橋本治をリシャッフルする。 
第2回 中条省平さん

少女マンガ論に目を開かれて

15分版・120分版の視聴方法は こちらをご覧ください。

中条省平さんの

プロフィール

この講座について

『桃尻娘』と並ぶ橋本治さんの初期の代表作は『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』。少女マンガ論です。この作品に衝撃を受けた中条省平さんが、橋本さんの少女マンガ評論について語ってくださいました。時代論・世代論・社会論を網羅する骨太で壮大な講義となりました。中条さんの圧倒的熱量に浸ってください。(講義日:2020年2月4日)

講義ノート

中条です。よろしくお願いいたします。初回・内田樹さんの白熱講義の後で非常にやりにくいんですけれども、僕は、ごく普通に講義をやろうと思っています。というのは、内田さんはおそらく、橋本治の本質的なことについて語られたと思うんですね。前回のまとめの紙を見ても、そういう感じなので。僕としては、橋本治とはどういう人であるかとか、どういう必然性をもって日本に生まれてきたのかとか、そういうことを話しながら、なおかつ、彼は少女マンガの世界を開拓した一人なので、橋本治にとって少女マンガというのは、もちろん趣味の世界でもあるんですけれども、それ以上に何か彼の内面のある非常に重要なモチーフを隠し持った世界であること、みなさん方、少女マンガをご存知の方にも、少女マンガのこういうおもしろい読み方があるよっていうことを、お教えするっていうとオーバーだけれど、お伝えしたい。それからもうひとつは、少女マンガの読み方。こういう読み方を橋本治はしてきたけれども、そのことによって、彼の何が露わになっているのかというようなことを、お話ししたいと思います。

●1948年生まれで、1968年世代であることの意味

まず、資料にオーバーなことが書いてあります。「橋本治をめぐる歴史的な状況」。つまり、橋本治という人も、まったく突然現れた天才というわけじゃない。1948年生まれです。1948年というと、たとえば村上春樹とほぼ同年代。橋本治と村上春樹ってちょっと違う感じがするけれども、ほとんど同い年なんですね。『ポーの一族』を書いた萩尾望都もそうです。だから、その辺りには、似ているけれども違っている、1948年に生まれたことが、ある意味を持って浮かび上がるはずなんですね。そのこともご説明したいと思います。次に、戦後派って書いてありますけれど、これは「純粋な戦後派」です。なぜかというと、1945年に第二次世界大戦が終わって、大日本帝国という嫌~なものの支配が終わった。世の中乱れているけれども、一応みんな、新しい世界を作ろうと思っていた時代。だから、完全に、戦前の大日本帝国と切れたところで生まれてきたという意味では、本当の意味での純粋な戦後派なんですね。これは萩尾望都にも村上春樹にもいえることです。戦前を知らない。

その次、これもひとつ特異なんですけれど、1968年世代だということです。1968年で一番有名な世界史の出来事というと、フランスで起こった五月革命ですよね。つまり、世界にあるすべての物事に対して、「これはダメだ。違う」という風に異議申し立てをして、学生たちがパリ大学ナンテール校で立ち上がって、単なる大学を良くするとか反抗するとかに留まらず、時の政府を倒しちゃった。つまり、「今の世の中間違ってるから、これを倒してしまおう」っていうような学生たちの純粋なエネルギーが、フランスでは政府を倒すところまでいった。すぐにその政府はドゴールによってまた元に戻っちゃうけど、でも、すごいですよね。今の学生がデモして政府倒すなんて考えられないし、世界的に稀なことなんですけど、フランスでは起こっちゃった。だから、1968年は、フランスの五月革命という、ありとあらゆることに反抗して構わないし、壊して構わないっていう、ある意味では恐ろしいんだけど、それができるという希望を当時の若い人たちは持っていたはずなんです。僕は中学2年でしたけど、その気持ちはすごくよくわかります。日本を見ると、東大闘争の時代です。今でもニュースフィルムを見ると、東大安田講堂に籠った東大生たちが、結局、降伏するというイメージで語られているけど、やっぱり東大生っていったらエリートですよね。そのエリートが、「東大解体」とか言って、自分がわざわざ入った東大を壊してでも、世の中を良くしようって一応思っていたわけですね。そういう、「世の中良くできるよ」っていう学生の希望のエネルギーみたいなものが、この1968年という数字には込められてるんです。

もうひとつは、資料にイマニュエル・ウォーラーステインという人を引用しましたけれども、その1968年がいかに重要な日付であるかを言う学者に、ノーベル賞級の学者、ウォーラーステインがいて、この人はつい先ごろ亡くなりましたけれども、世界的な歴史経済学者です。彼は、近代世界システム論というのを打ち立てた学者です。どういうことかというと、今の近代のシステム、我々が株価の上下に一喜一憂したり、日本で何か行うと、それがすぐに中国に波及する、アメリカに波及する、また、その逆もあるというような、「世界がひとつのシステム」になっちゃったのはいつかを考えたのが、ウォーラースティンです。ウォーラーステインははっきりと解答を出していて、16世紀だと言うんですね。これが一番重要な最初の日付です。つまり、何年って特定はできないけど、16世紀に世界システムができた。そのシステムの元にあるのは何かというと、資本主義。つまり、なぜ資本主義が成立するのに16世紀を待たなきゃいけないかと言うと、コロンブスがアメリカ大陸を発見することによって、世界が一個の場所であることがわかった。それ以前のヨーロッパは「アメリカがある」なんてことを知らなかった。けれども、ヨーロッパ人もアメリカを発見して、アジアがあって、アメリカがあって、ヨーロッパがあって、グルッと地球がひとつのものだっていうことを発見して、そこに資本主義のシステムが出来上がったのが16世紀なんです。だから、今、我々が生きてる世界のシステムができたのは16世紀だと、ウォーラーステインは言った。これが第一の日付です。

ふたつ目の日付は、1789年、フランス革命の年です。フランス革命によって、自由とか平等とか、そういう概念が当たり前のことになって、みんなが「中道的な自由主義」というものが世界の基本なんだと理解した。だから、ウォーラーステインに言わせれば、これが第二の重要な日付で、フランス革命の年に、自由な、しかし極端ではない、中道的な生き方によって世界が決定されることが決まったと言うんですね。

ウォーラーステインの驚くべきところは、三番目の日付に、この1968年を持ってくることです。1968年をウォーラーステインは、「世界システムの終わりが始まった年」と位置付けています。つまり、1968年に学生が異議申し立てを行って、政府を倒してしまう。何が問題になったかというと、フランス革命からずっと、世界の基本的な政治の原理であると思われていた「中道的な自由主義」が、もう意味を持たなくなってしまったというんですね。つまり、学生たちも反逆できるようなものだから。そのシステムの中では、もう、「絶対に当たり前の在り方」というものがなくなってしまった。ということは、頼るものが何もなくなってしまう。それまでは、資本主義経済の中で、「中道的な自由主義を守っていけば、政治的にも経済的にも安定し、より良い世界になるんだ」って思っていたら、1968年が「そんなことはない。ここから先の歴史は、どうなるかわかりませんよ」ということを突き付けてしまったとウォーラーステインは言うんです。当時はアメリカとソビエトが冷戦のなかで対立していた。けれど、ソビエトがいかに悪い国であるかも、わかってきた。だから、左翼が「ソビエトはアメリカより良いよ」と言って、右翼が「アメリカの方が良いよ」と言うような価値観の対立も1968年あたりでグズグズになっちゃう。つまり、何が良いか悪いか、わからなくなっちゃった。そこを通り抜けてきたのが、橋本治という人なんです。

●ズレた位置を歩み続けた人

橋本治の個人的な体験に戻りますと、1968年に彼は20歳です。つまり、東大生になって、一番多感で、東大で活躍している時代なんですけど、東大闘争は1968年7月に東大全共闘ができて、東大解体とか言い出すわけです。しかし、数ヶ月後の69年1月に安田講堂が陥落して、東大闘争はポシャっちゃう。その最中に、東大にいた人です。何をやってたかというと、彼は全共闘にはもちろん参加しない。ポスターを描いていたわけです。それがこの教室の入り口にかかっていた「とめてくれるな、おっかさん。背中のいちょうが泣いている。男東大、どこへ行く」。つまり、真面目な学生たちが全共闘を作って、「世の中良くするぞ」とか言ってるのに対して、彼は自分の立ち位置を、ちょっと引いたところに置いている。これが非常に重要なんですけど、彼はやっぱり、今ここにあるものすべてを疑ってかかる人ではあるけど、それに対して正面切って反対とかは言わない。東大解体とか、今の政府を倒そうとか。世の中の変なところを見つけるんだけど、自分の言ってることが「正義」になりそうになったらちょっと引いて、「俺のやってることは、どうせヤクザな男一匹だよ」みたいに、自分の位置をズラす。だから東大闘争の真っ只中で、ヤクザに自分を仮託するような、何て言うか、ちょっとズレた位置を常に歩み続けた人なんですね。

その68年の五月革命を越えた後、フランスは悲惨です。五月革命の後のフランスの文学とか映画を見ると、みんな虚脱感でフラフラになっていて、その虚脱感を助けてくれるものは、ほとんどセックスしかないっていうような状況を描いた映画とか文学がたくさん出てきます。ところが、日本はそうならなかった。1970年に大事件がふたつ起こります。ひとつは三島事件。三島由紀夫という人は、政治的には一応右翼で、自衛隊に乗り込んで、自衛隊を軍隊にしろと主張した。日本が軍隊を持てる機会はこれだけだから、自衛官たちに、「お前たちも立ち上がれ。お前たちが本物の軍隊になれるぞ」って言ったのが「三島事件」です。でも、自衛隊員がみんな拒否しましたよね。だから、今の日本の平和があるっていうことも、逆に言えば言えます。右翼の側からの革命は、それを見る限り、不可能なんです。だから、日本が右翼に巻き返されて、軍隊万歳っていう風になる可能性は、1970年に三島由紀夫が、ダメになるということを教えてくれた。右からもダメです。じゃあ、左はどうかっていうと、これはほとんど歴史の教科書に語られていませんけど、1970年というのは、日米安保条約の改定期でした。この時、左翼の人たちは、「軍隊をアメリカに頼んで、アメリカと心中するつもりか」っていうことで、70年安保の改定に反対するはずだったんですね。僕もよく覚えていますけど、すごい騒動が起こるはずだと思って期待していたんですよ(笑)。だけど何も起こらなかった。結局、左翼もポシャった。三島もポシャった。だから、左も右も、ウォーラーステインの言った通りになったわけですね。結局、「それ以上何かを良くする」っていう機運が全部潰れちゃった。

何がその代わりに出てきたかというと、大阪万博です。右の革命も左の革命もできないなら、みんなで三波春夫と一緒に(笑)、踊り踊って、日本の経済力を高めて、楽しみましょう、となった。日本人はほぼ全員、賛成したんですね。あの時、「これから先、日本が空っぽになる」ということを予言したのは、三島由紀夫だけでしたね。日本人はもう金のことしか考えず、極東の一角に空っぽな、まぁ、豊かかもしれないけど、何の精神性もない抜け殻みたいな国ができるよって、彼は、自衛隊に殴り込む前に、サンケイ(現・産経)新聞に書いたんですね。ある意味では、当たってますよね。でも、戦争するよりは良いじゃないかって僕は思います。いずれにしても、そういう魂の抜け殻で、何を目指すかっていうと、経済一辺倒。つまり、高度経済成長を目指す社会ですよね。グングン登っていくわけです。そして、遂にやってくるのが80年代のバブルの時代。すごかったですよね。女性はボディコンとかいうピッチピチの服を着て、羽の扇持って、踊りながらグルグルやってるイメージがありますけど、そういう感覚。つまり、あのバブルのイメージがおそらく、日本が「経済だけでいいよ。お金は保証するから、好きなことやりなさい」、「自民党政権下でやりなさい」っていうことになれば、ああいう世界になってくるだろう、ということになるわけです。

ところが、あのバブルの時に、「いや、俺はバブルなんかでは満足できない」、「私はそんなじゃない」っていう風に言った人たちを代弁する作家がデビューするんです。誰かというと、村上春樹です。村上春樹は1979年に『風の歌を聴け』でデビューする。当時は、僕、よく覚えていますけど、そんな大した作家だと思ってなかったですよ、誰も。ちょっと変わったアメリカかぶれの、でも、とっても素敵な文章を書く青年が現れたって思っていたけど、実はそうじゃなかったんですよね。つまり、バブルに浮かれるような日本の趨勢に対して、「それは嫌だ。だけど、だからといって、大声出して自分が正しいとかそういうこと言うんじゃなく、趣味の世界でもいいから、ジャズ聴いて、ちょっと楽しくお酒でも飲んで。でも、自分の暗さは、自分の心の中に取っておきたい」っていう、そういう感覚を代弁したのが村上春樹ですね。基本的には、時代は今まで日本は変わりませんから、村上春樹の人気があり続けるのは、そういう、経済一辺倒の日本社会、安定してるけれど空っぽな感じがするっていうものに対して違和感を抱く人たちを、村上春樹が救い続けてきたんです。だから、バブルの中で、村上春樹がだんだん大作家になっていくのは、よ~くわかるんです。

じゃあ、橋本治は、ほぼ同じ年齢だって言ったけれども、どう違うかっていうと、村上春樹の場合には、内面性みたいなものを信じてるんですけど、橋本治の場合には、そういう人間の内面みたいなものを頼りにすることをしない人なんですね。なんかちょっと「行動する」感じがする。それでようやく橋本治の話になってくるわけです。

●「ふざけ方」の意味がわかると、すごさがわかる

資料に1977年に『桃尻娘』と書いてありますけど、これが橋本治の最初の小説です。『小説現代』新人賞の佳作をとる。矢継ぎ早に、2年後、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』っていうマンガの研究書を出します。今日、僕がお話ししたいのは、その時出たこの上下2巻の本なんですが、これは出た時は全然話題になりませんでした。僕も、新宿の紀伊國屋で本棚に並んでるのを見たけど、何しろ、まず、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』って、何のことかまったくわかりませんよね。少女マンガのことを論じているんですが、僕はマンガは多少読んでいたけど、少女マンガなんて読んだことないから、書いてある人の名前とか、全然わからない。でも、なぜ読んだかというと、マンガ好きな友達がいち早く読んで、「よくわかんねぇけど、すげぇんだ」って言うんですよね。同級生だった奴が。「『よくわかんないけどすげぇ』っていうのは何だろう? でも、新しいことが何か起こってるんだな」。で、一生懸命読んだけど、最初、全然わかりませんでした。「はっきり言って、この人バカじゃないか」って思いました。今でもそういう気持ちはちょっとあるんです。つまり、バカっていうことは、僕らが理解できない奇妙な感性とか思考回路を持っている人で、普通の人から見るとちょっとバカに見えるんだけど、バカにしかできないことって世の中にはいっぱいあるわけです。バカ力みたいなものを頭の中に持ってる人ですよね、橋本治は。でも、最初は全然そんなことわからないから、一生懸命読んだ。

この本に書かれているのは、少女マンガの話です。少女マンガの中でも、それまでの古典的な少女マンガじゃなくて、これからお話しするのは3人ですけれど、大島弓子、山岸凉子、それから萩尾望都、この3人です。今はビッグネームですけど、この人たちを総称して「花の24年組」と言います。昭和24年近辺で生まれた、日本の少女マンガを変えちゃった偉大な3人。これがなんと、橋本治とほぼ同世代なんですね。だから、橋本治というのは、村上春樹と同年代であると同時に、花の24年組なんです。しかも、橋本治は男なんだけど、女性の感性に同調できる力を持った類稀な人で、文学における「花の24年組」なんですね、僕の考えでは。それぐらい、女性的な感性を持っている人です。

それがどういうことかを申し上げますけど、1979年に『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』を出した時、彼はもう31歳です。これはけっこう微妙な年で、十代、二十代なら若いって言えますけど、31って、自分の立場とかを考えて、「ちょっと落ち着いたことしなきゃいけない」っていうような年齢ですよね。なのに、この人は「落ち着いたこと」を拒否したんですね。それがこの本の非常に重要な在り方なんです。だって、31歳になって、これ文庫本にはないんですけど、こんなバカな写真(おおくぼひさこさん撮影のタキシードの写真)を載せてるんですよ(笑)。これ、若い橋本治。若いったって31歳ですけど。本物のタキシードを買うお金はないから、スーツみたいなもので。で、マフラーをつけて、横に置いた子供たちが呆れて見てるっていう写真なんです。ここには、やっぱりありますよね。つまり、さっきも申し上げたけど、橋本治って、正しいことを言った瞬間に恥ずかしくなっちゃうから、自分がこんなことやったのを、子供を置いてバカにさせてるんですね。そういう懐の深い人です。「バカだよね。わかってるよ。子供たちもそう言ってるもの」っていう、そういう立ち位置なんですね。

