ダーウィンの贈りもの I 
第11回 井原泰雄さん

協力と文化から見る人間らしさの進化

15分版・120分版の視聴方法は こちらをご覧ください。

井原泰雄さんの

プロフィール

この講座について

「人間らしさって何だろう?」それを考えつづけた2時間半の授業でした。生物としてのヒトの進化を考える自然人類学を専門とする井原泰雄さんが取り組む課題は、「他の動物と人間の違いとは何か?」というもの。人間性の起源はダーウィンも悩ませた「最後のパズル」だそうです。そんな大きな課題に挑んでみました。(講義日:2019年10月30日)

講義ノート

最初に自己紹介させていただきます。普段は東大理学部の生物学科というところにおります。やっていることは、進化人類学といっていますが、人類学というと、どっちかというと文化人類学を想像されることが多いのではないかなと思うのですが、文化人類学と、私がやっているような進化人類学だとか、あるいは自然人類学、生物人類学といわれるものがありまして、だいぶ違うんですね。人間を扱うというところは同じですが。ちょっと雑な言い方をすると、自然人類学、生物人類学というのは、理科系の人類学です。文化人類学は、普通は文学部だとか教養学部にそういう専攻があるというところで違います。われわれ自然人類学者が扱うのは、主に人類の進化です。それから生物としてのヒトを扱う。そういうことをやっています。そういう「ヒトの生物学」、あるいは「人類の進化」を扱う学科が生物学科なんですけど、生物学科の中にそういうグループがあるのが東大のひとつの特徴にもなっていて、そういう人類学の研究をしている人たちが何人かわれわれのグループの中にいます。たとえば、次の次の回に国立科学博物館の海部陽介さんがここに来ると思うんですけど、海部さんは僕の4年ぐらい先輩です。さらには今回のシリーズの第1回講師が長谷川眞理子さんですね。長谷川さんは、もうずっと先輩です。いや、ちょっと先輩です(笑)。同じ人類学の出身です。

●人間性はどういうふうに進化してきたのか?

進化人類学の中でも僕自身が特に興味を持っているのは、行動の進化です。ヒトは霊長類の一種である。類人猿の一種であるということは、みなさんご存知だと思いますが、そう言われても、ちょっとピンとこないんじゃないかと思うんですね。「ヒトは動物の一種だよ」と言われても、やっぱり他の動物とは質的に全然違うんじゃないかというような、僕自身はそういう印象をどうしても持っています。でも、理屈としては、他の動物と連続的な存在だということになる。では、どうして今のわれわれが、他の動物との違いを感じるような、「人間性」と僕は言っていますけど、人間性を持つに至ったのか? どういうふうに人間性が進化したのか? 難しい問題なんですけど、その進化的起源を明らかにしたいというのを最終的な目標として持っています。

それをやる上で、ヒトとたとえばチンパンジーとの違いは、もちろん形の違いもありますけれども、特に人間性を感じるのはやっぱり行動の違いだろうと僕は思うんです。なので、たとえば直立二足歩行をするというのも人類の特徴ですし、それも行動といえば行動ですが、体の構造、機能の違いの他に行動とか心理、そういうものの違いを見たいと思っています。そういうことが興味の中心なんですけど、手法としては数理モデルや計算機シミュレーションを使っています。おそらく、ここは「えっ?」と思われると思います。行動の進化と数理モデルがどうつながるのかと。これについては、あとで簡単に例を紹介します。しばらくお待ちください。

そういうわけで、人間性の起源を探ることを主眼に置いてやっているのですが、今回のダーウィン講座のシリーズの中で言いますと、人間性の進化的起源というのは、ダーウィンも解こうとした問題なんですね。ダーウィンの一番有名な本は『種の起源』だと思いますが、『種の起源』の他にも『人間の由来』という本がありまして、特に人類の進化に着目した本を出しています。これでチャレンジしているのですが、僕はやっぱり不十分だと思います。先ほど言いましたように、ヒトとチンパンジーは連続だと言われても、どうも腑に落ちない。何かまだ説明できていないことがあるんじゃないか。僕は、これがダーウィニズムというパズルの「最後のピース」なんだろうと思っています。ダーウィニズムを完成させたいというのが僕の野望なんですね。その「ダーウィニズムの最後のピース」って、ちょっといいフレーズだなと思っていたのですが、2017年、もっといいことを考えた人がいまして、『ダーウィンの未完成交響曲』という本が出ちゃいました。こっちのほうがよりいいかなと思います。同じような問題意識を持っている人たちがいまして、ダーウィニズムの中でまだ解かれていない問題が、この人類の起源、進化というところだろうと思います。

さて、本日のプランですが、はじめにイントロダクションとして、ごく短く、人類進化の歴史について、これまでどういうことがわかっているのかをお話しします。その上で、今日はふたつの人類の性質、起源や進化という問題について扱っていきます。1個目が「協力」というテーマ。そして、後半は「文化」。文化というのは、もちろん普通は人文系、社会科学系の分野でやるものですが、生物学的、あるいはサイエンティフィックな立場から文化を扱う。そういうお話をしたいと思います。そういうわけで、足早にいきますけれども、人類進化の歴史についてこれまでわかっていることを簡単に紹介します。

モニターに映している図は、人類進化の700万年の歴史。横軸が年で、一番右が今で左が700万年前です。700万年の歴史を三つのフェーズに分けています。700万年前にまず何が起こったかというと、ここでヒトとチンパンジーが共通祖先から分岐した。700万年というのはちょっと大雑把ですけど、500万年から700万年前ぐらいの時代までは、ヒトとチンパンジーは同じ種だった。そこでふたつのグループに分岐して、それぞれ独立の進化を遂げて現在に至っているということです。その分岐した後の何百万年かを「フェーズ1」と呼ぶことにします。この時代は、別の言い方をすると「猿人の時代」なんですね。人類とはいっても、猿人といわれる現在の類人猿と比較的近いような動物の時代。それがわれわれの祖先だったわけです。そして250万年前から「フェーズ2」という時代に入るのですが、何が起こったかというと、ホモ属、われわれホモ・サピエンスですが、サピエンスではないけれどもホモ・エレクトスとかホモ・ハビリスという名前がついている、われわれと同じ属なんですね。種は違うけれども、種の上の階層を属といいます。同じホモ属のメンバーが、この時代から現れたという時代です。それが250万年前。最後のちょっとが「フェーズ3」となっていますが、だいたい10万年前ぐらいからと考えてください。われわれと同じホモ・サピエンスが出現したのがだいたい20万年前ですけれど、それの後半です。この時代は、考古遺物が出てくるのですが、考古遺物を見ると、それより前の時代と人間性が違っているなという感じがするんですね。あとで例をお見せしますが、いわゆる現代的行動という言い方をするのですが、それが見られる時代が「フェーズ3」ということです。

●まず社会が変わった?

さて、フェーズ1の猿人の例です。モニター左の絵は、アルディピテクス・ラミダスという猿人の復元図です。アルディピテクス・ラミダスというのは440万年前ぐらいの人類です。見た感じ、チンパンジーとかゴリラに近い形をしています。ただ直立二足歩行をしていたといわれています。かつて、20世紀前半ぐらいには、人類の祖先は「賢い猿だったのではないか」と考えられていました。当時、人類学の中心はイギリスのロンドンでした。人類の祖先は猿の一種だということはダーウィンが言っていた。だけど、はじめの頃の人類は、たぶん「頭のいい猿」だったんだろうと、なんとなくみんな思っていたんですね。「体の格好は猿っぽいけれど、脳が大きいとか、なんか頭の良さを示すような、そういうものじゃないか」と、なんとなく思っていました。

ところが最初に見つかった猿人の化石は、全然イメージが違っていて、脳は小さいんです。体がちょっと華奢になってきて、歯が小さくなるとか、そういうことは起こっているのですが、脳が大きくなるのは、人類進化の歴史の中ではもっと後なんです。なので、「最初の祖先が賢い猿だった」というイメージは実は間違いで、「二足で歩く猿」だったんです。もうひとつは、歯が違う。どう違うのかというと、犬歯。動物は牙として、特にオスが大きくなります。アカゲザルではオスの上顎の犬歯が牙としてニュッと出ています。それに対して同じ種のメスはそういうのがほとんどない。こういうオスとメスの違いがあるんですが、実は霊長類の中でも、この牙が大きいやつとそうでもないやつがいて、比較してみると、オス間の競争が激しい種では牙の大きい傾向があるんです。チンパンジーのオスにも、やっぱり大きい牙があります。ホモ・サピエンスでも、実はしっかり測ると男女で大きさの違いがあるらしいんですが、われわれ、見た感じ、わからないですね。なので、チンパンジーではオスの牙が大きいけど、サピエンスではそうでもないというわけで、人類進化の歴史の中で、犬歯が小さくなるということがどこかで起こったはずなのですが、この440万年前のアルディピテクスを見ると、すでに犬歯がだいぶ小さい。ということは、さっきの霊長類の中での比較と考えあわせると、何らかの理由でアルディピテクスの社会では、オス間の競争が弱くなっていた可能性があるというわけです。現在のチンパンジーのオス同士はかなり激しく喧嘩したりしますが、そういう社会ではない。ここで僕は「協力的」という言い方をしたいんですけれど、そういう社会がかなり人類の進化の初期の段階から起こっていたんじゃないか。つまり、頭が良くなるとか、そういうことよりも先に「社会が変わる」ということがもしかしてあって、ひょっとすると、社会が変わったことが頭が良くなったことの原因になっていたかもしれない。そういう考え方もできるだろうと思っています。

それからフェーズ2のホモ属の時代。この時代になると、いろいろ変わったところが出てきて、ひとつは石器が出てきます。猿人は石器はおそらく作っていなくて、もしくは木製の道具は作っていたかもしれませんが、そういうものは腐ってなくなっているので、わかりません。ホモ属になると石器を作る技術が出てきて、しかもこれが時代とともにどんどん洗練されていくということが起こります。さらにそれと並行して、ホモ属になると、250万年前からですけど、脳がどんどん大きくなるということが起こるんですね。脳が大きくなるということは、何らかの意味で頭が良くなっていたと思われます。もっとも、われわれ現代人の中でも脳の大きさは人によって違っていて、これは骨を測って推定することができるんですけど、頭の良し悪しとは関係ないみたいです。少なくともIQスコアとは関係がないと言われています。ただ、脳というのは、基本的にコストのかかる臓器なんですね。脳を持っていることによって、糖分をいっぱい使うわけです。なので、もし脳がなくていいんだったら、脳がないほうが生存には有利なはずです。にもかかわらず、ホモ属の時代には脳がどんどん大きくなるということが起こっていますので、そのコストを上回るだけの利点があったはずです。なので、ある種の意味で認知能力が向上するということが起こったのだろうと考えられます。それと並行して、道具もどんどん洗練されていくというようなことが起こっています。

