ダーウィンの贈りもの I 
第12回 岡ノ谷一夫さん

言語・感情・芸術・意識はどう進化してきたのか

岡ノ谷一夫さんの

プロフィール

この講座について

なぜオスは装飾をするのか? なぜメスは交配相手を「厳選」するのか? ダーウィンの「性選択」理論の基本からはじまって、言葉や感情、芸術や文化の話へと進んでいきました。雑談のようでありながら、それがきちんと本論につながっている岡ノ谷節を聞いているうちに、楽しく、ダーウィンの核心に迫ることのできる授業です。(講義日:2019年 11月13日)

講義ノート

岡ノ谷です。「ダーウィンの贈りもの」のⅠというのは、Ⅱもやる気かよって、ちょっとびっくりしたんですが、今日はその第12回の「言語・感情・芸術・意識の起源」。予告では「感情」が入っていなかったなと思うんだけど、感情も入れちゃいました。そういうふうにお話ししていきます。よろしくお願いします。実習の時間、質問の時間もありますので、活発にご参加いただければと思います。

モニターの写真はダーウィンですね。なんでダーウィンはいつもお爺さんなのかと思うんですが、もちろんダーウィンも若いころがありました。1809—1882年。この時代の人にしては長生きをされた方だなと思います。彼の業績、これが「ダーウィンの贈りもの」ですけれども、ダーウィンの贈りものでもっともよく知られているのは、『種の起源』。新訳された渡辺政隆さんも講師でいらしたんですよね。『種の起源』のもっとも新しい翻訳本。ずいぶん読みやすくなっております。もうひとつは『人間の由来』。この講座で『ダーウィンとビーグル号の航海』と題して、ご自身とダーウィンの旅の話をした長谷川眞理子先生が訳していらっしゃる『人間の由来』です。こういった「ダーウィンの贈りもの」はよく知られているんですけれども、今日の話は、『人間の由来』の方が中心になります。あと、『人及び動物の表情について』という本がありまして、この本は岩波文庫から出ていたんですが、絶版になってしまっています。岩波から出ている本は旧仮名遣い、旧漢字で、ものすごく読みにくかったのですが、最近、浜中浜太郎という方が全部和訳しなおしたものがオンデマンド出版で出ていますね。韻を踏んだ名前の方です(笑)。この方の翻訳で読むことは可能です。これらのダーウィンの贈りものの中から、文章をいくつか抜いて書いてきました。

・オスの数がメスの数を上回るのならば、性選択はいとも簡単に起こるだろう。
・言語:音楽的な発生を音節化された音でまねることから、さまざまな複雑な感情を表現する単語が生まれたのかもしれない。
・感情:異なった人種で同様な感情のもと同様な表情があらわれるなら、その表情は生得的である。
・芸術:鳥のさえずり声も同じで、愛の季節にあふれさせる甘い調べを、メスは素晴らしいと感じているに違いない。
・意識:動物が自己の心的個性を持っていることは疑いの余地がない。

これらが今日のテーマになります。

性淘汰について

基本的な話として、性淘汰という話があるんですが、それについては性淘汰と言ったり性選択と言ったり、両方言うかもしれないけど、同じものだと思ってください。性淘汰というのは「選ばれなかったものが死んでいく方」で、性選択というのは「選ばれた方が繁殖していく」、両面の見方です。性選択の話ですけれど、ダーウィンはこういうことを言っています。「オスの数がメスの数を上回るのならば、性選択はいとも簡単に起こるだろう」と訳されて、『人間の由来』に入っています。

今日は言語についてもお話しします。『人間の由来』の中で、ダーウィンはすでにこういうことを言っています。「音楽的な発声を音節化された音でまねることから、さまざまな複雑な感情を表現する単語が生まれたのかもしれない」。実は何を言っているかよくわからないんですが、それでもどのように頑張って研究しても、結局はダーウィンの言ってる通りかも、となっちゃうというところが、ダーウィンのすごいところです。

もう1冊の本、『人及び動物の表情について』、浜中浜太郎訳の本の中から、感情についてこういうことが言われています。「異なった人種で同様な感情のもと同様な表情があらわれるなら、その表情は生得的、つまり生まれつき」であろう。ダーウィンは実際、これを調べる研究もしています。

芸術につきましては、これは『人間の由来』からですが、「鳥のさえずり声も同じで、愛の季節にあふれさせる甘い調べを、メスは素晴らしいと感じているに違いない」と。これも1870年代ということを考えると、すごい視点ではあるのですが、メスがすばらしいと「感じている」かどうかは、ちょっとわからないですね。基本的に、ダーウィンが言ったことを否定するのは難しいんですけれども、時々、擬人化が過ぎるなと思うところはあります。たぶん動物が好きだったんでしょうね。

それから、「動物が自己の心的個性を持っていることは疑いの余地がない」ということをすでに言っています。これも『人間の由来』ですね。私の研究は結局、自分がおもしろいことを発見したと思って、ダーウィンに戻っていくと、すでに何か書いてあったりする。「俺が発見したことは、ここに書いてあるじゃないか」と思って、ものすごい腹が立つというのが、ダーウィンの特徴ですね(笑)。今日は、まず基礎知識についてのお話をし、その後、言語、感情とやって、その次に芸術、意識とやって、まとめに入るというふうにお話をしていきます。

ハンディキャップの原理

まず基礎知識から行きます。自然選択と性選択というものを説明します。次に「ハンディキャップの原理」というものを説明します。そして、「機能性比」という考えについて説明し、最後に全部まとめた、「正直な信号」という考え方についてお話しいたします。

まず自然選択と性選択です。「適応度」という考え方をまず身につけてください。適応度というのは、「繁殖可能になるまで生存し、次世代を残す能力」のことを言います。この概念はとても大事。もう一度言います。「繁殖可能になるまで生存し、次世代を残す」、これが適応度です。自然選択は、『種の起源』で展開されたアイデアですが、以下のようなことです。まず、生物は遺伝する形質を持つ。遺伝子というものがわからなかったころから、こういうことをダーウィンは言っている。そこがすごいわけです。そして、その形質には個体差がある、と。個体差に応じて、環境への適応度が異なる。環境への適応度が異なるので、ある個体は生き残り、他の個体は死んでしまいます。そして、生き残った個体が繁殖します。そのことによって、生き残った個体の持っている形質の一部が、次の世代に受け継がれていきます。これが蓄積することで、変異が蓄積されて、新たな種が生じる。それが「種の起源」だというわけです。これが自然選択です。

たぶんこれまで講師の方々は、自然選択のお話を中心にされていたかもしれませんが、私が今日、中心に置きますのは、自然選択ではなくて、性選択のほうです。性選択は『種の起源』でも軽く触れられていますが、『人間の由来』のほうでかなり、これでもかといわんばかりに議論を進めているものです。

性選択とは、こういうことです。われわれみたいにオスとメスがいる有性生殖をする生き物では、メスのほうが繁殖に割くコストが大きい。このあたり、倫理的、道徳的な判断はさしあたり保留して、話だけ聞いてください。メスのほうが繁殖に割くコストが大きいです。だからオスはメスに選ばれやすい適応度を示す、「私は適応度高い」という信号を進化させるでしょう、と。しかしながら、それらの信号は、往々にして逆に適応度を下げてしまうことになる。ダーウィンが友達に書いた手紙の中に、「クジャクを見ると頭が痛くなる」と書いてあります。クジャクを見るとなんで頭が痛くなるのかというと、クジャクのオスは羽を広げてメスに求愛をするんですが、そうしているうちに、往々にして後ろからキツネに食われちゃうんですね。「おまえ、そんなことしている場合じゃないだろう」と思うわけです。なんでそんなことをするのか、と。しかも、「メスがうっとりして見て」、(これはダーウィンによる擬人化ですね)と言っています。ダーウィンは、性選択という概念は出しました。けれども、論理的に納得のいくように全部論証することはできなかったんです。だからダーウィンの未解決のパズルのひとつが、この性選択です。現象自体は、ダーウィンはもちろんよく気づいていました。

ダーウィン没後50年ぐらいたってから、アモツ・ザハヴィというおじさんが生まれました。生まれたときはおじさんじゃなかったですね。ザハヴィという人が生まれまして、この方がのちにおじさんになってから、性選択の残されたパズルを解くという業績を残しました。その本が『生物進化とハンディキャップ原理』という本で、翻訳が出ていますが、残念なことに、もう古本しか売っていません。『人間の由来』という本でダーウィンは性選択という概念を出して、性選択であろうと思われる、動物の装飾であるとか行動についていろいろ書いています。ザハヴィはそれに対して、なぜそのようなことが進化し得たのだろうかというところまで踏み込んで、この本を書いています。この本の著者、よく見ると、アモツ・ザハヴィとアヴィシャグ・ザハヴィと、ご夫婦で書いていらっしゃるんですね。奥さんも研究者でいらした。私の今日の話は、かなり多くの部分が、このハンディキャップ原理に基づいています。

ザハヴィですが、写真は2006年に私が会ったときのものです。ザハヴィは、つい最近亡くなったんです(2017年)。2006年に、鳥の研究をしている人たちが集まる国際鳥学会がありまして、そこでたまたまザハヴィさんと同じテーブルについて、写真を一緒に撮らせていただきました。この写真を探して20分ほど、いろんなフォルダをあたりました。絶対一緒に撮った写真があるはずだよなと思って(笑)。

ちょっと戻って、先ほどの性選択、『人間の由来』で言われている性選択の概念とはこういうことです。有性生殖ではメスのほうが繁殖に割くコストが大きい。オスはメスに選ばれやすいように、適応度を示す信号を進化させるだろうと。でも、それらの信号は、クジャクの羽のように往々にして適応度を下げることになる。だから「頭が痛くなるぞ」と。これをなんとか説明しなきゃいけないというので、説明したのがこの人、ザハヴィです。ザハヴィが補強した、性選択の概念がこれです。いいですか。

有性生殖では、メスのほうが繁殖に割くコストが大きい。オスはメスに選ばれやすいよう、適応度を示す信号を進化するでしょう。これは同じ。で、これからがハンディキャップの原理です。「そのような信号は、生存に不利になる性質を持つがゆえに」、「がゆえに」ですよ、「適応度を示すことができる」。クジャクは羽を広げてメスに求愛しているときに、うしろからキツネに食われることもあるけれども、羽を広げて求愛するということが、そのクジャクの適応度が高いことを示している。つまり、キツネがうしろから近づいてきたらパッと逃げることができる俊敏さとか、クジャクの尾羽は大きくてきれいだけれど、あれに寄生虫がついていたら台無し。だから、寄生虫がついていないことを示す。寄生虫がついていないのは、免疫力も高い。羽を広げて、右と左が左右対称であることを示すとか、いろいろな要素がこの求愛のディスプレイに含まれているということです。

