Hayano歌舞伎ゼミ 
第4回 岡崎哲也さん

歌舞伎座の130年

岡崎哲也さんの

プロフィール

この講座について

江戸時代に歌舞伎が生まれて415年。そのうちの130年間を民間企業として支えてきた松竹株式会社。その歴史を、歌舞伎座で育ったといっても過言ではないご自身の足跡と重ねて、松竹常務取締役の岡崎哲也さんが楽しく語ってくださいました。歌舞伎の「生き字引」による高密度の講義です。

講義ノート

河野:「歌舞伎座130年」ということで、民間の会社が伝統芸能を支えて130年、山あり谷ありの歴史ですけれども、どういう人たちがそこに関わり、どういう役者さんがそこで活躍し、松竹という会社がどういう苦労をしたり、喜びを感じながら今日に至ったかを話していただこうと思います。簡単に岡崎さんのことを申し上げると、初めてお会いした時に、私は「この人は歌舞伎の絶対音感を持っている人だな」と思ったぐらい、歌舞伎の申し子のような方で、「いったい何歳なのか?」と思いました。明治の團菊左(九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次)の声色(こわいろ)を演じるという、ウソのような人ですけれども、語り部として願ってもいない方に今日はお話をしていただきます。岡崎さんのコレクションのなかから、お宝映像もお持ちいただきました。お楽しみいただきたいと思います。

早野:最初の講義の時にも申し上げましたが、歌舞伎は古典ですけれども、民間企業の事業としてそれがちゃんと続いている、ここが素晴らしいわけです。みなさんがお金を払って観に行くということが続いているから松竹株式会社は続いているわけで、そのあたりを、今日はたっぷりとうかがいたいと思います。私よりお若いのですが歌舞伎を観ている歴史はちょっと長い、そんな岡崎さんです。

岡崎:松竹の岡崎と申します。どうぞよろしくお願いいたします。3年前までは、歌舞伎座を中心に毎日必死の思いで芝居を作る「制作」という仕事をしておりましたが、3年半ほど前に、「もう30年もやったのだからいいだろう」ということで、今は管理部門におります。来月の狂言――狂言というのは演目のことですが――の配役を全部言ってみろといわれても、すぐ出て来ないぐらい現場から遠ざかっております。今日は思い出しながらしゃべりますので、お手やわらかにお願いします。今日の話は「歌舞伎座の130年」。130年、同じ場所に建っております。教授のお話にもありましたように、民間経営です。これはなかなか無いことでして、今、五代目の歌舞伎座ですけれど、相変わらず東銀座という駅の上にございます。なぜあそこに130年も民間事業者の経営する劇場があるのかということが本題ですが、あっちへそれたり、こっちへそれたりいたしますので、ゆっくりお楽しみいただきたいと思います。

その前に私の自己紹介を簡単に。本年57歳になりました。生まれは柳橋。台東区と中央区の境目でございまして、神田川にかかる橋が柳橋です。柳橋が神田川の終点で、隅田川と合流いたします。隅田川にかかっているのは両国橋。今はもう跡形もないくらい様子が変わってしまったんですが、柳橋というのは今の深川門前仲町にありました。深川の花柳界というものが江戸後期に柳橋に移って以来、20年ぐらい前までは、江戸でも古さでは一か二という花柳界があったところです。

今は新橋、赤坂、浅草、神楽坂、向島、他ございますけれど、赤坂は明治から、新橋もその前からということで、江戸の花柳界は元は深川なんですけれども、「辰巳芸者」という言葉がございます。これは気っ風がいい。富岡八幡様の近辺ですけど、子丑寅卯辰巳でいうと、江戸の真ん中から辰巳の方角、東南に当たるので辰巳芸者というんですが、その辰巳芸者は鼻っ柱が強い。旗本だろうが何だろうが、イヤなものはイヤだというような、そういう気風を受け継いでいる花柳界が全盛というか、私の生まれた頃、料亭は40軒、芸者衆が250人ぐらいおりました。

実は私の母が最後に幕を引いたのですが、まだまだ盛んな頃に、そんなところに生まれたものですから、記憶にあるのは、前回オリンピックが行われた昭和39年、正確に覚えているのは12月に、今の海老蔵さんのおじい様の十一代目市川團十郎様が――この方はその翌年に亡くなってしまうんですが、「大菩薩峠」というお芝居の机龍之介というのを通しでやりましたのを、10日ぐらい連れて行かれたのは覚えています。それから、今日まで毎月歌舞伎座へ、というか、歌舞伎のかかる劇場へ伺っております。

当然ながら、世の中へ出るまでは、お客として歌舞伎を観ておりました。はっきり申して、いちばん観ていたのは幼稚園の時代。朝、蔵前の幼稚園に行くのですが、お昼になると誰かが迎えに来て、地下鉄だかタクシーだかに乗っけて、歌舞伎座へ私を連れて行きますと、正面から入る日も多かったんですけど、半分ぐらいは楽屋口だか大道具の搬入口だか、つまり、切符を誰が買ったんだかわかりませんが連れて行かれまして、当時は、月に20日は歌舞伎座に……本当なんですよ。中村芝翫になられた橋之助さん、それから2018年9月に復帰しましたお兄さんの中村福助さんとは同い年で、お互い3つ4つから知っている幼なじみですけど、お二人のお母様、亡くなられた先代芝翫さんの奥様はそのことを克明にご記憶で、私はおとなしく芝居を観ていて、今の福助君は非常に元気だったと、会うたびにその話をなさいます。

監事室の仕事

ということで、大学を出てしばらくまではお客でいたんですけど、幸せなことに、昭和59年に松竹に拾っていただきました。演劇部へ配属していただきました。今は猿翁になられました、三代目の市川猿之助さんの時代――まだスーパー歌舞伎をなさる前で、復活通し狂言(江戸時代には流行っていたんですけど、明治この方忘れられたようなお芝居)を年に一作か二作、三十数作復活されているんですが、その制作チームの末席の末席に突っ込んでいただいて、お稽古相手や、稽古のスケジュール表の作成とか、いわゆる事務のお仕事をしておりました。それから、いきなり偉い俳優さんには直接お聞きはしませんけど、お弟子さんに、プロデューサーは相対で、「来月、あるいは再来月はこの役をお願いいたします」とお伝えする仕事があります。たとえば、腰元とか並びのお侍さんにも、俳優さんの序列通りヒエラルキーがありまして、「あの方が1だったら、私は2ね」と。でも、「あちらがいるから3なのかしら」というような、そういうことがあるので、そこを間違えずにお役をお願いします。たとえ小さな役でも、間違えて、3番目の人に2番目と言ってしまうと、「実は、あなたは3番目でした」と言うのは、たいへん難しいことで、3日ぐらいかかってようやく「わかった」と言っていただくこともございました。そんなトチリもしながら、1年目は見習いをいたしました。そして、2年目から、歌舞伎座の監事室という部屋におりました。監事室というのは2畳半の小さな部屋です。今の歌舞伎座にもございます。後にお話しますけど、大正14 年に第三期の歌舞伎座ができた時にできた部屋で、どういう部屋かというと、ガラスが張ってあって、電話があって、机があるだけの部屋。朝から晩まで芝居を観ているだけの部屋です。芝居を観ているだけというと、マネキンでも務まりそうですが、〝ナマモノ〟でございますので、舞台で粗相があった時にはすぐ電話で、大道具、照明はもちろんのこと、たとえばお客様がご気分が悪そうだとか、そんな連絡もします。いちばん大事なのは、俳優さんの演技について、こちらから拝見していて、「ちょっとあそこはいかがなものか」というようなことがあれば対処すること。その方々と腹を割ってお話ができればいちばんいいのですが、そこまでいくのは大変なことであります。これはつまり、松竹の社長、会長の名代として、後に話しますが、大谷竹次郎という弊社の創業者、この眼(まなこ)の代わりに、当時は二人、現在は三人勤務しております。

そのかわり、幕間(まくあい)、いわゆる休憩の時間以外に、私の若い頃は、たとえ5秒たりとも留守にして、その時に重役や社長が見えますと、「監事室が留守とはどういうことだ」と、きついお叱りを受けました。そこに、ありがたいことに5年半もおりまして、お芝居は子どもの時から好きでしたから、お給料をいただいて芝居を観るという、こんなに幸せな部屋はない。しかも、何かあってもなくても、俳優さんとは毎月、お打合せができる。昼間、楽屋でお打合せをするのも楽しいんですが、亡くなった中村勘三郎(勘九郎)さん、坂東三津五郎(八十助)さんの青年時代、まだ八月納涼歌舞伎も始まっていない頃、あのお二人とはとくに、毎晩のようにおつきあいさせていただきました。

