橋本治をリシャッフルする。 
第4回 小池信雄さん酒井順子さん

『桃尻語訳 枕草子』の衝撃 /『男の編み物』という思想書

小池信雄さんの

プロフィール

酒井順子さんの

プロフィール

この講座について

(前半)
池澤夏樹さん編集の『日本文学全集』で『枕草子』を現代語訳した酒井順子さんは、これまでの人生で3回、『枕草子』に衝撃を受けたそうです。その最初の衝撃をもたらしたのが橋本治さんの『桃尻語訳 枕草子』でした。3回の衝撃とは何だったのか? 「桃尻枕」の凄さとは何なのか? 酒井順子さんが丁寧に語ってくださいました。

(後半)
『男の編み物 橋本治の手トリ足トリ』の担当編集者として、小池信雄さんに「『男の編み物』という思想書」というテーマでお話いただく予定でしたが、この日前半の酒井順子さんのお話に萩谷朴氏の話が出たことから予定を変更して、まずはそこから話が始まる……かと思いきや、その前に橋本治さんとの出会いと、小池さんを虜にした橋本治さんの魅力について、たくさんのエピソードを交えて楽しく語ってくださいました。

(講義日:2020年7月1日)

講義ノート

「『桃尻語訳 枕草子』の衝撃」エッセイスト・酒井順子さん

河野:みなさん、本当にお久しぶりです。やっと再開できるなと思って、僕らも喜んでいます。橋本治講座は異様なテンションでスタートして、3回授業が行われ、このままいってどうなるのかと思っていたら、コロナで水を差されたような感じはあるんですけれど、今日は仕切り直しで、お二人の方にお話しいただこうと思います。最初に酒井順子さんにご登壇いただきます。

酒井:よろしくお願いいたします。今日は不安定な天候と、不安定なご時世の中、お集まりいただいてありがとうございます。都心に来るのがすごく久しぶりで、社会復帰をした感じがして、海外旅行気分で青山まで参りました。

私は、枕草子の現代語訳を2016年に河出書房新社(池澤夏樹=個人編集『日本文学全集』)でさせていただきました。その関係で、今日は「『桃尻語訳 枕草子』の衝撃」ということでお話しいたしますが、私自身はずっと橋本治さんのファンではありましたがお会いしたことはないですし、古典にすごく詳しいのかというと、そうではないんですね。国文学を学んだこともないので専門的な知識はなく、今までただ一古典ファンとしてやってきました。そんな中で、私の好きなもののすごく先の方に橋本治さんがいつもいらっしゃるということはいつも感じていました。『枕草子』などの古典文学もそうですけれども、歌舞伎や文楽、浄瑠璃などについても、私が好きになったジャンルの遥か遠く彼方に橋本さんのお姿がいつもあって、私自身は橋本治さんを仰ぎ見つつ、その作品をずっと読み続けていました。私は古文の授業がすごく不得意で、中高時代の成績は10段階評価で4ぐらいだったんです。大人になってから古文のおもしろさに目覚めたのですが、そのきっかけとなったのもやはり橋本治さんの桃尻語訳の枕草子だったということで、今日はその魅力をお伝えできたらなと思っております。

●『桃尻娘』の衝撃

まず、『桃尻語訳 枕草子』の「桃尻」は『桃尻娘』からきていることはみなさんご存知かと思いますけれども、『枕草子』の前に、私にとっての『桃尻娘』の衝撃、というところから少しお話をしてみたいと思います。

『桃尻語訳 枕草子』は、最初の第1巻が出たのが1987年でした。その約10年前、1977年に『桃尻娘』が、橋本さんの初めての小説として出ています。その時橋本さんは29歳でいらしたと思いますが、私は11歳で、さすがにその時に『桃尻娘』は読んでいないのですが、文庫が刊行された時には15歳になったので、たぶんその時に読んだんじゃないかなという風に思い出しています。主人公は榊原玲奈という高校生で、最初の時点で15歳という設定なんですが、私も『桃尻娘』の文庫が出た時に15歳だったということで、おそらく自分と重ね合わせて玲奈の一人語りを読んでいたと思うんですが、それが私にとっての「マイ・ファースト橋本治」でした。『桃尻娘』の一番大きな特徴というと、やっぱり物語が榊原玲奈の一人語りで進んでいくところだと思うんです。つまり、口語体で進んでいくわけですね。1980年頃というと、椎名誠さんとか嵐山光三郎さんの昭和軽薄体という文体が話題になって、口語体に近いエッセイが流行っていたわけですけれど、その昭和軽薄体よりも前に出た『桃尻娘』の女子高生の口語体は、相当目新しかったのだと思います。土佐日記の紀貫之は、男の身で「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と書いていたわけですけれども、橋本さんが女子高生口調で書いた「桃尻娘」も、土佐日記に近いのかもしれないと今は思いますがが、もちろん15歳の時点でそんなことを考えていたわけではありません。

女のモノローグ的文体で男性作家が書くというのは、太宰治の『女生徒』とか、それまでに無いわけではありません。『桃尻娘』が出た当時で言うと、宇能鴻一郎さんの官能小説も流行っていましたよね。「私、なんとかなんです」みたいな。

橋本さんは2010年の『桃尻娘』に関するインタビューの時に、「『桃尻娘』を書くきっかけとなったのは、鶴屋南北の『桜姫東文章』だった」という風におっしゃっています。歌舞伎でお馴染みの桜姫ですけれど、これは京都の公家のお姫様の桜姫が、数奇な運命の末に、江戸で最下級の女郎まで身を落としていくお話です。悪い男に惚れてしまったことによって、風鈴お姫という名前の女郎になっていくんですけれども、その時にお姫様が、京都の公家のお姫様の言葉と、江戸の女郎の言葉が入り混じった話し方をするんですね。橋本さんはその話し言葉がおもしろくて、女のモノローグで何かおもしろいことができるかもしれないと、こういう逸脱の仕方もアリなんだっていうことが、『桃尻娘』を書いた理由としてひとつあると、そのインタビューでおっしゃっていました。

桜姫は京都でのお姫様時代に、屋敷に忍び込んできた盗賊に操を奪われてしまうんですけれど、その時ついグッときて、盗賊に惚れてしまう。その夜のことが忘れられずに思い続けて、その人と夫婦みたいな関係になって、やがて女郎に堕ちていくのですけれど、お姫様なのですごくピュアな部分を持っている。ピュアすぎるからこそ、平気で身を落としていくみたいなところがあって、俗っぽさの大元を辿っていくとピュアな部分があるというところに、なんとなく桜姫と『桃尻娘』の榊原玲奈との共通性みたいなものを感じます。でも、15歳の私はやっぱりそういうことは全然考えてなくて、15とか16の、とにかくまわり中がダサく見えてしょうがなくて、何かフツフツとした怒りのようなものが自分の中にいつもあるような、そういう感覚を玲奈が代弁してくれるところに、『桃尻娘』がピタッとはまったように思います。

考えてみると、それを書いたのが当時30歳になろうとする頃の橋本治さんということで、15歳の女の子から見るとほとんどおじさんだったんですけれど、なんで、この人にそういうものが書けるんだろうってことについても、やっぱりあんまり深くは考えてなかったんですね。みなさん、『桃尻娘』をお読みになっていらっしゃるかと思いますが、書き出しは、「大きな声じゃ言えないけど、あたし、この頃お酒っておいしいなって思うの」なんです。この時の玲奈は処女を失ったばっかりで、妊娠の心配も同時にしていたりして、橋本さんにとっては処女小説の主人公が処女を失ったばっかりの少女っていうのもまたおもしろいなと思うんですけれども、ただ、玲奈は不良というわけではないんです。当時は、今で言うならヤンキーですけど、ツッパリ達がすごく多かった頃。でも玲奈はツッパリではないんです。都立高校の普通科に通っていて、結果的に浪人はしてしまうものの、大学受験もする。でも、お酒は飲むし、さほど好きではない相手とセックスをして妊娠の心配をしたり、不良の看板は背負ってないけれども、周囲に対して反発したような気持ちを持っている。したいことはするけれど、ある意味、普通の女子高生だった。そういう女子高生の胸の内を書いた小説だと思っています。

『桃尻娘』というタイトルもとてもインパクトがあったのですが、なんで玲奈が桃尻娘なのかというと、クラスの遠足のような行事の時に、玲奈が桃色のコットンパンツを履いていって、男子がそれを下から見て桃尻娘と名付けたことになっているんですが、あとがきを読むと、「久生十蘭の『我が家の楽園』という作品で、娘が七輪を桃尻になって扇いでいるというシーンが猥雑で良かった。そこから引いた」と書いてあります。古語辞典を引いてみると、桃尻というのは、馬に乗る時に鞍の上に尻が落ち着かず、座りにくい様という風に書いてありますね。馬に乗る時に、落ち着きの良い尻とそうでない尻があるようで、徒然草にも、「馬なんかに乗る時に、尻が桃尻で安定せずに落馬したら辛いだろうな」みたいなことが書いてありました。なので、わりと昔から使われていた言葉のようで、若い娘のプリプリしたお尻を示す言葉ではそもそもないんですけれども、落ち着かないという意味では、まさに玲奈たちの生態とピッタリで、精神的にも肉体的にも落ち着かない年頃の娘の心理に、高校生だった私は勝手に共鳴していました。

