ダーウィンの贈りもの I 
第13回 海部陽介さん

航海者だった祖先たち――日本人はどこからきたか?

15分版・120分版の視聴方法は こちらをご覧ください。

海部陽介さんの

プロフィール

この講座について

およそ3万年前、日本列島にやってきた人たちの一部は、まちがいなく海を渡ってきた。だとすれば、私たちの祖先はどうやって海を渡ったのか? その答をみつけるために、3万年前の材料と道具と技術で実際に海を渡る実験航海をつづける海部陽介さんが、3回目の挑戦にしてやっと成功した実験航海の様子を詳しく語ってくださいました。(講義日:2019年11月20日)

講義ノート

こんにちは、国立科学博物館の海部といいます。よろしくお願いします。今日は実験航海の話がメインなんですが、その前に、そもそも「ホモ・サピエンスはどこから来た、誰なのか?」という話から始めたいと思います。私は国立科学博物館で、人類進化の研究をずっとやっております。実は本当は、自分の専門はこの航海ではなくて、僕は海の素人で、人類の化石の研究が本業なんです。原人とかの化石の研究をやって、進化のレベルで私たちの歴史を見ていく。特にアジアに僕は興味があります。というのは、人類進化というと、アフリカとかヨーロッパっていう感じなんですけど、それって何か大事なことを忘れているんじゃないかなと思うんです。僕らの足元、アジア人がいったい誰か? クロマニヨン人はみんな知っているけど、アジアに誰がいたか知らないじゃないですか。これ、まずいと思うんですよ、アジアの人として。でもその責任は誰にあるかっていったら、たぶん研究者にあるんですね。僕らにある。ちゃんと研究していない。あるいはすぐちゃんと伝えていないということだと思うので、そういう意識を持って、研究を日々やっております。

●3万年前とはどういう時代だったか

今日は2本立てというか、最初にホモ・サピエンスの話をしたいんですが、まず3万年前という時代。どれぐらい古いのか。どういう時代なのか、ということですけど、そもそも日本列島の人類史、つまり日本に人が住み始めてどれぐらい時間がたっているかというと、だいたい3万8千年前ぐらいから始まります。その時代、何時代というでしょうか。みなさん、縄文時代は知っているんですけど、縄文時代の前、何時代でしたっけ。9割以上の方、だいたい忘れているんですけど、絶対教科書に出ています。旧石器時代といいますね。だいたい忘れています。だけど年表を見ると、旧石器時代は日本の人類史の半分を占めているんです。だからこれ、大事な時代に違いないんです。しかも、おもしろいことに、日本列島全体で旧石器時代の遺跡、どれぐらいあると思いますか? まあ、忘れているぐらいだから、スカスカの時代だったか、あるいは、僕がこう言うからには、けっこう多いのかどっちかなんですけど、ちょっと想像してください。たぶん当たらないと思います。いいですか、言いますよ、正解。正解は1万以上です。絶対当たらないでしょ(笑)。すごい数見つかっているんです。

たぶんこれには、ふたつ意味があります。ひとつは日本人が真面目に調査をやっているから、ちゃんと遺跡が発見されている。これは本当です。もうひとつは、やっぱりそれだけ人がいたんだということです。だから空白のスカスカの時代ではないんです。一方で、旧石器の捏造事件っていうの、覚えていらっしゃる方? 若い方は、たぶん知らないんですけど。20年前ぐらいになりますけど、3万8千年前より前の時代に「遺跡があったか、なかったか」という論争だったんです。そこにもし人がいたら、それは原人とか旧人とかね、「私たち」じゃない人類だと思うんですけれども、そういう時代から人がいたのかという論争がありました。それをある人が、作り出しちゃって、みんな信じて大騒ぎしたのがばれてしまったというのが捏造事件なんです。つまりここで言っているのは、3万8千年前よりあとは、捏造と関係ない。1万の遺跡がある、これは本当なんです。それより前は「捏造」に引っかかっちゃって、今、遺跡があったかないかわからない時代になってしまいました。これはまだ考古学者、専門家の間では論争が続いています。「一部の遺跡が本当だ」と信じている研究者と、「いや、まだ疑いがある」っていう、ふたつの立場が争っているんですけれども、どっちにしても明らかなことは、3万8千年より以前は、人がいたとしても少ないことです。遺跡があるかないかわからない論争をしているぐらいなんだから、少ない。ところが、それよりあとは1万もある。ということは何なんですか、いったい? 3万8千年前に何か激変が起きたという意味です、これは。おそらく誰かが来たんです。その、来たのは誰なんでしょうというのが、ホモ・サピエンスになるわけです。この時代、後期旧石器時代と厳密には言いますが、日本列島に遺跡が1万以上ある時代で、ホモ・サピエンスの到来をおそらく告げていることになります。

※権利の都合によりオンライン・クラスで公開できない画像、映像がございます。
下記のサイトにてご覧いただけるものが多くありますので、ご参考ください。

国立科学博物館2016年特別展「世界遺産 ラスコー展 ―クロマニョン人が残した洞窟壁画」
監修者が解説!ココが見どころ「世界遺産 ラスコー展」 (ナショナルジオグラフィックWEBサイト)
特別展「世界遺産 ラスコー展 〜クロマニョン人が残した洞窟壁画〜」(インターネットミュージアム)

では、このホモ・サピエンスが「どこからやってきた、誰なのか」という話で、「起源と世界拡散」という話をします。まずこの3万年前のホモ・サピエンス=「われわれ」なんですけど、3万年前の私たちってどんな姿をしていたのか、ちょっと想像してください。世間一般にあるイメージっていうのがありますが、僕ら、研究者が真面目に考えているイメージと、ちょっと乖離しているんです、それは。ヨーロッパのクロマニヨン人は、3万年前のヨーロッパにいた人たちなんですね。それをちょっとお見せします。ヨーロッパはたくさん証拠があって、研究が進んでいるので、割としっかり復元ができる。どんな人かっていうと、こんな感じなんですね(モニターに画像)。「かっこいい」って今、声が聞こえましたけど、イケメンだとか、いろいろいわれるんですが、見て驚くのは、まず私たちと全然変わらないですよね。これはホモ・サピエンスなんだからそうなんです。化石が出ていまして、頭の骨とか出て、僕らと変わらないんです。これがまず第一点。問題は服装ですよね。そのへんの街を歩いていてもおかしくないっていうか、むしろかっこいいぐらいの感じになっているんですが、実際には服は遺跡には残っていません。土の中に埋もれて消えちゃうので、なくなって見えない。それを、あえてこんなふうに復元しているのはなぜかという話をするんですが、その前に、おそらく多くの方が思っているクロマニヨン人って、おそらく、みすぼらしい“原始人”っていう感じですよね。3万年前というと、まあこんなもんだろうと。これは、研究者が真面目に復元したネアンデルタール人なんです、実は。それなりの先進的な技術を持っているんですが、クロマニヨン、ホモ・サピエンスの復元とはちょっと違う。それからもうひとつ、よくあるイメージはこういうやつ(「はじめ人間」のマンガ)。これが一番、頭にすり込まれていると思うんですけど、これも僕らはちょっと違和感があるんです。

では、どうして、服が見つかっていないのに、かっこよく復元するかという話です。まず、クロマニヨン人のもとになった、フランスのレゼジーというところにあるクロマニヨン岩陰から出てきた頭骨なんですけど、よく見る頭の骨とたいして変わらないというか、僕らと同じなんですね。ホモ・サピエンスですから、姿形は同じ。その顔を復元しているんですね。

遺跡の写真をごらんいれます。スペインのラ・ガルマという遺跡、有名な遺跡じゃないです。こういう遺跡はヨーロッパにいっぱいあります。ラ・ガルマという洞窟なんですが、石灰岩の丘の中に洞窟が隠されています。昔の人は洞窟の中に住んでいたと多くの方は思っているんですけど、それは間違いで、洞窟の入り口に生活の跡があります。中は真っ暗だから、住む場所はないんですね。入り口の明るいところで暮らしています。もちろん雨が降ったら中に入ればいいんです。洞窟の前庭部というんですが、こういうところを掘ると、いろんなものが出てきます。いろんな年代の地層が出てくる。たとえば、サイ。ケサイという、昔ヨーロッパにいた動物。マンモスの歯が出てきたりして、動物やいろんな遺物が出てくるんですが、このラ・ガルマの洞窟も普通の遺跡と同じように、やっぱり前庭部で人が暮らしています。ちょっと中に入ると、びっくりすることがあります。探検家が中に入ると、いろんな入り口を見つけて、降りていったら、骨がババッと散らばっているところがあって、洞窟の中にもけっこう入っているらしいことが、まずひとつわかりますね。

それだけじゃないんです。写真は洞窟の入り口が崩落してふさがれているところなんですけど、実はこのラ・ガルマという遺跡はタイムカプセルなんですね。昔の古い時代の地震で洞窟がふさがれてしまって、そのあとほとんど人が入らなかったので、クロマニヨン人が生活した当時の痕跡が、ほとんど手つかずで残っていたんです。そういう、ちょっと変わった遺跡です。中に入っていくと、私も行ったことがあるんですが、入り口に近いところの広間の壁のところ、何があるかというと、黒で描かれた馬の絵です。ほかにも、赤とかで描かれた動物の壁画があります。写真はヤギとかオオツノジカとかそういう動物らしいんですけど、そんな絵が描いてある。洞窟の中にですよ。そもそも、洞窟の中に、僕ら入る必要ありますか? サルの仲間で洞窟に入るやつはいない。洞窟に入るのは、ハイエナとかクマとか。ハイエナはねぐらにして、クマは冬眠するために入りますけど、本当は僕らが入る理由なんかないんです。用がないから。だけどなぜかこの人たちは入るんです。またさらに進むと、洞窟の床面というのは、みなさんが行く鍾乳洞はきれいに整備されていますけど、本当はごつごつと石とか転がっている。写真でも石が落ちていますが、真ん中の茶色いやつ注目してください。これ、どうも骨なんです。骨なんですが、古生物学者が見ると、すぐ「あ、ウシの指だな」ってわかるんですが、それが大事なんじゃなくて、実はこの骨、拾い上げると、ちょっとびっくりすることがあります。浮彫が施されている。これを全部展開すると、非常に見事な浮彫。それがコロンと落っこちている。ほかにも黄色い骨が散らばっていますが、また1個拾い上げてみると浮彫が。これがクロマニヨン人の洞窟です。普通にこういうことがある。

洞窟の一番奥、この洞窟だと確か250か300メートルあるんですけど、一番奥の奥まで真っ暗闇をずっと突き進んでいくと、最後に、壁にこういうのがあります。手形です。なぜこんなことをやるのか、よくわからない。だけどわざわざ真っ暗闇に入って、こういうことをやりたがる。ヨーロッパにはこういう壁画が描かれている洞窟が300ぐらいあるんです。その中で特に有名なのが、ラスコーとかアルタミラですね。本当にすばらしいもの。ほかにもいっぱいあるんです。で、本当に不思議なんですね。みなさんだいたい絵で、二次元で見ちゃうんですけど、本当の三次元の洞窟空間に入ると、ものすごい感動します。しかも真っ暗闇の中に、明かりを持ち込まないといけない。クロマニヨン人、その明かりを当然持って行っているわけですね。それを持ち込んで、そこに巨大な絵を描く。たとえばこの、写真で見えている右上のウシなんて、5メートルもあるんですよ。ものすごい巨大な壁画なんです。アルタミラの赤い壁画って、天井画ですからね。天井に、バイソンだとか、ウマとか、真っ赤なやつがバーッと描かれているのを思い浮かべてください。そういうことをわざわざやる人たちなんですね。これがクロマニヨン人。

さて、これだけじゃない。次は彫刻です。写真はトナカイの角に彫り込んだ彫刻です。バイソンなんですけど、技術的にすごいのはわかりますね。デザインも僕、大好きで。後ろを振り返ったバイソンが、ペロッと舌を出している。これは舌か吐く息かわからないそうなんですけど、フランス人はこれを「体をなめるバイソン」と名づけているんですが、見事な彫刻です。ほかに線刻だとか模様だとか、モニターの写真右下にあるのは縫い針ですね。2万5千年前。昔からこんな繊細な裁縫をやる技術があったということですね。縫い針、たぶんもっと古いはずなんですけれども、この時代から裁縫をちゃんとやっている。そうするとどうですか、さっきみたいな、すばらしい色を使って壁画を描く、見事な彫刻を施す、裁縫の技術を持っている人が、みすぼらしい服を着ていていいですか? 違うでしょ。ということなんです。だからクロマニヨン人、すごいんです、本当に。それであんなカッコいい復元になるんですね。

要はこういうことで、猿人が生まれて、そのあといろんな多様化が起こるんですね。猿人の時代があって、原人が生まれたりして、文化が多様化して、最後にホモ・サピエンスになるんですが、ちょっと変わっているのが、ホモ・サピエンスが世界を埋め尽くすんです。この意味をもうちょっと細かく見ます。つまり、人類はかつてもっと多様だったんです。これは昔の考え方ですけど、図の左がホモ・サピエンス、どうやって誕生したか。昔はジャワ原人や北京原人がアジア人の祖先だと考えていましたよね。教科書にもそう書いてあった。ネアンデルタール人がヨーロッパ人の祖先。それが多地域進化説という考え方なんですが、今、これが違うとされている。そうでなくて、ホモ・サピエンスはアフリカの古い集団から進化してホモ・サピエンスになって、それが世界に大拡散をしたんだと考えられている。その過程で、その前にアフリカを出た原人たちはいなくなってしまった、という考え方なんですね。これが今、支持されている、アフリカ起源説という考え方です。

