シェイクスピア講座2018 
第2回 河合祥一郎さん

シェイクスピアの謎

河合祥一郎さんの

プロフィール

この講座について

日本のシェイクスピア研究の第一人者である河合祥一郎さんですが、「今日は作家、戯曲家、演出家としてここに立っています」。講義はそんな宣言から始まりました。とはいえ、実際の講義は大学英文科の授業かと思うような濃密なものでした。この日のテーマは「シェイクスピアの謎」。そして最大の謎は、どうしてあんなにセリフが長いのか?俳優顔負けの美声、イギリス仕込みの英語で朗読をまじえながら、河合さんが丁寧に解説してくれました。「シェイクスピア作品は音楽である」それが体感できる授業を、お楽しみください。

講義ノート

まずは自己紹介から。私はシェイクスピア研究者として、ケンブリッジ大学と東京大学からそれぞれ修士号と博士号を取得しましたが、開校イベントで河野学校長が「ほぼ日の学校は英文学者が講義をするのではない」とおっしゃったので(笑)、今日は英文学者ではない立場でお話をします。では、どんな立場か? 私は坪内逍遙の姪「坪内その」の曾孫なのですが、講義には関係ないですね(笑)。演劇の現場をわたりあるいてきたので、その立場から今日はお話をします。学生時代、早稲田小劇場(現・SCOT 鈴木忠志創設)が世界演劇祭をやるというので、タダで使える通訳として呼ばれました。鈴木さんが東大の高橋康也教授(義父)に声をかけたのがきっかけで、1981年から6年間、劇団のある富山県利賀村(現・南砺市利賀村)で雑用をしました。ケンブリッジより帰ってからは蜷川幸雄さんの稽古場に通いました。彩の国さいたま芸術劇場シェイクスピア企画委員会委員長にも就任。ジョナサン・ケントが2003年に野村萬斎主演で「ハムレット」を演出したとき、初めてシェイクスピア翻訳を手がけました。というわけで、今日は私は英文学者ではありません。作家であり翻訳家であり、演出家という立場でお話します。

今日のテーマは「シェイクスピアの謎」。謎というとシェイクスピアって誰? というのが最初にでる問いで、別人説かと思われるかもしれませんが、今日はそれより何より、「シェイクスピアのセリフは、どうしてこんなに長いのか?」という「いちばんの謎」に迫ります。そして、シェイクスピア作品の神髄とは何か? なぜ人生をかけてそんなに作品を書いたのか? これを考えていきましょう。

<デクラメイション>

まずは、劇作家の木下順二先生が書かれた『シェイクスピアの世界』を読みます。(以下、引用)

演劇用語としてのデクラメイションをどういうふうに理解するかということについて、まず一九六八年にぼくの書いた文章を読んでみることにします。「外国には、デクラメイションという言葉がある。朗誦術という訳語しかさしあたっては思いつかないが、詩や、主として詩形式で書かれた戯曲のせりふを高らかによみあるいはしゃべる技術を呼ぶものといっていいだろう。例えばシェイクスピアのせりふは、デクレイムする(デクラメイションでしゃべる)ことによってのみ、初めてシェイクスピアのせりふになるのである。高らかにと今いったが、それはただ朗々と、という意味ではない。ない。 せりふの中に流れている感情のうねりを、あるときは人間の声の限界のもう一つ上かと思われるところに破裂させ、あるときは文字どおり囁き(ホィスパ)の中にくるんでしかもそのホィスパが広い客席の隅々にまで明瞭に行きわたる。あるときは幅広い母音を大海の浪のごとくに長々と響かせ、あるときは鋭い子音をたたみかけて相手の心へ刃物のように突きささらせる。おそらく語るものも聴くものも、みずからの精神が清澄な天空へ高揚し解放されてゆく快感を、また暗い袋小路に追いつめられて身動きもならずせぐくまる苦痛を、デクラメイションを通して自在に体験できるのである。デクラメイションの技術は、まだ日本にはほとんど全くないといっていいだろう。ということは、日本にもその技術をつくりださねばならぬということだ」――つけ加えると、一語々々を明確明晰に発音する――ということが日本ではなかなか実行されてない――ということがその基本にあるのですが。

(中略)

デクラメイションというもの、この技術が、(さっき引用した六八年の文章をもう一度引きますと)「まだ日本にはほとんど全くないといっていいだろう。ということは、日本にもその技術をつくりださねばならぬということだ」――こうぼくは考えるわけです。(木下順二『シェイクスピアの世界』(1973 年)所収の「デクラメイション(強いて訳せば朗誦術)について」より )

