シェイクスピア講座2018 
第9回 向井万起男さん

『オセロー』でシェイクスピアの魅力に出会う

15分版・120分版の視聴方法は こちらをご覧ください。

向井万起男さんの

プロフィール

この講座について

病理医の向井万起男さんは、大リーグ通として有名ですが、実は大変なシェイクスピア通でもあります。中学生のときにシェイクスピア全集を読んで衝撃を受け、医学部に進んでからは演劇部員として舞台に立ったという経歴を持っているのです。読書家で大の映画好きでもある向井さんが、あらゆる知見を総動員して、おもしろくて為になる、独自の『オセロー』論を展開してくださいました。

講義ノート

こんばんは。学校長が紹介しないんで驚いたんですけど、私、向井千秋の旦那って知ってますよね? 私の肩書はそれしかないぐらいなんで(笑)。アジア初の女性宇宙飛行士の旦那。それなのに、なんで偉そうにシェイクスピアで講義をするのかって疑問に思われるでしょうけど、お手元に配付したのが、今から10年以上前に出版した本の一部です。ここに『授業』って書いてありますね。有名なイヨネスコの戯曲のタイトルです。私がこの『授業』って芝居を演じたんですが、それからずいぶん経って、この芝居について書いた文章です。1行目《私は、中学生の頃から戯曲を読むのが大好きだった。シェイクスピアを読むマセた中学生だったのだ》。これが私の人生を決めた、これ本当です。

福田恆存訳のシェイクスピア全集で読んだのが13歳のとき。昭和35年、『オセロー』が出た。これを読んだのが衝撃だったんです。初めて読んだ戯曲が福田恆存訳のシェイクスピア『オセロー』です。私が中学生のとき福田恆存訳が出なかったら、私の人生ずいぶん変わったろうと思います。これがきっかけで戯曲を読みまくるようになりました。中学・高校で一番読んでいたのは、小説ではなくて戯曲です。シェイクスピアはもちろん全部福田恆存訳で読んで、医者になってから私のシェイクスピア熱を知った先輩がアメリカでシェイクスピアの全作品が1冊になった英語の本を買ってきてくれて、全部英語で読みました。読んだといっても、字を追っただけですからね。意味がわかったわけじゃなくて、英語をサーッと読んだ。そのときにもまた衝撃を受けたので、そのお話もちょっとします。

この『授業』という文章の中にも書いてあるのですが、イヨネスコの『授業』を天下の名優・中村伸郎さんが、私が演じたあとに渋谷ジャン・ジャンで演じた。私のほうが先ね。「俺の演技とどっちがうまいんだ」って観に行ったわけです。向こうがうまいに決まってる。4回も観に行っちゃった。中村伸郎さん、天下の名優、ご存知ないでしょうね、若い方はね。渋谷ジァン・ジァンで毎週金曜日、夜10時から『授業』という芝居を自分は死ぬまでやるとおっしゃっていました。死ぬまでは無理でしたけど、それに近いことを全うしてお亡くなりになったわけです。

次。セコい宣伝になるから何の本だか言いません。《第15章 私の未練心を暴いた人》。6年ぐらい前に出した本の一部です。《私は若い頃、役者として舞台に立つことに生き甲斐を感じていた。いつかシェイクスピアの四大悲劇の一つ「オセロー」のオセロー役を演じてみたいと熱望していた。来日したロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの公演を観たときは》、これがほかの講師の方もおっしゃっていた1970 年と73年の来日公演ですね。私もこれ観てるんですよ。『冬物語』と『真夏の夜の夢』を。《生まれ変われるものならイギリス人に生まれ変わってシェイクスピア俳優として本場で勝負したいと本気で考えたりもしたのだ》。というわけで、シェイクスピアに入れ込んでいることは本当だよという、ただそれを言いたかっただけです(笑)。

