2019年1月25日公開
スペシャルイベント
番外編 たらればさん山本淳子さん
15分版・120分版の視聴方法は こちらをご覧ください。>
たらればさんは漫画から古典文学まで幅広いテーマをつぶやき、フォロワーは約14万人という人気ツイッター・アカウント。本職は編集者です。
糸井をはじめ、私たち「ほぼ日の学校」がとりわけ惹きつけられたのは、『枕草子』や『源氏物語』について熱く語るツイートです。ほぼ日の学校・番外編の本講義では、特に思い入れの深い『枕草子』の魅力をたっぷり語っていただきました。
「いまの時代、特にSNSが好きな人にとって『枕草子』は相性がぴったり」ということで、第一部では最初の10分ほどは歴史背景のミニ解説、その後は「SNS」をキーワードに、古典が苦手な方もたのしめる枕草子の魅力をお届けしました。第二部は、たらればさんが敬愛してやまない、京都学園大学山本淳子教授をゲストにお迎えしました。あこがれの教授を前に、たらればさんがご自身で「僕がいちばんの役得でした」と語るように、本当にうれしそうに、大好きなテーマについて縦横に語ってくださいました。(収録日:2018年10月29日)
河野:
ここからはざっくばらんにお話を進めていただきたいと思います。たらればさんから。
たられば:
はい。えーと、イベントの前に質問事項を書いて送ってくれと言われたんですけれど、15個ぐらい書いて、とにかく聞きたいことがマニアック過ぎて(笑)、我ながらこれはまずいんじゃないかと思って、ライトめなのも交ぜました。最初はライトなものからいきたいと思います。最初に、『枕草子』は310段ぐらいありますが、山本先生の好きな章段は何ですか?
山本:
京都から参りました山本淳子です。今日はよろしくお願いいたします。
客席:
拍手
たられば:
ああっ、すみません! ご紹介もしないで。緊張してるんです。申し訳ない。
山本:
いえ。このお話をいただいたときに、ツイッターは私、不調法で存じ上げないものですから、「こんなに古典のことを広めてくださってるんだ」と思って胸が熱くなり、また先ほども定子と清少納言の話をしていただいて、本当にまた胸が熱くなりました。私が『枕草子』で一番好きな段は、みなさんご存知だと思いますが、〈うつくしきもの 瓜にかきたる児(ちご)の顔〉。何なんだ、と。〈瓜にかきたる児の顔〉。食べ物のマクワウリか何かに子どもの顔が描いてある。それが〈うつくしき〉というのは、高校で習う重要古語で「美しい」ではなく「かわいい」と訳されるわけで、どこがかわいいんだって(笑)ちょっと思っていました。これを中学か高校の教科書で習ったのですが、どの先生も今まで1人も、「なんで瓜に子どもの顔が描いてあるのか」っていうことを言ってくださった方がいらっしゃらなかった。なので、まあ、かわいいって言ってるからかわいいんだろうな、チンプンカンプンだなと思って参りました。でも、これはですね、増田繁夫先生の『枕草子』の注釈書に、当時、贈答用のフルーツに子どもの顔を描いてお贈りする風習があったと書かれていたので、研究者になってからそれに気づいて、「はぁー」と思ったとこでした。
たられば:
いやあ、勉強になりますね(笑)。あ、これ、録音しているんですよね。あとで読み返してニヤニヤします。ささ、続けてお願いいたします。
山本:
それから、〈もののあはれ知らせ顔なるもの〉。先ほど出てきましたが、「あぁ!」というのが「あはれ」なので、それを教えてくれるような様子のものという、長い物尽くしの言葉があって、〈まゆぬく〉と書いてあるんですね。これも、なぜ眉を抜くのが「あはれ」なのかわからないとされています。でも、眉を抜いたらちょっと涙が出るんですね。で、その顔を鏡で見たら、悲しそうな顔をしているので、〈もののあはれ知らせ顔なる〉。これは大好き。
たられば:
だんだんわかってきたんですが、山本先生もちょっと変態的なところがありますよね。
客席:
(笑)
山本:
ありがとうございます。たらればさんは?
たられば:
僕も好きな章段、いくつかあるんですけど、非常に有名な〈宮にはじめて参りたるころ〉。清少納言が初めて出仕したときの様子が書かれているんですけど、定子を目の前にして、「指がきれいだ」って表現するんです。なんでかっていうと、清少納言は畏れ多くて土下座してるんですね。「申し訳ない、申し訳ない、これほど美しい宮様に比べて私はやぼったい田舎者で…」というふうに土下座してると、定子の指先だけが目に入る。このシーンで、定子は清少納言に絵を見せて、これは誰それの絵で、こっちは誰それの絵で、と説明しています。これは萩谷朴先生の注釈書だったと思うんですけど、当時の教養で、筆遣いを見てその書は誰が書いたかを当てるのが女房の基礎教育の一つだったと。それを間違えると大変だから、絵だったら多少間違えてもいいし、とはいえ覚えておくと教養になると定子は気を遣ってそれを見せてくれたのではないか、というようなことを読んで、「ああ、なるほどな」と思いまして。そして、そこから、当時の習俗で一晩中語り明かすんですよね。清少納言は照れて、もう早く帰りたいとずっと考えながら一晩中話して早朝になるんですけれども、ほかの女房が朝になったので窓を開ける、格子を開ける描写がさしはさまれます。清少納言は定子に自分の照れた顔を見られたくないものだから、「開けないでくれ」と願うんですけど、そこで定子が「開けなくていいですよ」と女房に言って、清少納言には「今日はもういったん下がりなさい。でもまた私に会いに来てね」って言う。清少納言は「ああ、ありがたいことだ」と下がるんですけども、宮前を下がった直後に格子が開くと、その向こうに雪景色が見える。この描写がすごいなと思うんですけど、「ああ、雪がきれいだ、〈いとをかし〉」って清少納言がつぶやくんです。で、ああぁぁ、この人は、なんて豊かに世界を描くんだろうと思いました。それで、その描写を踏まえながら有名な第一段を読み返すと、清少納言は、〈冬はつとめて〉、冬の早朝は最高だって言ってるんですよね。おそらくこれはあのときの景色を思い出しながら、〈冬はつとめて〉って書いたんじゃないかなと思うと、なんかこう、ほんわかしませんか。
山本:
ありがとうございます。
たられば:
次に行きましょうか。こんな感じで大丈夫ですか。これライト編です。
客席:
(笑)
たられば:
続いて、『枕草子』の好きなキャラクターは? 『源氏物語』はわかりやすいですけれども、『枕草子』にも何人もキャラクターが出て来るんですね。皆さん個性豊かなんですけど、その中でも誰を推しますか?
山本:
そうですねえ、やっぱり、清少納言自身ですかね。
たられば:
彼女、上がったり下がったり忙しいですよね(笑)。
山本:
うーん。私は、前にたらればさんがお書きくださったように、『枕草子』というのは、全編が、清少納言から、悲劇的な境遇にあり、やがて亡くなった定子に、捧げた鎮魂歌・レクイエムだと思っているので、どんなにおもしろいことを書いていても、それは「全身で笑わせてるな」という気がして、健気でならないんです。〈瓜にかきたる児の顔〉というふうなものを書いて定子に見せたら、すごく暗い気持ちでも、「うん、かわいいわね」とか、本当に心から泣いてるような人に、〈もののあはれを知らせ顔〉なのは眉を抜いてるときなんだって言えば(笑)、笑い飛ばせちゃいますよね。というふうなことを書いてるんだなっていう作者の心の心底を見ると、ああ、なんて健気な人だったんだろうか、ということで、清少納言ですね。
たられば:
たぶん、今日『枕草子』が好きになった人は、これからいろんな『枕草子』関連の本を読んだり買ったりすることがあると思うんですけれども、おもしろいのは、研究者によって(想定している)清少納言のキャラクター像が全然違うんですよ。僕、かれこれ20〜30冊読んだんですけど、そのなかでも山本先生の描く清少納言は、抜群にロマンチックなんですよね。これが古典の醍醐味だと思うんですけど、行間に現れる作者の姿って、ちょっと鏡みたいなところがあると思っているんです。なにしろ書かれてないことのほうが多いから、作者像は読み手が想像するしかないんですけれど、その向こうに見えるものは、清少納言が半分、自分が半分じゃないかなと思っています。だからこそ僕、今日お会いするのにすごい緊張していて、先ほどご挨拶させていただいて、そうか、山本先生が描く清少納言がロマンチックなのは、山本先生がロマンチックだからなんだ! って感じで膝を叩きすぎていま膝が痛いです(笑)。ちなみに僕が好きなキャラクターは、橘則光です。
山本:
ああ……。
たられば:
清少納言の元旦那さん。ちょっとマヌケな感じなんですよね。元夫だけど、雅とか風流とか男女の機微があまり理解できない体育会系の人です。でも元奥さんである清少納言とは仲良くしていたい、身の上を心配しているし、兄妹みたいに付き合えればいいなって思ってるんですけど、そんな元旦那を清少納言は足蹴にする(笑)。「僕は君と仲よくしたいんだ、別れたあとでも。でも僕はきみが得意な和歌とか全然わからないし、理解できない。だから僕と縁を切りたいときは、和歌を送ってくれ。そしたら僕はそれを絶縁の合図だと思うから」っていう手紙を送ると、その直後に清少納言が和歌を送る。
客席:
(笑)
たられば:
「清少納言、すげえ!」と思いません? 迷いゼロ。でもこれ、ちょっと深い話があって、田中澄江先生の『枕草子への道」というエッセイに書かれていて「ハッ」と思ったことなんですが、先ほど申し上げたとおり、清少納言は負け組なんですね、政治的に。要するに「自分と関わったら政治的に立場が弱くなるんじゃないか」と思っている節がある。そんなときに元旦那が、まあ空気が読めない感じなんですが、仲良くしたいと寄ってくる。だけど、周囲に自分と付き合いが続いていると思われたら、彼は政治的に悪い立場になるんじゃないか、そう思っていたから冷たく扱ったのではないか…という解釈を読んで、「ああ、なんてロマンチック」と。そういう解釈もできるのが、「半分は自分の姿なんじゃないか」と思うところで、読みがいというか、読みでがあるなと思っております。
山本:
ちょっとその話をさせていただいてよろしいですか。
たられば:
ぜひぜひぜひ。
山本:
清少納言はたくさんボーイフレンドがいるんですけれど、その中の一人に藤原斉信という人物がいます。清少納言が仕えていた定子の父親が亡くなって家が零落すると同時に、風見鶏のごとく藤原道長に寝返るんですね。そして、橘則光という人物は、この斉信の私的な家司(けいし)=国家公務員として働くと同時に、斉信の家にも勤める立場だったのです。斉信には清少納言を道長の側に引き込みたいという策略があったようなのですが、清少納言の定子様に対する気持ちをわかっている則光は、それから清少納言を守ったりしてくれているというようなこともしていた。けれど、状況はどんどん悪くなっていく。そんな中で清少納言のほうが気を回したんだと私は思います。そこで、「2人の約束だった歌を詠めばもうお別れだ。私から別れてあげる」、と、そういうことだと私は思っております。すみません、ロマンチック過ぎて(笑)。
