万葉集講座 
第4回 永田和宏さん

山上憶良のまなざし

15分版・120分版の視聴方法は こちらをご覧ください。

永田和宏さんの

プロフィール

この講座について

細胞生物学者にして歌人の永田和宏さんは、高校時代、後に万葉学者として知られる伊藤博(はく)さんから国語の授業を受けました。そんなエピソードも交えながら、「専門ではない」と照れながら、山上憶良と大伴旅人の交流を中心に、万葉集を語ってくださいました。歌人としての目が光る万葉集講座をお楽しみください。

講義ノート

河野:今日は京都から永田和宏さんにお越しいただいて、山上憶良の話をしていただきます。あわせて、憶良の歌を俳優の寺田(みのり)さんに朗読していただくというスペシャルなお楽しみもございます。永田さんは歌人であると同時に、細胞生物学者というお顔を持っておられます。そちらでの連載はお願いしたことがありますが、歌人としての永田さんのお話をじっくり聞くのは実は私も今日がはじめてじゃないかと思います。よろしくお願いいたします。

永田:ご紹介いただきましたように、普段、サイエンスの講演をするのは別にどうってことないし、現代短歌の講演するのも別にどうってことないんですが、万葉集の講演をするのは初めてなので、とてもとても緊張しています。

前回、岡野弘彦さんの講義でしたね。私はずいぶん長いこと岡野さんとお付き合いをさせていただいていて、岡野さん、スポーツマンなんですよ。20代の時に、歌人のチームをつくってサッカーの試合をしました。岡野さん40代だったかなぁ。岡野チームと、高野公彦(たかのきみひこ)という歌人のチームに分かれて、ぼくは高野チームの人数が足りなかったので、助っ人に呼ばれました。國學院のグラウンドだったと思いますけど、20代ですからね、まさか岡野さんに負けないだろうと思っていたんですが、一回真正面からぶつかってぶっ飛ばされました。岡野さんはほんとにスポーツマンで、角川の『短歌』という雑誌にグラビア写真があって、まだ50代の時だと思いますけど、彼はランニングの短パン穿いて、どこかの磯で、足をぴゃーっとV字バランスみたいにあげて……そんな人です。95歳になっても、あれだけ若い‥‥。今日、ぼくは座ってやりますけど……岡野さん、立ってましたよね。ちょっと敵わんな(笑)。岡野さんとは長く一緒にやらせていただいて、歌会始の選者をもう15年ぐらいやっていますが、それも岡野さんから呼ばれたこともあって長いお付き合いなんです。もうひとり、万葉集をお話しするとき、伊藤(はく)さんという方がおられて、私の高校の時の先生なんですよ。京都の嵯峨野高校で、あ、歌を読めばいいな。

花に膨らむ高遠(たかとお)城址に立ちて想う
京都府立嵯峨野高等学校非常勤講師伊藤博氏

これ、いちおう歌なんです。すごいでしょ。土屋文明さんって、ご存じですね。100歳で亡くなりましたけど、彼にすごく有名な歌があって……思い出せるかな。

初々しく立ち居するハル子さんに会ひましたよ
佐保の山べの未亡人寄宿舎

戦後すぐの歌です。未亡人になったハル子さん。「ういういしくたちゐするはるこさんにあひましたよさほのやまべのみぼうじんきしゅくしゃ」、39音で、いちおう短歌なんです。私のは50音ぐらいあるので、土屋文明に勝ったなと思っています(笑)。短歌って不思議なもので、531音が基本ですけど、読む速度とか、いろんなことを変えることで、少々の字余りは許されます。少ないのは難しいですね、実際作っていると。音が余るのはいいんです。5音が6音になったり、7音が8音になったりするのは、わりと自由に読めるんですけども、足りないのは、どうしようもなく読みにくい。字足らずは歌ではあんまり薦められない。よっぽど計算しないと、字足らずで歌が成功することは意外に少ない。むしろ余るほうが歌がゆったり流れるような感じなので、そちらは、けっこうたくさん歌として出ます。私のはちょっと異常ですけど(笑)。私が嵯峨野高校の時に、伊藤先生は大学院を終わったくらいで、アルバイトに来ておられたんですね、国語の授業に。まだその頃は、今のように万葉集の大家という感じではなかったので、私は伊藤先生に国語の作文の授業を習っていました。憶えているのは、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』の読書感想文を書いたことです。伊藤先生は、長野の信州の高遠(たかとお)の出身で、嵯峨野高校の学校の文芸誌に高遠物語という小説を書かれていて、それが印象にあったので、はるか後年になって高遠に桜を見に行った時に、「そういえば伊藤先生がいたなぁ」と思って作った歌がこれで、雑誌に発表したんですけど、それを見た伊藤先生のお弟子さんがおられたらしくて、人づてに伊藤さんが怒っている、と。「俺は非常勤じゃなかった。常勤だ」(笑)という話を聞きまして、それから伊藤先生にお手紙をいただいたりして、必ず毛筆でお手紙を書かれて、その後で、こういう歌を私の奥さんの河野裕子(かわのゆうこ)が作りました。

『日付のある歌』という歌集なんですが、NHK歌壇という番組の収録に行った時に、そこで伊藤先生とお会いしたという話で、「収録後、控室にて 万葉学者伊藤(はく)氏と初対面」。

高校生永田和宏を教へしと私の向かうを遠目して見る

うれしいですね。高校生の私を憶えていたかどうか、ようわかりませんけど、後で私がこういう歌を作ったのを伊藤先生が聞かれて、河野に会った時にそんな話をされたということです。河野が実際に習っていたのは、澤瀉久孝(おもだかひさたか)先生。ほんとうに有名な万葉学者で、澤瀉先生が京都女子大に来て河野たちの学年に万葉集を教えておられたということで、

同じやうに澤瀉先生もなされゐし縮緬風呂敷に一冊の書物

伊藤先生も風呂敷にいろんなものを詰めてNHKに来ておられたそうで、澤瀉先生はいつも和服で大学に来ておられて、我々の頃はまだ和服で教えていた教授がけっこういましたね。その時代の人です。

●貧窮問答の歌

今日は、憶良についてやります。プリントを見られたらすごく面倒そうで大変ですけど、いちいち学校の講義みたいにやりませんので、安心してください。まず、憶良でよく知られている貧窮問答の歌についてご紹介して、今日ほんとにお話ししたいのは、そのあとの旅人(たびと)との関わりなので、導入のつもりで貧窮問答の歌についてお話をしようと思っています。今日はすごく贅沢なことで、寺田農さんにおいでいただいて、読んでいただきます。ちょっと寺田さんに朗読の前にちょっとお話ししていただきますけど、寺田さんは、たとえば谷崎潤一郎の朗読をする時は、谷崎の全集を全部まず読む。読まないと朗読できないという信念を持っておられる方です。今日はここで聞けるのは、とてもありがたい話だと思います。

寺田:ご紹介がありましたけれど、谷崎はたまたま全集を全部読んだ。好きだからということもあります。ただなんと言うんですかね、若い時から朗読とかナレーションとかやってますけども、朗読とナレーションは、似たようなものですが決定的に違うところがありまして、ナレーションは、あくまでもテレビを見ている人にわかりやすく物言いを変えたりできるんですね。でも、朗読、特に原文朗読はその通りに読まなきゃいけない。これは私の個人的な難易度ですが、一番易しいというかやりやすいのは、やっぱり現代文ですね。現代文の散文とか、韻文でもそうですけども、現代文は、やはり聞くほうに言葉として伝わってきますから、わかりやすい。だんだん難しくなるのは、やっぱり古文とか、ちょっと昔の森鷗外とか、ちょっとややこしい。言葉に馴染みがないから。聞かれている方に音として入ってきても、それがどういう漢字かとか、どういう言葉かがなかなか思いつかない。そのへんがちょっとややこしいですね。だんだん難度が上がって、万葉集なんていうのはそうとう難度が高くて大変ですね。まず、言葉の意味がよくわからない。途中漢文も出てきますけど、漢文なんて、ほんとによくわかりませんね。歌でもたとえば、永田さんの歌とか、現代の短歌は比較的読みやすいですね。先ほど申し上げたように、歌、言葉そのものに馴染みがあるから。究極的に、これはどうにもならないというのが俳句でありましてね、俳句は五七五で、松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蟬の声」、これで芭蕉の宇宙の世界を表現しろと言われても無理です(笑)。だから私は最初からそんなものは何も思わないで、普通に読みますけれど、そんな思いがします。谷崎潤一郎といえば、『春琴抄』が今でも出ていますが、新潮社で全文朗読をやったんですね。そしたら、よせばいいのに、新潮社が付録を付けた。最後に3分間、谷崎先生ご自身が朗読されているのを。そうしたら、ひどいんですね、これが(笑)。それまで私が必死の思いでやってきたあれはなんだったのか、こんなんでいいのかと、がっかりしたことを思い出しました。これだけ言い訳を言っておけば、まぁいいだろう、なんとかなるだろうということでございます。

永田:歌って今、現代短歌もそうですけど、だいたい目で見るでしょ。岡野さんもちょっと言っておられたけど、まず耳で聞いてもらって、それで私がちょっと難しい言葉ぐらいを少しさらさらとお話しして、その後また寺田さんに読んでもらおうと思います。最初に読んでもらう時は、資料を伏せて耳だけで聞いてもらおうと思います。わからなくてもいいです。漢文だけは耳で聞くと完全にわからんので、漢文のところは見ていただきますけど、特に和歌の中の長歌、そして短歌、これは最初は耳だけで聞いてもらおうと思います。じゃあ、やってください。

<寺田農さん朗読>
貧窮問答の歌 一首 并せて短歌
風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を とりつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ搔き撫でて 我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさぶすま) 引き(かがふ)り 布肩衣(ぬのかたぎぬ) ありのことごと 着襲(きそ)へども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ()ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか ()が世は渡る

天地(あめつち)は 広しといへど 我がためは ()くやなりぬる 日月(ひつき)は (あか)しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆(ひとみな)か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 我れも作るを 綿もなき 布肩衣(ぬのかたぎぬ)の 海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に (わら)解き敷きて 父母は 枕の(かた)に 妻子(めこ)どもは (あと)(かた)に (かく)()て 憂へさまよひ かまどには 火気(ほけ)吹き立てず (こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯炊(いひかし)く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ()るに いとのきて 短き物を 端切ると いへるがごとく しもと取る 里長(さとをさ)が声は 寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世の中の道