ダーウィンは頭を痛めたけれど、「生存に不利になる性質を持つがゆえに、だからこそ適応度を示すことができる」。これがザハヴィの解答です。ザハヴィの解答は1975年ぐらいに出されたんですけど、みんな「この人、大丈夫か?」と、いろいろ誤解を受けました。でも、1990年代に入ってから、アラン・グラフェンという方と、日本の巌佐庸(いわさ・よう)という当時九州大学にいらした先生が、ザハヴィのハンディキャップ原理を数学的に証明しました。たしかにそういうことは起きると、数理的に証明しました。そのあとから、性選択についての研究が本格化してきています。

生存に不利になる性質を持つがゆえに、適応度を示すことができる。これがハンディキャップの原理です。ハンディキャップという言葉は、日本語だと難しいのは、障害に結びつけて考えられやすいんですけど、英語のハンディキャップというのは、障害があるというよりは、「余計なものを持っている」という意味です。そのような意味で、ハンディキャップをとらえてください。そのハンディキャップ、生存に不利になるような性質を持つ、そういう形質を進化させることによって、自分の適応度を逆に示しているわけです。婚姻に際して、メスはオスのその信号に基づいて選択するということが、いろいろな動物で示されています。

ザハヴィが1975年に提案したハンディキャップの原理は、装飾、飾りの進化に関する理論で、余計な装飾を維持することで、むしろ適応度を直接に示すことができるというものです。クジャクの上尾筒(じょうびとう:尾羽の付け根を上から覆っている羽根)や小鳥のさえずりなど、オスの装飾の進化は説明することができるということです。絵で示したサッカーの選手を見ますと、一人の選手には重りがついていません。もう一人の選手の腕には重りがついています。二人の選手が同じぐらい活躍したとしたら、実力があるのは重りがついている方だってすぐわかるわけですね。重りが両方ついていないとすると、互角にやっているのかどうか、ちょっとわからない。でも重りがついているのにサッカーで互角に戦っているとしたら、「こいつはきっと重りを取ったらすごいだろう」というのは直感的に伝わる。

このへんの説明は、わかりやすいようにあえて擬人的にしています。でも実際には、動物の意識体験とは別であると考えてください。動物のメスが、あ、この場合、女性が「うわ、この重りをつけた人、素敵!」と思っているかどうかはわからない(笑)。でも、結果として重りをつけた人を選ぶと正解なわけです。同じように、しょぼい羽根を持ったクジャクと立派な羽根を持ったクジャクの場合、やたら飾りをつけているやつを選んだほうが、長期的には自分の遺伝子は、そのオスの遺伝子とくっついて、より広く拡散する。つまり適応度は上がるわけです。だから自分の適応度はちょっと下がる危険があるけれども、結果的に、自分を構成する遺伝子はより広がっていく。そういうような形質を「ハンディキャップ形質」といって、だからオスはこういう飾りを持っているんだという考えが、ハンディキャップの原理でございます。ここが難しいところですが、腑に落ちた人? 腑に落ちない人? 腑に落ちない人は、この先、腑に落ちるように、いろいろなものをお見せします。

たとえばカブトムシも、ツノが生えています。邪魔ですよね、こんなツノ。生えているから、捕まえられちゃうんですよね。シカのオスのツノも、一応シカ同士で戦うわけですが、戦うことよりも、メスに対して「ほら、こんなツノ生やしているのに生きてるんだぜ。俺、すごい?」って。ただし、何度も言いますが、動物が意識体験を言語化しているわけではありません。そして鳥。多くの鳥が、オスに派手な色がついているけど、メスは地味ですね。これは、オスが「俺、きれい?」という感じで、メスは「うわあ、素敵」という感じになると。それは先ほども言いましたように、要するに、きれいな装飾を維持することが、免疫力が高いこと、寄生虫がついていないこと、生まれつき敏捷性が高いこと、それから発達の過程で、栄養が十分であって、左右均等に育っていること、そういったいろんな情報を一気に伝えるわけです。ちょっと前に、『人は見た目が9割』という本が出ましたが、見かけをバカにしてはいけない。「内面がいい人がいいわ」とか言っても、実は見かけなんです、大事なのは。人間は、見かけだけで判断しちゃだめですけどね、動物ですと、ほぼ見かけで判断していいです。ちょっと政治的に正しい発言をしただけですね(笑)。

なぜオスに装飾が進化するか?

ここで「機能性比」という概念を身につけていってください。なぜオスに装飾が進化するのかというのを考えるのが、機能性比です。

まずオスとメスとは何かというと、生物学では、「配偶子が大きい」ものをメス、「配偶子が小さい」ものをオスと言います。配偶子が大きいほうが、生殖にコストがかかる。卵のほうが大きいし、卵には栄養がついています。卵を持ったほうが、ほ乳類の場合は受精した胚をおなかの中で育てたり、鳥類の場合は卵を温めたりするわけです。メスのほうが生殖コストがかかるというのは、それでわかりますよね。でも性比は1:1。ダーウィンが『人間の由来』の中で、いろんな動物について調べていますが、有性生殖をする動物では性比はだいたい1:1です。なぜ1:1になるのかというと、ある世代でオスが多ければ、メスを産むほうが有利(適応的)です。次の世代でメスが多ければ、オスを産みやすい形質が有利になります。こうやってぶれているうちに、だんだんと1:1になっていく。だからオスとメスは基本1:1いるわけですね。

では、なんでオスに装飾が進化するのかというと、生殖の機会はオスのほうが多い。オスとメスは、個体数を数えると1:1なわけですけども、生殖の機会を考えると、オスのほうが生殖の機会は多い。なぜかというと、メスは抱卵や妊娠をします。その間、他のオスと生殖することができません。オスは相手のメスが抱卵、妊娠中も、他のメスと生殖することは可能です。倫理的なところはさておいて、そういうことです。だから機能的にみると、性比は1:1ではないんですね。なぜかというと、オスはより多くのメスと生殖しようとし、メスはオスを厳選しようとします。だから個体数を数えると、オスとメスは1:1だけれども、オスのほうが生殖の機会が多いから、結果的に、機能的にはオスのほうが多いという状況になり、多い方が少ない方をめぐって争う、これは普通ですよね。だから争うのはオス同士で、選ぶのはメスだとなります。

こういう話をすると、往々にして、「いやあ、うちは、私が妻を選びました」とか言う人がいるんですが、「それはよかったですね」としか言いようがない。これは統計的な話です。お宅の事情と違って、もっと大きな、永い永い時間の話です(笑)。ということで、オスのほうが機能的には多い。だからオスが余る。だから余ったやつ同士でメスをめぐった争いがある。争いというのは、実際に喧嘩をする場合もあるけれども、メスに選ばれやすいような、そういう信号を発達させる場合もある。そういうことでございます。

「正直な信号」とは何か?

これを拡張したのが、「正直な信号」という考え方です。正直な信号というと割と普通の言葉ですが、生物学、進化生物学のテクニカルターム(専門用語)として使っています。

「正直な信号」というのは、ハンディキャップの原理を拡張させた考えだと思ってよいです。ここでは「コスト」という考えが大事です。私はカタカナ英語が嫌いなので日本語にしたいんですが、コストは難しいですね。栄養や時間や安全など、「生物学的に無駄遣いできないもの」のことをコストと言います。だから「コストがかからない信号」、つまり「嘘がつける」とか、編集が可能な信号はその個体の資質を示さないけれども、「コストがかかる信号」は、その個体の資質を示します。クジャクの羽は、栄養からいっても、それを生やしておくのにコストがかかるわけですよね。生やしておくことによって、うしろからキツネに食われる可能性があるので、危険なコストがかかります。羽を広げている暇があったらエサ探したらどうかと思うわけで、時間もコストになります。それらを全部ひっくるめても、それでも羽を広げているやつのほうが、適応度が高い。しょぼい羽のやつよりも、羽を広げているやつのほうが適応度が高いことが、意識するかどうかにかかわらず、メスに簡単に一瞬に伝わるわけですね。

あとで出てきますけど、メスがオスを選ぶ際の、「認知的負荷」というのもあります。もし、ある人と5年間つきあった挙句、ろくでなしだとわかったら嫌じゃないですか。メスの方というか、女性の方ですね。もし5年つきあっていて、4年半ぐらいのところで「あ、この人ろくでなしだ」と思ったら、「4年半を返してくれ」って言ってもしょうがないですよね。パッと見て、「この人、大丈夫だ」となれば、その人と交配して、子孫を作るほうが、長期的には正しいわけですね。そういうことです。

コストのかからない信号というと、クジャクが羽を広げているけれど、クジャクにはそんなものはないけれど、付け羽だったりすると、それはだめですよね。他に、コストのかからない信号というと、オオカミが来ていないのに、「オオカミが来た~!」って毎回言っていると、信じてもらえなくなりますね。それはコストがかからない信号。オオカミが本当に来たときに困っちゃうわけです。だから「オオカミが来た!」と言う以上は、本当にオオカミが来ていないとだめで、つまり身を危険にさらして「オオカミが来た!」って言えば信じてもらえるけど、そうじゃないと信じてもらえないという、そういう考え方です。

コストがかかる信号を「正直な信号」といいます。コストは何かというと、栄養や時間や安全など、無駄遣いできないもの、こういうのを無駄遣いしちゃうことがコストです。コストのかかる信号を「正直な信号」と言いまして、信号を受ける側は、多くの場合メスになりますが、信号の正直さに敏感で、「これは本当かどうか」というのに敏感です。信号は行動としても出現します。

いろいろな「正直な信号」がありまして、オスからメスへの誇示について話してきましたが、それだけではなくて、被捕食者、つまり食べられる側から、捕食者=食べる側にも信号を出しています。そういうのは逆に、選択されない、つまり「食われないための信号」を、食べられる側は出していることが知られています。後でビデオを出しますが、ライオンに追われるトムソンガゼルは、あえてぴょんぴょん飛んでみたりします。これは、「私は元気だから、つかまらないよ。他の奴にしたほうがいいよ」というメッセージをライオンに伝えているのです。

それから「社会的な階層の維持のための信号」。無駄な争いを避けるために、一度上下が決まったら、ずっとそれを維持するための信号というものがあるわけです。こういうものをみんな、「正直な信号」と呼びます。性的な信号も正直な信号で、オスの装飾は生物学的な適応度を示します。カニのハサミとか、鳥のさえずりとか、そういったものは、性的な文脈での「正直な信号」だというわけです。

