橋本治をリシャッフルする。 
第11回 松家仁之さん

昭和3部作のことなど

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松家仁之さんの

プロフィール

この講座について

編集者としてつきあった橋本治さんと、作家の目で読む橋本作品――「橋本治をリシャッフルする」最終回は、作家・編集者の松家仁之さんが、ふたつの視点から「大きなひと」橋本治さんのことを語ってくださいました。晩年に書かれた4つの長編小説で橋本さんが示した時代認識や人間観察眼、堂々たる性描写の凄みを、松家さんの解説でお楽しみください。(講義日:2020年9月11日)

講義ノート

こんばんは。時間の制限もありますから、すぐ話に入りたいと思います。私は1982年に新潮社に入社しました。新潮社で28年間、編集者として働いて、2010年に退社して、ものを書くようになりました。1982年っていうと、「出版界、これからどうなるんだろうか」とか、そういうことを誰もまったく考えないような、本当にのん気というか、「良い本を作って、世の中に送ればいいんだ」と思えるような、そういう時代でした。『小説新潮』編集部に配属になったんですけれど、思っていた以上にのびのびと仕事ができて、83年に「大コラム」というタイトルの臨時増刊号の企画を出して、比較的あっさり通ったんですね。それはどういうものかというと、小説ではないもの、エッセイとかコラムとか、そういうものだけを集めた臨時増刊号でした。

その頃はまだ「昭和軽薄体」なんていう言い方はなかったかもしれませんが、椎名誠さんとか、林真理子さんとか、あたらしいエッセイストが続々登場して人気を集めていたときで、椎名さんも林さんも小説を書きはじめていたかどうかの頃でした。エッセイとかコラムがすごくおもしろい時代で、その中の一人に橋本治さんもいたわけです。橋本治さんお会いしたのは初めてだったんですけれど、どんなやりとりだったかあまり覚えていません。とにかくスターのような存在でしたので、眩しい人を見た、という記憶だけは残ってます。「大コラム」を探しだせなかったので記憶で言うのですが、「男の子いかに生くべきかの7章(実際のタイトルは「女の子が20歳になるまでに知っておかなければならない7つの常識」)」というようなエッセイを書いてもらったのではなかったかと思います。

でも不思議なんですけど、それ以降は橋本さんとの仕事は繫がっていかなかったんですね。『小説新潮』本体はオーソドックスな小説誌でした。私が入社する直前に飛行機事故で亡くなった向田邦子さんの、直木賞を受賞した『思い出トランプ』が掲載されていたり、筒井康隆さんも常連執筆者だったりしたんですけれど、橋本治さんにご登場いただく感じが、お互いにあまりしなかったのかなっていうことがひとつ。もうひとつは、出版部にすでに担当者がいて、その担当者と話をしたら、「橋本さんとは、もう小説の約束をしてあって、タイトルも『少年軍記』と決まってる」というので、「あ、そうなのか」と。『新潮』の編集部にも熱心な橋本さんの読者である鈴木さんという担当編集者がいて、鈴木さんに連れられて事務所にいったので、『新潮』にもいつか小説が載るんだろうな、と思ったこともあったかもしれません。結局、その『少年軍記』が書かれることはなく、『新潮』にも小説は載らないという時期がずっと続きました。80年代後半には『愛の矢車草』とか『愛の帆掛舟』とか、新潮文庫で続けて出た時期があったので、たぶん新潮文庫編集部に、橋本さんとタッグを組む編集者がいたのだと思うんですけど、その人が誰だったか記憶がちょっとないんですね。橋本さんより早くに亡くなったフリーの編集者、刈部謙一さんの仕事だったのかもしれません。

●『ひらがな日本美術史』での再会

私が橋本さんに再会したのは、『芸術新潮』で連載していた『ひらがな日本美術史』の仕事です。93年に始まって、2年で本1冊ができるペースの連載でした。結局、全7巻という長期連載になりました。その1冊目を出すタイミングで、『小説新潮』から出版部に異動していたので、担当させてもらうことになったわけです。参宮橋の駅から歩いて10分ぐらいの、住所で言えば渋谷区代々木の事務所に行くようになりました。東京芸術大学を卒業した、優秀かつ橋本さんフリークの『芸術新潮』編集部の米谷さんに、著者校正のタイミングで連れていってもらったんですね。ゲラを目の前に置きながら、橋本さんと米谷さんがやり取りするのを聞いた後で、本の相談を始めました。10年余りのブランクがあっての再会で、『ひらがな日本美術史』の単行本化が橋本さんとの最初の仕事になりました。

そこからは橋本さんとの距離がぐんと近づきました。翌年に他社から出たのが『宗教なんかこわくない』でした。阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件がつづいて起こるなかで、世の中で宗教がクローズアップされた時期に書かれた、宗教に対する橋本さんらしい考えをまとめたものです。この本が、社内スタッフとしてかかわっていた新潮学芸賞を受賞したんですね。のちに新潮学芸賞は小林秀雄賞に名前を変えて発展的に解消したのですが、担当編集者としては、とてもうれしい受賞でした。

参宮橋の事務所にはよく通いました。以前にも書いたことがあるんですけど、事務所に伺う用件じたいはだいたい15分ぐらいで済むようなことなんです。でも話を終えて事務所を出て時計を見ると、2時間とかが平気で経っている。話をうかがっているうちに、本来の用件とは関係ないような話になって、橋本さんの話があれよあれよと展開していって、本当だったら、ここでテープ回して録音しておけば、本1冊分になったんじゃないかっていうぐらいの、濃い話になるんですね。たとえば、「現代の世界っていうのは、4人のユダヤ人が作ったようなもんなんだよね」なんて言う。「ひとり目はイエス・キリスト。それから、マルクス。それから、フロイト」。……あれ? もうひとり誰だっけ? (もうひとりはアインシュタイン)橋本さんの話はつねに、無類におもしろいんです。

その後、橋本さんの仕事でかなり大きな仕事のひとつとなったのは、『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』。三島由紀夫の作品を深く論じた本なんですけれども、これが第1回の小林秀雄賞に選ばれることになりました。同時に受賞したのは斎藤美奈子さんの『文章読本さん江』。小林秀雄賞というのは、芥川賞や三島賞とちがって、候補になった人に事前にお伝えしないし、メディアにも発表しないんです。なので、選考会で受賞作が決まると、そこで初めてご本人に電話をさしあげるんですね。「あ、もしもし、松家です。あのー、橋本さんの『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』が、さきほど小林秀雄賞に選ばれました。おめでとうございます。お受けいただけますか?」と伝えると、橋本さんが、「……えー。小林秀雄賞? うーん」とやや暗めの声で唸るんですよ。いらないと言わんばかりの感じで。「これはマズいな」と思って、「小林秀雄賞は今回が第1回なんです。突然ですみません。でも全員一致で決まって……」と選考委員の方々のお名前(河合隼雄、加藤典洋、関川夏央、堀江敏幸、養老孟司の五氏)も伝えて、「ぜひ、受けていただきたいんです」。それでも「うーん」と唸ってる(笑)。賞はいらないんだよなあ、というような気配がする。「賞っていうのはさぁー、なんか後が面倒くさくて」とおっしゃるので、「その後のことは、おまかせください」とかなんとかいい加減なことを言って、必死で拝みたおすようにして受賞を了承していただいたんですね。2002年のことでした。

当時はちょうど、私が出版部にいながら、『考える人』という季刊誌を創刊して間もない頃で、創刊号では養老孟司さんにイギリスを旅していただいて、「田園都市とは何か」というテーマで特集を組み、第2号は「橋本治と考える 女って何だ?」という特集で編集作業が進んでいました。『考える人』は小林秀雄賞の発表媒体でもありましたので、選評と受賞者インタビューが同じ号に掲載されることになったんです。受賞者インタビューを久しぶりに読み返してみたら、今日の小説の話とリンクする所がたくさんあったので、ポイントだけ、ちょっと読みますね。

●小林秀雄賞・受賞者インタビュー

「私は思想に反応しない人なんですよ。他人の思想は他人の思想としてあって、思想が逆立ちしてなんとかなるとか、思想が世を覆うということにリアリティを感じないんです。十代二十代の頃に評論や思想書を読むというのが、ある時期の通過儀礼のようなものだったけど、私にはその経験がないんです。自分が生きるというのは、自分の問題でしょう。あとは、自分以外の生きている他人と、どういった共生関係を結べるのかを考えるのが必要であって、ナマの思想に対応するという考え方自体がヘンだと思っちゃう」。……ちょっと飛ばします……「思想する三島由紀夫には『わかんないよ、こんなもん』、でしかなくて、物語をする『三島由紀夫』のなにかに反応したのが、そもそもの始まりかな」。……で、またちょっと飛ぶんですけど……「私は基本的に小説家だから、普通は具体的なディテールを一から全部作るんです。でも作業としては、小説を書くことと今回のような評論を書くことと、そんなに変わらない。私の場合、小説以外のものもみんな小説だと思ってもらって構わない」。……もうちょっと読ませてくださいね。……この本を「何のために書いたかというと、三島由紀夫の『鎮魂』をしてあげたかったから。可哀想な人だから、『鎮魂』してあげようと。もしかしたら文学の目的って『鎮魂』なのかもしれない。今『平家物語』をやっているんだけど、これは『王朝』という時代のものすごく大きな『鎮魂』なんです。『平家物語』にしろ『源氏物語』にしろ『日本書紀』にしろ、歴史の体系を作っていた『王朝社会』というものが滅んでしまって、その滅んだというのをはっきりさせないと、次の時代は生まれないから、同じように『鎮魂』が必要だと思っているんです。前に行きたがるくせに、後ろに戻るというヘンなことをやっているというのは、たぶんそういうことなのかなって」……というようなことを、受賞者インタビューでお話しされてたのを久しぶりに読んで、「ああ、そうだったか。橋本さんはずっと一貫しているんだな」と思いました。

