万葉集講座 
第10回 上野誠さん

『万葉集』を人生の伴にする

上野誠さんの

プロフィール

この講座について

「誰でもが歌にときめく万葉集講座」の最初と最後の講師をつとめてくださった上野誠さん。「この万葉集講座はね、逆上がりのできない人にいきなりムーンサルトをやらせるのに、万葉集の基本は何も教えていないんですよ」といきなり爆笑を誘いながら、改めて万葉集の基本を語ってくださり、その上で、「万葉集とは、もっとも中国的でもっとも日本的な歌集である」という深淵な定義を披露してくださいました。万葉集講座のフィナーレです。

講義ノート

●「令和」になりました。

令和になって唯一よかったことは、ゴールデンタイムの番組に出られたことです(笑)。たくさん出してもらいました。民放さんにも行って、カズレーザーさんと会ってね。これがちょっとびっくりしたんだけど、会った途端、僕の顔を見るなりね、「先生、法隆寺釈迦三尊像光背の銘文の中に出てくるのは、これは年号でいいんでしょうか。私年号でいいんじゃないんでしょうか」と、こう言うわけよ。初対面で難しい質問するって失礼ですよ、失礼(笑)。僕、よく学生に言うのよ。「質問をするときには講師のレベルを考えなさい」。講師のレベルを考えて、「こいつだったら、この程度はわかるやろう」という、気持ちよく答えられるレベルのやつを持ってくりゃ、そりゃいいよ。それが、いきなり法隆寺の銘文。「法隆寺だろ? 釈迦三尊像だろ? 後ろのほうにある光背? その銘文? 君の言ってる法興ちゅうのはこれか? 仏法が興るということだから、仏法が伝わって1年目とか2年目とか、釈迦の何年目とかなら、年号としての役割を果たさんことはないけれども、これは年号というよりも、私年号=私の年号だから、年号とは言わないほうがいいね」って、かろうじて答えられたからよかったよ。けれども本当に「危機」っていうのがあるんですよ。パッと言われたときに答えられないということがね、そりゃまあ、あります。まあそれは、よかったというかね(笑)。

今日もせっかくですから、令和の話もしなきゃいかんでしょう。令和の出典になった、そのまた出典になったところを全部みんなで読もうと思っているわけです。ちょうどこの万葉集講座が始まり、改元があって、元号が『万葉集』に基づくものなので、思い出作りみたいなものですよ(笑)。5月になって上野先生の講座のときには、みんなで「令和」の元になるところを読んだ。これはいい思い出になるのではないですかね? ひょっとすると「ほぼ日」さんは、元号の出典が『万葉集』だってことを、先にわかってたんじゃないでしょうか? その上で講座を設定してたんじゃないかというような感じもしないでもないんですけどね(笑)。

それから、新聞記者さんからの取材も受けました。記者さんというのは、逃げ道をふさぎながら、こちらが言いたくないことを聞き出そうとする職業なんですよ。「いや、先生、おっしゃれないのはわかってるんですよ。でも、ひょっとすると、元号の下準備ぐらいはされたんじゃないですか」。「いや、そんなことは絶対にない。俺も4月1日に知ったんや」。「いや、言えないことはわかっているんです。言えないことはわかっているんです。先生は、数ある万葉学者の中で、出身、福岡県ですよね」。「福岡県よ」。「福岡県の中でも太宰府の近くの朝倉出身ですよね」。「そりゃそうやけども、違うんや」って。そんなふうに次々に、なにかカマのかかった質問が来るんです。

「令和」について、よく歌が出典といわれていますが、違うんですよ。歌じゃなくて、歌についている漢文序文から取られています。万葉集の巻5です。大伴旅人の邸宅で行われた梅の花見の宴についての序文に「初春の令月にして気淑く風和ぐ」というところがあり、そこから令和と取っています。ここのところまで、頭に置いといてください。この講座は、いきなり比較文学を学ぶようなものです。シェイクスピアや『万葉集』の講座なんて、逆上がりができない人にムーンサルトを教えるようなものですよ。そこに、梯久美子先生は出てくる、永田和宏先生は出てくる、ピーター・マクミランさんは出てくる、俵万智さんは出てくる、もう次々に出てくる。それで、よく考えたら基本は何も教えてない(笑)。これもすごい。この講座はすごい。ウルトラCが連続してあるのだけれども、逆上がりはまだやってなかったというようなものですよ。

●「歌」とは。

前にも少しは述べたけど、もう一度復習しましょう。歌というのは基本的には普遍性を持った文化です。たとえば、お経だって歌といえないこともないのです。お経ってなにかといいますとね。まず、パーリ語とかサンスクリットで書かれたものを、漢文に翻訳をします。出来上がったものは、漢訳仏典といいます。そして、その漢文に訳した経典を、中国語音で発音するとか、漢文を書き下し文にして言うならまだわかるけれども、それをせずに、日本の漢字音で頭から読んでいくのがお経です。そうするとどうなるかというと、これはインドの人もわからない、中国の人もわからない、日本の人も聞いてわかる人はいない。誰もわからないけど、それでいいというものです。言葉には音楽的側面というものがあって、それを利用しているわけです。だから、歌というのは普遍的な文化なんです。

これはもう基礎の基礎、人文科学の基礎の基礎です。文明というものと、文化というものを、もし対比的に用いるとすると、文化とは基本的に型なんです。文明とは何かというと、型を超えるものです。だから、日本文化、中国文化、アメリカ文化、ヨーロッパ文化、いろいろあります。

歌は、実は文明なんです。われわれが人類として持っているひとつの機能なんですね。その中に、それぞれの地域で型があるわけです。日本で、五音句と七音句で区切ってひとつの歌の形を作っていくというのは、七世紀の後半にはできてしまったわけですよね? だからいまだに、何かちょっとしたことを言おうと思うと、わたしたちは、五音句と七音句になるわけです。

第一回の講座で、僕は泣けましたよ。河合祥一郎先生が出てこられて、僕が中学校のときに暗唱していた、中野好夫訳の『ロミオとジュリエット』の「舞台も花のヴェロナにて、いずれ劣らぬ名門の両家にからむ宿怨を」と。これほとんど歌舞伎じゃないかと思いました。文章を五音句、七音句に区切っていくことによってひとつの詩になっていて、それが、もともとのイギリスの詩の形になっているという。またそれも河合先生が声にだしたら、見事に音楽だったんです。ああ、きれいだ、意味全然わからないけど音楽としてきれいだなって思いますよね。だから、われわれが英語の歌を聞いて、いいなと思うじゃないですか。フランス語の歌聞いたって、いいなと思うじゃないですか。そういうふたつの側面を持っているわけです。国会だってそうです。「議長~~、本日の会議は散会とし、明日九時から開会することを提案しま~す」と言うあれは、広い議事堂で多くの人々がわかるような言い方が工夫されているわけです。さらに、日本中の駅でまだ拡声器がなかったときの古い言い方を残しているのは松本駅だといわれています。今でも松本に行ったら、「松本ぉ~~、松本ぉ~~」と、こう言ってくれるんですよ。そんなふうにして、何万年にもわたって声の文化というのを鍛えに鍛えてきています。そういったものが地域ごと、その時代ごとにさまざまな型を持っていて、その型がひとつの歌の形だと考えたらいい。だから、歌ということについていえば、世界の文明のレベルで、普遍的な性格を持っている。ところが、文化のレベル、個別的な性格を持っているものとすると、それは「中国の歌も違うよ」、「朝鮮半島の歌も違うよ」、「日本の歌も違うよ」となるわけですね。

●最後の回で、ようやく『万葉集』の基礎情報

そして、次に何を教えなきゃいかんかというと。『万葉集』というのは、20巻から成る書物で4516首あります。ようやく最後にこれが出てきました。20巻で4516首。成立の時期についてはいろいろな考え方があるけれども、今見ることができる形で考えると、8世紀の中頃にはできていたでしょうね。成立したころから、写本でひきつがれていくのですが、すべて揃って見ることができる一番古いものは、鎌倉時代の「西本願寺本万葉集」になります。平安時代には、断簡といって、さまざまに切れ切れになったものがあり、これをみていけば、もともとはこういう形があっただろうなということを推定することができる。大体、8世紀の奈良時代の終わりのほうには、今見る形になっていたでしょう。

『万葉集』がどうやって作られたかというと、今みたいに「さあ、作りますよー。編集終わりました。はい、どうぞ」というものではありません。少しずつ形成されていくものです。最初は歌1首でもいいんですよ。そこから少しずつ歌が集まって歌群になって、その歌群が、各氏とか各家でストックされて、まとめられていく。これを何というかというと、「先行歌集」というんです。たとえば、柿本人麻呂歌集、田辺福麻呂歌集、高橋連虫麻呂歌集。宮廷に伝わっているものだったら、古歌集、古集、類聚歌林と、こういうふうにね、スラスラ言うと専門家みたいに見えるでしょう? いっぱいある先行歌集を集めに集めてきて、4516首集まっているのが『万葉集』です、と考えればいいわけです。