この本の主題は、「みんな、だいすきだよ」っていうことなんですけど、驚くべきところは、後篇が出た時に、マンガみたいに、「前篇のあらすじ」っていうのがあるんですけど、そこに何て書いてあるかというと「みんな、だいすきだよ」。ふざけるな! そう思いますよね(笑)。本当にふざけた人なんだけど、そのふざけ方にどういう意味があるのかっていうことがわかると、恐ろしいようなすごさを持った人であることがわかります。

では、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』の特異性という第2部に参ります。その前に、資料に野坂昭如の名前が書いてあるんですけど、簡単に言っちゃうと、「今あるものに疑問を抱いてそれに反抗する」ことを「カウンターカルチャー」って言いますよね。カウンターっていうのは「反対」で、カルチャーは「文化」だから、対抗文化なんて言いますけど、そういう、今あるものに反対する文化を担った人っていうのは、僕にとっては、やっぱり、野坂昭如なんです。橋本治よりも野坂昭如の方が、はっきりしていましたよね。学生運動にもはっきりと加担する姿勢を示して、東大に行って、学生におにぎりあげたり、ともかく、今ある体制を叩き潰す。お酒飲んで、キックボクシングやって……そういう無頼派ですね。でも、野坂昭如と橋本治が違うのは、年齢を見ていただければわかるんですけど、野坂昭如は1930年生まれで、自分で「焼け跡闇市派」を名乗った。つまり戦争を知っている人。戦争の一番下の世代。『火垂るの墓』をお読みになればわかりますよね。あの悲惨な戦争を知っているから、橋本治みたいに、戦争をまったく経験してない純粋な戦後民主主義の人とは違うんです。「人間なんて、どうせ、戦争が起こって死ぬかもしれないんだから、しょうがねぇよ」っていうニヒリズムと、反抗精神と、何ていうのか、やけのやんぱちみたいな感覚があるんです。それが野坂昭如のすごさなんだけど、橋本さんはそういう、正面切って「戦って死んでもいい」とかっていう感じにはならないんですね。彼はおそらく、何か事件があった時に、そこを生き延びる道を模索するようなところがある。だから、野坂昭如の生き方は野坂昭如にしかできないけど、橋本治の生き方っていうのは、僕らにもちょっと学ぶところがあるような気がするんです。つまり、普通の人にも生きていく知恵を与えてくれるっていうか、そういう感覚がある。そこで、「今あることに反抗する」タイプの文化人として、野坂昭如とはちょっと違うということを申し上げるために資料に書きました。

●橋本治がいなければ、一生、少女マンガを読まなかった

『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』が出た時、何に驚いたかと言うと、全部、少女マンガの話だったこと。僕はマンガについて多少は知っていますけど、前後篇2巻で、すべてマンガのことを論じた本なんていうのは、それまでの日本にはなかった。なぜか。簡単な話です。マンガは、女子供のものだと思われていたから。マンガの中でも、少年マンガはまだいいんですよ、手塚治虫がいたから。戦後の日本を明るく導く素晴らしい星だったわけですよね。明るい未来に向かって、鉄腕アトムと一緒に飛んでるみたいな。だけど、少女マンガは、それより下のマンガだと思われていた。だけど、橋本治はこの本の中で一回も手塚治虫について触れてません。完全に無視! 手塚治虫なんてなかったことにして、「そんな人は関係ない。僕が相手にするのは少女マンガだけだ」って、少女マンガだけを論じ切ったんです。そんな人は日本の歴史の中にいないので、橋本治が初めて、日本の少女マンガがどれほどすごいかを教えてくれた。

日本の少女マンガがどれほどすごいかを知るには、今、外国に行くといい。少女マンガっていうジャンルがあるのは日本だけです。アメリカでも、ドイツでも、フランスでも、イギリスでも(イギリスはそもそもマンガはありません)ない。萩尾望都さんが、この間、大英博物館のマンガ展に行って、イギリスにはマンガというものが全然ないことに驚いていらしたけど、要するに、少女マンガがあるのは日本だけなんです。だけど、少女マンガに救われるような感性を持った女の子たちは、もちろんアメリカにもヨーロッパにもいる。そういう子たちが日本の少女マンガを読んで夢中になって、日本の少女マンガと同じ格好して、日本の少女マンガと同じタッチでマンガを描くようなことが起こっています。僕は、フランスにしばらく住んでいた時に、ある時からいきなり日本のマンガが席巻したんですけど、ゴスロリってありますよね。ゴスロリは、日本人がやるからゴスロリですけど、それを真似してフランス人がゴスロリやると、そのままなんですよ(笑)。だから、そういうゴスロリの人たちと街ですれ違って、後ろ姿を見ると、革ジャンの後ろに「魂」とか書いてある(笑)。魂の意味を知ってるかどうかわかりませんけど、影響を受けていて、オペラ座のすぐ傍に、当時、本屋があって、その地下に行くと日本人向けにマンガが売ってるんですけど、時たま、ゴスロリとかゴス少年みたいなのが来て見てるんですが、もちろん日本語はできないと思いますよ。でも、やっぱり本物を味わいたいんですね。フランス語になっちゃったやつだと日本度が減るから。日本度純粋なやつではわかんなくても、既に翻訳で読んでるから、日本語ができなくても物語はわかるんですね。だから、コアなファンはそういうのを買っていく。つまり、そういう風に、日本の少女マンガに反応する感性を持った女の子たちはいるんだけど、何しろ、その物がないから、日本の少女マンガに夢中になっている層が今や専門のマンガを作っているという状況になりつつあります。これは日本の自慢じゃなくて、少女マンガが「異様」だとみんな思ってた。つまり、揶揄する人たちは、「目の中に星があるんだぜ。時々、月もあるぜ」って、そんなのはないけど言っていた。そういう少女マンガをバカにする人たちがいたんだけど、そこに何があるかっていうことを、橋本治はものすごく丁寧に、この本の中で教えてくれたんですね。それで、僕も初めて、「こんなに一生懸命、少女マンガのすごさを語る人がいるんならば、そのマンガを読もう」と思って少女マンガを読み始めました。だから、橋本治がいなければ、僕は一生少女マンガを読まなかったと思うんですね。その意味でも、「橋本治のおかげで、僕はマンガについて一番大事なことを知るようになりました」って言えるんで、今日、こんなところに来て喋ってるわけです。

『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』の特異性の、その2です。これは、やっぱり文章。最近は橋本さんも流れるような文章を書くようになってるんで割合に読みやすいけど、ともかくこれは読みにくい。「ああだこうだ、ああだこうだ」って言って、「こうでもない、ああでもない」って延々と繰り返されて、何を言ってるのか、初めはわからなかった。文章って、「筋が通るように論理的に書きなさい」って指導されますよね。そういう文章を書くと、大学受験で合格するわけです。橋本さんの文章は、大学に落ちる文章ですよね。「でもね」って次の話が始まって、「ところで、さっき言ったけど」とか、自分の思考と同じように文章が書ける。ある意味では天才ですよね。それで、人に読ませるんだから。彼の文章には、ものすごく飛躍と断絶があるんですね。論理的ではないところがある。思いつきで書いている。ところが、ある思いつきを徹底的に考えていくという点においては、比類のない才能があって、「ああでもない、こうでもない」って、ずっと考え続けることができる人なんですね。そういう粘り強い思考と、思いつきの飛躍と断絶みたいなものが両方ある、ちょっと滅多にない文筆家ですね。論理で押していくとか、飛躍だけでいく詩人とかいるけど、それを両方を持ってる人は滅多にいない。だから、彼の思考形態を表す文体のすごさっていうのは、やっぱりビックリするんです。最初、僕は読めなかったですけど。

● 出版から36年を経てわかったこと

先ほど申し上げましたけれど、「ふざけた態度」っていうのが、橋本さんの典型的なものです。さっきの、スーツを着てマフラーつけた写真もそうですけど、タイトルが『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』ですよ。でもよく見ると、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』っていったら、教養のある人々は、「もしかして、プルースト?」と思うわけです。『花咲く乙女たちのかげに』。しかも驚いたことに、前篇の第一章は、倉多江美さんというマンガ家の論ですけど、そのタイトルが「失われた水分を求めて」。『失われた時を求めて』と。僕はもうずっと騙されていたんです。つまり、「橋本治はあんな風だけど、マルセル・プルーストをちょっと好きなのかな?」、「だから、こんなところに隠し味を入れてるのかな」と思ったんですね。そしたら、今度の新しい河出文庫版で、橋本治があとがきを書いてるんです。なんで、これまでずっとこの本について何も言わなかったかっていうと、「誰も頼まないから」って(笑)。まぁ、そうかもしれないけど、普通は言いたいことがあれば言いますけど、そこが橋本さん。その屈折が、橋本治ですよね。噓か本当かわからないけど、誰にも頼まれないから言わなかったけど、なんで『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』であるかということが、36年後にようやくわかったんです。何かというと、橋本さんは、マルセル・プルーストは読んだかもしれないけど、こんなふうに書いてます。読んだことないんだけど、『花咲く乙女たちのかげに』とか、『失われた時を求めて』っていうタイトルは知っててカッコイイと思ってた。だから、僕もプルーストでいきたいと思った。ただ、あんまり露骨にやるとダメなんで、まぁ、プルーストには、ほら、『スワン家の方へ』とか、『ゲルマントの方』とか、あっちの方へっていうタイトルがありますよね。だから、まぁ、そっちなので、『花咲く乙女たちの近所で』っていうタイトルでいこうと思った。だけど、それじゃあ、あまりにもストレートなんで、近所、じゃあ、キンが一緒だからキンピラゴボウにしようって。そんな感じで言ってます。

これが橋本治なんですね。恥じらいと、感覚の鋭さですよね。でも、普通の人は、っていうか、誰もわかりませんよね、そんなこと、言われるまで。近所が変わってキンピラゴボウになったなんて。だけど、それをポンと放り出した時に、人に与える衝撃力みたいなものを彼は計っているので、これが「近所」が、何でもいいんだけど、花咲く乙女たちの「金閣寺」とか、「キンキラキン」とかじゃダメで、「キンピラゴボウ」がいいっていうことは直感的にわかるんですね、言語感覚がすごいから。だから、この本のタイトルのうまさはそこにあるんだけど、橋本治のその人を食った感覚みたいなものは、36年後に、「近所に行っただけ」だったんだ、関係なかったんだっていうことがわかるんですね。

資料に「性的な事柄への露悪的に見える言及」と書いてますけど、今はもう橋本治さん程度にセックスのことを言うのは全然何でもないですけど、当時は、橋本治の書くものは、なんか性的な感覚があって、すごく露骨だっていう気がしましたね。『桃尻娘』は本当に素晴らしい小説だけど、一文だけ持ってきたので、今日の例文として見ていただけますか? 「若者の口調を使う」と書いてある資料です。どこから取ったかというと、僕の本で『文章読本』という本がありまして……すごいタイトルでしょう? しかも中公文庫ですよ。中公文庫って、『文章読本』という本が3冊あって、ひとつは谷崎潤一郎の『文章読本』。次は三島由紀夫の『文章読本』。もうひとつは丸谷才一の『文章読本』。2003年だけは、僕の『文章読本』も、谷崎、三島、丸谷と並んであったんですね。文豪の仲間入りをしました。ただし、これは、自分で言うのも何ですけど、結局、埋もれてしまって今は絶版。やっぱり敵わなかった。当たり前ですよ。でも、一時期、僕、三島に肩を並べたという風に自分で勝手に思っています(笑)。『文章読本』って何をやってるかというと、副題に「文豪に学ぶテクニック講座」とあって、いろんな小説家の文章を、1ページだけ出してきて、そこでどんなテクニックが使われて、それが名文になっているかを、事細かにやった本なんです。その中で橋本治さんを扱っているので、この例を取ります。これは、橋本治の『桃尻娘』であることはわかるんだけど、いきなり始まって、読んでいくうちに、ここで何が起こっているかがわかるという仕組みになります。

まず、「よりによってAだなんて、よく言うわよ」って言うんですが、このAっていうのは、橋本治の『桃尻娘』が出たのは何年でしたかね? 1977年。この時代には、男女交際についてABCDというものがありました(笑)。今、笑えた方は、その年代の方です。Aはキスで、Bはペッティングで、Cはセックスで、Dは妊娠、最低ですよね。そのABCDみたいなことが流行った時期があって、この女の子らしいですね、怒ってるんです。「よりによってAだなんて、よく言うわよ」と。つまり、彼女はそういう世間の風潮に対して、ものすごく怒っている。これは、橋本治と同じ立ち位置です。だって、ABCDなんて恥ずかしくて口に出せないのに、平気で言う。それがあたかもちょっと進んでる人間の印であるかのような風潮があった。

その後です。「AだからBCDってなるんでしょう」。ここでようやくABCDになりましたよね。ここでこの女の子が怒っているのは、「AだからBCDになる」っていうことです。つまり、キスの後ならば、ペッティングを許してもいい。ペッティングを許せば、まぁ、しょうがない、セックスにいってもいいっていう、この小心で律儀で保守的な、「段階を踏めばいい」という考え方、逆に言うならば、「すぐにセックスさせちゃうような女はダメだ。淫らだ」っていう、そういうことを恐れているわけです。だから、好きな男がいても、とりあえずキスさせて、ペッティング、セックス。この女の子が怒っているのは、「AだからBCDってなる」。それならば、セックスは「階層秩序に基づいて許されるものなのか?」って怒っている。そんなもんじゃないだろうっていうことです。

その怒りをどう転じたかというと、「あたしはイロハの方がいいわ」と言う。これは見事ですよね。つまり、ABCDという英語の階層秩序に対して、日本の「イロハニホヘト」の「イロハ」だって言うんです。だけど、ここで何がすごいって、「色」という言葉を遣っていることです。つまり、ABCDがセックスの記号であるとするならば、イロハの色はセックスそのものですね。つまり、日本で言う、好色一代女の色(しょく)。それから、色道の色(しき)。これ、完全にセックスのことです。そもそも色って象形文字で、元は男女がむつみあってる姿。セックスのことなんですよ、色というのは元々。何を言いたいかというと、ABCDという性に関わることを話している時に、この女の子は「イロハの方がいいわ」って言う。「色は匂ってサ」って言うけど、この裏には、色が元々セックスを表すという東洋文化的な教養があるわけです。

答を言うと、ここで喋ってるのはもちろん『桃尻娘』のヒロインの、某都立高校一年生の榊原玲奈、玲奈ちゃんですよね。玲奈がこんなことわかるわけないんです。だから、ここで「色は匂ってサ」って言ってるのは橋本治なんですね。後に橋本治は、『桃尻娘』の語調を使って、桃尻訳の『枕草子』を書き、それから、『平家物語』や『源氏物語』も現代語訳します。だから、ここに出てるのは、思わず出ちゃった橋本治の東洋文化的な教養。日本文化の教養なんですね。それは消すことはできないから、「サ」ってカタカナ書きです。これは彼の恥じらいの表現なんですね。つまり、「思わず俺の教養出ちゃったけど、『サ』でごまかそう」っていうこと。そういうカタカナ書きのうまさっていうのも、この文章の特徴なので、たとえばその後を見ていただくと、この「匂ってサ」っていう風に自分の教養をごまかす。で、「ABCなんて無意味にかっこつけて、『だめよ』って言いながらチョッとずつ許してくのよネ、チョッとずつ確実に、高校生らしく節度を持って」。見事な啖呵ですよね。だけど、この「ネ」っていうのと、「チョッと」っていうのがカタカナになってるんですね。ここには何があるかというと、ABCDとかって言って、実は保守的で段階踏まなきゃそういうこともしないくせに、なんだか現代風にかっこつけてる同級生へのとげとげしい悪意、あるいは軽蔑心ですよね。

だから、玲奈は一人なんです。友達は、いろんな変わった奴がいますけど、基本的に、クラスの中でたった一人の位置を保っていて、この「チョッとずつ許してくのよネ、チョッとずつ」って言った時に、同級生を完全に軽蔑し切っている。バカにしている。そういう「自分一人の立ち位置をキープする」っていうのが、橋本治の本質的な位置の設定なんですね。「みんなして同じことやらないぞ」っていう。玲奈はどう言うかというと、「でも、やりたくなると、絶対に〝愛〟を持ち出して来たりして」。愛のテーマは後で申し上げますが、「今からOLみたいな真似してどうすんのかしら」って、これ、もう、当然、同級生に対する軽蔑ですよね。「そんで最後には、『だめよ、こわいわ』って言って、あたしン所に来るんだ、『ねえねえ玲奈』って。そしてそれはH・R(ホームルーム)で『男女交際について』をやった日で、昼休みの校舎の蔭なんだ、陳腐なのは顔だけにして欲しい」。このふたつの文章は、いかに玲奈が同級生をバカにしてるかということです。

