万葉集講座 
第7回 小泉武夫さん

万葉の食、万葉の宴

小泉武夫さんの

プロフィール

この講座について

古代食と発酵学の専門家である小泉武夫さんが、万葉の時代の人々は、どんなものを食べ、どんな酒を飲み、何からどんな調味料を作ったのか、その暮らしぶりがいきいきと目に浮かぶような楽しい授業をしてくださいました。当時の味を思わず想像してしまうような講義です。

講義ノート

さて、『万葉集』ですが、私はまったく『万葉集』のことを知りません(笑)。国文学者でもありませんし、和歌の先生でもありませんから。ただ、食文化、発酵学、醸造学をずっとやってきたので、万葉の時代に関してはいろいろ研究してきました。それから先日の新聞を見ると、新しい元号が発表されました。令和の出典は『万葉集』なんですね。大伴旅人。実は私、大伴旅人と『万葉集』は知らないわけではなくて、NHKの「日めくり万葉集」という番組がありました。私は4、5回出ているんですが、その中の2回が大伴家持のお父さん、旅人の話でした。旅人という人はお酒が好きだっただけじゃないんですね。『万葉集』の中で13首お酒の歌を歌ってます。おもしろい歌ばっかり作ってますよ、旅人は。どんな歌を作ってるかっていうとね、いや、もう本当にビックリします。「こんなおいしい酒が飲めるなら、この次に私は人間に生まれてこないで酒壺に生まれたい」とか、本当にそんな歌を歌ってる。酒壺には酒が染み込むからとか歌い込んでるんですよ。あ、これですね。

なかなかに人とあらずは酒壺になりにてしかも酒に染みなむ

どういうことかというと、この次に生まれてくることがあれば酒壺になりたい。そうすれば酒が染み込むからだと。これは『万葉集』第三巻の343に出ています。それから、

あたいなき宝といふとも一坏ひとつきの濁れる酒に豈勝らめや

〈価なき宝〉というのは、ものすごく高価な宝といっても、〈一坏の〉、1杯の濁り酒があれば、宝よりもこちらのほうがいいと。本当に酒のことばっかり(笑)。私に非常によく似てるんですね、この大伴旅人って人は。いま酒を飲んでいるこの楽しさがいつまでも続くならば、この次の世には「虫にも鳥にもわれはなりたい」と、そんな歌もあります。

いかにお酒を好きだったかということですが、実はこの旅人という人は、60歳にして大宰府の長官に出されちゃうんですね、都から。一種の左遷なんでしょうかね。出されて大宰府に行く途中なんですけど、奥さんが亡くなってしまうんですね。それで13首の酒の歌の最後の歌の2年後に、旅人は亡くなってしまう。晩年はそういう方でした。どういう人物かというと、とてもお酒が好きなだけではなくて、とてもユーモラスな人だと考えていいと思います。

●梅花の宴でふるまわれた酒の味は?

そして、新元号の出典となった、あの歌を歌ったときのこと。朝日新聞のきのうの1面に出ています。〈初春の令月にして気淑く風和ぎ〉というところが書いてありますね。大宰府長官時代の宴会を開いたときと書いてありますけど、「その宴会は、どんな宴会だったのでしょうか」という質問がすでに私のところにいくつか来ています。どんな酒を飲んだのだろうか、どんな肴があったんだろうかと、こんな質問がずいぶん来ましたが、そのことに関して、極めて正確に私は答えることができます。この宴会に私が行ってたわけじゃないですよ。だけども、大体の想像はできます。

まず、旅人は長官、この歌を歌ったときの宴でおそらくトップだから、部下がいっぱいいたと思います。そこで、ちょうどこの歌にあるように、春の爽やかな風と空気の中でこの宴をしたということですね。〈風和ぎ〉というのはとてもいいことだと思いますね。風を形として心理的に表現することは日本人としては非常に珍しい。とてもいい気分で宴会をしていたんでしょう。しかも、その一番上座におったんですね。そこでどんな酒か、ということから話しますと、今の酒とは全然違います、この時代の酒は。平安時代までまったく違うお酒です。じゃ、どんな酒か。みなさん、一番簡単に言いますと、味醂と同じです。とっても甘いお酒です。それは「醞(しおり)方式」といいます。醞方式という酒の作り方をします。今のお酒はアルコールが濃いですよね。これは「酘(とう)方式」というお酒の作り方です。

「酘」と「醞」というのはまったく違います。なんで味醂のような酒になるかというと、旅人とかが飲んでいた酒、この醞というのは、一度酒を造るでしょ? そうすると、この酒を器に入れて、この酒にまた麹と蒸した米、蒸米を入れるんです。当時は米はみんな蒸しますから。まず一度、甘いお酒ができる。その甘いお酒を器に入れて、それに麹と蒸し米をさらに入れていく。ここでまた麹の酵素が蒸し米を糖化してトロッとする。これをまた搾って、ここでできた酒を今一回器に入れて、また麹、米麹と、蒸した米を入れていく。こういうふうにして8回繰り返したのが八醞酒(やしおりのさけ)。あのスサノオノミコトがヤマタノオロチに飲ませたとされる酒です。だけど、8回は繰り返さないよ。万葉の時代、八という字は一番畏れの多い、一番強い数字なんです。力。だから、八幡神社とか、八坂神社とか、八とつくのはもう本当に強い。ヤマタノオロチなんてそうでしょ? 八つのマタのオロチだから。八というのは一番強い力を持った。「何度も」という意味ですね。

だから、トロッとしたお酒です。今と全然違うお酒で、今の味醂と変わらない。アルコール度はどのぐらいあるかというと、大体5%くらい。今のお酒は15%から16%。実際に私どもがこの醞方式で酒を造って、春日大社に残ってます。春日大社に万葉びとが飲んだお酒の仕込み方があって、大学に私が勤めていたときに、私の下にいた助教授にそのとおり造らせたら、もう本当に味醂と同じ。トロッとしてね。

だから、旅人さんは、トロッとしたお酒を飲んで、とても気分よく酔われたと思いますよ。ガブガブ飲めませんからね。そんなお酒をガブガブ飲んでいたら糖尿病になっちゃう。だから、トロッとした感じを味わった。あの時代やあとの平安時代、『源氏物語』にしても何にしても、濃厚なトロッとした感じのものが出てきますけど、酒に関係しているのかもしれませんね。

●オンザロックを楽しんでいた万葉びと

あとでお話ししますけどね、実は万葉の時代、すでにオンザロックを飲んでいるんです。これは驚きました。

御所のすぐ近くに氷室(ひむろ)があるんです。それで、氷室に私は非常に興味を持ちました。氷室というのは、教室の後ろにカメラの人がいるスペースがありますね。あのくらいの空間ですね。あの高さと横幅で、それがあと3メートルぐらい前に延びたくらいの空間が氷室(幅2メートル、高さ2メートル、奥行き4メートルくらい)。その中に全部、氷が入っているんです。すぐ近くに御所のきれいなお池があって、奈良時代とか平安時代は今よりもずっと寒かったですから、氷ができるわけです。京都は底冷えするところだから。奈良ももちろんそうです。寒いところですね。そこで、2月ぐらいに氷を切って、氷室に氷を詰めておくんです。氷の大きさがね、大体70センチ四方くらいの大きさです。それをビッシリ積んでおくんです。それで入り口を厚い土塀、土の扉でビシャッと閉めちゃう。そうすると、0℃で外気と接触しないから、夏まで氷は全然溶けない。それを氷室というんです。

氷室の番人というのはちゃんと決まっておりましてね、氷室の番人は、「主水司(もいとりのつかさ)」という人。そりゃあ、天皇だとか皇族の氷だから。それで、それを「内膳司(うちのかしわでのつかさ)」というのがいて、これは天皇の料理長。「天皇、今日は暑いですね」、「じゃ、一杯やるか」、「はい、わかりました」と言うと、すぐに内膳司は主水司のところに使いを走らせる。そうすると、主水司は、氷室から氷を出して、それを絹の布に包んで持ってきた。これが平安時代です。これはもう間違いないです。