木下順二が「これだ!」と思ったデクラメイションそのものがシェイクスピアの神髄といえるわけです。もう少し引用します。

はからずもべっとりと手が血にぬれていることに気がついたマクベスは、「どうしたらいいんだ? おれは。おれは一体どうしたらいいんだ?」とただいう代りに、あの有名な台詞を吐くのである。

どうしたのだ? この両手は。ああ! 
両の眼が飛び出しそうだ。
大わだつみの水を集めたら、この血を
この手から洗い流すことができるだろうか。
いいや、この手のほうが逆に
みなぎりわたる大海の水を朱に染めて
あの青さを見渡すかぎり赤ひと色に変えてしまうだろう。

エリザベス朝の当時、芝居は主として青天井の下で真昼間に、装置も扮装もほとんどなしで上演されたこと、従ってその際主として頼るのはせりふだけであったことなどの条件をのけても、こういうせりふを与えられたら俳優は、自然に、普通ではない声と抑揚とを持つ表現を生み出さないわけに行かなくなるだろう。そしてその抑揚は、非論理的でシラブルの数だけが七と五に整えられていることがしばしばである歌舞伎のせりふをいいこなすためのめりはりと違って、言葉の意味と内容から必然的に出て来る強弱に一致した抑揚として表現されないわけに行かなくなって来るだろう。(「ドラマとの対話Ⅱ 朗唱術(デクラメイション)1」『木下順二集 15』 )

ここで私の中のシェイクスピア学者が戻ってきてダメだしをしたいのですが、シェイクスピアの時代、メイクアップと衣装はありました。ただ、セリフで聴かせたというのはその通りです。さらに引用します。

シェイクスピアの翻訳で一番肝腎なことは、その原文が本来持っていることば、それもせりふという特殊なことばとしてそれが持っているエネルギー、エネルギーのうねりを、日本語としてどう再生産するかということにあると思う。今日の日本語としてどう分りやすくことばを置き換えるか(それはむしろやさしい仕事だ)ということが問題なのではない。(「シェイクスピアの翻訳について」『木下順二集 13』)

日本の軍記ものにしても「遠からん者は音にも聞け。近くば寄つて眼にも見よ」ということで初めてその内容はこっちに伝わってくるのであって、それを「遠くにいる人は 声で聞け。近くにいる者は眼でよく見ろ」と訳したって、それは意味は分るだろうが内容は一向に伝わってこないだろう。(中略)基本になるのは、原文の持っているエネルギーということだと思う( 木下順二『シェイクスピアの世界』(1973 年)所収の「日本語とシェイクスピア」より)

<意味よりも重要な言葉のエネルギー>

ここからシェイクスピアのセリフが音楽であるという説明をします。

| カエルが | なくから | かーーえ | ○ | というフレーズがあります。

強いところが4つあるから、強弱4歩格ということができます。たとえていえば、シェイクスピアってこういうこと。うねり、リズム、ライム(押韻)がある。カエルと帰るの掛け言葉もある。これを意味だけ訳して Let’s go home because frogs are croaking としても「なんのことやら?」となる。シェイクスピアのセリフを意味だけ日本語に置き換えても意味はない。

つまり、シェイクスピアは意味を伝えたくて長々書いているのではなく、言葉のうねりのようなもの、歌のようなものを書いている。歌というのは歌いきらないと気持ちが悪い。シェイクスピアの戯曲はセリフが音楽なのです。ここは第10回の講義でまた説明します。

では、体験してみましょう。木下順二が「あ、これがデクラメイションなんだ!」と感じたときのことを追体験してもらいます。

早稲田大学のイギリス人講師トマス・ライエル先生宅にて、ライエル先生のシェイクスピア朗誦を聞いたのが、木下順二の出クラメイション体験でした。1949 年のことです。

シェイクスピアの神髄とは何かといえば、想像することです。そして想像の世界を強く念じることによって、それをリアルにしていく。たとえばスマホも、かつて漫画で腕のタイムストッパーに向かって「スーパージェッター応答せよ」とやっていたものが今では現実になっている。つまりイメージを強くすることによって世界ができていくのです。『十二夜』のセリフをみてください。もう会えないと思っていた兄さんと同じ名前の人に会う。兄に生きていて欲しいと思っていたヴァイオラのことばです。

Prove true, imagination,O prove true!