次が、橋本治が「性的に放縦」だとか、「すごく露悪的だ」って言われる原因になるセックスに関する言及です。「ただの〝交際〟だけなら早いとこセックスしちゃえばいいじゃない」って言う。つまり、これは一見、セックスの勧めに見えるんですね。でも、それは表層のことで、橋本治はセックスすればいいなんて言ってるわけじゃない。見ていくとわかるんですが、「そりゃ、妊娠なんかしたらヤバイに決ってるけど、キスもセックスも本質的には同じだと、あたしは思うの。前にも村雲クンとキスした時――本当の初めてだったけど――どうして『イイだろ?』って言わないのか不思議だった。だって、どうせ〝する〟のに」って言うんです。非常にクールに。

だけど、彼女の一番大事な本音は、この後にあるんです。「あたしはキスよりセックスの方がイイ、あんまりよくなかったけど」。これが橋本治の文体の秘密なんですね。つまり、「あたしはキスよりセックスの方がイイ」って言った時の「イイ」は、これは良い気持ちのイイじゃなくて、選択を表している。私はAよりBがいいって。ものすごく生真面目な選択を表しているんですね。それで、なおかつ、このキスは何かというと、「手順を踏んだキス」っていうことです。さっきの階層秩序を、小心に律儀に踏んでいくキス。つまり、好きであるとか嫌いであるとかいう熱情よりは、世間的な秩序を大事にする。キスより真剣なセックスの方がイイ。つまり、愛か欲望かわかんないけど、熱情に突き動かされてセックスするなら、手順を踏んだキスよりも、本当に人間が心の底から衝動に突き動かされるセックスの方がイイという意味です。

だけど、橋本治っていう人は、やっぱり、本当の自分の本音を言った後に、恥ずかしくなる人なんですね。だから、こう言ったんです。「あんまりよくなかったけど」。ここでの「よい」っていうのは、選択の良い悪いじゃなくて、性的な快感の意味になっていますよね。だから、わざとこんな風に露悪的な言葉で「あんまりよくなかったけど」って言って、自分がいま言ってしまった、「手順のキスより、熱烈な真面目なセックスの方がイイ」という本音を和らげたんですね。相対化した。距離を置いたわけです。

●『桃尻娘』が扱っているのは「生き方」

これが橋本治のレトリックの非常に根本的な特徴です。つまり、本音を言う。けっこうモラルを言う人ですね。道徳っていう意味じゃないです。倫理ですね。生き方っていうことです。その生き方を言うんだけど、生き方を正面から打ち出した時に、やっぱりちょっと恥ずかしくて、「よくなかったけど」っていう風に別の話にすり替えちゃうのが、橋本治の含羞。羞恥心なんですね。で、その後。「終ってから帰る時に小山のヤロウにキスされた時はゾッとした。アイツの顔をモロに見てしまった。アアいう顔をすると、『ゲームだよ』なんて言えるらしい」。バカな男ですね。「それなら真剣の方がズッといいに決ってるじゃない」。ここですよね。「真剣の方がズッといいに決ってる」っていうことなんです。つまり、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』だってそうでしょ。真剣な愛と欲望でセックスする、そういうことですよね。

これは、やっぱり、この文章の中の思想のひとつですけど、「よく分んないけど、セックスってもっと滅茶苦茶な気がする」って言ったその瞬間に、先ほども申し上げたけど、「セックスというのは、段階を踏んで階層秩序に服することではなくて、自分の中にある、よくわからないけど、滅茶苦茶な欲望とか愛とか、そういう訳のわからない感情に突き動かされることなんだ」と言ってるんですね。おそらく、これは橋本治自身の考え方でもある。つまり、愛とか欲望なんていうものが、自分の限界を超えるような熱情じゃなかったら、意味がないということです。だとしたら、そこには、セックス自体がいいとか悪いとかはなくて、それに突き動かされてる男がいて女がいるっていうだけのことなので、ここで言われてるのはそういうことです。セックスはもっと滅茶苦茶だっていうのは、人間はどこかに滅茶苦茶な部分を持っていて、その滅茶苦茶に突き動かされるっていうことが、セックスにもある。それを階層秩序みたいなものに持ち込むな、ということですね。自分の欲望でもいい、愛でもいいけど、それに正面からぶち当たれというモラルなんです。

次、やっぱりお笑いが来るわけです。「田口祐子みたいにキチンと階段を昇ってくなんてあたしはイヤ」。田口祐子って、もう名前が既に律儀で小心で保守的な名前ですよね。今、大学にいると、子のついた女子学生がほとんどいなくて、昔、『〝子〟のつく名前の女の子は頭がいい』っていう本がありましたけど、すごい本ですね。主張は簡単です。子をつけるような親は保守的だから、子供たちに勉強させる。だから、そういう親の言うことを聞いて一生懸命勉強する人たちは成績が良くなるわけです。今、もう、「子」いません(笑)。たまにいると、「あ、親がそういう人なのね」って思うんですね。今や、子をつけると、家庭がいいと誤解しますよね。でも、田口祐子はマズいです。同じ名前の方がいたらごめんなさい。だけど、橋本治の意地悪さは、そういうところです。田口祐子(笑)。「田口祐子かよ」っていう感じがしますよね。こいつはどういう奴かというと、キチンと階段を昇っていく。この階段は団地の階段じゃない。僕がさっきから口を酸っぱくして言ってる、要するに、階層秩序です。キスの後ならいい。ペッティングの後ならセックス、まぁ、しょうがないっていう、そういう風に世間の秩序を一歩一歩踏んでいく、そういう階段です。それに対して何て言うかというと、「階段は毎日昇り降りする団地の階段だけで沢山よ」。これも、またひっくり返しがあるわけです。つまり、「階層秩序なんかには私は服さない。私は自分の欲望なり、感情に忠実になる」って生真面目な本音を言っちゃったから、やっぱり恥ずかしいんですね。それをひっくり返すために、団地の階段に変えちゃう。「階段は毎日昇り降りする団地の階段だけで沢山よ」って。さっきの「いい」っていう言葉が、違う意味でズラされて使われて言葉遊びになっていたのと同じように、ここでも階段が、階層秩序っていう意味の比喩、メタファーとして使われてるところをひっくり返して、「団地の階段で十分よ」って言い直す、距離を置く、相対化するっていうのが、橋本治のレトリックなんですね。これで、彼の本質的なレトリックが、もうふたつ出ています。

それを読ませる力がまたすごい。その後、「どうして祐子は明日にでも結婚するみたいな顔してこんな話ができるんだろう。きっと〝鈍器〟なんだ」って言った後、「もう明日からは一人で帰ろう、放課後図書館にいるかどうかして」って言うわけですけど、この「一人でいよう」っていうのが、やっぱり橋本治のメッセージですよ。玲奈は一人なんです。友達とワイワイやってるように見えるギャルだけど、根源的に世間の階層秩序みたいなものに服さない。「自分の熱情みたいなものがあるんなら、そっちにいく方が素晴らしいんだ」って考える女の子で、これはやっぱり、すごく「自分を持ってる」。つまり、橋本治自身と言ってもいいぐらい。だから、セックスの話を『桃尻娘』はあからさまにするんだけど、セックスよりもむしろ、セックスを巡って、「世間並みにやってれば、まぁいいよ」っていう偽善じゃなくて、「もしも、セックスっていうものがあり得るならば、もっと人間の不可思議な力みたいなものをそこに見なければいけない」っていう。結局、そういう考え方をする人は一人でいるしかないんですね。だから、彼女は、放課後図書館で一人でいる。何をするかというと、本を読む。あるいは、少女マンガを読むっていうことになるんでしょうね。

●『桃尻娘』のモラル性

『桃尻娘』は日活ロマンポルノになって、竹田かほりっていう可愛い女優と、亜湖っていう素っ頓狂な女優が出て、要するにポルノだと思われた。もちろん書かれてることはセックスだから、映画にするとポルノになります。けれど、『桃尻娘』はポルノではまったくない。セックスは扱っているけど、性的な興奮を煽るとか、性的なことをおもしろおかしく書いてみせるという本ではまったくなくて、今、僕が申し上げたことでおわかりになっていただけたと思いますけれども、モラルに関する本なんです。そのモラルは、単なる道徳的善悪ではなくて、自分の生き方。セックスも含めて、人間はどう生きていくべきかを書いている本なんですね。だから、『桃尻娘』はすごくおもしろいけど、緊張感のある、人間どう生きるかっていうことを、高校一年生がすごく真面目に考えてるところがあるんです。

そういう『桃尻娘』の、たとえばセックスを巡って、橋本治が榊原玲奈を通じてどんなことを考えていたかということをいま申し上げましたけど、これに子孫がいるとしたら、舞城王太郎の『阿修羅ガール』になるんですね。『桃尻娘』が1977年で、『阿修羅ガール』が出たのは2003年、つまり21世紀になってからです。アイコっていうのが主人公なんですけど、この本を読んだ時に、「あっ! 榊原玲奈は、現代的にアップデートして阿修羅ガールになったんだ」と思いましたね。1ページ目開くと、同級生とやるやらないっていう話が延々と書いてあって、これを読んだ某芥川賞審査員の宮本輝先生は「下品だ」と仰いました。全然読み違い。あそこに書いてあることは下品なセックスの話だけど、書いてる人は全然下品じゃないです。それは、橋本治が『桃尻娘』でセックスの話を書いてるからポルノだっていうのと同じことで、舞城王太郎のアイコの周辺で起こったセックスの出来事は、セックスというのは人間につきものですから、それを書くことは当然で、おもしろおかしく書いたんじゃない。何よりも僕が「これは榊原玲奈の後輩だな」って思ったのは、初めの方で佐野っていう同級生の男がいるんですよ。もうバカな男で。まぁ、高校生とか中学生って、だいたい女性とそういうことしたいっていうことしか考えてませんよね。その佐野がアイコに、「いいじゃないか。やらせてくれ」ってしつこく言うんですね。なんか高校生で中年男みたいな奴ですね。その佐野の理屈が、「減るもんじゃなし」。そしたらアイコは何て答えたかっていうと、「減るんだよ、自尊心が」。いいなぁ~! その通りだよ! 拍手って思いましたね(笑)。だから、これはやっぱり、榊原玲奈に通じるものですね。つまり、アイコは放縦に見えるけれども、自尊心を持っていて、自分の自尊心が傷つくようなことはやらない。だから、ちゃんとしたモラルの子なんですね。そういう『桃尻娘』にあったようなモラル性が、現代は『桃尻娘』の時よりさらに乱れに乱れてるから、そういう状況を背景にして、女の子の生き方をどう描くかっていう点で、舞城王太郎はアイコという女性像を作りだしたんですね。これもなかなか良い本なので、『桃尻娘』と比べてみるとおもしろいかもしれません。これがおそらく、日本における1970年代と21世紀の性的な状況の違いを表してると思えるような、良い例だと思います。

●『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』は橋本治の戦後日本論

元に戻りますが、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』は、橋本治が戦後派の世代として生まれてきて、「戦後日本って何だったのか」っていうことを考えた本なんですね。少女マンガを論じていて、そんなことは絶対にわからないけど、僕はずっとこの本を読んできて、「あっ! これは橋本治の戦後日本論なんだ」と思いました。

それが書かれてるのは、第二章の「眠りの中へ…」という萩尾望都論です。資料に橋本さんの言葉を引用しています。「かつて世界は全き家庭、妻と子供のために働く父と、夫と子供のために尽くす母のもとで子供が子供であることを許された黄金時代」。ちょっと変えてありますけど、そういう時代がほんのちょっとだけあった。いつかというと、1950年から60年代初めの14 年。なぜ50年かというと、1945年から50年ぐらいまではまだ戦争の余波があって、世の中が落ち着いてない。食うのに精一杯。焼け跡闇市の時代といっていいと思います。だから、戦後の一番純粋な民主主義の時代はまだ到来していないんですね。でも、戦争から5年ぐらい経って、いま言ったみたいな民主主義、政治的にはアメリカの民主主義が理想ですよね、アメリカのホームドラマみたいな家庭を作ろうと思った。民主主義が日本にも来るぞ、と。妻と子供のために働くお父さんと、夫と子供のために尽くす母親がいて、子供が子供でいられた。ここが重要な点です。つまり、子供が完全に保護された純粋な民主主義的な家庭の中で、「自由に育っていいよ」って言うことができ始めたのが、戦争の余波がおさまった1950年前後で、それから60年代の初めで終わっちゃうというんです。なぜか。1960年代の初め、つまり、1960年代の、3年、4年、後半になっていくと何が起こるかというと、日本はたちまちにして経済成長を始めます。経済成長を始めて何が起こるかというと、お父さん中心主義の社会になっちゃうんです。

なぜか。経済中心主義というのは、お金第一主義です。家庭で一番偉いのは、お金を稼いでくるお父さん。結局、1960年代の中頃から、それまで子供もお母さんもお父さんもみんな平等な理想の民主主義社会、そのひな型が家庭だと、理想を語っていたはずだった。ところが、60年代の後半ぐらいになるにつれて、日本人みんながお金稼ぐようになって、でも、実際にお金を稼いでくるのは父親です。僕もよく覚えてますけど、当時はお父さんが札束で給料貰ってきますよね。そうすると、その時だけお父さんが英雄で、僕も子供ながら覚えてるんですけど、お父さんの給料袋から札束を出して、グルッて巻いて(笑)、「お父さん、ありがとうございます」みたいなことをやってましたよ。バカとしか言いようがないけど、そういう時代ですね。そこで何が起こったかというと、外で戦ってお金を稼いでくるお父さんが一番偉いんだから、お母さんも子供も、そういうお父さんを支えましょうっていう、男性中心主義社会。経済第一というのは、男性中心主義社会なんですね。

今の日本がどうかって考えると、まったく同じですよね。だって、アベノミクスで喜ぶ人が世の中回してるわけでしょ。つまり、お金第一。「なんだかんだ言ったって、金だよ、人間は」って平気で言う人が回している。いまだに男性中心主義の日本では、お金を稼ぐ男が偉いという男社会が、まったく動いてない。自民党の代議士なんて、みんなそういう男たちで、それを支えてる女性代議士なんてもっと酷い。なぜならば、男よりも過激なことを言わなければ、女としては代議士になれないから。そういう社会がいまだに続いている。

●13歳は決定的な時期

1960年代の初めまであった民主主義の理想みたいなものは、もちろん夢です。けれども、家庭でも、お父さんもお母さんも子供も平等で、政治は民主主義、と思える時代があった。萩尾望都の生年は1949年、昭和24年生まれ、花の24年組ですよね。13歳になったのが1962年。ということは、日本の経済第一主義、男性中心主義の社会が回り始めた時なんです。13歳というのは、橋本治にとってけっこう決定的な時期で、なぜかと言うと、男の子や女の子の性別ができる時だから。女の子は初潮を迎えると、「お前も一人前の女になったね」って言われて、そこで男と女の区別ができるんですね。性別を女の子が意識する。でも、親には初潮を隠せって言われますよね。つまり、性別を女の子は意識したけど、世間に向かって言ってはいけない。「これは秘密なんだ」とまぁ悪のニュアンスがあります。まさに一番敏感な13歳ぐらいで、女の子が自分の女性性を意識した。ここでは萩尾望都さんの例ですけど、萩尾望都が女を意識した時、世の中は男性中心主義の男社会になっていたということなんですね。だから、彼女にとっての理想の民主主義と、幼年期という黄金時代は失われちゃった。

