Hayano歌舞伎ゼミ 
第5回 福田尚武さん辻和子さん

私は舞台をこう見る

福田尚武さんの

プロフィール

辻和子さんの

プロフィール

この講座について

イラストと舞台写真というふたつの「ビジュアル・アート」から迫る歌舞伎です。助六の足袋が黄色いことにどんな意味がこめられているのか? 考えてもみなかった方向からの歌舞伎考です。舞台写真を撮りつづけて55年の福田さんの人情味たっぷりのお話からは、知られざる役者さんたちの素顔が浮かびます。

講義ノート

辻:こんばんは、よろしくお願いいたします。歌舞伎のお話っておもしろくて深いのですが、私はイラストレーターですので、歌舞伎を観るに当たっては、やはりビジュアル的な楽しさがとても入りやすいところだと思っています。たとえば、初めて歌舞伎をご覧になっても、ビジュアルの持つ意味がわかっていらっしゃると、初めての芝居でもおもしろく観られると思います。

お話に先立って、ちょっと皆さんにやっていただきたいことがあります。題して、「性格も境遇も一目でわかる歌舞伎のアイコン 記憶スケッチをやってみよう」。記憶スケッチとは定められたお題を記憶だけで描くことを指します。ちなみに、宴会で描けと言われて、記憶スケッチで私が描いた絵はこれなんですけれど、どうしても似なくて、おかしいなと四苦八苦しながら、イラストレーターの私が描いた絵です。何だと思いますか? 絶対当たらないと思います。「あしたのジョー」です。「どこがだよ」と溜息が聞こえそうです(笑)。今日は、みなさんに、お姫様と武士を描いていただこうと思います。うまく描いても何のご褒美も出ません。こんなのだったかなとか、あんなのだったかなと思いながら、のびのび描いてください。ヘンだとウケます。うまく描くテストではありませんので、楽しく描いてみて下さい。じゃ、5分ぐらい。

(*スケッチタイム)

線に勢いがあって、みなさん、素晴らしいと思います。全員ご紹介したいのですが、いくつか。姫と武士の両方を描いていただいてます。耳のところに黒いのがありますね。これは、お姫様の「シケ」というものだと思います。カツラの両鬢(りょうびん)に毛束がありますね。お姫様を描くときは、この姫ジケを描くと、一気にお姫様になります。裾を引いているのもとても良いです。お姫様は労働しないので、私のように短く着付けません。だいたい室内では裾を引いている。どうかすると、外でも裾を引く。帯もちゃんと長く描いてあります。お姫様の特徴を非常によく捉えていらっしゃいます。ちょっと頭が派手ですね。これ自体は私は大好きですけれども、お姫様と花魁、どちらも派手な頭ですから、どうしてもごっちゃになるんです。簪(かんざし)がいっぱい挿さっているのが花魁で、簪といっても前挿しといってキラキラした帽子のようなお花模様のものを頭に乗っけるのがお姫様と覚えていただければ良いと思います。

こちらは武士ですね。裃(かみしも)をつけて、この肩衣(かたぎぬ)が武士の正装スタイルですね。ちょっと惜しいのが、一本差し。武士は二本差しです。よく江戸っ子が、「武士が怖くて田楽が食えるか」って言いますよね。あれは田楽が竹串二本でこんにゃくを差している、二本差しですね。武士をお描きになる時は二本差しにすると、「この方はよくわかっている」と思ってもらえるのではないでしょうか。失礼ながら、みなさん思ったよりとてもお上手なので、ツッコミどころがあんまりないのですが、こちらもできれば二本差しにしていただきたいところですが、カツラの感じとか非常にお上手に描いていらっしゃいます。ちゃんと前頭部が剃れている形になっています。浪人はここがボサボサになってます。浪人していない武士はちゃんとここがツルツルになっている、そこも大変上手にお描きになれていて、素晴らしいと思いました。

こちらはとても楽しい、キャラクターとしても可愛い感じで、いっぱい描いて下さっています。お姫様の特徴は吹輪(ふきわ)というカツラに付けるものですが、その特徴がよく出ています。こちらは虚無僧(こむそう)ですね。籠のような笠(天蓋)をかぶって、尺八を吹いている。虚無僧はスパイが多いと言われていました。要は、顔を隠してあちこち歩くので、諜報活動がしやすい、まあ浪人くずれがやる、武士の一バージョンですね。こちらは旅回りのお供の侍という感じですね、笠もかぶって。言うことないぐらい。

こちらは、とっておき。「省略の美学」とでもいう感じでしょうか。雰囲気はつかめているんだけれども、細かいところはわからない。でも、こんな感じだったという、その気持ちがビンビン伝わってくるような作品です。あえて作品と呼ばせていただきます。この武士はたぶん私が思うに、浪人? でも、裃を着けているから浪人ではない。きっとちょっと年を取った、「重役クラス」みたいな感じでしょうか。キャラクターにしたいようないい作品だと思います。講評するわけではないですし、お勉強ではありませんので、気楽に見ていただければと思います。

では、私の絵で僭越でございますが、正解をお見せします。大きな特徴――武士はこの「さかやき」というツルツルのところ。これを剃っているのは浪人ではない。裃、これはサラリーマンでいえば、スーツにネクタイという感じです。描いたのは斎藤実盛という人ですが、裃が上と下でお揃いです。これが正式です。よく「忠臣蔵」の進物場と言いますが、加古川本蔵という人が出てきますけれども、彼は色が違う裃なんですね。つまり、この上と下が違うかみしも、違う柄の場合があります。それは非公式という意味を持っています。サラリーマンの方でも、たとえば取引先に行く時は上下お揃いのスーツになるような感じなんですけれど、もし上と下が違う(継裃といいます)色柄だと、非公式の立場だと思って下さい。加古川本蔵はこっそり主君の桃井若狭助(もものいわかさのすけ)のために賄賂を渡しに来ます。非公式で渡しているので、継裃になっています。

髪型もいろいろありますが、うなじを見て下さい。武士の場合は髱(たぼ)がまっすぐです。町人の場合はちょっと膨らんでいる形になります。髷(まげ)の形もいろいろありますが、よく志村けんさんのコントで、棒茶筅(ぼうちゃせん)という髷が出て来ます。茶道の茶筅のような形をしているので棒茶筅といいますが、この髷をしている人は殿様です。歌舞伎のお話がなにもわからなくても、パッと見でキャラクターはけっこうわかります。簡単ですので、ぜひ覚えて帰って下さいね。

先ほど紹介したお姫様は時代物のお姫様です。時代物というのは、江戸時代の人にとっての武家社会の事件、世話物は江戸時代の人にとっての現代劇です。時代物はとても様式的、世話物はテレビの時代劇のような感じで、写実的で、言葉遣いも現代に近いものです。出自で分けると、義太夫狂言と純歌舞伎狂言があり、歌舞伎のお話は30%ぐらいが人形浄瑠璃の世界を歌舞伎的にアレンジした義太夫狂言です。

人は見た目でわかる

人は見た目でわかります。少なくとも歌舞伎の場合は。男性の役をざっくり分けますと、実事(じつごと)、和事(わごと)、荒事(あらごと)があります。みなさんがイメージする歌舞伎は、荒事が多いのではないかと思います。隈取りをつけて派手なポーズをする、誇張的な演技、主人公は正義のスーパーマン。

第2回の「忠臣蔵」の講座を聞かれた方は、大星由良之助についてのお話を吉坊さんの落語でお勉強になったと思いますけれど、実事というのは比較的リアルな、現実感のある人物です。

歌舞伎独特のキャラクターとして、和事というのがあります。これは優美で柔和で写実的なキャラです。歌舞伎における和事はとてもおもしろいキャラで、衣装も特徴があります。そもそも和事のルーツは関西ダメンズの愛嬌です。今でもそうですよね、お笑いの人は関西の出身の人が多い。特徴として、お話が上手で、愛嬌があって、ウケを狙う。この三点セットは江戸時代からそうでした。こちらの伊左衛門は、大店の若旦那が落ちぶれて、好きな遊女のところに大晦日、会いに行くというお話ですね。寒空に震えて、お話といってもお話らしいお話はなく、ただ好きな遊女に会いに行って、遊郭ですねたり怒ったり、ただそれだけを見せるお芝居です。でも、それで成り立つんですね。すねて怒ってみせてが可愛らしくて、大店の若旦那の愛嬌もこぼれんばかり。もちろん品もあります。ちょっと優美な、柔らか味のある演技です。女性的と言ってもいいかもしれません。この和事というのは、覚えて下さって損はないキャラクターです。歌舞伎でとても重要な役目を果たす役柄です。和事がないと、歌舞伎は深みがなくなると私自身は思っています。

