橋本治をリシャッフルする。 
第6回 町田康さん

『双調平家物語』をひもといて

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町田康さんの

プロフィール

この講座について

歴史の教科書はおもしろくないのに、作家の手による歴史小説はなぜおもしろいのか? それは作家が「なんで?」そうなるかを描いているから。しかも、橋本治さんという人はその「なんで?」を決して「きれいごと」では済ませない――橋本治さんの小説作法のすごみについて、作家ならではの読み解きで町田康さんが鮮やかに解説してくださいました。大作『双調 平家物語』を読みたくなること請け合いの授業です。(講義日:2020年8月29日)

講義ノート

●全16巻読んだ人?

『双調 平家物語』文庫本で16巻。まず聞きたいんですけれども、全部読んだ人どれくらいいらっしゃいます? 藤原書店っていう出版社が野間宏の『青年の環』という小説を題材に、小説家とか評論家の方が集まって会をやった時に、この『青年の環』っていうのがまたすごく長い小説で、分厚い文庫本が5、6巻あったんですね。僕も読み始めたんですけど、読んでも読んでも話が終わらなくて。それがおもろかったらいいんですけど、全然おもろないんですよ(笑)。苦痛で苦痛で。それでも一生懸命読んでたんですけど、遂に間に合わなくて、『青年の環』の2巻ぐらい読んだところで、その会の当日を迎えてしまったんですけれども、その時に、もちろん野間宏の専門の方がいっぱいいらっしゃって、小説家としては僕と、多和田葉子さんがいらっしゃったんです。「率直に最初聞きますけど、これ、全部読みました?」って聞いたら、多和田葉子さんが「ダメでした」って言った。「あ、良かった」と思って安心したんですけど、別にそれでも話はちゃんと成立したので、大丈夫です。まずこれは、どういう話にするかに関わってきますので、正直におっしゃっていただきたいんです。僕は、今回は、全部読みました。当たり前ですけどね。初めて読みました。
会場:拍手
町田:拍手(笑)。当たり前の話ですよ。けっこう時間かかりましたけど、全16巻読みました。それで、全部読んだ人、どれくらいいらっしゃいますか? あ、一人いらっしゃいます。すごいですね。途中ぐらいまで読んだ人? まったく読んでない人は? 別に大丈夫ですよ。大丈夫です、わかりました(笑)。そういう感じだと思います。読む読まない以前に、何て言うんですかね、この文庫本の山を見た時に、確かに「しまった! ああ、やめとけばよかった」と思いました。まぁ、愕然としました。で、これは、読むのが楽しいのか苦しいのかって分けると、結論から言うと、僕、ものすごく楽しかったんですね、これ、読むのが。でも、楽しいけれども、これ読むの、苦しいだろうなっていう気持ちもなんかわかったんですね。しんどい人はしんどいだろうって。

僕も、楽しいとこに至るまでには、これだけ長さありますから、「え〜? まだこの話続くの?」みたいな退屈なとこもけっこうありました。それは人によってそれぞれ違いましょうから、おもしろくないっていう部分もあったけれど、これは苦しみなのか、楽しみなのかというと、たとえば物語がトントンいく話を読みたいんだみたいな人にとっては、けっこう苦しみかもしれないし、あるいは、「『平家物語』って、なんか戦争する話やろ」って言って、戦って「どっちが勝ったんや?」、「そんな話でスカッとしたかったのに」みたいな人とか、あるいは、「甘美な王朝の恋愛の話とか読みたかったのに、なんかドロドロした人間関係の話とか、人事抗争の話ばっかりで」なんかしんどいっていう苦しみだった人とか、もちろん、何よりかにより物語がなかなか進まないのが、やっぱりしんどい人はしんどいのかな。

『平家物語』っていうと、世代にもよるでしょうけど、僕らぐらいの世代やったら、大河ドラマとかで『平家物語』をやってる。『新・平家物語』って、吉川英治原作で仲代達矢が平清盛の役やってとか、最近だったら、『平清盛』っていうNHKの大河ドラマで知ってたりとか、今、言いました吉川英治の小説で読んだとか。あるいは何か学校で習ったレベルのことでも、少しずつ知ってることあるわけですよね。「知ってるとこはよ読みたいのに、なんかなかなか知ってるとこ行かへんで、知らんとこばっかりや」みたいなイライラ感もあるのかな? つまり、期待が満たされないから、なかなかしんどいのかなっていう、そういう感じもあります。

でも、これ実はすごくおもしろくて、楽しい読書になるので、「こういう風な読み方したらおもしろいよ」とか、「こういうところ、おもしろいですよ」とか、「こんな感じで読んだらすごく楽しめますよ」っていうような話とか、最終的には、「じゃ、そんなことやって何の意味があるの?」「現代、いろんな小説書かれてるし、いろんな翻訳もあったりする中で、これをわざわざ選んで時間使って読む意味がいったいどこにあるんですか? これを読む現代的な意味はいったい何なんですか?」みたいなところまで、2時間かけてお話ししようと思います。

●出来事の間の「なんで?」を書くのが小説家

まず、これが何なのかっていうことですけど、歴史を題材とした古典。ひとつ言えるのは、『平家物語』っていう有名な軍記物とか語りものというか、これを題材とした話。それから、そうとも言ってられんのが、歴史をけっこう描いてること。だって、『平家物語』やって言うてるのに、なんで中国から話始まる? なめとんのか(笑)? 中国パッとやるのやろうなと思ったら、ずーっと続くじゃないですか。延々、楊貴妃がどうのとか玄宗皇帝がこうのとか……「もう、ええよ! 中国」って話になってきますよ。で、「中国やっと終わった! やっと日本や」思うたら、古代から話し始める。「大化の改新、はぁ? これからいって、どんだけ時間かかるの? これ」みたいな。

そういう話なんですけど、なんでそうなってるかというのにも理由があって、中国の話が出てくるのには別の理由があるんですけど、中国の話は一旦置きます。なんで古代から話さなアカンのかっていったら、橋本治さん自身が16巻の最後にあとがきみたいなの書いてます。歴史を考えた時に、歴史って、僕ら教科書で習いますよね? 「日本史、あんま詳しくないんですよ」っていう人は、教科書で習う歴史がたぶんつまらなかったからやと思うんですね。教科書で習う歴史はつまらなくて、たとえば司馬遼太郎とかの書く歴史小説はなんでおもしろいか、みんな読むのかっていったら、教科書で習う歴史は「固着された事実」っていうか、動きようのない確定された事実が羅列してあるだけなんですよね。「遣隋使・遣唐使みたいなのやりました」って書いてあって、次に「これ、やったやん」って言われて、「ああ、そうですか」って言って、「この時やめたんや」って、「なんでよ」って、「いやまぁ、なんかおもろない。意味ないし、あんなところ行っても」って。で、「はい、次」って、次行っちゃうんです。要するに、羅列にすぎない。わかってることを順番に並べていってるのに過ぎなくて、その間に「なんで?」っていうのが人間の場合、どうしても聞きたくなる。「なんで、こうしたの?」っていう時、「なんか、ええ感じ」、「なんで遣唐使やったの?」、「向こうのなんか学びたくて」って。「なんで学びたかったの?」っていって、「なんで?」が無限に続いて、その間が細かければ細かいほどおもしろい。

小説家っていうのは、結局何をやってるかといったら、その間の「なんで?」を書いてるわけです。これは現代の小説でもわりと一緒で、たとえばミステリー小説なんかそうですけど、「なんかわからん事件みたいなの起きました」、「それで、こうこうこうでした」って、それ、歴史的に書いたら3行ぐらいで終わってしまうわけですね。「何月何日にこういう事件があって、犯人はこの人で捕まりまして、この罪で問われました」というように、3行とか、新聞記事みたいに400字とかで終わってしまうんです。「なんで、そんなことしたの?」って聞きたいじゃないですか、異様なことや大きいことがあったら。「なんで? なんで?」っていうのを問い詰めていって、ある程度、人は納得がいく。「あ、なるほどね。そりゃ、そうだよね」と。「えっ? なんでそうなの?」って思わせておいて、「やっぱりそうか」って合点がいく感じがあるから、小説は小説として成り立ってるわけですけど、教科書で教えてもらう歴史というのは、「なんでか」に対する答えがない。だから困るわけです。

●「なんで」の間を埋めるのが「きれいごと」ではない「橋本平家」

ただ、これは歴史の教科書も歴史小説も同じなんですけど、「なんで?」っていう間を埋める時に、だいたい「きれいごと」で埋めるんです、小説でも、歴史でも。あんまり細かく、人間の「こういう時こう思ったから」という生々しい気持ちというのはあんまりなくて、たとえば平家が滅びました。なんで平家が滅んだんですか? って思うじゃないですか。戦争に敗けて滅びました。戦争になんで敗けたんですか? 戦争に弱かったから。