「令和」について、僕は4月1日から何十回もインタビュー受けているわけです。何というふうに説明すればいいか、いろいろ考えましたよ。「今回は『万葉集』の」。「いや、歌じゃないんです。序文で、序文は漢文で」というふうに。すると「じゃ、序文と歌との関係はどういうものですか」と聞かれる。「それは序文があって歌が三十何首あるんです」って言うんやけど、なかなかわかってもらえないのです。ところが、だんだん説明するうちに、「32首の歌がありましてね、それを束ねる序文と……」となってきた。われながらいい説明だ、「束ねる」と言ったら、序文とその歌との関係が誰でもわかる。

前にこんなことがありました。富本銭という、古い飛鳥時代、天武天皇の時代のお金が出てきました。しかも、大量に。銅を流し込んで作りますから、ちょっと張り出したところが残っている未製品がでてきました。ところどころ張り出しているところを、やすりで削ったものが完成品です。この未製品のことを、あるときラジオで解説しなきゃいかんことになりました。「いや、これを流し込んで、こうやって張り出したのが……」って説明をしていたんです。そしたらね、一緒に出演しておられた浜村淳さん、これ関西の大変なパーソナリティの方ですよ? その方が「上野先生、それは鯛焼きを作るときに、あの横のはみ出たカリッとしたやつと同じような?」。(*パチンと手を叩いて)「そのとおりです、そのとおり」。

つまりそれと同じことで、どういうふうに言わなきゃいかんのか? 「歌集の形成というのは、今いわれている編纂とは考え方が違うんです。少しずつ大きくなっていったんです。それで大体今見る形というのは、奈良時代の中頃なんです」と、こういうことを言わなくちゃいかんのね。何回も繰り返してたら、名案が浮かんだ。どういうかというと、「いいですか、ここにね、雪が降りましたね。小さな雪の玉を作りましたよ。これが1首だと考えてください。これを雪の上をころころと転がしていくと大きな雪だるまができるんですよ」。こう言ったらわかりやすいじゃないですか。だから、最初は1首でもいいんですよと。そうやって徐々に形成してきたわけです。

そうすると、こんなことも起こります。持統天皇の
〈春過ぎて夏来るらし白妙の衣ほしたり天の香具山〉 巻一(二十八)
という歌の注記のところに「持統天皇は(軽太子に)位を譲って尊号を太上天皇という」と出てくるわけ。太上天皇って上皇さんってことね。当時「この天皇さんの説明はしなきゃいけないんだけれど、どういうことが注記で必要かな。あ、そうだ、文武天皇に位を譲った人だ。だから、位を譲ったことを書き込んどかなければいけない。そのあとに位を譲ったあとに何と呼ばれていたかも書き込んでおこう」と考えたから、太上天皇と書いてあるわけでしょ? 編纂された時代にどういう情報を入れていくかは時代ごとに違うわけです。なが~い期間かかって形成されているから、ちぐはぐなところがいっぱいあります。そういうものだと考えたらいいです。

その次は、万葉仮名の説明をしなきゃいけないわけです。これは単純化して言うと、漢字を漢文として使うところと、漢字を音のみで使うところがあるということです。「毛」という字が出てきたとしても、髪の毛、ヘアーという意味は使わず、単純に「モ」という音だけを記すためのものです。これは仮名表記ということになるわけね。その当時は、文字は漢字しか知らないわけ。平仮名、カタカナがないわけやから。そうすると、音を漢字で表していくわけですね。しかも日頃彼らは漢文で勉強してるわけ。そうすると、書いていくうちに、こういうふうに書いてもみんなわかるから、ちょっと遊ぼうっていうところが出てくるんです。僕らも習ったけど、『万葉集』の先生が必ず最初にこうやって説明する。「孤悲」と書いて「こい」。「きみたち、恋をするとね、一人になると悲しくなるだろう。だから、万葉人はこう書いて『コヒ』と読んだんだよ」って。僕らの大先輩たちが授業中に教えてくれたことですよ。昔、僕はそういうのを聞いて、いい書き方だなとおもったから、今も同じようにやるでしょう? そうすると、誰もね、うんともすんとも言わないですよ(笑)。なんかね「どこが面白いんですか」みたいなことを言われる。他には、たとえば「 シシ 」というところを、どう書いてるかというと、わざと「十六」と書くとか。日頃漢字を使ってる人たちが共有している情報というのが使われて書かれているから、今、我々がみると難しいところも当然出てくるわけです。

歌の形は、もうすでに『万葉集』の時代、五七五七七の形が定着していて、これが主流になってることは間違いない。ただし、『万葉集』の時代にはまだ長歌も作られていたし、五七七五七七という旋頭歌という形も作られていたんですね。二十数年前に、中西進先生がインタビューを受けているのを横で見てたんだけどね。「先生、一言で言えば『万葉集』というのはどういうものでしょうか」。こうアナウンサーが聞くわけ。「角度によって見え方が違う、多面体のようなものでしょう」。うまいこと言う、カッコいいなあ。文化勲章をもらう人はこれだけ言わなきゃいかんのか。多面体かあ。ところが、僕がそれと同じのを使うわけにはいかないじゃない。何か違うことを考えなきゃということですね。とにかく、もういろんな人からインタビュー受けるから、その人たちに「なるほど!」と思って帰ってもらいたいじゃない。だから最近僕はこう言います。「お砂糖にも、いろんなお砂糖ありますよね。しろーい精白されたグラニュー糖とか、搾りたてのものをそのまま乾燥したような真っ黒な黒砂糖もありますよね。ですから、『古今集』が非常に洗練されたグラニュー糖だと考えれば『万葉集』というのは黒砂糖みたいなものでしょう」。そのあとに、僕はこう言うんです。「実は、黒砂糖というものはビタミンやミネラルなどいっぱい体にいいものが残ってるんだそうですよ。だから、歌の歴史の中で迷ったら『万葉集』に帰れというのは、洗練されていない分だけいろんな可能性があるということなんです。たとえば言葉遊びなどでは
〈よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見〉 巻一(二十七)
というのがあるし、
〈籠もよみ籠持ち堀串もよみ堀串持ちこの岡に菜摘ます子家聞かな名告らさね〉 巻一(一)
なんて、そのまんま天皇が乙女たちに呼びかけているものもあります」と。これ第2回でやりましたね。「さまざまなものがあるんですよ」という話をして「そういうものが『万葉集』の特性です」と。こういう説明が普通の講座なら第1回にあるのよ(笑)。今、ようやくその第1回にいるのね。

●『万葉集』を見渡す

今日は広く見渡したいんです。広く見渡す知識がなかったら、ディテールも理解できない。広く見渡す知識が、実は必要です。これが、上野先生が考える1から5です。

まず、①律令国家形成期の文学であるということ。律令国家とは何かというと、中国の法律の体系を受け取って、その体系を自分たちの国づくりの中心にしていくこと。これが律令国家です。この中に「天皇」という言い方の規定もあります。これも、当時の人になり代わって言うわけやないけど、考えたと思うよ。「いや、皇帝というのは一人しかいないものだから、日本でも皇帝って名乗ってはまずいよねえ。でもね、俺たちだってね、別に中国の人の耳に入らないところでは皇帝と名乗りたいよね。じゃあ、天皇という言い方にしよう」とかって、まあ、そんなもんですよ。さらに明治維新を行った人たちが律令の制度を手本にしたから、なんと「大臣」とか「~省」とかいうのは残った。簡単にいうと日本の議会政治というのは、イギリス流の議会政治、プラス用語は7世紀から8世紀の律令なのよ。でも、とっくの昔に中国はそういう制度はやめてます。だから、「大臣」とかそういう名称が残っているのは日本だけなんですね。そして、律令国家は、四つの大きな要素から成り立っています。漢字を学び、儒教を学び、律令を学び、仏教を学ぶという要素です。まず漢字を学ばないと、外交もできません、自分たちの文字もありません。儒教というのは、人間関係だけじゃなくて国家間の関係を決定するものですから、儒教を学ばないと東アジア文化圏、中華文明圏の中に入っていくことはできません。日本の法律体系と中国の法律体系がほぼ同じであれば、互いの交流がうまくいきます。したがって、律令も中国のものを入れます。仏教という思想も、日本でも中国でもありますから、これも国際交流ができるということで、漢字、儒教、律令、仏教というこの四つは、大きな日本文化の柱になっているわけです。