当時、偉い俳優さんは、六世中村歌右衛門さん、十七代目中村勘三郎先生、勘三郎さんのお父様でございます。それから、尾上梅幸さん(今の菊五郎さんのお父様)と二代目尾上松緑さん(今の松緑さんのおじい様)、それから、上方では、中村鴈治郎さんは亡くなってましたけど、十三代目の片岡仁左衛門さん、今の仁左衛門さんのお父様。こういう方々が、綺羅星のごとくおいででした。そういう方々に毎月の舞台に関わるご説明とご相談に上がるのが仕事でございます。普段、口がきけないような方と、強い意志さえ持っていれば、毎日でも会える。非常に楽しい職場でございました。そんなところに5年半。それから、演劇部に戻りまして、いわゆるプロデューサーになりました。2014年まで、途中で部長になったり、役員になったりしたんですけど、来る日も来る日も、国内外の歌舞伎の舞台の制作を担当して、楽しい寿命の縮む思いをしておりました(笑)。3年半ほど前に、青天の霹靂とはこのことで、管理部門へ行ってくれというので、これで芝居と縁が切れるのかと思ったら、演劇部顧問もついているということで、人が足りない時だけ駆り出される、まことに幸せ者でございます。

私の師匠は、亡くなりました前会長の永山武臣と申しまして、松竹の創業者・大谷竹次郎に22年仕え、81歳で身罷るまで、戦後の歌舞伎を背負ってきた人です。この方がなさっていた株式会社歌舞伎座の非常勤取締役を、永山が亡くなった時に、なぜか私が拝命しまして以来、歌舞伎座という――新聞で株式欄をご覧になると、東証二部に小っちゃく「歌舞伎」という、何だと思いますよね。〇〇商事とか、〇〇信用金庫とかあるのに、「歌舞伎」ってね――歌舞伎座のことなんです。そこの役員もさせていただいておりますので、とにかく歌舞伎に関わることが毎日のように降りかかってくるという、幸せな人間でございます。

川崎哲男というペンネームもこしらえまして、吉右衛門さんに頼まれて、「藤戸」という脚本を書いたり、私なんかに頼んでもしょうがないと思うんですが、海老蔵さんに頼まれる「四人組」のなかに入れられて、毎年7月は演出をさせていただいたりしております。写真は、24歳のときの私です。こちらは、25歳。ピアニストのウラディミール・ホロヴィッツさんと。東京公演が終わった翌日に奥様といらっしゃいました。こういう方々をお迎えしたり、海外公演の事務局もしました。ローマ歌劇場が9月に「椿姫」と「マノン・レスコー」を持って来ましたけど、そこで歌舞伎をさせていただきました。海外公演で16、7度、事務局をさせていただき、幸せな時もあれば、地獄のような時もございます。舞台ができていないのに、明日が初日とか、いろんなことがあります。最近では、2015年の北京公演。ラスベガスのベラージオというホテルでは、市川染五郎(昨年襲名した幸四郎)さんにプロジェクションマッピングと歌舞伎を融合するという、たいへんおもしろい舞台を作っていただき、これは制作をいたしました。

五代目の歌舞伎座

本題の歌舞伎座ですが、歌舞伎座は過去四代、ただ今のが五代でございます。まず第一期歌舞伎座は、明治22年にできました。11月です。写真はその開場式の日の万国旗と日の丸が掛かっているところ。今とまったく同じ場所です。これは第二期、明治44年、丸の内に帝国劇場という白亜の殿堂、ギリシャ神殿様の素晴らしい洋風建築ができたので、対抗して、グッとジャパニーズ・トラディション。奈良の宮殿を模したような形になりました。外だけ変えて、中はそのままです。これが何と漏電で焼けちゃうんですよね、大正10年。それで建て直して、鉄筋コンクリートで建てていたら、関東大震災が来ちゃった。外身は大丈夫だったのに内部が全滅しまして、都合4年、間があいて、大正14年にできたのが第三期の歌舞伎座。これは昭和20年5月25日の空襲でやられました。やられたといっても、全部やられたわけじゃないんですが、焼夷弾が山ほど降ってきて、客席と天井が全滅で、外郭だけ残りました。それにつぎはぎをして建てたのが、昭和26年からついこの間までございました第四期の歌舞伎座。私が幼稚園から行った歌舞伎座です。この右側についているのは東別館と申しまして、昭和の終わりにつけ足しで作りました。そして平成25(2013)年に、私どもが初めて新建築をするために建物を壊しまして、建てた。初めて意志をもって壊した後に建てた歌舞伎座。それまではすべて、弊社の意志に関わりなく壊れたのでございます。

歌舞伎座の歴史

さて、なぜ歌舞伎座ができたかというお話です。明治20年4月、薩長新政府ができて20年。伊藤博文の盟友で、伊藤博文が暗殺された時に弔事を読んだ井上馨・内大臣のお屋敷が今の麻布鳥居坂にございます。三菱の財団が持っている国際文化会館。ここに井上馨さんのお屋敷があった。ここへ明治天皇、皇后をはじめとする貴賓来賓が4日間見えまして、天覧歌舞伎がありました。天皇陛下が初めて歌舞伎をご覧になった記念すべきことでして、江戸の昔からというか、それ以前から、能楽はお武家の式楽、お武家様のフォーマルな芸能ですから、庶民は観られない。歌舞伎は庶民にとって最大の娯楽ですから、お武家様だって観られるのですが、偉い方、いわゆる社会的な身分のある方は基本的には江戸時代の歌舞伎はご覧にならない。ご覧になる方もいますけれども、社会的地位は低かった。これを一挙に、当時の歌舞伎関係者と俳優が、末松謙澄(すえまつけんちょう)という伊藤博文の娘婿で芝居が好きな政治家を巻き込んで演劇改良運動というのをやりました。それには明治政府も、岩倉使節団をはじめ、外国へ行きますと、どこへ行っても立派な国立劇場や国立歌劇場がある。日本にも、中村座とか森田座とか、市村座とか、江戸からある劇場もいいけど、もっと大きくてゴージャスな国劇の殿堂を建てましょうというので、歌舞伎がそれまでは身分が低いが人気は最高だったのを、人気も最高だし社会的にも最高な国劇にしようというので造ったのが歌舞伎座です。

お見せしているのが、明治22年11月に新開場した第一期歌舞伎座の開場式の日の写真で、初代社長は福地桜痴(ふくちおうち)でございます。この人は毎日新聞の前身である東京日日新聞の主筆、ジャーナリストです。元々は官僚、幕臣です。頭のいい方で、明治の頃は福沢諭吉と福地桜痴で、「双福=2つの福」と言われるぐらいのインテリでした。実業家としても成功した方です。福沢諭吉は文化教育のほうで大いに名を売り、あまり生臭いほうへ近寄らなかったので、福沢先生とか福沢翁と言われますけど、福地はけっこう生臭いほう、実業のほうへ足を踏み入れたので、損もしたし、今では福沢諭吉ほど知られていませんが、明治時代は「ダブルの福」と言われた方です。池之端に大きなお屋敷があって、「池之端の御前様」と呼ばれた、気立てのいい江戸のお殿様系統の実業家でした。

もう一人、千葉勝五郎という、今日でいう、サラリーマンローン経営のような、もっと平たく言うと高利貸しをしていた方がいます。この〝千葉勝〟という人は相場で儲けるのがうまかったので、お金はうんと持っていました。この人が財務担当。福地さんは文筆もできますから文芸監督ということで、相座主(あいざぬし)。座主を二人で、相座主と申します。それで始まったんですが、千葉さんは儲からないのですぐ辞めちゃいました。以来、歌舞伎座は綱渡りの経済情勢のもと、日々興行を行う。いや、日々行ってない。年に半年は閉めているんですね。暑い8月、寒い2月はまずお客様は来ないとハナから決めています。もちろん冷暖房もないので開いておりません。それから、お客さんが入らない芝居は10日もすれば打ち上げておしまい。しょうがないから、当時全盛の浪花節――当時、浪曲がたいへん流行りましてね、桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)を出せとか、大阪から義太夫、文楽を呼んで、文楽特別演奏会をやれとか、綱渡り経営ですが、素晴らしい舞台を年に半年ぐらいやっていきました。開場式の写真だけ見ると、ずい分華やかな洋風に見えますが、飾り物を取っちゃうと、レトロな映画館みたいな感じでした。今と同じ場所です。

「團菊左」

当時、天下の名優は、九代目市川團十郎。この人は人気狂言「勧進帳」という歌舞伎十八番を制定した江戸後期の名優、七代目市川團十郎の大勢様のお子さんのうち、末のほうのお子さんです。お兄さんは八代目團十郎といいまして、第1回の時にお話が出ました『お富さん』の与三郎を初演した絶世の二枚目ですけど、非常にナイーブな方で、ある事情から大阪で自害してしまいます。お兄様が早く亡くなったので、この方が明治になって團十郎を継ぎました。團十郎さんも若い頃は親類へ養子に出されたり、苦労した方ですが、抜群の演技力と朗々たるセリフ、そして、時代を見る目があった。そして、当時の政財界、あるいは外国の貴賓来賓とも交わって、フランスの女優さんと歌舞伎座で芝居をしたこともございます。

歌舞伎には女優さんがいません。「今の世の中いかがなものか」とトンチンカンなことをおっしゃる方もいますが、この方は男の子がいなくて、2人お嬢さんがいて、「鏡獅子」という舞踊を初演しました明治26年の3月、歌舞伎座の時は、そのお嬢さんに「胡蝶」という役を踊らせるという、革命的な進取の気性に富んだ方でございます。