●『桃尻語訳 枕草子』

そろそろ『枕草子』の方に話を移しますが、『桃尻語訳 枕草子』の最大の特徴は、やはりこの桃尻語訳というところかと思います。古典というと真面目な内容と思われがちですが、「枕草子」は、清少納言という一人の女性の、生き生きとして、同時に生々しい声であるという風に橋本さんが思われたから、女のモノローグという桃尻語訳の形をとったんだと思っています。「桃尻枕」は、桃尻娘の刊行から10年後に最初の上巻が刊行されました。橋本さんの古典の現代語訳という意味では、おそらく初めての作品だと思うのですが、私は単行本の刊行時点では読んでなくて、こちらもおそらく文庫になってから、20代のどこかで読んだ記憶があります。

お手元にお配りしている資料に、教科書版の枕草子の訳文があります。

枕草子・教科書訳 (中学校国語三 学校図書株式会社 昭和56年版)

春はあけぼのが、いかにもその季節らしくてよい。しだいに白んでいく山ぎわが、少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいているのは、趣があってよい。
夏は夜がよい。月のあるころはいうまでもない。やみのころであってもやはり、ほたるがたくさん飛び交っているのはよい。また、わずか一匹か二匹だけが、かすかに光りながら飛んでいくのも趣がある。雨などが降るのも趣がある。
秋は夕暮れがよい。夕日がさして、山のはにたいそう近まったときに、からすがねぐらへ行こうとして、三羽四羽、二羽三羽などと、飛び急ぐようすまでが、ふぜいがある。まして、かりなどの列を作ったのが、ごく小さく見えるのは、まことに趣が深い。日が沈んでしまって、風の音、虫の音などが聞こえるのは、また言いようもなくよいものだ。
冬は早朝がよい。雪の降った朝はいうまでもない。霜のたいそう白い朝も、またそうでなくても、ひどく寒い朝に、火などを急いでおこして、炭を持ち運んだりするようすも、たいへん似つかわしい。昼になって、寒さがだんだんゆるんでいくと、火ばちの火も、白い灰がちになって趣がない。

これは実際に私が中学3年の時に使った教科書に載っていた枕草子で、お馴染みの最初の段ですけれども、「春はあけぼの」っていうのが、「春はあけぼのが、いかにもその季節らしくてよい」という風になっているわけですね。久しぶりに教科書を見てみたら、中学生だった私がいろいろ書き込んでいるんですけれど、先生は「春はあけぼの」とか、「夏は夜」の後に、「いとをかし」という言葉を挟み込んで読むようにしなさい、と教えたらしいんです。そういった言葉を補うと意味がわかりますよっていうことなのですが、40年ぶりに教科書を読んでみて、これで古典が好きになる中学生がいたら奇跡だなという感じが改めてしました。最初の段には京都の花鳥風月について書いてありますが、『枕草子』の中で花鳥風月関係をこういう風に長めに書いてある段は、わりと少ないんですね。でも、ここだけを読むと、中学生は「枕草子」がすごく辛気臭い随筆であると中学生は思ってしまう。中学生って、雲とかカラスのことなんてどうでもいいわけで、ここだけ読むと『枕草子』だけでなく古典全般に対して興味を持てなくなってしまうから、もっと面白い段を紹介すればいいのにと思いますが、やはりたぶん一番有名な段でもありますし、当たり障りなく教えやすい段だから、ここを教科書に載せることになってしまうのでしょう。

●3回のうちの最初の衝撃

そんな古文に対する暗い過去を持つ中で、たぶん20代の半ばで初めて『枕草子』を桃尻語訳で読んで、辛気臭いだけの随筆じゃなかったんだ! という最初の衝撃を受けるわけです。これを含めて、私は今までの人生の中で3回ほど『枕草子』というものに衝撃を受けていて、その最初の衝撃が、この「桃尻枕」による衝撃でした。資料に「桃尻枕」の最初の段が書いてあります。

桃尻語訳枕草子 橋本治 (河出書房新社)
とりあえずは、受験勉強に頭に来ていた諸氏諸嬢、
ならびに受験勉強に頭に来ている諸君へ――

春って曙よ!
だんだん白くなってく山の上の空が少し明るくなって、紫っぽい雲が細くたなびいてんの!

夏は夜よね。
月の頃はモチロン!
闇夜もねェ……。
蛍が一杯飛びかってるの。
あと、ホントに一つか二つなんかが、ぼんやりポーッと光ってくのも素敵。 
雨なんか降るのも素敵ね。

秋は夕暮ね。
夕日がさして、山の端にすごーく近くなったとこにさ、烏が寝るとこに帰るんで、三つ四つ、二つ三つなんか、飛び急いでくのさえいいのよ。ま・し・て・よね。雁なんかのつながったのがすっごく小さく見えるのは、すっごく素敵! 日が沈みきっちゃって、風の音や虫の声なんか、もう‥‥たまんないわねっ!

冬は早朝よ。雪が降ったのなんか、たまんないわ!
霜がすんごく白いのも。
あと、そうじゃなくても、すっごく寒いんで火なんか急いでおこして、炭の火持って歩いてくのも、すっごく“らしい”の。昼になってさ、あったかくダレてけばさ、火鉢の火だって白い灰ばっかりになって、ダサイのッ!

「春って曙よ!」っていう最初の一行を読んでもわかるように、自分たちと同じ感覚の文章で古典が綴られているところが、まずは衝撃的でした。真面目なことが真面目に書いてあるのが古典だろうと思っていたけれども、そこで、「いやいや、これは自分たちと同じ人間が書いたものなのかもしれない」って思うことができたんですね。ただ、「春って曙よ!」というギャルっぽい言い回しに、この「桃尻枕」については目を奪われがちなんですけれど、もっと衝撃的なことは、それが「直訳だ」というところです。古典の現代語訳は色々な方がされていますが、特に作家さん、文学の方が手掛ける現代語訳で「直訳」というケースは、ほとんどないように思います。やっぱり読者にとって読みやすいようにとか、訳す側にとっても訳しやすいようにとやっていくと、どうしても意訳の部分が多くなっていく。なので、この「桃尻枕」が直訳であり逐語訳であるというのは、すごく特徴的かつチャレンジングなところだと思います。

●直訳であることの意味

まず、「桃尻枕」というのは原文にすごく忠実な直訳で、直訳をするためには話し言葉を使用するしか手がなかった、と橋本さんは書かれているんですね。古文には句読点が書かれていませんし、今の言葉で句読点がないのは話し言葉だけだから桃尻語訳をしたんだと。あと、古文には主語がなかったり、文章を区切らずにひとつの文章がダラダラとすごく長く続いたり、そういう部分においても、若い女性の話し方そのものであるということで、この桃尻語訳にチャレンジしたということになっています。

桃尻語訳の最初の段の前の部分に書いてあるのが、「献辞」です。「とりあえずは、受験勉強に頭に来ていた諸氏諸譲、ならびに受験勉強で頭に来ている諸君へ」と最初に書いてあるんですね。まえがきには、この献辞を心して読むようにという風に、強調されてもいます。ということは、橋本治さんは、私のような、試験とか受験とかのための古文の勉強でくじけてしまった人のことを念頭に置いて、この「桃尻枕」を書かれたんだな、ということがわかります。「教科書枕」のために、どれぐらいたくさんの日本人が古典に対する興味を失ってしまったか、摘み取られてきたのか! それに対するアンサーのような本が、この「桃尻枕」なのではないかと思います。

「原文」と「桃尻枕」を読み比べていただくとすごくよくわかると思うんですけれども、「桃尻枕」は現代語訳ですが、言葉の並び方とか、原文の構造がそのままの訳し方になっています。資料の「教科書枕」よりもずっと、原文に忠実なんですね。「教科書枕」には、たくさん言葉が補われていますよね。「春はあけぼのが、いかにもその季節らしくてよい」とか、「紫がかった雲が細くたなびいているのが、趣があってよい」とか、言葉を付け足すことによって、中学生に意味をわからせようとしています。教科書には「学習の手引き」というのが書いてありまして、「原文と口語訳とを読み比べ、原文のどこにどんな言葉が省略されているか考えよう」って書いてありました。補わないと中学生はわからないんだという風に教育者が思っていたわけです。対して橋本さんは、「春は曙」っていう文には何も補わなくても通じるというか、補ってはいけない、と思っていらっしゃった。若い女性が「春って曙だよね」っていう風に言ったら、もうそれ以上でもそれ以下でもなくて、その意味を解説してしまうこと自体がダサいのだということで、この「春って曙よ!」という訳が出てきています。それこそが、清少納言の精神なのだ、と。

●訳語を変えない難しさ

「桃尻枕」では、基本的にひとつの言葉はひとつの訳し方で最後まで訳されています。たとえば、「をかし」だったら「素敵」。「いとをかし」だったら、「すっごく素敵」。「めでたし」だったら、「ご立派」とか。そういう風にひとつの訳語で基本的には統一されているんですが、ただ、「あはれ」のように、賞賛の意で使われる場合と、同情とか悲しみを表現する時にも使われる言語の場合は、「良い」と訳されていたり、「可哀想」と訳されていたりという、そういう使い分けもあるんですけど、基本的にはなるべくひとつの言語で訳そうとされています。

資料にある、田中澄江さんの現代語訳を見てみましょう。

枕草子・田中澄江訳 (河出書房新社 古典文庫)

春は曙。山ぎわから明けそめた空がようよう白んで、紫だった雲の細くたなびく時。
夏は夜。月あるころは言うまでもなく、闇にも蛍のとびちがうさま。雨もまた捨てがたい風情である。
秋は夕ぐれ。夕陽はなやかに山の端に映えて、ねぐら求める烏の三つ四つ二つ三つととんでゆくあわれさ。まして、雁などの並びあって、はるかな空を小さくとんでゆくのが見えるおもむきはひとしおのこと。日の落ちたあとの風の音、虫の音にも秋の思いは深いのである。
冬のよさはまだ早い朝のころに。雪の降った時はもちろんのこと、白々とした霜に明けるのもおもしろい。たとえ雪や霜がなくても寒さきびしいままに、急いで火をおこして、炭をもち運んだりするのはいかにも冬らしいが、昼になって気温も上がり寒気がゆるんで、火鉢の炭火が白い灰がちになってはもうつまらない。

