万葉集講座 
第1回  上野誠さん河合祥一郎さん

万葉集とシェイクスピア

上野誠さんの

プロフィール

河合祥一郎さんの

プロフィール

この講座について

万葉集講座第1回では、国文学と英文学の幸せな出会いを目撃することになりました。そして、 その前には、気鋭の万葉集学者・上野誠さんが、「古くからある言葉を知ることで目の前の現実 を整理して理解できるようになる」と、古典を学ぶ意味を語ってくださいました。ユーモアたっ ぷりの上野さんの講義をお楽しみください。

講義ノート

●歌でしか伝えられないもの

文字の歴史は、基本的には数千年単位です。中国 4000年とか。ところが歌の歴史は数万年単位。 日本語でいうと、「かたる」とか、「はなす」とか、「うたふ」とか、そういう形があるわけです。「うたふ」の「うた」というのは、人類が普遍的にもっている文化だと考えなければいけない。 基本的に、文字がない段階でも「うた」というもの、「かたり」というもので、私たちは物語を ひきついだり、歌をひきついだりするし、歌でしか伝えられないメッセージも、おそらくあるでしょう。

たとえば、「万葉集は4516首、20巻ありまして、第一期は額田王、第二期は柿本人麻呂、第三期は山部赤人、第四期は大伴家持です」と教えていくのも良いのですが、もっと広くみわたした とき、歌というのも私たちが基本的にもっている文化だという認識がまず必要です。私たちは基本的に古典を「学ぶ」といいますが、実は古典に「支配されている」側面もあります。でも、古典というのは、私たちの体の中に入っていて、ものを考えたり、言葉をくりだすときに、私たちの体に入っているのがふっと出る。たとえば、「息子は医者になりたいと言ってるけれど、点数が足りない。たまたま息子が受ける大学の理事長と今日は会食だ」というときに、「瓜田(かで ん)に履(くつ)を納れず」「李下に冠を正さず」という言葉を知っていれば、瓜畑で靴をなおすと疑われるからそういうことをしない、スモモがなっているところで冠を正すと泥棒と間違 われるからそういうことをしない、という風に、その言葉があれば防げたこともあるかもしれない。古典によって支配されているところは当然あるわけです。別に時事ネタでも何でもないです。「これから取締役会を開きます。緊急動議があります。会長を解任したいと思います」と言われたときに、横にいた人がふと漏らした言葉が「敵は本能寺にあり、ですか」ならば、目の前で起 きていることを歴史的事実と重ね合わせて理解しているということになる。あるいは「会長解任」といったとき、「ブルータスお前もか」といえば、これもまた一種の歴史的な事実を重ね合わせ て理解していることになる。また、「彼はしばらく捕まることになる」というときに(ここからちょっと高度になりますよ)彼はしばらく「須磨明石に行かなければならぬ」となる。『源氏物語』ですね。というふうに、私たちは古典によって、目の前で起きていることを整理して理解しているということがあるわけです。それが古典を学ぶということなのです。

たとえば私自身、19歳からこういう勉強をはじめて、いま 58歳ですから、それくらいのキャリアがあるとして、みんなは「上野先生は4516首覚えている」とかいいますけど、ぜったい噓で す。1割もいけてない。ただ、頭の中にはさまざまなフレーズがあります。シェイクスピアの勉強をしている人はシェイクスピアのフレーズが頭の中にある。そういう物語を通じて理解している側面があるわけです。私たちは生まれる場所も、どんな両親から生まれるかも選べない。ところがその土地に生まれたときから、父親・母親の言語を通じて、そういうものを注入されて大 人になっていくわけですから、古典を学ぶといっても難しく考えたくはないのです。

8世紀中葉に編集された『万葉集』を読めば、4516首の歌がもっている言葉を通じて、当時の人のものの考え方がわかる。考えなければいけないのは、この段階ですでに五音句、七音句に言葉を整えていたこと。五音句、七音句にすれば、覚えやすいし、歌らしく聞こえる。「この土手にのぼるべからず警視庁」「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」。五音句、七音句で歌をつくる ことは、8世紀にはほぼ定着していた。おそらく万葉集ができたころには、100 年くらいこういうことがすでに行われていた。この伝統をひきついでいるわけです。古典の和歌に親しむという ことには、自分たちの言葉を支えているものを見直すという側面が当然あるわけです。歌にはもうひとつ違うメッセージがある。言葉とは違うメッセージを込める技術をもっている。マイクがない時代の名残ですが、国会で1年生議員が議事進行係をやる。「ぎちょ――――、本日は散会とし、あす10 時より本会議を開催することを提案しま――――す」とやると、「こういう風にのばすのか」と、国会のひとつの伝統が生まれてくるし、そういうものが守られているのを確認することができる。こんどの議事進行係はどう言うかを楽しみにするわけです。おなじ歌でも、どの歌手で聴くのかで違う。歌でしか込められないところがある。

たとえば、今日の後半のネタなんやけど、ひとついうと、中学校のときに好きな女の子がいて、その人がシェイクスピア劇をやるというので観に行った。『ロミオとジュリエット』の最初に序詩を読む。中野好夫さんという英文学者の訳で、いまだに好きな人が語ったものは忘れられない。 「舞台も花のヴェロナにて、/いずれ劣らぬ名門の/両家にからむ宿怨(しゅくえん)を/今また新たに不祥沙汰(ふしょうざた)。/仇(あだ)と仇との親よりも/生い出(で)し花や、呪(のろ)われの/恋の若人、あわれにも/その死に償う両家の不和。/宿世(すくせ)つたなき恋の果て、/愛児の非業(ひごう)に迷いさめ、/今は怒りも解けしちょう、/仔細(しさい) はここに、二時(ふたとき)を、/足らわぬ節(ふし)は大車輪/勤めますれば、御清覧、伏して願い奉(たてまつ)る。」と訳してあるわけです。よく考えたら五音句、七音句なわけです。 ずっと聞いていると歌舞伎のセリフのようにも聞こえてくる。五音句、七音句でどう区切るかのいちばん古いものは万葉集ですが、その万葉集でいろんな実験をやっている。それが体の中で、 血となり肉となっていくわけです。

●口立てで学ぶ

「かたる」とか「はなす」とか「うたふ」とか、こういうものを考えていくわけですが、基本的 に歌というのは長い間、口から耳へ、さらにそれが口から耳へ、というふうにリレーしていって いる。そのために私たちは五音句、七音句という区切りを使って、リズムで歌を歌いついでゆくという文化をもっている。そこで、今日は、最初はえんぴつを置いて、口立てで教えていきます。 文字を媒介とせず、口立てで。この前、桂ざこば師匠と話す機会がありましたが、こうおっしゃった。「上野さん、私は今でも弟子に録音は許さない。書いたもので覚えることも許さない。自分が語ったものを聞いて覚えさせる」。口から耳へというふうなものを大切にしようとおっしゃった。それやったら、ほぼ日の万葉集講座も、口立てでいこうと思ったわけです。みなさん、書かずに耳だけで聞いてください。何度も繰り返しますから、諳んじてください。31文字ですから、5分もあればできます。

君が行く海辺の宿に霧立たば
我(あ)が立ち嘆く息と知りませ
我が立ち嘆く息と知りませ

末尾句は繰り返しが鉄則です。みなさんだんだん歌いたくなってきたでしょ。(繰り返し)いいですね。最後の句を2回読んだら体操のときにピタッと決まったような感じがするじゃないですか。実は、この古典教育法がいつまで続いたかというと、明治まで。明治までの古典の教科書 はいわゆる版本ですので、字が大きい。みんなで読むために字が大きい。どんなふうに教えていたかというと、最初は大先生が来る前に句読点を教える「句読師(くとうし)」という助手みたいな人がいる。「ここで区切るんですよ」と教える。昔の人が教えるのに使った万葉集をみると、切るところに赤で点がはいっています。最初に先生が「ここで切るんです」と教える。みんなが、それが言えるようになってから、偉い大先生が出てきて内容を講釈してくれる。これが、たとえば中国でも、7世紀とか8世紀の段階では巻物だから、「今日はここまで勉強するぞ」といって巻物を開く。それで、午前中みんなで口で言えるようにして、午後から勉強する。ということは、 みんな、いわゆる「口立て」で教えて、あとから文字がついてきた。

ところが、ある段階から、多くの人が古典を読めるようにするために、教室で授業をし、かつ試 験をしなきゃいけないということになる。試験の内容は、人より速く、人より正確に読むこと。 そのために、「せ、まる、き、し、しか、まる」と活用をやるわけです。これでもう古典がいやになっちゃう。そのあとみなさん、どこかで役に立ちましたか? これちょっと聞いてみたい (笑)。「せ、まる、き、し、しか、まる」、どこかで役に立ちましたか? 「ぞ、なむ、や、か、 連体形、こそ、已然形」、どこかで役に立ちましたか。ないでしょ?