ああ本当になって、想像よ、本当になって!(『十二夜』第3幕第4場ヴァイオラのセリフ)

さぁ、みなさんは木下順二です。みなさんの信じる心によって、ライエル先生をこの部屋にお呼びしたい。O prove trueをご唱和ください。きっと我々の想像が本当になると思います。

(会場暗転。河合先生の朗唱響く)

デクラメイション、感じていただけましたか?

<シェイクスピアのリズム 弱強5歩格>

限られた時間のなかで弱強5歩(iambic pentameter)を理解するまでが、今日の前半の課題です。まずは「きらきら星」。

Twinkle Twinkle Twintle star howwonder what you are.

「強い弱い」のリズムが4回繰り返される。歌ってみましょう。 はい。これで強弱4歩格をマスターしました(笑)。4歩格は歌うリズムなのです。

次に「おじいさんの古時計」。

My grandfather’s clock was too large for the shelf,
おおきなのっぽの古どけい。

So it stood ninety years on the floor;
おじいさんのとけい。百年いつも動いていた‥‥

意味も比べるとおもしろいです。原文は90年なのに、訳文は100年になっています。英語にはwithout rhyme or reasonという表現があります。「リズムも意味もない、わけがわからない」という意味です。逆にいうと、意味かリズムのどちらかがあればいい。

「メリーさんの羊」の2番の歌詞を見てみましょう。

It followed her to school one day. That was against the rule.

「メリーさんの羊は、ある日学校についてきた。それは校則違反」と歌ってもおもしろくもなんともないけれど、最後のschoolとruleが韻を踏んでいるからおもしろい。校則違反だと言いたかったわけではないのです。シェイクスピアもこれをやります。意味だけを考えるのでなく、ことばの響きで選んできた言葉がある。言葉のうねり、エネルギーが大事なのであって意味だけではない。それを踏まえると、「おじいさんの古時計」の原詩はninety years(90年)だけれど、日本語の方は「百年いつも」の方がリズムにのると考えた。すばらしい。シェイクスピアの翻訳者にはとてもまねができません。やると「誤訳だ」といわれますから。英語で歌ってみましょう。(一同歌う)これで弱弱強4歩格と弱弱強3歩格をマスターしたので、弱強5歩格は軽いもんです(笑)。

弱強5歩格はシェイクスピアのリズムといわれますが、実はエリザベス朝のリズムはほぼこれでした。

A horse, a horse, my kingdom for a horse!
馬だ! 馬だ! 馬をよこせば王国をくれてやる!(『リチャード三世』 第5幕第4場)

Love looks not with the eyes, but with the mind,
恋は目で見ず、心で見る。

And therefore is wing’d Cupid painted blind;
だから翼の生えたキューピッドは目隠しして描かれる (『夏の夜の夢』第1幕第1場)

なぜ5歩格か。4歩格だと歌ってしまう。6歩格だと息がつづかない。自然に、きれいにリズムが整っているのが弱強5歩格。訳もそれに近づけています。

ライムの例:
Away before me to sweet beds of flowers!
さあ、花咲き乱れる東屋へ行こう! 
Love-thoughts lie rich when canopied with bowers.
そこでこそ、心乱れる思いも憩う。
(角川文庫『新訳 十二夜』第1幕第1場 )

親父ギャグみたいですが、訳文も韻を踏んでみました。
韻文と散文がまじりあう例もあります。(『夏の夜の夢』第3幕第1場)

TITANIA       Mine ear is much enamour’d of thy note;
ティターニア  この耳は、あなたの声のとりこになってしまった。

So is mine eye enthralled to thy shape.  
この眼は、あなたの姿にもう夢中。

うっとりした感じをだすきれいな弱強5歩格のきれいな韻律で言うわけですが、ロバになったボトムは朗々としたセリフではなく、下卑たふつうの日常会話の散文で返します。

BOTTOM    Methinks, mistress, you should have little reason for that.
ボトム   奥さん、そいつはちょっと理性的じゃないんじゃありませんかね。

And yet, to say the truth, reason and love keep little company together nowadays.
もっとも、正直いって、理性と恋愛ってのは最近じゃ反りが合わねえようですがね。

これに対して、ティターニアはまたきれいな韻文で返します。

TITANIA    Thou art as wise as thou art beautiful.
ティターニア  あなたは美しいだけでなく、頭もいいのね。

韻文と散文を使いわけることで、二人の違いがでてくるわけです

女性行末男性行末

次に『ハムレット』の有名なセリフです。
ハムレットの第4独白(第3幕第1場)