たられば:
ああ、今日は本当に、来てよかった(笑)。ありがとうございます。続いて、ちょっとマニアックな質問です。清少納言はなぜ清少納言と呼ばれたのでしょうか。ちょっと前段説明しますと、ドナルド・キーン先生という日本文学の専門家が『日本文学の歴史』の中で「『枕草子』最大の謎は、清少納言がなぜ清少納言なのかということだ」と書いているんです。要するに、清少納言というからには少納言が近くにいたはずなんだけど、少納言職の人間がいないらしい。これはなぜか、と。彼女が清少納言と呼ばれていたのは間違いないんです。自著だけでなく、『紫式部日記』でも清少納言とバッチリ書いてあります。だけど、彼女の周りに少納言がいない。会社で言うと、部長じゃないのにあだ名が「部長」みたいな(笑)。そんな感じですかね。
山本:
確かに清少納言の親族を見渡しても、少納言という役職に就いた人が見当たらないので、たとえば藤本宗利先生は、「これは定子の創作じゃないか」と。「少納言ってカッコいいから、あなた、少納言にしなさいよ」っていうようなことにされたんじゃないかという推測されています。ちなみに、紫式部とか和泉式部みたいに式部というのは、一族に式部省に勤めていた人がいるから式部がつく。普通はそれだけでいいんですけれど、勤め先に同じ式部がいると、年齢的に大式部、小式部とする。もう1人式部が入ったら、藤原氏なら藤という字をつけて、藤式部(とうしきぶ)というふうにする。だから、もともと紫式部は「藤式部」といわれていたのですが、作品が世の中に広まったので、やがて登場人物の名前を取って紫に変わったという。ですから、清少納言も「少納言」と呼ばれていて、『枕草子』の中に出てくるときは、「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ」ですよね。でも、世の中に少納言が多いということで、清原の清という出身一族の名から一文字取って、清少納言と名乗る。でも、少納言の出所がわからない。謎です。
たられば:
みなさん、勉強になるでしょう(笑)? わかりました。続いての質問に行かせていただきます。紫式部と清少納言は本当に会ってないのでしょうか? 実際には会っていないはずとよくいわれますが、清少納言が宮中を退出したあと、摂津だとか、京都の月輪あたりに住んでいたといわれます。その頃、紫式部は宮中ですから京都市街中心部にいて、地図を見ると案外近いんですよね。会った記録がないのはわかるんですけど、会おうと思えば会える距離にいたら、お互い話題になっているなら、会わないのかなと思うんですが、どうですか。会ってたらすごくおもしろいなと思うんですけれども。
山本:
そうですね。昔の映画で、森光子さんが清少納言で、吉永小百合さんが紫式部だったときに……、これはちょっとありえないんですけれど、定子の女房たちが向こうのほうから歩いてくる。で、彰子の女房たちがこっちから歩いていく。2人が宮廷にいたのは時期的には5年ぐらいタイムラグがあるので、こういうことはないんですけれど、「向こうを歩いてくるのが清少納言よ」って聞かされた紫式部がキッとした目になって、「あれが清少納言」って、そういう一言があったんですけど、これはないです。つまり1人の天皇の2人のお后の対立する女房たちとして存在したことはありませんでした。でも、どこかで会ってるかという質問ですよね。紫式部の清少納言批評には、〈清少納言こそ〉というずっとあとに、〈真名書き散らして侍るほども=漢字を書き散らしていらっしゃるその教養の程度も〉、〈よく見ればまだいと足らぬこと多かり=よく見れば足らないところが多い〉とあるので、書いたものは見てるってことですよね。「よく話せば」じゃないので、会って話すとかいうのではなかったと思いますね。第一部でおっしゃいましたけど、清少納言のことは、紫式部は書き物を通じてその作者としてよく知っている。で、その教養も「私は見透かしているわよ」っていう、そういう付き合いだったのではないでしょうか。
河野:
ひとつ質問なんですけど、『枕草子』を当時、みなさんどのようにして読んでいたのですか。
山本:
難しいお話です。『枕草子』は、今みなさんがお読みになってる『枕草子』の一番後ろに「跋文」といわれる「あとがき」がついていて、それによると、「定子様が零落されて一旦髪を切られた(出家されて)絶望の中にあるときに定子のもとに届けた」ということが書いてあるんですけれど、それ届けたあとに跋文を書いてるわけですが(笑)、もうあと、もう一段階あるはずなんですよね。それは、おそらくは定子様が亡くなってからあと、その思い出の記を書いたということでしょう。最初のものは定子に捧げた1冊だけで出回らず、その次のものは、定子という後ろ盾を失った清少納言は家に引きこもってから、それこそSNSのように紙に書いてはばら撒き、書いてはばら撒き、「よかったら写しといて」という形のものが拡散されて、それを心に留める人もいれば、「あ、清少納言から何か来たわ。おもしろいから書き留めて残しておきましょう」という人もいて、あちこちに『枕草子』の違うものができて、『枕草子』が一定しないものになったので、清少納言は最初にあった、定子に捧げた第一編と、自分が拡散し続けたものを全部まとめて、ひとつの『枕草子』に自分で編集した。これも2回ほど、後日書き直しをしています。ですから、十年以上の月日を経て今の形になったもののようです。
たられば:
勉強になるなぁ……。
山本:
ありがとうございます。
河野:
紫式部がもし読んだとしたら、その最後に手を入れた最終版ですか?
山本:
そうではないかなと思いますね。あるいは、自分のところに拡散されて回ってきて、「何よ、これ」とか思って、別のところに回したかもしれません。
河野:
とにかく紫式部の清少納言批評は、かなりボロクソですよね。
山本:
そう。〈したり顔に〉ってドヤ顔ですよ。ドヤ顔で〈いみじう侍りける〉とんでもない人というんですから、全否定してますね。
客席:
(笑)
たられば:
痛快ですよ、本当に。和泉式部とかいろんな人の評伝は、「この人はこんな感じ、この人はこんな感じ」って書くんですけど、清少納言の段に入ったら、突然、筆が加速するんです(笑)。ろくな死に方しないとか、2ちゃんねるかなっていうくらい。
山本:
確かにそうですね。
たられば:
次の質問です。その二人の関係なんですけれども、清少納言は生前、(まさにその、自分がボロクソに書かれている)『紫式部日記』を読む機会は可能性はあったんでしょうか?
山本:
私はこれはなかっただろうと思っています。『紫式部日記』も、とても編集が変わっているというか、きちんとしていないものなんです。紫式部が仕えた彰子様が第一子をお産みになり、それが男の子だったというので大パーティが繰り返される秋頃から年末までは、日記、つまり記録風なんです。ところがお正月になると急に筆致が変わって、「このついでに私が知っている女房たちのことを書いたら、書き過ぎだと言われるかしら」というふうに、急にお手紙口調になる。それまではルポルタージュなんです。誰と誰が来て、ここで何してたみたいなことを書いているのに、急に「いいかしら」と。私が考えるのは、藤原道長が、「うちの彰子が子どもを産むから、これを記録にしておけ。男の子だったら大変な記録になるぞ」っていうふうなことで、まずその記録を書かせた。紫式部はその記録の手控えをとっていた、自分でも名作だと思っていたときに……
たられば:
いかにも紫式部(笑)。
山本:
他にもいろいろ書きたいことがあるので、清少納言が定子様に『枕草子』を献上したみたいに記録を道長様に献上しちゃったけれども、清少納言が後に書き足したみたいに、自分の知り合いの限られた人に、「私の宮廷お仕え記録もちょっと読んでね」っていうので、「ついでに書いていいかしら」と書いた。その中に、「清少納言ってひどいやつ」とも。でも、これは自分の同僚の悪口も書いている。「あんな使えないやつ」みたいなことも書いているので、広く広めちゃいけない。本当に娘とか友達だけ。だから、ましてや清少納言は読んでいなかっただろうなと思います。
たられば:
わりと真剣に聞きたいことなんですが、じゃあ、紫式部は『紫式部日記』を、そんなに広範に広めるつもりはなかったということですか?
山本:
そう思いますね。『紫式部日記』のパーティの記録は、その二十年ぐらいあと、藤原道長が亡くなった直後、『栄華物語』の中にそのまま、たくさん引用されるんですけれど、清少納言の悪口だとか同僚への云々はまったく書かれていない。なので、それがついていないものが『栄華物語』のほうに渡されたのではないかと思います。
たられば:
清少納言自身は、跋文にあとがきの体で「『枕草子』を世に出そうと思ってなかったが、うっかり広まった」と書いている。今、『紫式部日記』をあまり広めるつもりなかったとおっしゃいました。(両名の性格を考えると)そんなわけないだろうと思うんですが、ではこれ(特に『枕草子』の「世の中に広めるつもりはなかった」は)、ちょっと本気で書いてるってことですかね。
山本:
「自分は世に広めるつもりはなかった」という前に、「人のためによくないことも書いてしまっているので、これは隠しておこうと思ったんだけれど」という条件付きなんですね。で、『枕草子』を読むと、先ほどの斉信という人物が、暗躍というか、いろいろなことをしていたり、当時の人間関係的なことも出てきますので、「私としては困った」というエクスキューズをつけたと思うのですが、でも……、本音ではなかっただろうと思いますね(笑)。
たられば:
すごいんです。だって、『枕草子』が世に広まるキッカケって、お客さんが来たから座布団出そうと思って、出したら、そこにあったって、そんなわけない!
客席:
(笑)
山本:
ついつい出ちゃった、と(笑)。「これ面白そうですね。もらっていきましょう」というので広まっちゃう。「私はそんなつもりなかった」(笑)。
たられば:
清少納言って、そんなタイプではないですよね、なんとなく。
山本:
そうですね。絶対意図していたと思います(笑)。
たられば:
次の質問です。当時の最高権力者・藤原道長は『枕草子』を読んでいなかったのでしょうか? 状況的には読んでないはずがないと思うんですが。道長は教養人ですし、『源氏物語』は書かれた直後から奪うように持っていったという記録もあるぐらいですから、『枕草子』も読んでいたのでは? だとしたら、政治的なことが書かれているくだりを改変しようとは思わなかったのでしょうか?