橋本さんの小説は、1978年の『桃尻娘』から、いろんなものをお書きになってますが、「あれ? 違うギアが入ったかな?」という時期があるんですね。これは私の感じですけど。1994年の『生きる歓び』という小説集があります。僕はこの辺りから、「あれ? ちょっと変わってきたかな?」と感じたんですね。そして、99年に『つばめの来る日』が出ました。それから2004年には『蝶のゆくえ』という短篇集が出て、これが柴田錬三郎賞を受賞します。今日はとりあげませんが、『蝶のゆくえ』もたいへんにすばらしい小説集です。柴田錬三郎賞の授賞式での、橋本さんの受賞スピーチがとても印象的でした。「私はもともと小説家なんです。なによりも小説を書きたいと思っています」というようなことを、かなり強調されていた。つまり、強調したっていうことの裏側には、「橋本治っていうのは、何かおもしろいことをしたり喋ったり、評論とかエッセイで、ヘンテコリンなことをやってる人だ」という、まぁ、世の中全体の、あるいは、出版界もそうだったと思うんですけど、「そういう人間だっていう風に捉えてるところがあるかもしれないけど、自分は小説家なんです。小説を書きたいだけなんです」ということを、授賞式でかなり強調しておっしゃっていたことが強く印象に残ってます。

●鎮魂

『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』は、渋々であれ受賞していただいた。授賞式はヴェルサーチのカッコいいスーツでしたし、とてもいい笑顔をしていらっしゃいました。電話で感じた「渋々」にはひとつ理由があったんですね。とにかく橋本さんは律儀なんです。賞をもらったら、何かで返さないといけないって思うらしいんです。もらったら、返す。その「もらったら、返す」ものとして書かれたのが、『小林秀雄の恵み』という本です。要するに、小林秀雄賞をとったんだから、小林秀雄について1冊書いておくべきだろうと。橋本さん、「僕はさー、『本居宣長』しか読んでないんだよね」と言って、「『本居宣長』について書こうと思うんだけど」。「それはぜひ、お願いします」と皆で言って書いてもらったものなんですけど――今日はこの本について話す時間はないんですが、非常に不思議な本で、本を論じながら小林秀雄という人の中に入っていくんですね。それは『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』も同じなんです。橋本さんは、外側から見て論じるんじゃなくて、その人のなかに入っていっちゃうんですよ。三島由紀夫の作品を通じて、三島由紀夫の中に。『本居宣長』という本を通じて、小林秀雄の中にずんずん入っていく。

入っていった結果、三島由紀夫の鎮魂になっている。小林秀雄の鎮魂になっているんです。そして必ずしも、「小林秀雄は日本のもっとも優れた誇るべき、偉大な批評家です」とは言ってない。そこがすごくおもしろい。おべんちゃらを言うつもりはまったくないんです。その人のなかに入ってしまったら、たんなる批判もむなしい。要するに鎮魂なんですね。三島由紀夫や小林秀雄の。

そうこうしてるときに、小林秀雄賞の選考委員の河合隼雄さんが倒れられてしまった。約1年近く意識がない状態でいらしたんですけど、闘病から回復されることはかなわずに、亡くなられてしまったんですね。誰かあらたに選考委員に加わってもらわなければいけないというので、第1回の受賞者であるし、これは橋本さんにお願いしたいと思って、また、参宮橋の事務所を訪ねて、お願いするわけです。もちろん、快諾はしてくださらない(笑)。やっぱり、どこか渋々、しかたないですねわかりましたという感じで引き受けてもらったのが、2007年でした。その2年後、『新潮』に初めての長篇小説『巡礼』が書かれることになります。小林賞の選考委員は橋本さんが倒れられるまでずっとつづけてくださいました。

小説については、今日の後半でひとつひとつ、晩年の4冊の長篇小説(『巡礼』『橋』『リア家の人々』『草薙の剣』)についてお話ししていこうと思うんですけれども、橋本さんは小説家であるより以前に、いったいどういう人だったのか。ぼんやりとは感じていたことがありました。ずっともやもやしていたんですが、「あ、そうか」とハッキリ見えたことがあるんですね。それは橋本さんが亡くなって、妹さんたちや橋本さんの友人たちと病院でお目にかかったり、通夜や告別式でお話しすることになって、「そうか」と思いあたったことなんです。橋本さんがお菓子屋さんの息子だったというのは知っていたし、橋本さんもときどきその話はしていたんですが、そういう子どもの頃の話を、妹さんから詳しく聞いて、深く感じるところがありました。

作家が亡くなると、ときどきですが追悼文の依頼があります。橋本さんのときも、『新潮』の編集部から見開きで追悼文を、という連絡がありました。「いろいろ考えたんですけど、見開きでは無理だから、もうちょっとページくれませんか?」とお願いしました。自分の考えを書くのではなくて、葬儀で聞いたこと、妹さんからうかがったことを書こうと思ったんですね。橋本さんが東京大学の学生だったときからずっと親しい友人だった森川那智子さんの弔辞が本当に素晴らしかった。原稿を用意して読んでいらっしゃるのを見ていたので、森川さんに連絡をして、「弔事を『新潮』に掲載させてくれませんか?」とお願いし、それから、妹さんにも連絡をして、「ちょっとお話を聞かせていただきたいんです」とお願いしました。

●追悼文から

妹さんからは、橋本さんの子供の頃の話を聞きたかったんですね。葬儀からほどなく妹さんのお住まいにうかがいました。そのお宅は、橋本家が昔からあった杉並区にあります。そこに橋本さんが3階建ての家を建てたんですね。一番上の3階に橋本さんが住んで、2階に妹さんの一家、1階がご両親、三世帯住宅です。亡くなって初めてその家を訪ねることになりました。このときの妹さんへのインタビューと、森川さんの弔事をあわせて、私の追悼文として『新潮』には掲載してもらいました。森川さんの弔辞、本当に素晴らしいんですけど、それを読んでると時間いっぱいになっちゃうので、妹さんのお話のところだけ、ちょっと読ませてください。後半の小説についての話と、どこかで呼応するところが出てきます。

「母方の祖父が福井の出身だから、店の名前も福井屋。父はね、婿養子なんです。父も福井の出身だから、郷里が同じ人を迎えたんじゃないかな。長女だった母が、父を婿養子にとって、菓子屋を継いだんでしょうね。
京王線の代田橋駅前の商店街にいたのは、兄が三歳までです。父がアイスクリームの卸しを始めたのがきっかけだったのか、世田谷区北沢の新居に引っ越しました。祖父と祖母はそのまま杉並区和泉でお菓子屋さんを続けていました。
世田谷区に引っ越したといっても、代田橋駅の北側が杉並区で、南側が世田谷区ですからね。バイクに乗れば目と鼻の先でした。
兄が通っていた幼稚園も杉並区の祖父母の家近くにあって、父が毎朝、バイクの後ろの荷台にアイスクリームをぎっしり詰めて、前の荷台には兄を乗せてやってきて、お祖母ちゃんが父から兄を受け取って、幼稚園の送り迎えをしてくれていたそうです。初孫ですからね、ものすごく可愛がられたみたい。お祖母ちゃんは毎日、兄を膝にのせて、講談社の絵本シリーズを読んであげて、そのうちに兄は全部、暗記してね、お祖母ちゃんが読み間違えると、『ちがうよ』って。

兄が杉並区立新泉小学校にあがるころ、うちの家族が杉並の店に戻ることになって、福井屋という店名も橋本商店になったんです。祖父の代から、父の代にかわろうとしていた過渡期だったのかな。
杉並は百坪くらい敷地がありましたから、お菓子屋の店舗と、餡を練ったりお饅頭をつくったりする工場と、アイスクリーム卸販売用の大きな冷凍庫もあって、住み込みで働く人が十二、三人いましたね。朝はたいへんでした。母とお手伝いさんとわたしで朝食を準備して、一階の大きなテーブルに配膳して、みんないっせいに食べるんです。家族は二階です。祖父母に、わたしたち家族に、母の妹ふたり――母は三姉妹で、叔母たちは未婚で同居していたから家族も大所帯でね。すぐ下の妹は進駐軍関係の所で働いていて英語ができたし、三女は伊勢丹で働いていてモダンだったし、なんか明るい女系家族という感じ。やさしい父は押され気味で。兄を囲んでいたのは祖母をはじめ女ばかりでした。
とにかく朝から晩までわさわさ、わさわさしててね。隣の家がサラリーマン家庭でしたから、うちと違ってちゃんと玄関もある。『あーなんてうらやましい、お店ってやだなあ』って思ってました。
兄は牛乳もよく飲んで、栄養状態もよかったから、健康優良児でした小学生のころから店もよく手伝ってましたよ。裏庭のニワトリの餌やりとか、薪つかって火を焚くとか、小さなお饅頭の箱詰めとか。昔は小学校の遠足用のお菓子を扱っていてね、5円のガムとかサイコロキャラメルとかビニール袋にとりまとめて詰め合わせたものを卸していたんです。その袋詰めも手伝ってましたね。ときどき店番もしていたから、『おはようございます』『こんにちは』の次に覚えた挨拶は『いらっしゃいませ』だったよって。
浜田山にも、うちのお店があったんです。小学生のころ、母のおつかいで、兄とふたりでお店用の釣り銭を届けにいったことがあります。電車に乗ってね。釣り銭をサラシ布に包んで兄のお腹に巻きつけて運んだの。『ココ押さえてろ』って、落とさないようにわたしの手をサラシに当てさせてね。いつもふざけていた兄も無口で緊張してましたよ。

