橋本治をリシャッフルする。 
第3回  矢内裕子さん

『桃尻娘』――橋本治の小説作法

矢内裕子さんの

プロフィール

この講座について

『桃尻娘』をポプラ文庫で復刊させた矢内裕子さんは、この本の「あとがき」のために橋本治さんのインタビューを開始し、それは実に100時間を超えるものとなりました。『橋本治の小説作法(仮)』をまとめる矢内さんが、橋本治さんの「原点」ともいえる『桃尻娘』の味わいや超絶技巧について詳しく語ってくださいました。(講義日:2020年2月12日)

講義ノート

矢内裕子と申します。一回目の内田樹さんの回、みなさんと一緒に拝聴しておりました。とてもお話が上手で、いつもなめらかにお話しになる内田さんが、時々、言葉に詰まられながら、グルービーな感じの講義をなさっているのを拝聴いたしました。前回の中条さんの回は動画で拝見しました。お二人とも、とても話し慣れていらっしゃるし、聡明で剃刀のような切れ味のお話をなさる方々ですが、橋本さんについて語る時は、とてもピュアな感じ。「あ、そんな表情なさるんだ」とか、「そういう話し方をされるんだ」っていうような、とても柔らかなところを見た感じがして、そんなあたりも、橋本さんの、何て言うんでしょう、「惹き込まれてしまった人が辿る道」というか(笑)、そういうピュアなところをついうっかり見せてしまうような魅力が、橋本さんの作品を読みこんでいくとあるんじゃないのかなと改めて思いました。

もうひとつ、今回のような「橋本さんをもう一度読み直しましょう」という企画は、正直、あと10年ぐらい経ってからムーブメントとして起こるのかな――と、なんとなく思っていたんですね。というのは、その時代にとても影響を与えた作家であればあるほど、ちょっとずつ、あまりにもピンポイントで読まれていたところが少しズレているように感じられてしまう時期があって、それがまた、「いやいや、こういう意味があったじゃないか」と読み直される時期がくる。たいていの作家は、そのような周期を持つように思うんですけれど、橋本さんについては、学校長がいらっしゃったこともあって、こんなに早く、やっぱりちゃんと読もうという動きになったのは、すごいことだなと思いました。

この講座をずっと聞いてらっしゃるみなさんは、どんどん、橋本さんに対する理解が深まっていって、たぶん、後半になってくると、講師の方よりも深く、ある面は読み込んでいる状態になるんだろうなというのが、一回目と二回目を聴講した私の感想で、「早いうちに回ってきて良かったな」と思ったりしました。と言いながら、やっぱり、絶対、これから講師になる方々に、私が言うのも僭越なんですけれど、何て言うんでしょうね、一種の連歌とか連句とか、そういうもののように、内田さんのお話をある程度受けながら、自然に中条さんもお話しになって、今日の私はやっぱり、お二人の話をある程度引き継いで話したいような気持ちになっているんですね。そうすると、これをずっと聞いていかれるみなさんは、ちょっと特異な経験をするというか、橋本治という一人の作家について、なかなか読めない読み方を、体験として、時間をかけてすることができる講義の場になってるんだなと、聴講していて思いました。

●橋本治さんとフランス文学

私は、内田樹さんと中条省平さんと、ささやかに共通点がありまして、それは、お二人ともフランス文学の方ですよね。私もフランス文学科を出ておりまして、アルベール・カミュを専攻していたので、内田さんも中条さんもカミュがとってもお好きということで、個人的には、お二人のお話を聞いていて、ちょっと「カミュ的なもの」を感じたりもしました。テキストと若干距離をとって読むということを、フランス文学科の授業では、たぶんどの大学でも学びます。それは、フランス文学の語り手は、噓つきがいたりするからです。噓つきな語り手。だから、国文学というか、日本の小説だとあんまりないことなんですけど(最近はいろんな試みをする作家の方が増えてますけど)、「この人の言ってること、本当かな?」っていうのを、ちょっと気にしながら読んだり、あるいは、ズレが出てくると、書かれていることの表現のズレはいったいどこから生まれてるんだろうといったことを、ミステリーを読むような気持ちでいつも読む習慣がつくのがフランス文学だと、私は思っています。そういう意味で、橋本さんはもちろんスラッと読んでもおもしろいけれど、そういった眼差しで読んでも、いろいろ発見がある作家なんだなと思っています。それは、橋本さんに「どんな風に小説を書いてきたか」ということを伺っている時に、私が改めて思ったことです。とても技巧的でもある、だけど、前回、中条さんも仰ったように、橋本さんはとても照れ屋であり、羞恥心をお持ちなので、「さぁ、ここで、こんなに自分が頑張って素晴らしいテクニックを見せました」とは、絶対、見せたくないんですね。苦労したところほどサラ~ッと書いてあるので、普通はスラスラ読めちゃうんですけれど、実は、そこにものすごく匠の技(笑)があるので、それはのちほど、みなさんと一緒に、いくつか、資料であげたところも見ていきたいなと思います。

ちょっと先に話してしまったんですが、今回のこの連続講義のたいへんゴージャスな講師のみなさまの中にあって、私が明らかに「こいつ、誰だ?」っていう感じがするなと自分でも思って、資料の最後に軽く私の仕事のことなど書きました。編集者をずっとしておりました。今もしています。最初は、紀伊國屋書店の出版部におりまして、人文書と言われるような、哲学書、思想書、社会学の本を中心に、いろいろと作りました。その後、ポプラ社の一般書籍の編集部に移って、ウェブマガジンを担当したり、ポプラ文庫の立ち上げの編集長をやることになりました。これもサラリーマンの常で、10ヵ月前に、突然、「お前、やれ」みたいなことを言われて、それだったら、橋本さんの『桃尻娘』シリーズが絶版になっていたので、紙の文庫で、若い人も手に取りやすい形であると良いなと思いました。それで、橋本さんに「文庫に入れていいですか?」というお話をしに行ったら、とても喜んでいただきました。ところが、三巻までで、ポプラ社がちょっと出すのを休んでる状態なので、今日、来ていただいたみなさんのお力をもって、始めたんだから最後までちゃんとやれよって言っていただけたら、ありがたいなと思ったりします。

●『怪しの世界』で始まった橋本治さんとのお仕事

橋本さんとのお仕事ということで言うと、紀伊國屋書店にいた時に、『怪しの世界』という本を作ったのが最初です。これは国立劇場の企画で、現代作家のみなさんに、いろんな古典芸能の新作を書いてもらって、それを上演しようというおもしろい試みで、この時には、橋本さんが薩摩琵琶を、夢枕獏さんが講談を、いとうせいこうさんが野村萬斎さんと狂言の新作を書きました。萬斎さんの狂言は「鏡冠者」という新作で、ものすごくおもしろくって、鏡の中の太郎冠者と、本物の太郎冠者が入れ替わっちゃうという、たいへん現代的なモチーフで、その後も、何度か、萬斎さんは再演なさったりしています。私自身の仕事としては、『落語家と楽しむ男着物』という本を出しました。落語の本では柳家喬太郎さんの本などを作っております。前回の中条さんの絡みで言いますと、萩尾望都さんとお仕事をしておりまして、『私の少女マンガ講義』という本を新潮社から出させていただいたんですが、萩尾さんがイタリアの大学で戦後の少女マンガ史について講義をした時に同行して、その他のインタビューも含めてまとめた本です。ですので、中条さんのお話もいろいろと重なるなと思いながら聞いておりました。

さて、『桃尻娘』のことをお話しするにあたって、ちょっと確認というか整理ですが、これ、呼び方があるわけなんですね。全部で6冊あって、橋本さん自身、いろんな呼び方をなさっていたんですけど、私が最後にお話を聞いてる頃には、一部、二部、三部、四部、五部、六部、「全六部の青春大河小説」という風にお呼びになっていました。「大河」なんですね。それについては、資料真ん中くらいに「〈桃尻娘シリーズ〉全六部」という私がまとめたメモがあるので、話を聞きながらでも、後でも、ご確認いただければと思います。私の手元にあるのは『桃尻娘』の全六部です。まず『桃尻娘』第一部。そして、『その後の仁義なき桃尻娘』、『帰って来た桃尻娘』、『無花果少年と瓜売小僧』、『無花果少年と桃尻娘』、そして最後が『雨の温州蜜柑姫』という醒井凉子さんが主人公の本で、シリーズは閉じます。

ちょっとみなさんにお聞きしたいんですけど、『桃尻娘』を読んだことがある方は、手を挙げてみていただけますか? すごい! ありがとうございます。じゃ、その中で、二部まで読んだ方は、どれぐらいですか? おお~っ。じゃ、三部まで読んだ。四部まで読んだ。五部を読んだ。すごいですね。じゃあ、全部読んでますっていう方は、どれぐらい? あ~、すごい。ありがとうございます。私の記憶が怪しくなったところは、全部読んだ方に向かって聞いたりするかもしれません(笑)。すごいですね、長いのに。

どうして私が橋本さんに小説作法についてのインタビューをすることになったかというのをお話ししますと、ポプラ文庫の『桃尻娘』を作るにあたって、解説がとても大事だと思ったんですね。というのは、とても話題になっただけに、時代的な雰囲気とか、その頃の読者にとっては言わずもがなだったいろんなことが、時代が移ったことによって、ちょっとわかりにくくなっている。そのインパクトがわかりにくくなっているんじゃないだろうか、という懸念がありました。あと、橋本治という人を、文学史的にきちんと位置付ける。解説というのはそういう役割があると私は思っています。「ファンでした」と表明してらっしゃる方はたくさんいたわけですけれど、そうではなくて、「橋本治のデビュー作の『桃尻娘』はこういうもので、だから、今、読み直す意味がある」ということを明快に言ってくれる方を探したんです。だけど、どうも良い方が思い浮かばなくて、ある日、打ち合わせで、橋本さんにそのことをそのまま申し上げたら、突然、「自分は『桃尻娘』についてだったら、助動詞のひとつひとつ、読点の位置に至るまで、なんでこうじゃなければいけなかったかということを、全部説明できる。漢字の閉じ開きまで説明できる」とおっしゃって、「えっ?」って言ったら、そこから2時間ぐらいダーッと、「なんでかっていうとね」という話を、シャワーのようにしてくださって、「ああ! テープを回しておけば良かった……」と思ったわけなんですけど、それを聞いたら、もう、言うしかないですよね。「解説は、橋本さんご自身でお願いします」。とても喜んでくださって、「自著解説というのは、作家らしい振る舞いでやってみたかったんだけど、なぜか自分には誰も頼まない」と。そんなことないっていう話は後で聞いたんですけど、ご本人の気持ち的には、『桃尻娘』についてすごく話したかったんですね。でも、シャイな方だから、「話をさせろ」とは言えない。誰かが言ってくれるのをちょっと待ってたのかなぁ、というので、お話を聞き始めました。面白いんです。ポプラ文庫版で読んでくださった方は、私のインタビューが巻末に入っているんですけれど、どうして始まったかから始まって、いろいろな小説的な技巧についてもお話しくださっています。

それを何回かに分けて聞いていましたら、ある日、橋本さんが、今度は「このインタビューを集めたら、1冊の本になるって考えてるんじゃないの?」。ハッとして、「あっ! 考えが回らなかった」と思って、「おっしゃる通りでございます。ぜひ、本にさせてください!」ということで、「じゃ、『桃尻娘』以外の作品についても、聞いていきましょう」ということになって、お話を聞き始めたんです。ただ、聞いてると、結局、『桃尻娘』の話になるんです。古典の話であっても、源氏の話であっても、昭和三部作と呼ばれている『巡礼』から始まる純文学の話になっても、「で、それは『桃尻娘』で言うとね、こういうことなんだよ」っていう風に、「結局、『桃尻娘』の話になるなぁ」。つまり、それぐらい、橋本さんにとって、『桃尻娘』というのは、変わらず大事で、そこからいつもスタートするっていうような作品になっているということは痛感しました。

