橋本治をリシャッフルする。 
第7回 橋本麻里さん

『ひらがな日本美術史』の何が凄いか

橋本麻里さんの

プロフィール

この講座について

橋本治さんの代表作のひとつ『ひらがな日本美術史』(全7巻)。「一人の歴史観で見通した日本の美術史」として画期的なこの作品について、《松林図屛風》を題材にしながら美術ライターの橋本麻里さんが解説してくださいました。「日本美術に接するときの動詞は、『見る』ではないかもしれない。そう思うようになるかも」――このように予告された授業をお楽しみください。(講義日:2020年2020年9月5日)

講義ノート

暑い中、お越しいただきましてありがとうございました。橋本麻里と申しますが、治さんとは何の血縁関係もございません。まったく赤の他人なんですけれども、時々、治さんが……あ、そうなんです、区別がつきにくいので、私は「治さん」と申し上げますが、馴れ馴れしくしているわけではありません。というわけで、本日は、『芸術新潮』で連載された「『ひらがな日本美術史』を通して、橋本治を知る」ということでお話をしていきたいと思います。

●絵に接する動詞は「見る」ではないかもしれない

お手元に資料を配らせていただきました。それが出てくるのは、たぶん後半です。あとで、お配りしてある《松林図屛風》を屛風のように折っていただいて、ご自身の前に置いてもらおうと思っています。見るだけでもいいんですけれど、それをやっていただくと、橋本治さんが書いていたこと――それは、彼のオリジナルというよりも、美術史家たちは知っているけれども、あえて書かなかった前提を、彼がきちんと言語化してくれていたことがわかると思います。先ほど(学校長の)河野さんから絵を「見る」という言葉を言っていただきましたけれども、おそらくこの講演が終わった後、日本美術に接する時の動詞は「見る」ではないかもしれない、ということを、みなさんお考えになるんじゃないかなぁという風に思っています。では、始めましょう。

「ひらがな日本美術史」は、『芸術新潮』の1993年の7月号から2005年の11月号までの掲載でした。単行本にまとまった数としては7巻119章です。モニターには第1巻の目次を出していますが、日本美術の通史です。それを個人が書いている。橋本治好きで彼の本をたくさん読んできた人たちにとっては、彼が日本美術の通史を書くということに、何の不思議もないと思われるかもしれません。ですが、少なくとも21世紀に入ってから、あるいは20世紀の終わりから、一人の、たとえば美術史家が日本美術の通史を、それこそ縄文から江戸時代末期まで書き通すということは、あまり例がないのです。

なぜなら、美術史家はそれぞれの専門領域があって、自分の専門外も含めた全領域を書き通すということに対して、やはり遠慮であるとか、「それは自分の任ではない」と思うところがある。もちろんそれは研究者としての良識だと言えるでしょう。そうした研究者が、複数寄り集まって作った美術史の教科書は当然存在するわけですが、ある一人の目、歴史観から書かれた美術史もあり得るのです。美術史に限らず、ヘロドトスの『歴史』もそうですが、歴史には長尺の大河ドラマを見るようなというか、ひとつのストーリーを追っていくような見方ができる喜びや面白さ、発見があります。ですが、実際にそういうことをする人がいない、というのが、『ひらがな日本美術史』が登場するまでの状況でした。

もちろん、皆無ではありません。みなさんお名前は、『奇想の系譜 又兵衛―国芳』の著者としてご存知かもしれませんが、 辻惟雄 つじのぶお さんによる日本美術史の通史(『日本美術の歴史』東京大学出版会、2005)は刊行されています。単著としてまとめるかどうかは別として、美術史学科を持つような大学であれば、日本美術の通史の授業は大抵あります。そしてそこで通史を教える先生もいらっしゃる。辻先生も昔から日本美術の通史を教えていましたから、その授業を受けて一人前になった研究者も大勢いらっしゃいます。その方々、そして、辻先生ご自身もおっしゃるのは、「辻先生の授業はわかりにくかった」と(笑)。「声は小さいし、黒板に書く字は汚いし、何を言ってるのか、何を書いているのかもよくわからなかった」。その名物授業が1冊にまとまった……というと、何だか大変な本のようですが、そんなことはありません。これはこれで、美術史家としてのこれまでの知見を整理してお書きになった日本美術の通史です。

もうひとつ、これは大勢が集まって、とはいえ、非常にディレクション力のある研究者が二人編者として入った、『日本美術史』全1巻(美術出版社、2014)があります。編者のお一人は、辻先生の弟子にあたる山下裕二さん。『日本美術応援団』で、赤瀬川原平さんとお二人、日本美術の常識、あるいは先入観をぶち壊す、とてもユニークな伝え方を実践され、今では“日本美術史界の広報部長”と呼ばれています。そして、中世絵画の研究者として、その業績が非常に注目されている髙岸輝さん。この二人が編者になり、中堅から若手の研究者がそれぞれ時代、分野ごとに分担執筆してまとめたのが、この『日本美術史』です。2014年に刊行された本ですが、研究史上の常識に留まるのではなく、この時点での最新の研究成果をもとに書かれているところが、実は大きなポイントです。またそれぞれの時代がどういう時代なのかというサマリーがまずあり、それから細部に踏み入っていくという構成もいい。シンプルに凝縮した個所と詳細な個所とに分かれ、美術史の全体像がある程度一望できるような作りになっています。もしこの先、日本美術史の全体像を自分なりに見通したいと思っておられる方で、『ひらがな日本美術史』全7巻を読む気力がない場合は、この『日本美術史』をお求めになるのも良いと思います。

●『ひらがな日本美術史』 縄文を飛ばした第1巻

で、全7巻ですよ。原稿枚数がたぶん2000枚を超えてるのですけれども、大変です、これを読むのは。連載終了記念のインタビューをさせてもらったのが、恐らく橋本治さんと直接お会いした、初めての機会でした。もちろん『ひらがな日本美術史』は読んでいますが、それ以前に中学3年生の時に『桃尻語訳 枕草子』を読み、日本の古典への傾斜を深めることになった、言ってみればヒーロー、自分のアイドルである人にお会いするということで、この全7巻119章を3周ぐらい読んでインタビューに臨んだわけです。

その119章を改めて読み直してみてまず思ったのは、今モニターに第1巻の目次が出ていますが、「まるいもの」、埴輪から始まります。そうなんですよ。つまり、縄文は飛ばして、弥生、古墳と来て、それから飛鳥、奈良という風に行くんですけれども、普通、今だったら絶対に冒頭には縄文を置きますよね。全体の目次だけ見てもわかることは、2巻ではもう鎌倉時代。「えっ? いきなり鎌倉になっちゃうの?」って驚きます。1巻で弥生、古墳と来て、仏教が伝来しました。法隆寺の次はもう、源氏物語絵巻まで行ってしまう。これは平安末〜鎌倉初期頃の作品です。それから、鳥毛立女屛風なんて、奈良時代、正倉院時代のものが入ったり、この辺、奈良と平安がごちゃごちゃしながら、基本的には平安を通していって、院政期、鎌倉時代までたどり着く。1巻で鎌倉時代まで行っちゃう。すごく早いです。ぶっ飛ばしてます。

さっき言っていた美術出版社の『日本美術史』の目次を見ると、第1章、縄文・弥生・古墳時代。なるほど、という感じです。第2章で、飛鳥・奈良時代。ここで初めて、中国から文化と仏教が到来して、一気に日本が新しい時代に入っていく。そして、平安時代。その入ってきた新しい文化を咀嚼していくうちに、だんだん和様化が起こってきて、日本的なものに変えられていく。平安時代も非常に長いので、前期、後期に一応分かれています。そして、院政期、平安末期に至って、武士が登場してくる。軍事貴族としての平家、そして平家に対立するものとしての源氏ですね。そして、貴族の時代が落日を迎えて、鎌倉時代。そして、南北朝時代。けっこう大きくページをとっています。これまで南北朝時代は添え物的な扱いをされていました。政治的な年代区分としての南北朝時代はとても短く、「これは明らかに南北朝時代」と断言でき、国宝に指定されるぐらいの、基準になるような、軸になるような作品がなかったんです。それがここに来て研究が進み、南北朝時代の軸になるような作品が見えてきた。ということで、鎌倉・南北朝時代、けっこう大きめに扱っています。

そして次に室町時代です。関東へ移っていた首都機能が再び京都へ戻ってくる。再生と破壊の時代と言ったらいいのでしょうか。戦国時代でもありますので、ここでもいろいろなことが起こります。そして何より、室町時代は我々が今、「日本的」だと思っている多くのものやことが生まれた時代でもあります。たとえば、どこのお家にもかつては和室がありました。畳が敷き詰めれr、床の間を設け、襖、障子がはまっている座敷。この「当たり前」に思える和室が生まれてくるのが、室町時代です。それ以前の日本の室内空間がどういうものだったのかというのは、実は橋本治さんも非常に気にしていたところです。そして、能が生まれ、 立花 たてはな =りっかが生まれ、茶の湯が生まれ、我々が「和」だと感じるものの多くが、室町時代に生まれています。第6章は桃山時代ですね。桃山時代は戦乱が終結し、天下統一という方向に向かっていく。その中で、新しい、バブルのような状況が出現した時代です。そして、徳川家康によって国が統一され、幕藩体制が敷かれて、江戸時代。そして明治までが、バランス良く収められています。