●アジアの人類も実は多様だった

いろんな証拠があるんですけど、遺伝子で見ると、アフリカに共通祖先がいますよということを示す大きなデータがあります。アフリカ人が最初に分岐を始めて、そのあとユーラシアの方で多様化が始まった。これ、現代人の関係ですね。これを話し出すと、あと30分ぐらい説明をしていくので、さらっと行きます。考古学的にも、やっぱりアフリカで一番人間的な行動が最初に生まれるんだということは、21世紀になってからわかり始めています。たとえばアクセサリー。飾るとか模様を描くみたいなのって、それまでヨーロッパのクロマニヨン人の証拠が一番古かったんですが、21世紀になってから、アフリカでもっと古い証拠が見つかりはじめています。たとえば貝に穴を開けたビーズ。こういった装飾品は、アフリカで非常に古くからあった。それから丁寧な石器の技術だとか、模様だとか、おそらく魚を食べたり、貝を採ったり、海産物を採るとか、そういった行動がやっぱりアフリカで始まっていることがわかってきました。

地図に展開するとこうなるんですけど、アフリカでホモ・サピエンスが登場したとき、まだほかの地域には古い人類が生き残っているわけです。つまり、かつて人類は多様だった。同じ時期に、違う場所には違う人類がいる時代があった。ヨーロッパにはネアンデルタール人がいます。アジアにはアジアの、なに人って名前の付いていない旧人がいたり、インドネシアではまだ原人が生き残っている。昔、アジアにいた古い人類って北京原人とジャワ原人ぐらいしか知らないと思うんですけど、最近新しい発見が続いていまして、台湾でも新しい人類が見つかっている。それからインドネシアのフローレス島に、変わった、身長1メートルに矮小化した人類がいる。フィリピンのルソン島にも同じようなのがいる。チベットでも最近、化石が見つかったんですが、アジアの人類が実は多様だったことが、今、急速にわかってきています。私の本業というか、一番の専門はそっちでした。

この中で特によくわかっているフローレス原人について、簡単に紹介します。ホモ・サピエンスを理解する前に、私たちの先住者にどんな人たちがいたかをお話しします。フローレス原人は、遠い兄弟になります。インドネシアのジャワ島の向こうにフローレス島があるんですけど、ここは有名な「生物学の境界線」があります。「ウォーレスライン」と呼ばれているんですが、インドネシアのこのラインより向こうに行くと、動物や植物がガラッと変わります。これはかつて陸がつながっていなかった場所なので、動物が渡れていないんですね。それのさらに向こうのオーストラリアやニューギニアに行くと、また変わります。有袋類とか単孔類がいる場所ですけど、この島の向こうに、原人がどうも紛れ込んでいるということがわかりました。どんな原人か。リャン・ブアっていう洞窟で最初に発見されたんですが、大人でも身長1メートルぐらいしかないです。写真は、うちの博物館にある展示で、復元したものですけど、小さいです。科博の展示の後ろにいるのは、ゾウと大きな鳥。実物大で書いています。一緒に見つかった化石から復元しているんですけど。つまりこのフローレス島ってね、何かがおかしい。動物の体のサイズがおかしいんです。ゾウは小さい。鳥はでかい。足元に何かいますね。コモドドラゴンです。フローレス島の隣にコモド島がある。コモドドラゴンは、体長最大3メートルになります。足元にもう1匹、巨大なネズミがいます。体長80センチぐらいのジャイアントラットがいます。これがフローレス島の動物です。フローレス島のもうひとつの特徴は、動物の種類が少ない。あとはコウモリとかヘビとかそんなのしかいません。種類がいない。いるやつはみんな、体のサイズがおかしいんです。

実はこういうことは、島に行くとあちこち世界中で起こっている。地中海の島にも、かつて小さなゾウがいました。いろんなゾウが島に渡っては、みんな矮小化しているんです。有蹄類の仲間もだいたい矮小化します。ですが、ネズミは巨大化することがある。そういった不思議な変化は前から知られていました。同じようなことが人類にもどうも起こったらしい。これはインドネシアのケースですけど、隣のジャワ島では、ステゴドンというゾウの牙は、すさまじい大きさです。ところがフローレス島に渡ったら、小さくなる。これは祖先と子孫だと考えられています。もともとは巨大なステゴドンが、フローレスやティモールやほかの島にも拡散しているんですけど、軒並み小さくなるという不思議な進化が起きています。

写真は、ジャイアントラット。これは現生で、島の人はこれを見つけると、おいしいので、食べるそうです。コモドドラゴンも、まだ見られます。みなさんも行けば見られます。すごいですよ、迫力。コモドドラゴンは、近寄れるんですよ。だから恐ろしいです。だけどあれは、たぶん頭が悪いんですね。爬虫類だから。人間の怖さをわかっていない。哺乳類だったらあんなに近寄れないですね。トラやライオンだったらこうはいかないんですけど。コモドドラゴン、まだ生きています。

何が起こったかというと、海面が下がったときに、ジャワ島、ボルネオ島、スマトラ島は陸つながりになります。スンダランドって呼んでいたんですが、そこまで陸がつながります。ですから、ジャワ島、ボルネオ島には、アジア大陸と同じ動物がいる。オランウータンとか、バクとか、イノシシとか、ゾウもサイも来ています。トラもいます。ボルネオもトラがいます。ボルネオはオランウータンもいます。陸がつながっていたからです。ですが、この先、スラウェシだとかティモールまで行くと、オランウータンはいません。島だったので、渡れなかった。ゾウは実はけっこう泳ぐので、ティモールまで渡っています。ですが、オーストラリアまでは行っていません。で、ジャワ原人の、子孫か何かわからないんですが、フローレスの原人も、何かの事故かわかりませんが、ちょっと出てしまった。そして、不思議な独特の進化を遂げてしまった。ですが、その先には行っていないです。というのが現状です。こんなふうに、アジアの違う場所には多様な人類がいたというのがひとつあります。

●地球上、ホモ・サピエンスの一種だけという不思議

今日の主役は彼らではなくて、ホモ・サピエンスなので、ここからホモ・サピエンスに話を戻したいと思います。改めて、ホモ・サピエンスの世界拡散ということで地図をもう1回見ていただきたいんですが、これは人類がどうやって世界に拡散していったかという絵なんですけれど、アフリカの色が濃いところは猿人の時代の人類の分布域です。人類はアフリカで誕生しました。裏を返せば、その時代には、人類はアフリカにしかいない。世界のほかの地域にはいない。同じように、ジャワ原人、北京原人の時代、アジアまで広がりましたが、いない場所もたくさんあるんです。最終的にちょっと色がかかっているのが、ネアンデルタール人ぐらいの、旧人の時代の分布域なんですけれども、だいたい5万年前ぐらいですね。5万年前の世界で、人類がいる場所といない場所を比べたらどっちが多いですか? いない場所のほうが多いのが、5万年前だったんです。

だけど今、私たちは、世界中に人間がいるのは当たり前だと、生まれたときからそうなので当たり前だと思っているんだけど、実は当たり前じゃないんです。人類の歴史の中、あるいは生物の歴史の中で見ても、こんなにどこにでもいる生き物っていうのはない。そもそも、こんなにあちこちにいるのに、一種しかいないっていうのは異常なんです。これは人間がある意味、とってもユニークなんです。普通は広がったら種が分化します。多様化します。ところがそれが起こっていないんですね。地球上ホモ・サピエンスだらけで、人類が一種になってしまった。という時代なんですが、その一方で、この地図は、私たちホモ・サピエンスがいかなる存在かを教えてくれる鍵を握っていると思うんですね。というのは、原人や旧人たちができなかったことを、私たちの祖先はやっているわけです。

つまり、地図を見ると、原人や旧人たちは行けなかった場所がある。どういうところですか? 彼らは何が苦手だったんだろう。そう、寒いところですよね。シベリアの奥地までは行けなかった。シベリアの奥地まで行っちゃった私たちの祖先は、やがてアラスカを発見して、アメリカ大陸に入っていきます。これがだいたい1万5千から1万6千年前ぐらいに、そういうことが起こります。「アメリカ大陸最初に発見したのは?」って聞かれたら、「コロンブス」って言っちゃいけないんですよ。コロンブスが行ったときには、彼がインド人と間違えた先住民がいたわけですから。その人たちが最初の発見者なんです。シベリアから行った、この1万5千、6千年前に行った人たちが、人類史上、最初のアメリカの発見者なんです。

同じようにもうひとつ苦手だった場所が、海です。渡ることができない。当たり前です。僕ら、霊長類の仲間ですから、海なんか苦手に決まっている。ところがやってしまう。オーストラリアまで行きます。やがてはハワイ。太平洋のど真ん中まで拡散していきます。全世界に私たちの祖先は広がっていきました。私はこの歴史にものすごく興味があります。特にアジアで何が起こったのか、いつ、どうやって人がここにきて、それがいったい何を語っているのかっていうのに、ものすごく興味があるんですね。

そこで、この話になっていきます。日本人はどこから来たのかと言ってもいいんですが、つまりアフリカから出て、西の方に行ったのは誰ですか。これがクロマニヨン人なんです。クロマニヨン人は、アフリカから来た移民です。彼らがヨーロッパに来たときに、先住者がいた。それがネアンデルタール人、という関係です。同じように東の方に行った人がいます。ここでつながりますね。3万8千年前の謎。アフリカからやってきたホモ・サピエンスが世界に大拡散していく、その波の中、ようやく日本列島にやってきた。それが3万8千年前なんじゃないかと、当然考えるわけです。それでどうも正解なんですね、という話になります。

科博にはこういう、人類の大拡散をテーマにした展示が常設展としてありますので、このへんも見ていただければと思います。地球館の地下2階、一番端っこの方なんですけど、ありますので、ぜひごらんいただければと思います。写真手前に写っているのは、今日の話の舟ではなくて、もうちょっとあとの時代、太平洋のど真ん中、ハワイやタヒチまで行ってしまったときに使われたであろう舟の復元です。1000年前、2000年前の話です。人類はそうやって世界中に広がっていったということをテーマにした展示がここにあります。この話に興味がある方は、こういう本もあります。川端裕人さんというライターの方に、僕がインタビューを受けた本(『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』)がありますので、ぜひこういうのも見ていただければと思います。ブルーバックスから出ています。2018年、科学系の賞をふたつ同時に受賞したということです。

●海を越えた最初の日本列島人

ではパート2。いよいよ本題です。海を越えた最初の日本列島人。実験航海の話をしたいと思います。まず、3万年前、ホモ・サピエンスがやって来る。当時の日本列島はどんな場所だったかという話をしたいんですが、繰り返しになりますが、縄文時代の倍ぐらい古い昔になります。今とはやっぱりいろいろ違うんですけど、まずこの時期は氷期といって寒い。地球全体が寒かったので、気候が寒冷。そうすると植物も今とは違う。どう違うかを簡単にいうと、2万年前の一番寒かった時の植生と現代の植生をみると、要するに今、北海道にある植物が九州にある。九州に行くと北海道が楽しめるっていう、そういう時代です。北海道に行くと何があるかというと、今の北海道にない植生がある。どういう植生かというと、森林ツンドラ。要するに今のロシアのタイガみたいなやつです。ツンドラのステップというのは、もっと北の方にある、木があまりない草原が広がっている場所。実はツンドラステップっていうのが、マンモスが大好きな場所なんです。マンモスが住める場所。マンモスみたいな大きな動物は、森林の中には住めないんですね。邪魔でしょうがない。草原がいいんですけど、それが北海道にありました。写真は富士山ですけど、3万年前の祖先たちが見た富士山は、このとおりじゃないです。富士山もこのころから爆発して、成長しているんですね。成長って僕ら言いますけど、大きくなっている。3万年前はもっと小さかった。富士山がどんどん噴火して、それが風に乗って東の方に火山灰が飛んで積もったのが、いわゆる関東ローム層になります。富士山だけじゃないですけど、ほとんど富士山が供給源だと考えられています。昔の人は、もうちょっと低い富士山を眺めていたということになります。これが3万年前です。富士山のふもとにある愛鷹山というのをちょっと覚えておいてください。あとでちらっと出てきます。新幹線で通っても、愛鷹山を注意して見る人は誰もいないんですけど、実はとっても大事なんです。あそこにすごい遺跡がいっぱいある。第二東名を通したときにたくさん見つかったんですね、すごい遺跡が。あとでちょっと出てきます。

3万年も経つと、いろいろな天変地異が起こります。最近、自然災害が多くて、とても気になるこの頃なんですが、万年スケールで見ると、そんなもんじゃない巨大な災害が起きています。ちょっとその話をひとつしようと思います。鹿児島県の真ん中にあるのが桜島です。鹿児島県民を悩ませている桜島ですけど、実は写真の中に、親玉がいるのわかります? 桜島なんて子どもです。丸っこい湾、錦江湾がカルデラなんです。巨大な火山噴火でできた。これがちょうど3万年前に起きた巨大な噴火で、このときの火山灰を姶良(あいら)丹沢テフラ(灰)というんですけど、巨大な爆発が日本中に火山灰を降らせました。北海道を除く日本のほぼ全域で、このAT(姶良丹沢)テフラが見つかります。鹿児島県にある分厚いシラス台地。空港から市内に入っていくときに通るシラス台地も、このときにできた。この爆発の火砕流です。だからものすごい爆発。当然このときその場にいたら、とても生きていられないと思います。このとき周辺の生物は壊滅していると思います。それぐらいのことも、万年スケールで見ると起きています。考古学者たちは、これを今、うまく利用しています。というのは、遺跡を掘っていて、このATテフラが地層になって出てきたらラッキーです。これは3万年前の境界線。ここより下から石器が出たら、3万年前より古い。上から出たらもっと新しい。そうやって年代を決めるときにも使う火山灰です。