●コミュニケーションしていたホモ・サピエンス

次は、ホモ属の中でも新しいほうのネアンデルタール人の話です。ネアンデルタール人の作った石器の破片が、ロバなど大きな動物の頚椎のあたりに残っている化石が出土しています。ネアンデルタール人が槍のようなもので刺したか、あるいは投げる槍で殺したかしたんだと思います。動物の大きさからいって、1人でやったとは考えにくいと言われています。なので、ネアンデルタール人はおそらく複数の人たちが「協力」してみんなで獲物をやっつけるというようなことができたのだろうと言われています。

それからフェーズ3ですね。最後の10万年間。ホモ・サピエンスの時代の後半というふうに言いましたが、この時代になると、それまでとは質の違う考古遺物が見つかります。たとえばモニター左の写真。小さな貝殻の同じ場所に穴が開けてあるんですね。こういうものがゾロゾロ出ています。遺物としてはこれだけですが、おそらくこの穴に紐か何かを通して、ネックレスのようなものとして使っていたのではないかといわれています。紐は腐ってなくなっちゃうのでわからないのですが。これが7万5000年前くらいの時代。南アフリカから出てきています。もしこれが本当だとすると、装飾品のようなものですね。これより前の時代の道具は、基本的に「肉を切る」とか「動物を殺す」とか、そういうための道具だったんですね。ところが、このくらいの時代から後になると、次の写真のようなものが出てきます。4万年前ぐらいのドイツから出ている象牙の、顔がライオンで体が人間だと言われていますけど、そういう感じの像です。フランスのラスコー洞窟の壁画も非常に有名です。2万年前のもので、牛のようなものなどが描かれています。こういう芸術品と言っていいようなものが現れるのが、この最後の5万年前とか10万年前とか、そのくらいの時代です。こういうものは、これ自体、役に立たないわけですね。それより前の、刃物は使えますけれど。こういうものを何で作ったんだろうと考えると、何らかの意味で、たとえばネックレスに価値を付与して、「これに価値があるんだよ」という認識をみんなが共有していたんじゃないか。だからこそ、こういうものを作る動機が生まれて、作る人がいたんだろうと考えられます。たとえば、1万円札はそれ自体ただの紙切れで役に立たないものですが、みんながこれに価値を付与して共有しているからこそ、「それ欲しいな」と思うわけですね。そういうようなことがあったのではないか。これ、クリストファー・ヘンシルウッドという人たちが発見して論文で発表しているんですが、ヘンシルウッドたちは、こういう装飾品だとか芸術品があるということは、そういう価値を与えてそれを共有するコミュニケーションが当時の人たちの間で行われていたということだろう。ということは、言語というものがこの時すでにあったのではないかという主張もしています。言語の話は、おそらく次回、岡ノ谷一夫さんがしてくれると思いますが、いつ頃から人類は言語を持っていたのかというのは、まだわかりません。今、僕も岡ノ谷さんと一緒に言語進化のプロジェクトをやっていて、一生懸命研究しているところですが、未解決の謎です。

●重要な「ニッチ構築」という概念

人類進化の歴史をざっと見ましたが、ひとつのテーマとして、「ニッチ構築」という概念が重要なんだろうと思っています。ニッチというのは、日本語で無理やり訳すと「生態学的地位」という言い方をするのですが、たとえば、ライオンにはライオンのニッチがある。ライオンが占めているニッチというのは、「肉食動物としての地位」です。肉食動物としての地位というのは、まず草食動物がいないと成り立たないわけですけれども、たくさんの生き物の食物連鎖の中でライオンの位置を占める動物というのが必ず現れる。たとえライオンが絶滅したとしても、今度は別の動物が現れて、そのニッチを占めるようになるということです。ある草食動物がいなくなったら、草を食べる別の動物が現れてそこを占めるようになる。そういうのがニッチという概念です。自分のニッチを自分で築き上げていくというような考え方が「ニッチ構築」といわれるものです。

ビーバーは川をせき止めてダムを作って、浅い川でもそこに深い大きな池みたいなものを作ります。そして、その中で生きていく。自分で自分自身の暮らす環境を作り変えるということをしているわけですが、おそらくその結果として、深い池みたいなところで暮らすのに有利なように体の構造が進化しているんですね。つまり自分の生息環境を作り変えることによって、自分自身に作用する自然淘汰の力を結果的に変えた。結果として、自分の形も変わった。こういうようなことが起こっているんだろうと言われています。そして、おそらく人類もビーバーと似たところがあって、これまでの700万年の歴史の間に自分自身の生息環境をいろんな意味で作り変えてきて、その中で暮らすのに適したような性質を自然淘汰の結果として獲得してきたのではないだろうか。そういうふうに考えられます。おそらくチンパンジーでは、そういうことがあまり起こらなかったので、チンパンジーは比較的、人類とチンパンジーの共通祖先に近い性質を今も維持しているのではないか。共通祖先を見たことはないのでわからないのですが、そういうことが考えられます。そして、このニッチ構築の「人間性の起源の土台」となるものとして、今日は「協力」と「文化」に注目するということになります。

●人間にとっての「協力」

ここからいよいよ本題。まず「協力」です。協力といったらどういうことを意味するかということです。モニターに出している絵は、実際にチンパンジーを使って行われた実験の概念図です。何をしているかというと、2頭のチンパンジーがいて、1本のロープの両端をそれぞれ持っています。このロープを2頭のチンパンジーが同時に引っ張ると、りんごみたいな餌が乗っている台が引き寄せられて、りんごを手にすることができる。ですが、1頭だけが引っ張ると、ロープが抜けてうまく取れない。2頭の協力がないと餌が取れないという状況を作ります。もしこれを、人間の子どもを使ってやったならば、まずコミュニケーションしますね。あるいは「せいの」とかなんとか言って、一緒に引っ張ると思いますが、チンパンジーはそういうことはできない。なので、1頭で引っ張って抜けてしまったり、あるいは、何度かやると、「これじゃダメなんだ」ということは学習するので、隣のやつが紐を持つのを待っているんですね。隣のやつが引っ張りそうになったら自分も引っ張るという感じで、ちっともコミュニケーションしない。だから、われわれとだいぶ違います。人間の子どもだったら、外国人同士でも、目配せしたり、指差したりとか、いろんな方法でコミュニケーションが可能ですので、「これを引っ張ろうよ」ってやるはずですが、チンパンジーはできない。われわれにとっては簡単だから意外に思うのですが、ちょっと違うんですね、やっぱり。うまくいくときもありますが、うまくいったときに、人間の子どもだったらりんごを1個ずつ食べると思うんですが、チンパンジーの場合は、1頭が全部取っちゃう。強いやつと弱いやつっていう非対称性がある場合、強いやつが全部取っちゃう。ということは、弱いやつにとっては紐を引く意味が何もないわけです。なので、ますます協力しない。コミュニケーションができないし、協力の動機も少ない。というわけで、チンパンジーはわれわれと近い動物ですけれども、協力という面に関してはすごく違う。ということが、まずあります。

それから、もうひとつ。人間の子どもで実験をするという話をしましたが、人間の子どもでやるときには、両端に子どもがいて、紐を同時に引っ張ると、真ん中の板が引っ張られて、並んでいるビー玉にぶつかって、ゴロゴロと手前の坂の上にビー玉が落ちて、子どもがそれを手にすることができる仕掛けを使います。子どもはビー玉が欲しいらしい。そのときビー玉が四つ並んでいるのですが、分配が不平等になっています。1:3にビー玉がこぼれます。1人が3つ、もう1人が1つもらうわけですね。そういうときに3個もらった人が、これは不平等だから1個あげるかどうか、不平等を是正するかどうかですね。チンパンジーの場合は、りんごが2個あったら強いやつが全部取っちゃうわけです。子どもの場合は、何歳児かにもよるんですけど、3歳か4歳ぐらいになると、分配することができるようになる。3個もらっちゃ悪いから、2人で取ったんだから、「あげるね」と言う。これは”we-ness”という言い方をしますけれども、「われわれ」がこの仕事をしたんだと。僕がやった、あんたがやったじゃなくて、「われわれ」という複数の主語が、人間の子どもでは何歳かになると芽生える。チンパンジーでは、これはおそらくないのではないかと。多少反論もあるんですけど、そう言われています。

別の仕掛けで、1本の紐を引っ張ると自分のほうだけ動いて、1人は1個もらえて、もう1人の子どもは3個もらえる仕掛けにした場合は、それぞれ独立にやっているからweではない。なので、この場合は分配しないけど、さきほどの場合は分配するというような、”we-ness”のあるなしの違いの意識というのが、子どもでは芽生えるけれど、チンパンジーでは起こらないこともわかっています。

“we-ness”で今、思い出しましたが、チンパンジーも共同で狩猟することがあります。アカコロブスという小さい猿がアフリカの森の中にいるんですが、このアカコロブスをみんなで捕まえて食べるという肉食行動をします。これは共同的狩猟なので、協力しているのかなとも見えるのですが、そうではないという人も結構います。どういうことかというと、weになっていないんですね。結局、それぞれのチンパンジーが「自分はあれが欲しい」と。「今、あれに近づいているあいつがこう来るから、たぶんアカコロブスはこっちに逃げるので、俺はこっちに行こう」というような計算はしているけれども、みんなで協力してやるというのではなくて、それぞれIモードでやっている。weモードにはなっていない。だから、“we-ness”は成立していないのではないかと言われています。

●“we-ness”はどこから?

では、人類では、なぜこの“we-ness”というものが現れたのかということです。わからないのですが、ひとつの可能性として、「対峙的屍肉食」があるのではないかと言う人がいます。対峙的屍肉食。聞いたことがある人はいないと思います。どういう意味かというと、もともと人間とチンパンジーの共通祖先は、基本的に森の中に棲んでいたのですが、人類の祖先は、だんだん開けた場所、乾燥した場所に進出していったわけですね。森の中では、果物だとかそういうものは比較的たくさんあるので、植物食をしていればいいのですが、いったんサバンナに出ていくと、そういうものは少なくなるわけです。そうすると、どうしても動物の肉を手に入れる必要があります。ですが、当初の人類はチンパンジーと同じような頭の良さだし、道具も使っていないし、体も小さい。それでシマウマを捕まえるとかは、たぶん無理だったんですね。ということは、何らかのかたちで死んだ動物や弱った動物とかを捕まえてその肉を食べていたのではないかと想像されます。それが屍肉食ですね。ハイエナとかライオンとか、屍肉食をしている動物は他にいるわけです。さっきの言い方をすると、屍肉食者としてのニッチというものがあって、それをライオンやハイエナが占めている。そこに初期の人類は侵入していくというか、そういうことをしなくちゃいけなかったのではないかということなんです。「対峙的」という言葉の意味は、すでに先輩がいるわけです。ライオンやハイエナと競争して、それに勝って、死んだシマウマを獲らなくちゃいけない。だけど一人の人間では、ライオンやハイエナに勝つことができないので、みんなで協力して他の動物を追っ払う必要があったのではないかと。こういうところで、みんなで協力して”we-ness”を作ることが生存に必要になって、そういう能力がヒトでは進化した。チンパンジーは、そういうものがいらなかったから進化しなかった――ということではないかというのが、ひとつの仮説として言われています。