つまり大切なのは、いろんな古典の物語やフレーズが頭の中に入っていて、あるときにふっと、「いや、いけない。こんなときに会食をしたら、『瓜田に履を納れず』だ」と考える。だから、近代の古典の勉強法は間違っていたと思わなければいけないですよ。たとえば、助動詞。断定の 「なり」と、伝聞・推定の「なり」とを分けなきゃいかんと。「なり」のところに傍線がついていて、断定と伝聞のどちらかと試験している。こういうのは間違っている。その知識が何かで生きることはないと思うんです。だから、僕は学生に言うときは、「そういう難しいことは、ウィキペディアで勉強しなさい」と言うことにしているんです。たとえば、〈君が行く海辺の宿に霧 立たば我が立ち嘆く息と知りませ〉。今日、この歌をみなさんには口立てで話しましたよね。そうしたら、家に帰って〈君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ〉と言う。そこからまた広がっていく、もともとそういう性格のものですよ。そこに知識が注入されて、意味がわかると、またおもしろみが加わってくる。だから、最初は口立てでいいんです。

〈君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ〉。〈君が行く〉と言った場合、「君」は基本的には女性が男性に対して呼びかける言葉だから、女性が男性に対して「あなた」と言っているんだな。これがわかっただけで、スッと高みに立った感じがするでしょ? 〈君が行く海 辺の宿に〉、これはそのままです。〈海辺の宿に霧立たば〉、現代でも文語的言い方は〈霧立たば〉、「霧が立ったならば」です。〈我が立ち嘆く〉、これが実は古代語の一人称には、「わ」という言 い方と「あ」という言い方があって、これに「が」がついた「わが」と「あが」があるわけです。 「わが」のほうは現在まで残っていますね。それに対して「あが」は残っていないけど、〈我が立ち嘆く〉というふうに言ったら、これは「私が立ち嘆いている」とわかりますよね。〈息と知りませ〉。そこのところで、助動詞がわかれば、「息と知ってくださいね」ということになるわけ です。訳をつけると、「あなたが行く海辺の宿でもし霧が立ったならば、私が立ち嘆いている息だと思って、私のことを思い出してくださいね」となります。

さらに、この歌は『万葉集』の巻15に出てくる歌なんですよ、と。巻15の前半のところはどういう歌かというと、このところが問題なんですが、唐に行く人は遣唐使、新羅に行く人は遣新羅使、百済に行く人は遣百済使。これは遣新羅使、新羅の国に行く。そうするとこの歌は、〈君 が行く海辺の宿に霧立たば〉というのは、女の人は都で旦那さんを待っていて、旦那さんを送り出すときに、「あなたが行く海辺の宿でもし霧が立ったならば、私がこの都で嘆いている息があ なたの行く港で霧として立ち上がっていると思って、私のことを思い出してください」と言って いる。いい歌でしょう?

●古典を身につける

結局、口立てで勉強してそれが言えるようになり、そこに、「あ、これは『万葉集』の巻15 だ。 新羅の国に行くときの歌だ」と知識が加わる。もっと話を深くしていけば、このとき新羅と日本 との外交関係は最悪なんです。決して時事ネタじゃないですよ(笑)。最悪で、新羅の国の都に入れてもらえなかった。しかも、北部九州全域に天然痘が流行しているところに都から使節団が行って、そこで天然痘になって多くの使者たちが死んでいく。そういう物語がついてくると、〈君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ〉というのが、どんどん体に染みわたってくるじゃないですか。そうすると、あなたが行くパリのシャルル・ド・ゴール空港で、でもいいですよ、もし霧が立ったならば、東京で嘆いている私の息だと思って私のことを思い出してくださいね。こんな手紙もらってみたいですね。だから、私たちは、それがふっと出てきて応用でき たときに、初めて古典が自分の身についたと考えていいと僕は思うんですね。

ここからは業界ネタね。ある有名な先生がいて、この先生は、乾杯が終わって懇親会が始まってしばらくすると、「お先に失礼するよ」と言うわけです。先生は僕の顔を見て、〈憶良らは〉って 言うんです。そうすると私は、〈今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむそ〉と返すわ けです。これは山上憶良の歌で、〈憶良らは〉、「さあ、ここでお先に失礼申し上げます」と言う わけです。70 歳近い山上憶良に乳飲み子がいるはずはないんだが(笑)、〈憶良らは今は罷らむ子泣くらむ〉、「子どもが泣いております、だから帰ります」。〈それその母も我を待つらむそ〉、 「実はその母親も私を待っているので」、と。すると私は、「先生、大丈夫でございます。すでに タクシーは待たせております」と言うわけ。すると、ここからが重要ですよ。「上野君、今日はいい学会になった。ありがとうね。ちょっと少ないけれども、二次会の足しにしてくれ」といって封筒に入ったものをくださる。〈憶良らは〉って言ったとたんに、〈今は罷らむ〉と出てくるわけですよ。

歌舞伎が好きな人だったら、お蕎麦屋さんに入る。全然お蕎麦が出てこない。もう 20分も25分も待たされて……。もしも歌舞伎が好きだったら、「由良之助はまだか。由良之助はまだか。力弥、力弥」って言うと思うんですよ。つまりね、そういうのが本当の古典の勉強法なのね。自分自身、いろんなことを今まで学んできたけれども、今いうメッセージはこれです。次の画面は万葉仮名です。

君之由久 海辺乃夜杼尓 奇里多々婆 安我多知奈気久 伊伎等之理麻勢
(『万葉集』巻15の3580)

平仮名がないから〈君が行く〉ってこのところは、必ず「久」。「わが」じゃないよ、「あが」だ よといって、「安我」。〈息と知りませ〉の「勢」までちゃんと送って、これを伝えてくれているわけです。すると、これを読むことによって、天平8年の遣新羅使というのは一番苦労した、新羅に行った人たちで、こういう歌が交わされていたのかと知るだけでうれしくなるじゃないで すか。〈君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ〉。そうすると、一部に傍線をつけて読めるようにするのも大切なんだけど、ここのところは確定条件かどうかっていうのをするのも大切なんだけど、訳がついていたら、それをする必要ないじゃないですか。

どんな古典研究でもそうなんですけど、原文がどういうふうに成り立っているのかというと、みんな書き写してますから、写本間で違いがあるわけね。「写本間異同」というのがある。また、 原文をなんとかして復元をするという仕事もあって、これだけに一生を捧げる学者もいます。だから、そういう先生は、「歌のことはわかりません。写本のことしかわかりません」と言っても、 それはそれで美しい人生。

それ歌をさっきの書き下し文にして、語の一句一句を注釈していかんといけない。例えば、「わが」に対して「あが」があるよと。「君」と言ったらどういうもので、と。で、その語が集まって句を構成しているから、句と句がどういう関係にあるかというのを次に見る必要は当然ある わけ。そして、句を組み合わせてどういうふうに表現しているのか。〈君が行く海辺の宿に……〉 ってこういう、この場合の「宿」と言ったら、おそらく泊まるとこなんだなあと考えて、表現が どういうふうに成り立っているかを解釈して、みんながわかるようにする。おもしろいことにね、学者の中で語釈がすごく得意な人がいるけど、この人が歌がよく読めるかというと、必ずしもそ うではない。それぞれ得意分野があります。

解釈の次に、作歌事情。これは、天平8年に歌われた歌というようなことがわかれば、さらにおもしろくなる。また、歌は順番に並んでいますから、どういうふうに並んでいるか、これを国文学の言葉で「配列」といいます。作者はどういう人なんだろう。この歌の場合、作者はわかりま せん。さらに、われわれはどういうことを考えるかというと、なんでこういう歌が伝わっている のかを考える。誰かがメモをして残したのかなあ、なんてことを考える。伝来過程の推定をする。 さらには、この歌がどういうふうに受け入れられたのか、「享受」という言葉で表していくわけです。

●歌の世界を知りたいと思った

私、本当は史学科に行きたかったんやけども、点数が足りずに国文学へ行ったわけです。そのときに、ある講座で、犬養孝という先生、「♪君が~~~ゆく〜〜〜〜」って歌う先生です。若い頃はあの朗々としたのがあまり好きじゃなかったけども、〈君が行く海辺の宿に霧立たば我が立 ち嘆く息と知りませ〉と出たときに、「ああ、いい歌だなあ」と思った。そういう歌の世界を知 りたいと思ったわけです。

最初は、歌の勉強というけれども、ほぼ日でやる勉強は、「せ、まる、き、し、しか、まる」じゃない。語句解釈でもないんです。それはおそらく、その講師その講師が語っていく中で、その歌の世界を再生していく。僕には僕の語りがある。岡野(弘彦)先生には岡野先生の語りの世界がある。永田和宏先生には永田先生の憶良に対する思いがそこに込められています。ピーター・ マクミランさんだったら、英語で訳すためにどんな苦労があるのかという話になります。だから、 それぞれの人が、それぞれの語りで古典を再生させていく。これは『源氏物語』でもそうです。 谷崎潤一郎先生の『源氏物語』、瀬戸内寂聴先生の『源氏物語』、それぞれ味わいがあります。

●シェイクスピアと万葉集のコラボレーション

今日は、僕のたっての願いを聞いてもらいました。こういう講座でしか、英文学の先生と国文学の先生が並んで話をするってことはないのよ。シェイクスピアも言葉の世界です。河野先生がおっしゃるには、「実は能よりも狂言にやや近い」。私も実は『万葉集』の語りという歌で語ってい くのは、少し狂言に近いかなと思っているところがありまして、後半、東京大学大学院の河合祥 一郎先生と一緒にお話ししたいと思います。河合先生、よろしくお願いします。

上野 : いきなりですが、私が初恋の人の舞台で覚えた中野好夫先生の訳は、5・7・5になって いた。あれは、中野先生のオリジナルですか。
河合 : いや、もともと原文がソネット形式といって弱強5歩格で、なおかつ14行詩と呼ばれる もので、1連、2連、3連と4行ずつ3回繰り返されて、最後に2行連句という構造なんですね。 1連が互い違いに韻を踏む。なので、A・B、A・B という韻を踏み、C・D、C・D と韻を踏み、E・F、E・F と韻を踏んで最後に G・G と2行連句になっている。なので、そもそも14行で書 かれたプロローグ、序詩が詩なんですね。なので、どうやってその詩を日本語に翻訳しようかというと、大抵みなさん翻訳家は日本語のリズムを持ってこようとする。すると、日本語のリズム はやっぱり5・7・5。
上野 : 私が読んだ訳ではなく、ちょっと新しい訳を。
河合 : はい、じゃ、私の訳を披露します。こんなふうに訳しました。

花の都のヴェローナに
肩を並べる名門二つ、
古き恨みが今またはじけ、
町を巻き込み血染めの喧嘩。
敵(かたき)同士の親を持つ、
不幸な星の恋人たち、
哀れ悲惨な死を遂げて、
親の争いを葬ります。
これよりご覧に入れますは、
死相の浮かんだ恋の道行き、
そしてまた、子供らの死をもって
ようやく収まる両家の恨み。
二時間ほどのご清聴頂けますれば、
役者一同、力の限りに務めます。