●社会を変えた作品

さっきも「解説の意味」ということでも申し上げましたけれど、どんな名作でも、それが書かれた時から時間を置くと、特に『桃尻娘』のように、社会的にいろんな影響があった作品は、それによって社会が大きく変わったというところが大きいと思うんです。橋本さんは『桃尻娘』で、「女の子が発言していい」っていうことを見せたわけです。「女子高生には言いたいことがあるし、それは聞くべき価値があるものだ」ということを言ってみせた。そのことによって、社会が影響を受けて変わった。だから、今や『桃尻娘』の榊原玲奈ちゃんを読んでも、そういう意味で、「えっ? こんなこと考えてる子がいるんだ!」とは、私たちがもし初めて読んだとしたら、たぶん思わない。けれども、それは意味がないんじゃなくて、「橋本さんが書いたおかげでそうなった」という部分が、すごく大きいんじゃないかと思います。なので、もう一度、っていうか何度でも、常に読み返す意味があるということを、今日、これからの時間を使って、私は主張していきたいと思います。

ちょっと資料を見ましょうか。大きい方は、橋本さんがデビューした頃の他の小説誌がどんな風だったかという、その目次です。上から『小説新潮』(新潮社)、『オール讀物』(文藝春秋)、『小説現代』(講談社)。どうでしょう。『小説新潮』では、筒井康隆さんが『富豪刑事』シリーズを書いてますね。私が「あぁ、働いてる」と思ったのは、『小説新潮』目次の真ん中あたりにある、都筑道夫さん「日光写真」。都筑さん、『小説現代』でも、「『完全犯罪』殺人事件」。すごい。2本も書いてる。他にも山口瞳さんがいたり、野坂昭如さん、あ、野坂さんも『小説新潮』と『オール讀物』に。『小説現代』はない。良かった。さすがに(笑)。こういうのを見ていると、どうですか? 今の小説誌とちょっと雰囲気が違いますよね。重厚な感じの作家が多くて、松本清張さんも元気だと……あっ! 宇野千代さんも『小説新潮』に寄稿なさっていたりして……ああ、なるほどね。すみません、ちょっと一人で、失礼しました。こういうところに、橋本さんの『桃尻娘』が入ってきたわけです。野坂さんが「これは!」って驚いたのもむべなるかなという気がいたします。

そこで、「小説現代新人賞」の講評を少し見てみましょうか。次の資料。今、小説現代新人賞の募集要項の、「こんな人たちがデビューしました」という中に、もちろん橋本治さんの名前は入っています。入っていますけど、「あ、佳作だったんだ」っていう感じ(笑)。佳作だったんです。資料としてお配りした1977年の『小説現代』10月号のコピーに、選考委員のみなさんの選評が載っています。これを読むと、「ああ、選評って残るものだし、後で答え合わせのように、その人がどう読んだかがわかっちゃうから、なかなか恐るべきものだな」と思うんですけれど、池波正太郎さんは、「[病禍の町]も[影姫抄]も[桃尻娘]も、それぞれの意図はよくわかり、中には文章もうまくて、委員たちに惜しまれたものもあったが、いずれも既成作家のイミテーションのような気がする」。おお~っ! 「あ、言っちゃった」っていう感じですね(笑)。イミテーション。橋本さんがおっしゃっていたんですけど、インタビューで「太宰治の『女生徒』を読んだんですか?」ってよく聞かれたと。でも、橋本さんは太宰があまりお好きではなくて、読んでないという。こういう方は、そういうものに当てはめたのかもしれませんね。

野坂さんは、もちろん、ものすごく肯定して褒めて推してらっしゃいます。私が率直で良いなと思ったのは山口瞳さん。「橋本治さんの『桃尻娘』は、十五歳の女子高校生の独白という大胆な小説である。私はこの年代の女性について知るところは少ないが、まことにさもありなんという思いで読み、各所にうまい表現があって、作者は凡手ならずという思いがあった。高校生売春のときの心の動きもよくわかり、先輩に憧れる男子高校生も非常によく描かれていた」。わかってらっしゃる、っていう感じがします。結城昌治さんは、選評の一番最後に、「『桃尻娘』は、野坂氏が強く推して意見が分れたが、私は少女の独白体に抵抗を感じ、作中人物に実在感があるとも思えなかった」。私、本当にこの資料を集めていただいて、すごい感謝しているんです。というのも、「実在感がある・ない」ということについて、橋本さんはインタビューの時にも気になさっていて、よく「リアリティがあるって、どういうこと?」という話をなさっていたのは、もしかして、この一言から来てるのかしらと思ったりしました。その時自分が受けたことに、責任を持って答えたいという方なので、そうなのかなぁなんて思いました。

●野坂昭如さんの選評

で、野坂さんです。「作者の視点の確かさ」という題で、「『桃尻娘』ピンクヒップガールとルビがふられている。のっけはとっつきにくかったけれど、今風の、ありふれたローティーン性の修羅絵巻の如くでありながら、作者の視点のたしかさが、はっきり伝わった。しごくむつかしい題材なのだ、中年男の愛欲図やら人妻の性的フラストレーションは、それぞれに年輪を背負っているから、台辞の一行で、読者とのつながりを保ち得る。十五歳の少女となると、ついこちらは紋切型なイメージにこだわる、つまり予断をいだいて読むから、新鮮なショックを感じにくいのだが、『桃尻娘』は奇妙なユーモアを漂わせつつ、この年代にある女性、ぼくの年齢からすればことなる天体の住人に思える少女の、生活を適確にえがき出し、ぼくは素直におどろいた。あるいは、こっちが、この年頃の少女について無知であるから、買いかぶったのかもしれず、また、ぼくの娘が、小説の主人公の年齢に近いせいかとも思う。他の委員はほとんど否定なさった、作者よ、僕の立場も考えて、次作をちゃんと書いてくれ」。

たぶん、これ、すごいこたえたような気がするんですよね。橋本さん、いろんなインタビューでおっしゃってますし、ご自分も書いてらっしゃいますけど、「とりあえず一作書いてみて、そしたら、作家だということになったので、続きを書かなきゃいけない。じゃ、どうしよう。全然、小説を書く準備してないんですけど」っていうところから、橋本さんの、エッセイとかいろんなものを書いていくことが始まった……という話は後でしようと思うんですけれど、読んでみて、私が意外だったのは、今となっては、もっとラディカルな性的ないろいろな問題とか話題が出てくるのですけれど、この時は、ものすご~くショッキングな小説でもあったということです。

そこは時代が変わると見えにくくなってしまうことなのかなと思うんですが、考えてみると確かに、今回、改めて読み直して思ったんですけれど、4人の登場人物は、みんな、それぞれ性的な傷を負っています。榊原玲奈さんは、「自分が処女を失ったことについて」の話から始まっています。磯村薫くんは、改めて「あ、そうだったよね」と衝撃を受けたんですけど、女性にレイプされた男の子として登場するわけです。木川田源一くんは、当時の言い回しで「オカマの源ちゃん」と言われていて、性的な問題も抱えている人物です。醒井凉子さんも、一部の『桃尻娘』ではないんですけれども、二部の『仁義なき桃尻娘』になると、妊娠をしてしまって堕胎するという経験をするわけです。橋本さんは、それを、あんまり深刻にならないように、登場人物たちが辛くなりすぎないように、ものすご~く絶妙な配慮をしながら、十代の男の子や女の子に起こり得る性的な出来事、傷になってしまうかもしれない出来事について、サラリと書いている。そのことは、改めて、この選評を読んだ時に、「あ、そうだなぁ」と思いました。セックスは、この青春大河小説の中でも非常に大きなテーマになっています。磯村薫くんのセリフで、「僕らはただ、セックスのこと知ってる子供なんだ」っていうのが後に出てきますけれど、性というものとどう向き合っていくんだろうというのは、『桃尻娘』のとても大きなテーマになっています。

●『桃尻娘』とは橋本さんにとって何だったのか

そもそも『桃尻娘』って、作者にとってはどういう作品なのかということを少し考えたいんですけれど、今回、インタビュー集の版元である白水社さんのご許可をいただきまして、まだこれ決定稿ではないですけれども、橋本さんにお聞きしてまとめた第一章、『桃尻娘』を巡る章の扉の裏に入れようと思っておりますキーワードを資料に入れました。

『桃尻娘』/滅茶苦茶な文体でまともなことを書く/三島由紀夫/鶴屋南北/『桜姫東文章』/太宰治/谷崎潤一郎/『卍』/レイモン・クノー/『地下鉄のザジ』/久生十蘭/『姦』/ジャン・コクトー/『声』/五代目岩井半四郎/『ボクの四谷怪談』/蜷川幸雄/民谷伊右衛門/『義経伝説』/『義経千本桜』/『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』/『愛の矢車草』/『サイモン&ガーファンクルズ・グレイテスト・ヒッツ+1』/『双調 平家物語』/『完本チャンバラ時代劇講座』/『巡礼』/『橋』/小説のテクニック/『ウエストサイド物語』/異物のハーモニー/『無花果少年と瓜売小僧』/選挙演説とベッドシーン/浄瑠璃のリズム/作曲しながら喋る/『窯変 源氏物語』/『源氏物語』/千体仏を彫るように書く/「自由にやるためにはリスクをおかす必要がある」/主人公たちと脳内会議/『無花果少年と桃尻娘』/『雨の温州蜜柑姫』/『その後の仁義なき桃尻娘』は「失恋輪舞曲」/母親との関係性/自分がはっきりするほど、居場所がなくなる/リアリティとは変なものである/スパイスを入れないとリアリティが生まれない/取材はしない/内田樹/『がきデカ』/中野翠/『巡礼』自在になるためにはお稽古/『勧進帳』/『松の緑』/「小説とは作るものである」/『人工島戦記』/小説は覚悟、書くか書かないか/有能な挿絵画家は一番恐ろしい評論家/岡田嘉夫/「トヨタのベンツ」/スティーブン・キング/『ローズマリーの赤ちゃん』/筒井康隆/『東海道戦争』/SFマガジン/『アラベスク』/りぼん/フィリップ・K・ディック/『ブレードランナー』/田中優子/カート・ヴォネガット/『妹背山女庭訓』/『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』/『桃尻語訳枕草子』/人形浄瑠璃/自分を消さない限り表現は生まれない/六代目中村歌右衛門/忌野清志郎/作家ではなく、芸の人

このキーワードをパーッと見ていただくと、ある程度の概要は摑めるのではないかと思うんですが、「滅茶苦茶な文体でまともなことを書く」とか、三島由紀夫、南北、桜姫、太宰治。ちなみに太宰治は、「読んでない」っていうことで出てきます。谷崎潤一郎。谷崎は読んでます。好きですね。実はフランス文学の影響がけっこうあって、レイモン・クノー、地下鉄のザジ。「むしろ、太宰治じゃなくて、クノーの『ザジ』なんだよ」という風におっしゃっていました。コクトーの『声』という、女性の一人語り。映画にもなってますよね。その話も出てきます。なんと、もうその一章で、とにかくすべてが『桃尻娘』に繋がっているということの一例として、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』の話も出てくれば、『愛の矢車草』とか、『双調 平家物語』とか、『チャンバラ時代劇講座』とか、『巡礼』とか、ぜんぶ出てくるんですね、お話を 聞いてると。この繋がってきてしまうものを、どんな風に振り分けて再構成して、本としてまとめ上げるのかというところで、非常に時間がかかったっていうのを、ちょっとここで言い訳しておきます(苦笑)。

資料に入れた「『桃尻娘』が生まれたところ/歌舞伎と映画と音楽と」というのが、本の一番最初になります。ちょっと読んでみますね。「さて、書いた当人が内容を忘れているかもしれない。それに当人が覚えていることと、読者が問題にしたがるところは違うかもしれないんだけど、始めましょうか。一つ言えるのは、今だったら『桃尻娘』は書かないと思うんですよ。ことの根本に関わるんだけれど、『滅茶苦茶な文体でまともなことを書く』のは、言ってみれば簡単な話ですが、書いていた頃(一九七〇年代)は『まともなことはまともな文体で』書かなきゃいけなかった。ということは『滅茶苦茶な文体である以上、まともな内容であるはずがない』と思いこまれていたわけです。だからこそ女子高生の口調で、真っ当な小説を書こうと思った。ところが今のように『どんな文体でも通る』となると、『あえて文体と書き方の落差について考える必要がないじゃないか』となるから、『桃尻娘』のような長いセンテンスにはならないと思う」。