ただし特徴があります。朝鮮半島では仮名の発達が遅れ、真面目に漢文をずっとやって、15世紀の 世宗 セジョン 大王のときに人工的にハングルを作ったという歴史があります。ですから、それまでの朝鮮半島の資料は全部漢文で書かれています。ところが、日本の場合は、早い段階で、漢文も使うけど自分たちの日常の場合は仮名でもいいじゃないか。だから、女性は漢文学習は省いて、音でいきましょう、仮名でいきましょうとなった。仮名で勉強を始めた女性たちは、自分たちの思考を自分たちの言葉の音で表すことに慣れていたから、男性よりも自分たちの言葉で気持ちを表すことが得意なんです。だから、世界最古の長篇小説『源氏物語』ができるんです。『万葉集』以来、仮名を大切にして自分たちの音声を残そうとすることが早くからあったんです。亡くなったドナルド・キーン先生にきいたことがあります。僕、意地悪でね。偉い人に会うと意地悪な質問したくなるんです。「先生は、日本文学が素晴らしい、日本文学が素晴らしいって言っていますが、先生がお薦めのアメリカ文学を知りたいです」って言ったんです(笑)。そしたら、「上野サン、アメリカの現代文学は見るものはゼロです」って。「えぇー! いや、いっぱいあるじゃないですか。スタインベックだってあるし、レイモンド・カーヴァーだって、すごい文学がいっぱいあるじゃないですか。なんでそれはダメなんですか」。「貧しい人の話、人を殺す話、麻薬の話、そんなことばっかりでしょ? だから『源氏物語』のほうが素晴らしいんですよ」。僕は、それも違うと思うけどなと思いつつ(笑)、これだけの長篇小説、あるいは国民文学としてあるものが、女性の手によって形成されたというのは、やっぱり仮名というもののそれまでの蓄積があるからなわけです。すぐ書けるというわけではないんですよ。英語でも、最初は短い文章しか書けないわけです。『カンタベリー物語』(14世紀)とかね。ああいうものでも、短文を重ねてゆく形なんです。でも、われわれの仮名の文化には長い歴史があるんです。

ただし、中国の人から見たら、日本の漢字の使い方は、はっきり言ってめちゃくちゃですよ。あるところは中国文で読み、あるところは突然音だけを使ってと、ごちゃごちゃにしているわけですからね。しかも、日本の中にいる人しか、こういう漢字の使い方はできない。これ、僕から見ると反則技です。例えば「飛」と書いて「鳥」と書いて、アスカってどうして読める? 「春」と書いて「日」と書いて、これでシュンジツ、ハルヒならいいよ。なんでこれでカスガって読むの? 実は、この「飛鳥」って枕詞なんです。飛ぶ鳥の明日香、飛ぶ鳥の明日香って書いてるうちに、飛ぶ鳥と書いてもアスカになった。 春日 はるひ をかすが、春日をかすがって書いてるうちに、春日と書いてもカスガになった。はっきり言って、日本にいない人が読めなくてもいいという、そういう書き方なんです。いい加減といえばいい加減です。でも、それが型だし、それが文化、日本の漢字のローカルルールです。中国の漢字文明に対して、日本の漢字文化と言ってもいいでしょう。

そういうものが漢字でできて、さらに儒教というものがあるんですね。前に、東映の撮影所に行ったときに僕はビックリしたことがあるんです。松坂慶子さんの楽屋に行ったんですが、名取裕子さんがいらして「名取入りまーす!」というかんじで丁寧に挨拶をされたんです。ああ、芸能界って儒教文化やなあって思いましたよ。「この部屋は誰々さんと誰々さんしか使えないのよ」。「ああ、大物の人しか使えない部屋があるんですね」と。儒教文化だと思いました。儒教は日本人の人間関係を規定しています。ところが、朝鮮半島ですと、儒教でも親孝行の孝が重視されます。日本の場合は忠義の忠のほうが重視されるとこがあるわけなんです。これは歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』の世界やんか。自分の主君のために自分の子どもをたとえ殺しても……と、それを美談として語っていくわけですからね。儒教の浸透の型も地域によって違います。律令という法律もさまざまな地域で運用していましたけれど、これも日本なりの運用方法です。そして、仏教は仏教なんです。仏教も、中国の仏教ともインドの仏教とも違う日本の仏教というのがそこにある、そういう大きな時代の括りです。

●漢詩

2番目にいきます。漢詩を常に意識して、日本語による歌を作ることをめざす。漢詩を使って、自分たちの言葉にしていく。見ていると、たまにそういうことをした跡が残っている場合があるんです。たとえば「立春」ということば。中国語で立春、これはいいですよ、ね? ところが、これをなんとかして大和言葉にしたいものだから、そのまま「春立つ」と読むわけ。今は「春が来た」という言葉はあります。挨拶したときに「春が立ちましたねえ」とは言わないじゃない(笑)。「春立つ」は、日本語としては定着しなかったけれど「春が立つ」もあるのよ。こういうふうに、常に漢詩を意識していた経験があるから、ドイツ語を勉強した人はドイツ語を意識して日本語を作っていく。英語を勉強した人たちは英語を意識して日本の言葉を作っていく。近代以降の日本語の書き言葉の文体が、翻訳語文体といわれているのはそのせいなんです。ドイツ語、英語の前に、中国を意識しながら新しく日本語を変えていったことがあったんです。近代以前に、すでに実験が行われていたということですね。

「令和」に関するインタビューを、何回も受けるじゃない? 僕はね、何度も同じインタビューを受けながら、ようやくニュートンの気持ちがわかったんです。万有引力は、おそらく数式で証明できたと思うよ。でも、何度も何度も聞かれるうちに、「リンゴが木から落ちたんや。そしたら、万有引力をそこで思いついた」。そういうふうに物語にすると思うのよね。だからね、僕もこういうふうにしました。「上野先生、『万葉集』というのは一体どういう歌集と考えればよろしいんでしょうか」と聞かれたら、「あ、それはですね、最も中国的で、かつ最も日本的な歌集だと思います」。そうするとね、大体インタビューする人は「それは一体、具体的にはどういうことでございましょうか」と。「きみね、大体、日本ということが意識されるということは、外国の文化を意識しない限り生まれないんだよ。だから、最も日本的で最も中国的というのは矛盾しないんですね」。外を意識しないと日本的なものは出てこないってわけです。だからね、『万葉集』から取られたからといって日本、日本っていうのは甘い。当時はそんな時代じゃない。もっと国際性があって、知識層は中国語をさまざまに勉強し、『 文選 もんぜん 』を勉強して……という、そういう世界なんですよ。

次に「『万葉集』の一つの特徴は何ですか?」と聞く。私は、「やっぱり広さと言っていいと思います。上は天皇から下は庶民まで」。この言い方は、批判されますよ。「といっても、貴族文学としての性格が大きいのではないか」とか、「防人といったって普通の農民とは考えられませんよ」とか、「東歌だって、本当に東国地方で詠われていた歌かわかりません」。言ったらキリはないです。そういう論者に対しては、私はこういうふうに言います。「確かにそう言えば、そういうふうに言えますが、たとえば『古今和歌集』とか『新古今和歌集』と比較した場合、やっぱりこれは『広い』と言ってもいいんじゃないんでしょうか」と。ここのところが3つめのポイントですね。

たとえば、この講座、今僕が話していることが配信されます。そうすると、同業者も見る可能性がある。これは実に嫌なものですよ。でも、どのラインまでだったら90パーセント以上の人がOK出せるというラインは互いにあるんです。だから、研究者同士の閉じられた場でシンポジウムするときは簡単です。ところが、一般の人も聞いているときには、それをどのラインまで広げていくかは非常に難しいことなんですが、一応「天皇から庶民までというわけにはいかないにしても、のちの時代から比べれば広い階層がカバーされているし、大伴家持だって農園を経営しているからお百姓さんとしての生活だってしてる人ですよ」ということだったら、みんな納得できるはずです。もうひとつは、地域的な広さです。北は、多賀城址や涌谷まである。宮城県です。北陸は越中があって能登半島もある。東海地方は伊豆の温泉も出てきます。箱根も出てきます。足柄山も出てきますよ。近畿は都があったから中心でしょ? 山陰だったら、石見の柿本人麻呂の世界があります。今回取り上げる九州は『万葉集』の世界があって、南のほうは〈隼人の薩摩の瀬戸〉というのが出てきますから、鹿児島のほうまであります。これだけ広い世界をカバーしている。それは律令国家で、役人たちがその場所にちゃんと赴任しているからなんです。ところが、平安貴族は受領といって、自分の関係者を赴任させてサラリーだけをもらう。自分は地方赴任しないんです。万葉時代役人は真面目だから、ちゃんと大宰府にも行く、陸奥にも行く、能登にも行く、みんなそこに自分で行くんです。だから広がりがある。律令国家の広がりはそのまんま『万葉集』の広がりなんです。