『理由なき反抗』っていう映画、知っている人? ジェームズ・ディーンの映画って、改めて進化生物学的に見ると、いろいろ示唆が多いんですよ。でも、ハンディキャップ原理が発表される前だから、監督は実はハンディキャップ原理に気がついていたのかと……まあ、そんなことないな(笑)。映画の中に、チキンゲームというのがあります。一人の女性をめぐって争っている二人の男が、ボロな安い中古車を買ってきて、車に乗って崖まで走って、先に降りたほうが負け。これがチキンゲームです。これは本当にハンディキャップ原理です。無駄なことをやることで、自分の資質の高さを示すということを、この子供たちはやっている。女の子は、「誰も死にませんように」って祈るんです。笑い事じゃないんですよ。青春ってこういうものでしょ。チキンゲーム的には、ジェームズ・ディーンのほうがチキンです。先に降りちゃった。けど、もう一人は、降りようとしたんだけど降りられなかったんですね。それで、そのまま死んじゃった。死んじゃしょうがないわけです、いくら勇気を見せても。ジェームズ・ディーンは、事前にドアの具合を確かめている。そこが巧妙ですよね。

次の画像は、食べられる側です。トムソンガゼルという動物が、ライオンに狙われています。逃げるガゼルのうち、何匹かは飛んでいるわけです。すごい飛んでいる。「なんでぴょんぴょん飛ぶんだろう、逃げながら」って思うじゃないですか。でもこれは、「俺はこんなに元気だ。生命力にあふれている。俺を狙うとエネルギーの無駄。俺じゃないやつを狙うほうがいいよ」っていうメッセージではないかということです。

次にハダカデバネズミです。ハダカデバネズミは真社会性といって、女王がいて、兵隊がいて、働きネズミがいるという社会を作っているネズミで、ケニアのサバンナの地下10メートルぐらいに棲んでいます。カーストがあるわけです。女王が一番偉くて、兵隊ネズミが次で、最後に働きネズミ。誰が偉いかを、毎回ブヒブヒ戦っていたらしょうがないので、彼らが進化させた手段というのは、鳴くことです。「ヒュイー、ヒュイー。フィー、ピィー」って鳴くんですね。体が大きければ低い声で鳴けます。体が小さいと高い声でしか鳴けません。だから低い声で鳴く奴のほうが偉い。だから自分より低い声で鳴く奴が向こうから来たら、そいつに上を通らせる。そして、自分は下を通ればいいということをしているわけです。動画を見ると、何回かピーピー鳴きながら上を通ったほうが女王で、下を通ったのが働きネズミです。こうやって、社会階層を維持している。これも「正直な信号」です。体がちっちゃいやつは、絶対に低い声は出せません。逆に体が大きいやつは、その気になれば高い声は出せます。安田大サーカスのクロちゃんみたいに、大きくても高い声は出せるんだけど、ちっちゃくて低い声を出すのは難しいんですね。だからこれは「正直な信号」だということです。というわけで、「正直な信号」というもの全般について学んでいただきました。

言葉は何から始まったのか?

次に言語の話をします。私はダーウィンの『人間の由来』に出てくる「言語の歌起源説」というものを掘り下げています。なので、その話をします。でも歌起源説ばっかりだと、みなさん「これはどうか?」って思うかもしれない。そこで「身振り起源説」というものを出します。そして、新しい説というのを出すんですが、要するに歌起源説と身振り起源説をくっつければ新しい説になるんじゃないかという話。最後にちょっと、伝言ゲームをやっていただいて、人間の言語が多様化したのはなぜかという感触を持っていただきたいと思っています。

言葉の「歌起源説」というのがあります。言葉を話すのは人間だけです。歌を歌う動物はいろいろいます。だから言葉の前に歌があったと考えると、言葉の起源の進化的な説明ができるかもしれませんね。これが言葉の歌起源説です。

まず動物の歌を、いろいろと動画を見てまいります。最初はカナリアです。カナリアのオスが一生懸命歌っています。隣はメスなんですが、メスはもう完全に「いつでも来て」っていう交尾受け入れ姿勢になっています。人間だとちょっと見せられないんですが、カナリアならいいかと。こんなメスはあまりいないですよ。ちょっと落ち着きがないな、こいつ。はい、交尾成立です。オスは、まだ歌っていますよね、すごいですね。次にザトウクジラの歌です。10メートルぐらいあるんです。でかいです。鳴きながら潮を吹いたりして、すごいです。ザトウクジラの求愛の歌です。小笠原諸島のほうに行くと、手漕ぎボートを出してもらって、ザトウクジラの歌を聞くことができます。これは海の中で歌っています。ということは、呼吸ができない。息が継げないということです。だから、長時間歌い続けるということは、息が長い。ガタイがよい。健康ということになります。加えて、いろいろな複雑な歌で、声を出しています。あれは、なんというか、「この夏のベストテン」みたいなのがあって、ザトウクジラが棲んでいるあたりで、徐々に特定の歌が流行りだして、最終的にはみんな同じような歌になっていきます。

次はテナガザルの歌です。実は、このテナガザルの歌を遅回しすると、クジラの歌みたいになりますよ。なんとなくわかるでしょ。「ウオ~ッ、ウオ~ッ、ウオ~ッ、ワオッ、ワオッウ」みたいな感じで歌っています。

次は人間です。ピグミー(ムブティ)さんたちの歌で、みんなで歌いますね。ピグミーというのは差別語らしく、最近はムブティと呼ばれています。社会的な結束という意味が強いかと思います。ずっと歌っているんですよ。私、5年ぐらい前に、イタリアのアッシジのそばで、「言語的コミュニケーションの進化」というシンポジウムに呼ばれて、そこで「ピグミーの歌を学ぼう」というコーナーがありました。学会をやったあとに、夜はピグミーの歌を「♪ワオ、ワ~オ、ホワッ、ホワッ、ホ~、ホッホ~」と、みんなで3時間ぐらい歌っていました。ものすごくいい気持ちになるので、不思議なものです。この人たちは今、西洋文明が入ってきちゃっていますが、一部、そういうのを入れない人たちもまだ残っているらしいです。

動物と人間、みんな歌を歌うわけです。ピグミーさんの歌もそうでしたけど、歌詞は特にないですね。だから、言葉ができる前に、みんなまず歌を歌っていて、歌でもっていろいろな長さの、いろんな音を出す能力が磨かれてきて、そこから言葉が始まったんじゃないかっていうことで、「言葉の歌起源説」というのを考えています。これを考えたときは、「あ、俺、すげえ!」と思ったんですが、ダーウィンの本にちゃんと書いてあったので、ダーウィンにはかなわないなと思いました。

でもやっぱり、多くの人が、「言葉って身振りから進化したんでしょ?」と考えます。だから一応、「身振り起源説」もやってみます。歌はほとんど求愛のために使われるけど、言葉はそうではない、と。とはいえ、言葉もほとんど実は求愛のために使われているといってもいいんじゃないかと思うんですが、求愛のためだけではなく、社会的な調整にも使われます。だから歌ではなくて、身振り、ジェスチャーが単語の起源と考える人もいます。チンパンジーやゴリラにも、いろんな身振りがある。でもわれわれは、もちろんまだ身振りも使うけど、身振りよりも音声の言葉のほうが主体になって、身振りは補助的になっていますね。なので、もし身振り起源説だとすると、身振りだったものが声に変ったのはなぜか、どういうときにどう変わったのかということを説明しなきゃいけないんですが、そのうまい説明はまだないのです。だから身振り起源説はそこが弱いわけです。じゃあチンパンジーの身振りを見てみましょう。口をたたいて、「そのごはんちょうだい」ということをやっています。チンパンジーの近縁ボノボでも同じようなことをやります。ボノボだとかなりわかります。次の動画は、「背中かいて」っていう感じです。背中出しているでしょ。ボノボも同じようにやります。次に「あっち行け」という感じ。ボノボだと、「向こう行け」ってされた連中は、向こうに行っています。それで、赤ちゃんの身振りも、チンパンジーに割と似ているんじゃないかという話です。ダーウィンも言っているように、ちっちゃい子の表情は、チンパンジーもボノボも人間も、同じような表情をするという話ですね。イタリア人の身振りを動画を見てみましょう。ワインと水で、身振りが違うんですね。エスプレッソはまた違う。イタリアでなんであんな身振りが残っているのかというと、イタリアは長い間、小さい国に分かれていて、異なる言語を使っていて、よりコミュニケーションが大事だったんじゃないかという仮説をビデオに出てくる彼は言っています。ほんとかなあ。

最近、にわかラグビーファンが増えたので、ハカはよくご存じかと思いますが、あれがおもしろいと思うのは、歌でもあり、踊りでもあり、身振りでもあることです。みんなあるんですね。こういうものから言葉が出てきたと考えることもできるかなっていうのが、歌起源論と身振り起源論を融合させたものです。私はスポーツは本当は見ないんです。人が何をやっていようが、どうでもいいので。ラグビーとかうるさくてしょうがないです、悪いけど。だけど、私以外の家族は、全員にわかラグビーファンになってしまい、みんなでテレビでラグビーを観ています。子供は9時に寝ろと言っているのに、「今日はいいよ」とか言って、うちの妻もラグビーを観させているんですよね。自分だけ背を向けていてもしょうがないので、観ました。その結果、これはおもしろいなというのがわかりました。ニュージーランドのハカに対して、イングランドの人たちはⅤ字型になって威圧しようとしました。ハカって、腹筋と腿の力がいります。オスの集団の「俺が一番カッコイイ」的な奴ですよね。鳥の社会でlek mating system(集団お見合い場みたいなもんですね)というのがあって、オスが集まって、そこで踊りをしたり、歌を歌ったりする。これは何がいいかというと、誰がカッコイイか、すぐわかる。メスにとっては非常に助かるわけです。みんなと5分ずつ交際するよりも、一発でわかるから。

というようなことをやってきましたが、やっぱり言葉の起源というと、この映画の話を出さないわけにはいかないですね。ヘレン・ケラーさん、『奇跡の人』。あ、奇跡の人はサリバン先生です。ヘレン・ケラーが初めて、世界の事物に名前がついていることがわかるシーンがありますね。今日は向井(万起男)さんがいないのが残念。向井さんは、この場面の元になった井戸の現地に10回ぐらい行って、井戸のレプリカのお土産を買ってきたという、「日本で一番この井戸に行った男」として本人曰く著名です(笑)。

映画では、ヘレン・ケラーが「ママどこ?」っていうと、サリバンが「ママいないよ」って、指文字を与えながら、水をひっかけます。ここでハッと何かが変わるわけですね。それまでは指文字を与えられていたのですが、その指文字がこの水のことだとわかっていなかった。でもこのとき、指文字で与えられていたものと水の感触が、初めてヘレンの中で結びついて、世界には言葉がついていると気づく。このあとのシーンでは、ヘレンがいろんなところを触りながら、指文字でサリバン先生に「これは土ですか?」とか、「これは階段ですか」といったようなことをやり、最後のほうでサリバン先生が、「お父さん、お母さん、彼女は気がつきました」っていう意味で“She knows!” と言う、すばらしいシーンがございます。だから歌も身振りも大事だけれども、その歌と身振りが結びついたところが大事なのかなと思い、その方向で研究をしています。