●橋本治の公共性

内田樹さんが、橋本治の公共性について、第一回の時におっしゃっていましたよね。「とても自分が書きたいから書く」というよりは、すごく公共性を感じるんだというような話だったかと思うんですけれど、これについて、ちょっと補助線になるかなと思った話をします。昨年、日本画家の千住博さんにインタビューする機会があったんですね。千住さんに一通りのお話を聞いた後に、ちょっと時間に余裕があったので聞いてみました。千住さんはいろんな大学などで個人的に若いアーティストも指導なさっているので、「もしも、その若いアーティストが、自分はどんな風に描いていいかわからないとか、スタイルが見つけられないとか、そんな風に相談があったとしたら、どうやって答えてるんですか?」と。すると千住さんは、「自分の内側から、何かクリエイティビティが生まれてくるとは思わない」とおっしゃったんです。これ、千住さんに確認とったわけじゃないので、「私が言った」ということで聞いていただきたいんですが、私はそのように聞いたんですね。「そんなことよりも、歴史を見直せば、自分が描くべき作品というのは、わかるはずだ」。えっ? 歴史? ちょうどその頃、(少女像をめぐって)愛知トリエンナーレの話とかが紛糾していたので、そういうことかしらと思ったらそうではなくて、「美術史です」と。「美術史を、ずっと自分なりに追いかけていって、今はどういう時代で、どういう風な状況に人々が置かれているのか、ということを考えたら、そこに必要なはずなのに、まだ作られていない表現が絶対にある」っていう風におっしゃった。そのパズルの中の、これは私の言い換えですけど、「パズルの中に欠けてるピースがある。そのピースを見つけて、自分なりに表現すれば、それが作品になる。自分の内側からエモーショナルな何かが出てくるっていうもんじゃないと思う。でも、逆に言うと、それを探して探して探さなきゃいけないぐらい、スタイルとかモチーフっていうのは、とても大事なものなんだ」というようなお話で、それって、今の橋本治さんの話とちょっと共通してませんか?

「ことの根本に関わるんだけれど、『滅茶苦茶な文体でまともなことを書く』のは、言ってみれば簡単な話ですが、書いていた頃は、『まともなことはまともな文体で』書かなきゃいけなかった。ということは、『滅茶苦茶な文体である以上、まともな内容であるはずがない』と思いこまれていたわけです」。だからこそ書くという、ここが橋本さんですよね。だから書く。「そこに必要な表現があって、まだ誰もやってないなら、もうそれをやるしかないんじゃないですか?」っていうのが、橋本さんのスタンスだなと思うわけです。それは、もしかしたら、他にもいろいろなところでそのように思って、自分の欲望のために書くというよりは、これがみんなのために必要だから書こうじゃないかと、そういう発想で書いているという、そういう、何て言うんですかね、ものの捉え方ってあるんだなぁという風に、千住さんの話を聞いて改めて思いました。

もうちょっと補助線を引いてみると、内田さんが、「橋本さんって、そこに描写してないけど、本当は近くにはこういう花があってとか、こういうものが本当はあるっていうことを想像しながら、ちゃんとわかってて書いているんだ」というお話をなさっていましたけれど、それはインタビューの中でもよくおっしゃっていました。それについては、たとえば、私は落語が好きで、落語家さんと本も作っているのですが、柳家さん喬師匠がこんなことをおっしゃっていました。落語をやる時に、口にはわざわざ出さないけれど、全部ありありと脳裏に思い描いてることがある。たとえば、主人公がとても寒い北風の中を紙衣(かみこ)とか、――紙衣っていうのは紙でできた貧乏な人が着る着物ですよね。紙衣を着ながら、北風の中で震えてる。その時に、その紙衣がどんな模様で、どんな風にたなびいているっていうことを、全部言ったらくどいから言わないけれども、「こういうつもり」っていうのを腹におさめておいて、なるべくシンプルに語る。そうすると、なんだか不思議なもので、やっぱり、そういう風に感じる。たとえば、さん喬師匠が語られると、「ああ、寒そう!」って思う。でも、同じ話を別な人、たとえば修業中の前座さんとか二つ目さんが語っても、寒そうには見えない。習った通りに同じ言葉で言ってても、そういう風にちがって伝わってきたりしますよね。それは、小説にもあるんじゃないかなと思うんです。だから、作家というのはなにも――あっ!  今日は作家の方が聞いていらっしゃるから、私がこんなことを言うのもちょっとあれなんですけど(笑)――常に、全部わかってることを書いてるわけじゃないんですよね。ちょっと、「これ、わかる?」っていう口調で、読者に対してわざと隠したり、「わかる人だけわかって」っていう風にすることもあるわけですよね。

挿絵のことでいうと、凡庸な挿絵画家は、小説に書かれていることを描く。「赤いチューリップが咲いてました」とあったら、それを描く。間違ってはいないけれど、良い挿絵画家、本当にこわい、才能のある挿絵画家というのは、文字に書かれてないけど、「あるはずの物」を描くわけです。それは、(橋本さんと組んで『歌舞伎絵巻』シリーズをつくった)岡田嘉夫さんとかそういう方のことで、もちろん、(『桃尻娘』の装画を描いた)さべあのまさんも、そういうお一人だと思いますけれども、それぐらいの企みというのが小説の中には含まれているという風に思います。

●『桃尻娘』が出たころの社会

ちょっと息抜き、というか目先を変えて、先ほど当時の小説誌の目次を見て、みなさん、どう思われましたか? 率直な感想を、もし、囁いてくださる方がいたら……どうですか? 男性中心な感じ? 読者は男性のサラリーマンなのかな? みたいな感じが私はしたんですけれども、じゃあ、その頃、女性誌にはどんな文章が載っていたのか、一例をお読みしたいと思います。これは、有名なとある女性誌に書かれたものです。それが何なのか、ちょっと想像しながら聞いてみていただけますか? 指しますよ(笑)。考えてくださいね。読みます。1972年なので、時期的には『桃尻娘』の5、6年前なんですけど、読みますね。タイトルは、「萩は恋を失った町」。

〈萩は恋を失ったまちでございます。蛤御門の戦さから若者は東へ東へと流れ、指月の城の石垣に咲いたおばな、くず、なでしこ、おみなえし、ふじばかま、ききょう、そしてはぎの七草も凋落の色が濃うございました。菊ケ浜からごうごうと吹きつのる朔風はお城下のまちまちを薙ぎ、恋のもみうらを吹きはらわれ狂う女たちが、一人、二人、三人と、さかさ屛風を押し立てたような灰色の波にさらわれた噂も、冬の霜が石を破るほどにもたしかな噂でございました。ご維新このかた、萩は京や江戸でこそ浮名花の燦(きらめ)き煌きをかずかずましましたが、故国の草花はただただその病める茎を風にゆるがし、お殿さまが奥方さまや大勢の腰元と共に、霜柱を踏みしだいて東京にお移りなされたあとは心も凍る思いで、唐土のとりが、日本のくにに渡らぬうちにトトトコ、トントンと春の七草に包丁を入れる唄を、東都のとのが、はぎのはなを忘れぬうちにトトトコ、トントンと替えて還らぬ男の名はなずな、せり、ごきょう、はこべ、ほとけのざ、すずな、すずしろ、厄は落ちても唄うさきから涙がこぼれ落ちて、せいぜい想夫恋、とてもとても恋を呼び戻す唄とはなりませぬ。〉

はい、これ、何の女性誌でしょう。ヒントは、萩。萩ですね。萩の町のことを特集したんでしょうね。この頃の女性誌で、萩とか、他にもいろんな町の特集をしてたと思うんですけど。
受講生:『アンアン』だと思いました。
矢内:正解です。『アンアン』ね。女の子たちが連れ立って、「旅に行きましょう」っていう特集の中に入ってたと思います。これ、書いた人がわかった人いますか? 作家じゃないんです。作家じゃないけど、こんな文章を書く。ヒントは、映画監督です。内田百閒とか、泉鏡花の原作の映画を撮ったりした人。そうです! 素晴らしい。鈴木清順です。こんな素晴らしいエッセイを書いてらっしゃるんです。これ、文庫本で4ページ続いています。これが、『アンアン』に載っていたって、すごくないですか? レベル、かなり高いですよね。これが女性誌に載ってる。ちょっとステキなので、最後の5行ぐらい読みますね。まぁ、そうやって、みんなが萩から離れていっちゃったっていう、恨みつらみのようなものを美しく書いているわけです、鈴木清順は。

「萩に恋が帰って来るにはまだまだ時間がかかりそうでございます」といって終わります。鈴木清順のエッセイはとても良いので、良いなと思った方は、ぜひ探してみてください。

女性誌ではこんな世界が広がってることを、橋本さんももちろんご存知だったと思うんですね。その頃はセーターも編んでいらしたし、ファッションの方にも詳しかったし、センスのある女友達もいらした。一方、いわゆる普通の人が読んでる小説の世界はどうなの? と思うと、そこに少女漫画も読んでいて、おもしろいことを言う女の子たちがいるようなのに、その子たちの声がまったくない。書かれてない。いないことになってる。「それはちょっとひどいんじゃない?」っていうことを、橋本さんはインタビューの中でおっしゃっていました。だから、その、「いないことにされてる人たち」の声を、男の子や女の子の声を、小説の形で書きたい。存在させたいっていうのが、橋本さんの大きなモチベーションのひとつだったと、そんな風にインタビューで語っています。

●『桃尻娘』はどのような構造になっているのか?

いったい『桃尻娘』がどういう構成、構造になっているのか、そういうのを少し見て、前半を終えようと思います。もう一度、「〈桃尻娘シリーズ〉全六部」と書いてある資料を見てください。『桃尻娘』シリーズをお読みになった方は、もちろんご存知だと思いますが、人称が変わっています。六部の、同じシリーズなのに、人称が変わるものって、私、他にちょっと知らないんですけど、海外文学とかであるかもしれないので、もしご存知の方がいらしたら教えていただきたいんですけど、私、ないと思うんですよね。

第一部は、一人称です。一人称、私。榊原玲奈さん。次は磯村くん。そしてまた榊原玲奈さん。女で始まって、女、男、女、男、で、女、交互になっている。「女の子のための青春大河小説」というのが、ご本人にとって非常に大きな条件だったとのことですが、女と男が交互に出てくる構造にしている時点で、ただただおもしろい女子高生の一人語りだけにしようと思っていたのではないことがわかるかと思います。

二部『その後の仁義なき桃尻娘』、これも一人称です。一人称で、同じようにどんどん語り手が変わっていきます。ちなみに一部の「温州蜜柑姫」は、醒井凉子さんがすごく大きな役で登場するんですけど、語り手は榊原玲奈ちゃんです。二部になると、醒井さんも、いよいよ語り始めるんですが、醒井凉子さんの一人称は、全六部の中で、二部のこの章だけなんですね。なぜかというと、それは橋本さんがおっしゃっていたんですけど、醒井さんって、独特の精神世界というか、お花畑のような世界に住んでいるので、そういう人にストーリーの進行を任せるのは、非常に大変。三人称ならそれは成立するけれど、一人称でそれをやるのはとても大変なので……とおっしゃっていました。ただ、後でお話ししますけど、第六部の『雨の温州蜜柑姫』になると、その醒井さんのとっても愛すべき性質が、橋本さんの三人称という語り手を得て、余すところなくおもしろく、そして、切なく書かれていく、というところも読み応えがあります。三部になると、もう一度、主人公が帰って来たっていう感じで、玲奈ちゃんの一人称で全部進んでいきます。四部『無花果少年と瓜売小僧』になると、三人称。ここで初めて、三人称が登場するわけです。どうしてかというと、ちょっと、この二人の話は、なかなかしんどいですね。とっても切なかったり、十代の男の子たちの心情について、ごまかしたり何かに逃げたりすることなく、二人がどんなやり取りをするのかが書かれているので、これは、一人称でやらせるのは、「お父さん」としては切なくて、「もう、いい。ここはお父さんが語ってあげるから」っていう、そういう気持ちで三人称にしたのだそうです。あと、読むと、それまでと少し違って、ですます調であったり、童話調のような語り口なんですよね。それもまた、「お父さん心」と言いますか、「ちょっと、これは、優しいふんわりした感じで書いてあげないとね」っていうところがあったと思うんです。