もうこのときギヤマンというガラス器がありました。正倉院にありますからね、そういうものは奈良時代からあるんです。ですから、おそらくオンザロックを飲んでいたということで調べましたら、やっぱりありました。ちょっと読んでみますね。大伴旅人が部下に送った歌があるので、ちょっと『万葉集にみる酒の文化』(一島英治著)を読んでみましょう。とてもおもしろいことが出てます。

5世紀後半に実在したとされる河内の王——初代の仁徳天皇です——はオンザロックを楽しんだ。仁徳天皇61年癸酉、額田大中彦皇子が奈良県に猟に行き、氷室を見て、氷を天皇に奉りました。『日本書紀』によると氷室は、「土を掘ること一丈あまり、萱を以てその上を葺き、厚く茅すすきを敷いて、氷を取り、その上に置く。夏を越しても消えない。暑いときに氷酒にひたして使う」と氷の保存法と使用法が説明されています。『日本書紀』は8世紀初頭に書かれていますから、万葉の時代には氷を酒に浸したということは間違いはないであろうということなので、旅人が氷の酒を飲んだかは別として、そういうことが当時あったということですね。

だから、私は『万葉集』のことはよく知りませんけども、万葉の歌を詠む人たちの周りの環境、どんなことがあったのかというのを知っておくことも『万葉集』を味わうことの重要な資料になるのではないかと私は思うんですね。そこで、氷室の話をちょっとしてみたわけです。とにかく、今の味醂に氷を浮かべて飲んでごらんなさい。本当においしいですから。トロッとして。これはもう本当に最高です。しかも、今の味醂の原料は100%米麹ですから肌の艶がよくなります。米麹には肌をよくする麹酸という美白剤が入っているんです。肌を還元する。そういうことであります。

では、早速今日のテーマに入らせていただきます。これから本題に入ります。まず、「日めくり万葉集」からいきましょう。たまたま「日めくり万葉集」に出ていたので、これをひとつひとつ解説してまいります。ちょっと読みますね。『万葉集』の歌ですね。

つかさにも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ

こういう歌が出てきます。どういうことかといいますとね、〈官にも〉というのはお上のことです。今でいえば国税庁。税金を取り締まるとこです。〈官にも許したまへり〉というのは、国が許してくれたから飲める。つまり、この時代は禁酒令の時代です。禁酒令ってあったんですよ、奈良時代から。聖徳太子の時代からあったんだから、禁酒令って。今、禁酒令の年表をお見せしますよ。これは『万葉集』の第8巻の1657作者不詳。誰が作ったかわからない。どういうことかというと、「今宵の宴は役所が許してくれたのだから、大いに飲もうじゃないか。花のあるうちは、こうして集まれるようだから、梅の花よ」。梅を見ながら飲んでいる歌ですね。なんで私が、この歌を選んだかというと、ひとつは、酒への憧れがものすごく出ているから。つまり、お上から許してもらって飲んでいる酒。許してもらうのはどうするかというと、願い書を書くんです、お上にね。「今日はうちで祝い事があるのでお酒を飲ませてください」と言うと、「じゃ、いいよ」ということで飲ませてくれる。そういう歌なんですね。

私、ここに解説を書いてるんです。いいですか? 「さあ、もうお上から許しを得たから堂々と飲もうじゃないか、っていう喜びでいっぱいの歌ですね。奈良時代は禁酒令が頻繁に出され、酒は自由に飲めない。群飲といってみんなが連なって酒を飲むことが禁止されていました。なぜなら、あの時代は群れて飲むと座が乱れて、殴り合いの喧嘩になる。また、近くに交番も何もない。しかも男尊女卑の時代であるから、男が酒飲んで大暴れしては困る。それでなくとも当時は米が不足していたので、酒にばかり米が回ったら大変なことになる。そういう理由で絶えず禁酒令が出たんです」。出せば破られる。だからまた出す。これが禁酒令なんです。だから、隠れて飲んだということはあるんでしょうけど、じゃ、禁酒令というのはどのぐらい出されたかというと、講談社の現代新書『酒の話』にある禁酒令の歴史です。一番最初の禁酒令は646年、大化2年、「農民の魚酒 魚と酒を禁ずる」。それから天平18年、群飲厳禁令。もうずーっと出てるんです。出ては破られ、出ては破られ、これが禁酒令のひとつの特徴です。だから、今の歌は、酒が自由に飲めなかった万葉の時代、お上が許してくれたから、梅の花を見ながら大いに飲もうじゃないかといって、みんなで酒を飲んで、「ああ、うれしいな、楽しいな、おいしいな」といって飲んでいたということですね。それだけの話です(笑)。『万葉集』はそういうふうに楽しい歌が多いです。次行きましょうか。だんだんすごくなってきますから。いよいよ大伴旅人の歌です。

この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我はなりなむ

意味は、酒を飲んでこの世でさえ楽しかったら、来世では虫にでも鳥でも私はなってしまおう。逆に言えば、虫になってもいい、鳥になってもいい、だから酒を飲ませてくれと、こういうことです。ちょっとこれを解説したのを読んでみます。「この世で酒を飲んで楽しかったら、もうそれでいい。あの世に行ったら鳥になってやっても、虫になってやっても、酒が飲めるならそれでいい。鳥にも虫にも感情ってものはないですから、あの世に行ったらもうなんでもいいわ、と言っているんですね。逆に言えば、現世において酒がいかに手放せないものかという、凄まじい歌ですよ。酒を讃える十三首は旅人の晩年の歌です。残念なことに、この十三首を詠む前に、非常に大切にしていた奥さんが亡くなってしまう」。さっきちょっと言いましたね。「旅人はひどく悲しみ、ものすごく酒を飲んだんですよ。奥さんが亡くなってしまった老い迫った晩年、旅人は日頃から好きな酒に、さらに自分のわびしさや悲しさを置き換えていたのでしょう。酒を讃える歌といいながら、ある面では人生における無常観を詠っているんです」。

最晩年に、旅人はいっぱい歌を残していますよ。その中でお酒の歌13首も晩年の歌です。その前には酒はあまり出てこない。つまり、酒は悲しい。今だってそうじゃないですか、みなさん、酒ね。嫌なことがあったら酒飲もうかなんて。「あの部長の野郎、とんでもねえな」なんて酒を飲んでる、みんな。そんなものなんですね、いつの時代でも。だから、ここに大伴旅人の人間性が表れている。だから、この人の宴のときに出た歌が、令和になったとき、「この人はずいぶん酒を飲んでたな」なんてことはあまり表に出さないように。イメージが変わると困りますからね(笑)。

私、この歌の解説をしたんです。私なりの解説ですよ。「酒を飲む、その酔い心地を鳥や虫にかけています。それがとてもおもしろい。しかし、何といっても、俺はもうこの世でそんなに長くは生きていけないよという旅人の心情が伝わってくる。実際この歌を歌った2年後に亡くなっています。逆に言えば、自分がこの世を去ることを心の中で知っていて、その上で酒を飲んでいたのではないでしょうか。旅人の人生哀歌の中における酒の味は、ほろ苦いものであった。思い出の味でもあった。そのほかいろんな味があったと思います。昔から今に至るまで、酒というものは人生を振り返ったり、喜怒哀楽を感じる媒介の役を果たしているのです。そのことを旅人が教えてくれるような歌ですね」ということを解説しましたけども、まさしくその通りですね。寂しかったんでしょうね。うれしかったときも酒は飲みますけれど、寂しかった。でも、若い時から寂しいからといって酒を飲んでいると間違いなく依存症になる。これ本当です。これは注意しないといけないです。

●小泉さんが好きな「いとすさまじき歌」

次はこれやりましょう。だんだんすごいことになってきます(笑)。珍しい歌です。長意吉麻呂(ながのおきまろ)の歌ですね。すごい歌を歌う人です、この人は。私、この人、一番好きです、『万葉集』の中で。この人好きな人いますか? この人を好きな人はどっちかというと、ちょっと……凄まじい、素晴らしい感性のある方。そして今一つは、一風変わった見方をする、それが楽しい。素晴らしい歌です。頭のいい人ですね。

