2020年4月27日公開
スペシャルイベント
橋本麻里さん
15分版・120分版の視聴方法は こちらをご覧ください。>
ほぼ日の学校講座「橋本治をリシャッフルする」。この講座開講に先立ち、江戸東京博物館で開かれた「大浮世絵展――歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演」にあわせて、美術ライター・橋本麻里さんとほぼ日の学校長河野通和のトークショーを開催しました。江戸時代、人々は浮世絵をどう見たのか。橋本治さんは浮世絵をどう見たのか。その思考の足跡をたどることで、新しい浮世絵の見方、より深い浮世絵との向き合い方の発見がきっとあります。(講演日:2019年11月30日)
河野:みなさん、こんにちは。ほぼ日の学校長の河野通和と申します。今日は、この「大浮世絵展」の開催を記念いたしまして、そしてほぼ日の学校が1月からスタートさせます、「橋本治をリシャッフルする」という新しい講座のプレイベントとして、「浮世絵ひらがなトーク」を開催いたします。
今日はとてもいい天気で、両国の駅からこの会場に向かう道すがら、「凱風快晴」(がいふうかいせい)という言葉を思い浮かべました。葛飾北斎「富嶽三十六景」シリーズのなかで一番有名な浮世絵のタイトルです。凱風快晴の「凱風」は南風を意味し、今より季節は早めですが、北斎に今日を祝福してもらっているような気がして勇気づけられました。
それでは、今日のトークゲスト、橋本麻里さんをお呼びしたいと思います。橋本さん、よろしくお願いします。
会場:(拍手)
橋本:みなさん、ようこそおいでいただきました。美術ライターの橋本麻里です。橋本治さんとは、なんの親戚関係にもございません(笑)。ですけれども、これまでお仕事をする機会が何度かありまして、今日の場にお呼びいただきました。今日お話させていただくのは、橋本治さんが浮世絵を通じてどんなことを考えていたのか、何を浮世絵の中に見ていたのかということになるかと思います。
ちなみに、我が家の窓から富士山がよく見えます。今日も見事な富士が見えていましたが、1年前のちょうど今ごろの時期に、うちのベランダから写真家のホンマタカシさんが富士山をお撮りになりました。ちょうど今、国立近代美術館で行われている「窓」という展覧会(2019年11月1日~2020年2月2日)にその富士山の写真が出ているはずです。というわけで、今日は富士山にもつながりのある良い日なんですね。さあ、どんな話がこのあと展開されるでしょうか。
河野:では、トークを始めたいと思います。本題に入る前に、橋本麻里さんと浮世絵の出会いを教えていただけますか。どんなときに、どんなものを最初にご覧になったんでしょうか?
橋本:河野さんの年代だと、おそらく切手か永谷園のお茶漬けのカードだと思うんですよね。ふりかけやお茶漬けに付いていたおまけのカード。そういう話を、私は上の世代からいろいろ聞いていました。
でも私自身は、過去に何かすごく印象に残る浮世絵との出会いがあったというわけではないんです。美術ライターという仕事をしていますが、大学で美術史を専攻したわけではありません。国際基督教大学の国際関係学科に所属していて、当時は「将来は国連に就職したいな」などと考えていたので、浮世絵のことはほとんど眼中にありませんでした。ただ、英語で開講される授業を何単位か必ず取らなくてはならず、それは大変だなと思っていたときに、「あ、浮世絵がメインテーマの日本美術史の授業であれば、日本語じゃなくても大丈夫かも」と思って履修したのですが、おそらくそれが、意識的に浮世絵と出会った最初の経験だったと思います。ちなみに、授業の内容は全く覚えていません。
河野:今、道をつくっていただいたように、ほんとうにそうなんです。浮世絵との出会いは切手でした。この間もスタッフとその話をしていた時に、自分でも「こんなことまで覚えてるのか!」と驚くくらいに、次から次へと切手少年時代だった頃の記憶がスルスルとよみがえってきました。
この一番右の喜多川歌麿作《ポペンを吹く娘》です。当時は《ビードロを吹く娘》というタイトルだったんですが、これが1955年に「切手趣味週間」を飾る第一号として出ました。その次が、真ん中の東洲斎写楽《市川鰕蔵(えびぞう)の竹村定之進》、それから一番左の鈴木春信の《まりつき》が出ます。そして翌年に歌川広重の《東海道五十三次》シリーズが始まりました。一番最初に出たのが、左上の《京師》、つまり京都ですね。これが出て《桑名》、《蒲原》、《箱根》、《日本橋》とつづきます。この順番まで正確に思い出したので、すごいなと、自分を褒めてやりたかったですね。そして翌年に葛飾北斎の《神奈川沖浪裏》が出ます。《東海道五十三次》は何回かに分けて出たのですが、61年もの時をかけてこの10月に全55作が完結しました。記念すべき年に浮世絵の話を切手に絡めてお話できるんだなと思っています。
橋本:私は、親がその世代だったので、親の切手帳を受け継いだことはありました。長じて仕事として美術と関わるようになり、切手少年だった美術史家の山下裕二さんとお仕事させていただいたときに、切手の話を伺いました。おそらくこの時代、かろうじてカレンダーなど、カラーの印刷物はあったんですが、美術全集などを備えた家は少なく、子どもが手に入れられる美しいフルカラーの印刷物は、今のように溢れてはいない時代だった。そのときに切手が、小さいながらも精巧な印刷がされていて、本当に美しいものと感じられたというお話をされていたんです。確かにそれは印刷物、「複製可能なもの」ではあるんですが、子どもにとっては美術との出会いに近い、切手そのものが美術作品のような気持ちだったんだと思います。切手の中の国宝、切手少年にとっての国宝が、《見返り美人》と《月に雁》ですが、当時は大変な値段がついていたので、少年たちの手にはとても入りませんでした。値段からいっても格からいっても、当時の少年たちにとって、切手は国宝、美術品のような存在だったということです。このあと歌川広重の話が出ますが、《月に雁》は今回の展覧会場にも出ている作品です。この切手ですよね?
河野:そうです。本当に手が届かなかったんです。カタログを見るだけ。当時はデパートに記念切手を売る切手売場っていうのがありました。
橋本:コイン切手売場ですね。
河野:ええ。そこでジーッと見るんですね。あれでだいぶ切手が目減りしたんじゃないかと思うくらいに熱いまなざしを注ぎながら、高価で手が出せないという時間を過ごしました。《見返り美人》は、あるときに手に入れるんですけど、そうやって集めた切手も今はどこにあるのやらというふうになっております。
橋本:でも、いま切手ショップに行くと、すごく安いですよ。
河野:あ、そうですか。
橋本:買える値段なんです。なので、以前『BRUTUS』という雑誌で、かつての切手少年たちに向けた「切手特集」を担当したときに、《見返り美人》でも《月に雁》でも、当時は手に入らなかったお宝切手を全部買っていいですと山下先生にお伝えし、買ってもらいました。そして、それを貼った封筒を東京中央郵便局の窓口から投函してもらおうという企画です。窓口には郵便局員の方たちがヤンヤとお集まりになって大変なことになりました。
そのときに、「俺は《見返り美人》の裏を舐めた」と。――要するにそのクラスの切手は蒐集するものであって、貼るものではないので、誰も味を知らないんですね。その後、ソムリエ世界一になった‥‥。
河野:田崎真也さん。
橋本:田崎さん。山下先生が、田崎さんと対談されたときに、お二人とも同世代の切手少年だったそうで、「《見返り美人》の裏の糊の味を知らないでしょう」みたいなことで盛り上がったらしいんです(笑)。それぐらい、かつての切手少年たちにとっては、手も舌も出ないものだったわけです。
河野:麻里さんは、もう今回の展示はご覧になられましたか?
橋本:すいません、まだ見てないんです。でも、出ているものはみんなかつて見たことがあります。それぐらい有名な作品ばかりが集まっています。
河野:このあいだ内覧会で見せていただいたんですけど、担当学芸員の小山周子さんが「もう二度とこれだけの点数を集めることは無理なんじゃないか」とおっしゃっていました。それぐらい有名な作品が一堂に会しています。
小山さんによると、浮世絵にとって光というのはなかなか厄介な相手で、保存を重視しようとすると、外に持ち出すことに対してシビアに考えざるをえない。浮世絵の有名な作品は海外にもたくさんコレクションがあるわけですが、今回はそういった海外の収蔵品を集めて、ほんとに多様な作品が一堂に会しているため、こんなラインナップはこの先できないんじゃないかということでした。この機会にぜひ、ゆっくりご覧になったらいいかと思います。
先日、このトークに先立ちまして、橋本麻里さんに「江戸庶民にとって浮世絵ってどういうものだったのか」というお話を伺いました。当時は、アートとして鑑賞する対象ではなく、江戸市中の人たちが商品として買ったり楽しんだりしているものだったと。あるいは、当時の人にとってはメディアだった。
橋本:そうなんです。これは日本美術について考えるときに、有効な方法だと思ったんですが、「浮世絵を床の間に飾るかどうか」、みなさんちょっとお考えください。確かに歌麿の美人画は美しいし、写楽の大首絵はカッコいいんですが、あれを床の間に飾るかと考えたら、すこし違う気がしますよね。そういうものなんです。
中には非常に手が込んでいて、一般に売られることもない豪華な作品もありましたが、多くは、スポーツ新聞や、コンサート、演劇の情報を載せるかつての『ぴあ』、あるいは『東京ウォーカー』といった雑誌と機能は同じです。そこに素晴らしいグラビアが付され、舞台の情報であるとか、名所の情報であるとか、観光地の情報であるとか、その時々に流行っているものの情報であるとか、美しい女性アイドルだとか、そういうものについての情報が画像やテキストで掲載されている。そうやって、最新の情報が江戸の町の人々の手に渡るというものだったんですね。ですから、もちろんカレンダーのように掛けて、そこにカッコいい役者の画像があれば「やっぱりカッコいい。俺がファンになっただけのことはあるぜ」みたいなことも思いながら、江戸の人々が楽しんでいた、そういうものだったと思います。
河野:当時の江戸の人口って、100万人と言われています。これは世界的に見ても大都市だった。そこに住む人たちが、季節ごとに「ああ、花見に行こうかな」とか「花火を見に行こうか」とか「月見だな」と思ったときのレジャー情報のよすがとして浮世絵を見たりしていたんですね。
それから女性たち。高級遊女、吉原の人たちが、どういう最新のモードを着こなしているか、『VOGUE JAPAN』のような機能も果たしてたり。そういうものが、江戸庶民にとっての浮世絵だった。
さらに、参勤交代で来る武士たちにとっては、お国に帰るときのお土産に格好のものだったとか。いま考えると、「ああ、そういうものだったのかぁ」と面白い活用のされ方をしてたんですよね。
では、今日の本題に入りましょう。橋本治さんに『ひらがな日本美術史』というユニークな本があります。江戸好きの橋本さんは、そのなかで浮世絵についてもたっぷり語っておられます。独特の推理をしたり仮説を述べておられたりしますので、それを手がかりにしながら、「ほんとうかな?」というようなことも含めて、これからみなさんが浮世絵をご覧になるさいのヒントになるようなお話ができればなと思っております。
橋本さん、この『ひらがな日本美術史』もしっかり読み込んでくださってるので、橋本さんも、今日この話が盛り上がっていることを喜ぶと思います。
橋本:どの橋本さんか分かんないですね(笑)
河野:治さんですね。もう、ここからは「麻里さん」「治さん」でいきます。ややこしいんです、これ(笑)。
橋本:読み込んでるのが「麻里さん」のほうで、喜んでるのは「治さん」のほうですね(笑)。
河野:そうでした、こめんなさい。
では、歌麿からいきましょうか。「美人画といえばこの人」という喜多川歌麿です。
橋本:まず、浮世絵について、すごくすごく全体的な話をしておきますと、今回取り上げている5人の絵師たちというのは、いわゆる多色刷りの錦絵が成立して以降に活躍した絵師たちです。錦絵が成立するのが――鈴木春信が錦絵を完成させた――1765年頃、18世紀の中頃以降の話になります。その前に浮世絵の歴史がないかというと、もちろんそんなことはなくて、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)に始まる1600年代からの歴史があるんです。でも今回はそこはサササササッと通り抜けてしまいまして、錦絵が成立して以降、18世紀半ばから19世紀の半ば以降後半ぐらいまでの話になります。
さて、喜多川歌麿ということになりますが、この人が生まれたのが1750年頃、まさに18世紀の半ばですね。ちなみに北斎が生まれるのが1760年ぐらいですから、実はこの二人、10歳ぐらいしか変わりません。そして、ついでに言うと、酒井抱一が生まれたのが1761年ぐらいです。
浮世絵の話だけしていると浮世絵のことだけしか考えられないんですが、その少し前には伊藤若冲が西のほう――京都で活躍していますし、円山応挙もいる、という状況です。
これからお話をするのは、18世紀から19世紀にかけての江戸で活躍した浮世絵師たちです。当然この同じ時代に上方で活躍している人たちもいる。そういう日本全体のどこの場所か、そしてどの時代・ポイントかを考えながらでないと、道に迷ってしまいますので、そのあたりを時々チェックをしながらお話をしたいと思います。
歌麿です。時系列の中で、五人の中で一番最初にブレイクしたというか、登場した人ですね。いま河野さんからまさにご紹介があったように、美人画の大家、巨匠、代表作家ということになりますが、治さんが、『ひらがな日本美術史』の中で、歌麿と美人画についての話をしています。一般的に歌麿の美人画の中で最高傑作だと言われるのが、この《歌撰恋之部 物思恋》です。一般的にはそうだけれど、「美人画」という日本にしかおそらくない、内面は問題にせず女性の美しさ、それも男性にとって理想的で、ある意味都合のいいかたちだけの美しさだけに注目した、(現在だと問題になりそうな)ジャンルの中で、橋本治さんが最高だと思うものは何かという話を、歌麿を手がかりに延々としています。
では次にいってみましょう。先ほどが《物思恋》でした。「物思う」、つまり女性の心理や内面が多少なりとも描かれている。それに対してこちらの《北国五色墨》なんですけれども、北国というのは、当時江戸の北にあった吉原のことです。吉原遊郭。「墨に五彩あり」という言い方をされますけれども、墨は墨です。その同じ墨の中でも五色ある、五つの色がある、五種類あるというのは何かと言えば、墨つまり遊女ですね。《北国五色墨》というシリーズには5人の遊女がでてくるんですが、上の二人はよく知られる「花魁(おいらん)」と「芸妓」。「芸妓」は客と何ごとかいたすわけではなくて座持ちをする人たちですね。それから、「河岸(かし)」「切の娘(きりのむすめ)」「てっぽう」という三人が出てきますが、芸妓と花魁以外の、三人の女性は、吉原遊郭の中でも最下層の下級遊女を指しています。ただ、下級遊女ではあるけれど、この「てっぽう」も「切の娘」も非常に初々しい娘として描かれているんです。本来であれば安い価格で買えてしまう女性なのですが、その「切の娘」が初々しい娘として描かれて、「花魁」――遊女の中でも最高位にいる女性が、あたかも下級遊女のような、荒んだ相で描かれている。遊女にも上から下までいろいろな階級があるけれど、それは結局、墨に五彩がある程度の違いで墨は墨だという、非常にクールでいっそ冷淡なほどの社会派的な視線で5人の遊女を描いている、そういうシリーズの中の一枚です。
これは見ての通り、肉体を誇示しています。江戸時代の浮世絵にあっては非常に珍しいタイプです。鈴木春信描く、女性なのか男性なのかも分からないような、肉体性がほとんど捨象された体を持つ女・男たちから、ただきれいなだけの女の子たちまで、浮世絵にはリアルな肉体に興味のない絵がたくさんあります。しかも今回は触れませんが春画というジャンルもあって、そこでも肉体はあまり注目されていない。むしろ、行為そのものであったり、性器に注目しています。肉体の美しさ、例えばルネサンス時代に、あるいはさらに遡るギリシャ・ローマの時代に美しい黄金比のような肉体が称賛され、その美しさそのものが人間の理想像として画題になったのとは違って、日本人は肉体には全然注目してこなかったんですが、この《北国五色墨》の中では、不思議なほど肉体が強調されています。歌麿は肉体を描く絵師、だったんですね。
次がこちらの《当時全盛美人揃》。いま一番イケてる美女オールスターズという感じです。これも描かれいてるのは遊女なんですが、肉体を誇示しているわけでもない。また、「大首絵」と呼ばれる、顔や表情だけを取り上げた形式でもない。体は適度に隠しながら、でもそこに肉体があることが分かり、表情も「うれしさ」「喜び」みたいなものを素直に伝えている。この肉体と内面・心理のバランスがほどほどにとれた――これは橋本治がすごく意地悪な言い方で書いてるんですけど、たいしてものを考えているとも思えず、それゆえにこそ決して生々しくはないが、十分に豊かな肉体を誇示し得ているものということで、内面に偏りすぎることも肉体に偏りすぎることもない、男にとっては都合のいい、最高に美しくて自分を受け入れてくれそうな女の絵として、つまり「美人画」としていちばん優れているのが何かといったら、橋本治としてはこのシリーズであろうということを言ってるんですね。
これらの成立年代は、一番最初の《歌撰 物思恋》が寛政5年、1793年に描かれて、その翌年寛政6年に、もう少し心理に寄り過ぎない、この《全盛美人揃》が描かれ、さらにその翌年寛政7年に、男に都合のいいただ美人なだけの女だけ描いてるのももう飽きたと言わんばかりに《北国五色墨》を描く。そういう順番で描かれています。
河野:橋本治さんのそこらへんが、なかなか面白い。「スケベおやじの歌麿論である」というような言い方もしながら、歌麿の変遷ぶりを論じておられますね。「大首絵」に飽きたなと心理を描き、それから生々しい肉体をえがく。その後にこの《当時全盛美人揃》を通過点として越えていき、《北国五色墨》の世界に入っていくと。
ここで「美人揃」というタイトルの話に移りましょう。
そもそもは似顔絵を描けという注文があり、「似顔揃」というタイトルだったのが、途中で変わったという、出版史的に見ると面白い事件が起きています。これについて橋本治さんは、独自の推理をしています。
歌麿を売り出したのは、今の蔦屋書店の名前の由来である蔦屋重三郎という、当時のベンチャーの極みのような人ですけども、今でいうと誰なのかな、あえて名前は言いませんけれども、野心的な出版人です(笑)。その人と歌麿に何か一悶着あったんじゃなかろうかと治さんは妄想をたくましくしています。なぜ、彼はタイトルを「似顔揃」から「美人揃」というふうに変えたのかと。そこに影を落とすのは、この歌麿の次に論じたいなと思っている東洲斎写楽という存在なんですね。写楽も、実は蔦屋重三郎が「これぞ」と見込んで売り出していく新進のイケイケ作家なわけです。ただ、歌麿からすると、蔦屋重三郎にはたいへんな恩義もあるし世話にもなったんだけど、「なんか力の入れ方が向こうにいってるんじゃないの」という気がしたと。加えて、似顔絵を描くということが歌麿にとって本当に望んでいたことだったのか。そうではなく、彼はもっと美というものを追い求めたかったんじゃないか。そうなると、「似せて描くというより、美人という一種のイデアを求めて描くということのほうが自分の本領なんじゃないか」と思えた。それらの理由が合わさって、「似顔揃」というタイトルを途中で変えて「美人揃」にしたんじゃないかと治さんは言っておられます。麻里さんのお見立ては、どうでございましょう?