もうひとつ、この三部をこれからお読みになる方は、是非、情景描写に気を払いながら読んでいただくと良いと思います。ひとつ、「ここに注意して読むとおもしろいですよ」っていうのが、橋本さんが四部については、「ほとんど雨の描写を書いてやろうと思った」ということ。確かに、雨が降ってるんですよね、割と。ここぞ、というところで雨が降ってるんです。たとえば……、すご~く大変な時に雨が降っていて、靴が濡れちゃってとか、主人公の心情に合わせて、登場人物が「自分は、今、こんなに辛い」とか、「こんなに悲しい」とか、それをそのまま書かないのが橋本治という作家だということは最初にお話ししましたけど、じゃあ、何に仮託するかというと、たとえばそれが情景描写で、雨。雨があるから、登場人物二人が相合傘したりするんです。それは、雨でも降らないことには、今どきの男の子たちが、一緒に肩を寄せ合ってっていうシチュエーションはなかなかないから。そのためにも雨は降るんですね。ずっと見ていくと、その雨が、一番辛い時には冬の氷雨になっていて、それがだんだん成長と共に、「もしかしたら、いつか仲直りするかもね」っていう風になってくると、優しい春の雨に変わっていくというように、雨の描写がものすごく美しい小説でもあります。これ、この後の講義で登場する、浄瑠璃に近い世界ですよね。浄瑠璃の太夫はいろんなことを語る。セリフも語る。お芝居の進行も語る。そして何より大事なのは、情景を語ることですよね。そこに、どんな季節でどんな風が吹いていて、そこはどんな場所で、っていうことを、浄瑠璃を語るように、橋本さんは、それを小説の中でやっています。

ただ、橋本さんは三人称に至るまで、ちょっと間が空いてますね。1978年に『桃尻娘』、1983年に第二部。そのちょっと間が空いてるときに橋本さんが何をしていたかというと、出るのは86年なんですけれども、『完本チャンバラ時代劇講座』という、すごく厚いチャンバラ時代劇についての本を書いています。刊行年は後なんですけど、たぶん、先に書き始めていたんでしょうね。この『チャンバラ時代劇講座』を書くことによって、橋本治は三人称を獲得したんだそうです。チャンバラ時代劇というのは、非常に大衆的なもので、それを見ているのは、橋本さんが、「なんで、こんな風になってるの?」ってたぶん思っていた大人の男性。そういうオジサンたちに対してもわかりやすく伝えるというのはどういうことなのかを、この『チャンバラ時代劇講座』を書きながら体得した、と。それで、「よし、これはいける! 三人称を書ける」っていうことで、第四部を書き始めたのだそうです。

ちなみに、87年には、『桃尻語訳 枕草子』もスタートしています。これについては、橋本さんの話は行きつ戻りつで、だんだん同じところにいくんですが、「あるはずのものがない」、「語られるべきはずなのに、語られてないものがある。存在を与えられてない人がいる」っていうのは、橋本さんが作品を書く時のすごく大きなモチベーションです。それでいうと、前回、中条さんがお話しになった、少女マンガもまさにそうですね。私も子どもの頃、「花の24年組」の人たちが十代の頃にあっというような作品を描いてくれて、夢中になって読みましたけれども、その頃、マンガは、「大人になったら読まなくなるもの」とされていました。「マンガを読んでるとバカになる」みたいに言われていた頃でした。そこに橋本さんが、「でも、これはこういう意味があるんじゃないの?」という評論集を書いたように、それをやっていったら、これはインタビューの中でおっしゃっていたんですけれども、「これって、平安時代の女流文学と一緒なんじゃないの? 少女マンガの人たちの語りとか、女子高生の語りというのは。日本の女性たちの考えてることは、ずっと通じてるんじゃないの?」っていう中で、「だったら、枕草子は桃尻語でできるんじゃない?」と思ってしまった。欠けているパーツを、ここでまた見つけたんでしょうね。「最初は、『誰かがやればいいのに』って言ってたけど、誰もやらないので自分がやることになりました」ということで、始めたわけです。

この間、中条さんが、「橋本さんの、ああでもない、こうでもないを執拗に繰り返す独自の文体がとても魅力的だ」とおっしゃって、「そこには飛躍と断絶がある」とおっしゃっていたんですけれど、まぁ、もちろんそれは飛躍なんですよ。断絶にも見えるかもしれないんですけど、私がそうやってインタビューをしながらひもといていく感じでは、繋がってるんだけれど、わかりやすくは繋がっていない。本当は、蓮の花の根っこのように繋がっていて、あっちで咲いているんだけど、ここと繋がってるとは思わなかった、みたいな、そういうところが飛躍にも見えるし、断絶にも見えるのかもしれない。だからといって、中条さんが間違ってるって言ってるんじゃ全然ないんですよ。そういう風に言ってくださったから、「あ、そういえば、こういうことをお聞きしたな」というのを思い出したので、補足するという感じです。

あとは、橋本さんはすごく、コツコツやる。「これをやるんだ」って決めたらコツコツやる。それは、何て言ってたかな、『恩讐の彼方に』(菊池寛著)でしたっけ? コツコツと岩山を掘っていったら、いつかその向こうにトンネルが開く。それは開く日までは、開くかどうかわからない。もしかしたら全然違うところにいってるかもしれないけど、でも、いつかは向こう側に着くのだと信じて、とにかく日々コツコツとやる。そういう気持ちを支えるものって、たぶん、自分の中から出てきた、自分のためのモチベーションではない気がするんですね。「これが世の中の多くの人にとって必要だ」。これがあった方が、社会の……社会のっていうとおかしいのかな? 「それがあることで居場所ができる人がいるはずだ」っていう、そういうものがないと、なかなかできないというような大きなお仕事をなさっていたんじゃないかしら、という風に思います。それは、内田さんがおっしゃっていた、公共性というものにも通じるかもしれません。

●三人称に変わる理由

今のが第四部の話です。第五部が三人称で始まるんですけど、途中から一人称になります。「紅い夕陽の無花果少年達(ボーイズ)」、複数形なので、イチジクボーイズ。これは、やっぱり、その前の四部からの続きで、ちょっと辛いところもあるので三人称なんでしょうね。その後は、順番に、また一人称になります。そして第六部の『雨の温州蜜柑姫』は三人称で、ここまで来ると、その後の橋本さんのいろんな本にあるスタイルができてきている感じがします。ここから先は後編でお話ししようと思いますが、六部を中心に、じゃあ、榊原さんや、橋本さんが書いた女の子たち、そして男の子たちは、どこに行っちゃったんだろう、という話をしていこうと思うんですが、その前に、後半に入ったら、みなさんにお手伝いをいただきたいことがありまして、手伝ってみてもいいよという方を募集したいんですね(笑)。簡単なことなんですけど、橋本さんの超絶技巧、あまりにも照れ屋さんなので、「こんなに自分は頑張ってます」っていうところを、わざわざ言うほど野暮なことはないという、その東京っ子の感じがよくわかるんですけど、でも、じゃ、どんなにすごいかを、ここでみなさんと一緒に体感しようではないか、と思います。私が超絶技巧の最たるものだと思い、演劇が好きで、歌舞伎の戯曲も書いていた橋本さんならではの技巧が溢れているところが、会話だと思うんです。

橋本さんの会話って、「あら、そんなこと、私、知らないわ」とヨウコは言った、みたいな、「と、なんとかは言った」っていうことが、ほぼ出てこない。出てこないどころか、「と、誰々が言った」と言いながら、Bは水を手に取った、みたいな、そういうことも入ってない会話の例が、資料に三種類あります。それをパラパラッと見ていただきつつ、資料の最後に書いてあります、『桃尻娘』290-293、「木川田、知り合いか? あの人お前の方見てるぞ」から始まる会話ですけれども、これ、4人の人が登場してます。いきなり出るからちょっと戸惑うかもしれないですけど、小説の流れの中で読んでいると、何気なくスーッて読めちゃいます。でも、本当はこれがサラリと読めるって、読んでる方もその小説の中に入り込んでいるということですし、ここまで書いて、「君たち、わかるよね」って読者に委ねる作者も相当すごいなって思うんです。この4人の登場人物ABCDを後で読んでいただきたいと思うので、手伝ってくれる方を募集します。別に、間違っても何でもないですし、どうでしょう? やってみたい方、いらっしゃいませんか? 全部男性です。でも、女性でいいですよ。あっ!ありがとうございます。最初の発言は滝上先輩です。滝上先輩と木川田源ちゃんが喫茶店でお話をしてる時に、源ちゃんが関係があって、一部でいっぱい食わせようとしたオジサンがやってくる。それがC。その後にDが登場します。これは源ちゃんのお父さんです。実は、そのオジサンとお父さんは、取引先の関係だったことが明らかになるシーンなんですね。じゃ、役割になった方、ここが自分の所かなっていうのをチェックしといていただいて、293ページの最後の「エ? (知らねえよ)」までを、後でみんなで読んでみましょうかね。じゃあ、ここで休憩を挟むことにします。お疲れ様でした。
(休憩)

●超絶技巧の会話

では、読んでみる前に、少し他の例を説明しますね。資料最初のところ。

週末の長い休日を抜けると現実であった。
(これワリと気に入ってんだよネ)現実の底が白けた。
(イラストレイターなんかになれりゃいいのになア)同時に電車が止った。向側の電車から娘が降りて来て、磯村の前の希望を蹴飛ばした。時ならぬ冷気が流れ込んだ。娘は耳許(もと)で叫ぶように、
「イッちゃあん、おはようございます」
視線を避けてゆっくり歩を進めて来た男は怒りで鼻の頭まで赤くなり、
「ああ、モモちゃんじゃないか。また嫌なヤツに会ったよ」

これは、磯村くんの語りですね。ちょっとヘンテコリンなのは、磯村くん、自分の一人称のはずなのに、わざわざ、誰が降りてきたのかわかってるのに、「娘が降りて来て」、そして、自分のことを「磯村の前の希望を蹴飛ばした」と言っている。ちょっと捻ってるんですよね。「イッちゃん」っていうのは、この無花果少年。この前の段階で、「お前、桃尻娘って言われてるよ」、「あんたなんて、無花果少年じゃないの」っていうやり取りがあったので、「イッちゃん」と、わざわざ榊原玲奈さんが言っている、そういうところです。ここでも、やっぱり、もういきなり始まっちゃっている。いきなり登場人物が言葉を言う。いきなり感があるんですね。

今度は単行本の376ページから385ページ。これはちょっと長いので、後でみなさん、それぞれお読みになってください。延々とあります。温州蜜柑姫の章。全然、地の文がない。地の文がないのに、これまた超絶技巧なんですけれども、電話で話している相手も出てくるんです。玲奈ちゃんとお母さんが話してます。で、松村くんから電話があって、松村くんっていうのは玲奈ちゃんのボーイフレンドです。「お断りしましょうか?」っていう風に言っている所に、「こんばんは。僕だけど」っていうのは、普通のカギカッコで、作家さんによっては違う種類のカギカッコを使ったりもするところですけど、「こんばんは。僕だけど、君さ」と、松村くんが入ってくる。その後、今度はお父さんが帰って来て、お父さんも含めての会話が始まってというのが、延々、延々。これ、戯曲であってもト書きがありますよね(笑)。

「玲奈ちゃん。お電話、松村さん」
「ハイ」
「よかったら、ママお断りしましょうか?」
「いいわよ、別に出るから」
「ちょっと多過ぎない?」
「何が?」
「お電話よ」
「そんなの知らないわよオ、向うがかけて来るんだもン」
「あなた、そういう事言って」
「モシモシ――悪いけど黙ってて――代りました」
「今晩は。僕だけど、君さア、明日の放課後付き合ってくんないか、話があんだけどサ」
「いいけど、でも、あたし達明日放課後面接があるのよ進路決定の」
「アア、僕等今日あったよ」(後略)