モニターに示しているのは、この対峙的屍肉食の仮説を検証する研究です。実際に何をやったかというと、学生にゲームをさせました。一番上にあるのが、サバンナを上から見た図です。こういうフィールドがあって、この中で、キャラクターを操作して、この世界で生き残っていくゲームなんですね。キャラクターは、ぼんやりしているとどんどん生存力が下がって死んじゃうので、餌を探して食べなくちゃいけない。餌として、木の実とかがあるんですが、実はプレーヤーたちには言ってないんですけど、プレーヤーすべてを生かしておくだけの十分な木の実はありません。なので、何とかしなくちゃならないという状況が生じます。そのとき、そこらへんに動物の肉が落ちている。これは説明していないけれど、プレーヤーが餌を探そうと動き回っていると、そういうものがあることに気がつきます。ただ肉だけが落ちているときは、それを取って食べるとエネルギーが上がるんですけど、しばしば、肉のそばに猛獣がついているんですね。猛獣がついている肉に手を出すと、猛獣に襲われて、むしろ生存力が下がってしまいます――ということをプレーヤーは学ぶ。これはどうしたらいいんだろうか、ということです。なおプレーヤー同士は別々の部屋でオンラインでプレーしているので、相談はできません。

実は、真ん中の画面みたいなものにプレーヤーが十分に近づくと、チャットができるんです。筆談ができます。なので、これで、「どうしようか」というような話し合いができる。コミュニケーションができるわけですね。実は正解は、2人以上が防衛しながらやると、3人目の人は怪我をせずに肉を獲ることができるんです。その後で、その3人で肉を分ければ、3人とも生存力が上がる。それが正解なんですね。ただ、これは教えていません。これを発見できるかどうか、協力できるかどうかというところがポイントです。チャットモードにすると、わりとみんなうまくできます。何とかそれを発見して、一緒にやろうねというような感じでできます。

では、だんだん、コミュニケーションを難しくしたらどうだろうかと。最初にやるのは、語彙を絞ること。使える言葉の数を制限する。そうするとコミュニケーションが難しくなるのですが、それでも何とかやっていく。youとかmeatとか、「ついて来い」とか「助けろ」とか、必要な言葉がずらっと並んでいるのでいいんですが、だんだん使える言葉を減らしていく。そうすると、コミュニケーションが取りにくいんだけど、みんな、何とかしようと思っていろいろ工夫します。そうするとどうなるかというと、このゲームでは昼と夜があって、夜になると、みんなオアシスのまわりに集まるんですね。そうしないと危ないので。オアシスのまわりに集まって、ただお喋りしたりして時間を過ごします。そのときに何とか団結を図るんです。we meat peopleとか限られた言葉を使って、「俺たち仲間だ」、「meat(肉)のための仲間だ」という意識を高める。それで何とか通じて、翌朝になるとみんなで出ていって、2人が守って1人が獲る。それを3人で分けるということが成立して、うまくいく場合もあります。だから何が証明されたかというと、初期の人類がサバンナに出て協力の必要性が生じたのではないかというような、みんなが考えているようなことです。

●「囚人のジレンマ」ゲーム

ちょっと話は変わります。協力の進化ということで、先ほど僕が数理モデルやコンピュータシミュレーションを使って行動の進化の研究をしますと言いましたが、そのひとつの例を紹介します。協力の進化という問題を扱うためのひとつの重要なツールとして、「囚人のジレンマ」ゲームというのが使われています。聞いたことない人もいると思うので説明します。

2人の囚人がいます。この2人は、比較的大きな犯罪を犯しました。銀行強盗としましょう。2人組の銀行強盗が捕まって、警察に取り調べを受けていると考えてください。2人の囚人が別々の部屋で調べられているとします。実は、今回、逮捕はしてみたけれども証拠は十分じゃないので、警察としてはどうしても自白が欲しいという状況だとします。なので、警察はそれぞれの容疑者に対して取り引きを持ちかけます。「あいつがやったと証言しなさい。そうしたらおまえは釈放してやる」と。同時に、別室で取り調べを受けている相棒も同じ取り引きを持ちかけられていることがわかっていると仮定します。そのときにあなただったらどうするか? こういう問題なんですね。

選択肢としては、「戦略」という言い方をしますけれど、①黙秘を続ける=証言しないわけですね。義理堅い戦略です。もうひとつが、②証言する。「あいつがやりましたよ」と自白する。こういう二者択一です。そして共犯者についても、同じふたつの選択肢があることがわかっている。すると、2✕2で4通りの結果があり得るわけですね。「結果」というのは、ここでは、何年刑務所に入るかという数値で表しています。2人とも黙秘の場合、2人とも2年ずつ刑務所に入ります。有罪にはなるけど、証拠が不十分なので2年ぐらいで済む。一方、相手が黙秘を続けて自分が証言した場合。これは一番いいんですね。自分は釈放です。すべての罪を相棒がかぶって10年刑務所に入る。自分としては、これが一番「よし!」というところです。逆に相手が証言して、自分が義理堅く黙秘を続けた場合は、自分が10年刑務所に入り、相手は釈放となって、これは最悪です。それから2人とも証言した場合。「あいつがやった」「あいつがやった」とお互いに言い合う場合ですね。この場合は2人とも有罪になりますが、ちょっと証言が食い違っているので10年とまではいかず5年ずつ入る。こういうことだと仮定しましょう。さて、この設定のもとであなたが囚人だったとします。どうしますか? というゲームです。さて、どなたか。どうですか?

受講生1:証言をします。
井原:証言をする。何か理由はありますか?
受講生1:黙秘の場合は2年か10年。証言のときは0か5年。
井原:0か5に。どっちかっていうと、どっち?
受講生1:証言のほうに。
井原:証言のほうがいいだろうと。はい。証言という意見が出ましたが、他にどなたか?違う意見でも同じ意見でもいいです。どうですか?

受講生2:証言する。
井原:証言する。なぜですか? 理由はありますか?
受講生2:黙っていられない。
井原:黙っていられない(一同、笑)。わかりました。お二人とも証言ということです。いろいろ考え方はあると思いますが、ひとつの考え方として、共犯者が黙秘だったと仮定しましょう。すると、自分は黙秘だったら2年間刑務所に入る。証言だったら釈放ですから、証言のほうがいいわけですね。じゃあ、仮に相手が証言だった場合、自分は黙秘だったら10年、証言だったら5年ですから、やっぱり証言のほうがいいわけですね。ということは、相手がどういう選択をしたとしても、自分は証言したほうがいいわけです。なので、合理的に考えれば、これは「証言だ」ということになります。ただ残念なのは、相手もまったく同じように考えるはずだということです。もし合理的であれば。なので、結果は見えていて、合理性を仮定すると、2人とも証言して、5年ずつ刑務所に入ることになります。でも、これは、もし2人とも黙秘を続ければ2年ですむのに、合理的に考えたために3年も余計に刑務所に入ることになっちゃう。これがジレンマです。どうやったら5年を避けて2年という、よりマシなところにいけるかというのが、ひとつの問題なんですね。黙秘を「協力」と考え、証言を「裏切り」、あるいは「非協力」と考えれば、どうやったら協力関係を導くことができるのか? こういう問題になります。

次は同じ論理構造なんですけど、文脈が違うものです。たとえばA社、B社というメーカーがあったとします。ライバル社です。同じような製品を作っていますが、値段を維持するか、引き下げるかという戦略があるとします。同じ構造です。両者ともに維持すると、4億円ずつの儲け。A社だけが引き下げるとA社の製品のほうが売れるので、6億儲かって、B社は1億になる。B社が引き下げ、A社が維持すると、逆になる。両者ともに引き下げると2億円ずつの儲けになる。こういう構造ですね。さっきと同じように合理的に考えると、相手がどうやってきたとしても、引き下げたほうが得になる。相手も同じように考えるので、結局両方とも引き下げて2億になります。でも、維持すれば4億儲かっていたのにちょっと残念ですね。これも「囚人のジレンマ」です。

これが基本的な問題です。どうやって協力関係を導きだすか。ひとつのやり方として、銀行強盗の話は、たぶん一生の間に1回しか銀行強盗はしないですね。なので、次のチャンスはないですが、世の中には同じ相手と一生のうちに何度も繰り返して何かやるっていうこと、ありますよね。まあ、銀行強盗でもいいです(一同、笑)。一生のうちに何度も銀行強盗をやる相手がいるという想定でもいいんですけど、囚人のジレンマゲームを繰り返し、同じ相手とやるという場面だったら、多少は違ってくるんじゃないかな。そういう考え方です。同じ相手と何度も何度も繰り返して囚人のジレンマゲームをやって、しかも、過去のゲームの結果を記憶しておいて、それを今回の自分の選択肢を決める上で参考にできると考えます。となると、さっきは「協力」か「非協力か」と戦略はふたつしかなかったわけですけれど、今回は相手が前にこうやったら自分は今度こうするよとか、前に自分がこうやったから、今回はこうするよとか、無限に戦略の処理があり得るわけですね。

なので、先ほどのようにどれが合理的な解かはわかりません。わからないけど、何かあたりをつけたいわけですね。そこで、ロバート・アクセルロッドという人が「繰り返し囚人のジレンマゲーム」の大会というのをやりました。1980年代の話です。大会というのは何かというと、いろんな戦略を持ってきて、コンピュータ上で対戦させました。戦略はどこから持って来たかというと、いろんな専門家、たとえば経済学者、数学者、ゲーム理論の研究者、生物学者、いろんな人たちに招待状を出して、「こういう大会をやるから戦略を送ってください」と言ったわけです。そうすると、そういう研究をしている人たちは、いいところを見せてやろうと思うので、一生懸命戦略を考えてドシドシ送ってきたわけですね。そして、大会でどれが一番いい成績を収めるかというのを実際、やりました。今夜この部屋で、アクセルロッドの大会の縮小版を開催したいと思います。もちろんみなさんが戦略を考えて、いくつかの戦略をピックアップして、この場で簡単に対戦してみます。大会のルールを説明しますので、しっかり聞いてください。

大会のルール。1回の試合で同じ相手とn回繰り返して対戦する。「試合」という言葉と「対戦」という言葉を使い分けているところで、すでにちょっとややこしいのですが、対戦は何かというと、1回の囚人のジレンマゲームのことです。先ほどの囚人のジレンマゲームと同じで、「協力(C)」か「非協力(D)」か。相手も「協力」か「非協力」か、2択ですね。両方協力したら自分は3点もらえます。自分協力、相手非協力だったら0点です。自分非協力、相手協力だったら5点。お互い非協力なら1点。これが1回の囚人のジレンマゲームです。先ほど言いましたように、もしゲームが1回だったら、絶対「非協力」のほうが得なんです。相手が協力だろうが非協力だろうと、非協力のほうが点数が高いわけです。今回は、値が大きい方がうれしいということです。