これが普通の美術の、というか歴史の区分なんですが、治さんはここをぶっ飛ばします。インタビューの時に実際に伺いました。「おかしくないですか?」。「なんで、こんなことになっちゃったんですか?」って。そもそも、なんでこの連載が始まったのかという時に、これ、93年7月号から始まったと言いましたが、それを遡ること2年前、91年の『芸術新潮』8月号で「日本文化の特質」という特集をやったんですね。ここに治さんは寄稿をして、「日本文化というのは、男の背広のようなものだ」っていうことを、1000文字にも満たないぐらいの字数で書いていて、800字ぐらいだったのかな? これがとてもおもしろかったので、「こういうことを、もっと詳しく話せないですか?」と当時の編集者が言ったところ、「5枚や10枚ではとても書けない。本が1冊いる」と言われ、「じゃあ、連載する?」みたいな流れで始まった――と言いたいところなんですが、やるかどうかというような話をしていた時に、橋本さんの『風雅の虎の巻』というエッセイ集を、白洲正子が「いいね」と褒めたらしいんです。「こいつは みやび がわかっている」と。それを言われた『芸新』の編集長は、「じゃあ、いけるんじゃない?」(笑)。これは、かなり私が想像も含めて話しています。連載をしようかという話があったその途中で、白洲正子が褒めた。で、それを元に連載が決まった、という。3点ぐらいしか事実はないんですが(笑)、そういうことが何らかの後押しになって連載が決まった。

●ぶっ飛ばしてしまって、あとで「しまった」

ただし最初のうちは、「じゃあ、縄文時代から始めて幕末までやりましょう。それを何巻に分けて、それぞれ何ページぐらいに割っていきましょう」みたいな全体の見通しがあったわけでは、まったくないのだそうです。美術史をある程度、学校の授業として履修した方はよくわかると思うんですが、縄文、弥生ぐらいはいいとして、仏教が伝来して以降、しばらくずっと仏教の話が続くというか、仏教しかないんですね。さらに遡ったことを言えば、今でこそ、縄文、弥生というものが日本美術史の中に入ってきますけれど、戦前ぐらいまでは、日本美術史は飛鳥時代、仏教伝来から始まっていました。ですから、その時代の日本美術全集などを開いていただくと、いきなり仏像が出てきます。要するに、それ以前のものは、美術、あるいは造形表現として取り扱うに足りないという認識だったんですね。

文明が、仏教という造形表現を伴ってやってくることによって初めて日本美術史が始まるのだという歴史観がまずあり、やがてそれが少しずつ更新され、縄文の火焔型土器ですとか、あるいは、弥生時代の土偶ですとか、そういうものも造形表現として、日本人、日本の美術、造形について考えるにあたって、当然、扱わなければいけないのだということになっていく。ともあれ、仏教伝来以降の仏教美術、仏教建築、それに関わる様々な工芸というものの扱いというのは非常に多くて、最初にそこでみんな挫折するんですね。誰もが仏像を愛するわけではないので(笑)。仏像に何らかの形で親しんでいる人はいいんですが、そうでなければ、 盧舎那仏 るしゃなぶつ ぐらいまではともかく、 不空羂索観音 ふくうけんじゃくかんのん とか、 釈迦如来立像 しゃかにょらいりゅうぞう とか、漢字で呪文のように繰り返されると、寿限無、寿限無と言ってるのと変わらない(笑)、お経を聞いてて眠くなるのと一緒で、とても堪えられないという気分になっていくんですね。治さんもそこはよくわかっていて、「仏教はいいや。俺、信仰ないし」ということで(笑)、これは本人もおっしゃってました。法隆寺の釈迦三尊像やって、中宮寺やって、また法隆寺に帰ってきて、「終わり!」という、とても潔い終わり方になってしまいました。この後もあまり出てこないんですよね。平安時代だって、当然、 定朝 じょうちょう という仏師による、宇治・平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像のような、非常に重要な作品があったりするんですけれど、それすらやってない。後で「やれば良かった」と言ってましたけれど(笑)、やってない。で、いきなり、運慶・快慶に行ってしまうという、非常にスピード感のある第1巻です。

もうひとつ理由がありました。連載を始める前に、『窯変 源氏物語』の連載が終わらないと、とても手がつけられないというので、「窯変」が終わってから、こっちの連載に手をつけたそうですが、その頃はまだ『双調 平家物語』の連載は始まっていないんです。だからまだ、『続日本紀(しょくにほんぎ)』を読んでいなかった、と。治さんとしては、「『続日本紀』を読むまで、天平のイメージというものが自分的には摑めなかったので、そこをあんまり詳しくできなかった」ということも後におっしゃっていました。『双調 平家物語』を書くことを通じて、彼が日本の歴史をもう一度遡って調べた時に、「天平というのは、もしかすると、人間の輪郭が一番明確だった時代なのかもしれない」という感想を持って、で、「そのことをキチンと書けたら、もしかすると良かった。それはすごく惜しいことをした」ということをおっしゃっていました。

なので、2巻目ぐらいまでの間は、全体の構成というものがなく、3巻目ぐらいでようやく、何かメニューというか、スケジュールというか、そういうものを作るようになっていったそうです。第2巻のあたりで中世から近世の初めぐらいを扱ってるのですが、橋本さんは「全7巻を通して一番好きな巻は実は2巻かな」とおっしゃっていました。

●橋本さんが持っていた「美術を見るための前提」

そして、今日取り上げるのは、第3巻が中心です。『ひらがな日本美術史』3巻。めちゃめちゃ付箋が貼ってあります(笑)。帯のコピーは、歴代の編集者が考えているそうですが、私はこの3巻のコピーが非常に気に入っています。「お金と芸の使い道は、安土桃山に聞け。“元祖バブル”の安土桃山時代は、枯淡あり絢爛あり、妙なものあり。ジャズの聴こえる水墨画を残した天才もいた。彼らには、失われたセンスと矜持があった」。この3巻が扱うのは、桃山時代以降です。その代表的な、割とどなたでもなんとなく見たことがある《松林図屛風》を取り上げた回、「その五十、ジャズが聞こえるもの」、ここをしっかり読んでいきたいと思います。

もう少し橋本治さんが、なぜ、こういうものを書いたのか、書けたのか、というお話をしたいと思うんですけれども、何度も言うとおり、面白いのは一人で通史を書いていること。平家物語にしても源氏物語にしても同じですが、彼が「全体を見渡したい」という、「俯瞰への欲望」を持っていることは、みなさんもここまでの講師の方々のお話を聞いてきておわかりになっているのではないかと思います。「源氏」全部をやる。「平家」全部をやる。そのために『続日本紀』を全部読もうとか、歴代の天皇の女系の系図を全部書いてみようとか、そういうことをされる方ですよね。そして、全部がわかってないと、全部が見渡せていないと、何か見落としているんじゃないかと不安になる。日本美術史を書くために、歴史を全部わかっているとか、『平家物語』を全訳している必要は必ずしもないんですけれども、そのことによって治さんの中には、美術を見るための前提ができているんですね。

我々は、展覧会場、あるいは美術館の展示ケースの中に飾られた作品を見て、鑑賞した、日本美術を見た、という経験にするわけですけれども、それ以前の、たとえば平安時代に、あるいは鎌倉時代、室町時代、その作品が作られ、その作品が置かれていた環境がどういうものだったか。それを見ていた人々は、どういう立場の人で、誰が作品を作るように発注して、誰がその命令を聞いて作品を作ったのか。我々がいまそうであるような、公衆が鑑賞する状況はない。ある一人のために、あるいは、家のために作品が作られている。

近代的な意味での美術というのは、アーティストが至上です。アーティストが作りたいと考えるから。作りたいと望むから。何か天啓を得たから。あるいは、これまでの美術の様式を乗り越えるために、こういう作品が必要だと思うから、こういうやり方ができると思うから、描きました、作りました、ということになるわけですが、近代以前には、発注者なしには作品は存在し得ないわけです。クライアントがいなくちゃ生まれない。西洋美術の絵画に関してなら、描きたいから描くんじゃなくて、注文があってお金を貰えるから描く。発注者がいて、それを受ける職人がいた。ルネサンス時代あたりから少し違う状況が生まれてくるわけですが、それ以前、いまだ「芸術家」がいない時代の、今、我々が美術と呼んでいるものの在り方を、当然彼は知っているわけです。だから、とんちんかんなことを言わない。

近代的な美術の見方しか知らないとか、それが当然だと思っている人が、古典の美術を語る時、どうしてもとんちんかんな感じで「鑑賞」みたいなことを言ってしまいます。たとえば、彼らは「屛風をこう見た」という言い方をした時に、「いやいや、屛風とか、別にジロジロ見るもんじゃなくて、それはインテリアっていうか、調度、建具ですから。鑑賞じゃなくて、 ある 丶丶 物なんです」っていうのが、古典の世界を知っている人の美術の捉え方です。まず、その前提がまったく違うんですね。

それ以外にも、たとえば『源氏物語』をあれだけ読んでいる治さんであれば、その時代の室内空間がどういうものだったかもわかっている。そこにどんな風に絵が配置されていたのか、存在していたのか。飾られていたわけじゃなくて、どう あった 丶丶丶 のか。あるいは、絵巻物はどんな風に当時の人々が見て楽しんでいたのかっていうことを、彼は、美術史としてではなくて、『源氏物語』から知ってるわけです。そういう前提になる知識が膨大にあった人が美術作品を見る。彼は当然、美術史の分野での研究も少なからず読んでいます。「読んでない」って本人は言ってましたけど、読んでます(笑)。「明らかに知ってるな、これは」っていうのが、私も今になればわかるんですけれども、あたかも、彼自身の目がそれを見つけたように、その結論が出てくるための理論というものを、ニョロニョロと書いている。すごく体験的に書いていくわけですね。感覚的に、その空間に自分がいて、「そこに座って、こう見て、こうなったら、こうなるだろう?」っていう形で解き明かしている。それは、研究者が、別の論証の仕方をする研究書、あるいは論文とは全然違った書き方ですが、この結論に持ってくる、この論文をきっと彼は読んでたよね、ってことを、我々はなんとなく察するわけです。まぁ、治さんも、「いや~、そんな読んでないっすよ!」みたいな言い方をするだけで、「いや、僕は何も参考にしていません」ってわけではないんです。「それを書くために必要なものは、既に自分の家の中の本棚に全部ありました」という言い方もしておられたので、当然、そういうものは読んでいますし、あるいは、アカデミックな訓練に近いものを、実は受けておられるんですね。