ちなみに、この衣装を見て下さると、文字になっています。どういうことかというと、貧乏になってしまって着物が買えない。で、紙衣(かみこ)、紙の衣装を着ている。落ちぶれて、遊女からの手紙を継ぎ接ぎした着物という、かなり力技の設定になっております。よく見ると、「恋しく」とか、いろんなことを書いてあるんですね。でも、歌舞伎の衣装ですから、文字も金糸、銀糸で縫い取られて、これはもう貧乏の美化と思って下さい。歌舞伎は貧乏を美化します。

先ほど、和事のお話をしました。これは「助六」という有名なお芝居です。助六は江戸一番のイケメンで、吉原に揚巻(あげまき)という花魁の恋人がいて、そこに通っていくんですね。助六は元気いっぱい、かなり乱暴なんだけれども、カッコよくて遊女たちにも大人気というキャラでございます。もうケンカ上等なキャラです。これは紋つきという着物です。武士の制服のようなものです。これは裃は着けていませんけれども、着付けといって下に着る着物に紋が付いているということは、たとえば「ほぼ日の社員だよ」とか、所属を表しています。武家には支給されるわけです。その紋つきを着崩してしまっています。本来、堅いはずの紋つきをカッコよく着ている、ただならぬキャラクターということです。こんな助六ですが、和事になる瞬間があります。あんまり助六が喧嘩をするので、お母さんが心配して、助六に紙衣を着せます。紙の着物に変化する場面があります。登場する「髭の意休」という人物は、助六のつけ狙う仇というか、助六の欲しいものを持っているお大尽です。「こいつが持っている」というので、飛びかかろうとする場面です。ただ、紙衣を着ているので、飛びかかろうとしても破れてしまう。揚巻にも「ちょっと抑えて、抑えて」と言われている場面です。しかも、この意休に意見をされていますので、じっと耐え忍ぶ場面があります。ちょうど今月(2018 年10月)、「助六」が歌舞伎座でかかっています。実は「助六」は、江戸の芝居っぽいのですが、もともと上方のキャラクターでした。ですので、和事の雰囲気が少し入っているんですね。それは着物からもわかります。

まとめます。紫の衣装は小公子、小公女。それが、世間の荒波に揉まれている。つまり、紫の衣装を着ている人のお話は、難しい言葉で貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)といいます。本来の身分を離れて、ある理由のために身分をやつして貧乏になって、世間の荒波に揉まれている。これも和事から来た演技様式ですね。女性もいますよ。この方は、遊郭の秘書をやっていた人ですが、落ちぶれて紙衣を着ています。遊郭で遊女の代筆をやっていたので、ちゃんと恋文を継いだ着物を着ています。ある意味、「仮名手本忠臣蔵」七段目の大星由良之助も貴種流離譚だといえます。七段目では由良之助は紫の衣装を着ます。自分の目的を隠して、身分をちょっと抑えて、敵に気付かれないように遊び暮らしているわけですから、キャラを変えているということで、そういう意味でも、私はこの紫の衣装は理由があることではないかなと思っています。

先ほどの、意休に飛びかかる助六と揚巻。スライドは、後半で講演をして下さる福田さんの写真の揚巻です。揚巻は衣装が何度か変わりますが、最後のほうの豪華な衣装。福田さんが玉三郎の素敵な瞬間を捉えていらっしゃいますが、この衣装は、揚巻役者が日本画家に依頼することになっています。つまり手描きの日本画を、しかけ(打掛)に仕立てたものなのです。歌舞伎の衣装は基本的にみんな本物を使います。化繊を使ったりしません。絹か木綿です。絹に日本画家が描いた贅沢なものです。ちょっと前ですと、たとえば中村雀右衛門さんが襲名された時に着ていらっしゃった衣装が、たしか片岡球子さんが描かれた揚巻の衣装でした。先代の雀右衛門さん、つまりお父様が着られたものを雀右衛門さんが引き継いで、片岡球子さん作の衣装を着ていらっしゃいました。

花魁の話が出たところで、花魁も東と西で違います。ざっくり申し上げて、東はモード系、西はガーリーな感じ。頭の飾りもちょっと違うのがわかりますか? 何となく西のほうが、丸みがあったり、ぶら下がってる飾りがあったり、衣装もどことなくちょっとこてっとした感じですね。こちらは、江戸前のモチーフの鯉だったり、きりりとした感じです。帯の結び方も、これは「あんこ結び」というのですが、リボン結びのような形です。西の傾城(花魁の異称)はこういう結び方をしている人が多いですね。西から来たことを意味します。

荒事と和事の話を最初にいたしました。「寿曾我対面(ことぶきそがのたいめん)」という演目に「曾我の仇討ち」という有名な伝説がありますが、富士の裾野で曾我兄弟、五郎と十郎が仇を討ったという伝説があります。歌舞伎では、この曾我五郎、曾我十郎というのは、定番のキャラクターです。定番なのですけれども、もともとは仇討ちをする話から、いろんなところに散らばりまして、歌舞伎では、実は助六は曾我五郎ということになっています。設定を借りているだけなので、富士の裾野に行って仇討ちをするわけではないのですが、そのキャラの根本的なお約束として、五郎は必ず荒事で演じ、十郎は必ず和事で演じる。そして、兄弟を入れ替えることはできない。必ず仇を討つ。これだけお約束があります。

歌舞伎に付き物の、「実は」というのは、キャラの二重設定というか、昔の人は曾我兄弟と言ったら、パッとイメージできたんですね。「ああ、あの仇を討った兄弟ね」と。そういう前提としての知識がありますので、「実は、あの助六は曾我五郎だ」と言われると、「そうか、じゃ、仇を持ってるのね。荒っぽいのね」と、すんなり入っていけたのです、江戸の人は。なので、助六に登場するお兄さんは、助六では白酒売という役名で出て来ますが、実は曾我十郎ということになっています。和事で演じますので、対照的に、十郎はやさしくヤワヤワとした演技をすることになっています。覚えておかれると便利です。この「対面」がいちばん曾我兄弟伝説をそのまま踏襲しているのですが、お揃いのような衣装です。赤の着つけに水色の上下、裃。同じような着つけでも、たとえば十郎は襟を思い切り抜いて、女性的な着つけになってます。五郎のほうは隈取りをして荒々しい感じになっています。

歌舞伎における「色」の意味

歌舞伎は色そのものにも意味があります。色そのものが意味を持っています。歌舞伎において、「何となく」というのはありません。「お姫様、赤ばっかりじゃつまらないから、今回は黄色にしてみよう」はありません。だいたいの設定は色でも形でも決まっていますね。

また曾我五郎です。「矢の根」という歌舞伎十八番の演目です。赤い衣装で出て来ます。女性のほうも、こちらはお姫様。「三姫」といって、至難といわれるお姫様の役のうちの一つ、八重垣姫です。こういう姫の役を赤姫といいます。二人に共通するのはとても若いこと。そして、情熱、エネルギーです。ちなみに、この八重垣姫には婚約者がいます。肖像画が存在しておりまして、親が昔々に決めた婚約者です。でも、その婚約者は死んだことになっている。そこに肖像画そっくりの人が現れます。喜んで、「今すぐここで私と懇ろになって」と直接的なアプローチをします。最終的には親も捨てて、情熱の赴くまま恋人の元に走る。だいたい赤姫というのはそういうキャラクターが多い。深窓のお嬢様ではありますが、おとなしく過ごしてはいない。好きな男のためだったら、「たとえ火の中、水の中」という、アグレッシブで激しい役が多いです。赤はそういう激しさや情熱を象徴する色だと思います。

緑もアイコンとして使います。緑は田舎か、三枚目の色と、歌舞伎では決まっています。上等な「三姫」がたまには緑……というのは、あり得ません。たとえば、九月に「俊寛」が掛かりました。そこに出てくる千鳥という海女さん。鬼界ヶ島という絶海の孤島で海女をしている若い女の子です。ここに俊寛という、クーデターに敗れた元僧侶が流されてくるのですが、その俊寛の仲間と仲良くなる海女の千鳥ちゃんです。着物の柄にご注目下さい。蛸足といいまして、蛸の足を文様化したものです。緑の着物を着て、蛸足の柄。これだけで、何の前知識はなくとも、「あ、この子は田舎で海の仕事をしているのね」とわかるはずです。

こちらは白い丸紋です。石持(こくもち)といって、具体的な紋がここに付いているわけではありません。これは「無名」を表します。石持の紋の人は何か理由があって潜伏しているか、本当の庶民、どちらかですね。

こちらは「伊勢音頭」というお芝居です。この貢さんとお紺さん、相思相愛です。お紺さんは遊女です。貢さんは今風に言うと、旅行のツアコンをお仕事にしている、伊勢神宮の半分武士という、ちょっと説明するのもややこしい、武士のような町人のようなイケメンと思って下さい。二人は懇ろ。遊郭では、お鹿さんという人が貢さんに惚れています。お鹿さんはいい役なんですけど、ちょっと三枚目の可哀想な扱いをされます。なので、スッキリしたお紺の藍色の着物に比べて、お鹿さんはちょっと三枚目ですので、緑の着物になっています。

