万葉集講座 
第6回 俵万智さん

万葉びとの恋

俵万智さんの

プロフィール

この講座について

この日のテーマは「万葉びとの恋」。1000年以上前から日本人が歌に詠みつづけてきた人を思う気持ち。まずは万葉集の中の恋の歌を聞いたあとで、受講生のみなさんが宿題として詠んできた「恋の歌」を講評していただきました。歌を詠むことで得られる「人生を丁寧に味わう時間」、それをみんなで実感した授業でした。

講義ノート

今日は『万葉集』の中でも恋の歌ということで、みなさんと一緒にたっぷり恋の歌を楽しんでいきたいなと思っております。はじめに、私が日頃短歌ですとか古典について思っていることを少し前置きとしてお話ししたいと思います。

●1000年前からの「手紙」

短歌というのは日々の中の心の揺れ、何か人の心が揺れた、それを種にして言葉探しが始まって、その種が心の花として咲いたようなもの、そんなイメージです。「日々の心の揺れ」と言いますと、「日記みたいなものですか」とよく言われます。でも、私は日記とはちょっと違う、そんな気がしています。日記だったら、書いて自分の机の引き出しにしまっておけばいいですよね。でも、短歌は5・7・5・7・7の形にして、それを誰かに届けたいという気持ちがそこに乗っかっている。そういう意味では日記より手紙に似ているのではないかなと感じます。誰かにこの思いを届けたい、共有したい。そういう思いがあるから人は歌を作るのではないかと感じます。ですから、古典を読む、例えばこの『万葉集』を読むというのは、1000年以上前の人が書いてくれた手紙を私たちがこの場で読む、そんな感じだと思います。5・7・5・7・7というタイムカプセルに込めた1000年以上前の手紙がここに届いている、そんなふうに感じてみてはいかがでしょうか。

先だっての岡野弘彦先生の講義をみなさんと一緒にここで聞かせていただきました。あのとき、まさに岡野先生が大伴家持からの1000年前の手紙をここで読んでいる、そんな感じ、しませんでしたか。私、本当に心がドキドキするような興奮と感動をあのとき覚えたんですけれど、これはやはり短歌にしかできない素晴らしいことだし、「岡野先生が家持の手紙を読んでるところを見ちゃった」っていう感じがして、本当に素晴らしい時間だったなと思います。

こんな古代からの手紙をどこの国の人も持ってるかというと、そうではないんですね。本当にこんな手紙を読めるのは私たちぐらい、世界広しといえども私たちぐらいではないかと思います。先日、パリの国立東洋言語文化研究所に呼ばれて短歌の話をしてきました。そのときにも申し上げたのですが、まず紹介するのは『万葉集』です。1000年以上前からこんな短歌が作られていて、そして今、私たちは読むことができて、しかも、どんな人が作っているかといえば無名の市井の人もいれば、貴族もいれば、防人という兵隊さんもいれば、天皇もいれば、あらゆる人たちがこの短歌を作っている。ずっとどの時代でも作り続けられてきて、今もなお作られている。それもまたすごいことなんですね。今の日本で、たとえば新聞を見ますと、必ず新聞歌壇ってありますね。ご覧になったことあると思うんですけれども、これは読売歌壇です。岡野先生が一番上で私が一番下の(笑)、こんな感じで毎週のように新聞にこういうものが載っています。特別な文学新聞とかじゃなくて、普通の新聞ですよね。それは読売も朝日も毎日も日経もみんなそうです。それを言うと大抵外国の方は、すごく驚かれます。だって、「ル・モンド」とか「ニューヨーク・タイムズ」にそんなコーナーないですよね。それで、「ここに送ってくるのは、どういう人なんだ」と聞かれるので、「ごく普通の、特別に詩を職業としてるような人ではなく、日本中から、あるいは世界から、下は小学生ぐらいから90代の人まで、あらゆる人が送ってくるんですよ」と言うと、本当に驚かれます。

だから、古い歴史があるということと、今なお、こういう広がりがあるということに関しては、本当に世界唯一と言っていい詩の形を私たちは持っているわけです。学校教育でも必須ですし、みなさんも一度や二度は宿題なんかで作ったのではないでしょうか。今回も直前に募集をかけたら60首以上の歌が届いて、圧倒されるような感じも持ちました。そんなふうに急に宿題に出されても、みんななんとか作ってしまえる、そういうものを持っていること自体が素晴らしい文化なので、ぜひみなさん誇りに思って、機会があったら自慢してほしいなと思います。ただ読書の読、読むほうだけじゃなくて、詠じる、作るほうの両方に関われる、こういう詩を私たちは持っているわけです。

今、学生さんたちの間でも短歌を作るのが盛んで、大学生のサークルでもどんどん学生短歌会というのが増えてきています。高校生の短歌甲子園というような催しもあります。私も宮崎で牧水短歌甲子園というのをずっと審査しているんですけれど、若い人にも今すごく広がっています。もしかしたら、これはSNSで短い言葉で発信することにみんなが日頃から慣れている、トレーニングされて、敷居が低くなっているからかな、なんていうふうに今の状況も私自身はとてもうれしい気持ちで見ています。

そして、岡野先生の講義でちょっと印象に残ったのが、先生が現代語訳をするときにすごく恥ずかしそうにされていたことです。「なんか飛び立っている鳥の羽をむしって焼き鳥にするような感じだな」というふうにおっしゃっていて、うまいことおっしゃるなと思ったんですけれど、あの感じは私もわかります。高校で古典を教えていた時期があるんですけれども、そのとき、そういう感じがすごくしたんですね。教室に入る前は、この素敵な短歌を子どもたちと読むという高揚した感じで入るのですが、どうしても学校の授業ですから、文法がどうなって、この古語の意味はこうなって、係り結びがこうなって、枕詞がどうなってと言ってるうちに、だんだん色褪せていってしまう。ダイレクトに受け取ったものがどんどん色褪せてしまう。そして、高校の授業というのは、大体その現代語訳が完成したところで一丁上がりなんですね。それで、「はい、できました。じゃ、次行きましょう」となってしまう。時間も短いし、受験のこともあるので、どうしてもそうなるんですけれど、おかしいと思いませんか? だって、何が書いてあるかわかったところがゴールではなくて、そこがスタートなんですね。

たとえば絵画を見たときに、リンゴの絵が描いてあるなというのがわかったからといって、その絵がわかったことにはならないですよね。それを味わったということにはならない。だから、リンゴの絵が描いてあるとわかったところをスタートにして、味わうことが本当は始まらなきゃいけないのに、学校の授業ではどうしてもそこがゴールになってしまう。そんな歯がゆさを私自身感じておりました。ですから、今日の講座では、お手元に資料として、今日味わってみたい歌をプリントして配っていますが、この意味がわかったところで「さあ、次に行きましょう」ということはしたくないなと思っています。その意味がわかったところをスタートとして、みなさんとなるべくたっぷり恋の歌を味わってみたいと思います。恋というのは本当に短歌と相性がいいんですよね。勅撰集の部立(ぶだて)でも春、夏、秋、冬と並んで相聞=恋というジャンルが確固としてありますし、百人一首も半分ぐらいは恋の歌です。短歌と恋は非常に相性がいいので、今日それをたっぷり味わっていきたいと思います。

●恋というものの原点

最初に巻十四の東歌(あずまうた)という東国の歌が集められている中から一首引いてみました。

多麻川にさらす手作(てづくり) さらさらに(なに) ぞこの()のここだ(かな)しき

〈多麻川にさらす手作〉というのは、当時、布を作る過程で川に布をさらすという労働があった。そのことを言っています。そして、とりあえず授業みたいになりますけれども(笑)、ここは我慢してスタート台に立つために。〈さらす手作〉までがその〈さらさらに〉という言葉を引き出す序詞(じょことば)という働きをして、そこまでの言葉が〈さらさらに〉という言葉を引き出しています。〈さらさらに〉というのは、「さらにさらに」という意味ですね。さらにさらに、〈何ぞこの兒のここだ愛しき〉、なんでこの子がこんなにも愛(いと)しいんだろう、というふうな意味ですね。

序詞、これは〈さらす手作〉という言葉で〈さらさら〉を導き出しているんですけれど、まずこの音の響きでつながりを導き出している。加えて、布をひたすらさらす、さらす、その感じと、ひたすらその人が愛しく思われる、その感じもうまく重ね合わされて、なかなか見事な序詞になっている、音の面と意味の面と両方で響き合って〈さらさらに〉という言葉を導き出している、そんな構成になっています。〈何ぞこの兒のここだ愛しき〉、どうしてこんなにこの子が愛おしいんだろう。この下の句は〈何ぞこの兒のここだ愛しき〉、声に出すとわかるんですけど、このK音がピキピキピキピキと響いて、これも音の上からでも勢いを増して、もうどうしてもこの子が、どうしてこんなに恋しいんだという感じを表しています。これは労働の歌なので、一説にはみんなで布をさらす労働をしながら、みんなで口ずさんでいた、そういう歌ではないかとも言われる歌です。この歌、序詞の部分をのぞけば、〈何ぞこの兒のここだ愛しき〉というのが意味のメインになるんですけれど、これほど恋というものを簡潔に表した言葉はないのではないかと私は感じます。

みなさん、「あ、自分が恋をしてるな」と思うときって、どんな感じですか。「これ、もしかしてこの人への思い、恋じゃないかしら」って。私はすごくわかりやすい指標を持ってるんです。普通の「好き」は理由がある。自分で理由がわかる。イケメンだからとか、お金持ちだからとか、優しいからとか、カッコいいからとか、スポーツができるから、何々だからこの人が好きっていうのは「好き」なんですね。理由はわりとわかる。でも、なんでこの人をこんなに好きなのかわからない。その理由がわからないけど惹かれている。そういう感じが恋なんじゃないかなと私は感じています。むしろ、なんでこんな奴のことがこんなに気になるの? みたいな逆のことさえありますよね。恋というのはそういうものなんです。まさにこれが、〈何ぞこの兒のここだ愛しき〉、「なんでこの子がこんなに愛しいんだろう、わからない。でも、こんなに愛しい」と言っているんですね。だから、本当にこの一首は、恋というものの原点だな、そんなふうに「究極の恋の一首」として私はいつも心の中でつぶやいていますし、自分が誰かに惹かれ始めて、〈何ぞこの兒のここだ愛しき〉だなと思ったら、「はい、恋決定」みたいな(笑)、恋認定の印がポンと押される、そんな歌です。

考えてみたら1000年以上前にこの歌が詠まれて、今も、というか、ずーっとその時代その時代の恋の歌が詠まれてきて、そしてみなさんも今回詠んでいる。結局この〈何ぞこの兒のここだ愛しき〉ということを、手を替え品を替え、人類はどんなに科学技術が進歩しても、やっぱり〈何ぞこの兒のここだ愛しき〉の正体がわからなくて、その気持ちをあらゆる表現を使って詠み続けてきた、そんな感じがします。そういう意味でもとても象徴的な歌ではないでしょうか。