●文学部美術史学科の研究生時代

その話をちょっとしておこうと思うんですが、橋本治さんが亡くなられた時に、国立西洋美術館の館長である馬渕明子さんが、『芸術新潮』に文章を寄せていて、そこでも語られていますし、私も治さんが亡くなられる前のインタビューでも聞いていた、知ってる人は知っている話です。橋本治さんは1967年に東大に入学しています。68年の11月が「とめてくれるなおっかさん」の学園祭ポスター。そして、71年の3月に国文学科を卒業している。大学院に行こうと彼は思っていて、その前の1、2年を、研究生として、同じ文学部の美術史学科に行きます。その時に美術史学科にいたのが、山根有三さんという美術史界の超大御所でした。馬渕さんもその時のことを書いているのですが、「美術史学科の研究生として日本美術史の山根有三先生の授業に、ほとんど一対一で出ていたことは聞いた。山根先生は彼のことをたいへん気に入っていて、大学院に入れたかったとよく話されていたが、いくら美術史が人文系の大学院のなかで競争率が低くマイナーな研究科だったとはいえ」、ひどいですね(笑)、「彼が思っていたほどには自由に勉強させてくれたかどうか、わからない」とあります。

治さんがその時の話をどういう風にしているかというと、その研究科に入った時は、まだ大学紛争華やかなりし時代で、多くの学生が学校から出払ってしまっていて、授業を受けに来る学生が非常に少なかった。結果的に、その時期の美術史学科の学生は、治さん一人。じゃあ、そこでどういう授業をしたかっていうことなんですが……。もともと彼が4年学んだ国文学科の大学院を受けて落ち、美術史の大学院を受けて落ち、「ちょっといてもいいですか?」ということで、美術史学科の研究生になった。つまり、居候をやったわけですね。

そこで山根先生が……橋本治さんの口調で言いましょう。「俺、美術史の子じゃないから、向こうも困ったんですよ。この一人しかいない人間をどう相手にしたらいいんだろうって。向こうは生徒が一人しか来ないのをあらかじめ知っていて、ちょっと我慢すれば、ちゃんとした生徒も来るからっていうのがあって、1回目なんかは桃山の障壁画ですよ。それの図版を3つ並べてさ、『この中にひとつだけニセモノがあるんですけど、それはどれだと思います?』ってさ。『これですか?』とかやっていってさ、そうすると、今度は5つの中に3つって、なんか高級な知能テストみたいなことになっててさ、『これとこれだと思います』とかつって。『あなたは目が確かですね』って言われてさ、よく考えたら、俺、それ、先生に褒められた、たぶん最初ぐらいだと思う。最初にして最後ぐらいだと思う。俺、先生に褒められるのって、ほとんどない子だったんですよ」。

そうやって初めて褒められて……っていうのが本当かどうかわかりませんが、彼にとってはやはり大きな経験だったんですね。で、「まともに、『あなたの目は確かですね』って言われ方したの初めてだから、『えっ?』とか思って。だから、山根先生に対しては、おとなしい良い子をしてた。ただ、見てくれはあまり尋常じゃないから、友達で日本美術史にいた人に、『山根先生は変なものが好きよね』って言われてて」……ということで、結局、英語がネックになって大学院の進学は諦めたようなんですけれども。「その時に、なんかちょぼっとしたレポートみたいなのをやって、山根先生は、『あれはおもしろいから、何か続けなさい』みたいに言われて。『まだ研究室に取ってある』とか言われたのがあったけど、『いやぁ、あれはちょっと』って言ってるのが1個あるんですけどね。それは何かは言わないけど」。「えっ? 知りたいなぁ」って私が聞いたところ、「日本的な黄金分割みたいなもの」なんだそうですね。「楢崎宗重という、山根先生よりさらに世代が少し前の美術史家がそういうことをやってたんですけれども、たとえば北斎の絵を見た時に、『あれは7対3の美だから』とか言ってたからね。本当にそうかいな? と思って測り始めたの。そうすると、7対3じゃなくて、8対2くらいなんですよね。でも、もしかしたら、黄金分割みたいに複雑なところで、『これとこれが7と3で、これとこれが7と3だから、8対2に近いように見える』みたいなのってアリかな~とかってやり始めると、意外とそれもあるかもしれないって風になってきちゃうんだけど。だから、唐招提寺の図面みたいの見てさ、庇……屋根の幅が10に対して、堂は3だとか、屋根の下の部分とてっぺんの部分の比率が7対3だとかって、そういう計算、けっこうしてたのよ。『そういうのおもしろいから、もうちょっとやんなさい』みたいなことは、まぁ、言われはしたんだけど、当人は若い時はそういうことやりたがるからなぁっていうのはその当時から半分思ってたところもあるのね。ちょっと若干、頭をかきますね」。みたいなことで、結局、それを研究者として続けることはせず、そのままイラストレーションの道へ入っていかれたわけです。

おもしろいのは、彼が山根さんのところにいたのは、71年の4月くらいからですが、68年から「奇想の系譜」の連載をやっておられて、東大の助手でいた辻惟雄さんが、ちょうど71年の3月に、橋本治とすれ違うように、東北大学に転出しているんです。治さん、「奇想の系譜」は読んでいたそうです。「そこに辻先生がいたらおもしろかっただろうなということは、ちょっと考えた」と言ってましたね。だから、もし辻さんが東大の助手のまま美術史学科にいて、橋本治が入って、二人の間に何か接触があった時に、何かおもしろいことが起こってたのかな? そうでないのかな? ということは、IF、もしあったらという世界として、とても興味深いです。

そういうことは残念ながらなく、それぞれの道は分かれて、現在に至るというわけです。そういうアカデミックな訓練のようなものが一応はあった。それが『ひらがな日本美術史』に反映されていると思う一番の理由は、『ひらがな日本美術史』第4巻です。

4巻は、近世から桃山時代が終わり、江戸時代が始まろうというあたりから。素性の知れぬもの、笑うものとして、俵屋宗達が取り上げられています。その冒頭を読みましょう。「『ひらがな日本美術史』第四巻のトップバッターは、《風神雷神図屛風》の画家・俵屋宗達である。私は俵屋宗達を天才だと思うし、日本で最高の画家だとも思う。なぜかと言えば、日本美術というものが、俵屋宗達を最高の画家とするような形で存在していると思うからなのだが、そういう方面の話は次章に譲って、ここはまず俵屋宗達自身に関する話である」。ということで、宗達という人について語られていくんですが、「日本美術というものが、俵屋宗達を最高の画家とするような形で存在している」。この結論は、おそらく山根有三仕込みでしょう。山根先生の研究は、宗達、そして、その少し前の長谷川等伯、この辺りになるんですけれども、『宗達研究』っていう本が2冊、上下巻で出ています。分厚い本です。その辺が、本当に「山根イズム」と思うわけなんですが(笑)、それも治さんは「いや、それは僕が考えたことだから」とおっしゃりそうな気がしてしまいます。

宗達については今日触れる時間があるかどうかわかりませんが、橋本治の見た「宗達を最高の画家とするようなあり方で存在している日本美術」というものの中で、彼がもうひとつ、巨大な頂点と認識していた長谷川等伯について、今日はお話ししていきたいと思います。

●松林図屛風を折ってみる

お手元にお配りした物がたくさんあります。読んだり書いたりというのはまた別にして、まずはこっちにしましょう。《松林図屛風》をカラーコピーして、切り抜くところまでやっていただきました。スタッフのみなさんありがとうございます。この《松林図屛風》を、美術館かどこかで、実物を見たことがある方? わりといらっしゃいますね。実物は見たことがないけど、この絵そのものは何かで見たことはある? はい、ありがとうございます。だいたいそんな感じで、なんかボンヤリした松の絵は見たことがあるという感じだと思いますが、これが「日本美術で一番好きな作品は?」みたいなアンケートをとると、だいたい1位か2位に入ってくる《松林図屛風》という作品です。

切っていただいた通り、縁も含めて、紙の部分があって、そこを回る きれ があって、縁には漆塗りの竿がはまっているという屛風の、実際のまるごとの姿がプリントされています。屛風は 右隻 うせき 左隻 させき に分かれます。右と左をどう見分けるんだという話ですけれども、これは簡単です。どっちかひとつに、白い山があります。うっすらと雪山があります。この雪山が真ん中に来るように置いてください。これが正しいポジション。要するに、屛風を置いた時に、遠近法的に奥に風景が続いていくように見える、ということなんです。要するに、この絵に描かれたものの中で、一番遠くにあるのが雪山です。

多くの美術関係の図版ですと、屛風は平面的な形状で印刷されています。そうするしかないんですが、屛風を置く時は当然、折りたたまれて、床の上に置けるようになってますので、折りましょう。どっちが山で、どっちが谷かということは、気にしないでオッケーです。

屛風というのは、もともと……、一応、日本にあったというか、中国にも当然ありました。多くのものは中国にあって、それを日本人が真似、改造してしまうというパターンですね。正倉院時代ぐらいの屛風だと、今、外枠にだけ回っている縁が、全部の画面に回っていたんですね。要するに、細長い短冊状の絵を全て縁で囲い、額縁がある状態にして、それを蝶つがいで繫ぎ合わせていくような形です。そうすると、パネル1枚1枚の絵は独立したもので、大画面作品じゃない。たとえば、6つとか8つのパネルが繫がっているだけ。絵の間には当然関連性はあるのですが、ひとつの大画面ではないということです。分割された6つ、ないし8つの絵が繫がっているだけ。だから、正倉院の《鳥毛立女屛風》も、複数人の美人がそれぞれ立っているだけで、美人はみんなソロです。ピンで立っている。だから、48人が大画面の中に揃っていて、センターは誰かっていう話ではなく(笑)、一人一人ソロのアーティストが立っているような屛風になるわけです。

