ダーウィンの贈りもの I 
第1回 長谷川眞理子さん

ダーウィンとビーグル号の航海

長谷川眞理子さんの

プロフィール

この講座について

自他ともに認める「ダーウィン好き」の長谷川眞理子さんが、ご自身で撮影してこられたガラパゴス諸島をはじめとするダーウィンゆかりの地の写真をふんだんに見せてくださりながら、ダーウィンのいったいどこがどうすごいのか、お話ししてくださいました。長谷川眞理子版「ダーウィン物語」のはじまり、はじまり。(講義日:2019年5月30日)

講義ノート

河野:トップバッターをなぜ長谷川さんにお願いしようと思ったかというと、小さい頃から本好きで、教鞭をとられてきた場も理系ばかりでなく政経学部だったりして、長谷川さんは、科学者でない人が科学をどう見てきたか、逆に科学者全般がいかに社会を知らないかを、感じたり考えたりしてこられた方だからです。ほぼ日の学校としても、初めて理系の古典を考えるにあたり、理系文系の壁を超えながら何ができるか考えたいと思っています。小難しく聞こえたかもしれませんが、長谷川さんがお話しになることはおもしろいよ、ということに尽きます(笑)。楽しんでください。

長谷川:私がダーウィンというより進化生物学を専門にしようと思った大学の学部のとき、1970年代ですけれど、驚くべきことに、日本ではその頃ダーウィンのことはちゃんと教えられていなくて、知られていませんでした。京都大学の今西錦司先生の「今西進化論」というのが日本的思想としての進化論とされていました。今西先生も結構ですけど、私は本当の進化生物学をやりたかったので、ずいぶんいろんな人と喧嘩しながら進化生物学をかなり独学で勉強しました。その頃、生物学者、特に生態学とか行動学をやろうとしていた私の同僚みたいな人たちがたくさんそういう考えを持っていたので、私たちが、「日本に固有の」ではなく、ダーウィンをはじめとする「世界の生物学の中での進化生物学」を最初に日本に根付かせた世代ではないかなと思います。私たちの世代はずいぶん上の世代と戦いました。その人たちがもう引退している頃で、私も60過ぎていますけど、次の世代はそんなこと全然知らなくて、当たり前のように今の進化生物学をやっています。それを見ると結構なんですけど、日本の進化生物学者が世界の舞台で英語の論文でちゃんとやって、世界の学会で発表して戦っているのは、すごくうれしいんですが、一方で、私たちの若い頃ってなんだったんだろうね、みたいに思ってしまうんです(笑)。それはしょうがないですね。いろんなことをやり遂げるためには、最初の世代は余計な苦労をしなければならない。まあ、余計じゃないのかもしれませんが。

ともあれ、ダーウィンが19世紀の半ばに進化という考えをまとめたのは、本当にすごいことだと思います。それでダーウィン自身にも興味が出てきて、博士号を取ったあとブリティッシュ・カウンシル(イギリスの国際文化交流機関)の奨学金でイギリスに行きましたときに、住んだのがダーウィン・カレッジでした。ダーウィンの次男であったジョージ・ダーウィンというケンブリッジの先生をしていた物理学者が住んでいた家とその隣の家をつなぎあわせて新しい家を作って、この3軒をひとつの建物にして宿舎にしていた。それがダーウィン・カレッジで、私のケンブリッジの先生が紹介してくれて、1年間住んでいました。そのときにダーウィン・カレッジがジョージ・ダーウィンの家で、ジョージ・ダーウィンはチャールズ・ダーウィンの息子で、チャールズ・ダーウィンの孫にあたる、ジョージ・ダーウィンの娘が書いた本があることも知って、だんだんダーウィンの伝記にも興味が移りました。

そこから先、いろいろとダーウィンについて調べたり書いたりしていたら、集英社からダーウィンとビーグル号の本を書かないかといわれて、『ダーウィンの足跡を訪ねて』という本を書きました。夫と2人でイギリスに何回か行っていたので、ダーウィンゆかりの地の写真を撮ってきました。ビーグル号といえばガラパゴスだから、これは行くのが大変だけれど、行きたいなと思っていたら、集英社に「もし写真を撮って書くんだったら、行かせてあげる」と言われて、いい旅をさせていただきました。それで『ダーウィンの足跡を訪ねて』の中にガラパゴスのことを書くことができました。そんなことを、今日はたくさん写真をお見せしながら話をしたいと思います。

今日はダーウィンとビーグル号の航海を中心にして、ダーウィンの人となりや、その考えがどういうふうに作られたかをお話しすることにして、ダーウィンの基本的な理論、進化の理論、自然淘汰、自然選択と適応がどう作られるかという進化学の理論の話はあまりしません。ざっとお話しするだけにしたいと思います。まず最初の生物をめぐる大きな疑問、進化というところになります。

●どうしてこんなに多様なのか、どうしてこんなにうまくできているのか?

生物の世界をめぐって、いちばん重要な興味というのは、なんでこのようにこれほど多くの生物の種類があるのかということですね。今はバイオダイバーシティー、生物多様性とその保全ということが言われます。とにかく、タンポポもあれば、シロイヌナズナもあれば、竹もあれば、苔もあれば……ほんのちょっとしか違わないような、でも種類が違う、どうしてこれほど多様性のあるものなのか、という疑問がひとつですね。それから生き物は、見ていると、とてもうまくできています。たとえば、植物の種子はうまく腐らないで水に運ばれて、どこかに着いたときに芽を出すとか。もしうまくいかなかったら何年も休眠して、ある日いい環境になると芽が出るとか、ものすごくうまくできていますよね。まるで誰かが仕組んだみたいに。どうしてこんなに生き物ってうまくできているんだろうというのは適応性の話です。だから多様性=どうしてこんなにいっぱいあるのか、というのと、適応性=どうしてこんなにうまくできているのか、というのは、全部の生物をいろいろ見ると、すごく不思議な疑問です。

もともと多くの人はそういうことを考えて、不思議なことだと思っていまして、今日はその歴史もあまり話をしませんが、簡単に言うと、それを説明するやり方としてふたつ、考えの系統がありました。ひとつは、いわゆる進化論と呼ばれるもので、生物というのは最初からこうなっていたわけではなくて、だんだん変わって、世代がわりするごとに変わっていって、「昔のものはそうでなかったけれど今はこうなった」というふうに、時間とともに変わるんだと考える。進化論というのは、そういう考えをまとめてそういいます。そして、進化論に対立するのが、こっちのほうがそれ以前はいわゆる〝正統〟だったのですが、キリスト教の創造論。デザイン論とも呼ばれるのですが、生き物は聖書に書いてある創造のときに神様がこれだけ創った。全部創って、そこから先は変化しない。神様だから合理的にちゃんとうまく創ったのだという説明です。

ダーウィンが1809年に生まれたとき、世の中だいたいは創造論でしたので、創造論者として育ちます。特にウィリアム・ペイリーという神学者が書いた『自然神学、または神の存在と属性に関する証拠の数々』という有名な本を読んで非常に感銘を受けて大納得しています。『利己的な遺伝子』で有名な進化生物学者でライターもやっているリチャード・ドーキンスが、『盲目の時計職人(“The Blind Watchmaker”)』という本を書いていますけど、それはこのペイリーの本の中に出ていることから書いているんですね。ペイリーは、「もし山の中で時計が落ちているのを見たら、これは時を計るもので、竜頭を回すとねじが巻かれてなんていうのは、誰か考えた人がいるに違いない。こういうデザインのものができるためには、絶対誰か合理的な考えを持った創造者がいたと考えるに違いない。だから、それと同じに山を歩いていて、カブトムシとかなんとか、すごくうまく生きているのを見たら、これは神様がデザインしたに違いないだろう」という、そういう論調なんですね。ダーウィンはそれに納得していたわけです。それに対してドーキンスは、現代の進化生物学者なので、「神様を持ち出さなくても、そんな目的とかデザインとか何も分かっていない盲目の時計職人がやっても、ちゃんと時計はできるよ」というような、「自然淘汰、自然選択というのが何世代も働くと、結構、一見うまくいくものはできるんだ。デザイナーはいらない」と、そういうことを書いています。自然選択・自然淘汰の理論はダーウィンがちゃんと理論づけしたけれど、進化論というのは、そういうふうに世代ごとに生き物が変われば何かできるという、そういう考えですね。それに対して、当時の本流は創造論で、デザイン論でした。

ビーグル号での航海などをへてダーウィンは、最初はペイリーの本にすごく納得していたけれど、だんだんその確信が揺らいでいって、途中で進化論のほうに変わり、最後、進化の理論をちゃんと構築します。でも、その当時のイギリスおよび西欧世界、キリスト教世界は、ここは日本とすごく違うのですが、聖書を中心とした創造論が正統な哲学であって、それを覆す進化論は宗教的な異端なんですね。ですので、そういうことを言うのはすごく大変で、ダーウィンよりほんのちょっと前の人でそういうことを言った人がみんな激しく批判されたので、彼はなかなか言いたくなかった。なので、1844年に友だちの植物学者ジョセフ・フッカーに「進化理論を考えている」という手紙を書いたときに「まるで殺人を告白するようなものだ」と書いたわけです。今では創造論ではなくて、進化は事実だし、いろいろな生物は大昔から同じではなくて、大昔のおおもとのところからいろんなものに分かれていって、それぞれがそれぞれの生きている場所でうまくいくように適応性を身につけてきたんだということが分かっているわけですけどね。