最初に読んだ時は、子どもだったせいもあって、普通にパーッと自然に読めちゃったので、そんなに技巧的だと思わなかったんですが、これ、なかなかないと思います。ここまでセリフだけでやっていて、しかも、二人が交互に話してるんじゃなくて、登場人物が入れ替わったりしながら、ある空間にやってきて話しはじめて、電話なんですけれど、電話が切れるとその人がいなくなって、また別な人がやってきて……という高度なことを、何気なくしているのが、すごい! これ、まだ、小説書き始めて一冊目ですからね。今日ご紹介するセリフは、全部1冊目の『桃尻娘』に入っているので、そういう意味でも、すごいなぁと思います。

●歌舞伎作者の心得

「どうして、こんな風に、いきなりこんなことができるんですか?」というのをインタビューで伺ったら、「それは、歌舞伎作者の心得です」と。舞台に出てくる役者は、いちいち、「私はこういう役割でこういう人間なので、こういう風に喋ります」って地の文ないですよね。「いきなり出てきて、その人として話しはじめて、話が通じなきゃいけない。セリフというのは、そういう風にあるべきだというのが骨の髄まで身に染みているので、そうすると、こういうこともできますよ」と、お話しになっていらっしゃいました。ということで、マイクをここに用意していただいたので、ちょっと4人の方、お嫌でなければ、是非、こちらに来てください。あ、お店の人がもう一人いるんですね。ありがとうございます、教えていただいて。私やります。心の声は、源一くんの役の方にお願いします。

「木川田、知り合いか? あの人お前の方見てるぞ」
「え?」
 ヤッベエーッ! なんだってこんなとこに変態オヤジがいるんだよオッ!? 来るなッ、来るな来るな来るな、来るな、来るなッ!
「どうしたのオ源一クン、久し振りじゃないかア。こちら、お友達?」
「クラブの先輩」
 お前に関係ないだろ。
「ア、そうオ、フーン、よろしくウ。ちょっと坐って、イイ?」
「ア、どうぞ」
 ダメッ!
「じゃ、ちょっとかけさせて、コンニチは、元気?」
 アアッ!
「そうオ」
「ア、先輩ネ、この人俺の、エッと、友達の、親父さん」
「ア、そうですか、滝上です」
「よろしく。僕はネ、源一クンと知り合いなの、ムスコが、ネ?」
 ヤッラシイイ! ムスコだって、やめてくれよなこんなとこでエ。僕は先輩と、お前みたくヤラシイ関係じゃないんだからなッ! いい歳かっぱらって何が「よ・ろ・し・く」だよ、早く消えろオ!
「何だか源一クンは元気なさそうだねえ」
 さわんなよッ! 人にイッ!! アタッ!
「痛ッ、痛チチチチチ」
「おうッ、危ないぞ」
「アァアァ、こぼしちゃって、チョッとオ、すいません、ダスター貸してえ」
「ハイ」
「君は相変わらずそそっかしいのねえ、ン?」
 変態! テメエがこんなとこで人にさわっからだろッ!
「イヤア、どうもどうも」
 !
「上で根本クンにつかまりまして、どうも申し訳、ア、お知り合いで……源一イ? お前何してるんだア」
 もう、知るかア。

ありがとうございました。すごい! これは演劇のワークショップだったんでしょうか? 全然事前の仕込みじゃないです(笑)。すごい! 素晴らしい。ありがとうございます。楽しいですね(笑)。これだけ、4人プラスお店の人、5人が入れ替わり立ち代わり来てるのが、こんなに書けちゃうのはすごいですよね。いまは読まないですけど、前の2つも、それぞれにすごく上手に書かれているんですよ。特に『桃尻娘』の最初の方は、橋本さんが戯曲を書いていた頃から間がないせいか、顕著かと思うので、読む時に気をつけていただくと、より楽しみが増すんじゃないかと思います。ちょっとそこに関わるところ、資料から読みますね。これはインタビュー集の原稿からです。

橋本:『桜姫東文章』に限らず、大学時代に「南北全集」を読みながら、セリフを頭のなかで音に変換して聞いていたことも関係あるかもしれないですね。南北を読みながら、「音が聞こえるように書いてある」と思っていて、ことに女の一人称で書かれた作品は、文面から声が聞こえてこなかったらしょうがないって。だから、小説からも音(声)が聞こえるのが当たり前だと思ってた。だけどそれは少数派で、言葉を音楽的に捕まえない人たちがいるっていうことが、逆に分からなかったもん。いきなり女子高校生のモノローグを書いたわけじゃなくて、『桃尻娘』の前に戯曲を二本書いているんですけど、それに榊原さんの原型みたいな子が出て来るの。一番はじめに書いたのは、『東海道四谷怪談』のミュージカル版なんですよ。
――蜷川幸雄演出で二〇一二年に舞台化された『ボクの四谷怪談』ですね。

私、自分が一番最初に企画を立てたのが、演出家の蜷川幸雄さんでした。蜷川さんにお手紙を書いて、エッセイをまとめたいとお願いして、OKをいただきました。なので、私の編集者としてのスタートは、蜷川さんの稽古場に通いながら原稿いただくことでした。そこで、蜷川さんが役者に対してどういう指示を出すのかとか、人の出入りとはどういうことなのかというのを見ながら学んでいったんですね。戯曲って、ついセリフをセリフとして読んでいきますけれど、コツとして、もっと面白くなるのは、その人物がどんなところに行って、どういう位置関係にいて、どうしているのか、むしろ話してない人が、この時どうしてるの? っていうのを、頭の中で想像できるようになると、メチャクチャ面白くなるんです。話してた人が黙ってる。どこにいるんだろう? でも、部屋のどこかにはいる。椅子に座って、関係ないと思って見てるのか、それとも、言うに言われぬことがあるのかとか、特にそれはチェーホフとか緻密に書かれてますから、そういう風に読むと、戯曲っておもしろいんだなぁということを、蜷川さんの稽古場で私は学びました。橋本さんの小説も、ちょっと戯曲に近いところがあるというか、ただストーリーを追うのではなくて、そこがどんな場所で、どんな関係性で人がいて、出たり入ったりするのかっていうのが、ものすごく楽しそうに書かれてるんですよね。一冊目は特に、クラスメイトたちがいっぱい出てくるので、お手玉のように次から次に人が出てきて、一人抜けて、また一人入ってきて、みたいなのがあるので、作家橋本治は歌舞伎からの影響がとても大きいと思います。

そんな風に、一人称から三人称へ、三人称から一人称へという風に、自在に往き来している『桃尻娘』シリーズですけれど、ここからは少し補助線を引くような感じのお話として……、あ、その前に、第6部の『雨の温州蜜柑姫(おみかんひめ)』、これ、ポプラ文庫ではまだ出てなくて、これから出ると信じていますが、装画のさべあのまさんが、単行本六部の絵に合わせて全部文庫の方も、一人のポートレートになるように描きおろしてくださっていたんですが、六部については、「これで決まり」で描き直す必要がないねって橋本さんもおっしゃっていたし、私もすごく良い挿画だと思います。なぜかというと、醒井涼子さんという特異なキャラクターが、ものすごい不思議な世界に住んでいて、手にはゴルフクラブ、これで悪者を撃退してスカッとしたゴルフクラブ、このキッチュな感じがすごく良いなぁと思うんですよね。『桃尻娘』は、はじめから全部読んでいただくのがもちろん醍醐味もあって、カタルシスもあるんですけれど、でも、一冊目はともかく、「もう一冊ぐらいというならどれ?」っていうのだったら、今日は大胆な提案として、いっそ六部の『雨の温州蜜柑姫』を是非どこかで入手していただいて読んでいただくと、メチャクチャ面白いと思います。なぜかというと、橋本さんのその後のいろんな小説の語り口のスタイルが、完成してるのがよくわかるから。橋本さんは、『桃尻娘』シリーズを書きながら、作家として自分がどんな風に書いていくのかということを習得していった。コツコツと、岩山を毎日掘るようにして、習得なさっていったんですよね。それの完成形がいよいよ来たっていう感じがするんです。

目次の章題をちょっと 抜き出してみました。書いてるのも楽しかったので、ご覧ください。

〈桃尻娘シリーズ〉全六部
『桃尻娘』(第一部)*1978 *一人称
桃尻娘【ももじりむすめ】      一年C組 三十四番  榊原玲奈
無花果少年【いちぢく・ボーイ】   二年A組 二番    磯村薫
菴摩羅HOUSE【まんごおハウス】 二年A組 三十八番  榊原玲奈
瓜売小僧【ウリウリぼうや】     二年A組 十一番   木川田源一 
温州蜜柑姫【おみかんひめ】     三年A組 三十八   榊原玲奈 (三十九番 醒井凉子)
フィナーレ

『その後の仁義なき桃尻娘』(第二部)*1983 一人称
その後の仁義なき桃尻娘       三年A組 三十八番      榊原玲奈
大学番外地 唐獅子南瓜       法政大学第一教養部     滝上圭介
温州蜜柑姫 鉄火場勝負       上智大学文学部英文学科    醒井凉子
瓜売小僧 仁義通します       無職             木川田源一
無花果少年 戦後最大の花会     中央大学法学部法律学科    磯村薫
桃尻娘 東京代理戦争        代々木ゼミナール 早慶上智文系BL   榊原玲奈

『帰って来た桃尻娘』(第三部)*1984  *一人称
プロローグ――帰って来る桃尻娘
帰って来た桃尻娘
大学の桃尻娘
エレキの桃尻娘
レッツゴー桃尻娘

『無花果少年と瓜売小僧』(第四部)*1985  *三人称

『無花果少年と桃尻娘』(第五部)*1988
紅い夕陽の無花果少年達【いちぢくボーイズ】
海を見ていた桃尻娘
無花果少年と桃尻娘
無花果少年、東京に現る
もう桃尻はつかない
振り返れば無花果の森

『雨の温州蜜柑姫』(第六部)*1990
第一話 雨の温州蜜柑姫【おみかんひめ】
 第一章 雨の午後は霧に昏れて
 第二章 長いおしたく
 第三章 淑女に罵声は似合わない
 第四章 戦車競走には早すぎる
 第五章 夜へのみじかい旅
第二話 夜の温州蜜柑姫
 第一章 摩天楼は琥珀の吐息  ……
 第四章 続々々摩天楼は琥珀の吐息 
 第五章 許されぬ愛に燃えて
 第六章 愛は霧の中に  ……
 第十四章 春の夜空に星は瞬く
第三話 春の温州蜜柑姫
 第一章 春の日の訪れはいまだ遠く  ……
 第十六章 春の日の訪れは再びいまだに遠く
第四話 扉を開ける温州蜜柑姫 ◆章題なし
第五話 港が見える温州蜜柑姫
 第一章 春の波止場でなにかが生まれる  ……
 第八章 だけどもう、僕の時間は進んでしまった  ……
 最終章 あなたと二人で来た丘から――

橋本さんがすごいバカバカしく楽しく遊んでるなっていうのは、たとえば第二部の『その後の仁義なき桃尻娘』は、「大学番外地 唐獅子南瓜」とか、「温州蜜柑姫 鉄火場勝負」とか、「瓜売小僧 仁義通します」とか任俠映画ですね。『帰って来た桃尻娘』の方は若大将シリーズで、プロローグは、「帰って来る桃尻娘」、「帰って来た桃尻娘」、「大学の桃尻娘」、「エレキの桃尻娘」、「レッツゴー桃尻娘」。内田先生が「本当にバカバカしくって大好き」って嬉しそうに読んでいた、あの、笑いのセンスが出てますよね。

ところが、やっぱり第四部についてはないんですよ。こういうふざけた感じも、楽しいお遊びの章題がなくって、全部、数字の通し番号でいっている。四部が「ちょっと特殊な、特別な、一番大事なとこだから、お父さんが代わりに三人称で話してあげるからね」っておっしゃっていた、そこがすごくよくわかると思います。第五部『無花果少年と桃尻娘』になると、「紅い夕陽の桃尻娘」とか、「海を見ていた桃尻娘」(五木寛之『海を見ていたジョニー』)、という風になります。この「無花果少年、東京に現る」は、何なのかなと思っていたんですけど、(1956年のSF映画)「宇宙人東京に現る」ですね。ちなみに、この「宇宙人東京に現る」は、すごく印象深かったのか、その後、ジブリが「巨神兵東京に現る」っていうのを作ってるんですね。「無花果の森」は、何でしょうね? 『ノルウェイの森』なんでしょうか。ちょうど『ノルウェーの森』は87年で、これ、88年なんで、そうなのかなぁ。すごい楽しんでつけてらっしゃる感じですね。