これは、橋本治も同じです。後で申し上げますけども、そういう特別な時代に生まれた特殊な人たちの話を前提に置かないと『ポーの一族』の物語はわからないと橋本治は言うんです。僕は、単にイギリスの下手くそな吸血鬼小説の真似かと思ってたけど違う。そんなものじゃないと。僕は高校生の時に、マンガ好きな友人に「『ポーの一族』って、すごいんだぜ」と言われて、しょうがなくて初めて本屋で、「別冊少女コミック」を買いました。見て、「ああ、確かにすごいな」と思ったけど、はっきり言って話としてはイギリスのゴシックロマンス、絵柄としてはイギリスのラファエル前派の、悪いけど下手な真似じゃない? という風に生意気な高校生の僕は思いました。でも、「違う。そうじゃない」と、橋本治は言うわけです。つまり、「子供を脱して目が覚めた時、黄金の世界は滅んでいた」。つまり、女になった瞬間に、戦後の一時期だけあった、すべてが平等な民主主義の夢の世界は滅んでいた。従って、「その世界で生きることに違和感を抱く人は、永遠の夢を見て半睡半醒であり続けることを選んだ」。これが、萩尾望都の立ち位置です。つまり、今の現実に適応して、男社会に乗って生きていくのではなく、この夢を見て、ただし、生きなきゃいけないから半分覚めているけど、眠ってる時の夢の方が美しいんだという考え方。それが『ポーの一族』の意味だと、橋本治は言うんです。

これは目から鱗ですよ。つまり、『ポーの一族』って吸血鬼の話だけど、吸血鬼というのは、生きていて死んでいるわけですよね。生きているっていうことは「現実にいる」けれど、死んでいるっていうことは、「お前は人間として、男社会で経済第一のきちんとした世界で生きることができない不適格者だ」って烙印を押されることです。だから、生きていて死んでいる吸血鬼の孤独というのは、そういう世界に適応できない少女、一番、抑圧されるのは少女ですから、少女。そして、そういう少女に共感できる、少女マンガを読むような少年、ということになります。だから、『ポーの一族』という物語は、イギリスの吸血鬼の話であるのはもちろん表層なんだけど、実は、戦後の黄金時代を失っちゃった少女たちが、適応できずに、もっと夢を見ていたいと思う。そういう少女たちの物語だと言うんです。

そうしてみると、主人公エドガーの妹にあたるようなメリーベルは、13歳の時にポーの一族に入る。つまり吸血鬼になって、不死の生命を得る。13歳からずっと永遠に生きるはずだったのが、銀の銃弾を撃ち込まれて死にますよね。つまり、13歳っていうのはやっぱり、女であることを意識して、「もう黄金の幼年期は消えちゃったんだ」ということを意識する時期です。だけどメリーベルは、男性中心主義的な社会を知らずに済むように、13歳で時間を止められた。だから、すごく微妙な年齢なんですね、13歳は。結局、メリーベルは美しいまま消滅する。けれども一方のエドガーは、少年のままずっと生き続けて、今でもやってますよね、『ポーの一族 ユニコーン』。すごくなってきましたよ! だって、死んじゃったはずのエドガーの片割れのアランが、火事の中で灰になっているかと思ったら、その灰をエドガーが持って、「この灰を甦らせる」って宣言してるのが今の『ポーの一族 ユニコーン』ですよ。すごい。そのためには、悪魔にでも魂を売るって、おっかない話になってきますよね。まぁ、どうなるか。すごい。でも、その話はまた別です。

しかし、かつての『ポーの一族』というのは、始まりがあって終わりがある一直線の時間で流れる物語かというと、時間も流れない。つまり、吸血鬼には永遠の時間しかないから、どこの時空間を切りとってもいいんですね。18世紀のイギリスのポーの村を切ってもいいし、20世紀70年代のイギリスの町でもいいし、どこでも同じ時間なんです。つまり、一直線に進んで、人間が生まれ成長し、ある到達点に至るというような一直線の人間の時間ではない。吸血鬼の時間は、どこでも同じだっていう、そういう夢の時間ですね。『ポーの一族』が、そういう変な時間で作られているのは、夢だからなんですね。

●夢の時間を見開きに実現した少女マンガの革命

それからもうひとつ、萩尾望都以降、決定的になるのは、マンガの枠が完全ではなくなったことです。少女マンガの特徴として、僕らも初めて少女マンガ読んだ時に、コマがはっきりしてないから、どこを読んでいいかわからない。こっちに人の顔があって、ここで喋る言葉が吹き出しであって、ここになんか浮いてる言葉があって、なんか全体がお花の中でフワフワしてる(笑)。でも橋本治は、「あれは夢だから、はっきりしたものになるはずはない」と言うんですね。夢の時間。一方は、手塚治虫です。このコマの後には次のこのコマ、と決まっていて、時々形式上の冒険もするけど、要するに時間はまっすぐに流れていて、少年はそこを駆けていく。でも、萩尾望都のマンガはそんなもんじゃない。夢の時間なんですね。萩尾望都のすごいところは、そういう時間を、物語の中でこれは「夢の時間だな」って示すだけじゃなくて、見開きの画面のなかにあるのは、コマからコマへと律儀に流れる時間じゃなくて、永遠にその場所でありつづけるような夢の時間をページのなかに実現しちゃったということです。それがマンガの決定的な革命なんですね。少女マンガの革命は、まさに、コマ割りという概念を変えちゃったことです。

コマ割りの概念を変えてしまったのは、日本だけです。今でも、アメリカのコミックス、フランスのバンド・デシネといわれるマンガ。これらは、みんな、基本的にコマ割りを壊すことはしていません。ただ一人、フランスのドリュイエという人だけは、枠線をぶっ壊しちゃった。日本でも翻訳が出ています。ただ、この枠線の壊し方は、実は、夢の時間という枠線の壊し方じゃなくて、すべての冒険が同時に起こっているような壊し方です。でも、それを例外として、コマ、コマ、コマ、コマって時間的に、不可逆的に連なっていくマンガが世界中のマンガの基本なんだけど、なんと、萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子、山岸凉子といった人は、そういうマンガの描き方そのものを変えちゃったんですね。でも、それは技術的に変えたんじゃなくて、彼女たちの「私は、もうこの世界には適応しない。夢の世界の方がいいわ」っていう立場の選択なんです。だから、これも、やっぱりモラルですよね。単に吸血鬼の話を書いただけじゃない。

資料に書いた「一生が幸せな光の続きであると信じていた少女の『時間』が過去になること」っていうのは、もう「少女の時間」は過去になっちゃった。これは、初期の萩尾望都のマンガの非常に重要な主題です。『COM(コム)』っていう手塚治虫がやっていたマンガ雑誌に、萩尾望都が描いた少女マンガがあるんですけど、この少女マンガでは、「砂糖菓子だった少女の時間」だったかな? そういう言い方をしています。つまり、「もう甘い甘い少女の時間はなくなった」っていうことが、萩尾望都のマンガの出発点にあるんです。そのことをはっきり指摘したのは、もちろん、橋本治が最初です。

もうひとつ、少女が「自分の時間が失われた」と思うことに関して、非常に重要な現象として何があるかというと、「人間が嫌だと思うこと」だと橋本治は何度も言っています。この世に生まれて、子供って全部に満足してる。駄々こねたりはするけれど。「何だかわからないけど、この世の中が嫌だな」って思う、つまり、「違和感」というものを知るのが、子供が大人になろうとする、この世の中の仕組みのいやらしさみたいなものに気づく瞬間なんですね。この違和感を出発点にしているのが、花の24年組の少女マンガだという風に言います。そして、橋本治独特の言葉遣いなんですけど、彼が「意識」と言った時には、今、僕が持っている意識ではなくて、「世界が嫌だな」って思う「違和感」のことを「意識」っていう風に言うんですね。だから、「何かを意識する」のではなくて、意識を持つこと自体が、「世界に対する違和感」=「嫌だな」って思うことの表明だと、橋本治は何度も何度も言ってます。ですから、ある意味では、それが極端にいけば、「世界の拒否」にもなっていくわけですね。8時をちょっと過ぎたら休憩を入れろと河野校長に厳命を受けておりまして、弱い立場なもので(笑)、ここで休憩を入れさせていただきます。
(休憩)

●時代の変化と「自分に目覚める時期」が重なった

それでは、続きを始めたいと思います。萩尾望都の話を申し上げましたけれども、その萩尾望都の失われてしまった少女の時代=黄金時代は、実は橋本治自身とまったく重なるんですね。つまり彼は、少女のように、性別ということについて、「突然、垣根ができる」っていう言い方をしてるんですけど、垣根ができるような経験はしていないんだけれども、物心がついて、自分の性を意識するような時に、かつての純粋な子供時代は失われちゃったという感覚を持っていたと僕は思っています。それは、橋本治の個人的な歴史の問題であると同時に、申し上げた通り、本当に奇跡的な、1950年から1962、63年ぐらいまでの、日本が純粋な民主主義を夢見ていた時代の終わりと、彼が自分というものに目覚める時期が重なったという歴史的な問題でもあるんですね。橋本治という人は、普遍的なお話もいろいろするけれど、やっぱりこの個人的な特殊性、花の24年組と同じ、村上春樹と同じという時代のことを押さえておかないと、やっぱり彼の特殊性はわかりにくいかもしれないんですね。

ふたつ目の例です。今、申し上げたのは萩尾望都の例ですけれど、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』の第四章に、「妖精王國女皇紀」という山岸凉子論が入っているんですね。山岸凉子はもちろん『アラベスク』の人であり、『日出処の天子』であり、最近だったら、『テレプシコーラ』というバレエのマンガがありますけれども、もちろん当時は『テレプシコーラ』はなくて、『アラベスク』について橋本治は論じています。僕が個人的に一番重要だなと思ったのは、そこに書いてある『天人唐草』という作品です。『天人唐草』で問題になるのは、やっぱり、はっきりと性の問題なんです。「少女は13歳前後で『黄金の子供時代』を失い、性別という垣根に遮られる」。つまり、少女が初潮を知って、自分の性に目覚めた時には、性別という垣根に仕切られちゃう、そういう世界が始まる。何でもOKの黄金時代じゃなくなっちゃうということですね。資料に「少年の性との違い。少年マンガにおける性の不在」と書きましたけど、これは橋本治が立てた問いで、資料のさらに下を見ていただくと、「少年は快楽とともに性を発見するが、少女は血とともに性を発見する」とあります。これは僕がまとめたけれど、橋本治が言ってることなんです。つまり、少年はいわゆる夢精とかオナニーっていうものによって性を知るけど、これは快楽の体験なんですね。だから、男の子は快感とともに自分の性を発見する。ところが女の子は、そんなことと関係なく、向こうから血がやってくるということなんですね。血というのは、やっぱり、どこか禍々しいところがあるし、お母さんは、そのことを隠せと言う。だから少女は、自分の意思とは関係なく、外側から性というものが隠さなきゃいけないものだっていう意識を植えつけられるんですね。これは、少女の特異性です。

少女マンガにはこうやって性が露出する必然があったわけですが、少年マンガにはなぜ性がないか。まぁ、せいぜい『ハレンチ学園』ですよね、同時代で言うならば。バカみたいな、スカートめくりのもっとすごいやつ。なぜ少年はバカかっていうと、彼らは性に対して、性別を意識するという垣根がないから。彼らは、いつか女の人とできたら、なんかいい気持ちになれるんだろうなって、そういうことしか考えていません。性別による垣根なんていうものは意識せずに、今の自分の性と、大人になった時の性は地続きだと思えるんですね。全然重要な問題じゃない。だから、少年マンガには性がなくてもいいっていうのが、橋本治の結論なんです。

『天人唐草』はどういう話かというと、ちょうど『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』が出る直前に出た山岸凉子の短編で、お読みになった方はどのぐらいいらっしゃいますか? けっこういらっしゃいますね。もしもお読みになってない方がいたら、是非、お読みになることをお勧めします。短いものだし、今日お話しすることの非常に重要なものが凝縮されているので。どういう話かというと、空港が舞台で、その空港に狂った女の人が出てくるところから始まるんですね。「ギーッ」とか「ギョエー」とか叫んでる。みんな、「ああ、嫌だな」っていう風に避ける。その女の人はどういう人かというと、ものすごい厚化粧。派手な服を着て、アクセサリーギンギンで出てくる。はっきり言って、狂ってるわけです。響子っていう名前なんですけど、響子は、非常に厳格なお父さんに育てられた。このお父さんは、「女の子は女の子らしくなきゃいけない。絶対にはしたないことをしてはいけない」って、すごく厳しく躾けるわけです。

そもそも、天人唐草って何かというと、美しい可憐な花が咲く植物なんだけれども、日本では天人唐草なんて誰も言わない。イヌノフグリっていう。響子がある時、イヌノフグリを見て、「あっ! この花、綺麗。イヌノフグリ」って言ったら、お父さんが「はしたないこと言うんじゃない!」って激怒するんですね。フグリって睾丸のことだから。犬の金玉って言ってるのと同じ。もちろん響子はそんなこと知りません。花が綺麗だと言っただけなのに、イヌノフグリなんて言葉を口にする少女は、はしたなくて汚いものだっていう風にお父さんが育てる。ずっとその調子で厳格に教育されて育った、良い娘を絵に描いたような響子だったんだけど、ある時、お父さんの秘密を知るわけです。お父さんは実は、「お前は絶対にそうなるな」って言っていた「淫らで、派手で、だらしのない、嫌~な女」をずっと愛人にしていたんですね。つまり、お父さんが「お前はそうなるな」って言ってたの全部、お父さんは甘い汁を吸ってたわけですよ。それで、娘だけはそういうものにはしない。だから、お父さんの言ってる理想の女らしい像と、でも男が好きなのはそれじゃないのよねっていうことの乖離に、彼女は耐えられなくなっちゃうんですね。自分が守ってきたものは何なんだ。お父さんは、結局、そういうものを好んでるじゃないかっていうことを知った瞬間に、ガラガラと彼女の精神のバランスが崩れちゃうわけです。それで、冒頭の「ギーッ」って叫んで、厚化粧で、派手な格好して、アクセサリージャラジャラの狂気の女になっていく。

橋本治のすごいところは、「父から女らしさを強制された少女、響子が、性を忌避して、狂気の檻の中で、初めて解放される」っていうけど、この「狂気の檻の中」とは何かというと、「男女の区別もない、花と美だけの世界。長い睫毛に星の光る瞳、フリルのドレス」、つまり少女マンガそのものですよね。少女マンガの世界は、抑圧された女の狂気の世界でもあるということを山岸凉子は描いてるんだと、橋本治は言うんです。恐ろしいですよね。今まで女性の逃げ場だと思っていた少女マンガの世界が、実は、普通の人がそれやったら狂気ですよっていうことですね。でも、普通だったら狂気と見なされるような世界こそが、少女マンガこそが、その少女たちを守ってあげている何かなんですよね。だから、『天人唐草』の狂っちゃった響子というのは、実は、まかり間違えば、少女マンガに夢中になっている女の子たちの姿でもあるわけです。ただ、普通の女性は、なんとなく世間と妥協しながら少女マンガを卒業して、普通の生活をできるようになるかもしれないけど、響子はあまりにも純粋だから、女らしさ、純粋さ、そういうものを信じていたのに、全部裏切る女性がお父さんの好みだったと知って狂っちゃいますけど、やはり少女マンガの恐ろしさみたいなものを、この作品で描いたのだと橋本治は言うんですね。これもやっぱり、「ああ~っ」って、目から鱗が落ちるというか、ビックリしましたね。「そうか。少女マンガの世界っていうのは、狂気の世界なのか」って、橋本治がはっきりと言った最初の人ですね。

ここで、この本の最終章、資料に「ハッピィエンドの女王、大島弓子論」って書きましたけれども、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』の最後の最後は、一番長い大島弓子論なんですね。これも、あっちこっち行ったり来たりで、もう何が何だかよくわからないんだけど、長年読み込んだ結果(笑)、今日、みなさんにそのエッセンスを遂に発表する時が来ました。僕は解放されて嬉しくてたまりません。ずーっと思い続けてきたことを、今ここで発表します。

●「人喰い鬼の夢」は何を象徴しているのか

大島弓子論の中で一番重要な作品は『バナナブレッドのプディング』という作品なんですが、最近は、『バナナブレッドのプディング』の話をすると、マンガ好きの男は差別されるようになってしまいました。なぜかというと、『大奥』のマンガ家よしながふみさんと、やはりマンガ家のやまだないとさんたちが鼎談をおこなっているんですが、「男って嫌よね。大島弓子の話する時、いつでも『バナナブレッドのプディング』じゃ~ん。男って、ダメよね。そういう男ってさ、『バナナブレッドのプディング』の話する時って、セックスの話よね。嫌~~」って言ってるんです。いや、まあ、だいたいそういう感じの話です(笑)。ですから、『バナナブレッドのプディング』でセックスの話をすると、僕は橋本治に従って喋ってるだけですけども、よしながふみさんややまだないとさんからは、「ダメ~な、いやらしいオジサン」にされてしまうんですね(笑)。でも、その、何て言うんですか、「そういう偏見を突き抜けろ」っていうのが橋本治の教えなので、今日は突き抜ける気で、全面展開します。