世の中を ()しと(やさ)しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
                            山上憶良 頓首謹上

永田:ありがとうございました。いいですね。聞いてだいたい感じがわかりますよね。これは憶良の中で一番有名な歌ですので、どこかで習う、高校でもたぶん一度ぐらいは見られたと思います。全体を見ながら、意味を確認していこうと思います。形としては貧窮問答の歌、貧者と問答ですから、問答になっている。さっき紹介した伊藤博先生の『萬葉集釋注』全11巻があって、万葉集はいろんな人が注釈、全注、私注、その他いっぱい出していて、土屋文明さんも『萬葉集私注』というのを出していますけど、全部読むのはとても無理なので、私は土屋文明の私注と、そして、伊藤先生の釋注を主に読んでいます。今日はこれに従ってやっていこうと思っています。プリントにある最初の5行分ぐらい。〈いかにしつつか 汝が世は渡る〉まで。ここまでが、実は貧者なんです。貧者が、〈いかにしつつか 汝が世は渡る〉。どんなふうにして、あなたは世を渡っているんですか、と訊いている。訊かれている相手は、実は前半の貧者よりもさらに貧者の極貧者。そんな感じです。まず貧民の方の歌です。

風が混じって、雨が降る夜。雨が交って雪降る夜は、すべもなく寒いので、〈堅塩(かたしほ)〉は塩の固いもの。〈とりつづしろひ〉はちょっと注釈が必要で、少しずつ食べる、舐める感じですね。食べるものがないので、塩を舐める。〈糟湯酒(かすゆざけ)〉=酒の粕を薄めたようなお酒をすすろいながら、〈しはぶかひ〉は、咳をする。こんこんと咳をしながら、〈鼻びしびしに〉、これおもしろい表現ですね。鼻が出て固まって、びしびし固くなっちゃっている。小さい子はいつも鼻びしびし。〈しかとあらぬ ひげ搔き撫でて〉、立派でもない、無精髭でもない、ちょぼひげ、貧しいひげをかきなでて。〈我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど〉、私をおいて他に人はないと誇りを持つのだけれど。貧しいんだけど、ある種の矜持があって、俺は貧しいけれど立派な人間なんだと、誇ろえど、精神はけっこう高級なんですが、現実はすごく貧しくて、精神は我をおいて人はないと誇りを持つんだけれど、寒くあるので、麻で作ったふすま=布団みたいなもの=を引き被り、〈布肩衣(ぬのかたぎぬ) ありのことごと〉、ありったけの布肩衣を〈着襲(きそ)へども〉、肩にかけて着るんだけど〈寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の〉、こんな寒い夜を、私よりもっと貧しい人の〈父母は 飢ゑ寒ゆらむ〉、父母は飢えて寒がっているだろう。〈妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ〉、乞ふ乞ふは、ほんとはなかなかわかりませんが、物を乞う、なんか欲しいよと、もっと食べるものも、いろんなものも欲しいよ乞う乞う泣くらむ。こんな時は〈しかにしつつか 汝が世は渡る〉。

私は貧しい。寒くてありったけのものを被るほど、貧しい。でも、自分に誇るところはある。私はこんなだけれど、私よりもっと貧しい人がいるのを知っている、と憶良は言うわけです。前半は憶良自身のことだろうという解釈が今学者の中では言われていますが、憶良はこんなに貧しいはずがないので、自分の精神のあり方で貧しい人をそこに現出させているというか、想像している。でも実際に国司として地方を歩いて、自分よりもっと貧しい人を見て知っている。そういう人は一体どうするんだろうと思った。

この貧窮問答の歌は、後半がたぶんクライマックスですよね。自分も貧しいけど、自分が見てきたもっと貧しい人は、一体どうして世の中を渡っていくのか、という問いかけからなっているのが後半です。

天地は 広しといへど〉、天地は広いと言うけれども、〈我がためは 狭くやなりぬる〉、私のためには、狭くなってしまっているのか。〈ぬる〉というのは「なってしまっているのか」という疑問ですね。〈日月は 明しといへど〉、月も太陽も明るいといえど、〈我がためは 照りやたまはぬ〉、これも疑問で、私のためには照ってはくれないのか、という感じですね。〈人皆か 我のみやしかる〉、人はみんなそうなのか。いや、それとも私だけがそうなのか。〈わくらばに〉、これはちょっと難しい言葉で、「ほかならぬ」という意味。〈わく〉は「分ける」という意味なんですね。〈わくらば〉というと、葉っぱみたいだけれど、そうではなくて、「分ける」から来ていて、「ほかならぬ」という意味です。〈人とはあるを〉、つまり、ほかならぬ人とはあるを、ということは、動物と違って、幸いにしてほかならぬ人として生まれてきているのに。〈人並に 我れも作るを〉、人と同じように、私も働いているのに。「を」「を」で続いていますけど、これは「のに」「のに」という感じですね。ほかならぬ人と生まれてきたのに、人と同じように私も働いているのに。〈綿もなき 布肩衣の〉、前の方にもありましたけど、こっちは「綿もない」。綿が入っていない。〈海松(みる)のごと わわけさがれる〉、海松は海藻ですから、着物の体をなしていなくて、海藻のように、わわけさがれる。〈わわく〉というのは破れる感じ。破れて海藻が下がっているように布肩衣が下がっている。〈かかふのみ 肩にうち掛け〉、これも私知りませんでしたけど、かかふというのはボロ布という意味です。ボロ布ばっかり、肩にうち掛け。要するに着物なんてものじゃなくて、そのへんにある布の切れっ端を肩に掛けている、そんな感じですね。〈伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に〉、これも凄い。伏廬というのは、ちっちゃな家が潰れたような、背の低い小屋。曲廬も同じようなもので、まっすぐ立ってなくて曲がって立っている、そういう中に〈直土に 藁解き敷きて〉、床なんてないわけで、土の上に藁を敷いて〈父母は 枕の方に〉、お父さんお母さんは枕のほうに。〈妻子どもは 足の方に〉、妻と子は、足のほうに。〈囲み居て 憂へさまよひ〉、お父さんお母さんは頭、妻は子どもたちは足元に囲っていて、憂いさまよい。〈かまどには 火気(ほけ)吹き立てず〉、かまどには火の気がない。薪なんかもないということでしょうね。〈(こしき)には 蜘蛛の巣かきて〉、こしきは今でも使うけど、米を蒸す蒸し器。米がなくて炊かないので、こしきには蜘蛛の巣が張っている。〈飯炊く ことも忘れて〉、飯を炊くことも忘れて。忘れているのではなくて、飯がないから食べられない。〈ぬえ鳥の のどよひ居るに〉、ぬえ鳥はトラツグミのことなんですけど、〈ぬえ鳥の〉で〈のどよひ〉にかかる枕詞。のどよふは、細々と悲しくなっている感じ。トラツグミがか細く鳴くように。〈いとのきて〉、これわからん言葉です。学者でもいろいろ説があって、よくわからんということになっている。ただ伊藤先生は「それなのに」と訳しています。私もそうしておきます。だから、こんなふうに貧しい。米もないし、着物もないし、地べたに藁を敷いて、親子、父も含めて、細々と泣いている。それなのに。

次が凄いですね。

短き物を 端切ると いへるがごとく〉、短い物のさらに端を切るごとく。つまり、我々貧しいものは短い、何も持ってないのに、短いもののさらに端を切るというがごとくに……何をするかと言うと、〈しもと取る 里長が声は〉、しもとは鞭ですね。鞭を持って、〈里長が声〉、役人が来て。〈寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ〉、寝ているところまで来て、もっと働けとか、租税を収めていないとか、取り立てに来るわけです。〈かくばかり すべなきものか 世の中の道〉、これほどに、もうどうしようもないものか、世の中というものは。そういうふうに言っている。

貧民のほうが前半で、「私はこんなにつらいけど、私よりもっと貧しい人たちは一体どうして世の中を渡っているのだ」と訊いたのが、〈いかにしつつか 汝が世は渡る〉。それに答えたのが、後半のもっと貧しい人で、「こんな酷い状況で、〈かくばかり すべなきものか 世の中の道〉」というふうに歌っている。これはほんとに、憶良の社会を見る目というかな、これだけ社会の貧しさを見つめて、リアルに、ほんとにリアリズムですね、しかも歌にする。これは万葉集の中でも、ほかに例がないということで、とても有名になる。現代でもほんとにその通りで、日本でももちろん当てはまるし、世界にもいっぱいこういう人たちはいるわけで、それを代弁している。そんな感じの歌ですよね。

その次が反歌なんですが、これ不思議でね、反歌と書いていない反歌なんです。これをどう見るかは、学者の間でも考え方の違いがあるみたいで、普通は、あとでも読みますけど、反歌は反歌と書きます。

長歌があって、先にそれ言わんとあかん……ここに来ておられるかたは、それはご存じですね。五七五七五七と続いていく長歌。最後、五七七で終わるのが普通なんです。その後に、反歌として、五七五七七の短い歌。長歌に対する短い歌だから、短歌。今は我々が作っているのは短歌と言ってますけど、これはあくまで長歌があって、長歌に対する短い歌という意味だったですね。万葉集、普通は反歌と書いてるのが多いんですが、ここは反歌と書いてない。これをどう見るかは、いろいろと見方があるそうです。学者じゃないので、私はそれについて意見はありませんけど、いちおう反歌として読んでおくと、

世の中を ()しと(やさ)しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

世の中はこんなにいやだ、〈やさし〉は恥ずかしいという意味じゃなくて、残念だとか、耐えられないとか、そういういろんな意味を含んでいます。そう思へども、〈飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば〉、鳥ではないので、この現実から飛び立つ、逃げ出すことはできない。あきらめの歌ですね。

これは、どっちに向いているのか。憶良の歌だから、貧民のもっと大変なほうの人の歌なのか、それとも貧民の歌なのか。これについてはわかりません。伊藤先生は、貧民と極貧民の両方を総括して、憶良がそこに感想を述べたのだ、というふうに取っておられます。だから、貧民も大変、極貧民はもっと大変。憶良は大宰府に国司として行って、それから都に帰ったあとの歌です。亡くなる前の七十三歳の時の歌なので、憶良が実際に地方を視察して、都ではちょっと見られないような人々の生活をリアルに見てきて、そして都に帰って作った歌ということで、その両方を知っている。貧民の苦しみも知っているし、極貧民の苦しみも実際に見ている。その両方を総括して、