次の巻一の二〇番、二一番の歌、これは本当に有名な歌なので、みなさんどこかでご覧になったことがあるかもしれません。詞書(ことばがき)があります。〈天皇、蒲生(かまふ)野に遊獵(みかり)しましし時、額田王の作れる歌〉

あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が(そで)振る

天皇、このときは天智天皇ですね。薬猟(くすりがり)という王朝の恒例行事で、薬草になる植物を採取したり、鹿の若い角、それも漢方薬なんですけど、そういうものを採りに行ったりする行事があって、ピクニック的な楽しい気分もあるような、そういう行事です。その薬猟に天皇がいらしたときに額田王が作った歌ですよということです。額田王は天智天皇と愛を交わしている、天皇の後宮にいる女性です。

〈あかねさす〉は〈紫〉という言葉を引き出す枕詞です。でも、この〈あかねさす〉という言葉が最初にパッとあるだけで、本当に歌一首が明るく照り輝くような効果があると思います。ムラサキグサという染料にするための草を採りに、〈紫野行き標野行き〉、標野というのは天皇の直轄領というようなことです。ほかの人は入れないようなところ。その〈紫野行き標野行き〉、この〈行き〉〈行き〉というところ、同じ動詞を重ねることで、ちょっと弾むような雰囲気がよく出ていると思います。次に、〈野守は見ずや〉という言葉が挟まっています。「野の番人が見ないかしら」という言葉がパッと挟まる。これすごく上手いなと思うんです。そうすると、「え、何を?」ってなるでしょう。普通の語順で行くと、「紫野行き標野行き君が袖振る野守は見ずや」というのが散文の語順ですね。つまりその結句の〈君が袖振る〉、あなたが袖を振る、これはものすごくストレートな愛情表現なんです。袖を振るというのは、「アイラブユー」と世界に向かって叫ぶような、そんな行為になるわけなんですが、先に〈野守は見ずや〉と入れたところがすごく素敵で、「え、何、何があったの? 何を見られたらまずいの?」と、みんな前のめりになったところに、「なんと、あなたがこっちに向かって袖を振るではありませんか」と、ピタッと着地をしている。今、実作者の私から見てもすごくピタッと着地が決まっている、とても上手い歌だなと感じます。

では、どうして〈野守は見ずや〉とドキドキしているか。これ天智天皇が袖を振っているのなら別にいいんですけれど、彼女に愛情表現をしているのは、実はこの次に、〈皇太子の答へませる御歌〉と書いてありますけど、大海人皇子(おおあまのみこ)が返歌をしているということは、彼が額田王に袖を振っているというわけなんですね。ちょっと関係を説明すると、袖を振っている彼と額田王は、かつて愛し合っていた、子どもまでいたような仲なんです。でも今、額田王は大海人皇子のお兄さんである天智天皇の愛を受けている。なかなか複雑な三角関係といいますか、ちょっと、ねえ、ワイドショーがあったら大騒ぎするんじゃないかというような。だって兄弟でしょう? で、昔、愛し合っていたわけでしょう? お兄さん、しかも今の天皇を差し置いてのラブなわけですから、そりゃ〈野守は見ずや〉となるわけですよね。その返歌がこんな歌だった。

むらさきのにほへる妹を憎くあらば人づまゆゑに(われ)()ひめやも

すごいですね。〈君が袖振る〉というその行為をまさに一首の歌にしたような、そんな大胆な愛の歌です。〈むらさきのにほへる妹〉、ムラサキグサのようにもう美しさが照り映えている、美しさがこぼれんばかりのあなたを〈憎くあらば〉、過去にそんなことがあったとか、今こういう状況だとか、そんなことを気にするような俺だったら、人妻だからって、それをタブー視して恋をしたりするだろうか。すごいですね。どストライクの(笑)、袖振る以上のすごい歌が返ってきました。〈憎くあらば〉とか、〈人づま〉とか、〈戀ひ〉とか、直球な言葉がボンボンボンと入っている、そういう返歌なわけです。

私は、高校生のときにこれが教科書に載っていて、〈人づま〉なんて言葉が出てるだけでなんかドキドキ、モヤモヤしてしまった。そして、今言ったような背景を授業で習ったりして、改めてこの〈あかねさす〉とか〈むらさきの〉を読んだときには、本当にうっとりして、なんて素敵な禁断の愛の歌だろうかと思って感激しました。この歌から『万葉集』に取りつかれていくという人も多い、万葉を代表するような歌なわけです。

そののち私、大学の国文科に入ったので、また大学の授業は授業で『万葉集』を習うわけなんですね。そこでは高校の授業よりは踏み込んで、いろんな背景とか学問をまた新たに勉強しました。そして、この歌がいよいよ授業で取り上げられるとき、この先生はどんな話をしてくれるんだろうと思っていたんですけれども、その大学の授業で知ったことがあります。これは、さっき「ピクニックみたいなもの」と言いましたけれども、その王朝のピクニックがあって、その夜に宴会を大体するわけです。その宴会をしたときに、そこで座興というか、パフォーマンスとして詠まれた歌なんですよと。この頃、額田王30後半、40ぐらいかなあ。オバサン、いや、もう当時なら、おばあさんの域かなあ、ということなんです。みんなが見ているところで、今日のピクニックを振り返るような、宴会を盛り上げるような歌として、この〈あかねさす〉の歌が詠まれた。すると、みんながワイワイ盛り上がるわけですね。だって、二人がかつて恋人だったことを知っているわけですから。さあ、どんな歌を返すか。そしたら、またこっちも、〈むらさきのにほへる妹を憎くあらば人づまゆゑに吾戀ひめやも〉。ヒィ~って感じで、まあ、大変盛り上がったことでしょう、ということなんです。

「え?」。でも、私はそれはなんか「違う!」という気持ちでいっぱいになって、「私の高校時代の青春を返して」と言いたいくらいガッカリして、「何なの? 宴会の座興ですか?」と思って、「しかも、おばあさん? え?」っていう感じで、学問というのはときに罪深いというか、知らなきゃよかったなというようなことがあるなっていう、そういう思い出つきの歌になりました。その先生が追い打ちをかけるように言うには、「だって考えてごらん。これが本当の本当だったら、当時の天皇に対するこんな失礼な歌はないわけだから、残るはずないだろう」。さらに追い打ちをかけるように、「この巻一というのは相聞の部類じゃない。雑歌の部類なんだから、雑の歌なんだ」。「巻四にあるわけじゃないから、やっぱりこれは相聞じゃないね」みたいな感じで、そう言われると、まあ、そうだなと。しかも、これが残っているってこと自体が、オープンなものだったということの、証ではありますよね。

でも、ですね、さらにさらに私は、そのあと自分が歌を作るようになって、「でも、やっぱり」と思うようにもなりました。

短歌には題詠というのがあります。題を与えられて歌を詠む。これ私は実はすごく苦手だし、そんなに好きじゃなかったし、心の揺れから歌はスタートするものだと思っているので、外から題を与えられて詠むなんて実に噓くさい、不自然だと思っていたんです。けれども、そんな私にまたひとつ問題が起こってきまして……。でも、一方で、その題詠として詠まれた歌ですごくいい歌がいっぱいある、このことをどう考えたらいいんだろうとも思ったんですね。たとえば「忍ぶ恋」という題だったら、百人一首でみなさんの知っている、たとえば

しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで

忍んでいたのに、ついつい出てしまったんだろうか、「あなた、物思いしてる?」と人から問われるほどに。その歌と(つが)えられた、

恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか

「恋をしているらしいよ、あの人は」と噂が立ってしまった。人知れず思い始めたばっかりなのに、こんな噂が立ってしまってどうしよう、という切実な歌ですね。余談ですが、これが「忍ぶ恋」の題で番えられた二首、名勝負といわれているんですね。どっちも本当に素晴らしい。

では、題って何だろうと思ったんですけれど、本当に忍ぶ恋をしている人だったら、バレちゃいけないから歌にはできないですよね。でも、「『忍ぶ恋』という題が出たんだから」という体で、本音を詠んでいるに違いないと私は思うようになったんです。「だって題が出たんだもん、しょうがないですよ。題だから」っていう言い訳があるからこそ、思いきり本音を詠める。ということを思い始めたとき、またここに戻ってきて、やっぱり額田王は、「座興だ」という体で本音を詠ったんじゃないだろうか。やっぱり二人は、「フィクションだ」ということの上で、お互いの心を交わし合ったに違いない。「そうじゃなかったら、こんな歌は詠めません」と今の私は思っているんですが、みなさん、いかがでしょうか(笑)。今、賛同していただいたんですけど(笑)、そうですよね。そうじゃなかったらこんな歌は詠めないと、客観的な事実よりも主観で読んだとき、私はこの歌をそんなふうに思っています。

●大きな悲劇と歌

巻二の歌を読んでみましょう。これも詞書がついています。〈大津皇子(おほつのみこ)(ひそ)かに伊勢神宮に降りて上り来ましし時、大伯皇女(おほくのひめみこ)の作りませる御歌二首〉。大津皇子は皇子ですから次の天皇になる候補のうちの一人なわけです。人望も才覚もあって、非常に有力な候補だったらしいです。でも、有力候補であると、やはりライバルから敵視されますよね。多分、草壁皇子というもう一人の有力候補だった皇子と、その母がのちに持統天皇になるやり手のお母さんなので、多分このへんが策略をしたか何かで、「大津皇子は天皇に謀反を起こそうとしている」というふうなことを言われて処刑されてしまう。24歳ぐらいで亡くなる。そういう悲劇の皇子です。そういうことがある直前に、大伯皇女というのはこの人のお姉さんですね。伊勢の斎宮という神様に仕えるお仕事をしていて、それは清い体で、恋人とかもちろん結婚とかなしで、ひたすら神様に仕える仕事をしていたお姉さんのところに、大津皇子がなぜかその伊勢神宮にやって来たという、ちょっと不穏な感じの詞書になっているわけです。そして、何を話したのか。もしかしたらお別れを言ったのかもしれないし、何か訴えたのかもしれない。そのへんはわからないですけれども、その弟がまた慌ただしく都へ帰っていく。そのときに見送って、彼女が詠んだ歌ということです。

わが背子を大和へ()るとさ夜ふけて(あかとき)露にわが立ちぬれし

〈わが背子〉、基本は恋人を呼ぶことが多いですが、親しい男性とか兄弟にも使う表現ですね。私の弟を大和へ見送ると、心配で心配で一晩中立ち尽くしていて、〈曉〉ですから未明ですね、明け方の露に私は一人立ち濡れていました、心配で心配で。という歌です。そして、もう一首、

二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ

二人で行ったとしても行きづらいその秋の山を、どのようにしてあなたが一人で越えているかしら。これも心配の歌ですね。この二首、あまり技巧は凝らしていなくてストレートにわかる歌なんですが、一首目はなんか外から見ているような、映画だったら明け方、露に濡れそぼって心配で立ち尽くしてる彼女の姿が映っているような感じ。次は、彼女が、「どうやってあなたはこの山を越えているかしら」というモノローグをつぶやいているような感じ。この二首セットで立体的に、彼女のこの不安で心配でたまらない暁の様子というのが伝わってきます。そのあと、弟は処刑されてしまうわけなんですね。そして、〈大津皇子薨りましし後、大伯皇女(おほくのひめみこ)、伊勢の齋宮(いつきのみや)より京に</rb上>(のぼ)りましし時、作りませる御歌二首〉。〈薨りましし〉というのは、亡くなったあと、ということです。大伯皇女は伊勢の斎宮の任を解かれて都に来るんですけれど、すでに弟はいない。そういうときの二首です。