醬酢ひしおすひるてて鯛願ふわれにな見えそ水なぎあつもの

ちょっと読んでみますと、〈醬酢(ひしほす)に〉、醬酢というのは今のポン酢。橙のお酢。このときの酢は何かといったら、ゆずとか柑橘を搾った酢が中心です。これに醬油を加えるから、今のミツカンポン酢みたいなものです。そう考えていいです。どういう歌かというと、醬油に橙の搾り酢を加えて、それを醬酢という。それに、野蒜(のびる)って知ってますかね。そのへんによく出るラッキョウの小さいようなネギのこと。昔は私、採ってきて、よく味噌つけて食べましたけどね。野蒜を知らない人はラッキョウと考えていいと思います。その野蒜をついて鯛を食いたいと願っているこの俺様の目から消えてくれ、まずい水草の吸い物なんかは。すごい歌でしょう。最初は「うまそうだな」と思ったら、「こんなもの消えてくれ」っていうわけですから。もう一回行きますか。「醤油にスダチを搾って、それに野蒜を混ぜたものを作って、鯛を食いたいと願っている俺様の目の前から、まずい水草の吸い物なんかは嫌だ、消えてくれ!」と言ってるわけです。『万葉集』の中でもすべてきれいなことばっかり言ってるんじゃない。こういうふうに「嫌だ!」という。長意吉麻呂はこの次に今一回出てくるけど、これはもう大変なことですからね、みなさん。私が『万葉集』の中で一番好きな歌は、この次の歌です。

どういう感覚で彼がこの歌を歌ってるかをちょっとお話ししますね。醬酢というのは、お酢に醬油を入れたものだから、今でいうポン酢です。蒜は野蒜のことでネギの一種。非常に力のつく食べ物です。鯛は素晴らしいたんぱく質。ここに詠まれた宮廷の人たちの食事は、かなり手の込んだ料理ですね。だけれども、それが食えなかったのはいかに残念だったかということです。この歌の中で、とても侘しくて貧しい料理と素晴らしいごちそうが二分されている。そこが非常におもしろいところです。私が解説に書いたのは、「庶民と役人とでは、暮らし向きにそのぐらいの格差があるということを歌は教えているのですよ」ということです。ただ、この歌ですごいのは、食べ物がいくつ出てくるかというと、醬とお酢と蒜と鯛と、水葱と羹=あんかけ、6つ出てくるんです。1つの歌の中に6つの食べ物が出てくる。これは長意吉麻呂でないとできない。本当にすごい人なんですよ。

次の歌がもっとすごい。ものすごい歌です。これはちょっとね、えーと、みなさん、食事は? 済んだ? じゃ、これ読みましょうね。これ私、最も好きな歌です。なぜかというと、ここに発酵食品が出てくるんです。その発酵食品はどんな発酵食品かというと、これすごい歌ですよ。いいですか。

こう塗れる塔にな寄りそ川隈かわくま屎鮒くそぶなめるいたき女奴めやっこ

すごいね。今一回。〈香塗れる塔にな寄りそ川隈の屎鮒食めるいたき女奴〉。どういう意味かというと、極めてすごい、まあ早く言えば、不衛生な歌ですね。どういうことかというと、〈これこれ、香を塗った高貴な塔に近寄ってはならん。汚物の溜まった川の曲がったところの糞鮒を食うている汚らわしい女め〉。驚くべき歌ですね。どういうことかというと、仏様ですね、仏壇、これに香を塗っている。すると女の人がそこに近づいてきた。そしたら、「おい、こらこら、こっちへ来るな。こんなとこへ来ちゃダメだ」。川がこう曲がるでしょ? 〈川隈の〉というのは、川の曲がったところ。そこの〈屎鮒食める〉というのは、あの時代はどういうこと? 水洗トイレ(笑)、川ってうんちが流れてくるんだよ。それを鮒がパクパク食うわけよ。その鮒を当時の人はまた食うわけよ。そういう鮒を〈屎鮒〉と言ったの。すごいね。「女たちよ」っていうのは、それを食っている女たちよ、という意味です。今だったら大変なことになっちゃうね。差別ですね、これは。だけど、こういう歌をこの人は歌っている。

実は、なんで発酵食品が出てくるか。これには出てきませんよ。僕は連想がすごく上手なんですね。滋賀県の人がいたら怒られるかもしれないけど、昔の人たちは鮒寿司を糞鮒と言った。うんちのにおいがするってわけです。滋賀県・朽木村(くつきむら=現・高島市)の鯖寿司を糞鯖といった。いや、これ本当。だから、「あ、ここに糞鮒がいた。これはすごい歌だな」と思ってね。恐ろしい歌でしょう? これの解説を私はこう書いています。「いやあ、本当に奇妙な歌ですね。私も実は食いしん坊で、鮒なんかいつも食べていますけど、「屎鮒」と出てくると驚きですね」。

なんでこの歌がすごいかというと、この歌には、清浄なものが2つ出てくるんです。お香の〈香〉、それから〈塔〉、仏塔ですね。清浄でしょ? そして、不浄なものが4つ入っているんですね。厠。〈川隈〉というのは厠のことです。川の曲がったところに必ずうんちするところがある。厠です。だから、〈川隈〉は不浄なものです。あとは〈屎〉、それを食った〈鮒〉も不浄です。それから、〈女奴〉も不浄ですね。だから、この歌の中には、清浄なものが2つ、不浄なものが4つ入っています。それを1つの歌の中に織り込んでいるわけです。しかも立派な歌として残っていること自体がすごいです。立派ですよ、この歌は(笑)。とにかくこの長意吉麻呂という人は、即興でこういう歌を作っちゃうんです。本当にどんな頭をしてたんだかっていう人です。(江戸時代のマルチな文化人であり武士)大田蜀山人(おおたしょくさんじん)みたいな人です。

この解説を書いたとき、質問が出ました。「当時、どこでも獲れる川魚は、こういうふうに獲れた魚は、女奴たちはどのようにして食べたのですか?」。答え、これ私ですよ。「一番簡単な食べ方は素焼きです。竹串に刺して火であぶって食べる。食べきれないときは、焼き干しといって、それを干して保存食にしました。きれいな川で獲られた鮒や鯉などは、偉い人たちのものとして味付けされて食べました。1300年も前のことだから大した食べ方はしていないかと思うと、そんなことはありません。この時代の大和では、すでに『酪(らく)』や『酥(そ)』、今でいうチーズやヨーグルトのようなものを食べていました。こちらは発酵して非常にいい香りだということですね。『くさいはうまい』という、私はその専門家ですが、そんな私でも、『屎鮒』ということになるとちょっと凄まじ過ぎます」って書いてある(笑)。『万葉集』には、こういうおもしろい歌があるのです。

●甘いお酒の副産物

いよいよこれからは、万葉の人たちの酒はどういうふうにして造ったかという話をします。われわれみんな執筆した仲間で「万葉の酒」をいろいろと書きましたけれども、とにかく一番資料が残っているのは奈良の春日大社です。春日大社には、ものすごい資料がいっぱい残っています。そこには酒殿(さかどの)といって酒を造る場所がある。神聖な場所で、今、重要文化財になっています。酒殿はなかなか入れません。春日大社の酒殿の中で最も印象的な文章が残っているのは、酒殿を掃除する舎人女(とねりめ)さんたちです。女官。神様の口に入る酒ですから、本当に清潔にしなきゃならないので、女官たちは、ものすごく清潔にした。それは何かというと、不浄な酒ができないんですよ。あの時代は微生物学的に完璧じゃなかったのに、本当にお酒があまり腐らなかった。日本の清潔感というのは神様から来ているのかもしれませんね。神様の周りは常に清潔しなきゃならないからというので。奈良時代の酒造りは極めて清潔だったということです。