世の中を ()しと(やさ)しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

という一首を作ったのだろうと言われています。憶良はこの歌を作った翌年に亡くなっています。ほんとに最期に近い。最期にも有名な歌があるんですが、そういう頃の歌です。これは今日の導入部分。導入にしては時間がかかり過ぎましたけど、今日少しお話しして、私がわからないと思う点をみなさんと一緒に考えてみたいと思うのは、次の歌です。

●大伴旅人の「酒を()むる歌」

大伴旅人の歌が資料にあると思います。旅人って、ご存じですよね。大伴旅人で一番有名なのは、酒を讃むる歌十三首。これ、私好きで、ちょっと画面を見てください。十三首のうちの四首か五首を取ってきています。

(しるし)なき 物を(おも)はずは 一坏(ひとつき)の 濁れる酒を 飲むべくあるらし

甲斐のないことを思っているよりは、一杯のにごり酒を飲むほうがはるかにいいじゃないか、と言ってるわけですね。私はほんとに酒が好きなので、旅人にはすごく同感します。このあいだ、娘の旦那と二人でワインを7本空けました。もうそろそろ考えなあかんと思うんですが。

なかなかに 人とあらずは 酒壺(さかつぼ)に なりにてしかも 酒に染みなむ

なまじっか人であるよりは、酒壺になって、しかも「酒に染みなむ」、酒浸りになりたい。酒壺になりたいというのはすごいですねぇ。

あな(みにく) 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似る

賢ぶって、私は酒なんかたしなみませんと言ってる人をよく見ると、猿に似てるじゃないか。

もうこれは酒飲みの与太ごとですね(笑)。

この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我はなりなむ

こんなふうに、酒を飲んで、この世で楽しかったらそれでいいじゃないか。次の世は虫でも鳥でもなんでもなってやるぞと言っているわけで、ある種、現世でとことん楽しめばいいじゃないかという、そんな歌。旅人は、これからやりますけども、大宰帥(だざいのそち)として、この前、岡野先生が言っておられた大伴家持(おおとものやかもち)の歌がありましたけど、その家持のお父さんですから、大伴家という武家の頭領で、だけどなかなか政治的に難しくて、藤原家に左遷されちゃう。それで、大宰府に行く。もちろん官位として正三位(しょうさんみ)まで昇っているので、すごく上なんですけど、政争には破れて大宰府に流されて行く。その時の歌をこれから取り上げますけど、そんなこともあるのだと思いますが、大宰府に行ってから旅人は歌人として目覚めたのかどうかわかりませんけど、非常にいい歌を残している。その中の歌が酒を讃むる歌。この「現世だけ楽しかったら、来世はどうでもいいじゃないか」というある種の諦めには、旅人が現世の権力闘争に負けて、追いやられていっているところに理由があるのだろうと思います。

酒好きの詩人といえば……

旅人は酒がすごく好きでしたが、それ以降の歌人で酒好きな歌人、誰か思い浮かびます?

受講生:若山牧水。

そうですね、牧水。酒の歌、生涯でどのくらいあるか知ってます? 二百首とも三百首ともいわれていて、どこまで酒の歌に取るかによるけれど、二百首以上あります。一番有名な歌はこれです。

白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり

いい歌ですねぇ。名歌だと思う。私はよく言うんですけど、歌は本棚の中に閉じ込めておきたくない。歌をありがたがって「お勉強するもの」だと思ってもらったら困ると、よく言っています。歌というのは、みんなが日常生活の中で口に出してやることで一番生きていく詩型。長い現代詩を日常生活の中でわぁっと読み始めたら、「おまえアホか」ということになります。でも、歌だったら一首、友達との会話の中でこういう歌がちらっと出てきたら、すごくいいじゃないですか。つまり、我々、友人と酒を飲んだりしても、だいたい相手の知ってることしかしゃべらない。特に今、私は大学で講義しているので、学生の会話を聞いてると、すごくイライラしますね。KYっていうのか、空気を読まないのはダメだと。その場の雰囲気を壊すような発言をしてはいけない。新潮新書で『知の体力』という本を書いて、その中で何度も強調していることなんですけど、相手の知ってることしかしゃべってはいけないというか、自分だけが知っていることをしゃべると、この場の雰囲気を乱す、それがいけないという自己規制が働いてしまっている。みんなが知ってることと言ったら、スポーツと芸能のネタしかないじゃない。その場の雰囲気を乱してはいけないというのがすごく強くて、これは惜しいことだと思います。みんなで酒を飲んでいる時に、ふっと若山牧水っていたよなぁと、白玉の歯にしみとほるなんとかって歌があったよなぁ、と言う。ぜんぶ出てこなくてもいい。会話の端々に、ちらっとこの歌が顔を見せる、決してそれがてらってるとか、そういう雰囲気でないような友人関係があってほしいと思いますね。牧水はすごい酒飲みで、死んでも腐らなかったんだよなぁ。これ、ほんとですよ。牧水は死んでも腐らなかったんですよ。カルテに残っています。たしか43歳で死んでいますけど、死臭はしなかった。生きてる時からアルコール漬けやったので、腐らなかった。こういうのがちらっと話に出てきたらおもしろいじゃないですか。私も、若山牧水賞をいただきまして、牧水賞もらった人は若山牧水の像に乗って、一升瓶で像にお酒をかける。とてもいいなぁと思いましたね。でも、牧水はお酒好きで、だんだんと体がダメになっていくんです。

かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ

これもいい歌ですね。今日は一合にしとこうかなぁ、いやもうちょっと飲もうかな……。これ噓なんです。牧水は一日だいたい一升飲んでました。朝三合、昼二合、夜五合。今日は原稿うまく書けたからもうちょっと飲もうとか、今日はどうしても書けなかったから、しゃあないもうちょっと飲もうとか。お弟子さんによると、最後の頃は、一日三升飲んだんだって。ちょっとまだ及ばんなぁと思っているんです、ぼく。でも結局それで早死するんですけど。こんなふうにね、これも実感だなぁ。

それほどにうまきかと人のとひたらばなんと答へむこの酒の味

歌って高尚なものだとみんな考えているんだけど、こういう歌はいっぱいあるんですね。でも、これ牧水の実感だと思うなぁ。牧水、一日一升、とにかくほんとに飲み続けてるので、そんなうまいんかと人に聞かれて、どう答えたらいいんだ、この酒の味は、と言った。

人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ

いろんな楽しみがあるけど、酒がなくてなんの楽しみがあるかと言っているわけです。これも凄い。

妻が眼を盗みて飲める酒なれば(あわ)て飲み噎せ鼻ゆこぼしつ

これはだいぶ後のほうです。とにかく、奥さんの目が厳しいので、夜台所に忍び込んで、酒を飲む。奥さんに見つからないように飲むので、慌ててむせて、鼻から酒が出てきた。いじましいんですね、牧水。愛すべきキャラクターだと思います。

足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる

酒の瓶も立って待ってくれている。「立って待っていてくれた」というところがすごい。これ感激しますね。「おお、よしよし」と言って。万葉の歌人で酒が好きなのは旅人。近代では牧水。現代では佐佐木幸綱さんというのがいて、彼も酒好きで、牧水に負けないだけの酒の歌を作るとがんばっています。牧水がいかに旅人が好きだったかと言うと、自分の息子に旅人という名前を付けています。若山牧水の息子は若山旅人さん。もう亡くなりました。旅人って付けられたほうは迷惑です。

●旅人と憶良

これから、旅人と憶良との関係についてお話をしようと思います。まず寺田さんに雑歌(ぞうか)という資料の漢詩文と歌を読んでもらいます。

<寺田農さん朗読>
大宰帥大伴卿(だざいのそちおほとものまへつきみ)凶問(きようもん)(こた)ふる歌一首
禍故(くわこ)重畳(ちようでふ)し、凶問累集(るいじふ)す。(ひたふる)崩心(ほうしん)の悲しびを(むだ)き、(もは)断腸(だんちやう)(なみた)を流す。ただ、両君の大助(たいじよ)によりて、傾命(けいめい)をわづかに継げらくのみ。筆の(こと)(つく)さぬは、古今(ここん)嘆くところ。

世の中は (むな)しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり
                    神亀五年六月二十三日

永田:ありがとうございます。とてもぶっつけ本番とは思えない。歌はとても有名な歌で、〈世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり〉。解説するまでもない。「世の中は空しいものと知る」というのは、もう仏教語ですね。仏教では世の中は空しいものだというのが基本にあるので、それを踏襲しているわけですが、なぜ空しいかというと、実は、旅人、奥さんが亡くなっているんですね。奥さんの他に自分の妹の旦那も亡くなった。その時の歌なんです。〈禍故(くわこ)重畳(ちようでふ)〉、禍故は災い。つまり、災いが重なってやってきて、〈凶問〉、悪い知らせが、〈累集す〉、重なって集まってくる。〈永に崩心の悲しびを懐き〉、崩心というのは心が崩れるということですから、崩心の悲しみを抱いて。〈独ら断腸の泣を流す〉、断腸は説明するまでもないでしょう。涙を流す。〈ただ、両君の大助によりて〉、両君というのは、旅人の弟と甥が知らせを都から伝えてくれた。〈傾命をわづかに継げらくのみ〉、傾く命をわずかに保っているのみだ、と言っています。

この漢文の中では、次のところがけっこう大事で、〈筆の言を尽さぬは、古今嘆くところ〉と書いてます。筆舌に尽くし難し、というのは現代でも言います。何か自分の思いは、実際に書くと、どうも言葉では十分書けない、と書いている。これをどう見るかは難しいところで、当時、基本的には男は漢文で書くということで、この漢文の後ろに〈筆の言を尽さぬは、古今嘆くところ〉、つまり、「書いても自分の心を十分に告げられないのは昔の人も同じように嘆いてきたこと」だと言っている。これは前の漢文を指しているのか、それとも、自分の歌も含めて言っているのかによって、ぜんぜん取り方が違ってくると思います。私は個人的には、この漢詩文だけでは自分の心は十分に伝えられない。後にも出てきますけど、長歌、短歌を含めた和歌、日本の歌では、自分の心を十分に伝えられるんだということを、旅人は、暗にここで言っているというふうに取っておきたいと思っています。