それが、ちょっとやりすぎなのでは? っていうぐらいに思うのが、この第六部の『雨の温州蜜柑姫』。第一話、雨の温州蜜柑姫。ちなみに、この第一話では、結婚して裕福に暮らしている醒井さんの3歳になるお嬢さんが誘拐されてしまう。誘拐された娘を取り戻しにいくという、非常にサスペンスなお話なんですが、それなのに、章題が「雨の午後は霧に昏れて」とか、「長いおしたく」とか。すぐに軽井沢の娘の所に行かなくちゃいけないのに、「あ、やっぱりこれがいるかしら」とか、「カーディガンを着よう」とか言って、醒井さん、ああ、高階っていう名前になっている凉子さんは、なかなか出られない。「淑女に罵声は似合わない」、「戦車競走には早すぎる」、「夜へのみじかい旅」……この調子で、第二話も、「摩天楼は琥珀の吐息」とか、途中で割愛したんですけど、ハーレクインみたいなものがこの調子で、十四章まで延々あるんですよ。ちなみに、一章は「摩天楼は琥珀の吐息」で、二章は「続摩天楼は琥珀の吐息」で、三章は「続々摩天楼は琥珀の吐息」で、四章になって、ようやく「続々々」で終わる。そして第二話が「夜の温州蜜柑姫」。第三話「春の温州蜜柑姫」。第四話「扉を開ける温州蜜柑姫」。でも、ここは章題がないんです。やっぱり、橋本さんの中で、すごくシリアスなところは、ふざけてはいないというか、「ちょっとそれは違うな~」っていうのがあるんですよね。形式的になんでもかんでも、おもしろおかしくしてるわけではない。第五話は「港が見える温州蜜柑姫」。ちなみに、この六部は、時間が逆行しています。現代の話が第一話で、そこから、だんだん時間が遡って、第五話になると木川田源一くんも出てきて、ちょうどその五部の途中に繋がるような感じになっています。ここら辺は、ちょっと時間軸が話によって錯綜して、重なっていたり、離れたりという風になっています。それで、美しい。

橋本さん、私が伺った話でもそうですし、他のところでも言ったり書いたりしてますけれども、『桃尻娘』の壮大な試みとしては、「自分は榊原玲奈ちゃんだ」と思ってみんな読み始める。でも、最後は、「いや、もしかしたら、醒井凉子さんの方だったんじゃないかな」っていうことに気づいて終わる。そうさせたいっていうのが、大きな野望というか、大きな目的だったと言ってます。それについては、細かくお話ししたいのは山々なのですが、時間もありますし、なんと、本がこの秋に出ます。そこに詳細に書いておりますので、ぜひ、そのインタビュー集を読んでいただくと良いなと思います(笑)。でも、橋本さんのお話が、「それって桃尻で言うとさ」っていう風に返ってくるというお話をしましたように、本当に語っても語っても語り足りないのが、橋本さんにとっての『桃尻娘』なんだなぁというのが、お話を聞いていてよくわかりました。

『桃尻娘』の小説世界というのは、やっぱり、ちょっと特徴がありますよね。玲奈ちゃんもそうですし、みんな決してまわりとの違和感を感じていないのではなくて、むしろ、ちょっとどこかで居心地の悪さを感じている。だから、玲奈ちゃんはずっと怒ってるし、「どうして、こんなでいいのかしら」と思っている。薫くんも、「なんだかうまくいかないな」と思ってる。源ちゃんは言わずもがなですよね。醒井凉子さんはずっとバラ色の靄の中にいるので、そういうのはないんだけれども、凉子さんは凉子さんで、ずっといろいろ考えていたりします。第六部で登場する凉子さんは、ビジネスウーマンとして極めて有能で、経理とかもバシバシやるし、自分のところの社員もビシビシとしごいてるんだけど、本人はまったくそういう意識がなくて、なんだかふんわりしている。不思議なキャラクターとして登場します。そんな風に移り変わっていくのが、青春大河小説ですから、橋本さん、この第六部を通じて、「こんな風にいろんなことがあっても、結局大丈夫」っていうことを言いたかったんだということは、何度も何度も言ってらっしゃるところであります。

●その後の橋本さんにとっての『桃尻娘』

これで話を置いてしまうのもどうかと思うので、少し補助線的に、「じゃあ、その後の橋本さんの仕事にとって、『桃尻娘』ってどういう位置付け、どういう意味があったんだろう」っていうことをお話ししようと思います。ここから先は、私が橋本さんに聞いたというよりは、読者として読んでいて、「こういうことかなぁ」と思ったことについて、最後にお話をしようと思います。

実は、最初に今回の講義のお話をいただいた時に河野学校長ともお話ししていたんですけど、私がお話しできるとしたらっていうか、もしも橋本さんに相談したら、「そりゃあ、あれを話してくれよ」と言われるだろうなと思ったのは、「女ものの小説」の話です。「女ものの小説」と橋本さんは表現していたんですけれど、女性が主人公の小説をたくさん近年も書いていらっしゃるんですね。「男ものの小説」というか、男性が主人公の小説は、たとえば『巡礼』や『草薙の剣』にしても、出せば書評も出て評価されて、議論の的にもなっているんだけれども、「女ものの小説」は、ほとんど無視されていると。橋本さんはそう感じていた。どうして、女が主人公の物語はちゃんと読んでもらえないのかな? そういう風に思っていらしたんですね。だから、かなわなかったんですけれど、インタビューでは、その話を最後にしようねと言っていました。

それがかなわなかったので言いますと、たとえば、『幸いは降る星のごとく』という小説があります。第一話の雑誌掲載が2010年。東日本大震災の前ですね。2011年の5月から2012年の5月にかけて、続きを書いていらっしゃるので、ちょうど震災の後に書いていらっしゃったんだと思うと、改めて、その内容の愉快さにビックリっていう感じなんですね。あらすじを読むと、「ときは1990年代前半、“女芸人ブーム”前夜。東京の国立大学に通う真名子は、幼なじみの貴子とお笑いコンビ「モンスーンパレス」を結成した。自らの不美人を認識しない真名子と、世間ズレしたOL志望の貴子。笑いとは縁遠い生活を送ってきた彼女たちが、なぜその世界に入り、どう生き延びていったのか。時代によって作り出された“女芸人”の先駆者となる四人の女性の悲哀と幸福を描いた長編小説」(紀伊國屋書店ウェブより)。朝ドラになりそうですけど、中は橋本さんのすごく面白いというか、「よくそんな愉快なことを次々に考えるな」っていうのがずっと書かれながら、でも読んでいくと、女性の自意識の問題とか、いろんなことが書かれているんですね。これがもしかしたら、「女もの」の、醒井さんの形式の先に書かれた物語なのかなと思ったのが、この章題のふざけているところです。第一話は、「欲望という名の電気ゴタツ」。そして、「ツァラトゥストラはまだ語らない」、「芸人の夜明け」、「モンスーンパレスの女」、「お笑い探査計画」、「愛の錯誤」……で、八に至っては、「『化け物の宮殿(モンスターパレス)』ではなくて」ってわざわざ「モンスーン」。まぁ、モンスーンパレスっていうコンビを組みますから。第二話は、「セックス・アンド・ザ・シティ」じゃなくて、「セックスレス・アンド・ザ・シティ」だし、第三話は、「電気ゴタツは安楽椅子の夢を見るか」。第四話、「すべての人に幸福な未来を」、という風に、これ見てると、やっぱり、第六部の『雨の温州蜜柑姫』のこの、なんで、こんないちいちお笑いの方に持っていくんだろうっていうのが見て取れますよね。

『幸いは降る星のごとく』 *2012(雑誌掲載:2010年9月〜12年5月)
第一話 欲望という名の電気ゴタツ
  一 ツァラトゥストラはまだ語らない
  二 芸人の夜明け
  三 モンスーンパレスの女
  四 お笑い探査計画
  五 愛の錯誤
  六 さまざまな試練
  七 無限の彼方(ビヨンド・ザ・インフィニティ)
  八「化け物の宮殿(モンスターパレス)」ではなくて
第二話 セックスレス・アンド・ザ・シティ
第三話 電気ゴタツは安楽椅子の夢を見るか
第四話 すべての人に幸福な未来を

本当に、ひたすら愉快な小説で、『九十八歳になった私』にも通じると思います。最近、いわゆるユーモア小説っていうか、読んでいてクスッと笑ったり、「あ、そんなのあるな」っていう小説やコラムが減ってるんじゃないかしらと思うんですね。私、お笑い好きなので。そう思うと、この橋本さんの『幸いは降る星のごとく』は、ものすごく面白い小説です。『雨の温州蜜柑姫』もとにかく面白いので、「『桃尻娘』にまだ入り切れないんだな」っていう方も、読んでみると意外に良いのではないかと思うんです。これは三人称ですから、語り手の橋本さんに近いと思われるところはあるけれど、作者と語り手はイコールじゃないです。そういえば、『雨の温州蜜柑姫』の第二話では、なんと、榊原玲奈さんが市議会議員に立候補しようとします。しかも、妊娠中です。にもかかわらず、立候補するのしないのっていうところに、醒井さんが派手な車で川越まで遊びに来て、言います。「そんなのステキだから。妊娠して立候補するなんてすごくステキ。頑張って!」とか言うので、玲奈さんは、「やっぱり、この人、ちょっと変」って思ったり、「何言ってるの?」って思うんです。ちなみに、凉子さんがなんで訪ねてきたかというと、慶應幼稚舎出身のすごく感じの良いお見合い相手について動揺してしまって、「幼稚舎から慶應だなんて、バカに決まってる」と自分でさえ思うぐらいの男なんだから、これについて一言言ってほしいって思っていたんですね。なぜなら、

〈醒井凉子も身構えた。「今度その人紹介して」と言われて、初めて醒井凉子は、川越にやって来て、“榊原さん”に会うことの目的というか真意があったことに気がついたのだった。『絶対に悠吉さんをこの女に会わせてはならない』と、醒井凉子は「ええ……」と言いながら思った。/醒井凉子が川越まで利倉玲奈に会いにきた真意――それは、見合相手の高階悠吉のことをボロクソに言ってもらう為だった。/『ともかく、男の悪口をボロクソに言うことに関しては、榊原さんの右に出るものはない』――醒井凉子はそう信じていた。なにしろ、醒井凉子には榊原玲奈が男のことをほめたことがあるという記憶が一つもないのだ。どんな男でもケナす。醒井凉子は、ほとんどどんな男でも、自分に近づいて来れば一応はポ―ッとなって、しかしそれを、榊原玲奈は全部ボロクソに言うのだ。『あんな男にポーッとなるなんて、あなたバカじゃないの』と、醒井凉子はある時期言われ続けたに等しい。『それでよくこの人は結婚出来た』と、醒井凉子は“利倉玲奈”になってしまった榊原玲奈のことを聞いて思ったのだが、まァ、人のことなんかどうでもいい。重要なことは、榊原玲奈なら絶対に高階悠吉の悪口をボロクソに言ってくれる筈だ、ということだった。〉

ずっとこんな感じなのですね。おかしいですよね。滅茶苦茶おかしいんです。

でも、第一話の「雨の温州蜜柑姫」では、凉子さんの娘が誘拐されてしまった。これは、もうなんとしても取り返しに行かなくちゃいけない。そういう時でも、やっぱり、なんかちょっとおかしい。まず支度をするのが大変で、なかなか出発できないんですね。たとえば、

〈鏡台の前で、あっという間に三十分は経過してしまった。誘拐された娘を引き取りに行かなければならない母親が、まず第一に鏡の前に坐って髪にブラシをかけるというのはいささか不謹慎ではないのだろうかという躊躇も勿論ありはしたのだけれども、『化粧は女の武装である』と、高崎の祖母が昔言っていたことを、凉子は忘れてはいなかった。一応知的な人間とはいえ、危険な誘拐犯人と渡り合うのだ。見知らぬ男の前に素顔をさらすのだ。そんな危険でふしだらなことは出来ないと思った。〉

こんな調子で、ずーっといくんです。けれども、第五話の「港が見える温州蜜柑姫」は、時系列的に言うと、一番昔の話。なので、「春の波止場でなにかが生まれる」、高野文子さんの漫画のタイトルから来てますよね。「それはもう、遠い昔のことになる。/醒井凉子は二十歳になって、彼女の同級生達もまだみんな二十歳の頃だった。/年齢が水平線の向こうに煙るようで、未来はそこから生まれる蜃気楼のようだった」。とても綺麗な描写で始まって、この第五話では、醒井凉子さんと木川田源一くんが、横浜を散歩しながらいろんなことを語る話がとても優しく書かれています。どうして、こんな風な遡る構造にしたのかについて、橋本さんは、最初の本のあとがきで、「青春っていうのは終わらないから。青春というのは終わらなくって円環構造になってるから、みんな、いつでもそこに戻れる場所だから、だから、六部についてはそれを具現化するために、時間を遡って書いているんだよ」っていうことです。

●書かれていない大事なことを発見するのは読者の役目

こんな風な優しさって何だろう、と思うんですよね。榊原玲奈さんは、私たちの前に登場した時に15歳でした。15歳ってどういう年齢かというと、橋本さんにとっては、すごく大事な年齢なんじゃないかなぁと思った本があるので、それを最後にご紹介したいと思います。薄い本ですけれども、とっても良い本です。アメリカの作家ガートルード・スタインを朗読するマラソンがあるというのを聞いたことがあるんですけど、橋本治朗読マラソンをするなら、絶対、これを読むべきだと思う一冊です。1冊丸ごとアジテーションチックな本で、たとえば冒頭はこんな感じです。

〈一体きみはどんな女の子? それともきみは、どんな女の子でもどんな男の子でもないんだろうか?
ただ活字だけを追っかけて、今、無色透明な、“読者”という誰でもない人間になってしまっているきみは、どんな女の子でもどんな男の子でもないんだろうか?