伝言ゲームからわかること

休憩前に「感情」をやるかどうか、今、悩んでいるところですが、あとで苦しむより、今、苦しむほうがいいですね。感情をやります。「正直な信号」という話をしてきましたが、感情も「正直な信号」、特に表情というのは「正直な信号」なんです。感情には「カテゴリー説」と「次元説」というのがありまして、カテゴリー説はダーウィンによるところです。感情と言語は相互作用をしていまして、感情は「正直な信号」だけど、言語は「正直な信号」ではないので、言語の正直さを保証しているのは実は感情であって、感情と言語を引き離して考えてはいけない。実習として、にらめっこを考えています。

そういえば、言語の実習をやるのを忘れたかな(笑)。どうしようかな。これまで話したことは感情の講義の序論として、やっぱり言語の実習をやってもらいます。今から紙を配ります。たぶんホモ・サピエンスが世界中に広がる前に言語が発生したものと思います。今のような形の言語ですと、たぶん7、8万年前に発生した。それがホモ・サピエンスがいろんなところに散らばるにつれて、いろいろ異なる言語になっていったわけです。そこを体感していただくために、伝言ゲームをやります。一番前の人は紙を見て暗記して、紙を見ていない後ろの人に耳打ちしてください。大丈夫ですよ、自分が忘れても人のせいにすればいいので。では一番前の人、読んで、覚えて、次の人に伝えてください。次の人はそれを覚えて、次の人に伝えるということで、一番後ろの人に何が伝わったかを見ます。前ね、大学でこれをやったら、やらないやつがいて。「お前、なんでやらないんだ」っていったら、「大学生にもなってこんなことやらない」って。学ぶ機会をのがしている。

はい、ではこのへんの方が早く終わっていたようですので、覚えている限りのことを言ってください。
受講生1:ヒグマとツキノワグマが鹿児島で、シロクマアイスを食べようと思ったら、肉球が邪魔をして食べられなかった。
岡ノ谷:いいんだけど、動物がふたつ落ちている。はい。別の列。
受講生2:シロクマとホッキョクグマとがかき氷を食べたくて鹿児島に行ったけど……
受講生3:ホッキョクグマとアライグマとジャイアントパンダが、鹿児島へアイスクリームを食べに行ったら、手にマメがあって……。

岡ノ谷:ご協力ありがとうございました。正解を発表します。何がおもしろかったかって、動物が変わっていたり、動物が足らなくなっちゃったり、肉球なのに、手にマメができちゃったり。シロクマはね、アイスなんですよ。登場人物じゃないんですね。同じ原典に基づいても、伝達が何世代かにわたることで、言語は構造を変えていきます。この言語の構造の変わり方が、われわれの認知機構の限界に合うように変わっていって、だからこそ、言語は学びやすいものになっているということができます。いいですか、正解。

ヒグマとホッキョクグマとツキノワグマとジャイアントパンダが、朝から鹿児島に集まって、アイスのシロクマくんを食べようとしたけれど、肉球が邪魔でアイスのカップを開けられないまま、日が暮れた。

これが正解です。このように、言葉というのは伝達されることで変化していくものであります。ここで一休みします。
(休憩)

言葉は変わるもの

戻ってきてくれてありがとうございます(笑)。さて、みなさん、先ほど伝言ゲームをやっていただきました。これは何をしたかったかというと、言語が「学ぶ」という性質を持っている以上、それは変わるものだということの体験です。今は日本語でやって10人足らずですけど、これが100人ぐらい並んでいたら、言葉は相当変わっていくと思いますね。ジェスチャーでやってみるのもおもしろいです。ジェスチャーでやると、非常に基本的なところだけ残って、あとは落ちていく。「鹿児島」と「アイスを食べた」、あと動物たちというのは基本、残っていますよね。けど、動物が何だったかは、みなさんいろいろで、「肉球」が「指にマメができた」という、すばらしい解釈もあるんだと思いました。言語がいつ、どこでできたかはよくわからない。けれども、おそらく言語はホモ・サピエンスが6、7万年前にアフリカを出て、世界中に散らばる前にできたんだろうと思います。言語といった場合に、今のように文法と組み合わせによる意味を作るという能力、単語が意味を持っていて、一個一個の単語が意味を持っているけれど、それを組み合わせるとまた新しい意味が出てくるという性質があらわれたのは、おそらく6、7万年前。その前は、ひとつの単語がある意味を持つけれど、組み合わせで新しい意味を作ることはできない、そういう感じの簡単な言語だったと思われます。

一方、その前はただの歌だったと考える人もいます。何だったかはよくわからないですけれど、言語というものはおそらく一カ所で、というか、ホモ・サピエンスのアフリカ内の集団でできて、それが世界中に散らばり、散らばったことによって、さっきの伝言ゲームと同じように、だんだんと変化していって、単語も文法も変わっていった。さっきのは、文法が変わるまでには至らないですね。でも、単語が変わるとシロクマじゃないクマになっちゃうとか、いろんなことが起きています。肉球じゃないものになっちゃうとかね。なので、1000人ぐらい並んで伝言ゲームをやったら、大変だけど、たぶん新しい言葉が出てくるでしょうね。というわけで、言語は「学ばれるもの」という性質を持っています。学ばれるけれども、われわれ人間は、言語を学んで何かの規則に当てはめて使うという能力を、基本的には持って生まれてくるのであろうと私は考えます。

なぜ持って生まれるかというと、たぶんそのような性質を持っていた人たちのほうが適応的で、社会の中でそのような言葉を学んで、コミュニケーションに使うという性質が残ってきたのだろうと思います。言語は変わりゆくものであるということを体感していただくために、あえて伝言ゲームをしました。伝言ゲームについては、「なんでこんなことさせられるねん」という疑問がなくなったらいいなと思います(笑)。

感情という「正直な信号」

では感情の話です。女優さんの写真をふたつモニターに並べました。どっちが好きか決めてください。A(微笑)が好きな人? B(笑顔)が好きな人? 半々ですね。この集団は、かなり特異性が高いです(笑)。東京大学の一般教養の講義でも、ほとんどBが好きと言ってくれますね。ただ、それは忖度をしているのかもしれないですね。これは何かというと、女優さんでも、「微笑んでください」と言われるとAの微笑みで、自然な会話の中で微笑むと、Bの笑みになる。普通の人はだいたいBがいいって言います。何が違うかというと、Aの口のまわりは笑っているんですが、目のまわりが笑っていません。Bは口のまわりも笑っているし、目のまわりも笑っています。口のまわり、口角を上げるというのは意図でできます。僕はできないですけど、口角を上げようと思えば上げられる人は上げられるんですけど、目のまわりの筋肉は、大変なことが起きていて、目のまわりの筋肉が緩んでいるでしょ。だから目が笑っているんですよ。ほら、「目が笑っていない」ってよく言うじゃないですか。心からの笑みでないと、目は笑わないんですね。この写真の場合も、Aは目が笑っていない。で、だいたいBのほうがいいという人が多いのですが、みなさんは……(笑)。

というわけで、表情や声も、「正直な信号」といえます。意図的に怒ったり笑ったり表情を示すことは一応できるんですが、相手には本気かどうかすぐ伝わって、声も同じで、ウソ泣きは難しいということです。だから口角とか意図的に制御できる筋肉は、信号としては信頼されないわけです。意図的に制御できないのは「正直な信号」です。女優の芦田愛菜さんが、「お芝居で泣くときどうするの?」って聞かれて、こう答えた。「お母さんが死んじゃったらどうしようと思うと泣けてくる」と。だから、芦田愛菜さんは泣く演技をするんじゃなくて、自分の気持ち自体を本当に悲しくして、それが表現されていたということです。ある俳優さんに「お芝居で泣くというとき、どうするんだ」って聞いたら、「おいら、すぐ泣けるよ」という。ウソ泣きでも泣ける人はいるということですが、意図的に制御できる筋肉の動きは、信号としては信頼されないということです。

ダーウィンは、そのことに気づいていて、長いリストの質問紙を送りました。「驚愕は目や口を開き、眉をあげて表されるか」「憤怒した人は眉をしかめるか」「上機嫌の時は目の下がたるみ、口の両端が内側に引き締められるか」といったリストを、ビーグル号の航海で知り合いになった宣教師たちに送ったらしい。『人及び動物の表情について』という本は昔の翻訳なのでしょうがないですが、世界中の知り合いに配って、「土人についてどうだったか」と。土着の方について、どういうときに、どういう表情をしているのかということを調べました。その結果をさらにまとめ上げたのがポール・エクマンという人で、「表情のカテゴリ説」ということでまとまっています。ところで、この写真の人は、表情の研究、感情の研究の業界では非常に有名な人です。悲しみの顔、怒りの顔、驚きの顔、恐れの顔、嫌悪の顔、喜びの顔、これを基本6情動と基本6表情とか、基本6感情とか、基本的な感情の表現と言われており、ダーウィンの本の中でも、この基本的なものはすでに指摘されています。すごいですね。

少なくともこの6つについては、文化に依存しません。どこの人でも、この6感情はわかります。ということは、われわれ人間の脳の中には、この基本6感情に対応するようなプログラムは入っているのかと、単純なことを考えます。でも、実はそうでもないんじゃないか。というのは、「表情の次元説」というのがありまして、表情というのは実はふたつのパラメーターで表すことができる。ひとつは睡眠。眠たいか、目が覚めているかの覚醒度。もうひとつは快か不快か。覚醒度が中くらいで快だと、穏やかな笑顔になります。覚醒度が高めで不快だと、怒った顔になります。低めだと、なんというか悲しい顔になる。もっと低くなると、軽蔑の顔になります。そのあと眠っちゃいます。このように、「睡眠・覚醒」軸と、「快・不快」軸の二次元で、われわれの感情は示されるじゃないかということが、新たに言われています。私たちも、こういう基本的な二次元で感情を表せるんだけれども、それをさらにこの6つのカテゴリー(悲しみ、怒り、驚き、恐れ、嫌悪、喜び)にまとめているんじゃないかと考えています。驚愕=驚いた顔というのは、快か不快かはわからないんですね。でも、覚醒が高いんです。驚いたときってそうですよね。なんで驚いたか知らないけど、驚くわけだ。で、驚いたあとに、それが快だったか、不快だったかって解釈が入って、それなりの顔に変わる。まずは驚く、ということです。

言語は「正直な信号」かどうか?