源頼朝が伊豆の辺で代官所みたいなところを襲って、それから、 以仁王 もちひとおう 令旨 りょうじ というのを奉じて挙兵したけれど、石橋山の戦いで負けて、真鶴の辺から船乗って、房総半島の方へ逃げていくわけですね。そこで土着の武士が集まってきて、大軍になって、関東一円全部頼朝に従うようになって、わ〜! 言うて、同時多発的にあっちこっち反乱が起きて、わ〜! 言うて富士川(今の静岡)まで大軍を率いて行った。なんで富士川まで行ったかっていったら、別に京都に行こうと思って行ったわけじゃなくて、「なんかやっとるらしいぞ、関東で」っていう話を京都で聞いた当時の朝廷の関係の人とか平家の人たちとかが、「これ、アカンやんけ」っていう話になって、潰しに行かなアカン。なんで潰しに行かなアカンの? っていう話はあるんですけど、それは後でまた話します。ガーッて富士川まで行ったら、なんかもう、全然やる気ない。もう、なんか、ビビッて、「もう、戦争ウザいの〜」とか言って、地元の遊女とか呼んで、酒飲んでガーッいうて、「ああ、ええの〜」とか言ってたら、なんかグワーッいうて来て。いざ富士川に向かった時に、斎藤実盛っていう奴がいて、あれ? 斎藤実盛だったかな? 忘れましたけど、関東出身の奴がおって、「どやの? 関東」って聞いたら、「あいつら、強いよ」って言って、どんだけ強いかっていう話を聞いてるうちに、みんなだんだんビビッてきて(笑)、「うわ、そんな強いの? あの人ら」みたいな。「なんか、親子でも、死んでも、目の前で倒れても介抱せんと、グワーッって踏んでいくよ。攻めてくるよ」って言うので、「えっ? 俺らもう、即、帰って葬式やん」とか言うてるうちに、恐怖心がすごく増してきて、「もうアカンわ〜」言うてる時に、水鳥がワーッて羽の音を立てて、「うわ! 攻めてきた」言うて、何十万の大軍が1回も戦わんと逃げた。

そういうようなこと、アカンやん。平家、なんでそんなんなったん? というと、最初、平氏、伊勢平氏は軍事貴族で、これも歴史的にはいろんな説があるようですけれども、朝廷の中で地位を得るに従って生活ぶりも貴族化して、平家の公達は貴族と同然になって、戦争のことなんか全然やる気なくなって弱かったからやとか、もともと関東の人は 開発 かいほつ 領主で、自分の命がけで土地を持ってるけど、西の人はそうでもないから弱かったんやとか、いろんな説ありますけど、結局、貴族化して腐敗、堕落したからやんけみたいな。

なんで平家滅んでる? に対して、「貴族化して、腐敗、堕落して、戦争弱かったけど、シャキッとした関東のヤンキーは強かったんや」みたいな説を言われたら納得しますよね。納得するけど、その根底に何があるかって、「きれいごと」ってさっき言いましたけど、結局、「腐敗、堕落したらアカンやん」みたいな気持ちがあるわけです、僕らの中に。要するに、武士というのはもっとキリッとして、常に軍事的な演習とかやって、弓の稽古とか馬乗る稽古とかして強ないとアカンやん。何やってんの、あの人ら? 変なヘラヘラの直垂みたいなの着て笛吹いて、みたいな。アカンやん、そんなんって。だから、腐敗、堕落したから敗けたんや、弱かったんや。貴族化したからアカンかったんや、みたいなのを、ある程度学校で習うわけですね、こういう類のことを。で、なんとなくそう思ってしまってるわけ。そう思ってしまってるんだけど、歴史ってそういう風に、根底にある気分みたいなものを基にしてフィクションを作るから、割とそんな感じになってるんですよね。たとえば、頼朝とか、清盛って10年くらい前に大河ドラマやってました。これはフィクションですけれども、基本的なスタンスとして、清盛には夢があって、貴族から武士へ政権を奪い取るんだと。貴族の政治をやめさせて、武士の世の中を作るんだ。清盛はそれを目指したから、いろいろやってたんやとか。あるいは、もっと言うと、それはドラマですけど、一般的に、頼朝という人は、鎌倉に武家政権を作った人みたいな。だから、時代が変わると共に、アカン人は打ち倒されて新しい政権ができていくんや、みたいな。そういう「きれいごと」が根底にあるわけですね。

それが「なんで?」に対する、事実と事実の間を埋めるひとつの雑駁な、なんとなくの共通認識の答えとなってるんですけど、「橋本平家」って仮に言うとしたら、「橋本平家」ってそうなってないんですよね。大義名分とか道理とか、そういうものが根底にあるのではなくて、もうちょっと別のものを実は根底に、その間の「なんで?」に置いている。そこにおもしろさと特徴があると思うんですね。

●「橋本平家」の歴史観

それはどういうことか? 「橋本平家」の特徴とその歴史観ってどんなものなの? 歴史がそういう「きれいごと」でできてるとすれば、教科書的には、歴史とか、事実と事実の間を「なんで?」で埋めた時にでてくる大義名分とか道理とか、「きれいごと」を超えた、「橋本平家」の中にある特徴とか、「ならでは」のものって何なの? わかりやすい例で言うと、同じ歴史小説っていうジャンルで言うと、たとえば人気あった、今でもあるのかもしれませんけど、僕なんかも中学高校ぐらいの時に読みましたけど、司馬遼太郎とかの歴史小説と、橋本治の書く歴史小説と、どんなところが違ってるのっていう話をすると、これはもう一言で言えると思うんです。

どういうことかというと、結局、歴史というのは動くわけです。作られていくわけですよね。司馬遼太郎的な歴史小説における歴史観ってどんな歴史観かといったら、「歴史とか時代は一人の天才的な英雄によって動く」というのがひとつの見方です。偉大さとか強さとか賢さ、そういうパワーを持った人、特別偉大な人とか、特別力を持ったり、特別頭が良い人、天才とか、英雄、簡単に言うと「英雄が歴史を動かすんだ」っていうのが、司馬遼太郎的な歴史小説で、これが一番小説やドラマにしやすいので、割とそんな感じになってるんです。だいたいそういう枠作りの形になってるんです。つまり、歴史というのは、人間の強さとか賢さ、英雄によって動く、あるいは、その人が意図的に動かすんだっていうのが、司馬遼太郎的な歴史観と言えると思うんです。

●歴史は「愚かさ」によって偶然的に動いていく

じゃあ、橋本治的な歴史観って何かと言ったら、これは読んだ人は答えはだいたいわかると思うんですけど、歴史というのは人間の賢さとか強さとか英雄によって動くのではなくて、人間の愚かさとか、弱さとか、人間の利己心とか、そういうもの、個人、一人ひとりの持ってる弱さ、人間の愚かさによって、歴史というのは実は、必然的に動くのではなくて、偶然的に動いていってるものなんだ、っていうのが、橋本治的な歴史観と言えるのだと思います。一言で言うと、「歴史は強さで作られるのではなく、弱さで作られる」。「歴史は賢さで作られるのではなく、愚かさで作られる」というようなことが、橋本治的な歴史観なのかなという風に思います。

例を言うと、司馬遼太郎は『坂の上の雲』とか明治の話をよく書いてますけど、あれも英雄がたくさん出てくると思うんです。『国盗り物語』で織田信長とかも少し書いてるんですけど、織田信長とか斎藤道三とか、ああいう一人の英雄とか天才的な人が歴史を動かしたんだという風な歴史観なんです。こういう制度はアカンということに気がついた斎藤道三みたいな人が、中世的なというか、古い室町的なっていうんですかね、あの時代だったら、伝統的な価値観とかを打ち壊して、新しい、より近代的でより合理的な考え方を持っていたんだと、あの時代に。そういう考え方。

たとえば、これを橋本治が書いたらどうなるかっていう話なんですね。織田信長と言いながら、織田信長も出てくるけど、同じぐらいの比重で、おそらくその周辺の人とか、名前の知れた家臣とか、名もなき家臣とか、あるいは一般の民衆的な、まぁ、そこまではさすがに書けないかもしれないですけれども、史料にある程度の人でもっと名前のない人はたくさんいる。たとえば滅んだとされる室町幕府に連なる人とか、普通の歴史小説や歴史観なら、そういう人たちは敗けた側についたダメで愚かな語る価値のない人たちとして、もうあまり描かないんですけれども、橋本治的な歴史観でいうと、そういうところが実は歴史を大きく動かしているというようなことが言えると思います。だいたいそんな感じっていうことで、たとえば、それ、どんな風になってるの? っていうのは、後でまた具体的にページを読みながら話したいなと思います。

●橋本さんの現代小説のリアリティ

ちょっと、平家物語を離れますけど、橋本治さんの小説、僕は、実はそんなにちゃんと読んだことなくて、真剣に読んだのは割と最近で、『草薙の剣』という小説がありまして、おそらく最後の長編小説なんじゃないでしょうかね。『草薙の剣』という小説は、登場人物が市井の人、普通の人なんです。全然英雄でもなんでもない。現代の小説ですからそうなんですけれども、それで違和感はないんです。いろんな世代の人が出てくる。5世代ぐらいの人が出てくるんですけど、これがちょっと普通の小説と感触がかなり変わってるんですね。『双調 平家物語』は中世の話ですから、歴史的には割とフィクションっぽいところはフィクションっぽく作ってあるわけですけれども、『草薙の剣』は割と現代の話ですから、リアリティがすごいですよね。

リアリティがすごいっていうのは、たとえば、今、歴史の話しましたけど、『平家物語』って、一番メインの平家のところは800年くらい前の話なんだけれども、僕らが、たとえば、みなさん年齢それぞれでしょうけど、10年でもいいですよ、10年とか20年、まぁ10年だとさすがにまだ生々しいかもしれませんけど、10年前のことをどれだけ実感として覚えてるかって自分で検証してみると、全然違うんですね。特に最近は新しい情報に関するデバイスとかが変わって、私たちの生き方もだいぶ変わってますから。20年、30年とかいうと、全然違う感じ方をしてたんですよね、自分で思い出してみても。それが70年とか80年とかになってくると、人がその時々に影響受けてたことっていうのは、世相辞典みたいな分厚いのを買ってきて、「この時、こんなのあったよな」と思って見てるようなことですら忘れてるのに、もっと細かい、実は僕らほぼ全員が共通に考えてたはずのことが、もう、なんか30年ぐらいで忘れられてるよね、みたいなことがあって、それがものすごくリアルに描かれて、それが人の一生にどれだけの深甚な影響を与えてるかっていうことが書かれた小説なんですよね。

