだりすればわかる部分があるし、あるいはかつての人たちのことでわかってくる部分がある。だから、惹きつけられて魅了されるのではないか、そういうふうにつながっているのではないか、と思いました。これでまとまったので、あとは、質疑応答で、みなさんとお話しできたらと思います。

受講生:どうして『平家物語』を訳そうと思われたのですか?

古川:仕事として来たんです。「日本文学全集」というのが河出書房から刊行されて、今『源氏物語』が最終巻号として進んでいて、それで終わるんですけど、現代までの作家の全30巻ぐらいの全集が出る。古典に関しては、今生きている作家に新しく現代語訳をしてほしいと。それで、『平家物語』は古川にやってほしいと、編纂者の池澤夏樹さんも編集部も古川だと言ってるというメールが来て、ビックリしたんです。というのは、僕は2012年から新しい小説の準備をしていて、タイトルは『女たち三百人の裏切りの書』というんですけど、これは『源氏物語』の最後の宇治十帖を語り直すという小説だったんです。でも、それをやっていることはほとんど誰にも話していなかった。そのときに突然、河出書房から「『平家』やりませんか」って来て……運命だなあ(笑)って思ったわけです。でも、運命じゃちょっと説得力が弱いので、2時間考えました。これは、一人源平合戦だ、と。やる意味あるなあと思って、結局メールを受けてから3時間後に、「やりましょうか」って言った。まあでも、それから原文通して読んで、「マジかよ」ってやっぱり思いましたね。ただ、自分がやりたかったというよりも、何人もが「あんたが訳したほうがいい」と言ったという、それはすごいことだと思うんです。だから、その人たちが期待した何かを出せればいいんだろう、と。おそらくそれは今日話した、原文のリズムはどうするんだろう? なんでこの人たちはこんなに南無阿弥陀仏を言ってるんだ? そういうことです。南無阿弥陀仏はどうしようと思って、「10回南無阿弥陀仏唱えた」と書いてあったら、現代語訳では10回、南無阿弥陀仏と書いたんです(笑)。そうすると、ああ、10回唱えたって言うより今の人には伝わるかもみたいなことを考えました。そういう細かいことをやっていって、最終的には、「これか。こういうことをやってほしいと編集部は無意識に求めたのか。原文に閉じ込められている、今じゃ聞こえない音を現代語で増幅してくれと、そういう指令だったんだ」と納得した。そして、やっていくうちに、これは俺がやるべき仕事だ。与えられたオファーの仕事じゃなく、やるべき仕事だったと思ってやっていくようになりました。ただ、壇ノ浦で本当に祟られるようなことが起きたとき、やっぱり他の人がやったほうがよかった気がするなあ、と。そんな流れです。

受講生:ずっとやっていると思い入れが深くなってきますよね。すると、ちょっと自分の考えみたいなものを入れたくなると思うんです。そういうとき、自分の感情に任せてしまうのか、それか立ち戻ってみるのか、どちらでしょう。

古川:ルールを1個だけ決めたほうがいいと思って決めました。自分の考えが膨らんで、原文はこうだけど、こうなんじゃないかとか、あるいは歴史書調べたら間違ってるみたいなことがありますよね。すると、直したくなっちゃうかもしれない。でも、現代語訳なんだから、原文に書いてあることは削っちゃいけないと、それだけ決めたんです。だから、原文が間違っていたら、直さない。たとえば校閲者が何度か言ってきたのは、清盛の息子が何人かいる。重盛は長男です。宗盛というのは、重盛がいなくなったあと、壇ノ浦までずっと率いた人で次男と書いてあるんだけど、歴史的には三男です。何度も何度も「三男?」、「三男?」と疑問をつけられました。でも、三男なのに次男にしたのは、長男と次男を対比させてキャラクターを強めたかったんだと。物語作者は当然やりたい。シェイクスピアだって、派手な個性を出すとか極端なキャラクターを作るとかやっているわけで、つまり『平家物語』は歴史書ではなく、誰もがおもしろがれる物語なんです。一番苦労したのは、『平家物語』の巻末に系図をつけるといって譲らないんですよね。でも系図を見ながら読むと、「いるじゃん、あと1人」となる。そしたら、重盛と宗盛のページを分けた。わからないように。監修してくれた研究者の佐伯真一先生という方が作ってくださったんですが、これは素晴らしい。専門家はすごい。