To be, or not to be, that is the question: 
生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。
Whether ‘tis nobler in the mind to suffer
どちらが気高い心にふさわしいのか。非道な運命の
The slings and arrows of outrageous fortune,
矢弾をじっと耐え忍ぶか、それとも
Or to take arms against a sea of troubles
怒涛の苦難に斬りかかり、
And by opposing end them. To die–to sleep,
戦って相果てるか。死ぬことは――眠ること、

強で終わっていないところがありますね。これはフェミニンエンディング(女性行末)といって、わざと弱く終わる。わざと強できれいに決めない。不安を表す。逆に強で終わると強い決意を表す。ことばを選ぶのはシェイクスピアの得意なところ。questionという2音節ではなく1音節のことばをもってくれば強で終わる(たとえば、questで終わるとかっこよく決まる)のに、そうしない。この場面でハムレットは悩んでいるからかっこよくしたくない。それが問題(だ)と力なく言わせたい。that が強いのも「それが」に比重が動いているから。sufferもフェミニンエンディング。逆にtroublesは力強くなる(マスキュリンエンディング=男性行末)。リズムにひとつひとつ意味がある。だからシェイクスピアのセリフそれ自体が音楽なのです。

次に、ホレイシオのセリフ(『ハムレット』第1幕第1場)。

If thou| hast a-|ny sound|or use|of voice,
口がきけるならば、声が出せるならば、
_ Speak|to me. | _ _ |_ _ |_ _
話してくれ。
If there|be a-|ny good|thing to|be done
おまえの魂を鎮め、供養するために
That may|to thee|do ease,|and grace|to me,
何かしてほしいことがあるなら、
 _ Speak|to me.| _ _ | _ _ |_ _
話してくれ。
If thou|art pri-|vy to|thy coun-|try’s fate,
この国の運命を知っていて、
Which, hap-|pily,|foreknow-|ing may|avoid,
今ならそれを避けることができるというなら、
O speak;| _ _ |_ _ |_ _ |_ _
さあ、話してくれ。

野村萬斎主演の『ハムレット』でホレイシオを演じたのは横田栄司さん。このセリフを彼は熱を込めて一気に言った。そのときジョナサン・ケントがダメ出しした。「待ちなさい」と。2行目はspeak to meだけ。あとは休止符が並んでいる。従って、3小節分待たなければならない。このときジョナサン・ケントは「亡霊に話してくれといっているのだから、相手の答えを待ちなさい」というわかりやすい指示を出しました。次も同じだけ待ちなさい、というシェイクスピアの指示がちゃんと書いてある。最後に、O speak弱強だけです。つまり弱強4回分待たなければいけない。それがシェイクスピアの指示です。

演出家のピーター・ブルックが、「芝居というのは最初に糸巻きの糸がぽっとはずれると、最後まで糸がずっとほつれてゆくまでは止まらない、そういうものだ」と言ったことがありますが、シェイクスピアも同じように最初の音が始まった瞬間からリズムがうねりを増していくのです。

<シェイクスピアの神髄>

全部は言えないので、残りは次回に送ります。

なぜシェイクスピアはそんなに芝居をおもしろがったか? 世の中を変えていくのは考える力=conscience―― 今は良心と訳しますが、当時は考える力を意味した。これこそが世界を変えていく。芝居こそがその想像力を完全に発揮できる場所。キーワードは「心の眼」。『星の王子様』の「いちばんたいせつなことは、目に見えない」というキツネのセリフが有名ですが、実はシェイクスピアの方が先です。さらに言えばプラトンまで遡るけれど、シェイクスピアは「心の眼」ということを何度もいっています。

Love looks not with the eyes, but with the mind,
恋は目で見ず、心で見る。
And therefore is wing’d Cupid painted blind.
だから翼の生えたキューピッドは目隠しして描かれる。
 (『夏の夜の夢』第1幕第1場)

愚行はネガティブな意味ではありません。「恋ほどすばらしい愚行はない」とシェイクスピアは書いています。とくに『お気に召すまま』では、人間が犯しうる最高の愚かさが恋である、と。そして恋をするとき人は客観的に判断しません。主観的です。考えてから恋に落ちる人もいるかもしれないけど、たいていは「好きになっちゃった」ですね。「心の眼」は『ハムレット』にも出てきます。

Hamlet. My father–methinks I see my father.
ハムレット 父上――父上が目に見えるようだ。

Horatio. Where, my lord?
ホレイシオ どこにですか、殿下。

Hamlet. In my mind’s eye, Horatio.
ハムレット 心の目にだよ、ホレイシオ 。
(『ハムレット』第1幕第2場)