●友だちにするなら……

友達にするんだったら、万葉学者のほうが『源氏物語』の学者よりいいですよ。紫式部とか清少納言は、あんな人を友達にしたら最悪です。たとえばあの人たちは、素直に「御簾を開けて」なんて言いません。「少納言よ、香炉峰の雪はいかならん?」って、こういうふうに言うわけでしょ? そうすると「簾掲げて見る」という、白楽天のその次の一節が出てこないことには行動ができない。もう一種のいじめみたいな世界があるわけです。光源氏は京都から須磨まで行っても、しくしくしくしく一日中泣いている。『万葉集』の時代なら、ちゃんと地方赴任してるでしょう? 大伴旅人は九州まで行ってるじゃないか。家持はちゃんと越中まで行ってるでしょ? 貴族文化が成熟したのが平安文化だとすればね、『万葉集』の時代は、未成熟の貴族文化ということができるわけです。

●和歌の伝統と皇室文化の核

次が4番目。『古今和歌集』から八代集に続く和歌の伝統を形成して、それが皇室文化の核になっています。『源氏物語』と並ぶ、国民文学になっているということですよね。たとえば枕詞という修辞法がある。これをどう考えるか。「しろたへのころも」、こう来たとしますね。「しろたへ」の「たへ」というのは布で、だとするとただ単に「白い布」かもしれないが、一方「しろたへ」は枕詞で「衣」を引き出すわけだから、単純に衣の色を言っているわけではないと考えなきゃいかんでしょ? ところが
〈春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山〉 巻一(二十八)
というときには、山の緑に対比される布の白だとすれば、ここは「真っ白な」と訳したいわけよ。ここのところは、枕詞だから意味がなく言葉を引き出すだけだと考えればいいのか、実質的に意味を持たせなければいけないのかって、一首一首吟味していかなきゃいけないわけですよ。ところが、「しろたへの」と来たときには「衣」という言葉が出てくることを想定しながらみんな表現してゆく。それはひとつの型というものをみんなで共有しましょうってことなんです。「しろたへの」というのが出て来たら「衣」が出てくるものだ、「ぬばたまの」といったら「黒」が出てくるものだとしましょうってね。

それに対して吉本隆明さんは、そういうものは「共同幻想」といって、みんなが幻想として持っているのであって、実体が問題じゃないのだとおっしゃった。みんながそういう表現を共有している、と。吉本隆明さんの元になっているのが、折口信夫という学者の「枕詞はライフ・インデックスである」と言っている著名な論なのよ。それが現代評論、現代思想にまで影響を与える。そして、そういうものをたくさん蓄積しているのが皇室。永田和宏先生は歌会始の選者として、歌を選ぶ仕事をなさっているわけでしょ? 現在に続く、皇室文化につながる和歌の伝統を形成しているわけです。

5番目。こういう文学が生まれているときはさぞ平和であろうと思いきや、大変なときだった。何かというと、まず中国が巨大化する。隋という強力な国家ができると、朝鮮半島が圧迫される。朝鮮半島が圧迫されたら、朝鮮半島の北の人たちは南のほうに行く。そうすると、南のほうに元々いた人たちと軋轢が起こる。朝鮮半島が複雑化するんですよ。そういうときにどの勢力と外交するかは大変なことです。これは現在でも起こりやすいことなんだけれども、一番圧迫されて戦況が悪い国ほど同盟には積極的になります。皆さん、やっぱりドイツと結んだのはダメでしたね、イタリアと結んだのはダメでしたねとかありますが(笑)。国力が弱いところのほうが同盟関係を結びたいわけでしょ? そうすると、外交的には大失敗を招くことになります。これが、白村江(はくすきえ)の戦いの大失敗なんです。壊滅的な打撃を受ける。しかも、高昌国というのが滅びたと日本に情報が入ってくる。玄奘三蔵も行った高昌国も滅びたのか、朝鮮半島も危ないぞ……というような時代なんです。

僕は飛鳥に人を案内したときに必ず言うのは「狭いでしょう? 山に挟まれたところでしょう? 西側には甘樫丘があって、東には岡寺山というのがあって。こんな狭いところに都があったんですよ」という話。実際、甘樫丘から見ると、その見える範囲が都って感じのところなんですよ。このことを、僕が百済からきた飛鳥の都を設計した技師にするとしますよね? そうしたら「上野さん、いつ攻め落とされるかわからないでしょう。だから、こんな風に要塞で守ってくれるようなところじゃないと都づくりは危ないですよ」って多分言うと思いますよ。飛鳥の都は百済の技師が設計しました。その百済はもう押されて押されて劣勢の国だから、山間地に都をつくってすぐ逃げられるようにするし、要塞を置くという言い方をすると思います。藤原京に行くと広いところで三山に囲まれたところ。平城京もそう。平安京もそう。つまり、これはもうその当時の時代と密接に関わっています。朝鮮半島の情勢が極めて複雑で、しかも戦争中の文学。戦争中の文学だからやっぱり愛と死の文学。恋愛をするにも一生懸命。これが梯久美子先生の「『万葉集』を持って戦争に行く人」の話になるんです。歌の素養がある軍人たちの葛藤というものが梯先生の話やったと思います。あれは僕、続きを聞きたいですよ。

①律令国家形成期、②漢詩を意識して日本語で歌を作るという文化、③極めて地域も階層も広い、そして、④のちの和歌の伝統を作った、⑤作られた時代は緊迫した時代ですよ、と。普通の『万葉集』の講座だったら、この①②③④⑤を、5回に分けてやるんですよ(笑)。「今日は、律令国家と『万葉集』の関係について話しましょう」、と。でも、この講座ではそんな時間ないですからね。

●元号って何?

元号の話をしましょう。元号は、中国の律令国家の影響を受けてできた制度です。中国の皇帝制度をもとに、天皇制に作り変えていって、元号も作るわけです。そうすると、元号というものは中国の政治の理想で、皇帝が行う政治はこうあらねばならないということを言っているんです。それが儒教的徳目として表れている。だから、たとえば「地平らかに天成る」(平成)、これは儒教経典の『書経』から取られています。私は、(令和の出典が)儒教経典から「国書」へというのを強調するのではなくて、儒教経典から「歌集」へ力点が移ったという方を強調したい。その理由は何かというと、昔は、人の名前に、正しいという ただし さん、強いの ごう さん、忠義の ちゅう さん、義理の義などなど、大体「仁義礼智忠信孝悌」という、儒教の徳目を名前にしていたでしょ? ところが、今はなるべく大和言葉になっている。かける君、つばさ君など。しかも、漢字も万葉仮名の音だけを使います。音だけを使うのだったら、なんとか読めます。でも、万葉仮名の中でもめちゃくちゃ特殊な義訓というのがあるんです。義訓というのは難しいんですよ。「聖夜」と書いて「クリスマス君」とかいうような感じです。ここまでのキラキラネームだと、漢字とどうやって結びつくのか推し量るのは、ものすごく難しい。現代、昭和の終わりからこの三十年、なんかソフトなもの、柔らかなものを大切にするような時代になってきて、大和言葉の肌触りみたいなものを大切にするようになって、儒教の徳目の名前というのが減ってきています。

去年の暮れから、研究者が集まると、当然、元号の話になっていたんです。「『万葉集』から取ろうが『古事記』から取ろうが、元をたどれば中国になるから、もし日本、日本って言うんやったら、平仮名でつけたらいいんですよ」って話を僕は研究者同士でしていました。たとえば「まほろば元年」なんていうのがいいんじゃないかという話はしていたんです。本当にこだわるんだったら。ところが今回はそうではなく、歌集の序文の漢文のところから取られている。つまり、儒教経典から歌集になった。

古代国家というのは、帝王がいて国土があって、その地域では元号を使う。 わたくし に帝王が定めた元号以外のものを使うことは反乱行為とみなされるから、私年号は反乱行為となるわけです。元号法制化のとき、この議論は本当にあったんです。元号は本当に新しい憲法となじむのかという議論があった。この議論があったことも、もう今、忘れ去られましたけれども、それも考えなきゃいけないんです。そして、通貨発行権も大切なことで、日本の場合は富本銭以来、自分たちの自前の通貨を使っているんです。これは朝鮮半島は違うんです。漢詩ならば、漢詩があって漢文序文がつく。それに対して、俺たちは日本人なんだから、和歌を作って序文は漢文で書こうとなる。つまり、折衷です。それを理解しなければいけないわけです。

●「梅花の宴」の序文を読む

その「梅花の宴」の序文を読もうと思います。私、今回ちょっと新しく訳文を作り直しました。というのも、新しい研究成果もあるし、漢文を無理して読んでいるところを無理なく読むように変えて、訳文を作り直しました。