もしも創造論だと、資料にシイタケ、大腸菌、アカパンカビ、チンパンジー、粘菌、イチョウ、シロイヌナズナ、ハト、カメレオン、クロシロコロブス……と、生物の名前がずらずら並べてありますが、こういうものを全部神様があるときに創ったということになるので、どこまでたどっても、聖書の最初の時点に至るまで、これらの系統は全部まっすぐ降りていって、お互い交わることはないんです。だけど、進化だと、系統樹になる。今は、多分生き物は38億年ぐらい前にさかのぼって、38億年前の地球で、ある何か元祖のものからだんだん進化で分岐していったと考えられています。その分岐の関係を表すのが、この枝分かれした図で、系統樹といいます。こういう関係があるので、シイタケと大腸菌とアカパンカビとチンパンジーは、まったく関係ないのではなくて、菌類のシイタケは植物と近くて、大腸菌はバクテリアだから非常に遠くて、チンパンジーとクロシロコロブスは霊長類だから結構近くて、ハトは鳥だから脊椎動物なのでサルとちょっと近い、というふうに、全部枝分かれのどこかに入るわけです。今は大きく三つの枝があり、それがそれぞれ分かれてというふうに、生物のお互い同士の関係が書かれています。こういう図がどんどん正確に書かれるようになったのは、遺伝子が全部読み取られて、その関係がどんどん計算できるようになったから。ここ20年ぐらいの進歩はすごいです。系統樹をどうやって作るかという話をすると90分ぐらいかかるのでしませんが、こういうことが分かってきました。

●進化のメカニズムの解明

では、どうやったらシロイヌナズナとイチョウとハトと粘菌が違うものになっていけるのか。どうして38億年前に単純なものだったのが、世代を重ねるといろんなものになっていけるのかという「進化のメカニズムは何なんだ」というのは、なかなか分からないわけです。ギリシャ時代から生き物は変わっていくと思った哲学者は何人もいるんです。だけど、どうしても、そのメカニズムが、単なる思いつきみたいなことしか言えなかった。最初に植物ができて、次に動物ができて、いろんなものがばらまかれて、うまくいったものだけが寄せ集まってできたとか、そういうことを言っている人はいたけれど、19世紀の科学の中で、どういうメカニズムで多様なものができて適応性が獲得されるかを言えた人はいなかったんです。

ダーウィンのひとつ前は、有名なジャン=バティスト・ラマルクで、「用不用説」といって、使ったらうまくいくから、そういう器官が発達して、使わないところはダメになってなくなる、というようなことを言った。首を伸ばせば長くなるとか、そういうことを言いました。ラマルクも進化論でキリスト教に反するからすごい叩かれたし、最後は盲目で貧困のなかで死んでしまうんです。そういうことがあって、ラマルクの進化論などは出ていたけれど、本当に科学的にメカニズムを説明するということができていませんでした。それに、やっぱり神様との対立は、すごく恐ろしいことであったわけです。

そういう背景のなかで1809年に生まれたダーウィン。私は『ダーウィンの足跡を訪ねて』のために、ダーウィンに関係するところはいっぱい行きました。この写真は、私の亭主が撮った写真です。ダーウィンは、イギリス・シュロップシャー州のシュルーズベリで生まれました。ダーウィンの生家は、マウント屋敷(The Mount)と呼ばれる、何十部屋もあるような大邸宅です。お父さんは当時の英国の長者番付何番目かの大金持ちです。職業は医者。そのお父さん、ダーウィンのおじいさんがエラズマス・ダーウィンという医者で、ちょっと進化の話みたいな詩を書いたので有名な人です。その生家に行ったら、今は不動産鑑定事務所として使われていて、入ると玄関の前にダーウィンの写真とか、「ここでダーウィン生まれました」みたいなプレートがあります。不動産鑑定の役所なんだけれど、「ダーウィンのことを調べているんです」って言うと、その係がいて、ちゃんと中を案内してくれます。そのへんは対応がいいです。

お父さんはロバート・ダーウィン。医者以外に株式投資とかで巨額の富を持っている本当に裕福な人です。2メートル近い身長で100キロ近い巨体で、階段を後ろ向きにしか降りられなかった。前向きだと倒れちゃう。すごく怖いお父さんで、よく怒られた。厳格な人ですけど、お金持ちということもあって、ずいぶん支援をしてくれる父親でした。お母さんは、陶器で有名なウェッジウッド家の娘です。ジョサイア・ウェッジウッドの娘。ウェッジウッド家もまた大金持ち。メアハウス(メアの屋敷)がウェッジウッドの本拠です。そこに行ってみましたら、広大な敷地の真ん中に屋敷が建っていて、大きな池が2つあります。そのものすごい大きな敷地の外側の土手みたいなところに、うちの亭主がよじ登って撮った写真です。この家は今は個人の持ち物ではなくて、複数の会社などに貸されているようです。出している写真は、当時のメア屋敷でのウェッジウッド家のパーティで、この中のどれかがお母さんのスザンナ・ウェッジウッド。ダーウィンという大金持ちのお医者とウェッジウッドの娘が結婚したので、すごい大金持ちの家になったわけです。そういうところに生まれたのがチャールズ・ダーウィン。

ところが、8歳のときにお母さんが亡くなってしまうんです。それでお父さんが悲嘆にくれて、お母さんの思い出をしゃべることを禁じるんですね。それでもっと厳しくなっちゃって、性格がかたくなった。それで家の中は、いつも暗い。イギリスの上中流階級というのは、そういうところあります。感情をワーッと表してはいけないんですね。子供は絶対に騒いでいるところが聞こえてはいけない。 “Children can be seen but not be heard.” とかいって、家の中にいるのが見えてもいいけど、声は聞こえちゃいかんみたいな。騒いだり、泣いたりしちゃいけない。ものすごいストレスだと思います。チャールズ・ダーウィンにはお兄さんがいて、自分が次男です。お姉さんが3人いて、キャサリンという妹がいました。3人のお姉さんが母親代わりになって、よく世話をしてくれたので良かったんですけど、とにかく家の中は暗いし、お父さんは怖いという、暖かみのない感じの家だったようです。お兄さんは医者になろうとしてなれず、家も継がず、エディンバラに行って、大学に行って中退した。大金持ちの家だから、プラプラしていても生きていけるわけです。親の財産で暮らして、ロンドンの社交界でいろんな人と付き合って、アヘン中毒になって、結局、何にもならなかったのがお兄さんのエラズマス。

そういうのと同じような環境にいたわけだけど、このチャールズという次男はごくつぶしにはなりませんでした。だけど結局、一生働くこともなく、稼ぐためになにかをしたこともなく、お気楽な暮らしでした。うらやましいですね、不労所得者というのは。18歳ぐらいのときに、家の財産と利息とかを全部計算して、「自分は一生働かなくても食べていける」と結論するんですね。株の大暴落とかにならなくてよかったけれど。結局お兄さんも自分も、一生職業には就きません。それでもすごい暮らしができた。毎年、株の配当とかすごくて、ダーウィンにもすごい配当が入ってきた。その配当をまた彼は細かく計算して、自分の子供たちに分けてあげる。まあ、そういう人なんですね。それを聞いた私のケンブリッジの友達が「まあ、なんて嫌な性格の男だろう」と言ったんだけど、いや、そうでもないですよ。ダーウィンはいい人だと思う。

最初は、小学校からのシュルーズベリ校という、お金持ちが行くパブリックスクール。要はイートンと同じような私立学校です。当時の写真と、私が訪ねたときの写真と、ほとんど同じでしょ。今は新校舎があるので、旧校舎です。シュルーズベリ・スクールは、イートン、ハーローなどと並ぶ非常にいいパブリックスクールになっています。旧校舎は当時と同じように建っていて、その前にダーウィンの座っている銅像があります。パブリックスクールというのは、ラテン語とかギリシャ語とか歴史を教えていて、古典の勉強が全然おもしろくないから、ダーウィンはすぐうちに帰っていました。寄宿学校なのに、すぐうちに帰るんです。お昼ごはん食べにうちに帰っていたというから、毎日帰っていたんですね。いじめとか受けるんだけど、お兄さんが同じ学校に通っていて、守ってくれたそうです。16歳になったときに、医者になるためにエディンバラ大学に入学します。家業が医者だから、医者になりなさいといわれて。ダーウィンって、天才でも何でもないんです。小さいころは、すごい劣等生なんです。好きなことしかやらなくて、怠け者で、遊びほうけるのが大好き。お父さんは、しょっちゅう怒っているんですけど。このとき、特に何をしたいというのがなかったので、医者になろうというのでエディンバラの医学校に行きます。だけど全然おもしろくない。加えて、ダーウィンは優しい人なので、当時、麻酔なしで手術をやっていたわけで、ギャーとかいって切られているところを見ていられないので、とてもひどい子供の手術を見た日を最後に、学校に行かなくなります。それで、あきらめるんですね。

だけど、エディンバラ時代ってけっこうすごかったと思うのは、なによりこのとき、ダーウィンがロバート・グラントという、ラマルク進化論で急進派の無神論者である学者と知り合ったことです。グラントと海岸を散歩しながら、海の動物を観察したりした。そして、16歳なのに、プリニアン・ソサエティ(プリニウス協会)などという博物学者の集まりにも入って研究発表をしたりしています。だから、進化理論に関する芽が最初に出たのは、このロバート・グラントとの付き合いというのが絶対あると思います。

のちに人間の進化を考えたりするのに重要な意味もあったのは、解放奴隷の黒人であるジョン・エドモンストーンという人に鳥とか獣を剥製にする技術を習ったこと。それも、このエディンバラ大学の医学部です。奴隷だったジョン・エドモンストーンは解放されて、エディンバラ大学の医学部に技官として雇われていました。エディンバラの博物館のための剝製を作っていた人なんですけど、その人にダーウィンは師事して個別授業で教えてもらって、剝製技術を身に付けます。そのときに仲良しになって話をするんですね。そのことによって、ダーウィンはもともとヒューマニストなんだけど、黒人が当時いわれていたような野蛮人とかそんなことはなくて、奴隷なんて冗談じゃなくて、まともな人だと感じたわけです。エドモンストーンという人は南米のガイアナの出身なので、南米の話をたくさんしてくれた。南米のものすごい植物の密林とかにあこがれたのも、エドモンストーンの話というのが最初にあったようです。