「春は曙」とか、「夏は夜」っていう所は、何も補っていらっしゃいませんけど、やっぱりその他の文はいろいろと言葉を付け足しています。「をかし」という言葉も、全部同じ言語で訳されているかというとまた違って、たとえば秋と冬の部分、「いふべきにあらず」という表現が2回出てきますけれども、「桃尻枕」ではこの言葉は「たまんない」っていう訳になってるんですね。で、田中澄江訳を読むと、「秋の思いは深いのである」とか、「雪が降った……白々とした霜に明けるのもおもしろい」と、また違う表現になっています。同じ語で訳していくと、文章に変化をつけるという意味でもすごく難しいので、訳す側としては違う言葉を使いたくなってしまうんですけれども、それをそうしないところに「桃尻枕」の覚悟を感じます。

敬語とか謙譲語の使い方も古典においては重要な部分で、「桃尻枕」は敬語や謙譲語についても、厳密に訳されています。厳密に訳してしまうと、今の私たちからすると、読みにくいのは読みにくいんです。私も『枕草子』を現代語訳した時に、敬語はやっぱり相当整理してスッキリさせて読みやすくしてしまったし、省略されている主語もだいぶ補って、読みやすさを優先させました。ただ、時代というものを本当に感じ取るためには、敬語がどんどん重なりあっていく様とか、敬語の使用方法でそこに誰がいたのかを判断するとか、そういう部分もとても重要なポイントです。「桃尻枕」では、その辺のニュアンスがしっかり残っているところも、ひとつの読みどころだと思います。

橋本さんはこの「桃尻枕」3巻を訳すのに10年かかったと、あとがきに書いてありますけれども、これだけ厳密に訳されているとそれだけかかるのは本当に仕方がないなと、いま改めて読み直して思いました。最後の下巻の訳者あとがきに、「古典の現代語訳というのは、翻訳者自身の文章を作ることではなく、原文を書いた人間の感性を再現することなんだ」っていう風に書いてあるんですね。「感性を再現」というのは、もちろんイタコみたいに「降ろして」くるわけではなくて、一語一句に文法的な解釈を正しく施した上で、化石とか遺跡とかそういう物を1回バラバラにしてからまた組み立て直す、みたいな作業で、清少納言の感性を今にもう一度現わそうとしている。若い女の子の言葉、桃尻語訳で書かれているので、感性的な仕事なのではないかというイメージを最初は受けるんですけれども、この現代語訳は極端なまでに理性的な訳し方だなという風に私は思いました。

●橋本治さんが意図した「わかりにくさ」

ただ、20代で初めて「桃尻枕」を読んだ私が、その辺をわかっていたかというと、やはりそうではありませんでした。わかりにくい部分がそのまま残っているので、スラスラ読めるのかというと、そうではないところがたくさんある。主語がないとか、先ほど言った敬語の部分とか、なかなか理解することができなかったんです。喋り言葉をそのまま文章にして読むときのわかりにくさみたいものが、この本にはあると思うんですけれど、ただその「わかりにくさ」も、橋本さんの意図的なものだったような気がしています。この前、ほぼ日の学校オンライン・クラスで、橋本さんが古典について話していらっしゃるのを聴きました。そこで橋本さんは、「他の方の古典の現代語訳を読むと、言葉としてはわかるけれど、その古典に何が書いてあるかはわからない」という風におっしゃっていたんですね。それがなぜかというと、「『わかる』ということを他人にされているからなんだ」とおっしゃっていて、「通訳が2人ついているようなものだ」とも。ですから、「本当は、原文と直に付き合った方が良い」と橋本さんはおっしゃっていました。

たぶん、この「桃尻枕」で橋本さんが一番おっしゃりたかったことも、そこなんじゃないかなと私は思います。「桃尻枕」というのは、「わかる」という、古典を読む時の最大の醍醐味を読者自身に体験させてあげるために、最大限の配慮がされている現代語訳で、そういう意味では、もしかすると、現代語訳ではなくて、桃尻語訳という何か別のジャンルのものなんじゃないかなという風にも私は思っています。

もうひとつ、その動画の中で橋本さんは、「魚の形をした古典の中には、歴史という骨が通っている」っていう風にもおっしゃっていました。「食べるのに面倒くさいからといって骨を取ってしまうと、それはすり身だけを食べているようなもので、時代背景を読まない限り、古典はわからない」と。「桃尻枕」は、古典にとっての骨である歴史、時代背景を読者に理解させるために、桃尻語訳の合間合間に、時代背景の解説が膨大に入っています。その部分を語っているのも清少納言、という文体になっているのがまたすごくおもしろいんですね。

たとえば清少納言が女房として仕えているのは一条天皇の中宮である定子様なわけですけれども、紫式部が仕えている彰子様と定子様がどういった関係であったか。2人はお父さん同士が兄弟なので2人は従姉妹なのですが、その従姉妹同士が一条天皇を挟んで、どのようにライバル関係になっていったかというような歴史的背景も、この本を読んでいく中で、私は学んでいきました。そうすると、紫式部と清少納言のライバル関係とか、なんで紫式部が『紫式部日記』の中であれほどまでに清少納言の悪口を書いたのかとか、そういう部分もわかっていって、芋づる式に他の古典にも繋がっていく。そういう、古典を読むおもしろさを、時代背景を説くことによってわからせようという熱い気持ちがみなぎっていて、本当にありがたい作りになっています。

●「これでいいのか? 自分」と思ったときに出会った『枕草子』

先ほど、3回私は衝撃を受けたと申し上げたんですけれども、2回目の衝撃は、私が32歳の時に受けたものでした。詳細は省きますけれど、32歳は女の厄年で、いろいろ私も人生の大変な時でして、落ち込んだりしていたんですけれど、その時に、デビュー以来……すいません、言ってませんでしたが、私、エッセイを書く仕事を普段してまして(笑)……「エッセイを書く上で、すごい大先輩の書いた『枕草子』というものを原文で読んでなくていいんだろうか」と、はたとその時に思ったのです。それまでずっとエッセイを書き続けてきたんですけれども、なんか、榊原玲奈的な感覚でずっと書き続けていたのが、「これでいいのか? 自分」みたいな風になってきた時に、「では、『枕草子』を原文で読んでみようじゃないか」という思いが募ってきまして、この資料としてお配りした新潮社の『古典集成』の中の枕草子に取り組んでみたんですね。

新潮社の『古典集成』は、全訳はついてなくて、所々に意味とか解説が書いてあるのみだったので、『古典集成』の傍らに「桃尻枕」を置きつつ読んでいくと、ものすごくおもしろかった。清少納言は自分を隠すということをあまりしない人なので、「自分はこんなに気の利いたことをして、こんなにチヤホヤされた」とか、自慢話も包み隠さず書いてありますし、意地悪な気持ちも書いてあって、これが紫式部だったらば、絶対にこういう書き方はしない。

紫式部は自分の日記の中に、「私は一という漢字ですら書けないフリをしていたのに」っていう風なことを書いているんですね。当時、漢字は女性が書くべきものじゃなくて、女性の文字は仮名だったので、女の人が「漢字書けます」みたいなアピールをすると自慢気になってしまいます。だから紫式部は、女房勤めをしている時も自分の能力を隠していたわけですが、そういう性格だから、清少納言の「自分は漢字、こんなに知ってるのよ」みたいなアピールにはすごくイラついて、日記の中で彼女の悪口を書いていたわけなんです。ただ同性の視点から言うと、「私なんか、『一』っていう字すら知らなくて」っていう噓くさい謙遜をする紫式部よりも、知っていることも思ったことも、アピールをどんどんしていく清少納言の方が付き合いやすそうな人だなという風に、私としては思います。

『枕草子』は、私は、今風に言うと、「あるあるの元祖」なんじゃないかと思っています。「あるある」って言ってしまうとすごく軽く聞こえるんですけれど、読む側が言語化できない、けれども、確実に感じている深層心理みたいなものをサッと取り出して言語化するというのが「あるある」だと私は思っていて、そこが読み手の共感を呼んで、スッキリした気分にさせてくれる。特に類聚章段といわれる部分などは、本当に「あるあるの宝庫」です。

たとえば私が好きな、「ありがたきもの」という段があるんですけど、「ありがたき」って、ありがとうという感謝の意味ではなくて、あることが難(かた)い、難しい。ですから、「滅多にないもの」という意味で、その「滅多にないもの」の中で、「舅に褒められる婿」とか、「姑に愛される嫁」とかあるその次に、「毛のよく抜ける銀の毛抜き」っていう文があるんですよ。当時の女性は、眉毛を全部抜いて、額の上の方にポンって丸い眉を描いていたので毛抜きが必需品だったのですが、よく抜ける毛抜きが本当になかったらしいんですね。私がここを読んで嬉しかったのは、わかる方にはわかっていただけると思うのですが、今でもやっぱり、よく抜ける毛抜きって滅多にないんです。1000年前から、毛抜きの技術は進歩してない。私も色々と毛抜きは試してますが、キャッチ力が本当に優れてる毛抜きって、人生の中で1本しか出会ってなくて、でも毛抜きに対する不満なんて、誰とも今までしたことがなかったのが、「ここで清少納言がわかってくれるとは!」っていう感動がすごく大きかった。

