2020年9月10日公開
万葉集講座
第9回補講 梯久美子さん
15分版・120分版の視聴方法は こちらをご覧ください。
万葉集講座が終わってから3ヶ月後、終戦の日から1週間のこの日、梯久美子さんが補講のためにほぼ日の学校に戻ってきてくださいました。戦時下の歌が集められた『昭和万葉集』第6巻を中心に話してくださった前回、時間ぎれで積み残しとなってしまった「作家・島尾敏雄とミホ夫妻の愛の軌跡」について、話してくださいました。(講義日:2019年8月21日)
※この講義は、120分版のみとなります。
前回(万葉集講座9回、5月8日)、本来たどり着くところまでたどり着かないまま時間切れになってしまいました。と申しますのは、私は大学の先生とかではないですが、たまに講演とかしますけれども、こんな長いのってないんですね。そんなに私の話で持つだろうかと思って徹夜で資料を集めて、原稿みたいなものは普段書かないですし、実際読みはしませんけど、一応しゃべることとかを書いてきたら、すごく熱く語ってしまいました(笑)。
前回の資料の最後のほうにあった島尾ミホさんと敏雄さんの話、そこが私的には一番自分の宣伝になるところでした。大作(笑)(注・『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』)を2016年の秋に出しまして、ここが本当は一番話したいといえば話したいところだったんですが、そこで終わってしまいました。潔く諦めていたのですが、補講をやらせてくださるという話が来まして、「15人ぐらいかな」と思っていたら、前回と同じぐらいの数の方が来ていらっしゃって……。事前に70人ぐらいいらっしゃると聞いて、頑張って徹夜で準備したので、もしかしたらまた長くなってしまうかもしれません(笑)。
これ神の采配といいますか、今日この本が、文庫になったんですね。実はまだ発売はされてなくて、確か9月1日発売かな。でも、今日の午前中に、早めに届く著者見本が10冊届いたので、やっぱり今日はこの宣伝をしろということだなと思って来ました(笑)。でも、私、サービス精神がありまして、この本の宣伝だけではダメなんじゃないかと思って、お手元の資料に、島尾ミホ・敏雄の話にいく前に2枚ほど、ネタを少し前振りに考えてきました。
今は8月で、NHKとかでも『Nスペ』とかいろいろあって、ドキュメンタリーで戦争のことをたくさんやっている季節ですので、前回も『昭和万葉集』で戦争の話をメインにしまして、「あ、この話もすればおもしろかったな」というのを、徹夜しているうちに思いついちゃって、資料の1枚目に「軍人の歌」というので、有名な方のおもしろい歌を紹介しようと思って書いてきました。なるべく短く紹介します。
まず最初、山本五十六なんですが、亡くなったあとに編纂された山本五十六の歌を集めたものがあって、そこにこの1首目に書いた歌が載っているんです。『昭和万葉集』に載っているんですけども、辞世の歌に近いものだと思います。
〈天皇の御楯とちかふま心はとどめおかまし命死ぬとも〉
悪い歌ではないですが、普通と言っては何ですが、天皇陛下の御楯となることを誓う心は、死んでもそのままだよというような歌です。
その次も実は山本五十六の歌で、これはもちろん『昭和万葉集』には載っていません。
〈おほろかに吾し思はばかくばかり妹が夢のみ夜毎に見むや〉
ラブレターみたいなものですよね。〈おほろかに〉というのは、「いい加減に」とか「適当に」とか、そういう意味です。あなたのことをいい加減な気持ちで思っているのであれば、こんなにも――〈妹〉は恋人ですね――あなたの夢ばっかり毎日見るであろうか、いや、そうではないという反語です。
山本五十六は昭和18年の4月に、ラバウルのほうに行って、そこで飛行機で視察というか飛び立って、その飛行機が撃墜されて亡くなっているんです、昭和18年4月ですね。ラバウルに向けて出発したのは4月3日なんですけど、そのときに付き合っていた恋人がいたんです。奥さんじゃないです。出発の前日に、その人に遺書のつもりで手紙を書いていまして、その最後にこの歌を書き残したんです。その人は、河合千代子さんという人で新橋の芸者さんでした。恋人というか愛人というか、そういう存在でした。
この歌の元歌は『万葉集』なんですね。〈凡ろかに吾し思はばかくばかり難き御門を罷り出めやも〉という。どういう意味かというと、一見わかりにくいですけれども、これも恋の歌でして、いい加減にあなたのことを思っているのであればこんなにも――〈難き御門を罷り出めやも〉というのは、厳重な門を罷り出る、退出してくるっていうことですけど、位が上のところから外に出る、罷るっていうことです――こんなに厳重な門を出てくるでしょうか、みたいな感じ。私は『万葉集』の解説書を読んだんですけれど、〈難き御門〉というのは「宮門」と書いてありました。宮の門、だから宮城の宮で、この人、昔でいう公務員みたいな人で宮仕えをしていて、そこの門から抜け出して女の人に会いに行くという歌だそうです。だから、「あなたのことがこんなに好きだから、そういう厳重な門を抜け出して、あなたのとこに会いに来たんですよ」というような歌なんですね。山本五十六も軍人ですから公の身だけれども、そういうのを抜けて、実際にそういうことしてるんですね、山本五十六は。赴任先にこの女の人呼び寄せたりしているんですけれども、そういう公の重責を負う立場でありながら、こんなにもあなたのことが好きですというような歌なんです。
山本五十六という人は「『万葉集』を愛していて、勉強していました」と、河合千代子さんが戦後証言しています。山本さん、女性にはそういうところがありましたけれども、基本的に大変真面目な軍人なので、『万葉集』を勉強していたのでしょう。そういう軍人さんはたくさんいますし、このあとお話しする島尾敏雄も、非常に若い士官ではありましたが、『古事記』と『万葉秀歌』(斉藤茂吉、岩波新書)を持って戦場に行っています。山本五十六も、本歌取りとこれを言うのかどうかわかりませんけれども、そういう『万葉集』から来た歌を詠んでいます。この歌はラブレターに書いてあって、戦後に山本五十六の伝記を書いた人が取材した中で、この千代子さんが取材に答えて、そのお手紙を見せてくれて、それで公になったということで、本当の公の遺書は、『昭和万葉集』に入っている遺言というか、最後の歌は〈天皇の御楯とちかふま心は〉というほうです。
芸者さんだった河合千代子さんに戦後に取材した中で、作家の阿川弘之さんが『山本五十六』という伝記を書いていらっしゃいますけれども、そこに出てくる話ですが、山本五十六、戦死しますよね。国葬が行われました。『昭和万葉集』を見ると、山本五十六の辞世の歌のあとには、山本五十六の死を悼む歌がいっぱい出てくるんですけれども、本当にもう大変な国葬として行われたわけなんですね。山本五十六の伝記によれば、国葬のあと、東條英機の使いの中佐がそれとなく自決を迫りに来たと阿川さんの伝記には書いてあります。千代子さんもそう言ったとおっしゃってるんですけど、「元帥にあなたのような女がいると恥だから」自決しろと言われたと。でも、この人はそんなことで死ぬような女の人ではないんですね。「39歳の若さではとても死ねなかった」という証言があります。9年間付き合ったと書いてありますから、30歳ぐらいから。山本五十六は58とか59くらいで亡くなっていると思います。
余談ですが、この河合千代子さんは25歳で芸者さんになっているんです。そういう人は珍しい。遅いんですね。もともといいとこのお嬢さんだったんですけど、お家が没落して、25歳から芸者さんになった。写真も見ました。かわいい人なんですけれども、すごくきれいとか、すごく芸ができるとかって感じではなかったみたいですが、とても愛嬌のある垂れ目な感じの人なんですけれども、山本五十六は非常にその人のことを好きで、男女の関係になるわけですけれども、最初はすごく気に入っていたけれども、面倒を見るというか、囲うというようなことはしない。なぜならば、金銭的な余裕がないから。「これからあなたのことは妹として付き合うから」というふうに最初言ったそうなんです。そういう時期があったんですけれども、やっぱり男女の関係になったときに、そのあとで畳に手をついて、千代子さんに、「妹に手をつけて申し訳なかった」と謝ったそうです(笑)。おもしろいと言っては何ですが、そういう人だったんだなという感じが出ていると思いました。
東條英機の使いの中佐が自決を迫りに来たという証言があって、本当かどうかわかりませんけれど、千代子さんはそう証言した。で、「そうか、東條英機か」と思いまして、東條英機の歌をその次に引いてみました。『昭和万葉集』には2首載ってるんですけれども、そのうちの1首が、
〈さらばいざ苔の下にてわれ待たむ大和島根に花かをるとき〉
〈苔の下に〉というのは、これも遺書、辞世ですから、最後、東京裁判でA級戦犯として絞首刑になるわけですけど、その亡くなる前に〈苔の下〉というのは、地面=死んだあとということですね、地面の下にて待つと。〈大和島根〉は「日本」です。〈花かをるとき〉、復興するのを地面の下から見届けますよ、みたいな感じの歌ではないかと思います。
もう1首引いたのは、『世紀の遺書』という本がありまして、これも『昭和万葉集』と同様に私の愛読書なんですけれども、戦犯として死刑になった人たちの遺書を集めた大部の本があるんです。戦犯ってA級戦犯だけではなくて、BC級戦犯の人もいるので、本当に若い下っ端の兵隊さんとかも捕虜虐待とかそういう罪——捕虜虐待が一番多かったと思うんですけど——に問われました。しかも、東京裁判は東京でやりましたけど、戦犯裁判っていろんなところでやってますからね。フィリピンとか、グアムとかでもやってるし、裁く国によっていろんな場所でやっているので、そこで亡くなった人の遺書、掲載されてない人もいますけど、ほとんどの人の遺書を集めた素晴らしい本があって、もともと巣鴨遺書編纂会とかそういうところが編纂して出したものです。重たいので中に入っている月報みたいのだけ持ってきたんですけれど、講談社が復刊してるんです、だいぶ経ってから。『昭和万葉集』も講談社が出したんですけど、講談社ちゃんとやってるなという感じですね(笑)。素晴らしい本で、古本屋に行ったらありますので、ご興味のある方は図書館とかで見ていただきたいです。BC級戦犯は、学徒出陣の学徒の人とかも絞首刑になったりとかしています。大体は上司に命じられて捕虜虐待とされるようなことをやって、証言者が日本語のわからない人が外地では多かったので、本当は無実の罪のために死刑になった人もけっこういて、なかなか辛いものがあって、韓国人の人も日本軍の戦犯として裁かれて絞首刑になった人とかいるんですね。それも歴史の証言として非常に興味深い素晴らしい本なんですけれども、こういう有名な戦犯の辞世も載っています。それが東條英機の2首目、
〈我ゆくもまたこの土地にかへり来ん国に酬ゆることの足らねば〉
死んでいくけれども、もし自分が〈国に酬ゆる〉、国から受けた恩にちゃんと酬いることがこの一生でできていなかったとしたならば、また帰ってきますよという、まあ、両方とも非常に公式な感じのする最期の歌です。確かに公式の、というか、きちんとした非常に長文の遺書を書いていまして、そこに入っている歌なんです。
ところが、そのあとに3つ載せたのは俳句です、3句。東條英機は俳句もやっていたらしく、この俳句は何かというと、もちろん公式のものには載っていなくて、かつ子さんという奥さんに宛てた遺書というのがあって、その遺書を昭和39年の『文藝春秋』で公開しているんですね。奥さんの手記に、「こういう句を遺書で私に遺しました」というのが載っていて、だから、これも東條英機が書いてるわけです。
〈命二つよく持ちにけりことしの秋〉
〈ことし〉というのは昭和23年のことだと思うんですが、昭和23年の12月23日に絞首刑になっています。その前ずっと裁判をやっていましたので、秋ぐらい。これはかつ子さんの言葉によると、「よくぞ二人そろってここまでやってきたということでしょう」というコメントがついています。その手記の中で。獄の中とお家と離れてはいるけれど、二人一緒に頑張ってきたというような句だと思います。その次は、
〈二世のちぎり彼岸に待たん蓮の花〉
これはかつ子さんは、「あちらで蓮の花に乗って待っているということでしょうか」と書いていらっしゃいますけど、〈二世のちぎり〉というのは、ご存知の方いらっしゃると思いますけど、「親子は一世、夫婦は二世」という言葉があって、親子というのはこの世だけ(一世)の縁だけれども、夫婦というのは二世に渡る縁なんだよと。前の世と今の世か、今の世と次の世かわかりませんけれども、それほど夫婦というものは絆が強いという意味らしい。これを私は知らなかったんです。なぜ知ったかというと、このあとに出てくる島尾ミホさんが何回も何回もこのことを言ってるんです。「親子は一世、夫婦は二世と言いますけれども」と何回もおっしゃっていて、それだけ自分と夫との絆は強いということをいろんなとこでおっしゃっているので、「あ、そういう意味なんだな」と。そのあと、これ私、けっこう好きなんですけれども、
〈ただ一羽渡る雁あり胸いたむ〉
雁って群れをなして飛んでいく渡り鳥ですけど、ときどき遅れたのか何か、一羽だけで飛んで渡っていく、そういう雁がいて胸が痛むという句なんですけれども、奥様によりますと、「たった一人残されるつらさを思いやってくれたのではないか」。私はこれを読んだとき、この〈ただ一羽渡る雁〉というのに自分を込めたんだと思ったんです。自分が一人で去っていく。でも奥様は、「私が一人残されて、私が一人でこのあと渡っていかなきゃいけないというふうに思ったんじゃないか」という意味のことをおっしゃっています。
これを比べて思うのは、俳句のことはよくわかりませんけれども、私としてはこの俳句のほうがいいなと思っています。それはこっちのほうが「私」が出ていて、短歌ってやっぱり公式な、当時はとくに公式な場面で男の人とか軍人とか政治家が詠むというのがありますから、私が本を書いた硫黄島の栗林中将も、辞世は訣別電報といって一番最後に大本営に打つ電報の最後に、大体玉砕する指揮官はみんな歌を最後に詠んでいますし、何か自分の存在とか自分の意見というか思いを歴史の中に残すみたいな、そういう感じ。なぜかというと、歌はやっぱり後世に残ると思っているんだと思うんですね、みんな。だから、東條英機も、歌のほう2首は「われ(我)」という言葉が両方出てくる。だから、私はこうだったとか、私はこういうふうに生きたというのを出している。東條英機の判断は間違いが非常に多かったと私も思いますけれども、やっぱり一人の人間として見たときに「こういう一面もあったんだな」ということを思ったのは、この場合は俳句のほうで「なるほど」と思ったので、当時、歌を詠むとはどういうことだったのかということも含めて、比較対象としてここに出してみました。