進歩主義のロバート・グラントが先生としていられたというのも、1830年ごろのエディンバラが「北のアテネ」とよばれた進歩主義の土地だったからですね。ダーウィンが次に行くケンブリッジ大学は正統派キリスト教の牙城みたいなところなので、すごく古臭いんですけど、エディンバラはけっこう開けた進歩派だった。その中でも特に無神論者で急進派のグラントと知り合えたというのは、進化を考える基礎として、まだ全然芽は出ていないけれど、インキュベーションがあったのではないかと思います。

●昆虫採集と鳥撃ちばかり

医者がだめだったので、ダーウィンは戻ってきて、ケンブリッジ大学のクライスツ・カレッジに入ります。医者になれないなら、牧師にでもなるかということです。ケンブリッジ大学の神学科に入るのですが、牧師になるのはなぜかというと、イギリスのアングリカン・チャーチの聖職者になると、教会をどこか割り当てられて、そこの牧師をやる。牧師の給料みたいな「なんとか禄」というのがキリスト教会から武士の禄みたいに割り当てられて、それで適当に暮らして、あとは博物学の自由な研究に没頭できると考えて、牧師になることにしたわけです。当時のクライスツ・カレッジが左側の写真です。その中に写っているのが、ウィリアム・ダーウィン・フォックスという人で、ダーウィンの「はとこ」。子供の数が減って、「はとこ」とか「またいとこ」という言葉はもう死語だそうですけど、このウィリアム・ダーウィン・フォックスという「はとこ」が、一緒にケンブリッジにいたんです。ウィリアムはちゃんと牧師になるんですけど、博物学が大好きで、熱狂していて、この人の紹介で、ダーウィンは植物学者のヘンズロー先生に出会うことができました。ここでダーウィンはどんな暮らしをしていたかというと、本当の昆虫少年で、カブトムシなどの甲虫類を集めるのが大好きで、昆虫採集と鳥撃ちを趣味にしていたようです。モニターに出している漫画は、ダーウィンのケンブリッジの学生時代の友達が、カブトムシの上に乗って虫集めをするダーウィンの漫画を描いてくれた、その友達による漫画です。本当に昆虫採集と鳥撃ちに明け暮れて、バカ騒ぎのパーティばっかりやって、「本当に楽しかった」と回想している。晩年に自伝を書いているけど、「いやあ、あのときは本当に楽しかった」と書いていますね。まあ、楽しかったんでしょう。

そのケンブリッジでは二人、すごく影響力のあった人がいます。一人はヘンズローですね。ヘンズローについては、”Darwin’s Mentor” という本がありますけど、本当にダーウィンのメンターだった。ダーウィンは、「ヘンズローと散歩する男」と呼ばれたんですけど、本当にいつもいつもヘンズローと一緒に植物園などを歩いて、いろんなことを教わりました。ヘンズローも聖職者、牧師なんですよ。そういう意味で、博物学をやるということは、自然界を知って、自然の生物とか地理とか、そういうのを研究するのは余暇みたいなもので、それで食べていくわけではなく、ケンブリッジの先生というのはみんな牧師の資格を持って、その傍ら、こういう研究をしている人です。でも本当に植物学に関しては、ヘンズローの指導がすごくよかった。もう一人がアダム・セジウィックという人です。セジウィック先生は地質学の教授なんですね。ただ、「私はこれまで一度も路傍の石をひっくり返したことなどなかったが、これから私がひっくり返さない石は一つもないだろう」って、地質学教授になったときに書いているんです。こんな人がどうして地質学教授になれるわけ(笑)? どうも1830年ぐらいというのは、まだ学問がちゃんと分岐していなくて、一応、博物史とか自然哲学とか、そういうふうにはなっていたけれど、地質学も氷河期があったかが疑問視されているような、聖書の「ノアの方舟」の洪水の話で説明していたような時代なので、誰でも「地質学やって」って言われたらやったのかもしれません。

それで、ダーウィンはバカ騒ぎをして、パーティやって楽しく過ごしました。女の子にふられても、昆虫採集ができれば全然痛くないみたいな、そういう学生。それで卒業します。だけど最後はすごい勉強をして、けっこう上位の成績で卒業しています。何番だったかを調べたら、「5番以内に入っている」という話も聞いたことがあるんですけど、別の資料では、「アッパーミドルぐらい」とあって、けっこう上位の成績で卒業することはできました。しかし本人が晩年に書いた自伝では、エディンバラ大学もケンブリッジ大学も、「学問的に得るものはまったくなかった。まあ、楽しかった」と書いてあるだけでございます。ということで、ダーウィンの少年時代からケンブリッジまで、でした。

●ビーグル号での航海へ

それで23歳ですか、卒業して「ビーグル号」に乗ることになります。卒業して帰ってきたら、「ビーグル号に乗らないか」という手紙が来ていて乗ることにするんですけど、それはヘンズロー先生からの紹介でした。ビーグル号というのはイギリスの軍艦で、経線をちゃんと書くために世界一周して世界中の経度を測量する船です。1回目の航海のときにうまくいったところがあって、取り残しが南米のあたりなので、もう一回南米の経線を測りにいかないといけない。1周してくると5年ぐらいかかるんですね。5年間、世界一周の旅を帆船でするわけなんだけど、軍艦ですから、軍艦の艦長はヒエラルキーがはっきりしていて軍隊のトップなので、ほかの人と私的な話をしちゃいけないんですね。5年間黙々と一人でご飯を食べながら、命令するだけで、人と話さないで乗っていたら、前の航海のときに、フィッツロイ艦長は鬱病になった。それで2度目は、また5年で、そういうことが嫌だから、話し相手を連れて行きたいと。そういう人を雇うわけにはいかないから、無給でお友達として、自費で乗ってくれないかという、そういう紹介をしたんです。何人かの人が行きたいって言ったんだけど、フィッツロイは気難しい人で、面接しては、「こいつはだめ」みたいに、合わない。それでヘンズロー先生にも声がかかって、ヘンズローは自分が行きたかったんだけれど、ちょうど結婚して、奥さんが臨月の頃だったので、残念ながら行けません。じゃあ誰ですかねといって、いろいろあたるんですよ。それで最後にあたったのがダーウィン。そこまでの人はみんな断ったか、うまくいかなかったかで、ダーウィンは二つ返事で行きたいと思った。ところがお父さんが大反対。医者になるといって、なれなかったろう、と。牧師になるといって大学を卒業したと思ったら、今度は5年間の世界一周に、無給で、費用自分持ちで行く。いったい何を考えているんだと、さんざん怒られます。

ダーウィンも絶対行きたいから、いろいろ考えました。ウェッジウッドの叔父さん、お母さんの弟に話をしたら、こんなにいい機会はないと。お父さんを説得してやるよと言って、ウェッジウッドの叔父さんが、「これは行かせた方がいいですよ」と言ってくれました。それでお父さんも、見識のあるウェッジウッドの叔父さんがそういうならいいだろうと言って、行くことになります。大慌てでいろいろ用意して、お姉さんたちがシャツを何枚も縫ってくれた。買わないんですね、ちゃんと仕立ててくれた。拳銃を買ったりもして、行きます。無給の「艦長の友人」なので、費用は全部自分持ちです。

そうやって航海が始まるんですけど、ダーウィンが影響を受けていた書物というのがあり、それがけっこうポテンシャルを感じさせるものです。フンボルトっていますね。フンボルト海流などに名前が残っているドイツ人の探検家。このフンボルトがだいたい同時代人で旅行記をたくさん出していて、ダーウィンはそれを全部読んでいるんです。フンボルトの旅行記に感激して、特に南米への情熱がすごくあった。その前は、ペイリーの「自然神学」で、生き物がどうしてこんなにすごいかというと神様が合理的にデザインしたからという、”argument from design”。そういう本に、もちろんすごく影響を受けていました。だから、博物学とか、熱帯の自然に強い興味を抱いたけれど、生き物の存在に関しては「デザイン論」に感銘を受けている若者だった。

そういう、けっこう保守的なバックグラウンドなんだけれど、2冊、すごく影響があって、ちょっと毛色の違う本があった。ひとつは、ジョン・ハーシェルの『自然哲学研究に関する予備的考察』という本。これは自然科学の研究をしようとしたら、どういう方法で、どういう説明をしなければならないかという科学哲学的な本です。これに「真正な原因、本当の原因というのは、自然界でその存在が確認されており、それで多くの現象を説明できる原因、これが真正な原因で、これが重要だ」と書いてあるわけです。ということは、「ノアの洪水がどうした」とか、「神様が合理的につくった」とかいうのは、自然界に存在が確認されていますか? その言葉で多くの現象が説明できますか? というと、ちょっとグラグラッとくるでしょ。なので、聖書に書いてあることは全部確かなことだと初めから受け入れてしまえば、聖書話で議論は組めるけれど、じゃあ本当に、その存在は確認されていますかとか、ひとつの原理で多くの現象を本当に説明できますかっていうと、「このときにはノアの洪水だけど、このときには火の柱がどうのこうの」とか、そうなると、ひとつの原因で全部を説明できていないですよね。それはいけないんじゃないかと、ハーシェルは書いているので、科学方法論としてダーウィンに基礎を与えたと思います。そして、もうひとつがチャールズ・ライエル。『地質学原理』の全3巻です。これはダーウィンに、けっこうすごい影響を与えていると思います。ライエルは、ちょっと年上です。イギリスのこの時代の地質学者として有名で、『地質学原理』全3巻を1830年から33年にかけて出版しました。