もしきみがただの“読者”なら、きみはこの本とは関係がないと思う。だって、きみにはこんな本、役になんか立つはずがないもの。僕は“著者”という“誰か”で、きみは“読者”という“誰か”で、そんな誰かが誰かに向けて書いている本を全然関係ない第三者がのぞき見したってしょうがないものね。
この本は“教養”なんかとは関係ないし、読んだからって誰かにほめられるような本でもない。ほんとに、こんな本の“読者”になったってしょうがないんだよ。著者が言ってるんだから間違いない。だって、この本はきみの本なんだもの。僕はそのつもりで書いているんだから。
きみはもう、確実に“誰か”なんだよ。〉

橋本マジックがあります。途中で論理がちょっと捻じれましたね(笑)。

こういう風に、ずっとアジテーションしているんですね。男の子だったらこう、女の子だったらこうっていう風にいって、「結局、男中心の世の中っていうのってどう思うの? 君は」っていうことを、読者に突き付けていくんです。それのすごく盛り上がるところが、たとえばこんな感じです。

〈さァ、なんか言えよ。頭を働かしてなんか言えよ。
俺は今、おかしなこと言ってるんだぜ。おかしなことを言ってる人間に、黙ってだまされてるんだったら、とってもこの先は進めないぜ。
きみの頭を働かして、きみの持ってる知識を使って、僕がおかしなことを言ってる場所を探すんだよ。
僕は、すごくおかしなことを言ったんだから。

分かった? 分かんない?
じゃァ教えてあげる。僕の言ったおかしなこと。
世の中が男を中心にして出来てるっていうことは、一体、正しいのか間違ってるのか、どっちなんだ?

俺は、はじめの方じゃそれを間違ってるって言って、今はまるで、それが正しいことみたいに言っている。一体その間の矛盾はどうなるんだ? それはまだ、埋ってないんだぜ。〉

この本、ずっとこういう感じで、若い読者を、「君は何なの?」っていうことを、ずっと問うているんですけれど、それがとうとう最後の最後の方になって、自分のことを橋本さんが語り始めます。書くこと、について。

〈僕はただ、書きたいと思っていた。書けるようになりたいと思っていた。書けるようにならなければいけないのだと、思っていた。そうでなかったら、自分のすべてをあきらめてしまうことになるのだから。
僕は絶対にあきらめることは出来なかった。だって、僕には絶対、そんなひどいことは出来なかったから。
僕の中には、15歳の男の子が住んでいた。その子はなんにも分からなくって、ただ一人ぼっちで震えていた。その子は、15の歳(とし)から15年以上、もうずっとそうやって震えていた。僕には、そんな子を、見捨ててしまうことは出来なかった。〉

●橋本治さんにとって15歳とは

15歳は、橋本さんが高校1年になった年で、初めて友達ができてすごく嬉しかったと。でも、エッセイにもお書きになっていますけど、とても優秀な高校だったので、受験勉強が始まったら、友達は友情とかよりも勉強を始めてしまって、橋本さんはそういう風にしたくなくて、一人で文化祭の準備をしたり、一人で何か反抗していて、最初の年は浪人して次の年に東大に入るというエピソードは、いろんなところで語られています。だから、15って橋本さんにとっては特別な年齢で、そこにいた女の子のことを、橋本さんは最初の小説に書いたんだなぁと思うんです。そう思うと、橋本さんがちょっとわかりにくいところは、中条さんもおっしゃったように、とてもシャイな方なので、本当の本当に大事なことを言った時に混ぜっ返すとか、本当の本当に大事なことを言った後に、「だったりしてね」みたいに言うとか、ちょっと恥ずかしがっちゃう。そして、本当の大事なことを、もしかしたら書いてないし言ってないかもしれないなとも思うんです。そして、それをするのは、読者の役目だし、発見していく甲斐があることは、まだまだあるんじゃないかなと思っています。

女の子を主人公にしたのも、そもそも、どうして女の子に目が向いてたのかなっていうのは、ステキな女友達がいらしたり、少女漫画も読んでいたりという中で、橋本さん、ステキな妹さんが二人いらして、亡くなった後にお話しさせていただくと、「あ、橋本さんみたい」って思う言語センスがおありです。たとえば、そういう存在がいたことも、年下の女の子を主人公にしてみようというひとつの理由になったんじゃないかなと思うんです。もちろんシャイな橋本さんは、そんなことはたぶんどこにも書いてないと思うので、これは私の想像です。

今、読んだ15歳についての本は、私にとっても、とても大事な本で、一番最初に意識して橋本さんの本を買ったのはこの本だったので、すごく覚えているんです。『シンデレラボーイ シンデレラガール』という本で、ご存知だと思いますが、単行本のイラストを描いてるのは糸井重里さんです。これは、恥ずかしがり屋でシャイな橋本さんにしては、極めて率直に、本気で書いている。とにかく、現実の中で、みんな、自分が自分として生きていかなきゃダメなんだっていうことを、1冊通して、ただそれだけを、ずっとずっとずっと書いてる本です。

今日は『桃尻娘』と15歳の榊原玲奈ちゃんからスタートした物語の話をしてきたんですが、この『シンデレラボーイ シンデレラガール』は、大人が読んでもいいです。他人事として読んじゃうと、「ちょっと熱すぎない?」と思うかもしれないんですけど、朗読するとめっちゃハマります(笑)。「自分事」として朗読していただくと、自分の中の15歳的な部分に、じんわりくる感じがします。単行本には解説も何も書いてなくて、本文でバッと終わるんですね。すごく励まして終わります。

〈きみだって、現実の中にいるんだものね。だから、きみだって、もうそろそろ、自分の人生を生きはじめたっていいんだよ。
じゃァね。
早くしないと、きみの人生が通り過ぎてっちゃうよ。〉

って終わるんですけど、文庫になった時には、あとがきが付いてます。「解説のようなもの」という文章を……あっ! 今、すごい発見しちゃった。いま読みましたよね? 私。「じゃあね、早くしないと、君の人生が通りすぎてっちゃうよ」で、単行本は終わっています。文庫本には加筆してありました。「だから、自分の力で歩いてごらん。絶対に大丈夫だから」。文庫でこれを付け加えたんですね、橋本さんは。で、「解説のようなもの」というのを、ご自身が書いています。恥ずかしくなったんじゃないでしょうか。言い訳をいろいろしています(笑)。

〈時々、「『シンデレラボーイ シンデレラガール』が一番好きだ」とおっしゃる人に会います。私は「はァ……」としか言いようがないので困ります。この本は「子供向けの人生の本を書こう」と思ってたった4日で書かれてしまったものなので、「別に努力もしてないし、当り前のことばっかりだから、ほめられてもなァ……」と思うからです。4日のうちの3日で前半分、最後の1日で後半分のあっという間で、原稿枚数は240枚、私の本の中では一番薄いし、漢字も一番ない。
しかし『シンデレラボーイ シンデレラガール』が一番好きです」というのは、何も私のことをほめて言ってらっしゃるわけではないのですが、私は“ほめられる”ということと、その“ほめられる”が、“努力”にかかるというそのことにしか関心がないので、勝手に頭はあらぬ方向へ行ってます。困ったもんだ。〉

すごい照れてますよね。「お金のために書いたんだ」って言うんです、橋本さんは。「お金がなかったから、とにかくお金が欲しくて書きました。でも、その貧乏っていうのは意味があることです」、そういう話もしてるんですが、最後の最後にもう一度、糸井重里さんが出てくるので、ちょっとそこを。せっかくほぼ日でお話しさせていただいてるので、そのことをご紹介して終わりたいなと思います。

〈『シンデレラボーイ シンデレラガール』の初版本の装丁に使った絵を描いたのは糸井重里さんですが、この人はその頃こういうことを言いました。
「金がなかったらいつでも言ってよね、金貸すのなんか一番簡単な友情なんだからさ」
こういう人が友達の中にいたら、威張ってお金を借りに行きましょう。威張って金を借りられるだけの自信がなかったら、あなたはまだ努力が足りないのですから、「これくらいで貧乏している自分」を恥じましょう。威張って借りたお金は、返す時にすごく恥かしがって返しましょう。「人にお金を借りるのは人に迷惑をかけることで、それに本当に気がつけないでいた自分が恥かしい」というのが自然なのですから。
よく、お金を返しに行くときに威張って返しに行く人がいますが、借金を返すのは当り前のことですから、別に威張る理由はありません。反省しましょう。
更に時々は、「友達なんだから金貸せよ」と言う人もいますが、相手が「金がなかったらいつでも言ってよね」と言ってくれない限り“友情の存在しない友達”なんですから、そんな傲慢なことを言ってはいけませんね。すべての友人間で友情が存在するというのは、単純なあなたの誤解です。友達というのは、友情を存在させるために努力をする関係なのですから。
お金の貸し借りに関してはもっと色んなパターンがありますが、別にこの本は“借金の本”ではないので、もうやめましょう。〉

メチャクチャ恥ずかしがってる。良い話を1冊分したからかなぁと思います。

最後に、15歳がどういうものかは、昔と今と、どうなんでしょうね? 今でも変わりは、あるところとないところがあるんじゃないでしょうか。最初に、いくつかの補助線なり解説がないと、『桃尻娘』を素直に読みづらいかもしれない。それは時間が経ったから、と申しましたけれども、じゃあ読まなくていいのかというと、それはそうじゃないと思うんです。やっぱり読んだ方がいいし、読むべきだし、読んで面白い本だと思うんです。ただ、その時に忘れてはいけないのは、作家がすごく格闘して、この物語を世に出したこと。つまり、「女の子が主人公だなんて」とか、「そんなふざけた文体で真面目なことを語るなんてあり得ない」って思われていた時に、橋本さんがものすごく頑張って、面白い作品を書いたからこそ、今の自由な表現のある部分は確実に存在しているのだと思うんです。それは、追悼文でいろんな作家の方がいろんな風に橋本さんのことを書いているのを読めば確認できることでもありますが、もう一度、私たちが読む時に思い出さなきゃいけないのは、その時の空気が、どれだけ逆風だったのかということや、『雨の温州蜜柑姫』の、特に女性が選挙に出る話は、今まさに、ものすごく身近で問題になっているところじゃないですか。醒井さんがシャラッと、「あら、お腹の大きな人が市議会議員になるなんて、ステキだわ~」とか言ってますけど、それと真逆なことが地方議会では起こったりしているような今を思うと、良く変わったところもあれば、すごく頑固で変わってないところがあるのも、作品の中ですごくよくわかるんですね。だから、何を言いたいかというと、みなさん、今日帰ったら、様々な手段を使って 『桃尻娘』シリーズを入手していただき、読んでくださいということです。もし、よろしかったら、この秋にインタビューの本が出た時に、トークイベントとかやりたいと思うので、その頃、みなさんは、ものすごい「橋本治ガチ勢」っていう感じになってると思うので(笑)、いろんな講師の方から聞いたいろんな経験を基に、また感想を聞かせてくれたら、とても嬉しいです。今日はどうもありがとうございました。