このゲームを同じ相手とn回繰り返して対戦します。これが1試合。n回繰り返してやるわけですから、1回目は初めての相手ですからわからないけど、2回目は前回相手が何をやったかを見た上で自分の手を決めるということです。n回やります。そうすると、n回分の利得、値の合計が出てきます。これが1試合です。そして、それを総当たり戦でやります。同じ戦略同士で試合するのも含めて、総当たり戦をやります。たとえば五つ戦略があったとすると5試合やるわけです。その5試合分の合計得点が計算できて、それが最大となった戦略が優勝ですよ、というルールです。

わかんない? 隣の人と相談してくださっても結構です。ちょっと時間を取りますので、考えてみてください。戦略の作り方ですが、まず戦略の名前を考えてください。それから、1対戦目。初めての相手と会ったときにまず何をするか。これは過去の情報がないので、まず何をするかは、あらかじめ決めておく必要があります。実際の大会では、ここでコインを投げて、表だったら協力で裏だったら非協力とか、そういうのもありですが、今回はやめます。1回目はどちらか。肝心かなめは、2対戦目以降に何をするか。これは、それよりも前の対戦の履歴を使うわけです。自分が何をしたか。相手が何をしたかという情報を使ってもいいし、使わなくてもいいです。でも使うことができる。それで、今回の自分の行動を決定する「意思決定ルール」を考えるということです。ちょっとやってみましょう。僕はこのへん、うろうろしますので、質問がある方はぜひ聞いていただけると。

受講生3:たとえば私と誰かがやっていて、1回戦目、私がC、相手がD。次に相手がC、私がDというのを永遠に繰り返したら一番大きい数字かなと思うんですけど。
井原:一番大きい数字。そうですね。自分がDで相手がCだったら5点もらえるわけですから、それが一番いいわけですけど、ただ相手が何をするかは、自分には決められない。自分がDで相手がCのときが一番うれしいので、できればそれになってほしいんですけど、相手がCをしてくれるとは限らないので、相手がどういうことをするかを読みつつ自分の行動を決める。

受講生4:たとえば私がC、D、C、Dというふうに出し続けるとして、それに対して相手がD、C、D、Cと出し続けた場合、どちらも2回に1回点が入って、お互いに最大限の得ができるわけですか?
井原:その場合は、5、0、5、0、5って2人ともいくわけですね。そうすると、平均すると1回2.5点みたいな感じになるわけですね。それは、それなりにいいんですけど。
受講生4:3点よりは下ということですね。
井原:そういうことです。
受講生4:ありがとうございました。

受講生5:nは与えられていないということですか?
井原:nはわからないふりをしましょう。というのは、nがわかっていると、最終回は絶対裏切ったほうが得になっちゃう。なので、nはあとで僕が発表しますが、それはみなさんわからないつもりでやることにしてください。

受講生6:状況はなんとなくわかったんですけども、書き方として、たとえば相手が1回目非協力だったら私はこうするとか、相手が2回目はこうきたらこういう行動を取るということを文章にして書くということですか?
井原:文章でも数式でもなんでもいいです。

●みんなの「戦略」発表

少なくとも雰囲気は伝わっているのではないでしょうか。どうでしょう? こんな戦略できましたよっていう方いらっしゃいますか? じゃあ、僕、ひとつ戦略を考えます。「戦略名、オールD」。1回目Dで、2回目以降、相手が何をしてもずっとDです。こういう戦略を1個考えました。戦略の例です。やりたい人、いますか? 

(4戦略出そろう)ありがとうございます。では、この4戦略を使って大会をやってみようと思います。設計意図を説明していただきましょうか。最初のは僕が設計したんですけど、「オールD」。2回目以降も全部Dという戦略ですが、これは絶対負けないんですね。それぞれの試合では絶対負けません。相手より点数が低くなることはないという意味で、ある程度強いだろうと予想される戦略です。2つ目、「相手の真似」。設計意図の考えを説明してください。

受講生7:最初、実は1回目Dで、あと全部Cにしようかなと思ったんですけど、オールDに絶対に負けると思ったので、せめてオールDとスクエアになる戦略がないかなと思って考えました。
井原:なるほど。オールDの参加を見て、そこで……。
受講生7:結局、両方とも全部Dで、少なくとも同点やなということです。
井原:なるほど。「なるべく協力」の設計意図は?
受講生8:確実に3点を重ねていきたいと思って、なるべく相手も協力してくれるという勝手な設定で。だけど1回裏切られたら次はDを出す。
井原:そうですね。「相手の真似戦略」は?
受講生9:そうですね。最初のCだけ違う。
井原:そして、もうひとつ、「大穴のち損切り」。
受講生10:オールDが出てきた時点で絶対に負けるなと思ったので、とりあえず少なくとも点を確保できるかなと考えました。最初にCを出したときに相手がCを出してくれれば点数は高いんですけど、相手も勝ちたいと考えているとすると、どうなるかって考えると、どうせ2分の1だし、少なくとも点を確保しようと思いました。
井原:ありがとうございます。

というわけで、この4つの戦略を使って、総当たり戦をやってみます。このボード上で計算します。計算の都合上、nは10。10回繰り返すということにします。どうやって計算するかですが、まずオールD同士の対戦を考えると、これはずっと1点ですね。2人ともDなので、10回連続で1点ずつ取るので、この試合の結果は2人とも10点。こういうことになります。じゃあ2戦目、「オールD」戦略と「相手の真似」戦略。この試合を考えると、最初2人ともDで、ずっとそのあとDですから、同じ。2人とも10点。「オールD」と「なるべく協力」。計算すると、この場合は14対9です。「オールD」と「大穴」。これを見ますと、18対8……「オールD」の出てくる4試合、終わりました。次に、今度は「相手の真似」……「相手の真似」と「なるべく協力」をやると、25点ずつという結果です。それから「相手の真似」と「大穴」は18点同士。こんな感じで総当たりで計算していって、合計得点を見ると、「オールD」の点数は52点です。「相手の真似」は73点。「なるべく協力」は、90点。「大穴」は79点。優勝戦略は「なるべく協力」です。おめでとうございます。

「なるべく協力」が、どういう戦略だったかというと、最初は協力します。2回目以降は、前回相手が協力していたら自分も協力する。相手が非協力だったら自分も非協力。単純な戦略ですが、これが今回は優勝しました。そして、実際のアクセルロッドの大会はどうだったかというと、実はまったく同じ戦略が優勝しています。これは名前がついていまして、TIT-FOR-TAT。「しっぺ返し」というような意味らしいのですが、中身は、「なるべく協力」とまったく同じです。最初は協力。それ以降は、前回の相手と同じことをする。先ほど言いましたが、アクセルロッドは、いろんな専門家に手紙を出しています。みんないいところを見せようと思って、結構複雑なことを考えていろんな戦略を送ってきたのですが、実はこんな単純なのが優勝しちゃったというのが、ちょっと驚きだったんですね。さらに、アクセルロッドは2回大会をやっています。「1回目の大会はTIT-FOR-TAT(業界ではTFTと言う)が優勝しました」とみなさんに知らせた上で、今回もTFTが参加するよと知らせて「みんな戦略を考えてください」といって、もう1回やったんだけど、またTFTが優勝しました。他にどういう戦略があるかに依存するので、この戦略は「最強」とは言えないんですけど、わりと安定して強い戦略だと言うことができます。

●強い戦略に共通する性質

TFT、あるいは「なるべく協力」が2回連続で優勝したんですが、それ以外にも比較的高い点数を取った戦略がいくつかあります。そういうわりと優秀な戦略に共通する性質というのが実はあります。ひとつは「礼儀正しい」。礼儀正しい戦略が、この世界ではいい点を取るんです。礼儀正しいとはどういう意味かというと、「自分から先に裏切ることはしない」ということです。今回のゲームで言うと、「相手の真似」と「なるべく協力」はほとんど同じだったのですが、「なるべく協力」のほうが礼儀正しかったんですね。相手が裏切らない限りはずっとCなんですね。「相手の真似」は、最初Dです。実際、今回の大会でも、「なるべく協力」のほうが点数が高くなった。これは、わりと一般的な傾向としてあるようです。礼儀正しいことが大切。優秀な成績に共通するふたつ目の特徴は、「裏切りを許さない」。必ず報復する。そうではなくて、ずっと協力するという戦略もあり得るわけですね。ずっと協力しつづければ相手も協力してくれるんじゃないかという期待のもと、オールCという可能性もあるわけですが、そういう戦略はこの世界ではダメです。相手の裏切りには必ず報復する。この「なるべく協力」は、相手が裏切ったら必ず裏切り返す。今回の戦略は、みんな報復するという性質は持っていました。三つ目の性質。「根に持たない」。報復はするけれども、相手が「ごめんね」と謝ってきたら許してやる。相手が1回Dってきたとしてもその次にCになったらば、自分もCに戻す。この性質が大事らしい。そうじゃないと、たとえば今回の場合なら「大穴」。報復しているんだけど、相手がDだったら、もう一生Dなんですね。1回でも相手が裏切ったら、「死ぬまで許さん」という性質は、この世界ではうまくいかないらしい。

というわけで、「繰り返し囚人のジレンマゲーム」の世界では、「礼儀正しくて、裏切りを許さない。そして水に流して根に持たない」、こういう性質を持った戦略がわりとうまくいくという結果になりました。単純なゲームではありますけれど、人間社会のエッセンスみたいなものをうまいこと抽出できているという気もします。そういう意味でおもしろいと思います。これが「協力の進化」ということに関して、数式とかそういうものを使うひとつの例です。なんとなく「なるほど」と思っていただいたんじゃないかと思います。これで前半のお話は終わりにして、いったん休憩にします。

●サイエンティフィックに文化を考える

前半は協力をテーマにしてゲームをしていただきましたが、後半は文化の話をしてみようと思います。文化は、伝統的には人文社会科学の分野で扱われてきたテーマですが、それをサイエンティフィックにやることを目指しています。ただ、そもそも文化とは何か? 文化の定義が非常に難しいところがあります。歴史的な話をすると、いろんな人が文化を定義しようとしてきたのですが、たとえばよく引用される文化の定義として、19世紀のエドワード・タイラーという人がこう言っています。「知識・信念・技術・倫理・風習、および社会の一員としての人間によって獲得されるその他のあらゆる能力や習慣を含む複雑な総体」、これが文化であると。まあ、そうかなと思うんですけど、ちょっと包括的すぎると言いますか、これをサイエンティフィックに扱うのは結構難しいだろうと思います。では、別の戦略として、文化を定義するというところまではいかないけれども、「文化のこの側面に注目しましょう」という提案はできるだろうと思います。それは、ルイジ・カヴァッリ=スフォルツァとマーカス・フェルドマンという人の本から取ってきたものですが、「刷り込み、条件づけ、観察、模倣、あるいは直接的教示のいずれによるかを問わず、あらゆる非遺伝的過程によって学習される形質に対して『文化的』という語を適用する」という言い方をしています。