そういう意味では、歴史における「きれいごと」と同じように、文学における「内面」っていうものが、いかに「きれいごと」の作りごとであったか、でもある。文学における内面というのは、近代文学みたいなものがあって、「人間には内面というものがあるんだ。それを描くのが文学なんだ」みたいな話になった時に、それがいかに「きれいごと」で、いかにまやかしで、「俺らはもっと日常の中のくだらん共通の意識によってくだらんことやってたんだよね」とか、でも、それによって、「一人ひとり真剣に切実に悩んで苦しんで生きてたんだよね」とか、まぁ、楽しいことももちろんあるだろうけど、そういう風なことを、そういうとこから光を当てている、ものすごく特異な小説という風に思いました。

それと同じようなことが、歴史の分野でも行われていて、歴史というのは、これまで一般に、人間の強さとか賢さによって、一人の人間がこうしようという意図の下に動かしたのではなくて、立場の上下にかかわらず、人間の愚かさとか弱さによって、必然的にではなく、偶然的に動いてきた。こういうようなことが描かれている。そこが「橋本平家」の特徴。その歴史観と言えると思います。

そのように人間性によって歴史が決まっていくわけですけれども、平清盛なんていう人は、どんな男かって、普通一般的に見られてるのは、すごい人。『平家物語』なんかでも、すごい人っていう風に描かれてます。『平家物語』もちょっと極端なところ、ダメな風に描かれてるところもありますけど、「橋本平家」においては、もう、けっこうな「ダメな奴」として、すごい奴っていうよりは、どっちかというとダメな奴として描かれてます。そのように、スーパーマンがあんまりいないんですね。あんまりって、一部いるんですけど、実は。スーパーマン的なポジションを与えられて、スーパーマン的に振る舞っている、怪物的人物っていうのは何人か出てくるんですけど、実はそれが存在すること自体が、日本の歴史におそらくは深く関係してるんでしょうけど、そういう部分もあるということが言えると思います。

●キャラクターを成り立たせるもの

じゃあ、その人間性ってどんな風に描かれてるの? っていうことですよね。要するに、登場人物が多くて、何がどうっていうのは言えない。いま言ったように、一人の人間さえ追っていれば、この時代の歴史は押さえられますよっていうことじゃない。だから、よく人物から歴史を押さえたのありますよね。細かくやっていけばやっていくほど、実はおもしろくなっていくんだけど、なんだか普通に読んだらわからんようになってくる。『藤原忠実』っていう本も出てますし、『藤原頼長』っていう本も出てますけれど、それを読んだからといって、それだけ読んでもなかなかわからないんですけど、「摂関政治」って言われてもやっぱわかんないんですね。「摂関政治を作った人」っていないんです、実は。「院政」って言いますけど、「院政を作った人」もいないんです。だから、これはなんとなくそうなっていったっていうことなんですけれども、ただ、その一人ひとりの細かいキャラクターって言っちゃいましたけど、キャラクターが大事になってくるんです。それをどういう風に描いてるか。

今キャラクターって言っちゃいましたけど、キャラクターって何なんですかね? 最近、よく言われるんですけど。言われるって、別に言われてないですけど。どっちやねん(笑)。この間、読書会みたいな、著者が読者の質問に答えるっていう地獄のような会に行かされたんです。いろいろなこと聞かれたんですけど、一番多かった質問が、読書会だけあって、読書に興味あったり、中には、もう創作みたいなことをやりたい人もどうもいる。それは小説なのか、他のものなのかわかりませんけど、やりたいっていう人もいらっしゃって、よく聞かれたのが、あなたのこういう小説を読みましたと。たとえば『告白』という小説を読みましたとか、あるいは『ギケイキ』でいいか。『ギケイキ』を読みました。弁慶のキャラクター、おもしろいですよね。弁慶のキャラクターって、どうやって考えたんですか? 「ああいうキャラ」って、どうやと思う? もうキャラクターですよ、キャラ。「キャラって、どうやって思い浮かべるんですか? どうやって作るんですか? キャラの作り方を教えてください」って言われるんですけど、まぁ、確かに今の時代、そういう時代なのかもしれないですよね。いろんな人格を自分の中に持っていて、その人格を、局面局面で切り替えながら人間関係を構築していくようなことは、今の人は普通にやってるのかもしれないんですけど、それは知らんけれども、創作におけるキャラクター、それとも、またちょっと微妙に違うと思うんですね。

これが純文学なら、そういうことをやってるキャラクターを、キャラクターとして設定するということも、あるいはあるのかもしれないですけど、単純にキャラクターの作り方って、いろんな創作のジャンルの中で、汎用的な「キャラクターってどうやって設定するんですか?」って言われても、これは困りますよね。なぜかっていうと、人格異常者っていますよね。人格異常っていうのは、人格が異常な人なんですかね? 医療、医学的なことわからないんですけど、まぁ、人格がおかしい人。でも、それは人格であって、その人は自分でおかしくしようと思ってない。普通にしようとしたり、普通に腹立ったりしてるだけで、異常と言われるところにカテゴライズされるわけですよね。それは別に自分で作ってないですよね。つまり、キャラクターって作れるのは、あくまでそうやって加工されたものであって、その人の本音、本質ではないわけです。

だから、どうやって、そういう人格って生まれてくるの? という場合、ふたつあると思うんです。ひとつは史料。史料というのも、一次史料と言いますか、たとえば、九条兼実という人が、どんな人やったの? っていうのは、あんまりクローズアップして出てこないと思うんですけど。出てきたかな? あ、出てきた。藤原兼実、摂関家の復権を第一に考える保守派の右大臣。藤原基房の異母弟で、藤原基通の叔父っていう人なんですけど、この人のキャラクターというのは、『玉葉』っていう(兼実が残した)日記、この頃の貴族はみな日記書いてますから、その『玉葉』っていう日記を読むと、九条兼実ってどんな人やったってわかるんですね。

「俺も『ギケイキ』やってるから、『玉葉』ぐらい読んどかなアカンな」って思って、『玉葉』買うてきて読もうと思ったら、全部漢字でくずし字で書いてあって、何か全然わかりませんでした。3万ぐらいしたんですけど、もう、お守りとして飾ってます(笑)。そういう一次史料を見ると、その人がどんな人か、字の癖とか、思考の癖っていうのは、それを読むとわかる。でも、小説家がいちいち小説書くために、そういう一次史料を、学者じゃあるまいし、全部読んでられないわけですよね。だから、小説家の場合、他の本を読んで、つまみ食いでやるわけですけど、つまみ食いには良さもあるわけです。厳密さは失われるけど、すべての一次史料に目を通すことをしない・できない代わりに、やれる良さって何かというと、直感なんです。これはもう才能としか言いようがないんですけど、この人って、どんな人やった? っていうのを、直感的にわかるかわからないかが、まずひとつ目。

でも、それが直感なので、それが合うてるか合うてないかの答え合わせができないんですよ。その人、もう死んでるし。会うた人、一人もいてへんから。だからこれ、何を意味してるか知ってます? 小説家の場合。「言うたもん勝ち」なんです(笑)、辻褄さえ合ってれば。だから、浪曲とか講談とかでもそうですけど、落語とかでもそうかもしれませんが、「こんな人やった!」って言うてもうたら、もうそうなれるだけの芸を自分が持っていれば、そうなってしまうんですよね、そういう人に。それがお芝居なんかで積み重なって、だんだん日本人の中で織り込まれてきて、「義経って、こんな人やった」みたいな風なことになってしまってるわけですね。

それは、もちろん、小説家の芸というのがあるんですけど、その芸の前にまず必要なのが、「この人、こんな人やった」という直感力なんです。読んでも読んでも何も浮かんでけえへんとしたら、描こうとしてる人の人格がおもろないか、自分の人格がおもろないか、どっちかなんです。だいたいは自分の人格がおもろないんで、何も直感が生まれてこない。ただ、橋本治さんの場合は、僕はお目にかかったことはないんですが、そういう直感がものすごくあって、これだけ多くの登場人物の性格がすべて、もちろんある種の類型には分かれるんですけれども、見事に納得いくように、ひとつの統一的人格の中で、この長い物語の中で破綻をきたさずに、ほぼ直感だと思うんですけれども、直感で辻褄合った形で描かれている。

●直感の先のもう一歩

この直感というのをもう一歩進む必要があるんですね。直感だけではダメなんです。要するに、直感で決めると、その一歩先が必要なんです。それを持ってる人、意外に少ないんです、小説家でも。「橋本平家」の場合にもうひとつあるのが、「決めつけ」。直感で得たものを決めつける。「こんな奴やった」っていう決めつけですね。この決めつけが生々しいんですよね。

これは例を示した方がわかりやすいと思うので例を示してみますと、文庫第7巻の164ページあたりですけれども……鳥羽上皇ですね。鳥羽上皇っていうのは、わかりますかね? 有名な白河上皇、強大な力を持ったという白河院の孫です。この人も、院政絶頂期というか、院政をした人の中ではすごく力を持ってた人ですけれど、この人が 兵衛佐 ひょうえのすけ っていう女性を大事にしてる。でもその人は身分のない人で、兵衛佐っていうのは官職の名前ですけど、この人が兵衛佐だったわけではなくて、その人のお父さんが兵衛佐だったということだと思いますけれども、そういう呼び方です。何やら少納言とか、女の人に官職がついているのは、だいたい宮中でその親の官職で呼ばれてるということだったと思いますが、兵衛佐を鳥羽上皇が可愛がっていた。「兵衛佐は おご らない。哀れに つま しく、お主上を仰ぎ奉る。力ない者へお手を伸ばされることによって、帝王としてのご自負をご確認遊ばされるのが、お主上のご気性である。『愛しい』と思し召されるお心が、お主上の内に帝王としてのご自負をお育て申し上げた」って書いてあるんです。