上野 : ということは「口上」なんだ!
河合 : 「口上」です。お芝居の最初に、「これから2時間ですよ」と宣言しているんですが、実際 上演すると、大抵3時間(笑)かかるので、どうやって2時間にまとめるか……。
上野 : 僕の恋人、いや恋人になれなかった(笑)人が読んだのは、〈舞台も花のヴェロナにて、 /いずれ劣らぬ名門の/両家にからむ宿怨を/今また新たに不祥沙汰。/仇と仇との親よりも /生い出し花や、呪われの……〉という。先生のも、ずいぶん言葉は新しくなっていますが、そ れなりにその五音句、七音句ですね。
河合 : なっています。最初のほうはとくに。後半で、これから2時間の芝居ですよというメッセ ージを届けるときには、少し外していますけれども、基本5・7・5ですね。

上野 : こういう訳文を作るとき、もともと自分たちが持っていた言葉のリズムとか、そういうものを大切にして訳そうというのは、シェイクスピアを受け入れたそれぞれの国ではよくやるこ となんですか。
河合 : そうだと思います。とくに西洋系の言葉には、この弱強のリズムがそのまま入れられます ので、そのまま詩としてできるわけです。ただ日本語の場合には、こういう5・7・5みたいに、 ひとつひとつの言葉に母音がついてしまうとまったく違うリズムになってしまう。なので、私の みならず、松岡和子先生も小田島雄志先生も、わりとこの5・7・5の形でやっておられます。
上野 : 今、先生がおっしゃったんですけど、日本語は、「あ、い、う、え、お、か、き、く、け、 こ」ですが、1拍が母音だけで構成されているものと子音プラス母音で構成されているものがあって、1拍が同じ拍なんですね。だから、これを区切ることでリズムがついちゃう。ところが、「t」とか、さまざまな音が子音で終わるような言語では、なかなかうまくいかないので、五音句、七音句に区切るというのはあって、私、中野さんので読んでいると、だんだん義太夫みたいに読めてくるんですよね。そういうのは、おそらく中野さん自身にしみ込んだ何か……
河合 : あると思います。その当時のお芝居、そもそもたとえば坪内逍遙はシェイクスピアを最初に翻訳するとき歌舞伎の言葉で翻訳した。というのは、その当時のお芝居は歌舞伎だったから。 だけど、時代が経つうちに演劇も新しくなって、坪内さんも訳し直した。そういうことがありますので、多分、中野先生ご自身も、お芝居とはこういうものだという、今お読みになったような 調子でやるのが一番お芝居らしいと思ったのでしょう。
上野 : ちなみに、これを舞台で彼女が読むわけです。そのときに、後ろで鳴っていた音楽は、一定の年齢以上の人にしかわからないと思いますが、オリヴィア・ハッセーが出ていた、あの映画の曲なんですよ。ですから、私にとってはあの映画音楽とこれが一緒になって頭の中に入っている。ですから、ある意味で言葉を翻訳していく中で、自分たちの言葉に直したらどういうふうにしっくりくるかというのは、やっぱりそのときそのときの状況によるんでしょうね。
河合 : そのときの文化がどういう文化かということだと思いますね。私は中野先生が生きていた 文化よりは少し歌舞伎から離れたところにいると思うので、少しわかりやすい言葉になってい ると思うんです。
上野 : 学生さんとお蕎麦を食べに行って、お蕎麦が出てこないときに、「由良之助はまだか」なんていう学生さんはいません(笑)。しかも、歌舞伎を観たことある人に手を挙げさせて、「いつ見たの?」と聞くと、「チャンネル切り替えるときにちょっと」とか、そういう人でしょう? そうすると、その人たちにはしっくりこないわけですよね。
河合 : こないですね。
上野 : そうすると、若い人には古臭く思えてしまうかもしれない。
河合 : そのとおりです。だから、私は若い俳優さんの卵に期待するんです。若者は、「シェイク スピアってなんでこんなに台詞長いの?」とか、詩の言葉ですから、「こんな言葉遣いしない」っていうふうにまず思うんですね。「シェイクスピアは古臭い」というイメージがとくにあると 思います。これは決して悪口ではないのですが、平田オリザさん。私の友達なので悪口ではありませんが(笑)、平田オリザさんの『演劇入門』という本を読みますと、いかにリアルな、日常的な台詞を舞台の上で言うかが演劇として重要だと書いてある。昔だったら「花の都のヴェロー ナに」ってやっていたわけですが、新しい演劇としては岸田國士だと「え、何?」みたいな会話 が出てくる。で、テーマもなんだかよくわからないまま終わってしまう。そういうお芝居が出た ときに、平田オリザは、「日本の演劇もここまで成長した」と。なので、自分もそういう形でリアルな現代の日常の日本語で話しているものをやりたいと。

●一生、上野節

上野 : 私、みなさんに今日は最初、「メモ取るのをやめてください。口立てでいきましょう。耳 で聞いて覚えてください」と言いました。最初に入った『万葉集』の口調って、残念なことにみ なさん、一生抜けません(笑)。一生、上野節。実を言うと僕ね、ラジオなんかで朗読をときど きすると、電話がかかってきて、「上野先生って桜井満先生の弟子ですか」。「なんでわかりまし た?」って言うと、「先生の読み方そっくりです」。僕はそれがいやなんですが、そうらしい。河合先生は本場のイギリスの役者さんたちの舞台を観ていらっしゃいますが、やっぱりその一座 一座の台詞回しの癖とか型みたいなのがあるんですか。

河合 : いえ、これが面白いことに、ないんです。つまり、シェイクスピアの原文は、ある種、教 科書のようにきれいに音楽になっている。「ここは高いです、低いです」と決まっている。なの で、上手な人が読めば、ほとんどみな同じように聞こえるんです。
上野 : すごいですねえ。よくイギリスの議会なんかで、シェイクスピアの一文を引用しながら質 問したりすることありますよね。ああいうのも大体それに則った感じで?
河合 : いや、そこまでは。
上野 : それでも、イントネーションの感じはそんな感じで?
河合 : ああ、そういうことだと、そうですね。
上野 : 午後2時ぐらいの学生なんてね、気を抜いたら3分の2ぐらいまで寝ています。それをいかに起こすかなんですが、よく僕、「やっぱり読みの中で伝わっていくものがあるよね。その集団の中で伝わっていくものがあるよね」っていうときに、「宝塚バージョン」とかやるんです。 そういう感じでいくんですよ。「君が行く、海辺の宿に〜」。それって口承の文化というか……。 だから、今日最初に先生と話したかったのは何かというと、基本的に僕らは書いたもので勉強す るので「書承」なんですが、「口承」だってありますよね。そういうことでいうと、シェイクスピアのトレーニング法は確固としたものがあるんでしょうね。あれだけきれいにみんなが同じ ように役者が読めるというのは。

河合 : それがおもしろいのは、現代のシェイクスピアの演技のやり方と、シェイクスピアの当時 の演技のやり方が違っていて、当時は、今、上野先生がおっしゃったような、ある種の口承的な音として伝えるということをやる。というのは、そもそもシェイクスピアの時代は、台本を配って稽古をするということをしなかったわけなんですね。
上野 : 台本を配って稽古することがない?
河合 : しない。じゃ、どうやって稽古するかというと、ほぼ日のシェイクスピア講座で一度やっ たんですけど、「ロール」を渡す。その人の台詞だけが書いてある部分だけを渡して、ほかの人 の台詞は聞いてくださいねという形になりますので、きっかけだけが書いてある。相手の台詞で きっかけが来たら、「あ、次、私の台詞だ」といって、覚えていた台詞を言う。なので、聞いて、 あとは自分の覚えていた台詞を言うという形でシェイクスピアの当時はお芝居をしていた。台本がないために、どういうふうに展開していくのか、どういうふうに終わるのか、わからないまま舞台の上に立つ、最初は。再演になればわかりますけど。というので、本当によく聞いて、そして、それを舞台の上でお客さんも耳で聞く。お客さんも今のように、台本を買って読んで観に 来る人はいませんから、全部、耳学問。というか、当時のお客さんは、貴族でなければ、文字が読めない人がほとんどでしたので、とにかく耳で聞きます。そういうのが当時の演劇でした。だから、お話を聞きながら、本当にシェイクスピアと同じだなと思いました。

上野 : 8世紀半ばの日本だと、文字の普及率は低いです。平仮名が普及することによって、女性 が文字を知って文字の普及率は上がるんですね。これが『源氏物語』の成立までいくんですが、 万葉仮名の場合は、漢字を覚えて、その音と訓とを交えながら書いていきます。この場合、最初は、おそらくテキストはあっても、テキストと一緒にそのテキストを読んでくれる人がついてくるんですね。たとえば『古事記』がその典型例ですが、テキストはあります。稗田阿礼が読むと、 そのテキストがみんなにわかるように聞こえます。でも、ほかの人が見たら、声に出すことさえなかなか難しい。だから、テキストと人とが一緒になって来るんですね。そうすると、問題になったのは、稗田阿礼が死んだらどうなる、というので、結局これが太安万侶が誰にでも読める『古事記』を編纂するきっかけになるんです。ということは、8世紀の前半段階では、書物といえども、その書物を読むことを職業にしている人がいると、そういうことだった。