感情と言語につきまして、考えてみましょう。発話行為。しゃべるという行為の一部は、「正直な信号」だといえます。というのは、語彙や表現力というのは知性の「正直な信号」でしょう。たぶん、知性が低いと語彙や表現力が乏しくなるでしょう。流暢性は健康さの……、あ、今、流暢じゃないですね。疲れて健康さがなくなってきているので、流暢じゃなくなってきていますが、流暢性は健康さの指標になります。私がここで震えだしたりしますと、それは感情の信号になります。なので、発話行為というのは、一部は「正直な信号」だといえるわけです。しかし、発話の内容は正直ではありません。発話したとたん、現実は虚偽になります。言語は連続な現実を恣意的にカテゴリーにする。ここは言い方が難しいですけど、たとえば78点取った子供が、「テストどうだったの?」「ん~、80点ぐらいかな」と。これはもうウソをついているわけです。人間はだいたい1日20回ぐらいウソをついていると言われますが、たぶん僕はもっとついているかもしれない。今日はもう100回ぐらい、ついたかもしれないです。意図的にウソをつくこともあるし、しゃべる話の流れ上、そこは適当でという感じでウソになっちゃう場合もあります。だから発話した内容は、正直ではないわけです。

だから、言語というものは、全体として「正直な信号」とはいえないという問題があります。「正直な信号」でない信号は進化しないはずです。「オオカミが来た」って言った人は、そのうち信じてもらえなくなるわけですね。じゃあわれわれはなぜ依然として言語に頼っているかというと、言語は常に、表情や情動、感情でサポートされているからと考えます。言語はそれ自体のみでは進化し得ないのではないか。それなのに、なんで言語は進化したのかというと、発話行為というのは常に対面場面で使われていて、言語表出は常に感情表出を伴っていたから。感情表出が「正直な信号」として発話内容の信頼性を保証していたということです。という話をすると、つい、『部屋とYシャツと私』という歌を知っている人、いますか? 歌に、相手がうそをつくとき眉があがるというくだりがありますね。ということは、発話内容が噓であっても、表情が「正直な信号」として、その男への信頼性を究極的には保証していると、そういう歌です。大学で講義をすると、学生は誰も知らないんですよ、この曲。

次は倉田真由美さんの絵ですが、メールは噓のハードルを劇的に引き下げたツールだという話です。「君のこと考えると夜も眠れないよ」って、眠そうな顔でメールしている。これができちゃう。電子機器による遠隔コミュニケーションというのは便利だけど、言語の信頼性は保証できないということですね。

ということで、実習、にらめっこです。隣の人とにらめっこをしてください。いいですか、「にらめっこしましょ、笑うと負けよ、あっぷっぷ」。はい、何で笑ったんですか? このへん、二人とも爆笑していましたけど、どうして笑ったんですか?
受講生:真剣過ぎて。
受講生:相手の顔がおかしいと思っちゃったから。
岡ノ谷:つまり、にらめっこだからにらむわけだ。にらむっていうのは、情動としては怒りの情動なわけだな。「怒りの情動を表出せよ」と言われながら、相手の顔がおもしろいので、自分の情動は怒りとは相反する顔になってしまい、そして笑ってしまうというふうに解釈できますね。だからにらめっこというのは、すごくムカついているやつがいて、「にらめっこしよう」って言われたら、本気でにらむことができるかもしれないけれど、こういうときににらめっこしても、本気ではできないわけです。情動と食い違った表情は、すぐばれる。

芸術について

芸術の話をします。まず「芸術とは」という話をし、次に芸術の「いかに」という問題と、芸術の「なぜ」という問題を話します。次に現代芸術ってどう考えたらいいのかということを考えます。進化生物学的に考えていきましょう。

チョウの写真。きれいですよね。たぶん日本の国蝶のオオムラサキ。となりの写真の鳥はコヨシキリです。歌がとってもきれいです。ダーウィンの『人間の由来』の中には、動物も美を理解しているということが書かれていて、そこはダーウィンの擬人主義が行き過ぎている点です。動物はこれを美として感じているのかどうかって、それはわからんわけですよね。特に芸術といわれた場合、チョウのような自然の芸術は、われわれはきれいだと思う。われわれは鑑賞者としてきれいだと思うけれども、これはオスにとっては自分の適応度を示す命がけの模様なわけです。栄養もかかるし、色付けるの大変だし、目立っちゃうから鳥に食われちゃったりする。だから大変。なのに、これをやっている。メスはそれを見て「きれいだな」と思うのではなく、何を思うかはわからないけれども、「ああ、こういうきれいな羽の奴と交尾して卵を産めば、適応力の高い子孫ができるかな」って思わないですけど、言葉ないので。でも、そういう判断が進化的に有利だったということです。だからダーウィンは「これは芸術だ」と言っているわけです。そこは、行き過ぎだなって僕は思います。けれども、自然の美しさに対しても、進化論的な説明をしようというのは重要なことだと思います。

芸術には、「いかに」という質問と、「なぜ」という質問ができると思います。「いかに」っていうのは、「どのようにしてこういう芸術がつくられたのか」ということや、「どうやってわれわれはこれを鑑賞しているのか」っていう質問。「なぜ」というのは、「どうして、こういうものがわれわれにとってきれいなものになったんだろう」という質問です。セミール・ゼキという人が、『脳は美をいかに感じるか——ピカソやモネが見た世界』という本に、こういうことを書いています。「美術は恒常的なものの追求であり、その過程において画家は多くのものを捨て去り、本質的なものを選択していくので、美術は視覚脳の機能の延長」である。美術というのは、視覚が備えているいろんな能力の延長として、われわれに受理される。だからわれわれの視覚的な能力をフルに発揮する必要があるので、そこが興味深いんじゃないかということを、この人は言っています。

「いかに」のほうは、V・S・ラマチャンドランというインド出身の人が、「われわれの脳は芸術志向脳である」と言っている。「芸術を志向する脳になっている」と。その中では、グループ化とか、コントラスト、対称性とか、反復、リズム、秩序性、バランス、メタファー、こういったものが大事で、たとえばコントラストや対称性やバランス、メタファー等が表れているものを見ると、脳が持つ過剰な刺激への嗜好があって、それが満たされたとき、われわれは美を感じるんじゃないかと。これが「いかに」の解釈です。

「いかに」の解釈が続きますが、写真はマルセル・デュシャンの『階段を下りる裸体 No.2』という絵です。でも、「階段を下りる裸体」って言われなかったら、何だかわからないと思いませんか? これは、「階段を下りる裸体」と言われてはじめて、雑音に紛れた中から信号を抽出する、つまり「階段を下りる裸体」と言われれば、「『階段を下りる裸体』のような気がしなくもないな」っていう感じになるわけですよね。そういう雑音にまぎれた中から信号を抽出することが、この場合は「対称性、反復、リズム、秩序、バランス、メタファー等々」がこの中に表現されているから、われわれはこういう絵を見ておもしろいなと思うんじゃないかという説明は可能なわけです。

でも、やっぱり「なぜ」が大事だと。なので、再びザハヴィ夫妻の生物進化のハンディキャップ原理に照らし合わせて美術を見てみると、毎度おなじみのクジャクですが、羽根を広げるという、生存と直接関係しない行動は、個体に余裕がなければ維持できない。それゆえに、個体の適応力の指標となり、異性が相手を選ぶ際の手掛かりとなる、というのがハンディキャップ原理でしたね。モニターに映しているのは、レンブラントの解剖学実習の絵ですけれども、こういう絵を描くのって、そりゃ大変ですよ。修業の時間がすごくかかるし、これはすごい。本物を見たことがあるんですけど、でかい絵なんです。こういう絵を描くための技術の習得や、観察眼や、いろんなものを考えると、やっぱりこの描き手自身の適応度の指標になっているんじゃないかということになります。

2002年、ジェフリー・ミラーという人が、『恋人選びの心——性淘汰と人間性の進化』という本を出しています。岩波書店から長谷川眞理子さんが翻訳を出しているんですが、すぐ絶版になったので、岩波の人は再版してください。この本の中には、こういうことが書いてあります。「芸術活動にはすぐれた感覚運動協応の能力が必要で、そのような能力は個体全般の適応度の指標になる」。モニターの写真は、フランツ・リストですね。ずいぶんもてたらしいです、知りませんがね。下の写真はミック・ジャガーさんです。ミック・ジャガーさんは、もてたかどうかはさておいて、生涯で1万人以上の女性とセックスしたと言われています。そんなにしたいかといわれても、ちょっと困るんですけども。そのように、こういう人たちはもてたということです。映画『ボヘミアン・ラプソディ』なんかを見ても、ああいう人は性的行動が盛んだなというのはよく感じますね。でも、芸術はそれだけじゃないですね。だから芸術は、脳が持つ能力を過剰に刺激するようなものが芸術としてつくられるし、そういうものをつくる能力というのは、生存上必要なものではないけれども、それを発揮することによって適応度の指標になるという考えができます。

ですが、もうひとつ、芸術には社会次元というものがあると思います。次の動画は、ジョシュア・ベル。アメリカに、ジョシュア・ベルという有名なヴァイオリニストがいまして、たとえばカーネギーホールで独演会をやったら、チケットは2万円ぐらいするわけです。でもこの人がワシントンD.C.の地下鉄駅でヴァイオリンを弾いたら、誰も来ない。ラッシュアワーに有名なヴァイオリニストであるジョシュア・ベルが、地下鉄でヴァイオリンを弾いているわけです。バッハの『シャコンヌ』という有名な曲ですね。すばらしい演奏です。でも誰も立ち止まりません。誰もたいしたものだと思わないわけです。「早く仕事行かなきゃ」ってなっちゃう。ところが、これが違う駅で「ジョシュア・ベルです」って看板を出すと人が殺到する。われわれは本当に心から芸術を鑑賞することができるのか、という問題です。さっきの「階段を下りる裸体」だって、そう言われなければ、誰も「階段を下りる裸体」と思わないわけです。でも、タイトルとセットで芸術と思えば、それなりにいろいろとおもしろがることはできる。

「これはいい」「これは悪い」と、どの芸術がすばらしくて、どれがすばらしくないかを評価するには、コストがかかる。つまり、たとえば西洋美術史の知識がちゃんとないとだめとか、古典音楽をしっかり聴いてきて耳を訓練しないとだめとか、そういうコスト。そして、コストがかかるときに、「この人の演奏はいいね」、「この人の絵はいいね」と言うためには、評論家がいないとできないわけですね。だから評論家はわれわれのかわりに、そういったコストを担ってくれているわけです。

同じようなことが、動物でも見られます。この実験は若干込み入っていますけど、グッピーのメスがどのオスを選ぶかという実験をします。実は大きな水槽の中に、透明なちっちゃな水槽を入れて、メスとオスを一緒に入れておきます。ちっちゃな水槽にメスを入れておく。こういう状態で、オスA、B、Cを、実はメスと一緒の水槽にいる(オスA)、メスのそばにいる(オスB)と、一人でいる(オスC)のうち、メスDがどれを選ぶか。いったんメスを取り除いて、オスを水槽の中に放します。そしてメスDがどのオスと近づいていくかを調べると、このメスDは、オスB、つまりほかのメスのすぐそばにいたオスを選びます。ということは、オスBさんは「すでに配偶経験がある」と思われ、誰かが「このオスはOK」という判断をしたと解釈されるんですが、もちろん魚が何を思っているかはわかりません。けれども、そのような解釈が妥当であって、これは評論家が「ああ、ジョシュア・ベルはいいですね」と言って、ジョシュア・ベルの演奏会でチケットが2万円する。ところが地下鉄で弾いていてもジョシュア・ベルかどうかわからない。そういうときは素通りしちゃうということですね。