抽象的な言い方をしていますけれども、「文化とはこれですよ」と定義するというところまではいってません。ただ「文化的」という言葉を使いましょう、と。どこに注目するかというと、「個体間で学習を通じて伝達されるようなもの」。こういうところに注目しています。もちろん文化というのは伝達されるということがどうしても必要で、たとえばある人が何かいいことを発明したり、すごいいいことを思いついた。でも誰にも言わないで死んだとしますね。これは普通、文化と言いません。人から人に伝わって、ある程度の人たちが共有しているというような、こういう部分が必要なので、文化というときには個体間で伝達される、学習によって伝達されるというところに注目しましょうという考え方なんですね。個体間で伝達される情報といえば、遺伝情報もそうです。親から子どもという伝達経路が限られていますけど、遺伝も伝達される情報ですが、これを除くわけです。「非遺伝的な過程によって学習される」という言い方をしています。

こういう意味で文化を定義というか、こういう点に着目したとしても、やっぱり人間は文化の能力が高い動物だと言うことができると思います。では、何で人類では、わりと複雑な文化があって、チンパンジーとか他の動物には、文化は実はちょっとあるんですけど、わりと単純なものしかないのかということを考えたときに、どういう認知能力があるから文化が可能になっているのか、そういう観点はあると思います。今、文化が学習によって伝達されるというところに注目していますので、まずこの学習という現象、ヒトはどういう学習能力を持っているのかというところから話を始めます。

●ヒトの学習能力

まず、学習というものを個体学習と社会学習に分けるという考え方があります。個体学習とは、自分一人で学習する。たとえば木の実があって、その中においしい果実があるとします。だけど木の実が硬いので、なんとかして殻を割る方法を学習しなくちゃいけない。ひとつのやり方としては、自分自身で試行錯誤します。高いところから落としてみるとか、硬いものにぶつけてみるとか、いろんなことをやった結果として、大きい石を拾ってきてこれで叩くと割れることを発見するんですね。これが個体学習です。自分一人で学習している。それに対して、社会学習というのは、「他の個体の行動を獲得する」という言い方をしますが、たとえば模倣というのがそうです。今の話ですと、誰かが苦労して試行錯誤して見つけた割り方、答えを横でただ見ていて、「ああやればいいんだ」。これが社会学習です。真似するということですね。そうすると、個体学習のほうが、「学習のコストが大きい」という言い方ができると思います。自分でぶつけたり叩いたりして発見する。一方、社会学習はコストが小さい。ただ物真似しているだけ、という言い方ができます。学習のコストは、時には結構大きなものになり得て、たとえば森の中においしそうなキノコがある。これは食べていいのかなというのを学習するときに、個体学習には大きなコストがあり得るわけです。社会学習は、他の人が食べて大丈夫なのを確認して、それを真似するだけですから、コストが小さい。そういうことがいえます。一方で、個体学習は、いろんなやり方を自分で試して確認しているわけですから、確実に正しい行動、「適応的」とここでは言いますけど、環境に適応した行動を獲得する傾向があります。社会学習は、たまたま真似した人が食べちゃいけないキノコを食べている可能性があるわけです。そういう間違った行動をただ単に物真似するだけで獲得してしまう危険があります。これが「社会学習の短所」と言えると思います。

個体学習と社会学習には、それぞれ長所と短所があるということです。先ほど、文化の「個体間で学習で伝達される情報である」というところに注目しましょうと言いましたので、人類では特にこの社会学習の能力が高いのではないかと考えられます。実際、それが正しいのですが、では、なぜ人類で社会学習能力が他の動物と比べて高いのだろうか? さっきのアクセルロッドの囚人のジレンマの二番煎じと言っちゃ悪いんですけど、同じようなことをやった人がいます。

社会学習戦略トーナメント。これは2000年代の前半ぐらいに実際やられたのですが、社会学習と個体学習を使い分ける戦略を考えてください。そして、実際にコンピュータ上に変動する環境を作る。環境がどんどん変わっていくんですね。なので一回いい方法、行動を見つけても、時間とともにいい方法が変わっちゃうので、ずっと同じことをやっていると上手くない。常に今の環境に適した行動を学習し続けなくちゃいけないという状況で、社会学習と個体学習をどう使い分けるかというトーナメントをやりました。
 
あなた自身が全然知らない場所にいることを想像してくださいと。どうやって食べ物を手に入れたらいいかわからないし、捕食者から逃れる方法もわからない。A地点からB地点に行く方法もわかりません。そんなときにあなたはどうしますか、というわけです。自分自身でいろんな試行錯誤をしていい方法を見つけるのか、それとも他の人の物真似をするのか。仮に物真似するとしたら、誰の真似をするのか。たまたま通りかかった人の真似をするのか、それともある程度の人数を観察して、多数派の人がやっているようなことを真似するのか。真似するのなら、いつも真似するのか。それとも、ときには真似してときには試行錯誤するのかとか、いろんな戦略があり得ます。一番うまい戦略を作った人が1万ユーロもらえるという大会でした。実は僕のところにも招待状が来たんですけど、参加できませんでした。実はこれ結果が出ていまして、1万ユーロの賞金を取った人が決まっています。その人が作った戦略は、ほとんどいつも社会学習ばっかりしているという戦略でした。これはどういうことかというと、かなり社会学習に依存して個体学習はあまりしないような性質が有利になり得るということです。おそらく実際に今までの進化の歴史の中で同じようなことが起こった可能性があって、だからこそ人類で社会学習能力がすごく高くなった可能性はあるだろうということがいえます。
 
●ヒト以外の動物にも、文化伝達はあるか?

もうひとつ。先ほど、ヒト以外の動物にも文化があるということをちらっと言いましたが、文化をどう定義するかにももちろんよるのですが、文化を「個体間で学習によって伝達される情報」と考えるとすれば、ヒト以外の動物にも文化、あるいは文化伝達といわれるものが、かなりたくさんあります。ここでは4つ例を紹介するのですが、モニター左上のもの、なんだかわかりますか?
受講生:海水で食べ物を洗っている。
井原:そうです。ニホンザルが餌としてもらったサツマイモを海水で洗ってから食べる。芋洗行動といわれているものです。宮崎県の幸島に餌をもらっている猿の群れが棲んでいて、この行動も20世紀の前半か中盤ぐらいに発見されたものです。最初はこんなこと誰もしていなかった。だけど、あるとき1匹のメスがもらった餌を海水で洗うことを始めた。なんでかはわかりません。泥がついていて汚いなと思ったのかもしれないし、塩味がしておいしいなと思ったか、わからないんですが、最初に始めた猿がいる。ずっと見ていると、やがて同じ群れの中の他の個体も同じ行動をするようになるんですね。これは、たぶん模倣しているんじゃないかと考えられています。昔の話なので、今は最初に芋を洗い始めた猿は死んでいなくなっていますが、この群れには芋洗行動の伝統が生き続けているわけです。これがヒト以外の動物の文化のひとつの古典的な例として、世界的によく知られています。
 
アフリカには野生のチンパンジーが棲んでいますが、昔から野生のチンパンジーを観察するフィールドが、アフリカにはいくつかあります。特に日本では京都大学の人たちが、タンザニアにマハレという、今、国立公園になっているところがあるのですが、そこでもう何十年も野生のチンパンジーの観察をしています。ジェーン・グドールとかご存知の方いらっしゃると思うんですけれど、ジェーン・グドールも同じタンザニアにゴンベという別の場所があるのですが、そこでチンパンジーの観察をしている。他にもいくつか有名な、長期的な観察フィールドがあります。あるとき、そういういろんなフィールドのリーダー格の人たちが集まって、それぞれのフィールドのチンパンジーの行動を比較してみようということをやりました。アフリカは広いので、同じアフリカでもチンパンジー同士の交流はないですね。隔離されたグループと考えていいと思います。そうしてみると、同じチンパンジーという種なので同じような行動はもちろんしている。けれども違いもあるんですね。たとえば、「オオアリ釣り」といわれる行動。木の中にオオアリというアリが巣を作って棲んでいます。小枝を持ってきて木の穴に差し込むとアリが怒ってかみついたりするので、それを獲って食べる「オオアリ釣り」という行動があります。タンザニアのマハレでは、ほとんどの個体がやるらしいんですが、同じタンザニアのゴンベでは、オオアリがいるにもかかわらず、ほぼ誰もやらないらしい。ということは、これも地域伝統なんだろうと考えられます。生まれつきチンパンジーはこういうことができるのではなくて、たぶん最初に始めた者がいて、それを模倣して、最初のチンパンジーはもう死んだかもしれないけど、伝統として生き残っているのだろうという例です。こういう行動は、他にもいくつかあって、この地域にはあるけど、こっちの地域では誰もやっていないというような、チンパンジーの文化、伝統というものがあるといわれています。
 
モニターの写真は、北米大陸に棲んでいるコウウチョウという鳥です。鳥の歌は学習されます。鳥の中には、オスが主に求愛の歌を歌うものがありますが、あれは生まれつき歌えるわけではなくて、若い頃に、大人が歌っているのを聞いて学習して、練習して歌えるようになるんですね。なので、生まれた途端に隔離してしまうと、ちゃんとした歌が歌えなくなります。コウウチョウの場合は、アメリカ合衆国の中で、サウスダコタに棲んでいるやつとインディアナに棲んでいるやつがいるんですね。同じ種だけれど地理的に隔離されているので、今は混ざっていない。亜種レベルでは分かれているのですが、同じ種なので基本的には同じ歌を歌います。ですが、微妙に違うらしい。歌の方言みたいなものがある。この方言が、遺伝的な違いによって生じるのか、それともこれはやっぱり地域伝統なのか、文化的に伝達されているのかどうかを調べるために、ある実験をした人たちがいます。
 
どういう実験をしたと思いますか? 生まれつき違うのか、それともこれは文化なのかを知りたいと思ったらどうしますか?
受講生:それぞれの亜種の鳥をお互いの群れに入れてみる。
井原:そのとおりです。実際、それがやられました。サウスダコタで生まれた雛をインディアナの大人と一緒に育てる。インディアナの雛をサウスダコタの大人と一緒に育てる。そうしたら、大人になったときに生まれた場所の歌を歌うのか、育った場所の歌を歌うのか。これで見分けようという話ですね。結果、実は育つ場所が大事だった。インディアナ生まれでもサウスダコタで育てば、そっちの歌を歌うというわけで、やっぱりこれは文化なんだなということがわかりました。さらに、コウウチョウの場合は求愛の歌なので、メスの好みというのもあるんですね。サウスダコタのメスはサウスダコタの歌が好きらしいんですけど、サウスダコタのメスの雛をインディアナで育てたらどうかというと、インディアナの歌が好きになるそうです。だから、好みというのも文化的に伝達されているということがあるそうです。