黒は大人の色気、権威。そして、ちょっと危ない感じも表します。「忠臣蔵」の斧定九郎。お軽のお父さんを闇討ちで殺した人です。実はこれも紋つきです。でも、浪人していて、ちょっとグダグダになっています。助六も紋つきでしたが、助六はすごくきれいな紋つきです。でも、定九郎は山賊になり果てています。芝居でよく見ると、黒の色味も違います。衣装さんに聞きますと、一回、暗い赤色で染めて、そのうえでもう一回黒で染める。すると、照明が当たった時に、茶色のような、褪せたような、微妙な色合いになるそうです。これはたしか縮緬という素材だったと思います。羽二重とか縮緬とか、絹にもいろんな素材がありますが、素材の特性を生かして、縮緬のほうが雨に濡れた感じを出しやすい。衣装さんも細かいところまで作られています。

「忠臣蔵」の大序、高師直(こうのもろのう)、セクハラおやじですね。顔世(かおよ)をくどいているところです。この衣装は大紋といって、大きな紋があります。武家の最上級の礼服です。「忠臣蔵」でも、この長裃(とても長い袴)と、大きな紋の付いた上の衣装、これはいうならば、内閣が新しく組閣された時に新閣僚が着るモーニングのようなもの。武家の第一礼装です。浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)=塩冶判官(えんやはんがん)と、桃井若狭之助(もものいわかさのすけ)と高師直の三人が、大紋を着ています。ただ、師直だけ素材が違います。麻です。そのほうが権柄ずく、ごわっとした強い感じが出ますね。衣装は色そのものに意味がありますけれど、素材を選ぶことによって、よりキャラクターを引き立てるようになっています。

水浅葱(みずあさぎ)、水色、緑がかった水色です。水浅葱は清々しさ、若さ、はかなさの象徴です。「忠臣蔵」の大序の場面ですが、鶴岡八幡宮の石段の上に若きVIPの足利直義がいます。ここに師直がいます。ここに後で師直に斬りつける塩冶判官。そして、塩冶判官と同僚、同じ立場の大名の桃井若狭之助がいます。大序は、実はいじめられるのは塩冶判官ではなくて、若狭之助です。師直が若狭之助のことが気に入らないんですね。若狭之助は正義感溢れ、言っていることは正しい。そして、師直を恐れずに、直接いろいろ言ってしまうので、最初は若狭之助のほうが師直に憎まれてしまいます。水色は、ちょっと悲劇的な色でもあります。六段目の早野勘平は、途中でこの水色の紋服に着替えて、この後、切腹します。はかなさを象徴する色なのですが、なぜか、ここで若狭之助が水色を着ています。斬りつけて切腹するのは塩冶判官なのに。でも、師直と判官は、ここでは関係は良好です。大序では、判官は若狭之助と師直の一触即発の事態を止めるような役割です。なので、卵色。中立、バランスの色です。色目としても、黒、水色、黄色、普通に見てもきれいですが、卵色は穏やかな中立、バランスを取る色です。なので、これはある意味、もしかしてフェイントかもしれませんね。いかにも若狭之助が悲劇の主人公に見せかけて、本当は塩冶判官のほうが切腹してしまったという事実。若狭之助が色でフェイントをかけているというふうにも取れますね。

塩冶判官の卵色は、歌舞伎においては、いろいろうまく使われています。たとえば、助六の足袋を見て下さい。きれいな卵色です。私は絵を描きますが、たとえば傘を描いて、紫の鉢巻を描いて、黒の着物を描いて、赤の下着を描きます。でも、この卵色がないと、どうにもこうにも間が抜けてしまうんです。面積としては本当に狭いんですけど、「これはバランスを取っているな」と、こういうことは歌舞伎ではよくあります。ああでもない、こうでもないと、いろんな人が極限まで考えて、やっぱり助六の足袋は卵色だよね、というふうに決まったのかなと思っています。

素材が語ること

色もそうですが、素材からも立場がわかります。VIPな武家なのか、庶民なのか。VIPな武家は、着物も帯も基本的に織物です。庶民は基本的に染物です。どんなに派手な配色でも、染物と決まっています。例外はあります。立場がいちばんわかりやすいのが、衿です。黒繻子というつやつやした織物というか、布の名前ですね。衿の汚れを避けるために、黒い繻子の衿を掛ける。これは庶民です。武家は掛けません。こちらの帯を見て下さい。長く垂らした帯ですが、両端にやはり黒繻子が掛かっています。この衿と帯の黒繻子、もう鉄板で庶民です。

お姫様の帯は、きれいな織帯です。この二人は恋のライバルで、求女(もとめ)さんというVIPな武家を争っているという場面で、とても対照的な立場にある。それを見かけでも表現できるようになっていますね。

ちなみに、VIPな武家はきれいな着物を着ます。若くてイケメンの男性は、露芝という柄の刺繍などの入ったきれいな着物を着ます。露芝にも意味があります。露芝は芝です。下草に露が降りた柄です。露芝の衣装は、草深い田舎に潜入していることを示します。求女さんは、蘇我入鹿を追悼するために、身分を隠して、吉野の田舎に潜入しているという設定ですので、露芝を着ています。

帯結びからもキャラはわかります。基本的に、町人は角出し結びという、下のほうが膨れたお太鼓です。よく浴衣で若いお嬢さんが締めている文庫結び。これは武家女房です。武家の若い娘だと、舞妓さんみたいに長く垂らした帯結びになりますね。腰元は立て矢の字という、リボン結びを斜めに傾けたような帯結びが決まりです。このリボンの向きなんですけど、屋敷内では右肩に掛けます。ですが、旅をしている時、外出時は、左肩に掛けるんですね。これは実は大きな理由があります。外出すると、いつ敵が襲ってくるかわかりません。腰元というのは武家に仕えますから、懐剣を携えています。お守りみたいなものです。万が一、敵が襲ってきた時に、この右肩に帯の羽根があると、だいたいの人は右利きですから、懐剣を振るうのに邪魔になります。なので、外出する時は、左肩に掛けるということになっています。ですので、羽根を左肩に背負った腰元がお芝居に出て来たら、「この人は外出中なのね」と思って下さればいいと思います。

これは、しごきといいます。ウコン色といって、黄色のしごき、長いリボンのような布きれです。腰の下に縛っていますが、これ、実は裾をからげている形を美化したものです。でも、裾を引いています。ここが歌舞伎の美学です。こういうウコン色のしごきをしている人が出て来たら、旅の途中なんだなと思って下さいね。

余談ですけれど、今日は、角出し結びをしてまいりました。お太鼓の下のほうが膨らんでますね。これが角出し結びです。これをしている人は、庶民です。お嬢さんよりも、女房とか大人の女性が多いですね。基本的に、庶民の着物は染物といいますが、例外が一つあります。私が着てるこれ、黄八丈という着物ですけれども、よく時代劇で、これに黒衿を掛けた若い娘が登場すると思います。これは、江戸時代に流行った織物です。染物ではなくて、織物です。例外ですね。東京都に八丈島という島がありますが、そこの特産品です。歌舞伎でも、たとえば「髪結新三(かみゆいしんざ)」とかによくこれが登場しますが、町民でもちょっと裕福なところのお嬢さんが着るものと、相場が決まっています。裕福なお嬢さんです。

こちらは、田舎と都会の娘の比較です。帯の長さ、帯の短さ、あと、袂(たもと)の長さ、短さで、立場の違いを表しています。「お光ちゃん」は働き者の女の子。「お染さん」は裕福な商家のお嬢様です。物腰、セリフの言い方も、まったく2人の対比が際立っています。そして、ここに注目。手拭いを折り畳んで帯に挟んでいます。こういう格好をしているのは、「働いています」というサインですね。お嬢様はこういうことはやりません。前掛けもして、チャッチャと働いているところです。都会の娘は、とくにこの「お染」は姫のミニチュア版とも言えます。「前挿し」というかんざしもお姫様に似ていますし、長い帯、袂もお姫様に似ています。演技もちょっと似たところがあります。