山本:
私もずっとそれは不思議だと思っていました。つまり定子の家が零落して、それでも定子は一条天皇の心を捉え続けている。自分の娘、彰子が入内する見込みになってからというもの、道長は本当に直接定子をいじめることもあったんですよね。まわりの貴族も、「あれは定子の引越しを妨害しようとしているようだ」と言う関係であった。にもかかわらず、定子様の理想的な姿が書かれている作品を世にのさばらせ続けるのはいかがなものか、と思います。でも、きっと読んでいたし、認めていたと思います。というのは、定子は3人目の子どもの出産のときに亡くなったんですね、後産(あとざん)で。1000年のことです。8年後の1008年に彰子が、先ほどの『紫式部日記』に書かれる最初の出産をするんですが、その後産のときに道長は一番怖がっているんです。「物の怪調伏班」を5班も設けて、子どもは産まれた、後産はまだというときに、そこに詰めかけた100人以上の女房たちやら貴族やらが床に頭を擦りつけて、「はぁー」ってお願いしたというんですね。それぐらい、定子の怨霊が現れて彰子を殺すのではないかということを実際に怖がっていた。そのような道長にしてみれば、定子の魂が浮かばれるような、いいことばっかりを書いた『枕草子』には都合のいいところもあったと思うんです。
たられば:
では、藤原道長も、『枕草子』は鎮魂の書であるというふうに捉えていたと?
山本:
はい。とくに道長は定子が亡くなったその日に、怨霊に襲われてるんですね。怨霊の正体は定子の父親。定子は四十九日にならないあいだは怨霊になれないので、定子の父親が、「うちの娘をいじめたな!」みたいなことで出てきたと完全に思っている。『権記』という貴族の日記に、「道長はそういうことで、定子様が亡くなったというのに宮中に駆けつけることもしなかった」と書いてあるんですね。ですから、定子が亡くなるや否や、どれだけ道長が定子、あるいは一族の怨霊を怖がるようになったかというのは、はっきり歴史の証言があるところです。
河野:
鎮魂の方向が違うんだろうと思うんですよね。清少納言の鎮魂は、まさに定子の文化的なサロンの輝きを書き残すことによって讃え、追悼することだろうと思うし、道長は逆に、悪さをしないように、怨霊が出てこないように鎮めるという方向で、『枕草子』を葬るのは逆効果になるから、と考えたのでしょうね。
山本:
はい、そう思いますね。ところが、彰子はやがて清少納言の娘を自分の女房に雇うんですね。で、その娘は、人に乞われると、『枕草子』をどうも貸し出しているようなんです。それを彰子はまったく止めないで容認しているので、彰子は「私は定子様と敵対関係にあったわけではないし、『枕草子』を守ってる」というふうな度量の深さを示している。「恐るべし、彰子」ですね。
たられば:
道長の娘の彰子って、『枕草子』の二次作品なんか読むと、おとなしい方で、自分は前に出ないというイメージです。これも伺おうと思っていたんですけど、彰子は当然『枕草子』を読んでるはずですよね。どういうふうに受け止めたのでしょう。
山本:
それは資料に書かれていないのでわからないんですが、行動としては今申したようなことをしていたわけなんですよね。
たられば:
彰子は、定子の息子も引き取って育ててるんですよね。
山本:
そうです。一条天皇が定子亡きあと愛した定子の妹の御匣殿(みくしげどの)というのがいたわけなんですが、この関係に気付いた道長が仰天して、「御匣殿が定子の子どもを育てているから、それを口実に一条天皇が通ってくるんだ。これを奪え」ということで、子どもたちは彰子が養うことになる。とくに敦康親王ですね。ところが、彰子は敦康親王をやがて皇太子にすればいいと言って、父親と仲が険悪になるぐらいなんです。彰子は、定子に対して敵対感情とか恨みとかを持つよりも、もっと大所高所から見るような考え方が、やがてできていたのではないかと思いますね。
たられば:
用意していなかった質問なんですけど、『枕草子』という作品は定子がいないと多分生まれなかったと思うんですけど、では、『源氏物語』とか『紫式部日記』も、彰子という存在がなければできなかったと考えてもいいんでしょうか。
山本:
そうですね、紫式部は、自宅にいて、夫を亡くした傷心の中で『源氏物語』を書き始めた。でもこれは、財力もないので短編を書いていた。それが友達や親戚のあいだで有名になった。この親戚というのが、またいとこの道長の妻・源倫子です。ですから、道長が「清少納言みたいな女房はいないのか」って言ったときに、身内にいたんですね。「貧乏だけど、いいの書いてるのがいるのよ」みたいに妻が言った。
たられば:
客席:
(笑)。
山本:
雇われたら財力の後ろ盾ができるので、大長編を書くことができるようになった。やっぱり紙とか筆とか硯とか、とても高価だったんです。それで、紫式部は、光源氏という色好みの男の子が過激な恋を繰り返すという短編を、「桐壺の巻」から始めて、両親の悲劇から生まれた子どもがやがてどんな人生を送るかという大長編にできた。ですから、彰子に雇われたこともあって、『源氏物語』が今のようになったと思います。『紫式部日記』も先ほど申し上げたとおりですね。
たられば:
ありがとうございます。次の質問にいきます。跋文にある〈枕にこそは侍らめ〉という有名なやりとり。これは事実ですか? マニアックなんですが、個人的にすごく気になるんです。背景を説明しますと、最初に紙をもらって清少納言は書き始めるんですけど、その紙は内大臣(これは藤原伊周といわれているんですが、別説もあります)からもらって、一条天皇は中国の司馬遷の『史記』を書き写すようだと。定子は何を書きますか、というやりとりがあったときに、清少納言は〈枕にこそは侍らめ〉と。「枕でもすればいいんじゃないですか」というやりとりがあって、「じゃ、書きなさい。あなた」といって紙を渡されたというやりとりが書いてあるんです。これは史実と考えてもいいものなんでしょうか?
河野:
最初は『古今和歌集』を書き写すようなイメージだったんですよね。ところが、清少納言が「枕」というその名言を吐いた。
たられば:
「枕ってなんだよ」って話もありますしね。
山本:
実はこれは、私が『枕草子のたくらみ』を書いたときに、紙が分厚いくらいたくさんあるので、(昔の分厚い)電話帳を枕にするみたいに、「この紙束がすごく分厚いので枕にしたいものですわ」っていうふうに言ったら、「じゃ、あなたが書きなさい」と、定子が清少納言に託したと書いたのですけれども、それが2017年の4月ですが、本を出してから、『枕草子』研究専門の津島知明先生から新しい説が出ました。『枕草子』はそのときすでに書かれていた。その分厚い紙が来たのは2度目の紙であった、と。つまり、もう書かれていた『枕草子』というのは、定子様が髪を切ったあとに献上したとき、もうすでにそれが『枕草子』であった。そのあと、内大臣伊周というのは落ちぶれているんだけども、『枕草子』の中では内大臣という立派な名前で呼ばれ続けていて、その人から第2弾の紙が来た。で、そのときに、「これどうしましょう。古今集書きましょうか?」と言われた清少納言が、「私が『枕草子』を前に書いているから、これを『枕草子』にしたいものですわ」というふうに提案したら、定子様が、「じゃ、おまえにあげるから、あの続きを書いてね」っていうことになったのではないかという新説です。
たられば:
おおおお、「続き」。なるほど。
山本:
なので、これの場合にはブログみたいに、書いてはばら撒くための紙は最初から用意されていたってことになりますね。それぐらいまだ『枕草子』の研究者の中でも、そのことに関する説が一定しないわけです。まだまだ謎解きの種がいっぱいあるんですね。
たられば:
1000年越しで解釈がガラッと変わるということがあるということですね。
河野:
紙が献上されるというのも、そういう時代だったんだなあと思いますね。
山本:
そうですね。紙は、たとえば宮中で文書のために絶対必要ですけども、これは何回も漉き替えしていました。ですから、宮中で使っていた紙屋紙は灰色なんです。それぐらい真っ白な紙は貴重品だったわけです。『枕草子』の中には、真っ白な紙をもらったときには、もう死にたいような気持でも、もうちょっと生きてみるかって気持ちになる、ということが書かれている。で、そんな時に、定子からもらったとか、伊周からもらった紙なんですよね。
たられば:
定子様って、清少納言に意地悪な場面もあるんですけど、すごくケアする場面もあって、紙をプレゼントするのも、前に清少納言が「私、ときどき死にたくなるようなことがあるんだけど、真っ白い紙を見ると、明日もまた生きようと思うんです」と言ったのを覚えていて、白い紙を渡すんですよね。清少納言は語彙がたくさんあるものだから、あまりにうれしくて、「死にたくなっていましたけど、おかげさまで寿命が1000年延びました」って(笑)、オタクみたいなことを言うんですね。
山本:
そしたら定子が、「お手軽ね」って(笑)。
客席:
(笑)
たられば:
そう、定子の、何というか、ツンデレな感じ。
山本:
でも、そのとき、まさに定子がどん底にいたときで、清少納言は清少納言で、「道長への寝返り疑惑」を同僚からかけられて、いじめによって家に引きこもっている。そのときに、つらいはずの定子から紙が届いたっていうことですよね。
たられば:
定子のほうがよっぽどつらいでしょうからね。
山本:
ええ。ですから、清少納言の寿命が延びたのも、そうかなって思いますね(笑)。
たられば:
しかも、美しい和歌で「鶴の寿命になりました(=寿命が延びた)」って書くんですよね(笑)。あまり時間もないので、すごく聞きたい話に絞って伺います。なぜ『方丈記』まで200年間、『枕草子』の後続と呼ばれるような作品が出なかったのでしょうか。みなさん、『枕草子』、『方丈記』、『徒然草』という三大随筆って授業で習ったと思いますが、『枕草子』のあとの『方丈記』は、世捨て人が書いた200年後の作品なんですね。その次は『徒然草』で、また100年後。随筆ってもっと気軽に書けそうな気がしませんか? 後続作品が出るまで200年って長過ぎるような気がするんですが。
山本:
随筆って、たらればさんがツイッターとかでお書きになってるような感じですよね。ですから、随筆は気軽な感じがすると思うんですけど、私は『方丈記』は随筆ではないと思っていて、『方丈記』は「記」というジャンルの作品なんです。ずらずらと事情とかを書いて、すごく盛り上がったとこで最後、ダンッと落とすという、中国の「記」という文章のあり方なんですね。庭のことや暮らしのことを書いた『池亭記(ちていき)』もそうですが、中国の文章のあり方に倣った「記」というもので、自分の心のままに書いたものではないと思うんですね。私は、清少納言の『枕草子』を随筆とするならば、そのあとを継ぐ形が『紫式部日記』。「今思ってることを書いてもいいかしら」、と心のままに、和泉式部はけしからんとか、赤染衛門は自分の夫のことばっかり言ってるとか好き勝手を書いて、でも、これはあんまりたくさんの人に広めない。『徒然草』もたくさんの人に広めなかったんですよね。兼好は、生前は歌人として大変有名でしたけれども、『徒然草』という散文作品を書いたことが知られたのは、ずいぶんあとになってから。それこそ〈あやしうこそものぐるほしけれ〉と思って、「ちょっとまあ、作りました」というものだったのではないでしょうか。
たられば;
随筆を書こうというカルチャーはなかったということですか、平安時代の一時期。
山本:
『枕草子』が一体どういうジャンルなのかというのが、みんながよくわからないまま、わからないものは書きにくいので、どうしようかっていう気持ちのまま。紫式部はちょっと真似しましたけれど、それを広めるでもなかった。しかし、『枕草子』がだんだん世の中に広がっていって、兼好は『源氏物語』や『枕草子』を読んでいると『徒然草』の中で書いてますよね。ですから、名作だ、この書き方もOKなんだ、ということが書き手側に認識されるのに、『徒然草』までですから300年以上かかったことになるわけです。
たられば:
これもぜひ聞きたいと思っていた質問です。教科書に載っている『枕草子』は誰でも知っていると思うんですが、とはいえ1000年間のギャップがある。『徒然草』はほとんど読まれなかった期間が長期間あった。では『枕草子』も読まれなかった期間があるんですか。
山本:
『枕草子』の注釈書というか、「『枕草子』にはこういうことが書いてある」というようなことを言っていた人がいて、これは1200年代の人です。その人が注釈を付けたということは、もう本自体は残っていないですが、引用されています。もっと明確には、小倉百人一首を編んだ藤原定家が、三巻本の『枕草子』の一種の後ろに、「息子は何年に生まれた」とかそういう巻末注(★書き込み)を書いてるんですね。定家は、1100年代の終わりぐらいから1200年代まで生きたので、その頃にはもう広がって読まれていたことは明らかです。でも、『源氏物語』みたいに脈々と研究されてはこなかった。あるとき、突然、17世紀の中頃、延宝二年に二つの大注釈が出るんです。ひとつが北村季吟の『枕草子春曙抄』、もうひとつは加藤磐斎の『枕草子抄』。どちらも大部なもので、突然出るんですね。
たられば:
江戸時代ってことですね。
山本:
はい、江戸時代です。それで、その頃に名作だと認識され、印刷本としてみんなに読まれ、注釈も付けてもっとみんなに読んでほしいというふうな機運が急に高まったりした不思議な現象。国文学研究者も不思議がっている謎です。
たられば:
初版から600年以上たって、2冊、突然出てきたわけですね。
山本:
そうです。それまでもずっと書き継がれて、読み継がれてはいたんです。『枕草子』のある種の本の中に、「『枕草子』は一家に一冊持っている」と書いてあるんですね。けれど、「それがみんなよくないので、いい本を作りました」みたいなことが書いてある。一家に一冊ぐらいは普及していたけれど、それを研究しようという人があまりいなかったということなんでしょうかね。読みやすいから。『源氏物語』は、わかりにくいですからね。
たられば:
あ、わかりづらいです(笑)。
山本:
だから、研究書がある。
たられば:
わかりやすいと研究する人が少ないんですね。
山本:
そうですね。わかるって思い込んじゃうんですね。
たられば:
もし清少納言にひとつ質問できるとしたら、どんなことを聞いてみたいですか?