神風(かむかぜ)の伊勢の國にもあらましをいかにか()けむ君もあらなくに

〈神風〉は〈伊勢〉という言葉を引き出す枕詞です。伊勢の国にいればよかった。いたかった。なんで来ちゃったんだろう。〈君もあらなくに〉、あなたはいないのに。次の歌、

見まく()りわがする君もあらなくにいかにか來けむ馬疲るるに

〈見まく欲りわがする君〉、私が会いたくてたまらない、そのあなたはいないのに、なんで来ちゃったんだろう。ただ馬が疲れるだけじゃない、という、ちょっと投げやりな言いさしの表現が印象的ですね。この二首は同工異曲というか、同じことを違う言い方で詠んで、音楽のように響き合う。〈いかにか來けむ〉、〈いかにか來けむ〉、なんで来ちゃったんだろうという、そのつぶやきが両方に共通しているわけです。そして、〈君もあらなくに〉、あなたもいないのに。〈馬疲るるに〉、馬が疲れるだけなのに。「あぁー」という、ため息なんて言葉では表現できないような悲しみと、投げやりな気持ちと、疲れと、脱力感とが満ちたような、そんな歌ではないかと思います。

そして、次、仮の葬りが終わって、いよいよきちんとした葬りになった。〈大津皇子の屍を葛城の二上山に移し(ほふ)りし時〉、山に埋葬したとき、〈大伯皇女哀傷(かなし)みて作りませる御歌二首〉。

うつそみの人なる(われ)や明日よりは二上山(ふたかみやま)兄弟(いろせ)とわが見む

〈うつそみの〉、現実世界の人である私は、明日からは弟が埋葬された二上山を弟そのものとして眺めて暮らしましょう、という歌です。次、

(いそ)(うへ)()ふるあしびを手折(たを)らめど見すべき君がありといはなくに

岩のほとりに生えたアシビの花を手折ってみたところで、見せるべきあなたがいるとは誰も言ってくれない。涙が出そうな感じですよね。本当に切ない、喪失感という感じです。とくに一六五の〈うつそみの人なる吾や〉という表現がすごいと思うんです。現実の世界の私、それ当たり前ですよね。みんな私たち、ここにいる全員が現実の世界の人間。それは本当に当たり前過ぎて、別に改めて思うことでもないし、言うことでもないし、まして歌にすることでもない当然のことなんです。それをわざわざ言っているというのは、要するにそのことが自分にとっては不思議な感じがする。この現実世界に自分がいる、〈うつそみの人〉である自分というのが変な感じがするからこそ歌にしてると思うんですね。だから、この人、心は死んでいるというか、心はもうあの世に行ってしまっていて、あの世から、この現実世界でまだ生きて息をしている自分を見ている。そういう視点がないと、〈うつそみの人なる吾や〉って言葉が出てこないと思いませんか? だから、この人は多分、心はあの世に行ってしまっている、そういうことを感じさせる、すごく迫力のある、さりげないようでいて、一回心が死んだ人じゃないと出てこない、そういう言葉ではないかなと感じます。

この六首、今、さっと読んできましたけれども、技巧らしい技巧というか、テクニカルなことはほとんどない。読めば頭からわかるような歌ばかりです。この彼女の状況を考えたら、技巧を凝らしてる場合じゃないというか、修辞を考えてるような気分でもないと思うんですね。一方で、これほど大きな悲劇に見舞われたときに、短歌という形があったからこそ言葉にできたんじゃないかという気がするんです。あまりにも大きな悲しみが来たときって、人は言葉を失いますよね。それを形にするなんて、とても考えられない。でも、短歌はその取っ掛かりになってくれるんです。とりあえずこの「形」が自分の支えになってくれるというか、杖になってくれる。そういう短歌の効用を私はこの六首を読んでいるとすごく感じます。もし短歌というものがなかったら、ただただ悲しみに打ちひしがれていただけだったのではないだろうか。この人はこの気持ちを言葉にはとてもできなかったのではないだろうか。人生の大きな悲しみとか悲劇的なこと、とても言葉にはできないようなことでも形にしてくれる力というのがこの定型にはある。そういうことも感じさせてくれる六首だと思います。繰り返されている〈いかにか來けむ〉、なんで来ちゃったんだろう、こんな言葉も日記に書いたら、愚痴で終わってしまうような言葉です。それが5・7・5・7・7の7の部分に〈いかにか來けむ〉、〈いかにか來けむ〉というふうに乗っかることで、呪術的な感じというか、つぶやきが詩の言葉になる。そういう定型の力の恩恵を受けた六首でもあると感じます。彼女の歌は『万葉集』にはこの六首だけです。本当に大きな悲劇に見舞われたときに、なんとか詩を詠ませてくれる、それが短歌というものの定型の凄みではないかということを感じさせてくれます。

●小さな心の揺らぎも受け止めてくれる短歌

では、短歌というのは、こんな大事件、大悲劇に見舞われた人じゃないと詠めないのかというとそうではない。小さな小さな心の揺らぎをピタッと受け止めてくれるのも、短歌の魅力です。それはなぜかというと、すごく小さな詩の形だから。海外でこの詩の形を紹介すると、「そんな短いもので一体何が言えるんですか」というふうなことを言われたりもするんですけれど、大きなことをたくさん読みたければ、大伯皇女のように二首、二首、二首、連作といったりするんですけど、同じテーマで何首も作れば大きな作品を作ることももちろんできますよ、と。一方でこの詩の強みは、小さな心の揺れに対応できることなんです。たとえ大河ドラマにならなくても、長篇小説にならなくても、私たちの心は何かしら揺れ動きますよね。それを掬うのに適した詩の形ということを味わってみたくて、次の歌を出してみました。

これまた額田王。これは恋の歌に入れても大丈夫。この「待っている人」、近江天皇は天智天皇ですから大丈夫です。

君待つとわが戀ひをればわが屋戸(やど)のすだれ動かし秋の風吹く

あなたのことを待って、恋しく思って待っていると、私の家の簾を動かして秋の風が吹きました。たったこれだけの歌なんですけれども、なかなかいい歌ですよね。今風に言えば、自分の家のカーテンがサッと風に揺れてハッとする、あの人が来たのかしらと思う、そんな感じの歌です。なんでわざわざ簾を動かした秋の風を詠んだか。そこはやっぱり恋の心があるからですね。恋をしていると、いろんなことに心が敏感になる。ちょっとしたことにもハッとする。ですから、秋の風がちょっと簾を動かしただけで、「あ、もしかしたらあの人が来てくれた気配なのかしら」と感じてドキッとしている。でも、「ああ、そうじゃなかった。なんだ、風だったのか」。本当に小さな心のドラマです。でも、こういう小さな心のドラマに対応できるのも歌の良さなんですね。「秋風が吹きましたよ、簾が動きましたよ」、それでは大河ドラマはできないと思うんですけれども(笑)、この小さな詩形に思いが込められていることで、なんと私たちは1000年以上前に吹いた秋の風をここでこうやって味わうことができる。これも額田王が私たちに残しておいた手紙を今ここで読んでいる、そんな気持ちになりませんか?

ただ、この歌を読んで私はちょっと気になるところがあって。何か気になるところはありませんか? 短歌は基本、一人称の文学といわれていまして、何も書いてなければ主語は「私」なんですね。だから、わざわざ言わなくても、何も書いてなければ、「私」が主語でいいんです。この人、二回も言ってるんですよね。〈君待つとわが戀ひをればわが屋戸のすだれ動かし秋の風吹く〉。女優体質というか、なんか、「私が恋いおると、私の家のカーテンを」って、いちいち〈わが〉ってつけているんですよね。これ、なくても、「君待つと戀ひをれば屋戸のすだれ動かし秋の風吹く」で意味はわかりますよね。私、この〈わが〉が昔から気になって、やっぱりこの人、お姫様体質というか女優体質。「私が、私が」って。けっこう健気な感じで詠んでいるけれど、やっぱり「待ってるのは私」、「ハッとしたのは私なの」って、そういうのってやっぱり歌って出るんですよね。それが私は、すごく歌の上手い人だけれど、気になってます、〈わが戀ひをればわが屋戸の〉ってね。あまり突っ込まれていないので、私は今ここで突っ込んでみたんですけど、そんなふうにすごく有名な歌でも自分が愛唱していると、ときどき「あれ?」と思うようなことがあって、そういう発見はすごく楽しいことですね。

先ほどの、悲劇の真っ只中の、悲しみの嵐に揺さぶられるような心から、こんなハッと風にときめいたというような心まで、定型というとカチッとした硬いものと思われてしまうんですけど、短歌というのは決してそんなことはない。ある意味、伸縮自在。どんな大きな悲劇でも小さな恋心でもしっかり受け止めてくれる、そういう面白さがあるような気がします。

もうひとつ、次のちょっと変わり種の……あ、そうだ、もうひとつ額田王の歌なんですけれど、これも私、大学に入って、また要らんことを聞きました(笑)。中国にこの歌にそっくりの漢詩があると。

夜相思ふ 風の窓の簾を吹きて動かせば 是れ歓しき所の来しかと思ふ

そっくりですよね。うーん、そうなると、なんか作者も怪しいのかな、と。漢詩にそっくりのがあって、それを翻案して詠まれた歌じゃないか、それを額田王というふうにしたのではないかという説もあるそうです。まあ、説もあるということで、私はこれも聞かないほうがよかったなと(笑)思ったひとつでした。でも、おもしろいですよね。中国からの影響というのは日本はたくさん受けているわけですから。そんなことも大学で学びました。

●リズムのおもしろさ

次の歌はちょっと変わり種です。読んでみましょう。おもしろい歌ですよ。

()むといふも()ぬ時あるを()じといふを()むとは待たじ()じといふものを

おもしろいですね。何を言ってるんでしょうね、この人。とりあえず意味を取ってみましょう。これは相聞のやりとりの中で、求婚した人へ四首ぐらい返歌した中の一首で、作者は大伴郎女(おおとものいらつめ)という人です。〈來むといふも〉、「む」は意志ですから、行くよ、来るよって。あなたは「行くよ」「来るよ」と言ったときでも〈來ぬ時ある〉、来ないときがあるのを、今回は〈來じ〉と言っている。「じ」は打消しの意志ですから、「来ないよ」「行かないよ」「行けないよ」とあなたは言っている。と言っているものを、〈來むとは待たじ〉、来るかしらとは待ちませんわよと。「じ」はまた打消しの意志ですからね。だって、なんだって〈來じ〉と言ってるんだから。あなたは来ないと言ってるんだから。もう一回頭から言うと、「行くよ」と言っててもあなたは来ないことがある。そんな人が「行かないよ」と言ってるんだから、もしかしてなんて思って待つものですか。だって来ないって言ってるんだから。こうやって訳すとただの愚痴みたいです。でもね、そう言いながら、結局、全身で「来て」と言ってる歌ですよね。来てほしいからですよね。どうでもいい相手だったら、こんな歌は作りませんよね。「あ、来ないんだ」、それで終わりです。だから、そういう意味ではすごく切ない歌でもあるし、最後に〈來むとは待たじ來じといふものを〉、「来ないと言ってるんだから」と自分に言い聞かせてる感じがしますよね。「もしかしてとか、裏をかいてとか、サプライズとかないから」って自分に言い聞かせている。待って、また悲しい、やっぱり来なかった、という思いはしたくない。だって、今まで来ると言って来なかったことがあるような相手ですから、今までの裏切られた思いをもう味わいたくないという乙女心も感じられて、最初は言葉遊びかなと思うんですけれども、繰り返し読んでいると、悲しい気持ちになってくる歌ですね。