境遇で見た目も変わります。「桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)」というお芝居で、深窓のお姫様が忍んできた強盗に襲われて、その強盗に惚れてしまい、妊娠して家を飛び出すという、とんでもない話です。このお話がおもしろいのは、この深窓のお姫様がもう嬉々として堕落していくところ。玉三郎さんの持ち役でもありますね。最初は可愛いお姫様ファッションだったのですが、最終的にチンピラの権助に女郎宿に叩き売られます。見た目も激変しますが、言葉遣いも激変し、最初の可愛さはかけらもなくなっている。その変身の妙を見るという、とてもおもしろいお芝居です。衣装が表わすものとしては、たとえば半纏みたいなものを着ていますが、これは「吉原つなぎ」という柄です。ちょっといなせな感じの女性が羽織ったりしますね。でも、人間には段階があります。いきなりこうなったわけではありません。それをお見せします。これが彷徨ってる途中。お屋敷を飛び出て、どこにも行くところがなくて、隅田川のほとりを彷徨っているという設定です。でも、まだお姫様の「赤姫」の格好をしています。段階を踏んで堕落していくわけですが、うまくできているなといつも思うのが、この赤い振袖です。実際見ると、褪せたオレンジ色です。つまり、彷徨っているうちに衣装も色褪せて、だんだんボロボロになってきたことを表すために、わざと衣装は真っ赤ではなく、ちょっと褪せたようなオレンジ色になっています。そのあたりも衣装さんのご苦労というか、そういう決まりになっている、細かいところまで人の境遇を衣装一つで表わせるようになっているのが、歌舞伎のおもしろさだと思います。

ちなみに、赤姫の衣装がちらっと見えます。お姫様時代の着物の端切れを使ったパッチワーク状の着物です。お女郎さんなので、いい着物は着られません。なので、パッチワークなのですが、ちゃんとお姫様の名残りがあったり、衣装全体もとてもおもしろいものになっています。髪型も徐々に変わっていきます。私が観た時は、結った感じではなくて、下げ髪になっていて、ボロボロの傘をさしていましたけど、女郎に売られた段階では、なぜか若衆のような前髪が付いています。こういう前髪を付けた人は、勢いのある女性です。姉御肌と言いますか。髪型ひとつも境遇でどんどん変わっていくということです。最初はちゃんとお姫様のシケもありますし、かんざしもつけています。ちなみに、この「桜姫東文章」では、彷徨っている桜姫がボロボロの権助の家で、かんざしとか、いろんな飾り物を置いて、お手入れするというか、抜いて、次の段階に行くことを形で見せるような、そういうおもしろい場面もあります。

泣く子も黙る粋の権化!

昔の歌で、「お富さん」という歌をお聞きになった方もいらっしゃると思います。「粋な黒塀見越しの松に 仇な姿の洗い髪……」、つまり、お妾さんですね、この「死んだはずだよ、お富さん」。なぜ死んだはずかと言うと、お富と与三郎は、昔、相思相愛でした。ですが、お富さんは、木更津の親分のお妾さんだったんですね。与三郎は大きな商店のお坊ちゃまでしたが、ある理由で木更津に逗留していたわけです。その時にお富と知り合って、親分の目を盗んで仲良くなってしまう。怒った親分さんに切り刻まれて、海に投げ込まれる。で、3年経つと、二人とも境遇が変わってしまいました。お富は別の人のお妾さんになって、与三郎は身を持ち崩してしまいました。そういう与三郎がお富のいる妾宅にやって来た場面です。

江戸の粋を体現したような衣装だと思います。とくに、お富の縞柄をご覧ください。縞柄というのは、着物を平坦に置いた時は何の愛想もない単なる縞です。でも、人が着ると、人の体の曲線をこれだけ際立たせる柄はありません。縞についてのおもしろい考察があります。九鬼周造という戦前の哲学者ですけれども、〈粋な姿としては湯上りもある。お化粧はあっさりしたほうがいい〉とか、いろいろ書いていますけれども、〈縞柄は粋な柄。粋はすなわち男女間の意気地が美化されている、込められている〉といったようなことを書いています。細い縞柄というのも江戸時代に流行りました。遠目に見ると、一見無地なのですが、近くで縞だとわかる。それだけでも、親密な関係を思わせますし、縞というのは、触れそうで触れない、付きそうで付かない、永遠の平行線です。その永遠の平行線が男女の仲の機微を思わせる。これは吉原をはじめとする遊郭から出た美意識です。つまり好き好きと言って、すぐにイチャイチャして、すぐに為すことを為すというのは、粋ではないという美学が遊郭ではありました。縞柄はそんな男女の仲を指し示すようだと、九鬼周造はおもしろいことを書いていました。 

与三郎の着ているものは藍微塵(あいみじん)という着物です。細い縞か、格子柄と決まっているのですが、これも役者さんは良い着物をお召しになります。つまり、何てことないカジュアルな藍色の着物なんですけれども、近くで見ると、手の込んだ織物です。ただ、貧乏しておりますので、新しいものは買えない。で、褪せているような褪せていないような、とても微妙なよい着物を与三郎役者は着ることになっています。何年も何年も、その反物だけをお求めになって、いつか与三郎をする日のために、ずっと手元に置いているという役者さんもいらっしゃる。わざわざ織らせる人もいるらしいということですよね。この帯は三尺帯と言いまして、普通の男ものよりも短くて柔らかい帯です。角帯ってありますね。しっかりした絹の、ちゃんとした帯。この細くて短い三尺帯は二重に回りません。一重に締めるものですね。ですから、身を持ち崩した人とか、ヤクザ者が着ることになっています。衣装というものは役者さんの性根と言いますか、キャラをそれだけで表わさなくてはいけません。

もう一度、和事の忠兵衛の衣装をご覧下さい。先ほど、赤は若さ、黒は強さ、水色は清々しさやはかなさを表すと申し上げました。実は、近くでよく見ると、この縞柄は黒、赤、水色の組合せになっています。なぜかというと、役者さんによって、この忠兵衛をどう演じたいか、解釈が変わるからです。つまり、柔らかく色気のある忠兵衛にしたい人は、赤を太くします。近くに行かないとわからないぐらいの太さなんですけどね。強い忠兵衛にしたい人は、水色と黒を太目にします。忠兵衛の衣装は遠目から見るとブルーの縞に見えますが、よく見ると、その役者さんの役作りで違ってくるというお話です。

小物からでもいろんなことがわかります。お富の湯上り姿ですけれども、手拭いにご注目下さい。成田屋の市川團十郎さんのところの三筋格子(みすじごうし)という手拭いです。つまり与三郎は成田屋なんです。お富役者は、相手、与三郎役者の紋とか模様を身につけることになっていますね。与三郎が出て来なくても、これで相手が誰かわかるという、そういうことですね。

最後に、手拭いの柄でキャラもわかります。与三郎つながりでいきますと、蝙蝠安(こうもりやす)といって、与三郎に悪事を仕込んだ、やさぐれた無頼漢。黒衿がありますね。これ、女房の着物を着ているんです。ダレダレにして着ていますね。そのぐらい世の中からはずれた人です。この人も三尺帯を締めています。何てことない手拭いも、キャラクターによって使う模様が違います。これは山道というギザギザ模様、これが道で、このあとは雑木林のような景色を表した、こぼれ松葉の柄になります。蝙蝠安はこれをかぶることになっています。対する豆絞り、これは粋な柄、いなせな柄ということになっておりますので、お話は違っても、粋な人がかぶることになっています。掛け方も何種類もありますね。与三郎は顔に傷があるので、鼻かけという、ほっかむりみたいなかぶり方です。直次郎は別のお芝居のそば屋という場面に出て来る人ですが、おたずね者です。おそば屋さんに寄っておそばを食べているんですけれど、いつ追手がかかるかわからないので、顔を隠せるように、おそばを食べている時はこんなふうな掛け方をしますね。

最後に、役者さんは衣装も小物もとても大事にこだわっていらっしゃいますけども、小物も衣装も、役者さんの精神的サポートをします。これは、昔の浮世絵を私が描き写したもので、本物の豆絞りです。染物です。つまり、大量生産ではなく、一つひとつ職人さんが絞ったもので、特徴として、この点々模様のまわり、うっすらと水色なのがわかりますか? これは手で染めたものの証です。役者さんのお芝居をよく見ると、必ずこの本物が使われています。実はかなりお高いもので、東京に日本民藝館という素敵な博物館があるんですけれども、そこの売店でこれを売っているのを見かけました。2000円近くするものでした。これを作っていらっしゃるのは、名古屋の染め屋さん。そこ1軒だけと聞いております。戦後、廃れたそうですが、その製法を掘り起こして、復活させたらしいんです。ですから、お芝居をご覧になる時、もし前のほうのお席を取られた時は、ぜひ豆絞りの本物を使っていらっしゃるんだなと注目して下さい。

とりとめもない展開になってしまいましたが、以上で私の講座は終わります。

舞台写真を撮って55年

早野:後半、舞台写真家の福田さんです。2冊、玉三郎さんの写真集を出しておられます。今日はありがとうございます。よく歌舞伎座でお見かけするのですが、いまは歌舞伎座では何を撮っておられるのでしょうか。

福田:おもに歌舞伎座で販売している写真です。だから、役者が選んで捨てるやつ(笑)。ほんの少しいいのを選んで、あとは全部捨てる、そういう写真を撮っております。ウソじゃないです。9割以上は捨てます。

早野:歌舞伎座の1階の売店で売られている、あの写真ですよね。このお仕事をされて、もう五十何年?