神亀五年、728年ですね。これは覚えなくて構いません。旅人は大宰帥に任じられて、大宰府に赴任してきます。旅人は長屋王(ながやのおおきみ)と親しくて、さっき言ったように、それを追い落とそうとしている藤原氏の力がそのころ伸びてきており、旅人は武芸の頭領なので近くに置いておくと危ないというので大宰府に流された、というか左遷された、というのがどうも本当らしいです。旅人は失意のうちに大宰府に行くわけですね。その時に、実は奥さんも一緒に連れていきました。その時、家持もたぶん一緒でしたが、ほどなく大伴郎女は亡くなってしまう。それで、旅人は亡き妻を思う歌を十数首も作っています。妻が亡くなったことが非常に寂しくて、苦しいという、そういう歌ですが、このへんは私もとても同情するというか、同感するところで、少し私の歌も後でご紹介します。それで、その時、二年前に実は山上憶良が筑前守(ちくぜんのかみ)、国司として大宰府に来ていました。そこで、憶良と旅人は交友を深めるのですが、そんな簡単にいくものじゃない。旅人は正三位です。憶良は従五位下(じゅごいげ)ですね。だから、普通は絶対しゃべれない。ところが二人は心の友人として身分の上下を超えて交流ができて、大宰府でひとつの歌壇、筑紫歌壇ができていく。そのきっかけになったのがこの旅人のこの歌であって、これに憶良が歌を返します。今日の前半の大事なところはここです。どういう歌を返すか。とても有名な「日本挽歌」という一連があります。これから読んでいただきますが、みなさんがたも教科書で習われたことあるかもわかりません。普通は「日本挽歌」として習うんですけど、実はこの中で、たぶんとても大事なのは、前に漢詩文があるんですね。これが厄介なんですが、我々「日本挽歌」といっても、なんで日本とつけるのか、わからないじゃないですか。これは前に漢詩文の詩があって、それに対して、大和歌で作った挽歌が「日本挽歌」なんです。そういう構成になっていて、教科書では漢詩文のところは習わないで、即、長歌にいっちゃうんだけど、これは漢詩を読んでないと、「日本挽歌」のおもしろさがわからない。でも、漢詩の細かいところをやっていたら、一時間二時間すぐ経っちゃうんで……あ、もう一時間経ったか。これは大変。

寺田さん、お願いします。みなさん、漢詩の方は資料を見ながら聞いてください。日本挽歌のほうだけちょっと紙を伏せて耳で聞いてください。

●日本挽歌

<寺田農さん朗読>
けだし聞く、四生(ししやう)起滅(きめつ)(いめ)のみな(むな)しきがごとく、三界(さんがい)漂流(へうる)()(とど)まらぬがごとし。このゆゑに、維摩大士(ゆいまだいじ)方丈(はうぢやう)に在りて染疾(ぜんしつ)(うれへ)(むだ)くことあり、釈迦能仁(しやかのうにん)双林(さうりん)()して、泥洹(ないをん)の苦しびを免れたまふことなし、と。(そゑ)に知りぬ、二聖(にしやう)至極(しごく)すらに力負(りきふ)の尋ね至ることを払ふことあたはず、三千世界に()れかよく黒闇(こくあん)(たづ)(きた)ることを(のが)れむ、といふことを。二鼠(にそ)(きほ)ひ走りて、度目(ともく)の鳥(あした)に飛ぶ、四蛇(しだ)(いそ)(をか)して、過隙(くわげき)(こま)(ゆふへ)に走る。ああ痛きかも。

紅顔(こうがん)三従(さんじう)とともに長逝(ちやうせい)す、素質は四徳(しとく)とともに永滅す。何ぞ(はか)りきや、偕老(かいらう)要期(えうご)(たが)ひ、独飛(どくひ)して半路(はんろ)に生かむとは。蘭室(らんしつ)には屛風(へいふう)いたづらに張り、断腸(だんちやう)(かな)しびいよよ痛し、枕頭(しんとう)には明鏡(めいきやう)空しく懸かり、染筠(ぜんゐん)(なみた)いよよ落つ。泉門(せんもん)ひとたび()ざされて、また見るに(よし)なし。ああ哀しきかも。

愛河(あいが)波浪(はらう)はすでにして滅ぶ、
苦海(くがい)煩悩(ぼんなう)もまた結ぼほるることなし。
従来(もとより)この穢土(ゑど)厭離(えんり)す、
本願(ほんぐわん)(しやう)をその浄刹(じやうせつ)()せむ。

日本挽歌一首
大君(おほきみ)の (とほ)朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫(つくし)の国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月(としつき)も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ(あひだ)に うち(なび)き ()やしぬれ 言はむすべ ()むすべ知らに 石木(いはき)をも 問ひ()け知らず 家ならば かたちはあらむを 恨めしき (いも)(みこと)の ()れをばも いかにせよとか にほ(どり)の ふたり並び() 語らひし 心背(こころそむ)きて 家離(いへざか)りいます

反歌
家に行きて いかにか()がせむ 枕付く 妻屋(つまや)さぶしく 思ほゆべしも
はしきよし かくのみからに 慕ひ()し (いも)が心の すべもすべなさ
(くや)しかも かく知らませば あをによし 国内(くぬち)ことごと 見せましものを
(いも)が見し (あふち)の花は 散りぬべし 我が泣く(なみた) いまだ()なくに
大野山(おほのやま) 霧立ちわたる 我が嘆く おきその風に 霧立ちわたる
    神亀五年七月二十一日 筑前国守(つくしのみちのくちのくにつかみ)山上憶良 上

永田:ありがとうございます。時間がないので細かいことは飛ばします。すみません。今聞いていただいて、特に「日本挽歌」の方は、雰囲気をつかんでいただいたと思います。この漢文詩、漢文と和文の対照を少し見たいので、ちょっと面倒だけど、最初からやっていきます。

四生(ししょう)〉、これは万物の生死を表していて、四生、四つの生、これはね、たいしょう、らんしょう……。岡野さん長いなぁと思ったけど、僕も長くなりそうです(笑)。

胎生(たいしょう)
卵生(らんしょう)
湿生(しっしょう)
化生(けしょう)

おもしろいねぇ。生物学者としてはなかなかおもしろいんですが、この四つをまとめて四生(ししょう)と言います。なかなか昔よく付けたと思います。胎生=哺乳類、卵生=鳥類、湿性=亀とか蛙とか魚、化生=蝶とか蝉なんだって。なんとなく変態するから、そんな感じですよね。よく付けたと思いますよ。

四生の起滅は夢のみな空しきがごとく〉、どんどん死んでいくわけですね。〈三界〉、ちょっと面倒くさいなぁ、これなぁ。私もわかりませんでしたが、勉強しました。欲界(よくかい)色界(しきかい)無色界(むしきかい)を三界と言うのだそうです。欲界は現世。色界は物とか肉体に執着する、そういう界。無色界、これは最上界で、精神の世界。これを三界と言うそうです。〈三界の漂流は環の息まらぬがごとし〉、三界の漂流はいつまでもあって、〈このゆゑに、維摩大士(ゆいまだいじ)〉、維摩大士は仏教の偉い人です。〈も方丈に在りて〉、こんな偉い人でも、方丈にあって。〈染疾(ぜんしつ)(うれへ)(むだ)くことあり〉、病気で、自分の病気を憂いていることがある。〈釈迦能仁も〉、これはお釈迦さんです、〈双林に坐して〉、沙羅双樹の林です。お釈迦さんも沙羅双樹の林に座して、〈泥洹(ないをん)の苦しびを免れたまふことなし〉、泥洹=涅槃ですね、仏の死、涅槃の苦しみを免れることはなし。

故に知りぬ、二聖の至極すらに〉、二聖の至極というのは、維摩大士とお釈迦さんですが、こんな偉い人でも、〈力負(りきふ)の〉、死が逃れがたいことに、〈尋ね至るを払ふことあたはず〉、自分で問いかけないではいられない。

三千世界に誰かよく黒闇(こくあん)(たづ)ね来ることを逃れむ〉、この三千世界に、黒闇というのは死ですね。死が訪ねてくることを逃れることができようか。やはり死というのは非常に怖い、もう誰にも逃れられないことで、想念の最も大事な一番の焦点は死というものになる。

二鼠(にそ)〉、二鼠っておもしろいですね、二つの鼠。これはね、昼と夜とか、日と月、これを二鼠と言うのだそうです。それが〈競ひ走りて〉、〈度目(ともく)の鳥(あした)に飛ぶ〉、目の前の鳥が朝飛んで行く。〈四蛇(しだ)〉、四つの蛇、これは人間の身体を作っている四つの要素のことを四蛇と言うそうです。〈(いそ)(をか)して、過隙(くわげき)の駒(ゆふへ)に走る〉、よくわからないんですが、間に馬が夕べをぴゃーっと走っていく、と。それが時の速さを言っているのだと思います。〈ああ痛きかも〉。すごい超スピードでやっているので、申し訳ない。

次、ここ女性が多いので絶対反発があると思いますが、〈紅顔〉、美しい顔ですね、〈三従とともに長逝す〉。三従ってなんですか。三つに従う。今言ったらぶっ飛ばされますけど、これは昔から、結婚する前は父に従い、結婚したら夫に従い、歳を取ったら子どもに従え。それが女性の徳とされた。まだこの頃はその考えが生きてるんですね。憶良を、怒らんといてください(笑)。〈素質は四徳とともに永滅す〉、素質は白い肌です。四徳は女性のそなえるべき徳、四つあるんだそうです。それが永滅する。その中に、容貌もあるんだよな。容貌も徳になるんだって言ってます。〈何ぞ図りきや〉。〈偕老の要期に違ひ〉、偕老同穴というのがあるように、「共白髪(共に白髪の生えるまで)」ですね。一緒に歳を取ろうということ。「要期」は約束。一緒に歳取りたいという約束とは違って、〈独飛(どくひ)して半路に生かむとは〉、独り飛んで、半路というのは人生半分、つまり、片一方が死んでしまって、ひとりで生きなければならない。〈蘭室には屛風いたづらに張り〉、「蘭室」は匂いのいい部屋ですが、屛風がいたずらに張ってあって、〈断腸の哀しびいよよ痛し〉、断腸の哀しみはいよいよ痛い。これはね、先ほどの旅人の漢文に断腸とあった、それを受けているんですね。だから、これは明らかに旅人のあの歌に対して返している文です。