次、資料もう一枚、本題に入る前に、なるべく長くならないようにお話しします。「歌と地名」というのがあって、戦争中の女の人の、銃後の奥さんが詠んだ歌を読むと、けっこう地名が出てくるんですね。4首出したのは全部『昭和万葉集』に載っています。1首目は、
〈ビアク島はいずべにありや地図見れどさだかならず兄の戦死せしところ〉
ビアク島はインドネシアで、ニューギニア島のちょっと北のちっちゃい島なんですけれども、お兄さんがビアク島で戦死したという戦死公報が来て、でも、それどこにあるか全然わからないわけです。今の地図はけっこう細かいかもしれませんけど、戦時中の地図にビアク島なんて書いてなかったんだと思うんです。一体どこにあるんだろうという歌です。
そのあとの3首、
〈幾千の兵にげのびしモンジアンの曠野になどか君ののこれる〉
もう何千もの兵隊さんが逃げ延びた、〈モンジアン〉というのは中国の四川省の地名だそうです。そこの〈曠野になどか〉、一体どうしてあなたは残ったんだろう。助かった人がいっぱいいたのに、自分の旦那さんはそこで死んでしまった。そういう歌なんです。次は、
〈カビエングの椰子の葉陰も歩みしか遺品の砂ゆこぼれ落つる砂〉
〈カビエング〉というのはビスマルク諸島というところにある地名だそうです。調べました。遺品から砂がこぼれてきて、それはその〈椰子の葉陰〉を歩いたときの、靴に入ったり何かについた砂なのかというような歌ですね。次は、
〈その骨は拾うすべなしシツタン河の砂一握を骨とするてふ〉
「骨とするという」という意味ですね。〈シツタン河〉は、ビルマ(現ミャンマー)の川だそうです。骨が戻ってこなかったんですね。拾う術がなかったから、その川の砂が骨の代わりに箱に入っている。「遺骨」という箱を開けたら砂が入ってたということですよね。骨が拾えなかったから、亡くなったところに近い川の砂が骨の代わりに戻ってきたのねって思っている歌です。
多分この奥さんたちは、夫がそこで死ななければ一生知ることのなかった地名ですよね。自分になぞらえてみるとわかるんですけれど、家族がどこか遠いところで亡くなったとしますよね、海外で。そしたら、本当は行ってみたいですよね。でも、行けないし、どんなとこかさえもわからない。今みたいにネットで見たりもできないから、イメージが全然湧かない。だから、そこで亡くなった夫と自分をつなぐ唯一のよすがみたいなのが地名だったんだと思うんです。地名しかわからない。しかも、死なないとわからないんですね、地名って。作戦上の秘密があるので、どこに行ってるかは家族は全然知らないわけです。亡くなってやっと、「どこどこ方面にて戦死」という戦死公報が来てわかるんです。そのとき初めて、「あ、そうか、そういうところで亡くなったんだ」と。でも、行くことはできない。どんなところかわからない。骨も帰らない。最後に見た景色はどんな景色だったんだろうとか知りたいですよね。想像しても、それも全然わからない。だから、今言ったように、死者と自分を結ぶただひとつのよすがが、その聞いたこともなかったような地名だった。その地名が出てくる……まあ、私が地理が好き、旅が好きというのもあるんですけど、地名が出てくる歌というのは非常に心惹かれるものがあって、それはやっぱり単なる地名というか単なる文字の連なりではなくて、そういう思いがいっぱいこもった地名であるから胸を打つのではないかなと思いました。
4首挙げたうちの最初のは違いますけど、あとの3つは、1950年、昭和25年、戦争が終わって5年経ったときに、『婦人公論』という雑誌が募集したんです。募集したのはその前の年、昭和24年に、全国未亡人の短歌と手記というのを募集するんですね。「未亡人」って最近あまり使わない言葉ですけれど、戦争で夫を亡くした人の短歌と手記を募集するんです。それを1冊の本にして、『この果てに君ある如く』というタイトルの本にするんです。私はそれを古本屋で見つけまして、こういういい歌がいっぱい載ってるんです。手記よりも歌のほうがすごくいいんですね。そこには4200首が集まったと書いてありました。選者は窪田空穂、斎藤茂吉、釈迢空、土岐善麿って、ほとんど『昭和万葉集』と同じような方たちが選んでいるんですけれど、紹介した3首は斎藤茂吉が選んで、とくにすごくいいとコメントをつけている3つの歌です。
そのあとに3首引きましたけれども、これは何かというと、兵隊さんが戦地で詠んだ歌です。時間がないので一個一個朗読しませんけれど、中国の広東省で昭和14年から19年まで発行された「兵隊」という雑誌があったそうなんですね。みんな投稿する雑誌なんですけれども、そこの短歌の投稿欄に応募して載った歌なので、これは本当に戦後に思い出して詠った歌ではなくて、戦地にいて詠んだ歌なんです。
〈うまゆきてへいたいゆきてみどりこき大地につよくむぎのいろみゆ〉
〈白き蝶をを捕らんとしつつ塹壕の草にまひるの夢さめにけり〉
〈バナナをば街路におきて物思ふ少年のあり頬杖つきて〉
これを見て、いわゆる未亡人というか奥さんたちの歌と違うなと思ったのは、ほかにもいっぱい資料で見たんですけれども、地名は出てこない。多分、地名を言ってはいけなかったんだと思うんです。とはいえ、広東省で出た雑誌だから大体みんな広東省だと思いますが、やっぱりその場にいる人は、とくに地名を言う必要はそれほどなかったのかもしれないなと思います。現地にいるわけだから、自分で見えるものとか聞こえてくるものを歌えばいい。だから、こっちの歌を詠んだときに改めて、奥さんたちが詠んだ歌の地名の持つ意味というか、死者とつなぐよすがにしようと思ったときに地名が歌の中に詠み込まれて、読む人の心も打つし、どうしてもこの地名を入れたかったんだと思うんですね。「カビエング」とか「モンジアン」とかいわれても、読む人にはまったくわからないですよね。ただ、そのわからないところにも意味があるのではないかなと思います。
8月にテレビを見ていると、いろんな戦争物とかやっていると、「あ、知らない地名が出てくるな」と思う。今はどんなところだろうという情報もあるし、知ることもできるけれど、当時の人たちは、突然、「モンジアンで亡くなりました」とかって戦死公報が来て一体どんな気持ちになっただろうとちょっと思って、この「歌と地名」というコーナーを作ってみたような次第です。そして、いよいよ本題に入ります(笑)。
最初に映像を見ますか。このあいだもお見せしたんですけれども、島尾敏雄と島尾ミホ、この2人が出会って恋に落ちた加計呂麻島。私が撮った写真ですけど、きれいでしょう? もっときれいなところがいっぱいあるんですよ。今は多少護岸工事とかされて海が変わってしまったそうですが、昔は本当に自然のままの美しいところだったそうです。
島尾敏雄という人は九州帝大を繰り上げ卒業して海軍予備学生になり、少尉として加計呂麻島に行きました。写真は「震洋」という特攻のボートのレプリカです。本物は日本には残っていなくて、オーストラリアの戦争博物館に1隻だけ残ってるらしいですけれど、日本にはもうないです。全長5、6メートルで、基本的に1人乗りです。ベニヤ板に塗装してあるんです。舳先に爆薬が装填されていまして、敵にぶつかると信管が接続されて爆発する。自殺という言葉を使ってアメリカではSuicide Boatと言っていたらしいですけど、特攻のボートです。本当は特殊潜航艇とか、みなさんが知っているようないろんな特攻艇が、海軍の特攻でもあったんですけど、だんだんお金がなくなって、これはベニヤで簡単に作れました。ほとんど戦果はなかったという報告があります。島尾敏雄は、これを180人の部下で50隻持たされた。昭和18年に九州大学を繰り上げ卒業して1年間だけの訓練をして、180人の部下を持たされて、特攻隊長として昭和19年11月に美しい加計呂麻島に行ったわけです。
このあと話をしますけれど、ミホさんは島尾さんの部隊と岬ひとつ隔てた集落に住んでいました。で、逢いに行くわけです。さっき、『万葉集』で門を出て会いに来る宮仕えの人の話がありましたけれども、まったく同じで、隊長なのに、島尾敏雄本人は「脱柵」、柵を越える脱柵という言葉を使ってますけれども、島尾さんが部隊を抜けてきて、ミホさんは岬を越えて行って、二人で浜辺で逢瀬、デートするわけです。途中、岩がゴツゴツしていて、潮が満ちてきたりするとすごく大変なんです。でも、ミホさんはほとんど命懸けで、潮が満ちてくる中とか、岩で足とか傷つけながら歩いて逢いに行った。今もあまり地形は変わっていないので、私は加計呂麻も10回ぐらい行ってますので、ここを歩いてみようと2回ほどチャレンジしたんですけど、行き着けませんでした。意外と、というか非常に遠くて、しかもウロウロしてると潮が満ちてきてものすごく危ないんです。だから、途中で断念したりしました。ミホさん、当時25歳の女の人ですけれども、相当大変だったと思うんですが、それでも越えて逢いに行っていたという、そういう場所です。
モニターに示している写真がミホさん。本の装丁にも使った写真でもあるんですけど、上が6歳の頃のミホさんで、下が戦時中。1919年生まれで、生きていたら今年(2019年)100歳です。下は戦時中、島尾敏雄さんと出会った頃なんですね。装丁写真は、ちょっとアップにしていますが、全身の写真を見ると、ワンピースみたいなのを着て、髪にリボンつけているんですね。昭和19年ぐらいなので、普通はもっと地味な格好してなきゃいけないんですが、この方は名家のお嬢様で、戦時中も空気読まないタイプの人ですので(笑)、ワンピースとか着たり、リボンつけたりなんかして、でも、誰も文句言わないんです。お父さんが島で尊敬をされている方で、そこのお嬢さんなので。
島尾さんと出会ったときは小学校の先生をしていて、その教え子の方の証言というのを聞いたんです。まだみなさんご存命ですので。そうすると、ミホさんは加計呂麻島で育って、女学校は東京の目黒の女学校に来ているんです。いいとこのお嬢さんなんで、東京の女学校とか、男の子は京都とかに勉強に行かせるんです。卒業して1、2年ちょっと東京で働いて、そこで車の運転を習ったり、ビリヤードを習ったり、大変モダンガールだった。島に帰ってきたときは太平洋戦争は始まっていませんが、もう日中戦争は始まってる頃でした。でも、ハイヒールを履いて、髪の毛にパーマをかけて戻ってきたそうで、その名瀬という奄美で一番大きい町でもすごく評判になって、後ろを人がゾロゾロついてきたそうです。珍しいので。
加計呂麻に帰ってきてからは、働く必要のないお家なので働いてなかったんですけれども、だんだん戦争が激しくなってくると、家でフラフラしてるのは許されないわけですね。東京とかもっと前からそうだったんですが、徴用といって工場とかで働かされてしまうんです。だから、「誰かの奥さん」であるか、ちゃんとしたところにお勤めしてないと、徴用といっていろんなところで働かされる。だんだん田舎の島もそういう感じになってきたので、最初、近所の郵便局か何かでちょっと働いたらしいんですけれども、小学校の先生が出征して人が少なくなってしまったので、ミホさん女学校出てますから、代用教員ということで小学校で先生をやるんです。島尾敏雄が加計呂麻に来たのが昭和19年11月、ミホさんも実はその19年11月から学校の先生をやってるんです。だから、1年足らずで終戦になります。教え子によると、ミホさん、フレアスカートをはいて、ヒール。ハイヒールじゃなかったと言ってましたけど、ヒールのある靴を履いて最初の授業に現れたそうなんですね。みんな度肝を抜かれた。それで、柔道の有段者だとかいろんな噂が立った。お行儀の悪い、やんちゃないじめっ子みたいな子を、足を払ってやっつけたみたいな話もあって、そういう逸話がたくさんある人だったようです。戦時中、もう終戦も近い頃なのにそういう格好で学校の先生をしていたらしいです。
モニターに出している手紙は、なぜ持ってきたかというと、眞鍋呉夫さんという戦後作家になって俳句でも有名になる方がいらっしゃるんですけど、島尾さんと戦前・戦中から友達なんですね、学校が一緒で。一緒に同人誌をやっていたんです。島尾さんが海軍予備学生になって出征することになって、島尾さんに書いたはなむけのお手紙です。〈瓢ちゃん〉、瓢箪の瓢という字が書いてあります。最後のほうに「島尾瓢平」と書いてありますけど、島尾さんがペンネームとして使っていたものなので、「瓢ちゃん」へとなっています。
〈瓢ちゃん、おめでとう。よきをのこのどには死ぬなひのもとの光の御矢と翔びたつなれは〉よき男、〈のどには死ぬな〉というのは、これがあるから持ってきたんですけども、〈海行かば水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ〉というのが戦時中歌われた「海行かば」ですよね。それはご存知のように『万葉集』、大伴家持の長歌からとられてるんですけど、一番最後の〈大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ〉、「自分の命とかそういうものを顧みずに、天皇のためにその近くで死のう」という歌なんですけど、最後の〈かへりみはせじ〉というのはもうひとつあって、それは〈閑(のど)には死なじ〉。〈かへりみはせじ〉の代わりに〈閑には死なじ〉と使われてるのもあるんです。なぜかというと、話が長くなるんで説明しませんけれども(笑)、普通、『万葉集』には〈かへりみはせじ〉になってるんですけれども、『続日本紀』とか別の古典の歴史書みたいなのがあって、そちらでは同じフレーズで最後が〈閑には死なじ〉となってるんです。〈閑〉というのは「長閑」の閑です。長閑には死なない、そう楽には死なないというか、苦しんで死んでもいいというような意味です。だから、ここに〈のどには死ぬな〉って、本歌取りじゃないんですけれども使っているんですね。友達へのはなむけの言葉に「海行かば」の歌詞、元をただせば『万葉集』の言葉を入れてるんです。