橋本:歌麿の《当時全盛美人揃》が出版されたのが寛政6年。その年の5月から、写楽が大首絵のシリーズを出版しはじめるわけです。その時間の前後関係ですね。おそらく最初は歌麿がその年の初めから「美人揃」として出していて、5月に写楽の大首絵の似顔絵シリーズが出る。
この大首絵のシリーズです。歌麿の美人大首絵の多くが、「紅雲母(べにきら)」と呼ばれる、最初に紅い色を刷っておいて、その上から雲母を重ねた、ピンク色の輝く淡く発光するような背景であるのに対して、写楽の大首絵は、下地に墨を塗って上から雲母をさらに塗る、「黒雲母(くろきら)」という手法を使っています。しかも似顔絵である。まるでパクりのようではないかと思えます。ただ、この時代はパクりそのものはそんなに咎められるものではなく、お互いの趣向を参照し合い、そこにオリジナルな工夫を加味して、さらに面白いものをつくってやろうということをみんながしていたので、それ自体は問題ではないんですが、同じ版元でこれだけ近いタイミングで、そのまんまをやるかと。それは歌麿だって思ったでしょう。ただ、それを原因に歌麿と蔦重の二人が離れていったのか、それともその前から既に何らかの不和不調があったのか、そのあたりのところは分かりません。いずれにしてもこのタイミングで歌麿と蔦重の距離は離れ始める。そして彗星のように写楽という絵師が登場する。そして一年に満たないあいだ活動して、写楽もまた消えていってしまうということになるわけです。
その写楽の作品について。一般的な浮世絵研究の中では、第一期、第二期、第三期、第四期まで細分化して分析をしているんですが、治さんはこれを「第一期」と「第二期以降」のふたつに分けているんです。第一期の大首絵を一つのグループとし、第二期以降が、半身であったり全身であったり、さらに舞台の装置までを含めた背景を描き込んだような、情報量や要素の多い絵になってくる。そのあたりを全て「第二期以降」とまとめて考えています。
意外なんですが、江戸の歌舞伎を知る人としての橋本治は、この「第二期以降」のほうをむしろ高く評価しています。それはなぜかと言えば、さらに絵の質を二つに分けているのですが、第一期の大首絵に関しては、江戸の歌舞伎を知らない人でも分かる、つまり絵のほうが飛び出してくるという言い方をしています。第二期以降の、たくさんの歌舞伎の約束事がその中に情報として入ってくる絵に関しては、橋本治さんのような歌舞伎を知る人、江戸の歌舞伎を知る人にとっては、むしろそのほうが向こう側に――歌舞伎の世界に引き込まれる絵だというふうに書いています。
「飛び出す」か「引き込まれる」か。私は江戸の歌舞伎をほとんど知らないので、そういう人間にとっては、この単純化された、絵としての迫力がある大首絵のほうに、まずは目を惹かれますし、とらえられてしまうんですが、「いやいや、実は面白いのは第二期以降なんですよ」ということが治さんの写楽でのパートでの主張になるわけですね。
河野:私も江戸歌舞伎はよく分かりません(笑)。第一期と第二期がどう違うかというと、第一期はこういう大首絵、クローズアップ画なんですが、第二期以降は全身像や、相手役が描かれていたり、いろんなディテールが盛り込まれている。きっとこれを読み解ける人が見たら、「これはこうで、あれはああで」とほんとうに楽しめる要素が盛り込まれている絵なんだろうなと思います。
橋本:面白い作品が、「篠塚浦右衛門の都座口上図」です。歌舞伎を知っている人は、こういう人物が出てきて「これから二番目の」という口上を舞台で述べることをご存じかと思います。それまで人気役者あるいは人気の役柄をすごい迫力で描いていた写楽の絵の中に、突然「この人は誰なの?」と思うような作品が混ざってくる。「何なの、これ」と思いますが、まさにこれが第二期以降の写楽の活動の変化を告げる口上だ、というのが治さんの見立てです。
そして、全身像と舞台装置の中には、装束にえがかれた役者の紋、あるいは装束のディテールやポーズ、その背後の舞台装置のアレコレなど、本当にたくさんの情報が描き込まれている。要するに写楽という人は、高性能なカメラのような人でもあったのではないか。他の多くの役者を描く浮世絵師たちに抜きんでて、舞台の上の情報、装置の情報、役者の情報、装束の情報、そういうものを写楽の目はとらえてしまい、それを描きたくてたまらない人だったと。
実際、大首絵はウケたけれども、「今度はそうではないものが見たい」という欲求が見る側、読者、それを買う人々のほうにもあり、蔦重もそれが分かっていて、大首絵では収まらない、写楽の才能をもっと活かすべく、第二期以降の、より情報量の多い、歌舞伎ファンの心を掴むような絵を描かせていったのではないかということを言っているわけです。
たとえばこういうことですね。長いタイトルです。《四代目松本幸四郎の大和のやぼ大じん実は新口村孫右衛門と初代中山富三郎の新町のけいせい梅川》。これは役者の名前と、その人が演じた役柄、一人の人物に対して二つの名前が書かれている。つまり役者が二人になればそれが二倍になるということで、ひたすら長いタイトルになるわけです。当時の歌舞伎ファンは、その時期の舞台に何の演目がかかっているかということは当然承知していますから、紋であるとか装束・ポーズを見て、「おお、これはいま◯◯の舞台にかかっている、あの演目のあの二人ではないか」ということがすぐに分かるわけですが、現代人である我々は説明してもらわないと理解できないということで、こういう長いタイトルをつけているわけです。
この時代は、松平定信による寛政の改革がちょうど終わったあとです。寛政の改革では出版統制もあり、贅沢に対する禁令も出ている。そうした舞台に対する圧力、出版に対する圧力の非常に強かった世の中がようやく終わった時代で、出版も舞台も「ようやくこれから」というところです。ただ、それまでの疲弊が大き過ぎた。江戸三座――幕府から公認された3つの劇場がありましたが、その中でもゴタゴタがあり、歌舞伎界もいろいろと立て直さなければいけない。出版界も立て直さなければいけないという状況で、ともに非常に意欲的にならざるを得ない時期でもあった。だからこそ新しい表現、大首絵のような新しい表現が求められていたという可能性も指摘されています。つまり蔦重、あるいは歌麿や写楽が特別に創造性に優れていたというだけではなくて、時代の要請のようなものが、その背景としてあっただろうということです。
河野:いま橋本さんから、「写楽が高性能カメラであった」というようなご説明ありましたけれども、だいぶ前に『写楽』(しゃがく)という雑誌があって、あれはまさに写真雑誌だったんですよね。篠山紀信さんなどがどんどん作品を発表していて、「まさに高性能なカメラとしての写楽の本質を誌面に引っ張ってきた雑誌だったのかな」と、今ふと思いました。
一方で、写楽の大首絵から全身像に移っていく、その変遷の理由の説明に使われたかどうかはちょっと記憶があやふやなんですけれども、こういう言い方がよくされますよね。「写楽のえがく役者絵、その顔があまりにリアルすぎた。」と。つまりそれまではブロマイドで見たいものをそこに描くということがパターンであり、ありきたりのいい男やいい役者がえがかれていることが庶民の喜びだったのに、リアルな役者の顔が写楽によって描かれすぎてしまって、役者も「ン?」と思う。同時に見た人もちょっと腰が引ける。
こういう説明をしながらまた思い出したんですが、和田誠さんのイラストと山藤章二さんのイラストを比べたときに、多くの作家が、和田さんのイラストを見ると心がホッとするんだけど、山藤さんに描かれると心がザラッとすると言っていました。「なんか俺、こんなに出っ歯だったかな」とか「俺、こんなオランウータンみたいなアゴしてたかな」と。「出っ歯だったかな」と言ったのは井上ひさしさんで、「オランウータンだったかな」と言ったのは野坂昭如さんなんですけど。山藤さんの場合はそこに「戯画化」という要素も入るんですが、写楽の場合はリアルだというところで人気が出なかったんじゃないかということを、当時の評論の中で言っている人もいた。蜀山人(しょくさんじん)――大田南畝(おおたなんぽ)という人が書いたと言われている評論ですが、「写楽の絵というのは真をえがこうとして、結局なかなかそれが世の人気を得られなくて、一、二年でえがかれなくなったんじゃないか」という、そういう説がないわけではありません。
そういった理由で第二期以降へ流れていったのか、またはいま麻里さんがご説明されたようにプロデューサーである蔦屋重三郎が、もっと写楽の個性である高性能カメラとしての目を存分に活動させようとして、画風を切り替えていったのか、そこは私には分かりませんけれども、いずれにせよ、活動期間9ヶ月で140数点という、本当にフル回転をして写楽という人は消えていきます。この消えていくミステリーについては、これまたいろいろ説があるんですけれども、麻里さんは、どう考えられますか?