じゃ、どうやって酒を造っていたかというと、春日大社の酒殿で酒を造って、神様に差し上げるわけですね。酒を造る容器があるんです。当時の甕(みか)ですね。甕(かめ)です。どのぐらいお酒が入ったでしょう。大体、一升瓶で180本。そんなに入っちゃうんです、素焼きの甕に。これで酒を造った。示している写真は、酒船石(さかふねいし)といいます。何のために作られたんだろうと同志社大学あたりでもずいぶん調べたんですけど、最終的には、布に濁り酒を入れて、上から押して、それで真ん中に行った酒は誰の、左に行ったら誰の、こっちに行ったら誰のと分けていたのではないかと。今でいえば一種の槽(ふね)ですね、酒を搾る。そういうものの原始的なものだといわれています。

『万葉集』の時代はどんな酒を飲んでいたかというと、いろんな種類の酒があったんですよ。まずどんなものがあったかというと、「清酒」。これ「せいしゅ」と読んじゃダメよ。「すみざけ」と読むんです。みなさんね、万葉時代はどぶろくだろうと思ってた人いると思うんですよ。濁り酒か何か。だってほら、山上憶良が万葉の時代の第三期になってくるんですかね。旅人の友達が山上憶良で、その人が『貧窮問答歌』というのを歌った。そこでは本当に「鼻びしびしの糟湯酒」だとか「濁り酒」とか飲んでいるというので、大抵の人は濁った酒だと思っていますけど、清酒(すみざけ)なんです。ちゃんと布で漉して飲んでいた。

そして、私が解き明かしたのは、この時代、なんでものすごく甘い酒を造ったか。いいですか。お酒を一回造ったら、そのお酒を仕込み水にして、それにまた麹と蒸した米を入れて、また発酵させて、またそれを絞って、また酒少ししか出ないわね。そうすると、糟がいっぱい出るんですよ。なんでいっぱい糟を造ったか。麹の塊よ。あと蒸した米、一緒になってギュッと発酵してるから、ほとんど発酵しませんよ。なぜかといったら、実は砂糖です。搾った糟は当時の甘味料なんです。ものすごく甘い。だから、実際に私のところの助教授のシンドウさんにそれを作らせてみたら、「先生」、「何だ」、「糟置いといたら粉ふいてきました」、「あ、それブドウ糖だよ。それを乾燥して」。今一回言うと、あの時代は砂糖なんてなかった。どうやってお砂糖、甘味料を作ったかというと、お酒を造るときに、お酒を造るのがひとつの目的。今ひとつの目的は、ブドウ糖を作ること。甘味料。さっきも言いましたけど、器の中にできた酒を入れて、そこにまた米と米麹を入れて仕込む。米麹は甘酒と同じで糖化力があるから、すごく甘いのができる。それを搾ったら、糟はものすごく甘いでしょ? それを置いて水分が飛ぶと、乾燥してブドウ糖の粉になってしまう。だからあの時代は、濃いお酒を造ることによって米から甘味料も作った。トロッとしたおいしい酒、貴重だったんでしょうね、甘い酒というのは。とても貴重だったんですよ。だから、お料理に使う甘味料だって、とても貴重だった。米を使うからね。だから、お酒だけじゃなくて、米から砂糖も作っちゃえよと、こういう時代だったんです。

奈良時代の酒のひとつは、清酒(すみさけ)という。平安時代になると、清酒は澄酒になっていきます。濁り酒もありました。これ「上酒(じょうしゅ)」といって最も高いお酒という意味です。今でいう特級酒。それから、糟湯酒。これこそ山上憶良の『貧窮問答歌』に出てくる、〈鼻びしびし〉とすすって寒い夜に飲んだのが、この酒。一番安い酒で、もう糟も入ってりゃ何もみんな入ってるってそんな酒。濁り酒は糟湯酒じゃないよ。清酒(すみさけ)は布で漉した酒。濁り酒は、布で漉さないでじっとしておくと上澄みが出るでしょ? あれが濁り酒。糟湯酒というのは、この下のほうに残ってる糟が多い酒。こういうふうにみんな造り分けた。それから、古酒(こしゅ)なんていうのもあった。新酒、古酒。だから、万葉の時代はすでに、酒を熟成するということがもう行われていたわけです。こういうふうに記録はいっぱい残ってるんです、奈良時代の酒のね。古酒だとか、白酒とか、辛酒とか、厨酒(くりやざけ)とか、これなんて面白いでしょ、厨酒って。これは料理専門のお酒です。使い分けしてるんだね。これは本当にすごいなと思っています。

そうだ、みなさん、酒を造るときには麹菌がないと造れないよ、米麹。さて、この麹はどこから来たか。これをこれからやります。

●日本固有の麹菌

『播磨国風土記』、これが書かれたのは『万葉集』(が編纂された時代)のど真ん中です。どこで書かれたかというと、今の兵庫県の宍粟市というところ。宍粟市なんて聞いたことないでしょう。これ「しそう」っていうんですよ。宍という字に粟と書いて「しそう」と読む。いい町ですよ。シンポジウムがあって何度も行きました。日本人というのはすごいね。漢字が入ってしばらくして、北海道と沖縄を除いた全国で、お国自慢の本が出てきた。それが風土記です。鹿児島県なんて2つの風土記があるね。『大隅国風土記』と『薩摩国風土記』。島根県に行くと『出雲国風土記』。茨城県に行くと『常陸国風土記』。今、国宝になっているのは、『播磨国風土記』と『肥前国風土記』の2つだけ。なぜかというと、古い写本が残っている。これのシンポジウムがありました。さあ、ここで始まります。いいですか。

まず麹菌ですね。麹菌は、あとで説明しますけど、日本酒、味噌、醤油、味醂、米酢、焼酎、こんなのを造るんですね。麹菌って日本にしかいないのよ。日本には2種類の麹菌がいます。黄麹菌、黄色い麹菌。今ひとつは沖縄へ行きますと黒麹菌という真っ黒い麹菌。黄麹菌では日本酒、味噌、醤油、味醂、米酢。黒麹菌では焼酎ができる。これは日本だけなの。すごいねえ。

日本の麹は、米粒一粒一粒にカビが生える。白っぽい中国の麹はクモノスカビといって、日本と全然違う。韓国の麹も、東南アジアも、ほかの麹はみんな中国のみたいな白い麹。これは全部クモノスカビ。日本だけがコウジカビ。すごいね、日本という国はね。コウジカビは日本にしかいないし、日本でしか使っていないので、これを国が「国菌」に指定しました。国菌。じゃ、その文書を見せましょう。これがそうです。「麹菌をわが国の『国菌』に指定する」。世界中の中で微生物を国が指定したのは日本だけ。いいことですね。

それを誰が決めるかというと、国の鳥、国鳥は何だか知ってますか? 何だっけ、国鳥、キジか。それは文部科学省が認めた学会があって、その学会の中で最も学会員が多くて、研究発表が多くて、すごく業績を立てている学会が国に申請するわけ。だから、国鳥を決めたのは日本鳥学会。国花、国の花、これは菊かな、桜かな、どっちだ、これもそういう学会が決めてます。で、この国菌は誰か決めるかというと、「われわれ」。私もその今理事をやっているんだけど、日本醸造協会というのがあって、大きい組織なんですよ。醸造というのは、日本酒でしょ、焼酎でしょ、味噌でしょ、醬油でしょ、味醂でしょ、ワインでしょ、ビールでしょ、ウイスキーでしょ、これ全部醸造協会。ここで、日本だけでしか使われてない、古来われわれの先祖がこれをつくってきたんだというので、これを国菌に指定すると日本醸造協会が平成18年に決めて、次はどうするかというと、これは国会で決まるわけじゃない。これを文科省と、今でいう文化庁に申請して、それで今度は内閣の大臣たちが持ち回りの閣僚会議で国菌に指定する。だから、むやみやたらにはできないよ。その「国菌」に指定されているんですよ。

じゃ、いつできたか。はい、この『播磨国風土記』。いつ書かれたか。『播磨国風土記』の編纂は和銅6年、713年。『万葉集』編纂真っ只中ですね。このときに播磨国一宮、伊和神社、これはさっきの宍粟市というところに今でも現存している、何て書いてあるかというと、いいですか、よく聞いてください。