この人たちは文学青年で、全然勇ましいタイプの人たちではなかった。島尾さんも自分は「文弱の徒」だと書いていましたし、島尾さんは海軍予備学生というのになるんですけど、飛行科を受けるんです。飛行科は操縦とか通信とかありますけど、基本的には飛行機に乗る人たちを養成するところです。なぜかというと、陸軍に行っても自分は耐えられないだろうと思ったというんですね。当時は学生のあいだから、今でいう体験入隊みたいのが何回もあるわけです。そのときに、「私は内務班の生活はとても耐えられないと思った」って島尾さん書いてるんですけど、内務班は何かというと、みんな「入営」といって軍隊に一時期入ります。そのときに生活する最小単位なんです。しごかれたり、基本的に集団行動です。一人の時間はまったくない。島尾さんはその頃から小説とかばっかり書いてオタクみたいな人ですから、集団行動に自分は耐えられないと思う、と。飛行科に行けば、飛行機は見てると一人か二人で乗ってるから、大勢で行軍したり、同じところに寝泊まりしたりしなくていいんじゃないかと思ったらしいんですね。自分でそう書いていました。そういう甘い考えもあった。
海軍予備学生って何かというと、これも細かく説明すると長くなるんですが、徴兵されるのではなくて志願なんです。予備学生、予備役というのがあって、1回訓練を受けて兵隊になるんですけども、短期現役といって、大体3年ぐらいでシャバに戻れるんですね。大きな戦争のときは長くいなきゃいけなかったりするんですけど。社会に戻っても、籍は部隊にある。また戦争が始まったとか、誰か攻めてきたとか一朝事あれば、すぐ軍隊に戻るんです。そういうのを予備役というんですね。海軍予備学生というのは、学生だけの特権なんですけど、1回その部隊に入らなくても訓練受けただけで予備役ということになって、戦争が起こったら部隊に入らなきゃいけないけど、普段は学校に行ったり、そのあと仕事していてもいいよという制度が昔からあったんですが、このときはすでに戦争だったので、予備役の人もすぐに戦争に行かなきゃいけない。その代わり、学生として1年間の教育を受けたら、いきなり少尉になれるんです。少尉って相当偉いんです、軍隊の中で。そういうシステムがありました。
これは阿川弘之さんにインタビューして直接聞きましたけれども、阿川さんも海軍予備学生になっているんです。島尾さんと友達だったんですね、同じ同人誌をやっていて。島尾さんより1期上、1年早く海軍予備学生に志願したんです。島尾さんはいろんなところで学校ダブっていて、大学を出て予備学生になったとき25歳か26歳になってたんです。島へ来たときは27歳。だから、1年早く阿川さんが同じ海軍予備学生になってるんですけど、阿川さんが言うには、海軍予備学生になることを自分たちは「国内亡命」と呼んでいたというんです。「みんなと一緒に徴兵されて、ひどい目に遭わなくて済むんじゃないかということで、国内亡命と呼んでいたんですよ」とおっしゃっていました。だから、志願する学生はけっこうたくさんいた。そういうわけで、この〈よきをのこのどには死ぬなひのもとの光の御矢と翔びたつなれは〉。〈なれ〉は「あなた」という意味です。
そのあと、〈すでにして銀河族なる眉黒くその名よきかな島尾瓢平〉。〈銀河族〉とか〈翔びたつ〉というのは、飛行科の学生になると思っていたから、こういうふうに書いてるんですけど、島尾さんが入った頃にはもう飛行機はあまりないですから、「飛行科はもう足りてるから」というので、一般兵科に回されるんですね。飛行機以外で戦う部隊で、最初は魚雷艇の部隊に入って魚雷艇学生と呼ばれるんですが、魚雷艇ももう日本は造れなくなっていました。魚雷艇ってけっこう「立派」なんです。さっきお見せしたベニヤのボート=震洋艇に比べれば大変大きなもので、それを造るお金も日本はなくなってきていたので、ベニヤ板のボートを造った。エンジンはトラックのエンジンを転用したそうです。そういうのをたくさんつくって、海軍予備学生上がりの若い士官を隊長にして、フィリピンとか台湾とかに配備してますけれども、この近くだと、静岡の下田にもそういう部隊ができていました。
眞鍋呉夫さんは、最後のほうに、〈空へゆく瓢ちゃんに 九、二一 呉〉と書いていますが、呉は眞鍋呉夫さんの呉。延々とお話ししてきましたが、島尾さんは自分は兵隊の生活は耐えられないので海軍予備学生になった。眞鍋さんもお友達なので、戦後には共産党入ったりして、どっちかというと全然勇ましくない人たちの部類なんですが、〈のどには死ぬな〉って、はなむけの言葉に普通にこういうのを使ってるんですよね。だから、これを見たときに、「ああ、なるほど、そういう時代だったんだな」と思いました。全体としてはすごくいい、大学のお友達にはなむけで書いてあげた、文学好きらしい感じですよね。だけど、そこに〈のどには死ぬな〉、そう易々と楽には死んじゃいけないという、「海行かば」の最後の歌詞を使っているなと思いました。
話を戻します。島尾敏雄さんとミホさん、二人の出会いまでどんな人生だったかというお話はしました。で、恋仲になるわけです。島尾敏雄さんが昭和19年11月に赴任してきて、学校の先生は地域と密接な関係がありますので、島を挙げて、集落を挙げて歓迎会とかやるときに、生徒にお遊戯させたり何か企画したり、お父さんが島の有力者だったので、兵隊さんが物を借りに来たりということもあって、交流があるうちに恋人同士になるわけです。ミホさんはすごくきれいな人だし、加計呂麻島って今でもすごく遠いんですけれど、そんなところに、こんなにきれいで教養のある人がいたなんて! というのもあったと思うんですけど、運命的な恋に落ちるんですね。
お配りした資料の〈浜千鳥 千鳥よ〉で始まるのは何かというと、ミホさんが島尾敏雄に送った手紙があって、昭和20年の8月ぐらい、戦争がもうちょっとで終わりそうなときの手紙なんですけれども、そこにミホさんが書いた自作の歌なんですね。
浜千鳥 千鳥よ チドリヤハマ チドリヤヨオ
何故お前や 泣きゆる ヌガ ウラヤ ナキユル
加那が 面影ぬよお カナガ ウモカゲヌヨオ
立ちど泣きゆる タチドウ ナキユル
加那が 面影やよお カナガ ウモカゲヤヨオ
立ち優り 勝り タチマサリ マサリ
立ち優り 勝りよお タチマサリ マサリヨオ
塩焼き小屋ぬ煙 シュヤヌ ケブシ
〈君恋ふは塩焼小屋の煙の如く吾が胸うちに絶ゆる間もなし〉
この二人はそんなに頻繁には会えませんよね、隊を抜け出して会いに行くといっても。そこで、手紙のやりとりをしていたんです。島尾さんの部下がミホさんのいる集落に行く用事が1日1回ぐらいあるわけです。野菜を買ったり、いろんなものを調達したりしなきゃいけないので、公式に行ったり来たり、配達係のような人がいまして、その人に手紙を島尾さんが持たせるわけです。ミホさんはそれを受け取って、自分が書いていた手紙を渡す。そういうふうにして、会った回数よりも手紙のほうが断然多くて、残っている手紙は本を書くときに見ましたけれども、全部で60通ぐらいありました。2人合わせて60通ぐらい。11月に赴任して、付き合い始めたのは4月ぐらいなので、4ヶ月月ぐらいのあいだに60通の手紙をやりとりしてるわけで、これは相当多い。これがまた全部紹介したいぐらい、すごくいいお手紙なんですね。島尾さんは戦後あれだけの作家になる人ですし、ミホさんも小説家になってますし、文才もあって、しかも極限状態の恋愛ですから、すごい情熱的な手紙だったり、優しい手紙だったり。死ぬってこともわかっているわけですから。
最終的な話をしますと、昭和20年8月13日の夜に特攻の命令が出るんです。勝手に特攻するのではなくて、敵の船団みたいな部隊が近づいてきたら、そこに向けて特攻する。来なきゃ行かないわけですけど、8月13日に、どうも敵の船団が近づいているらしいという情報が入って、「13日の夜、特攻の最終の準備しておけ」と言われて、特攻用の服を着て、ボートにいつでも乗れるようにしていたわけですが、なかなか最後の発進命令だけがかからなくて、14日になるんです。14日の夜になっても……昼間は飛行機から見つかって攻撃されるので行かない。闇に乗じて敵にぶつかるので夜に行くんです……出撃命令がなくて、14日の夜遅く、「明日の正午に本部の部隊があるところに将校は集合しろ」という連絡が来るんですね。なんで今頃そんなところに行かなきゃいけないんだろうと思うわけですが、行ったら、8月15日正午で終戦だった、ということです。だから、あと1日か2日、終戦が遅れていたら、特攻していって死んじゃっていた。二人とも戦争が終わると思っていませんから、特攻前提で、ギリギリの、「いつ行ってしまうのか」、「いつ自分は行くのか」、「いつこの人は死んでしまうか」という中にいる。ミホさんは、島尾さんが特攻で出撃するときは、お手紙を運んでくれている部下が教えてくれることになっていた。そのときは、隣の集落ですから、海岸に行けばボートが見えますから、それを見届けて、自分もそのときに短剣で喉を突いて海に飛び込んで自決しようと思っていたわけです。そういう覚悟の上で二人は付き合っている。
そういう中で美しい手紙のやりとりがあるんですが、本人たちは気がついてないけれど、実際には8月13日の特攻が近くなっているときに、ミホさんのお手紙の最後にこの歌が書かれているんです。左が書いた文章で、右がその読み方なんですけど、ミホさん、読み方も手紙に書いてるんですね。奄美の、加計呂麻の言葉がカタカナで書いてある。加計呂麻弁は正確に読む自信がないので、左のほうを読みます。〈浜千鳥 千鳥よ/何故お前や 泣きゆる/加那が 面影ぬよお/立ちど泣きゆる/加那が 面影やよお/立ち優り 勝り/立ち優り 勝りよお/塩焼小屋ぬ煙〉。最初の4行は奄美の島唄なんだそうです。3行目に〈加那が 面影ぬよお〉とありますけど、この〈加那〉は(元唄では)アンマー、お母さんです。浜千鳥、なんでおまえは泣くのか。お母さんの面影が立つから泣いてるんだよ、と浜千鳥が答えるんですね。お母さん死んでしまったか何かで、浜千鳥は泣いているというような、母を恋うる唄なんです、実は。ミホさんは、そのアンマー、お母さんというのを〈加那〉に変えている。〈加那〉って「愛する人」という意味なんです。いろんな意味がありますけど、基本的には恋人のこと。恋人の面影が立つから泣いていると千鳥が答えるというふうに変えているんです。
奄美の島唄は、元唄をどんどん替えていくんです、即興で。それを上手に即興できる人が能力のある人で、モテたりするらしいです。ミホさんはもちろん文学的才能のある人なので、まずこの4行でお母さんを恋人に替えて歌って、そのあとの〈加那が 面影やよお〉からの4行はミホさんの創作なんですけれど、恋人の面影が〈立ち優り 勝り/立ち優り 勝りよお/塩焼小屋ぬ煙〉。「塩焼小屋の煙のようにあなたの面影が立つ」という比喩なんですけども、なぜ塩焼小屋かというと、塩焼小屋というのがあったんです、その浜辺に。さっき写真でお見せしたような浜辺に。そこで逢引していたんですね、二人。それがあって、この塩焼小屋の意味は、手紙を受け取った島尾さんにしかわからないんですね。「ああ、塩焼小屋のことなんだ」というふうに。
そのあとの歌は、ミホさんが作った歌ですけど、
〈君恋ふは塩焼小屋の煙の如く吾が胸うちに絶ゆる間もなし〉
あなたを思う気持ちは、塩焼小屋から立ちのぼる煙のように私の胸の中に絶える間もなく立ちのぼりますよ。こういう文学的才能にあふれたラブレターなんですけれど、私が思うに、資料でこのあとに引いた藤原定家の、百人一首に入ってるけっこう有名な歌なんですが、
〈来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身も焦がれつつ〉
これを踏まえているのではないかと思ったんです。藻塩焼き、藻塩が出てくるというのもあるんですけれども、この塩焼小屋では何をやってたかというと、藻塩焼きをやっていた。藻塩焼きというのは、今も自然食品屋さんとかで藻塩って売ってますけれど、昔ながらの自然の塩の作り方のひとつで、塩田みたいのを作って海辺で乾かすとか、煮立てるとか、ときどきドラマとかで出てきますけど、あれではなくて、まず海藻をとってくるんですね。ここに出てくるので調べました。海藻をとってきて、それを乾かして、海藻を焼くんです。その灰をもう一回海水に溶かすんですね。それを煮詰めて塩にするという藻塩焼というやり方があって、一番古い古代からの塩の作り方だそうなんですけど、それをやっていた小屋が奄美の、デートしていた海岸にあったそうなんです。ミホさんはその塩焼小屋で、なかなか来ない島尾さんを待っていた。そういう背景があるので、この〈来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身も焦がれつつ〉というのを元にしたのではないかと思ったんですが、それはまたなぜかというと、この藤原定家の歌にもまた元歌があって本歌取りなんです。そこが『万葉集』なんですが、資料で、この次に引いた〈名寸隅(なきずみ)の〉で始まる歌です。
〈名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海人娘子(あまをとめ) ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ ますらをの 心はなしに たわやめの 思ひたわみて たもとほり 我はそ恋ふる 舟梶をなみ〉
大体読めばわかると思いますが、どういう意味か、岩波の全集で調べました。「名寸隅の船どまりから見える淡路島の松帆の浦に、朝凪に玉藻を刈り、夕凪のときに藻塩を焼く海女乙女がいるとは聞くが、見に行く術がないので、男らしい心もなく、手弱女のようにしおれて、うろうろと進みかねて恋い慕っている。舟も舵もないしなあ」。そういう感じの歌だそうです。離れ小島にきれいな女の子がいて、そこに高貴な人が会いに行く、そういうシチュエーションなんですね。それってなんとなく、特攻隊長って島を救いに来た憧れの神様、奄美の人の中には特攻隊長の島尾さんの後ろ姿に手を合わせて拝んでいた老人がいるというような、そういう外から来た神様として扱われたんですね。そこにミホさんという島の伝統ある名家のお嬢さんがいて……というシチュエーションにも合っているような感じなんです。
定家の歌に戻ると、〈来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身も焦がれつつ〉というのは、女の人の側から歌っているんですね。『万葉集』のほうは、藻塩を焼いてるかわいい女の子がいるらしくて訪ねて行きたいけど、行けないなっていう歌なんだけど、本歌取りした藤原定家は女の人の立場に立って、〈来ぬ人を松帆の浦の〉、「松」と「待つ」が掛詞になっていると思うんですけど、身も焦がれながら藻塩を焼いていますみたいな歌だと思います。だから、この両方を踏まえて、ミホさんはこの島唄を創作したんじゃないかと思うんです。