艦長のフィッツロイは科学者ではないし、自然哲学者でもないけれど、地質学にすごく興味がありました。なぜなら、軍艦で世界を一周していろんなところを見るわけだから、天然資源に着目して、そのころは石油ではなく、金とか銅とか石炭とか、そういう天然資源があるところを見つけたら、イギリスの国益になる。だから地質学的に、どこにどういう天然資源があるかをちゃんとわかることは重要なことだと思っていました。その観点から地質学に興味があった。それで、なんと出航直前に、『地質学原理』第1巻をダーウィンにプレゼントしています。そして、2巻、3巻は航海中に注文して送ってもらっているんですね。軍艦が寄港するたびに、世界中の郵便局に局留めで送ってくるんですよ。イギリスの郵便制度というか、世界中の郵便制度というか、本当にすごいです。ダーウィンはこうやって送ってもらって読んでいます。このライエルの地質学は、地質学を画期的に変えた。「過去の地質現象は現在の自然現象と同じ作用で行われた」と考える斉一説(せいいつせつ)で、ダーウィンは、そのライエルの地質学の方法論を生物に応用して進化の理論を構築したので、「ライエルなくしてダーウィンなし」と言えると思います。

絵は、ビーグル号とフィッツロイです。ビーグル号ってこんな船です。帆船の軍艦。Her Majesty’s Ship(女王陛下の船)なので、HMSビーグルといいます。私、ほぼ日の方に、「ビーグル号の模型って持っていないですか?」って聞かれて、「いや、持っているんですよ」って(笑)。持っているんだけど、作りかけでもう何十年も完成していないんです。ひとつひとつ、全部自分で板を曲げながら打ち付けて、最後にマストも全部立ててっていう、ものすごい力作になるはずなんですが、全然できていない。台だけはできているんですけどね、マストが立っていないし、なにもないし、色も塗っていない。なので、今日、お見せすることができませんでした。それから今日はこの服じゃなくて、ダーウィンの顔とダーウィンが最初に書いたという系統樹がついているTシャツを着てこようと思ったんです。それでしゃべろうと思って洗濯しておいたんだけど、今朝一番に文科省の会議があって、あれを着て出ていくわけにはいかなかったので、残念ながら今日は披露できません。いつか着てこようと思っています。

それで、フィッツロイ艦長ですが、25歳で艦長です。けっこう気難しい人で、先ほど言ったように、艦上で一緒に話せるジェントルマンを募集しました。それで面接をしたときに、最初「鼻の恰好が悪い」とか言ってダーウィンを気に入らなかったんだけど、話をしているうちに意気投合して、一緒に乗ることになります。よく、「ダーウィンはビーグル号に艦の博物学者として乗った」と誤解して書いているものがありますが、そうではなくて、艦の博物学者はほかにいます。マコーミックという人がいたけれど、結局喧嘩して、ダーウィンの方が優れているから、途中で降りていなくなっちゃうんです。

●フィッツロイと仲が良くなかったからこそ

フィッツロイとは、「お友達」という立場で乗っているので、同じ軍艦の中の同じ一画に暮らして、ご飯を一緒に食べる。そして、お話をしなきゃいけないんですけど、艦長は本当に気難しい人で、よく怒って、すぐに「お前、出てけ」って言うんですね。で、「出ていきますよ」と、「降りますよ」といって、ダーウィンは自分の部屋に入ると、下士官がやってきて、「フィッツロイ艦長も後悔しているみたいなので、仲良くしてあげてくれませんか」と言う。「それよりなにより、ダーウィン先生がいなくなっちゃうと、僕たち困るんです」みたいに言われて、何回も仲直りするんです。でも、あんまり一緒にいたくないので、しょっちゅう船を降りるんですよ。経線の測量はフィッツロイたちの仕事だけれど、そのときに、ダーウィンは自分で南米大陸を探検するためにしょっちゅう降りて、何カ月も大陸をさまよって、「3カ月後に船がここに来たときに乗りますね」みたいなことをやって、それがダーウィンの南米でのいろんな研究になりました。だからフィッツロイと本当に仲良しで、いつも一緒にいたら、あの研究にはならなかった。結局この艦長は、キリスト教原理主義の女の人と結婚して、のちに鬱とかそういう気質があったのか、自殺してしまいました。ビーグル号の艦内はこういう感じで(絵)、「スペースの絶対的な不足が問題です」と手紙に書いています。そして、最悪の船酔い。あんな帆船なら、最悪の船酔いですよね。最後まで克服できなかったみたいです。狭い船にぎゅう詰めになって、フィッツロイと考えが合わないんだけど、喧嘩できなくて、時々口答えすると「出ていけ」とか言われる。それで、出て行きます。

航海の航路はこんな感じです(地図)。イギリスのプリマスを出て、大西洋に出て、南下して、ベルデ岬諸島とかへ行って、南米のブラジルあたりに着いて、そこからパタゴニアの方に下がっていって、パタゴニアのティエラ・デル・フエゴを回って、今度はチリの海岸を北上していく。それでガラパゴスに行って、太平洋をぐるっと。これはもう測る必要がないので、サーッと行く。タヒチに寄って、ニュージーランドに行って、オーストラリアに行った。ココス島に行って、マダガスカルからケープタウン経由で、もう1回ブラジルに戻って、そこから北上して帰った、というのが5年間。1831年から36年、23歳から28歳まで、こういう暮らしをした。すばらしいと思います。本を書くとき「この航路全部やらせてよ」といったら、集英社が「そのお金はありません」と。そりゃそうですよね(笑)。

ビーグル号では、フィッツロイも地質学に興味があって、ダーウィンも、アダム・セジウィックに師事した一応地質学者です。ダーウィンは生物学者か地質学者か分類すると、本当は地質学者なんですね。そのあとで生物がついてきた。最初、地質も生物も一緒のような自然哲学だった時代に、何を一番きちんと学んだかというと、地質なのです。ライエルの『地質学原理』は、斉一説を唱えて、それによって地質を説明しています。斉一説は、現在も過去も同じ自然法則が通用していると考えること。だから、現在働いている原因のみで過去も説明できます、と。その原因となる自然法則の強度、どれくらいそれが強く働くかというのも普遍であって、過去のこの時期だけすごく強かったとかっていうことはないと言っています。今だと、たとえば地磁気が変動したり、惑星の軌道が完全に円じゃないから、ちょっと遠くなったりとか、そういうことはあるので、同じ観測がいつも同じ、普遍的かというと、そうでないことはありますよね。でも一応、ライエルの考えは、たとえばニュートンの力学が100万年前は通用しませんでしたとかそういうことはなく、自然法則は現在も過去も普遍であると。現在働いている原因のみで、過去の現象も説明できるというのは基本。それは物理化学系としてはそうですね。それで彼は、浸食作用、土砂を運んで川の下流に堆積が起こるという、そういう水の作用と、火山活動、地震それぞれ関連した地盤の隆起・沈下という地下の活動、こういうことで全部説明できると言っています。まだまだプレートテクトニクスもなければ何もないんだけれど、この水の作用と火山活動、地盤の地下の活動によって全部説明できるとライエルは考えて、いろいろ例を挙げて書いています。ダーウィンはその本を読みながら観察をした。そして、ハーシェルの、真正の原因で説明しなければいけないという本も読んでいた。

そして、西アフリカ沖のベルデ岬諸島のサンチャゴ島が見えてくると、海岸のちょっと上のところに、白い線が見える。1832116日のこと。いったい何だろうと見ると、島の海岸線、岸壁に、長く続く水平の白い帯。これは大量の貝殻で、同種の貝は近くの海岸にまだ生きています。結局これを水と火の作用で説明しようとすると、海底の火山岩の上に生息していた大量の貝がいて、爆発した溶岩がその上に積もって、そのうちその海岸が隆起して、水の作用、波の作用で浸食されてあらわになったというふうに現状が説明できるんではないか。ダーウィンはこれを自分で考えて、「おお、ライエルの方法論がうまくいく」と考えた。ダーウィンの最初の地質学的成果は、ベルデ岬諸島の地質の説明でした。

そういうことで、いろいろと地質学的な観察は進みます。南米の南の端っこのパタゴニアでは、斑岩(はんがん)という岩の丸い小石の地層があって。それが第三紀の地層の上に乗っかっているのが見える。これは山にあった斑岩が川に運ばれて砕かれて、角が削られて丸い小石になって、それが海に運ばれて海底に堆積して、その海底の堆積層が徐々に隆起すると、今、パタゴニアの地層が見える。そういうようなことを考察しています。サンタクルス河を遡行したときも、同じように、どうしてこの地形ができるのかというのを、ちゃんとライエルの方法論にのっとって説明をつけることが自分でできた。自分で納得できる説明が書けた。それからオソルノ山という山で噴火を目撃します。1835119日。そのあと220日、バルディビアというところで、自分で大地震を体験します。コンセプシオンという町で、地震の大惨事のあとを見ます。

大事なのは、日本と違って、イギリスにいたら地震はないことです。地震なんて起こることがない。レンガ積みの家に住んでいるわけでしょ。地面が動くとか、グラグラグラッとなって、ここにあったものがボコッと上に上がるとか経験したことがない、国民的に何百年も経験したことがない人たちなので、地震によってどれくらい地殻変動が起こるか、地形が変わるかということを思い描けない。ダーウィンは、それを南米にいたときに経験をしたので、ライエルをはじめとする、いろんな地質の話がきちんとイメージできるようになった。地震と津波の威力がわかったし、バルディビアで経験した地震のあと、コンセプシオンでは、海岸の隆起が1メートルぐらいになって、沖の島の方では3メートルも上がったところもあった。それで、ライエルの本に書いてあったとおりではないかと納得したわけです。バルパライソの近くでは、貝殻の堆積物が海抜400メートルの高地にあるとかね。長い年月が経てば、地球表面の環境は大きく変わるんだということを、一夜にして見た、そういうのがすごかったと思います。それはイギリスにずっと住んで地震とかそういうものを見たことない人には、なかなか想像がつかないことでした。イギリスはすごく古く、なだらかな地形で、北の方にあって、昆虫もあまりいないところ。そういうのんびりしたところで過ごしていると、自然の本当のすごさは、なかなかわからないんですね。