山本:
そうですねえ。一晩ぐらい語り合いたいですね(笑)。定子様のことをどう思っていたのかも聞きたいですけど、やはりどういう順番で『枕草子』を書いたのかとか、研究者ならではの問いをたくさんぶつけたいと思いますね。
たられば:
定子が亡くなったときに清少納言がどこにいたのかというのは、わかってるんですか?
山本:
私はきっとそばにいただろうと思います。いなかったはずがないだろうと思います。少なくとも定子が12月に亡くなる前の5月の定子の姿までは書き留めていますので、そのあと定子のそばを離れる理由がないですよね。けれども、定子が亡くなったその姿はおろか、亡くなったことも、ひと言も書いていない。これはやっぱり意図的なことで、定子様をこの本にずっと生かし続けるということだと思います。
たられば:
資格的には、宮中で(瀕死の中宮の)そばにいることは許される立場だったんですか。
山本:
はい。定子がなくなったのは三条宮という出産のためにいたところで、そこについています。ですから、そばにいて、その様子を見守っていただろうと思いますね。
たられば:
それについてひと言も出てないというのは、意図的に書かなかったと。
山本:
到底書けないでしょう、こんなに好きな人が亡くなった姿を。しかも、それを死後の定子様に捧げるというのは、おかしいですよね。「あなた、こんなふうにして死にましたよね」みたいな。やっぱりずっと生き続けてるってことだと思うんです。
たられば:
やはり『枕草子』は、そういう意味で徹頭徹尾、定子に捧げる作品だったわけですね。
山本:
私はそう思います。そして、それであることによって、貴族社会のみんなの心の中に定子の姿を焼きつける。ダイアナ妃みたいな感じですね。
たられば:
この質問に絡みますが、定子が亡くなってから清少納言は、当然なんですけど、何一つ書いたものが残っていない。それは書かなかったのか、書くことが許されなかったのか、というあたりをぜひ伺えればと。
山本:
書いてないと申しますか、和歌は日常的にたくさん書いているので、彼女の書いた和歌は、和歌の受け手のところにあります。清少納言自身ではなくて、清少納言から和歌をもらったり、あるいは清少納言の身近な人が和歌をかき集めた『清少納言集』という和歌集はあります。それを見ると『枕草子』の清少納言と違って、かなりウエットな、いつも泣いたり、別れた息子のことを気にかける姿が伺えるんですね。
たられば:
なるほど…ただ遺っている和歌、少ないんですね。
山本:
少ないです。
たられば:
『清少納言集』、55ぐらいしか歌がないですよね。
山本:
はい。
たられば:
これも性格の違いが出ると思うんですけど、『紫式部集』は紫式部が自分で自分が作った和歌を集めているんですよね(笑)。
山本:
ええ。そういうタイプ。きっちり残しておきたい人ですよね。
たられば:
いっぽうで、『清少納言集』は誰か別の人が集めてきた他薦集なんですよね。いやまったく、両名の性格が出るものだなぁと思います。えーと、これは不勉強で申し訳ないんですけれども、宮中を退出したあとに書かれた和歌が『清少納言集』に載っているんですね。
山本:
そうです、はい。自分の年齢が老いていくので、月が沈んでいくみたいなものだ、みたいな和歌も残っていますから、人生のいろいろな局面で歌を書いたと思います。
たられば:
清少納言は、自分は和歌が不得意で、父親の名を汚すから詠めないなんて言っていて、定子に詠まなくていいですよって言われた。そういうのは全部経たあとに詠んだんでしょうね。
山本:
あの当時の人ですから、今の方がメールを送るみたいに和歌は日常的に書いていたと思いますけれど、みんなの前でちょっと歌を詠めとか言われたときに、やっぱり祖父とか父の名折れになってはいけないというような思いはあったんですね、本人は。ですけれども、歌そのものは、彼女が若いときから年寄りになるまで、彼女の歌をもらった人のところに残っていたわけで、気張ったところでは歌は、これ見よがしには詠めない。でも、歌はコンスタントには書き残している、というものが『清少納言集』には収められています。
河野:
それと、歌は文芸ジャンルのひとつとして貴族社会に共有されるものだけれども、『枕草子』の読者は定子その人1人であって、基本的にその人を失ったら、もうああいう作品を書くということ自体が清少納言の頭から消えたんでしょうかね。
山本:
それは聞いてみないといけないですね、清少納言に。けれど、清少納言の思いの中にはまず定子という人がいて、書き続けて、また、書くことを受け入れてくれる貴族社会があった。貴族社会の定子が亡くなったことで、自分たちがいじめていたという罪悪感があるので、清少納言の『枕草子』を受け入れて、歓迎しているようなんですね。ですから、その中で自分の書き甲斐みたいなことも感じてたのかなと思いますね。ですから、『枕草子』ってひとつにまとまっていますけど、いろんなことを書いているわけなので、この作品もこの作品も300作品書いたみたいな気持ちもあったのではないでしょうかね。
河野:
たらればさん、まだまだ聞きたいんでしょ?
たられば:
許されるなら。
河野:
じゃ、最後の質問を。
たられば:
あの、あとで楽屋で聞きます。大丈夫です(笑)。
河野:
伺いながら、このあいだ、たらればさんがツイッターで書いておられた『枕草子』第242段を思い出しました。清少納言の〈ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬〉。僕は清少納言に中学、高校で出会ってから、「なんじゃ、これは」でそのまま終わっているところがありました。書き出し部分は何回も読んで、すごいなと思ったんですけど、書かれていることの背景もそんなに考えないで、「プライドが高くて、美意識にうるさくて……一緒にお酒飲むと面倒だろう」と敬遠していたんですが、山本さんのご著書を拝読して、清少納言のイメージが変わったというのがすごくありました。それから、たらればさんがそれをまた熱くツイッターで語ってくださるので、「あ、『枕草子』ってこういうふうに読んだらおもしろいんだな」っていうことを次々発見したということもありました。今日お話を伺いながら、なんで今の1行を思い出したかというと、清少納言という人は、9歳か10歳ぐらいのときに身分の低い貴族だったお父さんが、遅く任官して地方に赴任していく。それについていって、そのときの船旅の印象を重ねて書いたんだろうと聞いたことがあります。ただ、それを1000年隔てて改めて読むと、都に住んでいた女の子が、初めて海に出て、目の前を走る船に驚いている。そして〈人の齢。春、夏、秋、冬〉。〈ただ過ぎに過ぐるもの〉として、何が清少納言の心に映ったのかなと、いろんな読み方ができる気がしてきました。
たられば:
ちょっと感動したのは、〈帆かけたる舟〉って、人生を船旅にたとえているんですけど、清少納言は、〈遠くて近きもの 極楽。舟の道。男女の仲〉って書いて、ここにも〈舟の道〉が書いてある。船って、ただ進むじゃないですか。構造的に、後ろには戻れない。これが人生だとするとですよ、船は行き先が決まってるんです。だけど、乗客はその多くをコントロールできない。だけど、帆を掛けることはできる、と解釈できるんですよね。僕らの人生は、いろんなものを学んだり、挫折したりする。だから本来コントロールしづらいものなんですが、帆を掛けて加速することはできるんじゃないか。後戻りはできないし、放っておいても風に流されて進んでしまうけれど、自ら帆をかければ早く進むことはできる。そういうことを思いながら〈ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬〉と書いたのかなって思うと、おお、すごいこと書いてるな、と(笑)。
山本:
そうですね。本当に春、夏、秋、冬、一日一日を大切に(笑)。
たられば:
はい、大切にしていきましょう。きれいにまとまりました(笑)。
河野:
『枕草子』、今日初めてお聞きになった方、改めて読み直したいなと思われた方、たくさんいらっしゃるんじゃないかと思います。今日は「■ほぼ日の学校【番外編】」としてやりましたけれども、『枕草子』をゆっくり読み進めてもいいなと思いましたので、そういうご案内をする日がやがて来るかと思います。ぜひそのときはご応募いただいて、「ほぼ日の学校」に来てください。山本先生、今日は本当にありがとうございました。
山本:
ありがとうございました。
たられば:
緊張しました。
河野:
じゃ、このあと、また犬に戻ってバンバン、ツイッターを書いてください。どうもみなさん、ありがとうございました。
(終了)
河野:
ここからはざっくばらんにお話を進めていただきたいと思います。たらればさんから。
たられば:
はい。えーと、イベントの前に質問事項を書いて送ってくれと言われたんですけれど、15個ぐらい書いて、とにかく聞きたいことがマニアック過ぎて(笑)、我ながらこれはまずいんじゃないかと思って、ライトめなのも交ぜました。最初はライトなものからいきたいと思います。最初に、『枕草子』は310段ぐらいありますが、山本先生の好きな章段は何ですか?