●万葉仮名についての質問

河合 : 万葉仮名のことをよく知らないので、質問してもいいですか。先ほど見せていただいたときに、〈君が行く海辺の宿に霧立たば〉の「ば」という漢字が、お婆さんの婆。私は実は高校時 代に変な教師がいて、『伊勢物語』とかこういう古い漢字で当てたのを読まされたんですね。そうすると、「は」ってたとえば「波」とかほかにもあるのに、お婆さんが出てくるのは何か歌の内容と関わりがあったりするんですか。
上野 : 私よく学生に言うんですけど、質問するときは、教師がわかりやすい質問をしなさい、と。 教師が答えにくい質問をした人は減点(笑)。あのね、これすごいことなんですけど、その漢字の意味を捨てちゃって音だけを取るんです。だから、この場合は、お婆さんが出てきても、お婆さんを思い浮かべちゃダメ。万葉仮名の鉄則です。ところが、われわれが見たら、〈霧立たば〉 の「き」は奇妙奇天烈の奇だし、「り」は離れて。ところが、今度逆にそれを逆手にとって利用 するということがあるんですよ。……よかった、答えられる質問で(笑)。これは、僕ら大学1年生とかに、「『万葉集』では、すべてではないけど、こういう書き方をするんだよ」というふう に教えるわけですよ。「恋」はね、孤独の孤に悲しむ。「人は恋をすると、一人になると悲しくな っちゃうだろう? 一人になると悲しくなっちゃうのが恋なんだよ」というふうに、教えるわけです。すると、「意味は関係ない。絶対お婆さんは思い出すな」と言ってても、この場合は、恋 は一人になると悲しい、ということですから……
河合 : ずるいですね(笑)。
上野 : ずるいともいえるし、いい加減ともいえる。河合先生も留学生を教えていて、ひとつの漢字にいろんな音があって、なおかつ、それを使い分けるなんて、そんな合理的じゃないでしょう。 これは簡単に言うと、漢字文化圏の辺境で起きることなんですね。つまり漢字の中心のところで、 そういうことは起きない。中心からずーっと離れていって、シルクロードの西域と、海東=海の東と書いて海東という朝鮮半島や日本では、漢字の使い方が自由になるといえば自由になる。いい加減といえばいい加減になる。自分たちに都合のいいように使っていくわけですね。そうすると、あるところは意味でとらなきゃいけない。あるところは助詞でとらなきゃいけない。これが ね、途中でわからなくなったりするわけです(笑)。これがまた解釈上の問題になってしまって、 『古事記』の序文(712 年)には、全部をこのタイプの万葉仮名で書いちゃうと、長くなって大変だと。これを〈君行〉と漢文で書いたら、意味はわかるけど、自分たちの言葉じゃないから情の部分が伝わらない。だから、漢文でも万葉仮名でも書ける。ときにそれを混用するというふう に、一生懸命やりながら、ようやく到達したのが今の漢字仮名交じり文で、基本的に固有名詞はなるべく漢字を使って、助詞は平仮名、片仮名でつくるというところに収まってきたわけですが、 もしも平仮名、片仮名が発明されていなければ、どうなったかというと、万葉仮名しかなかった わけですよね。

河合 : もう一つだけ、万葉仮名を教えていただけますか。最後の〈息と知りませ〉の「勢」。私 たちが今書く平仮名の「せ」は、世の中の「世」から来たと思うんですが、すごく難しい、画数 の多い漢字を使って、なんで簡単な漢字をあてなかったのでしょう。
上野 : そういうふうに漢字が整理されてくる前だからです。ある集団ではこの字が優勢、ある集 団ではこの字が優勢、というのがおそらくあったと思うし、人によっても書き癖というのがあり ますので、私はこれを使う。ところが、だんだんと文字が社会に定着してくると、そういうもの の使い方が、大体この字にしましょうねって決まってきて、それを崩したのが平仮名というよう になった。
河合 : ということは、たとえば「せ」は「勢」をあてるとなんとなく共有している共同体みたい なものがあって、たとえばこんな手紙をもらったらすごくうれしいといったときに、書いている 人ともらう人がある種、「せ」はこれをあてるよね、みたいな共通認識を持っていたと考えても いいですか。
上野 : 『万葉集』の巻5は、まさにそういうやりとりを前提としています。ですから、『万葉集』 巻5というのは基本的には、大伴旅人のところに集まってきた書簡が一括して大伴家持のとこ ろに相続されて、それを見ながら大伴家持が勉強している。一方で、山上憶良の手元にあったも のもあって、それと字の使い方が違っていたり一緒になっていたりするので、やっぱり、漢字を めぐる悪戦苦闘の歴史ですね。一方で、じゃ、なんでこういうふうに読めるのかといえば、基本的に五音句、七音句だからです。これやっぱり〈君が行く〉っていうふうに五音で区切るだの、 七音で区切るだの。
河合 : ということは、当時これを受け取った人は、「何だろう、これ」って考えながら、「えーと、 五音だから」みたいにして考えた?
上野 : だから、ここは歌だよね、と、おそらくそこに点を打ったりした。書くものがないときは 爪で区切りをつけた。かつての電報だって、区切りがわからないと、どう読むかわからなかった。 西郷隆盛のサイゴウドン。最後の締めはお蕎麦になさいますか、うどんですか? サイゴ、ウド ン(笑)。もうひとつは濁音か清音か。濁音か清音かで意味が分かれてしまうものはどうするの か? 漢字をめぐる悪戦苦闘でした。シェイクスピアも、綴りが我々の考えているものと違うん ですか?
河合 : そうなんです。だから、非常に似通った部分があります。というのは、シェイクスピアの 時代はまだ英語の辞書がない時代。言葉が「生まれていた」時代なんですね。なので、シェイクスピアが書いたものを今の私たちが読んでも難しいんですけど、当時の人も、わかったのかなと 思います。ラテン語から入れてきた言葉を使っていたり、いろんなことをしてますので。その勢 い、リズムで朗々と歌い上げるので、その感情がなんとなく伝わるけれど、細かな語釈させると、 よくわからないというのが多々あったと思います。『ヘンリー五世』をやるので、その勉強会で お話ししてきたんですけど、松坂桃李さんが主演する『ヘンリー五世』というお芝居は、さまざまな人々が登場して、スコットランド訛り、ウェールズ訛り、アイルランド訛り、果てはフランス語まで出てきてしまって、聞いているお客さんは多分、わからないところが多々あったと思わ れるんですね。でも、それがなんとなく勢いの中で、「あ、国王万歳だ」とわかるのでお芝居としては成立する。シェイクスピアは、そういうわからない部分をあえて入れているのかと思うんです。
上野 : 歌舞伎だって、最初に行ったときは、何を言ってるか、どういうストーリーかもわからな いけれども、たとえばおばさんに連れて行ってもらって、「ここがいいところなのよ」とか言い ながら説明してくれる。それで何回か観ているうちに、今度は観る人が語り手に変わっていくと いうことがあると思うので、広く言えば、耳から口へ、そして、さらに耳から口へといって、そ の古典にはたとえばラテン語の古典、ギリシャ語の古典、さまざまなものができる。古典という のは古典の集成なので、そのエキスの一部をわれわれ、シェイクスピアならシェイクスピア、『万葉集』だって実をいうと『文選(もんぜん)』という中国の古典から学んでいますので、中国文 学の注入があるわけです。だから、『万葉集』って一番日本的なものであると同時に中国的なも のでもあるのです。さて、後半はスペシャルですよ。これもう最高。実を言うと、私が「恋」と いうお題、人間が死ぬ「死」というお題、そして「人生」というお題を出して、河合先生に対応 するシェイクスピアのフレーズを出してもらった。それを見て僕が『万葉集』の呼応するやつを 合わせて、コラボしましょうという、世界でここにしかない授業です。

(休憩)

● 〝柿本人麻呂〟と〝シェイクスピア〟の対話

上野 : シェイクスピアは死んだ人なので蘇らせることはできないし、柿本人麻呂も蘇らせること はできませんが、もしここで時空を超えて対談ができるなら、うれしいじゃないですか。私が人麻呂で、河合先生がシェイクスピアだったら、どういうふうに答えられるか。今回、お題を決め て、私自身、訳文を新規に作ったんですけど、新規に作った訳文が、河合先生と話せば話すほど、 だんだんシェイクスピアに似てきたので、シェイクスピアの訳文みたいになっちゃった。これはね、おもしろいところで、最初のテーマは何でしたっけ。

河合 : 「恋」。
上野 : 先生が選んでくださったのを、どうぞ。
河合 : 英語からいってみましょうか。それぞれが iambic pentameter、弱強5歩格で、しかも、mind、blind でライムして(韻を踏んで)いる2行連句です。弱強5歩格のリズムをお楽しみく ださい。シェイクスピアのリズムはこんな感じです。

Love looks not with the eyes but with the mind.
And therefore is winged Cupid painted blind.
(『夏の夜の夢』第1幕第1場より)

このリズムと韻というのがある種のメロディとなっています。これを日本語にしてしまうと、す べてが損なわれます。なので意味だけです。語釈ですね。こうです。

恋は目で見ず、心で見る。だから、キューピッドは目隠しして描かれる。

歌じゃなくなっちゃいましたね。原文は音で伝える歌だった。このシェイクスピアは、日本語にする前はそうでした。

上野 : 一番贅沢な方法は、英語で言えるようになって、そして訳文を見て、なおかつそれをたと えば永田和宏先生がさらにこれを歌にするとかね、というんだったら、もっと贅沢ですよね。
河合 : そうですね。
上野 : 〈恋は目で見ず、心で見る。だから、キューピッドは目隠しして描かれる〉。これはどうい うフレーズですか?
河合 : 『夏の夜の夢』というお芝居の中で、ヘレナという人が言う台詞ですけれど、どうして私は好かれないのかしら。ハーミアという仲良しのお友達だけがいい彼氏を作って、これから駆け 落ちするとか言ってて、私は、好きなディミートリアスって男がいて、一回結婚してくれると言ったのに、全然私のことを向いてくれない。どうしてなんだろうと考えたときに、私、美人のはずなのに、恋は目で見てないんだ、私のことをちゃんと見てないんだ。でも、恋というのは目じ ゃなくて心で見るから、わけのわからないところで、わけのわからない人を好きになったりする。 キューピッドというのは、愛の女神ヴィーナスの息子というふうにギリシャ神話で伝えられているわけですけれども、これが弓矢を射ると、その矢でハートを射られた人は恋に落ちるという 伝説があるわけですが、このキューピッドが目隠しをして矢を射るので、誰のハートに矢が刺さ るかわからないという、そういう伝説があるということを言っている。

上野 : 恋は偶然のもので、しかも病気だというのが『万葉集』の発想で、恋っていいものでも何でもないんです、『万葉集』では。恋をしたというのは病気をしたのと同じ。これをもし、柿本人麻呂なり大伴家持が聞いたら、「ああ、こういう歌がありますよ」と挙げるだろうと私が思ったのは何かというと、ちょっと訳文から先に読みます。

