ダーウィンの贈りもの I 
第3回  三中信宏さん

わけることとつなぐこと――進化の観点から

15分版・120分版の視聴方法は こちらをご覧ください。

三中信宏さんの

プロフィール

この講座について

「わけること(分類)とつなぐこと(系統)」——私たちが知らず知らずのうちに使っているものの考え方について、分類を専門とする研究者・三中信宏さんが語ってくださいました。使われた例は、チキンラーメンやビールや電車、工事現場の「オジギビト」など。社会や文化や時代の影響を受ける「分類」と、論理で構成される「系統」の対比など、聞けば聞くほど興味深いお話でした。(講義日:2019年6月27日)

講義ノート

今日は、これまでの長谷川眞理子さん、渡辺政隆さんの進化のお話に比べると、かなりずれるところがあると思います。うしろの方はディスプレイが見えますか? 壁紙に般若心経が見えますか? 私は悪い話ばかりするので、魔よけに般若心経をパソコンの壁紙にしてあります(笑)。今日は、細かい話よりはむしろ、たくさん絵を見ていただきたいと思います。そして、進化という考え方が単に「生物の」という枕詞をつけるだけじゃなくて、本当に人間の生活の隅々にまで浸透していることを知っていただきたいと思っています。現代社会の中で、進化という考え方が実は重要なんだというお話です。

先ほどご紹介していただきましたけれども、私は噺役(はなしやく)を名乗っておりますが、実は役に立つ研究をしなければならない「表の仕事」もしておりまして、農林水産省系の独立行政法人におります。そして、「裏の仕事」もあるということです。私の名前は珍しいんですよ。三中(みなか)というのは、日本だと苗字ランキングで19000番台なんですよ。全国で100軒ぐらいしかいないので、悪いことできないんです。私の名前でググっていただければ即座に私のトップページが出てくると思います。漢字の「三中」、は第三中学校が全部ヒットしますから(笑)、アルファベットでminakaと入れていただきますとよいです。配布物にもQRコードをいれておりますので、もし余裕がありましたら見ていただければ、私のホームページが出てくると思います。

●何百万種もの動植物を分類する

さて、今日の話です。進化ということになりますと、要するに最先端の科学でもありますので、非常に難しいことは確かです。そして、進化という考え方のベースになっている、重要なものの考え方があります。たとえば生物で言いますと、「生物多様性」という言葉をみなさんお聞きになったことがあると思います。地球上には、数え方にもよりますけれども、何百万種もの動植物がいます。そこで分類学者の登場です。生物よりも、分類学者の方が早く絶滅するかもしれません(笑)。われわれは身の回りにいる生物がいったいどういう生物なのか、分けて名前をつけたいと考えました。これはおそらく、われわれ人間にとって、非常に根源的な欲望なんだろうと思います。

モニターにお見せしていますのは、アメリカのベニヒワという小鳥です。分類上ふつうはラテン語の学名をつけるのですが、もちろん鳥ですから、どんな名前か知らんわけです。彼らにとって気になるのは、この図鑑の間に挟まっている「タネ」がおいしいかとか。これが一番重要です。つまり、物事を分ける、分類をするというのが、今日の一番大きなキーワードになるんですけれども、当の動植物にとっては、どう分類されようが、知ったこっちゃありません。ただ、われわれ人間は、名前がついていてくれないと非常に困るんです。違うものはちゃんと違うと分けて、それぞれに名前がついている。これが非常に重要です。このことをいったいどう考えていけばいいんだろうか。もちろん、サイエンスの話であることは間違いないんですけれども、単にサイエンスだけにはとどまらないところがあることを、今日お話をしていこうと思います。

まずは、分類です。今日はキーワードがいくつかありまして、「分類」が第1のキーワード。このあと「系統」という2番目のキーワードが出てきます。このふたつの名前が、今日の話です。

今日の受講生の方々の中には、分類学者はいらっしゃらないと思いますから、その点では少し気が楽です(笑)。私たちが地球上の動植物を見たときに、当然日本には日本の動植物がいます。世界にはもっとたくさんの動植物がいるわけですが、いったいどんな生き物が、どれぐらいいるんだろうかということが気になりますよね? お見せしている図は、30年前、1990年のものです。アメリカ昆虫学会というところで、ある総説記事が書かれました。この地球にはいったいどれぐらいの生物が存在しているんだろうかということについて。その総説記事の最後に折り込みで入っている図版が、モニターに出している「種(しゅ)の風景=The Species Scape」というものです。ちょっと変ですね。なにが変かというと、大きなキノコがいます。そして、隣にキノコよりはるかに小さなゾウですね。なに、このアンバランスなのは? そして、地中には巨大な貝と水中には大きなゾウリムシ。このアンバランスさはいったい何なのか?