少女マンガの狂気の側面というものが『天人唐草』で明らかになったわけですけど、その少女マンガの根底にあるのは性だということを、『バナナブレッドのプディング』は言ってるというんですね。『バナナブレッドのプディング』は、どのぐらいの方がお読みになってる? あっ! すごい! でも、読んでない方も大丈夫です(笑)。資料に僕が書いた『バナナブレッドのプディング』の要約があるので、見ていただけますか? これは、橋本治と全然関係なく書いたから、橋本治とは一切関係ないんだけど、読んでいただきたいのは、この『バナナブレッドのプディング』という、ストーリー要約しろと言われてもなかなかしにくいこのマンガが、どういうマンガであるかを、これを使って申し上げます。

『バナナブレッドのプディング』の説明の第二段落を見ていただければ、今日はそれで結構です。「ヒロインは、女子高生の三浦衣良(みうらいら)。『イライラの衣良と申せましょう』とは本人の自己紹介だ。大好きな姉が結婚するので神経が不調におちいり、人喰い鬼に食べられそうになる夢を見る。そんな衣良を心配して、親友の御茶屋(おちゃや)さえ子は衣良にボーイフレンドをあてがおうとする。衣良の理想の相手は『世間にうしろめたさを感じている男色家の男性』だという。さえ子は、同じ高校のサッカー部のコーチを務める自分の兄、大学生の御茶屋峠を男色家に仕立てあげ、衣良と結婚させることにする」。これが、大島弓子のマンガの感じなんですよね。こんなメチャクチャなこと、絶対あり得ないのに。でも、読んでると本当にそうだなって思えてくる。「だが、サッカー部員のなかに、ひそかに峠を慕う本物の同性愛者の奥上大地がおり、さえ子は大地に恋をしてしまう。さらに大地には、同性愛の相手の新潟教授がおり……」っていうのが、このマンガのあらすじです。三浦衣良は、人喰い鬼に喰われる夢を見るわけです。この「人喰い鬼の夢」って何かというと、橋本治ははっきりと断言しています。これは性なんだって。「お花あげるよ」って、その人喰い鬼は出てくるんです、夢の中で。お花というのは、恋愛に包まれた甘美な向こう側にある性です。「とっても綺麗なお花だよ」って言うんだけど、つられてそれを食べると、鬼に捕って喰われちゃう。それほどセックスは恐ろしいものだという。少女のセックスに対する、ある種の好奇心と、セックスに対する恐怖を表しているのが、この「人喰い鬼の夢」だという風に橋本治は言うんです。その通りだろうと思います。

さっきの話ですが、自分の性を発見する時に、男の子であったら単純な性的快感みたいなものとともに発見するんだけど、女の子は、自分とは関係なく、体から血としてやって来るっていうことですよね。その血には禍々しいイメージがある。そして、それを隠せと親は言う。だから、恐いもの、得体の知れないものという恐怖を、当然抱くようになるわけです。だから、「人喰い鬼が恐くて眠れない」っていうのは、自分に潜む得体の知れない恐ろしいものを意味します。次に出てくるのは、産むことへの不安なんですね。つまり、初潮を迎えた時に、これは子供を産む準備だって必ず教えられるわけです。でも、産むっていうことはもちろん少女には理解できないわけですけど、産むってなんか恐ろしい血のイメージですよね。そういうものかもしれない。さらに恐ろしいのは、産むためには孕むわけですけど、孕む行為はまさにセックスです。だから、産むとか孕むっていうことの根源にある恐ろしさ、得体の知れなさ、不安っていうものを、やっぱり少女は初潮を迎えた瞬間に持たざるを得ない。それが「人喰い鬼の夢」になっちゃう場合もあるわけですね。

普通の女性は、なんとか妥協して、「まぁ、人間って、こんなもんだろう」って大きくなっていくんでしょうけど、衣良は純粋だから、性的なものに対する恐怖を、人喰い鬼の夢にしちゃって、人喰い鬼の夢を見ずには寝ることができなくなって、神経症になってしまう。ところが、ある時、衣良は、お父さんとお母さんの話を聞いちゃうわけですよね。「あの子は異常だから、施設に入れた方がいいかもしれない」って。ここまで説明すれば、少女の自然な不安とか恐怖であるはずなのに、ごく普通の大人から見れば、異常者になるかもしれない。だから、ますます衣良の精神の不安定は昂進していきますよね。大島弓子の天才は、そういうものを抱えて平気で生きている母親を、衣良がどう見るか。ただし、衣良の母親は出てきません。『バナナブレッドのプディング』は母親を捨象しちゃってるんだけど、大島弓子の作品を読むと、母親になるっていうことは、よく男色家が母親になるという設定が大島弓子のマンガにはあるんですが、やっぱり「変なものだ」と大島さんは思っているんですね。「孕む」って言うけど、自分で孕むことはできませんよね。男に「孕まされる」。「孕まされて産む」。でも、平気で子供を育てるお母さんというものが、衣良にとって、衣良にとってと言うか、そういう少女にとっては「変なもの」に見えてくるんですね。だから、母の見え方が変わってきちゃう。優しくて綺麗で温かいお母さんが、人喰い鬼も平気で飼いならしてるようなものに見えてくるという、そういう話なんですね、『バナナブレッドのプディング』というのは。

ここに出てきた御茶屋峠。名前からしてバカであることは明らかですよね(笑)。バカです。この男は、男社会の正しさを信じて疑いません。というか、男社会で育てられているから、バカな男はそれが真実だと思うんですね。男社会の理屈というのは、「社会は男の都合のいいようにできている。その都合にうまく合わせれば、女も楽しく生きていける」っていう、男性中心主義的な理屈です。御茶屋峠はその理屈を体現した男なんだけど、良い方のバカでもあるんですね。つまり、衣良と出会った時に、「こんな変な女の子、俺が面倒みるよ」っていう感じで、衣良を受け入れちゃうんです、バカだから。バカの強いところですね。衣良を恐いとか思わずに受け入れて、まぁどうなるかわからないけど。このマンガは宙ぶらりんで終わって結末がないんですが、御茶屋峠はバカだから、衣良を受け入れるのかなという風に思える。だから、男は、なまじ世間知のないバカの方がいいっていうことでもあるわけですね。非常な皮肉です。

女の子の方は、何もかも知っていて恐がってる。それに対して男は、社会の通りにいけばうまくいくよって思っているんだけど、ある場合にはいい人ならば、無防備に人を受け入れちゃう。だから、大島弓子の作品の中で、橋本治が時々強調するのは、「何にもわからないんだけど、受け入れちゃえばいい」っていうこと。これはけっこう蛮勇のいること。たいてい人間は、差別しますよね。社会的な地位とか、見た目とか、いろんなことで。背の高さとか(笑)。そういうことで差別せずに、受け入れちゃえばいいんだっていうのが、橋本治のよく言うことです。それは文字通りに取れるような気がします。御茶屋峠っていうバカを見ると。

●一人で生きていくか、信じたフリをするか

一方、少女たちに与えられる世間の理屈は何かというと、「恋をして、結婚をして、母になること」。これを包むのが愛という物語です。愛があれば恋をして、結婚して、母になって幸せになれますっていう、もうこれだけ取りだしたらバカのようなイデオロギーですけれども、これで世間は回っている。だから、これを信じたフリをすれば楽に生きていけますっていうことなんですね。でも、少女マンガというのは、楽に生きていけない女の子の話をするわけです。「ああ、世の中嫌だな」と思う違和感があって、それを抱き続けた少女はどうなるか。つまり、少女マンガが好きなまま少女になり、成人になった人たちはどうかっていうと、『桃尻娘』の榊原玲奈と同じなんです。一人で残ることになる。一人で生きていかなければいけない。一人であるというのはそういうことなんだって、橋本治は言うわけですね。

ここで思い出されるのが、中島梓です。中島梓は、1953年生まれ。僕とほとんど同い年で、橋本治よりはちょっと年下です。ものすごく優れた社会論をふたつ書いていて、ひとつが『コミュニケーション不全症候群』、もうひとつが『タナトスの子供たち』ですけれど、この『コミュニケーション不全症候群』というのは、中島梓のごく単純な違和感から来てるんです。子供がいる時なんですけど、幼稚園に行くとよく足を踏まれる。そういう幼稚園のお母さんたちが、「人間との距離感を物理的につかめない」っていうことの発見から始まるんですね。「なんで、あの人たちは人間と人間の距離っていうものがつかめないのか」。ひとつは、東京が過密な社会になって、人間同士の距離を常に測らないとぶつかっちゃうような非常に息苦しい世界だっていうことがあるんですけど、もうひとつは、元々、我々が密閉した家庭の中で育てられちゃって、学校に行っても守られている。外の空気に触れない人たちの中に、ある種の対人関係のバランス感覚の歪みやズレが生じているから、悪意はまったくないんだけど、人と人の距離をとることができなくて、足を踏んじゃったり、突き飛ばしちゃったりする人が溢れている。なぜかっていうのが、中島梓の『コミュニケーション不全症候群』の出発点なんですね。

その病的な例を三つ、中島梓は挙げています。ひとつは、オタク。当時、オタクっていうのは男の子だけですけど、何かというと、自分の趣味に逃げ込んで、社会となるべく接しないようにする。今は、その『コミュニケーション不全症候群』の時代から、もう30年経ちましたから、病的なオタクは引きこもりと言われちゃっています。単に趣味が好きな若い男の子じゃなくて、中高年の引きこもりが問題になってますよね。この時のコミュニケーション不全が、今、現在、中年の引きこもりみたいな形で表れている。ふたつ目が、拒食症。なぜ拒食症の女の子が現れるかというと、男社会で痩せた女が美しいというイデオロギーに過剰適応しちゃうからだと、中島梓は言うんです。つまり、男たちが、みんな、痩せてスタイルのいい格好いい女の子たちを求めると女たちが思うから、ある種の少女たちは、痩せようと病的に痩せていっちゃう。男の美的な価値観に対する過剰適応。これがふたつ目の病的な症状だって言うんですね。三つ目が「やおい」。もう、やおいっていう言葉は死んじゃいましたよね。元々は、「やまなし、おちなし、いみなし」っていう少女マンガ的な、少女マンガっていうか同性愛マンガのパロディマンガを描いたり、小説を書く人を、「やおい」って言ってたんですね。今ではBLって言ってますよね。つまり、ボーイズラブ。ところが、ボーイズラブもどんどん薄まって、今、僕の妻とか娘が大好きで見てるのは、「おっさんずラブ」(笑)。ここには病気はない。つまり、もう、「おっさん、頑張れ。BL頑張れ」っていう風になっちゃってるんで、中島梓が論じた時のような緊張感はないですよね。社会全体が寛容になったのは良いことだと思いますが、それじゃなければ救われないっていうような切羽詰まった感覚はなくなっている。でも、当時は、それだったんですね、やおいっていう人たちは。つまり、変態扱いです。女の子が、男同士のセックスを描くマンガや小説に夢中になるっていうのは。だから、それを覚悟で、やおいの人たちは今のBLみたいなものを作ったり、読んだり、書いたりしていたわけです。

●変わらない男社会の論理

では、なぜ、女の子はやおいになるか? 少年マンガのイデオロギーは、友情、努力、勝利です。『巨人の星』、『あしたのジョー』、今のジャンプの『ワンピース』。みんな、これです。これは何かというと、さっき僕は、「高度経済成長のイデオロギーがいまだにアベノミクスで生き延びてる」って言ったけど、やっぱり、男の子は「友達と肩を組んで、努力すれば、勝利が待ってるよ」っていうイデオロギーなんです。高度経済成長のイデオロギーだけども、いまだに、これが生き延びている。悪いことだとは思いません。友達と一緒に頑張って何か達成するのはすごくいいことだと思います。男の子の方はこれで済むんです。男の子には「自由にやれよ」って言ってるのと同じことですから。では、女の子に何が与えられたかというと、「愛によって、結婚し、出産し、育児をしろ」というイデオロギーですね。結婚も出産も育児も、まったく人間として普通のことだけど、こっちを全部女の子に与えて、「愛があればできます」っていうのが、男社会の論理なんですよ。

それに対して中島梓は、「だったら、そんな男社会の論理はいらないから、私たちは男子同性愛の世界に入ります」と言う。それがやおい。なぜか。やおいの好む男子同性愛は、この頃は結婚が許されるようになったけど、まず、結婚がない。当然、出産もない。育児もない。だから、「愛のイデオロギー」が強いてくる「恋愛、結婚、出産、育児」から完全に外れた、非常に悲惨な、孤独な、ホモの男たちの物語が、やおいの大好きな物語なんです。その性的な関係は、「攻めと受け」という風に言われるけど、たいていは極めてサディスティックなレイプを伴っている。なぜかというと、精神的なレイプを受けるのは、そういうお話をイデオロギーとして刷り込まれた女の人たちだから。その意味で中島梓は、そういう物語の中に何があるかというと、「女性に対して押しつけられた愛と結婚と出産と育児っていうものに対する反対概念」。普通の男女の愛が、生の存続、つまり、子供ができて、家庭を延長させるっていうエロスならば、やおいの男子同性愛は、「生の廃絶をめざすタナトスだ」と言っている。死の欲動、フロイトですよね。つまり、人間には死に向かう欲望があって、それを体現する言葉が「タナトス」です。中島梓も橋本治に劣らずすごい人ですけど、BLの根源に最初にあったのは、タナトスの衝動だったわけです。子供も家庭も何もいらない。孤独にせめぎ合う男子同性愛の世界こそが、滅びの美しさを持っているという感受性ですよね。すごいんですよ、中島梓。亡くなっちゃったけど。そういう感性を橋本治と共有したのが中島梓ですが、話を元に戻すと、元々あった少女たちの違和感、つまり、「嫌だな~、世界は」って思うとか、自分の幼年期が失われちゃって、女をいきなり向こうから押しつけられた、そういう世界に取り残された三浦衣良。三浦衣良の運命は、あのマンガでは明らかでないですね、ご承知の通り。御茶屋峠の努力で何とかなるかと思うけど(笑)、でも、わからない。一歩転落すれば、『天人唐草』の響子になっちゃうわけです。

そういう三浦衣良の姿が、大島弓子のマンガで次にどこに出てきたかというと、『綿の国星』。『綿の国星』は、チビ猫という猫が主人公です。猫なんだけど、人間にはふたつのルートがあって、子供から大人になって人間になるルート。もうひとつは、「私みたいに、猫から人間になって大人になるルートがある」って、チビ猫が最初に言うんですね。自分が人間だと思ってる猫。だから、絵柄としては、可愛~い少女マンガの女の子の格好で、耳を生やして尾っぽをつけたチビ猫として出てくるわけですけど、あれが、実は三浦衣良だって、橋本治は言う。

つまり、始まりを思い出していただきたいんですけど、いきなりチビ猫が出てきた時に、ずっとシトシトと長雨が降っていて、嫌~な所で、チビ猫は何も覚えていない。何が起こったかわからない。長~い雨の中で誰もいない、孤独な一人。これが、三浦衣良と同じチビ猫の姿だっていうんです。つまり、信じるものを持てなくなっちゃった少女。全部失われたっていうことは、失われた少女時代っていうことですよね。そういう姿がチビ猫なんだって。そのチビ猫が人間になりたいっていう望みだけで生きていく話だと言うんですね。『綿の国星』の解釈として、「ああ、あの何となく能天気な話が、こんなに、女性の鋭い心理に基づくものか」って、やっぱり、それを読んだ時にはビックリしましたね。橋本治って何者だろう。そんなこと考えてるのかって。

そういう、世界に対する違和感とか、「嫌だな」と思う意識を持っちゃった人たち、たとえば『天人唐草』の響子は、狂気の中に入っていきます。『ポーの一族』のメリーベルは、13歳のまま死んでいきます。そういう風に、少女たちの持っている世界がもたらすものは、ある側には悲劇であるんだけれども、必ずしも悲劇だけではないということなんですね。つまり、ここからどう生きていくかということが、橋本治の非常に重要な問いになっていって、それは男の話です。大島弓子論の最初の方に、まもるくんっていう奴が出てくるんですが、これは『バナナブレッドのプディング』とか『綿の国星』ほど有名ではない、『いたい棘いたくない棘』っていう作品の主人公の男の子。まもるというのは、やっぱり13歳前後です。つまり、子供が永遠の黄金時代を失って、大人に向かう。だけど、大人にもなれていない。そういう少年の話。