「神様に蒸した米をあげました。そしたら、それが枯れました。ちょっと時間が過ぎました。それにカビがたちました」。「カビタチ」、もう出てくるんです、ここで。『播磨国風土記』に「カビタチ」。カビがたったから。穀物にカビが生えたのを麹といいます。「カビタチ」が途中、「カムタチ」に変わって、「カムチ」になって、「カウチ」になって、明治時代になると、「カウジ」屋さんなんて麹屋さんのことを言った。で、今は「コウジ」。だから、麹の語源は、「カビタチ」。カビタチ、カムタチ、カムチ、カウチ、コウジになった。これは金田一京助先生もちゃんと認めていますね。ですから、麹というのは本当に、日本の国菌なんですよ、みなさん。驚きましたねえ。

万葉時代にはすでに麹があったから、醬油もありました。お酢もありました。味噌もありました。それについては、あとで食の話をします。今、酒の話ですからね。ついでだから、ちょっと言いますね。これはみなさんね、私はとても憤慨してる話です。いいですか? 日本にはこの2つの字があるのね、「麹」と「糀」って。これは極めておかしい。日本の文化程度が中国人に笑われますよ。なぜかって、こっちの麹というのは中国の字(漢字)なんです。奈良時代初期に日本に入ってきたんです、麹という字が。なんで麹かというと、中国は麦で麹を作っているから、麦偏。それで調べましたら、中国ではこのわれわれが今使う「麹」の字はないんです。明代に消えているんです。それを、日本人はありがたがって、まだ使っている。中国では、今は「曲」という字が麹のことです。曲、音楽じゃないんだ。中国では曲といったら麹のことです。麦偏に曲となって、文化大革命になったら、麦偏が取れて「曲」になった。中国の麹は、タアチュイといって「大曲」と書く。大きい形の麹だから。秋田県の大曲じゃないんだ。そんな消えた字をまだ使ってるの、日本人は。

日本では「糀」が正しいの。これは日本人が江戸時代に作った字(国字)で、米にカビが生えて、じーっとしておくとどんどん花が咲いて、黄色いきれいな、虫眼鏡で見ると本当に花がきれいに咲いている。米に花が咲くから糀、これが日本の字だ。日本の字というのはすごい、国字というのは素晴らしい。私ね、国字をもっと勉強すると、今の若い人たちはものすごくおもしろいと思うんですね。永六輔さんと私は、「全国こども電話相談室」(TBSラジオなど)というのをやっていたんですね。そのとき、永さんが教えてくれたんです。「畑」と「畠」と2つある。両方とも国字なんだって。調べてみたら、そのとおりだ。どこが違うかって聞かれて、俺「どこですか」と言ったら、全然違うんですね。畑は古い畑。畠は新しい畑。これなぜかというと、焼き畑で作った畑は火偏の畑。焼かなくて白い田が畠。これ両方とも国字。というふうに、国字というのは字が意味を表しているんです。とにかくこういうことで、もうそろそろ米偏に花のほうがいいんじゃないかと思っているんですよ。しかし、こういうふうにして国菌に指定したということは、すごいなと思いますよ。糀がなければ酒ができないわけだから。

●万葉びとの調味料

さあ、今度は、奈良時代の調味料の話をしましょうね。どんな調味料があったんだろう。まず醬油。醬油は、みなさんも驚くかもしれないけれど、もう奈良時代には醬院ができています。これまたこういう本の話。『醬油・味噌・酢はすごい』。最近の中公新書ですけどね。私、中公新書を1人で4冊書いてるんです、本当に。ここに出てきます。何と書いてあるかというと、「天平年間の木簡に出てきたもの。さまざまな漬物、塩辛、それからお醬油の類、中でも大宝元年に制定された大宝律令には、朝廷に醬院」、これ、「ししはつかさ」というんです。つまり、大宝律令の法律の中に、醬油と味噌を造る、そういう専門の役所があって、それを醬院といった。これを見ても万葉の人たちが、その時代すでに、いかに醬油と味噌を大量に使っていたかがわかります。もうお上が、こういう役所を作って、そこで専門に醬油を造ったり味噌を造ったりしながら管理する。それはなぜかというと、塩を管理しなきゃいかんから。塩と酒というのは昔から専売制で、国が全部取り仕切ったわけです。

実は、なんとみなさん、奈良時代、万葉の時代に、4種類の醬油ができているんです。本当にすごい。平安時代までそれは続いていて、延喜式(えんぎしき=平安時代の法令集)にまでそれが出てくる。ひとつは、醬院で監督していたもの。それから「正倉院文書」に出てくる。4つあったんです、お醬油が。ひとつは「穀醬(こくびしお)」。2つ目は「魚醬(うおびしお)」。万葉びとはみんなこれを味わっていたんですよ。3つ目は「肉醬(ししびしお)」。それから「草醬(くさびしお)」。4<種類の醬油。われわれよりもグルメですね、万葉の人たちのほうが。

まず穀醬。これは今われわれが食べている醬油です。穀物の醬油。奈良時代にはものすごく大豆は使われたんですよ。あとで休み時間にちょっと食べるでしょ? あ、それ秘密だったのかな。そんなことないね。穀醬は麦と大豆で造った醬油。今われわれが食べている醬油はこれです。魚醬も奈良時代には普及していました。おそらく穀醬より普及していたと思いますよ。というのは、この写真を見てください。私が静岡県の山の中で獲ってきた川魚、ウグイ。この魚に米の赤糠をバラーっと撒いて、その上から塩をガバッと入れておきます。1か月から2か月過ぎると完璧に発酵します。これを布で漉して搾ったら、下に落ちてくるのが魚醬です。魚のお醬油。みなさんね、自分で魚のお醬油できるんだよ。みんなやらないだけで。私は最近、魚のアラの本を書いた。小説。新潮社から、『骨まで愛して』。誰か読んだ人いる? まあ、いいや。この本には魚のアラがいっぱい出てきます。魚のアラなんて捨てないで、糀を買ってきて魚の上に撒いて、それに塩をバーッとぶっ込んで、水をザッと入れといて、2か月過ぎたら、それを漉したら魚のお醬油よ。魚のお醬油なんて誰でもできるんです。これがまだ、残ってるの。秋田県の「しょっつる」とか、石川県に行くと「いしる」なんてあるわけでね、鮭醬油なんて北海道にあるし、鮎の醬油や鰯の醬油もある。

肉醬は何かというと、肉を原料にした醬油。これは何の肉を使ったかというと、大体鴨です。まあ野鳥ですね、野鳥の肉。これは近年まで、伊豆七島にある島でね、オオミズナギドリという鳥を獲ってきて、鳥の醬油を造っていたという記録が残っている。だけど、今はオオミズナギドリは天然記念物になっていますからね、もうダメです。肉醬はもうなくなった。

草醬。これ何だと思う? そのへんの草じゃないんだ。これは何かというと、野菜のお醬油。簡単に言うと、白菜漬けやキュウリ漬けをするとき、上からギューッと重石をかけるね。そうすると塩があって浸透圧があるから、水が出てくる。あの水が草醬。捨てないわけよ、奈良時代の人たちは。だって、ものすごく貴重な塩なんだから。塩漬けにしてギューッと押したら、塩の力と石の力で水がダッと出てくる。その水の中には、いっぱい塩が入ってるんだ、貴重な塩。そんな捨てないよ。それが草醬。だから、4種類の醬油がありました。ここでちょっと休んで、みなさんに万葉びとの食べ物をちょっと食べてもらいます。