もちろん古典歌舞伎が最高ですけれど、團十郎は歴史劇のようなものと活歴(かつれき)=生きた歴史ですね、これをこしらえました。仮名垣魯文(かながきろぶん)というジャーナリストが名づけました。作ったものは素晴らしいのですけれど、文献と写真しか残っていません。活歴というのは、NHKの大河ドラマでやるような、歴史上のノンフィクション……フィクションがあっても、歴史上のその瞬間を切り取って舞台で再現する。生きた歴史じゃないといけないという、西洋から入ってきた文芸思潮に心が揺れ動いて、リアリスティックになり過ぎまして、いっさい三味線の合方(あいかた=BGM)が入らないとか、笛も入らない、無音で幕を開けるとか……。今なら不思議でも何でもないですよ、シーンとして緞帳がスーッとあがる。でも当時は、チョーンと柝(き)が入って、チョンチョンチョンチョン、チョーンっていうのが当たり前ですから。初めて観た人は、「これは歌舞伎なのだろうか」と。そのくらいレパートリーの広い方でございます。

写真は、その團十郎が明治28年に歌舞伎で演じた「暫」という歌舞伎十八番のひとつ。上演中にマグネシウムをパッパッと焚いて鹿島清兵衛という方が撮影をしたものです。今より3、4メーター舞台の幅は狭いと思いますけど、基本的には今とそう変わりません。もちろん客席は全部桟敷、枡でございます。それから、破風と申しまして、屋根が舞台の上にございます。あれはいつもあるんです。その下に格子はあったりなかったりですが、屋根は必ずございます。

この團十郎と相並ぶ名優が五代目尾上菊五郎、音羽屋。今の菊五郎さんのひいおじい様です。「暫」のような歌舞伎十八番を「荒事(あらごと)」と言いますけど、勇壮なドラマや時代物を主に文楽、人形浄瑠璃からいただいたものです。團十郎が、こうした義太夫が入る悲壮なドラマが得意だったのに対して、五代目菊五郎は、いなせな江戸っ子――江戸時代から明治に持ってきたような――を演じる名優でした。これは「髪結新三」というお芝居ですが、これが明治6年にできた新作だというのですから驚きますね。まったく江戸のままです。そして、もう1人、初代市川左團次という一代でスターダムにのし上がった方がおりました。この3人を、「團菊左」と呼んでおりまして、明治中期から後期の大名優でございます。

それでは、明治32年、團十郎が出ております「紅葉狩」という貴重な映画をご覧いただきましょう。歌舞伎座の裏の芝居茶屋で外に幕を張って撮った映画です。音は後からかぶせたものです。維茂(これもち)という殿様を五代目菊五郎、そして、鬼女が九代目團十郎です。

(*映像)

これは最古の歌舞伎の舞台フィルムです。特設ステージですけれども。

團十郎と菊五郎が明治36年、初代左団次は明治37年に亡くなります頃から、いわゆる巨星が三人いっぺんにいなくなったわけで、歌舞伎座の経営が難しくなりました。オペラで申しますと、マリア・カラスとデル・モナコがやめちゃって、ステファノもテバルディもやめちゃうような状態です。スーパースターが一挙に三人、東京からいなくなった。もちろん次世代も後でみんな巨匠になるのですが、お客様は厳しいもので、「もう團十郎さんが死んだら芝居は行かない」というようなことがありました。まして、明治20年代末の日清戦争、30年代の日露戦争で、世の中もインフレ・デフレの繰り返しで安定しない。

では、歌舞伎座は今まで誰が経営していたかというと、福地さんは途中で手を引きまして、当時は、慶應義塾大学を卒業した〝三田派〟の実業家たち、たとえば後に外務大臣として自民党の重鎮になった藤山愛一郎さんのお父様の藤山雷太さん(大日本製糖というさとうきびからお砂糖を作る会社で巨万の富を得た方です)とか、読売巨人軍の初代監督をした三宅監督のお父さんの三宅豹三さんとか、青年経営者がサイドビジネスとして、歌舞伎座の役員――東京では恰好がいいし、そこそこ株も配当が出れば、他で山ほどお金を儲けているわけですから――をやっていましたが、これが赤字、また赤字と2期続くと、3期目は売り損になって税務上まずいことになる。当然みなさん嫌気がさして、そろそろ株を売っちゃいたいというのが明治42〜3年ぐらいのことでした。そのなかで、帝国劇場が明治44年に丸の内にできましたので、これはいけないというので、いきなり和風にしたのが第二期の歌舞伎座です。写真左側に写っておりますのが、当時、中村芝翫から五代目中村歌右衛門を襲名した、大正から昭和戦前の最高の名優、女形の中村歌右衛門。この人は今の福助さん、芝翫さんのひいおじい様に当たるわけですが、たいへんな人気俳優で、あの天覧歌舞伎に20歳そこそこで出演しているというのですから、次世代のチャンピオンであることは間違いありませんでした。そして、この歌右衛門襲名をテコ入れに、いよいよ第2期歌舞伎座で巻き返しを、と思っておりました。これは興行的にはうまくいったのですが、ご重役方は実はこの興行直前の8月に株を売りに出したのです。

ただ一人、「なんで、そういうバカなことをするのよ」と怒ったのが、田村成義(たむらなりよし)。幕末の生まれで、大正までいらした方ですが、この方は、もともと小伝馬町の出身でした。江戸時代の牢屋敷があったところです。吉田松陰はあそこで斬首にされたわけですが、監獄には当然、錠前が要ります。その鍵を扱うお家の関わりの方でした。幕臣で、いわゆる牢役人になりました。明治になってから、頭がいい人だったので、法律の知識を活かして代言人、いわゆる弁護士になりました。そして、芝居がたいへん好きだったので、歌舞伎俳優さんの債務処理などに関わるうちに、九代目團十郎や五代目菊五郎からも「先生」、「旦那」と呼ばれるような存在になっておりました。従って、発言権のある有力な歌舞伎座の取締役だったのです。チャキチャキの江戸っ子でございますことをご記憶下さい。この田村成義に対して……その前に、当時のこの歌舞伎座、第一期、第二期の写真を。総檜造りで、全部、桟敷です。木造建築ですから、今あったら震度5強ぐらいで崩壊でしょうけども、素晴らしい建物ですよね。田村さんが必死に一人で頑張っていた第二期歌舞伎座でございます。

ちょうどそのしばらく前、まだ團十郎、菊五郎がおります時に、京都で松竹を創業したのは、双子の兄弟、兄が白井松次郎、弟が大谷竹次郎でございます。これは昭和初年の写真ですので、二人が40代の壮年期です。明治10年の京都の生まれですが、父親は大谷栄吉と書きまして、元々は花相撲、つまりチャリティ相撲興行の「おせんにキャラメル」=売店などの権利を持っていた、小屋のサービス営業を担当していた方です。この大谷栄吉さんが、京都にある劇場のサービス営業と、その劇場経営の一角の権利を買いましたところから、兄弟は4つ5つの時から芝居へ出入りするようになり、両親を手伝って、タバコを持たせたり、座布団を配ったりという仕事をするうちに、「お芝居はいいもんだな」と思って育ったのでしょう。

明治28年を創業の年としておりますが、実際二人は、明治20年から22、3年頃には、もう12、3歳で、お父さん、お母さんと一緒に売店営業の仕事をしていたわけです。そして、この二人に奇跡的なチャンスが訪れます。明治34年から35年にかけて、当時上方で最高の人気俳優だったのが、初代中村鴈治郎です。写真は、近松門左衛門が原作を書いた「心中天網島」「河庄」の紙屋治兵衞という二枚目のやさ男の役で、上方歌舞伎を代表する役です。この人は井伊大老が暗殺された1860年の生まれですから、明治になった時、8つ。従って、明治30数年ということは、40代の前半、役者として花形の盛りです。苦労した方で、大阪の扇屋という大きな遊郭の若旦那でございました。父親は三代目中村翫雀という、上方を中心に活躍した歌舞伎の名優でしたが、生後すぐ父は母を捨てまして、母や祖母の手で育てられたそうですが、明治になって遊郭廃止令が出て、生家は没落。少年時代は、母を養うために呉服を背負って、歩いて販売する日給月給のお仕事をしたこともあったようですが、ご縁あって、かつて贔屓にしていた實川延若という方から、「役者にならないか? いい男なんだから」と誘われて、俳優になりました。それから苦節十数年、上方では一か二という花形になり、壮年期を迎えておりましたけれど、出世するにつれて、彼を育ててくれた人々も年を取り、騙されたり、いろいろな目に遭い、もうちょっと若くてフレッシュで、ハートフルな人はいないかと思っていたら、先ほどの白井松次郎と会ったわけでございます。

白井、大谷と会って、鴈治郎はいっぺん松竹に経営を任せてみたい、となりまして、明治30年代半ばに提携をいたしました。その鴈治郎の「河庄」での肉声を、ちょっとお聴き下さい。

(*音声)

小春という恋人の遊女に会いに来るところ。外から家のなかを見て、侍に扮したお客と恋しい小春がいるのを見たところです。これが初代鴈治郎。現在の坂田藤十郎さんのおじいさんに当たる方です。昭和10年2月に病を得て76歳で亡くなりましたが、その日は号外が出たほどの名優です。この鴈治郎は松竹の白井、大谷兄弟、とくに白井松次郎と意気投合しまして、とにかく松竹とやってみようということで、京都で成功し、その勢いを買って大阪の道頓堀へ松竹が進出したのが明治40年代のことであります。