モニターの写真は、オーストラリアあたりのイルカです。やはりフィールドワークをやっていた人たちが発見したのですが、鼻先というか口の先に何か乗っけてるんですね。海綿です。海綿というのは海の底に棲んでいる生物です。なぜかはわからないけど、海綿を鼻先に乗せて泳いでいる。何をしているのかは、わからない。でも、これを鼻に乗せた状態で海の底にある石ころなんかをひっくり返して、そこから出てくるカニみたいなのを食べるとか、そういうときにも乗せているらしい。もしかするとこれがあったほうが鼻を守るみたいな、痛くないとか、わからないけど、とにかくそういう行動をとるやつがいた。ずっと観察していたら、同じ群れの他の個体がみんなこれをやりはじめたんですね。これも模倣か何かわかりませんが、文化的にどうも個体間で伝達されるらしい。海綿というのは英語ではspongeなので、spongingといわれる行動です。そういうのが知られています。こういうヒト以外の動物の文化伝達は、実は他にもかなりたくさんあります。かなり広い動物でこういうのは知られています。

●ヒトの文化伝達

今度はヒトの文化伝達に注目します。ヒトで文化伝達があるのは、もちろんあるだろうと思いますよね。特にお父さん、お母さんから子どもへの文化伝達を定量的に分析してみたという話です。アメリカの話ですが、スタンフォード大学の学生を使ってやっています。大学生にいろんな種類の行動だとか習慣とか信念とか、そういうものについて聞き取り調査をしたんですね。それから、その学生さんのお父さん、お母さん、仲のいい友だちとか、そういう文化が伝達しそうな人たちにも同じことを聞きます。

示している表はお父さん、お母さんのことだけしか出ていませんが、たとえば「食塩摂取」という項目に注目するとします。食塩摂取とは、日頃の食生活でどのくらい食塩を摂っているかという意味です。食塩摂取量は本当は連続量ですが、どこかに閾値を設けて、これより多い人は「摂取量が多い」。これより少ない人は「少ない」というふたつにグループに分けます。多い人をHという記号で表して、少ない人をhという記号で表します。そうすると、両親の組み合わせは、(父)H—(母)Hか、H—h、h—H、h—h、この4通りになるわけです。お父さん、お母さんがともに食塩摂取量が多いH−Hという組み合わせの学生さんが20人いました。そのうち学生さん自身もH=摂取量が多いという人の割合が60%、12人でした。もしこの食塩摂取量というのが親から子どもに伝達(垂直伝達)されているとすると、両親がH—Hだったら子どものH率60%という値が大きくなって、両親h—hだったら、子どもがHになる割合は低くなるだろうと予想されますね。ざっと見た感じでは、H−Hだと大きくて、h−hだと26%と小さいから、そうかなという感じもします。もちろん偶然ばらつきが生じますから、ばらつきの程度が偶然で説明できる範囲内かどうかを統計的にチェックしています。詳細は省きますが、表下のpの値が小さければ、「偶然では説明できません」という意味になります。食塩摂取に関しては、割合のばらつきは偶然では説明できないほど大きいという結果になります。つまり、垂直伝達が起こっていて、特にお母さんがHだと子どもがHになりやすいということです。お父さんの効果はわりと小さい。お母さんの食塩摂取量が多いと、子どもも食塩摂取量が多くなる。そういう結果を表しています。

表の2番目の項目は「運と実力」。これは、「信念」に当たりますが、「あなたの人生の成功において、運と実力どっちが大事だと思いますか」ということを聞きます。人によって、「それはやっぱり運だね」と言う人と「いや、実力だよ」と言う人がいるわけです。これはスタンフォード大学でやった調査で、スタンフォード大学はアメリカの中で優秀な大学と目されていて、たぶんみんな自分の実力を信じていると思うんですね。そのせいか、「実力」と答えた人が結構多い。両親ともに「人生、運だよ」と言っている学生さんが29人いて、そのうちの48%は学生も「運だね」と思っていた。それぞれの割合が出まして、多少ばらついてはいるんですが、今回はpの値が0.05より大きいんですね。これはどういう意味かというと、「このばらつきは偶然によって生じたものだという可能性を否定できません」という意味です。なので、もしかしたら意味のある違いかもしれませんが、偶然でも十分説明できる。「運と実力どっちが大事か」という「信念」に関しては垂直伝達が起こっている証拠はないという結論になります。

3番目、「政治的関心」。これはアメリカの場合ですから、投票する前に特定の政党に事前に登録しておくことが必要らしいんですね。ちゃんと登録している人は、政治的関心が高い人であるというふうに見なしています。両親ともに政治的関心が高いという組み合わせが130人です。そのうち子どもである学生の72%が、やはり政治的関心が高かった。この割合もばらつきが生じまして、pの値は0.001より小さいですから、これは偶然では説明できません。そうしてみますと、両親ともに政治的関心が高いと子どもも関心が高い。両親ともに関心が低いと、子どもは関心が高い割合が低い。片親だけ関心が高い場合は、それがお父さんであってもお母さんであっても、だいたい同じぐらいになります。なので、今度は垂直伝達があるということに加えて、お父さんとお母さんの効果がなんとなく足し算のようになっている。お父さん、お母さん、両方の関心が高いと2倍の効果がプラスされるような感じになっています。

というわけで、親から子どもに文化が伝わるということをもうちょっと細かく定量的にやってみたという話です。いろんな行動や信念についてこれでやってみて、結果をグラフで表しているんですが(モニター)、横軸がお母さんの効果を表しています。縦軸がお父さんの効果なんですね。ということは、原点に近いということは、お父さんの効果もお母さんの効果も小さいことを意味します。真ん中の斜めの線より右下にあるということは、お父さんの効果よりもお母さんの効果が大きいという意味ですね。逆に左上のほうは、お父さんの効果のほうが大きいことを意味しています。食塩摂取量は斜めの線より下なので、お母さんの効果が強い。原点からある程度離れていますから、お母さんの効果がそれなりに強いということです。「運と実力」は、お父さんとお母さんの効果は同じぐらいだけど、原点に近いので、結局あんまり効果がない。「政治的関心」は、ややお父さんの効果が大きくなっていますが、どっちも同じぐらいで、原点から離れていますから、垂直伝達の効果が大きい。いろいろと細かく見ていくと結構おもしろいのですが、こんな分析ができるだろうというのがあります。人間の文化伝達という話でした。

●猿とヒトと「真似」の話

またちょっと話は変わります。”Do apes ape?”という英文があります。英語に詳しい方、いらっしゃいますか? ”Do apes ape?”って、どういう意味ですかね? apeというのは、”Planet of the Apes”っていう映画ありますよね? 『猿の惑星』。あのapeなんですね。猿という言葉にはapeとmonkeyがありますけど、apeというのは、どっちかというと類人猿です。ゴリラとかチンパンジー、オランウータンとか。monkeyはニホンザルみたいなのです。そういう意味で、apeは類人猿、猿です。じゃあ、3つ目にもう1個、apeという言葉が出てくるんですが、これは別の意味なんですね。僕もそんなに英語に詳しいわけじゃないんですけど、こっちは「真似する」という意味らしいです。日本語でも「猿真似」とか言いますから、英語もちょっと似た感覚があるのかなと僕は思っているんですけど、「猿は猿真似するか」という問いなんですね。まあ、猿なんだから猿真似するんじゃないのって思うんですけど、意外とそうでもないかもという話をします。

でも、猿の話をする前に鳥の話に移ります。モニターの写真は、アオガラという鳥が、牛乳瓶の上にとまっているところです。この牛乳瓶はアルミ箔みたいな蓋がついていて、その蓋を開けようとしている写真です。実はイギリスでしばらく前、20世紀の中盤ぐらいかな、朝、牛乳配達の人が家の玄関先に置いていく牛乳を、家の人が取り込む前にシジュウカラとかアオガラといった小さい鳥がウワーッと飛んできて、蓋を開けて、昔の牛乳は瓶の上のところにクリームといわれるおいしい部分があったんですけど、それを食べるということをやったんですね。最初はごく少数のシジュウカラがやっていたら、それが鳥の中で広がって、やたらと蓋を開けて困っちゃうというようなことがあったそうです。最初は少数だったのが広まっていっているから、シジュウカラとかアオガラがお互い真似しあって蓋開け行動が伝播していったんじゃないかと当初は考えられました。ところが、どうも違うらしいということが、実験してみてわかったんですね。最初に想定されていたのはこれです。最初、誰かが発見します。牛乳瓶の蓋を開けるということを個体学習するわけです。2番目の個体は、他の個体が蓋を開けているのを観察して、それを模倣したんじゃないか。蓋開け行動を観察して、それを模倣することによって、自分も蓋開け行動を獲得した。第3の個体は、こいつが蓋開けてるのを観察して模倣して蓋を開けるようになった。これが模倣による行動の伝播です、これが起こったんじゃないかなと当初、考えられていました。まあ、自然ですよね。でも、実際に鳥を使って実験をやってみると、鳥はこういうことができないらしい。実際に起こったことはたぶん、次のようなことです。最初の個体が蓋の開け方を発見するところまでは同じ。2番目の個体は、蓋開け行動を観察していない。そうではなくて、最初の個体が蓋を開けたから、蓋の開いた牛乳瓶というものが突如現れたわけです。そこに行ってみたらおいしいものがある。それを学習したんです。なので、2番目の個体は、「あの瓶を開けたい」という動機を持つようになったわけです。そこで、自分で試行錯誤して開ける方法を個体学習し、開けるようになった。3番目の個体は、こいつが開けた瓶のところにたまたま行ったらおいしいものがあったから、「あれ、開けたいな」と思って、試行錯誤して再発見する。こういうことによってこの行動が伝播したのだろうといわれています。

●物真似上手はヒトの大きな特徴

ポイントは、われわれ人間から見ると、人の物真似をするのは簡単で、自分でいろいろやるより人のを見てやるほうが絶対楽だと思うんですけど、これはヒトという動物のひとつの特徴で、実は他の動物にとって他人の真似をするのは結構難しいらしい。確かに考えてみると、真似するというのは「認知的な負荷」という言い方をしますけど、結構高いある種の能力が必要です。相手が「こうやって、こうやったときに自分がどこに力を入れたらこうなるのか」というのはわかるけれども、考えてみると何でわかるのか、よくわからないですよね。あるいは、蓋を開けるシジュウカラが蓋の上にとまって、ちょっとバランスを崩して「おっとっと」とかなったときに、それを真似すべきかどうかを知りたければ、この鳥がやろうとしていることの意図を理解しなくちゃいけないけれど、それは結構難しい課題らしいんですね。なので、鳥はそれがそんなにできないし、どうやらチンパンジーだとかヒト以外の類人猿に関しても、少なくとも人間ほどはできない。はるかにできないらしいんです。「ある程度できる」とか、「全然できない」とかでは多少議論があるんですけど、人間と比べたら全然できないのは確かなようです。なので、「物真似上手」というのは実は人類のひとつの大きな特徴であり、これが文化の基盤となる認知能力になっているのだろうなということはあると思います。