福田:55年ぐらいになると思います。

早野:55年! では、まずは今のことをおうかがいするんですけど、たとえば初日からスタートして、何日間ぐらい写真を撮られるのですか。

福田:1カ所撮る場合はだいたい10日間ぐらいかかります。10日間ということは、主役、準主役を全員撮りますから、30人ぐらい。その人たちの「使える写真」を選ぶわけですから、選ばれなければ意味がないので、1週間から10日、間でちょっと休みますけども、劇場に通います。2劇場、3劇場になると、ひと月まるまる通うなんてことは昔はよくありました。

早野:歌舞伎座は昼の部と夜の部とありますよね。そうすると、一日、朝から夜までずっと写真を撮っておられるのですか?

福田:はい。たまにサボることはありますけど、どういう時サボるかというと、楽な芝居とか、楽な役者さんっていうのがいるんです。楽というのは、たとえば、先代の市川猿之助さん、あの人は誰が撮ってもきれいに撮れる。楽な芝居というのは、2人しか出ていなくて、2回ぐらい撮れば済んでしまう、そういうものもあります。1人につき数枚出せばいいので、撮影の後半になってくると、だいたい終わったものはそこのところで休んだり、その時間に写真を選んでみたりとか、そんなことをやっています。

早野:写真は、まずは福田さんご自身が選ばれて、それで、全部を役者さんに見てもらうのですか?

福田:まず自分で選ぶのに時間がかかります。下手をすると、1万枚ぐらいになることがあるんですよ、ひと月に。しかも、ただ見るんじゃなくて、ルーペで見たりするので、荒選りするだけで2日ぐらいかかったりして、それからさらにルーペで見て1日か2日かかったりします。選ぶのに時間がかかるものですから、この作業は写真を撮るより大変です。下手な写真を持っていくとね、役者がはっきり言うんですよ。「あんた、下手だね」って(笑)。

初めて買ったレンズが300ミリの超望遠

早野:そもそもいちばん最初に歌舞伎を撮ったのは、いつどこで誰をお撮りになったのが始まりですか。

福田:大学へ入るか入らないかの時だったと思うんですが、僕、映画が大好きで、チャンバラ映画のファン――僕らの時は、萬屋錦之介(中村錦之助)、東千代之介の時代でした。東映全盛の時代でしたので、しょっちゅう観て、錦之介はよく知ってました。錦之介一家のことも知っていて、叔父さんが中村勘三郎だっていうことを途中から知りました。昔、日産ダットサンクラブというのがありまして、市村家橘さん、今の家橘さんのお父さんの市村家橘さんが幹事みたいなのをやっていまして、歌舞伎座とか演舞場に日産ダットサンクラブの人たちが集まって芝居を観る会を開いていた。その時に初めて観て、撮ったのが、十七世勘三郎の「身替座禅(みがわりざぜん)」か、「高坏(たかつき)」、どちらかなんですよ。その2つを観たのがいちばん最初。

早野:おいくつのとき?

福田:16から18ぐらいの間だったんじゃないでしょうかね。

早野:その時はプロとして撮られたわけじゃないですよね。

福田:違います。その時は、「これが錦之介の叔父さんか。面白いなあ」と思いましたね。最初に観たのが「身替座禅」と「高坏」だったから、歌舞伎にうまくスッと入り込めたんですね。難しいやつを観ちゃったら、ダメだったかもしれない。

早野:なるほど。その最初の出会い、その時はどうしてカメラを持っておられたんですか。

福田:それはね、高校時代、映画が大好きだったものですから、友だちと一緒に映画研究会へ入ろうかと思ったんですよ。でも、友だちがどうしても写真部へ入りたいって言うんで、写真部へ入った。しょうがなくね。でも、僕どちらかというと凝り性なもんですから、凝りだしちゃって、最初に買ったカメラが一眼レフで、当時、安いカメラでも買えなかったぐらいの時なんですけど、その時にレンズはね、300ミリの超望遠を買ってしまいまして(笑)。

早野:ものすごいマニアックですよ、それは。

福田:歌舞伎座のいちばん後ろから見て、役者一人撮って、ちょっと余るかなぐらいのレンズだったものですから、舞台を撮るにはちょうどよかったんです。大川橋蔵とか踊りの会へよくゲスト出演していましてね、そういうのを観に行って、写真撮ったりしていたの始まりで、それが高じて、学校が日大の芸術学部の演劇科だったので、学校に入ってからは歌舞伎をよけい観るようになって、それで歌舞伎座へ通っているうちに、歌舞伎の研究会で「むらさき会」ってあったのご存知の方いらっしゃいますか。いらっしゃらないですね。もう55年前の話ですから。その会へ僕も入ったらば、一流の歌舞伎の役者全部、歌右衛門さんだけは見えなかったですが、勘三郎以下、全員の役者が来てくれて、毎回、細かく舞台の仕草とか、これはこういう意味があるとか、そういうことを同じ役者が何回も来てくれて、いろいろ話をしてくれたんです。でも、残念ながら、僕はその時はまだあんまり興味がなかった。ただ、その会の会長が、「福田さん、写真撮って下さいね」って言ったから、僕は写真を撮るためにだけ行っていて、その話を全部聞いてないんですよ。十三代目仁左衛門さんも歌舞伎ものすごく詳しくて、説明も素晴らしいんですが、何も残ってないんですよ。残っているのは、尾上梅幸さんが、藤間宗家、先々代の藤間勘十郎宗家が梅幸さんに「道成寺」を振付する時に、「あなたのお父さんの六代目菊五郎にはこういうふうな形で教えました。だけど、あなたと六代目は体型が違いますから、ちょっと体のひねり方と、足の出し具合を変えて振り付けますから」と言って、六代目のと自分の振付と両方教えてくれたんだ、と。だから、梅幸さんぐらいの時代の人は全部、六代目はどうやったかっていうことを知ってるんですよね。傍で見てもいたし、ヒマがあると、いちばん後ろの席で見て、盗んでいたわけですね。昔の人はみんなよく芝居を知っていたわけなんです。

早野:そのうちに、プロとして撮るようになるのは、いつ、どういうきっかけで?

福田:それはね、十一代目團十郎さんが踊りの会に出て、一度だけ素踊りの「助六」を踊ったんです。みなさん観たことがないと思いますけど、素踊りの「助六」なんですよ。それを踊った写真をたまたま撮影させてもらったんです。その後さっき言った「むらさき会」という歌舞伎研究会の会長に「歌舞伎の写真を撮りたいんだけど、お願いできますか」と頼んだら、その人は顔が広くて、中村富十郎さん、市川猿翁さん、澤村宗十郎さん、澤村田之助さんを紹介していただいて、演舞場で7月か8月頃、若手の奮闘公演をやっていて、そういう写真から撮り始めたんです。それで、團十郎さんとか、猿之助さんとか、富十郎さんの写真を撮ったのをスクラップにして持っていたんです。ある時、むらさき会へ勘三郎先生が来て下さって、その時に、僕らの大先輩の木村伊兵衛さんが出している六代目の素晴らしい写真集に出ている「喜撰(きせん)」の写真と、僕が撮影した勘三郎先生の「喜撰」の写真が、同じポーズなのに手の位置が違う。それで不思議に思って、「これ、僕が撮ったものなんですけど、六代目さんを木村先生がお撮りになったものと手の位置が違うんですけど、どうしてでしょうか」と聞いたんです。すると、「それはね、あなたのシャッターチャンスが悪いんだ」って。「ああ、そうか。知らないっていうことはこんなもんだな」と、その時つくづく思いました。それでこの時、中村屋さんは自分の写真をご覧になった後に、スクラップしてあったのを次々めくっていったら、さっき話した團十郎さんの写真が出て来たんです。しばらく見ていましてね、アップの、見たことのないちょっとおもしろい写真だったんですよ。それをずっと見ていて、「僕の写真も撮っていただけませんかね」って言われてビックリしました。十七代目ですからね。「エッ」と言ったんですけども、「まあ今度、楽屋へ来て下さい」って言うから、その時は「はい」って言って別れて、中村屋と親しい友だちがいまして、相談したんですよ。「あの中村屋からこう言われたけど、本当かな? どうしたらいいだろうな」って。友だちは「行ったほうがいいよ」って言うから、行ったんですよ。一週間ぐらいして。ちょうど「忠臣蔵」の勘平をやっていたんです。行って、「こんにちは、福田でございますが、写真を撮らせていただきに参りました」と言ったら、「あなた、どなたですか?」。あの人たち、いろんな人と会うから忘れちゃうんですよね(笑)。それで、「先生が撮りにいらっしゃいとおっしゃったので参りました」「あ、そうでしたね。じゃ、すぐ撮って下さい」って。それから撮り始めて、もうずっと毎月、出るたびに撮るようになったんです。そうしたら、本当に棚ぼたなんですけれど、猿之助(今の猿翁)さんの写真も撮っていたら、猿之助さんのファンが、その写真わけてくれというので、わけてあげたら、それを猿之助さんのところへ持っていっちゃったんですよ。