この歌はリズムがすごくおもしろくて、全部5・7・5・7・7の頭が「コ」という音になってるんです。来る来ない、来る来ない……花占いしているような感じがしますよね。来る来ない、来る来ない、いや、絶対来ない来ない来ない来ない、みたいな感じがして、リズムのおもしろさがある。そして、リズムという点では、この歌、ちょいちょい字余りなんです。そこが心の揺れ動きというか、引っかかりというか、粘っこさというか、それをすごく出しているんです。どこかというと、余っているところを飛ばして読んでみますね。そうすると5・7・5・7・7きれいに入ります。「來むといふ來ぬ時あるを來じといふ來むとは待たじ來じというもの」。これで5・7・5・7・7です。余ったところをわざとらしく余らせて読んでみますね。「來むといふ【も】來ぬ時あるを來じといふ【を】來むとは待たじ來じというもの【を】」。この「も」と「を」と「を」が実は余っている。そこになんか、いやーな粘着質な感じというか、それがすごく出てくる。

字余りというのは定型を無視しているというわけではなくて、逆に定型を利用したひとつの技巧であるということも知っておいてほしいことのひとつです。字余りとか字足らずというのがありますけれど、じゃ、なぜ余ってると感じるか、なぜ足りないと感じるか。それは5・7・5・7・7がみなさんの心の中にあるから。この区切りが心にあるから、「あ、余ってるな」とか、「あ、足りないな」と感じるんですね。だから、結局は字余りも字足らずも、定型に乗った技法なんです。とくにこの歌は余らすことで、粘っこい執念深い感じとかが出るんですね。ピッタリ5・7・5・7・7に乗っちゃったらスルーッとしてしまうところを、いちいち引っかかる感じで、自分に言い聞かせるような感じが字余りですごく出ている。余らせているというのは、ただ単にはみ出ているのではなくて、定型があるからこその「はみ出てる感」を利用する技巧、それが字余りだと思います。悲しいですね、この歌もね。

大抵短歌というのは、実景とか物事とか出来事とかを描写する部分と、自分の思いの部分のミックスでうまいこといく、それが王道というか。だから、〈多麻川にさらす手作〉、そういう労働の場面、布をさらしてる場面と、〈何ぞこの兒のここだ愛しき〉という思いがうまくミックスしていましたよね。たとえばさっきの〈君待つと〉の歌も、風が吹いて簾が動いたという情景があって、そこでハッと自分の恋心が伝わる。情景と思いのミックスがわりと定番なんですけれども、この歌は情景的なことが何もないといいますか、来る来ない、来る来ないだけで歌にしている。だから、すごく難しいんですけれど、今言ったようなリズムとか、リズムの余らせ方とか言葉遣いでうまく伝えています。もうひとつのメリットとしては、説明が要らないといいますか、長生きすると言うと変ですけれども、〈多麻川にさらす手作〉だと、「昔こういう労働がありまして」って、みなさん、今、布をさらすとかないですから説明が要りますよね。「簾というのは昔のカーテンみたいなものでして」という言葉の説明が必要になるけれど、この歌はそういう描写がない分、来る来ないだけで言ってるので、モノの言葉の説明なしに古びない、そういう強度を持っている歌でもあります。でも、これを成功させるのはすごく難しいです。よっぽどこの、来る来ない、来る来ないを一晩中、しんねりむっつり思っていたからこそできる歌。簡単にはできないです。スルスルっと詠めそうで詠めない、なかなかの歌だなと思います。

●悲劇のヒロインと『サラダ記念日』

次は、また壮大な恋の歌です。

君が行く道の長路(ながて)()(たた)ね燒き亡ぼさむ(あめ)の火もがも

狹野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)(編集注:狹野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)は、狭野茅上娘(さののちがみのおとめ)とも記される)です。この歌も有名ですし、この人は恋の歌のやりとりが50首以上残っている人です。中臣宅守(なかとみのやかもり)と彼女が恋仲になるんですけど、恋仲になったことで宅守は咎められて、越前に流罪というか、ちょっと離れさせられる。そういう悲しい出来事があったときの歌です。あなたが越前にやらされてしまう。その行く道の先を〈繰り疊ね〉ですから、その道をガーッと丸めて、それを焼き滅ぼす天の火が欲しいという歌ですね。すごくスケールの大きいといいますか、「行かないで」とか「寂しいわ」とかじゃなくて、あなたが行くその道をガーッと繰り畳んで焼いちゃえば行けなくなりますよね。なんかこの人自身が大蛇みたいな感じに思えるんですけど、それぐらい激しい、スケール感の大きい恋の歌で大変印象深い歌です。ただ、ほかにもいっぱい歌が残っていて、若い頃の私はちょっとそれに反感を覚えていたんですね。なんか不幸自慢というか、悲劇のヒロイン自慢みたいにも思えた。まあ、それはそのときの私の心の状態が非常に悪くて(笑)、「いいよね、悲劇のヒロインになれる人は」みたいな感じで読んでいたんです。そんな感じで読んでいた証が『サラダ記念日』に残ってるので(笑)、ちょっと紹介します。

最初に言いますと、この狹野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)という人は、すごく悲劇的ですよ。愛し合ってる人が遠くに行っちゃうんですから。ほかの歌を言いますと、あなたが帰ってきたんじゃないかと思って死ぬような気持ちになったとか、あなたが帰ってきたときのためになんとか命をつないでおきましょうとか、とにかく命懸けの感じの歌がバンバン出てくるわけです。でも、それって相思相愛だからでしょう? だって、待っててもいいというか、相手も自分が待つことを望んでくれてるから、その悲劇に浸っていられるわけじゃないですか。そこがなんか私は……、性格悪いですかね。そこがちょっと引っかかって。悲劇のヒロイン全開なんですよ、この人。で、そうでもなかった若い頃の私は、次のような歌を詠みました。『サラダ記念日』の中の「待ち人ごっこ」という一連の中の四首で、この順番で出てきます。

見送っているかもしれぬ(ひと)の名が浮かんでしまう空を見ている

見送りにも行けない。別の女が見送ってるんではないだろうか。〈かもしれぬ〉だから確証は持てないけど、でも、自分は見送りに行けないという感じで空を見ている。

いつか来た都の西の丘の上サンシャインビルに手を振っている

人にさえ手を振れないから、無機物のビルに手を振っている。何かの思い出があったんだと思うんですけれど、そんなものに手を振ってどうするんだっていう感じも今見るとありますが、〈サンシャインビルに手を振っている〉と。

ガーベラの首を両手で持ちあげておまえ一番好きなのは誰

これは直接聞けないから。ガーベラだって答えようもないし、答えてくれるはずもないものに聞くしかないという切なさです。ガーベラが誰が一番好きかを聞きたいんじゃなくて、結局このつぶやきは、その見送りたかった相手に対するつぶやきなんですね。でも、直接は聞けない。だから、手近なガーベラの首を持ち上げて聞いているという、そういう歌ですね。そして四首目がこの歌になるわけです。

そのかみの狭野茅上娘(さののちがみのおとめ)には待つ悲しみが許されていた

〈そのかみの〉、その昔のという意味ですね。だから、悲しいは悲しいけど、相手も自分が待っていることを望んでくれて、引き裂かれている。そういう悲しみをあんたは許されてるんだから、とりあえず大きな幸せの上の悲劇だからね、いいですか? という(笑)。あなたの悲劇は、大きな幸せの上の悲劇ですよって。その大きな幸せさえ許されてない人がこの世にどんだけいるか、そのことに思いを致してほしいと、そこまでは言ってませんが、そんな感じの歌なんです。〈待つ悲しみが許されていた〉。30年以上前の歌ですから、こうやって客観的に読めるんですけれど。ですから、狭野茅上娘(さののちがみのおとめ)という人は情熱的で悲劇的な恋の歌をたくさん残していますが、その手紙を読んだ私が返事を書いたらこうなったという感じでしょうか(笑)。

でも、こんなふうに古典を読んで栄養をもらって、また自分の創作に生かすというのもすごく楽しいことですね。この狹野茅上娘の歌を知っている人がこれを読んでくれると、また味わいも奥行深くなってきますし、本歌取りとはちょっと違いますけれど、こういう古典のワードを入れることで奥行きがでます。短歌は短いものですが、狹野茅上娘という固有名詞にはものすごくたくさんの情報が入っているわけです。だから、こういう固有名詞を短歌に使うのもすごく有効な方法。この狹野茅上娘という言葉がここにあるだけで、狹野茅上娘が作った何十首という歌がこの背景にくっついてくる、それに乗っかることができるという効果もあるわけです。ただ、ひがんでいただけではないということをちょっと付け加えたいなと(笑)。

もうひとつ、『万葉集』からの影響というか栄養をもらったかなと思った歌をもう一首ご紹介しておきます。これは『チョコレート革命』という第3歌集にある歌です。

「恋」は「孤悲」だから返事はいらないと思う夜更けのバーボンソーダ

〈「恋」は「孤悲」〉、これは万葉仮名のことを言っています。『万葉集』の時代、日本は固有の文字を持っていませんでした。だから、『万葉集』を今は私たち、読みやすく読んでますけど、本家本元の『万葉集』は全部漢字が並んでいるだけなんですね。固有の文字を持っていなかったので、隣の中国の漢字を借りて、それで日本語を書き残そうという企てで、音を借りてきたりいろんな方法でやっている。そのために、読み解きもいろんな説があって、完全に全部が読み解かれて一致しているわけではないんですけれども、だいぶ今はちゃんと読めるようになっていてありがたいことです。その万葉仮名で、恋のことをこういうふうに表している万葉仮名があるんですね。孤悲。「コ」という音と「悲」の「ヒ」という音を借りて「孤悲」というふうに『万葉集』では書き表している。「恋」という音をこんなふうにしている。でも、これ、ただ音を借りただけとはどうしても思えないと思いませんか。恋というものを漢字で表すときに、孤独の孤に悲しいですよ。ものすごく洒落てるなと思って。恋というのは結局、孤独に悲しむものだ、それが恋だって、哲学がここに入ってるような感じさえします。