時は、天平二年正月十三日のこと。私たちは、帥老すなわち大伴旅人宅に集まって、宴を催した。それは、折しも初春のめでたき良い月で、天の気、地の気もよくて、風もやさしい日だった。旅人長官の邸宅の梅は、まるで鏡の前にある白粉のように白く、その香は帯にぶら下げる匂い袋のように香るではないか。その上、朝日が映える嶺は雲がたなびいていて、庭の松はうすものの絹笠を傾けたようにも見えた。時移り夕映えの峰のくぼみに眼を転ずれば、霧も立ちこめて、鳥たちは霞のうすぎぬのなかに閉じこめられて、園林の中をさまよい飛ぶ。一方、庭に舞い遊ぶのは今年の命を得た蝶だ。空を見上げると昨秋やってきた雁たちが帰ってゆくのが見える。この良き日に、私たちは天を絹笠とし、大地を敷き物にして、気の合った仲間たちと膝を交えて酒杯を飛ばしあって酒を飲んだ。かの宴の席、一堂に会する我らは、言葉すらも忘れて心と心を通わせ、けぶる霞に向かって襟をほどいてくつろいだのだった。ひとりひとりのとらわれない思いと、心地よく満ち足りた心のうち。そんなこんなの喜びの気分は、詩文を書くこと以外にどう表せばよいというのか――。かの唐土には、舞い散る梅を歌った数々の詩文がある。昔と今にどうして異なることなどあろうぞ。さあ、さあ、われらも「園梅」という言葉を題として短歌を詠み合おうではないか……。

これがやっぱり名文なんですね。『万葉集』の漢文の中でも一、二を争う名文です。何人ものインタビュアーから「上野先生、これは大伴旅人が書いたんでしょうか、それとも山上憶良でしょうか」。「いやあ、書いてませんからねえ」と。ところが、インタビューを何度も受けるうちに、賢くなるんです(笑)。最近はこういうふうに答えます。「序文は誰が書いたか、記名がないんですね。誰が書いたかではなく、みんなの気持ちを表したかったから、わざとこういうときには名前を書かなかったと考えたほうがいいんじゃないんでしょうか」。もちろん、誰かが書いた。旅人かもしれない、山上憶良かもしれない。しかし、それは明らかにしない。さまざまな報道で、(元号の考案者は)中西進先生と出ているけれども、中西先生は絶対に明らかにしません。年号はみんなのものだから、個人が作ったというのは表に出るべきものではないという哲学があるからです。そういうものなんです。しかも、これは、平和な風景じゃないですか。誰が書いたか明らかにしない序文から元号を取ったって、いいことじゃないですか。

これから約20分かけて読んでいきます。

梅花 ばいくわ の歌三十二首〔 あは せて序〕/ 天平 てんびやう 二年〉、これは730年〈正月十三日〉2月の8日〈 帥老 そちらう いへ あつ まりて〉。この「帥老」の「帥」というのは大宰府を統括する国司のトップということです。帥老。つまり大伴旅人です。その大伴旅人が作った13首の酒を讃める歌、讃酒の歌。意外に知らない人多いんですが太宰治の太宰は太宰帥からきているんですよ。「おッ、酒を誉める歌があるのか。オレは酒好きだぁ」ということで。戻って「帥老」。この「老」が難しいんです。論文が山のようにあるんです。老というのは自分で自分を卑下する言い方だという説と、いや、周りの人が尊敬して老という言い方をするのだという説があります。それが憶良説か旅人説かの分かれ目になります。僕はどちらかわからない。

〈帥老の宅に萃まりて、宴会を もよほ すことあり〉。「宴会をのぶる」とか「 申す もうす 」と読んでるのが多いんだけれども、現代の日本語で言ったら「 催す もよおす 」だから、「申」という字をあえて「もよおす」というふうに今回は読みました。

〈時は、 初春 しよしゆん 令月 れいげつ にして、気 く風 やはら ぎ〉、これが元号に取られてるところです。初春の正月の令月、おめでたい月で「気が淑く」って出てくるんです。気が淑くというのは、天気だけじゃない。地の気もあるんです。川がどこに流れて、山がどこにあるということ。そしてもうひとつあります。人気もあるんです。人気というのは人の気。どんなに天気がよくても、人の気がなかったらみんな集まらないでしょ。そういう天の気、地の気、人の気がみんないい、これが「気淑く」なんです。風和ぎ。お花見のときには風がやわらかであってほしいというわけです。

いま難しい問題がたくさんありますよね? 朝鮮半島情勢は難しい。日韓関係は最悪。中国のパワーに対して日本はどう生きていけばいいの? アメリカの大統領はいい加減なことばかり言っている。そんなとき、もうどうすればいいの? でも、やっぱり風が和らいでほしいよねえ、おめでたいときであってほしいよねえという、その願いの形なんです。名前というのは願いの形なんです。僕は上野誠といいます。小さいとき、噓をついたらよく言われましたよ。「名前は誠ってつけてるんだから、噓を言ってはいかん」と怒られました。それは親の願いです。名前をどうこうとは、いまはもう言いませんよ。でも、昔は、よしこさんなのに何とかとかよく言ってました。それは願いの形と見なきゃいけません。そして、願いの形といいますが、願わなかったら実現もしません。そういうものですよね。僕は20代のとき、ある雑誌に1本論文を書きたいと思っていました。そのときに、偉い先生がご自分の原稿が間に合わなくなって、通常だと半年かかって書くものなんですが、もし3か月で書けるなら君に回してあげる、と言われました。オペラの歌手に突然代役が回ってきたのと同じようなものです。それで、僕は引き受けて、30枚の原稿をその雑誌に発表できて、うれしかったんです。でも、この雑誌に書きたいなあって願わないと、次のステップに行けなかったでしょう? 願えば、実現のために努力もするわけでしょ? だからこれは願いの形なんです。「風和ぎ」。和らいでほしいんですよ。

〈梅は 鏡前 きやうぜん ふん ひら きて〉。梅は鏡の前のおしろいのように真っ白。紅梅は当時はないからね。

らん 〉というのは匂いのよい草のこと。匂いのよい草の一つに梅も含めてよいとすれば、その梅の匂いは帯の後ろにぶらさげる匂い袋のようだと。匂い袋を自分の体の後ろにつけて、歩くたびにそれが揺れて匂いがする。うちの女子学生が「オシャレですねえ」って。それは、その女子学生さんの感性でね、僕はただ後ろにつけるというだけだけど、彼女はそういうふうに読んで感じた、ということがありました。

加以 しかのみにあらず 〉〈 あけぼの みね 〉、当然朝の話から始まる。曙の嶺には雲が移って。〈松は うすもの を掛けて きぬがさ かたぶ けたり〉。あ、あそこに松が見える。そこには霞がかかっている。その霞はまるで薄い絹のようだ、と。そんなバカな話があるだろうか? ところが、そう詠うところにやっぱり意味があるわけです。

ゆふへ くき に〉というのは、夕べ山を見て、くぼんだところには〈 きり が結び〉、そこには霧が立っていて。霧が結ぶという表現があります。〈鳥は うすもの ぢられて林に まと ふ〉。霧の中を鳥が飛んでいるところは、鳥がうすーい絹のその籠の中に入れられているかのように見えると。こういうふうに言うわけです。

〈庭には 新蝶 しんてふ 舞ひて、空には 故雁 こがん 帰りたるをみゆ〉。ふと見ると今年命を得た春の蝶がいる。一方で、昨年やってきた かり が帰ってゆく。つまり かり が帰ってゆくときが春だというわけです。言わずもがなですけど言いますよ。あとで思いが残ると嫌ですから。秋にやってきた雁は、当然日本にやってくるために体の中に脂肪をためこんでいる。それを捉えて食べると、柔らかくて、ジューシーで脂が乗っている。その雁の触感を豆腐で表したら、がんもどきになるんです。これが禅宗の文化。お肉はダメよという。そして〈故雁帰りたるをみゆ〉、帰ってゆく かり というものを見る。

さあ、みなさん! 来年2月から3月ぐらいのお手紙を書くときに「新蝶舞い、故雁が帰る春がやってきました」って。春がやってきたーというところ。「梅花宴序」の真ん中のところをスパーッと抜いて。そうすると、「教養あるわぁ~」となります。「このような天気のよい日には梅の花見がよろしいかと思います」って相手が返してきたら大したもの。東洋の文化というのはそういうものです。