●使われた「ソドミィ」という強い言葉

まもるは、かおる大将っていう男の子が好きで、いつも一緒にいたいと思っている。かおる大将は、ノーマルな、いわゆるストレートな人だから、まもるの姉のことが大好きで、かおる大将がまもるに対して「君のお姉さんが好きなんだ」って言うと、まもるが「好き、恋、ああ、そう、かおる大将は『恋してる』って言うのか」と。まもるがかおる大将に、「恋って何なの?」って聞くと、かおる大将は「いっしょにいたいっていうことだよ」と言うわけです。そうすると、まもるはこう思う。つまり、「僕も大好きなかおる大将といっしょにいたい。じゃ、これは恋なんだ」。でも、まもるは男、かおる大将も男。そうすると、世間では、その行為を「ソドミィ」って言うっていうんですよ。恐るべき言葉ですよね。ソドミィというのは、ご承知の通り、聖書に出てくるソドムとゴモラっていう背徳の町、悪徳の町のことで、ソドミィっていうのは、西洋で言うと、具体的には「ソドムの行為」ですけれども、それは何かというと、男と男がする肛門性交のことですね。要するに、いわゆるおかまを掘ることがソドミィなんです。当時、ソドミィなんていう言葉を使うのは、僕の記憶では、「ヘアー」というミュージカルにソドミィっていう言葉が出てきて、僕は初めてそれを知りました。しかも、そのソドミィという言葉が、音階の「ソドミ」っていう風に歌われるんですね。だけど日本では、ソドミィを誰も知らないから、「おかま」って訳して、それを「ソドミ」の音階で歌っても、何の意味もないんですね(笑)。

そのソドミィという恐るべきこと、つまり、西欧の文脈に直すと、神の火に滅ぼされるような悪徳の行為という意味です。日本語で言うなら鶏姦(けいかん)って言いますけど、要するに、当時は人間として絶対にやったらいけないとされる犯罪的な性行為のことです。でも、橋本治はソドミィという言葉をここで使っている。なぜか。自分がホモセクシュアルだから。橋本治はおそらくある時に男の子を好きになって、「ずっといっしょにいたいな」と思った。その男の子に対して持っている感情が恋だ、と思う。自分にとってはもちろん恋ですよね、好きなだけなんだから。だけど、世間からは「それはホモだよ。ソドミィだよ。肛門性交だよ」ってレッテルを貼られる。だから、ほんのちょっとだけしかこのお話は出てこないんだけれども、これは橋本治の話なんですね。今までずっと少女の話かなって思っていると、実はそうじゃなくて、橋本治自身の経験に基づいている。

まもるがどうなったかと言うと、彼のセリフとしては、「僕が8歳から12歳の頃の、最高の楽園、最高の日々は、有刺鉄線に囲まれてしげみになってしまった」。つまり、入っちゃいけないものにされちゃったって言うんですね。このまもるの話も、ほとんど完結していません。つまり、単に好きな人がいるっていうだけの話がソドミィだってレッテルを貼られて、有刺鉄線、恐るべきですね。「入ったら怪我するぜ。絶対、入っちゃダメだよ」っていう存在になってしまったっていうんですね。ここで表れているのは、女の子にとって、性の意識が「垣根を作るもの」だったけど、ホモセクシュアルである橋本治にとっては、おそらく、自分がホモセクシュアルであると自覚することが「垣根を作ること」だったんですね。だから橋本治は、これほど、「性別という垣根によって囲まれちゃった女の子」に感情移入することができた。普通の男は、絶対にそんなことできない。橋本治の特異性ですね。はっきりとソドミィっていう言葉を使っているから、間違いない。ただ、この時の橋本治は、自分がホモセクシュアルであることにどう始末つけるかまだはっきりしていないから、ソドミィとちょっと言って、すぐにこの話からは撤退して、少女の話に戻るんです。

資料に船曳建夫の名前を書いたのは、船曳建夫というのは東大の文化人類学の教授で、橋本治の東大の同級生です。橋本治が死んだ時にいろいろ追悼特集が出ましたけど、一番おもしろかったのが『群像』(2019年4月号)。この『群像』には、橋本治が死ぬ前に、病院のベッドで書いていた「『近未来』としての平成」という絶筆エッセイ、完結しなかった最後のエッセイと、この船曳建夫の「おーい、橋本」っていう文章などがあって、「おーい、橋本」というのは追悼文です。ここで、「ああ!」って僕は思いました。船曳建夫は、橋本治から恋をされていたって、そこではっきりと言ってます。橋本治が死んだから言えることですね。すごく仲良くいろんな文化活動を一緒にやっていた。ある時から、橋本治が船曳に向かって、「お前の着てる物は、変だよ」とか言って、セーターを編んでくれる。橋本治っていったら、日本編み物界の大天才として、今や歴史に残る。『男の編み物 橋本治の手トリ足トリ』。あの本、3万円ぐらいで取り引きされてるらしいですよ(笑)、アマゾンでは。あのすごい本。あれも本当におもしろいけど、つまり、伝家の宝刀を抜いたわけですよ、橋本治は。船曳さんは普通のヘテロだけどバカじゃないから、「もしかして、橋本、俺のこと」って気がつき始める。船曳さんの文章を読んでいただくのが一番いいんだけど、すごく印象的だったから言いたいのは、「告られそうになった」って(笑)。で、それだけは避けたいと思った。つまり、仲のいい友達で、ずっと一緒に文化活動をやってるから。原宿に行って絵を売ったりとか書いてあったと思う。告られたら終わりですよね。友情が愛情の関係になる。当然、船曳さんはヘテロだから、橋本の愛を受け入れることはできませんよね。だから、それを思いとどまらせるようにやったって。まぁ、うまくやりましたよね。だから、彼らの友情は壊れなかった。船曳がイギリスに留学した時も、橋本治は訪ねてきて、友情関係は続いたと言います。これはこれで美しい話です。だけれども、その船曳のその話、船曳って呼び捨てにしてますけど(笑)、東大名誉教授の船曳先生の話。東大は定年が初め60だったけど、この頃、僕も含めて、年寄りが長生きで元気ですから、若い奴より下手すりゃ元気なんで、定年が65でもいいよっていう風になりましたが、ともかく、60か65過ぎると名誉教授になっちゃうわけですね。まだ元気なのに。その船曳さんが言うには、橋本治の超常能力についても書いてあって、これもすごくおもしろい。でも、今日は割愛しますね(笑)。それで、橋本さんと友達でずっと来た。だけど、橋本治が死んだから、橋本治はたぶん僕のことを好きで告られそうになったけど、それを阻止して友情を長続きさせたって書いてるんです。最後の方だったと思うけど、すごい感動的なのは、「今なら、橋本の愛を受け止めることができる」。そりゃ、そうだ(笑)! 生きてる間はダメだったわけですよね。でも、ちょっとやっぱり感動的だな。つまり、橋本治も真剣だったかもしれないけど、船曳だって、その愛を拒否するよりは、友情でっていうから、これは両方とも正しいですよね。だから、何に僕が感動したかっていうと、橋本治が『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』で、自分がホモセクシュアルであるなんてこと、だ~れも読者が知らない時に、ソドミィっていう一語に埋め込まれたものが、ようやく、船曳建夫の文章によって、「あっ! やっぱり橋本治は正真正銘のホモセクシュアルだ」ってわかったんですね。男が好きな人っていう意味ですよ。

●男と女、どっちが生きやすいか

橋本治さんの男関係なんていうことについては、僕はまったく知らないけど、でも、たぶん、本当に男が好きだ。だけど、ただ男が好きだっていうだけでソドミィってレッテル貼られるのが、男社会なんです。あとでもうちょっと申し上げますけれども、先を急ぐと、少女の性の自覚の話、『天人唐草』、それから『バナナブレッドのプディング』っていうのは、橋本治自身の話でもあった。ソドミィの自覚の話でもあったということなんですね。それで、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』、『バナナブレッドのプディング』を論じながら、最後に、『バナナブレッドのプディング』には、橋本治によれば、9つの謎がある。すごい変な謎なんです。「御茶屋峠は、なぜバカなのか」とか(笑)。意味がよくわからない。「なぜ『バナナブレッドのプディング』は、少女マンガなのか」とか、そういう謎を自分で作って、それに答えていくんですけど、例によって、答にならないような答を、延々と言ってるんですよ。でも、読んでいけばなんとなくわかることなんだけど、9つ目の問いが、資料に書いてあることです。「『男に生まれても、女に生まれても、どっちも同じように生きやすいことはない』――なぜ作者・大島弓子はそう断言できたのか?」

『バナナブレッドのプディング』の最後は、非常に不思議なんですけれども、三浦衣良のお姉さんの三浦沙良っていうのがいて、少女マンガ的ですよね、その沙良が新婚旅行に行く時の話で終わるんです。沙良って、ほとんど傍系人物ですけど。沙良が新婚旅行に行く時だから、まだ子供が生まれるはずもないのに、自分の想像の中で赤ちゃんができて、その赤ちゃんがこう言うんです。「その生まれてもいない赤ちゃんがわたしに」、「わたし」というのは沙良のことです。沙良がこう言っている。「まだ生まれてもいない赤ちゃんがわたしに言うのです。(中略)おなかにいるだけでもこんなに孤独なのに、生まれてからはどうなるんでしょう? 生まれるのがこわい。これ以上ひとりぼっちはいやだというのです」。これは、赤ちゃんの話だけど、やっぱり「一人になる」ことに対する少女の思いを書きこんだ部分です。

橋本治の、9つ目の謎は何かというと、これは確かに大島弓子が『バナナブレッドのプディング』に書いてあるんですけれども、「男に生まれた方が生きやすいか、女に生まれた方が生きやすいか」っていう問いで、これはお腹の赤ちゃんが言う問いなんですね。もちろん宙づりにされて終わっちゃいます。お腹の中の想像の赤ちゃんが、男に生きた方が生きやすいのか、女に生まれた方が生きやすいのかって、お母さんに問いかけるところで、このマンガはほぼ終わるんですね。橋本治の謎は何かというと、これに対して、作者の大島弓子が出てきて、「男に生まれても、女に生まれても、どっちも同じように生きやすいことはない」って、よくわからない答を言うんです。橋本治の9つ目の謎は、なんで大島弓子は、こんなことを断言できたのかという謎なんですが、僕は『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』を何度も読んでいますけど、この謎に対する答は、この本の中には書かれていません。「何で?」って思ったんだけど、その答が見つかったという話を、これから申し上げます。

つまり、女の子に生まれたら生きやすくないっていう話ですよね、『バナナブレッドのプディング』は。ずっと申し上げてきたように。じゃ、男の子の場合はどうかということについては、全然語ってないんだけれど、「どっちも同じだよ」って大島弓子は断言した。なぜか? と言ってるのは、大島弓子じゃなくて、橋本治なんですよね。だからおそらく、橋本治にとって、男の子であることの生きづらさみたいなことを問題にしなければならないっていう、彼のこだわりなんですね。それが彼のホモセクシュアルであるという意識と重なりあって、女の子が外側から性を押しつけられるように、男の子だって、男の子が好きだって言った瞬間に、世間はソドミィだってレッテル貼りますよ、ということなんですよね。そういうレッテルを貼られた俺たちが生きやすいってことはないよ、という話を強調したかった。でも、答としては書いてないんです、この本には。

●「あしたのジョー」の本当の感動はどこにあるか

じゃあ、その答がどこに現れてくるかというと、『熱血シュークリーム 橋本治少年マンガ読本』。『熱血シュークリーム』の中で一番重要なのは、『あしたのジョー』論です。『あしたのジョー』というのは、ご承知の通り、矢吹丈が丹下段平っていう、世の中に受け入れられなくなったコーチに育てられて、ボクサーとしてチャンピオンを目指す話ですよね。その中で誰もが知ってる一番有名な話は、少年院で一緒だった力石徹と出会い、力石と切磋琢磨してチャンピオンを目指す。ところが、力石の方は、白木葉子っていうボクシングジムの超ブルジョワのお嬢様に認められて、ジョーよりも一足先にプロデビューを目指すわけです。天才ボクサーとして勝ち進んでいく。一方、その後を追っていくジョー。実は、白木葉子が本当に好きなのは矢吹丈なんだけれど、ジョーは力石に戦いを挑もうとする。ところが、ジョーと力石では体格がまったく違っている。力石は、ジョーよりも遥かに上のクラスでボクシングをするから、プロになっちゃうと戦うことができない。だから、力石はジョーと戦いたい一心で無理な減量をして、ジョーと同じクラスに下りてくるんですね。これはいったい何なのか? つまり、プロになって、大人になっちゃった力石が、もう一回、少年のジョーに会いに来たことだと、橋本治は言うんです。大人になっちゃったら、もう少年のことなんか全部忘れて構わないのに、力石は、そうしなかった。つまり、少年であることを脱してしまった力石が、ジョーと少年の戦いをもう一回やりたいがために、命の危険を冒して、過酷な減量をして、ジョーと同じクラスで殴り合って死んでいったっていうのが、『あしたのジョー』の最初のクライマックスなんです。つまり、力石が死んだのは、失われた黄金時代である少年のためだったというのが、橋本治の解釈です。その通りだと思う。それがなぜ感動的かというと、やっぱり、失われた少年時代に殉じたからですよね。多くの大人っていうのは、少年を捨てて、嫌な大人になっていく。そうしないと、生きていけませんから。そうしたものを否定して下りてきた力石、感動的ですよ。だから、いい年した大人、寺山修司とかそういう人が、力石の葬式をやったわけです(笑)。それから、1970年によど号をハイジャックした赤軍派が北朝鮮に行った時に、「俺たちは『あしたのジョー』である」と言った。「バカか」と思いますけど、本気なんですよ、あの時代は。それぐらい、時代が『あしたのジョー』になっていたんですね。

当時、僕もよく覚えてますけど、大人が熱狂したのは、力石にであって、ジョーにではなかった。力石って、なんてカッコイイ、失われた少年時代に殉じた大人なんだろうって、みんな美化したんです。でも、橋本治はそれを否定します。つまり、力石に熱狂した大人たちは、そこで『あしたのジョー』を見捨てた。つまり、その後、『あしたのジョー』はずっと長く続く。『あしたのジョー』が何をやるかというと、ホセ・メンドーサという世界チャンピオンと戦うまで、韓国のボクサーとかいろんな人と戦うんだけど、力石の死に感動して葬儀をやった連中は、それから後『少年マガジン』を読まなくなった。もう興味がないんですよ。だって、自分たちはもう大人になってるから、ジョーの戦いにつき合う必要がない。大人になったけど少年に戻って死んだ力石には感情移入できるんですね。だから、橋本治は「違うよ。『あしたのジョー』は、力石が死んだとこから、もう一回始まるんだよ」と言う。なぜかというと、ジョーは取り残された少年だから、一人になった。さっきから「一人」って言ってますよね。孤独な少年として、一人で戦い続ける他ない。だから、「そこを見なければ、『あしたのジョー』を見たことにはならない」って、橋本治は言うんです。僕も、まだ子供でしたけど、どっちかというと力石に感情移入して、ジョーの戦いは同じことの繰り返しだなって思っていました、生意気にも。でも人間、大人になったらずっと同じことを繰り返すわけです。成長できるのは少年までで、そのおもしろくもない繰り返しを、ジョーは少年として戦いきろうとしたっていうところが、あの作品の感動だと言うわけです。

橋本治は、もうひとつ問いを立てるんです。「あの時、ジョーが戦っていたのは何だろう?」って。これは橋本治だけの考えだけど、「ジョーは<世界>を相手に戦っていた」って言うんです。この<世界>とは何かというと、これがまさに高度成長を旗印とした、いまだに続く日本の経済中心・男性中心の社会なんです。橋本さんの言葉を僕がまとめると、「空疎な理想を説き」、つまり、大人は自分が信じてないくせに、噓を子供に平気で言う。響子のお父さんと同じです。女らしくあれとか、清潔でいろとか、自分は不潔なことを平気で喜んでいるくせに。「空疎な理想を説き、物質的実現だけを問題にし」、食わせてだけはやるよっていうわけですね。そして、「少年に切実な感情を捨てさせ」、少年はどんなことにでも夢中になるんだけど、大人になったら、そんなことは〝どうでもいいこと〟になるんだから。その通りですよね。しかし、少年の時にしか切実になれないものがあるわけですよ。でも、大人はそうやって子供に切実さを捨てさせて、馴致、教育していくわけです。そして、「何不自由ない生活で『大人』に変えるのが<世界>だ」って。何不自由ない生活というのは、バブル日本ですよね。つまり、魂はなくても、お金があれば生きていけるさっていう。そういう<世界>に対してジョーは戦った。確かにその通りですよね。ジョーは自分の肉体だけを根拠にして、何の名誉も求めず、チャンピオンになることは名誉じゃなくて、ただ戦い続けたんです。それが少年の無償の純粋な姿だと、おそらく橋本治は言いたいんだと思うけど、ここで橋本治が強調しているのは、今言ったような<世界>。『バナナブレッドのプディング』とかの少女マンガ論で何て言ってたかというと、「社会」ですね。橋本治が生まれた時は、消えちゃった黄金時代を否定して、「お金が儲かって安逸な経済があって、大人になればうまくいくよ」っていうことを少年に向かって説く。まぁ、そうやらなければ、社会は維持できない。その通り。だけれども、橋本治はそれが嫌な人なんですね。