山本:
京都から参りました山本淳子です。今日はよろしくお願いいたします。
客席:
拍手
たられば:
ああっ、すみません! ご紹介もしないで。緊張してるんです。申し訳ない。
山本:
いえ。このお話をいただいたときに、ツイッターは私、不調法で存じ上げないものですから、「こんなに古典のことを広めてくださってるんだ」と思って胸が熱くなり、また先ほども定子と清少納言の話をしていただいて、本当にまた胸が熱くなりました。私が『枕草子』で一番好きな段は、みなさんご存知だと思いますが、〈うつくしきもの 瓜にかきたる児(ちご)の顔〉。何なんだ、と。〈瓜にかきたる児の顔〉。食べ物のマクワウリか何かに子どもの顔が描いてある。それが〈うつくしき〉というのは、高校で習う重要古語で「美しい」ではなく「かわいい」と訳されるわけで、どこがかわいいんだって(笑)ちょっと思っていました。これを中学か高校の教科書で習ったのですが、どの先生も今まで1人も、「なんで瓜に子どもの顔が描いてあるのか」っていうことを言ってくださった方がいらっしゃらなかった。なので、まあ、かわいいって言ってるからかわいいんだろうな、チンプンカンプンだなと思って参りました。でも、これはですね、増田繁夫先生の『枕草子』の注釈書に、当時、贈答用のフルーツに子どもの顔を描いてお贈りする風習があったと書かれていたので、研究者になってからそれに気づいて、「はぁー」と思ったとこでした。
たられば:
いやあ、勉強になりますね(笑)。あ、これ、録音しているんですよね。あとで読み返してニヤニヤします。ささ、続けてお願いいたします。
山本:
それから、〈もののあはれ知らせ顔なるもの〉。先ほど出てきましたが、「あぁ!」というのが「あはれ」なので、それを教えてくれるような様子のものという、長い物尽くしの言葉があって、〈まゆぬく〉と書いてあるんですね。これも、なぜ眉を抜くのが「あはれ」なのかわからないとされています。でも、眉を抜いたらちょっと涙が出るんですね。で、その顔を鏡で見たら、悲しそうな顔をしているので、〈もののあはれ知らせ顔なる〉。これは大好き。
たられば:
だんだんわかってきたんですが、山本先生もちょっと変態的なところがありますよね。
客席:
(笑)
山本:
ありがとうございます。たらればさんは?
たられば:
僕も好きな章段、いくつかあるんですけど、非常に有名な〈宮にはじめて参りたるころ〉。清少納言が初めて出仕したときの様子が書かれているんですけど、定子を目の前にして、「指がきれいだ」って表現するんです。なんでかっていうと、清少納言は畏れ多くて土下座してるんですね。「申し訳ない、申し訳ない、これほど美しい宮様に比べて私はやぼったい田舎者で…」というふうに土下座してると、定子の指先だけが目に入る。このシーンで、定子は清少納言に絵を見せて、これは誰それの絵で、こっちは誰それの絵で、と説明しています。これは萩谷朴先生の注釈書だったと思うんですけど、当時の教養で、筆遣いを見てその書は誰が書いたかを当てるのが女房の基礎教育の一つだったと。それを間違えると大変だから、絵だったら多少間違えてもいいし、とはいえ覚えておくと教養になると定子は気を遣ってそれを見せてくれたのではないか、というようなことを読んで、「ああ、なるほどな」と思いまして。そして、そこから、当時の習俗で一晩中語り明かすんですよね。清少納言は照れて、もう早く帰りたいとずっと考えながら一晩中話して早朝になるんですけれども、ほかの女房が朝になったので窓を開ける、格子を開ける描写がさしはさまれます。清少納言は定子に自分の照れた顔を見られたくないものだから、「開けないでくれ」と願うんですけど、そこで定子が「開けなくていいですよ」と女房に言って、清少納言には「今日はもういったん下がりなさい。でもまた私に会いに来てね」って言う。清少納言は「ああ、ありがたいことだ」と下がるんですけども、宮前を下がった直後に格子が開くと、その向こうに雪景色が見える。この描写がすごいなと思うんですけど、「ああ、雪がきれいだ、〈いとをかし〉」って清少納言がつぶやくんです。で、ああぁぁ、この人は、なんて豊かに世界を描くんだろうと思いました。それで、その描写を踏まえながら有名な第一段を読み返すと、清少納言は、〈冬はつとめて〉、冬の早朝は最高だって言ってるんですよね。おそらくこれはあのときの景色を思い出しながら、〈冬はつとめて〉って書いたんじゃないかなと思うと、なんかこう、ほんわかしませんか。
山本:
ありがとうございます。
たられば:
次に行きましょうか。こんな感じで大丈夫ですか。これライト編です。
客席:
(笑)
たられば:
続いて、『枕草子』の好きなキャラクターは? 『源氏物語』はわかりやすいですけれども、『枕草子』にも何人もキャラクターが出て来るんですね。皆さん個性豊かなんですけど、その中でも誰を推しますか?
山本:
そうですねえ、やっぱり、清少納言自身ですかね。
たられば:
彼女、上がったり下がったり忙しいですよね(笑)。
山本:
うーん。私は、前にたらればさんがお書きくださったように、『枕草子』というのは、全編が、清少納言から、悲劇的な境遇にあり、やがて亡くなった定子に、捧げた鎮魂歌・レクイエムだと思っているので、どんなにおもしろいことを書いていても、それは「全身で笑わせてるな」という気がして、健気でならないんです。〈瓜にかきたる児の顔〉というふうなものを書いて定子に見せたら、すごく暗い気持ちでも、「うん、かわいいわね」とか、本当に心から泣いてるような人に、〈もののあはれを知らせ顔〉なのは眉を抜いてるときなんだって言えば(笑)、笑い飛ばせちゃいますよね。というふうなことを書いてるんだなっていう作者の心の心底を見ると、ああ、なんて健気な人だったんだろうか、ということで、清少納言ですね。
たられば:
たぶん、今日『枕草子』が好きになった人は、これからいろんな『枕草子』関連の本を読んだり買ったりすることがあると思うんですけれども、おもしろいのは、研究者によって(想定している)清少納言のキャラクター像が全然違うんですよ。僕、かれこれ20〜30冊読んだんですけど、そのなかでも山本先生の描く清少納言は、抜群にロマンチックなんですよね。これが古典の醍醐味だと思うんですけど、行間に現れる作者の姿って、ちょっと鏡みたいなところがあると思っているんです。なにしろ書かれてないことのほうが多いから、作者像は読み手が想像するしかないんですけれど、その向こうに見えるものは、清少納言が半分、自分が半分じゃないかなと思っています。だからこそ僕、今日お会いするのにすごい緊張していて、先ほどご挨拶させていただいて、そうか、山本先生が描く清少納言がロマンチックなのは、山本先生がロマンチックだからなんだ! って感じで膝を叩きすぎていま膝が痛いです(笑)。ちなみに僕が好きなキャラクターは、橘則光です。
山本:
ああ……。
たられば:
清少納言の元旦那さん。ちょっとマヌケな感じなんですよね。元夫だけど、雅とか風流とか男女の機微があまり理解できない体育会系の人です。でも元奥さんである清少納言とは仲良くしていたい、身の上を心配しているし、兄妹みたいに付き合えればいいなって思ってるんですけど、そんな元旦那を清少納言は足蹴にする(笑)。「僕は君と仲よくしたいんだ、別れたあとでも。でも僕はきみが得意な和歌とか全然わからないし、理解できない。だから僕と縁を切りたいときは、和歌を送ってくれ。そしたら僕はそれを絶縁の合図だと思うから」っていう手紙を送ると、その直後に清少納言が和歌を送る。
客席:
(笑)
たられば:
「清少納言、すげえ!」と思いません? 迷いゼロ。でもこれ、ちょっと深い話があって、田中澄江先生の『枕草子への道」というエッセイに書かれていて「ハッ」と思ったことなんですが、先ほど申し上げたとおり、清少納言は負け組なんですね、政治的に。要するに「自分と関わったら政治的に立場が弱くなるんじゃないか」と思っている節がある。そんなときに元旦那が、まあ空気が読めない感じなんですが、仲良くしたいと寄ってくる。だけど、周囲に自分と付き合いが続いていると思われたら、彼は政治的に悪い立場になるんじゃないか、そう思っていたから冷たく扱ったのではないか…という解釈を読んで、「ああ、なんてロマンチック」と。そういう解釈もできるのが、「半分は自分の姿なんじゃないか」と思うところで、読みがいというか、読みでがあるなと思っております。
山本:
ちょっとその話をさせていただいてよろしいですか。
たられば:
ぜひぜひぜひ。
山本:
清少納言はたくさんボーイフレンドがいるんですけれど、その中の一人に藤原斉信という人物がいます。清少納言が仕えていた定子の父親が亡くなって家が零落すると同時に、風見鶏のごとく藤原道長に寝返るんですね。そして、橘則光という人物は、この斉信の私的な家司(けいし)=国家公務員として働くと同時に、斉信の家にも勤める立場だったのです。斉信には清少納言を道長の側に引き込みたいという策略があったようなのですが、清少納言の定子様に対する気持ちをわかっている則光は、それから清少納言を守ったりしてくれているというようなこともしていた。けれど、状況はどんどん悪くなっていく。そんな中で清少納言のほうが気を回したんだと私は思います。そこで、「2人の約束だった歌を詠めばもうお別れだ。私から別れてあげる」、と、そういうことだと私は思っております。すみません、ロマンチック過ぎて(笑)。
たられば:
ああ、今日は本当に、来てよかった(笑)。ありがとうございます。続いて、ちょっとマニアックな質問です。清少納言はなぜ清少納言と呼ばれたのでしょうか。ちょっと前段説明しますと、ドナルド・キーン先生という日本文学の専門家が『日本文学の歴史』の中で「『枕草子』最大の謎は、清少納言がなぜ清少納言なのかということだ」と書いているんです。要するに、清少納言というからには少納言が近くにいたはずなんだけど、少納言職の人間がいないらしい。これはなぜか、と。彼女が清少納言と呼ばれていたのは間違いないんです。自著だけでなく、『紫式部日記』でも清少納言とバッチリ書いてあります。だけど、彼女の周りに少納言がいない。会社で言うと、部長じゃないのにあだ名が「部長」みたいな(笑)。そんな感じですかね。
山本:
確かに清少納言の親族を見渡しても、少納言という役職に就いた人が見当たらないので、たとえば藤本宗利先生は、「これは定子の創作じゃないか」と。「少納言ってカッコいいから、あなた、少納言にしなさいよ」っていうようなことにされたんじゃないかという推測されています。ちなみに、紫式部とか和泉式部みたいに式部というのは、一族に式部省に勤めていた人がいるから式部がつく。普通はそれだけでいいんですけれど、勤め先に同じ式部がいると、年齢的に大式部、小式部とする。もう1人式部が入ったら、藤原氏なら藤という字をつけて、藤式部(とうしきぶ)というふうにする。だから、もともと紫式部は「藤式部」といわれていたのですが、作品が世の中に広まったので、やがて登場人物の名前を取って紫に変わったという。ですから、清少納言も「少納言」と呼ばれていて、『枕草子』の中に出てくるときは、「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ」ですよね。でも、世の中に少納言が多いということで、清原の清という出身一族の名から一文字取って、清少納言と名乗る。でも、少納言の出所がわからない。謎です。
たられば:
みなさん、勉強になるでしょう(笑)? わかりました。続いての質問に行かせていただきます。紫式部と清少納言は本当に会ってないのでしょうか? 実際には会っていないはずとよくいわれますが、清少納言が宮中を退出したあと、摂津だとか、京都の月輪あたりに住んでいたといわれます。その頃、紫式部は宮中ですから京都市街中心部にいて、地図を見ると案外近いんですよね。会った記録がないのはわかるんですけど、会おうと思えば会える距離にいたら、お互い話題になっているなら、会わないのかなと思うんですが、どうですか。会ってたらすごくおもしろいなと思うんですけれども。
山本:
そうですね。昔の映画で、森光子さんが清少納言で、吉永小百合さんが紫式部だったときに……、これはちょっとありえないんですけれど、定子の女房たちが向こうのほうから歩いてくる。で、彰子の女房たちがこっちから歩いていく。2人が宮廷にいたのは時期的には5年ぐらいタイムラグがあるので、こういうことはないんですけれど、「向こうを歩いてくるのが清少納言よ」って聞かされた紫式部がキッとした目になって、「あれが清少納言」って、そういう一言があったんですけど、これはないです。つまり1人の天皇の2人のお后の対立する女房たちとして存在したことはありませんでした。でも、どこかで会ってるかという質問ですよね。紫式部の清少納言批評には、〈清少納言こそ〉というずっとあとに、〈真名書き散らして侍るほども=漢字を書き散らしていらっしゃるその教養の程度も〉、〈よく見ればまだいと足らぬこと多かり=よく見れば足らないところが多い〉とあるので、書いたものは見てるってことですよね。「よく話せば」じゃないので、会って話すとかいうのではなかったと思いますね。第一部でおっしゃいましたけど、清少納言のことは、紫式部は書き物を通じてその作者としてよく知っている。で、その教養も「私は見透かしているわよ」っていう、そういう付き合いだったのではないでしょうか。
河野:
ひとつ質問なんですけど、『枕草子』を当時、みなさんどのようにして読んでいたのですか。
山本:
難しいお話です。『枕草子』は、今みなさんがお読みになってる『枕草子』の一番後ろに「跋文」といわれる「あとがき」がついていて、それによると、「定子様が零落されて一旦髪を切られた(出家されて)絶望の中にあるときに定子のもとに届けた」ということが書いてあるんですけれど、それ届けたあとに跋文を書いてるわけですが(笑)、もうあと、もう一段階あるはずなんですよね。それは、おそらくは定子様が亡くなってからあと、その思い出の記を書いたということでしょう。最初のものは定子に捧げた1冊だけで出回らず、その次のものは、定子という後ろ盾を失った清少納言は家に引きこもってから、それこそSNSのように紙に書いてはばら撒き、書いてはばら撒き、「よかったら写しといて」という形のものが拡散されて、それを心に留める人もいれば、「あ、清少納言から何か来たわ。おもしろいから書き留めて残しておきましょう」という人もいて、あちこちに『枕草子』の違うものができて、『枕草子』が一定しないものになったので、清少納言は最初にあった、定子に捧げた第一編と、自分が拡散し続けたものを全部まとめて、ひとつの『枕草子』に自分で編集した。これも2回ほど、後日書き直しをしています。ですから、十年以上の月日を経て今の形になったもののようです。
たられば:
勉強になるなぁ……。
山本:
ありがとうございます。
河野:
紫式部がもし読んだとしたら、その最後に手を入れた最終版ですか?
山本:
そうではないかなと思いますね。あるいは、自分のところに拡散されて回ってきて、「何よ、これ」とか思って、別のところに回したかもしれません。
河野:
とにかく紫式部の清少納言批評は、かなりボロクソですよね。
山本:
そう。〈したり顔に〉ってドヤ顔ですよ。ドヤ顔で〈いみじう侍りける〉とんでもない人というんですから、全否定してますね。
客席:
(笑)
たられば:
痛快ですよ、本当に。和泉式部とかいろんな人の評伝は、「この人はこんな感じ、この人はこんな感じ」って書くんですけど、清少納言の段に入ったら、突然、筆が加速するんです(笑)。ろくな死に方しないとか、2ちゃんねるかなっていうくらい。
山本:
確かにそうですね。
たられば:
次の質問です。その二人の関係なんですけれども、清少納言は生前、(まさにその、自分がボロクソに書かれている)『紫式部日記』を読む機会は可能性はあったんでしょうか?
山本:
私はこれはなかっただろうと思っています。『紫式部日記』も、とても編集が変わっているというか、きちんとしていないものなんです。紫式部が仕えた彰子様が第一子をお産みになり、それが男の子だったというので大パーティが繰り返される秋頃から年末までは、日記、つまり記録風なんです。ところがお正月になると急に筆致が変わって、「このついでに私が知っている女房たちのことを書いたら、書き過ぎだと言われるかしら」というふうに、急にお手紙口調になる。それまではルポルタージュなんです。誰と誰が来て、ここで何してたみたいなことを書いているのに、急に「いいかしら」と。私が考えるのは、藤原道長が、「うちの彰子が子どもを産むから、これを記録にしておけ。男の子だったら大変な記録になるぞ」っていうふうなことで、まずその記録を書かせた。紫式部はその記録の手控えをとっていた、自分でも名作だと思っていたときに……
たられば:
いかにも紫式部(笑)。
山本:
他にもいろいろ書きたいことがあるので、清少納言が定子様に『枕草子』を献上したみたいに記録を道長様に献上しちゃったけれども、清少納言が後に書き足したみたいに、自分の知り合いの限られた人に、「私の宮廷お仕え記録もちょっと読んでね」っていうので、「ついでに書いていいかしら」と書いた。その中に、「清少納言ってひどいやつ」とも。でも、これは自分の同僚の悪口も書いている。「あんな使えないやつ」みたいなことも書いているので、広く広めちゃいけない。本当に娘とか友達だけ。だから、ましてや清少納言は読んでいなかっただろうなと思います。
たられば:
わりと真剣に聞きたいことなんですが、じゃあ、紫式部は『紫式部日記』を、そんなに広範に広めるつもりはなかったということですか?
山本:
そう思いますね。『紫式部日記』のパーティの記録は、その二十年ぐらいあと、藤原道長が亡くなった直後、『栄華物語』の中にそのまま、たくさん引用されるんですけれど、清少納言の悪口だとか同僚への云々はまったく書かれていない。なので、それがついていないものが『栄華物語』のほうに渡されたのではないかと思います。
たられば:
清少納言自身は、跋文にあとがきの体で「『枕草子』を世に出そうと思ってなかったが、うっかり広まった」と書いている。今、『紫式部日記』をあまり広めるつもりなかったとおっしゃいました。(両名の性格を考えると)そんなわけないだろうと思うんですが、ではこれ(特に『枕草子』の「世の中に広めるつもりはなかった」は)、ちょっと本気で書いてるってことですかね。
山本:
「自分は世に広めるつもりはなかった」という前に、「人のためによくないことも書いてしまっているので、これは隠しておこうと思ったんだけれど」という条件付きなんですね。で、『枕草子』を読むと、先ほどの斉信という人物が、暗躍というか、いろいろなことをしていたり、当時の人間関係的なことも出てきますので、「私としては困った」というエクスキューズをつけたと思うのですが、でも……、本音ではなかっただろうと思いますね(笑)。
たられば:
すごいんです。だって、『枕草子』が世に広まるキッカケって、お客さんが来たから座布団出そうと思って、出したら、そこにあったって、そんなわけない!
客席:
(笑)
山本:
ついつい出ちゃった、と(笑)。「これ面白そうですね。もらっていきましょう」というので広まっちゃう。「私はそんなつもりなかった」(笑)。
たられば:
清少納言って、そんなタイプではないですよね、なんとなく。
山本:
そうですね。絶対意図していたと思います(笑)。
たられば:
次の質問です。当時の最高権力者・藤原道長は『枕草子』を読んでいなかったのでしょうか? 状況的には読んでないはずがないと思うんですが。道長は教養人ですし、『源氏物語』は書かれた直後から奪うように持っていったという記録もあるぐらいですから、『枕草子』も読んでいたのでは? だとしたら、政治的なことが書かれているくだりを改変しようとは思わなかったのでしょうか?
山本:
私もずっとそれは不思議だと思っていました。つまり定子の家が零落して、それでも定子は一条天皇の心を捉え続けている。自分の娘、彰子が入内する見込みになってからというもの、道長は本当に直接定子をいじめることもあったんですよね。まわりの貴族も、「あれは定子の引越しを妨害しようとしているようだ」と言う関係であった。にもかかわらず、定子様の理想的な姿が書かれている作品を世にのさばらせ続けるのはいかがなものか、と思います。でも、きっと読んでいたし、認めていたと思います。というのは、定子は3人目の子どもの出産のときに亡くなったんですね、後産(あとざん)で。1000年のことです。8年後の1008年に彰子が、先ほどの『紫式部日記』に書かれる最初の出産をするんですが、その後産のときに道長は一番怖がっているんです。「物の怪調伏班」を5班も設けて、子どもは産まれた、後産はまだというときに、そこに詰めかけた100人以上の女房たちやら貴族やらが床に頭を擦りつけて、「はぁー」ってお願いしたというんですね。それぐらい、定子の怨霊が現れて彰子を殺すのではないかということを実際に怖がっていた。そのような道長にしてみれば、定子の魂が浮かばれるような、いいことばっかりを書いた『枕草子』には都合のいいところもあったと思うんです。
たられば:
では、藤原道長も、『枕草子』は鎮魂の書であるというふうに捉えていたと?