そして、この次からがまたいいんです。どういいかというと、〈ここに、天を きぬがさ として つち しきもの として、 ひざ ちかづ けて さかづき を飛ばしたり〉。「あっ! 今日は、日傘がないー!」。「要らない、日傘なんか。天気がいいから天が日傘だー!」。「あ、しまった。敷物を忘れたー」。「天気がよかったら大地が敷物さ」。膝を促けて觴を飛ばす。宴会がはじまって「いや、まあ一杯、まあ一杯」というふうに近づいてお酒を酌み交わす。その姿を遠くから見ると、觴が飛んでいるように見える。……今、「ああ」とおっしゃったでしょう? ここね、試験によく出すところです(笑)。「傍線A『觴を飛ば』すとは、どのような行為をいうのか具体的に記せ」って必ず出します。授業に出たら必ず答えられますよね。「觴をやりとりしている状態を遠くから見れば觴が飛んでいるように見える」。で、授業に出てないやつは「觴を飛ばし合って遊ぶ」。壺に矢を入れる遊び、扇を飛ばすのもあります。でもね、觴は飛ばしたらダメ。これはよく試験に出すところです。

その次。〈 こと を一室の うち に忘れさりて、 ころものくび 煙霞 えんか の外に開く〉。ここが重要です。一堂に会したわれらは、言葉すらも忘れてしまった。東洋における文学の理想は何かといったら、勉強して勉強して考えて考え抜いて、言葉が出なくなった状況が最高だとするんです。これが忘言。言葉であれこれ表さなきゃいけないのは、まだ未熟だという。だから、日本の歌は短ければ短いほどいい。だから、短い文学ができてくるわけです。以心伝心。言葉が要らない状況のほうがいいわけよ。

これ、配信してもらったらいけないのかもしれないんですけど、最近、メンタルチェックみたいなのが大学から来るんです。心の健康の何とかってね。僕、あんまり正直に書きません(笑)。質問に「家族との会話が足りてますか?」なんて書いてあります。何を言うかと。家族とは、会話がなくても通じ合ってる状況が一番いい。「ああ」って言ったら「じゃ、今日はお風呂が先?」。「いや、ちょっと、今日は」って言ったら、「じゃ、缶ビール開けようか?」ってね、こういうのが最高のコミュニケーションのあり方なんですよ。何分間話したからいいとか、そういうもんじゃない。楽しかった宴会というのは、何をしゃべったかも忘れているしね、言葉ももう出ないんだっていうのが最高の時間だということです。

淡然 たんぜん として みづか ゆる し、 快然 くわいぜん として自ら りぬ〉「淡然」といったら、淡というのは淡いという字で清らか。自らさっぱりとした気分になって。「自ら放し」だから、自らリラックスしてないとダメです。宴会をするときの最高の礼儀というのは、自分もリラックスすることです。ホストであろうと自分もリラックスするんです。汗かきながら「さっきまで料理してました」っていうのをドワーッと出されたら、食べられないですよ。「あ、これ、おいしいのよ。私もちょっと」というくらいがいい。

休憩時間まであと少しです。あえて言うのですが、2010年に上代文学会という、日本中のトップの先生を集めた学会を奈良大学でやりました。このときに、菊水楼という料亭で懇親会したいということになりました。ここは奈良ではめちゃくちゃ高いんです。でもそこで懇親会をしました。僕はいろいろ考えて、手伝ってくれる40人の学生全員を、前日に招待して当日と同じ料理を食べさせました。高かったよ。高かったけどね、翌日から先生たちが来て、学生たちは朝から晩まで駆けずり回ります。その人たちが、先に幸せな気分にならなかったら、いいサービスできっこないんです。彼らが、懇親会の前日に同じものを食べていたら、料理の内容わかりますでしょ? たとえば、先生たちに書類を渡すときなどに、「先生たちの懇親会で召し上がるお料理を、昨日先にいただいちゃったんです。琵琶湖の稚鮎が出るのですが、これが小さい鮎なんですけどおいしいんですよねー」と言うと、「おっ、上野君は稚鮎を出してくれるのか! 懇親会が楽しみだなあ」というふうに、先生方のテンションが上がっていくんです。もうそれだけで価値はあると僕は見た。実を言うと、アドバイスしてくれたのは菊水楼のご主人です。「上野さん、こんなときには、まず働いてる人に一杯飲ませなきゃダメだよ」と。だからそうしたんですが、そのおかげです。昔、ある大学では学生さんたちをこき使うだけ使って、昼のお弁当も出なかった。その手伝った学生さんたちが懇親会に入ったものですから、一瞬にして料理がなくなってしまった。ホテル側は契約違反だと怒って、裏のほうで揉めていました。だから、僕は、コンビニエンスストアから柿の種を買ってきて、その袋を開いてワーッと配ったんですよ。その先生20年経っても「君の大学の柿の種はうまいなあ」って嫌みを言われましたけど。それ考えたら安いものですよ。つまりね、自ら楽しむ気持ちがなくてどうしますか、という哲学なんです。

〈快然として自ら足りぬ〉、これがいい。「快然」といったらね、自分で気持ちいいっていうこと。「自ら足りぬ」というところがすごい。自分はこれで十分だ、素晴らしいんだってね。仏教講座のひろさちや先生だったらこんな話をしますよ。「いいですか。1億円あっても10億円欲しい人にとっては、その気持ちは地獄、餓鬼なのですよ。10億円持っている人でも100億円欲しいという人がいれば、気持ちは餓鬼、地獄なのですよ」って。つまり、「自ら足りぬ」というところが、ここで出てくるわけです。では、このような気持ちというのはどうすれば表すことができるのか‥‥。おあとは休憩のあとで。

(休憩)

自分も楽しんでいて気分がいいから、他の人も楽しめる。〈淡然として自ら放し〉、さっぱりとした気分で自分で自分をゆるしている、リラックスしている。そして、〈快然として自ら足りぬ〉、気持ちがよくて、自ら足りている。これが一つのその東洋における理想なんです。

〈もし、 翰苑 かんゑん にあらずは、何を もち てか こころ べむや〉。こういうときは言葉を失っているが、失っている言葉を表すのが詩だっていうんですね。この「翰苑」というのは詩を行う庭のことをいいます。〈翰苑にあらずは〉このようなときは、詩をお互いに作り合うような宴にしなければ〈何を以てか〉自分たちの気持ちを残すことができようか。

〈詩には、 落梅 らくばい へん しる すといふことあり〉。漢詩には落梅の篇というものがあるのだ。漢詩、つまり中国ではそうなのだ。〈 いにしへ と今と〉この場合、中国は「古」です。だから、日本と中国の対比で捉えてください。〈古と今と れ何ぞ こと ならむ〉。昔と今と異なるところなんかないだろう。昔は「蘭亭序」のように、さらにはその宴に憧れた桃李園の宴のように、みんな時間というものを惜しんで遊んできたのだ。だから、今、私たちは〈 園梅 ゑんばい して〉、庭の梅ということを題として、〈 いささ かに 短詠 たんえい を成すべし〉。この場合の「短詠」が短歌。つまり、和歌というものを作ろう。ここは日本だ。自分たちの言葉で歌を作ろうよ。言葉は大切だが、言葉にとらわれぬという思想があるわけです。国会の答弁なんて、言葉にとらわれてるものの最たるものよ。「公園はいつできるんですか」と聞いたら、「えー、議員ご指摘のとおり、都市公園整備局内で検討を積み重ねておりますが、あー、このような公園を作るか否かということについて、この人選を行うためのワーキング小グループを現在立ち上げたところでございます。このワーキング小グループの、えー、結論を待ちまして、えー、平成何年‥‥。」令和十何年ってなっても、もうやらないってことでしょう? だから、言葉は大切だが、言葉にとらわれるのも愚かなことだという教えがここに込められてるわけです。

●つづく歌はどういうものか

そして、その歌が始まる。どういうふうに始まるかというと
正月 むつき 立ち春の きた らばかくしこそ梅を きつつ楽しき へめ〉
巻五(八一五)
ここで、 大弐紀卿 だいにききやう という人が出てきます。これは大宰府の長官に次いでナンバー2です。どういうふうに詠ったかというと、春がやってきて、お正月がまたやってきて、そんな季節になったら。「かくし」というのは「このように」、かくかくしかじかの「かく」です。このように「梅を招きつつ」梅をお招きして楽しき宴会をしましょうね。始まったばかりの宴会なのに、「来年お正月になって春が来たら、このようにやりましょう。そのときには私が正客ではなく、私が主賓ではなく、梅さんが主賓ですよ」と見事な挨拶をします。いいですか、みなさん。宴会が始まった冒頭に、「来年もこんな宴会開きたい!」と言ったら、最高だということです。パートナーから食事に誘われたら、パッと一口食べて「おいしい! また誘ってちょうだい!」って言ったらね、相手はもう一回誘ってくれますよ。「おいしい、今が最高、もう一回やりたい」と最初に言う。しかもそのときに、「私は主賓だが、本当の主賓は梅だろ? 梅が咲かないとみんな集まらないよね」っていうふうにして、こういう歌を詠むわけです。