ただ、その上で、自分がやっぱり入れたいものがあって膨らませるにはどうしたらいいか。原文にあることは一切削らないと決めたけど、足すのはいいんじゃないのかなと思ったんです。そう思って何をしたかというと、『平家物語』って平家一門が滅んでいく悲しい話なので、それをドラマチックにするように、全12巻プラス1巻の12巻目の冒頭に、巨大地震が起きるんです。これは本当に起きた。1185年の7月にマグニチュード7強の地震が京都を襲って、ものすごい数の人が死んでいる。これが平家の呪いだといわれている。話を受けたのが2013年で、僕、福島出身なんです。『平家物語』を訳していくことは、もしかしたらこの地震の悲しさを出すことじゃないのかなと思って、そのすごい地震が起きるシーンを……何ていうかな、今、僕らは地震とか津波とか、災害が続いてるから、ちょっと見ただけで、どれだけひどいかちゃんとイメージを持って見られる。同じように『平家物語』も見られるようにやっていこうと思って、地震を強調していきました。地震が起きるところを強調して、変な訳なんですけどね、いきなり「歌え」って言う。「……大地が揺れだしたことを。激しく揺れだしたこと。長々と揺れつづいたことを。この大地震を、歌え」って。実際は琵琶法師が演奏してるから歌っているんだけど、それを命ずるかのように入れた。大事なのは死者がいっぱい出たってこと。

『平家物語』って語り手がいる。語り手がいるというのは、冒頭の祇園精舎のところでも、「平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ心もことばも及ばれね」。平清盛公という人がいた。すごいやつで、いろいろ聞いてるんだけど、ちょっと言葉では言えないし、イメージを伝えるのも難しいです、と原文が言っている。語り手がいる。そしたら、『平家物語』の語り手の何人か、あるいは何十人、何百人かに、平家が滅んだ4か月後に大地震で死んでいった京都の犠牲者たちが出てくればいいんじゃないか。僕の現代語訳を読んでいくと途中から、なぜか語り手が増えている。それがわかるように作っていきました。『平家物語』は、男だけのドラマのように見えてしまう。でも、語り手が明らかに女であるとか、女もまた男に変わる、子どもに変わる、大人に変わるってことをやっていって、無数の人たちがこの悲しい物語を、単に平家一門の物語ではなくて、災害で滅んでいく人すべてが象徴として、ある時期、現実に日本で起こったことを一つの叙事詩としてやっているんだよ、というのを出そうとして、大胆不敵にやりました。

僕はそこは現代語という役割を超えて、何人いたかわかんないぐらい多数いた『平家物語』の作者、50バージョン以上ある『平家物語』にもうひとつ足し算するという乱暴な、だけど誠実なことをやろうとして、やっていきました。回答になりましたでしょうか。

受講生:拍手

受講生:昔読んだ梅原猛の『地獄の思想』という本があって、その中で地獄というものと『平家物語』が直結する。一方、『マクベス』だと、ダンテの「煉獄」とは違いますよねって感じがするんです。12世紀、13世紀の地獄イメージというか、対応するものって、どんなものなのでしょうか。

古川:なるほど。答えられたらいいんですけど……。『マクベス』の門番が出るところ、原文が「マタイ福音書」の第12章24節にある「悪霊のかしらベルゼブル」のところを、松岡和子さんの訳は、門番が語る台詞として「こちとら地獄の閻魔大王がついてんだ」と、日本のわれわれが理解しうる地獄のイメージにつなげて書いてある。閻魔大王は『平家物語』にも出てきます。無間地獄の使いは閻魔の使いだし、閻魔大王自身が出てくるシーンもある。ダンテの地獄の作りは、やはりイタリアのカトリックの世界だから物々しいというか、ちょっと偶像崇拝三昧みたいな感じになっている。シェイクスピアの時代というのは、カトリックとプロテスタントが血と血で争ったあとの時代。そういうところで、単純なダンテ的な、カトリック的なイメージを否定したところでも信じられるものをシェイクスピアは出していかなくちゃいけなかったんじゃないか。そうすると、頭でっかちなカトリックか、プロテスタントか、どっちが本当のキリスト教かというより、「俺らには何だかわかんないけど信じているものがある。神、キリストとか信じているし、もっと恐ろしいもの、いろいろ不安なものがある。魔女とか妖精とかがある。そういうことは信じていて、自分らが信じているものだけを出す」ということがシェイクスピアの中で起きていて、逆にダンテ的な地獄のほうがまがい物、作り物で、「俺が書いてる魔女とかのほうが、本当の俺らが信じてる俺らの世界だ」ってことを訴えていったんじゃないでしょうか。日本の中世の世界でも当然地獄は信じられているけれど、お坊さんが唱えるような理屈の世界じゃなくて、もっと禍々しい、「ヤバい。地獄に墜ちて閻魔になにかされる」とか、そういう生々しいものとしてあった。ここが共通して出ているものじゃないかと思いますね、おそらく。

ただ、カトリックとプロテスタントの戦いのあと英国国教会ができたとか、シェイクスピアのあとに清教徒たちが出てきてプロテスタント化していったとか、僕には知識がない世界だけど、そういうふうにもっとカトリック的なものから離れて、理屈で考えるような世界になっていくことを先読みして、シェイクスピアは、ダンテ的なものは書く必要がないと判断していったのではないかなと思います。