私、中学はサッカー、高校は野球をやってたんですけど、慶應の医学部に入ってから、中学時代からハマっていた演劇をやりたいと思って、医学部演劇部に入ったんです。私が演じた芝居はたくさんあるんですけど、モニターに出したのが主だったものです。けっこういい芝居演じてますね(笑)。ノーベル文学賞も受賞している劇作家のサミュエル・ベケット、『勝負の終わり』。ベケットといったら何といっても『ゴドーを待ちながら』。『勝負の終わり』は『ゴドーを待ちながら』ほど有名じゃありませんが、不条理劇では歴史に残る名作といわれています。日本人作家が書いた芝居を演じたのは、安倍公房の『友達』。これだけです。谷崎潤一郎賞を受賞している名作、日本の不条理劇の傑作中の傑作です。次がウジェーヌ・イヨネスコの『授業』。次がジャン・アヌイの『アンチゴーヌ』。主役のアンチゴーヌはあのオイディプス・コンプレックスで有名なオイディプスの娘ですね。私はもちろんアンチゴーヌではなくて、アンチゴーヌの叔父さん、テーバイの国王・クレオンを演じてるわけです。

というわけで、私にとっては青春時代の思い出なんですけど、慶應医学部演劇研究会というのが正式な名称で、信濃町の慶應病院の中にありました。外苑東通りを行くと六本木に俳優座があります。青山に来ると民藝があった。ずーっと行くと慶應医学部演劇研究会があって、ちょっと先に文学座のアトリエがあったんです。日本の演劇界の頂点と道一本で並んでいる慶應医学部演劇研究会(笑)。私たちが芝居をやってる当時、本当に民藝とか文学座の方が見に来てくださっていたんです。ありがたいことに。で、今どうなってるか。とっくの昔につぶれています。医学部の学生は演劇をやらなくなってしまって、完全に消滅してから数十年経ってますね。当時はすごかったんですけどね。

さて、この『オセロー』。みなさんご存知のとおり、四大悲劇の一つとされているんですけど、本当に悲劇なのかって、私これ読んだときからずーっと思ってます。百歩譲って悲劇だとしても、オセローの悲劇じゃなくてデズデモーナの悲劇だよなと。ちょっと見には、オセローを陥れるイアーゴーが悪役でオセローの副官のキャシオーが善良な男のようになってますけど、キャシオーもたいした男じゃないですよ、よく読むと(笑)。イアーゴーが悪役でキャシオーが善玉という感じで捉えている芝居が多いですけど、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーがときどきやるのは、イアーゴーとキャシオーの配役を日替わりで替えること。演技力で勝負。これをやるのはたいしたもんだなと思いますね。

私がこの『オセロー』を今まで読んだ回数は半端じゃないし、中学生の頃からずーっと『オセロー』に引っ掛かりを感じて、この戯曲は何なんだろうと思って、それを今日のメインテーマにしてお話ししたいわけですが、まず最初に、オセローはなんで黒人なの? 松岡和子さんの訳をお読みになれば解説も書いてあるんですが、もともとシェイクスピアが参考にした物語があるわけですね。それから始まれば、必然的にそうなっちゃうのかもしれませんが、デズデモーナは絶世の美人の白人で、オセローはなぜ黒人なのか。

オセローが黒人ということに関して、「ムーア人」と表現されていていろんな説がありますが、大変リスキーな発言でちょっと怖いですがご勘弁していただくとして簡単に言っちゃうと、アフリカンニグロ=アフリカの黒人なのか、そうじゃなくて、褐色の肌で、いわゆるニグロではないと諸説あるんですけど、松岡さんの訳でもちゃんとわかるとおり、唇が分厚いとかアフリカの黒人というのが歴然としてるんです、描写を読むに。私はこれに一番引っかかってます。なんで黒人なの?