その次の人はどういうふうに詠うかというと、
〈梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が その にありこせぬかも〉
巻五(八一六)
梅の花が今咲いているように散ってゆかず、私の園にあってほしいものだ。私の園というのは、実は本人の家じゃない。今見ている大伴旅人の家の梅について言ってるんです。「あまりにも私は今日楽しくって、ここはもう旅人さんの家ではなくて、私の家でもあります」ぐらいの感じです。こういう言い方をするわけですね。

こういう歌が続くと、途中でひねってこなきゃいけなくなります。豊後守であった大伴大夫という人は恋で悩んでいることを知られているんです。だから、みんなにサービスして、こう詠えるんです。
〈世の中は こひ しげ しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを〉
巻五(八一九)
世の中っていうものはうまくいきません。恋の悩みというのは解消することができません。梅の花になりたいくらいです。そうすると、みんなが「あぁー」って思うわけです。

そして今が盛りと詠うのが褒め言葉のルール。
〈梅の花今 さか りなり思ふどちかざしにしてな〉 巻五(八二〇)
梅の花をかざしにする。「かざし」は髪差しです。これが「かざし」という言葉にもなるし、「かんざし」の語源にもなる。それに対して輪っか状にして頭にのせる冠型の髪飾りのことを、これを「かづら」といいます。これが「かつら」の語源です。つまりこれは、宴のときの演出です。頭に、梅なら梅の花を折って差す。柳をくるっと丸くして頭にのせる。みんなこういうふうにすると、人によって見え方が変わる。かわいらしい子はかわいらしくなる。いかつい人がそんなことしたら、おもしろく見える。いろんな形に見えてくるものなんですね。〈梅の花今盛りなり〉、〈思ふどち〉というのは、仲間のことです。その仲間が〈かざしにしてな今盛りなり〉というふうに詠う。

そして、主の歌が見事な見立ての歌。『万葉集』の名歌の一つでしょうな。
〈我が園に梅の花散るひさかたの あめ より雪の流れ来るかも〉 巻五(八二二)
我が園に梅の花が散る。「ひさかたの」は「天」にかかる枕詞で、天より雪の流れ来るかも。これ当時は紅梅はない。白梅しかない。そして、わが園に梅の花が散る。それが天から流れてきた雪のように見える。そんなことはない。なんぼなんでも、そんなことはない。それを見立てで詠う。見立てというものは、ズレがあるものをとりあげるから歌になるんです。だから、絶対に違うというものが見立てになるわけです。昔、僕の親戚の家で、金魚を飼うために庭に池を掘ったんです。「おじさん、金魚飼うのに庭に池作ったの?」。そうしたら、そのおじさんが「うん、ちょっと真似してね」って。「どこの真似?」って。そしたらね、「大阪城の真似」。これが笑ですよね。笑いのツボです。池と大阪城の堀と、その開きがおもしろさにつながるわけでしょ? だからここでは、雪を梅の花かと見紛うんです。それが素晴らしいところ。

●『万葉集』で一番読まれる植物は萩

数でいうと『万葉集』で詠まれている植物で一番多いのは梅ではありません。一番が萩で140首、次が梅なんです。「梅が一番」って言うけど実際は違う。梅は外来植物で珍しいから詠われる。と同時に、みんなが梅という花に憧れたと考えないといけません。梅の花の宴というのは、天平時代の始まりを告げる素晴らしい宴で、みんなこんな宴をやりたいと思ったんです。だから、みんな梅を植えて、梅の歌をというふうに。桜は、松、橘、菅に続いて40首。でも桜の歌は、『万葉集』の全時代を通じてあります。よくいわれるのは、『万葉集』を代表する花が梅で、『古今和歌集』代表する花が桜だというけど、それは、そう考えるのではなくて、梅も桜も愛でられた植物であるけれども、梅が多い理由があると考える。萩が多い理由もあって、庭の前に自分で山の萩を取ってきて植えることが流行したんです。ガーデニングの流行ですよ。当時のソノと呼ばれるニハ、ニハと呼ばれるニハ、家の前の空間をヤドといいますから、ヤド、そういうところに好きな植物を植える。そういうように自ら足りるという思想があります。

●生きること優先の思想

ちょっと難しいんですが「六朝」。ロクチョウじゃなくてリクチョウと読みたい。これは、大体3世紀ぐらいの中国の思想。 陶淵明 とうえんめい 太虚 たいきょ 慧遠 えおん という人たちの思想が六朝思想といわれています。その六朝思想を私なりにまとめると、人生について考え、対話を重んじ、享楽的、楽しまなきゃダメ、と。吉田兼好の言葉に〈人 みな 生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり〉という一節がある。これは、楽しまない人間は、死というものの本当の恐ろしさを知らないバカ者であるという、そういう思想。これが六朝思想です。そして、個人の趣味を重んじる。その背景にあるのが無常感。九十五歳で僕のおふくろは死にましたが、九十歳の誕生日の祝いのときに「お母さん、九十まで生きたらどんな気持ち?」と聞いてみたら、博多弁で、「六十まで生きても七十まで生きても九十まで生きても、過ぎ去った時間は一瞬たい」と答えた。これが九十五で死んだ母親の九十のときの言葉です。過ぎ去った時間なんていうものはもう一瞬。それは無常感を前提としていて、西洋思想ならばハイデッガーとか、サルトルとか、ボーヴォワールの実存主義に近いです。単純化すると、あるべき理想よりもあるがままを重んずるということです。

本屋に並んでる人生の本、見てみてください。片方は、理想の人生はどうすればよいか、どういうふうにしたらお金は集まるのか、どういうふうにしたら健康になるのかなど、どういうふうにしなければいけないか、こういうふうにしなければいけない、というもの。もうひとつは、「ありのままの自分でいいんだよ」というもの。加島祥造さんの「ありのままの自分でいいんだよ」「頑張らない」とか。儒教というのは頑張る。道教というのは頑張らない。でも頑張らないことは難しい。一応大学で教えているあいだは、年に1本は論文書かないといけないでしょう。なんぼテレビのバラエティ番組でカズレーザーさんと一緒にやっても、論文は書いとかないかんやろ。曲がりなりにも論文1本は書いとかなきゃ、博士号も取っとかなきゃっていうことを思うと、やっぱり窮屈は窮屈です。

あるがまま、自分はそれでいいんだという方は? 讃酒歌にはどういうふうに書いてありますか?
〈この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我はなりなむ〉 巻三(三四八)
って書いてある。これは、今楽しかったら、もう来世のことなんて考えたってしょうがない。仏教の経典「大智度論」には、虫になったり鳥になったりすると書いてあるけれど、そんなことは知らないよ、と。これが「讃酒歌」の思想。生きること優先の思想。ここから何が出てくるか?〈銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも〉 巻五(八〇三)
金も銀も財宝も要らない、子どもが大切というような思想です。だから、ほぼ日の学校の歌舞伎講座の『菅原伝授手習鑑』のときに、横でそれを唱えたらいいんです(笑)。まったく逆の思想ですよ。でもその両方があるのが面白いじゃないの。〈銀も金も玉も何せむに〉。
〈瓜 めば子ども思ほゆ栗 めばまして しの はゆ  何処 いづく より きた りしものそ 眼交 まなかひ にもとな かか りて 安眠 やすい さぬ〉 巻五(八〇二)
もう額のところに子どものことがチラついてチラついて……。瓜を食べたら子どもに食べさせてやりたい、栗を食べたら子どもに食べさせてやりたい、というようなことをみんなの前で堂々と言う。それを山上憶良が堂々とできたのは、陶淵明の六朝思想を学んでいるからです。彼はこう言ってます。たとえば大般若経でも何でもいいけど、仏教経典を見ると、一番人の心の迷いになるのは子どもと書いてある。だから、出家者は子どもを捨てなきゃいけない。西行の「出家絵巻」では、必ず西行が子どもを蹴飛ばすところが描かれている。それほどの固い決意を持つ者しか仏教者としては受け入れられないということです。そういうことをよーく知った上で、それでも私は子どもが好きなんですと山上憶良は言っているんです。そういうふうに読んでいかなきゃいけない。ただ、酒が好きだから酒をほめる歌、子どもが好きだから、子どもをほめる歌。いやいや、ちゃんとそこに行き着くには知性があるんです。僕、いまだに忘れられないんですが、この講座じゃなきゃ味わえないことなんだけど、シェイクスピアの河合祥一郎先生と掛け合いでやっていきましたよね。『万葉集』講座第1回。「どうしてこんなに似てるんですかね」って河合先生に質問したら、河合先生が「うーん、それは知性というものが共通しているからだと思います」。これを聞き出せたって最高ですよね。やっぱり変わりないでしょうという、そこのところですよね。