鴈治郎との提携で、わずか6年あまりの間に、松竹は京都と大阪のほとんどの劇場の所有権、あるいは興行権を手に入れ、名実ともに関西最高の興行店となったわけですが、そうなると、次は東京です。ここに、明治44年8月、すなわち五代目歌右衛門襲名披露を控え、あの宮殿風に改築をしようかという最中、しかも、ほとんどの青年実業家は株を売ってしまいという時期に、大谷竹次郎――白井が関西は守っておりますので、弟の大谷が東京担当ということで、すでに劇場を2つ買収しておりました。今はなぜか京橋税務署になっておりますが、新富座という劇場。これは江戸時代の江戸三座、森田座の後継です。それから、本郷の本郷座。インテリに受けたようで、大正年代までございました。

次はいよいよ歌舞伎座です。東京のジャーナリズムやお客さんは、「松竹は2つ買ったから、次はいよいよ歌舞伎座を狙うのではないか」という噂でもちきりでした。田村成義はいてもたってもいられません。しかし、「そんなに買いたいという人がいるなら、売っちゃったほうがいいんじゃないの? 田村君に言うと頑固で面倒くさいから、内緒で役員会やって、欠席裁判で売っちゃおう」ということで、三田派有志は株を売りました。東京証券取引所に、「売ります」という公告が出たんですが、その前にこのことを大谷竹次郎にリークしてくれた方がいるのです。杉山茂丸という方でございます。福岡に生まれました。山岡鉄太郎、山岡鉄舟の門人となり、一時は政治運動に身を投じ、「諸悪の根源は伊藤博文である。伊藤博文を暗殺する」と言ったものの果たせず、北海道へ逃亡するなど波瀾万丈の青年時代を送りましたが、後に、頭山満という方と一緒に、九州に政治結社「玄洋社」を設立して、後に政界の黒幕、右派のフィクサーといわれ、いわゆる大東亜共栄圏思想のもとを作った方でもあります。一方で、孫文、蒋介石、あるいは、インド独立闘争に関わった方々を全部かくまって、日本にお預かりするなどという男気もありました。現在、歌舞伎座の向かい側に「ナイル」というインド料理屋がございます。今の旦那はG・M・ナイルさんで、お父さんはA・M・ナイルさん。このA・M・ナイルさんは亡くなって久しいんですが、私が監事室にいた頃は、店にいてお帳場に座っておられました。私は週に4日ぐらい「ナイル」に行きます。ナイルさんも、新宿の「中村屋」へお婿さんに入られたボースさんも、すべてこの方がインターポールから匿って日本に帰化させた、という一面も持っております。と、同時に、この頭山満や杉山茂丸、とくにその杉山茂丸は、異常なまでの義太夫節の愛好家でして、私が30回読んでもまだわからない『浄瑠璃素人講釈』という恐ろしい義太夫解説本を著しております。これは文楽愛好家のバイブルで、彼はまた茶人であり、お相撲や様々な演芸の後援者でもあり、ご長男は作家の夢野久作さんという、幅の広い、懐の深い杉山茂丸さんがなぜか、「歌舞伎座が売りに出ているよ」と、新富町の料亭へ大谷竹次郎を呼んで、リークしてくれたんです。そして、彼は言いました。「しかし、白井や大谷、松竹という名前がちょっとでも出たら、歌舞伎座が上方に乗っ取られるというふうな評判になるぞ。別の人の名前で買え」。当時、上方ではお芝居の経営は、今のような株式会社と違って、お芝居のいわゆるファンドでした。金主、スポンサーがいて、資金を預かって、小屋主、座主がプロデューサーを使ってお芝居を組み立てる。その出資者の1人に井上静雄という方がいました。京都の松竹のシンパです。この井上静雄という名前で買ったのです。取引成立。当時のお金で18万円だそうです。手付金は15,000円を要求されたので、松竹が井上静雄の名前で払いました。

怒りましたね、田村成義。半狂乱になったそうです。夏、避暑に行ってた間にやられちゃった。しかし、この人も江戸っ子で意地があります。当時の商法では、1カ月ないし3週間だったと思いますが、それ以内に手付金の200%のお金を用意すれば、その株式の約定は反古にできるという法律がありました。つまり、3万円を集めればいいわけです。そして、集めたんですね、田村成義。最初にやったのは、大道具、衣裳、小道具、鬘、床山等への支払いの延期。次に俳優さんへの出演料の一部未払い、ないし延期。つまり無理をして15,000円を集めて3万円にし、それを噂では1円札の束で3万枚積み、大谷竹次郎を築地の料亭に呼び出し、「大谷さん、残念でした。ここに3万円ございますから、これであなたが大好きな歌舞伎座、咽喉から手が出る歌舞伎座はあなたのものにはなりません。私たちのものです」と言ったわけです。それ以前、明治30年代末から40年代にかけて上方の名優・初代鴈治郎が歌舞伎座へゲストで出てくれと頼まれたとき、白井松次郎は鴈治郎と2人で宿屋で泣いたそうです。「小銭で申し訳ないが、1,000円あるから、全部勘定して間違いがなかったかどうか勘定して下さい」と、そういう意地悪をさんざん田村成義にされているんです。だから、コンチキショーと思っていたんですね。でも、仕方がありません。ルールブック通りやられたわけですから。

それで、大谷竹次郎が言いました。「お売りになりたいと言うから買ったのですけど、お売りになりたくないということなら仕方がないですね。ルール通りですから諦めました。この通り、株券はそちらへ。では、お金をいただきますが、15,000円しか振り込んでおりませんので、15,000円だけいただければ結構です。あとの15,000円は何か相当なるご無理があったようにもうかがっております。私どもはお金が欲しくて、この約定を元に戻すのではございません。売っているので買ったわけで、売らないと言えば、出資したお金だけ返していただければいい」と、その場で、瞬間芸で言った。大谷竹次郎の自伝に書いてあります。田村さんはポカンとして、じゃ、15,000円、ということになったのですが、このニュースが、鴈治郎や、東京の関係者の耳に入るや否や、團十郎世代の次の時代のトップの1人である五世歌右衛門をはじめ、数名は、「ああ、これはもう大谷さんは歌舞伎座の外堀を埋めたも同然だね。いずれは大谷さんがやるだろう」ということに相成り、「上方の人間に歌舞伎座を渡していいのか」とキャンペーンを張っていたメディアの「アンチ松竹キャンペーン」に打撃を与えました。今は使ってはいけない言葉ですけど、「上方贅六(かみがたぜいろく)」という上方者をバカにした言葉がありました。「贅六に歌舞伎座を渡してなるものか」という社会運動があったんです。しかし、これは「15,000円だけで結構です」で、ガラッと変わりました。大谷竹次郎は見上げたものである。いっぺんさせたらどうだ、と。それで、わずか2年後の大正2年に、腎臓の病気も抱えていた田村さんは役員会で、「私は歌舞伎座の制作筆頭役員は降ります。大谷君を取締役相談役で迎えたいと思います。ついては、大谷君も東京は慣れていないだろうから、私もしばらくは相談役、ないし顧問ということで」と言ったら、大谷竹次郎は「いや、田村先生、それは恐縮ですが、芝居小屋というものは、舅や小姑がいるとうまくいく時もあるが、うまくいかない時もあるように聞いております。失敗したら私も身を引く覚悟ですので、まずはこの大谷1人にやらせていただきたい」と言ったら、他の重役も「イエス」と言ったので、田村さんは歌舞伎座を引退しました。

しかし、この人も大したもので、その後、大正期、昭和初期まで黄金時代を築く「市村座」という、現在の台東区台東一丁目にございました劇場で、青年俳優だった六代目菊五郎と初代吉右衛門を育て、大黄金時代を築くのです。市村座は江戸三座のなかで2番目に格がある劇場でした。江戸三座は、1624年に初代中村猿若勘三郎が作った中村座が元祖、次が市村座、そして森田座です。斯くして、大谷竹次郎は取締役、相談役として歌舞伎座に参画し、翌大正3年より、歌舞伎座は松竹の直営となって、今日に至るのでございます。

松竹の歌舞伎座

弊社の経営方針は、一年間を通して興行を行います。先ほど申しましたように、明治22年の創業以来、歌舞伎座は年半分ぐらいしか歌舞伎をやっておりませんでした。他は、休んでいたり、短期興行をしたり、でした。歌右衛門さんが歌舞伎座のトップになりました時に、六世尾上梅幸という方、これは六代目菊五郎のお兄さん、これが帝劇へ迎えられて、座頭になった。それで、梅幸さんを観るには帝国劇場へ行くしかなくなった。そして、今の白鸚さん、吉右衛門さん、亡くなった團十郎さんのお祖父さま、七代目松本幸四郎という方も帝国劇場の専属になった。観るためには帝国劇場へ行くしかない。歌舞伎座では観られない、ということだったので、歌舞伎座が流行らなかった部分もございます。それを、大谷さんは、初代鴈治郎が最初に来た時に、帝劇にも出ておりますので、帝国劇場と紳士協定を結びました。お互い、必要な俳優さんを貸し借りしましょう。そして、他の劇場ともやりました。こういう合理的な劇場経営をいたします。