もうひとつは、先ほど、ヒト以外の動物でも、たとえば猿の芋洗みたいな文化伝達といわれるような現象が結構幅広くありますと言いました。でも、確かにあれは文化といえば文化だけど、やっぱり人間の文化とは、少なくとも程度においてだいぶ違うわけですね。いくら猿に文化があるといっても、猿がいずれはスマホとかを作るようになるだろうなんて、ちょっと思えないわけですね。何が違うかというと、ひとつには、ヒトの文化は蓄積していくというところがある。どういう意味かというと、大昔の人が、たとえば数字というものを発明する。あるいは電話というものを発明する。数字とか電話とか、あるいは電子工学とか、そういうものを誰かが見つけて、それの上に乗っかって次のものを作っているわけです。蓄積していきます。でも、どんな天才だったとしても、まだ数字がなかった時代の人に、いきなりスマホを作れといっても作れないと思うんですね。前の世代の人がいろんなものを作ってきて、積み重なっているから、今の世代の人はスマホが作れるわけです。そういう文化の蓄積というものが、人間には明らかにあるけれども、どうやらほかの動物ではそれが起こっていない。芋洗行動だとかオオアリ釣りとか、そういうものがだんだん洗練されていくということは起こっていないんですね。一方人類では、石器の作り方が何万年もかけていますがだんだん洗練されていくというようなところがあります。この「文化が蓄積していくかいかないか」というところに、もしかすると、「物真似上手かどうか」が関係しているのではないか。つまり、さっきの蓋開け行動でいったらば、もし人間だったら2番目の人は、ただ観察して真似するだけで、もしかすると次のステップアップができるかもしれないわけですね。ところが物真似ができない場合は、言ってみれば、スマホがあって「ああ、いいな」と思って、じゃあ、自分で最初から作ろうと苦労する。これだと、スマホができあがる前に一生が終わっちゃうので蓄積しないわけですね。そういうように物真似がうまいかどうかというところが、文化が蓄積するか否かという違いにもしかして効いているのではないかと言われています。

もうひとつ話題を変えまして、「文化進化」という話をします。そういうわけで、人類は少なくとも文化を伝達する能力というのが高くなった。社会学習の能力が高いわけですね。そうすると、文化というものがそれ自体で時間とともに変化していく。人から人に伝えられる、あるいは新しい発明を加える、蓄積することによって、時間とともに文化自体が変化していくということがあります。そういうのを「文化進化」という言い方をします。ここで取り上げたいのは、基本色彩語=赤とか青とか色を表す単語です。これはもちろんわれわれ、生まれつき知っているわけじゃなくて、文化的に伝達されているひとつの文化形質であるという言い方ができます。

そもそも色というのは三つの属性で特定できるそうです。色相と彩度と明度という三つの値を決めると色が決まる。あるいはRGB(赤緑青の組み合わせ)でもいいですが、とにかく3次元である。色彩というのは、本来、連続的な色空間ですね。3次元ですから空間上の点の位置として色は表されるわけですが、それに区切りを入れているわけです。「この空間の中のこのあたりを赤と呼ぶ」、「こっちのこのあたりを青と呼ぶ」とか、そういうことをやっているのが色彩語です。だとすると、この「区切り方」というのは、べつに今われわれが使っている区切り方じゃなくてもいいんじゃないかという気がします。日本語では、たとえば「赤」といえば、それはたぶん英語のredとほぼ同じだろうと思います。ですが、もうちょっとわれわれがよく知らないような世界中の言語を比べてみたら、色の区切り方が違う可能性があると思うんですね。

それを実際どうなのかと実験したのが、1969年のバーリンとケイの実験です。これ、どう思われますか? 世界中の言語を比較した時に、区切り方はだいたい一緒か、それとも結構バラバラか。ちょっと手を挙げていただいていいですか? だいたい一緒だろうと思う方? 半分よりは少ないですかね。結構バラバラじゃないかなと思う方? ややこっちのほうが多いですかね。この実験は、いろんな色の見本を作るんですが、色相、明度、彩度、この3次元で決まると言いましたが、色相をまず40段階とって横軸にずらっと並べます。色相の値が小さいものから等間隔でだんだん大きくしていく感じです。それから縦方向に明度を8段階でとります。そうして40×8で320個の色が連続的な感じで並ぶわけですね。彩度に関しては、色相と明度を決めると最大値が定まるらしいので、全部最大にします。なので、色空間を平面上に投影したようなボードを作るわけです。そして、そのボード上でさまざまな言語の話者が特定の語が示す色の中心の範囲を指し示す。日本人がもしいたとすれば、「『赤』という言葉が日本語にはあります。赤といったら、だいたいこの辺で、この辺までは赤っていいますね」というようなことを、いろんな国の人がやるわけです。

さて、どうなったか。そのときに実際に見せた色見本をモニターに出しています。これを見て、なにか感想をお持ちになったでしょうか? これ、意外だと思いませんか? 何が意外かというと、色の塊が見えますよね? 明度と色相が等間隔で並んでいるわけですから、グラデーション的に連続的に色が変わるのが見えるんじゃないかなと思うんですけど、実際にはそうじゃなくて、どう見ても色の塊が見えます。これは、べつにわれわれが日本人だからそう見えるわけではなくて、世界中のどこの人でも、この色情報をどういうふうに目と脳で処理するかは同じですから、同じ塊が見えるはずです。ということは、世界中のどこの言語でも、色の区切り方は同じところで区切るということになります。なので、この色彩語彙の色の区切り方は恣意的ではない。われわれが持っている目とか脳の情報処理の癖というのがあって、これに反するような色の区切り方、例えば緑の塊があって、その真ん中でズバッと切って、こっちは「ポコ」で、こっちは「ピコ」ですと誰かが言い出したとしても、そんなのはやらないわけですね。それは、どう見てもわかりにくいから。緑の塊をひとつの色彩語彙で表すほうがいいわけです。というわけで、バーリンとケイの実験の結果も、おおむね世界中の言語で色の区切り方は共通していたという結果だったわけですね。

物理的には連続的な色相とか明度の変化が、われわれの主観的な経験としては離散的に非連続的に経験されるということです。これは結局、われわれは何となく世の中の物理的な現象をそのままバイアスなしに認識しているように思い込んでいるけれど、実際にはそうではなくて、網膜とか脳とかの情報処理の癖から逃れることはできないというわけです。

ある人は、こういうのを「遺伝子は文化をひもにつないでいる」と表現しています。文化というものは、生物としての人間の性質から独立に、いかようにも変われると思いがちだけれども、実際はそうじゃない、と。われわれの認識には、まず生物学的なプログラム、言ってみれば遺伝的なプログラムがある。その中でものを認識している以上、生物学からまったく独立して文化を考えることはできない。それを「文化をひもにつないでいる」という言い方をしています。イメージとしては、犬です。文化が犬で、遺伝子が飼い主。長いひもをつないでいて、ある程度、文化は自由に走り回れるんだけど、どこにでも行けるわけじゃなくて、ひもを握っているから制約がありますよという表現です。これはE.O.ウィルソンという人が言って、こういうことを言う人はしばしばすごく批判されたりするんですが、その話はさておき、文化の進化あるいは変化が、ある程度ヒトの生物学的な性質に依存しているという例でした。

●遺伝的な進化に影響を与える「文化」の例

もうひとつ、今度は逆に遺伝子の変化、遺伝的な進化、生物学的な進化の方が文化の影響を受ける例を紹介します。これはヒトの乳糖耐性です。乳糖耐性とは、牛乳を飲んだときに、牛乳の中の乳糖という糖分を消化できるのが「乳糖耐性がある」という状態です。ちゃんと消化できない人も結構いて、これは「乳糖耐性がない」と言います。モニターの世界地図は、乳糖耐性を持っている人の割合で色分けされています。赤っぽい色がついているところ(ヨーロッパ、西アフリカ、東アフリカの一部、中東)は、多くの人が乳糖耐性を持っている地域です。実はアジア、オセアニア、南アフリカあたりの人たちは、乳糖耐性を持っている人が少ないです。もともとアメリカで調査したんですけど、アメリカでは健康のために牛乳を飲もうと宣伝していたんですが、いろんな地域の出身の人たちがいるので、どれくらい乳糖を分解できているか調べてみたら、ヨーロッパ系のアメリカ人はかなりちゃんと分解しているんだけど、アフリカ系のアメリカ人はほとんど分解していないことがわかったんです。なので、乳糖に関しては消化できているのはヨーロッパ系の人たちばっかりだということがわかり、世界中に調査の範囲を広げてみると地域差があることがわかりました。

それで、あらためて考えてみると、そもそもヒトが牛の母乳を飲むって不思議な行動ですね。哺乳類は、みんなお母さんのお乳は飲むんだけれども、それは離乳するまでです。なので他の哺乳類を見ると、乳糖を分解するための酵素があって、母乳を飲んでいるときはこの酵素をさかんに作るんですけど、いったん離乳すると作るのをやめちゃうんですね。もう使わないということだと思います。それが普通の哺乳類です。ところが、ヒトはなぜか、一部の人は大人になってもこの酵素を作り続けるという性質を持っているんですね。これは哺乳類の中では例外的です。そういう人がヨーロッパとか限られた地域にたくさんいるということなんです。これが何なのかということなのです。今いわれているのは、実は、これは酪農の伝統のために進化した新しい性質なのではないかということです。モニターの図が表しているのは、点が人類社会。左側が酪農の伝統がないような社会をプロットしていて、縦軸は乳糖耐性を持つ人の割合です。そうすると、酪農の伝統を持たない社会は、例外なく乳糖耐性を持つ人の割合が低い。乳糖耐性を持つ人の割合が高い社会は、例外なく酪農の伝統を持っていることがわかります。なので、酪農の伝統の有無と乳糖耐性を持つ人の割合が高いか低いかということの間に関連のあることが、ここからわかります。

ただ、これだけだと因果関係の向きがどっちなのかはわからない。乳糖耐性が高い人がたまたまいたところで酪農が発達したかもしれないのでわからないわけですが、これ以外のいろんな証拠があります。たとえばヨーロッパの人で乳糖分解酵素というある1個の遺伝子があって、この遺伝子がどれくらい大人になってもタンパク質をちゃんと作るかというところに依存しているんですけれど、それを支配するようなDNAの変化というものがヨーロッパ人で発見されています。このDNAがこういうふうに変化している人は乳糖耐性が高くなりやすいとか、そういうのがあるんですね。しかも、その変化が比較的最近起こっている。数千年前ぐらいで起こっている。ヨーロッパでは酪農が始まったのが5000年とか6000年前とか、そのくらいの時代だといわれていますので、それはわりと一致する。アフリカの人でも同じようなことが起きている。「ここが変わると乳糖耐性ができますね」というような場所が見つかっていて、しかもこれはヨーロッパの人とは別のDNAの位置です。なので、独立に2度新しい変化が起こって、それが集団中に広がるということが、どうやら起こっているらしいというのがあります。

それから、酪農が始まったといわれる時代よりもちょっと前のヨーロッパ人の骨からDNAを抽出して何人か調べてみたら、酪農より前の時代のヨーロッパ人は、実は乳糖耐性を持っていませんでした。ということで、今のところ、まだ完全な証明ではないですけれど、酪農が始まったところでは牛乳をちゃんと消化できる人のほうが生存確率が高かったので、乳糖を分解できるような性質が進化したのではないだろうか。でも酪農文化がない社会ではそういう必要はないので、そういうことが起こらなかった。そういうことではないかと言われています。それが本当だとすると、これは文化が生物の進化、遺伝子の進化に影響を与えたひとつの例だろうといえると思います。