そのことを説明するために、取っ掛かりとして、映画から話をしてみようと思います。お見せしているのが、「ショーシャンクの空に」というアメリカ映画のDVDのパッケージです。スティーヴン・キングの『刑務所のリタ・ヘイワース』という中篇小説を大幅に脚色した名作映画ですね。主人公は白人。主人公の次に重要な登場人物、レッドっていうんです。原作小説では白人とも黒人とも書いてないけど、アイルランド系と書いてある。アイルランド系といったらふつう白人ですが、映画では黒人のモーガン・フリーマンを起用している。素晴らしいです。原作を読んで映画を観て、私もビックリしました。なんでレッドが黒人になってんだよと。

こちらは「エレファント・マン」。有名なイギリス映画です。プロテウス症候群といって、骨とか皮膚が腫れたり、コブがたくさんできたりして、容貌が醜くなってしまったけど、心は非常にきれいな実在の人物を描いている。映画では醜い容貌にメイクして、布で顔を隠している。もともとは舞台劇です。天下のハンサム、デヴィッド・ボウイがノーメイクでやったのもあります。YouTubeで見られますからご覧になってください。醜い姿じゃない。これも素晴らしい演出だと思います。

なんでこんな話をしてるかというと、『オセロー』の台詞の中で、どう見てもアフリカンニグロを思わせる「唇が分厚い」とか言ってるけれど、これを、白人の俳優が白人のまま演じてもいいんじゃないの、と思うからです。私はそれを常に考えてるんですけど、それはあまりみなさんやらないみたいですね。「ショーシャンクの空に」とか「エレファント・マン」のように、思い切って人種を変えちゃうとか、醜い姿をカッコよくやるとか、そういう演出をしないのは、ちょっと残念だなと思っています。

今日はその『オセロー』を中心にやろうと思っていたんですが、変えます(笑)。さっき、学校長は、他の講師の方の話を聞いて触発されて私のモチベーションが上がってると言いましたけど、むしろ下がってます。「かなわないよ」って。当初は、どなたか女性にデズデモーナになってもらって、私がオセローで、絞め殺すシーンをやろうと思ってたんです。ところが、私ももう70歳ですからね、人を殺すのもいやだし、女性の方も私に殺されたら浮かばれないでしょう。で、ちょっと変えます(笑)。ただ、後半では、私がこの『オセロー』に入れ込んでる理由として核心に触れることを言います。前半は、ちょっとシェイクスピアの与太話ということで聞いてください。

さっき、「ショーシャンクの空に」の原作はスティーヴン・キングの『刑務所のリタ・ヘイワース』という中篇小説だと言いましたが、日本で去年出たスティーヴン・キングの最新の長篇小説が『ファインダーズ・キーパーズ』。私はアメリカにしょっちゅう行ってるんですけど、それは主にメジャーリーグの取材なんです。行くたびに必ず、最後の一日は書店で朝から晩まで過ごしてます。毎回気づいてますけど、アメリカの小説家で最も本屋さんでスペースが広く割かれているのはスティーヴン・キングです。最も読まれている作家と見ていいですね。その人の最新長篇小説『ファインダーズ・キーパーズ』。この中にシェイクスピアがバンバン引用されてます。主人公の少年ピートが、死んでしまったある有名作家の直筆の未発表原稿を手に入れちゃうというミステリなんです。それをかつての学校の先生に相談してるわけです。その中に『マクベス』や『ロミオとジュリエット』の引用がでてくる。アメリカ人、これ読んでわかるんですかね? 知ってます? 『十二夜』の執事の名前がマルヴォーリオだって。まだ出てきますよ。「なすべきことがあるのなら、手早く片付けてしまうにしくはない。(『マクベス』第1幕)」。こういう台詞を言うんですよ、登場人物が! これだけじゃなくて、アメリカ、イギリス、フランスの小説を読んでいると、シェイクスピアの引用はめっちゃくちゃ多いですからね。