●いくつかの〝画期的な経験〟

そのあとアンデス踏破を、18353月から7月にかけてやります。これはまさに、フィッツロイと一緒にご飯を食べたくないから。「ここで降りて、ちょっと探索しますから、3カ月後にね」みたいに言って行くんですけど、サンティアゴからポルティーヨ峠に行って、メンドーサに行って、ウスパヤタ峠に行って、サンティアゴに戻る。このときに、アンデスの地質学を全部自分で記述した。珪化木(けいかぼく)ってご存知ですか。樹木がそのまま化石になったもの。5メートルもあるような樹木がそのまま化石になっている珪化木が、グランドキャニオンの近くに行ったら見られます。何回も行きましたけど、ほんとすごいです。ゴロンゴロンと大木が倒れていて、それがみんな石なの。木そのままなんだけど、化石になっている。こういうのが、ウスパヤタにはある。倒れているのもあれば、途中で折れているのもいっぱいあって、そういうのをダーウィンは見た。それで、アンデスの生成過程を考察します。アンデスだから、すごく高いところにラバで上って下りて、1カ月以上かけて観察しました。アフリカ西海岸のベルデ岬で白い地層を見て、ブラジルはあまりないですけど、パタゴニアの方ではいろいろ経験をした。アンデス踏破では、チリのメンドーサ、サンティアゴあたり。そこから先、ガラパゴスに行って戻ります。

ビーグル号の航海の〝画期的な経験〟というのがいくつかあります。ダーウィンがのちの自伝の中でも書いていますが、南米大陸で地震に遭遇したこと。そして、一夜で地形が変わるのを体験したこと。また、自分自身でパタゴニアでオオナマケモノの化石を発掘しました。それはすごい興奮して書いています。生物は本当に絶滅するし、いろいろ変遷するんだなということがわかる。それから絶海の孤島のガラパゴスで、南米大陸にいるのとそっくりのマネシツグミを見つける。なんでこんな絶海の孤島なのに、南米と同じ鳥がいるんだろうなということに思いを巡らす。ガラパゴスでは島ごとに生物が少しずつ違うことも見たけれど、その「意味」があまりわかっていないので、島に番号をちゃんと付けないで、標本をごっちゃにしてイギリスに送ります。イギリスに帰ってから、グールドその他の鳥の専門家に、「これ、みんな種類が違いますよ」とか、「これ、どこで発見したんですか」とか言われて、「わかりませーん」って(笑)。あと、カメの甲羅も、「島ごとに形は違うんですよ」と水夫さんに言われるんだけど、「あ、そう」くらいで興味を示さなかった。カメは何のために捕るかというと、肉を食べるため。食べたあとは甲羅を甲板から海に捨てていたので、カメのこともちゃんと記述していない。実際『ビーグル号航海記』を読むと、ガラパゴスなんてほんの数ページしかないんです。だから、あそこでなにかをドーンと経験したっていうのはウソだと思います。

あとは、めくるめく熱帯の植物の多様さですね。なんで神様はこんなにたくさん、いろんなものをつくらなきゃいけないんだということを、身をもって感じるというか、イギリスでは感じられないほどの種の多様性を感じた。それからフエゴ島という島のフエゴ島人、当時のいわゆる野蛮人と呼ばれている人と付き合って、人間の本性は野蛮人と同じで、文明というのは衣を着せているだけで、教育が絶大な効果を施すけど、文明人が人間なのではないということをすごく感じたのが、ダーウィンの6大経験ですね。ビーグル号航海の収穫として、人間に関しては本当に、フエゴ島で〝野蛮人〟を見たというのが一番のショックだったと思います。ここでちょっと休憩にします。

●長谷川さんのガラパゴス

再開します。たくさん時間があると思っていたら、けっこうないですね(笑)。飛ばします。2005年夏に、私はガラパゴスに行きました。(写真を示しながら)こういうところだったんですけど、観光客を乗せた飛行機1日2便も来ているとは思ってもいませんでした。絶海の孤島に行くつもりで行ったのに、ボーイングがどんどん飛んでくるんです。ひなびた入国管理事務所がありました。島の中にホテルはほんのちょっとしかなくて、島で暮らしたり、観光客がいっぱい泊まってはいけないので、船に泊まります。その船に乗るために、サン・クリストバルの港に行って、船まで行くんです。自分が泊まる船に行くまでのゴムボートの上に、アシカがいるんですよ。感激して、めっちゃ興奮して、ボートがすごい揺れるんですけれど、写真を撮っていたら、「うわ、ここにも」「うわ、ここにも」って……別にそんなに驚く必要ないほど山のようにいて、最後はもう、すごく近くまで行けました。グンカンドリが飛んでいたり、アオアシカツオドリがいたり。赤道直下だし、求愛しているのもいれば、卵をあっためているのもいれば、ヒナがちっちゃいのもいれば、大きなヒナになっているのも、みんな一緒にいました。観光客がすぐそばまで行ける。全然人を恐れない。鳥とか死ぬと、乾燥してミイラみたいになって、なかなか土に還らないので、すごい臭いです。足が赤いのが、アカアシ。観光客の前をビューンと通っていく。アカアシには白バージョンもあります。アカアシカツオドリのヒナもいました。すごい感激して、感激して。ナスカカツオドリってまた種類の違うのもいます。Swallowtailed gullは夜行性のカモメ。グンカンドリが真っ赤なノド袋を膨らませて求愛しておりました。この求愛はくちばしをカタカタとやったりして、音もうるさいんだけど、この赤いノド袋は、すごく薄い皮膚が血液で赤く見えているので、喧嘩して引っ掛けられてパーンとなったらおしまいなんです。

ダーウィンが最初にガラパゴスで進化を考えついたというのはウソなんですけど、このマネシツグミ、mockingbirdというのが、南米の大陸で見たのとまったく同じのがここにいるじゃないか。これは何なんだと、生物地理学的にいろんな疑問を持った最初がここです。それからnight heron、サギがいて、lava gull、ヨウガンカモメ。もう300ペアしかいないという絶滅危惧種です。次は、サボテンを食べたりしているリクイグアナです。のっそ、のっそ歩いて逃げていきましたが、すごく近くまで寄れました。海に行くとヨットとアシカがいる。有名な、バルトロメ島の溶岩のところにゴムボートで行きました。真っ赤なサリーライトフット(sally lightfooted crab)というカニがいました。その島に上陸すると、アシカを見ても、もう最初のときみたいに興奮しないです(笑)。吠えるオスがいて、歩くメスがいて、親子がいて。オスとメスがつんつんしていて、岩の上にゴロンと寝ているんですよ。まあ、よく寝ている。なぜか、波打ち際で寝るのよ。どうしてこれで寝られるのかっていう姿勢。なんでまた、ちょうど波のところで寝るんだろうと思います。

写真の中で、ベルトをつけているのは、ガイドさん。島から島へ移るときには、砂が別の島に行かないように、ちゃんとパンパン払ってくださいねとか言われるんだけど、そんなパンパンはたいたぐらいじゃだめですよ、本当はね。今、もっと厳しいかもしれない。あと何年かすると、本当にもう観光客は普通には受け入れなくなるかもしれません。その危惧は前からされていますけども。

海の中ではイソギンチャクと海綿が、こんなにきれい。ペリカンもすごい。それから、ガラパゴスペンギンが上を向いて鳴いています。ボートが近づいていくと、ペンギンの家族が続々と出てきて、接近していったら、なんと向こうが飛び込んで泳いで近づいてきて、ゴムボートのロープをかじって、また帰っていきました。私は動物専門なので動物にしか目がいかないんですけど、植物学者にとっては、このオプンチアというサボテンが、固有種がいろいろあって、とてもおもしろいんだそうです。でも私はこのへんの植物は全然よくわかっていなかったので、撮る気もなくて、動物ばっかり撮っていたら、帰ってきて植物学者に怒られました。

さきほどのリクイグアナは陸だけですけど、ウミイグアナは海に入って海藻を食べています。このウミイグアナが島ごとに違うんですよ。それを私も、ダーウィンの最初と同じで、ちゃんと何島のどの浜というのを書いていませんでした。これ、ダーウィンがすごくいい観察をしています。ウミイグアナというのは、脅かしても、脅かしても、全然海に逃げようとしない。これはおかしなことだ。なぜだろうと『ビーグル号航海記』の中で書いています。こちらの写真は、ヨウガントカゲ。なんでも「溶岩(lava)」がつくんですね。ラーバガルとか、ラーバリザードとか、ラーバサボテンとかね。これがラーバサボテン。溶岩はゴホ、ゴホって噴火したみたいな跡があって、よくツアーガイドに載っています。すごいねっちりした溶岩なので、渦巻き状に噴出してきたときの形が、そのまま模様になっています。これをハワイの言葉で、パホエホエ(Pahoehoe)、縄という意味なんですけど、こういう溶岩をパホエホエというそうです。パホエホエばっかりです。