それがある時期、平安時代の末ぐらいに、まわり縁が取れて直接繫がれる。蝶つがいが後ろについて、8枚、ないし6枚の絵が繫がった横長のワイド画面、ひとつの大画面ができる。それは、かなり大きい変化でした。このパネル1枚1枚を、「一 せん 」と呼びます。それが6枚が繫がると、六 きょく ですね。それがペアになったものが、屛風のワンセットということで、六曲一双、と呼びます。ものによっては八曲、二曲という場合もあります。画面の比率として9対16が好きなのか、正方形みたいな1対1が描きやすいのか。その辺は画家によって得意・不得意もありますし、当然、調度として求められているサイズもある。六曲一双が一番一般的ではありますが、それより大きいサイズ、小さいサイズもあります。狭い場所にちょっと置いておきたいから二曲一隻でいい、みたいなケースも当然あるわけです。

俵屋宗達が得意としたのは、二曲屛風です。《風神雷神図屛風》を思い出していただいてもわかると思いますが、二曲です。2枚のパネルが繫ぎ合わされている。「六曲一双のワイド画面になると、宗達はあんまりうまくないんだよなぁ。間がもたないんだよなぁ」みたいな言い方もできますが(笑)、今日はそれが主題ではないので、やめておきましょう。

みなさん折っていただけたでしょうか? 美術館だと右隻左隻を一直線に置きますが、自宅の調度として使う場合は、どう置こうがその人の勝手です。その時の用途に合わせて、いくらでも変えることができる。たとえば、こうして置いた時に、最奥に雪山がある。そして、松林があたかも空間の奥へ続いていくような雰囲気に見えている。こういうものとして屛風が、まず、物として存在しているんだという前提で、これからの話をしていきたいと思います。これ、ペタンと平面上に印刷された図版で見ていても、こういう感覚は、恐らく得られません。そのことがどれくらい重要かということを、橋本治は、テキストによってなんとか伝えようとしている。それを全て引用するわけにはいきませんので、今日はコピーの屛風を使いながら、話をしていきたいと思います。キリがいいので、ここで一回休憩にします。
(休憩)

●日本の室内空間を理解する

後半を始めさせていただきます。いよいよ、第3巻の「ジャズが聞こえるもの」、ここで《松林図屛風》についてのお話をしていこうと思います。この3巻には、実は「ジャズが聞こえるもの」の後に、「空間を作るものの変遷」という章があります。日本の室内空間がどういう変遷を辿ってきたのかを書かないと、たぶんここまで話してきた、そして、その後に続く長谷川等伯も含めた桃山時代の障壁画のおもしろさや意味が伝わらないと思って入れたのかなと、勝手に思っているのですが、これは非常に重要な問題です。「空間を作るものの変遷ジャズが聴こえるもの」は、二条城の二の丸の襖絵を取り上げていますが、これは、何かとりあえずここで見せる障壁画が必要だろうということで入れていると思うんです。言ってみれば、《松林図屛風》に行く前の、前提条件のひとつなので、先にその話をしておこうと思います。本の中では後ろに入れてありますけれども、重要な前提の話なので、先に。

私、普段のレクチャーでは、たとえば2時間だったら150枚ぐらいスライドを作って(笑)、1分1枚以上見せながら、すごい勢いで喋っていくんですが、今回は橋本治調になるべくニョロニョロ話そうと思っています(笑)。なので、バンバン画像を見せながら、という方式ではない、ちょっと自分の手を後ろで縛りながら喋るような感じでやっています。

このあたりは『窯変 源氏物語』を書いてこられた治さんの、面目躍如という章です。だから、橋本治自身が「大好きだ」と言った中世の巻、第2巻を買うのもいいし、この第3巻を買うのもいいんですが、第3巻を買ったら、ぜひ「空間を作るものの変遷」の章も読んでいただきたい。『源氏物語』の舞台になった、寝殿造の空間から話が始まります。寝殿造は巨大な吹き放ちの広間で、そこが細かく、今のように「部屋」に区切られているわけではない。基本的には、ガラーンとした体育館のような広い空間に、几帳を立てるとか、御簾を下げるといったことをして、その時々で必要な機能を備えた空間を仕切って使う建物です。

主の寝室だけは 塗籠 ぬりごめ と呼ばれる、塗り回した壁のような、穴倉のような場所を作るとか、あるいは、高位の貴族たちのプライベートな空間ということならば、障子を立て切る。現在、我々は、襖障子と言った場合に、それは建具として、可動するのが当然と考えていますが、この時代の障子は、はめ込んだら終わりです。そのまま壁的な存在として動かない。別に出入りをするために開けてある場所、そこはたとえば几帳で仕切ってもいい。このようにはめこんだ障子に、絵が描かれることもありました。あるいは、屛風が置かれることもあったでしょう。屛風もパタパタパタッと畳んで、必要な時だけ仕切る。必要がない時は畳んでしまえばいい。そういう物はあった。ですから、可動する建具は、几帳や屛風。それ以外に、はめ込みの障子が存在していた。それが寝殿造です。

●書院造がもたらしたもの

そこから禅宗の移入に伴って、新しい建築の様式が入ってきます。それが書院造です。武家の邸宅としての書院造なんですけれど、一番の特徴は壁があること。「壁なんかあるだろう」と思われるかもしれませんが、寝殿造の場合は、本当に外周しかないですからね。そこに室内空間を区切る壁があって、可動の建具がはまる。そういうことがやっとできるようになるのは、書院造以降です。しかも書院造の中には、床の間という展示空間ができる。今、和室のあるお家に住んでない方も多いと思いますが、たとえば旅館に泊まった時、床の間に足を踏み入れることはちょっとためらうじゃないですか。掛け軸の掛け替えとか、そういう時はまた別ですが、床の間に足は踏み入れない。そういう場所じゃないよな、っていう感覚は持っている。床の間に掛けたら、それはもう鑑賞ですよね。鑑賞だし、その下に香炉を置いたら、あるいは花を生けたら、同様に鑑賞すべき対象になってしまう。これは、他の文脈から切り離して作品だけを存在させる、近代における美術館のホワイトキューブの空間以前に存在していた、鑑賞のための空間、あるいは、装置ということもできるかもしれない。不動の壁が背景にあって、そこに掛けるべき、置くべき、独立した作品がある、そういう鑑賞の装置と鑑賞作品というものが、それぞれ生まれていくわけです。

今の我々も知っている和室は、間仕切りとしての壁の他に、出入りするための襖があり、そこに、場合によっては絵が描いてあったりします。そしてその部屋の床には、畳が敷き詰められている。これも当たり前の風景ですが、寝殿造の場合は「置き畳」です。人の居所だけ、2畳分くらいの畳を置いておく。そうではなく、床全体に畳を敷き詰め、部屋と部屋の間は壁で仕切られていて、そこに可動式の建具がはめ込まれ、そこに床の間があって……という、我々がいま知るような「和室」が生まれるのは、書院造が中国から輸入され、多少アレンジされながら中世から近世にかけて発達していく、その過程でのことなのです。

足利義政による慈照寺の東求堂は、書斎のような、四畳半の小間。これは今の茶室の一番基本的な単位でもあります。四畳半を含む四畳半より大きい茶室を「広間」の茶室と言い、四畳半を含む四畳半より狭い茶室を「小間」の茶室と言いますが、四畳半は広間にも小間にも使える、一番ベーシックな形。そうして畳を敷き詰め、可動の襖障子がはまり、床の間がある空間が、一番基本的な空間の単位として、室町時代に完成する。それが我々の知る、生け花をやったりお茶をやったりという芸道とも結びつく。そこで鑑賞される作品があり、さらに襖にも絵が描かれる、あるいは、壁貼付の絵もある。そういった描かれた絵によって囲まれた空間がある。襖絵や壁貼付の絵は、床の間の掛けもののように鑑賞するのではなく、部屋という環境が美しくあるために、言ってみれば、装飾として描かれている、やっぱりインテリアなんですね。そういう室内空間が、室町時代になってようやく成立しました。というところを前提として、「ジャズが聞こえるもの」を読んでいきたいと思います。

●なぜ石器は左右対称で滑らかなのか?

まず、テキストが書かれた資料が2種類あります。橋本治ではない方をまずご覧ください。これは2020年に出た末永幸歩著『「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考』(ダイヤモンド社)です。

さて、日本の小学校なら図工、その先に美術と、学校教育の中に美術に関わる科目は当然ありますね。そこで教えられたことを思い出していただければわかると思うんです。まず自分で手を動かして作ること。他に何かあったか覚えてますか? 覚えてないですよね。何が教科書に載っていたか、なんとなく覚えてますかね? 恐らく思い浮かぶ絵などがあると思いますが、それは歴史の教科書の、文化史のページに載っていたものだと思います(笑)。美術や図工の教科書で見たのではない。それぐらい私たちは、図工、美術の中で、鑑賞や批評――作品を見て何を感じるか、作品をどう見るか。そして、その作品がどんな背景から生み出されてきたのか、という話をしていない。

これは非常に重要なところなのでちょっと寄り道をしながら話しますが、英語で「アート」と言っているものの語源は、ラテン語の「アルス」、技です。手の技によって生み出されたもの。それは必ずしも鑑賞の対象ではありません。「道具」だって手の技で作りだされたものですから。考えてみれば、人間が初めて作りだした、あるいは、もっと別のものもあったかもしれませんが、残っているものとして一番古いのは、やはり石器です。石器時代というぐらいで。骨や動物の角を使った骨角器、あるいは、木を使った道具もあったと思いますが、なかなかそういう物は残りにくく、残ったものは石器、ということになるわけですが、その石器は道具ですよね。その時代の人間たちが生きていくためにどうしても作らなければならない、生き延びるために本当に必要な道具だった。その道具であるはずの石器が、しかもホモサピエンスの出現以前まで遡る話として、世界中のどこでも見られる特徴をふたつ持っている。そのひとつが、左右対称性。もうひとつが、表面の平滑性です。ツルッとしていて、形状が左右対称になっている。でも物を切るとか、動物を突いて倒すとか、皮を剝くとか、毛を刈るとか、そういうことをするために必要な道具にとって一番重要なことは、左右対称性でも平滑性でもないですよね。

そのような、機能には不必要な「凝り」に、時間と手間が投じられている。生きていくために動物をとり、それを加工して、あるいは食べるものだけではなくて身に纏うものを作る。命をつないでいくために必要とされる作業に、最大のリソースを投じなきゃいけない人々が、なんでそんな表面の平滑性だとか左右対称性にこだわるのか。しかも両刃なんです。どうしても片刃でなきゃならないものについてはもちろん片刃なんですが、本当に綺麗な方錐形をしてたりする。「そんな加工に時間を使ってる暇が、君たちにはあるのか!」と言いたいわけですが、そうせずにはいられないのが人間であり、人間の祖先たちだったわけです。

●道具なのか? アートなのか?