枕頭(しんとう)には明鏡空しく懸かり〉、枕元には鏡が虚しくかかっている。奥さんが亡くなってしまったから、ひとりで生きなければならない。〈染筠(ぜんゐん)〉、これも難しい言葉でね、つまり、憶良というのは時の知識人の代表なんです。ほんとに時の知識人。憶良は遣唐使として中国に渡っていて、ああ、ぜんぜん言ってへんな。憶良の出生はよくわかりません。660年ぐらいに生まれているんですけど、百済が滅びた時に朝鮮半島から日本に来た、百済の末裔だろうという説が今だいたい受け入れられている。まったく身分のない人ですけれど、すごく勉強して、遣唐使に選ばれて、中国に行って、向こうでまた勉強して日本に帰ってきて、日本で漢詩をこれだけ書ける。漢詩文が書けるということは、知識人の代表ですから、後で億良を慕っていろいろな人が来るんですけども、とにかく、日本の知識人の草分けみたいな人です。ですから、中国の故事もよく知っているし、仏教についても非常に理解が深い人で、それだけに理屈っぽい。もう嫌になるぐらい理屈っぽくて、この漢詩はまさにその理屈ですよね。

それで、「染筠(ぜんゐん)」というのは、中国の故事で、あるお妃様が旦那が亡くなって涙を流して、青竹に涙の跡がついて、青竹がまだらになってしまったということをふまえた「染筠(ぜんゐん)の涙」と言うのだそうです。それが、〈いよよ落つ〉。〈泉門ひとたび掩ざされて〉、黄泉に向かう門はひとたび閉ざされて、〈また見るに由なし。ああ哀しきかも〉。

愛河の波浪はすでにしてに滅ぶ〉、自分の愛河、奥さんですね、奥さんが生きていたその時代は、もうすでにして滅んでしまって、〈苦海(くがい)の煩悩もまた結ぼほるることなし〉、ここはわかりますよね。〈従来(もとより)この穢土を厭離す〉、こんなのは嫌だ。〈本願 生をその浄刹(じやうせつ)()せむ〉、これは仏教ですから、本願のお釈迦様に願って、私の生を、亡くなってしまった奥さんと同じところに行ってしまいたい、と憶良は言う。憶良の奥さんもたぶんいなかったんだと思うんです。でも、奥さんの情報はほとんどありません、憶良については。ただ、旅人の奥さんが亡くなった時に、憶良は旅人の気持ちになって、こういう漢詩文をまず寄せた。旅人の奥さんが亡くなったことを仏教的に解釈して言っている。知識と観念で述べている部分が、この漢詩にある。明らかにこれは理屈であって、知識であって、それをふんだんにちりばめながら旅人の哀しみを正統に述べているというかな、そういう部分です。

●情が詠われる部分

次に、旅人の奥さんが亡くなったということに絞って、自分の気持ち、今度は情を述べる。これが日本挽歌の後ろの方です。この対照、コントラストが非常に鮮やかなので、私はちょっとこれを言いたいと思っていました。

大君(おほきみ)の (とほ)朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫(つくし)の国に 泣く子なす (した)ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月(としつき)も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うち(なび)き ()やしぬれ 言はむすべ ()むすべ知らに 石木(いはき)をも 問い()け知らず 家ならば かたちはあらむを 

恨めしき (いも)(みこと)の ()れをばも いかにせよとか にほ鳥の ふたり並び居 語らひし 心(そむ)きて 家離(いへざか)りいます

大君の 遠の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫の国に〉、〈泣く子なす 慕ひ来まして〉、奥さんが旅人を慕って一緒にやって来て、というのがここまでですね。〈息だにも いまだ休めず〉、息もまだ休めないうちに、〈年月も いまだあらねば〉、年月もまだいくらも経たないうちに、〈心ゆも 思はぬ間に 打ち(なび)き ()やしぬれ〉、思いもかけぬうちに、ぐったり伏してしまった。〈言はむすべ 為むすべ知らに〉、言うことも、何もすることもできずに、〈岩木をも 問ひ放け知らず〉、石や木にも問いかけることもできないで、〈家ならば かたちはあらむを〉、この当時の都は奈良ですから、都の奈良にあったらちゃんと形はあったのに、〈恨めしき 妹の命の 我れをばも いかにせよとか〉、私をどうしようするのか。〈にほ鳥の〉は枕詞。鳥は二つ一緒に並んでいるので、〈ふたり並び居 語らひし 心背きて〉、ふたり並んでいつも一緒に語らっていた、その心に背いて、〈家離(いへざか)りいます〉、家を離れてしまった……という歌です。つづいて、それの反歌です。

家に行きて いかにか()がせむ 枕付く 妻屋(つまや)さぶしく 思ほゆべしも

家に行って、奈良の都に行けば。これは奥さんを葬って、その後、家に行ったら、ということですね。妻のいた家は、こんなに寂しく思われることだ。

次も難しい歌です。

はしきよし かくのみからに 慕ひ来し 妹が心の すべもすべなさ

かくのみから〉というのは「こういうことになるんだったら」ということです。〈()しきよし〉は間投詞なので「ああ」というくらい。こんなことになるんだったら、慕って来た妻の心は〈すべもすべなさ〉。もうどうしようもない、どう言いようもないことだ。

悔しかも かく知らませば あをによし 国内ことごと 見せましものを

悲しいことだ、悔しいことだ、こうだと知っていたら、「あをによし」は奈良にかかる枕詞ですが、奈良の都の国のあちこち、ことごとく見せておきたかったものを、と言っています。

妹が見し (あふち)の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ()なくに

私の妻が見たおうちの花はもう奈良では散っているだろう。私の泣いている涙はまだ乾かないのに。

大野山 霧立ちわたる 我が嘆く おきその風に 霧立ちわたる

大野山は筑紫で見た山ですけども、〈霧立ちわたる〉、霧が立ち渡る。私は嘆く。〈おきそ〉というのは、ため息という意味です。ため息の風に、ため息をするので霧が立ち渡っている、と言っています。ついでに、ひとつだけ余分で、最後、山上憶良「上」と書いてますね。寺田さんに読んでいただきましたけど、「たてまつる」と読みます。

ここで私が考えてみたかったのは、よくわからんのですけど、この旅人の奥さんが亡くなって、憶良がそれに歌を作って旅人に贈ったんですね。なんでだろう。この心の動きは何なのか、というのを、とても不思議に思っています。ひとつは、旅人は大宰府帥ですから、憶良はそれよりも遥かに身分が低い。だから、媚びているということも考えられる。たしかにそれはあります。旅人が奈良の都に帰る時に、こういう歌を憶良は送っています。

吾が主の 御霊賜ひて 春さらば 奈良の都に 召上げ賜はね

こういう歌を、憶良が奏上しているので、たしかにそういう面もあっただろう。つまり、ほんとなら対等に話することもできない旅人に歌を贈ってコネをつける。ただ、それだけだとあまりにも憶良はかわいそう。もうひとつの疑問は、贈られた旅人はどう思ったんだろう。旅人の歌もとてもいいんだけども、旅人の歌よりも遥かに長い。憶良の日本挽歌も憶良の代表作のひとつですから、すごく力の入った歌で、「俺よりもいい歌つくりよった」と旅人は思うんやろうか。つまり、旅人の哀しみは旅人の歌だけでは表現しきれていないと億良は思ったんですかね。私ならこんなふうに詠いますよ、と。あとで紹介しますが、私の奥さんは亡くなっちゃったんですが、もしも私の挽歌に別のやつが、「俺ならこう作る」っていうのを贈ったらちょっと頭に来る(笑)。

もうひとつは、憶良にも奥さんが亡くなった哀しみがあって、旅人の奥さんが亡くなった哀しみに自分の哀しみを寄り添わせるような形で、自分の歌、自分の気持ちをその中に込めたということも考えられる。不思議なことで、私は今日、結論なんにもないんですけど、やっぱり歌って不思議なもので、誰かが歌をつくると、それにインスパイアされて、自分の中に表現したい漠然と持っていた思いがなんかわーっと出てくることがある。どうしても同じテーマで作りたくなってしまう、そういう瞬間というのがあって、それがこの憶良の日本挽歌。実利的にはたしかに、このことのおかげで、憶良と旅人はとても親しくなって、身分の上下を超えて、いろんなところで歌を贈答する。後でやりますけど、そういうことで、筑紫歌壇全体が非常にハイレベルなソサエティーになっていって、平城にある都の歌壇の他に、ある一時期だけですけど、すごくいい歌壇ができたこともたしかで、そういう実利的なメリットはあったんですけども、憶良がどういう気持ちでこの歌を作って贈ったのか。これ、それぞれが考えていただけると私はありがたいなぁと思っています。

●有名な、「子等を思ふ歌」の本当の意味

寺田さん、次の「子等を思ふ歌」お願いできますか。

寺田農さん朗読〉
子等(こら)を思ふ歌一首 并せて序
釈迦如来(しゃかにょらい)金口(こんく)(ただ)()きたまはく、「(ひと)しく衆生(しゆじやう)を思ふこと羅睺羅(らごら)のごとし」と。また、説きたまはく、「愛は子に過ぎたることなし」と。至極(しごく)大聖(たいせい)すらに、なほ子を愛したまふ心あり。いはむや、世間(せけん)蒼生(さうせい)、誰れか子を愛せずあらめや。

瓜食(うりは)めば 子ども思ほゆ 栗食(くりは)めば まして(しぬ)はゆ いづくより (きた)りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安眠(やすい)()さぬ

反歌
(しろかね)も (くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも

永田:ありがとうございました。これも漢文と長歌と反歌という取り合わせです。憶良の代表作のひとつですね。

瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来しものぞ まなかひに もとなかかりて 安眠し寝さぬ

解釈する必要ないと思いますが、いつもいつも子どものことが目の前にちらちらして、安らかに寝ることもできない。子どものことがこんなに心配だと言ってるわけですね。反歌の方も有名です。

銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも

宝って子ども以上のものはないと言っている。我々が習うのはここだけなんですよね。その前を習った人は、たぶん誰もいないと思うなぁ。国語の教科書に出てない。でも、ここの漢文がすごく大事。