では、私はこのミホさんの島唄と短歌を読んだだけで、「うん、これはやっぱり定家で、それで『万葉集』だよな」とあっという間に気がついたかというと、そこまで教養はないので(笑)、『海辺の生と死』というミホさんがのちに書いた小説集があるんですが、その文庫本に吉本隆明さんが解説を書いているんです。その副題に「焼くや藻塩の」ってついていました。藤原定家の歌も『万葉集』の歌も、その解説にはまったく出てこないんですけど、副題だけに「焼くや藻塩の」って書いてあったので、これ聞いたことあるなあと思って検索したら定家の歌が出てきて、「なるほど、そういうことなのか」と思いました。多分、吉本さんはこういうことを全部思ったんだけど、あえてそこには書かずにサブタイトルだけに「焼くや藻塩の」と意味を込めてお書きになったんだと思うんですね。吉本さんは、〈浜千鳥〉のミホさんの歌を、その解説の最後に引いてるんです。だから、大体こういうこともすべてわかっていてミホさんの歌を紹介するけれど、藤原定家とか『万葉集』までは紹介せずに余韻を残してお書きになったんだと思うので、それをヒントに調べていったら、なるほどなと思いました。吉本さんぐらいの教養があれば、「島尾ミホという人はこうこうで、こういうところからこういうものを書いたんだな」とわかると思うんですけれども、ということは、ミホさん自身ももちろん古典に関する大変な教養があったということで、ミホさんは短歌もやっていらっしゃいました。「ポトナム」という結社が今でもありますが、そこに東京にいた女学生時代に入って、戦時中は「ポトナム」の形がいろいろ変わったりしたんですが、戦時中もときどき投稿していらっしゃったみたいです。
あとで時間があったら紹介しますけれど、『昭和万葉集』にも実はミホさんの歌も入っています。歌人でもあったので、『万葉集』を踏まえ、藤原定家を踏まえ、そして、島唄を自分で作り直して、短歌もそういう短歌。〈君恋ふは塩焼小屋の煙の如く吾が胸うちに絶ゆる間もなし〉、なかなかいい歌じゃないかな……ちょっと今の言い方、上から目線でしたけど(笑)、すごくいいなと思います。実際に「塩焼小屋で待ってます」みたいな、島尾さんへの手紙と合わせて見ると、目の前にある現実も詠いながら、過去の古典も踏まえているのが、すごいなと思いました。
島尾さんはさっき言ったように『万葉集』とか『古事記』とかをずっと持っていて、加計呂麻島に行ったときに、『古事記』の世界が現前している、今ここにあると思ったと書いてあるんですね。自分は死んでいく身で、その人生の最後にこんな美しい景色に出合えたとは! みたいな感動を書いてるんですけれども、さらにそこに、こんなきれいな人がいて、島尾さんと拮抗するぐらいの手紙のやりとりのできる女の人がいたというのは、相当奇跡的なことじゃなかったかと思うんです。
島尾さんもミホさんへの手紙に『万葉集』の歌とかを書き抜いて送っています。小さい紙片だけが出てきて、4首ぐらい書きつけてあったんですけど、別のときの手紙に、「今日、女の人の書いたよい歌をミホのために書き抜いてみました」みたいなフレーズが出てくる手紙があるんです。「世界中のよい歌はみんなミホと僕のためにある」みたいなことを書いている。単なる「好きです」みたいなやりとりではなくて、まあ、場所の雰囲気もあったとは思うんです。そのシチュエーションが、万葉時代と同じように、防人みたいなものですよね。国の端っこに、国を守るためにやってきた。そこには美しい乙女がいたという、古典の世界に自分たちをなぞらえるようなシチュエーションがあり、かつ、それができる教養と文才があった二人であったと思います。
資料その次の〈隊長さま、ミホは参りました〉というお手紙。これもミホさんが書いた手紙です。どういうシチュエーションかというと、島尾さんが「明日の何時に来てください」と浜辺に呼び出すわけです。でも、それは満潮の時刻だった。干潮の時刻じゃないと渡ってこられないんですよね、潮が満ちてくるから。潮汐表といって潮が何時に満ちて何時に引くかという表を海軍の人はみんな持ってるんですけれど、島尾さんが見間違えて、満潮の時刻にミホさんを呼び出してしまうわけなんです。ミホさんは、まだ付き合って間もない頃だと思うんですけれども、隊長様のお申し越しだから行かなきゃと思って、途中で傷だらけになって溺れそうになったりしながら行くんです。だけど、時間に大幅に遅れるんです。そしたら、島尾さん、もういないんですね。それもいかがなものかと思うんですけれども(笑)、隊に帰らなきゃいけない時間だったんでしょう。それで、自分が約束を破ったというか、呼ばれたのに来なかったんじゃないかと隊長様に思われたらどうしようとミホさんは思う。かわいいですよね。それでお手紙を書くんです。長いお手紙なんですけど、その最後のほうに、ここに書き抜いた文章があるんです。読みますね、ちょっと恥ずかしいですけれど。
〈隊長さま、ミホは参りました。暗闇の磯を這ひ、方角がたしかめられずに恐ろしい思ひをした夜の海を泳いでも、遂に来ました。隊長さまのお申し越しを蔑ろにしたのではありません。さう思ひながら明けていく瑠璃色の空を仰いでゐるうちに涙は乾きました。此処へ来たことのしるしに岬の松の小枝にハンカチを結びました。爆弾で千切れることのないやうに願ひながら〉
そのあとに、この歌が添えられていました。
〈磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまたかへり見む〉
ミホさんの手紙には書いてないんですが、有間皇子の『万葉集』に出てくる歌なんです。さっきの本文の中に、〈岬の松の小枝にハンカチを結びました〉。さっきお見せした写真に松の木がありますよね。海岸に松がいっぱい生えてるんです。そこに、自分は来たんですよという印にハンカチを結んで帰りました、と。これ本当だってミホさん言ってました。まあ、本当なんでしょう。
それで、その次の『万葉集』の歌は、〈磐代の浜〉、磐代(地名)の浜の松の枝を引き結んで、〈真幸くあらば〉、幸い無事であったならば、また帰ってきてこれを見るだろうという歌で、これもなんとなく聞いたことがあるような気はしたんですけれど、ちゃんと知らないので調べましたら、有間皇子って、いわゆるクーデターみたいな疑いをかけられて殺される人なんですよね。その処刑される地へ向かう途中で磐代を通った。そのときに、松の枝を結んだ。それは安全を祈るおまじないだそうです。もし無事だったら、帰り道でこの松を見ようという歌なんですが、結局その先で処刑されてしまったので、かなわなかった。だから、この〈松が枝を引き結び〉というところで、自分がハンカチを結んだので、それに合う歌を『万葉集』から持ってきたんですね。それも、自分の行為をすぐに、「あ、『万葉集』にあの歌があったわ」といって手紙に書ける、この教養すごいと思いませんか? でも、これは私の邪推かもしれませんが、行って、ハンカチを結んで、家に帰ってきてお手紙書くときに、「そういえば『万葉集』でこういう歌があったわ」って書いたんじゃなくて、はじめからこういう歌をよく知っていて、ハンカチを結んだんじゃないかなって私は思ったんです。それでもすごくいいですよね。昔を生きた人とか、恋人たちとか、そういう人たちの伝統の上にある恋愛というんでしょうか。
こういうことを書くと、恋愛は盛り上がりますよね。もちろんそういう素晴らしいカップルなんですけれど、あまり会ってないわけです。実際会っても、ちょっとしかお話できない。隊に帰らなきゃいけないですから。最後のほうになると家に泊まっちゃったりしてるんですけれど、手紙で愛を育んでいってるんですね。だから、その人のために後追い自殺をしようというような恋愛は何によって育まれたかというと、この言葉のやりとりによって育まれていて、これもまたこの二人ならではのことだと思うんですけれども、逆に言うと、古典の言葉には、そういう不思議な力があるんじゃないかということだと思うんです。
島尾さんは「文弱の徒」で小説とか詩とか書いて、学校も何回も落第したような人だったし、ミホさんはすごいモダンガールで、東京にいるときは車の運転をして、練習中に目黒川に落ちたとか(笑)。昔は護岸とかされてない川だったんだと思いますけど、そういう話もあって、ビリヤードをするし、ハイヒールは履くしみたいな人が、8月13日に、「隊長がこのあと出撃します」って部下が言いに来たら、井戸で水をかぶって身を清めて、母の形見の喪服を着て、モンペを穿いて、島尾さんからもらった短剣を懐に入れて、それで会いに行くんですね。島尾さんは、もう突撃しなきゃいけないかもしれないのに、隊を抜け出して会いに行くんです。そこで最後にちょっとだけ会って、島尾さんは部隊に戻っていった。浜辺から見ていれば出撃するのが見えるので、8月13日の夜、その浜辺にいた。島尾さんは隊長なので、必ず第一番艇に乗ることになっている。1艘でも出ていったら、一番前に絶対島尾さんが乗ってるわけなんです。それを見たら、足を結んで、喉を突いて、岩から海に飛び込むと思っていた。水ごりをして、着物を着て出ていったというのは本当のことなんです。
ちょっと前まで、ビリヤードとかしてて、ハイヒール履いてた女の人がそこまでするかっていうのがありますよね。ちょっと芝居がかった感じに思えますけれども、なぜそこまでいったかというと、極限状況みたいなものもあっただろうし、何といっても特攻隊の隊長ですから島尾さんすごくカッコいいですし、本当に理想的なというか、そういうのもあるでしょうけれども、やっぱりそこに至るまでに、古典の言葉を踏まえた言葉のやりとりによって恋愛を高めていく能力が二人ともものすごくあったんだと思うんですね。それは、古典がなくて今の言葉だけでラブレターをやりとりしていただけでは、もしかしたらそうはならなかったんじゃないかなと、いろいろと資料を見ているうちに、私は思っています。
それにはもっといろんなことがあって、島尾さんとミホさんは手紙のやりとりだけではなくて、最初の頃、交換日記的なことをやろうとしていたんです。すごくきれいなノートが残っていて、島尾さんの字で表紙の短冊みたいな色紙に、ひらがなで「はまよはゆかず いそづたふ」というタイトルが書いてあって、その中に島尾さんの日記だったり、ちょっと小説みたいなものだったり、あとはミホさんからもらった手紙の一節だったりが書いてある、和綴じの和紙のきれいなノートがあるんです。残っている二人のやりとりの手紙を見ると、そのノートはもともとミホさんが持っていたのを島尾さん、隊長様に差し上げて、島尾さんが交換日記みたいなことをしようと思ったみたいで、「僕が何かを書いて部下に持たせますから、そしたらミホさんもそこに何かを書いて戻してください」という手紙が残ってるんです。でも、ミホさんはそういう人で、そういう時代だから、隊長様のお書きになったものに私の字を書くなんて畏れ多いとか言って断るんです。そうすると島尾さんは、自分が書いたら持って行かせて、ミホさんが見て、自分はお手紙を書いて、ノートには書かずに返すことを繰り返しているんですね。
そのノートのタイトルは、「はまよはいかず いそづたふ」。何かというと、ヤマトタケルという人がいますよね、『古事記』とかに出てくる王子様。お父さんの景行天皇に嫌われてたのか何かわかりませんが、ヤマトタケルは父の命令でいろんな僻地に行って戦わされるんです。結局、都に帰ってこられないまま戦いで死んでしまうんですけれども、そのお葬式のときに白い鳥が飛んできて、白鳥がヤマトタケルの魂だったという有名な話があります。お妃さんたちがその白い鳥を見て、〈浜つ千鳥 浜よは行かず 磯づたふ〉と詠んだという話は『古事記』に出てきます。そこからとっているようです。それは多分、僻地で戦って死んだヤマトタケルと、それを悼むお妃さんに、自分たちを重ねたのだと思うんです。それで「はまよはゆかず いそづたふ」。その意味は、鳥が浜を行かずに磯を伝っていく。浜だと歩きやすいけど、磯は歩きにくい。ミホさんが足とか傷だらけにしながら岩のところを歩いてきたじゃないですか。そういうイメージもあって、その姿を昔の『古事記』の恋人たちや夫婦になぞらえて、こういうタイトルをつけたんじゃないかと思うんです。
ほかにも、島尾さんは戦時中に加計呂麻にいるときに、唯一書いた作品で今も残ってるのがあって、「はまべのうた」という童話を書いてミホさんに捧げているんです。それは昭和20年の5月だったとミホさんがエッセイに書いています。自分はもう亡くなると思っているので、ミホさんに捧げる「はまべのうた」という小説、まあ童話ですけど、その原稿を白絹の風呂敷に包んで、その上に自分の短剣――海軍の人ですから短剣を持っている――を載せて持ってきたんですって。5月、もう恋人になったあと、夜に渡された。その「はまべのうた」のタイトルの横にちょっと文章があって、〈乙女の床の辺に吾が置きし つるぎの太刀 その太刀はや〉と書いてあったんですね。それは『古事記』に出てくる言葉なんです。〈乙女の床の辺に〉、女の人の枕元に、〈吾が置きし〉、私が置いた、〈つるぎの太刀〉、剣を置いたという言葉なんですけど、どういう話かというと、ヤマトタケルが契りを交わした、〈床の辺〉ってそういうことなんですけど、その翌朝、そこに自分の短剣・草薙の剣を置いて戦いに出かけて、そこで死んでしまうという話なんです。だから、それも、その恋人たちに自分たちをなぞらえているんですよね。自分もミホさんに短剣を渡したわけですから。もうすぐ自分は戦いで死ぬとわかっているので、『古事記』の恋人たちに自分たちをなぞらえている。それは歴史、神話であると同時に文学上のモデルでもありますよね、『古事記』とか『万葉集』など。死を前提に、古典から来る言葉によって自分たちの恋愛を盛り上げる、そのとおりのことをやっているんです。
こういう人たちが、「そうか、いたんだな」って思うと、「すごいな」と思うけれど、単に二人に古典の教養があって文学的才能もあったというだけじゃなくて、やっぱりもうすぐ死ぬとわかっている特攻をやって国のために死ななきゃいけない。ミホさんにしてみたら、愛する人がもうすぐ死んでしまう。そういう状況になったときに、この人たちは言葉の力を多分必要としたんだろうなと思ったんですね。そういう特殊な状況の中で何にすがったかというと、愛する人がいるということ。だけど、それが単に「自分と相手」というだけだったら、なかなか国のために死ぬとかっていうのは難しいんじゃないかと思います。だから、ずっと生き変わり死に変わりしてきた日本人の積み重ねみたいのがあって、遡れば『万葉集』の防人の歌に出てくるような人たちがいて、その生命の積み重ねの上に自分たちがいる、そういうふうに思わないと、やってられないというと言葉が悪いですけれど、相当厳しいというか耐えられない状況だったんじゃないかなと思います。