グンカンドリは私たちの船、サンタ・クルス号のあとをついてくるんです。グンカンドリがなんで来るかというと、船の残飯に集まっている。船のうしろ、キッチンから残飯をまくんですよ。それにワーッと来ます。いい写真でしょ(笑)? そして、ダーウィンフィンチ。このダーウィンフィンチの写真を撮りたくて、私は何十枚もフィルムをダメにしたんですけど、なかなか撮れないですね。やっと撮れたいいのを集めると、こんな感じです。プエルト・エガスというところにもオットセイがいます。ガラパゴスオットセイ。さっきのアシカじゃなくて、ガラパゴスオットセイ。ダーウィン研究所というのがここにあって、カメの人工繁殖をやっていて、出身地別にちゃんと集団が保てるようにやっています。この写真は、研究所のゾウガメ。ロンサムジョージという名前のゾウガメがいた。この間、死んじゃいましたけどね。サンタ・クルス島の野生のゾウガメもいっぱい見られます。

問題はネコね。問題なんですよ。ネコがリクイグアナの卵や、ラーバガルの卵を食べる、ヒナを食べるというので、駆逐作戦をしています。あとはヤギ。プエルト・エガスに、エガスという人がヤギとヒツジを持ってきたのが全島に広がっていて、それが草を食べてしまう。なので、ネコとヤギ、ヒツジ駆除作戦というのがあって、ぜんぶ船に乗せて、エクアドルの本土に帰して保護施設に入れたりするんです。でも、たくさんいましたね。マングローブの林が延々と続いていて、水鳥だけじゃなくて、グンカンドリとかいっぱい巣を作っています。帰路はバルトラ島で、飛行機が毎日2便、一年に何万人と来ているわけです。

駆け足のガラパゴス案内でした。ガラパゴスはやはり、私たちが進化のこととかを全部わかってから行くと、それはそれはすごいんですけど、ダーウィンは当時、進化のことや自然淘汰のことをまだ考えついていないし、創造論から足が半分ちょっと引き抜かれたぐらいだったので、ガラパゴスに関しては本当に貧弱な記述しかしていません。それよりも地質学的なことでかなり興奮しているし、ヘンズロー先生の指導で、たくさんの標本を作って送っています。シダの標本を作るときには、必ず裏が見えるように押し葉を作れと、ヘンズロー先生が指示した手紙があります。絵が描いてあって、それにならって、ちゃんと標本を作っているんです。ダーウィンは、めくるめく熱帯の多様性には本当に、本気で驚いて、興奮しています。「すばらしい、すばらしい、すばらしい。樹木がこんなになっている、原色のチョウチョや鳥がいっぱいいて……」みたいに興奮して家に手紙を書いています。熱帯の中でも特に南米の熱帯は、すごい種の多様性が高い。有名な話は、アリの学者のエドワード・オズボーン・ウィルソンが、ペルーのタンボパタ国立公園の1本の木に、220種類のアリが住んでいると報告していること。220種類のアリというのは、イギリス全土のアリの種類より多い。だからイギリスに住んでいたダーウィンが、こういうところに来て本当に圧倒されたというのは、そうだと思います。私は南米の林は行ったことがなく、アフリカしか知りませんが、マダガスカルあたりは行っていますけど、やっぱり多様性とバイオマス(生物の総量)の多さは、すごいです。

そういう経験をしたイギリス人というのは、やっぱりちょっと普通とは違う考えを持つかもしれません。でも、植民地で行っている人はいたのに、ダーウィンのような人は他に現れなかったんですかね。ダーウィンは、オオナマケモノの化石を発掘して、マドリッドにひとつしか標本がなかったので、「これだけでもたいした収穫です」と喜んでいます。

次が人間です。1833年に南米の最南端、フエゴ島に行くんですが、フィッツロイ艦長はひどい人で、前回南米を回ったときの航海で、フエゴ島人を4人誘拐してイギリスに連れ帰ったんです。そして勝手に名前をつけた。フュージア・バスケット、ヨーク・ミンスター、ボート・メモリー、ジェミー・バトン。その4人を拉致してイギリスで教育して、紳士淑女に仕立て上げて、キリスト教徒にしたんです。片言とはいえ、みんな英語をしゃべって、服を着て、ちゃんとフォークとナイフを使って、聖書を読んだと。それを今度の航海で故郷のフエゴ島に戻して、戻された彼らが〝野蛮人〟の地元の人を教化して、文明化して、フエゴ島をキリスト教化するということを目論んだ。ジェミー・バトンとフュージア・バスケットは、男の子と女の子のまだちっちゃい子だったのを連れていって、5年間くらいイギリスで育てて戻した。ボート・メモリーは途中で死んじゃうので、帰らなかったんですが、ヨーク・ミンスターはけっこうな大人で、この3人を戻しました。フエゴ島に戻っていったときに、ビーグル号を迎える人たちは、もともとのフエゴ人だから、服を着ていない人もいるし、毛皮1枚だけの人もいる。大雨の中を裸の母親が裸の赤ちゃんに授乳していて、みぞれが赤ちゃんの肌の上で溶けていたとか、そういうのをダーウィンが驚愕して書いていますが、そういう人たちでした。ジェミー・バトンの一族も迎えにきて、それを見たダーウィンが何をどう考えるかが、けっこうミソなんですよ。そこは、ちょっと置いておきます。

●エマ・ウェッジウッドとの結婚

ビーグル号の旅を終えて帰還して、どうしたかというと、1839年に、いとこのエマと結婚します。エマは30歳でした。当時のイギリスの中上流階級のレディが30歳で未婚というのは考えにくいでしょ。ダーウィンがいない間、求婚者が何人かいたんですけど、エマは全部断っていました。ということは、私はエマはダーウィンに惚れていたんだと思う。だけど、ダーウィンはそうでもないと思います。結局、だれでもよかったんじゃないかと思うんですね。というのは、結婚したらどうなるかっていう損得勘定表を作っているんです。結婚したらうるさい、自由がなくなって煩わしいだろうなとか、だけど炉端で奥さんがピアノを弾いてくれたらうれしいなとか、子供ができると楽しいけど、子供は金がかかる……とかね。それで「ああ、結婚」「結婚」「結婚」って書いて、エマに決めたんです。二人は紳士淑女で、礼儀正しく良い関係だったけれど、本当にどうだったのかは、私はよくわかりません。エマはきれいな方です。ウェッジウッドの娘、大富豪の娘で、ダーウィンも大富豪の息子ですけど、エマの持参金もすごかった。エマの家があるメアのセント・ピーターズ・チャーチで結婚式を挙げましたが、これはウェッジウッド家の敷地内にある教会なんです。その教会に、結婚証明書が展示されています。

そのころ、ダーウィンは、有名なマルサスの『人口論』を読みました。それで、全員が死なないで生き残ったら、ゾウでも何でも山のように増えちゃうのに、世の中がそんなにならないのは、多くが死んでいくからであると考えた。では、誰が死ぬのか、誰がうまく生き残るかというときに何らかの差異があったら、たくさん生まれて、いっぱい死んで、残ったのからまたたくさん生まれて、いっぱい死んで、残ったのから……というのを繰り返していくと、世代を経て、うまくいくのが残るだろうと。これは、なにも「デザイン」がなくても、統計学的にバーッと種をまいて、ほとんど死ぬんだけれど生き残ったものから今度は出発して、また種がまかれて、とやっていったら、うまくいく種しか残らなくなるだろうと考えついた、その最初の本当のきっかけは『人口論』にあります。そのあと、人間の道徳に関する考察を行って、ライエルを超えることになります。

そして結婚して、ダウン・ハウスへ。この写真が有名なダーウィンの家。最初、ロンドンにいたんですけど、子供が生まれるころ、ロンドンのちょっと南のケント州に広大な敷地の、何十も部屋があるダウン・ハウスというのを買います。もちろんお父さんに買ってもらったんです。自分のお金じゃないんです。遺産で全部もらえるし、自分の配当金もあるんだけど、とにかく親が大金持ちだから。ここで、治安判事というのもやっていました。その地方の犯罪を裁く裁判のときに民間人がやる治安判事=マジストレートというのを、ダーウィンはやっていました。ダウン・ハウスでは紳士科学者(ジェントルマン・サイエンティスト)として、職業に就かず、何の仕事をする必要もなく、朝から晩まで好きな研究をしていた。そして次々に子供が生まれます。エマとは本当に愛情深い結婚生活を送り、お互いに手紙を書きあったりしています。エマは信心深い人で、進化論は嫌なんです。「あなたが神様の道を見誤らないように望んでいます」とか手紙を書いている。ダーウィンは、「そんなふうに言ってくれる人がいると、私は死んでもいい」みたいに書いています。でも本当はそうじゃない。進化論を考えていたわけです。子供が生まれると、次々生まれた子供の成長と認知発達に関する観察を克明にやりました。親は、これをやったらおもしろいだろうなと思うけど、やった人はほとんどいない。ダーウィンの、子供の成長と認知発達の観察はすごいので、認知発達科学の祖です。

他に、フジツボの生物学的研究を5年間やり、ハトの育種に関する研究をし、温室で食虫植物とツル植物の研究をし、ミツバチを追いかけた。ミツバチを追いかけるときには、10人いる子供、総動員で追いかけさせる。家族ぐるみで研究と観察をします。

大英帝国というのは熱帯を含め世界中にイギリス人が散らばって住んでいるので、そういう人たちに、「おたくのところでは、この鳥はどういうふうに生きていますか」みたいな克明な質問状をいっぱい、3,000通以上書いて、データを集めたのもすごい。そして、ミミズによる土の研究をしていました。ダウン・ハウスのサンドウォークっていう散歩道があって、天候にかかわらず、毎日イヌと散歩をして、これが思索の時間でした。だいたい6時半ごろ起きて、7時に朝ご飯を食べてお散歩して、9時から11時ぐらいまで執筆をして、研究をして、11時からちょっと休んで、1時からお昼ごはんで、昼寝をして、エマにピアノを弾いてもらった。エマは結婚前に、ショパンその人からピアノを習ったんです。すごいでしょ。ショパンはポーランドの独立革命のいろいろなことにかかわっていた人だけれど、一時イギリスに来て出稼ぎをしていたことがあった。そのときにお金持ちのお嬢ちゃんに教えて、お金をもらっていたんですね。そのお金持ちのお嬢ちゃんの一人が、ウェッジウッドのエマだった。エマは終生、ショパンにピアノを習ったことを自慢していたと、ダーウィンは書いています。そういうエマにピアノを弾いてもらった。ソファに寝っ転がったり、エマの膝枕でジェーン・オースティンの最新作などを読んでもらったとか。自分で読まないで、奥さんに読んでもらった。そういうことをして、ゆったり暮らしていたんですけど、このサンドウォークの思索の時間は、すごく大事でした。