母は兄に厳しかったです。店番しながら兄に漢字の練習帳をやらせる。兄はさっさと書いちゃうんだけど、戻ってきた母が指につばつけて、鉛筆の文字を全部消しちゃうの。で、『もう一回』って。間違ったところがあれば、竹の物差しでピシッと叩く。きびしい、きびしい。 入院中にそのことを思い出したみたいで、兄がまた言ってました。小学校の五年くらいから家庭教師もつけられてましたしね。
小学校のときはよくマンガを描いてました。赤塚不二夫が大好きで。『ダヨ〜ンのオジサン』の真似も得意だった。わたしがケタケタ笑うから何回もやってくれた。映画のエクソシストが公開されたときは、リンダ・ブレアが悪魔にとりつかれて、ベッドの上でエビが跳ねるみたいになるシーンとか、首がぐるんと後ろに回るのを真似したり。
わたしはキツイ妹でしたから、喧嘩しても折れない。兄は暴力ふるったり怒鳴ったりしない。男としてはちょっと物足りないなって思ったこともあります。だって、やさしすぎるぐらいやさしいから。

勉強はよくできました。運動は得意じゃなかったからオール5ではないけれど。通信簿には『落ち着きがない。授業中の私語を慎むように』なんて書いてあったと思う。
中学も地元の公立でした。母は慶應ボーイに憧れがあったり、進学校に行かせたかったみたいだけど。高校受験では当時、このあたりの都立高校では西高が一番、その次が豊多摩高だったんです。『君には無理じゃないか橋本君』と担任に言われてたらしいけど、受かったんですね。でも入ってみると、同級生はみんな勉強ばっかりしていて、家に帰れば薪割ったり、店を手伝ったりしていた兄にはちょっと違和感があったみたい。頭がいいだけで何もしないインテリが嫌いだったのね。『塾に行くために掃除当番さぼるやつがいてさあ』って怒ってた。兄は店で掃除が身についてたでしょう。掃除が嫌いじゃないの。そういうところは真面目。
体育祭でマスコットキャラの制作の担当になって、竹ひごで立体つくって、紙をはって、絵描いて、ねぶたみたいなのをつくってました。これがすごい完成度で、ほんとびっくり。絵がうまくて、センスもとびぬけていた。
高三になって、芸大を受けたいって父に言ったんですね。でも商人だった父は、『絵では食べていけないだろう』って。毎朝四時起きで牛乳配達して、アイスクリームの卸売りして、それでも少しずつ傾きかけていた父の家業を見てましたからね。父に反抗したり反発したりせず、芸大受験は諦めたようです。
浪人することになって、当時できたばかりの新宿セミナーに通って、そこでは成績がいきなり一番だったらしいんですよ。でもあんまり真面目に通わずに、お弁当もって映画館ばかり行ってたみたい。映画はほんとうに好きでね。『映画の友』の常連投稿者でした。オードリー・ヘップバーンがとりわけ好き。でもまるで正反対のタイプのアン・マーグレットも好きだった。

東大に入ると全共闘運動には見向きもせず、歌舞伎研究会に一生懸命だったんじゃないかな。背景の舞台装置だとか、衣装だとか、ぜんぶつくってました。自分の顔を隈取りしたり。三味線も習っていたから、当時はよく弾いてましたよ。歌右衛門さんが心底好きで、羽織袴を着て楽屋にうかがったこともあります。
大学二年の駒場祭ではポスターは描くし、舞台では吉良上野介を演じて大好評だったし、駒場祭のポスターのおかげで仕事の依頼もあるし。そこからですね、世の中に橋本治として出ていったのは。作家になったのも、そういうことのつらなりのうえにのっていることだから、兄は作家になったんだなあと、あらためて考えたことはなかったですね。
猿之助さんに頼まれた歌舞伎座の『當世流小栗判官』のポスターなんて、ほんとうにすばらしいでしょう。兄は絵描きが作家になったような人だなって思うことがあります。あるとき、『絵を描くのはしんどいからやめたんだ』って言っていたことがありました。絵にくらべたら書くほうが簡単だろって。

母が『なんで治は結婚しないのか、聞いてくれ』っていうんです。二十代の終わりのころでした。『お兄ちゃん、なんで結婚しないのかってお母さんが聞いてるよ』って。兄はね、ただわたしを見て『わかるだろ?』とだけ言ったの。母のことを言ってるんだなって、ピンときました。
兄のまわりにいる女はね、みんな本音丸出しで、キツイんです。母はその最たるもので、わたしにしたって、叔母さんたちにしたって、ふつうだったら黙っているようなこと、みんな口にしちゃうから。奥ゆかしさなんて、ひとかけらもないの。女が神秘でもなければ憧れでもなかったのは無理もないというか。

わがままを一切言わないところは、父と兄はほんとうにそっくりでね。そんな父が二〇一一年に亡くなる間際、『お兄ちゃんを頼むな』って、わたしに言ったんです。兄は父を、父は兄を、ほんとうに好きでしたからね。
父の葬儀で、兄は泣いていました。
兄はもう、父に会えたのかな」。

……このような橋本家で生まれ育った橋本治だった、ということなんです。とくにもう付け加えることはないくらいなんですが、ここでもわかると思うんですけれど、橋本さんって、「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが泣いている」のポスターで有名になって、橋本治っていう人を漠然と認識してる人たちっていうのは、なんかやっぱり全共闘の側にいて、ああいうちょっとひねったアピールのできる、器用で賢い存在っていう印象があったんじゃないか、という気がするんですよね。ところが、まったく全共闘の側にはいなかった。後で触れると思うんですけど、どちらかというと、批判的だったといっていい。妹さんの話からそういうことが見えてきます。

●小林秀雄賞のめぐりあわせ

そこで面白いのは、小林秀雄賞なんです。選考委員に東大医学部を出た養老孟司さんがいます。もうひとり、東大文学部を出た加藤 典洋 のりひろ さん、加藤テンヨウさんがいます。加藤典洋さんと橋本治さんは同い年です。加藤さんは全共闘にやや近いところで友人たちと動いたり議論したりしていた。最近出たばっかりの『オレの東大物語』という本があります。これは、加藤さんが病に倒れられて、亡くなる数か月前に書きあげたんですね。『オレの東大物語』というぐらいですから、通常の加藤さんの文章とはちょっと違う、ある種ざっかけない文章で、東大時代に自分が何をしていたか、何を考えていたかがほぼそのまま書いてある。この「何をしてきたか」の中できわめて加藤さんらしいなと思うのは、ここは普通なかなか当事者たちが語らないことなんですけど、結局、東大紛争というのは、安田講堂陥落で峠を越えて、ロックアウトが解かれて、だんだん学生たちが大学に帰ってくるんですね。そして、授業が再開する。再開はもちろんのこと、卒業し、就職もちゃんとする。「大学解体」なんて言ってた人たちが、大学におめおめと帰ってきた。加藤さんがそのかっこわるさみたいなものを全部踏まえて、どのようにして自分は大学に戻るようになって、出版社を受けて落ちて、国会図書館には受かって、国会図書館員になったか、みたいなことまで、記憶を呼び覚ましながら、自分の当時の気持ちも分析しながら、きわめて正直に、真正面から書いているんですね。加藤さんは大学時代、橋本さんを目撃したことがあるんです、東大紛争時代に。どういう風に目撃したかっていうと、加藤さんと友人は、デモの現場に行く途中、新宿を歩いていた。そうしたら、新宿の映画館に並んでる人たちがいて、そこに橋本さんも並んでいた。「あ、橋本さんだ」(笑)。橋本さんは、デモに行く気などさらさらなくて、映画館に並んでいた。しかも大学ですでに有名人だったから、「あ、橋本治が並んでる」と。「橋本治を見たんだよ」って(笑)。そういうことがあった。

養老さんは、東大紛争のとき医学部の助手だったんですね。養老さんもいろんなところで書いたり喋ったりされてますけど、当時は全共闘と研究の板挟みにあった。教授は吊し上げられる存在。学生は「東大解体」と言ってるわけですから、授業なんてとんでもない、粉砕するわけです。研究室にもガンガン入ってくる。研究室で助手としての仕事をしていると、突然バーンってドアが蹴破られるように開いて、ヘルメットを被った学生が入ってくる。「こんな時に研究とは何だ!」と怒鳴られる。養老さんは、「あのセリフは今でも覚えてる」。戦争のときによく聞いた「この非常時になんだ、お前は!」というセリフと「まったく同じじゃないか」と。学生のふりまわすゲバ棒も「竹槍と同じじゃないか」と。本土決戦に備えて、子供たちも女性も上陸してきた米兵を竹槍で突き刺すんだっていう訓練をしていた。戦後だなんていっても「何も変わってない」。助手だった養老さんの一番重要な仕事は、解剖のため献体されるご遺体を引き取りにいくことだったそうです。大学が騒然としているときにも、そういう仕事をしていたわけです。