だから、この二人の恋愛はものすごく美しいんですけれど、ちょっと何か危ういものがあるなとすごく思うんです。さっきも言ったように、芝居がかった感じしますよね。でも、あの人たち、そういうつもりはなくて、マジなんですよね(笑)。すごいリアルな、そうでもしないと生きていけないし、逆に言うと、そうでもしないと死んでいけないというのがあった。特攻みたいな特殊な状況になったときに、みんないろんなものにすがりますが、この人たちにとっては言葉が非常に重要であった。
やっぱり言葉、とくに歌。私たちは『万葉集』を勉強してきて、歌の言葉の持つ力のすごさをしみじみと、私もいろんな先生の話を聞いてよくわかりましたけれども、ものすごいエネルギーみたいのがあって、こういう危機的な状況、国も危機的だし、個人としても死ぬわけですから危機的な状況で、そのときに言葉のエネルギーの強さみたいなものが噴出するように出てくるんじゃないかと思うんですね。それは良し悪しではなくて、やっぱりそれだけ言葉の力というのはすごいということをわかって言葉を扱ったほうがいいんじゃないかなと思うんです。
普段意識しないですけれど、これだけ言葉がずっと残ってきたというのがあって、古典の言葉の強さというものがあって、その力のものすごさとか、ときには危うさとか、そういうものをわかった上で、歌を詠む人も多分増えたと思うんですけれど、わかった上で言葉を扱っていったほうがいいし、今までいろんな先生たちと読んできた『万葉集』の歌、全部素晴らしくて、生きることの素晴らしさとか、恋愛のよさとか、死の悲しさとか、あらゆる素晴らしいものが詰まっていたけれども、一面ではこういう危機的なときに容易に陶酔を呼ぶというか、ヒロイックな方向に人間を持っていく力というのが今でも失われずにあるんじゃないかと思うんですね。そういうこともわかった上で言葉を読むのもまた、そこまでシリアスな考え方じゃなくても、そういう視点を持って『万葉集』の歌をもう一回読んでみると、またそれはそれでおもしろいんじゃないかなと思いました。
この二人、こうやって盛り上がっちゃったじゃないですか。で、生き延びちゃったわけですよね。それはすごくいいことで、よかったなあと思うんです。8月13日に逢いに行って、島尾さんは「演習をしてるんだよ」と言うんです。リハーサルみたいな演習。「だから、大丈夫だからもう帰りなさい」って言うんだけど、ミホさんは、「演習なんかじゃないわ。もうこれは本番だわ」ってわかっているわけです。それで、相手にすがって泣いたりする。島尾さんはすごく愛しいんだけど、半分面倒くさいんですよね。だって部下もいて、いつ発進命令がかかるかわからないから。ちょっとなだめるようにして、「もう帰って寝なさい」とか言って部隊に戻って、ミホさんは朝までずっとそこに正座をして出撃を待つんだけれども、その日は出撃がなかった。で、安心して帰っていくんです。
余談ですけど、ミホさん、十数年前に亡くなりましたけれども、亡くなるまでずっと毎年8月13日には、島尾さんを見届けようと思って待っていた浜に行って、ずっと徹夜して、そこに正座をしていたそうです。私は最晩年に86歳ぐらいのときにお会いしましたけど、そのときに、「わたくし、もうちょっと体の調子が悪くてね、おととしからは行ってないんですのよ」っておっしゃっていたんですけど、それまでは80を過ぎても、ミホさん晩年は奄美大島の名瀬というところに住んでいらして、そこから加計呂麻まで車で1時間半ぐらい走って、海峡を越えるフェリーみたいなボートに乗って行かなきゃいけないんですけど、相当お年を召しても8月13日の夜は、夜を徹してそこに正座していらっしゃったそうです。そのエピソードでもわかるように、二人は生き延びて、戦後結婚するんです。9月ぐらいに島尾さんは島を離れて、「でも、絶対に迎えに来るから」と言って、ミホさんのお父さんに結婚の申し込みをした。まあ、それは偉いですよね。戦地で恋仲になっても、戦争が終わって戻ったら、それっきりの人とかいっぱいいましたから。ちゃんとお父さんに結婚の申し込みをして、自分は復員するんですね。
特攻隊は、米軍が島に進駐してきたら、最初にすごいひどい目に遭うんじゃないかって噂があったみたいで、特攻兵は50人。180人いましたけれども、50隻の特攻艇があって、特攻兵は50人だけでした。あとの人たちは、ご飯作る人もいれば何かの整理する人もいれば、いろんな人たちがいるので、その人たちは置いて特攻隊員20人だけを率いて、先に島尾さんは内地に帰るんです。漁船に偽装して帰るんですよね。まだ終戦直後で危ないときだったので。無事九州にたどり着いて、佐世保で解散になって、島尾さんは神戸がお家なので神戸まで帰った。ミホさんを迎えに来ると、別れるときに言ってるわけですけど、ミホさんは、隊長様がもう1回往復するのは危険だから、「わたくし大丈夫です。一人で行きます」と言って、本当に一人で密航船に乗って行くんです。なんとか情熱を持ってたどり着いて、昭和20年の11月ぐらいに、一ヶ月ぐらいかかってたどり着く。島尾さんたちは3日で着いてるんですけど、ミホさんは密航船なので。そのとき奄美は沖縄と同じで日本から切り離されて米軍の軍政下に入ることになったのもあって密航していくわけで……、密航じゃないですね、闇船っていうんです。密航というと普通の船の船底とかに潜んでみたいな感じですが、その船自体が通っちゃいけないところを通っている船なので、闇船。内地に行きたい人たちを募って、お金を出して、見つかったら大変なことになるというので夜だけ進んで、昼間はあいだあいだの島陰に船ごと潜んで、夜進むみたいなことをやって、一ヶ月ぐらいかかって、やっと着くんですね。それで昭和21年の3月に結婚するんです。
「吊り橋効果」って、ご存知ですか? 吊り橋で出会った人たちは恋に落ちやすいというのがあって、「吊り橋効果」と言ってしまうと身も蓋もないんですけれども、そうやって言葉によって古典の世界のようなところで盛り上がった人たちは、戦後の現実の中では、やっぱりその関係は持たないんですよね。だから、戦中の関係はあっという間に崩れて、結婚して半年目ぐらいから、あんなにカッコよかった隊長様の島尾さんなのに、内地に戻って戦争が終わってみれば、もともと「文弱の徒」ですからね、仕事も探さずに、お家がお金持ちだったのでお父さんのすねかじりで、結婚したあとも職を探すつもりもなく親の家に同居するんです。ミホさん、「こんなはずじゃなかった」となりますよね。ミホさんはけっこう長いあいだ、戦中の感覚が抜け切れないんです。ずっと隊長様だと思っていて、それを求めているから失望したりするんですけど、島尾さんは生き延びたので、もともと作家になりたい人ですし、お金もあるから、帰って1週間目ぐらい、昭和20年の9月とかに、「丸善でこういう本を買った」とか「背広を作りに行った」とか、「父がジュラルミンで何十万円ほど儲けた」とか書いている。物のないときに物を動かしてお金を儲けたりしてるんですよね。女の人のいるお店に行ったりして、それで二人のあいだに齟齬が起こってしまって崩れていくところからが本当のドラマで、そこから先のほうがおもしろいんですよ。
『死の棘』という小説があって、ご存知の方、読んでないけど知ってるという方もいらっしゃると思いますが、二人は昭和27年に、島尾さんが作家としてちゃんとやっていくために上京します。そして文学仲間の女の人と浮気をして、その前にもいっぱい浮気していたんですけども、その人とのことを日記に書いていたんですね。そうしたら、昭和29年の9月30日、ミホさんがその日記を見ちゃって、精神病院に入るぐらいまでになってしまうんです。その話を書いたのが『死の棘』なんですけれども、一見すると、作家の夫が浮気をして、奥さんが気がおかしくなっちゃって、でも、旦那さんは奥さんを見捨てず、別れられないから一緒に精神病院に入るという話なんです。ミホさんがいろいろあって入らなきゃいけなくなって、そのときに一緒に閉鎖病棟に入る。旦那さんがそうなった場合は奥さんが付き添いで入るんですけど、島尾さんは奥さんがそうなって、まわりの人には「もう別れたら?」とか言われて、医者も当時の医者、けっこうひどいですからね、「旦那さん、もうこの奥さんとは別れたほうがいいですよ」みたいなことを言う。でも、深刻な病気ではなくて、神経症みたいなものだったんですね。夫の日記を見た衝撃から来るものなので先天的なものではないし、でも、その衝撃があまりにも大きくて、退院したあとも、十数年にわたって、浮気相手のことを思い出すと狂乱したり、旦那さんを夜通し責めたり、そういうのは続いたらしいです。でも、やっぱり、どうしてそこまでになるかというのは、小説を読んだだけでは、「ちょっとエキセントリックな奥さんだったんだな」とか、「それでも旦那さんは見捨てなかったな」となりますけど、お話ししたような流れを知っていると、そこまでの恋愛があって、年老いたお父さんを捨てて、しかも(加計呂麻は)当時日本じゃないですから、もう一生会えないと思って(本当に会えなかった)、闇船に乗って命懸けでついてきたのに、女の人を作っちゃった。しかも私の見立てでは、そのときはまだミホさんは「隊長様」みたいな感じでいてほしかったんだけれども、島尾さんは作家になりますよね。本当に元の「文弱の徒」のもっとすごいやつにズルズル戻っちゃって、全然世間的な、いわゆる男らしい感じとかがないんですね。文学仲間と飲み歩いて、夜遅く帰って来る。それで、有名な作家になってくれたらまだよかったと思うんですけど、浮気が発覚したあたりは、そんな大した(笑)……、作品は今読んでも素晴らしいんですけど、売れてはいなかったし、芥川賞の候補とかにもなったりするんですけど、結局は獲れなかったりして、本人も焦りがあって、稼ぎはすごい少ないわけです。学校の非常勤と夜間高校の講師とかをやるだけで、お金持ちのお父さんから仕送りしてもらったり、ミホさんもすごいお嬢さんなのに造花を作る内職したりとか、そういう生活があった。だから、戦争中の高揚感みたいなものをわからないままだと、『死の棘』の世界もわからなくて、戦争は描かれてはいないけれど、私はやっぱり『死の棘』も戦争小説なんじゃないかなと思います。
何を言いたかったかというと、島での二人の関係はなかなか特別で、だからこそ本に書いたりする価値があるとも言えるんだけれども、やっぱり言葉の持つ力は侮れないというのはすごくよくわかるんだと思うんです。自己陶酔的なことをやっていたわけではなくて、やっぱり言葉の力に頼らないと生きられないし、死んでもいけないみたいな、そういう状況が、つい七十数年前にあったということです。だから、言葉の素晴らしさと、その持つエネルギーのすごさと、恐ろしさみたいなものを知ってください。実際にあった話なので、こんな人たちがいたということは、またいつこういうことがあるかわからないですしね。
危機になるたびに、古典の言葉が蘇ってくるのだと思うんです。いい感じで蘇ってくることがもちろん多いとは思うけれど、やっぱり「海行かば」もそうですけど、もともと『万葉集』の中では悪いものではなかったのに、使いようによっては「天皇のために死のう」と国民に思わせることに利用されて、利用した方がよくないんですけれど、もともと言葉の持っている力が強いので、千年以上経っても、優れた言葉が人に与える影響の大きさみたいなものは、改めてこの2人の事例を見ていると、侮れないと思います。そういう力のあるものを今私たちは扱っているし、『万葉集』という形で勉強しているんだということも、心のどこかに留めておくといいのではないかなと思いました。
今日は時間ピッタリです(笑)。終わらせていただきます。補講なのにこんなに来ていただいて、すごくうれしかったですし、心残りなくこの二人のお話ができましたが、これは一端で、そこからが面白いので、ぜひ本を読んでください。(2019年)9月1日に発売になります。どうもありがとうございました。
河野:後半戦を始めたいと思います。感想戦と申し上げました。受講生のみなさんにもどんどん参加していただこうと思っています。最初、前の4人で話を進めていこうと思います。ご存知、糸井重里さん。こちら古賀史健さんは、シェイクスピアからこの講座に通ってくださっていまして、今日は受講生代表という感じで前に出ていただきました。『嫌われる勇気』とか、『古賀史健がまとめた糸井重里のこと。』とか、カメラマンの幡野広志さんの『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。』をまとめておられます。まず、梯さん、今日もまた早口だったんじゃないですか? 90分に収めようと思って。
梯:次に言いたいことを早く言わないと忘れてしまうような感じがして、つい前のめりになってしまいました。
河野:私がちょうど出版社の社員になったとき、1978年なんですけど、その前の年に『日の移ろい』という本で島尾敏雄さんが谷崎潤一郎賞をお獲りになって、その頃の出版界の話題は、『死の棘』に次いで大きな作品で谷崎賞をお獲りになったと。当時、すごく人気のあった作家、吉行淳之介という方がいらっしゃるんですけど、吉行さんが、「とにかく自分も女で苦労したけど、自分の上を行く偉人はこいつしかいない」というのが僕に最初に島尾さんを紹介してくださったときの台詞で、ビックリしましたけれども、二人の尊敬のし合いが素晴らしくて、「いやあ、君もすごいよ、なかなか」っていうような感じで、いろいろな褒められ方があるなと思いました(笑)。今日の授業、糸井さんもいろいろ感じたことがあったと思うんですけど、梯さんへのねぎらいも含めて、どういうふうにお聞きになりましたか。
糸井:まずは本当にありがとうございました。前回もそうだったんですけど、こういうお話をなさっている方が恋愛の対象に見えてくるんですよ。梯さんを見るみなさんの目が、好きな人を見るみたいな(笑)。そうなりますよね? この現象を何か名付けられないものかなと。終わると、まあ、戦争が終わったようになるんだけど、お話になってるあいだは、「好きかも」という感じ。恋愛について語るというのは、恋愛そのものが持っている「何か」が入るんで、これから梯さん、『一杯のかけそば』の人みたいに600人ぐらいずつ人を集めてこの話をすれば、一生食いっぱぐれがない(笑)。
梯:だといいんですけどね、なかなか……(笑)。
糸井:と思ったのがひとつと、僕、島尾さんの話を吉本(隆明)さんから、悪口を言う対象として聞いていました。
梯:そうなんですか?