これから味わってもらうのは、奈良時代、一番多く食べられたものです。酒のつまみとして。これがまた、日本酒だけじゃないんです。ウイスキーにも合うんだよ。そういうつまみが、これから出てくるんです。何かというと、寺納豆。どこのお寺かというと、京都の大徳寺。だから、「大徳寺納豆」ともいう。浜松のお寺でも作ったから、「浜納豆」なんてこともあるかもしれない。とにかくお寺さんで作った納豆。ただ、ここで一番違うのは、納豆は糸を引きます。これは糸引きません。実は「納豆」じゃないんです。日本人は豆を発酵させたものを納豆と呼んでいるだけの話。実は納豆菌じゃないんです、これは。どうやって作るかというと、大豆を煮るでしょ。煮た大豆に麹菌をかけます。大豆麹になります。その大豆麹を器の中に入れて、上から塩を加えて、それで少ーし散水して、それでじーっと1年から2年置いておく。そうすると、真っ黒け、真っ黒け、本当に真っ黒、発酵してきて。納豆菌がついてないから糸引かないの。食べたときに、しょっぱいのが塩、酸っぱいのは乳酸菌発酵。乳酸菌で発酵している。だから、これから召し上がる寺納豆というのは、原料は納豆と塩、それで発酵する微生物は麹菌と乳酸菌。納豆菌じゃない。納豆菌じゃないのに、なんで納豆? これは、中国から来たんだけどね、鼓(シ)。これが中国でいう納豆。中国では糸引き納豆を食いませんから。向こうでは鼓。味噌の硬いやつと思えばいいです。

じゃ、なんで日本では納豆というの? これは日本でしか作らないから、中国から来た字じゃないよね。これは、お寺さんで作ったのね。それで、お寺さんで作るところは納所(なっしょ)という。お寺さんの厨房、台所の一部分を納所というの。納所で作った豆だから納豆と。万葉びとは、みんなこれを食べているわけです。今ひとつ、なんでこんなものを作ったかというと、発酵すると腐らない。保存食品。豆を煮て、そのへんに置いて、1日過ぎたらプーンと腐って、食べたら食中毒。だけれども、こういうふうに発酵させておいたら、寺納豆なんて真っ黒。今、これを作ってるのは大徳寺の和尚様の山田宗正さん。27代目の一休さんですよ。われわれのすごい仲間。とんでもない偉い人ですよ。その山田さんが自分で大徳寺納豆を作って、みんなに普及してるんだね。寺納豆は、日本で最も古い豆の発酵食品のひとつです。

それからね、豆腐ってあるでしょ。ついでだから、豆腐。豆腐は腐ってないのに、なんで豆が腐るって書いてる? これは中国から来た言葉。だから、中国でも豆腐はトーフーです。これはなぜかと言ったら、豆は腐ってるんじゃない。腐というのは中国語では、「ぶよんぶよんした」という意味です。だから、中国ではヨーグルトのことを乳腐、ニーフーといいます。こっちはヨーグルトです。(休憩)

●味噌は「未醬」から

それではまた始めます。万葉の時代のお醬油は、ジャン、醬という字だったでしょう? これは醬油の醬と考えたらいいですね。ところが、味噌という字は出てこないんですよ、万葉には。「未醬(みしょう)」というのが出てくる。未醬、これはいまだ醬油ならず。これが味噌です。味噌の語源は未醬。柔らかい味噌だったら、搾れば醬油になっちゃうでしょう? だから、昔の人たちは同じような作り方して、醬油は液体発酵、味噌は固体発酵。その違いが醬油と未醬。奈良時代の文献を見ると、ほとんど味噌という字は出てこない。味噌という字が出てくるのは室町時代です。未醤というのは味噌と考えていいです。というのは、未醤を使った料理を見ると、味噌を使っているのと同じことが書いてありますね。

それから、お酢。酢はちゃんとありました。お酒を造って、そのまま置いといたら酸っぱくなっちゃうよね。これがお酢です。それから今ひとつ、お酢は2種類あったの、万葉の時代は。ひとつは、今でいう果実酢といって、橙とか柚子とかカラタチとか、ああいうのを搾ったやつ。それが果実のお酢ですね。それから、今ひとつは、穀物でお酒を造って、それを放っておくと酸っぱくなってお酢になってくる。今のお酢と同じだね。今のお酢だって、アルコール発酵して、発酵したお酒に酢酸菌を入れて発酵させればお酢になるわけだから。

それから、甘味料としては砂糖ですね。天皇だとか偉い人たちには砂糖があったんですよ。中国から砂糖を持ってきていたからね、そういうのがあったんですが、大量に料理に使ったのは、さっき言ったように、お酒の糟。甘ーい糟を搾ったら甘くなっちゃう。今ひとつは、当時すでに麦芽の飴があった。麦芽はもう奈良時代から入ってきてたんだよ、中国から。麦に芽を出させて、それで糖化して、漉した。当時、今ひとつは何かといったら、甘酒があったんです。甘酒というのは米麹に蒸した米を入れてお湯を入れてほっといたら、甘酒になる。甘酒は何に使ったかというと、今みたいに、「飲む点滴」だなんて飲むのはあんまりなかった。どうしたかというと、奈良時代、甘酒は水飴の原料だった。みなさんだって今、水飴できるんだよ。甘酒を買ってきて、漉してさ、鍋で煮詰めたら水飴になっちゃうよ、簡単に。

それから、今ひとつ奈良時代で自然界から持ってきた、格安の甘味料があった。何でしょう?これはね、甘草。これは奈良時代に多く使われていた。グリチルリチンといって猛烈に甘い、砂糖の90倍ぐらい甘いのがあるんです、甘草。今でも売ってるよ。それから、当時すごい甘味料があったんです。干し柿です。日本国中に干し柿ができたんだから、昔は。柿を干しといたら甘くなるでしょう。あの干し柿を潰して、お湯で煮て、漉して濃縮したら、柿の飴ができるわけ。それは庶民に普及していました。そういうものもあったんですよ。大体何でもあった時代ですね。

今ひとつね、これはもう今なくなっちゃったんだけど、出汁を取る鰹節。今、鰹節は「にんべん」さんが本当においしい鰹節を作ってる。あれは素晴らしいね。私、にんべんの本枯れ鰹節っていうのが好きなんです。それはいいんだけど、当時は鰹節はないの。鰹節はいつできたでしょう。室町の末期。カビ付けした鰹節は室町の末期から江戸の初期にできている。その前は、堅魚(かたうお)といって、普通のお魚を干したやつだから、まあ、煮干し。いくらでもあったんだよ、煮干しは。保存用に作っていたんだよね。だから、それで出汁を取った。

それから今ひとつ消えちゃったのは精進節。これは今残ってたら大したものだったと思うよ。なくなっちゃった、精進節ね。江戸で一度復活したんだけどね。最近では、日光の湯葉屋さんが作っていたんだけど、もうなくなっちゃったって話だ。これが今あったら大変なもんだ。誰かやりません? 絶対に儲かる、これ作ったら。精進節というのは何かというと、大豆で鰹節を作っちゃう。奈良の古い文献に出てくるのを一島英治先生(東北大名誉教授)が見つけてきた。奈良時代からできているんですよ。それは何かといったら、豆腐。豆腐というのは、中国から来た。そのときに、生で豆腐を持ってくるわけにいかんでしょ? だから、中国の人たちがこっちに来て技術を教えてくれたんです。それから日本人は、豆腐をものすごく食べるようになった。それで、豆腐を利用して、いろんな加工食品ができたわけです。その一つが今言った精進節。硬い豆腐を作って、それを吊るしとくのね。早くいえば高野豆腐作るようなもんだ。あれは薄過ぎるけどね。そういうふうに豆腐を作って、干しておく。しかも、6月頃、空気がぬるくなってきて湿度がちょっと出てくると、吊るしておくと、全面にカビが生える。2か月ぐらいしてカビ生える。そのカビをフーッと叩いて、また吊るしとくと、またカビがつく。カビは水を吸い取るんです。どんどんどんどん吸い取っちゃう。だから、鰹節、なんであんなに硬いの? カビを3回から4回つけるのよ。1番カビ、2番カビ、3番カビ、4番カビ。すると、カビは表面の水をどんどんどんどん吸っていくから、中の水がなくなって、カッチンコッチンになって、叩けば拍子木、カーンだよ。本当に。女子栄養大学って知ってます? いきなりですが。いい大学ですね。あそこで、こういうデータを出しています。女子栄養大学の「食品成分一覧」という本がある。街で売っています。これを見ると、和牛のたんぱく質17〜18%。大豆たんぱく質16〜17%。ほぼ同じですよ。だから、日本人は長いあいだ肉を食わなくても、大豆を食ってきたら、大豆は「畑の牛肉」なんだから、みんな元気だったわけですよ。そうするとこれ、牛肉を干してるようなものだよ、ねえ。そう考えなきゃダメなんだよ。そう考える。これカッチンコッチンで、簡単には割れない。最後のやつをね、新潮社の本社で、私が『幻の料亭「百川」ものがたり』という本を書いたときに、百川の料理にこの精進節が出てきて、どんなものかというので探したら出てきたのね、日光から。それで、みんなでそれを食べたんですけどね、カッチンカッチン。どうしたかといえば、鰹節を削る機械で削るんだよ、シャーシャーシャーシャー。奈良時代は小刀で削っていた。それがね、出汁がちゃんと出るの。だから、やっぱり大したもんです、日本の文化というのは。