橋本:治さんは「過労でボロボロになったんだ」って書いてましたね(笑)。
河野:治さんご自身がかなり締め切りに追い込まれてる状況でこの原稿を書いていたようで、説得力があるのかないのかよく分からないんですが、「今の僕でさえこんなに疲れてるんだから、写楽はさぞや大変だったに違いない」と書いていますね。
橋本:美術史の世界でよく言われているのは、写楽という浮世絵師に謎はないということです。基本的に阿波の能楽師、斎藤十郎兵衛だということで、ほぼ一致しています。浮世絵師のような、場合によっては手が後ろに回るような仕事に従事することはそもそもタブーに触れるわけで、阿波候に仕えていた、いわば公務員である能楽師は、あまり長く活動するわけにはいかなかったということもあるのではないかというのが一般的な見解になっています。
河野:蔦屋重三郎としては、「これぞ、自分の版元としての命を賭けてもいい」、「写楽をスターにしてみせたい」と思えるような相手と巡り会えたということは良かったと思うんですが、写楽が消えて、翌々年に蔦屋重三郎自身も亡くなる。ですからここは、文化史的に見ると、大きなターニングポイントであり、時代の節目になったということも言えるかと思います。
橋本:続いて北斎の《富嶽三十六景 神奈川沖浪裏》です。言うまでもなくという絵師ですが、個人的には、橋本治は北斎に冷淡だったと感じています。私なりの推測はあるんですが‥‥。「天っ晴れなもの」というタイトルの章で北斎についての思いを書かれていますが、「北斎が天才すぎてあっけらかんとしすぎていて、書きようがない」という様子なんですよね。写楽や歌麿、あるいは国芳を書いたときのような筆致で北斎を書けない。橋本治という、イラストレーターでもあった人が、北斎というもう一人のイラストレーションの天才を捕まえきれなかった感じが、何となく面白いような気もしています。
河野:そうですね。クールなんですよ、ほんとに。北斎を書いている治さんが。
橋本:全然思い入れがない感じ(笑)。
河野:「すごい」とは書いてあるし、「何でもできる人だ」とか「もう描けないものはない」というようなこと書いてるんですけど、その書き方に、なんだか愛がないんですよね。
橋本:ウェットさがなくて、非常にドライです。別にけなしちゃいないんですけれども、思い入れもないという感じなんですね。なので、そこが橋本治と葛飾北斎の面白い関係だなあと思っています。
これは美術史のほうでももちろん言われていることではあるんですが、それまで日本の絵の中に名所絵というものはありました。歌枕になったり、昔からよく知られている寺社仏閣であったり、有名な橋であったり、そういう名所をえがく絵というものはあったんですが、そうではない風景、名所ではない「風景そのもの」を主題にしてしまう絵はなかった。そのうえで、橋本治さんは「葛飾北斎は確かに風景画を描いた、それを創造した、けれども富士山に関しては肖像画として描いたんだ」という捉え方をしています。歌麿、写楽と、まさに人間を問題にしてきた橋本治にとっては、ツルツルして何となく手がかりのない北斎についての、治さんなりの‥‥。
河野:爪をたてようとした。
橋本:爪をたてようとしたという感じと言うんでしょうか(笑)。いずれにせよこれが、「富士山の肖像画だ」というのが橋本治の見立てということになります。
「名所絵」から「風景画」への跳躍は、本当に重要な問題です。それまで浮世絵の二大ジャンルは、「役者絵」と「美人画」のふたつでした。まさに今までお話したところですね。それに加えて、「風景画」という新しい3つ目の柱が立つのですが、これはこのあとにお話する歌川広重にもつながります。
江戸の人口が多かったという話もありますが、17世紀の初期ぐらいですと、日本全国の人口はまだ1200万人ぐらいです――これはあくまでも推定ですね。ただ、この時代は当時の戸籍である人別帳にしっかりその時代の地域の人口が書き込まれていますし、死亡者は寺の過去帳がある。そのあたりからの推計で17世紀前半に1200万人前後だった人口が、18世紀前半には3000万人ぐらいに到達し、幕末ぐらいまで、その人口を保ったと、歴史人口学では推定しています。さらに東海道を通行する様々な関所の記録などを見ますと、東海道を通行する人数が100万から150万と推定されています。人口が1200万から3000万に増えたといっても、東海道という大動脈を移動する人の数が、100万から150万というのは、人口比として恐るべき規模だとおわかりいただけると思います。つまりこの時代には、そこまで旅が一般的になりつつあったんですね。かつては非常に限られた人しか移動ができませんでしたが、江戸時代には参拝であるとか巡礼であるとか、そういう言い訳があれば旅ができた。実際には物見遊山だったり観光だったりしても、「寺社参りです」と言えれば、女性でも生まれた地域から出て、例えば伊勢参りに行くことができる、そういう時代でした。
つまり、一般の人が旅をしはじめ、自分が知っている見慣れた場所からどこかへ移動する間に、必ずしも名所とは言えないものも含めて風景を見る・知る時代になったということです。ですから、こういうものが人々に受容される下地がまずできつつあった。
それから、この時代には西洋からの銅版画類も入ってきます。8代将軍吉宗の時期に、宗教に関わらない西洋の知識や挿絵入りの書籍の輸入が解禁され、その中には風景的な要素も入っている。それを見ながら、不十分なかたちではありつつも、例えば遠近法のようなものを日本人が学び、絵の中で実践しはじめる。それが「浮絵」――浮世絵ではなく、手前のものが浮かび上がってくるように見えることから命名された──絵になっていきます。そういった不完全な透視図法、それから空気遠近法の実践などが行われていく中で、風景画が成立する下地がどんどん整っていく。
北斎がこの絵を描くのは1831年、72歳のときですが、それ以前の北斎は、定型的な名所絵も描いています。その定型的な名所絵を描きつつ、また別の絵として、西洋の銅版画を参照しながら、透視図法を使って江戸のなんということのない場所、名前も知られていないような場所を描いたりもしている。ですから、少しずつ風景画に近づきつつあることが、実はたどれるんです。
その流れがあって、やっとこの作品が出てくるのが1831年。このあともたくさん北斎の浮世絵、錦絵が出てきます。この《駿州江尻》は《富嶽三十六景》シリーズの一つですね。同じように《五百らかん寺さゞゐどう》も《富嶽三十六景》の中の一つ。次の《諸国瀧廻り下野黒髪山きりふりの滝》は滝、《千絵の海 総州銚子》は海を描いたものです。
これら北斎の、特にブルーを多用した錦絵は有名ですし、みんな大好きですが、北斎がこうした大判錦絵の原画を描いたのは、1831年から1834年までの数年間です。以降、北斎は1点ものの肉筆の時代に入っていき、90歳まで生きて描き続けますが、みんなが知っている北斎というのは、このブルーを多用した大判錦絵のごくごく短い時代ということになります。
河野:70歳から数年間。
橋本:72歳から75歳ぐらいまでですね。しかも重要なのは、これは《神奈川沖浪裏》というタイトルですが、そういう名所が実際にあるわけではない。このへんかなと、想定されている場所はありますが、実際にこうやって富士山が見えるわけではない。地名を冠していますが、いわゆる名所絵でないことは明らかです。
続いてブルーを多用したという話です。《富嶽三十六景 駿州江尻》もそうですね。海や遠くの景色がなぜブルーにかすんで見えるのか。遠くの空や、あるいは風景がブルーの中にかすんで見える。そしてもちろん空もブルーである。あるいは大地を流れる川もブルーである、池もブルーである。日本は山紫水明の国、水が非常に豊かな国ですけれども、ブルーというのはその水の色であり、さらにそれが大気を循環する色だということで象徴的に使って、日本の風景を描いています。
この「ジャパンブルー」と言いたくなるようなブルーがどこから来たかというと、実はヨーロッパから来た顔料でした。日本ではベロ藍と言われましたが、これは「ベルリンブルー」の略称、あるいはプロイセンブルー(プルシアンブルー)とも言われたのは、当時のプロイセンで発見発明されたブルーだからです。
それまでの浮世絵、あるいは日本の絹や紙に着色する肉筆で描く絵画にも、当然青い色は使われていましたが、これは藍銅鉱と呼ばれる鉱物をすり潰して作る顔料、もしくはいわゆる藍染めの藍、あるいは露草の青を染料として使います。いずれも一長一短あり、広い面積をむらなくグラデーションをつけてブルーをきれいに出すとか、あるいはそのブルーが長く色あせずに残るとか、すべてを並立させることができませんでした。例えば、この北斎の《五百らかん寺さゞゐどう》のように空の広い面積きれいなブルーで塗って、しかもそこにグラデーションを入れるということはできなかった。
ところがこのプルシアンブルーという顔料は、非常に使い勝手が良く、広い面積をむらなくきれいなグラデーションで塗りつぶすことができる。しかも、それまでわりと高額だったのが、1830年前後から大量生産・大量輸入が可能になったことで、浮世絵という大量に複製をつくる絵画のジャンルでも使うことができるようになった。そして北斎の、そしてそのあと登場する広重のブルーを多用した絵が、風景画として確立するようになるわけです。
河野:今でも絵描きの方とお話をすると、決定的な――例えば赤もそうですけれども――絵の具を手に入れるということが、その人の世界をガラリと変えていく、あるいは画風だけじゃなくて、モチーフを深めていくっていうことに繋がっていく大きなきっかけになっていると聞きます。言ってみれば技術革新が絵の世界にももたらされたということだと思うんです。
私は素人目で見て、《富嶽三十六景》シリーズの《神奈川沖浪裏》を見たときは、とにかく構図におったまげました。太平洋を多少とも知っている人間は、こんなことはありえないと思うわけですが、これがすごい。また、このブルーもさることながら、北斎独特の水に対する畏怖というか驚きというか、スペクタクル感というのは、面白いですね。《諸国瀧廻り》や、《千絵の海 総州銚》もそうです。江戸の人がどうだったのか分かりませんが、水に対する北斎の畏怖、そこにとても興味をひかれます。ダ・ヴィンチも、いろんな水のデッサンを描いた画家ですけども、「おいらの日本には北斎がいるぞ」と、ちょっと言いたくなるようなところがあります。
全く余談ですが、北斎という人は、生涯で90回以上引っ越しをしたということで有名な人ですが、水辺を好んで隅田川近辺を引っ越したとか、そういう話はありますか?
橋本:小布施のほうに行ってることもありますし、必ずしも水辺を求めているわけではないですね。ただ、本当に水をたくさん描いてます。これは想像ですけれども、おそらく変化するもの、その一瞬一瞬を見たい、絵に留めたい、その変化する形態をあたかも動画のように絵の中に収めてしまいたい、というようなことを考えていたのかなと想像します。
先ほど河野さんがおっしゃった、技術が絵を変える、そんなことがあるんだろうかと思われるかもしれませんが、例えば印象派の出現が、チューブ入り絵の具の発明に負っていること、つまりアトリエから外に出て自然光の下で物を見てそれを直接描くことができるようになったからだ、とは有名な話で、新しい青色顔料が日本の浮世絵を変えたのも、全く同じような状況だと思います。
河野:北斎は《朝顔に蛙》という花の絵も描いてますよね。
橋本:実は、北斎は琳派の絵師としても修業をしました。宗理という号を持っていた時期もあり、琳派的な絵ももちろん描けます。これはどちらかといえば琳派というよりももう少し当時の博物図譜なんかに近いイメージですね。我々はこういう絵と、当時の記録的な博物画を分けて考えてしまうんですけれども、例えば歌麿にも、《虫撰(むしのえらみ)》という昆虫を非常に精密に描いた作品があります。また少し前には、例えば伊藤若冲という、まさに動植物を精密に――ほんとに精密かっていうと微妙なところがあるんですが――描いた絵師もいる。
同時に、この18世紀というのは博物学の時代でもあって、自然科学に対する関心が、公家から武士、町人まで、様々な階層の間で盛り上がってもいました。近衛家煕(予楽院)のように、自ら筆を執って素晴らしい博物図譜を描いた公家もいます。自然科学の時代、博物に目が向いていた時代に、そういうビジュアルイメージが、例えば「浮世絵」や他の「絵画」と呼ばれるものに影響を与えたかどうかと考えたら、与えないわけがないんですよね。同時代の別のジャンルで勃興している、見たこともないビジュアルイメージに、当時の絵師たちがビビットに反応しないわけがない。なので、この《朝顔に蛙》も、おそらく北斎が当時の博物図譜から何らか影響されている部分もあるのではないかと思います。
河野:では歌川広重の《東海道五十三次 箱根 湖水図 》です。
橋本:広重くんです。
河野:永谷園のカードでは一番多かったですね、この「箱根」が。
橋本:切手小僧たちは、みんな「箱根、箱根」って言うんですよね。北斎だと「蒲原、蒲原」って。もはやそういう記号、理解になっているんです。
広重と北斎、実はかなり年齢が離れています。広重が生まれるのは1797年、北斎よりだいぶあとですね。実は国芳と同い年の生まれです。北斎が《富嶽三十六景》を発表したのが72歳のときと言いましたが、それは広重が35歳のときですから、親子以上に離れた二人です。
ですが、二人とも共に浮世絵の風景画の巨匠ということになっています。このふたりのライバル関係をお話しますと、聞くも涙語るも涙という感じになるんですが‥‥ともあれ、広重もこの《東海道五十三次》でやっとブレイクする。広重は国芳と同じ年生まれと言いましたが、国芳と同じ年に同じ歌川派の豊国のところに弟子入りを希望します。ところが門前払いされるんですね。いったい何が合わなかったのか。そのへんは分かりませんけれども、弟子の人数が多すぎたというのは事実です。
この広重の時代、それから国芳の時代を語ろうとするときに――北斎も入れてもいいですが――、出版点数が17世紀の10倍ぐらいになっているということを前提にしなければいけません。つまり、この時代は出版点数が増えて、もちろん同時に享受層も増えて広がっていますが、とにかく新しい趣向が求められた。浮世絵も、これまでの踏襲ではなく、どんどん新しい趣向を出し、今までと違うものを見せて、そうじゃなきゃこの生き馬の目を抜く出版競争社会で生き残れない‥‥ああ、なんか言ってて自分でツラくなってきましたが(笑)、という時代だったんです。豊国の下には、非常に多くの弟子たちが詰めかけていて、国芳はうまくそちらの門下に入れたけれど、広重は入れなかった。
広重は本来、絵師が本業の人ではありません。江戸の火消同心で、非常に俸給は少ないながらもいちおうは武士。ただし、食べるにも事欠くようなありさまで、副業として浮世絵を描こうと入門したと言われています。
豊国のところに行けば、また違う道があったと思うんですが、彼は豊国一門が得意としていた役者絵では、残念ながら全くブレイクしなかった。武者絵もブレイクしなかった。
そんななか、北斎が風景画というジャンルを完成させます。北斎がちょうど《富嶽三十六景》を出したのと同じ年に、実は広重も、名所絵ではなく、頑張って風景画的なところまで到達している《東都名所図絵》というシリーズを出しています。しかしこれは北斎の前に完敗でした。いや、結構いい線はいっているんですが、この年は北斎が圧倒的すぎてダメでした。
それから2年後の1833年、《東海道五十三次》。北斎の「三十六」と同じように「五十三」という数字を入れた名前をつけ、さらに「東海道」と入れて出します。これがやっと当たる。
河野:ちょっと割って入りますと、このころ出版が非常に盛んになり、ベストセラーが出てるわけですね。この30年ほど前なんですが、みなさんもよくご存じの十返舎一九の『東海道中膝栗毛』です。読むと唖然とするような、イタズラ好きの二人があちこちでとんでもないことをやっていくという、今でいうとロードムービーのようなかたちをとりながら、東海道の案内をやっていくという作品がベストセラーになります。そういう下地の上に、絵としても《東海道五十三次》が注目されていくという流れが、さきほどの「生き馬の目を抜くような出版の世界」に広がっているわけです。
橋本:そうです。それがまさに読本(よみほん)の世界ですね。エンターテインメント小説と言えばいいんでしょうか。1802年に『東海道中膝栗毛』が出て、そのあと滝沢馬琴――曲亭馬琴によって『南総里見八犬伝』が書かれるのが1814年です。曲亭馬琴という、超ベストセラー作家、小説一本で食べていくことができた日本最初の(と言われてますが、ほんとかどうか分かりませんが)人気作家が出てきます。
北斎は、馬琴と組んでたくさん絵を描いています。これはモノクロームです。白黒、基本墨一色の絵なんですが、紙面のサイズも決まっていて、お話も最初からできている中で、どれだけ挿絵として面白いことができるか。そういうことを考えながら、ほぼ10年間の読本の挿絵作家時代に、北斎は約100冊、1900図に及ぶ読本の挿絵を描いています。これがすごいんです。全盛期の『少年ジャンプ』のような感じですね。モノクロだけで何ができるか、どうやってこのドキドキする物語をより盛り上げることができるのかということを、本当に様々な手段を使って工夫している。ただ、それが行きすぎて、「勝手なことするな」ということになり馬琴先生と物別れに終わってしまいます。というか、北斎が物語に口を出すんですね。「このキャラクターに汚え草履を咥えさせるな」というような争いになり、二人が別れるにいたるというエピソードがあります。
ともあれ、そういう読本の時代、そして旅が盛り上がってくる時代だけに、旅の話が人気作品になる、そういう様々な要素が組み合わさりながら、やがて浮世絵としてもこの《東海道五十三次》が人気を得るわけです。この《東海道五十三次 箱根 湖水図》にも、実はよく見ると‥‥ここにも富士山はあるにはあるんです。《五十三次》シリーズの中に3つか4つ、富士山は描かれているんです、こっそりと。ただ、さすがに「富士山そのもの」をお題にすることが、この時の広重にはまだできなかったんですね。
今回の展示には出てないんですが、北斎が亡くなってから3年後の1852年、56歳になった広重は、《富士三十六景》という、パクりかと思えるタイトルのシリーズを出します。北斎には、《富嶽三十六景》のあと、モノクロの《富嶽百景》というシリーズもあるんですが、広重にも百の富士の図を描いた《富士見百図》というシリーズがあり、広重の亡くなったあと1859年に刊行されています。しかも恐ろしいというか、笑えるというか、悲しいというか‥‥北斎が75歳で完成した《富嶽百景》初編の跋文に「自分は6歳から絵を描き始めたけれども、70歳以前までに描いた絵は取るに足らないもので、73歳にしてようやく動植物の骨格や出生を悟ることができた。80歳ではさらに成長し、90歳で絵の奥意を極め、100歳で神妙の域に到達し、百何十歳になれば1点1格が生きているようになるだろう」というようなことをとうとうと書いていますが、それに対して、《富士見百図》のまえがきで、広重は北斎の富士と比較しながら彼の富士をくさす文章を書いている。北斎が死んだあとで似たようなタイトルの全く同じ趣向のシリーズを出して、わざわざそんなことを言う広重の、北斎に対する分かりやすいコンプレックスが、私にとっては好感になっているわけです。