まさにその孤独に悲しんでいた夜があったわけです。恋というのは所詮一人相撲、『万葉集』の人も言ってるように一人で悲しむ、それが恋の醍醐味であり、真実なんだから、返事なんか要らねえやと思ってバーボンソーダを飲んでいるという(笑)。万葉仮名に励まされてるような、恋は所詮「孤悲」なのだ、1000年前もそうだったんだから、自分の恋が孤独で悲しいのは当然じゃないかっていうふうな、万葉仮名に励まされるような気持ちで詠んだ歌ですね。そんなふうに私自身も『万葉集』を楽しんで読みつつ、実作の中にも栄養をもらいながら作っているということです。

でも、その万葉仮名について考えたときに、なんでそんなものを発明したんだろうと思ったんですね。歌というのはもともと歌われてた、口に出して詠まれていたものです。ですから、たとえば枕詞を学校で習ったとき、「無駄だな」と思いませんでした? 私、すごく疑問だったんです。だって、さっきの序詞みたいに情景を重ねるとかオリジナルな序(序詞はオリジナルで作れる)を作るなら詩としてすごく工夫できるんだけれど、工夫なしですからね、枕詞。「あかねさす」って「紫」とか「照る」とか、「たらちねの」といったら「母」に係るって習いましたよね。それをオリジナルで作れるならまだいいけど、決まってるんですよ。5・7・5・7・7という限られた文字数なのに、「たらちねの」って5文字使ってしまう。しかも、必ず「母」というのが来ると決まってるっていう話なんですね。だったら最初から「母」って言えば5文字節約できるのに、何なの、このシステム、と思って、私、枕詞というのは腑に落ちない感じがしたんですね。

ただ、そもそも歌われていたものだということを知ったときに、なんとなくわかるような気がしました。たとえば「たらちねの」と言われたら人々は、母親をその時間に心に思い描く。いきなり「母」って言われるよりも、「たらちね」と言ったときにイメージするものがある。その間合い。「あしびきの」と言ったときに、みんなの心の中にそれぞれ山が思い浮かべられる。そういう耳から入る心の準備の時間、イメージを膨らませる時間と考えれば納得いくかな。私は今、枕詞に対してはそんな気持ちがします。

話がそれましたが、そのように耳から聞いていたもの、それを、やっぱり万葉の人たちも、耳から聞いて口で言ってるだけだったらその場で消えてなくなってしまう、なんとかこれを残したい、形に留めたいと思ったから、無理くり万葉仮名というのを考えて、無理くり漢字で書き留めたわけですよね。その情熱とか工夫とか創意ってすごいものがあると思うんです。それは何かというと、やっぱりこの言葉を残したい、届けたい、自分たちがいなくなったあとにも残っていてほしい。そう思うとやっぱり手紙だなと思うんですね。そのとき、その人たちが努力してくれたからこそ、今、私たちは文字で残っている手紙を読むことができる、そんな気がいたします。

●受講生みんなの恋の歌

後半を始めたいと思います。宿題を出したとき、みなさんに送ったメールにちょっと私の呼びかけの言葉を入れていただきました。「恋の歌の歴史は滔々と流れる大河です。みなさんも一首詠むことで、この大河に連なってください」。本当にそういう感覚で私自身も普段短歌を作っています。前半で読んできたように、1000年以上前から心が共感できるというか、人って結局、いろんな景色が変わったり科学技術が進歩したりいろんな変化があったとしても、たとえば恋というような人が人を好きになるという心の部分は、「ああ、変わらないな」と思う。古典を読むおもしろさというのは、「今と昔、ずいぶん違うね」というおもしろさがある一方で、人って本当に変わらない。どんなときも人は恋をするし、切ない思いを味わうという、人の心の普遍に触れるというんですかね、その両方の楽しみを、私は古典を読んでいるとすごく感じます。

結婚のシステムなどは時代時代に変わっていって、そのシステムごとの切なさとか便利さとか不便さとか、いろいろあると思うんですけれど、やっぱり人を恋う心は変わらない感じがします。短歌に託してその時代その時代の人が詠っても詠いきれない、〈何ぞこの兒のここだ愛しき〉を1000年以上やっている。その輪に皆さんも今回加わってしまったと、そういうことになるわけです。

みなさんの歌、すごくおもしろかったです。数が多くて全部の歌に触れることはできないので、投票をしていただきました。この投票は優劣を決めるためというよりは、とりあえずみなさんに全部読んでいただきたいという、それがまずありました。投票しなきゃと思ったら必ず読みますし、どれかを選ぶということがすでに参加しているというか、何かを選ぶというのは何かを選ばないということですし。とくに短歌の場合、選ぶことがすごく重要です。勅撰集などでも、何首選ばれるかに命懸けであった時代もありますし、たとえば岡野先生や私がしている新聞の選にしても、選んだものが載っているわけですが、あの背景に選ばれてない何千首という歌があるんです。違う歌を選んだら、また違うページになっていく。だから、短歌というのは、選というのがすごく重要な役割をしていて、それはもう無言の批評というか、問答無用の批評でもあるわけです。ですから、選を託されている側も真剣勝負です。そういう意味で短歌にとって、選ぶという作業もすごく重要な、どれぐらい自分が読めるかを試される作業でもあるので、選をするときは私もとても緊張しますし、一首一首と向き合う時間を大事にしたいなと思っております。どうでしたか、みなさん、読んでみて……じゃ、まずは、やっぱり気になりますよね、高得点か(笑)。点数がたくさん入った歌からみんなで味わっていきましょうか。第1位、6票。

宿題が恋の歌だと知ってからちらりちらりと(われ)を見る(つま)

これ投票した方でどなたか意見言えますか。なぜ入れたかをお話しくださいますか。

受講生:読んでクスリと笑ってしまって。課題が出たこととご主人の反応がすごくよくわかって、とても微笑ましいと思ってすぐ選びました。

俵:そうですね。何かほかに付け加えるご意見はありますか。やっぱりそこが肝かな。みなさん、宿題が出て短歌を作らなきゃと思ったときから、時間の流れ方というか、心の持ちようがちょっと変わったような気がしませんか? 普段だったら、アッと思っても、思いっぱなしで過ぎてしまうようなところを、「あ、もしかして歌になるかも」と思って立ち止まる。そして、言葉を探す。そういう時間が生まれること自体が、私も短歌を作っていて一番いいなと思うことなんです。もし自分が歌を作っていなかったら、アッと思っても思いっぱなしで終わっちゃうだろうな。そういうものを立ち止まって大切に言葉を探していくのは、つまり、丁寧に生きるということになると思うんです。だから、歌を作るのは本当に人生を丁寧に味わう、時間を丁寧に生きる、そういう作業かなと感じます。宿題が出たことでみなさんもその瞬間から、少し丁寧に生きるということを感じられたらいいなと思うんですね。それに加えて、これはこのモデルに俺がなるかもしれないという心のざわつき(笑)、多分そういうことでしょうね。「ほぼ日の宿題で恋の歌作ることになったのよ」って聞いたときから、この方は「え、俺がモデルになるの?」というざわつきがあったと思うんですね。それをまた受け止めて見事に歌にされたという、そこに心のやりとりみたいなのも感じますし、周りの人まで巻き込んで、短歌によって違う時間の流れが生まれた、というようなことが的確に伝わってきて、私もこれ本当に面白い歌だなと思いました。でも、ストレートな恋の歌ではなく、ちらりちらりと見ているところを詠まれているとは、よもや思わないかもしれないですね。本当にユーモアがあります。あとこの歌は、「だからどう」って、今、私が解説で言ったようなことを一切言ってないですよね。説明をしていなくて描写をしている。説明と描写って似てるけど、違うんです。これは、夫が自分が詠われるんじゃないかと思ってソワソワしてますよって説明をしちゃったら、つまらない。ただちらりちらりとこっちを見ているということで表現している。そこがすごくうまいなと思いました。〈宿題が恋の歌だと知ってからちらりちらりと我を見る夫(つま)〉。やっぱり、みなさん見る目ありますね。歌会によっては、高得点歌が必ずしもよい歌とは限らないという面があるんですけれど、この歌は文句なしの本当にいい歌だと思いました。では次、5票の歌です。

帰るねとドアノブかけた君の手をただ止めたくて言葉を探す

ドアノブに手をかけた、ということだと思うんですけど、これもなかなか切ないですね。この歌のいいところは、帰ってほしくないってことなんだけれども、その気持ちをストレートに出すのではなくて、ドアノブにかけた手を止めさせたいという言い方で表現しているわけなんです。そして、そのために何か言葉を探している。それはどんな言葉でしょうね。何でもないことかもしれませんね。「ほぼ日の宿題、何だったっけ」とか(笑)、そういう他愛もないことでつなぎながら、ちょっとでも別れの時間を先送りしようと思っている、そういう切なさがとてもよく出ていると思いました。あ、先に言っちゃいましたね。これ応援演説したい人、どうですか。

受講生:これは恋人じゃないかもしれない。片思いとか、友達かもしれないと思ったときに、すごく切なさがグッと来たので選びました。

俵:鋭い読みですね。そうだね。だって、もう恋人だったら「帰らないで」って抱きついたっていいわけですもんね。なるほどね、そのへんが伝わってくるって不思議ですね。だから、ただ止めたくて、しかも言葉で、やりとりで先延ばししようというところに、ちょっとした距離感があるわけですね。そこまで親密じゃないっていう。鋭い読みだと思います。そして、この「帰るね」という会話がまた生きてますよね。「帰りかけたあなた」とかじゃなくて、その人、本人の言葉をスッと入れることで、すごく臨場感が出る、そういうところも見どころかなと思われます。それでは4票の歌に行きましょう。

豆苗を切った根元が伸びてきて指をからめた夜のことなど

これは4人の方が入れてますけれど、応援演説どなたか。

受講生:前半が描写で日常のつまらないことなんですけど、そこから盛り上がってくる気分というのが(笑)、恋してないとできない歌だと思って選びました。

俵:本当にそうですねえ。どなたかありますか。

受講生:まず「豆苗」という音がすごく色っぽかったし、あと「根元が伸びてきて」っていうこととか、「指を絡めた夜」っていうのが大人の恋だなと思って、私にはとても作れないと思って入れました。