見て感じるための要素に凝っている。それを見て、「いいなぁ!」とうっとりしたんでしょうね。そういう感情を惹起させるオブジェクトは、道具なのか? アートなのか? ということです。人間が手の技から作りだすものは、見て感じるためだけの要素と、機能を満たすための要素が併存し、ある時期から、それが分かれていく。本当に見て感じるためだけのもの――例えば、神像ですね。神様の像みたいなものは、道具というよりも、それを見て、共同体がまとまるためのシンボルになっていたりする。そういう「象徴性のある存在」がどんどん作られていくようになっていきます。ですが、スタート時点では、両者は併存していた。そういうものが、今、我々がアートと呼んでいるものの、そもそもの始まりになるわけです。

さて、長谷川等伯の《松林図屛風》は、まだ「鑑賞のためだけに存在」していないものです。我々は、今、これを美術館に行って、ガラスケースの中に飾ってある状態で鑑賞しますが、これが作られた時代は、そういう風に見る対象は、せいぜい床の間に飾ってあるものだけで、屛風は調度です。調度なんだけど、身の回りに置くものならセンスが良く美しい方がいい。こういうものを発注できる資金と教養を備えたクライアントたちは、当然そう思うわけです。というところから、我々はスタートしなければなりません。さぁ、そこで、『「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考』を読みましょう。
会場 (笑)
橋本 なんで笑うんですか(笑)? サラサラサラッと見ていただければいいです。画像は引用していませんが、比較対象として、ルネサンス期後期のイタリアのロランが描いた風景画が引用されています。

どちらかといえば写実的な、「ロランの作品には、ローマ郊外にいまも実在する景色が描かれています。この場所にはどんな種類の木々や草が生えているのか、遠くにはなにがあるのか、太陽はどの位置にあり何時ごろなのか、どんな天気なのか、どんな地形なのか……見事に描かれたこの風景画からは、その気になればさまざまな情報を正確に読み取ることができます。他方、《松林図屛風》はというと、どうでしょう?」。まぁ、それはわかんないんですけど、それはそれでいいんですね。「しかしなぜ《松林図屛風》は、このように空白ばかりで、情報量が少ないのでしょう? 西洋に比べて、日本の絵画が遅れていたからでしょうか? いえ、そんなことはないはずです。ロランが描いたルネサンス期の風景画は、『朝顔が咲き誇る完成された庭』に似ています」。

ここは、前段で千利休の「朝顔の茶事」に関するエピソードが引用されていることからの記述です。聞いたことある方もいらっしゃると思いますが、千利休が秀吉を朝の茶会に招いた。彼の庭には朝顔が綺麗に咲いていると秀吉も耳にしていて、それを楽しみに行ったんだけれど、露地に入っても楽しみにしていた朝顔が1輪もない。「なんだよ! ないじゃん」と落胆して茶室に入る。事前に利休が露地に咲いていた全ての朝顔を切ってしまったんだと。だから茶室に入る以前は何もない。ところが、茶室の中には、1輪だけ朝顔の花が生けられていたという。「千利休のセンスの良い趣向に痺れた」という有名なエピソードですが、実話ではありません。千利休がああしたこうしたとかいう話はたくさんあるのですが、多くの場合、利休在世のときから100年以上経ち、その頃に流通していた「利休ちょっといい話」を集めて作られた本、『南方録』の中に登場するエピソードです。『南方録』自身が複雑にダメな背景を持ってる本なので(笑)、そういうことをわかった上で読まないと、足をすくわれる、取り扱いの難しい資料。いずれにしても巷間流布しているのは、だいたい後付けの利休伝説です。なので、同時代の史料として信頼に至るのは、利休の弟子であった 山上宗二 やまのうえそうじ による『山上宗二記』くらい。でもそういう利休伝説はみんな大好きなので、人口に膾炙するわけです。

せめて「それは伝説であって実話じゃない」くらい前提として書いておいてほしいのですが(笑)、ともあれ、ロランが描いたルネサンス期の風景画は、「秀吉が楽しみに来たら、朝顔が全部咲き誇っていました」みたいな作品だ、と。手の内をすべて見せる「丸出しの庭」に似ていると。そうではなく、「《松林図屛風》は、朝顔を摘み取ってしまったあとの『空白の庭』に似ています。実際にこの絵が飾られているところを想像してみましょう」。

アウト1! 1アウトですね。「飾られて?」みたいな感じになるわけですよ。「これは調度として置かれたものだろう」と。ともあれ、「《松林図屛風》は、2隻が対になった屛風です」。サイズがこれこれということで、「屛風を立てる際には蛇腹状に少し折り曲げるので、実際にはもう少し短くなります」。で、「当時は、テーブルや椅子は一般的ではありませんから、鑑賞者は……」、鑑賞者? 2アウトな感じですね。「屛風が立っているのと同じ畳に直接腰を下ろして、この絵を眺めることになります。下から見上げるような格好になりますから、屛風はさらに大きく感じられることでしょう。すると、まるで自分がこの風景の中に入ったかのような感覚に襲われます」云々。ということで……「これは『私の鑑賞』でしかありません」。要するに、空白が大部分であって、そこに明示的な情報がないからこそ、鑑賞者による十人十色の想像を可能にするのです、と。で、「作品とのやりとり」、作品と鑑賞者との呼応ですね。「が成立するうえでは、その作品がどれほどの『情報量』を持っているかは関係ありません。むしろ、《松林図屛風》のように『作品とのやりとり』を許す『空白』が残されているほうが、作者と鑑賞者がともにつくり上げる作品になりやすいように思うのです」。「ほほう」です(笑)。

決して悪くはない。結論としては。確かに、空白に自分の想像力を投影してということは当然あるんですが、しかし、知識だけがあればとももちろん思わないけれども、知識ゼロでただ見ればよいのだとも、橋本治は言わないわけです。それでは、この屛風の良さを本当に引き出したことにならないのではないか。我々が、今の現代人の目線で、かつてこれが作られた時代のことを何も知らずに、子どものような眼差しで屛風を見たら、その屛風の良さを我々は十全に汲み取れるのか。そんなはずはないですよね。橋本治はそうは言わないでしょう。ということで、こちらに橋本治による「ジャズが聞こえるもの」の抜粋を用意しました。

●橋本治はどう書いたか

「この右隻全体を見れば分かるが、」、みなさん、できればお手元の屛風を見ながら、このテキストを読んでいただくと良いかもしれません。「この屛風絵の描かれ方、この屛風絵を描く画家の興味の中心は、『霧や靄や霞といった重い空気の中で変形した松のフォルム』なのである」。さぁ、この《松林図屛風》、まさにぼんやりとした靄、ないし、霞、ないし、霧の立ち込めた松林の中に、松が遠く近く浮かんでいるような風景です。ザックリ見れば、どっちもそんな感じですね。左右、実は違いがあるんですが、それはこれから橋本治さんが解説してくれることでしょう。

「重い空気」と書いていますが、空気が重い・軽いとは、基本的には湿度の問題です。どれだけここに湿度があるのか。それは、水墨画、やまとことばで言えば墨絵、もともとは中国からもたらされた水墨画が、日本人にいろんな形で消化されていきます。鎌倉時代頃に水墨画が入ってきます。それ以前、日本人は「やまと絵」と呼ばれる、極彩色の着色画を中心に描いてるわけです。もちろんそれ以前から、墨によって線を描くという行為は行っていますが、それは下描きです。白い紙に墨だけで描かれたものが主役を張ることはない。

ところが、中国の唐時代に「絵画の変」と呼ばれる、着色画からモノクロームの水墨画への大転換が起こるんですね。中国でも、当然、着色画は描いていました。それが日本へもたらされ、やまと絵とその後に通称されるような、山や川の風景をカラーで描く絵が成立します。そしてその後に水墨画が入ってくることで、「モノクロームが中国の絵だ。着色画の技法は遥か昔に中国から日本へ入ってきたが、描いているのは日本の風景だし、日本のものになって長いから、やまと絵ということにしよう」となった。「『やまと』絵って言いながら、出自は中国じゃん」みたいな話はいつものことなんですが、より新しく中国からやってきた漢画/水墨画に対して、着色画はやまと絵と呼ばれるようになっていく。明治時代に西洋から油絵が入ってきた時に、新しい方を洋画と呼び、それ以前のものを日本画と呼ぶようになったことと、まったく同じですね。日本画なんて言葉は当然なかったわけですけれども、外国から新しいものが入ってきてそれに名をつけなければいけない。その名をつけられた新しいものに対して、古いものに、それと対応するような新しい名前をつけなければいけない。これは日本で常に起こっていて、洋画と日本画の区別も、そういうところから起こっている。