その少し後には、「もののあはれ、知らせ顔なるもの」っていう段があります。「これぞもののあはれ」というのは何かというと、その中に、「眉抜く」という一文があって、「眉を抜いてる時の女の人の顔がもののあはれ(笑)をアピールしている」と。これを読んだだけで、「もののあはれ」の意味がわかるようですよね。清少納言に駆け寄って「だよね!」って言いたくなります。1000年前の人も自分と同じ人間なんだなっていうことがその時に初めて実感としてわかって、「ここに友達がいた!」という衝撃を受けました。

清少納言は20代の後半で『枕草子』を書いたのではないかと言われているんですけれど、この「桃尻枕」の文体は、それを考えると「やや若いかな」っていう感じが私はしています。自分が原文を読んだ時はもう少し大人だったせいもあって、心の中では、もう少し大人っぽい口調に訳していました。橋本さんの言う「わかる作業」を、この時点でやっと自分ですることができたかなと思っていて、私にとっては意味の深い32歳でした。

新潮古典集成の『枕草子』は、国文学者の萩谷朴先生という方の校註なんですけれど、「桃尻枕」もこの萩谷バージョンの『枕草子』を底本としています。古典文学どれもそうですけれども、校註者によって解釈の仕方が違っていますが、いろんなバージョンがある中で、橋本さんはなぜ、萩谷バージョンを底本にしたのか。萩谷朴さんの『語源の快楽』という著書があって、その解説を橋本さんが書いていらっしゃるのですが、理由はそこに書いてありました。

橋本さんはそこに、「いろいろな『枕草子』のテキストを読み比べた結果、萩谷先生以外の本以外に底本とすべきものがなかった」という風に書いています。なぜかというと、他のテキストと解釈の違いがあるとかないとかではなくて、国文学の世界の中では、踏み込んだ解釈をするか、あまり解釈をしないか、この二者択一になっているみたいで、「踏み込んだ解釈をしなければ結論が出ない問題に対して、『踏み込まないことが良識ある態度』という、不思議な風潮があるような気がした」という風に書いていらっしゃいます。「その点で萩谷本は、明瞭なのだ」と。「読んで納得が行くものだから、これ以上の底本はないと思った」。

橋本さんは、国文学の関係者の人から、萩谷本は「異端中の異端だ」という風に言われたのだそうです。枕草子業界の主流ではないということですけれど、橋本さんにとって解釈というものは、「明快な答えを出すこと」なんだと。明快な答えに辿り着く前に終わってしまったら、それは不十分な解釈でしかないと思っていた。だからこそ、橋本さんにとっては、「萩谷枕」が唯一にして最上のテキストだったわけです。

確かに「萩谷枕」を読んでいると、「他の校註者の注はこういう解釈だけども、それはこういうところがおかしいから、私はこういう風に解釈します」っていうところが、たくさんあるんです。たとえば有名なところで言うと、「説経の講師は顔よき」で始まる段ですね。当時の人は、ライブに行くような感覚でお寺に出かけていたようなんですが、そういうところで説経の講師をするお坊さんは、顔が良くなくちゃダメだと、清少納言は書いています。なぜかというと、講師の顔をジッと見つめられるからこそ、その言葉の尊さも感じられるのであって、よそ見しちゃうとつい忘れてしまうから、「にくげなるは罪や得らむと覚ゆ」。「にくげ」って不細工っていうことです。だから、顔が不細工だと罰が当たるっていうことなのですが、「誰に罰が当たるか」というところに解釈の差があって、「よそ見した人の側に罰が当たる」と大抵の解釈は解説されているんですが、萩谷バージョンでは、不細工な人の側、つまり「不細工な僧に罰が当たる」とされている。なぜかというと、聴衆がジッと顔を見つめていられないような顔をしてる方が悪いから。「なるほど!」と思いました。

もうひとつ、これは人から聞いた噂話のことを清少納言が書いている段ですけれど、とある女性のところに、とある貴公子が訪ねてきた時のお話です。当時は夜に男性が女性のところに訪ねていって夜明けに帰っていくのですが、一旦帰った男の人がやはり立ち去りがたくて戻ってきたら、何かがすごく光っていて、「さしのぞきたる髪の頭にもよりこず、五寸ばかりさかりて火をさしともしたるやうなりけるに」っていう文章があります。「さかりて」は「離れて」ということで、髪の毛がどこかから離れた状態になっていて、すごく光っていて、それを見てビックリして男は帰っちゃった、ということなのですが、一般的な解釈だと、「髪が光っていて、それが火を灯したように明るかったので帰っていった」ということになっていますが、萩谷バージョンだと、髪が実はカツラで、そのカツラが五寸ばかりズレていて、頭がツルツルで火を灯したように光っていたのを見て、男がビックリして帰ってしまった、と解釈してるんですね。ものすごく大胆な解釈ではあるんですが、でも、髪が光っていたぐらいで火を灯したように光るかしら? それぐらいで男がビックリして帰っちゃうかしら? と思うと、やっぱり萩谷バージョンの解釈の方を支持したくなってきます。萩谷さんは、たぶんこれは円形脱毛症か何かで毛がなかったのでカツラをつけていたという風に解説されています。原文がかなりわかりにくいので、これは本当に「わからない部分に決着をつけている」解釈なんじゃないかなと思っています。大胆な解釈を受け入れられない人も多いでしょうし、異端中の異端というのも納得はできるんですが、でもやっぱり面白い。「桃尻枕」がお好きな方は、是非、「萩谷枕」で原文も読んでみていただきたいと思います。

●現代語訳をして改めて実感した「桃尻枕」のすごさ

3つ目の私の衝撃、これは自分で『枕草子』の現代語訳をする時になって、改めて橋本さんの「桃尻枕」のすごさを実感した、ということです。私の『枕草子』は2016年に出まして、3年前ぐらいから現代語訳にとりかかっていました。原文を読んだり現代語訳を読んだりするのと、実際に自分で訳すのとは大違いで、最適な言葉が見つかって、「やった!」と思っても、その「やった感」が誰にも伝わらないというか、その辺が寂しかったのですが、そんな中でまず私が悩んだのは、文体をどうしようというところです。私は普段「ですます」調でエッセイを書くことが多いので、現代語訳も「ですます」で書こうか、「である」調にしようかと迷ったのですが、やはりこれが清少納言という女性の心の声であるというところを考えると、「である」は違うかな、と。清少納言が『枕草子』を書いた27、28歳の女性に適しているものとすると「ですます」調なのかなということで、資料4枚目の後半に私の現代語訳の一段目も載せてみましたが、「ですます」調で書いてみました。

枕草子・酒井順子訳 (河出書房新社 日本文学全集07)

 春は、夜明けが好き。次第に白んでくる山際の空が少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいているのが。
 夏ならば、夜。月が出る頃であれば、もちろんのこと。闇夜でも蛍がたくさん飛びかっているのがよいし、また、わずか一匹二匹ほど、ほのかに光って飛んでゆくのも素敵。雨など降るのも素敵。
 秋は、夕暮れが。夕日がさして山の稜線に近づいてきた時に、烏がねぐらへ行こうとして、三羽四羽、二羽三羽などと飛び急ぐのも、心に沁みるものです。まして列をなして飛ぶ雁などがほんの小さく見えるのは、とても素敵。日がすっかり沈んでからの、風の音や虫の声なども、やはり言い表しようがありません。
 冬は、早朝。雪が降っていると、言葉にならないほど。真白の霜も、そうでなくともたいそう寒い時、火など急いでおこして炭火を配り歩くのも、とても冬の朝らしいものです。昼になって、ほの暖かく寒さがゆるみゆけば、火鉢の火も白い灰ばかりになって、嫌い。

訳している時は、いつも傍らに「桃尻枕」を置いていました。直訳なので、訳文でありながらも原文のような働きもしてくれる本だったんですね。「をかし」を「素敵」にするとかは、私のバージョンも橋本さんと一緒です。他にも色々と考えて見ましたが、「をかし」は「素敵」以外にないなと思いました。清少納言の精神をなるべくそのまま表したいというのは私も橋本さんと同じ思いでしたが、私は水を飲むように読める『枕草子』にしたいと考えていました。古典嫌いな方にも読んでもらいたいという気持ちが強かったので、主語を補ったり、敬語を整理したりといった意訳的な作業はたくさん加えています。

この一段目の部分で最後まで悩んだのは最初の一行で、「春って曙よ!」に勝るものがあるんだろうかって思うと、やっぱりないわけですね。田中澄江さんも、「春は曙」は「春は曙」のままにしてらっしゃいます。『枕草子』って、清少納言が自分の好みで物事を判断していくという「好き嫌い集」みたいな部分がありつつも、好きとか嫌いといった直裁的な言葉はあまり出てこない。私は、その「好き嫌い集」であるというところをちょっと示してみたくて、悩んだ末に、一行目を「夜明けが好き」としてみました。ただ、改めて「桃尻枕」を読んでみると、私はその段の最後、「火鉢の火も白い灰ばかりになって、嫌い」で落としたつもりにしてみたんですけれども、なんだか自分のアピールみたいで恥ずかしいなって今は思っています(笑)。

『桃尻語訳 枕草子』に込められた究極のメッセージは、とにかく古典を「わかる」ということを自分でしてみてほしい、というところかと思います。今、この大変なご時世で古典をじっくりと読むには良い時期ではないかと思うのですけれど、何のために読むかというと、古典だからといって心を落ち着かせるためではなくて、「わかる」ことによって気持ちよくなるためだと思うんですね。そして昔の人の書いた文章を読んでいると、やっぱり昔から生きることは大変だったというのも、よくわかる。その大変さを、今の私たちの大変さと共鳴し合うという部分で、改めて『枕草子』や他の古典も読んでいただけたらなと思っています。ちょっと時間が過ぎましたが、この辺で終わりにいたします。ありがとうございました。