●質疑応答

河野:ありがとうございました。質問を受けたいと思います。ちなみに、まったく偶然だったんですけど、『シンデレラボーイ シンデレラガール』の表紙のイラストを描いた糸井から、この間、「出てきたよ~」って夜中にメールが入って、「ええーっ!?」と驚きました。これ、まったくの偶然。橋本さんの仕業だと思います、きっと。
矢内:そうですね。
河野:今日も、そういういたずらを橋本さんがしたらしいという話を聞いたばかりなので。亡くなってから一年経って、ちょっとざわざわといろんなことが我々を楽しませてくれています。じゃあ、質問を受けたいと思います。

受講生:橋本治さんをよく存じ上げなくてこの講座に来た感じだったんですけれども、伺っていて、なぜかフッと詰まるようなところがたくさんありました。内田先生と中条先生のお話と併せてご質問差し上げたいんですけど、橋本治さんの若い人への態度というか眼差しについて、それは、実際、どういうものだったんだろうっていうのをお聞きしたいです。
矢内:素晴らしい質問で、実はとても橋本さんの本質に近い質問だと思います。というのは、橋本さん、『窯変 源氏物語』とか、『双調 平家物語』とか、堂々たる立派なものもお書きになっているんだけれども、絶対、若い人、居場所がまだ世の中にない人たちにこそ、何か届けなきゃっていう風に思っていらした。どうしてそう思っていらしたんでしょうねって思いますよね。その答えは、もうご本人に聞くことがかなわないんですけれども、『シンデレラボーイ シンデレラガール』をもう一度みんなで――私は、なんとなく、みんなで読みたいなっていう気がするんですけど――読んでみたいです。あと、私自身がご一緒した仕事で……良かったです、その質問いただいて。そのお話するのをすっかり忘れていました。橋本治さんの『花物語』という本を、さべあのまさんのイラストでポプラ文庫から出しました。集英社から出た単行本を出し直したんですけど、文庫でオールカラーの本が出せました。これについては橋本さんの方から、「これ、文庫に入れてくれない?」っておっしゃって、なぜかというと、「若い人ほど美しいお話を読むべきだと思う」と。若い人には美しい話を読んで欲しくて、季節の描写とか、夜の闇がやってくるとか、そういうものに触れている文章を読んで欲しくて、『花物語』は若い人向けに書きたいと思って書いた本だから、是非入れて欲しいんだという風に言ってくださったんですね。その時にも、今おっしゃられたように、何て言うんですかね? ご自身はすごく偉くなって、大人向けのものだけでやっていけるのに、常に、「今の若い読者はいったい何を読めているんだろう?」といったことを考えていらしたなっていうのを思い出しました。ありがとうございます。これ、よかったら、私もいま感激したので、後で差し上げます。
会場:拍手
矢内:本当、不思議ですよね。「こうだ」っていう答えを橋本さんから聞いたわけじゃないんですけど……みんなが考えながら、著作を読み返すべき、意味のある問いじゃないでしょうか。なんででしょう? なんででしょうね? だって、十何年かけて『桃尻娘』も完結してるんですよ。12年もかけて六部のシリーズ。その間にそれを書けるように、三人称を会得するためにいろんなものを書き、どうしてそうまでして、この青春大河小説を完結したかったのか? それとあわせて考えたいことだと思います。ありがとうございます。

受講生:今日はありがとうございました。これから出る本も楽しみにしています。今回、『桃尻娘』を改めて読み返して印象的だったのが、橋本さんの比喩なんですけど、とても豊かだなという印象になったのが、比喩が多いこと。笑いを誘うところもそういうところだったので、橋本さんがどれぐらい意識的なのか無意識的なのか、比喩を盛り込んでいたのかとか、イマジネーションとか言語センス以外に、何か源泉になるようなものがあったのかどうかをお伺いしたいなと思います。
矢内:そうですよね。本当に笑っちゃうような豊かなものが、ポンポン出てきますよね。ひとつは、それは橋本さんの天才性だと思うんですけど、たぶん、書いてると自然に湧き上がってくるんだと思うんですよね、ひとつは。そして、書いたことに刺激されてどんどん書いて、さっき読んだような面白い描写が出てくるっていうのがあると思います。それとは別に、インタビューをしていて「あっ!」と思ったのは、小説の技法についてお話を聞いているんですけど、小説の例よりも、映画だったり、歌舞伎だったりの話が圧倒的に多かったですね。だから、インタビューも、「すべては『桃尻娘』から始まった」と始まったものの、最後は歌右衛門がどんなにすばらしかったかという話で終わっているんですね。そういう小説以外のいろんなところから刺激を受けていらしたんだろうなと思います。比喩について言うと、自然に生まれていたんだろうと思うんですが、すごく努力して喩えを考えていたということもあります。それが書いてあるのは、『いとも優雅な意地悪の教本』の中に、すごいうまいこと言うなと思ったのは、稲田朋美のファッションを評して、「大きなのし袋」みたいな。リボンが真ん中に付いてる、そういう服を着て、公式行事に出て、稲田朋美が大顰蹙をかったことがありましたよね。それがすっごいおかしくって、「あの比喩はすごいですね」って言ったら、「あれ思いつくのに、どれだけかかったと思ってんだよ」っておっしゃったので、気になる何か、モヤモヤしたことをみんなに伝える時に、「ほら、ああいう、あれみたい」って伝えたい人で、それを伝えるための努力もたぶん密かになさっていたんだろうなと思います。だから私たちも、何か気になることがあったら、それを誰かに伝える時に、「なんて喩えたらピンときてくれるんだろう?」っていうのを積み重ねていくと、その境地に達するかも。十全な答えじゃなくてすいません。

河野:次、何かご質問あれば。
受講生:実は『桃尻娘』をまだ読んだことがなくって、今日のお話で絶対に六巻から読んでやると決めたんですけど、これまで抜粋を読んできた中で、玲奈ちゃんの一人称が、とげとげしく端的に赤裸々なことを語っているんだけど、すごく軽くてあっさりしていて、「へぇ~」って読み流して、「まぁ、そういうことあるよね」ってなんとなく納得しちゃうようなところがあると思いました。もうちょっと嫌な気持ちにさせたり、沈みこむような気分にさせたりする書き方もできたと思うんですけど、そうさせないところに橋本治さん独特の小説技術みたいなものがあるのかなぁと思ったんです。あくまでも優しいっていうか、ユーモアっていうんでしょうか。そういう面白い書き方には、いったいどういう違いがあるのでしょうか?
矢内:はい。基本に「愛」がある(笑)。書いてる人に対する愛があります。私が驚いたのは、お読みになった方、滝上先輩ってちょっと嫌な奴じゃないですか。私はそう思ったんですね。醒井さんと雰囲気で付き合って、妊娠しちゃったらすごく冷たくって、「そういう面倒くさいこと言わないでくれ」みたいな感じ。そんな風に言ったら、橋本さんは、「いや、彼は悪い人じゃない」って言うんですね。「彼は悪い人じゃなくて、ああいうことってあるよ」。ああ、それで、言い忘れてたんですけど、滝上くんの「…………」っていうのは、もしかしたら、日本の男性に典型的な「……」で、決まりきった中では話せるんだけど、何か本質的なことを突き詰められると、言葉がないのでウッと黙って、でも何かはあるので「……」になっちゃう。それで何ページもいく。「滝上くんは、『巡礼』の主人公(ゴミ屋敷の住人)みたいなものかな」と、チラッとおっしゃったことがあるんです。だから、さっきの「この登場人物たちはみんなどこにいっちゃうんだろうね」っていう話でいうと、滝上くんは、意外に、そういう形で登場してるのかもしれない。おっしゃったように、本当だったら、もっと嫌な気持ちになってもいいのに、ギリギリのところで、辛い気持ちにはなっても、嫌な気持ちにならないっていうのは、橋本さんが登場人物たちに対して、「そうはいっても、一人一人に事情があってさぁ、その嫌なとこや大変なとこも認めてあげないと、辛くない?」っていう気持ちで書いてらっしゃるからなのかなと思います。本質的な質問ですね。ありがとうございます。

受講生:うまく言えるかどうかわからないんですけれど、先ほどおっしゃった、ご自分が晩年はビッグになられたのに、どうしていつまでも若い方に寄り添われたんでしょうねという話なんですけど、私は全然良い読者でなくて、この講座についていくのに一生懸命で読み始めたので浅いんですけれども、それでもやっぱり、先ほどの方がおっしゃった通り、優しい方であることと、もうひとつは、橋本さんの独特なセクシャリティがあって、1960年代とか70年代に、なかなか好きになった方とうまくいきにくいという事情があると思うんです。時代背景もそうだし、今でもそれは変わっていないのかもしれないけれども、そういった恋がなかなか、かなわない。いつも悲しい思いをするという、自分自身の悲しみとかが、人への優しさに向かったのじゃないかなと。自分が愛した人と両想いになって幸せになるっていうのは、人として根源的な願いだけれども、それを果たすのが難しい状況にある場合に、そういうことが、橋本さんの中に、優しさとして溜まったのじゃないかなという風に、今日、お話を聞いていて思ったのですが、そういうことは関係ないのでしょうか?
矢内:ああ、ちょっと、大きくて、そして深すぎて、私、代わりにはちょっと答えられないんですけど、たぶん、そのテーマに触れる講師の方がこの後いらっしゃいますよね、なんて(笑)。勝手に宿題にしたりして。きっとその方が私よりよく答えてくださりそうな気がしつつ、でも、そうですね、セクシャリティのことは本当に大きな問題だと思いながら、私がボーッとしてて深くなっていないんですけど、もしかして、『桃尻娘』のシリーズでいうと、ボーイズラブも橋本さんが始めていたのかなって思う話がありますよね。五部になると、すっごくいい男性同士の淡い感じで一緒に暮らす話が出てきますよね。そこら辺をお読みになって、みんなで、また考えたりするといいかもしれない。私、ごめんなさい、粗雑な人間なんで、そういう分け入るような感じのところがいまひとつで、申し訳ないです。でもね、すごい大事な問題だと思うので、別の講師の方の時にもう一度、是非、ぶつけてください。
河野:じゃ、今日は、この辺で〆めたいと思います。最後はお楽しみの予告までしていただいて、ありがとうございました。
(おわり)

受講生の感想

  • 桃尻娘シリーズ未読だった私ですが、『雨の温州蜜柑姫』は講義の翌日に図書館で借りることができました。 読み終わって最初にしたことは「ニナ・リッチ」を検索することだったことを報告いたします。あいにく見つかったのは2020年現在のアイテムだったので醒井さんの衣装と完全に同じではありませんが、 「間違いなく醒井凉子が着ている服だ」と納得し、作者の「写生力」に脱帽しました。橋本さんには絶対に醒井さんの姿が見えていたに違いありません。

  • 橋本治さんの小説技法の具体例として、ト書きも説明文もない会話だけで話が進む場面がいくつか紹介されました。橋本治さんは「歌舞伎作者の心得です」とおっしゃったそうです。(中略)もしかして、会話だけで話が進められるって、すごい芸当なのでは? と思ってよく読むと、そのシーンで初めて登場する人は、誰とわかるようなことを(実は)言っていますし、そうでない場合も、その人物が登場する予兆が前段に書かれていることに気づきます。そこに気づくとウーンと唸ります。 内田樹先生が第一回の授業で、「無駄なものがない」と言われた『桃尻娘』のすごさを改めて知ることができました。

  • 学生時代、大学生協の本屋で『桃尻娘』を見つけて以来、ずっとシリーズを読んで来た、その時々の記憶がよみがえって、とても懐かしい気持ちになりました。