ここで英語と日本語の違い。河合先生や松岡さんがシェイクスピアの英語のことをおっしゃっていたので、今さら私が言うのはないなあと思ったんですけど、ちょっとだけ。第1幕第1場『オセロー』の書き出しの英語です。ロダリーゴーとイアーゴーの会話です。イアーゴーはご存知の通り、オセローを嵌めちゃう嫌なヤツですね。ロダリーゴーは、デズデモーナに横恋慕している変な男です。私は福田恆存訳を読んで、「あーそうなんだ」と読んでいたわけですけど、医者になってから英語を読んだとき、ひっくり返るほど驚いたんです。このイアーゴーの長台詞。やたらと三人称代名詞heとhisがあります。これ同じ人物のことを指してるんじゃないんですよ。あるheはキャシオーで、あるheはオセローなんです。わかりづらいんです。松岡さんの訳も福田恆存さんの訳も、一切「彼」なんて訳していません。これは英語と日本語の言語的な違いで、英語だと三人称代名詞がバンバン出てきちゃうんですね。私、けっこう英語で小説読むのも好きなんですけど、シェイクスピアって本当に三人称代名詞が凄まじいです。松岡さんや河合先生がおやりになったTomorrow Speechでも三人称代名詞のsheが出てくるんです。sheってレディ・マクベス。これ松岡さんの訳で「彼女」なんて書いていません。日本人の感覚だとおかしいんですよ、「彼」とか「彼女」って頻繁に出すのって。松岡さんはとくに、絶対訳しませんね。

松岡:そうですね。いわゆる翻訳調は避けたいと思うので、彼・彼女が入ると、それだけでもう「これ翻訳よ」という感じになってしまう危険性があるんです。

シェイクスピアは、少なくとも私が読んだ、英語で書かれたフィクションの中で、最も三人称代名詞が多い作家だと思います。実は、スティーヴン・キングを挙げたのも理由があって、キングも実に三人称代名詞が多い作家です。でも、キングを最近訳してる翻訳家の白石朗さんは本当にうまいです。松岡さんと同じように、どこを「彼」と訳すか、どこを「彼」にしないで名前で書くか、すごいです、あのセンスは。スティーヴン・キングの小説は、僕は英語で読むより白石さんの翻訳で読んだ方がいいと思うくらい。

また自分の話になって申し訳ありません。私が十数年前と6年前に書いた本の文章のコピーをお配りしましたから、読んでみてください。私の文章には絶対に三人称代名詞が出てこない。私は実はシェイクスピアの『オセロー』の英語を読んだ瞬間に決めたんです。俺は絶対に使わないと。私の書いた世に出ている原稿、発表してる文章、私からメールや手紙をもらった方、私の文章に「彼」「彼女」「彼ら」は一切ありませんから。一切使わないと決めたんです。たまに、人がしゃべった中でしょうがなく「彼」「彼女」「彼ら」を使ったことはありますけど、全部足しても10回はありません。地の文章では一切使わない。何があっても根性で書かない。私はシェイクスピアに影響を受けて、やめようと思ったんですけど、世の中にはいるんですよね、私と同じように絶対に三人称代名詞を使わないという作家。逢坂剛さんははっきり言ってますね、絶対使わないって。私の知る限りでいうと、司馬遼太郎さんがすごいこだわってます。使うことはあるんですけど、明らかに計算してるんです。さっき松岡さんが、「いかにも翻訳調になっちゃう」とおっしゃるのは私も同じ意見なんですけど、例えば村上春樹さん、「彼」「彼女」多いですよね。村上春樹さんの文体というのは、よく翻訳ものみたいだといわれますけど、「彼」「彼女」を乱発して違和感のない一番うまい作家ですよ、僕の知る範囲では。素晴らしい。

ここから本当の与太話いきます。これからアメリカの話です。イギリス行ったことないから。日本と違ってアメリカでは、昔お酒を飲んで運転するって普通にやってました。私も昔、アメリカでビール飲んで、車運転しましたけど、本当に危ないんですよ。視野が狭くなってますから。ここ10年ぐらい、アメリカでも急に厳しくなって、アルコールを飲んだら運転しないようにと呼びかけるようになりました。その標語が「Drink Drive Go to Jail」。私の訳です。「飲んで運転、監獄へ」。リズム感は出ますよね。