その《富士三十六景》に、《駿河薩多之海上》という絵があります。これは《東海道五十三次》の中では「由井」という名前で描かれたものと同じ場面です。同じ場所を違うシリーズ、違う趣向で描いているのですが、広重の描く駿河薩多の富士は、完全に北斎の《神奈川沖浪裏》の裏焼きみたいな感じです。それを見ると、「ああー、もう広重ったら!」というたまらない気持ちになるんですね。
空間の構成に関しては、もしかするとこの人は北斎よりも才能があったかもしれないのに、《東海道五十三次》が売れたおかげで、「東海道もの」の、2匹目3匹目4匹目のドジョウをあてこんだ注文が次々にきてしまい、広重はそれを受けてしまう。少しずつ変えてはいまずが、7種類ぐらい東海道ものを描いています。それから、木曽街道など、「街道もの」、「ナントカもの」といった同工異曲のシリーズの注文がたくさんあり、きた分だけ受けてしまう。そして25年も風景画専業の絵師として描き続けてしまうんです。だから、その中には、乱作というか、描きすぎて、まるでただの自己模倣、しかも劣化コピーみたいなものも相当数含まれている。そこがとても残念なところでもあります。北斎が次々とテーマを変え、名前を変え、住まいも変えながら、新しいことへ新しい趣向へ進化していったのと違い、それは広重を限定されたところに留めてしまう一つの原因になったのかなとも思いますが、同時にそれが広重の特長、魅力とも言えるかもしれないですね。
河野:私、ここに富士があるということ、あんまり意識していませんでした。この、奥ゆかしさとは言えないこだわり方、いいですね。さきほど、富士を肖像画としてえがいたのが大スター北斎だと麻里さんのお話にありましたけど、肖像画として描こうというようなことには気後れして、ここへそっと置いとくという、まるで月見草のような心根をかいたいですね。
橋本:そうなんです。そうじゃなくてもいいものもいっぱい描いているんですよ。「江戸百」と通称される《名所江戸百景》です。近景にバーンと強く大きいものをもってきて、その向こうに遠景を描くというスタイルで、この《名所江戸百景》シリーズでたくさんの傑作を描いています。《名所江戸百景 亀戸梅屋舗 》や《名所江戸百景 大はしあたけの夕》は、ヴァン・ゴッホが習作として油絵で描いたものも残されています。まさに傑作です。いいじゃないですか、これで(笑)。
河野:ほんとうにそう思います。ゴッホが油彩で模写したというのも、みなさんもよくご承知だと思いますが、こうやって大きくしてみると、ほんとうに雨の濃さ、描線の太さが様々ですね。
橋本:そうですね。そのランダムさが、雨らしい雰囲気をほんとうにうまくつくっていると思います。
河野:人々の先を急いでるような様子もいい感じだし、この構図は面白いですよね。
橋本:そうなんです。《名所江戸百景 水道橋駿河台》も「江戸百」シリーズです。これにも‥‥いるじゃないですか、富士が(笑)。こっそり。ね?「いつになったら富士を堂々と描けるんだ、君は!」って、広重いじりをしたくなる感じの広重くんでした。
河野:さて、橋本さんの大好きな歌川国芳が控えています。
橋本:あ、治さんが大好きなんです。いちおう言っておきます。
河野:治さんが好きな。
橋本:いや、別に私が嫌いなわけじゃないんですが。
河野:いよいよ国芳。
橋本:鯉のぼりの次なので、鯉にしてみました。国芳の《鬼若丸の鯉退治》。橋本治さんが大好きな国芳です。何となく、「バーン!」とか「ガーン!」とか「ギャギャーン!」と擬音がつけたくなる感じの国芳です。
国芳は、先ほど言いましたように広重と同年に生まれて、歌川派の門をくぐり、広重より少しあとの1861年に亡くなります。ですから、もう少し生きれば明治維新という年まで生きています。
例えば洋画家の高橋由一、有名な「鮭」や「豆腐」などの油絵を描いた人ですが、彼が21歳になる頃まで葛飾北斎が生きているんですね。その時代の江戸と、明治の洋画みたいなものをつい別々のもののように考えてしまいますが、北斎や国芳はそのあとやってくる明治の世界と近接して生きているんですね。
それはともかく、国芳です。国芳に関しては、どんな話をしましょうか。彼は、たくさんの絵を描いてるんですが、何と言ってもワイド画面による非常に大きな視野、そしてダイナミックな構図を可能にしたこの三枚続ですね。広重の時代から浮世絵の揃物(そろいもの)という形式が増えていきます。それまで浮世絵は、庶民が1枚ずつ買うことが前提でした。買えるといってもあまり贅沢はできないですから、1枚1枚買っていくのが普通。例えば役者のブロマイド五人揃いのものなどの何枚か続きもあるんですが、1枚で買っても絵になるというのが基本でした。
ところが広重の頃から、揃物というそれなりにお金をかけて揃えるというコレクタブルなものが増えていきます。国芳はそういう三枚続の絵を得意としているのですが、それにしても異質なんですね。同じ時代に兄弟子の国貞も三枚続をたくさん描いていますが、国貞のものは1枚1枚バラして買える感覚なるのに、国芳の場合は三枚続じゃないと意味がない。これを1枚だけ買っても全く無意味ですよね(笑)。「それで?」みたいなことになっちゃうんです。この人は描きたいものが先行しているんです。橋本治さんも書いていますが、普通「役者絵」であれば役者が先行しなきゃいけない、あるいはその舞台が先行しなきゃいけないんですけど、国芳の場合は描きたい大きなイメージが先行していて、それにたまたま合うものがあれば当てはめる。仮に役者がいたとしても扱いは小さい。別に誰が出てもかまわなくて、自分の描きたいイメージ、さっき言った擬音の入るアメコミのような、あるいはハリウッド映画のようなダイナミックなイメージそのものが彼の描きたいものであって、役者の似顔などでは全くない――というのが治さんの見立てでした。
国芳ももちろん、役者絵は描いています。この時代、役者絵は歌川派が全盛です。それまでの勝川派から歌川派に覇権が移って、人気役者をたくさん描いているんですが、国芳は歌川派お得意の役者絵の領域ではほとんど傑作を残せず、ブレイクできなかった人なんですね。そのかわり、読本で普及していた『水滸伝』を描く。『水滸伝』だったら、歌舞伎という世界の外でも、自分が望むようなエンターテインメントや活劇を描くことができる。しかも役に扮する現実の役者がいませんから、キャラクター造形が自由なわけです。これは楽しい。ということで、国芳はこういうタイプの絵をたくさん描いていくわけです。
次は、傑作中の傑作、《相馬の古内裏》ですね。これは歌舞伎の演目もあるんですが、現実の舞台はほぼガン無視です(笑)。大宅太郎光国という人が、かつて関東に覇を唱えた平将門の内裏であった場所、お化け屋敷みたいな場所に乗り込んで、将門の娘であるとされる瀧夜叉姫が召喚した巨大な骸骨と戦うという場面で、もともと山東京伝の読本が歌舞伎の演目になっているん。国芳はそれを、非常にオリジナルな解釈で絵画化しています。これ、治さんが大好きな作品なんです。骸骨と美女というモチーフについてもいろいろあるんですけれども、それを言っているとキリがないので、進みましょう。
冒頭で三枚続のワイド画面と言いましたけれども、この画面の中の複数交錯する視点について、絵巻に慣れた日本人、もちろん絵巻を見られる、手にできる人は相当な富裕層になるわけですが、いずれにしても絵巻のような続き物の絵を、右から左へ時系列で見ていくという、その作法について日本人はいちおう知っている。そういう下地があって、この瀧夜叉姫、《相馬の古内裏》を見ることを楽しめる。あるいは次の《宮本武蔵の鯨退治》もそうですが、単に画面が広い、ワイド画面であるというだけではなくて、時間が一つの画面の中でうつろっていく、絵巻という絵画形式の鑑賞作法を心得ているからこそ、この三枚続のワイド画面が有効だったのではないかということを、橋本治さんは言われています。
次の《吉野山合戦 》は、ワイド画面を縦にしたらどうなるかという試みです。画面の中では上から下まで人がいて、いろんなことが起こっているんですが、このサイズだとよく分かりませんね。同じように、平家物語の中で文覚上人が那智の滝に打たれて修行するっ場面を、三枚続の縦画面で描いた《文覚上人那智の瀧荒行》という作品があるんですが、これだと滝が完全に主役になっています。さらにそれを一枚で描くとこうなる、という作品も描いています。《六様性国芳自慢 先負 文覚上人》です。つまり、「別にワイドじゃなくたって描けるんだよ、俺は。見てくれよ、このコテコテの、まるでアメコミのような絵を」っていうことですね。完全にアメコミですよね。現代じゃないですか、これほとんど。
河野:そうですね、ほんとに。
橋本:カッコいいというか、すごいですよね。
河野:そうですね。《宮本武蔵の鯨退治》の絵、もう1回出してもらえますか。治さんは、このタイトルを原稿用紙に書くだけで興奮すると書いてるんですけど、宮本武蔵が鯨を退治したという、この組み合わせ・合体のすごさ、これがまずもって面白い。
橋本:実は、歌舞伎にこういう演目はないんですよね。「鯨のだんまり」という、ごくごく前座の演目がひとつ。それから、宮本武蔵が出てくる演目――たいして盛り上がらない演目なんですが――もある。それを勝手に合体させてしまって、歌舞伎ではなく、スペクタクルとして描いたのがこの絵ということになります。
河野:これは鯨だし、さっき鯉も出てきましたけど、治さんは『ひらがな日本美術史』の中でそういった国芳のエネルギッシュな姿勢、きっぱりすっきりしたその姿を「鯔背(いなせ)」という言葉をキーワードに形容しています。「この時期に文化は武士から、そして武士と接近した上流町人からさらにくだって、“鯔背(いなせ)”という言葉が似合う下層町人、労働者階級にまで及んできた。国芳が生きたのはその時代である。国芳を一言でいえば、“我は躍動する文化なり”である」と。つまり、この時代の町人、河岸の威勢のいいおにいちゃんとか、そういう人たちのエネルギーやエートスを汲み上げながら絵にしていったのかなと。さっきの「アメコミ」というのと通じますが、これもややヤンキーっぽいこの時代の人たちを描いている。
橋本:完全にヤンキーですよ。EXILEって感じです。
河野:アハハ。
橋本:EXILEだって、ここまでじゃないですよね(笑)。もっと古い、横浜銀蝿とかそっちの感じですよね。
河野:そこらへんのパワフルなところが国芳の魅力であり、橋本さんはそこが大好きなんですよね。あ、治さんは。
橋本:私が嫌いなわけじゃないんですよ(笑)。もう数年生きれば明治維新だったと言いましたけれども、躍動していたのは時代も、なんですね。異国船打払令が出されたり、中国ではアヘン戦争が起こっていたり、あるいはペリーが浦賀に来航したり、安政の大地震があったりと、国芳が活躍した時代というのは、うねるどころか激動、激震の時代でした。おにいちゃんたちも、粋でいなせにやってはいるんですが、ともすればシュンとしてしまいそうな状況で、結構ギリギリの「張り」だったというか、自分を張り支えるための「いなせ」でもあったというのがこの時代ではないかと思います。このあと日本がどうなるか分からない、そんな不安の中で人々は生き、そして国芳もただヤンキーをやっていたわけではなくて、そんな時代に何を描くかということを考えた結果、この絵が出てきたのだと思います。
このあとも、浮世絵は描き継がれていきます。国芳の名前を継いだ芳年、あるいは河鍋暁斎(かわなべきょうさい)ですね。そういった絵師たちが次々と出てきます。彼らはお雇い外国人に教えたり、そのあとの写真の時代にあってどんな絵を描くかということを考えたり、浮世絵も少しずつ変化しながら明治維新を乗り越えていこうとします。写真の時代に写真以上の、あるいは写真以外の表現で、浮世絵にどんな新しいことができるのかということを考えて、明治の歌舞伎役者を描いた浮世絵なんていうのものも出現してきます。これはこれで、とても面白いものであり、同時に非常にバタ臭い。西洋の情報もたくさん入ってきて、肖像画あるいは肖像写真・ポートレートというのがどういうものか知った上で、では単純化した線と色面で表現する浮世絵にできることは何か、と考えて生まれた新しい浮世絵。さらに陰影表現も加わった、とても面白い作品が出てきます。
そうやって浮世絵の時代は続いていきますし、膨大な数の浮世絵や木版の出版がありました。技術革新によってどんどん状況が変わっていくなか、「浮世絵の仕事がなくなったら、それでおまんまの食い上げなのか」――というと、そうではないんですね。1889年に日本美術の研究誌で、『國華』という雑誌が出ます。これは日本で一番長寿の月間雑誌で、今1冊7,000円かな。最も高額な月刊誌と言われていますけれども、その『國華』が出始めたときに、紙面に作品の画像を何らかのかたちで印刷しなくてはならないということで、その木版刷りの仕事を浮世絵師たちがやっていたりしました。そうやって浮世絵の伝統・技術というものがいろいろなかたちに変化したり受け継がれたりしながら、明治以降の近代へつながり、そして、橋本治さんの『ひらがな日本美術史』は、東京オリンピックまでつながっていくんですね。
河野:そうですね。橋本治さんの『江戸にフランス革命を』という本を読んでいたら、そこに「国芳を取り上げたテレビ台本を書いた」という一行がありました。名古屋テレビ放送の開局25周年記念に頼まれて橋本治さんが書いた、「浮世絵 我が心のともしび 安治と国芳」という番組です。安治というのは明治初期の浮世絵師、井上安治で、維新をまたいで浮世絵師になり、版画家として非常に短命に終わってしまう作家なんですけれども、「光線画」という光と影を表現する手法を編み出していった人です。この国芳と安治というふたりを繋げながら、治さんがテレビドラマを書いていたんですね。とても興味があったので、橋本事務所に行って台本を見せてもらいました。
するとなかなか面白いセリフがあって、それを最後の締めの言葉にしようかなと思います。締めの言葉として相応しいのかな?という気もしますが‥‥。
さきほど麻里さんのお話の中にあったように、国芳はそもそも歌川豊国の門人になるわけですが、お弟子さんたちも大勢いて、そこで頭角を現すというのはなかなか難しかったと。そのテレビの中で国芳を演じているのは高田純次さんなんですが、その高田さんのところにちょくちょく出入りする編集者というか具足屋――錦絵の版元の一つ――を相手に高田純次さんが言うセリフというのがある。「お前らなんか、いつだってなんにも考えてやしねェ。売れてるもんだけ追っかけてる。人がチイッとばかし毛色の変わったもんを出しゃ、首をかしげるだけで何とも思やしねェ。売れりゃこのザマだ。売れなけりゃなんとも思やしねェ。俺達ァ職人、ただの消耗品だぜェ」と啖呵をきります。さきほどからお話してきた国芳の心意気と、その生きてきた時代というのが治さんなりにこのセリフの中に込められていたのかなと思います。
今日は楽しくお話してきました。これから展示をご覧になる方のご参考になったかなというところもあったかと思いますし、もう既に見てきた方、頭の中を整理したり、「ああ、そうだったな」ということを復習される機会になればと思いますが、それにしても麻里さんのお話はすごく多岐にわたり、面白かったですね。ありがとうございました。
(拍手)
橋本:ありがとうございました。
河野:今日のトークは終わりにしたいと思いますけれども、1月から始まる「橋本治をリシャッフルする」という講座は、今ちょうど受講生を募集しているところです。橋本麻里さんは、そこでも講師としてご登場されます。今日は浮世絵のパートだけでしたけれども、『ひらがな日本美術史』は、橋本治という人が全7巻、日本の美術史をひとりの目で追いかけた、非常にユニークで面白い本です。これを麻里さんに読み解いていただきます。橋本治さんにとって「見る」という行為はどういうものだったのか、橋本治の目を我々も体感しようじゃないかという講義にしたいと思っています。そのほか、いろいろ面白い講師の方に、橋本治をリシャッフルしていろんなヒントをそこから汲み上げられるような講座を予定してますので、ご興味がある方はほぼ日の学校のページをご確認いただければと思います。今日は長時間ほんとうにありがとうございました。
※「橋本治をリシャッフルする」の受講生募集は終了しております。
河野:みなさん、こんにちは。ほぼ日の学校長の河野通和と申します。今日は、この「大浮世絵展」の開催を記念いたしまして、そしてほぼ日の学校が1月からスタートさせます、「橋本治をリシャッフルする」という新しい講座のプレイベントとして、「浮世絵ひらがなトーク」を開催いたします。
今日はとてもいい天気で、両国の駅からこの会場に向かう道すがら、「凱風快晴」(がいふうかいせい)という言葉を思い浮かべました。葛飾北斎「富嶽三十六景」シリーズのなかで一番有名な浮世絵のタイトルです。凱風快晴の「凱風」は南風を意味し、今より季節は早めですが、北斎に今日を祝福してもらっているような気がして勇気づけられました。
それでは、今日のトークゲスト、橋本麻里さんをお呼びしたいと思います。橋本さん、よろしくお願いします。
会場:(拍手)
橋本:みなさん、ようこそおいでいただきました。美術ライターの橋本麻里です。橋本治さんとは、なんの親戚関係にもございません(笑)。ですけれども、これまでお仕事をする機会が何度かありまして、今日の場にお呼びいただきました。今日お話させていただくのは、橋本治さんが浮世絵を通じてどんなことを考えていたのか、何を浮世絵の中に見ていたのかということになるかと思います。
ちなみに、我が家の窓から富士山がよく見えます。今日も見事な富士が見えていましたが、1年前のちょうど今ごろの時期に、うちのベランダから写真家のホンマタカシさんが富士山をお撮りになりました。ちょうど今、国立近代美術館で行われている「窓」という展覧会(2019年11月1日~2020年2月2日)にその富士山の写真が出ているはずです。というわけで、今日は富士山にもつながりのある良い日なんですね。さあ、どんな話がこのあと展開されるでしょうか。
河野:では、トークを始めたいと思います。本題に入る前に、橋本麻里さんと浮世絵の出会いを教えていただけますか。どんなときに、どんなものを最初にご覧になったんでしょうか?