敬語が一杯入って、ちょっとわかりにくい文章になってますけど、帝王としての自覚を得るために兵衛佐を可愛がる。鳥羽上皇は複雑ないきさつがあって、帝王としての自覚を得にくいような状況にあった。白河院の絶大な影響があるので、なかなか帝王としての自信とか自負とか矜持みたいなものを築けないので、ものすごく身分の低い弱々しい女性に目をかける。自分のまわりに女の人はたくさんいるわけですけど、父親の身分の高い女性は、やっぱり偉そうにしてますから。相手が帝王であっても、ちょっと偉そうなわけですね。なんか、「ふん!」みたいな(笑)。服もたぶんええ服着てるんでしょうね。実家が金あるから。でも、家が貧乏な兵衛佐なんかは、安物着てるんでしょうね。ポリエステルの着物着たり。まぁ、ないけど、当時は(笑)。ないけども、なんていうか、安物ですわ。それに対して、なんとか引き上げることによって、「俺は帝王や」って感じる内面の屈折が実はあったんですよ、みたいな文章なんです。こんなの100%決めつけですよね、どう考えたって。そんなわけないじゃないですか、そんなもん。ねぇ。

こういうのって決めつけなんですけど、読者としたら、こういう決めつけ、気持ちいいんですよね。こういう風に言ってくれた方が。信頼できないことを作者が言えば言うほど、読者は信頼できるっていう矛盾があるんですけど、そこのところをうまく突いてきてるわけじゃないですけど、どういうつもりでお書きになってるのかわかりませんけど、そういう風になってるという感じなんですね。あるいは、これって、どう思いますかね? こういうの作る時に。どうやってやってるか、わかりませんよね。ここで決めつけはできないわけです。決めつけできないけど、たぶん、これは推測なんですね。これ、「こうです!」とは言いません。推測ですけど、たぶん。他にもこういうのあるんですね。

聖武天皇の場合も、割と性格決めつけられてて、聖武天皇って、ものすごいいろんなことを恐がってたんやと。ビビってた。恐がりやった、みたいなことを決めつけられています。もちろん、何らかの史料に基づいてはいるんでしょうけど、たぶん、たった一言の史料をものすごく膨らましてるんですね、直感と決めつけで。本当、一言か二言、史料にあることを膨らませることができるのは、やっぱ直感と決めつけによるもの。平宗盛の場合も、「平宗盛は愚かであった」っていう史料がたくさんありますから、あながち決めつけとは言いませんが、やっぱり、それも、「この時こう思った」、「この時、この平宗盛はこんな風な気持ちだった」っていうことは、決めつけとして書いてるので、これはキメが細かいんですけど、そういうことはもちろん小説ですから、さっき比較の上で言ったところでいうと、司馬遼太郎などもやってなくはなくて、もちろん「講釈師見てきたような噓を言い」っていうのはありますけど、そういうことは普通に小説のテクニックとしては使ってるんですけど、理性で理解できる部分、人間の賢さの部分をクローズアップする意味では、ものすごく書いてるし、悪役とか敵役が愚かだったり利己的だったりする部分は、そういう風にクローズアップして書いてる。そうやって、役柄がきれいに分かれてるんですね、お芝居みたいに。

●「出てくる奴、全員アホです」

ただ、この「橋本平家」に出てくる人間というのはそうではなくて、どんな人でも、賢いところもあれば、アホなところもある。賢い人の賢い部分は書いてるんだけど、その人の愚かな部分とか、人間的な弱さの部分も書いている。もちろん人間ですから人間的な弱さもある。その比率が問題で、両方やってることだけでも稀有なことなんですけど、比率の問題が大きくて、これ、少数の例外を除いて、出てくる奴、全員アホです。まともな人間、一人もいてないです(笑)。そういう観点から言うと。笑いますけど、じゃあ、俺らの世の中の中で、まともな人間、一人でもいてますか? っていう話なんですよね。人が何考えてるかわからないじゃないですか。人が「自分、こう思うてんねん」って全部言うわけじゃない。でも、自分の心の奥底考えてみたら、ものすごいアホなところいっぱいあるじゃないですか。それを剔抉できるかできないかっていうのが、やっぱりこの人の……この人のっていうか、一般的に言って、それができてない小説家のものは、ほぼ読む価値のない小説と言えるんじゃないかなと思います。ただ、そういう小説って、はっきり言って需要があまりないので(笑)、需要のないことやり続けるのは……まぁ、みな人スカッとしたいですから、やっぱり司馬遼太郎みたいな話を読みたいわけですね。合理的でわかりやすくて、スカッと話ガンガンいく奴を読みたいんですけど、でもまあ、そういう仕事をする人も世の中には必要だろうと。僕なんかは、こういう本を読んで、おもしろいって思う。そういう少数の読者は確実にいますから、そういう人にはいいんでしょうねっていうことなんですね。まぁ、本人も、そういうのやってておもしろいんだと思うんです。僕なんかもそうです。そういう方が、やってておもしろいです。

●リミッターをはずせば小説家になれる

ちょっと余談になりますけど、小説でもそうですし、歌の歌詞でもそうですけど、相談受ける時あるんですね。「どうやって書いたらいんですか? 歌詞書こう思っても、何も出てけえへんのですわ」っていう人に対して、「思うてること書いたらええやんけ」っていうのが一番簡単です。「お前、思うたこと書け、そのまま」と。「そうなんですけど、何も思わへんのですよ」って言うんですよ。「そんなアホなことないやろ。なんか思うてるやろ」、「いや、なんか思うてるのかもしれんけど、何も思わへんのですよね」っていう。

それは、実は、リミッターがかかってるんですよ、あるところで。リミッターかかって、なんか思おうと思うと、そこで止まっちゃうんですよ。そこから先に行けない。なんでか言うたら、あまりにもアホなこと考えてるんで、それを書いたらアホやと思われるっていうリミッターがかかってて(笑)、考えてることがアホすぎて、思ってないと思ってしまうんですよね。これはそいつがアホやからじゃなくて、誰でもそうなんですよ、実は。だから、そのアホを突破したら、小説家になれるんですよね。そのアホなアホ道に行けるようになれば、そこにアクセスできるリミッター外せば小説家になれるんですけど、「売れない」小説家(笑)。ただ、それを外すのがけっこう、普通の人間にとっては難しいと、こういうことなんですね。

●ひとつの裏のテーマは「愚かな父」

愚かな父として描かれる藤原忠実とか、愚かな父キャラというのは、この小説ではけっこう重要で、父が愚かであるっていうのは、ひとつの裏テーマみたいになってるところがあるんですけど、いろんな上皇たちもそうだし、要するに、誰に帝位・皇位を継がせるかっていう問題とか、誰に自分の地位や家督を譲るかとか、どの女性の産んだ子を帝位につけるかとか、そういう問題がひとつのテーマになってるんですけど、そうなってくると、ひとつの裏のテーマとして「愚かな父」が出てくる。たとえば平清盛もそう。

少数の例外として、賢く立ち回って愚かじゃなく、ボスキャラみたいな人も何人かは出てくるんですけど、そういう人にひとつの特徴があるんです。愚かじゃなく立ち回る後白河上皇みたいな人の凄みみたいなところって何かといったら、徹底的な非人間性というか、「父であること」から免れてることなんです。父親であるという立場を、一切、私心として表さない。だから、人物が割と最後まで生き延びてる。ボスキャラになり得ているんですね。孝謙天皇もそうです。

班田制との関係の中で、いかに土地所有の形態が変わってきたかというのは、実際の歴史的にはどうなのか、ちょっと疑問もありますけど、この小説の中では、そういう私心、後三条の私心とか、後三条天皇の わたくし 、本来、「私の心」というのがあってはいけない天皇というものが、私というもの、人間的な愚かさを内側に抱えてしまったために、破滅に至る、 騒擾 そうじょう に至る、多くの人が死んだ動乱に至るんだ、というのが、この『双調 平家物語』のひとつの大きな裏のテーマになっています。私心を抱いてはならないとは言ってないですけど、原因は私心にあるというのが、ひとつのテーマです。双調というのは騒擾に通ずるらしいです。そのひとつひとつは、人間の愚かさにある。キャラクター設定というのは、「直感」と「決めつけ」によってなされているというところで、前半を終わって、続きは後半でお話をしたいと思います。
(休憩)

●人間の愚かさはどんな風に描かれているか

(受講生が一部入れ替わったので)それでは、先ほどと同じことですけども、全部読んだ人? 途中まで読んだ人? すごいですね。まったく読んでない人? 一番多いですね。そしたら、それなりに話したいと思います(笑)。

人間の愚かさが歴史を動かすというのが大事な特徴であるという風にさっき言いましたけれども、じゃあ、どれぐらい愚かだったの? みたいなことを、読んでない方もいらっしゃるので、人間の愚かさといっても、具体的なイメージが湧きにくいと思いますので、人間の愚かさが、いったいどんな風にこの小説では描かれているのか、みたいなことを紹介したいと思います。

たとえば、僕もこれは良い文章だなと思ったんですけど、その前にバックグラウンドを説明しますと、藤原忠実という実在の人物がいて、これが父親です。息子の忠通がいわゆる摂政です。摂政関白の家です。朝廷で一番偉い人、藤原道長とか学校で習ったと思いますけど、その家系ですね。要するに、天皇以外で一番偉い人です、日本でね。その藤原忠実という人がいて、息子で忠通という人がいて、お母さん違って頼長という弟がいるわけです。