これは、分類学者が記載した「種の数」です。それに比例して動植物の大きさを描くと、この図のようになるんです。われわれが属している哺乳類なんて、実は種数からいえば大したものじゃなくて、昆虫が生物の3/4を占めている。ものすごく多様化している生物なんです。そんな具合に考えていきますと、当然われわれは、このような生物多様性のすべてを知り尽くしているわけではありません。つまり分類学者の仕事は、終わりがないんです。昆虫類だとか、哺乳類、菌類とか、おおまかには名前がついています。みなさんも知っている名前が少なくないかと思いますが、こういうふうな生き物が、実際にわれわれの身の回りにいます。そういったものが、場合によってはよく知られて名前がついていますけれど、場合によってはまだ名前もつけられていないような動植物がいたりするわけです。

さて、今日の一番がこれです。私はこのネタをこういうふうな場で取り上げてから、十数年になるんです。「みなさん、醤油鯛ってご存知ですよね?」ということで話をすることがあります。実は醤油鯛を知らない世代が増えつつあります。ここにいらっしゃる方、ざっと見た感じ、醤油鯛をご存知じゃないかと思います。醤油鯛とは、お弁当などで醤油が入った鯛のことですね。あれ、鯛ですよ。鯉じゃないです。鯛らしいです。これが最近鯛から退化して、袋になってしまいましたので、鯛を見たことがない方が少なくないんですが、ここでは醤油鯛をちょっと話題に取り上げたいと思います。

この醤油鯛の研究をしていたのが、私の大学院時代からの知り合いの、兵庫県立の「人と自然の博物館」にいた昆虫分類学者沢田佳久君です。彼が学生のころから醤油鯛のコレクションをしていまして、雑誌の『dancyu』などに取り上げられたりしたことがありまして、もしかしたら、ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。彼が数年前に満を持して出した醤油鯛の本があります。けっこう売れているんですよ。もちろんみなさん、醤油鯛なんてお弁当の中にもし入っていたら、チュッと醤油を出して、パっと捨てておしまいでしょ。彼は違うんです。分類学者ですから、この醤油鯛とあの醤油鯛がどう違うのかと思った。そして、そういう比較をするには、当然標本を集めなくちゃいけません。彼は標本を集めるんです。示しているのは、彼が初期に醤油鯛の標本を集めたときの状態です。昆虫の標本箱ってご存知ですか? ドイツ箱というものがあります。これに、ピンで醤油鯛をとめます。実は、ピンを打つ位置はかなりうるさく言われることなんですよ。特に甲虫の場合は、右側のこの鞘翅(しょうし)、羽のところにビシっと刺さないと怒られるんです。真ん中とか左に刺してはいけないんです。この醤油鯛、見てください。もうばっちり重心のところに刺しているでしょ。これはやっぱり、さすが昆虫学者って感じなんですよ! 30年も前のものですが、きれいでしょ? 醤油鯛も、集めてこうやって展示すれば、それはそれで美しいんですよ。さらにすごいのは、彼は解剖もします。口の部分のねじ切り方とか、ネジ山の状態、うろこの形状、尾びれの角度。魚の分類のときと全く同じことをやるんです。みなさん、これをご覧になったときにきっと一言おっしゃりたいのではないでしょうか? 「何の役に立つ?」。何の役にも立ちません。分類は何の役にも立たない、これは鉄則ですよ。役に立つ分類もあるかもしれないけど、そんなのどうでもいいんです。役に立たない分類ほどおもしろいんです。