そういう3人が、選考委員会で一緒になっている図は、なかなか味わい深いものがありました。もちろん、東大時代の思い出話なんて一切なさらなかったですけれど。でも、それぞれに、どこか尊重する感じもありました。いわゆる団塊の世代が、全共闘の空気の中に同じようにいたわけじゃなく、加藤さん、橋本さんのようにみなそれぞれだったんだなっていうのが実感できましたし、ひと世代上の養老さんも、当時の記憶が完全な過去になってない。橋本さんも、後半で触れる『リア家の人々』で、背景としての東大紛争を描いています。

●「ハレ」と「ケ」

お配りした資料に、【ハレ(前半)、ケ(後半)】って書きました。これは、今回この話をするにあたって、4つの小説を読み直したり、橋本さんの仕事を年表的に見直したりしてるうちに気がついたんですけど、「要するに、僕は編集者として、橋本さんのハレの時代、スーパースター、カルト作家だったハレの時代はほとんど仕事をご一緒しなかった。そうではないケの時代に入ったところから仕事したんだな」と思ったんですね。

ハレとケを思ったのは、実は、今回ばかりじゃなくて、葬儀とか通夜とか編集者が集まって話すところでも感じていたんです。ハレの時代にディープにつきあった編集者たちは、ひょっとすると、後半の文芸誌に小説を書き始めた橋本さんが、かつての「自分たちの橋本治」とはちょっと違うと感じてるのかもしれないな、と。ハレの時代につきあった編集者の方が、ある会の席で――これ正確な記憶じゃないのでお許しいただきたいんですけど――「橋本治は『新潮』で小説を書くようになって、本来のばかばかしくおもしろい橋本治が失われた。それが残念だ」みたいなことをおっしゃったんです。私はビール瓶、投げつけようかと思ったんですけど(笑)。

でも、なんかね、わかる気もする。そういうのってあるじゃないですか。「松任谷由実は、荒井由実の時代が一番良かった」とか、「ビートルズは、ラバー・ソウルまでだ」とか。僕なんか、アビーロードから聴いた口なので、だいたい後期から出会うことが多い人間なんですけど、まあわかる。わかるけど、「違うよ」と言いたい。でも、そういう場で反論してもしかたないので、「あ、そう思う人がいるんだな」と黙って聞いていたわけです。

そう考えてみると、『ひらがな日本美術史』も、『窯変 源氏物語』も、『双調 平家物語』も、たいへんな時間と手間をかけて過去にさかのぼっていって、さらにそこで深く潜っていって、美術や古典を、その時代に生きていた人たちの物語のようにして甦らせる、たいへん地味な仕事、ケの仕事をしているんですよね。そういった仕事をするなかで、文芸誌に小説を書くということの意味が、橋本さんの中で浮上してきたんじゃないかな、という気がするんです。

●前半と後半をわけたもの

では、なぜ、そういう前半と後半ができたのか。時系列で見ていくと、やっぱりバブルとバブル崩壊、世の中の切れ目とほぼパラレルなんじゃないかという気がします。事務所に通うようになった頃、「要するにさぁ、85年のプラザ合意がバブルに繫がっていったわけでしょう」と、まあ今は誰でも言うことなんですけど、当時、僕は小説家から「プラザ合意」という言葉を聞いたのは初めてだったし、経済に疎かったせいかもしれませんけど、「プラザ合意がバブルに向かった最初のきっかけなんだ」という説明を、初めて聞いたんです。「へえ、そうなんだ」と。

バブルの崩壊というのは91年から93年ぐらいだと言われてますね。さきほど『生きる歓び』あたりから小説家橋本治が変わりはじめたんじゃないかと言いましたが、この本は94年です。後半のケの部分の「小説家の橋本さん」のスイッチが入ったのは、雑誌掲載の時期も考えると、バブル崩壊と重なるんですね。それから、橋本さんの名著のひとつだと思うんですけど、『浮上せよと活字は言う』という本、これも94年。バブルが崩壊して世の中が変わっていくなかで、派手でちょっと風変わりなおもしろいスーパースターに、何か違うスイッチが入ったのではあるまいかと、今になって感じます。もちろん異論が出るかもしれません。人間は世の中の変化を境にしてパキッと変わるわけじゃない、と言われれば、そのとおりです。まだらであったり、グラデーションをつけながら、ゆるゆると変わっていったのかもしれません。でも、そういう気がするんですね。

もうひとつおもしろいのは、バブルに絡めて言うと、橋本さんが、なぜあんなに原稿をつぎつぎに書いたかっていうことを説明するとき、「だって、借金があるからさー」。月100万円くらい返さなきゃいけない。代々木の仕事場のマンションをバブルのピークのときに、1億何千万もの借金をして買ってしまった。なんでそんなことをしたのか聞いたことがあるんです。そうしたら、「借金してマンション買って毎月お金を返さなきゃいけないっていうのはどういうことなのか、やってみないとわかんないと思ったんだよ」と言うんですね(笑)。普通、そんなこと、やってみたいかと思ったんですけど、橋本さんがそう言うと、うーんそうか、すごいこと考えるなと納得させられる(笑)。

もうひとつ、新潮学芸賞受賞の前後、橋本さんが突然、金髪になったんです。まだ金髪に染める人なんかほとんどいなくて、見かけると「おっ?」と振り返るような頃です。「あ、橋本さん、金髪」って言ったら、「うん、だってさー、金髪にする人間の気持ちって、金髪になってみないとわかんないでしょう?」って(笑)。それ、半分は本当だと思うんです。残りの半分は、単に金髪になってみたかっただけなんじゃないかと疑ってますが。何ていうのかな……、自分にとってわからないことを理解したい。そのためには借金もすれば、金髪にもなる。普通はそこまでしないけれど、それこそが橋本さんという人だなっていうことを、思うんですね。

文芸誌に本格的に小説を書くということを、『巡礼』を皮切りに始められ、これだけ力のある人なのだから、このあとどんなものを書いていくのだろう、と期待していた矢先に、「顕微鏡的多発血管炎」――自己免疫疾患とされる難病と診断されてしまった。足が赤く腫れて、引きずりながらじゃないと歩けないような状態になって、東京の病院に入院することになりました。そこから橋本さんの、自分の体とのある戦いみたいなものが始まっていくわけです。『巡礼』の後、『橋』、それから『リア家の人々』は、さほど時間をおかず、橋本さんらしいペースで執筆が続きました。ですが、『草薙の剣』までは、時間がかかった。橋本さんはそうはおっしゃらなかったですけれど、体調が万全とは言えない状況の中で、時間がかかったところもあったのだろうというのは、ふり返って考えることのひとつですね。では休憩に入ろうと思います。
(休憩)

●文芸誌に初めて書いた長編小説『巡礼』

先ほどの話とも関連しますけれど、橋本治という人が小説を書くときに対象として選ぶのは、ひと言で言えば、普通の人たち、ということです。『リア家の人々』の主人公といえる砺波文三は文部省の官僚なので、文部官僚は普通の人かっていう議論もないわけではないとは思いますけど、でも、やっぱり普通の人としての文三が描かれていると思います。

最初は『巡礼』について話したいと思います。文芸誌に初めて長篇小説を書いたということで当時も話題になりました。ただ、橋本さんが亡くなった後の『ユリイカ』の追悼特集で、いろんな方が書いてらっしゃるなかで、「あっ、そうだったのか」と思ったのは、今はベネッセになりましたけど、昔、福武書店という出版社だったころの『 海燕 かいえん 』という文芸誌、これは吉本ばななさんがデビューした文芸誌ですけれど、そこに短篇を書いたことがあると指摘されてる方がいらしたので、まったく初めてではないとも言えるんですが、これだけのボリュームのものを書いたのは初めてだった、ということですね。僕は出版部にいながら、『新潮』の編集者ともよく話をしていたので、最初は「徘徊老人のことを書く」というところから始まって、いつのまにか、「ゴミ屋敷の住人について書くことになった」と聞いて、「あ、そうなのか」と思い、それは橋本さんならではのものになると思いました。

原稿を読んで最初に感じたことがあります。まず、テレビレポーターがそのゴミ屋敷の周辺を取材に来て、近隣の主婦たちに取材したりする。取材してるうちに、その主婦の内面にも入っていって、ゴミ屋敷に対するいろんな気持ちが描かれていく。最初は、「この始まりでいいのかな?」と思いました。テレビレポーターの感じにしても、主婦の反応にしても、本当にリアルだし、いかにもこういうことが起こるだろうな、ということなんですけど。しかし、『巡礼』を何度も読みかえすと、最初のその感想というか印象は、「文芸誌に載るような小説というものは……」という狭い視点だったのかな、という気が今になってします。いや、文芸誌には何の決まりもないし何の約束もないんですけど、普通はやっぱり、ゴミ屋敷の住人を主人公にしたら、ゴミ屋敷の住人が、そのゴミ屋敷の中にいる描写、たとえばゴミがどう積み上がっているのか、ゴミ屋敷の住人の視線から始まったりするのでは、と思ったんですね、たぶん。近隣の主婦の感慨とか、テレビレポーターの行動とか、どう書いても深みは出そうにない。型通りです。聞いていらっしゃるみなさんのなかに、テレビレポーターの親戚の方がいたらごめんなさい(笑)。そういう仕事だし、まあそういうものだと思うんですけど、やっぱり、ある型にはまった役割を演じてる人から小説を始めるのは、なんかちょっと違うかな、という気がしたんですね。うまく伝わるかどうか心配ですけど。どうだろう、と最初は思いました。でも、何度も読んでいるうちに、「橋本さんの小説はこうでなきゃダメなんだな」と、考えをあらためるようになりました。型通りの周囲から描けば、そこにも意味が生まれるんです。