私、医者なんで一応、ちょっと医学的用語から。結核を英語でtuberculosisっていうんです。長いでしょ? だから、tとbを取ってTBってよくいうんです。略語としてTB。アメリカはずっと結核は撲滅に近い状態になってたんですが、1980年代になってエイズが流行するようになった。エイズは後天性免疫不全症候群といって免疫不全になって、いろんな病気にかかりやすくなる。それで、エイズの患者さんに結核が発症するのが問題になった。結核に気をつけましょうという運動が起こったわけです。これが、「みなさん結核に気をつけましょう」というポスターの英語。「TB or not TB」。いいでしょう。これは、日本語では絶対できない。最高ですよね。やっぱり『ハムレット』の名台詞はみんな知ってるんですね。私、見たとき爆笑しました。

ではアメリカ映画から英語と日本語の話を少し。映画「ハドソン川の奇跡」。トム・ハンクス演じるサレンバーガー機長。判断がただしかったのか議論を呼ぶのですが、調査委員会でボイスレコーダーを聞いたあと、副操縦士との会話でこう言います。”We did our job.” 副操縦士も同じ”We did our job.”シェイクスピアもそうですが、繰り返します。日本語で「イイ仕事だった」「イイ仕事だった」といったらつまらない。でも英語圏の人はつまらないと思わない。シェイクスピアの英語も「ちょっとなぁ」と思うところがあっても仕方ない。そういうもんだから(笑)。で、この字幕がいいんです。機長「イイ仕事だった」。副操縦士「お互いに」。

次は私が足をバタバタして笑った英語。「大脱走」スティーブ・マックイーンの名作映画。何回も脱走する。で、監獄に戻されたとき、上官に向かって小さな声で“Sir”というんです。この日本語吹き替え。「ただいま」。キャラクターにぴったりでびっくりしました。

さきほど、スティーヴン・キングの最新作にシェイクスピアの引用がたくさんあることを話しましたが、映画にもたくさんあります。「恋におちたシェイクスピア」、「塀の中のジュリアス・シーザー」、「ハリーとトント」。黒澤明の「乱」は有名ですが、同じく『リア王』を下敷きにしています。SFの金字塔「禁断の惑星」、これは『テンペスト』を下敷き。「Vフォー・ヴェンデッタ」はシェイクスピアの引用だらけ。「セブン」には『ヴェニスの商人』の引用がバンバン出てきます。「コラテラル」には『マクベス』がからんだ台詞が出てきます。“Lady Macbeth, we’re sitting here, and the light’s green. Leave the seats.(おいマクベス夫人、きれい好きもイイが青だぞ。後にしろ。)”マクベス夫人が潔癖症だと知らないとこの台詞のおもしろさがわかりませんね。

講義前半の最後、「Murder in the First(告発)」。この映画の2シーンを。演劇を観にいくとき、映画ほど気楽にいきませんよね。演劇にいくとき身構えませんか? 映画と芝居の違いってなんだろう。それを考えるのにいい映画をひとつご紹介します。アルカトラズ島の刑務所の独房に入れられ虐待された男が殺人を犯す。その男とその男を守ろうとする弁護士の物語です。殺人を犯した男を演じているのがケヴィン・ベーコン。この映画を素材に映画と芝居の違いを考えたいと思います。なぜこの映画かというと、ケヴィン・ベーコン指数を紹介したいから。アメリカの学生が考え出したもので、世間は狭いことを示すための指数です。すべての映画俳優をケヴィン・ベーコンを中心に考えます。本人の指数は0。1回でも共演したら指数1。指数1の人と共演したことがあったら指数2。ほぼすべての俳優がケヴィン・ベーコン指数3以内に収まります。高倉健さんは2、原節子さんは3。川上哲治さんは自分の伝記映画にでているので、検索すると、ケヴィン・ベーコン指数3。指数4以上はなかなか見つけられません。

そこでわたしはシェイクスピア指数を提唱したい。The Oracle of Shakespeare。シェイクスピアの芝居そのもの、もしくはなかで少しでも触れたものを0とする。「蜘蛛巣城」とか乱は0です。これに出ている人と共演した俳優を1としていくと、ほとんどの俳優は指数3以内に収まると思います。そのくらいシェイクスピアは浸透している。