同じように、もともと中国からやってきたものだった着色画。そして新しい、色を複数使わなくても、モノクロームで世界のすべてを描き表せてしまうという、中国で起こった絵画の変によって確立された水墨画という新しい技法、絵画についての世界観を受け入れた日本は、そちらを「漢絵」と呼び――中国の絵ですね――日本でも描くようになっていくわけです。

その時に、これは他の場面でも常に同じなんですが、水墨画が輸入された当初の日本人が描くのは、道釈画と呼ばれる仏教、道教関係の絵画にしろ、山水画にしろ、描かれているモチーフはすべて中国から借りたものです。美しい風景なら日本にもあるじゃないかと思うのですが、水墨で描かれる風景は、中国のそれでないと意味がない。描かれるに値する風景は中国にしかない。名所は、中国の漢詩文とか、文芸的に重要な場所であるとか、そういうものが中国からの教養とセットになって入ってくる。その中国的な名所でないと描く意味がないと、当時の日本人たちは思っているし、そういうもので部屋の中を飾りたい、身のまわりを満たしたいと思ってるわけです。

唐が終わり、北宋が起こり、南宋の時代になった頃の絵画。北宋から南宋になったところで、都が開封から臨安、北の寒い乾燥した地域から、温暖な湖の畔へと移ります。ここで描かれる絵画は、それまでの乾ききった中国北方の風景――峨々たる岩山の間を縫うように急流が流れ、あるいは瀑布が轟きというものではない。平坦な土地に、いつも霧、靄が立ち込めている大きな湖があり、そこに流れ込む川があるという、湿潤な地域なんですね。その湿潤さを表現した水墨画が、やっと日本人のテイストにガチッとはまったんです。「俺たちの見ている世界と同じものが、場所は違うけれど描かれている」。この湿った大気の感じ。そこに吹き込む風の感じ。そこに光が射して靄の間をチラチラと移ろっていく感じ。「この感じ、俺たちは好きだ」っていうことにやっとなったんですね。それまでは、本当に、お勉強として、これは学ぶべき教養、知っていなければならない、飾っておかなければいけないものだった水墨画が、やっと自分たちに近づいてきた。

「こういうのが欲しかったんだよ、俺たちは!」というところから始まり、では湿度のある大気、空間を、どうやったら自分たちでも描けるようになるのか。もちろん最初は中国のモチーフを写すことから始まるわけですが、だんだん、そうじゃなくてもいいのかもしれないとなって、《松林図屏風》みたいな絵ができてくる。石川県の小松空港に降りたことのある人はわかると思いますが、小松空港から金沢駅まで行くバスは日本海の海岸沿いを走ります。その海岸の松。日本海からの強風に吹きまくられて、かしいだような松林。長谷川等伯は能登、七尾の出身です。早朝の飛行機で降りると、その松林に靄が立ち込めている。まんま松林図です、本当に。日本の風景が、そこに立ち込める大気が、その大気の中に霞む松林が、高貴な、あるいは権力者のまわりに置かれるものとして、やっと価値を認められ始め、それを描ける技量のある絵師も現れてきた、それがこの時期なのです。そして長谷川等伯は、《松林図》を描いた。ここで屛風と言わなかったことに注意して下さい。

●そもそも屏風として構想されたものだったのか

このコピーの屛風を手に持っていただくと、薄く線が横に入っているのが見えませんか? これ、実は1枚の大きい紙に描いているのではなくて、小さい紙を何枚も継いだところに絵を描いているんです。しかも紙継ぎがズレている。右隻の屛風の2扇はひとつのユニットですが、その隣の4扇がまた別のユニットですよね。明らかにそういう形で継がれている。反対側もそうです。ちょうど半分半分ですね。紙継ぎが横に流れている。紙継ぎを見ていただけば、右半分と左半分が違うユニットになっていることがわかると思います。

これはどういうことなのか。普通、そんなことはないです。他の屛風を見ていただければわかりますが、屛風丸ごと1面を覆うような巨大な紙は当時存在しませんから、当然紙継ぎはある。紙を継いで大きな画面を作り、そこに絵を描いて屛風に仕立てる、というやり方です。だから当然紙継ぎはあるにしても、ひとつの面の中で、継ぎ目はすべて通ってなきゃいけないわけですね。

ところが《松林図屛風》はそうじゃないのはどういうことなのか。結論から言うと、これはもともと屛風として構想された作品ではない。最初から屛風として構想されたのだったら、そういう風に作るはずです。そうではない何か別の絵として、そうではない何か別の形態の絵としてこれが描かれた。場合によっては、その前段階の下絵だったかもしれません。あと思いつくのは襖絵か、より大きな壁貼り付けの絵として描かれた。それが何らかの理由で、その空間が成立しなかったのか、注文があったけれども取りやめになったのか、わかりませんが、当初の構想が実現されなかった。あるいは、実現した後に残った絵かもしれない。もっと広い場所に貼り込む形で構想されたけれども、そこまでの面積が不要になったから、余った絵を繫ぎ合わせたのかもしれない。今となってはわかりませんが、ともあれ、屛風以外の形で構想され、何らかの理由で、それが実現しなかった。そこで「じゃあ、屛風に仕立て直しましょう」ということになったわけです。

ここまでの作品はなかなかありませんが、そうした事例は珍しいことではありません。日本美術では、作品を改装する、リノベーションするというか、作品の形態を変えたり、トリミングしたり、切り貼り、コピー・アンド・ペーストをしたりすることは、ごく普通に行われています。問題は、誰がやるか。2014年に根津美術館で、「切った貼った展」と通称(笑)される、「名画を切り、名器を継ぐ 美術にみる愛蔵のかたち」展が開催されました。陶磁器であれ、紙であれ、染織であれ、オリジナルの状態から改編された作品は多数ある。もちろん誰もがやっていいことではありません。手を加えるに足ると認められる教養と文化力のあるクライアントが、命じて行うことがままあった。

たとえば、もともと絵巻であった《佐竹本三十六歌仙》を、1歌仙ごとに分断し、37件(36歌仙+巻首の住吉明神)の独立した掛けものにするという事件があったのは大正時代のこと。それら断簡を一堂に集める展覧会が、「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」と題して京都国立博物館で行われたのは、記憶に新しいことと思います。

同じように《松林図》も、おそらくオリジナルがあって、この形に改装された。屛風として成立するためには、オリジナルの形をそのまま踏襲する必要はないというか、むしろしない方が良いわけです。屛風としてうまく成立させるために、恐らく何らかの編集が行われているのです。この2扇のユニット、4扇のユニット、3扇のユニットがふたつ。それらを繫ぎ合わせて、現在の屛風の姿にしている。上下がズレているのは、むしろグラウンドレベルを優先して一致させようとしているから。3扇ずつですが、松の木の根元は一応同じレベルです。右隻、松の根のレベルを合わせようとして、おそらく違うユニットからの絵同士を貼り合わせて、それで紙継ぎがズレてるんですね。どっちを優先するか。紙継ぎがぴったり合う方を優先すれば、ある程度横軸の通った絵になりますが、この屛風に必要なのは、むしろ松のグラウンドレベルを揃えることだ、と、改編者は考えている。ならば紙の継ぎ目がズレることは別に構わない。そして、こうして置いた時に、一番奥、風景としては遠くにある雪山が最遠方に来るような位置に置いている。

治さんは、これを改装したのは、おそらく等伯本人だろうとおっしゃっています。これは何も根拠のある話ではなくて、「俺はそう思う」という話ですね。この時代にそれだけのことができるセンスを持ったクライアント、ないし、ディレクターが仮にいるとしたら、それを経師屋に、っていうとこがまたミソなんです。長谷川等伯本人が絵を切り貼りするわけじゃない。そういう風に指示をして、そのとおり仕上げる専門の職人がいる。経師屋さんですね。

あるいは、このまわり縁は朱塗りなんですが、「この朱はどうなの?」という疑問もあるわけです。桃山時代から付いていた縁ではない。ある程度、現代に近づいた時のある改装時にこういうしつらえにしたわけです。その縁の素材を何にして、色はどうするか。漆で塗るにしても、マットなのか、艶ありなのか。そして、そのまわりに回っている裂を何にするのか。幅はどのぐらいなのか、というところのディレクションが、まさに発注者のセンスの見せどころなわけです。表具を見ただけで、持ち主が誰かわかるということも当然あります。

●表装が現した権力

そういう事例の一番有名な例が、足利将軍家でした。東山、といっても義政に限った話ではないのですが、「東山表装」と呼ばれる、足利将軍家の阿弥衆たちが施した表装があります。これはセンスが良いというよりも、足利家の権威を示す、非常に貴重な舶来の裂を使った表装で、それを施された、つまり足利将軍家のコレクションは、美術作品として、多くのコレクターや表現者たちから目標とされた。これほどのものを作り出さなければいけないと、室町時代以降、つまり桃山時代、それこそ等伯たちの時代に絵師たちが、あるいはそれを持つ宗教的、政治的権力者たちが、あれほどのものを持ちたいと思うひとつの基準・規範になっていたのが、足利将軍家の美術コレクションなわけですけれども、その中の絵画に施された表装が、やはり権威の象徴である東山表装と呼ばれたわけです。

現代でも、表装を見れば、あるいは、表装だけではなく、それを納めている箱を見ればわかるところもある。お金と芸の使い道で、そのクライアントの器量がやっぱりわかっちゃうわけです。そういうところを、おそらく、この『「自分だけの答え」が見つかる13歳からのアート思考』の筆者は、たぶん想像していない。非常に近代的、現代的な鑑賞のルールに従っている。これが、《松林図屛風》、あるいは《松林図》が描かれた時代、作られた時代、発注された時代の鑑賞、見方――という言葉を使うのも本来はおかしいんですが――のあり方というものを、おそらくわかっていない。では、橋本治はそれをどう書いているのか、ということですね。先ほど冒頭のところを見ましたけれども、資料1枚目上段の真ん中辺ですね。