(玉桙の)
あの道にさえ行かなかったら……
無我夢中の
――こんな恋には
出逢わなかったものを(つらい!)
あの道にさえ行かなかったら……

というふうにしたんですよね。これね、学校の古典の試験で書いたら、バツです。バツだけど、 深くやるとこうなるっていうふうに僕が訳したんですが、元の歌は、

玉桙(たまほこ)の
道行かずしあらば
ねもころの
かかる恋には
あはざらましを
(『万葉集』巻 11の2393)

〈かかる恋にはあはざらましを〉。「かかる恋」というのは、「このような」ってことね。だから、 「あのとき、あの道へ行かなかったら、こんな恋には出逢わなかったのに」っていうことなんで すが、これって何ていうのかな、キューピッドが目隠ししてるっていうのと同じで、道でハッと 出逢うというその感覚ですよね。

河合 : そうですね。
上野 : 若いときに読んだ本で、「どれほどと計算できる恋は貧しい」とか。
河合 : そうですね。『アントニーとクレオパトラ』。
上野 : の一節?
河合 : はい。
上野 : 僕は何も知らずにそれを今言った。おそらく『アントニーとクレオパトラ』を私、読んだ ことはないんだけれど、何かに引用されているのが頭に入っていたわけですね。
河合 : そうですね。「どれほどと数えられる愛は小さいものだ」と。ものすごく大きな愛は数え られないというんですね。
上野 : へぇー。やっぱり、どこかにそのフレーズが入っていて、「誰が作った」とか、「『万葉集』 第一期とか第三期」とか、そんなの間違ってもいいんですよ。それよりも、恋ってどんなものっ ていう感覚がわかるとおもしろいと思うんです。さらに、どうですか。これを踏まえて、インス パイアされたものが……。

河合 : そうなんです。この歌を聞いたら、これは多分シェイクスピアのこっちに合うだろうとい うのが『十二夜』で、まず日本語からいってみましょう。これはオリヴィアというお姫様が男の 人を好きになってしまうんですけど、それは実はヴァイオラという女の子が男装してシザーリ オと名前を変えていた。このシザーリオという男の子の格好が、ヴァイオラの双子のお兄さんの セバスチャンそっくりで見分けがつかない。オリヴィア姫はシザーリオが大好きで結婚しよう と思うんだけど、ヴァイオラは女の子だから、「結婚できません」ってずっと言っていたんだけ ど、ついにそっくりな兄のセバスチャンが来たので、めでたし、めでたしで結婚ができたという ときに、何も知らなかったセバスチャンが言う台詞がこれです。

あなたはお間違えになったのですね。
でも、自然は曲がるべくして曲がったのです。
あなたは処女と婚約するところでしたが、
その点でも決して間違ったわけではありません。
あなたは処女同然の童貞と婚約したのですから。

処女というのは自分の双子の妹だった。それを男と間違えて婚約するところだったけれど、私が 出てきてちゃんとできたねっていう、そういう台詞です。これも英語でちょっと見ておきましょ う。

So comes it, lady, you have been mistook.
But nature to her bias drew in that.
You would have been contracted to a maid;
Nor are you therein, by my life, deceived.
You are betrothed both to a maid and man.
(『十二夜』第5幕第1場より)

やはり弱強5歩格の iambic pentameter。でも、今度はライムがありません。ライムがないのを ブランクヴァースといいます。シェイクスピアは、こういうブランクヴァースでずっと芝居を普 通は書きます。だから、さっきの『ロミオとジュリエット』の序詩のようなのは例外中の例外。 台詞として一番自然なのが韻を踏まない。最後の右側を見ていただくと、took とか that とかmaid とか、同じ音でひとつも終わらない、これがブランクヴァースです。英語って弱強のリズ ムが普通で、そして、朗々と話すと5歩格というのが普通になるので、わりと自然に朗々とする と弱強5歩格。そういうのが歌なんだけれども、同時に自然な台詞にも聞こえる。これがシェイ クスピアのおもしろいところです。

●恋に迷うか、迷わないか

上野 : 英語はアクセントなんかが違えば別の単語になっちゃうというのが、英語の持つ特性ですよね。
河合 : そうです。
上野 : 日本語も当然アクセントで意味が分かれることがあるんですが、英語ほどたくさんあるわ けではないし、語源が同じでもアクセントが変わることもありますので、そこまでは厳密ではな いのですが、これなんか、ちょっとその斜めから見て、起こってしまったアクシデントを楽しん でいるようなところがありますね。
河合 : そうですね。この場合は、結局、「神様がいらっしゃる」という発想があって、「人間がど んなに間違いをしていても、結局収まるところに収まるんですよ」という発想がある。当時の結婚は、シェイクスピアの場合、病気とか交通事故とは思わずに、やはり神が用意した当然の結び つきだと考えていたのです。
上野 : 摂理ですね。
河合 : 摂理です。なので、nature という言葉がここでも出てきますけど、「自然」はとても重要 な概念で、自然と運命とか神という概念が一緒くたになって、そういう大きなものの中に私たち 小さな人間がいるという発想があって、これってひょっとすると『万葉集』の中にもあるのでは ないかなと、ちょっと思います。大きな世界を大宇宙=マクロコスモス、小さな宇宙、人間のこ とをミクロコスモスといって、それは呼応しているという考えですね。一番わかりやすい例は、 『リア王』で、「風よ、吹け、嵐を」なんていうふうになるのは、悲しいときに人は涙を流す。 大宇宙も荒れまくって雨が降れば、それは天が悲しんでいる、私の悲しみを表しているのだとい う、大宇宙と小宇宙の呼応を考えるんです。そういう、近代社会にない発想というのは、『万葉 集』にきっとあるんじゃないかなと。
上野 : 基本的に、天と人間を結ぶ人というのがいるんです。それを例えば、すめらみこと(天皇) といったりして、その人にはその声が聞こえるというような発想はあります。ただ、基本的には 多神教社会にはいろんな神様がいます。悪い神様もいるし、人殺しの神様もいるし、人殺しから生まれた神様もいる。多元的で、そういう発想がないわけではない。でも、これを今聞いてたら、 日常会話ではこんな持って回った言い方したら笑われちゃいますよね。
河合 : そうですね。
上野 : そういうことで言うと、それって、みんなが一緒になって作っていく舞台ではこういう台 詞でもクサくないんですよ。ところが、たとえば『古事記』で、「愛(うつく)しき我(あ)が なに妹(も)の命(みこと)」とか、『万葉集』でいえば「吾妹子(わぎもこ=わが妹(いも)で あるところのおまえさん、みたいな言葉。「妹」は恋人)」という言葉がある。でも、たとえば今、 家に帰ってピンポーンと押して、「愛(うつく)しき我(あ)がなに妹(も)の命(みこと)」と 言ったら、「あなた、病気じゃないの?」って言われるじゃないですか。「汝であるところのわが 恋人よ」というような言い方はない。それと同じで、こういう言い方が劇の中で成り立っている ということでいうと、『万葉集』も小さな劇かもしれないですね。それは宴会というところが小 さな劇場で、その中でやりとりをするから、だから、天皇の恋人であっても、「天皇の恋人を私 は好きなんですよ」という歌を歌っても罰せられない。それは宴の中だから。
河合 : つまり、歌を歌うという行為はある種、演技をするような。
上野 : 演技、演技。
河合 : つまり日常的に、「歌書いたから読んで」というような、そういうレベルとはちょっと違 うと。
上野 : そういうのもあるし、宴の歌はやっぱり表現が大げさになって、次の歌など実に万葉的だ と思います。これを私、こういうふうに訳しました。

皆の者よく聞け!
我より後に生まれし人は……
我がごとくに、恋い狂う道に
迷うでないぞ。
けっして、けっして。
(恋の道は、迷いの道)

私はクドい男ですから(笑)、(恋の道は、迷いの道)と括弧を加えました。元の歌は、

我(あ)が後に
生まれむ人は
我がごとく
恋する道に
あひこすなゆめ
(『万葉集』巻11の2375)

私の後に生まれた人は、私のように恋する道で迷うではないぞというふうに、これは未来に対して……。

河合 : 〈ゆめ〉というのは強い否定ですか。
上野 : はい。これは「禁止」です。〈あひこすなゆめ〉は、「こんなことするんじゃないぞ」って いうような意味なので、私は〈けっして、けっして〉と。これは迷いの道なんだよっていうこと ですが、たとえば柿本人麻呂が、「シェイクスピアさんよ、恋というのは迷いの道だと説かれて おりますが、そちらではいかがですか」と問うたら?
河合 : シェイクスピアさんだったら、どう答えるか……。シェイクスピアには、こういう台詞が あります。Love is merely a madness. 「恋とは狂気に過ぎない。恋人は狂人と同じように狂 った部屋に閉じ込めて、鞭を打つべきなのだ」。『お気に召すまま』に出てくるんですけれど、恋 は狂気だとあちこちで書いています。恋人と、頭のおかしくなった人と、詩人、この三者は実は 同じですと『夏の夜の夢』で書いています。
上野 : おそらく人麻呂だったら、「恋は病気だ。狂ってることです」というようなことですよね。 だから、〈迷うでないぞ〉となる。

河合 : でも、シェイクスピアの場合は、〈迷うでないぞ〉じゃなくて、「みんな狂おう」。
上野 : あらー!
河合 : 基本的に、「おかしくなっちゃえ」みたいなところがあるんですね。
上野 : へぇー。
河合 : シェイクスピアの場合は、賢く正しく生きようってしても無駄だよ、と(笑)。どうせ人

間はバカだからって。そして、一番バカなことが、恋に落ちること。「あんたのためなら死んで もいいわ」ってことぐらいバカなことはないわけです。でも、これが一番人間らしい生き方だと。 なので、当時、ヒューマニズム=人文主義と訳してますけど、一番人間らしいのは、おのれの愚かさを知ることだと。というのは、その対極にはやはり神がいるんですね。神が正しい。神は過たない。でも、人間は必ず間違える。恋をするのが一番人間らしい過ちだから、恋してよかった ね、ということになる。