それから当然、こういった生き物がいます。ナウマンゾウ、オオツノジカ、出会ってみたいと思います? 祖先たちはこういうのを見て暮らしていたんですよね。もう今はいなくなってしまいました。不思議なことなんですけど、ホモ・サピエンスが世界に拡散すると同時に、こういう生き物があちこちでいなくなっています。これはふたつの解釈があります。そのころちょうど、氷期が終わって間氷期になって、温暖化していく境界なので、気候変動が原因だという考え方。で、もうひとつはやっぱり、人間が関係しているんじゃないか、と。たぶん両方なんですけども、世界のあちこちで起きます。北の方では、マンモスがいなくなります。日本でもいなくなった動物たちがいます。

その3万8千年前に、祖先たちが日本列島にやってきました。そのときの地形を、じっくり見ましょう。何が違うかというと、寒いので海面が下がっているんです。どうしてかわかります? 寒いと海面が下がる。今、逆に、温暖化で海面が上がっています。なんでですか。極地にたまっている氷が解ける。寒いと? 逆のことが起こるんです。極地の氷が増えます。そうすると海水が減るので海面が下がる。地球は、今までそういう氷期の寒い時期、間氷期のあったかい時期を繰り返しているんですね。過去二百数十万年間、その中で下がったり上がったりを繰り返していました。この時期は氷期で寒いので、下がっています。最終氷期と呼ばれる寒い時期の、一番寒かった時期が、だいたい2万年前ぐらいなんですけど、このときに海面がどのぐらい下がっていたかご存じですか。130メートル。かなりすごいですよね。そうすると何が起こるかっていう話になります。祖先たちが日本列島にやってきた3万8千年前ごろは、2万年前ほどは寒くない。でもけっこう寒いので、だいたい70メートルから80メートル海面が下がっていました。80メートル下げたときの絵を見ると、海面が下がって陸化している部分が広がります。

どんなことが起きていますか? 大陸とつながっている部分がありますね。台湾が大陸の一部になっています。台湾海峡は水深60メートルなので、つながっちゃいます。黄海もけっこう陸になっています。韓国仁川空港から市内に入るバスに乗ると、右手に広い干潟が見えるのが記憶にある方おられますかね。こういうことなんです。遠浅なので、海面が下がると陸化します。北海道を見ると、北海道はサハリンとつながって、サハリンは沿海州までつながって、大陸の一部になっています。つまり半島ですね。私たち専門家は、これを古北海道半島って呼んでいます。昔半島だった。「ツンドラステップ」があってつながって、そこにやっぱりマンモスが下りてきている。だからマンモスの化石が見つかるんです、北海道で。ところが、ちょっと小さいですけど、津軽海峡、海が開いています。マンモスは、ここを越えなかったらしいんです。本州からマンモスの化石は見つからないんです。ちょっとおもしろいですね。本州の中を見てみると、伊勢湾とかないし、東京湾も潰れている。瀬戸内海も存在しないんです、このとき。瀬戸内海から、漁師が網に引っ掛けて、ナウマンゾウの化石が出てくるとか聞いたことあります? 当時、陸だったからです。そういう時期の動物が、そこで化石になって眠っているわけですね。

要するに、四国、九州、本州が合体して、ひとつの島になっていました。これを私たちは、古本州島と呼んでいます。昔はそんな地形だった。ですが、朝鮮半島と対馬があって、九州。ここは海峡が開いています。沖縄も島のままです。ということで、北海道までは歩いて来られますから、今の本州に人が来るには、どこから来ようと海を越えなければいけないということになります。で、ここに1万も遺跡が存在するということは、どういうことですか? 彼らは、海を越えて来たということです。つまり最初の列島人は海を渡って来たんです。そうじゃないと来られない。そういう場所に現れたのが、最初の人たちだったということになります。

遺跡の分布を細かく見ると、一番古い遺跡は九州と本州から発見されています。ですから、対馬海峡を越えて、朝鮮半島経由で来た人たちが一番最初かな。3万8千年前じゃないかなと考えます。ほかにもおそらく、台湾から沖縄のほうに上がってきた集団、それから北海道のほうに下りてきた集団もいただろう。これは、特徴的な石器が2万5千年前に入ってくるんですね。そういった流れがあるだろうと考えられます。ですから、日本列島に入ってきた流れというのは、やっぱりいくつかある。ひとつじゃなくていくつかあるだろうと考えられます。一番太いパイプは、歴史を通じていつもそうですが、朝鮮半島と九州の間です。ここから最初に人が入ってくるし、そのあともいろんな移住があります。こうやって日本の人類史が始まっただろうというふうに考えます。

●沖縄が気になる理由

この中で、僕らが今一番注目しているのが沖縄です。だいたい多くの人が一番古いところをやろうとするんですけど、僕はそうじゃなくて、沖縄がどうしても気になる。なぜかというと、ここを渡るの、どう考えても難しいからです。琉球列島のど真ん中、琉球列島はだいたい九州から台湾まで1200キロぐらいあるんですけど、そのど真ん中の沖縄島に遺跡があるんですが、3万5千年前なんです。すごく古くから、ここに人がいる。

ちょっと考えていただきたいんですが、「沖縄に行きましょう」といったら、飛行機のチケットを買いますよね。ですが、自分の力で行きなさいと言われたらどうしますか? 舟作っても泳いでも何でもいいからといわれても、困るでしょ。飛行機の上から海を眺めていると、やっぱりどう考えてもすごいことなんですよ、ここに人がいるっていうのは。3万5千年も前に、いったい何をしたんだろう? 気になるわけですね。

●釣り針の発明

驚きはこれだけで終わらない。琉球列島全体を見渡すと、3万年前の遺跡がほとんど全部の島にあるんです。一番上が種子島。それから奄美大島、徳之島、沖縄島、宮古島、石垣島とありますが、どこも3万5千年前の遺跡とか、3万っていう数字がずらっと並ぶんです。いったい何が起こったんでしょう。つまり、これより前には人がいないのに、3万年前になったら突然「全部の島に人がいます」になっている。つまりこれは、たまたまどこかに人が流れ着いただけではないものを感じますよね。ただごとではない大きなことが起こっている。やっぱり海を渡る能力を身につけた人たちが、どんどん渡り出したのかなって考えたくなります。というところから、この実験プロジェクトが始まります。それだけじゃなくて、最近おもしろい発見がいろいろあって、モニターの写真の真ん中にある月みたいなもの、これはちっちゃいものなんですけど、貝殻を削って作ったあるものです。何に見えますか。そう、釣り針なんですね。どうしてこれが釣り針と言えるかというと、オーストラリアのアボリジニが持っている釣り針に、よく似ているのがあるんです。返しがついていないんですけど、釣り針として持っていたのが存在しています。で、これ、なんと、世界最古なんです。2万3千年前の地層から見つかったんですが、沖縄島のサキタリ洞というところから見つかった。僕らもびっくりしました。日本に世界最古の釣り針があるなんて、予想もしていなかった。釣り針の発見というか、釣り針の発明ですね。天才だと思うんです。水の中にいる見えない生き物を引っ掛けるわけですから。誰が発明したんだろうと考えちゃいます。釣り針も曲がり具合だとかで、引っかかり方がずいぶん変わるらしいんですけど、いろんな試行錯誤をした結果、いろんな形に落ち着くんだと思いますが、こういうものが発見されています。

さっき、縫い針が出てきましたね。縫い針も、今の縫い針と形変わらないですよね。笑っちゃうぐらい変わらない。ヨーロッパの縫い針は長いのもありますが、小さいのは同じくらい。非常に小さな穴が開けられています。釣り針があるというのも同じぐらいの発明だと思うし、それから針があるということは、当然、紐とか糸とかそういうものを作る技術があったはずです。それが何かはわからないですけど、うかがい知れるものがあります。

つまりここに来た人は、本当に流れ着いた原始人というより、僕らが今まで思っていたものじゃない発明をしていた人たちだったということが、だんだん見えてきています。最近は石垣島とか沖縄島とかでは、人骨もたくさん見つかりはじめていますので、まだ研究は途上なんですが、どんな人たちだったというのが、これから先もう少し明らかになっていくと思います。

話を先に進めます。さっき、海面を下げても、沖縄は島だったから、海を渡って来たんだってサラッと言っちゃったんですけど、本当にそうなのか? このへん、ちょっとしっかり考えましょう。

古い本を読むと、台湾から沖縄までつながっていて、旧石器人は歩いてきたんですよって書いてある本もあるんです。でも、実はそうじゃないという話をしたいんですが、地質学的にも海洋学的にも、どの面から見ても全部支持される話なんですが、沖縄は切り離されています。とってもわかりやすいのは動物なんですね。動物を見るとだいたいその島の歴史がわかります。九州にも台湾にも、私たちになじみの深いサルとか、タイワンザルっていますよね。それからシカがいます。クマがいます。動物っていうと僕ら、そういうのがなじみの動物。日本本土にもいます。九州にも台湾にもそういう動物がいます。ところが沖縄には何がいますか? 沖縄にサルいますか。いないんですね。サルも、シカも、クマもいない。じゃあ何がいるんでしょう。写真は、奄美大島にいるアマミノクロウサギ。こちらはヤンバルクイナ。有名ですよね。ケナガネズミっていうネズミ、これも沖縄の固有種です。こちらは西表島のイリオモテヤマネコです。これらの動物は希少種とか、固有種と言われます。ここにしかいない。つまり、沖縄って、メジャーなサルやシカがいなくて、珍しいものしかいない。これは何を物語っていますか。孤立していたということですよ、要は。長い間、孤立していたんです。ウサギがやってきたのは、おそらく200万年前より前だと思われます。それぐらい前の時代には、陸がつながっていた。そのときは、地層を見てもはっきりわかるんですが、沖縄にまだサンゴがないんです。そういう時代。沖縄のサンゴって、だいたい200万から170万年前、そのあたりからだんだん形成が始まります。

そのころに、分断して、おそらく島ができはじめて、黒潮がこの中に入ってくるんです。そういう海流の影響で、フィリピンからやってくる卵が着床するようになって、サンゴ礁が発達しはじめる。その前は地形が違うので、サンゴ礁はない。ということになるんですけど、そのころ、もっと古い時代に渡ってきた動物たちが生き残っていると考えられるのです。ところが、例外が一個あるんです。わかります? 屋久島です。屋久島にはサルがいますね。シカがいますね。あれ? どうしましょう。屋久島の謎。この謎にぶち当たったときに、何をチェックしましょう? 屋久島と九州の間の海底地形を見ましょう。水深、大隅海峡の水深は110メートルです。さっき2万年前、何メートル下がっているって言いましたっけ。130メートル下がったらつながるんです。最終氷期、実はつながっていたらしい。だから、屋久島の動物は、モグラとかネズミとか全種類、九州本土と同じなんだそうです。だから非常にきれい。つながっているところは渡ってきている。でもその南のトカラ列島までいくと、そういう動物はいなくなります。トカラは小さい火山列島ですから、ネズミとか、ヘビとかしかいない。そういうのしかいないっていうと、ちょっと失礼ですけど(笑)、そういう島々なわけです。どう考えても、陸橋でつながっているなんていうことはないんです。ここに人間がやってくるわけですから、沖縄もやっぱり海を越えて渡ってきたということになります。ここからあとは航海の話に入りますので、ちょっと、休憩を取りたいと思います。
(休憩)

●台湾と与那国島

再開します。沖縄にちょっと注目なんですけども、ちょっとまた3万年前のことを詳しく考えていきたいと思います。先ほどと同じように、80メートル下げた、クローズアップの地図を見ると、沖縄全体の地形はそんなに変わっていないんです。これは地形が急峻なので、海面を下げてもたいして変わらないんですね。細かいところを見ると、真ん中の沖縄島と慶良間諸島がくっついているとか、石垣島と西表島がくっつくとか、そういうことは起こります。現地に行くと、あそこがくっついていたかと思うと、ちょっとおもしろいです。石垣の人にその話をしたら、「そうだったらもっと発展していたのにな」とか、おっしゃっていました。そういう違いは起こりますが、全体としてはやっぱり海が広いです。

特に注目は台湾。それから一番近い与那国島の間が、今、110キロなんですけど、当時でもやっぱり100キロぐらいあるんです。宮古島と沖縄島間は200キロ以上あります。何が問題かというと、単に距離が遠いだけじゃなくて、台湾から与那国島が見えないんです。宮古島と沖縄島も、向こうの島が見えないんです。あとで詳しく話しますが、実は台湾から与那国島を見る方法があるんです。何だと思います? ちょっと考えましょう。年に数回、天気のいいときにしか見えないんですけど、与那国から台湾が見えます。僕も見たことあります。でも台湾の人に聞いたら、「与那国島なんて見えません」って言われたんです。で、「あれ?」と思っちゃって、あとで調査をすることになりました。答を言うと、山に登ると見える場所があります。台湾のほうが大きいんですね。ですから与那国から台湾は見えます。でも台湾の海岸線から与那国は見えません。なんでですか。地球が丸いからです。単純な話です。

ただ、この宮古島-沖縄島間は非常に謎めいています。なぜかというと、ここは山に登っても見えない。発見できない。でも両方に人がいます。どうやって来たんでしょう、という謎があります。このように、見えないぐらい長い海峡がいくつかあります。そのほかもなにしろ、いくつも海を渡らなければ到達できないということがまずあります。