俵:本当に色っぽい歌ですよね。使っている語彙としては「豆苗」とか日常のものなのに。豆苗って98円ぐらいでパックで売ってて、切ります、料理に使います。もう一回水に浸けとくと生えてくるんですよね。私もよくやります。ちょっと楽しいんですよね。得した気持ちもするし、物がまた育ってきて二回目収穫して食べられる。やってることはすごく日常の主婦の節約的なことなんだけれども、そうなんです、恋をしてるとそれが全然違う景色に見えてくる。日常のものを使いながら、ほかの人には見えない景色をその豆苗に見るという、すごくおもしろい、印象深い歌でした。切ったところがぐにょぐにょぐにょと伸びてきてる感じと、好きな人と指を絡めた感じ、そのことを思い出してるんですよね、多分。なんとなく連想がそこに飛んで。さっきおっしゃったように、現実の描写と自分の思いがパンとこの一首の中でぶつかって、なんともエロスを感じるというか、すごく思い切った歌だし、私もこれすごく好きな歌でした。しかも、「など」というのがね、「など」って何だよ、あと何があるのかなっていうその感じ、この言いさしの感じとか、思わせぶりな感じも巧みだなと感じました。けっこう作ってる方かなと思いました。あ、こんなふうにみんなで勝手に鑑賞してますが、もし名乗ってもよければ、「いや、違う」とか、「もうちょっとこうだ」って言っても大丈夫ですよ。これもやっぱりこうやって歌作ってるから形になったと思いませんか? この人、豆苗を見て心を立ち止まらせたんですよね。それがなかったら、ただ切って料理して食べて終わっていたかもしれない。それがこういうふうに形になるというのがいいですね。そして、これを味わってしまった私たちは、今度、豆苗を見たとき、絶対何か思い出しますよ。詩を読むおもしろさってそういうことなんですね。一度この詩を聞いてしまったら、次、豆苗を見るときに人は何か思い出す、そういう力がある。それが歌の力だと思います。おもしろいですね。私も次、豆苗を買うときこの歌を思い出しますし、ちょっと観察してしまう予感がします。すごくいい歌だと思いました。それでは3票入った歌が三首ありますね。これおもしろかったな。

ねこやきゅうビールとんかつぬいぐるみあなたの好きが好きになる

これ入れた方、どなたか。

受講生:人を好きになると、やっぱりその人の好きなものが好きになるので、それをストレートに詠ってるのがいいなと思ったのと、響きが、すごくリズムがよかったので入れました。

俵:はい、そうですね。もう一人ぐらいいらっしゃるかな。

受講生:これストライクな恋の歌だなと思って、これから多分、この恋がどんどん進んでいくんじゃないかなと思うような歌だったので選びました。

俵:そうですね。すごくストレートに、人を好きになると……先ほど、その理由がわからないのが恋のひとつの認定のハンコと言ったんですけれど、あとは、その人のことを知りたくなるというのが恋なんじゃないかと思います。どうでもいい人のこと、別に知りたくないですよね。少年時代どんなところで育ったのかしらとか、どんな本を読んでるのかしらとか、その人のことを知りたいって思うのもやっぱりひとつの恋の症状だと思います。それをまさに詠んでいらっしゃって、しかもこの歌のおもしろいのは、そのことが後半にならないとわからないことですね。最初読んでいったとき、何だろう、猫、野球、ビール、とんかつ、ぬいぐるみ? え、何? 名詞をポンポンポンポンと並べる。それが実は、この人が恋をしてる、「あなた」の好きなものなんだ。そして、あなたが好きだから、私も猫に興味を持ったり、野球中継を見たり、ビールととんかつを合わせてみたり、ぬいぐるみを買ってみたりするようになった。それこそがもう恋の症状として詠まれている。

もうひとつこの歌の巧みなところは、「あなたの好き」を並べることによって、「あなた像」というのが浮かびませんか? これ、どういう人でしょうね。猫、野球、ビール、うん、ビール飲める人なんだなとはわかるんですけど、ここにぬいぐるみが入ってるというのがなんかグッと来るといいますか、「え? 野球見ながらビールととんかつの人が、ぬいぐるみが好きなんだ」ってなったときの意外性とか、ここがありきたりじゃないところがいいですよね。こういうふうに物を並べて何かを表現するのは手法としてあるんですけれども、誰もが思いつくようなものを並べたら普通になってしまう。せっかく並べるなら、吟味して並べるのが大事だと思います。あと何だろうな、なんか優しい感じですよね。猫も野球も平仮名で書いてるのもひとつの工夫かと思います。もちろん歌というのは、もともと歌われていた、耳から入ってきたものなので、さっき枕詞のところでお話ししましたけれど、基本は耳から聞いてわかるというのが一番大事だと思っています。そして、人の心に住み着いて暗唱されるときも、基本、音ですよね。だから、それがまず第一番なんですけれども、ただ、今の世の中はやはり活字の時代といいますか、短歌を発表するときに朗々と歌って発表する場はほぼないわけなんです。大体は新聞とか雑誌とか歌集という活字で表現する。そして、人にも読まれる。となると、やはり日本語というのは漢字、ひらがな、カタカナを持っている、その書き文字の豊かな言葉でもありますので、そして、人の目にまずは入るものなので、漢字にするか、ひらがなにするか、カタカナにするかは、工夫する価値のあるポイントかなと思います。ただ、繰り返しになりますけれども、最終的には耳から入る音で残るものだという気持ちもどこかに私は持っていたいなと思っています。だから、あんまり記号をいっぱい使うとか、不思議なレイアウトにするとか、そういうの現代短歌もあるんですけれども、私はそれはあまり興味がないです。だって人の心に耳から入って残ったら一緒じゃないですか。ビックリマークがついていようが、ぐにゃっとレイアウトされていようが。だから、私はあまりそこは興味はないんですけれども、漢字、ひらがな、カタカナというのはやっぱりそれぞれ特徴がある。これ、〈猫野球〉って漢字で書いてあったらどんな感じがするかな。けっこうごっつい感じですよね。やっぱり〈ねこやきゅう〉って平仮名で書いてるのがすごく効果があると思います。多分ぬいぐるみが好きな彼だから、彼か彼女かわからないけど、なんとなく優しい感じが伝わってきて、これはこれで「あり」だなと思いました。それでは、あと2首あります、3票の歌。

花の下去りにし君の面影を心に秘めて歩む我が道

なかなか本格派の歌です。今の季節にぴったりな感じですね。

受講生:恋の歌で成就するような感じが多かったんですけど、これは自分の道を行くというのがちょっとグッと来てよかったです。

俵:そうですね。本当に今の季節にピッタリですね。花の下、行ってしまったあなたの面影を心に秘めて、そして歩む我が道と。自分は自分の道を行く。でも、面影は秘めてるんですよね。そこはちょっと切ない感じもあって。短歌で花といったら大体桜を指しますので、今の季節、ちょっと夜桜の下をスーッと歩きながら、恋しかったあなたの面影を心には秘めつつ、自分の道を行こうと、すっきりとまとまった歌ですね。それではもう一首。

古書店の棚をめぐりて遠き日に君と語りし本を数える

これも情景が浮かぶような歌です。どなたか? 情景が思い浮かびますよね。かつて多分恋人同士だったあなたと一緒に本を読んでいろんなことを語り合ったという思い出の時間があって、今、この人は古書店を巡りながら、その棚にかつて二人で読み合った本を探して、あのときあんな会話があったなとか、そういうことを思っている。何というか、本が今も古書店にあるように、自分の思い出もそこに色褪せずに、色は少し褪せてるかもしれないけれども、古書店の本のように確かにあるよという、そういう重ね合わせがすごく自然にできてて、いい歌だなと思いました。いいですね。一緒に本を読めるなんて、素敵な関係だなと思いましたね。この人もとくに何か感情的なことを入れているわけではないんだけれども、その時間が自分にとってすごく大事なものだったということが、易しい表現ですけれども伝わってきて、陰影のあるいい歌だなと思いました。

●時代によってわかる風情とわからない風情

あとは票が割れてしまったので、少し私が気になった歌について読んでみましょうか。やはり短歌というのはその時代時代を反映する、時代を反映する鏡でもあるという面があるんですね。まもなく元号も変わろうとしていて、平成を振り返るということがものすごくたくさん行われてきたこの1年ぐらいだったと思うんですけれど、私は『サラダ記念日』が昭和の終わり、1987年ですから平成が始まるちょっと前に出たということもあって、『サラダ記念日』を通して30年前と今とどうですかというようなインタビューもけっこう受けたんですね。改めてそういう目で自分の歌集を読み返してみたとき、先ほどご紹介したような歌はとくに古びてるとも思わないけれど、わりと固有名詞をたくさん使っているので、固有名詞は情報が多い分、わかりにくくなるスピードも速いんですね。たとえば「歩く」という動詞とか「机」という名詞は、かなり長持ちすると思うんですが、何だろう、「ガリガリ君」とかね、そういう固有名詞はちょっと時代が変わるとわかりにくくはなる。でも、情報量は多い。

たとえば私の『サラダ記念日』に出てくる固有名詞だと、「サザンオールスターズ」とか、「カンチューハイ」とか、あれも固有名詞なんですね。だから、NHKでは放送できないと言われたことがあるんですけれども(笑)、「カンチューハイ」とか、「東急ハンズ」とか、そういう固有名詞をわりと使っています。そのほうが情報量が多いし、像を結びやすい。ただ「デパート」とか「お店」と言うより、〈東急ハンズの買物袋〉と言ったほうが伝わる。でも、東急ハンズがわからなくなってしまったら、いっぺんにそこはわからなくなるという危険もあるんですが、とりあえずサザンも活躍してるし、カンチューハイもまあ人気だし、東急ハンズもあるし、固有名詞は意外と長持ちしてるなというのが実感でした。

ただ、その『サラダ記念日』の中の世界と今とで明らかに違うものがひとつだけあった。何だと思いますか。『サラダ記念日』のたとえば恋の歌に出てこないもの。今みなさんが多分、毎日のように触ってはいる。そうです。「スマホ」とか「ネット」というのは、『サラダ記念日』の世界にはまったくないんですね。だから、たとえば

ただ君の部屋に音をたてたくてダイヤル回す木曜の午後

この歌の風情はもう今の人にはわからないんじゃないかなという気持ちで読み返しました。固定電話でないとわからない。「大体ダイヤル回すって何だよ」って話ですよね。本当にもうまったくそれがないので。あるいは、

今我を待たせてしまっている君の胸の痛みを思って待とう

とかね。要するに待ち合わせで相手が現れない、そのやきもきした感じ。でも、待ってる自分より待たせてるあなたのほうがきっとつらいんだから、私は待たなくちゃって心を広くして待っているという歌なんですけれど、これも今の人だったら、「メールすればいいんじゃね?」「スマホ家に忘れたの?」みたいな感じになってしまう。だから、すごく便利なものではあるけれども、想像力を働かす場面は減ったのかな、なんてことも思いながら、30年ということで振り返ったときにはすごく思いました。

なぜそういうことを今申し上げたかというと、やはり出てるんですよね、このみなさんの歌の中にも。たとえば、

「会えるかな」不意のLINEにときめいて遠い昔にふったのどっち

っていうふうな。これいろんな状況が読めるので、前後にもし歌があったらよりはっきりすると思うんですけれども、多分、相手から「会える?」って不意にLINEが来た。だけど、その過去のことにこの人はわだかまりを持っている。ときめいてはいるけれども、ちょっと、「何、あのことはなかったことになってるの?」みたいな、「何その気軽な『会えるかな』」みたいな、そういう感じですよね。私、さっきはちょっと、まあ、もうオバさんなので、今の若い人、あんな便利なものを持って想像力を働かす場が少なくなってるんじゃないかみたいなことを言いましたけれども、今のこの時代にはこの時代の風情があるんだなというのをこういう歌を見ると思いますね。急にLINEが来た、「え、何?」っていう、お互いに探り合うような感じ。LINEのスタンプとか短い言葉だけだと背景がわからないですよね。その探る気持ちが今の便利な道具の背景にはやっぱりあって、やきもきする感じは、ああ、こういう道具を使っていてもあるんだな、なんて思って、そういう意味でおもしろかったですね。次の歌もそうですね。