フジツボの研究を5年間やったので、その間に生まれた子供は、物心ついてからの5年間、ずっとお父さんはフジツボの研究をしているので、よその子供のうちに行ったときに、「君のお父さんはどこでフジツボをするの?」って聞いたそうです。聞かれた方は全然わからなくて、「フジツボするってなんですか」みたいな(笑)。それは、友達の植物学者のジョーゼフ・フッカーが、「種について何かを言おうという人間は、1種類のものについて熟知していなければ、種の話なんてしても私は聞かないよ」みたいなことを、お茶の時間にポロッと言った。それがグサッと来て、『種の起源』を書こうとしていたんだけれど、5年間フジツボの研究をして、フジツボについて熟知してから、種の話に行った、と。そのフジツボの本、これは本当に古典的大著です。海洋生物研究家の倉谷うららさんがフジツボの研究家で、「ダーウィンのフジツボを超える大著はない」と言っていました。

自然の変異がタマムシでも何でもいろいろあるのをどうやって説明するかについて、ダーウィンは自分でハトの品種改良をやって、変種はどうやってできるか、品種を新しく作ろうとしたら、何が苦労で、何が簡単にできるかというようなことを研究します。そして、1837年から39年にかけて、種の分岐と系統樹の考えを形成しました。そのとき彼がノートに書いた、史上初めての系統樹というのがこれです。元祖系統樹です(図)。

●『種の起源』へ

ダーウィンには、こんな友達がいました。ジョーゼフ・フッカーは植物学者で、エイサ・グレイはアメリカ人の植物学者。トマス・ヘンリー・ハックスレーは動物の発生学などをやっている、こういうちょっと若い友達の輪ができて、みんながサポートしてくれます。それで47年に、先ほどの、「殺人の告白」というフッカーにあてた手紙で、自然淘汰の理論で種が説明できるということを書きました。ところがすごい衝撃は、ウォレスという人が手紙を送ってきた。1858年6月18日に、マレーシアからアルフレッド・ラッセル・ウォレスが論文を送ってきます。これが、『変種が元のタイプから限りなく遠ざかっていく傾向について』という論文で、ダーウィンが考えていた自然淘汰の理論と酷似した論理展開でした。

ダーウィンは息子が病気で大変な時期だったので、「私の何十年の研究が全部この短い論文で取られちゃう」というようなことを、ライエルとフッカーに相談します。すると二人は、ダーウィンの先取権を確保するとともに、ウォレスにも栄誉がいくように、共同発表を考えます。共著論文ではなくて、共同論文ということで、ダーウィンが以前に書いた手紙や論文と、ウォレスの手紙とを共同発表することによって、先取権を確保した。そして、ウォレスの名前も同時に出るようにした。185871日のリンネ学会で発表しますが、何の反応もありませんでした。

ウォレスという人はダーウィンとは全然違って、お金がない家の人だったので、東南アジアで標本を採って、大英博物館に売ることによって生計を立てていた博物学者なんです。なので、力の違いはすごかった。学問的には、いろいろ細かいところは違いがあって、どっちかというとダーウィンの方がスケールが大きいなとは思いますが、社会的なつながりとか地位の違いは、ビクトリア朝のイギリスでは否定しがたい。ウォレスは「生まれが悪かった」としか言いようがない感じの人です。かわいそうに。でもこの人、ダーウィンとやりとりをして、共同研究っぽく自然淘汰の理論について深めていきます。ダーウィンは、本当はあと20年ぐらいかけて発表しようと思っていたのが、これがあったので、すぐに出版しなきゃいけなくなって、自然淘汰のことをまとめた『種の起源』という本を1859年に出します。

ライエルという人は、結局最後の最後まで、進化理論は反対なんですね。認めないんです。だけどこの人のすごいのは、理論には反対なんだけど、これは絶対出版する価値があるから早く書けと言って、出版を勧めた。自分が認めない理論は潰す人が多いんですけど、この人は、「とにかく絶対これは価値があるから出版しなさい」といって勧めたんです。すぐに売り切れちゃって、どんどん改訂になります。ライエルという人は、先ほど「ライエルなくしてダーウィンなし」と言いましたけど、ライエルは地質学的な理論から進化を考えていたし、生物の進化に移行して考えようとしていた。だけどライエルは、それをやっちゃうと人間の尊厳がなくなると思っていた。人間の卓越性というのは、人間が下等な動物と共有する性質や能力にあるのではない、理性にある。理性で人間は彼らと区別されるのだと考えていた。動物と人間との連続性をどんな形にせよ認めてしまうと、人間の尊厳が崩れるので、進化論はだめと考えていた。特に最後の砦は道徳感情です。道徳性、道徳感情というのは神様から与えられるものしかなくて、人間の本性には道徳感情があるということで、人間は特別なものになるのだと、ずっと言い続けていた。

●ダーウィンにとって重要だった道徳性と人種

そのライエルに挑戦するためには、ダーウィンは、種の起源と進化を自然淘汰で説明するだけではなく、道徳性も、種の進化の中から出てくるということを言わなければいけない。ライエルを読んでいるときからずっと、ダーウィンの最後の挑戦は、道徳性の起源。なので、自然淘汰による進化の理論と、道徳の起源の理論は、最初から彼としてはパラレルにありました。それを『人間の進化と性淘汰』(『人間の由来』)という本を書くまでには乗り越えて、道徳性も自然淘汰で説明できるということを書きます。ミツバチが本能をもって巣を作るように、人間も何らかの本能をもって社会を作らないと、こんな社会ができるはずがないと。〝野蛮人〟といわれる人たちの社会ですら、複数の人間が協力して何かをするわけで、そこには人間の本能が働いているはずだと。単に協力とかではなくて、人間の本性があるはずだと。道徳性というのは、他人に共感するとか、他人のことを慮るとか、他人と一緒に協力するとかをする方が、しない人間よりうまく生きられる、それは本能に組み込まれているはずだとダーウィンは考えて、道徳性の起源は生物の中にあるということを、ミツバチの行動と比較しながら論じています。人間の道徳は神から与えられたといわなくても説明できると考えました。

それから人間について言うには、当時人種が最大の問題で。人種は1種なのか異種なのか――白人、黒人、アメリカインディアンとかいう人は種が違うのかという議論が、本当にまかり通っていたというか、すごく大事なことだったのですが、ダーウィンの結論は、人類は人種がどんなに違っても、みんな1種であると。それを確かめるために、世界中に散らばっているイギリスの植民地の官吏たちに、「そこの土地の人とイギリス人の間に子供はちゃんと生まれて、その子供にはまた子供がちゃんと生まれていますか」みたいなことを聞くんです。すると、みんな「生まれています」ということになって、「これは1種だ」という結論になるんですね。人類は類人猿に由来して、アフリカ起源で、道徳性は進化の産物だというのがダーウィンの結論です。いろんな人たちがいて、みんな基本的にサピエンスで同じだということをちゃんと言ったのが、1871年の本『The Descent of Man(人間の由来)』です。

少し前まで奴隷制が行われていた時代で、1865年、南北戦争が終わってアメリカがやめにし、イギリスはそのちょっと前の1833年にやめますけど、奴隷制を正当化する理由が、「人間というのはいろんなところで多源的に出てきたので、みんな同じではない。そもそも同じではなくて、彼らは別の系統なんだ」という多源説が、奴隷制を正当化する生物の議論だった。ライエルはこの多源説の人なんです。「奴隷は劣っているんだからしょうがない」というふうに書いていた。それを絶対崩したかったんですね、ダーウィンは。アルゼンチンの独裁者ローサス将軍というひどい人がいたとか、奴隷のひどい状態を見たとか、そういうことで彼自身のパッションはここに表れていると思います。

私はこの『人間の由来』という本を訳したんだけど、最初は文一総合出版から『人類の進化と性淘汰』というタイトルにして、今は講談社学術文庫です。最初にこれを訳したときに、こういういろんな背景をあまり知らないで、生物学者として訳していったら、なんで人類の進化の話が突然人種の話になるのか最初は違和感がすごかったですね。人類の進化で、類人猿とこういうふうに近いとか、そういうことを言っている割には、すぐに人種の話になる。それが配偶者選択、鳥のしっぽが長いオスの方がかっこいいとなると、その鳥はしっぽが長くなるとか、短い方がいいわっていうと短くなるとか、配偶者選択はけっこう気まぐれに決まるんですけど、そういう気まぐれによって生じたのが人種の差で、人種の諸特徴は、単に揺れ動く些末な好みのことに過ぎないというのをダーウィンは書きたかった。

“The Descent of Man” の最初の第1巻は厚くて、昆虫から脊椎動物までの配偶者選択と性淘汰の話が延々と書いてあるんです。それがどこにつながるかというと、人種の違いにつながる。なんでそういうふうに論理展開しなきゃいけないのか、今のこの世の中では全然しっくりこないんだけれど、当時、人間の起源を説明するなら、人種の違いもきちんと説明しなきゃいけなかった。奴隷制の根拠になるようなことはしたくないという、ダーウィンのパッションと科学が混じって、配偶者選択の理論というのは、ものすごい力(りき)が入っています。この『人間の進化と性淘汰』という本は、人種問題の解決だった。「人種の違いなんて些末な好みだ」ということを書いています。