私、こういうのも持ってきたんですね。『日本食生活史年表』(西東秋男著)。まず平凡社の世界大百科事典からメモをとってきました。『万葉集』第一期は629年〜672年、壬申の乱まで、と書いてある。額田王とか天智天皇とか藤原鎌足とか。第二期が673年〜710年。あ、長意吉麻呂が出てきたね。柿本人麻呂とかね。第三期は711年から733年、ここに大伴旅人が出てきます。山上憶良も出てきた。それとあわせて、食生活史年表を見てみましょう。第一期の人たち……天智天皇とか藤原鎌足さんですね。このときには何が起こったか。668年、中国からニンニクが渡来。西アジア原産のニンニクが中国から渡来しています。この時代すでにニンニクは食べられたんですね。それから676年、兵隊さんは干した米を……蒸してから干したのを「干飯(ほしいい)」というんだけど、それを腰にぶら下げることが法律で決まったと書いてある。精兵の常備制度発足。兵隊が乾燥した米をぶら下げるのを法律で決めているんです。すごいですね。

第二期の時代、すごい動きがいっぱい出てくるんです。693年、朝廷が麦作を奨励した。麦をいっぱい作れと。この時代から麦で蒸しパンみたいなものを作っているんですね。それから、700年、第二期、柿本人麻呂とか長意吉麻呂とか天武天皇とか持統天皇、この人たちの頃、何があったか。牛乳を煮詰めてコンデンスミルクを食べていた。これを「酥(そ)」というんです。これは、奈良時代には朝廷にはいっぱいあった。大田区に馬込ってあるでしょう。あれは馬の牧場。それから、新宿区に牛込というのがあるでしょう。あれは牛の牧場。牛の牧場があって、そこで朝廷は牛をいっぱい飼っていた。そこで、「酪(らく)」というのは今でいうチーズじゃないかといわれているんだけど、ヨーグルトかもしれません。発酵したものがあったということです。それから、醤院ができたと書いてある。あと、701年に大宝律令。宮内省に氷を見張る役人(主氷司)ができるんです、ここで。氷は貴重なものだったんでしょうね。だから、やっぱりオンザロックは間違いなくあったということになりますね。700年、大宝律令ができてすぐにこんな役所ができたんだから。それで、氷を朝廷に持っていく役人ができたということがありました。この時代は相当いろいろ動きがありましたね。708年、豚を飼った。そして710年、平城京に遷都したわけだね。それで、第二期は終わって、第三期になる。

第三期で特徴的なところは、715年に昆布。日本で初めて書物に昆布という字が現れる。それから、718年にぶどうが作られた。どこに作られたかというと、勝沼。奈良時代から勝沼はぶどう園。観光ぶどう園はなかったけど、そういうのがあった。かなりいろんな動きがあったね。お茶がすごかったね、この一番下に書いてあるように、お茶はもう、この時代には飲み物として大変なものだったからね。「わが国における最初のお茶の飲用といわれている」と書いてあるけども、この時代からお茶が普及してくるんです。729年、第三期ですね。最初、お茶というのは薬だったんですけれども、それが一般的な飲み物になっていったということですね。

第三期の最後のところ、731年、干飯を非常食として用いたということが書いてある。「一般旅行者も携帯食料とした」。だから、この時代からかなり旅行者が出てきた。一般旅行者の携帯食は干したご飯です。干飯ですね。あの時代は、火に耐える器がなかった。鉄がなかったんです、まだ。そのためにみんな蒸気で蒸して食べていた。ですから、蒸した米を太陽に当てて乾燥して、食べるときにはそれに水を吸わせて食べるとか、そんなことをやっていたわけですね。734年には尾張の国で赤米で酒を造ったと書いてある。赤い酒。そんなことが書いてあります。

四期組になりますと、ここはちょっと大変。天然痘が出てきたり、ろくなことがないんだ。四期は大伴家持とかそういう人たちの時代。年表をみると、天然痘でしょ? その次の736年は凶作のため米価急騰。737年には天然痘がまた流行。四期組は大変だったですね。それでも少し明るさが取り戻されたのは、739年に蜂蜜が出てきた。まあ、もっともその前に蜂蜜はおそらくあったと思いますけども。それで次に、寺納豆が出できます。741年、寺納豆が伝播。それから、黒砂糖が初めて出てきたのも、四期組の人たちのころです。それから、756年に海草、海苔みたいなものが出てきたということです。この次に『万葉集』が出てくる。『万葉集』の中に鳥37、獣11、魚9、貝6の物名が見える。つまり『万葉集』の中に、鳥を食った、獣を食った、魚を食った、貝を食ったという6種の歌が出てきますというのがこの年ですよ、759年。この頃は急激にいろんなものを食い始めたというのがわかりますね。

では、どんな食べ物が『万葉集』で出てくるか。鳥、いいですか、歌で出てくるのね。鳥と獣では、狩りの風景、鹿、猪、兎、馬、鶏、雉、鶉、鵜、鴨、鴈、鴫、これだけ出てきます。魚では鮎、鮒、鰻、鱸、鮪、鯛、鯨、おっ、鯨がもう出てきますね。それから鮑、蜆、蟹が出てきます。『万葉集』にはいろんなものが出てくるんですね、食べ物。これ全部ここに『万葉集』の歌と解説がある。これは一島英治先生、私のすごい仲間ですけど、この先生のこういう本があります。『万葉集にみる食の文化』、いい本ですよ。一島さんはこの本も書いている。『万葉集にみる酒の文化』。これ参考になると思います。まあ、今日はほとんどこっちの本はあまり使わなくて、私の本を中心にやりましたけども、これ本当におもしろい本だと思いますね。

●寿司の話

ちょっと大切な話。これを話すのを忘れちゃった。極めて重要な話。これ、やらなきゃダメだね。さっき、〈屎鮒〉の話をしたから。魚を米と一緒に発酵したのを、飯寿司(いずし)、なれ寿司というんです。寿司には2種類あるんです。握り寿司、これは早寿司といいます。それから大阪の寿司、箱寿司、これも早寿司。最初からお酢を加えて握っちゃう、これを早寿司といいます。ところが、なれ寿司というのは、ご飯と魚を一緒にじーっとしておくと、そこに乳酸菌がやってきて、発酵して乳酸ができて酸っぱくなるから、寿司。「すし」というのは酸っぱい、メシのシだから。スは酸っぱい。シはご飯。早く食べたいから、お酢をご飯に入れたのが握り寿司。それから大阪の寿司、箱寿司とか。発酵して酸っぱくしたご飯、それはなれ寿司。このなれ寿司の話をしましょう。

写真は、なれ寿司のひとつですね。鮎寿司です。発酵しています。これ熊野川。なんか時間が時間だから(笑)、うまそうですね、なれ寿司。『万葉集』に出てくる寿司ですよ、全部。鮎寿司も出てきますからね。次、鮒寿司。こっちはハタハタ寿司。これ全部ご飯と一緒に発酵させます。鮒寿司、高くなりましたね、今。近江の鮒寿司なんてこれ、1匹3万円。これ本当、1匹3万円ですよ。この黄色いのが卵巣ですね。こんな子持ちの雌のニゴロブナしか使いませんからね。これが今、琵琶湖でいなくなっちゃった。写真は鯖寿司。発酵している鯖寿司です。よく駅で売ってる棒寿司というのがある、あれは発酵してないよ。早寿司です。これは発酵してる寿司。高知の高知城の下の朝市で、発酵したのを売ってるんです。これクサいんだね、これがまた。