●恋の歌をさらに

上野 : 恋がこれだけメルヘンチックなものになったのは、この 100年ぐらいのことだと僕は思 うんです。ある意味で狂気だったり、病気だったり、興奮するんだけれども、恋をしてしまうという状態がおもしろい。なんか、河合先生と恋談義をするのは気恥ずかしい感じもしますが、この「恋」というお題で次に考えてくださったのは、何でございましょう。
河合 : 「恋」の2に参りますけども、これは『ウィンザーの陽気な女房たち』というお芝居から、 恋についてこういう台詞があります。日本語から参ります。

恋はまことに影法師。追えば追うほど逃げて行く。
こちらが追えば逃げてゆき、こちらが逃げれば追ってくる。

なかなか思うとおりに付き合うことができないのを影法師で表しているんですね。英語も弱強 5歩格で、しかもライムを踏んでいることを見てください。2行の台詞ですが、ちょうど真ん中 の flies が同じで、最後の語尾の pursues が繰り返されています。読みます。

Love like a shadow flies when substance love pursues.
Pursuing that that flies, and flying what pursues.
(『ウィンザーの陽気な女房たち』第2幕第2場より)

上野 : これね、実を言うと今回一番ピタッと来たんです。これは、もうこの歌だと。笠女郎(かさのいらつめ)という人の歌で、大伴家持に恋していた。最初はどうも家持のほうが声をかけた ようです。ところが、笠女郎は途中で家持に対してものすごい熱を上げちゃう。そうすると、家持の恋のエネルギーがスーッと下がる。最終的には外に出されちゃって、この人は里帰りさせられちゃった。家持は貴公子だから、いろんなところで恋をしたら絶対ものにできるような立場の人です。熱を上げたら家持が冷めちゃった。そのときの恨み歌。つまり笠女郎としては、「声をかけられて私が熱を上げているのに、何よ」っていう思いの歌です。訳文からいきます。

思ってくれない人を思うのはね
大きなお寺にある餓鬼。
餓鬼てぇやつね、神さまでも仏さまでもないんだよ。
その餓鬼のやつめを前からじゃなくて、それも後ろから拝むようなもんさな。
これじゃ、ご利益なんてないわなぁー。
あーせつない。

もとは至ってシンプルです。

相思はぬ
人を思ふは
大寺の
餓鬼(がき)の後(しりへ)に
額(ぬか)つくごとし
(『万葉集』巻4の 608)

この場合の「つく」は清音で読みたいので〈額つくごとし〉。「相思はぬ人を思ふは大きなお寺の 餓鬼」。餓鬼なんていうのをまず、像につくることもない。今でいうなら天邪鬼だろうけれど、 それを前からじゃなくてお尻から拝んでいるのと同じよ、というわけですね。こういうのを元恋 人からもらったら、男は引きますよ。「ストーカーじゃない?」みたいな。ここまで来ると、家 持の気持ちもわかる。これを読んで河合先生は何を?

河合 : 〈相思はぬ人を思ふ〉というところでまず発想するのが、さっきも触れた『十二夜』で、 オリヴィア姫がシザーリオという男の人と結婚できるけど、間違えてセバスチャンと最終的に は一緒になる。しかも、オリヴィア姫を好きになっているオーシーノ公爵との三角関係がある。 なので、オーシーノ公爵はオリヴィア姫が好きだと言っているのに、オリヴィア姫は全然相手に していないという、その関係性です。まず日本語から見ていきます。

オリヴィア もし相変わらずの調べなら、閣下、
  私の耳にはいやらしく、不愉快です。
  音楽のあとのわめき声さながら。
オーシーノ           相変わらずつれないことだ。
オリヴィア 相変わらず一途なのです、閣下。
オーシーノ ほう、強情さにか。あなたはひどい人だ。
  その恩知らずで不吉な祭壇に、
  わが魂は誰よりも誠実な祈りを捧げてきた。
  これほどの献身はありえない―― 一体、私はどうすればいいのだ?

さっきの、〈後に額つく〉というのが、まさにピッタリだなと思います。原文はきれいなメロデ ィアスな弱強5歩格なので、それも見ておきましょう。〈Still so cruel?〉というオーシーノの台 詞は、オリヴィア姫の3行目の台詞と合って、それでハーフラインになっていて1行を成します (シェイクスピア講座第2回参照)。全部きれいに弱強5歩格のリズムで台詞がやりとりされて いるという感じになっています。

OLIVIA If it be aught to the old tune, my lord,
   It is as fat and fulsome to mine ear
   As howling after music.
DUKE ORSINO        Still so cruel?
OLIVIA  Still so constant, lord.
DUKE ORSINO  What, to perverseness? You uncivil lady,
   To whose ingrate and unauspicious altars
   My soul the faithfull’st offerings hath breathed out
   That e’er devotion tender’d! What shall I do?
(『十二夜』第5幕第1場より)

上野 : この台詞を見ると、恨みの気持ちをバーッと言うところを、どういうふうに歌ったら相手 にグサッと刺さるか、そういう戦略を感じますね。
河合 : いろんな感情、よいとは限らない感情が言葉として表現されているがゆえに、聞く人の心 に残っていくというのがあると思いますね。非常に難しい言葉づかいをしています。そうした言 葉づかいによって、人の心に残るようにシェイクスピアは考えています。
上野 : 簡単なことでいうと、パチンって頬っぺた叩いてもいいんだけれど、パチンでは劇になら ないから、言葉でやる。これもやっぱり、笠女郎だったら、どうすれば相手がドッキリするか、 痛いと思うかっていうところで、最初は大寺の餓鬼が出てきて、しかもお尻からって、輪をかける感じでとどめを刺すという感じでいきますよね。それが一つの恨みの気持ちというのがわかって、やっぱり恋は恨みでもあるということがよくわかる。

河合 : 歌になっていると、繰り返して口ずさんでも、その辛さは伝わってくるけど、それほど不 愉快にはならないですね。
上野 : ああ、そうですね。だから、同じ別れるのでもね、これぐらい言われたいですよ。それぐ らい言われたら、なんかいい感じするじゃないですか。でも、これ、大伴家持と笠女郎のやっぱ り知性の高さだと思うんですね。
河合 : そこが重要だと思うんです。歌を支えているのは知性だと思うんです。その知性があるか ら私たちの文化の底上げを歌がしてくれている。なので、そういう歌を発想することによって、 自分たちが動物的な生き方をしているわけじゃなくて、お腹がすいたから食べて、お金が必要だから働くというのではなくて、ある種の知性的な人間らしい生き方って何なのかということが 支えられている。支えてくれるのが歌なんだろうなと思います。
上野 : そういうことを求めている人が、今日来ている受講生。

河合 : 今日、最初に上野先生が、そもそも「かたる」とか「うたふ」という話をなさったとき、 私、聞いていて、午前中に文学座で西洋演劇講座という演劇史のお話をしたんですけど、そもそも演劇って何かというと、最初は歌うところから始まると話したんです。俳優一人しかいないギ リシャ悲劇の場合、俳優が一人歌い始めて、コロス(合唱隊)がそれに唱和していくところから 始まります。それから台詞がある種、人格、役柄を持っていってシェイクスピアのようになって いくんですが、最初は歌。気持ちを歌い上げる。
上野 : 『古事記』と『日本書紀』だったら、ストーリーの部分は漢文で書いて、アリアになって いる部分が万葉仮名で書かれていて、そこのところは歌っていることが明らかにわかるという スタイルをとっています。古い演劇であればあるほど歌のウエイトが大きいというのは同じで すね。
河合 : そうなんですよ。今の新しい演劇だと、芝居はどんどんビジュアル系に行って、2.5 次元 ミュージカルとか出てくるんですけど、本来は声を聞かせるのが演劇のありようだったんです ね。それが忘れられて、感情に集中していってしまう。涙が出れば演技をしたような気分になっ てしまうのは、実は違っていて、本来はその涙を流している自分の気持ちを言葉によって声で表 現していくのが本来の俳優さんの仕事だということはあります。
上野 : 歌舞伎役者でも、声が一番っていうじゃないですか。まさにそういうことだと思いました。 では、次のパートに行きましょう。次のお題は「死」です。

●「死」をめぐる歌のことば

河合 : まずは『ハムレット』から。

死ぬことは――眠ること、 それだけだ。眠りによって、 心の痛みも、肉体が抱える数限りない苦しみも 終わりを告げる。

これは To be or not to be, that is the question のあとに出てくる一節になります。英語をちょ っと見ておきましょうね。

To die – to sleep,
No more; and by a sleep to say we end
The heart-ache and the thousand natural shocks
That flesh is heir to.
(『ハムレット』第3幕第1場より)

日本語のほうを見ていただきますと、要するにハムレットは、〈生きるべきか死ぬべきか〉とい う有名な独白の中で、not to be 存在しなくなったらどうなるんだろう。それは死ぬことだ。死ぬというのは永遠の眠りにつくことだから、何もなくなって、苦しいこともなくなるんじゃないかと思うので、1回その not to be のほうに心が惹かれる。でも、眠るということは夢を見る。 夢とは人生とイコールだということで、まためぐりめぐって、結局、死んでも苦しみは終わらな いのではないかと思い至るんですね。これは非常にカトリック的な発想があって、死後の世界= 煉獄というところで、生前あった罪を清めなければいけない。そこは苦しいから、その苦しみを味わうよりは、今の生きている世界で生き延びたほうがいいんじゃないかと考える。哲学的なと ころがあります。
上野 : そうですね。死を語る言葉、死を考えるところからおそらく哲学ってあるんだと思うんですよね。私がこれを見たときに思ったのは、次の歌です。大伴旅人ですが、大伴旅人は、「仏教の経典を見ると、酒を飲むなと書いてある。しかし、宴会で楽しくみんながお酒を飲んでいると きに、酒を飲まずに一人で説教するようなやつは最悪だ」と。つまり、それは人生を楽しんでい ないじゃないか、と。一種の享楽主義。その享楽主義はどこから来ているか? 仏教は死後世界 を語る。本来インド仏教はそうではないのですが、中国仏教は死後世界を語って、輪廻だとか、 地獄に落ちるとか言う、と。でも、死後のために酒を飲まないという生き方もどうなのよ、もっ と楽しもうよという意味で、私はこの歌を挙げました。