「かすれた筆による幹の根元の表現、地面から山形に突き出している根っこを描く筆の走り方。松の 葉叢 はむら の細かく躍るようなタッチ。近よってこの絵を見ると、その筆遣いのおもしろさに惚れ惚れとしてしまう。だから、この絵を見ている私の耳にはジャズのリズムが聞こえるのだ――クールで都会的な、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの監督達が使いたがった、マイルス・デイヴィスやアート・ブレイキーのジャズである。パリの酒場の壁にこの絵が大きなポスターになって貼られていて、その前でジャンヌ・モローが黒いシンプルなドレスを着てタバコをふかしている――なんて似合うんだろう(この絵の松の形からいけば、この女優はもっとやせたマリー・ラフォレとかスージー・パーカーなんかがいいのかもしれないが)。《松林図屛風》からは、ブルースが聞こえる。幽玄とは、紙巻タバコの煙と一つになる黄昏の暗がりである。そう言っておかしくないだけのモダンさが、この桃山時代の日本の水墨画にはある。《松林図屛風》のおもしろさは、印象派や表現主義の絵の筆遣いのおもしろさとおんなじなのだ」。

ということで、この絵がどう描かれているのかというところの細かい確認が続いていくんですけれども、そこは一旦省きましょう。1枚目の下段の終わりの辺りですね。「この六曲一双の屛風は、“一続きの風景”を作るものではないから、そうしたほうがいいのだ。この《松林図屛風》のよさは、“断絶”のよさなのである」。右隻と左隻は、厳密には繫がってないですよね。1枚の絵がこうして並べたら繫がっていますという風ではない。だからこそ、離して置いても、どんな風に置いても、かえって構図が壊れない、という言い方もできるかもしれませんが、わかりやすい一続きの絵ではないわけです。 「“一続き”になりそうなものが、そうはならずに、“対照の妙”を見せる」。対照の妙というのは、描き方が、それぞれ、右隻と左隻でちょっと違うという話ですね。その前の段でそれが書かれています。「その断絶を断絶と感じさせないところが、“不協和音の音楽”であるところのジャズで、だからこそこの屏風は、おもしろいのである。左隻の描き方が右隻と同じだったら、この一対の屛風絵は、テクニックだけが先走った、とんでもなくキザでいやみったらしいものになるだろう。右隻の描き方が左隻と同じだったら、この屛風絵は、とんでもなく通俗的な“日本的叙情美”にしかならないだろう。そうなったらそうなったでまた“いいもの”にはなるかもしれないが、しかしこの《松林図屛風》は、そうならないのである。二つの独立した作品がそれぞれの空間世界を守り、それが対になることによって、特殊に雰囲気のある空間世界を幻出させている――それが《松林図屛風》なのだ」。

さぁ、ここからです。

「長谷川等伯は、その『松の絵』で囲まれた部屋の中に、“閉ざされた室内空間”であることを忘れさせるような、『ボーッと広がる空間』を設計しようとした――私はそう思う。だから、そこから生まれた《松林図屛風》には、 渺茫 びょうぼう とした“空間の広がり”があるのである。
その画面に囲まれた部屋の中で、我々は一々“絵”を見るだろうか? その絵を見るために、一々部屋のへりを歩き回るのだろうか? 部屋の真ん中に座って、一々その体を回転させて四方を見るのだろうか? 長谷川等伯の『松の絵』は、そんな野暮を笑うだろう。もしもこの《松林図屛風》が襖絵になっていたら、我々はその部屋の中で、ただ“渺茫たる広がり”を 感じる 丶丶丶 のである。それは、“見る”ではない。“聴く”に近い。霧に包まれた松林のどこかから、トランペットが流れて来る。低いドラムの音も聞こえてくる。《松林図屛風》は、その空間を切り取って出来た屛風なのである。ブルージィなジャズが聞こえたって不思議ではない。幽玄とは、おそらく、ヌーヴェル・ヴァーグの出現を待っているようなものなのである」

「襖絵になっていたら」というのは、本来そうであっただろう、ということですね。「我々はその部屋の中で(中略)待っているようなものなのである」。そうです。見るんじゃないんです。ボーッと広がりを感じる程度のものなんです。その贅沢が許されているのが桃山の権力者であり、それに応えるだけの力量を持った長谷川等伯や狩野永徳といった絵師たちなのです。

そのことを橋本治はまず書いて、その後で、「あっ、そうだ。そのことを書くためには」というか、「書いてしまったからには、この時代の空間というものが、どういう姿かたちをしていたのか、どうして、そういう空間になったのかをきちんと書かないと」となる。“渺漠と広がる空間”という室内空間、そこ自体は閉ざされた、20畳か30畳かわかりませんが、いずれにしても限りのある室内空間であったはずです。そこに渺漠と広がる空間を出現させる水墨画が描かれた。しかもそれは、中国の見たこともない山水画、想像の中の風景ではなくて、日本に現に存在している松林の風景である。ただし写実ではない。よく似ているけれども、そのブラッシュワークを見れば、当然、松っぽく見えちゃってますけど、松じゃない。松が実際にそう見えるわけではない――けれども、そういう感じになっている。その辺は、非常に表現主義的だという話ですね。そういう、あたかもジャズが聞こえるような空間を包み込む風景を、まず等伯は、襖、あるいは壁貼り付けの絵として構想し、それが何らかの形で実現せず、じゃあ、ということで、この屛風仕立てにしてしまった。

●わかって見れば、聴くように鑑賞できるかもしれない

我々は今、それを桃山水墨の到達点として見ているわけですが、等伯自身はそういうものを描こうとして描いたわけではない。また我々は、それを美術館でかしこまって「鑑賞」してしまいますが、本来置かれていた場所、あるいは、それが作られてきた歴史的な文脈みたいなものを、橋本治のようにわかっていて見るのであれば、我々ももしかすると、「聴く」ように鑑賞できるかもしれない。そういうことを7巻にわたって延々と描いているのが、この『ひらがな日本美術史』というわけなんですね。

京都に智積院というお寺がありますが、そこに長谷川等伯、その息子久蔵が描いた、カラーの《楓図襖》《桜図襖》という、大きな襖絵があります。金碧障壁画です。金箔貼りの地の上に、極彩色で秋の楓、春の桜、それも八重桜が描かれている。そして《松林図屛風》がそうであったように、この《楓図襖》《桜図襖》も、当初はもっと大きな作品でした。

「我々は、今やその『空間の広がり』を見ることが出来ない。我々は、今に遺された『美しい絵の断片』だけを見て、それが十分に美しいものだから、その美しい絵の断片が、かつて『広大なる美の空間を作り出していたものの一部』だということを忘れてしまう。その絵の前に立つ我々は、それをうっかりと鑑賞してしまい」、うっかりですよ、鑑賞は(笑)。「かつては『人を取り巻く空間の一部』だったということを忘れてしまう」。今お話しした《楓図襖》《桜図襖》のことをもう一度思い出してほしいんですが、金碧障壁画だと言いました。金碧というのは、金にヘキは緑ですね。緑の絵の具だけを使っているわけではなく、そこには赤もあれば白もあるのですが、その碧とは濃い緑や青のことで、「金箔を貼った画面に描かれる絵で最も特徴的な色は、緑や青だった。だから、『 金碧 丶丶 』になるのである。それではどうして、『最も特徴的な色』が『緑や青』になるのか。『緑』は木や山の色、『青』は水の色である。つまりは、『金碧障壁画』とは、『カラー化した山水画』なのである」。

要するに、金の地の部分が白、そこに描かれる山水、墨で本来は描かれる山水の表現を、もう一度、かつてあったやまと絵とは違う形でカラー化したのが、桃山時代(本当は室町時代の末期から登場するのですが)に金碧障壁画と呼ばれ、極彩色と金箔を多用した作品なんです。かつてやまと絵があった。その後、極彩色の風景は実は墨一色でも描けるということで中国から水墨画が入ってきた。それを日本で咀嚼して、日本なりの墨絵というものができてきた。同じ時代にモノクロームであったはずの山水をカラー化する動きが出てきて、それが金碧障壁画になる。金の地に、墨で描かれる部分をカラー化した。つまり、余白が金色となって広がっているわけです。

●空間に飛び込む

「墨の色だけで描かれたモノクロの水墨山水画がカラーになった場合、何色が最も特徴的になるかを考えれば分かる。日本建築に『意味のある壁』を持ち込んだ書院造り建築は、禅宗から始まった。水墨画もまた同じである」。ここから室町時代の話になります。そして、「『山水画=風景画』であるようなものは、とんでもなく巨大化した『幻想空間』そのものになってしまった」。そういう空間ですね。それが水墨で描かれれば《松林図屛風》のような空間ですし、あるいは、金碧で描かれれば、二条城の大広間です。巨大な松と鷹が、そこに座った将軍の背後から、なみいる大名たちを睥睨する空間です。「巨大化した『幻想空間』そのものになってしまった。それが、『障屛画』から離れた安土桃山時代の『金碧障壁画』なのである。もう『お勉強』は関係ない。それを『見る』ということは、ほとんど『そこに飛び込む』でしかない。めんどうなことを考えないで体ごとジャンプをすればすむから、私は安土桃山時代の障壁画が大好きなのである」。障屛画というのはかつての、さらにその前の屛風なんかを含む、可動式の障屛画です。

この金碧の巨大空間は、それがより小さな形、よりミニマムな形で存在するとすれば、こういう水墨の空間になるわけですが、いずれにしても、安土桃山時代は、その巨大な空間を絵画によって作りだそうとしていた。建築空間の中に、もうひとつの異なる層の空間を、絵画によって作りだそうとしていた時代ということになる。そこでは鑑賞ではなく、空間に飛び込む。言ってみれば、VRのような空間でした。飛び込むことについては、何のお勉強もいらない。だから、「私は桃山時代の障壁画が大好きなのだ」ということで、次の「空間を作るものの変遷」を結んでいますが、今日は、その前後の時代について、あるいは、その他の美術作品について言及することがなかなかできませんでしたが、まずは、この辺を手がかりにして日本美術を見る――「見る」ではないですね(笑)。日本美術と接触することのおもしろさを、少しずつ感じ取っていただければと思います。今日はありがとうございました。