今では想像もつかないと思いますが、当時、歌舞伎の切符は、芝居茶屋という中間業者を通さないと、桟敷は買えなかった。今のようにインターネットもございませんし、チケットビューローもない。前売り所もありません。当日券と、あとは番頭さんから買うか、芝居茶屋から買うかです。直営の前売り券というのを最初にやったのは帝国劇場です。上方では松竹が初めてやりました。歌舞伎座で、この時から前売り券による公正な切符販売が行われるようになった。そのようなことをはじめ、従業員の意識改革やら処遇の改善だのをいたしました。

そして、いよいよ大正の黄金期を迎えるわけですが、大正の黄金期は五世歌右衛門、そして、上方で松竹と提携した初代中村鴈治郎。それから、これまたすごい、十一代片岡仁左衛門さんと申しまして、今の十五代仁左衛門さんのおじい様に当たる方でございます。この方は元々上方の方なんですが、初代鴈治郎とは青年時代から、犬猿の仲というか、お客様同士が張り合ったので、いろんな事情がありまして、東京へみえた。しかし、東京へいらっしゃると、九代目團十郎と激突するという、なかなか熱血漢。しかし、大変な名優でございます。この仁左衛門、鴈治郎、そして、当時何と言っても、美男美女と言えば十五世市村羽左衛門という絶世の二枚目俳優です。この人は、お母様は日本人、お父様はフランスの香港提督をしていた方だという説があります。羽左衛門とは親類で、若い時から常にコンビを組んでいた六世尾上梅幸は帝国劇場へ行っておりましたから、この二人を一緒に観るには東京近郊では横浜座、横浜劇場へ行かないと観られないという時代が数年続きましたが、松竹大谷が経営するようになってからは歌舞伎座でドッキング。ものすごくお客様は喜んだのでございます。

十五世羽左衛門の「切られ与三郎」。これは昭和初年の録音ですから、ちょっと後年です。

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ハイテノールの声ですね。昭和20年の5月に疎開先の信州の湯田中で72歳で亡くなるのですが、亡くなられた旅館が現存しており、そのお部屋に泊まりたいというお芝居の好きな方がいらっしゃいます。私の母は今年92歳で、元気にしておりますけど、昭和初年の生まれで、3つから、この十五代目羽左衛門の楽屋に入りびたりという非常に幸せな人で、10代の頃はほとんど毎日、羽左衛門の楽屋の次の間にいたと。まったく羨ましい限りです。私も人のことは言えませんが、観たかったなと思いますね。

さて、大谷が苦労して手に入れた歌舞伎座が、大正10年の10月30日の明け方、なんとたったの1時間で、電気系統の漏電により全焼してしまいます。15,000円の大勝負に負けて勝った松竹・大谷竹次郎、それまでは順風でした。ところが、これはあまりものの本に書いてないのですが、大正4年8月だったと思いますが、大谷竹次郎は15歳の長男を水の事故で失います。中禅寺湖に書生と一緒に行っていたのですが、ボートがひっくり返って、書生だけが助かりました。大谷の自伝にも書いてありますが、苦労をして兄弟で築き上げてきた松竹が、芝居の王国と言われるようになって、上方を制し、歌舞伎座を制し、帝劇も含めて提携が利くようになった、その引き換えに、倅を持って行かれたのだな、と。「私は間違っていたのかもしれない。東京へ出て来なければよかったのかな。もう芝居はやめて、頭を丸めて、兄には子どもがいるから、私は仕事をやめてしまおうか」と思ったと、書いてございます。しかし、ご子息の亡骸が東京へ着くと、歌右衛門、羽左衛門をはじめとする名優がホームで待っていて、そして、また本家は京都ですから、上方へ特別の列車を出して着きますと、初代鴈治郎以下、名優が待っていて、「とにかく、あなたが芝居を辞めるのだけは思いとどまってもらいたい」と大勢の方に言われたので思いとどまって黄金時代を築くのです。

その時に上演していた作品は、實川延二郎、後の二代目實川延若(じつかわえんじゃく)の「怪談乳房榎(かいだんちぶさえのき)」。實川延若は、明治に、これも初代が上方に立てた大阪の大きな名題のご子息で、大変な人気者。しかも、白井、大谷の双子兄弟と同じ、明治10年の生まれで、青年時代、白井、大谷が京都の新京極の小さな劇場で旗を揚げた時、一緒に出てくれた人なのです。延若が三遊亭圓朝原作の怪談を初めて歌舞伎座でやりまして、滝壺のなかで三役早変わりをしている時に、その事故がありましたので、実は平成になるまで、松竹の劇場では、大谷竹次郎会長の気持ちを汲んで、亡くなった後も、「怪談乳房榎」だけは上演してはいけないという社訓がありました。

以上余談でございますが、とにかく歌舞伎座を失いました。この時に、歌舞伎座の土地は超一等地ですから、一般の株主様のなかには、大谷がいい悪いとか、松竹がどうこうじゃない、地価が8倍ぐらいになっているので、「歌舞伎座はなくてもいいんじゃないか? 更地にして売った方が1株あたりの価値が上がる」という方もいたそうです。それを、1軒1軒口説いて、大谷は歌舞伎座の再建に猛進するわけです。

さて、その新時代、次のジェネレーションを見ていただきます。ただ今の菊五郎さんのおじい様、亡くなった勘三郎さんのおじい様です。天下の名優、六代目尾上菊五郎の「髪結新三」をひとくさり。

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六代目尾上菊五郎は、五代目菊五郎さんの実子です。五代目はご実子がなかったので、菊五郎さんは最初、尾上菊之助という方をご養子にしました。「残菊物語」という新派悲劇にもなった名作の主人公ですけど、結核の病を得て、若くして亡くなりました。その次のご養子が先ほどの羽左衛門とコンビを組んでいた六代目尾上梅幸という名優です。その後にできましたのが、この六代目菊五郎と、弟の六代目坂東彦三郎というご兄弟ですけど、菊五郎さんは非常にリアリスティックな世話物のいなせな芸を売りにしておりましたので、日常会話をしているようなんですが、そこに自然な抑揚がついて、いわゆる河竹黙阿弥という七五調を、五七五七七、奈良平安から続きます日本人の体にリズムで入ってくるという、これを近代化した方です。

十五代目羽左衛門さんの与三郎と比べますと、十五代目市村羽左衛門さんのは、いわゆるテノールのアリアを聴くようですね。作家・歌舞伎評論家の戸板康二先生が「羽左衛門のセリフは歌舞伎のアリアである」と言っておられますけれども、それは今でもそうなんです。写実でいくか、それともお芝居でいくか。リアリズムとロマンティシズムをどのくらいのパーセントで折り合わせるかというのは俳優さんの個性です。六代目菊五郎は、非常にリアリスティックな言い回し、十五代目羽左衛門はリアリスティックなんですけれどもロマンチックな、歌うようなセリフということです。

それではもう一人、六代目菊五郎と並ぶ名優、初代中村吉右衛門の「河内山」。現在の白鸚、そして吉右衛門ご兄弟のおじい様ですね。

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聴いておわかりのように、初代吉右衛門という方はリアリスティックななかにも独特の緩急がありして、クラシック音楽の言葉で申しますと、レガートがかかるんです。六代目菊五郎という人は基本的にはスタッカートの芸です。歯切れのいいセリフ回し。吉右衛門さんも歯切れがいいんですけど、そこに独特の伸び縮みがございます。クラシックが好きな方はおわかりだと思いますけど、六代目菊五郎という方はセリフのみならず芸風も、アルトゥーロ・トスカニーニの厳格なるメトロノームのような芸です。一点一画をおろそかにしない。一方、初代中村吉右衛門は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのように、どこで燃えてくるかわからない、走り出したら止まらないという、その熱のあるところが、この二人が青年時代に先ほどの田村成義に仕込まれたところです。田村成義は「将軍」と言われており、田村将軍は菊五郎の父、五代目、そして吉右衛門の母が崇める九代目團十郎を引き合いに出し、「おとっつぁんはそうじゃないぞ」と言って、菊五郎、吉右衛門を徹底的にしごいた。それは田村成義の素晴らしい功績です。この人は大正の中ごろ、関東大震災前に亡くなりますが、近代歌舞伎の1つの本流を作った菊五郎と吉右衛門を育てたという点で、大谷竹次郎は田村臨終の晩に、こう言いました。「今日の大谷松竹があるのは、すべて田村さんのおかげです。興行の厳しさを教えてくれていたと同時に、市村座で『江戸っ子が本気になるとこういうことができるのか』という、プロデューサーの腕の極みを見せてくれた。それは上方生まれの私には本当のところはわからない、できないことだ。私は田村さんの分までも長生きして頑張る」。大谷竹次郎は92歳まで現役を務めました。