このお父さん、忠実が、まぁ結論からいうと、頼長に自分の跡を継がせたかったんです。でも、忠通の方が兄貴だし、実際の能力も多少あって、最初、忠通に一応継がせて、お父さんは引退したんです。でも、お父さんには計算があって、忠通には男の子がいなかったので、頼長を忠通の養子にして、最終的には頼長にいくように計画を立てたわけです。そしたら、忠通にも子どもが生まれて、実子がおるのでそっちにという話になって、忠通と忠実・頼長がやっぱり仲悪くなるわけです。その仲悪うなった時にどうすんねんっていう話になって、お父さんは、「俺に逆らうんか、こら!」って言って、跡を継いでる兄貴の家に行って、「お前はもうクビじゃ〜!」言うて追い出して、「藤原の家のトップは弟や」っていうことにしてしまうわけです。ただ、家ではそうかもしらんけど、朝廷での官職は公のもの。今で言うたら会社の地位は社長が決めるわけですから、「こいつを社長にせえ」って言っても、株主がアカンって言ったらそれはアカンみたいな、そういう話になるわけじゃないですか。「そんなの株主総会で認められません」って言われたら終わりですから。だから、社長は忠通。でも、家長は頼長、みたいな状態になってるわけです。

それだけで終わらへん話がいろいろ、人間関係のうっとおしい話があるわけです。だから、着々といろいろ手を打たなアカン。もちろん、次の天皇に誰がなるかというのも大きく関係してきます。つまり、誰が天皇になるかというのは、まぁ何派、何派と分かれてて、天皇を継ぐ資格のある人が何人かいますから、「この人を推す」っていう人の派についてたら、その人が天皇になった時、いろんな人事とか好きなようにできるわけですけど、その人が天皇にならへんかったら、もう自分はダメですからね。冷や飯食いです。それで、権力闘争があるわけですね。その時に、「じゃあ、天皇、次、誰なるねん」って決めるの、誰が決めんねん? っていう話ですけど、それはそれで、いろんな力関係で決まりますから、絶対、この人がこうって言ったからこうなるとは限らないっていうのはありまして、結局、それ決める時に、「世間の納得」っていうのがあるわけですね。世間が納得せえへん奴を、一人の人が、どんだけ権力ある人でも、世間が納得してないのに「こいつを天皇にする」って言ったって、誰もついてこない。「じゃ、朝議をしましょう」って言って、天皇が何かやろうとしても誰も来ない、とかね。全員欠席とか、ざまあねぇじゃんみたいな話になったり。あるいは、「親の法事やりますから来てくださいね」って言っても、誰も来ないとか。同じ日に別のところで何かやって、みんなが酒飲んで遊んでるとかね。「なんか、アカンやん、あいつ」みたいな話になって、辞めさせられるみたいなことになるんで、それはいろんな、いやらしいことあるじゃないですか、普通に。今でも、いろんなところで、いろんな組織で。ずーっとやってるわけですね、何千年も(笑)、同じことを人間は。そういう意味で、愚か。だから、すごくよくわかるんです、そういう風に身近に考えると。

さっきのキャラクターの作り方の話でいうと、僕、推測で思うのは、絶対、知ってる奴になぞらえてたなと思うんです。「清盛、あいつやん!」みたいな。そうすると、自分の頭の中でものすごく具体化するでしょ。なんかうっとおしいアホな奴とか。この頼長も、たぶんまわりにとてつもないアホな奴がおって、書く時にそいつをちょっと参照しながら書いたんじゃないかなと思うんですよね。それぐらい、おもしろいんですよ。

人間、人を褒めてる時より、悪口言った時の方がおもしろいんで(笑)、けっこうおもしろいんですよ。頼長の人間性を説明するのは、割と最後のところなんですけど、要するに、兄貴がそうやっていろんな手を着々と打ってるのに、頼長はあることを信じていて何もしないわけです、そのことだけ信じてるから。全然、根拠ないことを信じてる。

頼長、奥さんが亡くなって、喪に服すわけです。「妻の喪に脚を取られて、頼長は」……これは、どういうことかというと、当時の貴族、朝廷、内裏なんていうところは、 触穢 しょくえ といって、 けが れに触れることを非常に恐れましたから、「身内に死人がいたり、葬式とかあった人は、1ヶ月来ないでね」とか、「1年、来ないでね」とか。喪に服すというのは、その人の遺徳を偲んで、その人を追慕して喪に服すんじゃなくて、「来ないで。穢れを持ち込まないでね」っていう、ある種、「えんがちょ」的なものだった、触穢っていうのは。そういうことがあったので、妻の喪に服してるから、その間1ヶ月間、政局から取り残されるわけです。みんな着々と手を打ってるのに、自分は喪に服してるから行けない。行けないから、どれだけ策謀をやられても、それに対して「違います!」とか言いに行けないやられ放題なわけです。「妻の喪に脚を取られて、頼長は崩御後の政局から取り残される」。崩御後というのは、近衛帝が死んだんですね。その崩御後の政局から取り残される。

「しかし、それもまた、愛妻 幸子 さちこ の思いやりであったかもしれない。近衛帝の崩御を受けて、頼長に出来ることは、なに一つとしてなかったのだから」。ここまで普通の文章ですね。ここから先が悪口です。「妻を喪った頼長に出来ることは、ただ一人の愛人 源成雅 みなもとのなりまさ の尻を犯すことばかりだった」。これ、笑えませんか(笑)? 真面目に書いてるけど、アホみたいですよ。当時、男色は別にそんなおかしなことじゃなくて、普通にあったんですけど、男寵ですよね。男子を寵する。「ただ、一人の愛人、源成雅の尻を犯すことばかりだった、マル」っていって、この章、終わってるわけです。

これ最高ですよね。こういう人だったっていうのを書いてるんですよ。頼長がいかにアホかっていうことのひとつの絶頂をここで迎えるわけです。こんなとこで絶頂迎えてもしょうがないんですけど(笑)。それで、たとえば、頼長が何かをどういう風に考えていたか、何を信じて、尻ばっかり犯してたのか。みんな政局で右往左往してるのに、源成雅の尻を犯して、それも「嫁はん死んで悲しいわ」って言うてたら、それで終わりかみたいな。彼は、なんでそんなことになってしまったの? みたいなことなんですけど、この人はアホみたいに聞こえますけど、実は、歴史的には、頼長という人、学識がすごかったらしいんですね。難しい経とか読んで、解釈とかがものすごいできて、頭良かったらしいんです。今でもそういう人いますよね。誰とは言いませんが。東京大学法学部首席で卒業して、なんか訳わからんことばっかりやってる人とかいますよね(笑)、誰とは言いませんけど。そういうようなこと、賢かった故に現実感を喪失するみたいなとこがあるんですね。

●橋本治のリアリティ

それはどういうところかと言いますと、たとえば、この人がどういうことを考えていたかというと、こういうことなんです。「頼長にとって、正義は正義だった」。ここの文章は、橋本治さんその人の現実観みたいなものがかなり表れてるのかもしれませんが、「頼長にとって、正義は正義だった。正義は、それを正義と知るものばかりが知るのである。それを きわ めるため、頼長は学の道へと進み入ったのである。世の高位高官とされる男達は、人の世の勢威にばかりなびき、人の世の もと となる正義を うと んじ、学を ないがし ろにする。そのような世に生きる為政者の道は、理非を正す正義を実践することにある――頼長はそのように信じ、かけらも疑うことはなかった。頼長は、それを解するだけの学識と、それを実践するだけの力の持ち主であったのだから」。これだけ聞くと、今の世の中的な文脈でいうと、「頼長、ちゃんとした人やん」っていう風に聞こえますね。

でも、とてつもない愚か者なんですよ。「正義は正義だろう」って言って、「言ってたら、絶対に俺は正しい」って言ってるんですよ。そうかもしれんけど、それ、本の中だけの話でしょ。実際、人間の現実というのは、「他の奴は自分の出世ばっかり考えて、権力者に媚びてばっかりおるけど、そんな奴はアカンやろ。正義が勝つやろ」って言って、真っ先にボコボコにされる奴いますよね(笑)。つまり、理念と現実って別なんですよ。でも、頼長は理念だけ言ってて、「理念がないとダメだ」って言ってるんじゃなくて、「理念がすべてに打ち勝つんだ」と言って、「理念さえ言ってればいい」みたいな奴なんです。だから、自信あるんですよ、どんな時も。たとえば、保元の乱とか、もう、火がついて燃えてるのに、信じてるんですよ。敵の矢がブスブスと当たってても、「いや、俺、正義やもん。負けるわけがない」って言ってるんです。これ、なかなか愚かなんですけど、これを愚かと思えるためには、やっぱり、かなり現実を捨てなきゃいけない。でも、頼長は良いところ、摂関家の息子で、藤原氏の長子で、そういう現実に触れる機会が何もなかった。しかも、父の忠実がものすごく強大な人で、忠実ありきだったんですね。その人が朝廷で保っていた地位というのは、引退したとはいえ、いまだに隠然とした力を振るって、つまり、現実の部分を全部、忠実がカバーして、自分は理念だけ言っていた。だから、いざ、この人が自分で、生身で現実に出ていかなきゃいけなくなった時は、最後は無残に滅びるわけです。この人は、このように愚かだったと橋本治は書いているわけです。「きれいごととか正義だけ言ってても、絶対に現実では成立しませんよ」ってリアリズムで書いてる。リアリティのあるところですね。