ダーウィンの家庭はみんなリベラルで、家の思想が奴隷制に反対であったそうですけど、フエゴ島人を見たダーウィンは、「野蛮と文明は結局連続である」と考えた。ジェミー・バトンたちが何年かイギリスにいて、タキシードを着て、フォークとナイフを使うようになって、聖書を読んで、ペラペラと英語をしゃべっても、戻ったらすぐ元に戻っちゃった。でも同じジェミーだということで、「文明は衣を着せているだけで、人間の本性はみんな同じで、文明人が人間なのではない」と考えた。〝野蛮人〟はおぞましいと思いつつも、同じ人間だと感じたというのは、私、すごいなと思いました。

『生命の起源と種の起源』という中の人類の起源の図を見ると、これしかない。1枚しかないんです。でも、この図1枚にこめられていることがすごい。全部の生物が同じところから出てきて、分岐していくだけだと。この中で人類というのは1本あって、たとえ分かれたとしても小枝にすぎない。だから全然違うような起源の、別の人間がいるということはないというのを、これは示しているわけです。

ロンドン動物園のオランウータンのことが1838年のノートに書いてあります。それはライエルが、オランウータンと人間を比較して、人間は特別だろうという展開をしたんです。それに対してダーウィンは「人はオランウータンを見るがよい。その知性を知るがよい。そして〝野蛮人〟を見るがよい」といって、連続的にあることを示唆しました。服を着ていたジェミー・バトンが元に戻ったところを見たけれど、同じ人間だと思うところ、文明が人間を洗練させる衣であること、その文明人だけが人間だと考えて、人間を特別視してはいけないということは、ダーウィンのビーグル号での収穫だったと思います。

●長女アニーの死とその後の研究

31歳から48歳までに10人の子供を産んだエマは、ずっと熱心なユニテリアン教会派でした。宗教について、ダーウィンはいろいろ考えるけれど、進化の理論と種の起源について考察を始めたころから、信仰に疑問を持つんですね。否定はしないけど、懐疑主義になる。さっき触れたように、信心深いエマと「あなたが道を踏み外さないことを思っております」とか、手紙でやり取りしたりする。ところがここで、大好きだった長女のアニーが1851年に10歳で死にます。今の知識で診断すると、たぶん結核。無辜の子が苦しんで苦しんで死ぬ現場に居合わせた父親ダーウィンは、たぶんこれをきっかけに、宗教を捨てたのだと思います。だけどすごいのは、その後決然と仕事をして、8年後の59年に『種の起源』を出版ですからね。そのあたりは、渡辺政隆先生が、『ダーウィンと家族の絆』という本を訳していらっしゃいます。

ダーウィンが病気治療をしていた建物も、私たちは巡っていきました。モールヴァンの保養地のモントリオールハウスという家でアニーが死んで、ダーウィンだけが看取ります。奥さんは次の子供を妊娠していてロンドンのダウン・ハウスにいました。私たちは厚かましくもトントンとノックをして、「すみません、ダーウィンの娘が死んだところですよね」とか言って、ミセス・スピアという人に入れてもらいました。ダーウィンとエマの間の溝は、実は深かったのではないかと私は思います。愛情はたっぷりだけれど、信仰に生きている人と、そうじゃない人の間の溝は本当は深かったんじゃないかな。

ダーウィンは、遺伝に関してまったく知らない時代に進化理論を構築しただけでなく、系統樹思考を始め、生態学、生物地理学、人類学、心理学、比較の視点の元祖になった。形態だけではなくて、道徳のような、あらゆる性質、形質を機能の観点から分析した。そして、進化生物学、人間科学の基礎でもあります。

私はチャールズ・ダーウィンに会って話をしたいです。本当にタイムマシーンで行って話をしたいです。彼に今の進化生物学の最前線の知識を教えてあげたら、貪欲にそれを取り入れて、また認識を新たにして、猛然と研究するだろうと思います。

それとは別に、ダーウィン先生は本当にいい人だと思います。お金持ちなんだけど、いばりもせず、功名心もなくて、本当のヒューマニストで、好奇心に満ちた人。イヌが大好きで、毎日イヌとの散歩を欠かさなかった。先月、うちの大事な大事な1411カ月のスタンダードプードルのキクマルちゃんが死んじゃって、いまだにボロボロ泣いているんですけど、ダーウィンがアニーを亡くしたあと、決然と仕事をしたっていうのを改めて資料に書いて、「おお、私も決然と仕事をしなくちゃ」と思っております。ダーウィンはいつでも私のお手本です。

「ダーウィン先生ありがとう」と言いたいと思います。どうもありがとうございました。

●質疑応答

河野:それでは、せっかくですから、質問を。

受講生:ウォレスとダーウィンの共同発表があったのが1858年で、そのときまったく反応がなくて、1859年に『種の起源』が出版されたときは、すぐに売り切れということでしたが、たった1年の間に何があったんでしょうか。

長谷川:リンネ学会みたいなところで専門の科学者を相手にしたときは、専門の学者はいろいろ考えるから、そんなに重要視はされなかった。だけどその前から、チェンバースという人が、“Vestiges of the Natural History of Creation” 『創造の自然史の痕跡』)という進化に関する本を出してすごい批判されたり、進化に向かっていく社会的な芽は出ていました。ただし、宗教的なこととの対立があるから、みんなあまり言わない。その中で『種の起源』がドーンと出たのは、「すごいのが出たんだって?」と話題になって、ビクトリア女王も読んだし、作家のジョージ・エリオットも読んだ。みんな読むんですよ。でもジョージ・エリオットなんて、「あんなの全然感銘受けなかったわ」とか言っているので、わかっていないほうが多かったと思うんですけど。とにかく進化の問題があって、宗教と対立するセンシティブな問題があった。そういう意味で、好奇心でみんな買ったんじゃないかなと思います。本当に理解した人は少なかったと思います。

ゲスト:とてもわかりやすくて、楽しいお話でした。ところで、地球ができてからの時間を、ダーウィンはどの程度と思ったんでしょうか。

長谷川:「とっても長い」と言っています。ある大司教が計算をしたら、4000万年とか言っていた。「そんなのではない、ものすごい長い」と。そういうのはよくわからないわけですから。それを1900年のはじめころ、イギリスの物理学者が、放射能の熱ということを全然知らなくて、普通の熱の鉄の塊が冷える時間を考えたら、9800年ぐらいしかないだろうと。ウソのつまらないことをいっぱい言っちゃうけれど、ダーウィンは言っていないんです。ただとてつもなく長いと言っている。

ゲスト:ダーウィンは宗教をおそらく捨てただろうと先生はおっしゃいましたけれど、ダーウィン自身はそういうことを文章に残したり、誰かに発言したりしたのですか。

長谷川:直接の証拠として、なにかを書いたということはないと思います。「ない」って言い切るのは大変なんだけど、私はないと思います。それで、いろんな人たちが、ダーウィンの態度が決然と変わっていくところとか、フッカーやハックスレーとのやりとりの中で、ハックスレーは「無神論ではない、不可知論だ」とはっきり言いました。自分でagnostics、不可知論者という単語を作って、ないともあるとも言わない。それはわからない。あってもなくても構わないという立場を、トーマス・ヘンリー・ハックスレーが表明して、ダーウィンは非常にそれに近かったようです。だから不可知論でとどまっていたというのが解釈だと思います。

ゲスト:私は、ダーウィンは、創造論の部分には疑問を抱いたんだと思うんですけれども、それ以外のところにおいては、まだキリスト者だったのではないかなと、ちょっと思っています。創造論の部分で、聖書に書かれたとおりに、「神がこれをつくった」というふうなところは、そうではないと確信できたと思うのですが、それでは説明できない部分、ダーウィン自身もまだそこまでたどり着いていない部分については、なにかやはり、科学的には説明できない部分が残されていることは実感していたのではないかなと、勝手に想像しています。妻との関係は、深い溝ということではなかったのではないかなと私は考えています。

長谷川:ダーウィンの思考過程をたどっていくと、神秘的なものとか、そういうものに根拠を求めないというのはあると思います。わからないことはもちろんあるんだけど、そのわからないことが、最終的に科学で説明できない何らかの神秘ということにはいかない。そういう思考形態だと思います。一方、ウォレスは途中から心霊論者になって、人間のことを説明できないのは、絶対心霊はあって、魂があって、そっちに行かなきゃいけないだろうと鞍替えしたんですよね。それをダーウィンは非常に残念なことだと言っているので、安易にそっちに行くのは否定することになる。その中でも彼は、どういうふうに論を立てて、証拠を集めて、因果関係を説明して、そしてこうなるという緻密な論理展開はすごいから、最終的に科学で説明できないものという形の考えは持っていなかったと思うんです。ただし、私はこんなことを言っていながら、カンボジアの遺跡に行ってポル・ポトの大虐殺の跡を見ると、どうしてもお寺に行って手を合わせたいと思うようになりますから。そういう意味での宗教とか心の慰めみたいなことと、科学的探究は違うものとして、「あり」だと思います。

受講生:ありがとうございます。

おわり

受講生の感想

  • ダーウィン、きっとどこかで聴いているだろうなぁ、と思うような講義でした。

  • 長谷川先生のダーウィン愛があふれる授業でした。あんな風に長い時間、夢中になれてしかもそれを仕事にしていらして……すべての人の憧れの形だと思いました。そして、長谷川先生のお話で、ダーウィンさんの人物像が、イメージできました。本の中の人から、実在した人物として、私の中で人物像が作られました。

  • 万葉集講座も受講した者として、はずかしながら一首。
    ダーウィンの追っかけのごとき先生の情熱にふれ親しみ覚える

  • そうだ、ダーウィンに手紙を書こう。……という気分で、これからの時間をすごそうと思います。