もう一人……みなさん、名優が山ほどいるんです。今日は名前がお出にならない方のご関係の方には申し訳ないのですが、お時間も限りがございます。もう一人、二代目市川左團次という初代左團次の実子です。浜町の明治座という劇場を持っておりましたが、父が明治37年に亡くなった時に大きな借財がありましたので、追善興行を行って、その借金を返したと同時に、劇場を売りました。後にその劇場を松竹が買うわけですが、その劇場を売ったお金で明治40年代にベルリンをはじめ、ロンドン、ヨーロッパの演劇視察にほぼ1年参ります。そして、シェイクスピアに触れ、ロシアの新劇に触れ、現代劇に触れ、オペラに触れ、バレエに触れ、ということで……はい、本邦初演の「ベニスの商人」のシャイロックでございます。左は歌舞伎十八番、今の海老蔵さんなどがなさる古風な「鳴神」、これも左團次が復活したものでございます。「雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)」というのは二代目市川團十郎によりまして、1742年、はるか昔に初演されて、代々伝わっておりましたが、明治には絶えておりました。それをこの方が明治40年代に岡鬼太郎という方と組んで復活したのが「鳴神」です。岡鬼太郎さんは、洋画家の岡鹿之助先生のお父様ですけど、大変な演劇通でした。左團次という方は、ゴーリキーやドストエフスキー、そういうものにも傾倒しております。古典歌舞伎ができて、新劇、現代劇ができる天才。この後、この方は新歌舞伎というジャンルを作り、いわゆる今の大河ドラマ、史劇の元祖家元になった方で、大変な方です。二代目左團次はYouTubeで「二代目市川左團次」と検索すると出てまいります。こういう世代が台頭するなか、木造の歌舞伎座が焼けちゃったので、鉄筋コンクリートで造りまして、できました。できまして、開場ひと月前に関東大震災が来ました。コンクリートの外は全部助かりました。なかは全部焼けました。それで、さらに1年数カ月経ちまして、大正14年の1月、ここに第三期の歌舞伎座ができるわけです。

この時の大谷竹次郎の感激は、「これで100年経っても大丈夫な歌舞伎座ができた」という喜びです。破風が3枚あります、立派な歌舞伎座です。格天井(ごうてんじょう)です。この時から歌舞伎座はすべて椅子席になりました。シャンデリアもあります。宮殿のような劇場ですね。

こうしてできた歌舞伎座について、映画「勧進帳」でちょっと大谷の肉声を。

(*音声)

この「勧進帳」ですが、武蔵坊弁慶は七世松本幸四郎、現在の白鸚さん、吉右衛門さんのおじいさんです。そして、富樫は先ほどの与三郎になっていた十五世羽左衛門でございます。昭和18年12月、歌舞伎座です。

(*映像)

これは六代目菊五郎の代表的演目でございます。九代目團十郎が初演した「鏡獅子」という舞踊ですが、今日はその後ジテをご覧いただきますけど、右側の写真、花道で打ち合わせをしている紳士が小津安二郎です。後に総理になる吉田茂がイギリス大使だった昭和10年に、六代目菊五郎の日本一の「鏡獅子」を世界に見せたい、ロンドンへ売りたいというお声がかりがあり、そのためには、お客が入らないと困るから、宣伝のために映画を撮り、それをさんざん上演した後に渡英してもらいたいということで、昭和10年に撮影しました。しかしながら、戦争のため、この公演は実現しませんでした。後に菊五郎の孫で、先年亡くなられた十八代目中村勘三郎が平成になってからロンドンで「鏡獅子」を踊りました。今の勘九郎、七之助が胡蝶を務めました。ようやくおじい様の念願が叶ったのです。フランスのジャン・コクトーは菊五郎「鏡獅子」の舞台を観て、有名な「美女と野獣」を着想したと言われています。

そういう歌舞伎座ですけれども、残念ながら、昭和19年、戦況が厳しくなり、3月に大劇場閉鎖命令により閉場。そして、20年5月25日、東京空襲により、なかは全滅。外だけが残ったのでした。これにて幕間を頂戴いたします。

(*休憩)

早野:「歌舞伎座130年」の、まだ60年しか経ってないですね(笑)。ところで、「幕間」、最近読めない方が多くなりました。「まくあい」と読みます。ということだけ覚えてお帰り下さい。

岡崎:弊社の社員でも「まくま」と言う人がいます。困っちゃうんです。でもコンピューターは偉くて、「まくま」と打っても絶対出てきません。「まくあい」でございます。

岡崎:さて、戦火により、あっという間に焼けてしまった歌舞伎座ですが、それを復興するのは昭和26年の1月ですから、6年かかりました。6年かかる1番の理由は、GHQによる占領下にあったということが1点、そして、焼け野原だったので、経済復興が先だろうというのがもう1点です。そのなかで、この不思議なる、南部オクラホマのフォービアン・バワーズという方が登場します。この方は、昭和15年に日本に参りました。裕福な南部の白人家庭の若旦那で、ピアノが上手い。パリのコンセルバトワールに入学し、戦前の大巨匠であるアルフレッド・コルトー先生のもとでピアニストになるという夢を持っていたのですが、落ちました。そして、傷心のまま、ガムラン音楽でも研究するかとアジア各地で船旅をしておりました。そして、横浜港に着きました。せっかく日本へ来たので、東京へ観光に来た。そして、銀座に見えたら非常に目立つ建物がありました。歌舞伎座ですね。本人は書いているし、私も直接聞きましたけど、お寺様かなと思って入ったら劇場で、十五代目羽左衛門を観たわけです。羽左衛門に魅せられたバワーズ氏は、日本に残ることを決意し、昭和16年の半ばまでの約1年間、私立大学の英語講師のアルバイトをしながら過ごしたわけです。

その人が昭和20年にマッカーサーが厚木へ来る時の先遣隊で来ておりまして、副官と言うと厳密には違うんですけれど、マッカーサーをお世話する何人かの随行員として中枢部にいた方です。写真は1996年9月、今の吉右衛門さんがダラス、ヒューストン、バークレー、ロサンゼルスなど「俊寛」を持ってアメリカ公演を行った時に、ダラスで私が撮った写真です。バワーズ氏とは99年に亡くなります10年ぐらい前から親しく付き合っておりまして、「東京の息子」と呼んでくれていたのですが、気の毒に、最期はニューヨークのアパルトマンで机に突っ伏した状態で亡くなっているのが発見されました。しかし、若い頃は飛ぶ鳥を落とす勢いでした。インド国連大使のお嬢様と結婚し、マッカーサーの副官のような仕事を辞めた後も、たびたび来日し、京都のお茶屋さんに初代吉右衛門と出かけ、吉右衛門が小唄を語り、奥様の波野千代さんが三味線を弾くのを楽しむようなこともありました。

この人がやったことをご説明します。昭和20年8月に終戦となった後、9月から10月にかけて、一挙に歌舞伎の脚本の検閲が始まります。「敵討ちはアメリカやイギリスに対する敵愾心を煽るから、『忠臣蔵』は禁止である」「主人のために倅を身代わりにするなどは、旧軍国主義的な教育につながるから、すべて禁止である」といった具合に、歌舞伎の脚本の70%くらいが上演禁止となりました。世話物、つまり、八っつぁん、熊さんの庶民の世界、与三郎、お富はいいけれども、それ以外はダメと。江戸時代は幕府の、明治には新政府、戦前は「最後は勧善懲悪でなければいけない」という国家統制があったり、昔から芝居の脚本というものは国家の統制を受けてきました。この時はGHQの統制です。それらをかいくぐって、「忠臣蔵」は、赤穂浪士の討ち入り事件という元禄の話を、「太平記」の足利幕府の時代に名前だけ変えているわけですけど、そういうことで、歌舞伎俳優は両腕を縛られたような状態でした。40%は現代演劇を上演すること、というお触れも出ておりました。しかし、バワーズさんは厚木へ着いた時、第一声が、「橘屋羽左衛門は元気ですか、六代目は大丈夫ですか、播磨屋はどこにいますか」と言ったので、それは新聞記者が驚きます。そして、この方を中心に、歌舞伎や文楽の古典演劇の相当な上演解禁が行われました。「これは芸術であって、思想をどうこうするものではない」と。しかも、日本国民からこれを取り上げるのは逆に占領軍に対する敵愾心が増すのであって、庶民の楽しみを奪うのは良くないと。この人がいなくても、独立すれば、いずれはそうなったと思います。しかし、昭和20年8月9月からアウトになったものが、最後は22年11月に「忠臣蔵」が解禁になりましたけれども、すべて上演してよろしいとなったのは、まさしくこの方の力が大であります。

バワーズさんに関しては、近年なぜか、「バワーズは手柄を独り占めにし、同僚や先輩の検閲官にもそういう理解がある者がいたのに、一人バワーズだけが歌舞伎を救った男と言われる」といった論文を書かれた人がいます。はっきり申しますが、それは間違っています。私は亡くなった中村歌右衛門さんや、二世尾上松緑さん、梅幸さんから、「なんてったってね、バワーズさんだよ。もうバワーズさんしかいないの。だって、他の人は芸術は好きかもしれないけど、芝居はわからないんだから。この人だけが歌舞伎をわかってるの。だから、バワーズさん」と聞いています。亡くなった歌右衛門さんや、弊社の永山は、何年かに一度、日本俳優協会と松竹で、バワーズさんをアメリカから招いておりました。この人が恩人であることは間違いありません。