じゃあね……じゃあね、なんですよ。じゃあ、これだけ読んで、「いいじゃん」っていう立場で書いてる。前半の話で言いますと「きれいごと」の話がありますけど、普通の歴史小説だったら、この「正義が勝つ」というものを打ち立てれば、「この人は正義だ」っていうことで最後までいく。たとえば、『新・平家物語』を書いた吉川英治が、確か『三国志』も書いてるんです。『三国志』は『三国志演義』っていう元々中国の羅貫中という作家が書いたと思うんです。民衆にわかるような言葉で書かれた通俗的な読み物を更にわかりやすく日本語で物語調に書いてあるんですけど、それも、やっぱりそういうので貫かれてるんですよね。要するに、蜀の劉備玄徳というのが正義であった。漢朝復興という立場で貫いて、そこに一応みんな感情移入するように書いてるので、結局、正義というのは貫かれてるわけです。あるいは、司馬遼太郎でも、古い時代に固執する守旧勢力よりも、新しい革新派、革新的な、天才的な人によって、世の中が開けて、みんな豊かになるよね、現代に繫がっていくよね、進歩していくよねっていうような、ものの感じ方なんですね。そういうような、正義だけで成り立つところではないというところが、その後に出てくるんです。

●「正義」の中に潜む「愚か」

じゃあ、「正義の本質」って何なの? っていうことなんですよ。この人にとっての正義。正義をなす力や学識があった。力というのはもちろん父親の庇護の下にある朝廷の役職。頼長は、左大臣という、ものすごく高い地位にありましたから。じゃあ、その正義っていうものの中に何を抱えていたのか? やっぱりそこには愚かを抱えていたということになります。

「その頼長にも、ただ一つままならぬことがあった。それは、人の心である。 多子 まさるこ の父 公能 きんよし を得たにしても」。これは、多子という人の父親の公能ですよね。公能は男です。要するに、公能という人を愛人にすることができたとしても。で、愛人にしたわけですよ、自分の地位とか権力とか、場合によっては学識も利用して。男を抱き寄せながら、「今度、一緒に経典読まない?」とか言ったのかもしれない(笑)。そういう人だったの、この人。そういうのを得たにしても、「そのことと、家成の息子 隆季 たかすえ を得られずにあることは、一つにならなかった」。要するに、家成の息子の隆季を、自分の愛人にしたかった。「二十三歳の内大臣は二十七歳になって、藤原隆季が得たくてたまらないのである」。その人が好きなわけですね。愛人にしたい。「なぜ得たいのかと自身に問えば、その答は決まっている。世をたぶらかす寵臣藤原家成の嫡男だからである」。家成という人は、今をときめく男色によってのし上がった人。男寵によって出世した藤原家成、そいつの息子を自分の愛人にすることによって、世の鼻を明かしたいと。「俺の男や」(笑)みたいな、そういう感じにしたい。歪んだ権力ですよね。「その嫡男を得て、家成の鼻を明かしたいのである」。

「それは、なされてしかるべき正義なのである」。これ、わかります? なんで、それが正義なのか。これが頼長の本質なんですよね。つまり、間違っている。「聖賢の道」って言いますよね。中国の思想とか哲学。「聖賢の道」によって一国の政治はなされるべきなのに、それがなされていない。正義がなされていないと。「院の近臣」とかいって、男として男に愛されることによって、退位した天皇として今の天皇に影響力を及ぼすことによって、本来、唯一の日本の最高の政治権力であるべき朝廷を、男寵を得た藤原家成が思いのままに政治を操っているのは間違ってると。これは正義ではない。こんな正義は間違ってると。だったら、どうするんだ? 「ほんなら、俺はあいつの息子やってもうたるわ」。なんでやねん(笑)! でも、それが頼長の「正義」だったっていうことなんです。それって愚かですよね。そんなことやって、はたして正義が実現するのか。絶対しないんだけど、そういうような正義の短絡が、一人の私心の中、愚かさの中にあるんですよっていうことを描いてるわけです。これがさっき読みましたところの、彼にできることは、「源成雅の尻を犯すことだけであった」というようなところに繫がっていくわけですね。

この頼長というのが、本当にそういう人だった風に描いていて、ものすごく地位の低い人に嫉妬したりもするんです。全然相手にならんぐらい地位の低い人が、前半で亡くなった話をしました鳥羽院によって、大臣に重用されてると。平信兼という地位の低い武家の人を、鳥羽院が非常に可愛がって使ってると。それは男寵だったのではなくて、単に自分の使い走りとしてうまく使っている。それに対して、自分は鳥羽院にもっと大事にされたいからってムカついて、喧嘩売ってボコボコにされたりとか(笑)。まぁ、自分で喧嘩するわけじゃないですけど、まぁ、ようある話です。向こうから行列が来て、「おら、お前、おら、お前、左大臣や、どけ!」とかいって、「あ、すいません」ってどいたら、「なに、どいとんとのや! おら!」ってバーンどつきまわして、「なんや?」って、向こうも武士やから、どつかれたらどつき返さなアカンからって、ボコボコになって逃げて帰ったり、後で問題になったり(笑)。そんなことばっかりやってるわけです。つまり、そういう人間やったっていうことを、アホとして書く。まぁ聞いたら「アホな奴やったな」なんですけど、これをはたしてアホと言えるのかということなんです。「言わへんでしょ」っていうところが、この「橋本平家」の全員がそうなんです。頼長は特別アホに書いてますけど、みんな、こんな奴なんで、頼長だけ際立ってアホというわけではないんですね。

●頼長がこだわった「本来」とは

ただ、頼長でひとつ特筆すべきところがあって、何かというと、「本来」なんですね。本来ということに、ものすごくこだわるんです。どういうことかというと、ホンマはこうでしょ。さっきの「聖賢の道」って言いましたけど、「本来こうでしょ」「本来こうあるべきでしょ」というようなこと。現実とは別に「本来」っていうのがあって、頼長は現実より「本来」を信じます。

兄貴の忠通は、「本来なんて、別にないよね」と。「現実に対応するしかないよ。こうあるべきなんてないよね」と。それはそれで、現実に対応して失敗するわけですけど(笑)。これも、こういうふたつの対立する考えが戦って一方が勝つというのも、歴史小説の描き方ですけど、この「橋本平家」――『平家物語』そのものがよく読むとそういう話なんですけど――別に、どっちが勝ってどっちが負けるっていう話でもないんですね。「そうやって現実というものに1個ずつ対応していくしかないよね」っていう忠通も、結局、間違って失敗する。つまり、「本来」を信じることの愚かさ、「本来なんて存在しないよね」っていうようなことが一番大事なところかなっていうのも、頼長のキャラクターを描くところにあります。

ここのところの政治的な状況を、たとえば今後、『平家物語』を読んだり、今、話をするにあたっても、ちょっと理解するために、こういう政治状況ってずっと変わっていきますから、ひとつのところで止めて、「ここで決算ね!」って報告していくしかなくて、まぁこれ全部流動的なものを一時的に止めただけの、いま言ったようなところの「この頃の政治的な状況」を簡単に説明しますと、そういう、兄弟・親子で対立してるというのがあります。

鳥羽院が亡くなった後。あ、亡くなる前ですね。亡くなる前に、近衛天皇というのがいます。 美福門院 びふくもんいん という、鳥羽院のまわりの女性の子なんです。で、美福門院っていうのはもともと親の地位は低いんです。あんまり高い地位の人じゃない。だから頼長は嫌なんですよ。親の地位が低いから。「本来じゃないだろう」って。「俺は、摂関家だぞ。なめんなよ!」みたいな感じなんですよ。でも忠通は、「いやいやいや、美福門院さん、どうも」って、あまり気にしないんですね、現実重視なんで。

一方で、 待賢門院 たいけんもんいん っていう人もいます。この人も鳥羽院の宮中にいる人なんですけれども、この人の子に崇徳上皇っていうのがいて、崇徳天皇だったのが皇位を譲って近衛天皇になりました。これも無理やり譲らされたみたいな。鳥羽院は崇徳天皇を嫌いなんですよ。自分の子やのに。さっきの後白河の話と同じで、鳥羽院はこの局面においてはけっこうボスキャラ的なんです。だから、「父」の顔を捨ててるんですね。「俺のこの子に継がせたい」っていうより、「この女の子に」の方が強いんですよね、鳥羽院っていうのは。まぁまぁ、ここに描かれてる状況ですから、実際はわかりません。別の小説家が書いたら、また別の感じになるとは思いますけど、ここに書かれてるのは、まぁそんな感じ。鳥羽院は、自分の子やのに崇徳上皇が嫌なんです。崇徳上皇には重仁親王という自分の子がいるんですけど、その子が近衛の次やと信じてるわけです。この人は、鳥羽院に嫌われてるけど、鳥羽院が嫌いなわけでもないんです。割と、仕える気持ちはあるんですよね。

鳥羽院はなんで嫌いかといったら、自分の子というより、実際には叔父さん。なんでかといったら、待賢門院が産んだ子なんですけど、待賢門院というのは、鳥羽院から見たら、堀河天皇のお父さんで院政をやった強大な白河上皇、有名な「自分の世の中で、『賀茂河の水と双六の賽と山法師』、この三つだけ俺の言うこときかへんかった」と言ったとされる人。他はだいたい言うこときくわけ。でっかい寺を建てたり、ものすごい権力を持ってる人。待賢門院というのは、この人の愛人だったんです。だから、白河上皇は自分の愛人を孫(鳥羽院)の嫁にするというメチャクチャなことをした。で、その子は、実は白河上皇の子なんです。鳥羽院からしたら、自分の宮中の女性は実は自分のおじいさんの愛人で、その子が崇徳上皇なんで、なんとなく嫌なんです。でも、白河上皇が睨みをきかせてますから、無茶苦茶にもできなくてそのままにしてるんだけど、白河上皇が死んだっていうことで辞めさせて、美福門院の子である近衛に譲らせた。崇徳天皇はその時に譲ったけど、譲った条件で、自分の子の重仁が天皇になったら、「自分は院政できるよね」って。院政といって、引退した前の天皇が、今の天皇に影響を及ぼすことによって、人事とか、好きなことできるよねっていう、権力を持てるよね、っていうつもりでいたんだけど、それが、なんか嫌なんですよね。