釈迦如来の、金口(こんく)に正に説きたまはく〉、金口というのはお釈迦さんの口ですね。〈「等しく衆生を思ふことは、羅睺羅(らごら)のごとし」と〉、これ実際にあります、お釈迦さんの言葉に。衆生って人々ですね。だから、人々を思うことは、我が子の「らごら」を思うごとしだ。〈また、説きたまはく、「愛は子に過ぎたることなし」と〉。愛というのは、子どもに向ける愛に過ぎたるものはないのだと。〈至極の大聖すらに〉、この最高の、最も大切な偉い人ですら、〈なほ子を愛したまふ心あり。いはむや、世間の蒼生(さうせい)〉、蒼生は自分たち。〈誰れか子を愛せずあらめや〉。お釈迦さんでさえ子どもを愛するのだから、我々一般の人間で子を愛さないことがあるだろうか。これも普通に読むと、なるほど、なるほど。お釈迦さんでも、子どもを愛するんだから、我々が子どもを愛するのは当然じゃないか。

ただ、この漢文にはすごく大きな、憶良の、上野誠さん流に言うと「ずらし」があるんですね。本来の意味を逆転、逆手に取って、強引に憶良の解釈をここに披瀝しているという、そういう文です。つまり、子どもを愛したらいかん、愛するということはそもそもいかん、これが仏教の教えです。愛することはものに執着することなので、ものに執着してはいけない。人間が最も執着するのは、自分の子ども。だから子を愛するということは、仏教では戒められることなんです。特に僧侶になる人は。だから、僧侶は自分の子どもとか捨てないといけないので、結婚しない。

それで、お釈迦さんは〈等しく衆生を思ふこと、羅睺羅(らごら)のごとし〉。自分の子も大事だけど、それを同じようにみんなも大事に思っている。つまり、自分の子どもだけに執着はしないということを、お釈迦さんほんとは言っているんですよ。「羅睺羅のごとし」は比喩なので、「羅睺羅が愛しい」と言ってるのではなくて、「みんなが愛しい」。自分の子どもと同じようにみんなが愛しいんだよと言っていて、「自分の子どもに執着しない」ということをお釈迦さんはここで言っている。

愛は子に過ぎたることなし〉、これはちょっと難しい。これは、ほんとは仏典にないらしい。どうも憶良が作ったらしい、と伊藤先生は言っています。憶良が仏典を誤解したのか、それともあえて推量して、釈迦といえども内心に子への煩悩があったはずだと考えたのか、はっきりしないと書いています。ただここで大事なことは、子どもとかに執着してはいけないというのが仏教の本来の教えだった。でも、そうじゃないだろうと、憶良が仏典に対して異を唱えている。それがこの部分だということです。世間一般で、仏教はこの時代すべてを支配していましたから、仏教で言うような欲、あるいは愛執というものを、絶たないと立派な人間ではないと言われていた時代に、お釈迦さんでもこう言ってるじゃないか、だから我々が子どもを思うのは当然のことなんだと言ってのけた。

これは憶良が中国に渡って、中国の知識を吸収して、仏教の知識もすべて吸収して、それに則って知識人としてあるだけではなく、ある種の人間宣言、つまり、仏教ではこう言うけど、やっぱり子どもはこんなにかわいいじゃないか、ということをあえて宣言したのが、この漢詩の上野さん流に言うと「ずらし」であり、そしてその次の長歌である。我々は、長歌と反歌だけ読んでいると、憶良は子煩悩なんだと言っているけど、憶良がこの歌を出すまでには、そうとうな葛藤があって、従来言われることを曲げてでも解釈して、お釈迦さんでもこう言ってるんだから、我々がこう言ってもいいじゃないかという準備をして、長歌を作った。やっぱり、これを知ってるか知っていないかで、この長歌の解釈の仕方もずいぶん違ってくると思うんです。こういうことはなかなか高校までの授業では習いませんが、やはり原典をあたることは大事だと思います。でも実は、私も原典を読んでいたんですけど、この漢文を読んでも、そんなふうには解釈できないじゃないですか。これはやっぱり、専門家の伊藤先生とか、上野さんの「ずらし」という解説もそうですけど、憶良がそれまでの定説に異を唱えてこう言いたかったんだという解説をしてもらわないとなかなかわからない部分ですね。私は、いろんな解説がなくて楽しめるのが歌だと思っているし、解説に囚われるとつまんないけど、一方で解説を聞いて「あぁなるほど」と思うのも結構あると思っています。

万葉集の中で子どもをこんなに歌ってるのは憶良だけですね。他は、ほんとにないです。だから、憶良は子煩悩の歌人としてみんなに知られているんだけれど、でも、この歌を歌うまでには憶良の中でも葛藤があったことはちょっと知っておいていただくといいでしょう。

●本歌取りについて

私、実は今年大チャレンジで、東京にサイエンスの友達がいまして、東京都の医学総合研究所の今理事長やってる田中啓二さんと言うんですが、彼ももうちょっとしたらノーベル賞取るかもしれませんが、彼はこのあいだ日光街道を歩いたりして、今度東海道を歩こうと思ってると言うので「ほんならおまえ日本橋から歩け、俺、三条大橋から歩く」と言って、このあいだ第一回をやったんです。第一回目だけ同時にやろうと、彼は日本橋から、僕は三条大橋から山科越えて大津、石山まで。再来週またやるんですけど、その時に、大津を通っていたらちょうど墓地に出て、旧街道ですけど、この歌を作りました。

冬の陽のあるかなきかの光なり墓地入口にかざぐるままはる

なんでこの歌を出したか。墓地に風車が回っている。すごく不吉な感じがして、これはやっぱり水子地蔵というイメージがあるからだと思うんですけど、実際にそういう意味で風車が回っていたんだと思います。すぐその次にできたのが、この歌。

かざぐるままはりつづけておもはるる結愛(ゆあ)心愛(みあ)といふ名をつけし親

結愛ちゃんのこと憶えておられますか、5歳の子(注・両親に虐待を受けて死亡した女の子。「おねがい ゆるして」と書いたノートを残していた)。僕は日本にはいくつかの憶えておきたい手紙というのがあって、(マラソンランナー)円谷幸吉の手紙は憶えておきたい。それから、(野口英世の母)野口シカさんの手紙もすごいですよね。この結愛ちゃんの手紙もぜひ憶えておきたい、ということをある新聞に書いたことがあるんですが、「結愛」という名前にちょっとショックを受けていたのに、今度は心愛ちゃんという子が(注・両親の虐待により死亡した10歳の女の子)……。なんで「愛」をつけるんだ? どっちもね、結ぶ愛、心の愛でしょ。こんな名前をつけて、どうなってるんだ。今日子どもの歌をやるので、昨日作ったこの歌、まだどこにも発表していないんですけど、名前がこの名前だからよけい哀れというか、悲しい歌ですね。

それで、ひとつここで考えてみたいのは、歌には「本歌取り」という手法があります。ある人が作った歌にインスパイアされて、そのうちの一部を使って歌を作る。塚本邦雄さんは前衛短歌の旗手で、10年ほど前に亡くなりましたけど、私が最も大きな影響を受けた一人。彼にこういう歌があります。

(きじ)食へばましてしのばゆ ()(めと)りあかあかと冬も半裸のピカソ

これは明らかに憶良の本歌取りですよね。塚本邦雄は瓜も栗も食まずに、〈雉食へばましてしのばゆ〉。何を偲んだかというと、〈再た娶りあかあかと冬も半裸のピカソ〉。ピカソってそういうイメージありますよね。写真も残っています。ちょっと太って半裸で。〈再た娶り〉というところは塚本さん一流のアイロニーで、ピカソは何度も結婚していますし、その他にも愛人が何人かいた。だから、塚本邦雄は憶良が子どもを思う歌をイメージして、でもピカソのように何度も娶って冬もテラテラと半裸で汗かいているような人もいるんだ、と詠む。ここに塚本邦雄のアイロニーがある。本歌取りというのは、必ずしも今手法として確立しているわけではないですが、我々は歌を作っていく時に、過去の歌からなんらかの影響を受けていると思います。塚本邦雄はもっとすごくて、自分の歌は31音、どれとして本歌取りならざるはなし、すべて誰かの本歌取りだと豪語しています。私にもあります。

二人ゐて楽しい(はず)の人生の筈がわたしを置いて去りにき

平成28年の「人」というお題の時に、歌会始に出した歌です。私はもう15年ほど歌会始の選者をやっているんですが、いつの間にか一番長い選者になってしまいましたけど、たまたま奥さんの河野裕子が3年ほど一緒に選者をやってたことがありまして、河野が亡くなってしまってから、申し訳ないんですけど、歌会始にはすべて河野の歌を出しています。歌会始って年のはじめのおめでたい場なので、亡くなったとか、死んだとかというのは、場にふさわしくないので、投稿歌の中でもほとんど取られませんから、私の場合も死んだとかそういうことは直接には出さない。ただ、河野が歌会始の選者としてはわずか2年ちょっとで悔しさを持って亡くなってしまったので、少しその思いも込めて歌を出しているという感じなんです。これは実は本歌取りなんですね。河野裕子にこういう歌があります。

これからが楽しい筈の人生の筈につかまりとにかく今日の一日     河野 裕子

「筈(はず)」って何かご存じですか。筈って、弓の止めているところ、つるを止めているあそこを筈と言うんですね。これは河野が癌になって、再発して、ほんとならこれからが楽しいはずの人生の、その筈というのがあるなら、なんとかその筈につかまって、今日の一日を渡っていくよという歌で、いい歌だと私は思っていますけど、そんな筈に彼女が必死につかまりながら一日一日を生き延びていた時間というのはやっぱりあったので、私の方は、

二人ゐて楽しい筈の人生の筈がわたしを置いて去りにき       永田 和宏

つまり、二人一緒にいるからこそ楽しい筈の、その人生の彼女が必死につかまっていた筈が、私を置いて去ってしまった、という歌です。

今日は旅人の奥さんが亡くなった日本挽歌の歌もやったので、これが私の一応挽歌のひとつです。ついでに言っておくと、この写真が私の奥さん、河野裕子さんで、一般に与謝野晶子以来の歌人だと言っていただいていて、私もほんとにそういうふうに思っていますけど、64歳で亡くなってしまって、ほんとに残念なことでした。こういう歌も作っています。