糸井:島尾さんはモテるということについて、吉本さんがものすごい憎んでるわけです(笑)。すごい親しかったんですね。本当に親しかったんで、上野の町をブラブラしてたら易者がいたんで、ちょっと見てもらおうじゃないかって、まあ、要するに悪ガキ二人みたいに歩いていた。「島尾さんを見たとたんに易者が、『この人は女難の相がある』って言うんですよ」って、ものすごく憎々しげに言う(笑)。とにかく吉本さんは、モテる人が大嫌いでしたから。島尾さんのこと、親しみと「この野郎」って気持ちを込めて、そういう話として聞こえてきた。それから、『死の棘』以後の島尾さんについてやっぱり、「奥さん」つまりミホさんが、「その新しくできちゃった女の人のことを責めてるのを島尾さんが一緒になって責めるんですよ。自分だって好きで手を出したんだから、一概に言えないんだけど、奥さんと一緒になって責めるんですよ」っていうのを、なんか「モテない男」として、「モテる男」のやり口に不満であるという感じで話していた。「俺に言ってどうすんだ」って思いましたけど。でも、やっぱりその背景が今日の話とつながったりすると、非常時と常時、日常っていうものの残酷なまでの、「絵の中」と「絵を見てる側」との違いというのが出る。吉本さんは「絵を見てる側」にいつもいたい人だったから、きっと心の中では「二人が浮かれてたわけですよ」ぐらいのことを言ってるわけです。自分もそういうところがあるのを知ってて、自分の中のものをしらみつぶしにつぶしていったので。歌の世界になっちゃえばいくらでも語れるんだけど、非日常に酔っていくことについて吉本さんがものすごい批判的な態度をとっていたのは、最後に今日、梯さんが、言葉が持つ魔力みたいなものに引きずられていく男女の話をしてくださって、こういう教室の中で最後に負の面を加えてくださったのがすごいことだなと思いました。そういう流れがあったおかげで、戦後に生まれた人たちは過剰に恋愛に期待する時代があって、多分、河野さんの世代もまだそうだと思いますし、僕らもそうだけど、そういうことをしてるのは正しくて、そうじゃないものはやっぱりいけないんだみたいな、みんなが恋に身を持ち崩すみたいなところにいって構わないという特攻隊が現れてる。あれも明らかにイデオロギーだった。
梯:そうだと思います。
糸井:そのイデオロギーがある程度決着して今は、「恋なんかしてる暇がない」的な人たちが現れて、大きい意味でイデオロギーの歴史みたいなものが、『万葉集』が殊更に強調されて戦争に使われるだとか、桜がパッと咲いてパッと散るみたいな思想は本居宣長の時代にはなかったのに、借りてきて使ったこととか、大きなイデオロギーの流れの中に文学だとか歴史がいいように使われていったことと、それに対する単純な反発の人たちと、この両方しかいないっていう文学性のなさみたいな、社会というもののつまんなさというものも、今日みたいなお話でトンネルができる気がしたんで、素晴らしい講義だったなと、ありがたく、野球の中継なども気にしながら、伺っていました。
河野:古賀さんからもどうぞ。
古賀:前回の梯さんの講義がおしまいまで行かなかったのがとても残念だったので、今日こうやって補講の場が設けられて、梯さん、河野さん、ほぼ日のみなさんにお礼を言いたいなと思っています。今日のお話については、糸井さんもおっしゃったように、戦争末期の極限状態と、恋愛、僕らは恋愛するとき酔っ払ってるような意識って多分あると思うんですけど、終戦を迎えたあとの二人がどうなっていったかを今日聞いたら、けっこう意外だったんです。僕、全然知らなかったので、もうちょっと続くんじゃないかと思ってたんだけど(笑)、すぐさま酔っ払う期間が終わっちゃったというのは、やっぱり恋愛とは比べ物にならない極限状態が戦争の時代にあったんだなというのを改めて教えてもらった気がして、それは8月になったら繰り返される戦争の番組を見てるだけじゃわからないので、今日のお話を伺えてよかったなと思いました。
河野:『万葉集』の講座でありながら、それを越えて8月21日の今日、梯さんにお話しいただいたというのは、戦争ということとの文脈、前回の講義も『昭和万葉集』に題材をとってということがきっかけだったんですけど、いろんな意味で『万葉集』と昭和が交差した歴史があって、それの良い面、悪い面、いや悪い面が多いのかな、それは岡野弘彦さんもおっしゃってたことにつながると思うんです。「自分は歌をやってきたけれども、益荒男(ますらお)という言葉が戦争中、『散っていく男らしい男』というような文脈で使われてしまったこと、そして、自分の友人が歌を残して知覧から飛び立って特攻で死んでいった。自分は生き残ったんだけれども、さて、そういう歌をどうしていくかということを自分の中で問うて、最終的には和歌の道を自分は手放さなかったというか、和歌への情熱の中にまた違った新しい歌の温度というか、自分なりに信じる和歌の道を切り開いて歩いていこうというふうに戦後の自分の進路を決めた」とおっしゃってましたけど、大変な時代の中の和歌、和歌と日本人ということも、今日のお話の中でたっぷり辿れたと思います。ところで、さっき板書してくださっていたのが、ちょっと気になっています。
梯:ミホさんの歌も『昭和万葉集』に入っているので、あとで時間があったら、と言ったんですが、時間がなかったので書いておきました。ミホさんの歌が3首『昭和万葉集』に入っていて、さっきの話を聞いたあととなっては、いかにもミホさんらしい感じの特攻艇の話も出てきます。
〈月読の蒼き光もまもりませ加那征き給ふ海原の果て〉
〈わが想ふ人も恋ふらめ山の上の明けなむとする薔薇光のそら〉
〈たのむとぞ特攻艇の舷うちたたき胸張り給ふ御姿念ほゆ〉
ちょっと戦時中の陶酔した感じが出ている感じがします。万葉調と言えなくもないような、そのへんにも影響を受けてるかなという感じです。
糸井:当時このへんを聞いたら、やっぱり胸にドンと来たんでしょうね。
梯:そうだと思います。歌そのものはよくできた歌だと思うんですね。戦後のこととかいろいろ知ってると複雑な思いにもなるし、やっぱりさっき言ったような陶酔しちゃってる感じも、意地悪に見れば、ちょっと出ています。でも、美しい歌ですし、真ん中の歌はミホさんから島尾さんへのラブレターに書いてあった歌なんですよね。説明しますと、さっきの呼び出されたけれども時間が間違っていたときの歌らしいんです。遅く着いてしまったので、夜がしらじらと明けてきて、薔薇の光のような朝焼けが見えたという。ドラマの中に組み込まれたような歌をちゃんと読んでいる。さっき言い忘れましたけど、ハンカチを結んだって言いましたよね。ミホさんが私におっしゃったのは、闇船に乗って出航しますよね。そのとき加計呂麻島を出たときに、この岸辺が見えて、自分が結んだハンカチが風に揺れているのが見えたそうです。すごいそれもロマンチックですよね。噓じゃないと思います。そういう、どこまでもロマンの中の世界だったので、戦後の現実は相当厳しかっただろうなと思いました。
河野:この万葉集講座、ほぼ日の学校としても大きな転機になったかなと思います。シェイクスピアから始まって歌舞伎の講座をやって、万葉集講座を立ち上げるときに、『万葉集』をやろうというのは糸井さんも早い段階から言ってましたし、そこについて迷いがあったわけではないんですけれども、実はこれほど『万葉集』が私にとっても意外なぐらいおもしろいテーマになっていくとは予想もしていませんでした。もちろん、途中に令和が決まるとか、考えもしないようなドラマも舞い込みましたけど、それ以上にやっぱり和歌というか歌というものが、こんなにいろんな意味で自分の中を掘り起こしてくれるのかっていうのは、講座を始めて、ここにいらっしゃる受講生の方々の反応を見ながら、「あ、そうなんだ」と、じわじわと感じていった、その意外さがこの万葉集講座を独特のものにした気がします。もちろん上野誠さんという得難いキャラクターがいたことも大きかったですね。古賀さんも、こういう講座になるとは……
古賀:まったく思ってなかったです。一番最初シェイクスピアをやるって聞いて、「ああ、それは素晴らしいな」と。歌舞伎の講座を早野先生がやる、それも「ほぼ日らしいし、いいな」と思って、次が『万葉集』と聞いたときに、「大丈夫かな?」と正直思ったんですよね。たとえば松尾芭蕉をやるとか、『奥の細道』をやるとか、一人の作家にフォーカスを当てるんだったら、いろんなアプローチのし方があるだろうけど、『万葉集』って誰が詠んでいるかわからない歌がたくさんあるもので、作家から切り込むことができないので、どうやって作っていくんだろうって、正直、あまり期待せずと言ったらおかしいですけど、不安な気持ちを自分がどれぐらい楽しめるんだろうと思って受講したんですけど、最初の上野先生でバーンとやられて(笑)、それから本当にずっと楽しかったですね。何ていうんでしょう、シェイクスピア講座との違い……僕自身が感じたので言うと、コンサート会場とかライブハウスに行くと、音が足元から響いてくるじゃないですか、ベースの音とかドラムの音とか。あんな感じで、やっぱり和歌というのが自分の足元から響いてくる感じがあって、「自分にはこういう血が流れてるんだ」とか、そういう知らなかった自分の内側をどんどん見ていく、掘っていく感覚がすごくスリリングでしたね。頭で覚えるとか耳で覚えるではなく、自分の中にすでにあったものを知っていくという初めての経験をさせていただきました。
河野:梯さんもほかの講師の方々の授業をだいぶお聞きになりましたね。
梯:はい、8割方出ました。やっぱり楽しかったのは、みんなで絵を描いたり、自分で歌を作ったり、早く作る競争みたいなことをやったり、盛り上がってすごくよかったですね。ただ聞くだけもいいんですけれども、ときどきああいうのがあると、「意外と作れるんだ」とか。1個も採用されませんでしたけど、すごい楽しかったです。
河野:糸井さんも言葉を扱って、それがみんなのイメージになってるわけで、たくさん歌をお詠みになられましたですね、今回は(笑)。採用率の問題も含めて。
梯:早かったですよね。さすが早いなと思って。
糸井:いや、体質的にできないんですよ、ずっと憧れてたけど。できないと思っていたんだけど、作らされたおかげで飛び出たんですけど、今でもその飛び出たものについて、何だろう、ちょっと「ないこと」にしたい。たとえば短い、コピーと名付けなくてもいいや、「8文字で何かいいの作って」って言われたら、頑張ろうと思えるんですけど、歌になると、突然どうしていいんだかわかんなくなる。だから、その違いが知りたくて、いたような気がする。だけど、奥にある何かが感じられる能力は、みなさんと同じように僕にもあるんだと思ったし、あと、歌謡っていうものだと思うんですね、詩じゃなくて。そこがとても興味がありました。これ、続・万葉集講座をやったら、僕は多分また喜んで来ると思うんですよ。同じ話をもししてくれたとしても、同じ話を違うように受け止められるような気がするんで。歌謡論みたいなところでも、その受け止め方をもっとしたい。歌謡曲は僕も作ってるんで、「これで人の心が動くんだ」とかってことについての興味もあるし。さっきの戦争に絡めて言うと、戦争も軍歌を歌いますよね。だけど、反戦歌っていうのも軍歌なんですよね。アンチテーゼなんだけど、殴り合いが両方暴力であるように、人を陶酔させるのは右も左も、主流派も反主流派も同じ構造をとっている。だから、酔わせないようにするっていうのを徹底すると、歌はなくなっちゃう。歌は素晴らしいし、酔うことも素晴らしいんだけど、「酔わされて何するの」っていうのは、それぞれ独自に考えたほうがいいことです。僕ら、反戦歌を歌いながらデモをやってるって、18歳のときにやってるわけですよ。殴られてても、その歌を歌ってると痛くないんですよ。学生が今被害に遭ってて辛いけど、立ち上がるといつかいい世の中が来るというタイプの歌ですよ。歌ってると鼓舞できて、酔えるんですよ。僕、もしかして夜中に一人であの歌を歌ってごらんって言ったら、泣きだすと思うよ。というくらい歌謡ってすごいもの。だから、今の社会を見るときに、歌謡的な動きで感情で動かされてるものを見るのにも、こういう講座とかで、歌謡のことをみんなが、「あ、こんなに酔えるんだ」っていうのを学ぶといいと思いますね。
古賀:確かに昭和の会社って社旗があって、社歌がありますよね。みんなで歌って、みんなで会社の旗を振ってっていうのは……