(前半おわり)

 

「『男の編み物』という思想書」編集者・小池信雄さん

 

河野:後半の部に移りたいと思います。前半の酒井順子さんのお話を受けて、ちょっと構成を変えようかといま打ち合わせをしました。では、河出書房で橋本さんの本の担当編集者を務められた小池さんにお話を伺っていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

小池:こんなところで話をする人間じゃないんですけど……マスク取っていいの? 入れ歯が飛び出そうだな(笑)。橋本治さんとは9つ違いかな? なので、もう81歳になります。去年の9月ぐらいに、ここで何か話をしてくれって言われたんですけど、元々真面目な編集者じゃないもんですから、こんなところで真面目な話ができるような材料ないんだと思いますが、それでもまぁ、その当時の話でもと。「その当時」って40年前なんですよ。僕は40ちょっと過ぎで、40年前っていうと、もうほとんど忘れちゃってるぐらい昔の話なので、「そんな話、今していいのかな?」って思いながら、酒井さんの話を聞いてたら、萩谷朴さんの話が出てきたんで、「あ、その話からいけばどうかな」って、ちょっと今思ったので、萩谷朴さんの話をします(笑)。

萩谷朴さんって、僕、知らなかったんですよ。橋本さんが『枕草子』の桃尻語訳をやるって言ったのは、僕がやってくれって言ったわけじゃないんです。その当時、僕はあまり体調も良くなくて会社に行きたくなかった。40ぐらいになる編集者って、もうダメなんですよね、企画が出なくて。それで40からの編集ってどうしたらいいかって、結構悩んでいる時期でした。僕が居た河出書房という出版社は、もう倒産得意っていう本屋で、当時は千駄ヶ谷に越してきて、今あるのも千駄ヶ谷ですけど、その前、新宿の住吉町にあったんです。1000坪の土地を持っていたんですけど、その土地が六重ぐらいの根抵当に入っていて、要するに、出版活動をさせてもらえないという会社だった。なぜそんなことになったかというと、河出書房ってほとんど極左だったんですよ。橋本さんの「とめてくれるな おっかさん」っていう東大駒場祭のポスターのあの時代、安田講堂に機動隊が入った時、河出書房は駿河台にビルがありましたけど、ビルの屋上から垂れ幕を出して、「連帯ストライキ」っていうのを打ったんです。そんな会社だったから、機動隊に追いまくられた全共闘の連中が、会社に飛び込んできて「助けてください!」っていうのはよくあった。要するに「左翼の組合が牛耳ってる会社」というので、業界があんまり支援してくれなかったんです。

なので、鳴かず飛ばずのまんま。その時、どうしたらいいかっていうところで、橋本さんと僕は出くわすんだけども、その出くわし方も、橋本さんという人がどんな人かまったく知らないで……。僕は40ですから、若いライターなんてほとんど知らないわけですよ。河出書房っていうのは、一応、中央公論とか、筑摩書房とか、新潮社とかも入る、いわゆる大手っていうか、中堅の教養出版社。教養出版社の編集部っていうのは、ほとんど大学、大学院出のインテリがいて、私が入社した時に編集部にドアを開けて入ると、音がほとんどしないようなところ。

●1981年暮れの出会い

そこで、教養セクションだったんです、僕は。文学じゃないんですよね。そのセクションに10人ぐらいのスタッフがいたんですけど、その連中は横文字の本と原稿を見ているという翻訳の教養ものをやっていて、思想とか、科学とか、やってました。ほとんど字引なんかひかないっていうようなインテリ編集者がいるのが出版社というものだったんですが、そういうインテリが出している世界文学全集、日本文学全集、思想全集(河出は世界大思想全集があった)で出版社は経営を成り立たせていた。橋本さんと出会ったのは1981年の暮れでしたけど、もうほとんどのそういう出版物は売れない時代でしたね。何やっていいのかわかんないです。教養っていうのはバカにされていたし、インテリっていうのが世の中でほとんどバカにされてるような時代でした。

だけど、本を出さなきゃいけないっていうので、何やったらいいだろうかって考えたら、当時、朝日新聞の社内マニュアルで「用語の手引き」っていうのがあったんです。送り仮名はこうしなさい、この漢字は使っちゃいけない、当用漢字はこう……これは社内でしかつかわないものを朝日新聞は表に出して、これがベストセラーになったんですね。こんなものがベストセラーになるのか! っていうのがひとつ。

本屋に行くと、『ポパイ』みたいな雑誌があって、もう何でもかんでもモノがカタログのようになって、ほとんど散文のようなタイトルがついて、昔の感覚とはちがうんです。その中に漫画雑誌『ぱふ』というのもあって、橋本さんはそこにちょっと書いてたりしていました。その前に僕がビックリしたのは、『ビックリハウス』という雑誌が出て、橋本さんや糸井さんも書いていた。全共闘世代がやってた雑誌ですね、理解できないようなジャーナリズムが登場して、一方、教養出版社は河出書房倒産。筑摩書房も倒産しますね。筑摩書房が最後の頃に『現代まんが全集』っていうのを作ったら、橋本さんはバカにしてましたけども、そういう風に教養出版社が漫画に手を出さなきゃならないような時代でした。

それで、僕が橋本さんをどうして知ったかというと、その頃、編集部はもう企画が出ない。外の編集プロダクション、「編プロ」って言ってましたけど、編プロのはしりに、刈部謙一っていう男がいまして、その人が立てた企画が「ブックガイド」だったんです。刈部の方が橋本さんより1年先に亡くなりましたけど、橋本さんの最期近くまで面倒をみた編集者です。全共闘崩れみたいな人が河出書房に出入りしている中で、この人と僕は出くわしました。編集部の周囲に、全共闘世代が増えていったんですけど、彼らの視野に入ってるのが、どうやら橋本治という人らしかった。ともあれ、ブックガイドを作ろうということになって、その頃僕が凝ってたのは、エンターテイメントの冒険小説だったんですね。河出書房は純文学の出版社なんだけど、僕は冒険小説が好きで、新宿に「深夜+1(プラスワン)」という、コメディアン・内藤陳がやってるバーがありまして、そのバーに入り浸ってたんですね。大沢在昌とか、北方謙三とか、森詠とか、亡くなりましたけど景山民夫とか、そういう連中がたむろして酒飲んでいた。内藤陳は、その頃『月刊プレイボーイ』にオススメ本を連載していた(「読まずに死ねるか!」)。おもしろかったんですね、この人。その時、バーでビールを出したりしてたのが、馳星周って、今、直木賞とろうかっていう作家(注・この授業の2週間後、『少年と犬』で第163回直木賞を受賞)ですけど、学生でしたね。盛り上がってるバーだったんです。その内藤陳さんにブックガイドの巻頭エッセイを頼んだ。

●「この人には会っておいた方が良い」

そういう時に、刈部君が橋本治という人に原稿を頼んで、それで僕に「原稿ができたらしいですよ」って言って、「小池さん、この人には会っておいた方が良い」って言うんです。「どんな?」って言ったら本を持ってきて、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』ってね(笑)。「な〜んだ? こりゃ」ってなもんですね。何の話かっていうと、少女漫画の話だっていうわけです。「そんな奴、俺が会ってどうすんだよ」って言ったんだ。「何でもいいから、とにかく会いに行け」って言うから、「どこだ?」って言ったら、石神井に住んでるんですね。僕は吉祥寺に住んでいましたから、北へまっすぐ行くと石神井なんです。「ああ、そこならいいかな」と思って、原稿を取りに行った時は西武池袋線に乗って石神井公園の北口で降りて、畑があるようなところをトコトコと歩いていくと、昔風の、縁側のあるような日本家屋。それが左に折れた2軒目で、右手に田原総一朗って書いてあったかな? で、橋本さんのところに入ろうとすると、「胸やけ新聞社」って看板があるんです。「胸やけ新聞社ね〜。まぁ、ともかく変わった奴なんだな」と思って入りました。

入っていったら、普通の家ですから、玄関上がって居間に上がると、昔流の四角い座り机に、A全(594ミリ✕841ミリ)ぐらいの大きい紙に、歌舞伎座のポスターが描いてあったんです。それを見て、僕、ビックリしちゃったね。「すごいな。これ!」「いや、僕、本業はイラストレーターです」って言う。「あ、そうですか」って言って見た。それはそれはとんでもない絵でした。その時に、「イラストレーターだったら、これで本ができるかもしれないな」って、原稿の方は抜きにして、ちょっとそんなことを思ったんですよ。それで、もっと見たかったもんだから、「どんなものをお描きになってました?」って言うと、「見ます?」って言って、いっぱい出してきた。見たら、まぁ、うまいの。そこに、僕もらったやつがありますけど、切り絵まであるんです。

その作風が、僕は、小村雪岱(こむらせったい)って、昔の『おせん』(邦枝完二著)っていう本の装丁・口絵をやった挿絵画家というか装丁画家というか、美術家というかデザイナーというか、そういう人が非常に好きで、「雪岱風ですね」って言うと、「おっ! 僕、小村雪岱好きです」って橋本さん言うんです。小村雪岱って、なかなか編集者でも知らないけど、それはもう素晴らしいイラストレーターです。僕はその『おせん』っていう本欲しかったんだけど、何十万円もするから手に入らない。そしたら、橋本さん、「小村雪岱、持ってます」(持っていたのは画集だった)って言うじゃないですか。「いや〜、たいした奴だな」と思って、ともかく、それじゃ、まぁ、原稿を拝見しようとなったわけです。