こういうのには、ちゃんと名前がついていて、「配偶者選択の模倣」と言います。私は新潮社のwebマガジン『考える人』で、「おかぽん先生青春記」というものを連載していますが、その青春記の中で、配偶者選択の模倣について書いています。中学生のとき、友達のイシカワイツオくんが、バレンタインデーになると、ものすごくチョコレートをもらうんですよ。もう一人、イダトオルくんも相当チョコレートをもらう。バレンタインデーになると、その二人のチョコレートをみんなで食べていた。これというのはやっぱり、人気がある男子に人気は集中するんですね。イシカワイツオくんは反骨精神があり、スポーツもできる人でしたので、もてる。イダトオルくんなんて、遅刻してきて、先生に「お前、なんで遅刻してきたんだ」って言われて、「ゆっくり歩いてきました」って言って、先生にグーで殴られた。すごい反骨精神がありました。そういう人はもてたんですね。みんながチョコあげるような人は、「チョコあげておいて大丈夫だ」っていう感じになるのかなあ。そういうのって、芸術上の評価のコストを軽くしているわけです。この人は本当にいいかどうかを自分で判断しないで、「他者がもう判断しているんだからいいんじゃない?」ということにしているわけですね。

現代芸術とナラティブ

次に、現代芸術。モニターに出しているのは現代芸術じゃないですね。フェルメールです。これはもう、文句なしに美しいとみんな思う。次はルノアールで、これも文句なしに美しいと思うでしょ。だけど、次。これはなんだ? っていう話ですね。マルセル・デュシャンという人が、ある展覧会に出そうとした『泉』という作品です。作品というにはちょっとどうかと思うのは、これ、サインをして『泉』って書いてあるだけの便器なわけです。女性は男性の小便器は見たことないので、なんだかわからないという人もいたんですが、要するに男性がおしっこをするための小便器です。これは1917年ですから、もう100年前ですね。100年前にある展覧会に出そうとして、出すのを阻止された。阻止されたことによって、より名声が上がり、デュシャンはこれで現代美術を始めた人として今でも評価されているわけです。何が評価されたのか? 実はさっき見た『階段を下りる裸体 No.2』、あれもデュシャンです。ああいう絵を描いていて、デュシャン自身は芸術家としての評価がすでに高くなっていた。芸術家としての評価が高い人が、展覧会に便器を出したらどうなるかという話で、これは自分の芸術家生命をかけて展覧会に便器を出しているわけです。そんじょそこらのおふざけとは違うわけですよ。そこでこれが現代芸術のはじまりとして評価された。彼は、自分の芸術家生命をかけた作品として出したわけです。それはいい。ところが、これが現代芸術だからといって、今度は大便器を出してもだめなわけです。同じように、ジョン・ケージという人が『4分33秒』という曲を発表しました。これはピアニストが来て、お辞儀して、座って、4分33秒たったら、またお辞儀して帰っていくという作品です。これも現代芸術として、「音楽には音がなきゃいけない」というのを否定したものとして評価されています。ところがそのあと、違う作曲家が全部休符で細かい音符をやたら並べた作品を出したんだけど、それは評価されていない。最初に命をかけてやらないとだめです。それが現代芸術なんです。

さてみなさん、次に実習をします。絵が出ます。この絵(注:こちらのページから、マーク・ロスコの《シーグラム壁画》をご覧ください)を知っている方は、すみませんが知らないふりをしてください。その絵のどこが芸術なのか、よく考えてください。まわりの方と相談してけっこうです。出しますよ。知っている方は黙っていてください。ではどうぞ。この絵のどこがどう芸術なのか?

こちらの方が感想を述べていらしたので、お願いします。
受講生:色が血を感じさせて、なんていうか、マイナスというか、そういう感情が沸き起こったなと思います。
岡ノ谷:マイナスの感情が沸き起こった。感動というよりは。
受講生:はい。マイナスというか、怖いという、おそれに近い。
岡ノ谷:ああ~、おそれって畏怖と言ってもいいですか。敬意を持ったおそれ。
受講生:敬意ではない。怖いに近い感じ。

岡ノ谷:はい、お願いします。何か感想。
受講生:四角を見て、受け取った人が、それぞれの解釈をすればいいと。
岡ノ谷:それはそのとおりなんですけど。実はこれ、千葉県の佐倉市にあるんです。DIC 川村記念美術館というところです。妻の実家がそこで、妻の実家に行くとやることがないので、美術館に連れていってもらったんですけど、なんかこういう感じの絵が、部屋の中全部にあるんです。実はこれ、ものすごくでかいんです。3m×4mぐらいある。私は、「なんじゃこれ」と思いながらも近づいてみると、視野全体がこの赤で埋め尽くされるわけです。それで怖いという感情と同時に、僕はどちらかというと畏怖の感情を得たわけです。というわけで、それなりに味わうことができたんですけど、DIC 川村記念美術館の解説を読むと、「まあそうかな」と思うことが書いてあるんです。これはマーク・ロスコという人の、『「壁画No.4」のためのスケッチ』という作品で(注:こちらのページから、マーク・ロスコの《シーグラム壁画》をご覧ください)、1958年作。そこにある解説です。長々と書いてあるんですけど、途中から。

「雲のような色面は姿を消し、代わりに深い赤茶色の地に表れたのは、赤、黒、明るいオレンジのいずれかで描かれた窓枠のような形でした。とはいえ、それは現実の窓ではなく、いわば概念としての『窓』――赤い広がりとなった彼岸への窓あるいは扉といえるものです。そしてそれは閉じたまま、あちら側の世界とこちら側の世界の境界を示すのみで、あちらへ踏み入ろうとする私たちの意志を拒むように見えます。あるいは、乾いた血を思わせる色合いや、薄く何層にも塗り重ねられた独特の絵肌におどろおどろしさを感じる人もいるでしょう。ところが、しばらくこの壁画群に囲まれていると、まるで自分の意識が赤く染まるような感覚を覚え(――確かに覚えました、私は――)やがては深い内省をうながされるのです」。

こういう解説があれば、「ああ、これはすばらしいな」と思うんですが、ほとんどの人にとって、要するに現代芸術に必要なのはこういうナラティブ(説明)ですね。こういうナラティブと一緒に味わうべきというか、一緒でないと味わえないのではないかと思います。それは配偶者選択の模倣でありまして、評論家の評論の力をもって、それにガイドされて絵を味わうことができて、そのことは必ずしも悪いことではないのではないかと思います。

意識

最後の話題で、意識の話をしようと思います。時間までに終わりそうな気がしてきたので、ちょっと余談を入れますと、私は美術館に行くと、絵も見るんですが、人を見てしまうことが多い。びっくりするのは、絵を見るんじゃなくて、解説を読んでいるんです、みんな。解説をずっと読んでいるんですね。絵はちらっと見て。そのことが、果たして絵を味わうこととなるのか疑問ではあるので、いっそのこと、題名以外は解説を取っちゃったらどうかと思うんですね。それで好きな絵が見つかると、その方が幸せなんじゃないかと思うんですけど、なかなかそういう美術館はないですね。現代美術は、解説の結果、新たに解釈しなおして、その良さ、美しさに気がつく場合もありますけど、解説されても依然として「なんじゃこりゃ?」っていうこともある。これから先はもう歴史の判断しかなくて、デュシャンの『泉』は、もう100年以上評価されているわけですね。ロスコの壁画が、果たして同じようにずっと評価されるかわからないですが、すでに50年たっていますから、たぶん、「古典的な現代芸術」って言い方が不思議ですが、「古典的な現代芸術」として残るんじゃないかなと思います。

では、意識の話をします。まず、「サボテンに感情があるか」ということを話し、「意識のやさしい問題」、「難しい問題」と、そして「哲学的ゾンビ」というやつ、そして「意識の他者起源論」という話をしていきます。モニターに出しているのは、中川いさみさんの『クマのプー太郎』という、ビッグコミックスピリッツに連載されていた、なかなか味のある漫画です。「サボテンには感情があるらしい が、あってどーするんだろー」。これ、一コマ漫画です。たったこれだけです。これはすごい僕、印象に残っていて、こういう講義のときに使おうと思って、中川いさみの『クマのプー太郎』全5巻を買いました。全5巻買わなくてもよかったなと思うのは、第1巻に載っていたから(笑)。でもまあ、全部おもしろいんです。要するに、「意識がある」っていうことは、意識に何らかの機能性がないと、あまり意味がないんじゃないか。サボテンに意識があってもいい。いいですけど、意識があっても、サボテン的にはどうしようもないじゃないですか、これ。だから「あってどーするんだろー?」という問いかけを、正しくも彼はしているわけです。

「意識のやさしい問題」と、「意識の難しい問題」というのを区別すべきだということを、1994年にデイヴィッド・チャーマーズという哲学者が言いました。「意識のやさしい問題」というのは、脳神経系の情報処理と意識体験の相関を探る研究で、これは「意識の神経相関」というふうにいいます。たとえばイヌを見ているときに、脳の中でどの神経細胞がどのように活動しているのか。そしてそれと「イヌを見ている」という主観的体験がどう関係しているのか。こういうのをやるのが「意識の神経相関」の研究で、意識の研究とか心の研究を神経科学としてやっていると称する人は、ほとんどこれをやっています。これは悪いけど、「やさしい問題」なんです。なぜかというと、やればできるから。

一方、「難しい問題」というのは、自分に固有な自己意識がなぜ、どのように、神経系の相互作用から生ずるのか? これは難しい問題です。なぜかというと、自己意識があるかどうかは自分にしかわからないわけです。だから自分しか、研究対象として使えない。他人に意識があるかどうかは……要するに、となりの人には意識がありますか、ということです。
受講生:あ、あると思います。
岡ノ谷:それはなぜでしょうか。
受講生:自分と同じようだからです。
岡ノ谷:そうですよね。他人に意識があるっていうのは、自分と似たようだからというだけの理由で言っているんですよ。似ていないんですけどね。でも、たとえばバッタとかに比べたら、似ている。最近、世間を騒がしています一部のAI(人工知能)の研究者がよく安易に言っちゃうのが、「AIに意識を持たせる」。僕はこれ、さっきのサボテンと同じで、「AIに意識があってどうするんだろう」と思うわけです。意識があって、特にいいことはないんじゃないか。それに、AIに意識を持たせるといわれても、証明のしようがないわけです。

哲学的ゾンビ

哲学的ゾンビという、なんていうかね、思考実験があります。これもチャーマーズが言い始めたことです。「外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、その際に内面的な経験を持たない存在」、そのことを哲学的ゾンビといいます。哲学的ゾンビっていうのは、実は僕は一人でこうして講義して、みんな誰も意識を持っていなくて、一人で講義する寂しい存在なのかもしれないですよ。でも一応、私はみなさんとの類似性に基づいて、バッタよりはみんな似ているから、わたしの意識と同じような意識があることを前提にしてお話をしています。