糸井:「翼をください」だって軍歌でしょ、いわば。どこに連れていくかは曖昧にしてるからいいけど、あなたの何かを鼓舞するという、そういう歌がいっぱいありますね。どんなに困難でも何とかだとか。いや、これ悪く言ってんじゃないんだよ。歌謡ってものはものすごいものだっていうことを、『万葉集』から学んだのがすごくよかった。否定するんじゃなくて、すごい力があって、それで一緒に何かができるとか、楽しめるとか、慰めるとかいろんなことができますよっていうのが、エネルギー論だよね、いわば。
梯:戦争があって、戦後の歌人たちはずっとその戦いのせめぎ合いで、岡野弘彦先生もそうですけれども、陶酔ということをやっぱり否定しなければいけないという戦後の時代があって、でも、今おっしゃったように、歌謡とか陶酔とかを全部否定してしまっていいのかという問題があって、ずっとそれを悩みながら、でも、戦時中あまりにも利用されたので、戦後は非常に批判されて、「第二芸術論」とか「奴隷の韻律」とか言われたんですよね。よくないものだとして。だけど、「それでも僕は歌を捨てなかった」と岡野先生がおっしゃったように、やっぱり生き続ける何かがあって、その危険性みたいなものも――それってエネルギーの強さってことなんですけども――それもわかりつつ、でも、やっぱり人間は歌謡を捨てられないだろうし、それがない世の中は味気ないものになるだろうなって感じがしますね。その「戦う」ことに意味があるような気がします。
糸井:今日のお話みたいなあたりで語られることって、小学校ではないわけですよね。小学校でこれを教えられたら素晴らしいですね。恋愛ってなんかすごいな、戦争ってものすごいなって、それを歌で。ところで、今日、僕、あえて悪役になりますけど、あの藻塩小屋でセックスをしたのかしないのか。
梯:そこでしたかどうかはちょっと微妙なんですけれど、ずっとミホさんにインタビューしていたときは、「全然口も利かないし、手も触らなかった」みたいなことをおっしゃってるんですけど、どんどんいろんな日記とか出てきて、島尾さんはそういうことを隠さない人なので、戦争直後に書いた日記が何年か前に刊行されてますけど、それによるとやっぱり、ミホさんのお父さんを疎開小屋というところに夜追いやって、そこに夜泊まったりとかしてるので、そういう関係ではあったんですね。島尾さんは、さっき言いませんでしたけど、自分が島に何をしたかということで戦後ものすごく自分を責め続けるんです。でも、隊長さんだったわけだし、島の人にも好かれていて、おばあさんが何か困っていれば荷物を持ってやったり、子どもたちと遊んでやったり、絵本を作ってもらった元小学生とかいろんな人がいます。でも、特攻隊って、地元の人たちは島を守りに来た神様だと思ってるわけですよね。だけど、島尾さんは知っている。別に自分たちは島を守りに行ったんじゃない。守るのは本土であり、大きくいえば天皇であり、そのために行ってるわけで、だって特攻が終わったら、みんな島から引き揚げたり死んだりするわけだから。本当は島を守りに行ったわけじゃないのに、島に悪いことばっかりして、女の人を作ったのもロマンスとして見れば美しいけど、隊長が地元の女の人を……
糸井:とんでもないです。
梯:そうなんです。だから、そういうのがあるわけです。部下の中にも、地元の女の人とそういう関係になって子どもまで産ませたけど、戦後捨てた人とかいて、自分たちは害悪を撒き散らしたと。しかも、沖縄の島で集団自決とかあったじゃないですか。それは軍が主導したんじゃないかってずっと戦後揉めていますが、あれと同じようなことがもしかしたら起きていたかもしれないって自分を責めるわけですね。シチュエーションが似ていて、米軍がもし上陸してきたら、自分たちは特攻で行っちゃってるからいないけど、そのあと、住民たちが自決するための壕を掘っていたんですね。それは別に島尾さんがやらせたわけでも何でもない。だから、それはすごく難しい問題で、自然発生的にやったっていうのもあるけど、軍の人が手伝っていたのは事実なんです。島尾さん、自分でそう書いています。だから、自分たちは「隊長さん」とか言われたけれども、何もいいことはしてないと。必要以上に自分を責めているんですよね。
糸井:そういう文学ですよね。
梯:はい、そうなんです。だから、ミホさんがおかしくなっても捨てなかったっていうのも、ミホさんは「島の化身」みたいなもので、自分が島に何をしたかってことを常に思い出させるものがここにいるわけです。でも、それを捨てなかったというのは、それこそ『死の棘』ですけど、ずっと自分が棘を刺されてることで、自分が過去に何をしたかを忘れないでおこうという。まあ、島尾さん、困った人なんですけど、いろんな意味で。でも、そこは誠実というか、自虐的といえば非常に自虐的なんですけど、そういう人だと思います。
糸井:絵の中の世界に生きられるミホさんという人がいて、絵を描くのをいわば職業的にしたい小説家である島尾さんという人がいて、いわば往き来したいわけですよね。この二人は絶対に違う世界で生きていくわけだから。
梯:そうなんです。死んだあとも別の世界で生きてると思います。なんかズレがあるんですよね。それが悲劇なのか、よかったのかわからないんですけど、「愛って何?」ってすごく思いました。よくわからなくなってきますよね。
糸井:ミホさんにとってはもうその「絵」だから、噓も何もいいんですよね。松の枝にハンカチがなかったかもしれないけど、あるんですよ。そういう絵を描いてる話と、島尾さんが小説で身を立てていくときの小説というのは手段でもあるわけで、本当に純粋な小説っていうものがあるのかと言ったら、わからないわけだから。無理だよ、二人は(笑)。
梯:そこすごい不思議で、そこがおもしろいですよね。『狂うひと』って、何が狂気かっていうのも、ずっとその「絵の中」にいて、何かその絵が違うと思ったらギャーッてなっちゃうミホさんが狂気なのか、それを外側にいて観察して描いてしまう、そっちのほうが一般的な人間からいうと、「ちょっと変じゃない?」みたいなところがあります。
糸井:うん。だから、藻塩小屋でできちゃってくれたほうが人として完結する気がするんで、なんか、そうあってほしいな。つまり物語の中で二人で泳いでたっていうのは、ちょっとキツすぎるなと思う。
梯:その書かれた文字とか文学によって恋愛してたじゃないですか。そうするとミホさんが敏雄さんの日記を見ておかしくなるんですけど、浮気してたのは実は知ってたんです、その前から。相手が誰かも知ってたんです。でも、本当に狂ったのは、それを書いた文字、何て書いてあったかは最後までわからないんですけれど、ミホさんがそう私に言いました。「十七文字」と言ってましたけど、その文字によって気が狂うんです。だから、あの人たちにとって、書かれた文字とか文学とか文章がどんなすごい価値を持っていたかと思います。浮気された事実よりも、それについて書かれた文章のほうが、ミホさんにとっては重いんですよね。それ自体が、私たちからすると、ちょっと狂って……。
糸井:今の話は今度の本に?
河野:しっかり書いてあります。
梯:書いてます。そこが一番おもしろい。私、どっちかというと、あまり恋愛とか興味ないんですけど、その不思議な、書く・書かれるの間がおもしろい。もっと言っちゃうと、ネタバレですけど、その日記は、どうも島尾さんがわざと見せたらしいんです。
糸井:ああ……。
梯:私がいろいろ調べたところによると、8割か9割そうだと思うんですけれども、なんでわざと見せたかというと、その反応を見て小説にしたかったんだと思います。すごいでしょう? こっちのほうが狂ってますよね。
糸井:その匂いはすでにありますよね、多分。
梯:あります、あります。
糸井:だって、いい歳をした大将じゃない。リーダーやってるぐらいの人が、娘が泳いで来たみたいなことをさせてるわけだから、絶対作ろうとしてますよね。
梯:そうなんですよね。
糸井:へぇー。
梯:すごいでしょう? 私の担当編集者が「本当に狂っていたのは妻か夫か」って帯にコピーを書いてますけど、本当にそのとおりで、ちょっと島尾さんのほうが、一歩引いて見るとヤバいんじゃないかなって感じがします。文学者、物を書く人の狂気みたいなものってあると思います。
糸井:それを読んでる僕たちはどうなんですかね。
梯:(笑)
河野:みなさん、この本の厚さに怯えるところあると思うんですけど、読み始めると……
梯:すみません、宣伝してもらっちゃって(笑)。
河野:あっという間に読んでしまう。こんなのおもしろがってる僕って何なのと思いながら読んじゃいます。
梯:私、ちょっと地獄に落ちるんじゃないかって思ってるんです。それを書いてしまったので。私、実はミホさんに生前取材していたんですけど、途中で断られたんですよね。もっと自分の言うとおり書いてくれると思ったらしいんですけど。そのとき、まだ書いてないんですよ。それまでは新聞記者とかインタビューは来るけども、ノンフィクションを書く人はいなかったらしくて、そんなつもりはなかったんですけど、周辺取材とかするので、お墓を見てきたり、まわりの人に聞いたり、そういう気配を察して、これは自分が書かれたくないことを書かれるんじゃないかと思われたらしくて、断られたんです。諦めたんですけど、亡くなったあとに、いろんな資料とかが出てきちゃって、これはやっぱり書こうと思って書いたんですけど、結局ミホさんが書くなって言ったことを書いたので、もうちょっとまずいっていうか、許されないというか、島尾さんよりひどいかも(笑)。
河野:これはおもしろい話があって、梯さんのこの本はいくつかの文学賞を受賞したり、ノンフィクションの賞を受賞したりしたんですけど、そのパーティに出た梯さんがいつも会場を見渡すと……
梯:ミホさんがいそうな感じがする(笑)。
河野:ミホさんそっくりな人がね(笑)。
梯:いや、ミホさんって、霊能者とは私は思わないけれど、ちょっとそういう不思議なところのある方だったんです。不思議な逸話がいっぱいあるんです。巫女さんの家系ですしね。いろんな、人には見えないものが見えたり。私、吉本隆明さんのインタビューを長くしていて、そのときにミホさんのことに興味を持って、そのことを吉本さんに話をしたら、「いやあ、今のうちにやっといたほうがいいですよ。あの人はね、普通の人には見えないものが見えますからね」とおっしゃるんです。それもあって、じゃあ、ちょっと会ってみようかなと思ったのもあるんです。ちょっと不思議な感じの方だったですね。最後に解説の代わりに沢木耕太郎さんとの対談を載せたんですけど、そこでも言ったんですが、あの世に行ったら絶対、ミホさんから許されないというか、怖い(笑)。やっぱりノンフィクションを書くのは罪深いって話を沢木さんともしたんですけど、覚悟して、死んだら地獄に落ちてもいいと思って書きました。
糸井:だけど、その「狂うひと」で一切ありたくないっていうことはあり得ないし、それが果たして人間にとって幸せかって考えたら、妙なものがいろいろついてくるっていうのは、いいバランスなんじゃないですか。
梯:私、ミホさんのことすごく好きなので、全部書いたほうが絶対この人は魅力的にみんなも思ってくれるっていう確信だけはあった。本人はやっぱり隠したいこととかあるけれども。ミホさん、作家として素晴らしいんですよね。でも、大体みんな絶版になっていたので、それをなんとか復刊させたいというのもありました。ミホさんの作品の素晴らしさについて誰も書いてくれないので。私、文学系の人では本来ないので、作品には普段踏み込まないんですけど、ここではいかに素晴らしい作品かってことを言いたくていっぱい引用しました。結局、ミホさん、生前に2冊本を出してるんですけど、両方とも復刊されましたので、ぜひみなさん読んでください。『海辺の生と死』って吉本さんが解説を書いているのと『祭り裏』、いろいろタブーがあって、なかなか今の世の中では再版できない差別用語があったりしましたが、幻戯書房というところから、このあいだ復刊されました。両方素晴らしい作品です。
河野:では、受講生の方にも聞いていきたいと思います。『万葉集』講座全体の感想戦をやろうかなと思っていたんですけど、せっかく梯さんもいらっしゃって、補講という特別なことを企画したわけですし、こんなにたくさん講座が終わったあとにまた同窓会的に来てくださったみなさんなので、梯さんへのご質問とか感想でも結構です。遠慮なく手を挙げていただけますか。
受講生:『狂うひと』を書き上げられたあと、島尾夫妻の息子さんが確かいらしたと思うんですけど、ご家族とかまわりの方からの反応はどうでしたか。