山本:
はい。とくに道長は定子が亡くなったその日に、怨霊に襲われてるんですね。怨霊の正体は定子の父親。定子は四十九日にならないあいだは怨霊になれないので、定子の父親が、「うちの娘をいじめたな!」みたいなことで出てきたと完全に思っている。『権記』という貴族の日記に、「道長はそういうことで、定子様が亡くなったというのに宮中に駆けつけることもしなかった」と書いてあるんですね。ですから、定子が亡くなるや否や、どれだけ道長が定子、あるいは一族の怨霊を怖がるようになったかというのは、はっきり歴史の証言があるところです。
河野:
鎮魂の方向が違うんだろうと思うんですよね。清少納言の鎮魂は、まさに定子の文化的なサロンの輝きを書き残すことによって讃え、追悼することだろうと思うし、道長は逆に、悪さをしないように、怨霊が出てこないように鎮めるという方向で、『枕草子』を葬るのは逆効果になるから、と考えたのでしょうね。
山本:
はい、そう思いますね。ところが、彰子はやがて清少納言の娘を自分の女房に雇うんですね。で、その娘は、人に乞われると、『枕草子』をどうも貸し出しているようなんです。それを彰子はまったく止めないで容認しているので、彰子は「私は定子様と敵対関係にあったわけではないし、『枕草子』を守ってる」というふうな度量の深さを示している。「恐るべし、彰子」ですね。
たられば:
道長の娘の彰子って、『枕草子』の二次作品なんか読むと、おとなしい方で、自分は前に出ないというイメージです。これも伺おうと思っていたんですけど、彰子は当然『枕草子』を読んでるはずですよね。どういうふうに受け止めたのでしょう。
山本:
それは資料に書かれていないのでわからないんですが、行動としては今申したようなことをしていたわけなんですよね。
たられば:
彰子は、定子の息子も引き取って育ててるんですよね。
山本:
そうです。一条天皇が定子亡きあと愛した定子の妹の御匣殿(みくしげどの)というのがいたわけなんですが、この関係に気付いた道長が仰天して、「御匣殿が定子の子どもを育てているから、それを口実に一条天皇が通ってくるんだ。これを奪え」ということで、子どもたちは彰子が養うことになる。とくに敦康親王ですね。ところが、彰子は敦康親王をやがて皇太子にすればいいと言って、父親と仲が険悪になるぐらいなんです。彰子は、定子に対して敵対感情とか恨みとかを持つよりも、もっと大所高所から見るような考え方が、やがてできていたのではないかと思いますね。
たられば:
用意していなかった質問なんですけど、『枕草子』という作品は定子がいないと多分生まれなかったと思うんですけど、では、『源氏物語』とか『紫式部日記』も、彰子という存在がなければできなかったと考えてもいいんでしょうか。
山本:
そうですね、紫式部は、自宅にいて、夫を亡くした傷心の中で『源氏物語』を書き始めた。でもこれは、財力もないので短編を書いていた。それが友達や親戚のあいだで有名になった。この親戚というのが、またいとこの道長の妻・源倫子です。ですから、道長が「清少納言みたいな女房はいないのか」って言ったときに、身内にいたんですね。「貧乏だけど、いいの書いてるのがいるのよ」みたいに妻が言った。
たられば:
客席:
(笑)。
山本:
雇われたら財力の後ろ盾ができるので、大長編を書くことができるようになった。やっぱり紙とか筆とか硯とか、とても高価だったんです。それで、紫式部は、光源氏という色好みの男の子が過激な恋を繰り返すという短編を、「桐壺の巻」から始めて、両親の悲劇から生まれた子どもがやがてどんな人生を送るかという大長編にできた。ですから、彰子に雇われたこともあって、『源氏物語』が今のようになったと思います。『紫式部日記』も先ほど申し上げたとおりですね。
たられば:
ありがとうございます。次の質問にいきます。跋文にある〈枕にこそは侍らめ〉という有名なやりとり。これは事実ですか? マニアックなんですが、個人的にすごく気になるんです。背景を説明しますと、最初に紙をもらって清少納言は書き始めるんですけど、その紙は内大臣(これは藤原伊周といわれているんですが、別説もあります)からもらって、一条天皇は中国の司馬遷の『史記』を書き写すようだと。定子は何を書きますか、というやりとりがあったときに、清少納言は〈枕にこそは侍らめ〉と。「枕でもすればいいんじゃないですか」というやりとりがあって、「じゃ、書きなさい。あなた」といって紙を渡されたというやりとりが書いてあるんです。これは史実と考えてもいいものなんでしょうか?
河野:
最初は『古今和歌集』を書き写すようなイメージだったんですよね。ところが、清少納言が「枕」というその名言を吐いた。
たられば:
「枕ってなんだよ」って話もありますしね。
山本:
実はこれは、私が『枕草子のたくらみ』を書いたときに、紙が分厚いくらいたくさんあるので、(昔の分厚い)電話帳を枕にするみたいに、「この紙束がすごく分厚いので枕にしたいものですわ」っていうふうに言ったら、「じゃ、あなたが書きなさい」と、定子が清少納言に託したと書いたのですけれども、それが2017年の4月ですが、本を出してから、『枕草子』研究専門の津島知明先生から新しい説が出ました。『枕草子』はそのときすでに書かれていた。その分厚い紙が来たのは2度目の紙であった、と。つまり、もう書かれていた『枕草子』というのは、定子様が髪を切ったあとに献上したとき、もうすでにそれが『枕草子』であった。そのあと、内大臣伊周というのは落ちぶれているんだけども、『枕草子』の中では内大臣という立派な名前で呼ばれ続けていて、その人から第2弾の紙が来た。で、そのときに、「これどうしましょう。古今集書きましょうか?」と言われた清少納言が、「私が『枕草子』を前に書いているから、これを『枕草子』にしたいものですわ」というふうに提案したら、定子様が、「じゃ、おまえにあげるから、あの続きを書いてね」っていうことになったのではないかという新説です。
たられば:
おおおお、「続き」。なるほど。
山本:
なので、これの場合にはブログみたいに、書いてはばら撒くための紙は最初から用意されていたってことになりますね。それぐらいまだ『枕草子』の研究者の中でも、そのことに関する説が一定しないわけです。まだまだ謎解きの種がいっぱいあるんですね。
たられば:
1000年越しで解釈がガラッと変わるということがあるということですね。
河野:
紙が献上されるというのも、そういう時代だったんだなあと思いますね。
山本:
そうですね。紙は、たとえば宮中で文書のために絶対必要ですけども、これは何回も漉き替えしていました。ですから、宮中で使っていた紙屋紙は灰色なんです。それぐらい真っ白な紙は貴重品だったわけです。『枕草子』の中には、真っ白な紙をもらったときには、もう死にたいような気持でも、もうちょっと生きてみるかって気持ちになる、ということが書かれている。で、そんな時に、定子からもらったとか、伊周からもらった紙なんですよね。
たられば:
定子様って、清少納言に意地悪な場面もあるんですけど、すごくケアする場面もあって、紙をプレゼントするのも、前に清少納言が「私、ときどき死にたくなるようなことがあるんだけど、真っ白い紙を見ると、明日もまた生きようと思うんです」と言ったのを覚えていて、白い紙を渡すんですよね。清少納言は語彙がたくさんあるものだから、あまりにうれしくて、「死にたくなっていましたけど、おかげさまで寿命が1000年延びました」って(笑)、オタクみたいなことを言うんですね。
山本:
そしたら定子が、「お手軽ね」って(笑)。
客席:
(笑)
たられば:
そう、定子の、何というか、ツンデレな感じ。
山本:
でも、そのとき、まさに定子がどん底にいたときで、清少納言は清少納言で、「道長への寝返り疑惑」を同僚からかけられて、いじめによって家に引きこもっている。そのときに、つらいはずの定子から紙が届いたっていうことですよね。
たられば:
定子のほうがよっぽどつらいでしょうからね。
山本:
ええ。ですから、清少納言の寿命が延びたのも、そうかなって思いますね(笑)。
たられば:
しかも、美しい和歌で「鶴の寿命になりました(=寿命が延びた)」って書くんですよね(笑)。あまり時間もないので、すごく聞きたい話に絞って伺います。なぜ『方丈記』まで200年間、『枕草子』の後続と呼ばれるような作品が出なかったのでしょうか。みなさん、『枕草子』、『方丈記』、『徒然草』という三大随筆って授業で習ったと思いますが、『枕草子』のあとの『方丈記』は、世捨て人が書いた200年後の作品なんですね。その次は『徒然草』で、また100年後。随筆ってもっと気軽に書けそうな気がしませんか? 後続作品が出るまで200年って長過ぎるような気がするんですが。
山本:
随筆って、たらればさんがツイッターとかでお書きになってるような感じですよね。ですから、随筆は気軽な感じがすると思うんですけど、私は『方丈記』は随筆ではないと思っていて、『方丈記』は「記」というジャンルの作品なんです。ずらずらと事情とかを書いて、すごく盛り上がったとこで最後、ダンッと落とすという、中国の「記」という文章のあり方なんですね。庭のことや暮らしのことを書いた『池亭記(ちていき)』もそうですが、中国の文章のあり方に倣った「記」というもので、自分の心のままに書いたものではないと思うんですね。私は、清少納言の『枕草子』を随筆とするならば、そのあとを継ぐ形が『紫式部日記』。「今思ってることを書いてもいいかしら」、と心のままに、和泉式部はけしからんとか、赤染衛門は自分の夫のことばっかり言ってるとか好き勝手を書いて、でも、これはあんまりたくさんの人に広めない。『徒然草』もたくさんの人に広めなかったんですよね。兼好は、生前は歌人として大変有名でしたけれども、『徒然草』という散文作品を書いたことが知られたのは、ずいぶんあとになってから。それこそ〈あやしうこそものぐるほしけれ〉と思って、「ちょっとまあ、作りました」というものだったのではないでしょうか。
たられば;
随筆を書こうというカルチャーはなかったということですか、平安時代の一時期。
山本:
『枕草子』が一体どういうジャンルなのかというのが、みんながよくわからないまま、わからないものは書きにくいので、どうしようかっていう気持ちのまま。紫式部はちょっと真似しましたけれど、それを広めるでもなかった。しかし、『枕草子』がだんだん世の中に広がっていって、兼好は『源氏物語』や『枕草子』を読んでいると『徒然草』の中で書いてますよね。ですから、名作だ、この書き方もOKなんだ、ということが書き手側に認識されるのに、『徒然草』までですから300年以上かかったことになるわけです。
たられば:
これもぜひ聞きたいと思っていた質問です。教科書に載っている『枕草子』は誰でも知っていると思うんですが、とはいえ1000年間のギャップがある。『徒然草』はほとんど読まれなかった期間が長期間あった。では『枕草子』も読まれなかった期間があるんですか。
山本:
『枕草子』の注釈書というか、「『枕草子』にはこういうことが書いてある」というようなことを言っていた人がいて、これは1200年代の人です。その人が注釈を付けたということは、もう本自体は残っていないですが、引用されています。もっと明確には、小倉百人一首を編んだ藤原定家が、三巻本の『枕草子』の一種の後ろに、「息子は何年に生まれた」とかそういう巻末注(★書き込み)を書いてるんですね。定家は、1100年代の終わりぐらいから1200年代まで生きたので、その頃にはもう広がって読まれていたことは明らかです。でも、『源氏物語』みたいに脈々と研究されてはこなかった。あるとき、突然、17世紀の中頃、延宝二年に二つの大注釈が出るんです。ひとつが北村季吟の『枕草子春曙抄』、もうひとつは加藤磐斎の『枕草子抄』。どちらも大部なもので、突然出るんですね。
たられば:
江戸時代ってことですね。
山本:
はい、江戸時代です。それで、その頃に名作だと認識され、印刷本としてみんなに読まれ、注釈も付けてもっとみんなに読んでほしいというふうな機運が急に高まったりした不思議な現象。国文学研究者も不思議がっている謎です。
たられば:
初版から600年以上たって、2冊、突然出てきたわけですね。
山本:
そうです。それまでもずっと書き継がれて、読み継がれてはいたんです。『枕草子』のある種の本の中に、「『枕草子』は一家に一冊持っている」と書いてあるんですね。けれど、「それがみんなよくないので、いい本を作りました」みたいなことが書いてある。一家に一冊ぐらいは普及していたけれど、それを研究しようという人があまりいなかったということなんでしょうかね。読みやすいから。『源氏物語』は、わかりにくいですからね。
たられば:
あ、わかりづらいです(笑)。
山本:
だから、研究書がある。
たられば:
わかりやすいと研究する人が少ないんですね。
山本:
そうですね。わかるって思い込んじゃうんですね。
たられば:
もし清少納言にひとつ質問できるとしたら、どんなことを聞いてみたいですか?