しかし、この人が許可をしても、東京の復興という問題があります。「こんな焼野原に、歌舞伎座なんか建てていいわけないでしょう」というのが主なようですが、それを救った方が、安井誠一郎・初代東京都知事です。上野の文化会館の前に安井誠一郎さんの像があります。私はコンサートが好きで文化会館に行くたび、必ず入る前にこの像に手を合わせることにしています。この方は何をしたかというと、こういうことです。

欧米ではどこへ行っても市民の憩いのための劇場があります。でしたら、東京の復興のシンボルとして、新しく歌舞伎座を建てるなら、都民のための劇場、いわば都民劇場ということでお願いをしてみたらどうかという知恵が東京都から出たのです。これは安井知事の側近だった方が知事に働きかけ、知事と大谷竹次郎はその方も交えて協議した結果、政府ならびにGHQに建設趣意書というものを出したらどうかとなりました。現在、演劇、歌舞伎のみならず、東宝さんの芝居も明治座の芝居も楽しめる都民劇場という東京都の外郭団体の公益財団法人がございます。これは、都民劇場歌舞伎座の名残りです。ですから歌舞伎座は、「都民劇場歌舞伎座設立趣意願」というのを出して、これがパスして、できたのが歌舞伎座です。昭和24年に、私が冒頭で自己紹介で申しました、株式会社歌舞伎座というのを作りまして、地鎮祭を挙行いたします。写真は空襲でやられたままの歌舞伎座です。完全に天井から中が全部焼けちゃったんですね。これに継ぎ接ぎをして建てました。ですから、私も3つから行っておりました前の第四期歌舞伎座は、耐震を考えますと、建て替えせざるを得なかったわけです。外側の壁は関東大震災以前の鉄筋コンクリートでした。関東大震災が来て、中はダメだけど外は助かった。そして、空襲でまた中は壊れたけど、外だけ残った。これに継ぎ接ぎで造ったのが、昭和26年1月3日に復興した第4期の歌舞伎座でした。

その開場記念の舞台は、六代目菊五郎は残念ながら昭和24年の夏に亡くなりましたが、長老として、初代中村吉右衛門が健在でございまして、座頭。そして、この年に歌右衛門になられる歌右衛門さん。この時はまだ芝翫でございますけど、「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」というお芝居。田舎から出て来たあばた面の次郎左衛門という心根の優しい商人が、吉原で一番の美女、八ツ橋に恋をしてしまうために起こる悲劇ですが、この播磨屋の次郎左衛門、成駒屋の八ツ橋というのはたいへん評判になりました。とくに、この前名の芝翫で演じた歌右衛門の八ツ橋は、復興した歌舞伎座の大きな話題のひとつとなったわけです。

その年にもうひとつ、画期的な上演がありました。1月2月がいわゆる開場歌舞伎で、3月がついに舞台で実現される「源氏物語」の上演です。戦前は皇室、皇族に関わることを舞台化することはタブーでした。この間亡くなられた三津五郎さんのおじい様の八世三津五郎さんが、蓑助という時代に、ほとんど衣装まで作って「源氏物語」を企画したのですが、やはり許可が下りませんでした。これが新時代の幕開けとともに上演されるや、後の團十郎、今の海老蔵さんのおじい様、十一代目の團十郎、当時、九代目海老蔵の光源氏。菊五郎さんのお父様、七世尾上梅幸さんの藤壺、それから、二世尾上松緑さん、今の松緑さんのおじい様の頭中将を中心とする……しかも、この時は「源氏物語」の後、「勧進帳」がつくという、大盤振る舞いでした。

その後、4月5月が歌右衛門さんの襲名でした。これで、歌右衛門さんは六世歌右衛門になるわけす。「道成寺」と「妹背山」のお三輪などを務めました。昭和53年の、歌右衛門さんの舞台、「道成寺」をご覧下さい。

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ちょっと脱線しますが、この長唄という音楽は1700年代からある日本の代表的な三味線音楽ですが、このタテ、いわゆる首席音楽家、歌右衛門さんの正面に三味線を弾いておられるおじいさんがいます。そして、その左側が立唄(たてうた)。その下が鼓です。鼓は現在の田中傳左衛門さんのおじい様の十一世田中傳左衛門さんで、そして唄は現在の鳥羽屋里長さんのお父様の芳村五郎治さん。そして、この三味線を弾いている方は杵屋栄二さんです。この人が面白い人でして、亡くなられてずい分になりますが、柳橋にいたんです。元々は山の手にいたんですけど、ご事情があってわりと壮年になってから1人だけ柳橋へ。昭和の初年に歌舞伎座の邦楽部長という、たいへん大事なポジションを若くして得た実力者です。「北原」という料亭がありまして、そこの女将さんといい仲になりまして、2階は大広間で、そこがお稽古場なんです。今の白鸚さん、吉右衛門さん、中村東蔵さん、里長さん、みなさん通っておられました。そのお稽古場はもう一つ変わったことは、広い床の間が全部ジオラマなんです。鉄道模型。私も4つ5つから、さんざん行きましたけど、子どものユートピアでした(笑)。

その後、十一代目市川團十郎、襲名披露興行というのが昭和37年4月5月に行われました。写真は「勧進帳」の弁慶です。そして、「助六」です。今の海老蔵さんのおじい様、亡くなった團十郎さんのお父様です。素晴らしい格好のいい方でした。しかし、昭和40年に病没してしまいます。その後、昭和の歌舞伎を支えられたみなさんの代表的な舞台、昭和52年11月の歌舞伎座の「忠臣蔵」からいくつかご覧いただきましょう。尾上梅幸さんの判官、尾上松緑さんの師直です。

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第1回の矢内賢二先生のお話に出た「絵と間」の集大成だと思います。

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これは大星由良助=大石内蔵助。今の白鸚さんと吉右衛門さんのお父様、先代の白鸚さん。その大星由良助が復讐を誓うところです。

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非常に重厚な舞台だと思います。続きまして、この間亡くなられた勘三郎さんのお父様、十七代中村勘三郎さんの「一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)」。左に映っておりますのは、今の仁左衛門さんのお父様の十三代目片岡仁左衛門です。

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こういう豪華絢爛たる、重厚なる名優たちが、昭和の最後の十数年を背負っておられたわけです。戦後の上方歌舞伎を代表する二人組と言えば、二代目中村鴈治郎さんと、十三代目片岡仁左衛門さんという好対照。二代目鴈治郎さんは初代鴈治郎の次男。十三代目仁左衛門さんは、十一代目仁左衛門という気骨のある俳優さんのご子息ですが、この二人は戦後、経済を中心に東京一極集中が進むなか、上方の歌舞伎が弱っていくなか、色濃い、関西ならではの芸風を今に伝える大きなお仕事をしていただきました。

私事ですが、十三世片岡仁左衛門という方にはとくに思い出がありまして、同じマンションの、私の住んでおりました宅の真下に、晩年10年間お越しになられました。京都にお家がございます。東京へ出る時はホテルでしたが、ホテルよりもご自分の家のほうがいいだろうということで。私は7階なんですが、大学生の時にエレベーターが6階で止まって開いたら、どこから見ても片岡仁左衛門。「ええーっ」。ときめきましたね。そして、その週のうちに2度か3度、6階で、また片岡仁左衛門さん。「ああ、これは6階に仁左衛門さんのご贔屓のお客様がお住まいなんだな」と思ったのですが、管理人さんに聞いたら「ご苗字が片岡さん」と言われて、わかりました。困ったなあ。私の寝ている部屋の下で、仁左衛門さんが寝ておられる……。それから90代で長逝されるまで、私は幸せなことに、同じマンションに住んでおりました。昭和63年、歌舞伎座100年記念公演がありました。1年サバを読んだんです。中村勘三郎さんの勘で。「いいんだよ。かぞえで。みんな元気なうちにやっちゃったほうがいいんだ」、と。その通り。中村勘三郎先生は、1月に「俊寛」をなさったんですが、その8日目が最後の舞台となりまして、春に亡くなられました。そして、この間の勘三郎さんが勘九郎で代役をされました。これが1月。そして、2月は「菅原伝授手習鑑」という、菅原道真にまつわる大通し狂言。この菅丞相の役、道真公を仁左衛門さんがなさいました。親子二代の当たり役です。

いやぁ、困りましたね。上に監事室勤務の岡崎がいることは明明白白です。毎朝、お嬢様から、「岡崎さん、お父ちゃん、行くわよ」「はあ」「一緒に行こうて言うてるわよ」。イヤですとは言えません。いや、もちろんイヤじゃないですけど、申し訳ないじゃないですか。行きは、半分ぐらい、お嬢様の運転で、後ろに松嶋屋さんご夫妻、肩身の狭い思いで助手席に乗りました。菅丞相様は昼の部で上がってしまいます。菅丞相というお役は、神様になるお役ですから、他のお役はどんなにいいお役でも、同じ夜の部は出ない。ですから、昼の部でお帰りになります。私はサラリーマンですから、11時から9時まではガラス部屋にいないといけない。そこへ、「お父ちゃんが、岡崎さん、これで帰るから一緒に帰ろう言うてます」って。「私は夜の部もここにおりませんと叱られますんで」と。そうすると、仁左衛門さんがお電話で「あなたとね、毎日こうやってご一緒してるんですから、たまには一緒に帰ったらいいと思うんです」。ほんとうに弱りましたね(笑)。そんなおつきあいをさせていただきました。