哲学的ゾンビというのは、脳の神経細胞の状態まで含む、すべての観察可能な物理的状態に関して、普通の人間と区別することはできないけれど、意識経験がない。そういうものを哲学的ゾンビと言います。だから隣の人が哲学的ゾンビであるかどうかは、決めることはできないですね。自分しか決めることはできない。そのことを考えると、デカルトっていう人は、もうずっと昔に「われ思う、ゆえにわれあり」と、「自分の意識体験については否定できない。そこから出発するしかない」という立場をとったので、今の一部のAI学者より偉いですよね。

哲学的ゾンビ問題を考えると、意識に果たして適応的な価値があるかどうかが問題になります。そして、意識に適応的な価値がないと仮定しても、特に問題はないんじゃないかと考えることもできます。つまり、酔ったあと、何をしたか覚えていなかったりしますね。「あのとき、どうしてタクシーに乗って帰ってこれたんだろう」と思うわけですね。それはあなた方が哲学的ゾンビ状態になっていたということです。私は、哲学的ゾンビというのも、なんかずるいと思うんです。哲学的ゾンビみたいなのが本当に作れたら、それは意識体験があるって言わないと、自然科学として成り立たないんじゃない? だから「意識そのものに適応価があるかないか」を問わずに、「われわれが意識を持っている理由」を説明しなきゃならないと思って、「意識の他者起源論」というのを考えました。これは『「つながり」の進化生物学』に書きましたので、よかったらお読みください。

まずは、意識それ自体に適応度があるかどうかは不明とする。不明のままです。わからなくてもいい。意識の適応価=つまり「意識を持つことで、われわれがより生き残りやすくなっているかどうか」は、さておいて構わない。意識がなくても、われわれは生き残っていたかもしれないし、意識があったからこの世に生きているのかもしれないけど、それはさておいて構わない。しかし他者の行動から、他者の心の状態を仮定し(つまり他者に心があるかどうかはわからないけど、他者に心の状態があるというのを仮定してみて)、そして他者の行動を予測する能力を持っていたとすれば、それは適応価があります。つまり、隣の人に意識があるかどうかわからないけど、さしあたり「意識があるもの」として扱っているわけでしょ、みなさん。ゾンビかもしれないけど、あんまり失礼なことはしていないわけですよね。それ自体は適応価がある。つまり、他者に心があるかどうかはわからないけれど、他者の行動から他者の心を仮定して、それに基づいて他者とのコミュニケーションをやっていくことには適応価があり、それが上手だということが、社会的には選択されてきています。人間はそうですね。

だから他者の心を予測する能力が、自己の行動を説明し始めたときに、これが自己の心なんじゃないかと考えるわけです。自分は哲学的ゾンビだったけれども、他者が次に何をするか、他者とのコミュニケーションをうまくするにはどう応答すればいいか、そういうことをうまくやっているうちに、「自己の行動を、他者の心を予測する能力をもって説明しよう」ということになってきた、そのような変異が生じてきたんじゃないか。それが「心の始まり」なんじゃないかと考え、これを「意識の他者起源論」ということにして、「あ、すげえことを考えたな」と思ったら、やっぱり世界中に50人ぐらいは同じようなことを言っている人がいるんですね。

ただ、私はもうちょっとこれを深めて、心の理論というものを持つ神経系と、ミラーニューロンといって、「他者の行動の次を予測するような神経系の仕組み」とが相互作用することで、こういうことが可能になったんじゃないかと、神経科学的な説明も加えています。本質的には、他者に意識があるかどうかを問題にしないでも、他者の行動から他者の心を予測する能力があれば、それは適応的であり、それを自分に振り向けたときに、自分に心ができるんじゃないでしょうかという、そういう理屈をこねてみました。

では、ゾンビごっこをします。隣の人が哲学的ゾンビではないと考える理由を述べてほしいんですが……(スタッフの)藤井さんには意識があるんですか?
藤井:あります。
岡ノ谷:みなさん、自分は哲学的ゾンビじゃないですよね。自分は。でも、まわりの人が哲学的ゾンビじゃないかどうかは、難しい問題です。それを考えると、永井豪という漫画家が書いた『ススムちゃん大ショック』というのがあるの、知っている人? うわあ~、知っていた人がいた。どうですか、あの漫画?
受講生:いや、怖いなと。
岡ノ谷:怖い話ですね。ちょっとあらすじを教えていただけますか。
受講生:あらすじって……お母さんと、ちっちゃい子供、ススムちゃん。お父さんもいましたっけ?
岡ノ谷:お母さんだけ。
受講生:お母さんと仲良く暮らしているんですけど、実はお母さんが悪魔みたいな存在だっていうような……。
岡ノ谷:僕はもっとドライな解釈です。ススムちゃんがなんで大ショックかっていうと、ススムちゃんが学校から帰ろうとすると、いろんなところで子供がお母さんに刺し殺されているんですね。それでもススムちゃんはお母さんを信じて家に帰ってきます。ママはトントンと、まな板の上でなんか野菜を切っています。「ママ~」って帰ってきて、ススムちゃんは「よかった。うちのママは違う」と思って抱きつくと、包丁で刺されちゃうんですね。ひどい漫画です。さすが永井豪だ。ひどい漫画ですけど、要するに自分以外が哲学的ゾンビではないということが、どう言えるのかという根源的な問いを、1970年代に先進的に問うていた、すごい漫画家だなと思います。

まとめ

まとめに入ります。まとめちゃいますよ。言語や芸術が人間だけにしか備わっていないというのは、僕はこれを認めます。でないと、もうなんでもありになっちゃうからね。人間だけにしかないです。でも、そういう属性も、その起源を進化論から考えることができるなということが、みなさんにわかっていただければいいなと思います。だから進化論を使って、私たちの未来を考えることもできるんじゃないかと思うわけです。

モニターの絵は有名なゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』。われわれはどこから来たのか、という問いに対して、ダーウィンはいろんなことを教えてくれました。今度は、その知識を使って、われわれは何者であり、われわれはどこに行くのか、というところまで考えなきゃいけないなと思うわけです。

考えていただくときに、「フェルミのパラドックス」というものを考えてみましょう。エンリコ・フェルミという昔の物理学者が言ったことですが、地球外文明の存在の可能性は高い、と。特に今年(2019年)のノーベル物理学賞は、太陽系の外にも惑星があるということを見つけた業績に対して与えられました。フェルミじゃないですよ。それまでは、太陽系の外に惑星があるかどうかわからないけど、あるという証拠がなかったわけですが、25年ほど前から太陽系以外にも、恒星の周りをまわっている惑星があり、惑星を持つ恒星系があるという発見が相次いで、それが広く認識されるようになりました。それでノーベル賞を受けています。だから地球外文明が存在するという可能性は高いわけです。けれども、そのような文明との接触の証拠が皆無であるという事実。存在する可能性は高いけど、そのような文明はわれわれのところに来ていないじゃないか、これが矛盾だと。その矛盾が「フェルミのパラドックス」です。「フェルミのパラドックス」が出されたころ、太陽系外の惑星が見つかっていなかったので、その当時は、「地球外文明の存在の可能性の高さ」って言われても、「そんなこと言われても、太陽系以外に惑星ないじゃないですか」って言っていたんですが、太陽系以外にもいろいろ惑星があるらしいことがわかってきた。しかも地球型惑星があって、生命があるかもしれないということがどんどんわかってきたので、観測可能な範囲で、そういうものがずいぶん出てきたということは、実際には宇宙にはそういう星がいっぱいあって、生命はいろんなところでできてきて、文明もできてきているんじゃないか。でもそういった文明がなんで私たちとお話しに来ないのかな? というのが矛盾だと言ったわけですね。

それを矛盾じゃなくする方法はふたつあって、ひとつは、「そのような文明は存在しない。われわれが一番進んだ文明を持っている」という考えです。もうひとつは、「高度な文明は核や温室効果ガスによって長続きしない」という考えです。文明が高度になる、つまり言語を持って、言語によって蓄積可能な知識が作られ、そしていつか核エネルギーを解放する道がわかり、そうなると文明は長続きしないんじゃないか、という考えがあります。だから解の1と解の2で、どっちが悲観的かというと、どっちも悲観的ですけど、どちらかというと解の1のほうがまだよくて、解の2ですと、われわれももうすぐ滅びなきゃならないわけです。でも、だから、こういう問題を認識して、滅びない方向にしましょうよということなんです。

悲観的な未来というのは、こういうことです。制御できなくなった技術、温暖化や核、遺伝子工学、こういった技術が自らを滅ぼすという、そういう悲観的な未来があります。あとは対応不能な宇宙的変動、小惑星の衝突などによって滅びる、と。まあ、こういう未来はありえるかと思います。こういうケースに関しては、人間は「できることはやってしまう」という性質があるので、技術をどう制御していくかがこれからの課題になります。

「楽観的? な」と、クエスチョンマークが入らざるを得ないんですが、楽観的な未来としてケース1は、コンピュータに意識をアップロードして、生物ではない何ものかになって、宇宙に広がっていくということ。これが果たして楽観的なのかどうか、僕はよくわからないですけど。

ケース2として、人間としては存続できないが、人工物として宇宙に広がります。その人工物に意識があるかどうかは問題ではないです。これがケース2です。このケース2は、ユヴァル・ハラリという方が、『ホモ・デウス』という本の中で述べています。哲学的ゾンビが人間の後継者になる可能性もあると。つまり、技術的に太陽系を抜け出して、ほかの恒星系で、われわれの子孫・後継者が存在し続けるということは、たぶんわれわれは、やっていくだろう。GAFA(Google Appple Facebook Amazon)の連中がそういうことをずっと考えてやっていくわけですよ。ところが、それをやっても、AIが意識を持っているかどうか、われわれはわからないわけです。だから、そういうものが後継者になるっていうのは、楽観的なのか? って思うわけですね。

それに「コンピュータに意識をアップロードし」って簡単に言うけど、コンピュータに意識をアップロードできると思いますか? われわれの神経細胞は、たぶん1兆個ぐらいあります。その1兆個の神経細胞が、またそれぞれ100個から1000個の神経細胞と連絡を取っており、その場合の数を考えると、ものすごくなります。さらに神経細胞同士は化学物質で連絡を取っていますから、その状態も含めてすべて記述し、それをコンピュータにアップロードすることが、果たして資源的に可能かどうかということです。