もうひとつの問題点がこれなんですが、黒潮です。黒潮というのは、世界最大の海流だってご存じですか? 世界最大規模。まあ、最高とは言いませんが、最大規模です。黒潮のスピードは、秒速1から2メートル。秒速1メートルは想像できますね。1秒で1メートルです。これは人が歩く速さです。2メートルなんていったらもう、とんでもない。それが最大、幅100キロぐらいにわたって流れています。いわば、ものすごい規模の大きい川ですね。これが海を流れている。これが海流なんです。そういうものが台湾から与那国島の間、海峡に入って、東シナ海に入って、トカラから抜けて太平洋に出るんです。そのあと太平洋沿岸をずっと四国沖をいって、関東の方で大蛇行して、黒潮は流れていきます。沖縄の方では東シナ海の中に入る。これがさっき言った、島が分断されて海流が中に入り始めて、おそらくこれとサンゴ礁のできるタイミングが一致しているんだろうという話になります。その前は、黒潮はたぶん島の外を通っていたんですね。そういうことだったんだろうと考えられています。

この黒潮が3万年前も、おそらく同じように流れています。というか、黒潮自体は消えてなくなることはないんですね。海流というのは基本的に風が駆動しているので、地球の風の体系を止めてやらないと、海流は消えません。ですから必ず存在しています。あとは地形的に、台湾と与那国島の間の海峡は水深700から800メートルぐらいありますので、どうしてもそこを流れるんですね。これは、いろんな証拠で昔もそうだったといわれています。このへんの海底コア(柱状の試料)の分析をすると、やっぱり黒潮が入っていることを示す証拠が出てきます。その昔も。ということは、旧石器人が島に渡るには、どうしたって黒潮のある海を越えないといけないということになるんです。ただ、その詳細なパターンはまだ全部わかりきってはなくて、今、私たちも研究をやっているところです。ですから、考えただけで、相当大変です。ですが、人はいます。

●本当にどれだけ難しいのか、わかっていなかった

ですが、僕はここまで考えたときに、「すごい難しいですよ」と言いながら、だんだん自分が恥ずかしくなってきたんです。なぜかというと、本当にどれだけ難しいかわかっていないからです。で、本当にわかりたいと思うようになりました。だったら舟を作って、自分で出ればいいかなと。そうやったら、本当に何が難しいかわかるだろう。海を越えるって、果たしてどんなことなんだろう。祖先たちはいったい何を乗り越えたんだろう、ということを知りたいと思うようになりました。それで舟を作ろうということを始めたんです。2013年ですね、6年ぐらい前に、研究者とかいろんな知り合いに声をかけてチームを作りました。チームを作るのは簡単だったです。みんな「おもしろい」といって、断る人はいないので。みんな「じゃあ一緒にやりましょう、やりましょう」といって、すぐチームはできたんですけど、問題がありました。それはお金がないということだったんですね。

それで、国立科学博物館の林良博館長のところに相談に行きました。こういうことを考えているんですけど、お金がなくて困っていますと。そうしたら、「じゃあクラウドファンディングやれば?」と言われて始めたんですが、そのとき、僕はクラウドファンディングを正直言ってあまり知りませんでした(笑)。そこから始めて、SNSもやっていなかったのが、2016年、2018年の2回やって、合計6000万円近く集めることに成功しています。合計1700人以上の方から支援を受けました。ありがたいことに、祖先の偉大な航海を再現するプロジェクトに多くの方から共感をいただいて、実現にこぎつけることができました。このプロジェクトは本当にたくさんの人に背負われているプロジェクトなんですね。そういうことを常に感じながらやっています。それから協賛企業ですね。台湾でも募金をしてもらったりして、なんとか実験の費用を作ることができました。これは「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」という名前なんですけど、私たち国立科学博物館と、台湾の国立台湾史前文化博物館、台東県という台湾の東の方にあるんですが、そこの博物館との共同プロジェクトです。後援にいろんな地元自治体が入っていまして、与那国とか石垣、竹富町、それから沖縄県とか。いくつかの大学や研究機関にも入ってもらっています。オフィシャルサポーターというのは協賛企業ですね。日本の各社、台湾からも協賛をいただいて、プロジェクトをやっていくことができました。

この「徹底再現」って何なのかという話なんですけど、「完全再現」ではないです。完全再現はやっぱりできません。科学でも全部わかるわけじゃないし、実験航海をやるにも、昔の海と今の海、まったく同じではないですから、完全には再現はできない。だけどできる限り徹底的にやろう。科学のできる範囲で、あらゆることを考えて、たくさんの人が協力してですね。僕自身は、人類進化の研究者ですが、海のことは素人なので、それは海のプロを呼んでやる。それから、さっき言ったような移住のプロセスなんかも研究してもらうんですけど、そういったいろんな分野の研究者が集まって、運営スタッフも入れると60名ぐらい関係者がいる大きなプロジェクトになっています。

●航海の前に、立ちはだかった謎の数々

何をしたかったかというと、最終的に実験航海をやりたい。海に出て、祖先たちが何をやったのか知りたいというのが最終目標なんですが、その前に解かなければいかない謎がいっぱいありすぎた。まずもって、何の舟を使ったかわからないんです。遺跡に舟は残っていないのでわからない。そこから研究をします。いろんな実験を繰り返して、どんな舟だったのかを突き止める。それからモデルを作る。僕らが最終目標にしたのは、台湾から与那国島に渡るというのをやってみようと思ったんですが、これ、どこをやってもいいんですがね、宮古-沖縄間はちょっと謎すぎてやめました。モデルが作れないので。台湾の場合はモデルが作れます。山の上から島を発見しました。海岸に下りると見えないんだけど。それから沖に出るたび、北に流される経験を、彼らはします。黒潮と呼んでいるはずはないんですが、そういう海流の存在を理解して、南の方から出なければいけないというふうに考える。ですが、この範囲というのは、与那国島が海上から見える範囲です。地図に描いたあの円の中に入らないと、物理的に見えないんです。でもこれは、天気が良かったらの話で、実際にはもっと近づかないと見えない。あの円の中に入らないといけないんですが、南から黒潮に流されながら、なんとかそこに入るという、そういう航海にならざるを得ないんですね。そういう仮説を作って、それに基づいて舟を決めて、準備をして、航海をするということを計画しました。当初予想より長くかかってしまったんですけれども、それがちょうど終わったところです。

その前に、やっぱりいろいろ考えなければいけないことがありました。まず、島にたどり着いた、海を越えたのは明らかなんですが、でも本当に航海したのか? 意図的に行こうと思って行ったのか、あるいは単に流されて偶然着いちゃったのか。これを区別しないといけないですね。まず考えるのは、この時期、3万8千年から3万5千年ぐらい前に、次々いろんな海峡を人が渡っているという実態があるわけです。日本の周辺で、対馬海峡を渡っている。沖縄もどんどん渡っているという実態がある。場所は違うんですけど、オーストラリアにも人が渡っています。それは1万年ぐらい前なんですけども、次々と渡り始めている。それが全部漂流なのかというのがまず第一です。ただ、それだけでも、「いや、漂流かもしれない」と言われたら、答えられないので、先には行けないですね。

●航海は「移住」だった

もうひとつ考えるポイントは、この話をするときに、実験航海というと、多くの方が「男のロマン」って言ったりする。それは違います。これね、「移住」なので、男だけで行っちゃだめなんです。だって、そうですよね。男だけで行って、未来はありますか? という話なんです。女性に一緒に行ってもらわないといけない。まあ、行ってもらったのか、自ら「行こう」だったのかわからないですけど、いずれにせよ集団で行かないとできないことが起こっている。実際に沖縄の島でも石垣島でも、女性の人骨も当然ながらあります。幼児の骨も出ていますので、そこで新しい命が生まれる、ということが起こっている実態がある。そうするとますます漂流じゃ難しいかなという話になります。

極めつけの証拠が実はあります。伊豆七島に神津島という島があります。神津島のちょっと先に恩馳島(おんばせじま)というちっちゃな岩があって、この周辺から黒曜石という石が採れます。火山活動でできた天然のガラスなんですが、昔の人が石器を作るのに重宝して、欲しがった石なんです。黒曜石の産地は全国にあちこちあるんですが、そこからみんな運んでいるんですね。黒曜石のおもしろいのは、化学的な分析をすると、産地の同定ができること。黒曜石の産地自体はあちこちあるんだけど、この土地のここの露頭で出るのはこういう科学的な成分って決まっているので、それを分析してやると区別できる。そうしたらおもしろいことに、神津島産の黒曜石が、静岡や神奈川など本州のいくつもの遺跡から見つかるんです。誰かが島に採りに行っているんです。これは漂流で説明できますか。いくら何でも無理ですよね。たまたま神津島に漂流して、たまたま石を見つけて帰ってきちゃいましたなんてありえない。間違いなく往復している。そして意図的です。少なくともここの人たちは往復している、意図的な航海をする能力を持っていた。しかもおもしろいことに、一番大事なのは、ここでさっき出た愛鷹山。愛鷹山のふもとに井出丸山遺跡というのがあるんですけど、第二東名(高速道路)を作ったときに一番下の古い3万8千年前の地層から、神津の黒曜石が見つかったんです。3万8千年前って何の時代でしたっけ? 日本列島に人が入ってきたとき。入ったら、いきなり神津島に行っているんですよ。謎すぎませんか、これ? これはいったい、どういうことなんでしょう。これは推定ですけど、この人たち、探検していたんじゃないかなって考えます。どこかに何かいい場所ないかな、何か得られるものはないかなって。舟を持っているので、見えるところの島——神津島も見えることは見えます——まで行って、何があるか探検していたんじゃないかなと、私は思っているんです。それ以外、説明がないんじゃないかと思いますが、そういうことは起こっていた。ですから、ここの人たちは、最初から舟を出している人たち、ということが、ひとつわかりました。

ただし、伊豆あるいは南関東の人が神津島へ航海していたのはわかるけど、沖縄の人たちは黒潮があるから、それに乗って流されたんじゃないですか、と言うことはできる。特に柳田國男の椰子の実の話ご存じですか? 愛知県の渥美半島にヤシの実が流れ着いているのを柳田國男さんが見つけて、そこから有名な島崎藤村の歌が生まれるんですね。島崎藤村はその椰子の実を見たことはないです、実は。柳田國男からその話を聞いて、「君、その話を僕にくれぬか」と言って、あの有名な歌を書いたらしいんです。とってもいい歌なんですが、でもそこから日本人の起源論になっちゃったんですね。柳田國男さんは、本人も妄想だって言っていますけど、発想力を働かせて、日本の文化と人がそうやって南から漂着したんじゃないかという理論を発表します。以来、それに刺激されて、「南の方から漂流してきた日本人の祖先」みたいな話がにわかにできるんですけど、果たしてそれが本当に起こり得るのかという話を今、台湾大の海洋学の研究者と共同研究やっています。今、ちょうど論文にしているところです。

注目したのは、海洋学の人たちが、海の流れや海水温を調べるのに、漂流ブイというのを使って、ちょっと前の世代の技術なんですが、ブイの先に装置が付いていて、海水温だとかを測って、衛星でデータを飛ばして、それを記録する。この漂流ブイというのは世界中たくさん流れていて、海流の動きがわかる。これを使えば、漂流した船がどうやって動くかわかるんじゃないかと考えました。それで台湾沖を流れたブイを拾って、このブイが何日後にどこに着くかを、今、調べて整理しています。では、データをちょっと見てください。果たして沖縄にブイは着いてくれるでしょうか(それる)。
受講生全体:ああ~。
海部:どうですか。まだ漂流説を信じたいと思いますか。これが現実です。こうやって、データで、全部証拠で示していくんですけど、これが海流の流れです。漂流説を言うときに、どうしてもゴミの漂着だとか、そういう話で、漂流説を考えちゃうんですけど、まず人間はゴミじゃないし、椰子の実じゃなくて、長時間耐えられません。ゴミなんて何年かけてそこに着いたかわかりゃしないわけですね。海は有限で無限じゃないですから、時間がたてばどこかに着くんですよ。そういうことは起こります。ですが、短期間で見ると、実は簡単には島に着かないことがわかります。データを見ると、一部のブイはトカラの方にいます。九州の方にも漂着するケースがあります。じゃあこれ、漂流でそこまで行ったのかなって思いたくなるかもしれませんが、何日かかると思います? けっこうかかるんです、実は。これもブイで全部わかるんですが、だいたい20日から30日かかります。移住には、ある程度人数がいないといけないんですよね。たぶん食べ物もそんなに載っていないですね。最近の大きな船だったら、食料、水をいっぱい積んでいるから、それで漂着しましたっていうのは大丈夫なんですけど、歴史時代の舟、そんな大きい船じゃないです。仲良くみんなでつないで、20日、30日耐えられるかどうかと思いますね。そういったことがあって、実は漂流説は相当難しいということが言えそうです。

そうすると意図的にどうも渡っているとしか考えられないんですが、まだ問題がある。3万年前の海流、今の海流と同じじゃないでしょうと。それは確かにそう。なので、今、それを調べています。さっき言いましたとおり、海底コアの分析などで、あそこを流れていることだけはもう、ほぼ間違いない。必ず東シナ海に入っているんですが、強いか弱いか、どれくらいの流量か、これはわかりません。そこで今、やっているのは、この間、NHKの番組ではちらっと紹介されたかもしれないんですが、愛媛大の先生たちに協力をしてもらって、みんな海洋学や大気研究のトップの先生たちなんですけど、スーパーコンピュータを使って昔の海流を復元するということをやっています。要は天気予報です。みなさん、天気予報見ていますけど、あれって実測しているわけじゃないってご存じですか。天気予報はスーパーコンピュータで計算させているんですよね。あそこの風が何メートルなんて、そんなデータあるわけない。計測は一部でして、穴の空白は計算させているんです。それで予測もするんですが、それと似たような原理で、過去の海流を探ろうという計画です。昔の大気の条件とかのモデルが、今、相当精度の高いものができてきているので、その昔の条件——海面がどれぐらい下がって、気温がどうこうみたいなデータ——を入れて、コンピュータの中で海流を作り出してしまう。そうすると、どういう流れになるかがシミュレーションできるというわけです。それを今、やっています。NHKの番組でも言ったので、そこまでは言いますが、海流はあまり変わっていないです、今のところ。ちょっと速いかもしれないっていうのが、実は衝撃的な結果らしいです。来週またこの打ち合わせをやるんですが、そんなことをやっています。