ところが、重仁と頼長は割と仲良いんですよ。割と、ですけど。だから、忠通は重仁にしたくないんですよ。重仁になったら、頼長と忠実には都合が良い。そこで、美福門院に接近する。近衛が病弱で死ぬんですよね。で、「その次、誰にする?」っていう話になって揉めた時に、今の「尻を犯すばかり」と書かれた頼長、「じゃあ、あれでええやん」って言って、雅仁の子、守仁を推す。雅仁は待賢門院と鳥羽院の子でのちの後白河なんですけど、その雅仁の子に守仁というのがいます。「守仁でええやん」っていう話を実は持ち出してくるんですけど、鳥羽院がそれに対して何て言うかというと、鳥羽院は、なんか嫌なんですよ、それが。なんで嫌かっていったら、なんとなく、忠通が嫌なんですね。「なんか、あいつ、怪しいよな。なんか影響力拡大しようとしてるよな」って。「なんか嫌やし」。鳥羽院は忠実と割と関係が良かったけれど、忠実と忠通は親子で仲が悪い。「忠実と喧嘩してる忠通の権力増すの嫌やし、どうしようかな」とか言うてる時に、「でも、頼長と組むのも、あいつアホすぎて使えへんしな」って言うて思ってるわけね(笑)、鳥羽院は、賢いから。「あいつ、アホすぎるしな〜。忠実は美福門院取り込んで、幼い子どもを天皇にして好き放題しようとしてるしな〜。どうしようかな〜?」って言ってる時に、「雅仁でええやん」っていう話になるような政治的な状況なんです。

こういうことって、よくあるじゃないですか。今、説明はしましたけど、これ説明されても、あんまりおもしろくないんですよね。この説明が延々続くシーンも確かにあるんです、この小説の中には。説明が延々続いて、「あ、おもろないな。暇や、退屈だ。この話、終わらへんかな」と思うんやけど、それを読んでないと人間関係がわからへんから、読んでいくと、だんだんおもしろくなっていくわけですけど、ここのところの説明はすごくようわかるんですよね。「なんか、あいつ、嫌やねんな」っていうのが。それは、さっきの歴史の「こうですよ」っていう理由の話の中で、「こうですよ」っていうところが、今の人間の「なんか嫌やな、あいつ」とか、「あいつ、絶対こうやってるよな」とか、「あいつは、なんか、本来、本来言うてアホやしな」とか、「いや、それ間違ってるだろう!」ばっかり言う奴もいるし、「欲しいの〜、それ!」とかばっかり言って、「自分、じゃあ、具体案なんかあるの?」って言うと、「ないよ! でも、おかしいやないか!」みたいな奴もいるし、「どうすんねん? これ」みたいな状況と重ね合わせて読むと、今とやってること、何も変わらないんですよね。当時の宮中でやってること。

●人は現在しか考えられない

さっきの平家の話もそうですけど、人間って、「なんで、あんなアホなことしたんやろな?」っていうのを後から思うじゃないですか、自分のやったことでも。たとえば、日本が70年ぐらい前に戦争に負けました。「なんちゅうアホなことやったんや」と。「あんなんやったら、負けるのに決まっとるやんけ」って言うけど、当時の人間はそうは思ってなかったわけですね、誰も。誰もかは知らんけど、一部の人は、「そりゃ、負けるよ」と思ったかもしれんけど。むしろ普通の庶民は、「自分の毎日の暮らしがどうなんやろか?」って、みんなそれぞれ、上の人もそうですけど、たとえば戦争担当者、陸軍とか海軍とかの人たちも、自分の組織内での立場がどうなるんだろうか? みたいなことばっかり考えたわけですよね。全体でどうなるかなとかいう風なことは、あまり誰も考えてなかった。

『草薙の剣』という小説もそうなんですけど、つまり、人間は、今しか考えないんですよ、今しか。老いと死もそうですよね。若い時は、「もう、そんなのええやろ」と思うけど、年取ってくると、今しかないんです。常識的に考えたら、たとえば僕が今80やったとしますよね、仮に。で、「俺な、家、新築しよう思うてるねん」とか、「シェパードの子犬飼おう思うてるねん」って言ったら、「お前、いくつまで生きる気や!」ってなると思うので、俺はまだ60やからそれ言えるんですけど、実際、80なったら、そう考えると思うんですよ。なぜなら、今しかないから。先っていうのはないんですよ、本当。まぁ、もちろん、さすがにシェパードとかは考えますけど、たとえて言うとそういうことなんですよね。

つまり、現在しか考えられないんです。感覚として、人間は。本当は。だから、「先のこと考えろ」と言うても無理なんだけど、まぁ、考えますよね、自分のことだったら。ただ、今から過去を振り返って見たって、絶対間違えるんですよ。その時の「今」で、みんな動いてるから。今の「今」の感覚から過去を見たら「おかしいな」と思うことも、その時の「今」の感覚から見たら、そいつがシェパード飼うのは正しい、当然やりたい、当たり前の、どう考えてもやることだった。今から過去を逆算してみる見方っていうのは、ないんですよね、心の中に、一切。「これ、アホなことしてるよね」っていう視点が、一切ないわけです。

よくあるんですよ、そういうの。「これは愚かだった」とか、「この戦略は間違ってた」とか、「こうやったから、戦争負けたんだ」。そういうのはあるんですけど、そういう、今から過去を見て、評論、批評するような必要はなくて、(『草薙の剣』は)常に当事者の感覚が描かれてるわけです。「愚かだった」とは書いてます、確かに。でも、それは人間の振る舞いとして愚かだったこと、個人としての愚かさは書いてるけど、社会全体の愚かさとか、その人の戦略的な愚かさっていうのは書いてないんですね。

それの何がおもしろいかっていうことなんですけど、それはわかってないんですよ。やってる奴が、自分がやったことがどうなるか、わからないままに動いてるわけです。傍目八目と言うか、後目八目とでも言うんですかね? 先から過去を見たら結果がわかってるから、「お前、そんなことやったら、保元の乱になるぞ」っていうようなこと、たとえば崇徳上皇が鳥羽におったらええもんを、兵衛佐に言われて、「やべぇ、ここって危ない。京都行かなアカンねん」って、どんどん、どんどん戦乱に突っ込んでいくみたいなことをやるわけですけど、読んでるうちに、「そんなことやったらアカン!」っていう感情じゃなくて……知ってる人間としては、「そんなことやったら戦争になるぞ!」っていうのを、たとえば昭和史なんか読んでたら思うんですけど、そうじゃなくて……本当に自分も同じ当事者として巻き込まれて、同じ混乱に入っていくんですよね。

なぜなら、それはすべてを感情で説明していくから。理屈じゃなくて。で、自分もその理不尽の中に巻き込まれていくわけです。それは、感情移入というよりも、もう当事者にされてしまっていて、小説として整理してないからなんですね、この作者が。だから、「読者としての安全圏」にいられなくなります。混乱を混乱のまま描いて、結果を知って逆から語ってしまうことを、読者も、作者も封じられるわけです。だから、平家は弱いとか、旧日本軍はアホだったとか、そういう視点から語ってないわけです。

まだ、まったく話が半分ぐらいなんですけども(苦笑)、時間がなくなってきましたので、最後にずーっと飛ばします。いろいろ言いたいことがあったんですが、小説としてのテクニック、細かいところとかいろいろあるんですけど、最後に一言だけ、この小説を読む現代的な意味というか意義というか、そういう話だけ最後にします。

最終的な着地点。最後の方、バーッと話終わってます。『平家物語』もそうですし、『平家物語』なんていうのは、割と仏教的な無常観みたいなものも漂いつつ、「橋本平家」の場合、やっぱり、栄華という言葉が最初から出てきます。幻影としての栄華。自分の娘を尊いところ、高いところに奉ることによって得られる栄華。栄華というのは得られるものであるというひとつの仮説から、幻栄華というものが描かれるんだけど、娘を奉るというのは、結局、人間の生殖とかそういうことと関わってきますよね。人間の一瞬の感情とか感覚とかによって生まれるもの。娘を奉るって、要するに、動物的なというと言葉がちょっと違うかもしれませんけど、瞬間的な感覚、性的な感覚が中心にあって、初めて存在する栄華。それは実は、寺院の八重の塔とか宇治の平等院とか、そういう建築のように存在しているように思われるけれども、栄華というのは実は存在しないと。

●「橋本平家」を読むことの「得」

もうひとつの現代的な意味、意義というのは、こうやって人間の愚かさを延々と読むことによって、さっきの頼長の「本来」ですけれど、「本来こうあるべきである」、「本来、理念としてはこうあるべきものです」って文章化された何か、文章としては「本来」というのがある。現代はかなり「意味」に毒されてると思うんですけど、近代以降というか、言葉によってすぐに、「本来、そうだろう」とか、僕なんかでも、「それ、おかしいだろう。本来こうだろう」なんて割と日常的に言っちゃうんですけど、日常的なところから、もうちょっと大事なところまで、この世には「本来こうあるべき」っていう「本来」があるんだ、道理があるんだ、大義があるんだ、というのに毒された、その「本来」から人間を知ることによって、解毒される。これが、「橋本平家」を読む上での最大の得というか、現代的意味というより、得と言った方がいいですかね。得があるのではないでしょうか。