●人は関係性の中にある

橋本さんの小説に出てくる普通の人々というのは、その人が、ひとりで自己完結することはないんです。普通の人々っていうのは、家族であったり、近所であったり、学校であったり、あるいは結婚した先の家族との関係であったり、必ずある関係性の中で、規定されたり、おかしなことになったり、左右されたりするものだ、という考え方が、橋本さんの中に確固としたものとしてあったんじゃないかと。それを書くことが小説だろうと。

それと似た話を違う角度から言った人がいて、それは養老孟司さんなんです。たぶん文章でも書いていると思うんですけど、僕が直接聞いて忘れられない言葉があって、「デカルトの、我思う故に我ありってあるでしょ。あれ、おかしいんですよ。我ある。故に我思う、っていう順番のはずだ」って言うんですね。軸に自己があって、そこから外に向かって何かを働きかけていく、それが人間というもの――ほんとうにそうだろうか、ということですね。人間というのは、ある環境の中にポンと生まれて、そこから自己というものが形作られていくんじゃないのか。養老さんのものの見方と、橋本さんが小説を作るときの、人と人との関係の中で人間はできてゆく、つまり、ゴミ屋敷の住人というのは、訳のわからない、気持ち悪い、臭い、迷惑な、とにかく理解を絶する変なもの、として最初から生まれたわけではないんだよっていうことを、ひもとくように描こうとしていた。そう思うんです。

●画家・橋本治にしか描けないシーン

さっき、レポーターみたいな型通りの存在を描く橋本さんの方法を言いましたが、一方で、この小説で、画家・橋本治でなければ描けない、本当に絵のように目に浮かぶすばらしい場面が何か所もあるんです。小説の最初のあたりなんですけど、ちょっと読みますね。そのゴミ屋敷をどう描写するか。

「ともかく、悪臭がひどい。生ゴミの腐った臭いが えて、邪悪な獣のように襲いかかる。風が不快な刺激臭を撒き散らすと、地底から湧き上がったような かび 臭さが、まるで打水のように広がる。黴臭さと腐臭が、低音と高音をこき混ぜた不快な音楽のように、南西の風に乗って波打って来る。夏の湿気がそのまま臭気に変わったような堪えがたい雰囲気の中で、蠅がぶんぶん飛び回る。朝の内に差し込んでいた日の光が、昼になってゴミの山に発酵作用をもたらしたようだった。
ゴミ袋を土嚢のように置いた二階家の周りでは、健やかに伸びた竹の葉が風にそよいでいる。その背後には、日陰になった集合住宅の涼やかな壁と、枝を広げた静かに濃い枇杷の 葉叢 はむら 。下の『集積場』を覗く集合住宅の窓は閉められて、ひっそりとしている。そこだけを見れば、何事もない静かな郊外の風景である。西に向かいつつある太陽を輝かせる夏の空は、青く澄んでどこまでも高く、白い雲を風に乗せて運んでいる。『地には平和を、人には安らぎを』と言わぬばかりの空の下では蟬が鳴いて、哀しい人の営みが、なにに由来するのか分からない腐臭を立ち上らせている。」

ゴミ屋敷の描写が延々続くかと思うと、「健やかに伸びた竹の葉が風にそよいでいる」。それから、青く澄んでる高い空。そこに白い雲が風に乗って運ばれている。きれいなものと、汚いものが同じところにある。ものすごく汚いところにも、世界の美しさが同時にある。これはすごい絵だなと思って、ここに竹の葉とか青空とか白い雲を出してくるのは、画家・橋本治だなと思いました。

このゴミ屋敷の住人の生まれ育った家は、荒物屋なんですね。荒物屋と聞いてすぐピンとくるかどうかは世代によると思うんですけど、「荒物」に対応するもので言うと「小間物」というのがあって、小間物は、針とか糸とか、かんざし、化粧品、そういう装身具的な物。荒物は、桶とかザルとか、箒の類。このゴミ屋敷の住人の荒物屋では、昔は農機具みたいな物も売っていたわけです。今はこういう物は、たとえば屋上に駐車場があるような「島忠」みたいなところで売ってますね。「カインズホーム」とか。荒物屋はもうほとんど絶滅したに等しい、世の中から無くなってしまったものです。 

下山 忠市 ちゅういち という荒物屋に生まれた主人公は、戦後まもなく、荒物問屋に修業に出されます。六畳一間で6人が寝起きする、住み込みの従業員になるんですね。そういう商人の家の描写は、おそらく橋本さんが生まれ育った橋本商店、小さい頃に自分が見ていた「玄関のない家」での経験が反映されているはずです。修業に出された荒物問屋での様子は、1950年代の日本ではまだ、六畳一間で6人が寝起きするのもあたり前で、その中での人間関係がこのようにしてあったんだな、とわかります。忠市は当時、商業高校を卒業しているのですが、商業高校を出て住み込みで働くのは珍しい、というのもその時代のリアリティなんですね。中学を卒業して働きはじめるのが普通だから、自分より年下の男たちが、職場では何年も先輩になってしまう。その微妙な感じなど、橋本治じゃないと書けない大事なディテールじゃないか、と思います。

小説には、明確な地名は出てきません。東京の郊外の町で、高度経済成長とともに駅前に大きなバスターミナルができる開発が行われて、荒物屋が一時移転したりする様子や、都心にあった大学がこっちに移ってきてみたいなことも描かれているので、多摩、八王子あたりの沿線がモデルになってるのかなという気がします。開発のしやすい東京郊外、しかも商売が傾いていくであろう荒物屋、時代の変化をどのように受けて、環境や暮らしが変わっていくのか。環境が変われば、人間関係も変わっていくだろうと。時代とともに家が、その家族がゆさぶられ、変わっていくことを描くことにおいて、考え抜かれた設定だと思います。

しかも、主人公忠市の父親は、これからの時代、「荒物屋はもう違うんじゃないか」と思うようになって、地域に次々と家が建つのを見て、新築の家には必ず必要だから、瓦屋になったらどうか、と思いついて、瓦屋に商売替えします。21世紀でこれを見ている我々としては、「あー、瓦屋なんてやったらダメ!」「瓦もすたれるよ!」って思いますよね。みなさんのなかに瓦屋の親戚がいたらお詫びしますが(笑)。こういう設定も、橋本さんならではの周到さです。「プラザ合意がバブルに繫がるんだよね」という視点が、小説を書くときにも失われていない。

●考え抜かれた歴史的背景

下山忠市はたぶん1932年から1934年の間に生まれています。ちなみに32年に誰が生まれているかを調べると、たとえば大島渚さん、小田実さん、石原慎太郎さん、五木寛之さん。33年生まれだとすると、永六輔さん、伊丹十三さん、それから平成の天皇、いまの上皇ですね。1934年だとすると、山田太一さんと同い年ということになります。小説には戦後、教科書に書かれてある軍国主義的な記述に墨を塗らされる話が出てきます。養老孟司さんも同じように教科書に墨を塗らされている。昨日までとは正反対のことを教師が教えるようになるわけです。子供の頃に戦争を経験し、敗戦後はこれまでのことが否定されて、大きな変化の中を生きてゆく世代に忠市を設定している。

忠市は27歳のときにお見合いをします。相手は徳下八千代という5歳年下の人。忠市が修業に出ている能登商店――この能登商店っていう名前の付け方、橋本商店がもともと福井出身だから福井屋だったのと同じです――で働いているときなので、仲人役になったのはその社長なんですけど、この徳下八千代の設定も本当によくできてます。サラリーマンの娘で、おとなしい。忠市も気に入る。でも、この「サラリーマンの家で育った」っていうことは、八千代さんの家は、玄関のある家です。橋本さんの妹さんが、「朝から晩までわさわさ、わさわさしてる家だった」と言ってましたけど、わさわさはしてませんね。つまり、育った環境がちがう。そういう人同士が結婚したらどうなるか、というのも、読んでいるほうが苦しくなるような感じで、橋本さんはみっちり書いていきます。

忠市のお母さんは、荒物屋の女将さんとして何の不自然もない、一生懸命働く人として出てくる。でも、そこに、サラリーマンのおとなしい娘がやってくると、何をどうしていいかわからないわけじゃないですか。荒物屋にいきなり嫁に入って、しかも仮店舗に移動しているときだったから、いろんな荷物も商品もグチャグチャになっていて、何がどこにあるかわからない。息子夫婦が所帯を構えるけど、「お茶碗とかお箸とか、そういうのは全部家にあるから、持ってこなくていい」と義母から言われて、「はい」とおとなしくしていたら、忙しくて何も用意されてなくて、義母に聞けば、「なんかその辺にあるから。適当に探して!」みたいに邪魔者扱いされる。「それどころじゃない」みたいな感じで。最初のうち、義母には悪気はないんです。商店は忙しいときはほんとうに忙しいですから。