死んだ父親が心の眼に見える。大切なものを見るのが心の眼。人は、自分の心が捉えるものに価値基準を置く。本当の価値・意味は、客観的ではなく主観的に決定される。 真の価値は主観的に決まる。シェイクスピアはそのことを常に意識していました。

Horatio. A mote it is to trouble the mind’s eye.
ホレイシオ 塵ひとつでも、心の目に入れば、痛む。
 (『ハムレット』第1幕第1場)

恋愛についても同じ。何かに心が奪われた時、そのことがとても大切になる。人は心に支配されて行動する。そのことを『マクベス』から。本当はない短剣が見えてくる。

これは短剣か、目の前に見えるのは?
俺の手のほうに柄を向けて? よし、とってやる。

とれない。だが、目には見えている。
忌まわしい幻影め、目には見えども
さわれぬのか? それともおまえは
心の短剣か、 熱に浮かされた脳が生み出す、ありもせぬ幻か。 (第2幕第1場 )

実際にはないけれど、その人には見えている。それがその人を支配していく。それを踏まえていうならば、シェイクスピアヒの認識論は、カント哲学(ものがあるとまず仮定し、反射した光が心に像を結べば認識できる。見えている部分は認識するけれど、見えないところは認識できない)ではなくフッサール現象学(そもそもものがあると仮定できるのか? 人はそこで見ていると思うなら、その人にとってのリアルなのでは? いまでいうバーチャルリアリティですね)。『ハムレット   』にこういうセリフがあります。ローゼンクランツとギルデンスターンに言うセリフです。

There is nothing either good or bad, but thinking makes it so. 良いも悪いもありゃしない。考え方ひとつだ。 (第2幕第1場)

ものごとには最初からいいとか悪いとかあるのではなく、その人がいいと思うからいい。ダメだと思うからダメ。考え方ひとつでものごとの意味が変わってくる。物理的に何が見えているかではなく、心が何を読み取っているかによってその人の現実が決まる。それをもうひとつハムレットのセリフからとると、

I could be bounded in a nutshell, and count myself a king of infinite space.
俺は胡桃の殻に閉じこめられても、無限の空間の王と思える男だ。(第2幕2場)

実際どうあるかではなく「俺がどう思うか」こそが問題なのです。

カメラの眼でとらえたものは客観的事実であり、心の眼でとらえたものは主観的真実だといえる。客観的事実は誰にとっても同じ意味をもち、共有できるけれど、その人にとって特別な価値はない。心の眼でとらえた主観的真実は、その人にとって特別な価値がある。

どうやって「本当のもの」をとらえるか。それが心の眼であり、芝居という鏡だとシェイクスピアはとらえます。『ハムレット』のなかで、芝居の目的は、昔も今も自然に鏡を掲げることだ (『ハムレット』第3幕第2場)(was and is to hold as ‘twere the mirror up to nature)という有名なセリフがあります。この鏡はいまのものと違って、きれいではなくゆがんでいる。ゆがんでいる鏡をどこにどう照らすかの主観が必ず反映される。魔法の鏡と同じです。わかりやすいのは『白雪姫』。魔女の鏡に白雪姫が映る。これがシェイクスピアの考える鏡。同じことが『ハムレット』にもでてきます。

You go not till I set you up a glass.
じっとして。今、鏡をお見せします。

Where you may see the inmost part of you.
心の奥底までご覧になるがいい。
(第3幕第4場 )

<シェイクスピアの人間観

正しい vs. 誤り という区分け=二元論はシェイクスピアでは成立しません。どっちも大切だし、どっちもあり得る。考えによっては誤りだと思っていたものが正しくなったりする。とくに現代の日本ではルールを作って「正しくなければいけない」というのがどんどん強くなっている気がします。でもそれは人間的な生き方ではない、とシェイクスピアは言っています。正解なんてないし、そもそも正しいって何なの? ということ。シェイクスピアの世界にいくと何が正しいかわからなくなってくる。『マクベス』なんて、「きれいは汚い、汚いはきれい」。それって何? 田舎は虫がいて嫌だと思うかもしれないし、清々しい、となるかもしれない。単純には決められない。