この写真は、11月に、これが一世一代となりました(歌右衛門さんの)「道成寺」。亡くなられた芝翫さんと二人道成寺でお出になられて、たいへん結構な舞台でした。そして、尾上梅幸さんの「保名(やすな)」、今もご活躍の尾上菊五郎さんの「弁天小僧」、今、白鸚になられた当時の松本幸四郎さんの「幡随長兵衛」、今、仁左衛門になられた片岡孝夫さんの「盛網陣屋」や、吉右衛門さんの「熊谷陣屋」のような演目がありました歌舞伎座100年です。その3年前の昭和60年に團十郎襲名興行、3カ月のロングラン興行がありました。このあたりから、ようやく歌舞伎は世代交代と共に、また活性期に入りました。そして、この頃から平成にかけて、様々なスタイルを一挙にクリエイトするのでございます。昭和61年に新橋演舞場で初めて上演されたのがスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」。今の猿翁さん、三代目市川猿之助さん。そして、同じ61年に四国の旧金丸座で金毘羅歌舞伎大芝居。中村吉右衛門さん、澤村藤十郎さん、当時の中村勘九郎さんがこの芝居小屋へテレビロケにいらして、ここで芝居をやりたいなというところから始まったことでした。当初は3日間、今は16日間から18日間、毎年松竹がお手伝いさせていただいております。現存する最古の木造の劇場ですから、江戸時代のスタイルをもう一度、と。それを発展させたのは、亡くなった勘三郎さんが始めた平成中村座。初めは浅草の隅田公園、それから今は浅草寺で、11月にもさせていただきました。平成中村座は、ニューヨークまで行きました。なかなか大変ですが、汗をかいた甲斐がある。お客様に喜んでいただける。こういう様々な展開がありました。そして、大谷竹次郎が苦労して建てた第四期の歌舞伎座も平成22年4月の最後の幕は「助六」でした。團十郎さん、玉三郎さん、菊五郎さんはじめ、みなさん出演いただきました。勘三郎さんもおりました。私もこの日のことを思い出すと、ちょっと感傷的になります。素晴らしい興行でした。歌舞伎座の閉場式って、歌舞伎座ができてからやったことないんですよね。漏電と、震災で壊れ、空襲で壊れ。自らの意志で弊社が歌舞伎座を更地にしたことはない。歌舞伎座始まって以来、「壊します」ということを神様にご報告して、神事を行って壊しました。私もこの日は紋付を着て、七五三と皆さんに言われました(笑)。これは閉場式の当日の写真です。午前2時ぐらいまでお客様がお帰りにならなかったですね。何かケガ、過ちがあるといけませんから、最後はとにかくタクシーをお呼びになってお帰りになるまで、私も残りました。

そして、現在の歌舞伎座です。まだお運びでない方は、ぜひこれをご縁にお運び下さいませ。1等、2等、3等、3階AB、並びに桟敷席もございますが、一幕見席というのもございます。1,000円前後のご料金から、一幕だけご覧いただけます。近頃はエレベーターも完備でございます。昔は鬼のように階段を上がる。考えてみれば、私はあれを幼稚園の時から九十数段上がっているんですが、そのわりには足腰が弱いです。

現在の歌舞伎座には、みなさまお馴染みの定式幕があります。左から黒、柿色、萌葱色と申します。これは旧森田座の並び方でございます。新橋演舞場と国立劇場は右から黒、柿色、萌葱色。平成中村座はグリーンがありませんで、白が入ります。この平成中村座の白は、不思議な因縁がありまして、初代中村勘三郎さんはたいへん声がきれいでした。幕府御用船、安宅丸(あたけまる)という船が紀州から材木を積んで江戸湾へ入ってまいります時に、もうバテバテです。和歌山から来て、最後、潮目が変わりますから、なかなか江戸湾へ入ってこない。そこで、何とかせい、というので、幕府のご命で勘三郎が船歌を歌って音頭を取ったら、いい声だから、調子が出たのでグイーンとノットが上がりまして、そのご褒美に、その帆船の帆を幕府から与えられた。これをどうしようかというときに「幕にしよう」と。それで中村座の引き幕が白になった。これが元祖でございます。そして、その初代勘三郎の娘が市村羽左衛門家、市村座へ嫁に行くことになった。「お父さん、引出物にあの幕と同じデザインを」といったら、「ダメ。白だけはダメ。お父さんが上様から貰ったんだ」というので、このグリーンが入ったのです。昔は劇場にその格式とプライドというものがありました。

さて、さっきご覧いただいた明治の歌舞伎座の舞台。28年に上演された「暫(しばらく)」。もうひとつは、十一代目團十郎襲名の頃の昭和37年に演じられた、同じ「暫」です。そして、今年演じられた「暫」。舞台の間口がやや広がっていますけど、基本的にはこのまま、130年やっているわけです。

そんなことで、新しい歌舞伎座では、2017年は野田秀樹先生の「野田版 桜の森の満開の下」を、以前から勘三郎さんがやりたいと言っていたのですが亡くなられたので、歌舞伎化し、勘九郎、七之助ご兄弟でやっていただきました。次の写真は、私も演出のお手伝いをしましたけど、海老蔵さんが古典作品を復活して、息子の勸玄ちゃんと宙乗りをした話題の舞台です。それから、尾上菊之助さんが日本とインドの友好年にあわせ、インドの叙事詩「マハーバーラタ」を歌舞伎に切り出しました。そういう新しい仕事もしております。

ということで、駆け足ですが、歌舞伎座の130年です。民間劇場として、一期、二期、三期、四期、そして五期とやってきました。歌舞伎というのは非常に貪欲な演技でございまして、流行り物は逃さない。文楽、人形浄瑠璃で流行ったものはすぐ歌舞伎にしてしまう。今ほどコピーライトがうるさくないからできたのでしょうけれど。

先ほど触れました、大谷竹次郎が長男を亡くした時に上演されていた「怪談乳房榎」は、大正4年より、大正年間、昭和年間、国立劇場さんでは戦後、上演されて、私もそれを小学校3年生ぐらいで観ていました。松竹の副社長をしております安孫子正も、当然観ております。私は入社以来、先輩の安孫子と「怪談乳房榎」を絶対にやってはいけないことはわかっているけれど、「あれは、やったらお客さんが入ると思うし、一度は復活をしたい」と話しておりました。そして、ついに平成2年の8月に、今の福助さんや芝翫さん、扇雀さん、そして、亡くなった勘三郎(当時、勘九郎)さん、三津五郎(当時、八十助)さんで、八月納涼歌舞伎を始めました時に、永山(武臣・松竹元会長)から宿題が出ました。

昭和30年代から40年代までの20年、8月の歌舞伎座は三波春夫さんに背負っていただき、それは素晴らしい興行でした。私も三波春夫納涼公演、大好きです。「俵星玄蕃」なぞはもうたまりませんね。「桃中軒雲右衛門とその妻」も。そして、2部は歌う金字塔です。昼夜観ました。最高です。歌舞伎座が今日ある恩人の一人は三波春夫さんです。それから、東映へいらして、時代劇のスターになられましたけど、中村錦之助、後の萬屋錦之介さんが6月を。12月は、同じく東映のスターだった「銭形平次」の大川橋蔵さん。六代目菊五郎さんの一門です。青年になって映画界へスカウトされて、スターになりました。6月の錦之介、8月の三波春夫、12月の橋蔵、このお三方でどれだけ歌舞伎座は苦しい時代に興行収益を担っていただいたかわかりません。そういう経緯を経て、ついに8月に歌舞伎をやる。そうすると、歌舞伎座開場以来初めて12カ月間歌舞伎をやることになるわけです。絶対に赤字は許されない。そこで、宿題が出されました。安孫子も私もすぐ、「怪談乳房榎」と言ったら、即却下されました。当然ですよね。永山は大谷竹次郎に22年仕えておりますから、「あれはやってはいけない」と。いろいろございましたけど、最後は永山も興行主として、「(お客さまは)来るかね」と言われて、「来ます」と答えたら、「来なかったら、おまえらクビだ」と言われました。お陰様で大変な大入りでした。上演が決まった時に、私は日光へ参りまして、その後も行くたびに、中禅寺湖にお花を一輪捧げてまいりました。

その「乳房榎」が勘三郎さんで3度、そして、ご子息の勘九郎さんで7度、しかも、ニューヨークのローズシアターまで行ってしまう。そういうことができるのも私どもの楽しみですが、いずれにしても、歌舞伎が「出雲の阿国」でできてから400と15年。よくも415年も続いてると思いますが、明治この方、歌舞伎のシンボルとしての存在が歌舞伎座ですので、歌舞伎座にお運びでなかった方はまず、できれば、今年中に歌舞伎座へお運びをいただきたいとお願いを申しまして、甚だ特急で恐縮ですが、私のお話を結びたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

受講生の感想

  • 歌舞伎をクラシック音楽にたとえて語る岡崎さんの教養の深さと広がりに圧倒されました。

  • ときおり交じる俳優さんの声色に「歴史」を感じました。

  • こういう人が、人生をかけて歌舞伎に愛を注いでいる。それあってこその歌舞伎座の130年間なのだということが、実感として腑に落ちました。すごい!