八千代は八千代で一生懸命、嫁ぎ先に溶け込もうとします。結婚直前だったか、気を利かして花束を手土産に買って持っていくんです。そうすると、「あれ? 花瓶なんかあったっけ?」みたいな感じになる。花を生けるような家じゃないんですよ、朝から晩までわさわさした荒物屋ですから。荒物屋の親戚がいたらごめんなさい(笑)。それで義母は思いついて、仏壇の花立てを持ってきて、「これに」って渡すわけです。おたがいに悪気はないのに、どんどんズレていく。そこを、きめ細かに書いていきます。人間そのものではなくて、人間の関係性が悲劇を生むわけです。

そういうやり取りが続いているうちに、悪いことに、忠市のお父さんの 富市 とみいち が脳溢血で倒れます。よりによって。奥さんと息子たちにはあらゆることがのしかかってくる。姑と八千代の関係はますますややこしくなっていきます。八千代がどういう評価に変わっていくかといえば、「要領の悪い、なにを考えているのか分からない、愚鈍な嫁になっ」ていくと地の文に書いてあります。この辺りの人間関係の恐ろしさ。誰も悪いわけじゃないのに、そうなっていく過程の描き方は、ほんとうに苦しいほどです。ですから、ゴミ屋敷の住人になっていくのも、同じように、いろんなことの積み重ねで、なるようにしてなっていくわけですね。

1964年の東京オリンピックの少し前に結婚して、男の子が生まれると 秀俊 ひでとし と名前をつけるんですが、幼稚園に入ってまもなく、小児癌になってしまう。秀俊は5歳と4か月で死にます。八千代はそれまで耐えに耐えてきたんだけれども、もうこれ以上この家にはいられないと限界点を超えてしまい、秀俊の骨と一緒に家を出て行き、結局、関係は修復できず、離婚に至ります。

●ゴミ屋敷の住人になる「瞬間」を描いた

ではどこを境にして、忠市がゴミ屋敷の住人になっていくのか。弟は結婚して出ていったので、家は、忠市と母「すみ」のふたりきりになってしまいます。すみは70歳を過ぎ、忠市は50歳を過ぎ、瓦屋の仕事はどんどん減っていく。その頃になると、瓦を載せる一軒家がなくなっていきます。ツーバイフォーの組み立て式の家、マンションがどんどん建ちはじめ、瓦は売れない。80歳を過ぎた「すみ」は――これもどこの家でも起きることですけど――転んで腰の骨を折って、歩くのが不自由になってしまう。介護するのは60歳過ぎの忠市です。昔、「地下鉄の車両ってどこから入れるんでしょうね? それを考えると眠れなくなっちゃって」という「地下鉄漫才」がありましたね。「道路渋滞の先頭って、どうなってるんでしょうね?」とか。「ゴミ屋敷の住人はいつどうやってゴミ屋敷の住人になるんですかね?」という瞬間も、誰も見たことがない。いつの間にか、なっている。でも、橋本治は、それを書いたわけです。読みますね。

「ある日忠市は、道の端に子供が押して歩く古い『カタカタ』が捨ててあるのを見つけた。四隅に車輪が付いていて、立って歩けるようになった子供が、台に取り付けられた取っ手を押して歩くと、車が進むにつれて、台に取り付けられてある木製の小さなウサギや熊がカタカタと音を立てて上下する玩具である。カタカタ鳴って動くウサギの一つが台からはずれかけていて、ペンキ塗りの色も剝げかけていた。『誰が捨てたんだ。まだ使えるのに、もったいない』と思った忠市は、『直して使えるようにしてやろう』と思って、それを取った。かなりの間雨晒しにされていたと見えて、台や車輪には、乾いた泥はねの跡がついていた。それを手で払って、まだ台からはずれてはいない、熊やペンギンの部分を動かしてみた。『カタ、カタ』と懐しい音を立てて鳴った。忠市は、 なに 丶丶 を思い出しかけた。
思い出しても仕方がない。その『なにか』は、下山の墓の中に入ってはいないのだ。忠市は、『昔は子供が、これで遊んだもんだがなァ』と思って、それを持って帰った。」

つまりこれは、「まだ使える物」としてのカタカタであると同時に、5歳と4か月で亡くなった自分の子供が「こういう物で遊んでいたな」という記憶が重なっているカタカタ。これが、忠市がゴミ屋敷の住人になりはじめる瞬間です。つまり、ゴミ屋敷には理由があるんです。僕は今、61なんですけど、カタカタで遊んでました。よく覚えています。……あ、もうこんな時間ですね。大変だ(笑)。ちょっと長く話しすぎましたね。『巡礼』は、とにかく素晴らしいので、もし読んでない方がいらしたら、ぜひ、読んでください。

●実際にあった殺人事件がベースになった『橋』

次に書いたのは、『橋』という作品です。これはなかなかキツイ小説です。どうキツイかというと、実際にあったふたつの殺人事件がベースになっているので、読みながら実際の記憶が甦るところがあるんですね。ひとつの事件は、自分の小さな娘を橋の上から川に落として殺してしまう事件。それこそ当時、テレビのワイドショーは、容疑者の女性のところに押しかけていって、その押し問答みたいなものが毎日オンエアされるような状況になりました。幼い男の子がさらに犠牲になって、最終的に彼女は逮捕されます。もうひとつの事件は、セレブという言葉が出始めていた頃でしょうか、渋谷の高級マンションに暮らしていた若い「セレブ」妻が、DV(家庭内暴力)のような状況に陥ります。ある日、妻が逆襲してワインボトルで夫の頭を殴りつけて殺してしまうんですね。そして夫の遺体をバラバラにして、都内のいろんなところに遺棄したという事件。このふたつを、おそらく新潟と思われる雪深い地方を舞台に、同じ川の上流と下流の地域で、ほぼ同時期に異なる境遇のもとで生まれ育ったふたり、という設定で描いています。中学のときにふたりが一瞬交わるところがあって、それはもちろん橋本さんの想像力によるフィクションなんですが。それぞれ別の人生を歩みながら、どのように殺人を犯すところまでいってしまったのか、これが丹念に描かれています。

橋本さんが、この小説を書こうと思ったきっかけを、インタビューに応えておっしゃっていました。最初に自分の子供を橋から落として殺した容疑者のことを週刊誌で読んだら、小学生の頃にその女性は、「背後霊」というあだ名をつけられていたと。集合写真の後ろに、いないはずの人がボーッと顔だけ写ってるみたいな心霊写真に、小学生くらいの頃、みんな夢中になりますよね。後に殺人を犯すことになった女性は小学生の頃から背が高くて、集合写真ではいつも後ろの方に立っていた。そしてある写真でちょっとピントがボケて写ったせいもあって、彼女が背後霊のように見えてしまって、小学生の頃ってまったく遠慮なく残酷だったりしますから、「うわー、背後霊だ!」って、いじめられるわけです。「小学生のときに背後霊ってあだ名をつけられるのは、どういう気持ちがするだろう?」と橋本さんは思ったわけです。その想像を糸口にして、橋本さんは彼女のなかに入っていくようにして、この小説を書いた。そういう意味では、「ゴミ屋敷の人間はどうやってできていったのか」と重なってくる視点であり、考え方で成り立っている小説です。

時間がなくなってきたので、もうひとつだけ。ワインボトルで夫を殺すことになる女性、ちひろの物語の部分で、「愛」という言葉について書かれるところがあります。103ページ。ここは、ちひろの両親が結婚する前に、母、直子が門限を破る話です。――「断りもなく『七時』の門限を破って、それでどう言い訳すればいいのかが分からなかった。それを破る『明白な理由』を探していて、孝輔は『欲望』以外にその理由を与えてくれなかった。この世の中に『愛する』という言葉があることは知っていたが、それはもっと崇高なものに対する言葉で、直子には、自分を投げ出してしまえる『崇高な相手』などというものはなかった。孝輔はいたって現実的な、『現実世界の住人』の一人だった」――。このように「愛」という言葉にこだわるところがあります。この「愛」の問題は、じつは『リア家の人々』にも出てくる。というわけで、スッと『リア家の人々』の話に移ります。急ぎ足で。

●『リア家の人々』

『リア家の人々』は、富山県の造り酒屋の息子が、大正時代に東京で文部省の官僚になって、結婚し、戦争を経験して、戦後、妻を病気で失い、3人の娘たちと暮らしている――そんな1960年代後半の日々が現在形として描かれています。戦争中に文部省の官僚だったので、終戦直後、GHQの指令で公職追放されてしまう。公職に就いていた人は、戦争に加担したと認定されると、その職から外されてしまい、公職には就けなくなるわけです。20万人くらいが公職から追放されたと言われています。彼はそれに当てはまってしまった。昭和26年になって、やっとその追放が解除されます。それまでいろんな苦労をして、小さな出版社で編集長の仕事したり、六畳一間で5人家族を支えて生きていくという苦しい時期を越えていくんですけれども、その環境のなかで、長女、次女、三女、三人姉妹が生まれていく。

「リア」は、シェイクスピアの『リア王』から来ています。リア王にも3人の娘がいます。長女と次女は言葉巧みに父親に取り入るんだけど、実は財産を望んでいるにすぎない。三女はそうではなかったのに、父に直言するタイプだったため怒りをかって、追放されてしまう。最後には三女は、長女と次女から追い出された父であるリア王を助けようと思って戻って来るけれども、結局、捕まってしまって獄中で死んでいくという物語です。『リア王』とパラレルな形で3人娘が設定されている物語なんですね。官僚であった文三の描写でおもしろいなと思ったのは、この世代の人たちの一大特徴として、まったく家事能力のかけらもないところ。料理、掃除、洗濯、まったく何もできない人間として描かれています。もうひとつは、そういう文三から見た女たち。こういう表現があります。「女たちは不思議だ。『絶望』というものを目の前にして、一向に挫けない」。これは、なんというか、わかりませんけど、橋本商店にも似たような状況があったんじゃないか、と思わなくもないところです(笑)。