白梅に光さし添ひすぎゆきし歳月の中にも咲ける白梅     河野 裕子

今年のお題が「光」だったんですが、10年前も「光」が出ました。その時に河野が選者をやっていたので、その時に河野が作った歌です。白梅に光がさして、過ぎていった歳月を思い出してみると、その歳月のどこにも白梅が咲いていたよ、という歌で、初句の白梅と、結句の白梅がうまく合っていて、いい歌だと思っています。今年もう一回「光」になったのですが、そこで私が詠んだ歌は、

白梅にさし添ふ光を詠みし人われのひと世を領してぞひとは    永田 和宏

白梅にさし添う光を詠んだ人がいた、その人が私のひと世、人生を、領してというのは占領して、私の人生を領して、その人はいるんだ、という歌です。

二人ゐて楽しい筈の人生の筈がわたしを置いて去りにき

これだけでもいいんですが、本歌を知っていると、やっぱり読み方が違ってくる。二首目の歌も、「白梅にさし添ふ光」、誰が詠んだんだろうなぁ……と思ってもいいんだけど、河野の歌を知っていることで、また読みがぜんぜん違ってくると思っています。

憶良のことを言ってるよりも、歌のおもしろさをお話しした方がほんとはいいんだけど(笑)、先ほどちょっと言ったように、漢詩文と大和歌の二つ、漢詩文というのはある種、「理」の世界、「知」の世界で、いろんなことをきちんと述べるには適しているけれど、旅人がいみじくも言ったように、「筆舌に尽くしがたし」、筆では尽くせないことがあると言ってたけど、歌というのは、やはり自分の心を表現するには一番すぐれた詩型だと、私は思っています。

●歌だからこそ伝えられること

『源氏物語』はあんなに長い物語ですけど、あの中で、主人公の気持ちは、どこにも地の文にはないですね。主人公の気持ちは、すべて歌の中にしかない。つまり、歌は結局は気持ちを表す詩型だと思っています。

私こういうところで、よく紹介するんですけども、みなさん方に経験あるかどうかわからないけど、これから旅立とうとしている、亡くなろうとしている人に、何か声をかける、何かしゃべる、これはとても難しいことですね。何をしゃべったらいいかわからない。たぶん一番言いたい言葉は「ありがとう」という言葉だと思うんですが、これを言うのはすごく難しいですね。私は、サイエンスの方の先生、私の前任の教授ですが、その市川康夫先生が亡くなる前の日に病室に見舞ったことがあります。とにかく最後、ほんとに長くない。膵臓癌でしたから、我々も先生も私も、どういう病気かよく知っている。私がサイエンティストとしてなんとかやってこれたのはその先生のおかげなので、一言でもお礼を言いたいと言って病室に行ったんですが、3040分いたかなぁ、その間どうしても「ありがとうございました」が言えなかったですね。ひとつは「ありがとうございました」と言うと、「これでお別れですね」と言ってることになるでしょう。これはとても言えないですね。もうひとつは、「ありがとう」みたいな手垢の付いた言葉、埃にまみれた言葉で、自分の感謝の気持ちは、この薄っぺらな言葉では表せないと思っちゃう。そうすると、どうしても言葉にできない。

30分、40分病室で先生と話をして、「ちょっと吸い飲み取ってくれへんか」と言われたので、吸い飲みでお茶を飲ませて、「また来ます」と言って廊下に出たんですよ。出た時に、病室から市川先生が、「永田くん、ありがとう」って言ったんですよね。市川さんもやっぱり言いたくて、ずっとそのタイミングを探っておられたんだと思うんです。私も廊下で「ありがとうございました」って言ったんだけど、ほんとうに嗚咽のほうが強くて、もう声になってない、という経験がありました。その日の次の日の朝、明け方に亡くなっちゃったので、私としては、あの声を聞けたので、ほんとに救われたという気がします。あの声を聞いてなかったら、ずっと後悔し続けたと思います。あの時思ったのは、我々が日常使っている言葉って、なんて無力なんだということ。いざほんとに、自分の一番大事なことを言おうというときに、日常使っている言葉って出てこないし、噓っぽいし、なかなか表現できない、という気がしました。

私は、河野さんとはほんとにしゃべらなかったです、最後まで。改まって、何もしゃべらなかった。河野については、なんの後悔もないですね。やっぱり、歌をずっと詠んでたということがあって。

長生きして欲しいと誰彼数へつつ つひにはあなたひとりを数ふ

というのが河野裕子の歌です。私が死んだらみんなに長生きしてほしいと思うけど、結局、私はあなただけは長生きしてほしいという歌を河野は作っている。なかなかこんな歌作ってもらえる男はいません(笑)。

一日が過ぎれば一日減つてゆく君との時間 もうすぐ夏至だ

という歌を私は作りました。河野は、再発してから……再発というのはなかなか難しくて、引き算の時間なんですね。だから、一緒にいて楽しいけども、その楽しい時間は楽しければ楽しいだけ、一日過ぎたら、そのぶん一日減っていくと。〈もうすぐ夏至だ〉というのが結句に来るんですが、夏至は日が一番長くて、あとはどんどん減っていくという、そういう意味もあります。この歌を作った時は、どうしようかと思いましたね。発表したら河野が見るので。河野が見たら、「私の時間はもう減っていくだけなんだ」。とても残酷な歌で、この時だけ、はじめて子どもたちに相談をしました。うちは子ども2人とも歌を作っていて、よく知っているので、それは発表したほうがいい、と。河野もその歌を見ました。河野はいいんですよ。自分が死ぬことを前提にして、いろんな歌を残していったのでいいんですけど、こちらは河野にダメージを与える歌を作りたくないという思いがあって。でもまぁ、あの歌を河野に読んでおいてもらったというのは、自分としては、とてもよかったというふうに今は思ってます。なんでこんな脱線したのかと言うと、わかんないんですが(笑)……歌はやっぱり自分の思いを一番十全な形で伝えられる、という気がします。

河野が亡くなってから、文藝春秋で河野さんと私の相聞歌の本を作りたいと言ってくれて、『たとへば君』という本が出ましたけど、普通相聞歌と言ったら、結婚するまでじゃないですか(笑)。ところが、河野さんは、亡くなるまで、けっこう作っていて、何首ぐらいあったかと言うと、500首あったんだね。直接、私を歌ってる歌が。ええ! とびっくりして、私も歌を探したら、そんなないだろうと思っていたら、450首。

亡くなってから河野の歌をいっぱい作って、河野より多くなりましたけど、やっぱり歌を詠んでいると、人生のその時々の時間が歌の中にきちんと定着しているというか、昔詠んだ歌を読むと、ほんとにその時の風の匂いまでわかる、思い出す、という気がします。どんなふうに感情がこもっていたんだとか、辛いこともあって、昔、二人の歌があるのは、こんな幸せなことはないと思っていたんですけど、片一方が先に亡くなっちゃうと、その歌を読み返すのはとても辛いだろう、耐えられないだろうと思っていました。ただ、やっぱり、河野が残していった歌を今読んでいて、辛いというよりは、「あ、こんなこと思っていたのか」とか、「気がつかなかったけど、こんなこと思ってたんだ」というようなことを読むたびに発見するような気がして、すごい大事なことだと思っています。

私の娘、永田(こう)と言いますけど、家持の歌からきてるんですね。「紅にほふ」からきてるんですけど、二十歳ぐらいの時に新聞でインタビューされて、「一首の歌を作ると時間におもりがつくような気がする」と言って、とてもいい言葉だと思っていたんですが、やっぱり我々日常忙しくてどんどん時間はその他大勢の時間として過ぎていってしまうけれど、歌一首作るだけで、ひとつの時間がその他のぼやっと過ぎた時間とちょっと違う、くっきりとした時間として世の中に定着する。私は生涯にだいたい60007000ぐらい歌を作っていると思いますが、やっぱり、歌、それも昔の歌を読み返すと、ああ、あの時あんなことがあったというのはしっかり思い出されて、それは他の人にはない幸せなことだなぁと思います。ぜひ、これを機会に歌を作っていただければと思います。

●梅花の宴

今日もう一つだけ、簡単になりますけど。次、梅花の宴。これはね、なぜ今回やっておこうと思ったかと言うと、河野さん(学校長)から紹介あったと思いますけど、次の次の回に、全員参加型のイベントをやろうと思っていて、それは歌仙です。歌仙は、五七五を作って、七七を付ける。次にまた五七五、それをみんなで付けていく。歌というのはだいたい一人で作るものなんですけども、歌仙は「座の文芸」と言われて、一緒にいる人が次々つけていく。

グループを作って、発句は同じで、2つのストーリー展開がどれほど違っていくかというのを、グループ戦と個人戦でやろうと思っています。参加しないと損ですので、ぜひどんどん作ってほしい。歌仙というのは、もっともっと後で生まれたもので、それから俳句が出てきたわけです。ただ、歌仙とは違うんだけども、歌一首ずつで歌仙のように動いていく、非常におもしろい歌の例があって、それがこの旅人邸で行われた梅花の宴。この座にいた人たちがどんな歌を次々作ったかを、一部だけご紹介します。寺田さん、歌を読んでいただきましょうか。

<寺田さん朗読>
梅花(ばいくわ)の歌三十二首 并せて序

天平二年の正月の十三日に、帥老(そちらう)(いへ)(あつ)まりて、宴会(うたげ)()ぶ。
時に、初春(しよしゆん)令月(れいげつ)にして、気()く風(やはら)ぐ。梅は鏡前(きやうぜん)(ふん)(ひら)く、(らん)珮後(はいご)(かう)(くゆ)らす。しかのみにあらず、(あした)(みね)に雲移り、松は(きぬがさ)を掛けて(うすもの)を傾く、(ゆふへ)(くき)に霧結び、鳥は(うすもの)()ぢらえて林に(まと)ふ。庭には舞ふ新蝶(しんてふ)あり、空には帰る故雁(こがん)あり。
ここに、(あめ)(やね)にし(つち)(しきゐ)にし、膝を(ちかづ)(さかづき)を飛ばす。(げん)を一室の(うち)に忘れ、(きん)煙霞(えんか)の外に開く。淡然(たんぜん)(みづか)()し、快然(くわいぜん)(みづか)ら足る。
もし翰苑(かんゑん)にあらずは、何をもちてか(こころ)()べむ。詩に落梅(らくばい)(へん)(しる)す。古今(ここん)それ何ぞ(こと)ならむ。よろしく園梅(ゑんばい)()して、いささかに短詠(たんえい)を成すべし。