●まとめ

最後にまとめます。今日は最初のほうで、まず「ニッチ構築」というキーワードを出しました。生物が自分自身の環境を変えて、場合によってはそのことによって自分自身に作用する自然淘汰の力を変える手段となる。これが人類の進化において、もしかすると重要な役割を果たしたかもしれないという話ですね。

今日、注目したふたつの話題としては、「協力」、それから「文化」ということでしたが、人類は、もしかするとかなり早い段階から、犬歯がもう小さくなっている。たとえばアルディピテクス・ラミダス、440万年前の猿人。その頃から何らかの意味で、「協力的な社会」つまり競争が弱くなるということが、人類の脳が大きくなるとか、石器を作るとか、そういうことよりも先に起こっていたかもしれない。協力的な社会に一歩近づいていたかもしれないですね。そういう協力的な社会の中でよりうまく生きるような、そういう性質を持った個体が生き残りやすく、そういう性質が進化していったのではないかと考えられます。でもチンパンジーでは同じようなことが起こらなかったので、現在見られるようなチンパンジーと人類の違いというものが生じたのかもしれないというわけです。

後半の話題は文化です。人類はおそらく社会学習能力が高いというのがひとつのキーになると思うのですが、文化を生み出した。そして文化が蓄積していくということが起こりました。そうすると、いろんな意味でわれわれは文化的に構築された環境の中で生きることになります。物理的に文化的に、たとえば建物を作るとか、服を作るとか、そういうこともありますが、その他にも、たとえば規範だとか、酪農もそうですね。そういういろんな意味で、自分たちの環境を変えてきたわけです。その中でうまく生きる。そういう性質を持った動物になったというところで、われわれ人類とそれ以外の動物の間の違いが生じたのではないだろうか。そういうまとめをしたいと思います。

最後に、個人の人生とのかかわり。これは、ここまでの話とまったく違う話です。まずひとつ強調したいのは、これまでの人類は「こんなふうに生きてきた」とか、「こんなふうに進化したんじゃないかな」とか、そういう話をしてきたわけですけど、そのことと人類は、あるいは個々の人々が「どうすべきか」とか、「どうするのが正しいのか」というのは、まったく別のことだということです。「これまでこうだった」、あるいは「人類は、こういうふうにするのが自然だった」というようなことを僕はいろいろ推測しているわけですけど、「だから、それをやるべきだ」ということはまったくないということは大事なポイントだと思います。たとえば、過去の人類の歴史を見ると、今でいうところの女性差別とか民族差別みたいなことは盛んに起こっていたかもしれません。もし仮にそうだったとして、だからといって「人間というのはそういうものなんだから、それでいいんだよ」ということにはならないということです。これは大事なポイントです。

では、人生にどう活かすかというと、人間がどういう動物なのかというのを知ることによって、もしかするとそれぞれの人の人生の幸せを向上させることができるんじゃないかと思います。たとえば、人類は物真似がうまいということ。物真似がうまいし、物真似したくなる。なので、われわれ、うっかりすると物真似しちゃうんです。まわりの人に合わせちゃいます。だけど、ちょっと考えたほうがいい場合があって、物真似したいし、みんなこれをやっているからなんかいいかなと思うけれど、それは人間の持っている危ない罠です。もうちょっと考えて、物真似ではなく、「自分の幸せは何だろうか」ということを考えて生きていくのは大事かなと思います。長くなりましたが、ありがとうございました。

●質疑応答

河野:何か質問ございますか? まとめの3番目は謎をかけられたような思いでいらっしゃるんじゃないかと思いますから、どう生きるべきかについて、そのあたり直接ご質問いただいてもいいかなと思います。他のことでも、もちろん結構です。

受講生:ありがとうございました。ちょっとお話戻っちゃうんですけど。猿が海水で洗って食べたら、他の猿がみんな真似をしたっていう話。私、「100匹目の猿」というお話を聞いたことがあって、その島である程度の猿が同じことをして、それがいっぱいになったときに、他の離れた島でも同じことを猿がしはじめたというお話。そうすると、それは物真似でもないし、意識というか思いというか、考えが飛び火したのかなと思ったんですけど、そういうことはあるんですか?
井原:その話が本当かどうか、僕ちょっとわからないですが、仮に本当だとして、他の島の猿が始めたとすると、島と島の間は離れているなら、行動の伝播ではなくて、同じ行動を別の島で独立に発見したということになると思うんですね。ただ、それが起こって不思議ではなくて、結局、個体学習ですね、その場合。実際に遺伝的な突然変異でもそういうことは起こり得て、有利な突然変異が、たとえばヨーロッパで乳糖を分解するような性質が突然変異で起こった。それが有利だから広がった。それとは独立にアフリカでもそういう別の突然変異が起こった。それが広がったということが起こり得ます。これは遺伝子の場合ですが、文化でも新しいイノベーションがあって、それが広がる。こっちでも同じことが起こる。それはあり得ると思う。あるいは、こういうのを一般に「収斂進化」という言い方をするのですが。たとえばオオカミを考えたときに、その昔、哺乳類の祖先がまだ小型のネズミみたいな動物だった時期があるんですね。その頃というのは大陸が今の分布と違っていて、1個の大きな大陸になっていた頃。やがて大陸が動いて、オーストラリアのほうに行ったネズミみたいなやつとユーラシアに行ったネズミみたいなのがいる。そこから、それぞれ独立に進化していろんな動物が生まれて、いろんな哺乳類が生まれたわけです。だから完全に独立なんだけれども、ユーラシアに現在いるオオカミ、それから20世紀はじめぐらいまでオーストラリアにいたフクロオオカミというのがいるのですが、これを比較すると、かなり似ているらしいんですね。骨の構造だとか歯の構造だとか、そういうことなのですが。これは完全に独立に進化したものなのに、かなり同じようなゴールにたどりついている。独立に同じようなものが発生してそれが進化するということは、結構あるのかもしれないですね。

受講生:何かで読んだのですが、人間が他の動物と違う特徴は「時間の感覚を持っていること」と。特に未来に関して、「未来のために今を我慢する」というのは他の動物にないと聞いたんですけど、他の動物で、未来でなくても時間の感覚は多少はあるのでしょうか? それともやはりないんでしょうか?
井原:時間の感覚ですか。将来のために備えるというような行動は結構あると思うんですね。たとえば冬越しに備えて餌をどこかに貯めておくとか、そういう行動自体はあると思うんです。われわれが見ると、それは「未来を予期して備えているんだな」と解釈できますけど、その動物の内部でそういう感覚があるかどうかは、ちょっとわからないですね。生まれつきそういう行動をしたくなっちゃう。理由は考えずに、秋になると食べ物を貯めたくなっちゃうという、それだけかもしれない。なので、実際われわれの目に見える行動はあるんですけど、その動機となっている内部の心理的状況がわれわれと同じかどうかというのは、ちょっとわからないと思いますね。

受講生:文化の蓄積が人間と動物を大きく分けているというお話がとてもおもしろいと思ったんですけれど、その要因として、やっぱり言葉を持っていたり、それを文字に残すことができた、『サピエンス全史』か何かにも書いてあったと思うんですけど、その状況は頭の構造とか、さっきの乳糖耐性と同じように脳に何か変化をもたらしたようなものなのでしょうか? 各国にそれぞれの言葉があるように、どうして途中で人間だけが言葉とか文字が持てるようになったんでしょう?
井原:それは、まさに今われわれ……次回、岡ノ谷一夫さんが来て、その話をしてくれるんじゃないかと思いますが……まさに、われわれが興味を持っているところで、言語の起源、進化という問題ですね。今、5年プロジェクトでやっています。でも今のところ、わからないというのが正直なところです。ただ、いろんな仮説はあります。たとえば、先ほどお見せした、協力が進化した背景として、対峙的屍肉食というのがあるんじゃないかと。サバンナに出てみんなで動物の肉を獲るための手段として、協力が必要だったんじゃないか。当然協力するためにコミュニケーションが必要なので、そのあたりが最初の、言語とまでは言いませんけれども、チンパンジーよりももっとコミュニケーション能力が高くなった生態学的な背景だったかもしれないということは、あると思います。今われわれが使っているような言語がいつ頃からあるのかというのは、正直わからないとしか言いようがないけれど、たとえばノーム・チョムスキーという有名な言語学者は大きな学問的な学派を作っていて、チョムスキー派の人たちは、比較的新しい時代、ホモ・サピエンスになってから言語能力というものが、わりとパッとできたという考え方をしています。それまでの動物が持っているいろんなコミュニケーション能力とはなかば独立に、というような感じだと思うのですが、ヒトの言語能力は「突然現れた」というような考え方をしています。それは僕はあんまりなさそうな気がするんですね。もうちょっと連続的な変化というものがあって、コミュニケーション能力とか、あるいは思考能力というのもありますけど、そういうものから現在の言語に至るようなわりと長い道のりがあるのではないかと考えて、そのプロジェクトを今やっています。あんまり答えになっていないんですけど、わからないというのが正直なところです。

河野:他にご質問ありますでしょうか? どうもありがとうございました。ところで、研究室に伺ったとき、本棚に非常にたくさん小説の……。
井原:仕事と関係ないやつですね。はい。
河野:並んでいて、今日のようなお話の一方にこういう小説を読む方なんだなと、とてもおもしろかったんですけど、ちなみに愛読書は何ですか?
井原:そうですね。たとえばロシア文学でいったらトルストイも好きです。わりと古典が好きですね。
河野:……というような本が並んでいる研究室で、非常におもしろかったです。お話しいただいたように、文化を生物学的、科学的、統計的に説明するという、そういう研究室でもあって、とにかく数字がいっぱい入ったコンピュータを見ながら、一方にトルストイや何やらが並んでいて、おもしろい頭の中身だろうなと想像しながら今日のお話を伺いました。どうもありがとうございました。

受講生の感想

  • 囚人のジレンマゲーム、いろいろ考えさせられました。私の考えた作戦では、損を切るつもりが逆に損をつくる結果になっていました。相手の出方を見て次の行動を決めるまでは良かったのですが、「相手もこちらの出方を見ている」ことに考えが及ばず……自分の人間性が試されているような、ちょっと怖いゲームでした。

  • 囚人のジレンマゲームで得られた教訓は、「成功しているビジネスにも同じことがあてはまるな」と思いました。

  • 「モノマネは人間にとって、危険な罠なのかもしれない」という先生のまとめの言葉は、この先、何度も思い出しては考えることになるフレーズかなあと思いました。

  • 「文化」のように見える行動を動物もとる。でもそれは、ヒトの文化とは抜本的に違うものである、というのがとてもよくわかりました。「人間性」って何なのか? 自分でも考えてみるとおもしろいテーマですね。