梯:ご夫婦のお子さんが二人いらして、島尾伸三さんが素晴らしい写真家で、マヤさんという娘さんは、私が取材を始めた頃には50代で亡くなられていました。さっき申し上げた、ミホさんに取材をして断られて、そのあとミホさんが亡くなって、もう一回取材したいと思ったときに、ご遺族である島尾伸三さんに会いに行きました。こういうときは全部正直に言ったほうがいいというのを経験上わかっているので、ミホさんに一回断られたけれども、新しい資料が見つかってもう一回取材したいと思ったのは、『死の棘』に出てくる、日記に書かれた愛人の女の人がいるんですね。その女の人が誰かというのは、それまでわかってなかったんです。知ってた人はいたと思うんですけど、誰も書いてなくて。それを突き止めちゃったんです、偶然あることから。それがわかったときに、すごい下世話な感じがするかと思うんですけれども、その人は作品にも全然出てこなくて、なんだかよくわからない人なんですね。でも、島尾敏雄に書かれたという意味では、ミホさんとその人は同列。ミホさんはその愛人のことを一切もちろん語ったりとかしなくて、ご本人の話を聞いてると、彼女が書いたものでもそうですけど、夫の浮気というのはまるで天災にあったような感じで話すんです。彼女はクリスチャンなので、「神の試練を夫婦で乗り越えた」みたいな物語になって、生身の女の人が一人絡んでるって感じがまったくしないんですね。だから、その人のことがわかったので、その人のことを書けばミホさんのこともわかるんじゃないかなって思ったんです。いろいろミホさんに対する疑問があったので。で、息子さんの伸三さんに、正直に「愛人のことがわかったので改めて書きたいんです」と言ったんですね。断られても仕方ないと思ったんですけど、島尾伸三さんは「わかりました。じゃ、書いてください。その代わり、きれい事にはしないでくださいね」っておっしゃったんです。本の最後の謝辞のところに書いたんですけど、そんなこと言う遺族っていないんですよ、普通は。みんな、きれい事にしてほしいんですよね。そう言って全部の資料を見せてくださって、「好きに書いてください」と。連載していたので毎月のをご覧になっているんですけれども、「こういうことは書かないでくれ」とかまったくなくて、すごくありがたいというか、伸三さんがいなければ絶対に成立しないものでした。
受講生:梯さんの前回の講義のときに岡野先生のお話をなさって、戦友の方が亡くなって、それで、岡野先生が「……」。その梯さんのメモの「……」が、岡野先生の『昭和万葉集』の〈焼くることもつともおそき〉につながるというお話がありました。そこの「……」というところで、私も、戦友を弔ったことは容易に想像はついたんですが、その「……」がここにつながるとおっしゃったときに、私はすごいショックを受けたんです。「ああ、梯さんは行方不明の大切な人を訪ねて訪ねて探し当てるような情熱を持って、そのあいだ、わからないものをいろいろなところから全部つまびらかにわかってしまう」というか……。私自身、この句を見たときに、「まあ、そういうことなんだろうな」と思ったけど、岡野先生の講義を伺ったときには、土葬ぐらいのことを考えたんですよね。まさか火葬にするというのは思いつかなかった。大変なことですよね。で、どなたかが、「歌はその人からの手紙」だとおっしゃって……。
梯:俵万智さんがおっしゃっていました。
受講生:本当にそうだなって思いました。歌が残ることで、「……」というところこそ、その方がいろいろ深ーく深く胸の奥にしまってある情景なのだけれども、いろんな関係で外に出せないこと、それを結びつけてわかっちゃうというお仕事が、何ていうんでしょうね、とにかく私はびっくりして、すごくショックだったんです。「……」がこういうことにつながって、私たちに伝わる、その力っていうんでしょうか、梯さんのお仕事が本当にショッキングでした(笑)。長々とすみません。ありがとうございます。
梯:けっこう偶然というのも大きいです。あのとき岡野さんの話を聞いていて、次に自分が講義をするときに、「今回の担当をなさってる先生たちの歌を『昭和万葉集』から調べてみよう」と、思いますよね。せっかくだからご紹介しようと。『昭和万葉集』って最後の巻が索引だけの資料編で、お名前を見ると第何巻に載ってるかがわかる。その巻の人物索引を見ると何巻の何ページにあるかがわかるので、そうやって集める作業をして、永田先生の歌もそうやって調べました。そして歌を見ていくと、「あ、これはもしかして」と思って、でも、ご本人に確認したわけじゃないからわからないですけど、そのときの講義のノートを見てみたら、「その戦友が戦死して……」というのがあって、お弔いをして「……」。やっぱりそこで言えなかった、すごいショッキングなこと。みなさん覚えていらっしゃると思いますけど、火葬にして、「焼くることもつとも遅き」、腹の部分から脂がしたたりやまずっていう。「あ、きっとこれだったんだな」って。それは自分で講義をするというきっかけがないとわからないことで、けっこうそういう偶然で、「これはもしかして」っていうことが、やっぱりこの仕事しているとときどき起こるんですよね。そのためにやっているというか(笑)。そのときに、あなたがショックを受けたように私も「おお!」って衝撃を受けて、これはやっぱり言いたいとか伝えたいって思うので、ノンフィクションって、事実を取材してると偶然って起こるんですね。気に留めていただいてありがとうございます。
受講生:梯久美子さんのファンです。
梯:ありがとうございます(笑)。
受講生:栗林中将さんの本とか、『狂うひと』とか、原民喜さんの本とか読ませていただいたのですけれども、ノンフィクションの題材となるべき人を選ぶ、というか、そういう人と出会うのは、どういった観点からされるのですか。私は梯先生のパワーに本当に圧倒されて、それについていって読んで、そのあとヘトヘトになるというパターンなんですけれども、そういったことにファンとして興味があるので、教えていただけたらと思います。
梯:人を選ぶのも偶然みたいなのがあるんですよね。最初、栗林中将の本も、私、40歳過ぎてから書いてるんです、初めての本で。軍人とか戦争とかに興味がなくて、どっちかっていうと避けていた。前に言ったかもしれませんけど、父が少年飛行兵で、そういうのがあるから余計いやだったので、戦争物とか一冊も読んだことなかったんですけど、まあいろんな偶然とかがあって。それは広く言うと、最初の本に関しては、自分がずっと避けてきたことに40過ぎると直面せざるを得ない流れになるのかなと思っています。私の父は若くして志願して軍人になったんです。軍人は戦争をするのが仕事の人だし、平和のほうがいいしとか、そういう単純なことをずっと考えていました。大学生のときに親友の女性から、「あなたのお父さん、あんなにいい人なのに、なんで軍人なんかになったんだろうね」と言われちゃって、全然反論できなかった。父とそこそこ仲良かったんですけど、もう亡くなりましたけど、なんとなくその問題を棚上げして、戦争映画とかも見たくないしとかって思って生きてきたので、ライターをずっとやってたんですけど、女性問題とか取材していて、まさか自分が軍人のことを書くなんて思っていませんでした。作家の丸山健二さんを取材したときに、「栗林中将っておもしろい人がいるけど、梯さん、その歳で一冊も著書がないと、これからライター業も大変だし、結婚する予定もなさそうだし、どうかな。梯さんみたいな人が書いたらおもしろいんじゃないかな」って言われて、最初全然興味なかったんですけど、ちょっと調べたらおもしろい事実が出てきた。向こうから来たんだけど、よーく考えてみたら、自分の中にもそういう必然性があったみたいな感じでした。私、女性問題ってすごい長くやってきたんです。働く女性がどうとか。それに固執するとかえってよくなかったんだなと思っています。自分から遠いと思っていたことのほうに何かあるっていうのも経験上あります。あと、頑張り過ぎてもダメというか、頑張り屋のように思われるかもしれませんけど、実はけっこうダラダラしています。若いときからライターとして取材してたんですけど、何か取材しようと思ったらバーッとアポ取りをどんどんしてガンガン進むとか、そういうことすると意外とダメなことが多いんですよね。だから、「明日できることは今日しない」というのが私のモットー(笑)。ちょっと待ったほうがいい場合もあって、自分があまりにも書きたい書きたいっていうのが最初からあると、もしかしたらそういうのは自分が出過ぎちゃうかなって感じもしなくもないですね。主役は相手の人なので。だから、人を選ぶというのはとくに、一言で言うのはないんですけど、「明日できることは今日しない」をモットーに取材をしています(笑)。
河野:そのあたり古賀さんもご意見というかコメントを。
古賀:僕、実は梯さんと若干接点があって、梯さんが吉本隆明さんの取材をされて、吉本さんの本をまとめられたあとに栗林中将の本を出されて。大和書房でしたよね。
梯:そうです。
古賀:大和書房の編集者から「梯さんというすごいライターさんがいて、その人と仕事してたんだけど、栗林中将の本を出して、梯さんはおそらくこれから作家という立場になっていくんで、古賀さんもいいものを書いて調子に乗ってるかもしれないけど、梯さんみたいな人がいることをちゃんと知って、梯さんみたいになってほしい」みたいなことをお説教のように言われたことがありました。
梯:そうですか、どうもすみません。
古賀:あ、そうなんだと。で、それからずっと梯さんのことを仰ぎ見るように見てたんです。僕も今、自分がいろんな方に取材して本を作りますけど、何でしょうね、その「こういう人」っていうのは、やっぱり、こっちからアプローチするのはなかなかないような気がしますね。形としてはこっちからアプローチしてるんですけど、何かの引き合わせで、タイミングもありますし、たとえば今だったら作れる本も10年前の自分には作れないし、10年後の自分にもおそらく作れないだろうし、自分の中でのタイミングと相手の方とのタイミングもあるので、一概には言えない気がしますね。
梯:なんでこの人だったかなというのは、書いてみて初めてわかるというか、書きながら気がつくというのがありますよね。ノンフィクションですから、取材が大体終わった時点から書き始めるんで、書く内容はもう決まってるはずなんですよね。わかってるはず。だけど、やっぱり書いてみないとわからない。自分の表現で苦しみながら書いてみて、やっとわかるみたいな。それがないと書く意味ないっていうか、書く前に全部わかっていたら、書く意味あんまりないので。書きながらやっと本当に理解する。相手のことも理解するし、それを書こうとした自分のこともわかるみたいなところがあります。やっぱり手を動かして書く、頭使いながら書くっていうのがすごい大事なことだなと思っています。だから、わかってるわけだから、全部最初から完璧に構成をして小見出しとかを立てて、その間を埋めるように書いていったほうが効率的なんですけど、それじゃダメなんですよね。今書いてる文章が次の文章を連れてくるみたいな感じで書いていかないと、気がつくことが少なくて。それってすっごい時間かかるんです、ものすごく。10行書いて20行消すとかって言うと、「じゃ、マイナスになるじゃないですか」とか言われるんですけど、本当に3歩進んで2歩下がるみたいにして書いていく感じですね。
河野:ありがとうございました。時間もそろそろ押してきましたので、そろそろ締めようかなと思います。古賀さん、糸井さんもありがとうございました。
梯:ありがとうございました。
(おわり)
梯先生の補講は「これを聴かずに終わっていたかもしれないのか!」と考えるだけで、ちょっとおそろしくなるほどの内容でした。もっと続けばいい、時間の限り、梯先生の話を聴いていたいと思いました。後半の座談と質疑応答がまた素晴らしかったです。糸井さんがことばを生む立場から、ことばのおそろしい面をよくご存知であるがゆえの総括をなさったことも、聴講生の方からの質問(島尾夫妻のご家族はどう受け止められたか)をうけて梯先生がエピソードを語られたことも…、梯先生もまた、狂気の気配をもつ書くひとであることを目の当たりにして、これも戦慄せずにいられませんでした。
歌の持つパワーに圧倒されました。
島尾夫妻のあまりにも劇的な生涯を
梯先生の熱量で更にパワーアップした形でご紹介いただいたので、受講後の、心に留まる感情が複雑すぎて…。幸運なことに感想戦があったおかげで、なんとか消化できたような気がします。
梯さんの講義には思わず身を乗り出してしまいました。事実を披歴くださり、そこに加えての深い洞察やお考えに引き込まれました。お話の随所で、『私、梯さん好きだわ―』と思いながらお聞きしていました。
梯さん、ついつい徹夜をして、語るテーマを足してしまわれるんですよね。こんなことを発見しちゃった!みんなにもそれを知ってほしい!今回も梯さんのそういう気持ちがあふれ出ていて、こちらも前のめりになって聞き続けました。(もっともっと聞きたかった)