橋本:河野さんの年代だと、おそらく切手か永谷園のお茶漬けのカードだと思うんですよね。ふりかけやお茶漬けに付いていたおまけのカード。そういう話を、私は上の世代からいろいろ聞いていました。
でも私自身は、過去に何かすごく印象に残る浮世絵との出会いがあったというわけではないんです。美術ライターという仕事をしていますが、大学で美術史を専攻したわけではありません。国際基督教大学の国際関係学科に所属していて、当時は「将来は国連に就職したいな」などと考えていたので、浮世絵のことはほとんど眼中にありませんでした。ただ、英語で開講される授業を何単位か必ず取らなくてはならず、それは大変だなと思っていたときに、「あ、浮世絵がメインテーマの日本美術史の授業であれば、日本語じゃなくても大丈夫かも」と思って履修したのですが、おそらくそれが、意識的に浮世絵と出会った最初の経験だったと思います。ちなみに、授業の内容は全く覚えていません。
河野:今、道をつくっていただいたように、ほんとうにそうなんです。浮世絵との出会いは切手でした。この間もスタッフとその話をしていた時に、自分でも「こんなことまで覚えてるのか!」と驚くくらいに、次から次へと切手少年時代だった頃の記憶がスルスルとよみがえってきました。
この一番右の喜多川歌麿作《ポペンを吹く娘》です。当時は《ビードロを吹く娘》というタイトルだったんですが、これが1955年に「切手趣味週間」を飾る第一号として出ました。その次が、真ん中の東洲斎写楽《市川鰕蔵(えびぞう)の竹村定之進》、それから一番左の鈴木春信の《まりつき》が出ます。そして翌年に歌川広重の《東海道五十三次》シリーズが始まりました。一番最初に出たのが、左上の《京師》、つまり京都ですね。これが出て《桑名》、《蒲原》、《箱根》、《日本橋》とつづきます。この順番まで正確に思い出したので、すごいなと、自分を褒めてやりたかったですね。そして翌年に葛飾北斎の《神奈川沖浪裏》が出ます。《東海道五十三次》は何回かに分けて出たのですが、61年もの時をかけてこの10月に全55作が完結しました。記念すべき年に浮世絵の話を切手に絡めてお話できるんだなと思っています。
橋本:私は、親がその世代だったので、親の切手帳を受け継いだことはありました。長じて仕事として美術と関わるようになり、切手少年だった美術史家の山下裕二さんとお仕事させていただいたときに、切手の話を伺いました。おそらくこの時代、かろうじてカレンダーなど、カラーの印刷物はあったんですが、美術全集などを備えた家は少なく、子どもが手に入れられる美しいフルカラーの印刷物は、今のように溢れてはいない時代だった。そのときに切手が、小さいながらも精巧な印刷がされていて、本当に美しいものと感じられたというお話をされていたんです。確かにそれは印刷物、「複製可能なもの」ではあるんですが、子どもにとっては美術との出会いに近い、切手そのものが美術作品のような気持ちだったんだと思います。切手の中の国宝、切手少年にとっての国宝が、《見返り美人》と《月に雁》ですが、当時は大変な値段がついていたので、少年たちの手にはとても入りませんでした。値段からいっても格からいっても、当時の少年たちにとって、切手は国宝、美術品のような存在だったということです。このあと歌川広重の話が出ますが、《月に雁》は今回の展覧会場にも出ている作品です。この切手ですよね?
河野:そうです。本当に手が届かなかったんです。カタログを見るだけ。当時はデパートに記念切手を売る切手売場っていうのがありました。
橋本:コイン切手売場ですね。
河野:ええ。そこでジーッと見るんですね。あれでだいぶ切手が目減りしたんじゃないかと思うくらいに熱いまなざしを注ぎながら、高価で手が出せないという時間を過ごしました。《見返り美人》は、あるときに手に入れるんですけど、そうやって集めた切手も今はどこにあるのやらというふうになっております。
橋本:でも、いま切手ショップに行くと、すごく安いですよ。
河野:あ、そうですか。
橋本:買える値段なんです。なので、以前『BRUTUS』という雑誌で、かつての切手少年たちに向けた「切手特集」を担当したときに、《見返り美人》でも《月に雁》でも、当時は手に入らなかったお宝切手を全部買っていいですと山下先生にお伝えし、買ってもらいました。そして、それを貼った封筒を東京中央郵便局の窓口から投函してもらおうという企画です。窓口には郵便局員の方たちがヤンヤとお集まりになって大変なことになりました。
そのときに、「俺は《見返り美人》の裏を舐めた」と。――要するにそのクラスの切手は蒐集するものであって、貼るものではないので、誰も味を知らないんですね。その後、ソムリエ世界一になった‥‥。
河野:田崎真也さん。
橋本:田崎さん。山下先生が、田崎さんと対談されたときに、お二人とも同世代の切手少年だったそうで、「《見返り美人》の裏の糊の味を知らないでしょう」みたいなことで盛り上がったらしいんです(笑)。それぐらい、かつての切手少年たちにとっては、手も舌も出ないものだったわけです。
河野:麻里さんは、もう今回の展示はご覧になられましたか?
橋本:すいません、まだ見てないんです。でも、出ているものはみんなかつて見たことがあります。それぐらい有名な作品ばかりが集まっています。
河野:このあいだ内覧会で見せていただいたんですけど、担当学芸員の小山周子さんが「もう二度とこれだけの点数を集めることは無理なんじゃないか」とおっしゃっていました。それぐらい有名な作品が一堂に会しています。
小山さんによると、浮世絵にとって光というのはなかなか厄介な相手で、保存を重視しようとすると、外に持ち出すことに対してシビアに考えざるをえない。浮世絵の有名な作品は海外にもたくさんコレクションがあるわけですが、今回はそういった海外の収蔵品を集めて、ほんとに多様な作品が一堂に会しているため、こんなラインナップはこの先できないんじゃないかということでした。この機会にぜひ、ゆっくりご覧になったらいいかと思います。
先日、このトークに先立ちまして、橋本麻里さんに「江戸庶民にとって浮世絵ってどういうものだったのか」というお話を伺いました。当時は、アートとして鑑賞する対象ではなく、江戸市中の人たちが商品として買ったり楽しんだりしているものだったと。あるいは、当時の人にとってはメディアだった。
橋本:そうなんです。これは日本美術について考えるときに、有効な方法だと思ったんですが、「浮世絵を床の間に飾るかどうか」、みなさんちょっとお考えください。確かに歌麿の美人画は美しいし、写楽の大首絵はカッコいいんですが、あれを床の間に飾るかと考えたら、すこし違う気がしますよね。そういうものなんです。
中には非常に手が込んでいて、一般に売られることもない豪華な作品もありましたが、多くは、スポーツ新聞や、コンサート、演劇の情報を載せるかつての『ぴあ』、あるいは『東京ウォーカー』といった雑誌と機能は同じです。そこに素晴らしいグラビアが付され、舞台の情報であるとか、名所の情報であるとか、観光地の情報であるとか、その時々に流行っているものの情報であるとか、美しい女性アイドルだとか、そういうものについての情報が画像やテキストで掲載されている。そうやって、最新の情報が江戸の町の人々の手に渡るというものだったんですね。ですから、もちろんカレンダーのように掛けて、そこにカッコいい役者の画像があれば「やっぱりカッコいい。俺がファンになっただけのことはあるぜ」みたいなことも思いながら、江戸の人々が楽しんでいた、そういうものだったと思います。
河野:当時の江戸の人口って、100万人と言われています。これは世界的に見ても大都市だった。そこに住む人たちが、季節ごとに「ああ、花見に行こうかな」とか「花火を見に行こうか」とか「月見だな」と思ったときのレジャー情報のよすがとして浮世絵を見たりしていたんですね。
それから女性たち。高級遊女、吉原の人たちが、どういう最新のモードを着こなしているか、『VOGUE JAPAN』のような機能も果たしてたり。そういうものが、江戸庶民にとっての浮世絵だった。
さらに、参勤交代で来る武士たちにとっては、お国に帰るときのお土産に格好のものだったとか。いま考えると、「ああ、そういうものだったのかぁ」と面白い活用のされ方をしてたんですよね。
では、今日の本題に入りましょう。橋本治さんに『ひらがな日本美術史』というユニークな本があります。江戸好きの橋本さんは、そのなかで浮世絵についてもたっぷり語っておられます。独特の推理をしたり仮説を述べておられたりしますので、それを手がかりにしながら、「ほんとうかな?」というようなことも含めて、これからみなさんが浮世絵をご覧になるさいのヒントになるようなお話ができればなと思っております。
橋本さん、この『ひらがな日本美術史』もしっかり読み込んでくださってるので、橋本さんも、今日この話が盛り上がっていることを喜ぶと思います。
橋本:どの橋本さんか分かんないですね(笑)
河野:治さんですね。もう、ここからは「麻里さん」「治さん」でいきます。ややこしいんです、これ(笑)。
橋本:読み込んでるのが「麻里さん」のほうで、喜んでるのは「治さん」のほうですね(笑)。
河野:そうでした、こめんなさい。
では、歌麿からいきましょうか。「美人画といえばこの人」という喜多川歌麿です。
橋本:まず、浮世絵について、すごくすごく全体的な話をしておきますと、今回取り上げている5人の絵師たちというのは、いわゆる多色刷りの錦絵が成立して以降に活躍した絵師たちです。錦絵が成立するのが――鈴木春信が錦絵を完成させた――1765年頃、18世紀の中頃以降の話になります。その前に浮世絵の歴史がないかというと、もちろんそんなことはなくて、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)に始まる1600年代からの歴史があるんです。でも今回はそこはサササササッと通り抜けてしまいまして、錦絵が成立して以降、18世紀半ばから19世紀の半ば以降後半ぐらいまでの話になります。
さて、喜多川歌麿ということになりますが、この人が生まれたのが1750年頃、まさに18世紀の半ばですね。ちなみに北斎が生まれるのが1760年ぐらいですから、実はこの二人、10歳ぐらいしか変わりません。そして、ついでに言うと、酒井抱一が生まれたのが1761年ぐらいです。
浮世絵の話だけしていると浮世絵のことだけしか考えられないんですが、その少し前には伊藤若冲が西のほう――京都で活躍していますし、円山応挙もいる、という状況です。
これからお話をするのは、18世紀から19世紀にかけての江戸で活躍した浮世絵師たちです。当然この同じ時代に上方で活躍している人たちもいる。そういう日本全体のどこの場所か、そしてどの時代・ポイントかを考えながらでないと、道に迷ってしまいますので、そのあたりを時々チェックをしながらお話をしたいと思います。
歌麿です。時系列の中で、五人の中で一番最初にブレイクしたというか、登場した人ですね。いま河野さんからまさにご紹介があったように、美人画の大家、巨匠、代表作家ということになりますが、治さんが、『ひらがな日本美術史』の中で、歌麿と美人画についての話をしています。一般的に歌麿の美人画の中で最高傑作だと言われるのが、この《歌撰恋之部 物思恋》です。一般的にはそうだけれど、「美人画」という日本にしかおそらくない、内面は問題にせず女性の美しさ、それも男性にとって理想的で、ある意味都合のいいかたちだけの美しさだけに注目した、(現在だと問題になりそうな)ジャンルの中で、橋本治さんが最高だと思うものは何かという話を、歌麿を手がかりに延々としています。
では次にいってみましょう。先ほどが《物思恋》でした。「物思う」、つまり女性の心理や内面が多少なりとも描かれている。それに対してこちらの《北国五色墨》なんですけれども、北国というのは、当時江戸の北にあった吉原のことです。吉原遊郭。「墨に五彩あり」という言い方をされますけれども、墨は墨です。その同じ墨の中でも五色ある、五つの色がある、五種類あるというのは何かと言えば、墨つまり遊女ですね。《北国五色墨》というシリーズには5人の遊女がでてくるんですが、上の二人はよく知られる「花魁(おいらん)」と「芸妓」。「芸妓」は客と何ごとかいたすわけではなくて座持ちをする人たちですね。それから、「河岸(かし)」「切の娘(きりのむすめ)」「てっぽう」という三人が出てきますが、芸妓と花魁以外の、三人の女性は、吉原遊郭の中でも最下層の下級遊女を指しています。ただ、下級遊女ではあるけれど、この「てっぽう」も「切の娘」も非常に初々しい娘として描かれているんです。本来であれば安い価格で買えてしまう女性なのですが、その「切の娘」が初々しい娘として描かれて、「花魁」――遊女の中でも最高位にいる女性が、あたかも下級遊女のような、荒んだ相で描かれている。遊女にも上から下までいろいろな階級があるけれど、それは結局、墨に五彩がある程度の違いで墨は墨だという、非常にクールでいっそ冷淡なほどの社会派的な視線で5人の遊女を描いている、そういうシリーズの中の一枚です。
これは見ての通り、肉体を誇示しています。江戸時代の浮世絵にあっては非常に珍しいタイプです。鈴木春信描く、女性なのか男性なのかも分からないような、肉体性がほとんど捨象された体を持つ女・男たちから、ただきれいなだけの女の子たちまで、浮世絵にはリアルな肉体に興味のない絵がたくさんあります。しかも今回は触れませんが春画というジャンルもあって、そこでも肉体はあまり注目されていない。むしろ、行為そのものであったり、性器に注目しています。肉体の美しさ、例えばルネサンス時代に、あるいはさらに遡るギリシャ・ローマの時代に美しい黄金比のような肉体が称賛され、その美しさそのものが人間の理想像として画題になったのとは違って、日本人は肉体には全然注目してこなかったんですが、この《北国五色墨》の中では、不思議なほど肉体が強調されています。歌麿は肉体を描く絵師、だったんですね。
次がこちらの《当時全盛美人揃》。いま一番イケてる美女オールスターズという感じです。これも描かれいてるのは遊女なんですが、肉体を誇示しているわけでもない。また、「大首絵」と呼ばれる、顔や表情だけを取り上げた形式でもない。体は適度に隠しながら、でもそこに肉体があることが分かり、表情も「うれしさ」「喜び」みたいなものを素直に伝えている。この肉体と内面・心理のバランスがほどほどにとれた――これは橋本治がすごく意地悪な言い方で書いてるんですけど、たいしてものを考えているとも思えず、それゆえにこそ決して生々しくはないが、十分に豊かな肉体を誇示し得ているものということで、内面に偏りすぎることも肉体に偏りすぎることもない、男にとっては都合のいい、最高に美しくて自分を受け入れてくれそうな女の絵として、つまり「美人画」としていちばん優れているのが何かといったら、橋本治としてはこのシリーズであろうということを言ってるんですね。
これらの成立年代は、一番最初の《歌撰 物思恋》が寛政5年、1793年に描かれて、その翌年寛政6年に、もう少し心理に寄り過ぎない、この《全盛美人揃》が描かれ、さらにその翌年寛政7年に、男に都合のいいただ美人なだけの女だけ描いてるのももう飽きたと言わんばかりに《北国五色墨》を描く。そういう順番で描かれています。
河野:橋本治さんのそこらへんが、なかなか面白い。「スケベおやじの歌麿論である」というような言い方もしながら、歌麿の変遷ぶりを論じておられますね。「大首絵」に飽きたなと心理を描き、それから生々しい肉体をえがく。その後にこの《当時全盛美人揃》を通過点として越えていき、《北国五色墨》の世界に入っていくと。
ここで「美人揃」というタイトルの話に移りましょう。
そもそもは似顔絵を描けという注文があり、「似顔揃」というタイトルだったのが、途中で変わったという、出版史的に見ると面白い事件が起きています。これについて橋本治さんは、独自の推理をしています。
歌麿を売り出したのは、今の蔦屋書店の名前の由来である蔦屋重三郎という、当時のベンチャーの極みのような人ですけども、今でいうと誰なのかな、あえて名前は言いませんけれども、野心的な出版人です(笑)。その人と歌麿に何か一悶着あったんじゃなかろうかと治さんは妄想をたくましくしています。なぜ、彼はタイトルを「似顔揃」から「美人揃」というふうに変えたのかと。そこに影を落とすのは、この歌麿の次に論じたいなと思っている東洲斎写楽という存在なんですね。写楽も、実は蔦屋重三郎が「これぞ」と見込んで売り出していく新進のイケイケ作家なわけです。ただ、歌麿からすると、蔦屋重三郎にはたいへんな恩義もあるし世話にもなったんだけど、「なんか力の入れ方が向こうにいってるんじゃないの」という気がしたと。加えて、似顔絵を描くということが歌麿にとって本当に望んでいたことだったのか。そうではなく、彼はもっと美というものを追い求めたかったんじゃないか。そうなると、「似せて描くというより、美人という一種のイデアを求めて描くということのほうが自分の本領なんじゃないか」と思えた。それらの理由が合わさって、「似顔揃」というタイトルを途中で変えて「美人揃」にしたんじゃないかと治さんは言っておられます。麻里さんのお見立ては、どうでございましょう?