編集者は、だいたい短い原稿は、いただいたらその場で読んじゃうんです。読んで、だいたい問題あるんだけど、「いや〜、ありがとうございました」って言って帰ってくるもんなんです。で、橋本さんのも読んだら、最初に自分の話を書いてたんですね。「青春文学、いま書いてるんだけど、でも、まだ未完だから」って書いてあって(『桃尻娘』のこと)、「ほほ〜っ」ていうわけです。で、『なんとなく、クリスタル』が出てきて、これ、河出書房なんです。「おっ、田中康夫ちゃん、ちゃんと評価してくれたか」なんて思ったら、「つまらない小説だ」って書いてありました(笑)。今の青春がつまらないからだって。河出書房はその時、『僕って何』の三田誠広と、高橋三千綱の『九月の空』と、川西蘭の『春一番が吹くまで』。青春小説得意だったんです。でも全然出てこない。次に出てきたのは、村上龍かな。河出書房の本は出てこない。次に出てきて、僕が「あっ!」と思ったのは、『赤頭巾ちゃん気をつけて』(庄司薫著)。僕は、『赤頭巾ちゃん気をつけて』ってすごく好きで、これ、河出書房じゃないです、中央公論。なんで好きかっていうと、何て言うかな、初めて東京の新しい言葉の作家が出たなっていう感じがしたんですよ。1969年かな? 五木寛之が出てきたくらいの時期です。昔話で申し訳ないね(笑)。橋本さんはこれを認めたんです。それで、僕、橋本さんに、「橋本さん、どこのご出身?」って聞いたら、中野の牛乳屋とかって言ってました。その時、僕、管理職やってて、採用試験ずいぶんやってたんですね。それで、「絶対採るまい」と思ったのは、高級官僚の倅とか、インテリサラリーマンの子どもとか、そういうのは採らないで、お店の子を採ろうって密かに思ってて、総務に「お店の子をチェックしといてくれ」って言ったら、親の職業を聞いちゃいけないって言われました(笑)。僕は、これからの時代は、サラリーマンの子どもとか東京大学もダメだなって思ってるんだけど、橋本さんも東京大学ですよね(笑)。でも、東京大学にしちゃあ、変わってる奴なんですよ。ともかく、萩谷朴に行くのになかなか大変だ(笑)。

●町っ子の東京の文学

とにかく、その橋本さんの家で、僕は気に入っちゃったんですよ、橋本さんって。東京だけど、山の手じゃない。下町でもない。町っ子なんですよ。町っ子の東京の文学者って、ほとんどいないんです。近代文学の担い手は、全部、地方から上がってきて、東京に住んで、外国を学んで君臨するっていうのがパターンなんです。この近代文学、おもしろくもおかしくもないと思っていました。おもしろいと思ってたのは、谷崎潤一郎っていう人は出が下町なんです。だけど、東京おもしろくないって、関西に行っちゃった。それから、芥川龍之介も下町の男なんです。何人かは下町がいるけど、ほとんどが山の手に住んでいるっていうバカな研究をやったことがある(現代風俗研究会)。

なんとなく波長が合うなと思ってる橋本家に、若い編集者とか何かが、ゾロゾロ集まってるんです。僕はその時に、原稿読んで「ありがとうございました」の時は、何が出たかな? 安倍川もちが出たかな? 橋本さんがお茶出してくれるんです。お茶出して、ちょっとしたお菓子とか。その時に、「あ、安倍川なんかやるんですか?」って聞いたら、そういうの得意だっていうわけですね。僕が行ったのは忘れもしない1981年12月の23日。正月は、みんなで集まって、おせち料理を「僕、作りますから」とか言ってるんです。「えっ? 料理やるんですか?」って言ったら、「やります」って言う。

そこからの話がまたありますが、ともかく、僕は橋本さんっていう人が気に入ったんです。でも、橋本さんの本は1冊も読んでない。僕は真面目な編集者じゃないもんだから、だいたい本を読まない編集者なんですよ。河出書房とか一流の出版社の編集者は、みなさん、お勉強をちゃんとして、著者のところに行く時はその先生の本を読んでいくっていうのが常識なんだけど、僕はほとんど読まないで行くんですね。それはどっちかっていうと関西系のやり口なんです(笑)。関西の先生は、本を勉強してきて、「先生のこの間のご本は、実はこうこうで、私はたいへん感銘を……」って言った途端に、皮肉を込めて「お利口さん」って言うんですよね。そういうことを言わないでバカ話をする方を、「あれは賢いね」って言って、全然評価の仕方が違う。だから、著者の本を勉強してきて原稿依頼したからといって、引き受けてくれないです、関西は。東京は、ちゃんと勉強していって、キチンとその先生のテーマを振ると引き受けてくれるんだけど、僕はどっちかっていうと関西系の編集を勉強したもんだから、橋本さんの本を真面目に読んでないんです。

でも、橋本さんと僕、すごく親しくなったつもりでいたんですね。橋本さんも「年上の編集者が来たっていうのは嬉しい」とかなんとか言ってたらしい。確かにそうだろうなと思うけど、実はそうじゃなくて、橋本さんはその時30いくつかで、イラストレーターから作家になろうかなって思ってたんですよね。最初に出した出版社は北宋社。つまり、マイナーな出版社の編集者か、雑誌のスタッフが来るぐらいで、橋本さんとしては、作家として飯を食っていくのに、「こんな調子でいいのかな?」って若干不安に思ってたんだろうと思う。いや、そんなことをその当時は思いませんよ。年取ると、そういうような変な角度からものを見るようになる。現実にそうですよ、やっぱり。どんな大家になったって、生活の不安はあるわけです。どんなベストセラー作家だって、「ある日突然、売れなくなったらどうしよう」と不安に思っているから、どんな原稿でも「お願いします」って言ったら、何年か後でも引き受けますっていうのが、だいたい作家のスタンス。フリーランスの不安っていうのは、まず第一に生活の不安なんです。ある程度年取るとそういうことを知るようになるんだけど、この考え方も、関西流ですね。

それで、橋本さんの家が賑やかなのをいいことに、僕は、会社にあんまり行かないで、その時5段ギアの自転車を買って、その自転車で、吉祥寺の自宅からまっすぐ北へ向かって、橋本さん家に行って、だべってることが結構あったんです。そうすると、そこへいろんな若い人たちがいて、楽しいんですよね、橋本さん家って。そうやって橋本さん家に入り浸ってたある日、『枕草子』の話をしたんですよ。「あんなのは、もう、女学生の言葉と一緒だから、『春って曙よね!』って言うのと一緒だよね」とかいう雑談を若い人とやっていた。「それ、おもしろいじゃないの」って言って、「橋本さん、それ、訳してくれない?」って。ここら辺が編集者の商売のコツで、「訳してくれない?」って、それだけですよ。僕は『枕草子』なんてあんまり関心ないけど、要するに、河出書房で『戦争と平和』を訳した中村白葉さんっていう人は、一生食いっぱぐれがなかったですよね。要するに、古典の定番を訳していれば飯は食えるっていうのが常識でしたから、「橋本さん、『枕草子』やったら、食いっぱぐれないよ」みたいな気持ちがありながら、なおかつ、出版社としては、「橋本さん、その『春って曙よね!』でずーっと書いてくれたら、これはヒットするだろう」っていうスケベ根性ですね。それで、橋本さん、「やります?」って言うから、「やろう、やろう!」って言って、この本が始まって10年かかるんだけど(笑)。

だけど、橋本さん、その時、食わなきゃいけないから、僕も、原稿を頼まなきゃいけないですよね、彼を支えるのに。そして、僕はすぐ「『文藝』に連載しようよ」って言って『文藝』編集部に話をしたんです。「青春文学論」っていうのを連載してくれないかなって。そしたら『文藝』に見事に断られました。それで、「じゃあ、橋本さん、とにかく他に本になってないやつかき集めて」って、とりあえず『極楽迄ハ何哩(マイル)』っていう本をまとめた。いろんな雑誌に書いたやつを集めてきて作るから、初めて橋本治っていう人はどういう人か読むわけですよね。知らない世界ばっか書いてあって、少女漫画の話とか出てくる。「少女漫画って読んだことないから、ちょっと読んでみようかな」っていって、少女漫画にハマっちゃったんですね、僕が。家の中に少女漫画の本がいっぱいあって、うちの娘がその影響を受けちゃって、非常に良くないことになったなと思っています(笑)。

その時、僕、高野文子っていう人に会いに行きました。これも橋本さんのおかげ。まぁ、なんと無謀なことかね、僕は『絶対安全剃刀』とかちょっと読んで、「これは良いね」と思って、単行本を依頼したんですよ、いきなり。それで橋本さんの表紙は高野文子で飾ったんです。

●いよいよ萩谷朴さんの話

ともかく、今日は嬉しいんだけど、萩谷朴っていう名前が出たか! っていうだけで、ある感慨がありますね。橋本さんも非常にあったかい人だったけど、萩谷さんもね……最初は、橋本さんが言ったんですよ、「底本(ていほん)、探してるんだ」って。「そこほん」って言ってましたかね。僕は『枕草子』って、ひとつだと思ってたんです。そしたら、いろんな『枕草子』があるっていうじゃないですか。「それぞれみんないろいろ違うんだよ」って言うから、「ああ、そうだったの」って。「普通、編集者がそういうの集めるんじゃないの?」って言うから(笑)、「すいません」ってね。それで一生懸命、彼が集めて、「これに決めた」って言って、萩谷朴本で始めたんです。そんなのも、僕は右から左に聞き流して、忘れてしまったんですね。