●男が男を愛すべきと論じる理由

もうひとつ、さっきの『群像』の話をしたいんですけど、いきなりですね、すいません。『群像』の「近未来の平成」という、橋本治が病床で書いたエッセイの中で何の話をしてるかというと、借金の話。橋本治は、1990年にマンションを買います。自分で書いているんですよ。これが当時のお金で1億8000万。それでローンを組んだ。月に150万、ずっと払い続ける。すごいですよね。それで、平成1年とか2年から毎月150万ずつローンを組んで払い続けながら、30年近くかかって完全に借金を返済した。いくら払ったか。5億円。完全な損でしょ。なんで、そんなバカなことやったのかって、みんな思いますよね。でも、橋本治はこう言ってます。まぁ、本当かどうか、わざと変なことを言ってる可能性があるけど、絶筆のエッセイ。亡くなる前のエッセイでも、あの人は本当のことを言いそうにないっていう凄さがあるんだけど(笑)、亡くなる前だから、本当のことしか言ってないかなという気もするんです。これはわかりません。ただ、彼はこう言ってます。ひとつは、その住宅ローンを組んだのは、「俺は、まだ金を貸しても大丈夫な、将来のある作家なの?」ということが知りたかった」。これがひとつ目、そう書いてます。ふたつ目は、バブルの時代で、「バブルには飽きたから、貧乏を体験したかった」。貧乏生活をしたかった。つまり、毎月150万ずつ払えなければ、貧乏なんですね。150万ずつ稼いで全部出ていけば、生活できないから、汗水垂らして200万ずつ原稿書いて、150万持ってかれて……っていうことを30年間やった。結局、どういう世の中になったかという総括も、その最後のエッセイには書いてるんですけど、「結局、僕はそうやって貧乏と戦って、バブルと戦ったけど、今の世の中っていうのは、全部、『いいね!』マークと売れ筋のランキングで決まる」。つまり、要するに、お金ですよね。「いいね!」って押すのは、売れるということですよね。まぁ、もちろん、商売に直結しなくても、大多数の人が「いいね、いいね」って言うのは、それをやればお金になるっていうことですよね。だから、「僕はそういう戦い方をしたけれど、結局、売れ筋のランキングみたいなものに敗北したのが、平成の結末だった」っていう風に彼は言ってます。何を言いたかったかっていうと、要するに、現在に至るまで、経済第一、お金で回っていく。しかも、そのお金を稼ぐ男が中心の社会は変わっていないっていうことなんですけれど、ジョーはそれに挑んだと言ってるんですね。

橋本治はそこからちょっと奇妙な話をするんです。ジョーは世界チャンピオンを目指したけど、世界にチャンピオンなんか、もういないよって言うんですね。つまり、そういう、絶対的な父親とか、権力者がいるわけじゃなくて、みんながなんとなくそういう世間の権威というものを、「あると見なして、それを良しとしている」のが、今の世界だという。「王様は裸だ」と同じです。強い権力者なんかいないから、恐がらずに好きなことをすればいいじゃないかって思えれば、たぶん社会は変わっていくんだと思うんですけど、みんなが「いない父親とかチャンピオン」を恐れて、それを「作りだして」いるのが「今の世間」だと言う。「みんな父の不在を認めず、見ないふりして甘えあっているのが、戦後日本の社会の実像」で、ジョーはそういうものと戦ったのだと橋本治は言うんです。

ここで父親という概念が出てきたのは何でかというと、『熱血シュークリーム』と同じ年の1982年に橋本治は『蓮と刀』という本を書いてるんですが、これが恐ろしい本なんですよ。言ってることはただひとつ。資料に一行でまとめましたけど、「男は男とセックスすべきだという基本的立場に立っている」と、橋本治は宣言してる。完全にソドミィ宣言ですよね。本書は、男は男とセックスすべきだという基本的な立場に立っている。つまり、男が男とやって何が悪いっていうところまで、一歩進めてきたんですね、この『蓮と刀』では。いろんなホモ雑誌の研究、人生相談、ありとあらゆる、その当時のホモの生態を俎上に上げながら、ホモたちに何て言うかというと、「お前ら、ダメだ」って、基本的にはそう言うんです。なぜかというと、勇気がない。お父さんの顔色うかがって、自分がゲイであることを隠したり、「どうしたらいいでしょう」なんてホモ雑誌の人生相談をやってるけど、そんなの全部ダメだって彼は言うんです。つまり、自分がゲイであることを認めて、男が男を愛すことの何が悪いっていう風になれれば、ゲイは解放される。男は解放される。ひいては、人間は解放されるっていうのが橋本治の立場ですが、1982年っていったら、まだ、全然ダメ……。僕もこの本を読んだ時には、「本気かな?」ってまず思いました。つまり、ホモセクシュアル、ゲイの話を、露骨にしている。〝やる〟ことしか書いてませんから。今、みなさんは「大家になった橋本治」の作品として、『蓮と刀』を文庫本でお読みになりますけど、当時は、何て言うのか、〝チンピラ文士〟がホモの話をずっと延々としている感じで、ちょっとショックでしたね。でも、橋本治という人はやっぱりすごいなと思いました。いま考えてみると、これはやっぱ本音なんですよね。つまり、男が男を愛するって言えない社会はダメだっていうこと。そういう風に言ってみればわかるけど、橋本治はああいう人だから、「男は男とセックスすべきだという基本的な立場に、本書は立っています」って宣言するんですね。

●みんな子供になればいい

もうひとつ、この本のおもしろいところは、最後に参考文献が書いてあって、『フロイトを読む』とかいろんな参考文献が出てるんですが、その中に、「『子供の世紀』という問題に関しては『熱血シュークリーム』の管轄です」ので、「『熱血シュークリーム』が同時発売になるのでお読みください」とある。何のことだか、全然わかりません。だって、「子供の世紀」の説明もしてないんだから。でも、さっきの父の問題を補助線にしてみるとわかるんです。つまり、男中心の世界ですから、不在のはずの父親も、ホモセクシュアルにとっては、抑止力として働いてる。でも、そんな強い父親なんて本当はいない。だから、お父さんが恐いとか思わずに、自分がゲイであることを認めてゲイになればいいだけなのに、ホモ雑誌の人生相談に投稿してくる人たちが、みんな親父を恐れてる。いない親父を。だから、「これからは、父じゃなくて子供になればいいんだよ」っていうのが、橋本治の「子供の世紀」っていうことの意味なんです。

21世紀になったら、父親の顔色をうかがわず、子供のままでいればいい。さっきの少女マンガの少女の問題とまったく同じでしょ。だから彼にとって、世間が押しつけてくる規範みたいなものを跳ねのけることのできる強い力が、少女であり、少年であり、子供だということなんですね。やはり『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』のソドミィの話みたいなものを考えないと、そこまでの橋本治の人生をかけた決断がわからないと思いますけれども、この『蓮と刀』という恐ろしい本は確実にそういうことを言ってるんですね。自分がゲイならゲイでいいから、ゲイだと認めて、好きなように生きれば、人間は解放されるよって、すごいマニフェスト。それを徹底して露悪的なやり方でやった本なんです。

『蓮と刀』の最終章の最後の方には、「男の子リブのすすめ」があります。当時はフェミニズムっていう言葉がないから、ウーマンリブ(ウィメンズリベレーション)って言っていた。だから、ウーマンリブじゃなくて、解放されなければいけないのは男の子の方だ。男の子の方こそ、少女よりむしろこの時点では何かを恐れている。ゲイの男の子っていう意味ではありますけれども、ウーマンリブじゃなくて、男の子リブを勧めるのが、この『蓮と刀』っていう変な本の、彼のメッセージなんです。これをはっきりと言っちゃうと、「ゲイは、父親、そういう抑圧するものを恐れることはないし、父なんか、実はいない。ジョーが戦った世界に、実はチャンピオンはいなかった。そんなもの、相手にしなくていい。だから、父の幻影から解放されて、これからは子供になり、少女になり、『子供の世紀』を始めればいいんだっていうこと。ゲイとしての自分を認めれば、自分も解放されるし、ゲイも解放されるし、普通の自分も解放されるし、人間が解放されるんだ」っていうのが、おそらくは、『蓮と刀』の最後に込められたメッセージだと思うんです。でも、当時は、そんな風にストレートに言うことはできないから、『蓮と刀』のあの七面倒くさい、しかも露悪的な、性的な言葉にまみれたあのやり方で、橋本治は語ったんですね。ですから、先ほどのいくつかの補助線を引いてみると、橋本治が語っていることは、やっぱり、自分が男が好きだという単純な出発点みたいなものから出発していると考えることができます。

●違和感に忠実であり続けた人たち

ただ、ここでひとつ注意しなければいけないのは、橋本治はホモだったからこういうことが言えたとかっていうことでは全然ない。それは全然違う。ホモはいっぱいいるけど、橋本治になった人は一人もいません。橋本治は、ずっと言い続けてきた、13歳ぐらいの時に、少女が外から来る性別を押しつけられるのと同じように、少年も違和感を感じることがあって、その違和感に忠実だったということです。みんな大人になるから違和感を忘れちゃうんだけど、違和感に忠実にあり続ける天才たちが、たとえば萩尾望都であり、大島弓子であり、山岸凉子であり、共通点は、みんな結婚していないことですよね。だけど、結婚してなくたって、萩尾望都になれたわけじゃない人がいっぱいいるわけだから、それは関係ない。橋本治の場合も同じです。違和感に敏感であり続けることができたっていうことでしょうね。それが少女マンガ論を書かせ、『蓮と刀』のホモセクシュアル論も書かせたということになるんです。

ここまでで、1982年ぐらいまでの橋本治の少女マンガ、あるいは少年マンガを巡る思想の解明はようやく終わりになるわけですが、その後、彼がどう言ったかは、ずっとわからなかったんです。実は、『熱血シュークリーム』は出た時に、上下巻だと予告されたのに、遂に下巻は出ませんでした。だから、結局、少年がどういう運命を辿り、どうやれば解放されるのかというような問いは、宙づりにされたままだったんです。ところが、今度、2019年に出た『熱血シュークリーム』の新版には、下巻は書かれなかったけど、彼が最後に書いた『バタアシ金魚』論が収録されているんです。橋本治は、その後、ほとんど日本の古典に軸足を移しますよね。それから、絵画とか美術とか。少年少女の問題は、いつまでもやってられないですよ。ここまで突き詰めてやったら、もういいでしょう。なので最後のマンガの論稿が、1987年の『バタアシ金魚』論なんです。これがまた感動的なので、最後に、橋本治がマンガに託して残したメッセージがどういうものであるかを、ちょっと申し上げたいんですね。

これ、驚くべきものですよ。橋本治の最後のマンガ論。その最後の部分がどう始まるかというと、1行空白があって、「『不器用だっていいじゃん、可能性があれば』なんてことは、今や誰も言わない」。ベタなメッセージですね。だけど、これを肯定しちゃうんですよ、この時の橋本は。『バタアシ金魚』の薫っていうのは、本当にバカです(笑)。バカで傲慢で、俺には俺のやり方があるって水泳やり続けて、それこそジョーみたいにチャンピオンも目指すんですけど、「明日のためにその一」とか、丹下段平みたいなコーチもいなくて、鬼ババァっていうコーチがいるだけで、そのコーチの言うことも聞かずに、「頑張れば俺は何とかなるぜ」って、根拠のない自信だけがあるバカ男。こいつを橋本治が肯定するんです。

そこから3行あとに、「オノレの正当性を根拠なく信じること、ただそれだけ。それでいいんだ」。橋本治の地の文です。「大体可能性なんてもんは埋もれてるもんだし、それが芽を出さない限りどうしようもない。理性というのは、その埋もれている場所を探るぐらいのもんでしかないんだっていうことを、なんと、この『バタアシ金魚』というスポーツマンガ(!)は、《どうすれば薫の泳ぎは上達するか?》という具体性の中で展開している(!)」と言うんですね。つまり、「不器用だっていいじゃん、可能性があれば」っていう、その可能性の探求のマンガだと言ってるんです。その段落の一番最後の3行です。「バカなことやりながらちゃんと〝そっちの方向(即ち有用な方向)〟に持って行こうとするっていうのは、存外難しいことなんだ」。そうですよね。これは、たぶん、橋本治が自分のやってきたのはバカなこと。つまり、みんなはバカなことだと思ったわけですね、少女マンガを論じるなんて。だけど、それを有用なものにするのは存外難しい。これは橋本治の言葉です。「だって誰もそれがまともな方法だとは思わない」。みんな思わなかったんですね、かつては。「その偏見をはね飛ばす思想戦を戦いながらなお」、つまり、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』の思想を書きながら、「実戦を戦うんだものな……」というのが、彼にとっては小説を書くことでしょうね。ですから、そういう思想の方面と小説の両面で戦っていく。これは俺だ、と。

その後、「バカにしか見えないものがインテリでもある――〝そういう質〟としか言えないような知性があるなんていうことは、常凡な知性には理解できないことだしね」と、〝そういう質〟っていうのが自分だと言っている。続けて、「大リーグ養成ギブスというようなとんでもなくロマンチックな代物によってではなく、自分の中に備わったものとしての可能性が当然のように開花するなんてことは、一番地道で一番ロマンチックであるが為に、実のところまだほとんど描かれてなんかいないんだよね」。これが『バタアシ金魚』だと言うんです。さっきは不器用と言いました。ここでは地道でロマンチックだというものに、橋本治はだんだん軸足を移しているんです。斜に構えて、世間に反抗する道から。

●真面目であるということは、才能があるということ

その後です、すごいのは。次の行。「俺なんかズーッと〝花井薫〟で生きて来た人間だからさ」。つまり、自分が『バタアシ金魚』のバカと同じだって言うんですよ。それで、「〝真面目であるということは才能があるということだ〟っていうのが遂に創作の世界の常識となったかな、とかさ」。この「とかさ」、さっきの「サ」と同じですよね。必ずひいて茶化さないといられない。でも、これは本気で思ったから、彼はこういう茶化しを入れるんで、本気なんですよ。つまり、「真面目であるということは、才能があるということだ」。ここから先、橋本治は正しい道をばく進するんでしょう、おそらく。

そして、最後です。「大体、すべての新しい才能は、役に立たない才能からしかスタート出来ないんだぞ」。誰に言ってるんでしょうね? すべての読者にでしょうね。「なんの役にも立たない才能を、ただ普通に存在する有用な才能に変えていく事をこそ変革って言ったりしてね」。また出ましたね、恥ずかしいから、「してね」。「それが出来る人間のことをこそ、〝才能がある〟って言うんだ。そこら辺みんな誤解してるね」。う~ん、僕もこれを読んだ時に、「ああ、真面目にやろうかな」って思いました(笑)。

真面目にはすごい力がいるんですけど、真面目にやることは悪くないと言う。橋本治って、すごく捻った、斜に構えた、ちょっと違うことを言う人なんだけど、彼がやりたいと思っているのは、そういう不器用さとか、真面目さとかっていうものが、本当の力になるにはどうしたらいいかっていうことなんですよね。不器用に、真面目に生きていこうと思って挫折してしまう今日この頃ですが、もうこんな年齢になっちゃいました。やっぱり、いま読んでもいいなと思いますね。雑誌に初出で出た時に、僕は「あ~、あの橋本治が、こんなに変わったか」と思って、感動すると同時に、「やっぱり人間って年を取るのかな」って、ちょっと思ったりもしました(笑)。でも、橋本治は全部やり切りましたよね、最後まで。そこがあの人のすごいところだと思って、「ああ、やっぱり橋本治はすごいな」って日々、いまだに思っています。ご清聴ありがとうございました。

●質疑応答

河野:どうもありがとうございました。詰め込まれた言葉の量というか、情報量で言えば、前回の内田樹さんの迫力はまた別の、尋常でない授業がまた生まれてしまったなと思っておりますが、ちょっと、みなさんの質問を受けたいと思います。