早野:スーパー歌舞伎を始めた猿翁さんですね。

福田:はい。その猿翁さんが、「ちょうどカメラマンを探していたところだから、よかったら僕の記録写真を撮って下さい」っていうことで、また撮るようになったんです。そんなことでトントン拍子に撮れるようになって、そのうちに国立劇場の人とも知り合って写真を撮らせてもらったり、歌舞伎座もだんだん出入りするようになって……。南座とか、日本全国いろんな劇場に行くようになりました。

早野:まだデジカメのない時代ですよね。バシャッと音のする一眼レフで。最初は白黒フィルムでしたか。

福田:いや、白黒も撮るんですけど、僕は最初からやはり歌舞伎はカラーじゃないかなと思ったので、高いフィルムを無理して買いました。プリントも今より高い1枚70円ですからね。それを考えると、ずい分高かったんですけど、無理して最初からずっとカラーです。

早野:劇場のなかで、あのバシャッて音をたてて撮るのは、なかなか大変なことでしたか。

福田:それが僕はイヤでイヤでしょうがなかった。お客さんもイヤだろうと思って、袋を作って、袋の前と後ろに穴をあけて、レンズと、目を覗くところを作って、それでやっていました。そうすると、ほとんど音がしなかったですね。でも気になって、今度は、コートなんかにするビロードの布を10枚、20枚重ねて、かぶって撮影しました。すごい重さです。10キロぐらいあったんじゃないですかね。

早野:暑いですよね。

福田:汗だくだくでした。それを一日中。とても重労働でした。

早野:重労働ですよね。ところで、お話に出ている十一代目の團十郎さんは、今の海老蔵のおじいさん。十七代目の勘三郎さんは今の勘九郎のおじいさんですよね。そういう時代ですよね。

福田:勘九郎の上に十八代目勘三郎がいて、十八代目の勘三郎の上に十七代目……おじいさんですね。

早野:そういう時代、坂東玉三郎さんの写真を撮るようになった最初の頃はどういう……。

福田:この写真を見ていただきましょう。普通の役者はだいたい正面から写真撮られるか、ちょっと斜めぐらいが標準なんですけど、玉三郎さんは斜め後ろを選んだんですよね。玉三郎さんのところに何度も出入りしてるうちに口をきいてくれるようになって、ある時、「福田さんね、あなた、狙ってるでしょう」って言うんです。「いいところを捉えようと思って狙ってるでしょう。だから、いい写真が撮れないのよ。何も狙わずに、自分の好き勝手に自由に撮ってごらんなさい」って言われたんですよ。その時、僕は「わかりました」って言ったはいいけれど、意味がわからない。「自分の好き勝手に撮れ」といっても、自分の好き勝手がいいものかと思ったんですが、この写真でわかったんです。玉三郎さんは後ろ姿もいいんだろうし、上からもいいのかな、横からもいいのかな、真後ろから撮っても……いろんなところから撮っていいのかなと思って、ためしに、「鷺娘」をやった時に、真後ろの写真を持っていったんです。傘をさして、真後ろで。そしたら、とても気に入ってくれました。でも、プロマイドとして売る写真ですから、「こんなもの売れるのかい?」って言うんですよね。「売れると思いますから、売らせてみて下さい」って言って、売ったら、けっこう売れました。それからは本当に日ごとに、今日は3通路、明日は4通路、明後日は3階、明々後日は1階、その次は裏から撮ってみたりとか、へばりついて、ずっと撮りました。

玉三郎さんの写真って、正直言ってOKが出ないんですよ。僕が最初に玉三郎さんに言われたように、みんな狙うから。みんな同じことを考えるんです。「玉三郎さんはここがきれいだから、ここを撮ろう」と思って撮るから、そういう写真はほとんどOKが出ないんです。ご本人も正面が好きなんですけども、ご本人の求めるものがなかなか撮れないんです。ところが、僕は「自由に撮れ」って言われて、自由に撮るようになってから、それまでひと月に3、4枚しかOKが出なかったのが、15枚ぐらい出るようになって、20〜30枚OKくれるようになって、ひと月に40〜50枚OKもらうようになったんです。自分で言うのもおかしいですが、他にそんなにもらった人はいないと思います。そんなに長く撮る人もいなかったですけどね。僕はヒマに飽かして撮っていましたから、それが実はよかったそうで、あとで玉三郎さんがブログかなんかで言ってるらしいんですけども、「福田というカメラマンがいるが、あいつは最初だけじゃなくて、真ん中も終わりのほうもよく見て撮ってくれているから」と。

早野:その一カ月のなかで、という意味ですね。

福田:そうです。「だから、彼の写真はいいんです」って言ってくれたそうです。僕、目が悪くてパソコンやってないもんですから、それを読んでないんですけど、そう褒めていただいたことで、たいへん嬉しいなと思います。ただ僕はね、最初、女形が嫌いだったんです。入口が中村勘三郎ですからね。

早野:勘三郎も女の役もしますよね。

福田:たまにやりましたけど、僕はどっちかというと、立役の動きのある写真を撮りたかった。だから最初は、立役ばっかり撮っていて女形には興味がなかったんだけど、玉三郎さんがある時にこう言ってくれたんです。「あんたの写真は動きがあるね」って。それで、初めて女形にも動きがあるんだということがわかった。女形の動きというのは、体は動かないけど、目が動いたり、首が動いたり、手が動いたり、そういうことを言ってるんだとわかったんです。だから、玉三郎さんの言葉がきっかけで、玉三郎さんを撮るのが苦痛じゃなくなったんです。いくら撮ってもいいものが撮れないと、結局苦痛になるんですけどね、それが、何も考えずに撮ってるわけです。「いいものも撮ろう」とか「これがいいだろう」とか「悪い」じゃなく、ただ撮る、ただひたすらに場所を変えて撮る。それで自分の押したい時にシャッターを押しているから、全然苦痛じゃないんですよ。玉三郎さんの存在は、ほんとうに助かりました。いくら撮ってもうまく撮れない人もいれば、逆に、簡単に撮れる人もいます。いろいろです。みんな苦しんで、「玉三郎をどうやって撮るの?」って聞くけれど、真似しても同じものが撮れるわけじゃないんですよね。みなさん撮れなくて、今でも苦労してるみたいですけども、僕はその点、精神的に楽をさせてもらって、幸せだったと思いますね。

早野:ちなみに、この転機となったお写真は「滝の白糸」というお芝居で、法廷の場面ですよね。

福田:はい、そうです。

早野:いつ頃お撮りになったんですか? 歌舞伎座で?

福田:歌舞伎座です。新派がかかった時で、海老蔵さん(十二代目の團十郎さん)の欣弥で「白糸」をやった時のものです。

早野:1981年の写真だそうです。

福田:初期の頃にこれが撮れたってことは、その後に玉三郎さんが撮れるようになったきっかけで、これがなかったら、僕はまだまだ気が付かなかったかもしれないですね。この人は後ろ姿でも斜めでもいいっていうことがわかったのは、大収穫でした。

早野:池袋で写真展をなさった時の作品のなかに、ものすごくいい瞬間の「鏡獅子」の写真がありました。あれは本当の意味で動きがある写真ですよね。

福田:あれは玉三郎さんがいちばん気に入ってる写真なんです。この前、(中村)七之助君って、うんと辛口で、まだ若いけど、自分にきびしいし、芸にもうんときびしい七之助君が、ある日僕に会った時に、「福田さん、玉三郎お兄さんの家に飾ってあった鏡獅子の写真、素晴らしいですね」って言ってくれたんですよ。嬉しかったですね。あの七之助が褒めてくれたと思ってね。やっぱり歌舞伎役者はわかるんですよ、若くても。先輩のやった上手い芸というのがね。飛び上がった時の毛の具合とかね。また玉三郎さんをいくら撮っても、同じもの撮れません。だから、本当に写真は一期一会ですね。

早野:写真集を2冊出しておられますが、その他に長く撮ってこられた役者さんはどなたですか。

福田:十七代目、十八代目の中村屋親子は、もうほんとうに最初から。それから今のひ孫まで、55年ぐらいずっと撮ってきました。あとは、猿翁さんもほぼ同時期から撮っています。亡くなってしまいましたけど、(中村)富十郎さん、(澤村)宗十郎さん。今舞台に出ていらっしゃらないけれども、(澤村)田之助さんも撮らせていただきました。あとはね、片岡仁左衛門さん。

早野:どちらの仁左衛門さん?