原稿が最初からどんどんできていく。会社はその年はアレが出ました、俵万智の本(『サラダ記念日』)が。大ベストセラーになって大騒ぎになったんです。それで秋に橋本さんだったんです。忘れもしない1987年。僕は日本の文学が変わると思ったんですよね。短歌が口語体になって、「『嫁さんになれよ』だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの」っていう短歌が出てきて、『サラダ記念日』がベストセラーになる。僕は、俵さんの本を読んで涙を出すと思わなかったから、本当にあれは感動しましたね、あの本には。それで橋本さんでしょ。もうこれで河出書房万々歳なぐらいに舞い上がってました、あの年は。だって、『枕草子』が「春って曙よね!」っていうぐらいだから、日本語はこれでガラッと口語体に変わっていくだろうって興奮して、橋本さんをあちこち引っ張りまわして、サイン会だの何だのやって売りまくりました。

そうしたある時に、社長に呼ばれたんですよ。どっかのパーティーで、何とか先生に会ったら、「萩谷朴さんっていう方が、『本が僕のところに来てない』って言ってるそうだけど」って言うんですよ。「萩谷朴って、誰だろう?」と思ったら、橋本さんが底本に使ってた新潮社版の『枕草子』の著者なんですよ。「ああ、そうか。まだ送ってなかったか」ってね。「じゃあ、頼みますよ」って社長が言ったんだけど、パッと忘れちゃったんです。それでしばらくして、「小池さん、電話ですよ」っていわれて取ったら、「萩谷です」って言うんですよ。それで、「本が来ないけど、どうした」って言うから、「何の本かな? あっ、そうそう! 申し訳ございません」って謝りました。謝ってたんだけども、なんだか、どうもご機嫌が悪いんですよね。「あれから何週間か経ってる。社長はすぐ送るって言ったけど、君が担当者か?」みたいなことを言うから、「はぁ、僕がそうです」って。そしたら、「君は自民党か?」とかなんとか言うんです。ちょっとムカっときたんで、「なんて失礼なんですか」って言って、ガチャンと切っちゃった。
会場:(笑)

それでね、「ちょっと待てよ」と思ったんです。「橋本さん、そういえば、底本なしにはできないって言ってたな」と思って、確かに僕も本の最後のところに、「この本は、新潮社版のなんとかを底本にしてます」って編集で校正した記憶があるんで、やっぱりそれはある程度先人の業績には礼儀をはらわないといけないかと思い直しまして、もう一回、萩谷先生の電話番号を回して、「先ほどは失礼いたしました」って謝ったんですよ。そしたら、向こうは、その程度じゃおさまらなくて(笑)、「橋本くんに言いたまえ!」って言ってね。「僕のを使ったのなら、印税の1%持ってきなさい」って言うんですよ。もう印税払っちゃったんですね。

「弱っちゃったな」と思って、橋本さんに、「いや〜、萩谷さんが電話してきて、僕ね、申し訳ない、本を献本してなかったんだ」。橋本さんは「嫌だな〜」とか言って、それで僕が「萩谷先生がね、印税1%持ってこいって言うんですよ」と言ったら、「先生に印税を僕が払えるの?」って言うんですよ、橋本さん。「萩谷先生に、僕が印税払えるなんて嬉しいな」って言うから、「いや、もう印税払っちゃいましたよ、橋本さんに」、「あ、それじゃ、僕の方から払う」って言って、橋本さんから萩谷さんに印税払ったんですよ、1%。『桃尻語訳 枕草子』って30万部ぐらい売ったから、あれ、定価いくらだったかな? 1500円かな?

●師弟のエールの交換

橋本さんは前半の授業で酒井順子さんがおっしゃったように、「この先生以外の学者は、ほとんど問題にならない」って言ったんですよ。その先生に僕は怒られちゃった。でも、橋本さんは「嬉しいですね」って言ったから、僕、救われましたね。萩谷さんは、まさか橋本さんが1%を払うと思ってもいなかった。それで、また萩谷朴さんから電話があったので、橋本さんが一度ご挨拶をしたいと言ってると言ったんですよ。「喜んで会おう」っていうわけですね、萩谷朴さん。それで、僕は、新宿の中華料理屋に席をセットしました。いや〜、僕は、あのシーンを忘れもしないね。萩谷朴さんは東京大学の国文科なんですよ。戦前に出てるかな。それで、橋本さんに「僕は君の先輩だ」と。「良い後輩を持って、僕は嬉しい」って、萩谷朴が褒めたんです。「今度の仕事は、とても僕にできない良い仕事だ」って言ったんですね。橋本さん、泣いたんですよ、そこで。僕の前で。萩谷先生の前で。「嬉しいです!」っていってね。

『桃尻語訳 枕草子』は、いっぱい売ったんだけど、全然評価が来ない。「すごい本だ」っていう書評が一個もないんですよ。売れたんだけど、橋本さんへの評価は、ビックリするぐらいなかった。ところが、萩谷朴は「君は本当に素晴らしい後輩だ」って言ったし、後輩の橋本さんは、「先輩の萩谷朴以外の底本は見当たらない」っていう、この師弟関係のエールの交換には、本当に感動しました。その萩谷朴先生と、それから親しくなっちゃって、萩谷さんって、やっぱ変わってるんですよ。僕は喧嘩したはずなんだけど、「おい、小池くん」って言って、新宿に月に一度だか、市川房枝の会館(婦選会館)の日本婦人有権者同盟っていうところで『枕草子』教えてたんですね。それで新宿に出てくるんですよ。出てくるたびに、「今日は、君、付き合いなさい」って呼び出されて、酒に付き合わされるんです。もう毎月、萩谷朴の酒の相手させられちゃってね。だから僕は、萩谷さんの、『おもいっきり侃侃』っていうエッセイ集と、萩谷朴だから「朴」をカタカナにして『ボクの大東亜戦争 心暖かなスマトラの人達、一輜重兵の思い出』(輜重兵=しちょうへい=は武器や食糧を輸送する兵)っていう彼の戦争体験を書いた本を担当しました。それから、最後にA5判の大著『本文解釈学』を出しました。毎月酒飲んで。萩谷さんともそういう親しいことをやって、その時、萩谷さんが酒を飲みながら、年がら年中言ったのが、生活の話なんですよ。『本文解釈学』でも「古典の解釈で一番大事なのは、日常生活をキッチリと行って、それをちゃんと見ていることなんだ」っていうことを繰り返し言ってる。生活している時、あるいはテレビを見ている時、何かをしている時、人の話を聞いている時、「あ、あのくだりは、このことだったのか! っていうのはパッと浮かぶんだ」って言うんですよ。それが『本文解釈学』っていう大著に書いてあるんです。先ほど酒井さんが話していた、あの誰も言わないようなくだりは、ある時、風呂に入ってて、何かを見た時に、「あっ、あのことかって、古典のあるくだりのわからなかったところがわかるんだ」って。「これがおもしろいんです」っていう話をしてくれました。

そこで、「生活」なんです。つまり、学者は実生活をちゃんと行ってないと、ちゃんとした解釈ができない。だから、バカなことでも何でも、人間の生活をちゃんと行ってないと、解釈学という学問は成り立たないのだということを言った話。そして、今日のメインは、編み物の話(笑)。『男の編み物』は思想書である。

●編み物、僕に教えてくれませんか?

それで、編み物。実生活なんていう言葉は橋本さんは使わないけど、とにかく飯を作るでしょ。おせち料理はうまいもんですよ。食べに行きました、正月。何段にも重ねたおせちを全部作ったっていうわけですよ、お煮しめから何から何まで。それで、橋本さんなら実用書いけるかなと思ったんです。だって、料理ができるでしょ。編み物は、なんだか雑談した時、「論文書く時、編み物してたんだよ」って言って、編み物を見せてもらった。この編み物がハンパじゃない編み物でしょ。それで、僕はその時に、「実用書を書いてください」っていうのはなぁと思って、「編み物、僕に教えてくれませんか?」って言ったんです。

その時、僕は調子悪かったし、家庭の中でも優遇されてない状態だったんで、男は離婚した時に生活できないと困るなって、ちょっと思ったんです。実生活を男はやってないわけです、何も。「お〜い!」ってカミさんを呼びつけて、「飯」とか言っていた、そういう生活がどうも続きそうもないなっていう一種の夫婦関係の危機でした。ということもあって、「編み物を教えてくれ」って言ったら、「えっ? やるの?」って言うから、「ええ、ちょっと覚えたいな」、「本気ですか?」「本気です」って言って、「それじゃあ、編み物の本作る?」って橋本さんが言ったんだから。それは編集者の腕の見せところでね、「あ、良いですね」って言えばいいんだ、後は(笑)。

それで、編み物を教えながら本を作るという話になって、僕がとにかく編み物の糸から何から持ったこともない。だから、それがわかるように書いてくれっていう注文をしたんです。そしたら、橋本さんは、「実用書の文章っていうのを、僕も勉強しようかな」みたいなことを言った。事実をどういう風に書いて、順番にできるかっていうことの訓練にもなるかもしれないっていうので、編み物の本を作る話がそこで成立して、「僕は何したらいいの?」って聞くと、「とにかく毛糸と編み棒を買ってこい」って言うんですね。それで、「編み棒売ってるのは、どこ?」っていうところから始まったわけです。

それで、僕は毛糸と棒を買ってきて、最初に輪っかになってる毛糸を玉にするところから始まるわけです。その玉にしたやつから、糸を一本持って、「これ、どうするの?」っていう話なの。そこから、『男の編み物』っていうのは始まりました。僕、実際に編めるようになりました。それで、グリーンと黒の縦じまのセーターを編んでやろうっていうので、前身頃ができたところで、原稿があがっちゃったんです(笑)。