それから、もうひとつ。何の舟かもそうですけど、舟をどうやって動かすかが問題です。どうしますか、沖縄まで舟で行かなければいけないと思ったら、自分で漕ぎますか? よく言われるのが、「やっぱり風を使わない手はないでしょう」という話があります。ですが、考古学の証拠を見ると、写真は古墳時代の土器に描かれていた絵です。古墳時代の埴輪でも舟の形をした埴輪が、いくつか出ています。どれを見ても帆の証拠がないんです。弥生時代にも、古墳時代にも、帆が使われていたというはっきりした証拠はない。怪しいやつはあるんですけど、あまりないんですね。明らかなのは、オールみたいなのがたくさんついている。つまり漕ぎ舟であることは明らかです。つまり、帆はもしあったとしても、補助的な役割しか果たしていなくて、主力ではないんですね。どういうことかというと、現代のヨットは風だけで動きますよね。ヨットにオールはついてなくて、最近のはエンジンがついている。ヨットって実は船底にどでかいキールというセンターボードが刺さっていますけど、あれは横から吹いてくる風で横流れを防ぐための装置なんですけど、そういうふうに船体の構造を変えてやらないと、風を制御できないんですね。単純なのは追手の風、後ろから吹いてくる風に、帆を上げれば、それで前に進むのはいつでも使えますが、問題は、風は思ったとおりに吹いてくれないということですよね。横から吹いてきたらどうしますか。前から吹いてきたらどうしますか。だから風に頼れないんです。一番原始的な技術は、やっぱり人力なんです。人力って一番安心なんですよ。だって自分でやるんですから、これが一番安心なんです。風を使いこなせるようになるには、もうちょっといろんなことを発明しなくてはいけなくて、その歴史は意外に新しい。世界で見ても、最古の帆の証拠は、エジプトで5000年前くらいです。日本には縄文時代の丸木舟が、たくさん出ていますが、帆の証拠は一個もありません。

そうすると、まして人類が最初に海に出た旧石器時代、いきなり風で行くとは思えないわけです。風で行く実験航海をやっていらっしゃる方もいるんですけど、あれは帰れない舟です。僕はそういうモデルはあまり現実的じゃないと思っているんですね。海に出たときに、「あ、今日は危ないな」と思ったら、帰るはず。それができる舟じゃないと。帰れない舟に誰が乗りたいかっていう話です。

●何の舟が使われたか?

ではいよいよ、何の舟かです。舟は遺跡に残っていないのでわかりませんが、候補としては、いろんな民俗例=世界でどんな舟が作られているかを調査していって、ひとつの条件として、地元で材料が取れないとだめです。輸入できないので、地元にある材料を使う。それから当時の技術で作れないといけません。道具は遺跡に残っていますので、石器だとかで実際に作ってみる。作れれば、まあいいだろうと。縄文時代に丸木舟が存在するのはわかっています。舟がちゃんと(遺跡から)出ています。縄文時代の丸木舟が160艘ぐらい、全国で見つかっているそうです。その次の段階の、準構造船というんですけど、丸木舟に板を継ぎ足していく技術は、まだないです。それがその次、弥生時代に入ってくる技術です。まだそれはないので、丸木舟まではあってもいいけど、それを超えちゃいけないというふうに蓋をします。

最後に、実際に造って海に出して機能するかどうかを調べます。この4つの条件全部クリアする舟を探してやろうということになりました。事前の候補で、まず丸木舟。丸木舟が最高の舟です。それよりもうちょっと下のランクの舟として、草の舟、いわゆる葦舟と呼ばれている舟と、竹の舟、これを試すことにしました。最初から僕はやっぱり丸木舟はないだろうと、実は思っていました。2016年に始めたときは、「丸木舟はないでしょう」と言ってたんです。最初から縄文人と同じものを持っているって、にわかに思えないですよね。もうひとつの問題は、旧石器人が丸木舟を作れるのかという話なんです。太い木を倒さないといけないわけですから、それができるのかという問題がある。ですから、草から始めました。与那国島にヒメガマといういい草が生えていて、これで実験を始めました。動画があるので、ごらんください。

(動画ナレーション)
沖縄の孤立した島々に初めて人類が現れたのは、今からおよそ3万年前。祖先が成し遂げた大航海を研究し、再現するのがこのプロジェクトです。2016年4月、日本の国立博物館として初めてクラウドファンディングに挑戦し、成功した私たち。太古の祖先たちの大航海の謎に迫るため、最初の実験活動を開始しました。3万年前に存在した可能性がある舟の中から、私たちが今回のテストに選んだのは草の舟。与那国島の湿原に生えている、ヒメガマという草。これを刈るところから舟づくりが始まります。炎天下での作業は大変でしたが、海へ出るために祖先たちもたくさんの汗を流したに違いありません。紐に使うのは、島に自生しているトウツルモドキという蔓植物。これで草の束を作り、舟の形に仕上げていきます。強く縛ることにより、草舟に浮く力が与えられます。こうして2艘のヒメガマ舟が完成しました。地元の与那国島や、西表島の男女を中心とする漕ぎ手たち。出港準備が整いました。風や星を使って方角を割り出し、舟の進路を定める航海です。しかし巨大な台風1号が通過したあと、海が荒れ、出発できない日が続きました。待つこと1週間、そして迎えた最終日。「行きましょうか」「はい」「じゃあ行きますよ。西表まで目指すぞ、行くぞ」「おお~!」
2日分の水と食料を積み、30時間以上こぎ続ける覚悟で舟に乗り込みます。3万年前と同様に、時計やスマートフォンは持ちません。いよいよ出航です。難関のリーフを見事に越えました。太古の祖先たちの海への挑戦を探る草舟の航海。6千年前の縄文時代のものを参考にした櫂には、支援者の名前が記されています。出発から4時間後、オキゴンドウクジラの群れに迎えられました。ところがこのとき、予期せぬことが起こっていました。「本舟のペースが予想以上に遅く、相当北に流され始めています」
海流が普段より強まっており、舟が流されていたのです。漕ぎ手たちはその事実を認識していましたが、強い流れには勝てませんでした。航海の続行はあきらめ、悔しさいっぱいで伴走船へ乗り移る漕ぎ手たち。海流の変化を読めず、天気にも恵まれなかった今回の航海は、うまくいきませんでした。しかし祖先たちは、そうした困難を乗り越えて、島へたどり着いています。3万年前の航海の謎に迫る私たちの模索は、まだ続きます。(動画終)

これが2016年の実験でした。クラウドファンディングに成功して、意気揚々と与那国島へ行って、いきなりこれだったんですね。僕もさすがにショックで、ちょっと東京に帰りたくないなと思いました。でも戻ったら、支援してくださった方々が、誰も非難なんかしなくて、「もっと頑張って」っていう感じだったので、とても勇気をもらいました。動画でも最後に言っていますけど、やっぱり祖先たちも最初から全部できるわけじゃないですね。少しずつなんかやって、できることが広がっていって、大きなことにチャレンジするんだと思うんです。結果的には僕らもそういう道をたどったのかなと思っています。まったく偶然なんですけど、草から始めて、次に竹でもまた失敗するんですけれども。そうやって一歩一歩積み上げていった感覚を、今、持っています。モニターに出している図が草舟の航跡です。与那国島を出て、西表島を目指していましたが、あっという間に北に流されたんですね。舟が沈没したっていう噂があるらしいんですけど、それはそうじゃなくて、流されちゃったんですね。最後のジグザグしているところは、伴走船につなげとめるために、ちょっと右往左往したところなんですけど、何が起こっていたかは、あとでわかりました。

モニターに示しているのが、JAMSTEC(海洋研究開発機構)のスーパーコンピュータで復元した、そのときの海流なんですけど、このシステムのすごいところは、毎時間の絵が出てくることです。普通、気象庁が出しているのは、日平均の粗いやつです。これは解像度が細かくて、高精度で、毎時間。そうすると、1時と2時と3時では海流が変わっていることがわかるんですけど、これのおかげで、僕らは実験航海の細かい分析ができるようになりました。地図でここに与那国島があります。台湾があります。そして西表島です。ごらんのとおり、これが黒潮なんですけど、図の右にバーがあります。黄色いところに1と書いてあるのが秒速1メートルです。赤いところが秒速2メートル。黒潮本流って呼ばれているのは、だいたい1メートル以上のところをいうので、黄色から赤のところが黒潮本流です。

黒潮は台湾と与那国の間を通っているので、通常はそっち側にしかないんですが、この日は黒潮が非常に勢力を増していて、与那国すれすれまで拡大していたんですね。その一部の流れが入りこんでくるんですけれども、僕ら、これにやられちゃったことがあとでわかりました。海流って見てもわからない。気がついたら流されているんですね。まったく見えないので、僕らはその状況を知らないで飛び出しちゃったんです。

反省点がいくつかあって、やっぱり海を知らなすぎたという反省が真摯にあります。地元の海人(うみんちゅ)とかの話は多少聞いていたんですけど、そういうことの聞き込みを、もっとやればよかったし、そもそも草舟のテストを湾内だけでやって、いきなり外海にボンと出ちゃったので、それはやっぱりやるべきじゃないというのを、あとで思いました。つまり、舟のことと、海のことと、両方少しずつ学んでいくんです。ただ、不運だったとは言いつつ、海流の速さの色を見ると、僕らが最終的に渡るのは赤いところです。この時、行ったところは赤くなっていないから、そんなに強くない。この海流にやられちゃうぐらいの舟だった、ということになります。

草の舟は安定性があって、転覆しないんです。これがすばらしくいいところ。浮力があって安定しているので、乗っている人間は安心していられます。少々無理したってひっくり返らない。実はちょっと、下から水を吸うので、下が重くなって、その分安定する。浮力体としてはとても優れている。ただし、水を吸うということは、スピードが出ないということです。だんだん水の塊になっていくので、スピードが出ない。これが問題でした。つまり、沿岸で魚捕りをするぐらいはいいかもしれないんですが、遠くの島を目指すにはちょっと厳しいかなというのが結論でした。こうやって2016年の実験が終わって、写真は西表島に到着後の記念撮影ですけど、一緒に舟を作って航海をやってくれた西表と与那国の仲間たちです。僕らのルールとして、男と女と一緒にやらなければいけないというルールを課しているので、女性の方々も入ってもらっています。

草の次、翌年、今度は台湾と共同の体制を作って、台湾に場所を移して、向こうで実験を始めます。今度は竹です。竹は東南アジア一帯に広くあるので、もともと人類学者の間で、最古の航海船は竹なんじゃないかっていう、人気の仮説なんです。これはもちろんテストすべき。もうひとつは、台湾のアミ族という原住民の人たちのグループが、かつては竹でいかだを作って、トビウオを捕っていたという伝統を持っています。つまり地元の人が選んだ素材でもあるんです。その意味で、竹モデルは試す価値がある。というわけで2017、18と2回、2カ年に渡って竹を試しました。立派な、生き生きとした、すごい生命力を感じる竹を使って実験をしました。

最初にやるのは、昔の人がこれを扱えるのかという問題です。台湾で見つかっている3万年前の石器で、写真のような太い竹を切ってみました。切れました。僕が思っていたより早く切れました。20分で切れたので、まあ、できるんだなということになりました。このあと全部石器ではやりませんでしたよ。えらい作業になるので、ちょっと、できることわかったら、のこぎりを使って舟は作りましたが、こうやって作ることができます。それから山へ行ってね、竹を探すところから始まるんですが、このプロジェクトは単に海に出るだけじゃなくて、舟を作るところから始めるところが、とても大事です。僕はこれを経験して、とても新鮮なこともたくさん体験しているんですが、逆説的なことに、海に出るには、まず山に行かなければいけないんです。舟を作らなきゃいけないから。そして、植物のことを知っていないといけない。竹のいかだを作るときに、アミ族の長老たちに聞き取り調査をしたんですけど、竹は山にいっぱいあるので、すぐできるだろうと思っていたんですね。みなさんもそう思っていません? ところがそうじゃない。アミ族の長老は、山に3日入って竹を探すっていうんです。舟1艘作るのに。なんでそんなに時間がかかるかというと、いい竹を選んでいるからです。竹もまず年齢が大事だそうで、若すぎる竹、年寄りの竹はすぐ割れちゃう。もろい。だめなんだそうです。だから2歳か3歳の竹がいい。あと太さとか、まっすぐさ、どれぐらいカーブしているだとか、そういうのを見てじっくり選ぶので、竹採りだけで3日かける。あと、切って山下ろしするという大変な作業がありますから、そういうことに時間をかけます。

写真の見事な竹の断面を見ると、この竹の良さがわかるんですが、木質部の部分が薄いんです。太く成長するんですが、空洞が大きい。だから浮力があるんです。これは麻竹(まちく)という熱帯性の竹なんですが、いかだにとってもいい。建築材料には使わないんですけど、竹もやっぱり種類によって使い分けます。アミ族の人たちも、いかだにはやっぱりこれを好んで使います。ただこれ、日本にはないんですけど、実はけっこう身近なんです、この麻竹。ラーメンのシナチクの材料です。今度、シナチク見てください。台湾から輸入って書いてあるんじゃないかと思います。こういう竹を使って、舟を作りました。金属の部分もありますけれど、ひとつひとつの工程が、昔の技術でできるかを確認しながらやっています。協力してくれたのはアミ族のラワイさんという職人さんです。その他、台湾の方に世話になっています。