橋本:歌麿の《当時全盛美人揃》が出版されたのが寛政6年。その年の5月から、写楽が大首絵のシリーズを出版しはじめるわけです。その時間の前後関係ですね。おそらく最初は歌麿がその年の初めから「美人揃」として出していて、5月に写楽の大首絵の似顔絵シリーズが出る。
この大首絵のシリーズです。歌麿の美人大首絵の多くが、「紅雲母(べにきら)」と呼ばれる、最初に紅い色を刷っておいて、その上から雲母を重ねた、ピンク色の輝く淡く発光するような背景であるのに対して、写楽の大首絵は、下地に墨を塗って上から雲母をさらに塗る、「黒雲母(くろきら)」という手法を使っています。しかも似顔絵である。まるでパクりのようではないかと思えます。ただ、この時代はパクりそのものはそんなに咎められるものではなく、お互いの趣向を参照し合い、そこにオリジナルな工夫を加味して、さらに面白いものをつくってやろうということをみんながしていたので、それ自体は問題ではないんですが、同じ版元でこれだけ近いタイミングで、そのまんまをやるかと。それは歌麿だって思ったでしょう。ただ、それを原因に歌麿と蔦重の二人が離れていったのか、それともその前から既に何らかの不和不調があったのか、そのあたりのところは分かりません。いずれにしてもこのタイミングで歌麿と蔦重の距離は離れ始める。そして彗星のように写楽という絵師が登場する。そして一年に満たないあいだ活動して、写楽もまた消えていってしまうということになるわけです。
その写楽の作品について。一般的な浮世絵研究の中では、第一期、第二期、第三期、第四期まで細分化して分析をしているんですが、治さんはこれを「第一期」と「第二期以降」のふたつに分けているんです。第一期の大首絵を一つのグループとし、第二期以降が、半身であったり全身であったり、さらに舞台の装置までを含めた背景を描き込んだような、情報量や要素の多い絵になってくる。そのあたりを全て「第二期以降」とまとめて考えています。
意外なんですが、江戸の歌舞伎を知る人としての橋本治は、この「第二期以降」のほうをむしろ高く評価しています。それはなぜかと言えば、さらに絵の質を二つに分けているのですが、第一期の大首絵に関しては、江戸の歌舞伎を知らない人でも分かる、つまり絵のほうが飛び出してくるという言い方をしています。第二期以降の、たくさんの歌舞伎の約束事がその中に情報として入ってくる絵に関しては、橋本治さんのような歌舞伎を知る人、江戸の歌舞伎を知る人にとっては、むしろそのほうが向こう側に――歌舞伎の世界に引き込まれる絵だというふうに書いています。
「飛び出す」か「引き込まれる」か。私は江戸の歌舞伎をほとんど知らないので、そういう人間にとっては、この単純化された、絵としての迫力がある大首絵のほうに、まずは目を惹かれますし、とらえられてしまうんですが、「いやいや、実は面白いのは第二期以降なんですよ」ということが治さんの写楽でのパートでの主張になるわけですね。
河野:私も江戸歌舞伎はよく分かりません(笑)。第一期と第二期がどう違うかというと、第一期はこういう大首絵、クローズアップ画なんですが、第二期以降は全身像や、相手役が描かれていたり、いろんなディテールが盛り込まれている。きっとこれを読み解ける人が見たら、「これはこうで、あれはああで」とほんとうに楽しめる要素が盛り込まれている絵なんだろうなと思います。
橋本:面白い作品が、「篠塚浦右衛門の都座口上図」です。歌舞伎を知っている人は、こういう人物が出てきて「これから二番目の」という口上を舞台で述べることをご存じかと思います。それまで人気役者あるいは人気の役柄をすごい迫力で描いていた写楽の絵の中に、突然「この人は誰なの?」と思うような作品が混ざってくる。「何なの、これ」と思いますが、まさにこれが第二期以降の写楽の活動の変化を告げる口上だ、というのが治さんの見立てです。
そして、全身像と舞台装置の中には、装束にえがかれた役者の紋、あるいは装束のディテールやポーズ、その背後の舞台装置のアレコレなど、本当にたくさんの情報が描き込まれている。要するに写楽という人は、高性能なカメラのような人でもあったのではないか。他の多くの役者を描く浮世絵師たちに抜きんでて、舞台の上の情報、装置の情報、役者の情報、装束の情報、そういうものを写楽の目はとらえてしまい、それを描きたくてたまらない人だったと。
実際、大首絵はウケたけれども、「今度はそうではないものが見たい」という欲求が見る側、読者、それを買う人々のほうにもあり、蔦重もそれが分かっていて、大首絵では収まらない、写楽の才能をもっと活かすべく、第二期以降の、より情報量の多い、歌舞伎ファンの心を掴むような絵を描かせていったのではないかということを言っているわけです。
たとえばこういうことですね。長いタイトルです。《四代目松本幸四郎の大和のやぼ大じん実は新口村孫右衛門と初代中山富三郎の新町のけいせい梅川》。これは役者の名前と、その人が演じた役柄、一人の人物に対して二つの名前が書かれている。つまり役者が二人になればそれが二倍になるということで、ひたすら長いタイトルになるわけです。当時の歌舞伎ファンは、その時期の舞台に何の演目がかかっているかということは当然承知していますから、紋であるとか装束・ポーズを見て、「おお、これはいま◯◯の舞台にかかっている、あの演目のあの二人ではないか」ということがすぐに分かるわけですが、現代人である我々は説明してもらわないと理解できないということで、こういう長いタイトルをつけているわけです。
この時代は、松平定信による寛政の改革がちょうど終わったあとです。寛政の改革では出版統制もあり、贅沢に対する禁令も出ている。そうした舞台に対する圧力、出版に対する圧力の非常に強かった世の中がようやく終わった時代で、出版も舞台も「ようやくこれから」というところです。ただ、それまでの疲弊が大き過ぎた。江戸三座――幕府から公認された3つの劇場がありましたが、その中でもゴタゴタがあり、歌舞伎界もいろいろと立て直さなければいけない。出版界も立て直さなければいけないという状況で、ともに非常に意欲的にならざるを得ない時期でもあった。だからこそ新しい表現、大首絵のような新しい表現が求められていたという可能性も指摘されています。つまり蔦重、あるいは歌麿や写楽が特別に創造性に優れていたというだけではなくて、時代の要請のようなものが、その背景としてあっただろうということです。
河野:いま橋本さんから、「写楽が高性能カメラであった」というようなご説明ありましたけれども、だいぶ前に『写楽』(しゃがく)という雑誌があって、あれはまさに写真雑誌だったんですよね。篠山紀信さんなどがどんどん作品を発表していて、「まさに高性能なカメラとしての写楽の本質を誌面に引っ張ってきた雑誌だったのかな」と、今ふと思いました。
一方で、写楽の大首絵から全身像に移っていく、その変遷の理由の説明に使われたかどうかはちょっと記憶があやふやなんですけれども、こういう言い方がよくされますよね。「写楽のえがく役者絵、その顔があまりにリアルすぎた。」と。つまりそれまではブロマイドで見たいものをそこに描くということがパターンであり、ありきたりのいい男やいい役者がえがかれていることが庶民の喜びだったのに、リアルな役者の顔が写楽によって描かれすぎてしまって、役者も「ン?」と思う。同時に見た人もちょっと腰が引ける。
こういう説明をしながらまた思い出したんですが、和田誠さんのイラストと山藤章二さんのイラストを比べたときに、多くの作家が、和田さんのイラストを見ると心がホッとするんだけど、山藤さんに描かれると心がザラッとすると言っていました。「なんか俺、こんなに出っ歯だったかな」とか「俺、こんなオランウータンみたいなアゴしてたかな」と。「出っ歯だったかな」と言ったのは井上ひさしさんで、「オランウータンだったかな」と言ったのは野坂昭如さんなんですけど。山藤さんの場合はそこに「戯画化」という要素も入るんですが、写楽の場合はリアルだというところで人気が出なかったんじゃないかということを、当時の評論の中で言っている人もいた。蜀山人(しょくさんじん)――大田南畝(おおたなんぽ)という人が書いたと言われている評論ですが、「写楽の絵というのは真をえがこうとして、結局なかなかそれが世の人気を得られなくて、一、二年でえがかれなくなったんじゃないか」という、そういう説がないわけではありません。
そういった理由で第二期以降へ流れていったのか、またはいま麻里さんがご説明されたようにプロデューサーである蔦屋重三郎が、もっと写楽の個性である高性能カメラとしての目を存分に活動させようとして、画風を切り替えていったのか、そこは私には分かりませんけれども、いずれにせよ、活動期間9ヶ月で140数点という、本当にフル回転をして写楽という人は消えていきます。この消えていくミステリーについては、これまたいろいろ説があるんですけれども、麻里さんは、どう考えられますか?