●大陸との玄関口、大宰府で花開いた思想

生きること優先の思想。和歌といえども東アジアの知の潮流と無縁ではないんです。しかもそれが、大陸との玄関口、九州大宰府で花開いた思想で、その中心にいたのが大伴旅人で、幼子であった大伴家持もそこにいて、そして、おそらく東アジアを代表する学者であった山上憶良もこの宴にいて、山上憶良のようになりたい、お父さんのようになりたいと考えた大伴家持が、『万葉集』編纂の大きなところを担っていくことになる。だから、その大もとのひとつが九州大宰府の梅花の宴だというところが、今回の「令和」の元になっている。しかもそれは、国書とか、そんな狭いナショナリズムじゃなくて、東アジアの知の潮流なんです。

そんななかで見ると、僕は中学校のときに2級までいった書道で、「蘭亭序」を書きました。「梅花宴序」やったら、〈初春の令月にして気淑く風和ぎ〉。この元になった王羲之の「蘭亭序」だったら〈是の日や天朗らかにして気清く、恵風和暢せり〉と出る。そうすると、この日は天が朗らかで「気清く」、気が清らかで、「恵風」優しい風が和している状況になっている。もし、元号を蘭亭序から取ったら、 天和 てんわ でもいい、 天朗 てんろう でもいい。さらに朗和でも清和でも恵和でもいい。次あたり、ここからいったら? さらに、こういうものの元になっているのが「 帰田賦 きでんのふ 」。役人をすっぱり辞めて田舎に帰るときの朗らかな気分を表すときに〈ここに於いて仲春の令月、時和し気清し〉と出てくるんです。これから取ったら、和清とか取れるよね。令清もいいかもしれない。しかもこれは令和でも取れるね。こういうように大きな思想の流れがあって、その中に今回の令和の箇所もあると考えないといけないんです。読んでみると平和な風景で、花見や田園、庭園を詠っていて、その詠われる背景には、人生というのは短い、だから、遊びこそが大切であるという。読めば読むほど用意周到に、「みんな考えようよ」というようなことを考えてらっしゃるんだなと思いますよ。

大体、こんなウィークデーに、10時過ぎてまで、『万葉集』を勉強するところには、こういう人以外は来ないですよ。株がなんぼ上がってなんぼ儲けようなんていう人は、こういう講座には来ないです。人生は短い。でも、この「梅花宴序」の思想を知ることによって、こういう生き方もあるんだというようなことを、楽しみながら学ぼうっていう人しか来ないですよ。平安こそが大切であるというのが東洋の理想。その平安は、来ないんですよ、なかなか。たとえば、天平時代は天下泰平ですよ。天下泰平だけれども、天平になるときに、時の首相である長屋王が、囲まれて中で自刃をする、自殺をせざるを得ないように追い込まれてしまうという政変が起きて、そこから天平が始ります。そして、新羅との関係は最悪で、天平8年にそこに行った使者たちは、九州北部で天然痘の流行している地域を通り過ぎ、その天然痘が丸々都に入ってきて、藤原四子政権がバタバタと死んでいくんです。そのあとに、飢饉がやってきて、飢饉になると免疫力が下がって、また疫病が流行する。そういった中で鑑真和上を中国から呼び、この人によって日本仏教を建て直し、世界のどこにもない巨大な仏像を建てようとしたのが聖武天皇、これが天平の時代です。

僕は東京でのオリンピック開催が決まったときに、無理してせんほうがいいやないか、と思った。でも、苦しいときほど大きな事業をするんです。歴史的にね。こんなときに大仏つくらんでもいいやん、こう思うけども(笑)。ところが、あの大仏が日本仏教のシンボルになった。大仏が焼け落ちたときには、政権が安定したら最初に取り組む文化事業は大仏復興なんですよ。そして、その連綿とした和歌の伝統が現在までつながって、皇室文化の大きなところを占めているんです。それは、広くいえば東洋の理想なんです。私は今回の元号には、三つの込められたメッセージがあると読み取る。「それはあなたが勝手に考えてるんですか」って聞かれたら、いや、違うといいます。「蘭亭序」を踏まえ「帰田賦」を踏まえた「梅花宴序」から取られたことの意味を、前後の文脈、取られたところの文脈の「令」と「和」の字から考えるところは三つ。

●願いの形「令和」

この三つは何のときに考えたかというと、NHKの『視点・論点』の時です。『視点・論点』見た? 全然違うでしょう? 「一人一人の平安がここに求められている。平和が希求されている元号だと思います」と、こんな感じだったでしょう? 『視点・論点』のときは一人一人の心の平安を希求する、でした。次にね、日本は日本であり、その日本は東アジアの一員である。足元を見つめる心と、世界に眼を開く心の大切さ。これ日韓外相会議に盛り込みたいね。だから、私たちは和歌ですよって。大宰府という場所は都から見て鄙、田舎である。しかし、鄙が元気でなくては日本は元気にならないという、このメッセージがあると思うんですよ。令和というのは一つの願いの形だというふうに考えたらいいと思います。今日は、みなさんでこれを斉唱して、今日の締めにしたいと思います。令和元年の5月に、これをみなさんと一緒に。ついてきていただいたらけっこうです。

初春令月、気淑風和。(「梅花宴序」)
天朗氣淸、惠風和暢。(「蘭亭序」)
仲春令月、時和氣淸。(「帰田賦」)

そんな時代が来てほしいと思います。どうもありがとうございました。

(拍手)

●質疑応答

受講生:ありがとうございました。とても楽しい授業でした。今日、「忘言」という言葉と、あと上野先生の「オリンピックだね」というお話がありました。忘言とオリンピックから思い出したんですけれど、北島選手がオリンピックでメダル獲ったときに、「何も言えねえ」とコメントしました。そして、「何も言えねえ」が流行語になりました。そのあと美智子さまがそれを歌に詠んでいらっしゃって、〈たはやすく勝利の言葉いでずして「なんもいへぬ」と言ふを うべな ふ〉という歌を詠んでいらっしゃるんです。

上野:ああ、勝利の言葉言えずしてね、肯うだから、それをどう補ったらいいのか。人に補わさせるほうが大切。だから、俳句でも短歌でも、相手が補ってくれるところを残さんといかんってことだよね。素晴らしい、そのとおり。

受講生:そのとき私は、流行語を取ってるんだなあぐらいのペラッペラの知識だったんですけど、今のお話を聞くと、美智子さまは忘言をわかった上で、北島選手を最大限賛美したらこういう歌になったのかな思ったのです。

上野:そのとおりだと思いますよ。あれだけ困難ななかでしかも2回目でしたっけね。その感激はむしろ言葉にしたら嘘になる。そこに、広い意味での東洋の文化、当時でいえば文明かもしれない、そういうものの広がりがあるんだと思います。ちなみに、ノーベル文学賞作家の中国の莫言という人いますね。莫言とは、漢文で読むとね、「 げん なし 」なんです。小説家が言葉ありませんって、そういうその、そのとおりだと思います。

河野:前、莫言さんとお会いになったときに、「『万葉集』の、あなた、何を研究してるんですか」という質問を聞かれたことがあるという、あのときのお話、質問していいですか。

上野:ノーベル賞をもらってる人からの質問だから、あわててしまって。「いや、『万葉集』というのは4516首ありまして20巻ありまして大伴家持が――」っていうのを説明しはじめたんです。それを彼は、通訳を通してずっと聞いていました。そして、莫言さんは、「そういうことはウィキペディアに書いてある(笑)。あなたがここにいて、私がここにいて、あなたは私に対して何を伝えたいんですか。『万葉集』の研究者として何を言いたいのかが聞きたい」と言われたんですよ。そう言われたときに言葉が出るかっていうと、言(げん)莫(なし)(笑)。出ない、出ない。しばらく考えると、「『万葉集』というのは言葉の文化財です」とか、「『万葉集』というのは、中西先生は多面体と言ったけど、僕は黒砂糖にしようかな」とか、でも、そんなのはやっぱり後知恵ですよ。「あぁー」と出ないのが、僕は本当だと思う。それをどう表現するのかと、すべての準備調整をしていくんだと思います。

(おわり)

受講生の感想

  • 締めくくりの回に、他のいわゆる万葉集講座で初回に学ぶことをやるということで、「この回をはじめの一歩として、これからも学んでいってほしい」という意味が込められているのかと思いました。これからも万葉集などを学びたいと思います。

  • 令和の出典の出典の出典まで声に出して読んで、大変すがしい気持ちになりました。これが世に言う「ことだま」なのかなと思いました。

  • 最後に披露してくださった莫言さんとのやりとりに、上野先生のお人柄が現れていると思いました。表現するためのたゆまぬ努力をなさっていることが、とてもよくわかりました。

  • 和歌を素材に、東アジア思想まで広げてしめくくってくださった講義は、万葉集講座の最終回にふさわしいスケールの大きなお話だと思いました。