橋本さんの原稿って、本当に早いんですよ。当時、ワープロやってなかったかもしれないな。ともかく、ワープロが橋本さんの速度に追いつかないんで、ワープロ3台ぐらい壊して、「こんな物、やってらんない」って言って、また手で書くことになったんですけど、とにかく、僕が編み物を覚えてセーターを編む前に本一冊出来上がっちゃった。

●遊んでいるようにして作った一冊

本屋に行くと、「なんとかの作り方」とかって実用書があるんです。そういう実用本を僕はイメージしてたら、全然違うんですよ、彼の編んだセーターっていったら、山口百恵ちゃんの似顔絵は後で編んだから、ジュリー(沢田研二)のとかね、「これ、どうすんの?」って聞いたら、「写真撮って載っけたら?」って言って、僕のオジサン流本づくりのダサさ加減っていうのを彼が散々ボヤくわけです。「そんな本やってもおもしろくないから」って言って。

そこに登場したのが、早川タケジっていう、当時沢田研二(「TOKIO」「サムライ」)の衣装を作ったデザイナーがいるんですよ。早川さんっていうのは、橋本サロンにもちょいちょい顔出して、お仲間みたいな感じなんですよね。で、「タケちゃん」って言ったか、「タケちゃんマン」って言ったか、とにかく「早川くんに頼もうよ」って言ったら、「ああ、いいよ!」って言って、早川タケジとやることになったんだけど、これが大変でしたね。あの本を作るのに、早川タケジは勝手にどんどんやって、撮影も何も自分で手配してやるんですよ。それで、橋本さんノリに乗って、自分もモデルになってね。ほとんど遊んでるようにして、あの本を作ってたんですよ。この本、どういう風になるかな? と思った。なんかアートの本でしょ。僕、シリーズを一応イメージしたんだ、実用書のシリーズ。次は日本料理とか、そういう風にいきたいなと思ってたのに、全然違うものになっていったんです。営業部は、「何? それ」って言うわけですよ。実用書の販売って全然違うらしいんですよ。そういうのに、「あれ、どう売るの?」っていう作りになっていっちゃったんですね。僕も、「これは困っちゃったな」と思ったんだけど、おもしろいんですよ、早川さんと橋本さんのやり取りが。一緒にやってることが、おもしろい。それで、彼も実際に編んで、「今度はこういうのもやろう」とか、「こういうイラストを入れよう」とかって、打ち合わせとか何かが楽しい……、あっ! こんな時間です。

僕は千葉に帰るんですけどね。千葉の田舎で百姓をやっていて、お米を作って、今日はオリーブの苗をトルコから2000本取り寄せて、オリーブ畑を作ってやろうとしていて、で、何の話になったかっていうと、この編み物の本をやって、それが出来上がりそうになった時に、橋本さんが「小池さん、この本ね、実用書じゃないんだよ」って言うんだ。「何?」って。「これ、思想書です」、「えっ? 思想書?」って言ったら、「そうです。僕は思想書を書いたんです」って、彼がおっしゃいましたな(笑)。

●思想と生活

思想と生活っていうと、小林秀雄の名言があるんです。「あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育つた思想が遂に実生活に訣別する時が来なかつたならば、凡そ思想といふものに何んの力があるか」は、小林秀雄の名言集に必ず出てくるフレーズなんですね。「あっ! そうか。実生活は思想。思想は実生活から生まれるっていうことですよね。小林秀雄も言ってますもんね。あらゆる思想は実生活から生まれるって」と言ったら、橋本治が「何? それ」って言ったんです。僕は「東京大学の学生は小林秀雄ぐらい知ってるだろう」って言ったら、「知らない」って言うんですよ。「読んだこともない。へぇ〜、そんなこと言ってんの」って言うんです。小林秀雄って名前は知ってたかな。

これは、「トルストイ家出論争」って言ったかな。正宗白鳥が、トルストイが家出をしたのは、「奥さんのヒステリーが恐くて家出した」と言ったのに対し、小林秀雄は「そうじゃない。抽象的煩悶によって、彼は家出した」っていう論争をやってるんです、有名な論争です。「実生活論争」ともいう。その時、小林秀雄が、「実生活から思想は生まれるけど、やがて実生活に訣別する」っていうことを言ったんだけど、橋本治は「知らねえ」って言う。

それからしばらくしたら、小林秀雄が死んだんですよ。僕は小林秀雄ファンだったから、「小林秀雄死んじゃったんですよね」って言ったら、「ふ〜ん」って関心なさそうにしている。僕は、『本居宣長』という本、4000円ぐらいしたかな? 「買って置いてあるんだけど、まだ読めないでいるんですよ」って言ったの。「ああ、そうなの」とかって、全然、取り合ってくれないんですよね、小林秀雄が死んだという僕の思いを。「なんだ、しょうがねぇな」と思ったんだけど。しばらくしたら、「小林秀雄、わかっちゃった」って言うんですよ。「何? どうしたの?」って言ったら、「『本居宣長』を読んだ」って言うんですよね。1週間ぐらいかな?「読んだ。で、わかっちゃった」。「どういう風にわかったの?」って聞こうかと思ったけど、そういうの聞いてもよくわかんないからね(笑)。面倒な話はやめとこうと思って。「小林秀雄もわかっちゃうって言うのか〜」と思って、すごくショックだったんですね、その時。

●橋本治さんの本の読み方

その時に、僕、「橋本さんって、どうやって本読むの?」って聞いたんです。そしたら、「本は基本的にあんまり読まない。読む時は、最初精読する」って言ったかな? 「この人はこういうことを言おうとしてるのか」と思うのを頭の、自分の本の1ページ目において、「だとしたら、こう展開するだろう」ってページをめくるんだっていうんです。「本読むって、小池さん、頭の中で読むんじゃないの?」って、事もなげに言いましたね。僕、そんなこと考えてもいなかったんです。彼は、自分の頭の中で、「この本はこういう風に展開するというのを読むんだ」って言うんです。で、「あれ? 僕が考えてるのと違う」っていう箇所になると、そこをまた精読するっていうんです。「だとしたら、こうか」って。こういう風にして読むっていうんです。これも忘れることはできません。橋本治の本の読み方って。やっぱり、本ってそういう風に読むものかもしれませんね。

彼が実生活って言ったのは、編み物をするという実際の行動と、自分自身が小さい時からずっと生きてきた実生活っていうものが全部自分の頭の中にあって、そこに置き換えては展開していくような、そういう構造でものを考えるんじゃないかな。そこら辺が、常人と全然違うところだなって思っています。実生活をするというところが、彼の基本だろうなと。

僕が引退した後、「小池さん、タクシーの運転手かなんかになってさ、千葉行くと、『あれ? 小池さんじゃない』っていう風になるんじゃないの?」って、橋本治よく言ったもんですよ。僕はタクシーの運転手じゃなくて、千葉に行って百姓っていうか、米作りっていう、農業をやるようになったんです。農業というのは、本当に手足を使い、体を使うことなんですよね。こうやって元気でいられるのも、そういう実生活をして、その後、料理もいろいろ覚えましたし、いろんな話はいっぱいあるけど、今日の話は、萩谷朴の解釈学は、「生活から解釈学をする」ということと、橋本治のものの考え方のベースが実生活だということです。編み物という具体的な行為、あるいは、食事を作るとか、原稿を書くっていうことを、彼は編み物の目を編むような実生活の行為、あるいは、草取りと同じように、彼は原稿を書いていたんだなっていうことを、最近になって、ようやく思うようになりました。バカな編集者だったけど、その程度のことは、橋本治から学んだと思います。今日のバカな話はおしまい。(拍手)

河野:どうもありがとうございました。お話のあった千葉にお帰りにならなきゃいけなくて、ダッシュしてお出になるということです。なかなか痺れるような構成で、頭に萩谷朴の話をするといいながら、30分その話が出てこなかった。どうなるかと思ったんですが、やっぱり小池さんらしい一席をお聞かせいただいたという感じです。みなさん、どうもありがとうございました。

(後半おわり)

受講生の感想

  • 現代を生きる酒井順子さんにとって、『枕草子』という古典がいかに「身近」なものであるか、人生において3度も意味深い出会いをされていること、これから先も何度も思い返すであろうお話だったなあと思います。

  • 酒井さんのお話は、ずっと橋本治さんの古典の扱い方について、大事なことに触れられているように感じました。

  • 「桃尻枕は『わかる』という、古典を読む時の醍醐味を読者自身に体験させてあげるために最大限の配慮がされている現代語訳」。すごい解説だと思いました。これが腑に落ちるまで「桃尻枕」をいつか読み込んでみたい! そう思った授業でした。

  • 酒井順子さんが前半で萩谷朴さんの話をされて そしたら次の小池さんが 「萩谷朴の名前がここで出て来るなんて! うれしくて仕方がない」とおっしゃって、異端視されていた萩谷さんと、橋本さんという東大の先輩後輩が、お互いの凄さを認めてエールを交換し合った感無量の光景のお話をしてくださって……。 酒井さんと小池さんが続けて話される流れがなければ、この小池さんのお話を永遠に聞けずじまいだったかも、と思うと巡り合わせの不思議に心打たれました。

  • 小池信雄さんのお話で、橋本さんのところにはいろいろな人が集まっていたことを聞いて、橋本さんが画集のあとがきで「自分の絵には友達を呼び寄せる力がなかった。作家になって、やっと友達を呼び寄せるものを自分の中から作り出せた。だから絵の自分は死んじゃってもいいと思った」と書かれていたことを思い出していました。編み物の本も、友達と遊ぶように作られたのかなぁと思うと、嬉しくなりました。

  • 編み物の本は実用書ではなく思想書である、という話を受けて 千葉で農業をやっている小池さんの生き方に憧れます。久しぶりの授業、楽しかったです。