生ける者(ひと)
遂にも死ぬる
ものにあれば
この世にある間は
楽しくをあらな
(『万葉集』巻3の 349)

生ける者は 遂には死ぬるもの。
遂には、死ぬべきものであれば……
この世にある間は、 楽しく生きて行こうじゃないか――。

同じアホなら踊らにゃそんそん。
同じアホなら踊らにゃそんそん。

繰り返し入れてあるんですね(笑)。これも古典の試験ならバツですよ。でもね、生ける人は遂 にも死ぬるものだと。遂にも死ぬべきものであるならば、この世にある間は……こういうことな んです。先生がおっしゃったこと、なるほどと思ったんですが、「死後世界のことについて古典 で言われているのは、俺は知ってんだよ」と。「知ってるけど、今は飲むよ」。そういう思想なんだけど、これってまさにカトリック的な思想があるのだけれど、それをそのまま詩にするわけで はなくて、それに対して自分がどうレスポンスするかというのが台詞になっているわけですね。

河合 : そうですね。カトリックが一応基本にあるのですが、必ずしもみんなが敬虔なカトリック 信者とは限らず、戦争もしちゃいます。汝殺すなかれとか言いながら戦争して、「勝った」とか、 「人を何人も俺たちは倒した」とかやっちゃうわけですから、どこまでクリスチャンなのかとい うところはあります。それから、たとえば今のお話を聞いていて思い出すのは、フォルスタッフ という登場人物がいて、「生きてるあいだは楽しもうじゃないか」、「名誉が何だ」って言う人な んですね。この1行目の「人は必ず死ぬ」という発想は、シェイクスピアのお芝居の根底に流れ ている概念で、「メメント・モリ」。「死を想え」と訳します。必ず人は死ぬんだから、自分の限 界を知って今を生きようということが、どのお芝居でも通奏低音としてあります。必ずみんな死 ぬんだからというのは、ちょうど人生をお芝居にたとえて、「役者としていろんな役を演じても 最後は退場する。幕が下りたら、それでおしまいだよ」みたいな発想が常にあるんです。だから、 「実はシェイクスピアがこれを書いたんです」って言われたら、私は多分、「そうですよね」っ て言っちゃう。

上野 : では、大伴旅人とシェイクスピアの一致点は大きいと。
河合 : そうですね。
上野 : 最近、自分自身で考えていることなんですけど、中国の六朝時代(3世紀初頭から6世紀 末)、文学者の陶淵明(とうえんめい)が生きていた時代。仏教徒とそうではない人たちとのあ いだで烈しい論争があった。人生というのは苦難ばかりで、いいことはひとつもない、と。それ は、おかしいんじゃないか。全然報われない、と。そういうような死にまつわる論争が中国であ って、それが注入されて、こういう歌が出てきた。おそらく中国で行われたさまざまな哲学的な 論争が、東洋のさらに東の外れの歌の世界にも入ってくる。シェイクスピアの作品にも、ギリシ ャ、ローマ以来の、西洋の考え方の中で培われてきた死に対するさまざまな哲学が入ったわけで すよね。河合先生、「死」について、もうひとつ選んでくださいましたね。

●歌をうたう知的階級に共通したもの

河合 : その前に、もうひとつここで今思ったのは、高橋康也先生がそのフォルスタッフを題材と して狂言化したお芝居があるんです。
上野 : 狂言化。
河合 : はい。『法螺侍(ほらざむらい)』という、シェイクスピアを狂言に翻案した作品がありまして、まさにその最初の4行は、「どうせ死ぬんだから楽しく生きようじゃないか」っていう発 想がフォルスタッフ的ですし、高橋先生は、このまさに〈同じアホなら踊らにゃそんそん〉って、 歌う囃しで最後を締めているんです。
上野 : 大体、演劇というのは、そういう思想の人しかやらない。だって、食えないんだもん。食える人、ごく一部。だから、演劇をやる人っていうのは、楽しく生きようよっていうところがあ って、僕は、シェイクスピアの役者魂みたいな、そんなものを感じました。

河合 : これを見て私が用意していたのは次です。日本語で行くと、

人生は短くてよい。でなければ恥が長すぎることになる。
(『ヘンリー五世』第4幕第5場より)

英語をちょっと見ますと、

Let life be short; else shame will be too long.

こういう簡単な言葉になります。歴史劇『ヘンリー五世』は今度(2019 年2月)、松坂桃李さん が主役で彩の国さいたま芸術劇場で上演されます。
上野 : 今は『万葉集』とシェイクスピアで掛け合いをやっているんですが、突然ここに兼好法師 が乱入してきて、「いやいや、俺にも言わせろ」って。「命長ければ辱多し」と言うかもしれない。 やっぱり発想として、簡単に言ってしまえば、死に関わる認識にそんなに大きな隔たりはないで しょうね。
河合 : そう、多分。でも、何ていうのかしら、死を考えながら生きているというのは、ある種、 歌を歌うような知的階級が共有して持っている部分というのがあるからだと。
上野 : そうでしょうね。

河合 : では、もうひとつ死のイメージ。まず私のほうから。戯曲だけでなく、シェイクスピアの 歌であるソネットを含めてということで、日本語から行きましょうか。これ実は、私が『ウィル を待ちながら』という新作のお芝居を書いたんですが、そのエンディングのほうで使った台詞で す。シェイクスピアが書いたソネット71 番からの台詞です。

私が死んだからといって、いつまでも嘆いてくれるな。
嘆くのは、陰うつな弔(とむら)いの鐘が鳴り響いて、
私が忌まわしいこの世を去り、もっと忌まわしい
ウジ虫のもとへ行ったと告げるあいだだけでいい。
私は君が大好きだったから、私のことを
思い出して君がつらい思いをするくらいなら、
君のやさしい思いのうちに忘れられたい。
この言葉をおまえが聞くとき、私はもう
土くれと化しているのだから、どうか
私の名を口にしたりせず、
私への愛は、私の命とともに、朽ち果てさせてくれ。

発想として根底にあるのは、先ほど言った「メメント・モリ」。人は必ず死ぬ。そして、これは 自分が死んだことを想定して、愛する君に、死んだあとまで私のことを嘆いてくれるなという歌 になっているわけです。英語を見ていただきたいんですけど、先ほど言った『ロミオとジュリエ ット』のプロローグがソネット。これもソネットなので、弱強5歩格で、韻を踏んでいくわけで す。一番上が dead、ひとつ飛んで fled。それから bell、1行飛んで dwell と韻を踏む形になり ます。日本語と合わせるために数行はしょってありますが、英語で読んでいきます。

No longer mourn for me when I am dead
Then you shall hear the surly sullen bell
Give warning to the world that I am fled
From this vile world, with vilest worms to dwell:
(中略)     I love you so
That I in your sweet thoughts would be forgot
If thinking on me then should make you woe.
O, if, I say, you look upon this verse
When I perhaps compounded am with clay,
Do not so much as my poor name rehearse.
But let your love even with my life decay.
(後略)(ソネット 71 番より)

上野 : 死というものを諦めとして受け入れなければ人生は成り立たないんだという思想が、凝縮 されてますね。
河合 : そうですね。
上野 : だから、「死後の土くれと化すんだから」というような言い方が出てくるんですね。
河合 : 私たちの感覚とかなり違うと思うのは、私たちはだんだん死から離れて生きるようになっ てきたわけですが、昔は死が身近にあったし、シェイクスピアの時代、ロンドンではペストが流行していたので、週に何十人と死にます。週に70 人ぐらい死ぬようになると人が集まるとまた 蔓延するので、劇場閉鎖という形で営業にもかかわりました。道端で死臭が漂うのがロンドンの町だった。なので、いつ自分の番になるかという気持ちはあったんです。

上野 : 『万葉集』の時代には「行路死人歌」といって、道端で亡くなった人を悼む歌がたくさん あるんです。大変な社会問題。しかも藤原京の香具山にも遺体があったというくらいなので、やはり死との近さというものは古典を考えるときに重要だと思います。私がそれに対してつけた のは、巻7の歌。

世の中は
常かくのみか
結びてし
白玉の緒の
絶ゆらく思へば
(『万葉集』巻7の1321)

しょせん世の中ってえもんは、
いつもこんなもんさなぁ、と思うことあるよ。
しっかりしっかり結んでおいた白玉の
玉の緒も切れると思うとね。
どんなにかたく結んでも玉の緒は切れるもの。
恋にも人生にも、終わりというものがあるようにね。

これは、シェイクスピアの影響を受けましたね(笑)。その前のを読んでなければ、〈恋にも人生 にも、終わりというものがあるようにね〉なんて、つけないですよね。だんだん影響を受けちゃ った。〈世の中は常かくのみ〉というフレーズがあります。世の中は、常って、いつもこんなも のだ。これはたとえば、最初に私が読んだ『万葉集』の巻 15 の遣新羅使の歌の中で、「使者の役 目を果たさず、死んでしまう。世の中は常かくのみ」。私も病院で死ぬときには、「世の中は常かくのみ」って死にたいと思っているんですが、人生というものを最後は落ち着いて受け入れるべ きだという、どこかに理想がありますね。で、これに対してどういう?