シェイクスピアが大好きなのがオクシモロン(矛盾語法・撞着語法)。「きれいは汚い 汚いはきれい」(『マクべス』)、 「鉛の羽、輝く煙、冷たい炎、病んだ健康」(『ロミオとジュリエット』) 、「これはクレシダであってクレシダではない」(『トロイラスとクレシダ』)、 いちばんすごいのが、「私は私ではない」(『十二夜』、『オセロー』)。 英語では、I am not what I am. 『オセロー』のイアーゴーもそう言う。「おれは正直者のイアーゴーなんかじゃねえぜ。おれには野心がある」という意味。『十二夜』のヴァイオラというヒロインは男装をしていたときにオリヴィア姫に好きになられて「男じゃない」と言えないからI am not what I amという。

人間とは愚かな存在である。そして、人間の最も素晴らしい愚行が恋愛であるとシェイクスピアは考えます。自分が何も知らないという認識を持つのは学問でとても重要です。「おれは何でも知っている」というような先生は本当の学者ではありません。本当の学者はまだまだ勉強が足りないと思う。「わたしは何も知りません」という先生を信用してください。こんなセリフがあります。

For what says Quinapalus? “Better a witty fool, than a foolish wit.”(『十二夜』第1幕第5場)

クイナパラスは何といっている? 愚かな賢者であるよりは賢い阿呆の方がいい。フールは道化でもあります。賢い道化、オクシモロンですね。道化はバカなことを言うことによって、「あんたはバカだよ」と教えてあげる役割。主人はバカだって言われたときに、自分のバカさ加減を教えてくれてありがとう、と言えるようじゃなければ主人じゃない。『お気に召すまま』にもこんなセリフがあります。

The fool doth think he is wise, but the wise man knows himself to be a fool.
自分が賢いと思ってるやつは馬鹿だ。真の賢者は、己の愚を知っている。 学べば学ぶほど、己の未熟を知る。

これが当時の人文主義(humanism)の発想です。それをつきつめて考えると、そもそも人とは何だろう? 人の考え方。哲学における主体。主体って何? と考える必要がある。シェイクスピアの場合、「わたくし」は常にゆれている。野田秀樹さんは「おれはいまここでこういうこと言ってるけど、あしたは違うこと言ってるかもしれないからね」と言いますが、それはまさにシェイクスピア的。つまり人は常に変わっていく。変わっていけないような人は人として成長しない。人は常に変わる。十年前の私、十年後の私はいまの私と違うはず。

<人生の中の役割>

娘(息子)、学生、労働者、買い物客、旅行客、妻(夫)、母(父)‥‥ みんなそれぞれに役割を演じています。これが人です。その役割を演じることそれ自体が芝居。人生は芝居だ、というのを難しく言うと、世界劇場 、ラテン語でtheatrum mundiという考え方、世界という劇場の中で人は役者であるという考え方です。

All the world’s a stage,
And all the men and women merely players. They have their exits and their entrances, And one man in his time plays many parts, His acts being seven ages.

この世はすべて舞台。男も女もみな役者に過ぎぬ。退場があって、登場があって、一人一人が自分の出番にいろいろな役を演じる。その幕は七つの時代から成っている。(『お気に召すまま』第2幕第2場)

こうした人生は劇場という考え方の背景にあるのは、メメント・モーリ(死を思え)。というのも、当時のイギリスの衛生状態はとても悪く、疫病があっという間に蔓延する。平均寿命は20代。死は常に身近にあったのです。

つづきは次回2月14日の講義で。

受講生の感想

  • 前回同様、脳みそと身体(おなかの奥のほうを使っているな〜と感じております)をぐらんぐらん揺さぶられた2時間半でした。昨夜は、私より遅く帰宅した夫に講義で感じたことを拍車砲のように報告しました。疲れて帰ってきたひとに、深夜にあれこれ言うのはなるべく控えているのですが、昨夜はがまんできずに話してしまいましたところ、このような反応が。「とにかく面白くて楽しくて感動があったってことだね。当選して本当によかったね」O! エネルギーが伝わったようです。『大きな古時計』を歌ってみせたのも効きました、きっと!

  • 回を重ねるたび(と云ってもまだ2回受講しただけですが)、ますます、どんどん、会場がヒートアップの予感がします。

  • 先週の授業で,頭も身体もグラグラして
    地盤が緩んでいるみたいな脳内状態です。

    来週の授業も楽しみにしています。
    よろしくお願いいたします。

  • 先日の講座も盛り沢山の内容で、高校生の頃に聞くことができていたなら受験時の専攻を変更したくらいの衝撃でした。シェイクスピアに係らず英文学では韻を踏むことが大事とは聞いていましたが、実際に韻の内容を伺った上で朗読を聞くと印象が全く違いますね。