橋本:治さんは「過労でボロボロになったんだ」って書いてましたね(笑)。
河野:治さんご自身がかなり締め切りに追い込まれてる状況でこの原稿を書いていたようで、説得力があるのかないのかよく分からないんですが、「今の僕でさえこんなに疲れてるんだから、写楽はさぞや大変だったに違いない」と書いていますね。
橋本:美術史の世界でよく言われているのは、写楽という浮世絵師に謎はないということです。基本的に阿波の能楽師、斎藤十郎兵衛だということで、ほぼ一致しています。浮世絵師のような、場合によっては手が後ろに回るような仕事に従事することはそもそもタブーに触れるわけで、阿波候に仕えていた、いわば公務員である能楽師は、あまり長く活動するわけにはいかなかったということもあるのではないかというのが一般的な見解になっています。
河野:蔦屋重三郎としては、「これぞ、自分の版元としての命を賭けてもいい」、「写楽をスターにしてみせたい」と思えるような相手と巡り会えたということは良かったと思うんですが、写楽が消えて、翌々年に蔦屋重三郎自身も亡くなる。ですからここは、文化史的に見ると、大きなターニングポイントであり、時代の節目になったということも言えるかと思います。
橋本:続いて北斎の《富嶽三十六景 神奈川沖浪裏》です。言うまでもなくという絵師ですが、個人的には、橋本治は北斎に冷淡だったと感じています。私なりの推測はあるんですが‥‥。「天っ晴れなもの」というタイトルの章で北斎についての思いを書かれていますが、「北斎が天才すぎてあっけらかんとしすぎていて、書きようがない」という様子なんですよね。写楽や歌麿、あるいは国芳を書いたときのような筆致で北斎を書けない。橋本治という、イラストレーターでもあった人が、北斎というもう一人のイラストレーションの天才を捕まえきれなかった感じが、何となく面白いような気もしています。
河野:そうですね。クールなんですよ、ほんとに。北斎を書いている治さんが。
橋本:全然思い入れがない感じ(笑)。
河野:「すごい」とは書いてあるし、「何でもできる人だ」とか「もう描けないものはない」というようなこと書いてるんですけど、その書き方に、なんだか愛がないんですよね。
橋本:ウェットさがなくて、非常にドライです。別にけなしちゃいないんですけれども、思い入れもないという感じなんですね。なので、そこが橋本治と葛飾北斎の面白い関係だなあと思っています。
これは美術史のほうでももちろん言われていることではあるんですが、それまで日本の絵の中に名所絵というものはありました。歌枕になったり、昔からよく知られている寺社仏閣であったり、有名な橋であったり、そういう名所をえがく絵というものはあったんですが、そうではない風景、名所ではない「風景そのもの」を主題にしてしまう絵はなかった。そのうえで、橋本治さんは「葛飾北斎は確かに風景画を描いた、それを創造した、けれども富士山に関しては肖像画として描いたんだ」という捉え方をしています。歌麿、写楽と、まさに人間を問題にしてきた橋本治にとっては、ツルツルして何となく手がかりのない北斎についての、治さんなりの‥‥。
河野:爪をたてようとした。
橋本:爪をたてようとしたという感じと言うんでしょうか(笑)。いずれにせよこれが、「富士山の肖像画だ」というのが橋本治の見立てということになります。
「名所絵」から「風景画」への跳躍は、本当に重要な問題です。それまで浮世絵の二大ジャンルは、「役者絵」と「美人画」のふたつでした。まさに今までお話したところですね。それに加えて、「風景画」という新しい3つ目の柱が立つのですが、これはこのあとにお話する歌川広重にもつながります。
江戸の人口が多かったという話もありますが、17世紀の初期ぐらいですと、日本全国の人口はまだ1200万人ぐらいです――これはあくまでも推定ですね。ただ、この時代は当時の戸籍である人別帳にしっかりその時代の地域の人口が書き込まれていますし、死亡者は寺の過去帳がある。そのあたりからの推計で17世紀前半に1200万人前後だった人口が、18世紀前半には3000万人ぐらいに到達し、幕末ぐらいまで、その人口を保ったと、歴史人口学では推定しています。さらに東海道を通行する様々な関所の記録などを見ますと、東海道を通行する人数が100万から150万と推定されています。人口が1200万から3000万に増えたといっても、東海道という大動脈を移動する人の数が、100万から150万というのは、人口比として恐るべき規模だとおわかりいただけると思います。つまりこの時代には、そこまで旅が一般的になりつつあったんですね。かつては非常に限られた人しか移動ができませんでしたが、江戸時代には参拝であるとか巡礼であるとか、そういう言い訳があれば旅ができた。実際には物見遊山だったり観光だったりしても、「寺社参りです」と言えれば、女性でも生まれた地域から出て、例えば伊勢参りに行くことができる、そういう時代でした。
つまり、一般の人が旅をしはじめ、自分が知っている見慣れた場所からどこかへ移動する間に、必ずしも名所とは言えないものも含めて風景を見る・知る時代になったということです。ですから、こういうものが人々に受容される下地がまずできつつあった。
それから、この時代には西洋からの銅版画類も入ってきます。8代将軍吉宗の時期に、宗教に関わらない西洋の知識や挿絵入りの書籍の輸入が解禁され、その中には風景的な要素も入っている。それを見ながら、不十分なかたちではありつつも、例えば遠近法のようなものを日本人が学び、絵の中で実践しはじめる。それが「浮絵」――浮世絵ではなく、手前のものが浮かび上がってくるように見えることから命名された──絵になっていきます。そういった不完全な透視図法、それから空気遠近法の実践などが行われていく中で、風景画が成立する下地がどんどん整っていく。
北斎がこの絵を描くのは1831年、72歳のときですが、それ以前の北斎は、定型的な名所絵も描いています。その定型的な名所絵を描きつつ、また別の絵として、西洋の銅版画を参照しながら、透視図法を使って江戸のなんということのない場所、名前も知られていないような場所を描いたりもしている。ですから、少しずつ風景画に近づきつつあることが、実はたどれるんです。
その流れがあって、やっとこの作品が出てくるのが1831年。このあともたくさん北斎の浮世絵、錦絵が出てきます。この《駿州江尻》は《富嶽三十六景》シリーズの一つですね。同じように《五百らかん寺さゞゐどう》も《富嶽三十六景》の中の一つ。次の《諸国瀧廻り下野黒髪山きりふりの滝》は滝、《千絵の海 総州銚子》は海を描いたものです。
これら北斎の、特にブルーを多用した錦絵は有名ですし、みんな大好きですが、北斎がこうした大判錦絵の原画を描いたのは、1831年から1834年までの数年間です。以降、北斎は1点ものの肉筆の時代に入っていき、90歳まで生きて描き続けますが、みんなが知っている北斎というのは、このブルーを多用した大判錦絵のごくごく短い時代ということになります。
河野:70歳から数年間。
橋本:72歳から75歳ぐらいまでですね。しかも重要なのは、これは《神奈川沖浪裏》というタイトルですが、そういう名所が実際にあるわけではない。このへんかなと、想定されている場所はありますが、実際にこうやって富士山が見えるわけではない。地名を冠していますが、いわゆる名所絵でないことは明らかです。
続いてブルーを多用したという話です。《富嶽三十六景 駿州江尻》もそうですね。海や遠くの景色がなぜブルーにかすんで見えるのか。遠くの空や、あるいは風景がブルーの中にかすんで見える。そしてもちろん空もブルーである。あるいは大地を流れる川もブルーである、池もブルーである。日本は山紫水明の国、水が非常に豊かな国ですけれども、ブルーというのはその水の色であり、さらにそれが大気を循環する色だということで象徴的に使って、日本の風景を描いています。
この「ジャパンブルー」と言いたくなるようなブルーがどこから来たかというと、実はヨーロッパから来た顔料でした。日本ではベロ藍と言われましたが、これは「ベルリンブルー」の略称、あるいはプロイセンブルー(プルシアンブルー)とも言われたのは、当時のプロイセンで発見発明されたブルーだからです。
それまでの浮世絵、あるいは日本の絹や紙に着色する肉筆で描く絵画にも、当然青い色は使われていましたが、これは藍銅鉱と呼ばれる鉱物をすり潰して作る顔料、もしくはいわゆる藍染めの藍、あるいは露草の青を染料として使います。いずれも一長一短あり、広い面積をむらなくグラデーションをつけてブルーをきれいに出すとか、あるいはそのブルーが長く色あせずに残るとか、すべてを並立させることができませんでした。例えば、この北斎の《五百らかん寺さゞゐどう》のように空の広い面積きれいなブルーで塗って、しかもそこにグラデーションを入れるということはできなかった。
ところがこのプルシアンブルーという顔料は、非常に使い勝手が良く、広い面積をむらなくきれいなグラデーションで塗りつぶすことができる。しかも、それまでわりと高額だったのが、1830年前後から大量生産・大量輸入が可能になったことで、浮世絵という大量に複製をつくる絵画のジャンルでも使うことができるようになった。そして北斎の、そしてそのあと登場する広重のブルーを多用した絵が、風景画として確立するようになるわけです。
河野:今でも絵描きの方とお話をすると、決定的な――例えば赤もそうですけれども――絵の具を手に入れるということが、その人の世界をガラリと変えていく、あるいは画風だけじゃなくて、モチーフを深めていくっていうことに繋がっていく大きなきっかけになっていると聞きます。言ってみれば技術革新が絵の世界にももたらされたということだと思うんです。
私は素人目で見て、《富嶽三十六景》シリーズの《神奈川沖浪裏》を見たときは、とにかく構図におったまげました。太平洋を多少とも知っている人間は、こんなことはありえないと思うわけですが、これがすごい。また、このブルーもさることながら、北斎独特の水に対する畏怖というか驚きというか、スペクタクル感というのは、面白いですね。《諸国瀧廻り》や、《千絵の海 総州銚》もそうです。江戸の人がどうだったのか分かりませんが、水に対する北斎の畏怖、そこにとても興味をひかれます。ダ・ヴィンチも、いろんな水のデッサンを描いた画家ですけども、「おいらの日本には北斎がいるぞ」と、ちょっと言いたくなるようなところがあります。
全く余談ですが、北斎という人は、生涯で90回以上引っ越しをしたということで有名な人ですが、水辺を好んで隅田川近辺を引っ越したとか、そういう話はありますか?
橋本:小布施のほうに行ってることもありますし、必ずしも水辺を求めているわけではないですね。ただ、本当に水をたくさん描いてます。これは想像ですけれども、おそらく変化するもの、その一瞬一瞬を見たい、絵に留めたい、その変化する形態をあたかも動画のように絵の中に収めてしまいたい、というようなことを考えていたのかなと想像します。
先ほど河野さんがおっしゃった、技術が絵を変える、そんなことがあるんだろうかと思われるかもしれませんが、例えば印象派の出現が、チューブ入り絵の具の発明に負っていること、つまりアトリエから外に出て自然光の下で物を見てそれを直接描くことができるようになったからだ、とは有名な話で、新しい青色顔料が日本の浮世絵を変えたのも、全く同じような状況だと思います。
河野:北斎は《朝顔に蛙》という花の絵も描いてますよね。
橋本:実は、北斎は琳派の絵師としても修業をしました。宗理という号を持っていた時期もあり、琳派的な絵ももちろん描けます。これはどちらかといえば琳派というよりももう少し当時の博物図譜なんかに近いイメージですね。我々はこういう絵と、当時の記録的な博物画を分けて考えてしまうんですけれども、例えば歌麿にも、《虫撰(むしのえらみ)》という昆虫を非常に精密に描いた作品があります。また少し前には、例えば伊藤若冲という、まさに動植物を精密に――ほんとに精密かっていうと微妙なところがあるんですが――描いた絵師もいる。
同時に、この18世紀というのは博物学の時代でもあって、自然科学に対する関心が、公家から武士、町人まで、様々な階層の間で盛り上がってもいました。近衛家煕(予楽院)のように、自ら筆を執って素晴らしい博物図譜を描いた公家もいます。自然科学の時代、博物に目が向いていた時代に、そういうビジュアルイメージが、例えば「浮世絵」や他の「絵画」と呼ばれるものに影響を与えたかどうかと考えたら、与えないわけがないんですよね。同時代の別のジャンルで勃興している、見たこともないビジュアルイメージに、当時の絵師たちがビビットに反応しないわけがない。なので、この《朝顔に蛙》も、おそらく北斎が当時の博物図譜から何らか影響されている部分もあるのではないかと思います。
河野:では歌川広重の《東海道五十三次 箱根 湖水図 》です。
橋本:広重くんです。
河野:永谷園のカードでは一番多かったですね、この「箱根」が。
橋本:切手小僧たちは、みんな「箱根、箱根」って言うんですよね。北斎だと「蒲原、蒲原」って。もはやそういう記号、理解になっているんです。
広重と北斎、実はかなり年齢が離れています。広重が生まれるのは1797年、北斎よりだいぶあとですね。実は国芳と同い年の生まれです。北斎が《富嶽三十六景》を発表したのが72歳のときと言いましたが、それは広重が35歳のときですから、親子以上に離れた二人です。
ですが、二人とも共に浮世絵の風景画の巨匠ということになっています。このふたりのライバル関係をお話しますと、聞くも涙語るも涙という感じになるんですが‥‥ともあれ、広重もこの《東海道五十三次》でやっとブレイクする。広重は国芳と同じ年生まれと言いましたが、国芳と同じ年に同じ歌川派の豊国のところに弟子入りを希望します。ところが門前払いされるんですね。いったい何が合わなかったのか。そのへんは分かりませんけれども、弟子の人数が多すぎたというのは事実です。
この広重の時代、それから国芳の時代を語ろうとするときに――北斎も入れてもいいですが――、出版点数が17世紀の10倍ぐらいになっているということを前提にしなければいけません。つまり、この時代は出版点数が増えて、もちろん同時に享受層も増えて広がっていますが、とにかく新しい趣向が求められた。浮世絵も、これまでの踏襲ではなく、どんどん新しい趣向を出し、今までと違うものを見せて、そうじゃなきゃこの生き馬の目を抜く出版競争社会で生き残れない‥‥ああ、なんか言ってて自分でツラくなってきましたが(笑)、という時代だったんです。豊国の下には、非常に多くの弟子たちが詰めかけていて、国芳はうまくそちらの門下に入れたけれど、広重は入れなかった。
広重は本来、絵師が本業の人ではありません。江戸の火消同心で、非常に俸給は少ないながらもいちおうは武士。ただし、食べるにも事欠くようなありさまで、副業として浮世絵を描こうと入門したと言われています。
豊国のところに行けば、また違う道があったと思うんですが、彼は豊国一門が得意としていた役者絵では、残念ながら全くブレイクしなかった。武者絵もブレイクしなかった。
そんななか、北斎が風景画というジャンルを完成させます。北斎がちょうど《富嶽三十六景》を出したのと同じ年に、実は広重も、名所絵ではなく、頑張って風景画的なところまで到達している《東都名所図絵》というシリーズを出しています。しかしこれは北斎の前に完敗でした。いや、結構いい線はいっているんですが、この年は北斎が圧倒的すぎてダメでした。
それから2年後の1833年、《東海道五十三次》。北斎の「三十六」と同じように「五十三」という数字を入れた名前をつけ、さらに「東海道」と入れて出します。これがやっと当たる。
河野:ちょっと割って入りますと、このころ出版が非常に盛んになり、ベストセラーが出てるわけですね。この30年ほど前なんですが、みなさんもよくご存じの十返舎一九の『東海道中膝栗毛』です。読むと唖然とするような、イタズラ好きの二人があちこちでとんでもないことをやっていくという、今でいうとロードムービーのようなかたちをとりながら、東海道の案内をやっていくという作品がベストセラーになります。そういう下地の上に、絵としても《東海道五十三次》が注目されていくという流れが、さきほどの「生き馬の目を抜くような出版の世界」に広がっているわけです。
橋本:そうです。それがまさに読本(よみほん)の世界ですね。エンターテインメント小説と言えばいいんでしょうか。1802年に『東海道中膝栗毛』が出て、そのあと滝沢馬琴――曲亭馬琴によって『南総里見八犬伝』が書かれるのが1814年です。曲亭馬琴という、超ベストセラー作家、小説一本で食べていくことができた日本最初の(と言われてますが、ほんとかどうか分かりませんが)人気作家が出てきます。
北斎は、馬琴と組んでたくさん絵を描いています。これはモノクロームです。白黒、基本墨一色の絵なんですが、紙面のサイズも決まっていて、お話も最初からできている中で、どれだけ挿絵として面白いことができるか。そういうことを考えながら、ほぼ10年間の読本の挿絵作家時代に、北斎は約100冊、1900図に及ぶ読本の挿絵を描いています。これがすごいんです。全盛期の『少年ジャンプ』のような感じですね。モノクロだけで何ができるか、どうやってこのドキドキする物語をより盛り上げることができるのかということを、本当に様々な手段を使って工夫している。ただ、それが行きすぎて、「勝手なことするな」ということになり馬琴先生と物別れに終わってしまいます。というか、北斎が物語に口を出すんですね。「このキャラクターに汚え草履を咥えさせるな」というような争いになり、二人が別れるにいたるというエピソードがあります。