では、「Murder in the First」の弁護士がはじめて被告に会いに行くシーン。ワンカットです。限られた空間でやる演劇がかなわないことがよくわかります。(シーン鑑賞)すごいでしょ。いまはCGでなんでもできますけど、当時もこんな工夫をした。芝居の舞台転換とか相当考えないと芝居の未来は暗いと思いますね。もうひとつ最後のシーン。死刑を免れたのに、被告が自分を死刑にしてくれと言い出すところです。クライマックスシーンです。あ、ひとつだけ。すばらしい映画ですが、ぼくが「これはおかしい」と思った演出上の間違いがあるんで、注意しながら観てください(笑)。好みの問題ですが。最後に「君に話しているんだ」と言って被告に話しかけながら、これみよがしに陪審員を見る。ちょっと違う感じがするでしょ? ともあれ、ケヴィン・ベーコン指数とシェイクスピア指数を言いたくてとりあげました。

(休憩)

後半は、『オセロー』の話をします。最初に言ったように、私はこれを悲劇と思っていません。中学生で読んでから一貫して悲劇と思ったことがない。結末は悲劇的ですけど、悲劇のような恋物語。オセローのデズデモーナへの激しい恋の物語だと思っています。

『マノン・レスコー』、ご存知ですか。フランスのアベ・プレヴォーって作家が書いた恋愛小説の古典です。マノン・レスコーという娼婦に貴族の青年が一目惚れしちゃった。どんなに真面目に愛しても裏切るとんでもない女、マノン・レスコー。それでも一途に愛しちゃって、アメリカ大陸までマノン・レスコーを追っかけて行っちゃう。マノン・レスコーはアメリカ大陸で死んじゃって、主人公の青年は傷心のままフランスに戻ってくるという恋物語です。何のことはない、直球。『ロミオとジュリエット』は、障壁があって激しく燃え上がる、恋の本質ですよね、一種の。『マノン・レスコー』も恋の神髄。私はこれに匹敵する恋物語だと思ってるんです、『オセロー』。

『オセロー』は、戯曲を読んだだけじゃわからないんですけど、松岡さんもいろんなとこで解説されているとおり、夫婦の年の差激しいんですよね。オセローはデズデモーナのことを「マイガール」とか言っちゃってるくらいです。デズデモーナはヘタすると10代です。オセローはもう中年。50歳ぐらい。10代の娘にいい年した男が惚れたわけです。

前半でも言ったように、オセローはアフリカの黒人なのか、それとも褐色の肌の人なのか。著名な学者でこう言った人がいます。「オセローはいわゆるアフリカの黒人であるはずがない。なぜなら、絶世の美女のデズデモーナがそんな男に惚れるわけがない」。すごいでしょ? 著名なシェイクスピア学者です。思っても言っていいことと悪いことがありますが、私に言わせると、思うこと自体、間違ってます。どう間違ってるか。なんでオセローは黒人なのか、なんで白人じゃないのか。考えたことありますか?

これは中学生の頃から、終始一貫変わらない私の個人的感想です。これは恋物語なんです。この中で恋をしたことがない人っていないでしょ? 淡い初恋であってもいいですけど、恋をしない人生ってないわけですよ。本当に人を恋したときに感じることって、相手が誰であっても、自分の存在がめちゃくちゃ小さくなる。どんな人でも。

でも『ロミオとジュリエット』に、そういうのないんですよね。何の抵抗感もない。ジュリエットが「私はロミオにふさわしくないんじゃないか」とか、恋をするまで感じたことのなかった自分の存在の小ささ、人間の本質的な弱さを露呈していない。マノン・レスコーに惚れた青年だって、どこまでも追っかけていくんだけど、そこに何らためらいがない。自分が恋した相手にふさわしくないんじゃないかと思ったり、自分の存在を小さく感じて存在感を丸ごと否定されるような心境になるのが、恋のひとつの本質なんです。『ロミオとジュリエット』にも『マノン・レスコー』にもそれがない。