●「疎かに」読むからこそ得られる感覚

最後に、読み方ですけど、これを通読するのは確かに大変だと思います。文庫で1巻から16巻で、「さぁ、読もうか」っていって、1ページ目から読むのは、ほぼ不可能に近いんじゃないでしょうかね? 今、仕事してる人もしてない人も。なので、これの読み方としては、いつでも、どのページをあけても、人が生きてる息づかいと共に、歴史上の人とされた人が、実際に生きた人間として、そこに存在していた。これぐらい長いものですから、1回通読したとしても、おそらく読み飛ばしてるところとか、ザッと読んだところ、疲れてる時とかは、ちゃんと意味が読み取れなかったところが残る。文章も、丁寧語が非常に多い。宮中の言葉も非常に多いけれど、ものすごくうまく使って訳を書いてます。その文章のことも少し話したかったんですけど、かなり工夫というか、表現に凝って、凝ってというか工夫ですね。注意して書かれてますから、正確さが重視されていて、読みやすさがある程度犠牲にされてるところがありますから、ちょっと疎かに読んだところもあると思うんですね。

そういう意味では、何回もパッと開いて読んだところ、「ああ、ここ、こんなこと書いてあったのか」っていう、固着されない、感覚的な歴史が読める。歴史というのはそもそも自分の見る視点によっていろいろ解釈も変わるものです。歴史を決定するのは権力者ですけども、それとは別の、固着されない、私たちの感覚的な歴史が、ページを開くたびに、疎かに読んでるからこそ、存在する。生きた、息づかいがある歴史っていうのが、どのページをパッと開いても、ついつい読みいってしまうようなものがあるのではないかと思います。

すいません、いろいろ用意してきたんですが、ちょっと時間がなくなってきました。もし質問ありましたら。

●質疑応答

受講生:すごくおもしろかったです。橋本治さんが人物を書く時に、知った人を浮かべて書くんだという風におっしゃったんですけど、町田さんもそういう書かれ方をされるのですか?
町田:そういう時もありますね、はい、けっこう。そうすることによって、まぁかなり決めつけになりますけど、割と人に伝わりやすいっていうのかな。何もないよりは、割と具体性を帯びるっていうか、そういうのはありますね。
受講生:その方が、筆が滑りやすい?
町田:それもありますね。まぁ、危険性はつい途中で忘れて、その人の一部を借りてるだけなのに、その人の全部を書いてしまう時があるので(笑)、そうすると、その人になってしまうわけ。それはまた別の話ですね。やっぱり、借りるとしたら一部にしといた方が良いです。
受講生:それは、行きすぎそうになったら、気がついて戻るような感じですか?
町田:「借りてるだけ」っていうぐらいの感じなので、そこまでほとんどいかないですけどね。だから、本人、気づいたら怒るでしょうね。まぁ、わからない程度だと思います、たぶん。一部、借りてるだけなので。

●現代的な正義にあらかじめ毒されていない

(書面の質問を読んで)「他の平家現代語訳と比べて、双調が際立っていると思われたところは、どのようなことでしょうか? 最近、古川日出男さん訳の『平家物語』を読んだのですが、愚かな人々の群像譚、キャラクター化、語りものだけに、勝者・後白河、頼朝の非情さについては、もともと『平家物語』自体に備わっているのではないかとお話を伺って思ったので、他に、双調ならではのことがあればと思った次第です」

町田:それはそうかもしれませんね。『平家物語』自体が、そもそもそういう話だというのは、その通りだと思います。その「度合い」の問題でしょうからね。度合いの問題が甚だしいということだと思います。『平家物語』にそういう根があるから、今、喋ったようなことになったというのは、まさにその通りではないかと、おっしゃる通りだと思います。

それから、「橋本平家」の際立ってるところを知りたいということですけども、僕、そんなに平家物語の現代語訳を全部読んでるわけじゃないので詳しくは言いませんけれど、小説ですから、小説家の言葉遣いというのがもちろん、いろんな細かいところに技が出てまして、それも、今日はひとつひとつ挙げて説明しようと思ったんですけど、ちょっとペース配分を間違えました。そういう細かいところ、「おっ!」と唸るところがいっぱいあったんですけれども。

際立ってるところは、解釈です。たとえばこういう話を書く時に、いろんな「押さえておかなきゃいけないこと」があるわけです。院政というのがなぜ始まったのかとか、摂関政治っていうのがなぜ始まったのかとか、あるいは、古代からの土地の班田制がなぜこの荘園公領制に変わっていったんだとか、そういうのは歴史学的な領域の話にどうしてもなってくるから、スキップしたいところなんですけど、絶対スキップできないところなんですね。そこで、やっぱり作者がどのような世界観を持ってるか。それは歴史観じゃなくて世界観。どのように世界を見ているか、どのようにこの世を見てるかっていうところが、半ば直観でやってる部分、ものすごく現れてくるんですよね。そこは、「普通の小説家」っていうとちょっと言葉悪いですけど、そんな変わった世界観を持ってる人って、そうはいないんですよね。変な世界の見方をしてると、人との共通点がないですから、書いても理解されないっていうのがありますよね。「ちょっとヤバいね、あの人」って言われて笑ってしまう。だから、適度なブレンド感が必要なんですけど、橋本治さんは、最初に言いましたように、この際立っているところのひとつとして、いわゆる人間的なとか、道義的なとか、理念的なとか、正義とか、大義とか、さっきも言いましたけど、道理とかっていうものから、割と自由にいて、現代的な正義に、あらかじめ毒されていないようなところがひとつあるのかな。これが1点。

●思考のグルーヴが伝わってくる魅力

もうひとつあって、2点目は、「語りもの」っていうことなんですけど、古川さんの平家をちょっと読んだんですけど、割と音楽的にというか、語れるように、文章自体を音楽的にして、楽譜にできるっていうのは極端な言い方ですけど、音楽にできるような文章っていうのを目指した節があるんですが、それはもちろん、そういうやり方はあって、僕も時々やりますけれども、何て言うんですかね? それは、さっき直前に思ってメモしたところなんですが、思想の音楽性っていうか、考えることそのものが音楽になる。変な言い方ですけど、何て言うか「理屈のリズム」って言うんですかね。

「思考」と「語り」ってあるんですよね。「語りもの」ってある。語りっていうのは、口に出して言うことです。思考というのは、基本的に文字で読んで思考するっていう先入観があって、情に訴えるのが語りで、理に訴えるのが書き言葉、文字だとする、と。しかし、思考にも語りのような要素はあるんじゃないかっていうようなことを伝えられますね。つまり、思考をそのまま文章に書くことによって、思考のうねりそのものが音楽的に響くんじゃないか。思考のグルーヴがそのまま伝わるんじゃないか。「語りとしての文字」、「文字としての語り」っていうのがあるんじゃないか。それは、当然、語りをそのまま文字に書き起こしたものではないっていうことです。仮に琵琶法師が、急に今、蘇って、ベンベンって琵琶弾きながら『平家物語』を語ってるのをそのまま文字に起こしても、おそらくそういう風にはならないだろう。思考そのものがうねりを持ち、思考そのものが語りとなって、音楽となってるようなものを、ある一定の方法で文章化すると、このような文章になるんじゃないかって思わせるようなところが、2つ目の「橋本平家」の魅力であると思います。

●「かしこ」と「かしこ味」は違う

(書面の質問を読んで) 「ものすごく売れる作家というのは、自分の愚かさを書かないまま、世の中が求める賢さを書くのだろうと思いますが、そもそも『愚か』と『かしこ』は、何が違うんでしょうか?」
町田:前段と後段とかなり話が飛んでますけども、えっと、そもそも「愚か」と「かしこ」は何が違うのでしょうか。「頼長と忠通は何が違うんでしょうか」っていうことで言えば、おそらく両方愚かっていうことなんでしょうけど、この前段に絡めて言いますと、世の中が求める賢さっていうことが、いわゆる愚かと対立的に語られる賢さ、かしこだということだと思います。だから、かしこっていうのは存在しないんですよね、おそらく本当の意味でのかしこって。だいたいが、基本、愚かで、かしこっていうのは、かしこ風、かしこ味。バーベキューとバーベキュー味は違うじゃないですか。「かしこ」と「かしこ味」は違う。みんながかしこと思ってるのは、かしこ味にすぎないと、まぁ、そういうことですかね。じゃあ、今日は終わります。ありがとうございました。

(おわり)

受講生の感想

  • 何とも独特の空気感の講義で、帰宅してからじわじわと染みて来ました。最後の疾走感の中の“思考のグルーヴが語りになっている”にグッと来ました。「バーベキュー味」ももちろんでした。

  • 町田さんの講義の「橋本さんは、普通の作家と違って、キレイごとで埋めずに『歴史は人間の愚かで弱い利己心によって、必然ではなく偶然に動く』『歴史は人間性 によって決まっていく』ということを書いている」という解説とか、「橋本さんは、それがどんな人物かというのを直感でわかる力がすぐれていて、これだけいろんな人がいて、どんな人か破綻を来さず辻褄が合って描かれているのはすごい」とか、「どんな人にも賢いとことアホなとこがあり、それを両方書いてるだけでも稀有」とか、やはり作家の方は作家としての見方をされるものだなぁ……と 感じ入りました。 藤原頼長の描き方の解説で「この人は『本来』を信じ『本来』に拘る人。よくいるでしょ? 『おかしいだろ!』と言うだけで代案出さない奴」っていうくだりにもちょっとドキッとしました。「そうだ! おかしいじゃんって言ってるだけじゃダメってことだよね」と自らも肝に銘じました。