河合 : 「しっかり結んであったものもいずれ切れてしまう」というこの表現をまさにしているの が、『ハムレット』の劇中劇の中の王様の台詞で、こういう台詞があります。

今は青い実、木にしがみつこうとも、
熟せば、触れずとも地に落つる。
(中略)
この世はとこしえならず、されば、我らが愛とても、
運命とともにうつろうもまたせんかたなし。

劇中劇なので、ちょっと古文風に訳しています。これは野村萬斎さんが最初に『ハムレット』を なさったときに、萬斎さんと一緒に訳文を練ったので、狂言師の日本語の感覚がここに入ってい ます。意味は、劇中劇の王様が奥さんに、「俺はもうすぐ死ぬんだから、おまえがいくら私のことを愛してると言っても、おまえはどうせ俺のことは忘れるだろう。それでいいんだ。おまえは ほかの男と一緒になれ」というようなことを言うと、奥さんが、「いえいえ、あなたのことを死 ぬまで思っています」と言うんですけど、ここで〈この世はとこしえならず〉、「われらの愛もや がては消えるんだよ」ということを旦那さんが言う。ハムレットがわざとこういう芝居をやって、 当てつけているというお芝居、芝居の中の芝居の台詞です。
上野 : 野村萬斎さんは〈せんかたなし〉という古典語を選ばれたが、『万葉集』の時代だと、「せ むすべなし」。「すべ」というのは「方法」ですから、もう方法がない、どうしようもない。それが運命というものだということですよね。訳文を作るとき、どういう言葉がその訳者の中にもともとあるかということですよね。では次の「人生」の1。

●この世はすべて舞台

河合 : 人生といえば、〈この世はすべて舞台〉という有名な台詞があります。『お気に召すまま』 ですね。先日、私の演出で『お気に召すまま』を上演しましたが、そこでジェイクイズという、 ちょっと憂鬱な紳士がいるのですが、その人がこう言います。

この世はすべて舞台。
男も女もみな役者に過ぎぬ。
退場があって、登場があって、
一人が自分の出番にいろいろな役を演じる。
その幕は七つの時代から成っている。

そして、七つはそれぞれどんな時代かという説明をしていく。英語でも見ておきましょう。

All the world’s a stage,
And all the men and women merely players:
They have their exits and their entrances;
And one man in his time plays many parts,
His acts being seven ages.
(『お気に召すまま』第3幕第1場より)

弱強5歩格のきれいな iambic pentameter になってます。これを見て上野先生が?

上野 : 人生というのは演ずるものだというこれ、桜の花に対してこういう歌があるんですよ。

桜花
時は過ぎねど
見る人の
恋の盛りと
今し散るらむ
(『万葉集』巻10 1855)

桜の花ってやつは役者だね。 まだ散る時ではないってのにだよ――。 見る人がいちばん見たいっていう花の盛りに散ってゆきやがる。 惜しまれつつ、その最後を見せようってぇ、魂胆さ。

桜の花ってやつは役者だね。

桜が一番いいときに散るのは、私たちにそれを見せつけようとする……宝塚(歌劇団)も一番い いときに引退するじゃないですか。一番いいときに引くっていうのがひとつの美学。桜を見て、 桜の花も演じているんだねっていうところが、シェイクスピアと相通ずるなと思ったんですが、 これを受けて先生が……。
河合 : やはりこの「咲いて散る」というところから、『十二夜』の台詞を引用しました。

女はいわば薔薇の花、美しいが儚い命。
散り始めるのだ、咲いたのち。
(『十二夜』第2幕第4場より)

これ、「命」と「のち」で日本語でもライムしようとしました。『十二夜』以降は私、シェイクス ピアにライムがあるときには、おやじギャグと言われようと、日本語でも2行連句はこうやって 合わせたというのがあります。原文ではどんなライムかというのをちょっと。

For women are as roses, whose fair flower
Being once display’d, doth fall that very hour.

flower と hour でライムしています。

上野 : これもね、やっぱり人生というものを、自分自身の人生なんだけれども、どこか遠くから離れた人がまた見ているというような、自分の中にもうひとつの自分みたいなものがあって、この思想がずっと貫かれていて、なるほどなと思いましたね。そして……
河合 : そして、最後、これで締めくくりです。これは松岡和子さんの大好きな Tomorrow Speechですね。日本語をまず見ていきましょうか。河合訳で申し訳ありません。

明日、また明日、そしてまた明日と、
記録される人生最後の瞬間を目指して、
時はとぼとぼと毎日歩みを刻んで行く。
そして昨日という日々は、阿呆どもが死に至る塵の道を
照らし出したにすぎぬ。消えろ、消えろ、束の間の灯火(ともしび)!
人生は歩く影法師。哀れな役者だ、
出番のあいだは大見得切って騒ぎ立てるが、
そのあとは、ぱったり沙汰止み、音もない。
白痴の語る物語。何やら喚きたててはいるが、
何の意味もありはしない。

英語をサッと読みます。

Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow,
Creeps in this petty pace from day to day.
To the last syllable of recorded time;
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death. Out, out, brief candle!
Life’s but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
(『マクベス』第5幕第5場より)

歌ですね。

上野 : いいですねえ。これもなんか人生というものをどういうふうに見ていくのかって教えているような、教育されているような感じがしますよね。私は、これに対してこうつけたんです。

恋するに
死(しに)するものに
あらませば
我(あ)が身は千度(ちたび)
死に反(かへ)らまし
(『万葉集』巻11の2390)

恋するたびに死ぬものであるならば、私の身は 1000 回死んで、1000 回生き返ったことになり ます。河合先生の訳を見ながら、私がその影響を受けちゃいましたから、訳がシェイクスピア風 になってるんですよ。

うそ、うそ、うそ――。 恋をして、恋しくて恋しくて死ぬなんて。そんなのうそ。 だって、だって、恋しくて死んでしまうのなら。 私、千回死んで、千回生き返ったことになりますもの――。 私は生きていますよーだ。どんなにこの人生がつらくてもね。

ここまで来ちゃった(笑)。ですから、逆に今度、先生のを見て、ああ、そうかと。これ、もし、 この題材をシェイクスピアに与えて、それを書いてもらうんだったら、こういうふうになるだろうと思って。〈恋するに死するものにあらませば我が身は千度死に反らまし〉。そんなのは噓。私は生きている。で、それだけ私はあなたに大きな恋心を抱いてますよっていうことですよね。これに対して先生はどういうフレーズを?

●つながる「万葉集」とシェイクスピア

河合 : まったく同じ台詞を『お気に召すまま』でロザリンドが言うんですね。こういうふうに言 っています。

この哀れな世界にはほぼ六千年の歴史があるけど、恋愛沙汰で本人が死んだケースなんて一つ もない。……男たちは、時折死んで、ウジ虫の餌食となるけれど、恋ゆえに死んだりはしない。 (『お気に召すまま』第4幕第1場より)

上野 : おお。
河合 : これだけ例外的に散文です。散文はリズムが決まらないので、こんな感じです。

The poor world is almost six thousand years old, and in all this time there was not any man died in his own person, videlicit, in a love-cause.

韻文と違うので、好きなテンポで好きな調子で言える。で、散文をシェイクスピアが使うときには、ある種、勢いよくバーッとまくし立てる。
上野 : 勢い。それは日本でいうと何ていいますかね、一種の悪口というか、何かまくし立てる。
河合 : まくし立てる。
上野 : ああ、なるほど。同じですね。
河合 : そう、同じなの、内容は。ただ、形式が、まくし立て形式になってる。『万葉集』はまくし立てないですよね。
上野 : でも、これが、だんだん俗なものになれば、「まあ、恋をして死ぬっていう人は絶対死なないから」みたいな、そんな感じになりますよね。
河合 : そう、そうですね。
上野 : それをどういうふうに今度また演ずるときにその時代の感性でいくかって、難しい問題で すよね。リアルに読みたい役者もいれば、コミカルに読みたい人もいるでしょう。
河合 : そうそう、そうなんです。

河合 : おもちになったチラシの紹介をしてください。
上野 : 私も舞台を書いていて、『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』という芝居を書きました。今回に限り、 切符の心配は要りません。いつも、どうしようかと思うんですが、今回は会場のキャパが小さい ので、みなさんに「お願いします」っていう選挙みたいなことはせずに済みそうでございます。
河合 : 脚本をお書きなんですね。
上野 : そうなんです。実を言うと、河合先生だったら私を受け入れてくれると思ったんですよ。 「うそ、うそ、うそ」とか言っても(笑)。で、今回、お願いしたんですが、先生、どうですか。 『万葉集』は言葉は違うけど、われわれの先輩の言葉として、やっぱりなんとなくつながってい るじゃないですか。シェイクスピアだって同じようなところもある。そういうものは何から生ま れてくるかということを最後にうかがって終わりにしたいと思います。なんとなく一緒だよねって感じるのは、なぜなんでしょうか。「シェイクスピア、近いよね」、「『万葉集』、近いよね」って。
河合 : 一言でいうと、何回か繰り返したことですが、「歌う知性」ではないでしょうか。つまり、 ある種、哲学して、人生とか、恋とか、いろんなことを集約して、歌いたい、その歌うときに、 考え抜いたところで知性の凝縮した言葉が出てくるところが共通しているところではないでしょうか。
上野 : その答えは、次の講座で。次回は『万葉集』の巻1の1番の最初の出だしの歌を上野バー ジョンで読んでいったらどうなるか。それが雄略天皇の歌で、その雄略天皇はどういうふうに若 菜摘みに来ている乙女たちに呼びかけているか。それもまさに演劇でございまして、続きはまた 次ということでお願いします。どうもありがとうございました。

受講生の感想

  • 初回からなんと! 万葉集とシェイクスピアのコラボレーション! 上野先生と河合先生がと にかく楽しそうで、教室中に楽しさが伝染しました。

  • とにかく楽しくて、時間を忘れました。

  • 古文とシェイクスピアがまざった授業をライブで味わえるなんて、なんだかすごかった。 中高の授業が少しでもこんな感じだったら、もっと古典や言葉が好きになる人や、日本のことも 好きで誇りに思ってくれる人が増えるのではないかなぁと思いました。

  • 笑って聞いているうちに、あっという間に終わってしまいました。いちばん心にグッときたのは、 「古典」から「今を楽しむ、今を生きる」ことが大切だ、というメッセージを今の私が受け取る ということ。楽しくて、終わりが来てしまうのがもったいないと思う講義でした。

  • 教授だけの M1グランプリがあったら、上野先生は絶対勝ち進むよね、と思いました。