ところが、『オセロー』にはある。シェイクスピアが意図したものは全然違うかもしれないけど、私はオセローが黒人であることは、そのシンボルだと思っています。これが白人だった場合、白人として演じてもかまわないんですけど、もっと難しくなります。自分からみたら小娘みたいなデズデモーナにとって自分の存在が本当に小さくて、自分がデズデモーナにふさわしい男だろうかという自分の存在を全否定するような心の葛藤を演じることは、白人だったらよっぽど難しくなりますよね。やったら立派ですけど。

これは、シェイクスピアがほかの戯曲で表現しようとしなかった、人間が最も愚かになり、最も自分の存在感が否定される状態、すなわち恋ですね、恋に陥ったときに、オセローが自分の存在が本当に小さなものに過ぎないと感じることを、黒人というシンボリックなもので表してるんじゃないかというのが私の解釈です。これはあくまで個人的な解釈です。

となると、私がこの『オセロー』を演出するとなると、各場面の台詞の言い方も大幅に変わってきます。とくに殺し方。配偶者が不倫したからといって絞め殺していたら、日本中、殺人だらけになっちゃいます。でも、この殺し方が重要。本当に自分が心から愛していた女——それまでの人生で、自分の存在はこれをもって立脚しているという存在感がなくなってしまうほど惚れてしまった女——が、自分を裏切ったのかもしれないと思ったときの殺し方ってあるわけですよ。普通にただ殺しちゃダメ。本当に愛していた女を殺すっていうのは、それなりの演出が必要でしょ? 『オセロー』をこれから観るときは、そういえば向井万起男が変なこと言っていたなと、殺し方が重要だと言ってたなと思って観てください。ほんとに重要ですよ。最大のクライマックスシーンってデズデモーナを殺すシーンだから。私が今まで数多く観た『オセロー』の芝居、映像の中で、私の感覚にピッタリ来たのは一個もありません。

今日はどのシーンでいくか。最後、イアーゴーに騙されたってわかった。もうデズデモーナを殺しちゃったあとね。一番最後の台詞ですね。オセローが、《お前を殺す前にキスをしたな。いま残された道は、自分を殺し、キスをしながら死ぬだけだ》。これがオセローの最後の言葉です。恋物語でしょう。キスしながら死ぬんですよ。これをカクシンハンの岩崎MARK雄大さんに、私の意図を事前にお伝えして演じてくださいとお願いしてあります。ぶっつけ本番でやっていただきますが、それは最後。楽しみだなぁ(笑)。

岩崎さんが演じてくれる前に、どう演じられているか、映像で見てみましょう。まず映像をお見せするのは「O(オー)」です。2000年の作品。舞台をアメリカの高校にして『オセロー』を翻案した映画です。現代のアメリカだから剣じゃなくて銃になっちゃってるんですね。人種問題としている面があります。私の『オセロー』の解釈とは全然違う。次に、蜷川シェイクスピア。松岡さんの訳ですね。オセローは吉田鋼太郎さん。僕ね、正直に言っちゃいますね。吉田鋼太郎さんの演技はすばらしいと思いますが、ちょっと重厚過ぎるんじゃないかとも思います。僕の演出だったら、もっと女々しくやってほしいな。天下の蜷川シェイクスピアに私ごときが……ですが(笑)、私の解釈とけっこう違います。俺、恋ってこんなに格調高くちゃおかしいと思うね。もうちょっといい加減で、悲しいもので、陰鬱なもので、こんなに重厚感あるなら恋じゃないんだよな、と思うし。

では、これ。シェイクスピア名作映画集の中でアメリカの有名な映画人オーソン・ウェルズが自ら脚本を書き、脚色し、監督をし、主演もした「オセロー」(1952年公開)。これが私が一番好きな「オセロー」です。オーソン・ウェルズが『オセロー』を理解して、把握して、もう一回作り直しちゃったみたいな作品です。これまでと同じラストシーンいきますよ。全然違いますから。台詞はすごく少ないです。表情一つ変えないで、淡々と虚無的。俺は何をしたんだって、虚無感そのものです。飾った言葉もない。演技過剰ではない。何をしてしまったんだという絶望そのもの。これが私の解釈にいちばん近い。