原理的にはそれは可能かもしれないけど、地球の資源を全部使ってある一人の意識状態をアップロードするということを、われわれはできるかというと、たぶんやらないですよね。素粒子を全部わかろうとして、加速器がどんどんでかくなっていくわけです。物質の究極を知るためには、物理的に速度をつけて粒子同士をぶつけるんですが、そのための装置がどんどんでかくなっていって、今度地球上に収まらなくなって、宇宙に作らなきゃいけない。でも、そういうことはしないわけです、さしあたりコストが合わないから。それを考えると、誰かの意識をコンピュータにアップロードするということが、原理的には可能でも、資源的には可能ではないと、私は思います。もっと簡単にいうと、一卵性双生児って、基本的には脳の作りが同じなんですが、同じ意識を持っていません。だから私たちの意識を、たとえ全部コンピュータにアップロードしても、その2秒後ぐらいには、そのコンピュータは独立した人格になっているので、私たちの意識ではなくて、私たちが生き続けることにはたぶんならないと思います。というわけで、ケース1もケース2も、それほど楽観的ではないと思いますね。

で、何ができるかというと、絶滅につながる、制御不能な科学技術の発展を制限しなきゃいけないんですけど、これは大変難しい。というのは、今まで、われわれはできることはやってきたわけです。その「やってきちゃったこと」を「やらないようにする」のは、すごく難しいことなんです。

人間の持続的な開発目標=Sustainable Development Goals(SDGs)っていうのが今、流行っていますけど、持続的な開発じゃだめで、持続自体を目標としないとだめだと思います。僕がSIAGと言っているのは、Sustainability Itself As A Goal。つまり持続すること自体を目標にして、開発という言葉はない方がいいんじゃないかと。でももちろん、みんなできることをやりたいので、困っちゃうわけですね。だから地球環境を生命が持続できるように作り直すというのが、われわれの世代の大きな目標だと思いますが、わかってもらえる人もいれば、わかってもらえない人もいますよね。でもこういう問題があるということを、みなさんがわかってくれればいいんじゃないかな。生物の一種として、一定期間、地球にとどまるけど、その後多様な要因によって滅亡する。数万年から数百万年後に滅亡するということは、まあ、それでいいじゃないかってみんなが思えればいいんですよね。

というのは、今から100万年、200万年、300万年、400万年前ですが、いろいろな人類が出てきました。200万年ほど前に出てきたホモ・エレクトスという直立原人は、ごく最近まで生きていた。歴史のスケールで見ると。われわれホモ・サピエンスは、まだほんの先っぽなんですよ。だから、100万年ぐらい持続することを目標にして、あとは粛々と滅びていけばいいんじゃないかとは思うんですが、そのように悟ることができないでしょうね、われわれはきっと。

ダーウィンさん、すごすぎますよね。いろんなことをすでに、ずっと昔に予言していたわけですね。進化の考えを身につけて、それをさらに未来に引き伸ばしていくためにどうするかを考えるのが、私たちの課題だと思います。長い間お付き合いありがとうございました。

質疑応答

河野:ありがとうございました。質問を受け付けたいと思います。
受講生:最後のほうにあった、「フェルミのパラドックス」なんですけど、もう1個可能性があるんじゃないかと思いました。単純にいうと、時間が足らない。つまり、1万光年先のところにそういう惑星があっても、コンタクトするには往復最低で2万光年かかる。だから、たとえば地球で、仮にコンタクトが可能だという、あちらからのメッセージがきても受けられる可能性はせいぜい500年ぐらい。同じようなペースだったら、今から人間がやっても、それで帰ってくるのが1万年後で……という感じで、単純にいうと時間が足らないという可能性があるんじゃないかと思うんですけど、いかがでしょうか。
岡ノ谷:時間が足りないという可能性は、解の1、解の2、どちらにも含まれると思います。時間が足りないのはなぜかというと、「滅んじゃうから」という考え方と、「われわれが一番先を行っているから」、というふたつの考え方があり、どちらにも入ると思います。ですが、時間が足りないという視点はそのとおりで、時間は足りないんだと思います、本当に。でも、たとえば100億年前に、今、宇宙ができて一応138億年と言われていますが、100億年も前じゃなくてもいいんですね、30億年前に、今のわれわれと同じレベルの技術水準に達した生命体がいたとして、そいつらが何らかの飛行物を飛ばしたとしたら、そろそろ着いていてもいいはずですが、着いていない。もちろん、いろんな宇宙人からコンタクトがあると言い張る人はいますけど、そういう人は、ちょっと「大変ですね」としか言いようがないわけなので。「時間がない」というのは、時間はないかもしれないけれど、本質的な疑問としては、われわれの文明がどのくらい続くかということと、もしかしたらわれわれが一番先を行っているかもしれないということだと思います。

増﨑:ありがとうございます。あまり幅広くて、ついていけない部分があったんですけど。私、産婦人科の医者なんです。
岡ノ谷:この前、講義を聞かせていただきました。ありがとうございました。
増﨑:胎児のこと考えると、いろいろおもしろいことがあるなと思いました。ダーウィンさんすごすぎるんですけど、胎児のことはまったく出てこないですよね。表で、上に覚醒、下に睡眠があって、左右に快、不快ってありましたよね。胎児に覚醒はないので、下半分しかないはずなんですけど、表情はなんとなくあるんですね。笑ったり、泣いたり。そうすると、あの一コマ漫画が思いつきました。サボテンに感情があるらしい。あれを胎児に変えると、胎児に感情があるらしい。でもあってどうするんだろう。確かに胎児ってそういう存在だなと思って考えたんです。それともうひとつ、哲学的ゾンビですね。チャーマーズが言った。内面的に経験を持たない存在。これって胎児じゃないかなと思いました。人間は哲学的ゾンビから生まれてきたのかなと。
岡ノ谷:そうかもしれない。胎児ね。生まれてすぐの子がニコッとする新生児微笑というのがあるんですけど、あれはチンパンジーでもあるということがわかっています。あれは内面的に微笑しているというよりは、顔の筋肉の動かし方のひとつのパターンとして、ああいうのが出てくる。私たちはそれを信号として受け取ってしまい、「ああ、かわいい」とか言うわけです。だから内面的な経験がなくても、顔の筋肉の収縮の組み合わせというのは限られていますから、表出しやすい表情があり、それをもって、われわれ大人がコミュニケーションに使うから、そのような表情が残っている。だから胎児をゾンビと考えてもいいんですが、ちっちゃい子がいる方は、それをゾンビと考えるとね(笑)。ただ、僕も、最初の子供が出てきたとき、すごい怖かったですね、ゾンビみたいで。今はすっかり思春期の娘として、逆にまた違う意味で怖いです。僕が訴えたいのは、われわれはゾンビとして始まるという考えに対して、それでいいんだと思いますね。けども、われわれが出すいろんな信号が、お互いにとってコミュニケーションの信号となることで、どんどん社会化が進んでいくということです。ふたつ目の質問はなんでしたっけ。

増﨑:一番気になっているのは、胎児の表情の起源です。今、先生がおっしゃったとおり、私もまったくそう思っています。おなかの中で感情はないから、顔は単に筋肉の収縮でできていて、生まれてきてそれを見た親が、それに対してどういう反応を持つか。それがまた刷り込まれて、子供のほうもそういう感情が芽生えてくる。
岡ノ谷:そう、まったくそこは同意いたします、はい。それって、だからといって、たとえばちっちゃい赤ちゃんが生まれた家に行って「あ、かわいい」って言うと、「あなたは間違っています。これはゾンビであって、顔の筋肉の収縮のあるパターンが表出されただけです」と言う必要はない。そう言う人のほうが、よっぽど哲学的ゾンビなんですね。

増﨑:ある意味、実はですね、先生、胎児の表情のほうがかわいいんですよ、生まれたばかりより。どうしてかというと、水の中で重力が低いからで、顔はピンとしているんですね。生まれるとダラっとなる。
岡ノ谷:たぶん、胎児は自己制御というレベルじゃないから、自律神経系がランダムに動かしているような神経発火に基づいて、表情がいろいろ変わり、それを大人が解釈している。だからこそ、胎児のほうが自然な微笑を出すというのは、そうかなと私も思います。ありがとうございます。

受講生:『奇跡の人』で、ヘレン・ケラーが「水」って言うところでいつも感動するんですけど、そのあと、彼女がもっと抽象的な愛だとか友情だとか、あるいはもっとさらに抽象的なものをどうやって学習したのか、あるいは人間はそれをどうやって学習するのかっていうのを教えていただきたいです。
岡ノ谷:発話とか指文字とかどっちでもいいんですけど、要するに何らかの表現と意味とが対応づけを持つのは、具体的なものについてはそれが理解できますよね。けれども、それが抽象的になるのはどういうことなのかということです。赤ちゃんの語彙を調べてみるとわかることですが、最初は、動詞はまず出てこないんで、名詞、しかも具体的な名詞だけです。その具体的な名詞の組み合わせから、たとえば「大きい」という概念が出てくるようで、「あのトラ、大きいね」とか、「このイヌ大きいね」といった経験が何回かあると、「あのトラは大きいね」「このネコ大きいね」といった養育者全般の発話が、「トラ」とか「ネコ」といった具体物に振り分けられるのと、「大きい」というものが見た目の視野角、大きさと対応づけられる。そういう過程で抽象化がどんどんなされていくのではないかというのが、語彙の発達の研究からいえることです。名詞がある程度そろって、動詞が出てきて、そのあとに、さらに抽象的な言葉が出てくるということで、言葉は、言葉それ自体に「グラウンド、接地される」と言うんですが、対応づけられて、学習されていく。最初は具体物に対応づけられるんですが、だんだんと大きくなってくると、具体物の集まりの名詞の集合に対して、たとえば「大きい」という概念ができるといったことが可能になってきます。

河野:ありがとうございました。今回はリュートの演奏はありませんでしたが、おもしろい映像やお話を聞かせていただきました。本当にありがとうございました。

(おわり)

受講生の感想

  • 体を使ってオスのクジャクを再現してくださる岡ノ谷さんの姿、ずっと忘れないと思います。そして、クジャクを見るたびに、「ハンディキャップ理論」のことも思い出すと思います。心に残る授業でした。「正直な信号」を発しながら生きていこうと思います。

  • この少し前に六本木ミッドタウンで開催されていた「虫展~デザインのお手本」 に行きまして、 そこで「自然はデザインをしない」という言葉を見ました。 自然界では機能の結果、美が生まれることはあっても、それを目的として追求することは無い。この講義と通じるものが多く、一人で内容を重ね合わせて楽しんでいました。 そして人間以外の生物のメスは、オスのディスプレイを見て「美しい」「凄い」「格好いい」と考えていない、ただ適応力を測っている。ゲームや漫画で不良のキャラクターがモテる理由がわかった気がします。社会から逸脱した自分を演出することで、適応力の高さをアピールしていたのか……と、非常に納得してしまいました。

  • 意識の話、哲学的ゾンビの話……どれも考え始めると際限なく疑問は広がっていきます。ダーウィンもこうやって考えつづけたのかな、と思いながら、とてもおもしろく聴かせていただきました。