●質疑応答

河野:ありがとうございました。もし質問等あれば、挙手してください。

受講生:ありがとうございました。とてもおもしろかったです。いわゆる専門家から見たものと、橋本治さんの見方がずいぶん違う。それはもちろん独自の見方として、『ひらがな日本美術史』はおもしろいのでいいんですけど、「これはちょっと違うでしょ」というのが確実におありになったと思うんですが、そういう時に、橋本麻里さんは、橋本治さんに、そういうことをインタビューでぶつけるのか、それとも、それは黙っておくのか、自分と違う見解の時にどうするのでしょうか。橋本治っていう人は万能の天才だと思いますけど、日本美術について専門家ではありますけど、橋本麻里さんみたいに専門家ではないので、ここら辺の軋みというか、そういうものがどういうことになるのか、どうしても聞きたい状況にあります。
橋本:はい。たとえば最初に紹介した、俵屋宗達の章ですね。「日本美術として最高の」っていうことを書かれていました。もちろん美術史の見解と異なるところはいろいろあるはずです。ひとつには、治さんが見ていない作品が当然あるわけです。当たり前ですけど、すべての美術の分野について、その道の研究者ほどたくさんの作品を見ることはできない。そうした場合、たとえば俵屋宗達についてこう書いてるんですね。「宗達の技法の特徴の一つに」、まぁ、これは宗達だけではなくて、その後、琳派の作家たちに受け継がれていきますが、「『たらし込み』というのがある。立体感もへったくれもなくて、ここぞと思うところに墨や絵の具をテキトーにたらし込んで、『なんとなくそんな感じになっている』を表現してしまうものである。『たらし込み=なんとなくそんな感じになっている』とは、我ながらうまい表現だとも思うのだが、『なんとなくそんな感じになっている』を初めっから前提にして絵を描き始めてしまうプロというのは、そうそういるもんじゃない」。

なぜかと言えば、日本の絵というか、中国の絵画を規範とする東洋の絵というのは、基本的に、線描、線を前提にして発達している。輪郭線によって物の形を説明する――なんとなくじゃなくて、カッチリと、「これはボタンだ」とか、「これはササだ」とか、そういうことがわかる、その行為から自由になれない。「線一本を引くたびに、『この線はなにをどう説明する線』といううっとうしさが生まれてしまう。うまい画家なら、その説明が〝うっとうしい説明〟にはならず、『上手に説明してもらう快感』につながるけれど、宗達の絵は、その領域さえをも乗り越えてしまう。宗達の『線』は、『これから説明を始める線』であると同時に『もう描かれてしまった説明完了の 』でもあるからだ」。

たらし込みは面なんですね。事前に線を引いておいて、その説明的な線にピッタリ合うように、絵の具をたらし込んでいるわけではない。偶発的にどうなるか分からない、ということもありつつ、それでも、なんとかコントロールしながら、「これは牛に見えるな」という絵を、輪郭線なしで表現するわけです。それは確かに宗達の非常に得意とした、そして、その後、琳派に受け継がれていく重要な特徴のひとつですが、それを宗達がオリジナルとして描いたのか、という問題がある。橋本さんはここでそういう見解を書いているけれども、中国絵画を専門的に見尽くした人であれば、「いや、ちょっと待ってくれ」と。宗達は中国で描かれた作品そのものを見てはいないかもしれないが、それが写され、あるいは、それと似たような絵を描こうと幾多の画家がチャレンジしてきた、二次コピー、三次コピーぐらいの、そういう「なんちゃって中国」の作品を見ているはずだ。その「なんちゃってコピー」、劣化したコピーからでも、宗達はおそらく、その中国絵画が本来持っていた新奇性とか革新性を汲み取って、自分の作品に生かすことができたはずだ、と。

俵屋宗達はオリジナリティがあると思われている。あるんですけど、同時に、ものすごくたくさん古い絵を見ている人なんですね。その古い絵をまんまコピーするのではなくて、かなりアレンジして、何を基にしているのか、プロでもわからないようなアレンジの仕方をしているというのが、現代の中国美術を専門とする研究者の見解です。「尻尾を出さない宗達」という言い方をしますけれども(笑)、その辺がバレバレの作家と、そうじゃない作家がいる。

橋本治さんがこれを書いていた頃に、そういう見解はおそらくなかったんです。だから、そのことが書かれていなくても、それはたまたま彼が時代的な制約もあって到達できなかった、っていうこともあるでしょうし、あるいは、他の例で今主流の見解と整合しないものがあったとしても、橋本治さんはそれが正しいという書き方はしないで、「俺はこう思う」っていう書き方をしているので、それ自体は「そうか」っていうだけなんですね(笑)。研究者とは違うやり方で、しかし猛烈に見る、あるいは自分の背景の知識を総動員するというやり方で、あるひとつの理路が立つようなやり方で、その結論にたどり着いているので、それ自体は非常におもしろいなと思って見ています。そんなお答えでいいでしょうか?

スタッフ:ありがとうございます。別のフロアから質問が届いています。
橋本:はい。「アカデミックな訓練をふまえ、でも、理路を感覚的に再構築することの、治さんにとっての必然はどういう所にあるとお考えですか?」。必然ね。彼がひねくれものだということだと思います(笑)。インタビューで「これって、こういうことですよね。だって、そう書いてますよね」って訊いても、絶対「イエス」とは言わない。「いやー、ちょっと違うんだな」ってところから始めるんですよ。絶対「そうです」と言ってくれない。彼は鵜呑みにすることがない。自分自身が書いたことでさえ、もう一度疑うというか、そういうプロセスを経ずには話をできないタイプの人だと思うんです。山根先生の下にいた時に、どの程度のその訓練がなされたのかはわかりません。特にまだ山根先生の時代は、絵画史の理論的な部分について今ほど厳密ではなかった。山根先生が唱えた説だって、今は更新され乗り越えられている説もいっぱいあるわけです。たとえば、ある作品の年代をいつと考えるのか。一人の作家の描いたAという作品、Bという作品があって、山根先生はAを先としてBを後としたけれども、後から発見された証拠によってそれが入れ替わるとか、そういうことはいくらでもあるわけです。ですから、現代の理路に必ずしも合っていないかもしれない。そういうものを諸々踏まえたところで、彼はもう一度再構築する。そうやって自分の中を一旦通して出さなければ、美術史家ではなく、作家である橋本治が美術史を書く意味はないからなんでしょうね、という風に考えています。

受講生:「空間の中に飛び込むようにして」っていうのを聞きながら思い出したのが、高畑勲さんの「かぐや姫の物語」を見た時だったり、チームラボのデジタル空間に入っていく時のような、そういう感じの作品を作る、あるいは見る、感じるっていうのは、日本人の中に脈々とあるのかなと聞きながら思っていました。お聞きしたかったのは、日本美術史の中では、そういう空間の中に入って見るというのは、わりと普通に正統にずっと言われていることを、橋本さんがわかりやすい言い方で言ってくださってるのか、それとも、けっこうこの時点では、橋本さんが独自に指摘されたものという感じだったのでしょうか。
橋本:はい、お答えしましょう。そもそもは中国美術で始まりました。中国の山水画を見る機会があったら、是非、今までよりよく見てほしいんですが、山があり、川があり、という風景の中に、豆粒のように人が描かれています。見るものは、その豆粒のように描かれた人に、自分の視点を預ける。そうすると、その人は、山を巡り、川を上って、だんだんその世界の中に入っていく。そのための手がかりとして、そういう小っちゃい人物が描かれるんですね。そうやって風景の中に没入していくっていうことも、もともとは中国で始まりました。それを日本人が摂取して、日本の空間に合わせて、あるいは日本人の好みに合わせてそうできるような空間、あるいは絵画を作っていったということだと思います。それは、もう、はるか以前から言われています。橋本治さんも、当然、それをわかっている。っていうか、「当ったり前だろ!」と思っているのに、今の人たちが全然わかってないから、たぶん、「ううん!(咳払い)」みたいな感じで(笑)、書いてるんじゃないかと思います。
受講生:西洋絵画には、そういう没入して見る感じは、あんまりなかったんですか?
橋本:それは西洋の人に聞いてみないと、わからないですね~。私、東洋までが限界なので(笑)。
受講生:ありがとうございました。

(おわり)

受講生の感想

  • 素晴らしく面白かったです。 橋本麻里さんの、「俯瞰への欲望、 全体を見渡したいという欲棒を持っている」という橋本治さん評や、「調度ですから!」というキッパリとした解説が印象深く、そして実際に屛風を折りたたんで見てみる、というのが図工の時間みたいで楽しく、松林図屛風の解説は微細でどこまでも深く……。前の週の授業と、アタマの全然違う箇所を使っている感じがしました!

  • 書道を続けていますので、この授業は「余白、筆使い、タッチ、滲み」など、日頃考えているワードの連発で、胸に迫ることばかりでした。そして橋本治さんの文章が、グイグイ私を攻め立てる様に「分かってるよな、本気でやれよ」と励ましてくれます。感動的でした。

  • 気になる日本美術に出会ったとき、橋本治さんがそのガイドをしてくれるかもしれないというだけでも、この授業を聞いてよかったと思いました。彼の時代と時代の成果物との向き合い方は、「橋本治をリシャッフルする」講座を通じて、よく知っています(取り扱うジャンルに偏りはあるそうですが……)。 きっと、何も想像せずに美術館のガラスの外から見るだけとは違う見方を提示してくれるのでしょう。最後には「自分で考えろ!」と突き放されるまでがセットだということも知っています(笑)。