私は何を言いたいかというと、これを言いたかったんです。寿司というのは2種類あって、なれ寿司、これが『万葉集』の時代の寿司です。魚をメシと乳酸菌で発酵させている。それから、関西では箱寿司、押し寿司、関東では握り寿司といって、酢を加えたご飯を固める、手で握るとか、関西では上から押さえるとか、というのが早寿司になるわけです。富山の鱒寿司も上からギュッと押さえてるから、あれも早寿司。ここで私が言いたいのは次なんです。実は、『万葉集』の人たちもチーズを食ってたんだね。ただ、そのチーズは牛乳じゃなかった。なれ寿司を私はチーズと言ってるんですよ。これは間違いない。いいですか。なぜかといったら、チーズは乳酸菌です。なれ寿司もほとんど乳酸菌です。発酵してるから、酸っぱいよね。チーズの原料は動物の乳です。なれ寿司の原料は魚です。両方とも動物性たんぱく質です。栄養価は極めて高い。保存性は何十年も持つ。何十年も持つんだよ。

今、日本にある一番長く発酵しているなれ寿司をちょっと。これは私の「発酵は力なり——食と人類の知恵」(NHK人間講座)。この番組でね、2002年だから今から相当前にね、発酵というのを日本人がまだどういうものかってわかんないときに、この番組を1か月やったんですよ、「発酵は力なり」。それで、ヨーグルトってこういうものだ、甘酒ってこういうものだって、そこから発酵のブームが起こったわけだけども、そこでこれを取り上げました。奈良時代にはこんなものがあった。これは、和歌山県の新宮というところにある東宝茶屋、江戸時代からのお茶屋さん、そこで出してくれる秋刀魚のなれ寿司の30年物です。秋刀魚のなれ寿司。30年間発酵したら、秋刀魚の皮も骨も身も何もない、ご飯も何もなくて、全部ペーストになってヨーグルトと同じになっている。それで、これを持っていって、学生に「おまえ、目つぶれ」と。学生が目をつぶります。「口あけ」。あく。それで、スプーンでピロッと入れて、それで「口閉じろ」。閉じて、「もぐもぐやれ」と言って、もぐもぐやる。「今、おまえ、何食ってる?」と言うと、「ヨーグルトかチーズであります」なんて言う、100人中100人が。「おまえ、これ秋刀魚のなれ寿司だぞ」と言ったら、「へぇ!」なんて言ってるんです。しかもこれは薬壺に入っている。昔からこういうものは薬だったのね。だから、傷ついても治っちゃう。これ、秋刀魚のなれ寿司30年物。万葉の人たちは、こういうものをペロペロペロペロ舐めて食べていた。だから、もうますます万葉というのは、ロマンがありますね。最初の、味醂のような酒、これからしても、やっぱり万葉というのは素晴らしいですね。

●質疑応答

それじゃ、質問あったら。まあ、何でもいいから。糀が国菌になってうれしかった?

受講生:うれしいです。 小泉:ああ、本当ですか。よかったですね。今日の話はみなさん、あんまり聞いたことないような話が多かったでしょう? 国菌だなんて、ねえ。糀の語源なんてのも勉強になりましたね(笑)。河野さん何かありませんか。

河野:当時の人が飲んでいたお酒はわかりましたけど、量はどれくらい? それからお酒の回し方は? 宴会のときに。

小泉:ああ、宴のときの飲み方。これはもう平安時代のことを考えれば、ほとんど同じだと思います。お公家さんですから、やり方はいろいろありますよね。やっぱりみんな、坏っていうんですけどね、盃、3段重ねとか何とかって、あれでやっぱり飲む。ただ、それは飲む種類があって、盃にも。盃ってあの時代はみんな木ですから。全部漆を塗った。みなさん、三々九度をやるときに使うでしょ? あれを坏というんですよ。あれで飲んでいた。今一つはやっぱり、お互いに座を作っているから、回し飲みするというのが大体基本ですね。平安時代にできたものではなくて、奈良時代からおそらくできてきたと思うんですね、ああいう飲み方は。おそらく、自分の盃は常に目の前にあって、回し飲み用の盃は別にあった。これは平安時代でもそうです。盃に全部、種類や容量によって、緑毛亀盃(りょくもうかめはい=2升5合)だとか、丹頂鶴盃(3升)だとか名前がついていた。そういう盃が何種類もあったということは、やっぱりみんなで回して飲んでいたんじゃないか。1人でグーッてことは、あまりなかったのではないかと思います。

それと今一つは、群れて飲むことを禁止されていましたね。群飲禁止令というのが出て。あれはもう完全に、回して飲むものではなくて、自分一人でグーッと飲むという、そういう世界であったかもしれません。素焼きです、あの時代は。だから、むしろ下等の人たちは素焼きの入れ物があって、上等の人たちは坏があって、盃があったということだと思いますね。ちゃんと持ち方もあるんですよ、盃というのはね。両手で持って上げるんだけども、飲めない人は内側に親指を折りたたむとか、そういう礼儀がちゃんとあります。平安時代の貴族がそうでしたね。だから、奈良時代もあったんじゃないかと思いますけどね。奈良時代の最後のほうに、白酒を子どもが飲むという場面の絵が出てきますけど、あれもやっぱりこういう飲み方だったんじゃないかと思います。

ただ、女性が飲むということはほとんどあり得なかったんですよ、朝廷以外、武家以外はね。あ、それから今一つ、あの時代はすでに税金がありましてね。家族によって税金と、もらえる米の量が決まってたんです。いっぱい子どもさんがいて家族がいるところは上戸(じょうこ)。で、中戸、下戸。だから、お酒を飲めない人は下戸(げこ)というのは、少ないという意味ですね。当時、お酒も配給制度になっていたことがあって、そのときに一番下の人たち、家族の少ない人たちはお酒少なくしか飲めないから、これを下戸といった。それは奈良時代からです。上戸、下戸、中戸というのは、奈良時代の文献、さっきの一島さんの文献に出てくる。だから、酒まで区別があったんですね、家々によって。子どもをいっぱい作っていれば、いっぱい酒が来るわけです。子どもは酒飲めないから、しめたしめたと親父が飲む。酒を飲みたいために子ども作ってるようなものでした。じゃ、まあ、こんなもんで。どうもありがとうございました。

河野:どうもありがとうございました。みなさん、楽しんでいただいたんじゃないかと思います。お話の内容もさることながら、存在自体が(笑)、非常に貴重な方なんです。本当にそういう意味で、小泉さんという人にみなさんも接していただきたいなというのが思いだったんですけど、ここまでやってくださるとは思いませんでした。ありがとうございました。

受講生の感想

  • 食を通じて万葉の世界とつながった!

  • ご自身の研究成果から厳選した情報を披露いただき、大変興味深かったです。これまでの講義とあわせて、万葉集の見方もより立体的になってきたと思います。「うた」の専門家ではないからこそだと思います。具体的には「オンザロック」の話は目から鱗が落ちました。食がテーマにあるため、より親しみやすかったと思います。

  • 隣の物知りなおっちゃんの話を聞いているようでした。何時間でも聞いていたい! 万葉の人々は、私たちが思っているよりもきっと美味しいものをたくさん食べていて、その味も幅が広くおいしかったんだろうな、と今はない食べ物に思いをはせておりました。

  • 万葉の頃のお酒は今のみりんのようだったというお話をきいて、試してみようと、調味料棚からみりんを出して一杯やってみましたが、我が家のみりんは調理用の「塩みりん」だったので、あまりおいしくありませんでした(料理にはおいしい)。次は塩の入っていないものでチャレンジしてみるつもりです。