福田:今の仁左衛門さん。どういうわけか気に入っていただきましてね、昔から。

早野:孝夫の時代から。

福田:そうです。玉三郎さんと一緒に撮影していましたね。当時、T&Tなんていって、孝玉コンビって言われた時の写真は全部撮っていますね。いちばんいい時期に、歌右衛門さんから始まって、いちばん若手で(中村)勘九郎さん、それから、(中村)時蔵(当時、梅枝)さんとか、(坂東)八十助さんとか、光輝(みつてる)君(現・三代目中村又五郎)とか、そんな時代。(市川)壽海さんも(三代目市川)左団次さんも健在でした。ほとんどの役者さんは撮らせていただきましたですね。

早野:先ほどの辻さんのイラストにもあった桜姫の写真を撮っていらっしゃいます。孝玉の時代ですね。

福田:撮り始めて、やっとちょっと二人に慣れたかなっていうくらいの時なんですけど、二人はもう全盛期に入っていましたからね。いつも満員でした。

早野:そうやって、玉三郎さんなら玉三郎さん一人を何十年も撮っていくと、向こうも変わりますよね、役者さんも年齢を重ねてくると。その時間の経過を、どんな感じで見ておられるんでしょうか。

福田:僕は、あんまり今まで感じなかったんですけれど、役者が言います。女形の人だったら、「ああ、私もおばあちゃんになったわね」って。みなさん、自分でも年齢のことは感じているみたいです。

早野:いま歌舞伎座でお撮りになった写真を売られているわけですが、写真を撮られた役者さんが「これはいい写真だ」と思うのと、福田さんがいい写真だと思う、あるいは、お客さんがそれを買うか買わないかっていう、その関係というか、みんなの意見は一致しているものですか。

福田:全部バラバラです。自分がいいと思うのは役者に受け入れられなくて、役者がいいと思うのはお客さんが受け入れなくて……。三つ巴になってやってるんですけど、絶対おっつかないですね。だから僕は、最近は役者に合わせて、役者が気に入ってくれたものなら、それで満足しようということで、申し訳ないけどお客さんも無視して、僕は役者に合わせてます。

早野:2冊出されている写真集のうち、1冊目の『坂東玉三郎 舞台写真集』ですよね。こちらは玉三郎さんが気に入った写真を主にしたわけですね。

福田:1冊目は「僕が気に入った写真を選んだからね。だから、2冊目は福田さんらしい写真を選んであげる」と言って、選んでくれたのが2冊目の『坂東玉三郎 舞台』です。

早野:というわけで、2冊比べてみると、そういう違いがわかるのだそうです。

福田:正直言って、僕はいまだにわからない。撮ったものを選んでもらってるだけという感覚がありますしね。さっきから嬉しいとか言ってますけど、実を言うと、全然自信がありません。たとえば、玉三郎さんにしても、向こうがやってるものをただシャッター押してるだけですからね。時々玉三郎さんも言うんですよ。「写真なんてね、偶然だからね」って。たしかに偶然もあります。それに、「この写真は芸術的でいい」って、役者が自分で言うことがあるんですよ。けれど、それは残念ながら、僕の腕が芸術的なわけじゃなくて、役者が芸術的なんですよ。それを思うとね、全然自惚れられないんです。

ある時、僕が病気して、病気が治って、幸四郎(今の白鸚)さんのところへ3年ぶりぐらいで挨拶に行ったんですよ。「病気をしておりましたが、治りましたので、カムバックしますって挨拶に来ました」と言ったら、幸四郎さんが出て来てくれて、「あなた、どうしてたんですか。私は心配しましたよ。私はあなたの写真が大好きでね」って言ってくれたんです。その時、「ああ、幸四郎さん久しぶりだからお世辞言って、慰めてくれてるんでありがたいな。こういう人もいるんだな」なんて思って、それをある時、玉三郎さんに話したんです。そうしたら、玉三郎さんが、「あんたね、それは違うよ。高麗屋はね、そんなお世辞やウソの言える人間じゃないよ」って言うんですよ。たしかに言われてみると、そうなんです。幸四郎さんという人はお世辞なんか言う人じゃない。その時、じゃあ、ありがたくそのお言葉を頂戴しておくけども、やっぱり自惚れられなくてね、どうしても。自惚れようと思っても、どうしてもストッパーがかかってしまう。ダメだっていう写真のほうが圧倒的に多いんです。さっきも言ったように、90%以上はダメですからね。だから、「どうだ」なんていう気持ちにはなれないですね。自分の写真が「芸術的ですね」って言われても、「本当は違うよ」と言いたくなっちゃいますね。

玉三郎さんの写真集なんて見てると、たしかにいいんです。写真集を見ている時は、「ほう、すごい。わあ、よく撮ったな」って見て、見終わって、「よかったな」と思ってパタンと閉めた途端に、「ああ、違うんだ」って思っちゃう。そうして、またひと月撮影、それから写真選びが続くもんですから、見ているうちに、だんだんまた自信がなくなってくるから、一生自惚れられないで終わってしまうと思います。これは商売柄しょうがないんですけどね。

早野:先ほど、大病された時の話をされました。車椅子の生活になられて、それでも写真を今も撮り続けておられる。そこのところをもう少し差し支えない範囲でお話いただけますか。

福田:仕事がきつかったもんですからね、実は僕、夜はずっとお酒飲んでいまして、だいたい気が付くと朝なんです。そういう日が続いて、ヒマな時は昼間寝て、撮影する時は撮影して、夜中に写真選んで、ヒマができたら酒飲んでっていう、そんな生活をずっと送ってたら、糖尿病になっちゃいましてね。糖尿病も悪化しちゃいまして、ある時、歩けなくなっちゃったんです。医者へ行ったら、「これは糖尿病壊疽ですから、即、手術です」って言われて、翌々日に手術することになったんです。

ちょっと余談になるんですが、みなさん、十八代目(中村)勘三郎がハエの話を本に書いたのを読んだ方いらっしゃいますか。読んだことある方はご存知だと思うんですが、ちょっと説明しますと、十七代目が生前によく言ったんだそうです、十八代目に対して。「俺が死んだら、俺はハエになってな、用事がある時はおまえのところへ来るぞ」。そう言って、亡くなっちゃったんですけれども、お通夜の晩のことなんですが、波野家の2階の稽古場に祭壇が飾ってあった。広いところです。まわりでは何をやってるかというと、本人が好きだった麻雀、花札、そんなものを歌舞伎、新派、映画、演劇の連中が何十人と集まって、卓を囲んだりしてやっていたんです。すると、祭壇のところでガタンと音がした。何かなと思って見たら、祭壇の写真がバタッと落ちたんです。すると、当時の勘九郎、十八代目勘三郎が、「あ、親父だ」って。何だ? と思ったら、ハエが飛んでるんですよ。お弟子さんが額を持ってると、その額の回りをハエがずっと飛んでるんです。十八代目が見て、「あ、親父がね、俺たちが麻雀やってるから、自分もやりたくて羨ましくて出て来たんだよ」なんて言いました。お通夜の晩にそんなことがあって、葬式も終わった後に、十八代目がテレビへ出演したら、その時、ブーンって大きいハエが飛んできた。「あ、親父だ」なんて、その時もそういうことがあって、その後、十八代目が「弁天小僧」を舞台でやって、僕は写真を撮っていたんですよ。すると、弁天小僧の眉間が黒いんですよ。おかしいなと思って、後で楽屋へ行ったら、「さっき親父が出て来て、俺の顔へたかってさ」なんて言って出て来たんですよ。つい最近も、劇場の案内の女の子が「勘三郎さんだ」って言うんですよ。歌舞伎座の上に四角いライトがついている、そこを飛んでるって言うんですよ。でも、僕、最近、目を悪くしてるから、全然わからないんですよ。「どこに、どこに」って言ってたら、蛍光灯の白いところへハエが歩いてきた。「そうだ、今日は勘九郎と七之助が歌舞伎座に出てるから、心配で見に来たんだな」なんて、その案内の女の子と話をしました。

そこで、さっきの話に戻って、入院した時の話なんですが、十七代目のハエが特別出演してくれたんです。どういうことかというと、これから手術で両足を切るという前に麻酔室へ入った時に、看護師さんが「あ、ハエよ、ハエよ」って言って、みんな「やぁねえ、ハエよ」なんて言ってるんですよ。それで、僕が「ちょっとみなさん待って下さい。これね、信じられないかもしれないけど、私の恩人がハエになって、私を励ましに来てくれてるとこですから、追っ払わないで下さい。殺さないで下さいね」って。看護師さんは、この人、これから手術するんで気がおかしくなったんじゃないかと思ったと思うんですけど、僕、何度も何度も十七代目のハエに会っているんです。