もうひとつ、僕がびっくりしたのは籐なんですけど、与那国ではトウツルモドキっていう植物で結わえたんですが、台湾にはトウツルモドキはあるんですけど、たくさんない。地元の人は籐を使っているんです。みなさん知っていますよね。だけど、生きている籐、見たことあります? 普通ないですよね。私もなかったんです。見てびっくりしました。台湾に生えている籐は、多くの種類がトゲを持っているらしいんですけど、思っていたのと全然違うわけです。実は僕らが見慣れている籐は、「中身」なんです。トゲトゲの外皮を取り除いて、中から出てくる繊維質の部分を、いわゆる籐細工に使っています。日本に生えていないので、加工された状態で輸入されますから、僕らはほとんど見たことがないみたいですね。こういうことも全部おもしろいです。山に、あの籐を探して採りにいくんですけど、本当に痛い。トゲが刺さるとものすごく痛いです。これを採りにいきます。そうやって採取した籐を加工して縛ったのが写真の結び方です。アミ族流の結び方ですけど、非常にきれいな結び方をします。東南アジアで籐細工をやる人たちは、結びはとてもきれいに仕上げるんですけど、こんなふうに竹のいかだを作っていきました。

できあがったのがかっこいい舟(「イラ1号」)で、見るからに、これなら行けそうかなって思いませんか? 私たちは最初、思ったんです。これは行けるんじゃないか、と。草のあとだったので。意気揚々とテストをしたんですが、結果は、やっぱりだめだったんですね。今度は台湾の南の方、台東県の沖にある、緑島という島を目指すテストをすることになりました。ちょうどいいのが、緑島は黒潮のど真ん中にある。沖合30キロの位置で、遠すぎないし、黒潮のど真ん中にある。かつて、台湾の政治犯収容所が置かれていた場所なんですが、今は観光地です。とってもきれいな島で、滞在したことはないですけど、すごくきれいなところ。太平洋に面した温泉とかありますので、機会があったら、みなさんも行かれると楽しいと思います。私も一回、遊びに行ってみたいところですが、全然遊んでいないんですね、このときは。緑島を目指すのに、黒潮があるのがわかっていますので、まず南に下ってからアプローチをしました。舟は、島を目指すんじゃなくて、東を目指しています。東か、あるいはちょっと南気味に、一生懸命。島は向こうなんだけど、南へ動くわけです。流されるのが、わかっているので。つまり、向こうに向かいながらドリフトしていく感じですね。そうやって、いかに東に行けるかなんです、要は。黒潮が北に流すので。そういう作戦でいったんですが、結局は、緑島に寄り切れずに断念します。海流が見えなかったので、あとでデータで見ていたんですが、このとき、僕は初めて黒潮を見た気がしているんです。3枚の写真でお見せします。わかりやすいので。舟が一生懸命、東に行こうとしています。島は左で、斜めの方向に見えます。その島がどうなるかを、次の3枚の写真でお見せします。これが今の位置。沖の方、遠くに島が見えます。みなさんは一生懸命東に漕いで、流されているわけです。島はね、このあとどんどん近づいていくんですけど、次の瞬間は、島が自分の正面に来てしまいました。
受講生全体:ああ~。
海部:島は大きくなっていますが、寄れていないんです。島が近づいているんだけど、自分の力で近づいているんじゃない。黒潮にやられちゃっている。で、寄れないまま終わりました。ちょうど日没だったので、ここでギブアップということで、おしまいにしました。期待の竹の舟が、やっぱり難しいということになったわけですね。実験自体はこうやって、島にはたどり着けなかったんですけど、得るものは本当にたくさんありました。台湾の人たちが、ものすごい後ろで手伝ってくれたりして、とてもいい関係を築くことができました。台湾の人たちも、このプロジェクトをすごく支持してくれて、いい経験をさせてもらいました。

●草と竹の難しさ

翌年、あの竹の舟、ちょっとごつく作りすぎたかなと考えるようになりました。重かったんですよ。太い竹を使いすぎて。あの舟は5人乗りなんですけど、10人ぐらいいないと持てないんですね。これ、モデルとしてちょっとまずいんです。だって島に着いたあと、陸揚げできない、という話になっちゃいますよね。それは草舟のときからそうだったんです。草舟も重いんですよ。なんで重くなるかというと、大量の草をぎゅうぎゅう縛っているから。草の舟の原理というのは、草一本一本が浮くんですけど、それをさらにぎゅうぎゅうに締めて縛って、気密性を持たせて、それで浮かせているんですね。だからいかに強く縛るかが浮力の鍵になります。その分、重くなります。竹も実はけっこう重くて、乾燥させても重い。「イラ2号」はちょっと軽量化しました。船底構造も単純化させて、いわゆる普通のいかだになったんですけど、スピードが上がるかどうか見たら、全然だめだったんです。今度は浮力不足です。竹を減らしたら、浮力が足りなくて、水がジャバジャバ上にきちゃう。水が触れているところが全部抵抗になるんです。表面積が多いと、全部抵抗です。だから舟ってつるっとしている方がいい。速い舟は磨いたりもするんですけど、どうもだめだったんですね。「イラ1号」っていう前の年の舟よりも遅かったというわけで、竹は厳しいということになってきました。

それからもうひとつの問題、これも体験してわかったんですが、どうしても割れるんですね、竹は。竹は生きているときは水分を含んでいますが、それを乾燥させて軽くして使いますよね。その過程で収縮して割れが走ります。アミ族の長老たちは、割れないようにする技をいっぱい持っているんですね。最初に竹の皮をはぐんです。それから砂の中でゆっくり乾燥させるだとか、灰みたいなのを塗り込むだとか、いろんな技を持っている。実は、虫食いを防いだり、維持管理のために、いろんな手をかけるんです。つまり、竹を採ってきて、結わえて作るんじゃなくて、竹の下処理、前処理の工程がたくさんあるんですね。一部は僕らも真似したんですが、竹の皮をはぐのは石器じゃできなくて、鉄の鎌がないとできないので、その工程はやめました。そうするとやっぱり、割れが防げない。写真でも水が滴っていますが、舟に割れ目があるのがわかります。

割れても、ふさぐ方法はあります。太平洋で広く使われていた技法で、パンノキという木があるんですけど、これの樹脂を採って、熱してふさぐのに使うことはできるんですね。補修はできます。ただ、割れが船の真下にあれば、持ち上げるだけで水が抜けてくれるんですけど、割れが横にあったら、どうやって水抜きします? 船底に穴を開けるしかない。これがもう、本当に厄介。だから舟が割れて、どんどん重くなっていくんですね。結局、草もそうなんですが、だんだん水を吸っていく。竹も割れていく。要するに、あまり長持ちしない。アミ族の人たちも、竹を長持ちさせる前処理をした上で、毎シーズン、終わったら一個一個バラして、陰干しにするんですね。翌年、また作り直すっていうことをやる。そうやって手間暇かけている。それでうまくやれば、5年ぐらい竹はもつらしいんですけど、僕らのやり方だと、とても難しいということになりました。というわけで、竹も諦める。そうすると、あり得ないと思っていた丸木舟しか残っていないですね、という状況です。

●いよいよ丸木舟

丸木舟に入るんですけど、全国の縄文時代の遺跡から、たくさん丸木舟が見つかっています。こういうのを参考にして、縄文時代の最大の大きさを超えないようにしましょうと、そういう条件を課して、昔の舟を想像しました。これはもう、わからないので、あまり考えてもしょうがないので、丸木舟を作ることにしました。最大の問題は、昔の技術で大木を切れるかどうかです。ただ、前から気になっていた石器がある。世界史の授業で、新石器時代の定義が書いてあって、なぜか磨製石器って、けっこう覚えていらっしゃる方がいますね。新石器時代になると磨製石器が出てきます。これは世界の考古学ではそうで、磨製石器って要するに砥石で磨いた石器。ヨーロッパではそうなんです。要するに、新石器時代、農耕が始まると、農地を拡大するために木を伐採したりする。それに使うので出てくるんです。

ところが日本は例外で、旧石器時代から砥石で磨いた石の斧が存在する。日本からものすごいたくさん出ているんです、これが。何に使った道具かというのは論争があったんですが、やっぱりこの形からして木工用具の可能性が極めて高い。そうすると、もしかしてこれを使ったら木が切れるのかなということで、次にそれを実験することにしました。竹の舟と並行して、これを始めていたんですが、持ち手の部分は推定なんですが、木で柄を作って、紐で結わえて斧にします。これをふるったら木が切れるかという実験をやったら、切れたんですね。能登の山で、直径1メートルの杉を切りました。これも共同研究で、首都東京大学(現・東京都立大学)の山田昌久先生との共同研究でやりました。みなさん、写真真ん中の方の衣装に目がいっちゃうかもしれないですけど(笑)、雨宮さんという名人の大工さんです。手挽きで厚さ2ミリに板を切るとか、そういうことをやっちゃう人なんですけど、原始人にあこがれていて、服やものを自作したりして、原始人っぽい生活をしていらっしゃる方です。でも腕はすごい。心はとっても優しい方です。何しろ原始的なものが好きで、山田先生が実験のパートナーにされていたんです。山田先生に話をしたら、雨宮さんとセットで来られて、始まりました。以来、すっかり仲間です。

そして直径1メートルの杉は切れました。手製の斧で6日かかったんですけど、切れました。全部旧石器斧で実はできなくて、僕らも研究途上なんですけど、いずれにしても切れることがわかった。時間がかかるのもわかる。ですが、時間がかかることは、たぶん問題じゃない。旧石器人はそんなに忙しくないはずなので。僕らみたいに期限がどうとか、そういう生活はしていないですから、たぶんそれは大丈夫。ここまでできたら、くり抜きもできるだろうということでやりました。丸太を上野の国立科学博物館の真ん前にもってきて、夏休みにくりぬく作業をやりました。子供たちに見てもらって。この後ろで、クラウドファンディングの勧誘をしました。何しろ僕らの実験は、基本的に与那国とか台湾でやっているので、生で見てもらったのは初めてなんですね。テレビでしかごらんいただけないのを、このときだけは生で見てもらいました。雨宮さんが石斧ふるって作業をしました。

こうやってできた舟で、じゃあもうこれでやりましょうということで、最後の実験です。さっきお話ししましたが、台湾の南の方から出て、与那国の見える範囲になんとか入りたいということです。シナリオとしては、山から島を発見するんですが、そこの話をちょっとしたいと思います。さっき言ったとおり、与那国から台湾は見えるので、僕も見たことあるから、台湾からも絶対見えると思って、一応聞いたんですよ、台湾の人に。「与那国島は見えますよね」って。そうしたら「見えません」と言われた。宜蘭の観光局の人だとか、いろんなところに聞いてもらったんですが、「いや、見えません」。唯一見たことがあるっていう人は空軍のパイロットで、「飛行機で上がった時に見えました」。それは当たり前ですね。

ということで、これは困ったなと。僕自身も、台湾の山に登って、タロコ族って山岳民族がいるんですけど、その長老に聞いたんですね。山の上で育った人たちは絶対知っているだろうと聞いたら、「島はあるんですか?」って言われちゃったんです。もう、唖然として。これ、いったいどういうことなんだろうということで、台湾でアンケートを出してもらった。情報収集のために、見たことある人情報くださいっていうのを台湾でやってもらったら、出てきたんです。写真も入手できました。それで、やっぱり見えるんだということになって、僕自身が2017年の夏に、台湾に行って、ちゃんと自分で見たほうがいいと思って、山に行きました。つまり地元の山岳民族の長老が見えないっていう島が見えるって、いったいどういうことなんだろう。どういうふうに見えるんだろうということを確認しに、自分で行ったんです。それで、でもわかったんです。やっぱり行ってよかったんです。

台湾の地形を見ると、いきなり山なんですね。なんでかというと、フィリピン海プレートが潜り込んでいる。そこでバンッと上がったのが台湾なので、今のような地形をしています。とてもわかりやすいです。中央山脈、海岸山脈っていうのがあるんですけど。東側に大きな山がある。台北市、台中とか台南とか、そういう平地は西の方にあって、大きな町は西の方にある。これは地形の理由ですね。東の方には大きな町はあまりない。扇状地がいくつかあって、そこにいくつか町がありますけど、要するに急峻なんです。だから台湾の東側に行くと、山の風景と海の風景、両方いっぺんに楽しめます。台北の山に登って、そこから与那国の方を見て、どういうふうに見えるのかを見に行きました。4日間、僕は山に入って、電気が入っていないところで、けっこう、つまんなかったです。僕はパソコンを開いていないと中毒症状が出るので、なかなか苦しかったんですが、ずっと山で過ごしました。