『リア家の人々』というタイトルなんですが、橋本さんが以前、「日本の現代小説でいちばん好きなのは『楡家の人びと』なんですよ」とおっしゃったことがあります。北杜夫さんの『楡家の人びと』は本当に素晴らしい小説ですから、お読みになってない方がいらしたら、ぜひ読んでいただきたいですが、『リア王の人々』というタイトルにはその敬意がこめられているかもしれません。さらにもうひとつ影響を与えた小説があったのでは、と思っています。それは谷崎潤一郎の『細雪』です。そう考えたのは、三女の静という存在です。静が非常に魅力的なんですね。『細雪』は四人姉妹が描かれますが、一番おとなしい、繰り返しお見合いをして相手が決まらないでいるのが、三女の雪子。静と雪子のはがゆいようなおとなしさ、でも揺るがない強さもある。そこに共通したものを感じます。長い小説の最後になって、やっと雪子の結婚が決まるんですけど、小説の終わり方がすごいんです。嫁ぎ先の東京に、雪子が向かうところで終わるんですが、出発が近づくと、雪子の下痢が止まらなくなる。当時はそういう言い方はなかったかもしれませんが、これはあきらかに神経性の下痢ですね。そして、小説の最後の一行はこうです。「下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた」。『細雪』は、第二次世界大戦で壊されてしまう前の日本が最も美しく描かれた小説というイメージがあるのに、小説の最後が下痢で終わるんですね。『リア家の人々』の静は、『細雪』の雪子と響き合うところがあって、なかなか味わい深い人物造形なんです。

静の描写で、こういうところがあります。「静は、『家という制度』の犠牲者であるのかもしれない。しかし静は、そのことに対してさしたる苦痛を感じていない」。自分が旧来の家というものに縛られて抑圧されている、とは思っていないと書かれています。ところが、第3章「荒野」に入ってくると、時代は1968年です。大学紛争が華やかなりし頃。静はすでに大学生で、社研に入っています――昔、社研ってどこの大学にもあって、当時は人気があったのだと思います。私の時代にもありました。社会科学研究会なのか社会学研究会なのか、いまとなってはわかりませんが――。静の社研の先輩は通信社に就職が決まるんですね。それで、家に縛りつけられているような静を盛んに挑発して、引っ張りだそうとして、まぁボーイフレンドになったりする時期もあるんですが、結局、この石原とは別れてしまいます。この石原みたいな男、橋本さんの大学時代、いかにもまわりにいただろうな、というタイプで、とてもリアルです。そして、世の中が大学紛争でわさわさしていくなかで、静は、ひょっとして自分というものは空疎なんじゃないかっていう発見をします、この嵐の中で。そして自分から動きます。「内面ががらんどうだった。石原と別れ、同じ学年の加藤という頼もしくて害のない男に声をかけて関係を持つ」。加藤? ……加藤典洋さん。いやいや、偶然の一致ですね(笑)。

●魅力的な性描写と愛に対する考え方

今日はあまり触れられませんでしたけど、橋本さんの小説で、もうひとつおおきな力を発揮するのは性描写なんです。性的な関係を描く場面はけっこう出てきます。僕も小説を書いてますけれど、これはほんとうに難しい。なぜ難しいのかって、うまく説明できないんですが、読者からはもちろん、自分にも見張られているような気がして、慎重になるんですよね。かといって、ほいほい書けたほうがいいのかといえば、そうじゃないと思います。橋本さんはかなり直接的に書いてます。でも、まったく嫌な感じがしない。きれい事でもないし、かといって露悪的でもない。これ、橋本さんじゃないと、こういう性描写できないなってつくづく思います。

『リア家の人々』の中で、新しい加藤っていうボーイフレンドと関係を持つようになって、僕が唸ったシーンをちょっと読ませてください。心優しい男、加藤はどうしたか。それを静はどう感じたか。「『心優しい男』がズボンを下ろすと、その股間が大きく盛り上がっている――それがどういうわけだか、不思議だった」――シンプルな描写です。でも、書けそうで書けない文章だと思います。ファンタジーの要素がまるでない描写。そして何ともいえない哀愁がある。

さきほどもお話ししましたけど、「愛」についての記述は、『リア家の人々』にも出てきます。夏目漱石が「アイラブユーは日本語には訳せない」と言った、という話があります。漱石は「月が綺麗ですね、とでも訳すしかない」と言ったらしいのですが――病を得た妻のくが子を心配しながら文三は、漱石のこの話を思い出しながら、くが子を愛しているかと問われたら、愛していると答えるだろうと思う、と。ところが何ができるのか、となると「気づかう」ということしかできない。つまり「愛する」という言葉に対応する具体的な行為が見当たらない、というわけです。理屈っぽいけれど、これは真実に触れるものがあります。つまり「愛するという抽象的な行為を、日本人は理解できないんじゃないか」ということを言っているわけです。さっき申し上げた、橋本治の小説における性描写が優れているということも、この愛というものに対して「日本人はどう対応しているのか、していないのか」という問いかけと、どこか重なってくるところがある、という気がします。

●『草薙の剣』

もう時間がないですね。『草薙の剣』です。橋本さんは、ここまでお話しした3つの小説を「昭和三部作」と呼ぶ人がいるようだけれど、自分はそのつもりで書いてきたわけではまったくない、と言っています。1作目はじいさんを書こうと思った。2作目は女を書こうと思った。3作目はじいさんと女を書こうと思った、だけであって(笑)、昭和という時代を書くつもりはなかったと。そう言われるのなら、今度はちゃんと「時代を書く」ということをやってみようか――と思い立って書かれたのが『草薙の剣』なんだ、と言うんですね。主人公は5人の男。10歳ずつ登場人物の年齢が下りていく。昭生が62歳、豊生が52歳、常生が42歳、夢生が32歳、凪生が22歳、凡生が12歳――ちょうど10歳ずつ年の離れた男性が、今回はそれぞれ血の繫がりも縁もないところで、別々に描かれていきます。

それぞれの男が生まれ育った時代が、いったいどういう時代であったのか。時代背景に影響を受けつつ、男たちがそれぞれの壁につきあたってゆくんですね。本が出た直後に、書店のトークイベントで橋本さんとこの小説の話をしたとき、僕が「これは男の子いかに生くべきか、という物語でもありますね」と言ったら、橋本さんは「いや、そうじゃないんだ」と。「男の子は、いかに生きられないかっていうことを書いたんですよ」と言われたんです。そして、6人の男のうちの4番目、夢生・32歳が、小説を構想したときに一番最初に設定された人物だったそうです。これはどういう年代設定かというと、神戸児童連続殺人事件の犯人の世代なんですね。橋本さんの言う「いかに生きられないか」という意味が迫ってくるような設定です。そこから上に10歳ずつ、下に10歳ずつ、分けて描いていこうと考えたんだと。

「男の子がいかに生きられないか」という話だとしても、僕がこの小説で一番好きなところがあります。それは2番目の豊生の父の物語なんです。豊生の由来の物語、というか。豊生の父は農家の子供ですが、母方の伯父の家に養子に出されるんです。伯父の家は時計屋です。そして東京大空襲がやってくる。防空壕に避難したのに、豊生の父の養父は、逃げ遅れた一人暮らしの老婆を助けに行くと言って、焼け死んでしまう。こういう悲劇で失われることになってしまう養家の家族の、さりげなく描写される戦争前のささやかな団欒の光景がすばらしいんです。『リア家の人々』も『橋』もそうですが、血の繫がっているがゆえのキツさ、逃げようのない家族関係を描くいっぽうで、豊生の父が経験する、養家でもたれていた家族の団欒がなんとも美しい。血筋に対する苦しさではない、家族というもののべつの姿みたいなものを、橋本さんはどうして書いたのだろうと少し不思議で、このことについて聞いてみたかったなと思いました。

時間が来てしまいました。少し駆け足で補足しますが、橋本さんは自分の小説は、浄瑠璃や歌舞伎の中にある「語り」というようなものを、小説の根っこにおいている、それがエネルギーになっている、ということもおっしゃっていました。日本の小説の歴史をふりかえれば、それは「語り」なんだということ。自分は西洋の小説をモデルにしていたわけでは決してないんだ、ということも強調されていました。

資料にも載せておきましたが、橋爪大三郎さんとの対論『だめだし日本語論』。これは名著中の名著で、この本のなかで、語りとはなにか、日本語とはどういうことばなのか、小説家として日本語をどう考えてきたか、ということをお話をされています。ぜひ読んでいただきたい、すばらしい本です。

●次に書きたい小説

資料の最後に「鎌倉時代、東大寺の大仏再建」と書きました。これは、『草薙の剣』のトークイベントの前に、控室で橋本さんと話していたとき、「次に書きたい小説」について話してくださったことです。平清盛の命令によって、息子の重衡が東大寺と興福寺を焼き討ちにしてしまったわけです。そののち、重源という僧が、職人と再建費用を集めて、東大寺を再建していくわけですけれども、それをビクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を下敷きにして書きたいんだ、ということをおっしゃっていました。またずいぶんと時空を飛ぶ話だなと思いながら、これは橋本さんのこれまでの仕事を土台にした、橋本さんならではのおおきな物語になっただろうなと想像します。東大寺の再建の時代は、たいへんな飢饉がありました。地震もあった。そして、源平の争乱があった。このような世に生きる人々は、末法の予感、「世の中これからいったいどうなるんだろう?」と不安にさいなまれたわけです。そのような時代のなかで、どのようにして東大寺が、そして仏像が、甦っていったのか、ということですね。東大寺再建がひとつのきっかけにもなって、その後は鎌倉時代の新仏教が巻き起こっていく。重源のほかに、どんな登場人物が出てくることになったんだろうと考えると、残念でなりません。