ともあれ、そういう読本の時代、そして旅が盛り上がってくる時代だけに、旅の話が人気作品になる、そういう様々な要素が組み合わさりながら、やがて浮世絵としてもこの《東海道五十三次》が人気を得るわけです。この《東海道五十三次 箱根 湖水図》にも、実はよく見ると‥‥ここにも富士山はあるにはあるんです。《五十三次》シリーズの中に3つか4つ、富士山は描かれているんです、こっそりと。ただ、さすがに「富士山そのもの」をお題にすることが、この時の広重にはまだできなかったんですね。
今回の展示には出てないんですが、北斎が亡くなってから3年後の1852年、56歳になった広重は、《富士三十六景》という、パクりかと思えるタイトルのシリーズを出します。北斎には、《富嶽三十六景》のあと、モノクロの《富嶽百景》というシリーズもあるんですが、広重にも百の富士の図を描いた《富士見百図》というシリーズがあり、広重の亡くなったあと1859年に刊行されています。しかも恐ろしいというか、笑えるというか、悲しいというか‥‥北斎が75歳で完成した《富嶽百景》初編の跋文に「自分は6歳から絵を描き始めたけれども、70歳以前までに描いた絵は取るに足らないもので、73歳にしてようやく動植物の骨格や出生を悟ることができた。80歳ではさらに成長し、90歳で絵の奥意を極め、100歳で神妙の域に到達し、百何十歳になれば1点1格が生きているようになるだろう」というようなことをとうとうと書いていますが、それに対して、《富士見百図》のまえがきで、広重は北斎の富士と比較しながら彼の富士をくさす文章を書いている。北斎が死んだあとで似たようなタイトルの全く同じ趣向のシリーズを出して、わざわざそんなことを言う広重の、北斎に対する分かりやすいコンプレックスが、私にとっては好感になっているわけです。
その《富士三十六景》に、《駿河薩多之海上》という絵があります。これは《東海道五十三次》の中では「由井」という名前で描かれたものと同じ場面です。同じ場所を違うシリーズ、違う趣向で描いているのですが、広重の描く駿河薩多の富士は、完全に北斎の《神奈川沖浪裏》の裏焼きみたいな感じです。それを見ると、「ああー、もう広重ったら!」というたまらない気持ちになるんですね。
空間の構成に関しては、もしかするとこの人は北斎よりも才能があったかもしれないのに、《東海道五十三次》が売れたおかげで、「東海道もの」の、2匹目3匹目4匹目のドジョウをあてこんだ注文が次々にきてしまい、広重はそれを受けてしまう。少しずつ変えてはいまずが、7種類ぐらい東海道ものを描いています。それから、木曽街道など、「街道もの」、「ナントカもの」といった同工異曲のシリーズの注文がたくさんあり、きた分だけ受けてしまう。そして25年も風景画専業の絵師として描き続けてしまうんです。だから、その中には、乱作というか、描きすぎて、まるでただの自己模倣、しかも劣化コピーみたいなものも相当数含まれている。そこがとても残念なところでもあります。北斎が次々とテーマを変え、名前を変え、住まいも変えながら、新しいことへ新しい趣向へ進化していったのと違い、それは広重を限定されたところに留めてしまう一つの原因になったのかなとも思いますが、同時にそれが広重の特長、魅力とも言えるかもしれないですね。
河野:私、ここに富士があるということ、あんまり意識していませんでした。この、奥ゆかしさとは言えないこだわり方、いいですね。さきほど、富士を肖像画としてえがいたのが大スター北斎だと麻里さんのお話にありましたけど、肖像画として描こうというようなことには気後れして、ここへそっと置いとくという、まるで月見草のような心根をかいたいですね。
橋本:そうなんです。そうじゃなくてもいいものもいっぱい描いているんですよ。「江戸百」と通称される《名所江戸百景》です。近景にバーンと強く大きいものをもってきて、その向こうに遠景を描くというスタイルで、この《名所江戸百景》シリーズでたくさんの傑作を描いています。《名所江戸百景 亀戸梅屋舗 》や《名所江戸百景 大はしあたけの夕》は、ヴァン・ゴッホが習作として油絵で描いたものも残されています。まさに傑作です。いいじゃないですか、これで(笑)。
河野:ほんとうにそう思います。ゴッホが油彩で模写したというのも、みなさんもよくご承知だと思いますが、こうやって大きくしてみると、ほんとうに雨の濃さ、描線の太さが様々ですね。
橋本:そうですね。そのランダムさが、雨らしい雰囲気をほんとうにうまくつくっていると思います。
河野:人々の先を急いでるような様子もいい感じだし、この構図は面白いですよね。
橋本:そうなんです。《名所江戸百景 水道橋駿河台》も「江戸百」シリーズです。これにも‥‥いるじゃないですか、富士が(笑)。こっそり。ね?「いつになったら富士を堂々と描けるんだ、君は!」って、広重いじりをしたくなる感じの広重くんでした。
河野:さて、橋本さんの大好きな歌川国芳が控えています。
橋本:あ、治さんが大好きなんです。いちおう言っておきます。
河野:治さんが好きな。
橋本:いや、別に私が嫌いなわけじゃないんですが。
河野:いよいよ国芳。
橋本:鯉のぼりの次なので、鯉にしてみました。国芳の《鬼若丸の鯉退治》。橋本治さんが大好きな国芳です。何となく、「バーン!」とか「ガーン!」とか「ギャギャーン!」と擬音がつけたくなる感じの国芳です。
国芳は、先ほど言いましたように広重と同年に生まれて、歌川派の門をくぐり、広重より少しあとの1861年に亡くなります。ですから、もう少し生きれば明治維新という年まで生きています。
例えば洋画家の高橋由一、有名な「鮭」や「豆腐」などの油絵を描いた人ですが、彼が21歳になる頃まで葛飾北斎が生きているんですね。その時代の江戸と、明治の洋画みたいなものをつい別々のもののように考えてしまいますが、北斎や国芳はそのあとやってくる明治の世界と近接して生きているんですね。
それはともかく、国芳です。国芳に関しては、どんな話をしましょうか。彼は、たくさんの絵を描いてるんですが、何と言ってもワイド画面による非常に大きな視野、そしてダイナミックな構図を可能にしたこの三枚続ですね。広重の時代から浮世絵の揃物(そろいもの)という形式が増えていきます。それまで浮世絵は、庶民が1枚ずつ買うことが前提でした。買えるといってもあまり贅沢はできないですから、1枚1枚買っていくのが普通。例えば役者のブロマイド五人揃いのものなどの何枚か続きもあるんですが、1枚で買っても絵になるというのが基本でした。
ところが広重の頃から、揃物というそれなりにお金をかけて揃えるというコレクタブルなものが増えていきます。国芳はそういう三枚続の絵を得意としているのですが、それにしても異質なんですね。同じ時代に兄弟子の国貞も三枚続をたくさん描いていますが、国貞のものは1枚1枚バラして買える感覚なるのに、国芳の場合は三枚続じゃないと意味がない。これを1枚だけ買っても全く無意味ですよね(笑)。「それで?」みたいなことになっちゃうんです。この人は描きたいものが先行しているんです。橋本治さんも書いていますが、普通「役者絵」であれば役者が先行しなきゃいけない、あるいはその舞台が先行しなきゃいけないんですけど、国芳の場合は描きたい大きなイメージが先行していて、それにたまたま合うものがあれば当てはめる。仮に役者がいたとしても扱いは小さい。別に誰が出てもかまわなくて、自分の描きたいイメージ、さっき言った擬音の入るアメコミのような、あるいはハリウッド映画のようなダイナミックなイメージそのものが彼の描きたいものであって、役者の似顔などでは全くない――というのが治さんの見立てでした。
国芳ももちろん、役者絵は描いています。この時代、役者絵は歌川派が全盛です。それまでの勝川派から歌川派に覇権が移って、人気役者をたくさん描いているんですが、国芳は歌川派お得意の役者絵の領域ではほとんど傑作を残せず、ブレイクできなかった人なんですね。そのかわり、読本で普及していた『水滸伝』を描く。『水滸伝』だったら、歌舞伎という世界の外でも、自分が望むようなエンターテインメントや活劇を描くことができる。しかも役に扮する現実の役者がいませんから、キャラクター造形が自由なわけです。これは楽しい。ということで、国芳はこういうタイプの絵をたくさん描いていくわけです。
次は、傑作中の傑作、《相馬の古内裏》ですね。これは歌舞伎の演目もあるんですが、現実の舞台はほぼガン無視です(笑)。大宅太郎光国という人が、かつて関東に覇を唱えた平将門の内裏であった場所、お化け屋敷みたいな場所に乗り込んで、将門の娘であるとされる瀧夜叉姫が召喚した巨大な骸骨と戦うという場面で、もともと山東京伝の読本が歌舞伎の演目になっているん。国芳はそれを、非常にオリジナルな解釈で絵画化しています。これ、治さんが大好きな作品なんです。骸骨と美女というモチーフについてもいろいろあるんですけれども、それを言っているとキリがないので、進みましょう。
冒頭で三枚続のワイド画面と言いましたけれども、この画面の中の複数交錯する視点について、絵巻に慣れた日本人、もちろん絵巻を見られる、手にできる人は相当な富裕層になるわけですが、いずれにしても絵巻のような続き物の絵を、右から左へ時系列で見ていくという、その作法について日本人はいちおう知っている。そういう下地があって、この瀧夜叉姫、《相馬の古内裏》を見ることを楽しめる。あるいは次の《宮本武蔵の鯨退治》もそうですが、単に画面が広い、ワイド画面であるというだけではなくて、時間が一つの画面の中でうつろっていく、絵巻という絵画形式の鑑賞作法を心得ているからこそ、この三枚続のワイド画面が有効だったのではないかということを、橋本治さんは言われています。
次の《吉野山合戦 》は、ワイド画面を縦にしたらどうなるかという試みです。画面の中では上から下まで人がいて、いろんなことが起こっているんですが、このサイズだとよく分かりませんね。同じように、平家物語の中で文覚上人が那智の滝に打たれて修行するっ場面を、三枚続の縦画面で描いた《文覚上人那智の瀧荒行》という作品があるんですが、これだと滝が完全に主役になっています。さらにそれを一枚で描くとこうなる、という作品も描いています。《六様性国芳自慢 先負 文覚上人》です。つまり、「別にワイドじゃなくたって描けるんだよ、俺は。見てくれよ、このコテコテの、まるでアメコミのような絵を」っていうことですね。完全にアメコミですよね。現代じゃないですか、これほとんど。
河野:そうですね、ほんとに。
橋本:カッコいいというか、すごいですよね。
河野:そうですね。《宮本武蔵の鯨退治》の絵、もう1回出してもらえますか。治さんは、このタイトルを原稿用紙に書くだけで興奮すると書いてるんですけど、宮本武蔵が鯨を退治したという、この組み合わせ・合体のすごさ、これがまずもって面白い。
橋本:実は、歌舞伎にこういう演目はないんですよね。「鯨のだんまり」という、ごくごく前座の演目がひとつ。それから、宮本武蔵が出てくる演目――たいして盛り上がらない演目なんですが――もある。それを勝手に合体させてしまって、歌舞伎ではなく、スペクタクルとして描いたのがこの絵ということになります。
河野:これは鯨だし、さっき鯉も出てきましたけど、治さんは『ひらがな日本美術史』の中でそういった国芳のエネルギッシュな姿勢、きっぱりすっきりしたその姿を「鯔背(いなせ)」という言葉をキーワードに形容しています。「この時期に文化は武士から、そして武士と接近した上流町人からさらにくだって、“鯔背(いなせ)”という言葉が似合う下層町人、労働者階級にまで及んできた。国芳が生きたのはその時代である。国芳を一言でいえば、“我は躍動する文化なり”である」と。つまり、この時代の町人、河岸の威勢のいいおにいちゃんとか、そういう人たちのエネルギーやエートスを汲み上げながら絵にしていったのかなと。さっきの「アメコミ」というのと通じますが、これもややヤンキーっぽいこの時代の人たちを描いている。
橋本:完全にヤンキーですよ。EXILEって感じです。
河野:アハハ。
橋本:EXILEだって、ここまでじゃないですよね(笑)。もっと古い、横浜銀蝿とかそっちの感じですよね。
河野:そこらへんのパワフルなところが国芳の魅力であり、橋本さんはそこが大好きなんですよね。あ、治さんは。
橋本:私が嫌いなわけじゃないんですよ(笑)。もう数年生きれば明治維新だったと言いましたけれども、躍動していたのは時代も、なんですね。異国船打払令が出されたり、中国ではアヘン戦争が起こっていたり、あるいはペリーが浦賀に来航したり、安政の大地震があったりと、国芳が活躍した時代というのは、うねるどころか激動、激震の時代でした。おにいちゃんたちも、粋でいなせにやってはいるんですが、ともすればシュンとしてしまいそうな状況で、結構ギリギリの「張り」だったというか、自分を張り支えるための「いなせ」でもあったというのがこの時代ではないかと思います。このあと日本がどうなるか分からない、そんな不安の中で人々は生き、そして国芳もただヤンキーをやっていたわけではなくて、そんな時代に何を描くかということを考えた結果、この絵が出てきたのだと思います。
このあとも、浮世絵は描き継がれていきます。国芳の名前を継いだ芳年、あるいは河鍋暁斎(かわなべきょうさい)ですね。そういった絵師たちが次々と出てきます。彼らはお雇い外国人に教えたり、そのあとの写真の時代にあってどんな絵を描くかということを考えたり、浮世絵も少しずつ変化しながら明治維新を乗り越えていこうとします。写真の時代に写真以上の、あるいは写真以外の表現で、浮世絵にどんな新しいことができるのかということを考えて、明治の歌舞伎役者を描いた浮世絵なんていうのものも出現してきます。これはこれで、とても面白いものであり、同時に非常にバタ臭い。西洋の情報もたくさん入ってきて、肖像画あるいは肖像写真・ポートレートというのがどういうものか知った上で、では単純化した線と色面で表現する浮世絵にできることは何か、と考えて生まれた新しい浮世絵。さらに陰影表現も加わった、とても面白い作品が出てきます。
そうやって浮世絵の時代は続いていきますし、膨大な数の浮世絵や木版の出版がありました。技術革新によってどんどん状況が変わっていくなか、「浮世絵の仕事がなくなったら、それでおまんまの食い上げなのか」――というと、そうではないんですね。1889年に日本美術の研究誌で、『國華』という雑誌が出ます。これは日本で一番長寿の月間雑誌で、今1冊7,000円かな。最も高額な月刊誌と言われていますけれども、その『國華』が出始めたときに、紙面に作品の画像を何らかのかたちで印刷しなくてはならないということで、その木版刷りの仕事を浮世絵師たちがやっていたりしました。そうやって浮世絵の伝統・技術というものがいろいろなかたちに変化したり受け継がれたりしながら、明治以降の近代へつながり、そして、橋本治さんの『ひらがな日本美術史』は、東京オリンピックまでつながっていくんですね。
河野:そうですね。橋本治さんの『江戸にフランス革命を』という本を読んでいたら、そこに「国芳を取り上げたテレビ台本を書いた」という一行がありました。名古屋テレビ放送の開局25周年記念に頼まれて橋本治さんが書いた、「浮世絵 我が心のともしび 安治と国芳」という番組です。安治というのは明治初期の浮世絵師、井上安治で、維新をまたいで浮世絵師になり、版画家として非常に短命に終わってしまう作家なんですけれども、「光線画」という光と影を表現する手法を編み出していった人です。この国芳と安治というふたりを繋げながら、治さんがテレビドラマを書いていたんですね。とても興味があったので、橋本事務所に行って台本を見せてもらいました。
するとなかなか面白いセリフがあって、それを最後の締めの言葉にしようかなと思います。締めの言葉として相応しいのかな?という気もしますが‥‥。
さきほど麻里さんのお話の中にあったように、国芳はそもそも歌川豊国の門人になるわけですが、お弟子さんたちも大勢いて、そこで頭角を現すというのはなかなか難しかったと。そのテレビの中で国芳を演じているのは高田純次さんなんですが、その高田さんのところにちょくちょく出入りする編集者というか具足屋――錦絵の版元の一つ――を相手に高田純次さんが言うセリフというのがある。「お前らなんか、いつだってなんにも考えてやしねェ。売れてるもんだけ追っかけてる。人がチイッとばかし毛色の変わったもんを出しゃ、首をかしげるだけで何とも思やしねェ。売れりゃこのザマだ。売れなけりゃなんとも思やしねェ。俺達ァ職人、ただの消耗品だぜェ」と啖呵をきります。さきほどからお話してきた国芳の心意気と、その生きてきた時代というのが治さんなりにこのセリフの中に込められていたのかなと思います。
今日は楽しくお話してきました。これから展示をご覧になる方のご参考になったかなというところもあったかと思いますし、もう既に見てきた方、頭の中を整理したり、「ああ、そうだったな」ということを復習される機会になればと思いますが、それにしても麻里さんのお話はすごく多岐にわたり、面白かったですね。ありがとうございました。
(拍手)
橋本:ありがとうございました。
河野:今日のトークは終わりにしたいと思いますけれども、1月から始まる「橋本治をリシャッフルする」という講座は、今ちょうど受講生を募集しているところです。橋本麻里さんは、そこでも講師としてご登場されます。今日は浮世絵のパートだけでしたけれども、『ひらがな日本美術史』は、橋本治という人が全7巻、日本の美術史をひとりの目で追いかけた、非常にユニークで面白い本です。これを麻里さんに読み解いていただきます。橋本治さんにとって「見る」という行為はどういうものだったのか、橋本治の目を我々も体感しようじゃないかという講義にしたいと思っています。そのほか、いろいろ面白い講師の方に、橋本治をリシャッフルしていろんなヒントをそこから汲み上げられるような講座を予定してますので、ご興味がある方はほぼ日の学校のページをご確認いただければと思います。今日は長時間ほんとうにありがとうございました。
※「橋本治をリシャッフルする」の受講生募集は終了しております。