写真がそのときの景色です。標高1200メートル。見事な景色で、向こうまで見えた。与那国島が見えるかなと思うと、雲があるという状況なんですね。雲があるんですよ、海にはやっぱり。与那国からは、台湾がでかいから、少々雲があっても見えちゃう。台湾からは、ちょっと雲があっただけで与那国が隠れちゃうので見えないんですね。で、これが全然どいてくれなくて、まったく見えない。行ってわかったんですが、写真は夕方の景色で、西に沈もうとする太陽が背後から向こうを照らしているから、きれいに見えています。ですが太陽が日中上がっているときは、水平線がどこにあるかわからなくなっちゃうんです。蒸気の関係なのか、光の具合なんだと思いますが、遠くの海と空の区別がわからなくなって、まったく見えない。だから日中は見えないですね。見えるチャンスは、夕方か朝。朝は日の出前、ということがわかります。日の出前はチャンスで、僕はこれ、見たかった。結局見られなかったんですが、太陽が昇る前です。昇ったらもう、太陽がまぶしくて見えない。太陽、与那国の方から上がってきますので、昇る前に、雲がないと水平線が見える。そこに島のシルエットが浮かんでいるはずなんです。それを見たくて、毎夜明け前にここに通ったんですが、1回も見られませんでした。まだ見ていないです、残念ながら。そう思って意気消沈していたら、とある夕方に見えたんですね。ちゃんと写真に撮りました。ちらっと、見えているのわかります? 間違いなく与那国島です。ただし、私は双眼鏡の力を借りています。昔の人は目がすごくいいと思いますから、たぶん肉眼でこれを発見したんだろうと思います。

というわけで、島の山の上に登れば、やっぱり見えるんですね。ただし、本当にある意味幻の島です。本当にちょっとしか見えない。下りると見えなくなっちゃうわけですから。今でも謎なのは、どうして行こうと思うんだろう……というところは、ずっと悶々としています。僕は見えてすごい興奮しましたけど、じゃあ「あそこに行く」と思うかっていうと、どうなのかなと思っちゃいますが、こんなふうに島の存在は発見できます。

舟も準備できましたので、今度は漕ぎ手の5人です。写真の5人に乗ってもらって、いよいよ本番の実験航海が始まります。与那国島のときはいろんな方に入ってもらったんですが、今回はもうちょっとなんていうかな、「漕ぎのプロ」の人たちが入っています。結局、丸木舟はとても操作が難しいので、漕ぎ慣れていないと操作できないんです。当時の人は、自分たちの舟だから乗り慣れていると考えるべきですよね。このあとちょっと映像を見ていただきますけど、海ってどんどん変化していきます。それを読み取らないといけないんですね。単に舟を漕げるだけじゃなくて、海がわかる人じゃないと、この航海はできないというのがわかると思います。漕ぎ手の、先頭の宗さんは台湾の方です。あと4人は日本人ですが、女性は今1人ですけど。実際のときは、本当は1人じゃまずいです。おそらくこの5人乗りの舟であれば、船団で行くんだと思います。僕らは1艘だけで行くことにしましたが、こうやっていよいよ本番が始まりました。

●実験航海のルール

ルールは単純。3万年前にできなかったことはしないというのが基本ルールです。ただし安全対策は除きます。まず昔の人はコンパス、方位磁石を持っていません。地図もない。GPSもスマホもありませんので、そういうのは持っていきません。時計も持っていかない。全部自分の目で、陸を振り返ったり、太陽を見たり、星を見たりして方角を割り出す。自分の位置をそうやって割り出すわけですね。波とか風とかそういうのも大事です。鳥も大事です。鳥は太平洋の航海者たちが昔から使っているんですけど、一部の種類の鳥は、毎晩陸に帰るんです。だからその種類の鳥を覚えておけば、それを見たら陸が近いということです。ただし間違えたら大変ですよ。海で夜を過ごす鳥に、間違えてついていったら大変なことになりますので、ちゃんと知っていないといけない。それからもうひとつのルールは、交替しない。3万年前の人は交替できません。疲れたから替わってほしいって言ってもダメです。最後まで自分で行く、というのが基本ルールです。このルールを課して実験をやりました。まだ公開していない映像をごらんいただきたいと思います。

(動画ナレーション)
2019年7月7日、七夕の午後、男女5人を乗せた丸木舟が台湾を出航しました。目指すは水平線の向こうにある与那国島。3万年前ごろの旧石器人がどうやって沖縄の島々へ渡ったのか、その謎に迫る実験航海の始まりです。2016年、2018年と2回のクラウドファンディングに成功して実現したこのプロジェクト。最初に探ったのは、3万年前の舟は何かという謎でした。第一の方法は草の舟。第二の方法は竹の舟。それぞれの舟を作り、テストしました。しかしどちらも秒速1から2メートルで流れる黒潮の海を渡れません。そこで有力になってきたのが丸木舟。私たちは3万年前の技術でこれが作れることを実験して確かめました。しかし丸木舟はとても不安定。海で使えるようになるまで、試行錯誤の連続です。最後に表面の仕上げとして、火で焦がし、石で磨きます。遂に完成。水が入るのを防ぐため、波よけをつけました。
こうして始まった実験航海。いくつもの難関と試練が待ち受けています。巨大な海流黒潮を越えられるか。コンパスなしに進むべき方角がわかるか。水平線の見えない島をどうやって見つけるか。体力はどこまでもつのか。イルカの群れが通過していきます。
方角と時刻を教えてくれるのは、後ろにある太陽。出発から2時間、思いがけず海が荒れてきました。舟が転覆しないよう、休まず集中して漕ぎ続けます。緊張が続く中、夜の航海に入りました。雲の隙間に見え隠れする星を探しながら、なんとか進むべき方角を探ります。空が明るくなってきます。無事に夜を乗り切りました。あとでわかったことですが、このとき丸木舟は黒潮を乗り越えていました。航海に求められるのは体力、技術、経験に加え、強い気持ちと助け合う心です。水をしっかりとらえて前進。しかし前日の奮闘がこたえています。暑さ、疲れ、眠気との闘い。適度に休憩を取り、時に水に飛び込んで、リフレッシュしながら先を目指しました。まだ島は見えません。海の上のどこにいるのか、進むべき方角はどちらか、自分を信じて漕ぎ続けるしかありません。また夜がやってきました。しかし漕ぎ手たちの疲労はもうピーク。島に近いところまで来ているだろうと考え、思い切って全員休むことに。この判断は正解でした。夜が明けると、上空に大きく、変わった雲が現れたのです。その下に島があるに違いありません。そこを目指して漕ぎます。
すると見えました。与那国島です。これまでの準備と努力が報われた瞬間。島の近くに最後の難関、全力で漕ぎ切ります。出発から45時間、225キロメートルを操舵して、ついにたどり着きました。旧石器時代の祖先たちも、同じように、あるいはもっと大変な困難を乗り越えたに違いありません。海という未知の舞台に、昔、新しい世界を切り開いた挑戦者。それが彼らの本当の姿だったのではないでしょうか。(動画終)

というふうに、最後、見事たどり着くことができました。ただし、まだ語られていない話がいっぱいあります。モニターに示しているのが、そのときの航跡です。これだけ見ると、とってもうまくいったように思えるんですが、そうじゃないんですね。まず最初に、ビデオで言っていたように、出発して2時間のところから海が荒れたんですね。計算外でした。あそこまで荒れるとは思っていなかったし、夜になってもそれが収まらない。それから夜に入って、波があったらもちろん危ないです。不意の波を食らって転覆するのが、一番危ないので。ですが、凪いでいれば、夜はそんなに怖くない。星が出ていれば、これはもうむしろ夜のほうがいいんです。夜ははっきり方向がわかるので。ただ、陸が見えないという難しさがあるんですけど。ところが、その頼みの星が見えなかった。雲が出ちゃって、わからないんですね。ちょうど七夕の日だったので、彦星が東に出るんです。これが見えればもう最高です。ところが隠れちゃって見えない。たまにちらっと見えては隠れる、という状態が続いていました。そうすると星が使えないわけですね。そこで、何をするかというと、漕ぎ手たちは、星が見えてわかっているときに、ちゃんと、東へ進んでいます。そうするとうねりがどっちから来ているかわかりますから、それを覚えておくわけです。星が見えなくても、しばらくはそのうねりを使います。あるいは風を使います。うねりも変化しますが、1時間、2時間もちますので、それで進んで、星が見えるのを耐えて待つわけです。そうやって舟を進めて、なんとかもっていきました。実は途中で1回間違えたり、トラブルもあったりしたんですけど、黒潮に流されながらも見事に東の方へ進んで、夜が明けたところで黒潮を越えたんです。

実はそのあとが問題でした。2日目は動画でも言っていたとおり、もう疲れちゃっていた。初日、荒れた海を行ったので、誰も休んでいないんですね。このしわ寄せがきて、もうちょっと体の限界がきていた。あと暑いので、熱中症の寸前まで行って、それでもなんとか耐えていた感じだったんですね。一番ストレスだったのは、島が見えないことです。彼らは、24時間ぐらい漕いだら、島が見えるんじゃないかと思っていたのが、全然見えない。それでストレスがたまるわけですよね。いつまでも見えないので、何を信じていいかわからなくなってきました。こういうときにキャプテンシーが、たぶんとても大事。キャプテンの原君が、自信をもって「向こうだ」というので、それを信じて、みんな一生懸命やるわけです。それも迷ったらもう、苦しくなってくるんですね。ただ、実はちょっとラッキーだった面がいくつかあるんです。ここがポイントなんですが、黒潮を越えたあとに、彼らは黒潮を越えたって気がついていない。わからない。海も荒れていたのでわからなかった。航跡を見ると、黒潮を越えたとたん、ぐっと方向が変わっていますね。丸木舟のスピードが海流に勝っちゃっているんです。それで、一気に東の方に向かい始めちゃった。このまま行ったら、与那国島に着くことはできない。ここが僕にとっての一番のピンチだった。どうするんだ、と。そのまま行っちゃうかもしれない。ものすごく強い風も吹いている。そっち当たるとアウト……ということがあったんですが、このあと、実は方向を持ち直した。ここにちょっと秘密がありました。まあ、秘密のつもりじゃないんですけど。

●いまだに残る謎の数々

なんでそこで方向を変えたかっていうと、僕らの漕ぎ手たちは、いくつか3万年前のルールを破っている部分があるんですけど、ひとつは天気予報を見たりもしています。安全管理のためにしょうがないので。もうひとつは、事前に地図を見て作戦を立てているんです。海流の知識も持っています。黒潮はこういうふうな流れで、どれぐらい行ったら黒潮の本流を抜けるっていうことを知っています。僕がそれまで散々見せていたからなんです。それまでの実験をやるときに必要だったので、地図を見て、「今回の舟の動きはこうだから、黒潮を全然越えられていないね」「黒潮、毎日こんなに変わるんだ」みたいな話をしたから、充分知っている。いまさら忘れろっていったって、無理ですよ、それは。だから、地図を見て、だいたい24時間東に漕いだら黒潮を抜けるから、そうしたら北東の方向に行けば、あの与那国島が見えるサークルに入るという作戦を、実は立てていた。それであそこで方向が変わります。そうしたらドンピシャだったんですね。それはそれで、航海としてはとてもすばらしいこと。何しろ、いろんな難しい条件をくぐり抜けてきました。疲れたときもなんとかしのいだ。なんとか行ったので、本当にすばらしいんですけど、僕がそこに引っかかっている点は、どうしてもあります。ある意味、漕ぎ手たちがしっかり準備をして、あれだけのタフなハードワークをしてくれたので、島にたどり着いたのは、すばらしいことです。本当に彼らを非難するつもりなんてまったくない。本当にすばらしい。僕はずっと船の上から見ていましたから、これは本当に、どう伝えていいのかわからない、すごいハードワークでした。ただ、地図を見ていたから着けた部分というのはあって、逆にいうと、地図がない3万年前の人たちは何をしたんだろうというのが、僕の頭の中ではいまだに謎なんですね。そこはもうちょっと考える余地があります。

あと最後は、漕ぎ手たちが寝ちゃうんですけど、このときに島の方に潮が流れていたんですね。そこは、とってもラッキーなんです。そうかもしれないという予備知識があったから、彼ら実は寝ちゃっているんですが、それも予備知識としてあったので。だけど、いつもそうとは限らないんですよ。潮の流れは変わるので。この時も時間ごとに変わっていました。それが本当に見事に島に運んでもらった。寝ながら運ばれていった。そのあと、ちょっといろんな不思議な勘違いもありました。彼ら、途中で、灯台の明かりが見えた気がしたりしたんです。向こうの方に白い船が見えて、「あれ、日本の漁船なんじゃない? そうしたら与那国島近いんじゃないの?」みたいな、そういう話を舟の上で散々していたんですね。いかにも島を見たかったからという気持ちがいっぱい出ちゃって、「光が見えたような気がする」って言うけど、実は見えるわけないんです。島が見えるサークルの外ですから、灯台の光だって見えるわけがないところで、見た気がして、「あ、やっぱり大丈夫だ」と思う。それで、自分を信じて寝ているんですね。そんなことも起こったりしました。そういう幸運も手伝って、最後、島に連れて行ってもらったんですね。逆に言うと、やっぱり島にたどり着くのは本当に難しいんです。それはもう、僕が思っていたより難しかったというのが、正直な感想です。丸木舟なら黒潮は越えられる。だけど、難しいのは、見えない島を見つけるということだと思います。これは本当に苦しい。要するに速い舟だったら思い通りに進めるんだけど、僕らの舟は海流に右往左往しちゃう舟。そうすると計算もできないわけですね。その海流の流れがわかっていないと。そういった、本当に難しいことなんだなというのを実感しました。

●遠い昔から築かれたものの上に私たちはいる

要は、一番大事なメッセージは、こういうことをしないとたどり着けないところに祖先たちが来ているということですね。ただこれが、誰の祖先か実はわからないんです。僕は日本人の称賛をしているつもりは全然なくて、これは日本人のためのプロジェクトじゃない。かつてあの土地にいた旧石器人が、こういうすごいことをやったという、ひとつの歴史ですね。あの人たちのあとにまた、いろんな人が移住して混血したりするので、最初に来た人が、今の誰かの直接の祖先というわけでは実はないんですが、それは僕にとってはどうでもいいこと。同じ人間がこういうことをやった、ということが大事です。ほかの、神津島に行った人たち、朝鮮から来た人たち、さまざまなことをやっていると思うんですけど、遠い昔から、そうやって築いてきたことがあって、その上に僕らはいるんだっていうことを、この研究をやっていると、すごく思います。そういうところを少しでも解き明かしていきたいと思っています。プロジェクトに興味がある方は、まだあまり情報はないんですけど、ウェブサイトやFacebookとかありますので、のぞいてください。Facebookには、イベントとか、新しいことがあると情報が出ます。この間も、丸木舟が上野公園に来ていたんですよ。そういった情報をFacebookでお知らせします。