あとはカクシンハンの岩崎MARK雄大さんです。カナダとアメリカにいらっしゃったっていうんで、MARKというミドルネームをつけるようになったそうです。英語もペラペラ。今日はここで、私が意図する最後の台詞を日本語と英語でやってくれます。

(岩崎さん、オセロー最後の台詞)

私の率直な感想を言います。すばらしいです。少なくとも私の感じてるオセローだと、蜷川さんの演出よりもいいなと思います。岩崎さんは舞台でキャシオーを演じたことがあるんですね。

岩崎:そうですね。
向井:どうですか。キャシオーとオセローとどっちがやりやすいですか。
岩崎:そうですね、僕はキャシオータイプかもしれないです。
向井:まあ、年齢的に言ってもね、キャシオーに近いですもんね。イアーゴーを演じてみたいと思いませんか。
岩崎:演じてみたいですね。
向井:岩崎さんはイケメンだから善玉風で、イアーゴーには向いてない? でも、そういうもんじゃないですね。さっきも言ったように、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーは日替わりでやるんだから、イアーゴーとキャシオー。日本でもそういうふうになってほしいですよね。
岩崎:はい。
向井:英語で今のをもう一度やっていただくんで、よろしくお願いします。

(岩崎さん英語)

向井:英語と日本語だとどっちが演じやすいですか。
岩崎:どっちが演じやすそうでしたか(笑)。
向井:正直言いますと、英語は完璧にわからないから日本語のほうがよかったです(笑)。だけど、英語と日本語と両方できるっていうのはうらやましいですね。あと20年ぐらい経ったらちょうどオセローにピッタリの年齢になるじゃないですか。ぜひともいつかオセローを演じるときが来たら、僕のことをちょっと思い出して演ってください。

今日はこれでおしまいです。言いたい放題言っちゃったんで、あまり、外で言わないでください(笑)。でも、人生にとって恋ってとても重要だし、恋のない人生なんてつまらない。人間の本当の弱さ、醜さ……愚かさ、それから自分のアイデンティティや存在感を問われるのってやっぱり恋ですよ。絶対恋。仕事なんかじゃない。私は『オセロー』は悲劇じゃなくて、悲しい恋物語だと思う。こういう解釈ってあまりないでしょうけど、そんな見方をしてるやつもいるんだってことですね。これから芝居や映画を観るときも、ちょっと細かく、映画だったらカット割りや照明とか、そして芝居と映画の両方とも、役者さんの演技一つ一つを厳しい目でチェックしてみてください。芝居を観るときは、戯曲をまず読んでから行くといいと思いますよ。そうするとすごくおもしろいですから。私は素人芸で舞台に立っていたんで、自分が演じた『授業』を天下の名優・中村伸郎さんが演じるのを見たときの喜びって半端じゃなかったですから。もう全台詞覚えてるわけですよ、次何言うかも。わかっていても、このおもしろさって何なのさって。

そして、シェイクスピア専門家とか学者の方たちが言ってることなんて関係なく、自分の好みで解釈していいと思います。私は『オセロー』を恋物語だと言ってるけど、悲劇だと思ってくださっても結構だし、自分なりにいろいろ考えてから観るのと、何も考えないで観るのって全然違いますから。戯曲を読んで、自分で考えてから観るように心がけると、シェイクスピアがどれだけ人間観察力が鋭いかってわかると思います。今日はこれでおしまいです。

おわり

受講生の感想

  • 英語と日本語の違い、また、映画への愛と、英語圏でどれほどシェイクスピアが様々な作品のベースとなっているかを伝えてくださった時間でした。 (結核予防ポスターが)TB or not TB, that is the question とは! 思い出しても笑ってしまいます。

  • シェイクスピアの4大悲劇は、言われるがまま「悲劇」だけを捉えなくても良いのだとおっしゃられたのが印象的でした。

  • 向井さんがあんな映画通だとは驚きでした。そして、ハリウッド映画も含めて、あんなにたくさんの作品がシェイクスピアを踏まえているなんて! 知らないことばかりでした。