十七代目の話はそのくらいにして、僕が退院する、ちょうどその月でしたかね、外出許可が出てたもんだから、「じゃ、ちょっと家へ帰ってきます」って言って、地方の学校から勉強に来ている理学療法士を一人騙してね、「君、芝居好き?」って言ったら、「まあまあです」って、「じゃ、連れてってあげるよ」って言って、歌舞伎座へカメラを持って行って、2階のいちばん後ろの席から写真を撮ったんですよ。撮った写真、今でも残っています。旧歌舞伎座だから、傾斜がないんですよ。そうすると、撮ろうと思って、前の人の頭が邪魔で全然見えないんですね。こりゃダメだな、どうしようかなんて思いながら、病院への帰途についたわけなんですけど、「弱ったな、弱ったな」ばっかり考えていました。車椅子は裏から通らないと行けなかったので、楽屋口の方を通っていったら、僕の同級生の中村屋の番頭が出て来た。「おい、福田君、どうしてたんだい」なんて聞くので、事情を説明したら、「そうか。今、若旦那が出て来るから会っていきなよ」と言って、全然会うつもりはなかったんですけど、待っていたんです。旧歌舞伎座の楽屋口です。そこへ中村屋が出て来て、(今の)勘九郎君と七之助君も一緒にいたんですが、勘三郎さんが小走りで飛んできて、手を差し伸べて僕の手を握ってね、「目は見える? 手は動く?」。僕が「はい」って言ったら、「じゃあ、車椅子でも写真は撮れるじゃない。カメラマンでよかったね」って言ってくれたんですよ。その途端に、胸のつかえが取れて、ものすごく楽になりました。そのまま病院に帰ってからもいろいろ、ああしよう、こうしようって工夫して、写真がまた撮れるようになりました。お客さんの頭で見えなかったところも車椅子を高くするとか、いろんな工夫をして、今に至ったわけです。勘三郎さんのあの一言がなかったら、僕は今頃まだ、どうしようって、くよくよしていたかもしれないですね。勘九郎さんも子どもの頃から写真撮ってますからね、勘三郎さんもね、十八代目も撮ってますから、知り合っていくのもいいことだななんて思って、その時ほどありがたいと思ったことはなかったです。

早野:それは何年前でしょうかね。

福田:23年ぐらい前になりますかね。それから、この玉三郎さんの2冊めの写真集は、僕が手術して歩けなくなって、車椅子で撮った写真が全部。よく玉三郎さんも撮らせてくれたし、自分でもよく撮ったななんて、いつもこれを見ながら思います。まだ少し力が残ってるから、もうちょっとやってみたいなと思っています。

早野:今はデジタルのミラーレスのカメラをお使いになっていますね。撮影のスタイルは変わりましたか。

福田:そうですね、もうあの10キロの布はつけなくなりました。だから、すごく楽です。ただ、時々客席の中間ぐらいで撮ると、後ろの人にモニターの光が邪魔だって言われることがあるので、1枚ぐらい布をかけて、お客さんに光が届かないようにだけは注意しています。

早野:先ほど、「鏡獅子」の写真の話がでました。他に、写真集でぜひ見てほしい写真は?

福田:たとえば、「蜘蛛の拍子舞」で糸を投げてるところとか、ね、「アマテラス」の布を背負って走るところ。あれ、6メートル以上あるんです。布に厚さがありますから、ものすごい重さで、なかなかうまく平らにならないみたいなんです。だから、玉三郎さんが写真を見て、「これはすごくよく撮れてる」って喜んでくれたものです。なかなかあれは、獅子で毛を振った人とか、マントを着た人とかでないと、その難しさはわからないかと思いますけども。

早野:歌舞伎の写真を撮っておられる他の写真家のことって、気になることありますか。

福田:他のカメラマン、いっさい関係ないですね。というのは、まったく他のカメラマンと視点が違いますからね。だから、見ても、「あ、これ違うところ撮ってるな」で終わりです。だから、僕には生涯ライバルっていう人が一人もいない。尊敬する人はいます。たとえば、木村伊兵衛さんとか、篠山紀信さんとか、写真上手いですからね。木村伊兵衛さんなんて、何でもないところを写真にしちゃうんですよ。他の人では撮れないようなところを、簡単に写真に――まあ簡単ではないかもしれないけども、写真にしてしまうんですよね。それは見習わなければいけないなと思うけれど、いくら真似しても、誰が真似しても、写真はダメです。人の真似ができるものじゃない。篠山さんも同じです。何であの人だけこんな瞬間が撮れるの? と思いますね。それくらい、篠山さんの写真も独特の作風です。とてもかなわないです、そういう人には。引出しが違うんですよ。

早野:今後、玉三郎さんのように、とくにこの人の写真は長く撮っておきたいというような役者さんは誰ですか?

福田:やっぱりね、今、第一線の60代、70代の人ですね、ああいう人たちは撮っておかなきゃいけないなと思います。若手でも、最近だんだんみなさん、中間の先輩がいなくなったから頑張らなくちゃと頑張っていますので、そういった人たちも撮っていきたいんですが、昔は僕、毎月、何回かずつ同じ楽屋へ行ってましたから、みなさん顔見知りで話をしてましたけど、今は車椅子で楽屋へ行けないので、ほとんど話したことがないんです。だから、これからだんだん話をしながら近づいていって、写真を撮ろうかなと思っています。

たとえば、今の勘九郎君、七之助君は生まれた時から写真を撮っています。病院から撮ってるんですよ。それにひきかえ、今の勘太郎君と長三郎君は、僕はまだ言葉を交わしていないんです。やっぱり車椅子が邪魔して楽屋へも行けないし、なかなか会う機会もない。若い人とも会って話さなきゃいけないと常々思っているんですけど、なかなかそういう機会がないです。この間やっと、(坂東)巳之助さんとちょっと話して、(中村)隼人君、(中村)歌昇君とちょっと話をしてっていうところで、また明日からちょっと楽屋を回って、話をしてみようかななんて思っています。

早野:最初のほうで、昔の役者さんたちが「六代目はこうだった」とか、そういうのを引き継いで学んでいたという話をされましたけれど、舞台をご覧になって、いまの若い世代をどう見ておられます?

福田:若い人は気の毒だなと思います。というのは、いまいちばん上にいる方はやっぱり自分の得意な役が多くなってきますから、若い人たちはいろんな芝居を観ていないんですね。昔はいろんな小屋があって、観ようと思えばどこへでも行って観られた。たとえば、散切物(ざんぎりもの)なんかもやっていたのが、最近は皆無でしょう。

早野:なくなりました。

福田:そういうものは観られないし、芸者のところへ行って遊ぶのも減っています。たとえば芝居のなかでお座敷遊びが出て来ると、昔の人は知っていたんですね。だから、遊びが簡単に出て来るんですけども、いまの若い人は、こういう時は扇子をどう使うんだろうかとか、ジャンケンの仕方はどうするんだろうかとか、そういうものを全然知らないですよね。それが気の毒だなと思っています。

今日せっかくみなさんいらしたので、ひとつおもしろい話を。みなさんは、「菅原伝授手習鑑」の松王丸、梅王丸、桜丸は年齢いくつだと思いますか。

早野:まだ前髪がありますよね、桜丸は。

福田:「寺子屋」の時を見れば、だいたいわかるんです。

早野:十いくつ、10代ですよね。

福田:ブーッ(笑)。これは僕が卒論を書く時に、卒論を指導する先生に「おまえ、何をやる?」と言われて、「松王丸の型という題でやりたいと思います」と言ったら、先生が仲の良かった八代目三津五郎さんを紹介してくれたんです。松本亀松っていう先生なんですが、「松本先生に紹介を受けまして、卒論の指導をしていただきに参りました」と言うと、三津五郎さんが「そうか、わかった、いいよ」。まず第一声が「ところで、君、松王は何歳かわかるかね」って言うんです。いきなりですよ。歌舞伎は、他の人よりは知ってるといっても、まだ不勉強なので「わからないですね」って言ったら、「寺子屋にこういうセリフがあるだろう、『健気な八つや九つで、親に代わって恩送り……』」。「寺子屋」の、小太郎の年齢が八つか九つ。八つとして、松王丸、梅王丸、桜丸はもう元服したらすぐ結婚してるんですよ。16で元服してますから、16歳。それで、1年して子どもができて、「八つ」ってことは、結婚して9年経っている。16に9足すと25です。だから、松、梅、桜は、「寺子屋」があった時は、だいたい25歳前後ということです。

早野:ということで、時間いっぱいとなりました。どうぞ、みなさん拍手を。

受講生の感想

  • 衣装の素材や色に、こんなにもいろんな意味がこめられていたなんて、目からウロコが2枚も3枚も落ちました。

  • まさか記憶スケッチをすることになろうとは! 見ているようで、案外、記憶していないものですね!

  • 福田さんがお話されながら、言葉に詰まられたところが胸に響きました。まさに全人格的に歌舞伎俳優さんたちとつきあってこられたことが、実感を伴ってわかりました。

  • 舞台を写真におさめることは、役者さんの人生を切り取ること。福田さんのお話を聞いて、そう思いました。