それから、ちょっとこれはビッグなお知らせ。動画で、丸木舟の先端に棒が立っていましたね。あれ、3DVRのカメラがついていて、全球映像を撮っているんです。何を計画しているかというと、さっきCGの人類進化を見せました。あれのドームで、この映像を流します。何がおもしろいかというと、漕ぎ手しか見えない景色が見える。僕も伴走船からしか見ていないので、その景色と全然違うんです。自分で漕いでいて舟から見える景色って全然違うんですよ。それがみんなで見られるように、全球シアター、今、用意していますので、ぜひ見に来てほしいと思います。それから、自分もちょっとまた本を書いています(『サピエンス日本上陸 3万年前の大航海』として2020年2月刊行)。ここでしゃべり切れていないことを全部書くつもりですので、興味あったらぜひ、お買い求めいただければと思います。以上です。どうもありがとうございました。

※国立科学博物館「3万年前の航海徹底再現プロジェクト」公式HP で、詳しい過程と最新情報をご確認いただけます。

●質疑応答

河野:ありがとうございました。せっかくですから、質問を受け付けたいと思います。
受講生:ありがとうございました。SWITCHインタビュー(2017年7月、俳優の満島ひかりさんと対談)を見ていまして、共感、応援しています。そもそもなんですけど、3万年前とか4万年前の人が海を渡ろうとした動機って、何なんでしょうか。
海部:いきなりそこに来ますか(笑)。それ、難しいですよね。
受講生:気候変動があっていられなくなったとか、食べ物を求めたとか、何があって「渡ろう」と思うようになるのかと。
海部:ええと……これ難しいのは、本人に聞かないとわからない。その質問に対しては、難しいので、今までずっと逃げてきたんですけど……。ちょっと宣伝になっちゃって申し訳ないんですが、今、本にまとめています。自分の頭を絞って、整理して、「こうだったんだ」という最終的な自分のまとめをしているので、申し訳ない。難しいんです、ほんとに。ただ、僕、いろんな景色を見たので、与那国島が見えたときに思ったこととか、舟で渡って思ったことだとか、それをちょっと整理しています。申し訳ないです。ちょっと、ちゃんと考えたいので。
河野:僕はもともと編集者なので伺いたいんですけど、原稿はもう一応?
海部:いえ、まだ終わっていません。
河野:じゃあ、まさにいま執筆中。
海部:はい、もう最後、まさに詰めです。
受講生全体:(笑)

受講生:大変おもしろいお話でした。NHKの番組を見ていたときに、漕ぎ手の方々はすごく怖かったのかと思ったら、リラックスっていうか落ち着いていたのには、自然と一体感があって、私たちが思うほど怖いわけではなかったというような感想をおっしゃっていたのがとても印象的でした。さっきの、なぜ渡ったかというところとつながるかもしれないんですけど、古代の方にとって、未知の世界に漕ぎ出すことって、われわれが思うよりハードルが低かったのかもしれない気もしていたんです。
海部:なるほど、それ、あり得ると思います。とても大事な話です。
受講生:漕ぎ手の方々は、あの経験を通じてどういうことを考えたかとか、どういうふうに感じられたかというのが、もう少し何かあったら教えてください。
海部:それは僕が彼らに言いたいんですけど、一個忘れているんですよ、彼らは。伴走船がいるんです。伴走船がいなかったら、そうは思わないと思います。それを忘れているんです、彼らは。いざとなったら助けてあげますっていう伴走船がありますからね。

受講生:私もNHKの番組を拝見しました。伴走船に乗って、ずっと見ていらしたと思うんですけど、向きがうまくないときとか、漕ぎ手が疲れているとき、伴走船って本当に伴走するだけで基本的には何も指示をしないっていう状態だったと思うんですけど、それってやっぱりすごくきついことだと思うんです。そういう状況のとき、先生はどういうことを考えていらっしゃったんですか。
海部:これも最初からやっているルールで、そもそも僕が作ったルールですから、そのルール自体はいい。だけど、NHKの番組でもちょっと言っていますけど、コースをそれたときに、あそこで説明していないんですが、あのときにものすごい強風が吹いているんです。気圧配置が、僕らの望んだ夏型にならなかった、なりきれなかった。日本でもちょうど梅雨明けが遅れましたよね。同じ時期でした。で、たまたまその強風に無風帯ができているところに行っているんです。そういう、針の穴を通すようなことを、実はやっているんですね。そこを出ると風速10メートル。それるとそっちに入っちゃうんです。それでちょっと緊張しました。それも安全管理上の理由です。着けなかったら着けないでしょうがないんだけど、それはもう黙って僕ら、ついていくしかないですから。ただもう、それがちょっと怖かったっていうのはありましたね。
受講生:ストップをする判断も、先生がされないといけないんですか。
海部:いや、ストップは漕ぎ手がやりました。
受講生:ストップ、つまり計画を中断する、「ここで終わり」という判断も、漕ぎ手の方がされるんですか。
海部:基本的にそうです。内田さんという人が安全管理担当なので、彼が常に見ていますけれども、原則やっぱり漕ぎ手たちが、自分たちが「行く、行かない。やめる」っていう判断は、全部自分たちでする。3万年前の人たちもそうですから、そういうルールでやっていました。僕らはそれを聞いているだけです。だから原君が「寝る」と言ったときは、唖然としましたね。いちいちそれ、理由は聞かないです。聞くとストレスになっちゃうので。それはもう、よっぽど困憊しているんだろうと思ったから聞かない。という感じでした。

受講生:舟についてお伺いしたいんですけれど、最後、成功した丸木舟で、あのすごい人がすごい一生懸命作っていて、あれもあったから行けたのかなという感じがするんですが、あの舟は、1回きりじゃなくて、何度も使えるものなんですか。
海部:はい、丸木舟ですからもう、もちます。
受講生:じゃあ、島に着いて、しばらくしたらまた次に乗り出していこうといったら。
海部:やろうと思えばもちろんできます。

受講生:舟を作るために山に入らないといけないっていうのが、確かに言われてみればそうだなと思いました。もっと最近の話ですけど、昔から海人族の人が、九州の方から入って、そのあとずっと長野の方に入ってきて、穂高神社とかに上がって、すごい標高の高い山の上で舟を飾る祭りとか神社とかありますよね。あれも、舟を上げたんじゃなくて、山の上で舟を作ってそれを飾ったのか、そんな感じなんでしょうか。
海部:その事例に関して僕は詳しく知らないのでコメントできないんですけれど、ひとつは、そうやって海の民となんとかの民みたいな区別ができていくのは、割と新しいことだと思います。狩猟採集民の研究をやっている人たちに聞くと、そういう区別ってあまりしていない。農耕が始まると、そういうテリトリーができて、はっきり分かれていくんですけど、旧石器時代の狩猟採集民って、たぶん僕らが思っている、そういうのとは相当違うんじゃないかなと思いますね。
受講生:すごく舟を大事にされたんじゃないかなと思うのですが。
海部:それは間違いなくそうだと思います。だってあれだけ時間かかるわけですから。舟を作って、僕らがわかったことのひとつは、やっぱり大変なんですよ、作るの。でも逆に言うと、そこまでして海に出たかったという意味だと思うんですよね、それは。それをいつも感じながらやっていました。

受講生:本筋とは離れるんですけども、柳田國男のヤシの実の話で、黒潮に乗ってきた説をする人がいて、それにのっとって日本の文化的風土ができたみたいな話をいまだにする人がけっこういますけど、柳田國男が書いた当時は、その研究が進んでいなかったのか、研究が進んでいることと、民俗学で調べていることがまったく別なのかって、教えてください。いまだにその話をする人がいるので、ちょっと不思議に思いました。
海部:研究は、それ以降ですね。僕らは割と緻密に検証していますので、海流の動きがどうか、それ、あり得るのか、人数はこうだとか。グループサイズとかそういうこともやっていますが、そういうレベルのことは、柳田國男時代は当然やっていない。柳田國男さんも、「これはあくまでも推察である」と、ちゃんと自分で書いています。根拠があって言っているのではなくて、「こういうことを思いついて、魅力的なので書きました」という話なので、強い説では当然ないわけです。そのあと検証して、仮説を、今こうやってブラッシュアップしているところです。

受講生:最初、草の舟で成功しなかったときに、単純に漕ぎ手を増やしたらもっと行けるんじゃないの? って思ったんです。だけど、最後も5人ぐらい。同じぐらいの大きさの舟で、同じぐらいの人数ですよね。そこを増やしたりっていうような発想はいかがでしょう。
海部:実は草の舟のときは、最初5人とか思っていたのが、7人乗れるから7人にしようとなった。実際増やした方が、ちょっとスピードが上がるんですね。だけどやってみたら混みすぎて漕ぎにくかったと、あとで言われました。たくさん乗ればいいというものでは、実はありませんでした。スペースの問題があって。

●人間って、やらなくていいことをやる生き物

受講生:変な質問かもしれないんですけど、舟に装飾みたいなことってしていなかったのでしょうか? 動物を描いたり彫ったり、そういうのを舟にはしている暇がなかったのか、それとも何かやっていたのでしょうか。
海部:やっていて全然おかしくないと思います。むしろやっていたんじゃないかなと思いますけど、僕らが下手にやると、「それは何の意味があるんですか」と、そっちに注意が言っちゃうので(笑)。だから僕らはやっていないですけど、民俗事例を見たら、人間はそういうことってやりますので、やっていて全然おかしくないと思います。ただ、縄文時代の舟でも、そういう証拠はまだ見つかっていません。
受講生:ちなみに、なんで装飾みたいなものをわざわざ、やると楽しいかもしれないけど、大変だと思うのに、なんでやっていたんだろうって思うんです。
海部:また難しいことを(笑)。いや、でもそれはある意味、人間の本質的な話だと思います。結論的なことを言うと、これひとつじゃないんですけど、人間ってね、やらなくていいことをいっぱいやる生き物だと思うんです。飾るのもそうです。みなさんも今日家を出るときに、服をどうしようかって考えたと思いますけど、本当はそんなことしなくたっていいんです。というか、ほかの生き物していない。人間だけです、余計なことをしているのは。海に本当は行かなくたっていいんです。でも行くんですね。洞窟の中に入らなくたっていいのに、やるんですよね。余計なことをたくさんするのが人間かなっていう気がしています。だからそこがおもしろいというふうに、僕は思っています。
受講生:なんかかわいいな、人間と思いました(笑)。

河野:最後、どなたかいらっしゃいますか。
受講生:本質じゃない質問で申し訳ないんですけれども、最初の方にあった骨の彫刻で、ウシで、私が見た感じでは鼻輪があるように見えたんですけども、鼻輪だったらもう家畜化していたということでしょうか?
海部:そういう解釈はないですね。家畜化はまだない。
受講生:じゃあ、あれは僕に鼻輪に見えただけで、鼻輪ではない、と。
海部:そうですね。そういう説はあり得るかとは思いますけど。家畜の起源というのはおもしろくて、たとえばイヌの家畜化がけっこう早いんじゃないかとか、そういう議論はあります。シベリアに行くときに犬ぞりが発明されると、あっという間に行動が広がりますよね。割と古いんじゃないかという説もあったりします。わからないですけど。

河野:このあたりでよろしいですか? 今日はどうもありがとうございました。
海部:ありがとうございました。
河野:最後、ご紹介くださいましたけど、その舟の先につけた映像は迫力あると思いますし、今日も映像を見終わったあと、拍手したそうな方も何人かいらっしゃいました。360度シアターで見るとさらにそういう思いがしてくるんじゃないかと思います。海部さんのご本も年明け刊行ということで、ぜひそれも頭に入れておいてください。
(おわり)

受講生の感想

  • 旧石器時代に生きたひとびとの気持ちに思いを馳せながら、古代ロマンに浸らせていただいたひと時でした。 文明の違いはあっても、古代の人も物を作り出す芸術家であり、その模様や形に美しさを感じる感性は、もしかすると今の私たちよりも鋭い感覚を持っていたのではないかしら、と感じました。なぜ作るのか、なぜ遠くに見える島へ行くのか、という問いは、なぜ生きているのか、と同じくらい人それぞれに答は千差万別ではないかと思います。答はない、といいますか。それにしても、海部先生率いるみなさまの、古代人になり切り、夢を叶えるためのひたむきさには感動いたしました。海部先生が、「人間はそもそもやらなくて良いことばかりやる生き物だ」とおっしゃったのも印象的でした。いろいろと考えさせられる講義でした。

  • 小さいころ、私の先祖は「黒潮に乗って日本に流れ着いた」と聞かされていました。 そんなわけで、黒潮はむしろ「越えなければいけない壁だった」という事実に驚いています。 先祖はどうして海を越えようと思ったのか。いまだにわからないのが残念です。日本に上陸した第1号に関しては、事故か何かで流されて 生き残ろうと舟を漕いでいたらたどり着いたのではないかと思いますが、実験航海を見る限り、移住を目的とした集団なら沖縄の存在を知り、かつ航海のノウハウがある程度なければ出発できないと思います。 ただ、わが先祖の場合は「声の大きい奴が扇動するのに何となく付いて行ったら到着した」気がしてなり ません(笑)。