山本:
そうですねえ。一晩ぐらい語り合いたいですね(笑)。定子様のことをどう思っていたのかも聞きたいですけど、やはりどういう順番で『枕草子』を書いたのかとか、研究者ならではの問いをたくさんぶつけたいと思いますね。
たられば:
定子が亡くなったときに清少納言がどこにいたのかというのは、わかってるんですか?
山本:
私はきっとそばにいただろうと思います。いなかったはずがないだろうと思います。少なくとも定子が12月に亡くなる前の5月の定子の姿までは書き留めていますので、そのあと定子のそばを離れる理由がないですよね。けれども、定子が亡くなったその姿はおろか、亡くなったことも、ひと言も書いていない。これはやっぱり意図的なことで、定子様をこの本にずっと生かし続けるということだと思います。
たられば:
資格的には、宮中で(瀕死の中宮の)そばにいることは許される立場だったんですか。
山本:
はい。定子がなくなったのは三条宮という出産のためにいたところで、そこについています。ですから、そばにいて、その様子を見守っていただろうと思いますね。
たられば:
それについてひと言も出てないというのは、意図的に書かなかったと。
山本:
到底書けないでしょう、こんなに好きな人が亡くなった姿を。しかも、それを死後の定子様に捧げるというのは、おかしいですよね。「あなた、こんなふうにして死にましたよね」みたいな。やっぱりずっと生き続けてるってことだと思うんです。
たられば:
やはり『枕草子』は、そういう意味で徹頭徹尾、定子に捧げる作品だったわけですね。
山本:
私はそう思います。そして、それであることによって、貴族社会のみんなの心の中に定子の姿を焼きつける。ダイアナ妃みたいな感じですね。
たられば:
この質問に絡みますが、定子が亡くなってから清少納言は、当然なんですけど、何一つ書いたものが残っていない。それは書かなかったのか、書くことが許されなかったのか、というあたりをぜひ伺えればと。
山本:
書いてないと申しますか、和歌は日常的にたくさん書いているので、彼女の書いた和歌は、和歌の受け手のところにあります。清少納言自身ではなくて、清少納言から和歌をもらったり、あるいは清少納言の身近な人が和歌をかき集めた『清少納言集』という和歌集はあります。それを見ると『枕草子』の清少納言と違って、かなりウエットな、いつも泣いたり、別れた息子のことを気にかける姿が伺えるんですね。
たられば:
なるほど…ただ遺っている和歌、少ないんですね。
山本:
少ないです。
たられば:
『清少納言集』、55ぐらいしか歌がないですよね。
山本:
はい。
たられば:
これも性格の違いが出ると思うんですけど、『紫式部集』は紫式部が自分で自分が作った和歌を集めているんですよね(笑)。
山本:
ええ。そういうタイプ。きっちり残しておきたい人ですよね。
たられば:
いっぽうで、『清少納言集』は誰か別の人が集めてきた他薦集なんですよね。いやまったく、両名の性格が出るものだなぁと思います。えーと、これは不勉強で申し訳ないんですけれども、宮中を退出したあとに書かれた和歌が『清少納言集』に載っているんですね。
山本:
そうです、はい。自分の年齢が老いていくので、月が沈んでいくみたいなものだ、みたいな和歌も残っていますから、人生のいろいろな局面で歌を書いたと思います。
たられば:
清少納言は、自分は和歌が不得意で、父親の名を汚すから詠めないなんて言っていて、定子に詠まなくていいですよって言われた。そういうのは全部経たあとに詠んだんでしょうね。
山本:
あの当時の人ですから、今の方がメールを送るみたいに和歌は日常的に書いていたと思いますけれど、みんなの前でちょっと歌を詠めとか言われたときに、やっぱり祖父とか父の名折れになってはいけないというような思いはあったんですね、本人は。ですけれども、歌そのものは、彼女が若いときから年寄りになるまで、彼女の歌をもらった人のところに残っていたわけで、気張ったところでは歌は、これ見よがしには詠めない。でも、歌はコンスタントには書き残している、というものが『清少納言集』には収められています。
河野:
それと、歌は文芸ジャンルのひとつとして貴族社会に共有されるものだけれども、『枕草子』の読者は定子その人1人であって、基本的にその人を失ったら、もうああいう作品を書くということ自体が清少納言の頭から消えたんでしょうかね。
山本:
それは聞いてみないといけないですね、清少納言に。けれど、清少納言の思いの中にはまず定子という人がいて、書き続けて、また、書くことを受け入れてくれる貴族社会があった。貴族社会の定子が亡くなったことで、自分たちがいじめていたという罪悪感があるので、清少納言の『枕草子』を受け入れて、歓迎しているようなんですね。ですから、その中で自分の書き甲斐みたいなことも感じてたのかなと思いますね。ですから、『枕草子』ってひとつにまとまっていますけど、いろんなことを書いているわけなので、この作品もこの作品も300作品書いたみたいな気持ちもあったのではないでしょうかね。
河野:
たらればさん、まだまだ聞きたいんでしょ?
たられば:
許されるなら。
河野:
じゃ、最後の質問を。
たられば:
あの、あとで楽屋で聞きます。大丈夫です(笑)。
河野:
伺いながら、このあいだ、たらればさんがツイッターで書いておられた『枕草子』第242段を思い出しました。清少納言の〈ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬〉。僕は清少納言に中学、高校で出会ってから、「なんじゃ、これは」でそのまま終わっているところがありました。書き出し部分は何回も読んで、すごいなと思ったんですけど、書かれていることの背景もそんなに考えないで、「プライドが高くて、美意識にうるさくて……一緒にお酒飲むと面倒だろう」と敬遠していたんですが、山本さんのご著書を拝読して、清少納言のイメージが変わったというのがすごくありました。それから、たらればさんがそれをまた熱くツイッターで語ってくださるので、「あ、『枕草子』ってこういうふうに読んだらおもしろいんだな」っていうことを次々発見したということもありました。今日お話を伺いながら、なんで今の1行を思い出したかというと、清少納言という人は、9歳か10歳ぐらいのときに身分の低い貴族だったお父さんが、遅く任官して地方に赴任していく。それについていって、そのときの船旅の印象を重ねて書いたんだろうと聞いたことがあります。ただ、それを1000年隔てて改めて読むと、都に住んでいた女の子が、初めて海に出て、目の前を走る船に驚いている。そして〈人の齢。春、夏、秋、冬〉。〈ただ過ぎに過ぐるもの〉として、何が清少納言の心に映ったのかなと、いろんな読み方ができる気がしてきました。
たられば:
ちょっと感動したのは、〈帆かけたる舟〉って、人生を船旅にたとえているんですけど、清少納言は、〈遠くて近きもの 極楽。舟の道。男女の仲〉って書いて、ここにも〈舟の道〉が書いてある。船って、ただ進むじゃないですか。構造的に、後ろには戻れない。これが人生だとするとですよ、船は行き先が決まってるんです。だけど、乗客はその多くをコントロールできない。だけど、帆を掛けることはできる、と解釈できるんですよね。僕らの人生は、いろんなものを学んだり、挫折したりする。だから本来コントロールしづらいものなんですが、帆を掛けて加速することはできるんじゃないか。後戻りはできないし、放っておいても風に流されて進んでしまうけれど、自ら帆をかければ早く進むことはできる。そういうことを思いながら〈ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬〉と書いたのかなって思うと、おお、すごいこと書いてるな、と(笑)。
山本:
そうですね。本当に春、夏、秋、冬、一日一日を大切に(笑)。
たられば:
はい、大切にしていきましょう。きれいにまとまりました(笑)。
河野:
『枕草子』、今日初めてお聞きになった方、改めて読み直したいなと思われた方、たくさんいらっしゃるんじゃないかと思います。今日は「■ほぼ日の学校【番外編】」としてやりましたけれども、『枕草子』をゆっくり読み進めてもいいなと思いましたので、そういうご案内をする日がやがて来るかと思います。ぜひそのときはご応募いただいて、「ほぼ日の学校」に来てください。山本先生、今日は本当にありがとうございました。
山本:
ありがとうございました。
たられば:
緊張しました。
河野:
じゃ、このあと、また犬に戻ってバンバン、ツイッターを書いてください。どうもみなさん、ありがとうございました。
(終了)