受講生:たいへん充実した時間、ありがとうございます。
中条:そう言っていただいて、ありがとうございます。
受講生:私、1957年の生まれなので、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』とか、ほぼリアルタイムで読んできたと思うんですけれども、その後も橋本さんの作品いくつか読んではいるんですけど、マンガ論が、今日『バタアシ金魚』を教えていただいた以外には、その後あんまり知らなくって、たとえば岡崎京子とか、吉田秋生とか、そういったマンガ家について、何か語ったりしていらっしゃるでしょうか?
中条:まとめて語ったものは、たぶんないと思うんですよね。時々「すごい」って言う言葉の端々は読んだことがあるんですが。いまおっしゃった吉田秋生と岡崎京子、その後に出てきた、現在を生きる女性がどう生きるかに対する解答を模索している人たちですよね。岡崎京子の『Pink』とか、『リバーズ・エッジ』ですごいなと思うのは、世の中は全部河川敷みたいな平坦化されたものになっちゃって、そこで、少年少女がどうやって生きていくかという話ですよね。そういう意味では、いま現在にどう生きるかっていう、橋本治的なモラルは当然あって、たぶん橋本さんも読んでいれば共感しただろうし、読んでいたんじゃないかと思います。だけど、もう、たぶん、橋本さんは不器用に真面目にやる方に夢中で、読んでいたとしても、そっちに書く力を傾注するところにはいかなかったんじゃないか。自分の道があって、人生の時間も短いから、そっちだろうと思うんです。でも、いまおっしゃられた作家たちは、その次に出てきた人で、それを論じるべき、橋本治に続くマンガの評論をやる人が必要だとは思いますね。
受講生:わかりました。ご紹介いただいた24年組のマンガ家さんたちは、中学、高校の頃に読んでいたので、その頃は、小説よりも少女マンガの方がずっと先鋭的な問題意識を持っているなと思っていました。そういう言葉では、その頃は感じていませんでしたけど。
中条:まったく同じことを、中島梓も言ってますよね。もうみんな小説を読まなくなっちゃった。何を読んでるのかといったら、少女マンガと『ジュネ』とかそういうものだっていう風に始めてます。先端にいる女性たちの感受性を刺激し対応しあっているのは、本当に少女マンガであり、『ジュネ』のやおい小説だったということですよね。
受講生:あの頃、ヒリヒリした感じで読んでいたのを、懐かしく思い出しました。ありがとうございました。
中条:それは素晴らしいですね。

受講生:中条先生がひもとかれた男の子の話なんですけれど、やっぱり、こういう話って、橋本先生の後の小説なり本となって関係してるなと思うんですが。
中条:その後ではないんだけど、『桃尻娘』に出てくるホモの少年たちの話がありますよね。何少年でしたっけ?
受講生:木川田源ちゃん。
中条:それそれ。源ちゃんの話とか。源ちゃんって純愛で、先輩のことが好きなだけじゃないですか。けれども、まわりから揶揄されたり、からかわれたりする。それはやっぱり、男が男を好きになることを純愛として許してくれない、そういう社会のあり方ですよね。なぜかというと、男は外に出て金を稼いで、妻と子供を養うっていうイデオロギーがあるからですよね。だから、既に『桃尻娘』の中の何人かの男の子、源ちゃんの中に、そういう男の子の苦しい胸の内は、はっきりと出ていたと思います。でも、橋本さん自身が年を取って成長していくから、もう少年の話はいいよっていう感じになっていくと思うんですね。それよりは、日本の古典を勉強する方がいい。つまり、少女でも、時間の軸を広くとってみれば、その時の少女は清少納言だったっていう発見に至るわけじゃないですか。なんか心強いですよね。だって、平安時代から、清少納言がつまんない世の中でおもしろいこと探してたっていう本ですから。日本の文化と伝統って捨てたもんじゃないよねって、ある意味では、救われるところありますよね。だから、本質的な問題意識は残っているけど、関心の対象はやっぱり変わっていったと思いますね。

受講生:ありがとうございました。マンガ論から橋本治さんの多様な仕事の一部分に集中して光を当てるという方法は、中条さんらしい視点だなと思って、ある側面が明らかになるかなと思っていたら、橋本さんの全体像が見えちゃったみたいな感じで、本当に大満足ですね。
中条:ありがとうございます。
受講生:ちょっとお話出ちゃったんですけど、その後に変わっていくじゃないですか。僕なんかマンガが好きなので、マンガをもっと語っていただきたいなと思っていたんですけど、古典とか芸術の世界にいかれた。枕草子の話が出ましたけれども、中条さんがご覧になって、その後の橋本治さんがそういうところにいった必然性とか、なぜ、そっちにいっちゃったのか、そこで何をなさろうとされて、何を深めていこうとされたかっていうのを、中条さんはどうお考えになりますか?
中条:やっぱり、年齢と関係がありますよね。僕も子供の時には、セックスの問題とかこの世のすべてで、セックスを問題にしないのは全然ダメだと思っていて、大江健三郎なんか尊敬していたわけですけど(笑)。あの頃は、大江健三郎はセックスの話しかしない小説家でしたよね。だけど、今、この年齢になってみると、セックスなんかもういいやっていう気持ちはあります。少年じゃないし、もう大人になったし。やっぱり、少年の問題が切実であるのは、どう考えてもせいぜい三十代で、二十代ぐらいまでの問題を、橋本治は三十代になっても根本的な問題として論じたけど、そこから先は、思春期の問題とか少年の問題とかとは関係なく、日本の文化的伝統みたいな方がむしろ魂の救済になるんですね。

そこで問題になるのは、人間の内面なんかじゃない。そもそも、人間の内面っていうのを教えたのは、西洋文化じゃないですか。西洋文化の人間の内面なんかたいしたことなくて、むしろ、東洋のあわれみたいな、どうせ人間はみんな死んでいくわけだし、あわれな世界を生きてるわけだから、だとしたら、ひとりひとりの内面に拘泥するよりも、伝統的な世界の中で、何て言うのかな、内面じゃないもの、つまり、絵って内面ありませんよね。形だけです。編み物も内面と関係ないですよね。そういう工芸的なもの。内面を描く文学よりも、形で救うような工芸的な世界にいっていた。内面を知る以前の日本文化は、工芸的なもので人間は救われるという考え方を、たぶん持っていたんじゃないかと思うんです。だから、西洋の「人間というものが絶対的にあって、その人間こそがテーマなんだ」っていうヒューマニズムの考え方は、「そんなもの、つい最近できたものだよ」って西洋の中から言った人が、ミッシェル・フーコーですよね。「人間の顔は、いつか消える」って。『言葉と物』の最後に。西洋からも、そういう反省が出てきたんだけど、なにもフーコーに頼まなくても、人間なんてたいしたもんじゃないから、ゆったりと自分の好きなものを見て、書いて、味わって、楽しむだけでいいじゃんっていう、東洋回帰とはちょっと違うけど、年齢と共に現れてくる知恵みたいなところにいったと思うんですよ。

橋本治が後に小林秀雄を論じますけど、小林秀雄こそ、初めの頃は、内面とか葛藤とか、自立とか精神とかっていう話をずっとしていたけど、突然コロッと変わるわけじゃないですか。そんなもの、全部何でもない。「あはれ」でいいんだって。そして最後に、源氏物語、本居宣長の日本的な「あはれ」にいくわけですよね。だから、小林秀雄の本を読んで、橋本治が小林秀雄論書きますけど、また、あれもわかりにくい本(笑)。だって、わからない小林秀雄を、わからない橋本治が論じるんですよ。どうしようもないけど、でも一言で言えば、「あはれ」っていうことなんだろうなと思います。けっこう救われますよね。そういう意味では、年齢と共に現れてくる東洋的知恵の方に、橋本さんはいったという風に、僕は思うんです。
受講生:ありがとうございました。

受講生:ずっと先生が仰っていた、「くだらない」とか、「たいしたことない」っ思われていたものにこそ、今後、非常に大きな問題になっていくものが凝縮されて詰まってるということを指摘して、突き付けたのが橋本治の『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』だったと理解したんですけど、その「一見してくだらないもの」に隠されてる何かを、どういう風にして読み取ればいいんだろうっていうのをずっと考えて聞いていました。その契機はどこにあるのか。今日、表参道の道を歩いてここまで来ましたけど、その中にも、もしかしたら、どうでもいいと見過ごしたものの中に何かが詰まっていたのかもしれないと思うとドキドキしてくるようなものがあるんですけど、そういうものに囲まれているかもしれない可能性に気づいた私たちは、どうしていったらいいんだろうって。
中条:橋本治さんの中にある、やっぱり最大のものは、「好きなもの」があるっていうことですよね、まずひとつは。もうひとつは、違和感ってずっと申し上げたけど、この両方だと思うんですよ。だから、好きなことをずっと突き詰めれば、どこかに出ることは間違いないけれど、出る前にみんな、「この辺でいいや」って妥協しちゃう。だから、不器用であったりすることが重要だという『バタアシ金魚』論にも繫がります。それからもうひとつは、ネガティブではあるけれど、違和感を持ってるということは、「まぁ、いいよね」っていうことにしないということですよね。でも、そうしなければ生きていけないから、凡人は「それでいいよね」っていう風に何とかするわけですけど、橋本さんは、それはやらなかったわけです。でもそれは、天才にしか許されないことなので、我々は「まぁ、いいよね」で生きていかないと辛い。でも、好きなことを突き詰める方はできるじゃないですか。自分が好きなことを突き詰めていく中で、いつかその可能性にぶち当たるかもしれない。それは、でも、「こうすればなる」っていうものではないと思うんですね。自分それぞれの中に自分の可能性があるわけだから、それをいつか何らかの形で見つけることは、好きなことを突き詰めることと、妥協はするけど違和感を捨てないっていうことじゃないかな。要するに、好きなことやめて嫌なことと妥協すると、人間はそれだけで終わっちゃうっていうことですよね、たぶん。

二村:ゲイの作家はたくさんいると思うんですが、多くの方が、社会との戦いを描く中で、被害者意識に結びついてしまい、被害者意識が必ずしも悪いものじゃないと思うんですが、戦いの形として、そうなっている。一方、前回の講義で内田先生が、橋本治の三島由紀夫論を語られたんですけれども、全然セクシャリティの話をなさらなかった。なんでだろうって思ったんですけど、聞きながら僕が思ったのは、三島由紀夫さんは、男性に生まれながら、男性になろうとした方で、そう考えると、橋本さんって、別に、男でも女でもなかったのかなっていうのが、僕の印象なんです。
中条:そうですね。
二村:それがもしかしたら、橋本さんの正当性というか、さっきの借金の話でも、僕が読んだエッセイでは、「バブルの世の中の方が間違ってるんだから、俺の方が正しいことを証明するために、俺が借金返してるんだよ」みたいなことを橋本さんは書いていたと思うんですけど、その橋本さんの正当性=自分が正しいっていうのは、どこから生まれたものなんでしょうか? 
中条:反抗するとか、隠すとか、そういうこと抜きでずっと来てる人なんですよね。その不思議さはどこから来るかっていう質問ですよね。これはちょっと難しい。三島由紀夫の場合には葛藤がありすぎるから、ホモセクシュアル的なものとの葛藤を小説の中にも読み取れるし、彼の人生にも読み取ることができるんですけど、結局彼は切腹しなきゃいけなかったっていうのが葛藤の最終的な帰結ですよね。おそらく、響子と同じように解放されたんでしょうね、あれでね。橋本さんは、そういうタイプの、葛藤を極限まで高めちゃうタイプの人ではなくて、どこかバイアスをかけて別の方に向けていくことができた人としか言いようがないですよね。それは日本文化でもいいし、編み物でもいい。あの人が多芸多才の才人だと言われるのは、そういう風に、ある一定の主題だけに集中せず、他のところに自分の生きるエネルギーとか、芸術的な興味とかを逃すことができる才能があったからじゃないかという気がします。やっぱり、単に編み物が好きだっていうだけで、あんなことはできなくて、何て言うのかな、内面を絶対視しないところもあるかもしれないですね。内面じゃなくて、あの人は描く、まずは絵描きですよね。だから、自分の内面の告白みたいな小説にはまずいかずに、絵を描く方で、表面だけにいく。工芸にいく。編み物にいく。それから日本美術にいく。遠い遠い古典にいくっていう風に、自分の人間的な関心を、どこかそういうバイアスをかけて、その関心を、電気を別のところに流すみたいにすることができた。その部分が、やっぱり、彼の天才じゃないかという気がします。葛藤を最大限にまで高めて、それを解決する必要はないっていう点でも、生きるっていうのはどういうことかを教えてくれるような気がします。すごく刺激的な問題をいただいて、今、とりあえず思ったことです。

河野 はい。まだまだお聞きになりたいことはたくさんあるかと思いますけれども、時間も迫ってきましたので、この辺で今日は終わりましょう。中条さん、どうもありがとうございました。
中条:(最後、橋本さんの言葉で)みんな、だいすきだよ!

(おわり)

受講生の感想

  • 受講生仲間と休み時間も帰り道も興奮して話をしました。 予習として橋本治さんの本を読んではみたものの、長々と続く途切れのない文体に、どう読んでよいものかと挫折していましたが、こんなに深い読みがあったとは! また、中条さんが話すのを見ていて、「師匠の名前はたとえ消えても、そこから出た弟子の多彩さをみれば、師匠の凄さがわかる、それこそが師匠の凄さだ」という言葉を思い出しました。インタビュー番組で、立川談春に禅のお坊さんが語った言葉で、要は、立川談志の凄さは、弟子の多彩さからわかるという意味でした。講師陣は、もちろん弟子ではありませんが、影響を受けた講師陣が、「橋本治さん」に対してこれだけ語りたいと思う気持ちを持っていて、あの情熱で「語りまくる」。その熱量に圧倒され、「ああ、これだ、これこれ!」と思いました。

  • 内田樹さんの「大容量」にも圧倒されましたが、中条さんの「高密度」にも完全にやられました。今までで一番「他人事」ではいられない内容でした。セクシャルなことを除いても、男であることの(社会からの)重しについて、帰りの電車で「元男の子」として考え込んでしまいました。先日読んだ『草薙の剣』の6人の主人公達の姿にも同じテーマが滲んでいるように見えてきたのは穿ちすぎかもしれませんが、 これから橋本治さんの著作を読むときに深掘りできる視点をまたひとついただいたと思います。

  • 「橋本治の少女マンガ論」的なものをイメージして参加したんですが、いやあ、とんでもなかった……講義のタイトルを見返してみたら、少女マンガ論に「目を開かれて」だったんですよね。 蒙を啓かれるとはこのことかと。いろんなことに無自覚だったんだと衝撃でした。2回目にして、ぼくがこの講座に申し込んだ動機の「答え」を手に入れてしまいました。申し込んだ際の動機にはこんなことを書きました。「合理的で効率的な選択ばっかりじゃ、人生がやせほそってしまう」。それを実感して、「チェーン店的なもの」ではないもののよさを、じぶんで丁寧に見つけられるようになりたいと思いました。合理的で保守的な、AとBを比べてどちらがいいか説明できる方を選ぶような生き方のつまらなさとはつまり、「好きなものを諦めて、違和感を手放すこと」なんだなと。何にときめくかは、実は、自分で自由に理性で選べるようなものではない。ときには規範から外れてしまうこともある。しかし、たとえ規範から外れてしまうものだとしても、その「ままならなさ」を大事に生きていくしかないじゃないか。そういう切実な、実存に関わるレベルでの「好き」から立ち上がっている話だったんだと実感できました。これから生き方にたくさん応用が効くお話でした。中条先生ももちろんですが、参加者の方々の真剣さもあってこそ成立したライブだったなぁと思います。唯一無二の経験ができたことに感謝しています。

  • わたしにとっては橋本治ってなんだろう? から始まったこのクラス、 回が進むにつれてますます「?」が増えるばかりです。中条省平先生のお話で、ひとつ思い出したことがあります。 私の記憶が確かなら『あしたのジョー』の主人公が最後に戦った世界チャンピオ ンは、 プライベートでは家族とピクニックに行くような「良き父親」だったはずです。 それまで対戦した(つまりチャンピオンより格下の)相手には 壮絶な過去を背負っているような人もいたのに「最強の男」がこれで良いのか?  と思ったものですが、彼は矢吹丈が最後まで抗おうとした 「社会」を代表する「大人の男」の象徴だったんですね。 社会から取り残された少年・少女たちの世界が漫画である……なんとなく読んでいたあれやこれが突然壮大なものに見えてきました。