橋本さんは、たった今、この時代はどういう時代なんだろう、と考えていたはずです。『宗教なんかこわくない』とあえて言った橋本さんは、こうして時代が移りゆくなかで、また違うことを感じたり、考えたりしていたんじゃないか、と思わなくもありません。つまり、宗教をもとめるこころ、人間の物語、というようなことですね。わかりませんけれど。それがかなわず亡くなられたことを、誰よりも橋本さん自身が残念に思ったかもしれません。でも、橋本さんの遺された本がこれだけ目の前にあって、何度でも手にとって、繰りかえし読むことができる。それだけで十分じゃないか、という気もします。「ほんとうにお疲れさまでした。ありがとうございました」としか言いようがありません。今日は、みなさん、どうもありがとうございました。

●質疑応答

河野:ありがとうございました。いくつか質問を受け付けたいと思います。
受講生:今日はありがとうございました。え~と、柳澤と申します(橋本治さんと親交の深いライターの柳澤健さん)。
松家:はい、こんばんは。
柳澤:『ひらがな日本美術史』のご担当だったそうで。橋本さん、仏像とか、修行僧とか、すごい写実的で、すごく、何だろうな、そこにいる人間を描いてるってお書きになってらっしゃると思うんですけれど、橋本さんの、美術品と言っていいのかどうかわかりませんけれども、そういう、「作られたもの」を見る目は本当にすごいなと、『ひらがな日本美術史』を読むたびに思うわけですけれども、松家さん、どういう風にお感じになりましたか。
松家:柳澤さんがおっしゃったのは、ひょっとすると、これ(第1巻)ですね? 『ひらがな日本美術史』の第1巻に出てくる運慶の、 無著 むじゃく 菩薩と 世親 せしん 菩薩立像のことかなと。兄弟の僧を彫ったもので、興福寺にあります。この兄弟、どこか『巡礼』の兄弟も連想させるところがあります。橋本さんの書く、無著、世親についての原稿を読んだとき、なにか小説を読んでるような気がしたんですね。兄は、困難はいろいろあるけれども、これからも耐えていくしかないんだっていう、ある種、ちょっと悟りと諦めと両方が入ってるような表情なんです。弟の方は、まだ悩んでいる。「なぜ、自分たちはこんな辛い思いをしなければいけないのか」と。橋本さんは、ふたりともインド人だし、こんな顔してるはずがないんだとも書く。そして、実際には弟の方が兄よりも立派になっていく僧なのに、この兄弟のその捉え方は、極めて儒教的な兄弟の捉え方だと分析もします。でも、やっぱり、素晴らしい仏像だと惚れ込んでいる。だから、橋本さんは運慶の中に入っていくようにして、この仏像が生まれた理由を運慶の生涯と境遇に重ねて描いていくんです。東大寺の大仏再建の重源の時代は、運慶と快慶が活躍していくことにも繫がっていくわけですから、運慶も出てきたかもしれませんね。

橋本さんの『ひらがな日本美術史』を読んで、柳澤さんと同じように思いましたね。いわゆる美術史の常識とか、「何とか様式がああでこうで、この技法はこの時代の……」みたいなことをまったく言わないわけじゃないんですけど、あまりそういうことは重視しない。たとえば、「埴輪はなぜ可愛いのか」みたいな話になるんですよ。「それは黒目がちだからだ」っていう話になる(笑)、「そもそも、少女漫画ってそうじゃないか」っていう話とか、「子供の描く漫画って、全部、クルクルって潰した黒い目じゃないか」とか、そういう話になるんです。でも、適当なことを言ってるわけじゃない。埴輪を作った人の中に橋本さんは周到に入っていくんです。それをよく見てきて伝えてきてくれるような深さがある。だから、『ひらがな日本美術史』を読むと、橋本さんは、やっぱり小説家なんだなあと、あらためて思いましたね。

河野:他に何かありますでしょうか。
(講師)二村ヒトシ:僕、橋本さんのケの時代の小説の決して良い読者ではないんですが、最後の方におっしゃった、性描写の話ですね、ちょくちょく出てくるけれども、嫌な感じがしないっていうことでしたが、逆に言うと、普通の作家の性描写は、なぜ嫌な感じがするんでしょう。
松家:いや、僕が聞きたいぐらいです。
二村:僕が思ったのは、つまり、橋本さんがちゃんと書かれているからじゃないか。照れてないからじゃないかと思うんです。たぶん、照れると嫌な感じになるっていうことがあるのかと。
松家:照れたり、あと、何だろう、「こういう風に書くと、女性にとっては侮辱的じゃないか」とか、あるいは、「これって、男のモテ自慢にすぎないんじゃないか」とか、「これって、幼児虐待スレスレじゃないか」とか、そういう、ちょっと古い言い方かもしれませんけど、ポリティカル・コレクトネスの観点から見ると、どこからでも引っかかるのが性描写というものかもしれませんよね。それを恐れるところがあるのか。今日も話を出しましたけど、養老孟司さんが、「なぜ、死体がタブーになったのか、なぜ、ポルノグラフィ、あるいは裸を人間はタブー視するようになったのか。このことは非常に大きな問題なんです」とおっしゃっています。いっぽうで、「別に性行為をしなくたって人間だし、そんなの関係ない」という人がいてもいいわけです。ただ、極めて個人的で、誰に発表するわけでもない行為を、言葉によって再構築するときには、やはり書き手が性行為というものをどう見ているのかがどうしても浮彫になってきます――なんか、全然説明になってないような気がするんですけど――本当に難しいですよね。最近僕は、高校生の男の子を主人公にした長篇小説(『泡』)を書いたんですが、彼にはまだ経験がない。でも、やっぱり男子高校生ですから、頭の中には80%くらい女性の裸とか夢見る行為みたいなものが占めている。そういう男の子が、かなり年上の女性と夜の浜辺で一緒に横たわるシーンが出てきます。もちろんほとんど何も起こらない。ところが、あるちょっとしたことで、明らかに彼のからだの一部が反応してしまうわけです。それを間接的に書いたつもりだったのですが、読んでくださったある人が、「松家さんの今度の小説は、性に悩む男の子が出てきますけど、そういう実際の場面がありませんね」というようなことを言われました。つまり、「わかる人にわかればいい」という書き方だと、伝わらない場合があるんですね。しかし、橋本さんの表現は、もう、そうでしかないという描き方で書いていて、まったく堂々としている。バットの芯にボールが当たったようにスコーンと飛んでゆく。僕はバントしてファウルみたいな感じ。つくづく、橋本さんはバットを振り切る小説家だったんだなと思いますね。

(おわり)

受講生の感想

  • 松家さんが紹介してくださった橋本さんの言葉、 「三島由紀夫の鎮魂をしてあげたかった。 文学の目的は鎮魂なのかもしれない」を聞いてふと、作家の小川洋子さんが「私は死んだ人の物語を書いているんです」と仰っているのを連想して、興味深かったです。 松家さんの講義は、橋本治さんの作家人生の後半から最晩年の小説をメインで取り上げながらも 『ひらがな日本美術史』、『窯変 源氏物語』、『双調平家物語』などの話や東大のポスターの話も出て来て、それらが出て来るたびに、今までの講義のことが浮かび、それぞれ講義して下さった先生方が浮かび、先生方の言葉が思い出され、最後の講義らしい感慨深いものでした。そして、講義を受けるたびにいつものことなのですが、橋本さんの未読の本は読みたくなり、既読の本は読み返したくなって、うずうずしています。(でも、講師の皆さんの解説を聞いた上で橋本さんの本を読むと、読んだ後にまた皆さんの解説が聞きたくなるような気もしています。)

  • 今回は、何と言うか、パラレルワールドかな? 宇宙が広がるというか、宇宙空間の中の銀河系を、ひとつずつ探索していくと、宇宙がわかった気がするといった感じでしょうか。とにかく、どんどん広がっていく感覚で受講していました。 本当に面白かったです。現在、『双調 平家物語』を読み続けています。 先は長いけど面白いです。当分、橋本治さんに取り憑かれて過ごすことになりそうです。

  • 講師の方々は、みなさん素晴らしく、毎回ワクワクしながら聴いていました。この講座を受けなければ、私の人生で出会うことなどなかったであろう方々の橋本治さんへの思い溢れる授業に感動していました。もうすこし、このまま聴いていたいと思うことがなんと多かったことでしょう。松家さんの授業も、やさしく穏やかで、とてもあたたかいものを感じながら聴いていました。お薦めの4作品はすぐに読み始めようと思います。30年以上もどこか気になる存在であり続けた橋本さんのことを知りたい。そう思いました。ほんとうによかった。この講座を受けることができて。橋本さんの深さに触れるとともに、たくさんの本への入り口を見せていただきました。直接お会いしたことはないのに、おつき合いのあった皆さんのお話を聞いているうちに自分までよく知ってる気になってしまっています。「橋本治をリシャッフルする」は わたしの宝物になりました。