永田:ありがとうございました。これはこの宴を催した趣旨説明みたいなものですね。旅人が巻いたんだというふうに言われてますが、それはそれとして、資料に、その次の歌もありますね。その歌について、どんなふうにみんなが歌を詠い継いでいったかを見ていこうと思います。

一番目
正月(むつき)立ち 春の(きた)らば かくしこそ 梅を()きつつ 楽しき()へめ

実際これ、どういう席順であったかまで伊藤先生は想像していますけども、歌の意味としては、正月になって春がやってきたらば、毎年こんなふうにして、梅の花を迎えて、楽しみの限りを尽くそうという、発句ですね。歌の口火を切ったということです。それにつけて、

梅の花 今咲けるごと 散り過ぎず 我が()の園に ありこせぬかも

と言っています。梅の花よ、今咲いているように散りすぎることなく、わが家の園に、「ありこせぬかも」はちょっと難しいんだけど、「こす」は、ずっと何々してくれるという意味なので、あってほしい、あり続けてほしいよ、そういう意味ですね。ずっと咲き続けていてくれないかと言っているわけです。招いて、春、毎年やりましょうよと言ったら、次は散りすぎないで、ずっと咲いててちょうだいねと言っている。同じような歌が続いたので、ここでちょっと展開をせんといかんというので、3番目は、

梅の花 咲きたる園の 青柳は かづらにすべく なりにけらずや

と言っている。梅の花が咲きにおってるようなこの園には、青柳もあって、それが美しく芽吹いてきたと。それを「かづら」=冠みたいなものになるぐらい柳が青く芽吹いてきた。これいいですね、うまく展開していて。梅の花でかたまってきそうなところを、梅の色から緑の青柳に場面を展開した。で、次は、

春されば まづ咲くやどの 梅の花 ひとり見つつや 春日(はるひ)暮らさむ

春になったら真っ先に咲く庭の梅の花。これを「ひとり見つつや 春日暮らさむ」。誰が歌ったかというと、これが憶良なんですよね。春山上大夫(やまのうへのまへつきみ)と書いてあります。これが憶良で、なかなか展開としてはすごくて、ここで「恋」に展開している。つまり、春が来ると真っ先に咲く庭の梅の花、この花をただひとりで見つつ春の日を一日暮らすのだろうか。これは何かというと、奥さんを亡くした旅人に言っている。旅人が主宰している会なので、みんな梅の花、梅の花、青柳の芽と言っていたところに、憶良はさり気なく旅人のひとりでいる寂しさを思いやる。憎らしいほど気がつく男でね、これ。官吏としてはいいんだと思うなぁ。ついに出世しなかったんですけどね、彼は。でも、やっぱり旅人としては、「おお、俺のことをわかってくれてるやつがここにいる」と、ここで思う。

「恋」の思いが出てきたので、次の人は、

世の中は 恋繁(こひしげ)しゑや かくしあらば 梅の花にも ならましものを

おっしゃる通りこの世の中というのは、恋の心が尽きることがないものですね。〈かくしあらば〉、こうあるならば、ということですね。その恋の思いを引きずっている、梅の花にもなりたいもんですよ。次の歌は、

梅の花 今盛(いまさか)りなり 思ふどち かざしにしてな 今盛りなり

なかなか調子のいい歌で、「今盛りなり」が2回繰り返されている。歌は、リフレインというのがとてもいいんですよね。リフレインは、歌の調子を整えるということもありますし、記憶しやすくもする。歌ってすごく短いでしょ、たった31音しかないので。歌って作ってみると、一番の失敗は、言いたいことをどんどん詰め込みたいんですよ。わずかの言葉しかないので、そこになんとか自分の思いを詰め込む。初心者の歌の失敗は、言いすぎてしまう。どんどん物事を詰め込んでいく。リフレインというのは、言葉の経済から言うと、こんな不経済なことはない。31音しかないところに「いまさかりなり」を二回、14音も使って、こんな無駄なことはないんだけど、でも、歌というのはこんな無駄をする。

僕は言葉と言葉の間に隙間を作るのが大事だと言ってるんですけど、我々は、さっきの漢詩文のように、びっしり言われた言葉の中には、自分の情をはめ込んでいくことができない。情を添わせるには、言葉と言葉の間に、どこか隙間がないと、自分の情をそこに添わせることができないので、言葉というのはできるだけ緩やかに並んでいるほうがいいと思っています。そういう意味から、この歌もなかなかうまくできていて、梅の花は今が盛りですよね。〈思ふどち〉の〈どち〉は友達という意味です。気心の知れた友達同士、梅の花を髪飾りにしようよ、と。

結句は〈今盛りなり〉。梅の花はやっぱり盛りですよねと言っている。これは、友達同士で梅の花でかざしを作ろうとしか言ってないんですけど、うまい歌だと思います。

青柳(あをやなぎ) 梅との花を 折りかざし 飲みての後(のち)は 散りぬともよし

こっちはもうちょっと現実的で、青柳に梅の花を手折って、かざして、一緒に飲もうやと。

飲んだ後はもう梅の花は散ってもいいよと言っています。その次が、主、旅人。これはいい歌ですね。旅人のは。やっぱり、普通に素人目に見ても、これだけしか歌が並んでいないけど、この並びの中で、やっぱり憶良の歌と旅人の歌はちょっと格が違うという気がします。

我が園に 梅の花散る ひさかたの (あめ)より雪の 流れ来るかも

私たちがいる園に梅の花が散っている。〈ひさかたの〉は天にかかる枕詞ですけど、ひさかたの天から雪の流れて来るような、雪が流れてくるんだろうか、これは。これは梅の花が散っているほうですね。先に「散ってもよし」と言っているので、旅人も散る梅を詠んでいる。その散る梅が、天から雪が降りこんで落ちてくるように見える。これはやはり、旅人らしい格調の整った歌。ただ現代短歌ではこんなのやってたら感覚が古いという(笑)。だって、梅の花が雪が降るようだと言ったら、やっぱり、古いでしょ。これ投稿歌にあったら、絶対取らないな。100%取りませんね。

●歌を作る喜びと難しさと

これは難しいところで、やっぱり歌というのも、進歩しているとは一概に言いませんけど、やっぱり昔の歌を読んでいて、現代とぜんぜん違うなぁと思うことはよくあります。こういう時の歌を、最初に言った人はすごいと思うんです。梅の花が雪の降るように散って、これを最初に言った人はすごいと思うんだけど、我々が見慣れてくると、こんな比喩はちょっとまずいだろうと思う。歌というのは、言葉というのは、やはり一回言われたものは、もう既定のものとして、みんなの知識の中に蓄積されてしまうので、そこからいかに抜け出すかというのが、とても難しいと思います。そういう意味では、この歌は、比喩としては今となっては平凡だけど、この時には、非常に斬新な歌だったでしょう。今、現代短歌で「紅葉のような手」なんて出てきたら、そんなの絶対取らない。でも、最初に「紅葉のような手」と言った人は、すごいですよ、やっぱり。幼子の手を見て紅葉のようだと言った人がいたわけで、すごい発見だったと思うし、我々実際に歌を作っている人間としては、言葉はいかにも古びやすいもの、すぐに古くなってしまうということを、やっぱりいつもいつも考えています。

歌を作る時の喜びというのは、それがすべてではないけれど、ひとつは、これまでのどんな人も感じて来なかったような感じ方を自分ができるだろうかという、ある種のチャレンジでもあって、いかに美しい手といえども、「紅葉のような手」と言って満足しているようでは歌は作れないと思います。

これは、旅人は今の時代から見れば、梅の花が雪だというのは、ちょっといただけないと思いますけど、この時代にあっては、やっぱり憶良と旅人はちょっと違うなぁと、そこがとても不思議な難しいところだというふうに思います。

かなり中途半端に、途中急いでしまいました。僕に万葉集をしゃべらせるのが間違ってるので……現代短歌のことをしゃべらせたら、いくらでもおもしろい話をしますけど、ちょっと今日はこういうところで終わりにして、次は、みなさんと一緒にリアルタイムで言葉の生まれてくる現場を体験してみたい。これは、おもしろいです、実際に。寺田さんも体験されたけど、自分一人で作るのではなくて、人の言葉にどんな対応ができるか。言葉を強制的に与えられるので、対応しようと思っている時に、思いもかけない、あ、自分はこんな言葉を引っ張り出せるんだというか、こんな言葉をそこに付けることができるんだという、自分の発見にもなる。ぜひ、「私って捨てたもんじゃないわ」という感覚を味わってほしいと思っています。ということで、今日は終わらせていただきます。

河野:ありがとうございました。なかなか思い描いたシナリオのように進まないのが、万葉集講座の特徴になっていて、これはまた魅力だなと思いますし、予定になかった永田さんの中盤のお話、とてもおもしろかったと思います。お話の中で紹介されていた歌仙の本は中公新書で出たばかりです。それから、『たとへば君』という文春文庫に入っている河野裕子さんと永田和宏さんの40年の相聞歌、ご興味のある方はぜひ読んでくださればと思います。

受講生の感想

  • 『歌に私は泣くだらう』読ませてもらいました。自分が乳癌経験者なので、何度も読む手を止めながらも、なんとか読み終えることができました。今なら、あの頃の、自分の思いを、歌でなら出せるのではないかと思わされました。少し、怖いのですが、挑戦できるかな? とても得難い勉強をしていると実感しています。

  • 岡野先生からも永田先生からもいちばん強烈に感じたのは、「和歌という手段への信頼」でした。(中略)和歌というものがまだよくわかりませんが、三十一文字の中で自分の気持ちを表そうと表現を磨きつづけるうちに「気持ち」と「言葉」を限りなく近づけていくことができて、それだからこそ持てる信頼なのかなと思いました。

  • 「(漢詩に対して)和歌は言葉の隙間に『情』を入れることができる」という永田先生の言葉に、はっとさせられました。

  • 教科書に引用されているような歌を、そこだけ読んで知った気になるのではなく、前後の文脈も合わせて知ることで、理解がぐっと深まることが、とてもよくわかる授業でした。