君からの待っているよのメッセージ機内モードを外して届く

飛行機に乗ってるあいだは、今は機内Wi-Fiとか出てきて、どんどんWi-Fiのないところはなくなってはいるけれど、とりあえずこれは機内モードにしたときに、Wi-Fiといういつもの綱というか、そういうものから自由になってる感じですけれども、逆に言うと不便にも感じている。あなたからどんなメッセージが入っているか確かめられない、そういうモヤモヤした思いで機上の人となったこの人は、早速機内モードを外してみたら、あなたから「待っているよ」とメッセージが入っていたという。よかったですね、本当に。という感じなんですけれども、これも、この風情というか、機内モードにしてるあいだはお互い意思の疎通ができない。これ本当に、「今」だなと思いますね。そんな短いあいだも気になるんだなってオバさんは思ってしまうわけで。私、スマホ持ってないんです、実は(笑)。なので、「もうこの機種は作ってないよ」と毎回ドコモに脅されながらもガラケーを使っているんですけれど、でも、こんな短いあいだでも、やっぱり相手がどんなメッセージを送ったのかとやきもきしてるという、それが今の恋の風情なんでしょうね。「機内モード」って言葉も生きてますし、ああ、やっぱり短歌というのは時代時代のことを映していく鏡だなということをすごく感じました。次の歌もなかなかおもしろかったですね。ややアナログですけれど(笑)。

おみやげのハンドクリーム付箋にはいつもどうもとくせのある文字

旅行か何かに行って、ハンドクリームですからそんなにすごいお土産ではない。けれども、その人が心に留めていたことを示してくれるようなお土産であると。うれしいのはそこに付箋がついていて、「いつもどうも」と書いてある。なかなか照れ屋さんな感じというか、相手の感じが彷彿とするような「いつもどうも」、しかも癖のある字であるという。そういうちょっとした心のやりとりに、この人はハンドクリーム以上に、この付箋にときめいている。手書きの文字にときめいている。やっぱり現代風だなと思いました。逆にその手書きの癖のある文字というのがすごくうれしいという、オンリーなものであるという、そういう感じがとても出ていて、私はこれなかなか好きな歌でした。やっぱり手書き大事ですね、と思いました。次の歌も。先ほど言った、いろんなものを並べて構築する歌です。

週末の朝はパンとコーヒーと君と青空があれば幸せ

幸せな歌だから、あまり人気がなかったのかもしれませんが(笑)、なかなかいい歌だと思います。なぜかというと、この並べ方が、ふたつ考え方があると思うんですけれど、本当はこの人、君さえいれば幸せなんです。でも、そう言ったら身も蓋もないので、いろんなものを並べた中にスッと「君」を交ぜておいたという感じ。「パンとコーヒーと君と青空」という感じで、天気がよくて食べるものがあればいいみたいな中にサッと「君」を忍び込ませた。ちょっと照れた感じの歌とも読めますし、もうひとつは、君の存在がもうすごく日常の感じになっているということ。パンやコーヒーや週末の青空みたいな、「そういう存在なのよ、あなたは」という言い方で、二人が日常を共有している感じも伝わってくるなと。その両方が感じられて、すごくいいなと思いました。しかも、この「朝」というのがね、いいんですよ。みなさん、朝ご飯食べるってやっぱり特別。朝ご飯って一番おざなりかもしれないけれども、お昼ご飯を一緒に食べる人はいっぱいいますよね。夜ご飯を一緒に食べるのは、ちょっと特別。でも、朝ご飯を食べる人ってもっと特別だと思いませんか。だから、この「朝」、「週末の朝」と言ってるってことは、その前の金曜日か土曜日の夜も一緒に過ごすという含みがあるから、爽やかそうに見せておいて、実は深い歌でもある。この「朝」というのがすごくね。だから、朝ご飯の歌なんですよね、パンとコーヒーだから。そういう意味でも、恋の歌としてなかなか含みがある歌じゃないかなと感じました。この歌もおもしろかったですね。

「じゃ、またね」笑顔残して別れたが君の名はなき同窓名簿

同窓会の名簿に名前がないということがすごく気になっていて、その人の面影を思いながら、どうしてるのかなという。二人のあいだに流れた時間と、最後を「名簿」で体言止めすることで、その名簿がくっきり浮かび上がる。体現止め、名詞で止めるとそういう効果がある。この体現止めがすごく上手く使われている歌だなというふうに感じました。

こうやって読んでいくと、それぞれ本当にいいところがあって、きりがないんですけれども、もう一首、最後に読みましょうか。

なんでだろう心に穴が空いたようそうか私は恋してるんだ

これも、この人なりの恋認定ですね。何だろう、まさに〈何ぞこの兒のここだ愛しき〉ですよね。それのこの人なりの現代版かなと思って読みました。こんなふうに、歌を詠むということは、自分の心を客観的に見ることでもあるんですね。「なんでだろう」って、この人は観察したわけですね。それで自分の心が「そうか」と見えてきた。普段生きてるのはもちろん主観なんだけれど、自分の心を客観的に見る目を持たせてくれる、それも短歌を作る醍醐味のひとつではないかと思います。

●バトンを持っているということ

このようにみなさん、1000年以上前からあるバトンを持っていること自体がすごいことなんですね。このバトンをせっかく私たちは今持っているので、ぜひ今日だけではなく続けてください。歌仙を巻いたりもするんですね、これから。あれはすごいですよ、本当に。富士山の歌もみなさんその場で作られたと聞きました。やっぱりこの五音、七音のリズム、形があるというのは、堅苦しい、難しいことではなくて、とりあえずこの形に乗っかれば歌になるんです。すごく素敵な踏み台というか器なので、それを活用しない手はないと思います。私なんて、何文字でもいいよと言われたら戸惑ってしまう。たまに頼まれて作詞をしたりするんですけれども、最初、本当にその文字数にほとほと悩みます。何文字と言ってほしい(笑)という気持ちになるぐらい。そして、この5・7・5・7・7というのは、やっぱり伊達じゃない。1000年以上続いているというのは、何かあるから。DNAみたいなものかなと思うんですね。「利己的な遺伝子」という話、ご存知ですか。DNAが私たちの体を乗り物にして、DNAが残っていく。そのときそのときの人間の肉体を乗り物にして、DNAが新しい命、肉体の入れ物ができたらそっちに乗り移っていくという話ですが、この5・7・5・7・7という形自体が、DNAのようにその時代その時代の人々の心を乗り物にして今の時代まで受け継がれてきているような、そんな感じがいたします。ですから、みなさん本当にこれを機会にぜひ、立ち止まる時間を日常の中に持たれて、丁寧に生きる時間を短歌と共に過ごしていただけたらなと思います。

●質疑応答

一方的に話してしまうのも、もったいないと思うので、何かもうちょっとこういうこと聞きたいとか、そういうことがあったらぜひ話しかけてください。何でもいいです。古典のこととか短歌のこととか。

受講生:学生時代に俵さんの歌集の歌を教科書で読んで、ご本人に会えたのですごく光栄だなと思っています。『万葉集』とか見てきて、背景知識とか教養がないと理解もできないし、自分も歌がなかなか詠めないなと思ったんですけど、どうすればそういう教養というか背景知識を増やせるのか悩んでいるので、ぜひ教えていただきたいです。

俵:一番手っ取り早いのは本を読むことじゃないかな。こういう講座に参加して話を聞くというのもありますし、でも、最初はみなさん知識ゼロなんですよ。最初から何かを知ってる人なんて一人もいないわけですから。その差がどこに出るかというと、やっぱり興味を持ったものの本を読むことに尽きるような気がします。最初から難しいものを読むと眠たくなっちゃうので、私は高校生の頃は田辺聖子さんとか瀬戸内寂聴さんとか、小説家の方が古典をわかりやすく読み解いてくれているものを読んでいました。

高校で古典を教えていたとき、よく生徒に言われたんです。「先生、これ勉強して何の意味があるんですか」。文法、難しい言葉、古語の意味を知って、たとえば英語だったらそれを活用するとかあるけれども、古典を読んでこんな苦しいトレーニングをして何の意味があるんですかって言われて、本当に情けない気持ちになったんですけれども、でもね、その先にすごく楽しいものがある、素敵なものが待ってると思えば、つらいトレーニングも人間できると思うんですね。ピアノだって、「こんな曲が弾ける、素晴らしい、これを自分が弾けたら」と思うから一生懸命練習もする。古典もすごく面白いものを自分の力で読むことができる、そこにたどり着くための努力なんだと思ったら、トレーニングもできるような気がするんですね。高校の授業などは、その先の楽しさを教えずに、ただただトレーニングしてるようなものだったので、私もふがいない思いでした。

古典というのは、やはり永遠のベストセラーだから今も残ってるわけなんです。だから、とりあえず古典で残ってるものでつまらないものはないと言ってもいいんじゃないでしょうか。『伊勢物語』だって江戸時代に一番読まれていた。それは別に受験に必要だから読んでいたわけではなくて(笑)、あれも恋愛の話ばかりなんです。恋愛の見本帳みたいな話ですごくおもしろい。絶対、自分の恋愛に役立てようと思って、「うん、こういうときはこういう歌を詠めばいいんだな」みたいな、そんな感じで読んでいたに違いないんです。そういう恋の知識とか知恵とかワクワクが詰まっている。だから、そういうものに自分が近づけると思えば、勉強というかそういうものも楽しくできるんじゃないかなという気がします。手近な、作家の書かれたものを読むと興味が湧いてくると思います。私はそのお二人のものはすごく好きで読んでいました。

受講生:昔から俵さんのファンで、感激しています。うまく質問できるかわからないんですけど、こういう授業で作ってごらんって言われて、歌を詠むことを始めてみたんですけど、どうも独り言っぽくなってしまう歌が多い。冒頭で、短歌って手紙みたいなものだよという話を聞いて、「あ、なるほど」と思いました。人に読んでもらおうと思う歌と、自分の中に留まっちゃうだけの歌の差みたいなものを教えてください。

俵:もちろん最初は独り言やつぶやきでいいと思うんですけれど、それを直していく、推敲していく、より良いものにしていく過程で、今度は読者の目になって直すというのはすごく大事なことかなと思います。これは手紙を読んだ人に伝わるかしら。自分は自分のことを100パーセントわかってるから、つぶやきでもいい。日記だったらそれでいいと思うのですが、手紙の場合は相手が読むわけですよね。そのときに相手に伝わるかな、という気持ちで読み直してみると、より人に伝わる言葉を探せるようになる気がします。それは、でも短歌だけではないですよね。やはり人が読むということを考えて、自分に関する知識ゼロで読んでも読めるだろうかという推敲のし方はすごく大事なような気がします。ぜひ作ってください。

受講生:沖縄に住んでいらしたのでお伺いしたいんですけど、琉歌の中に、歯の白さを波の白さにたとえたような琉歌があるんですね。大和の歌で波の白さを歯の白さにたとえたような歌はあるんでしょうか。

俵:いやあ、私も全部の歌を読んでるわけではないので。波の白さを歯の白さに?