松岡:ちょっと補足。私、「閻魔大王」って書いたときに、絶対つっこまれるなと思ったんです。違うから。でも、そこは確信犯的に、「これはもう閻魔大王で行くしかない。つっこみたかったら、つっこんでください」って、そういう気持ちでやりました。だから、今の古川さんのお話ですごく嬉しいし、力をもらった感じがします。本当にシェイクスピアの地獄観とか天国観というのは、バラバラなんです。あるところでは多神教の神様が出てくるし、フォークロア(民族伝承)が出てくるし、「これ」って特定できないところがシェイクスピアの地獄であり、天国。古川さんがおっしゃったとおり、おそらく生々しい、普段自分たちが生活の中で感じている恐怖のもとだとか幸福のもとだとか、そういうところがたまたま地獄だとか天国という言葉になって出てくると思います。ごめんなさい、飛び込みで。

古川:いやいや、素晴らしいことです。

松岡:私も今すごく、「ああ、よかった、閻魔大王にして」って(笑)。

古川:やっぱりフォークロアも出てくるとか、「どの天国」、「どの地獄」と固定していなくて、だからこそリアルだというのがすごく大事な気がします。江戸時代までの日本人って神も仏も両方いて当然だったと思うし、それを強引に、仏教ダメ、国家神道だけといってギチギチに固めていったら、そこからすぐ戦争まで行っちゃうなあ、恐ろしいなあと思います。そういう恐ろしい時代に豊穣な物語は出なくて、フォークロアとかも含めて俺らが信じるものは全部ぶち込む。理屈としてはちょっとずれたりするかもしれないし、「この戯曲とこの戯曲で書いてることが違うじゃん」って言われるかもしれないけど、「いやいや、このときはこう信じたし、今はこう信じてるから、みんなも信じようよ」といって、豊かならいいし、俺らにとって「リアルだな」ってことをやっていったほうが、ガチガチに固めて戦争に突っ走るような世界よりも、物語が役割を果たすんじゃないか。見ている人たちが本当に悲しんだり、笑ったり、鎮魂の思いを込められたりするというのは、清教徒的なものでも国家神道的なものでもなくて、全部を入れていって、その場その場で話が変わったとしても、「俺らその場その場でけっこう考え方変わるよね」ということなんじゃないかと思います。

この講座ではみなさん、シェイクスピア作品はなぜ生き残ってるのかとか、シェイクスピアの何が偉いかって考えたと思うんですけど、僕は読んでいて、この「わけわかんない全部入ってる感じ」、「破天荒だけどこの世ってそうだよね」みたいな説得される感じを受けました。『リア王』が個人的にはすごい好きなんですけど、『リア王』って戯曲で読んでると、最初は道化が出てきて、気が狂った人のようにやっている。そのうちに、気が狂ってる真似をする人が出てくる。それが道化。そのうち本当に気が狂った人が出てくる。「それってごっちゃになるだけじゃないの?」って思うんだけど、これって生きてるまんま、こういう感じですよね。俺らの周りに起きてる「噓なの? 噓ついてる演技なの? それともちょっと変になっちゃってるの? でも、全部あるよね」みたいなところで、ああいう極端なドラマが生々しいドラマになるみたいなことがある。それは素晴らしいことで、そういうことをやった人が残っていて、たまたま僕が仕事で『平家物語』を依頼されたら、なぜか巡り巡ってここでシェイクスピアの講座をやることができたくらい豊かなことなのではないかなと思います。僕はシェイクスピアの偉大なところはそれではないかと思います。そういう感じでまとまりましたので、終わります。ありがとうございます。

河野:古川さんの『平家物語』は分厚い本で、2年間かけて訳されました。この訳に関して古川さんは、原稿用紙にして1800枚、全部手書きされたそうです。たくさんの人が死んでいる、しかも戦場で名乗りを上げて死んでいる。その人たちのことを訳すときにやっぱり自分も手で供養したいと……そういう思いで書かれたそうです。万年筆3本を犠牲にしたそうです。

古川:河野さんのご先祖も供養できたかと(笑)。

河野:どうもありがとうございました。

古川:ありがとうございました。

おわり

受講生の感想

  • いつにもまして即興感のある授業で、たのしかったです。 特に印象に残っているのは最後の質問コーナー。質問もすばらしかったと思います。 男性からの質問で、地獄のイメージを松岡先生と古川先生で共有されているのがとてもおもしろかったです。松岡先生、 そして河合先生も閻魔大王と訳されているその理由。 たしかにイメージしやすいですし、納得です。

  • 日常生活では本の向こう側にいる書き手が、同じ空間にいて、生身の人としてすぐ近くで、もがいた姿を垣間見せてくれる。 魔法がかかったような時間でした。

  • 「蜘蛛巣城」を媒介にして、『マクベス』と『平家物語』がつながるなんて! まったく思いがけない展開の講義に興奮しました。