受講生:はい。たとえばこういう歌があるんです。〈謝敷板干瀬にうちやり引く波の謝敷めやらべの目笑ひ歯ぐち〉って。板状になったところへ白い波が来て、そこのところにお嬢さんが立っていて、その方に声をかけるとニッコリ白い歯で笑ったと、そういう歌なんですね。

俵:すごくスケールの大きい比喩だなと思いました。

受講生:すごい健康的なんですね。大和の歌で歯の白さを波の白さにたとえた歌ってあまり聞いたことないなと思ったので。

俵:それはやっぱり海のある沖縄ならではかもしれないですね。

受講生:はい。琉歌だからあったのかなと。

俵:そうですね。歯の白さというと私は牧水の酒の歌しか思い浮かばない(笑)。

受講生:短歌を作りたいと思っていても、すぐにはできなくて困っているんですけれど、俵さんが早稲田大学で佐佐木幸綱先生に習った始めの頃、心がけていらっしゃったこと、やっていたことは具体的にありますか。たとえば言葉のネタ帳みたいなものを作るとか、工夫があれば教えていただけますか。

俵:ひとつは、たくさん読むことです。ヨムって、短歌は詠じる、自分の作る「詠む」もあるけれども、読書のほうの「読」ですね。とにかくたくさん読む。気に入った歌人がいたら、その人の歌集をたくさん読むとか。読むことで、そのリズムが自分の中に入ってくる。私は今言ってくださった佐佐木幸綱先生の歌集を読んで、本当に、ああ、短歌って今も生きている表現手段なんだなというのを感じて、佐佐木先生の歌は本当に何回も読みましたし、今、振り返ってみると、たとえば佐佐木先生の歌で、〈なめらかな肌だったっけ若草の妻ときめてたかもしれぬ掌は〉という歌があるんですね。いいですよね。好きでその頃読んでいた歌なんですが、〈なめらかな肌だったっけ〉という口語の感じは、やっぱり自分ですごく使っていますし、〈若草の〉は〈妻〉を導く枕詞なんですね。こういう古風な言葉のおもしろさというのも、私もたとえば〈あかねさすテラス〉なんてふうに使ってみたりしているんですけど、枕詞もおもしろい。そして、〈若草の妻ときめてたかもしれぬ掌は〉、このリズムは句またがりといって、7・7でちゃんと意味が切れるのではなくて、「妻ときめてた・かもしれぬ掌は」、ここがまたがってるんですね。でも、またがってるのも、さっきの字余り・字足らずと一緒で、やっぱり定型が心にあるから、そこ、ウッとまたいだような不思議な感覚が人の心に芽生える。このリズムは私、わりと好きで、〈何か違っている木曜日〉とか、そういうリズムなんですけれども。今、振り返ってみると、たった一首の先生の歌に自分の好きな特徴が3つも入ってるって思ったりするので、やっぱり好きなタイプの歌人を見つけてたくさん読むのは大事なことかと思います。

あと、さっき選の話をしましたが、『心の花』という短歌誌に入会すると、毎月八首送ることができるんですね。でも、その雑誌には八首は載らなくて、三首とか五首とかしか載らない。それが一番勉強になりました。なんで自分の作った八首のうち、この三首は載って、この五首はダメなのか。自分で考えないといけないんですね。いちいち先生が教えてくれるわけじゃない。そうやって自分の歌を見る目を養う。さっきのご質問とも重なりますが、結局自分の歌を見る目が養われないと推敲もできないので、そうやって選を通して考えることがすごく勉強になったような気がします。あとは、先生からたくさん作りなさいと言われました。たくさん作って、このリズムと仲良くなるというのでしょうか。慣れてくると、向こうからもウェルカムな感じになるというか、そういう瞬間があるので、それを楽しみにぜひ作っていただけたらと思います。

受講生:講義の中で俵さんが『万葉集』の女性歌人のキャラクターをその表現から分析されていたのがすごく印象的でした。『万葉集』とか古典和歌の中で、とくにこの人が好きだとか、共感できる人がいれば教えてください。

俵:そうですね、情熱的な歌という意味では和泉式部とか、わりと手前ですけど、与謝野晶子や若山牧水は好きな歌人です。あとは誰かなあ……。よく話題にするのは『源氏物語』の中でどの女性が好きですかっていうのがありますよね。好きな女性で大体占えるみたいな。私は瀬戸内先生に「朧月夜が一番好きです」と言ったら、「あなた、悪い子ね」と言われたのを覚えていますけれども、朧月夜って恋愛もしながら、しっかり安定した妻の位置もキープみたいな感じで、でも、恋愛にはすごい緩いというか積極的というか、自分のプライオリティの中でこの人は絶対恋愛が一番上だなって感じられるので、すごく好きな人ですね。

受講生:定型のお話をされてましたけれども、佐佐木先生につかれたので和歌を選ばれたと思うんですが、川柳とか俳句も定型ですよね。田辺聖子さんは『古川柳おちぼひろい』とか『川柳でんでん太鼓』とかで川柳や俳句を紹介されていたと思うんですけど、俵先生はやはり川柳や俳句よりは、同じ定型でも和歌を好まれるというか、やっぱりこれのほうがいいと思って選ばれたのですか。

俵:出会いをいうと、佐佐木先生が本当に魅力的な授業をされていて、興味を持って歌集を読んだというところなので、もし佐佐木先生が俳句を作る人だったらどうなっていたんだろうと思わなくはないですけれども、その出会いは偶然であっても、30年以上作り続けているというのはやっぱり偶然じゃないなと感じます。相性だと思うんですね。短歌と俳句……誰もが俳句にいいとか、誰もが短歌にいいっていうのではなくて、もし迷っているとしたら、やっぱり作ってみて相性がいいほうを選ばれたらいいと思います。私も誘われて句会に出ることもあるんですけれど、やっぱりすごく苦しいというか、ただでさえ短い5・7・5の中に、さらに季語を入れなきゃいけない。「残りこんだけ?」みたいに思ってる人は多分俳句には向いてないです。参加してわかったのは、季語をいかにうまく生かして表現できるか。季語に自分を委ねられるという人は俳句がいいと思うんですね。やはり季語というのはすごく奥深いものだし。ただ、私なんかはもう……。たとえば「秋扇」という季語には、ただの秋の扇というだけじゃなくて、扇が活躍する夏を過ぎた感じというのがもう張りついてるんですよね、その季語に。秋だけど暑いから活躍するというのは、なし。「秋扇」はそういう風情のもの、というのを活用していかに自分が表現を楽しめるか、ということだと思うんです。

あと、短歌は7・7の部分がある分、思いを述べるスペースがあるような気がします。俳句も恋の句ってあるんですけど、俳句の中ではマイナーなジャンルなんですよね。やっぱり恋は俳句とはそんなに相性がよくはないような気がします。短歌では恋は王道中の王道、メインストリーム。それはどういう違いかというと、思いを述べたい人には短歌が向いているような気がいたします。川柳は作ったことがないからわからないですけど。迷ったら両方作ってみられると、自分がどっちに向いているかはきっとわかるんじゃないかなと思います。

●古典を読まないのはもったいない

最後にまとめというか、本当に楽しかったです。みなさんとこうやって1000年前からの手紙をここで一緒に読む、そして味わうということができる幸せというかな。

古典というのは、さっきも言いましたように、みんな義理で読んできたわけじゃない、それで残ってきたわけじゃないものなんです。その時代その時代の人の心をつかんできたからこそ残っている。それをたまたま私たちは今この時代に生まれたというだけで、この時代に書かれたものしか読まないのはすごくもったいないと思いませんか? 万葉の時代に生まれた人は平安朝のものを読めないし、江戸時代のものは読めないわけだから、私たちはあとに生まれた分、得っていうかな、すごくたくさんの財産をもらっているわけですから、これは読まない手はないと思います。

ですから、この古典を味わう講座、私、シェイクスピアもちょっと見せてもらって、すごく楽しかったんですけれども、古いものは古めかしい、埃をかぶってるものではなくて、理由があって今の時代まで残ってきているすごい財産なんですね。だから、私たちのたかだか100年の人生で、その100年に書かれたものしか読まないなんて、もう本当にもったいないと思います。なので、ぜひぜひ自分と相性のいい古典と出会って、たっぷり味わって栄養をもらうのは本当に素敵な豊かなことじゃないかなと思います。ぜひこれからも、私自身もまだまだ読みたいものがたくさんありますので、一緒に味わっていけたらなというふうに思っています。今日はどうもありがとうございました。

河野:ありがとうございました。さっきお好きな歌人として若山牧水の名前を挙げていらっしゃいましたけど、最近お出しになった『牧水の恋』という本がありますので、ぜひ今日の記念に読んでいただけるとうれしいなと思います。

俵:牧水は、酒の歌人、旅の歌人として知られていますが、本当にこの人、恋の歌人です。その牧水が嫌がるぐらい牧水の恋の歌を読んでいろいろ詮索しています。ぜひ読んでいただけたらと思います。

河野:今日は宿題66首を紹介しましたけれども、締め切ったあとに届いたのもありますので、もうちょっと数が増えてます、実は。このあいだもマクミランさんの授業でやっぱりそれぐらいの数がありましたし、百人一首に恋の歌が六十いくつと言ってましたし、このクラスは99人で66首だから、なんかそういうあたりが……人生の6割、恋のこと考えてるのが日本人じゃないのかって、この前マクミランさんが言ってましたけど、妙に符合する数字だなと思ったりしています。今日、本当に楽しい授業だったと思います。みなさんもこれでますます歌を作ろうという気分になったと思いますので、俵さんの言葉を励みに、また頑張っていい歌を作っていただきたいと思います。

受講生の感想

  • 一千年前からの手紙を現代になってもなお理解し、共感し、味わうことができるのはとてもありがたいことですね。俵先生のお話で万葉びとがとたんに身近な人に感じられるようになりました!

  • 「恋の歌」で俵万智さんから講評いただき、大変うれしかったです。私は短歌とはまったく縁のない生活をしており、今回の宿題も人生二作目の作品です。たくさんの方から票をいただいたのは、「みなさんの共感を得た」からだと思いました。他者から受け入れられるのは、なんと嬉しいことかと今回あらためて思いました。

  • 今回、俵先生から教えていただいたいちばん大事なことは、「歌詠みは歌読みであるべき」ということかもしれません。思えば、岡野先生も永田先生も、他のひとの歌をたくさん読みなさいと教えてくださいました。なるほどと思って歌集を何冊か買いましたが……俵先生の授業を受けて、「ぜんぜん読めていなかったかも……」ということに気づき、愕然としました。一首一首を読む、深さが違うと思いました。

  • もっと歌に触れたい、と思う授業でした。

  • 知識を持たない人にもわかりやすく、全てにおいて直接的な学びがあった気がします。俵先生曰く「心の揺れを種として短歌という花を咲かせる。そこに古典という栄養などを与える」。納得感しかありません。