彼も30年にわたってコレクションを集めて検索表まで作ったんですよ。大したものだと思いません? これ、30年前の1989年です。彼のハンコが押してあるでしょ。どういうことかというと、醤油鯛というものは分類の対象であって、きちんと、どんな特徴を持っているかを書けば、検索表だってできるということなんです。名前が全部書いてある。「城陽捻切」なんて書いてあります。彼は京都の城陽市の出身なんですけどね、「城陽捻切醤油鯛」「寿屋なんちゃら醤油鯛」って、和名がついているんです。こんな具合に、全然生物とは関係ないんだけれども、分類をするという点では非常におもしろい素材です。でも、醤油鯛、先ほども言いましたが、残念ながら絶滅が危惧されつつあるんです。

それに比べて、食パンをとめる道具。これは絶対絶滅しない。スーパーでもコンビニでも見ますでしょ? 私、最初に見たとき「パン袋クリップ」なんて適当に名前をつけたんです。日本だと埼玉県に唯一工場がありまして。バッグ・クロージャーという名前がついています。これが、実はちゃんと英語の名称、学名がついているんですよ、Occlupanidという。それだけではありません。「国際パン袋クリップ学会」ってあるんです。「国際パン袋クリップ協会」のホームページもあります。嘘じゃないですよ。すごいのは、ちゃんと英語の論文も出している人がいて、新種記載するんですよ。新しく出たのもあります。日本だけじゃないんですよ、パン袋クリップというのは。ラテン語でちゃんと名前をつけているんです。リンネの分類法とまったく同じように、属名があって種名がある。すごいのは、Kingdomって「界」ですね。Kingdom、Phylumは「門」です。要するに、階層的なリンネ分類体系で、全部名前をつけています。一番最後に、どんな特徴があるのか書いてあります。記載文がある。どこそこに産して、どんな特徴があって、と。パン袋クリップといえど、これくらいちゃんとやるんですよ。みなさん聞きたいでしょ。「なんの役に立つ?」って。なんの役にも立たない。実際調べていると、醤油鯛と同じように、ひとつひとつのパン袋クリップのパーツに名前がついていきます。カットのところ、挟むところ。口の中の歯と同じように考えれば、普通の生物と同じように。解剖をして特徴がわかるならば、当然私たちは系統樹が書ける。「おお~」って感じでしょ(笑)。つい声が出てしまう。「おお~」って。

つまりおもしろいのは、こんなの何の役にも立ちません。醤油鯛だってパン袋クリップだって、分類したところで何の役にも立たないんだけれども、分けるとなんか楽しいでしょ。おもしろいでしょ。名前がついているとワクワクするじゃないですか。今日の帰りにコンビニに行って、「あ、このパン袋クリップはどの種だっけな」って言い出すかもしれませんね。そういうおもしろさがあるんです。

●分けることの重要性

結局、ものを分けるのは、われわれ人間です。最初のスライドで見せましたように、スズメにとって、私たちのつけた名前なんてどうだっていいこと。ところがわれわれ人間にとっては、物に対して分類して名前をつけるのは、非常に重要な話です。

われわれ人間は機械ではありませんので、名前をどうやってつけるのかというときに、生き物である人間の特徴が絶対に反映されるはずですね。分類する者、われわれです。われわれはいったい、どんな生まれつきの分け方の特徴があるんだろうか。この分野は文化人類学がやっています。地球上にはもちろんさまざまな部族がいますよね。特に、字を持たない部族で、周囲の動植物がどんなふうに分類されているんだろうかという調査をしています。1960年代から、ほぼ半世紀かけて、さまざまなデータがあります。その中でおもしろいのは、たとえ原始人であっても、目の前にいる動物に対して、「これはいったいどんな動物なのか」って分けることはとても重要なことなのです。つまり最低限、目の前からやってくる動物は、自分に対して危害を加えるのか、それともその動物を捕まえて食べたらおいしいのかがわからないといけない。要するに生き死にに関係しますので、ものすごい重要な話です。先ほど分類は役に立たないと言いましたが、自然と向き合って生きる人間にとっては役に立つ分類がたくさんあったわけです。そうした場合に、われわれの祖先の原始人は、いったいどうやって分類をしていたのかという問題が当然出てくることになります。

●分類とは何か? そのやり方の特徴

文化人類学の中でも、特に認識人類学という分野があります。われわれ人間が持っている認知的な特徴、これを人類学的に見たときに、地球上のさまざまな部族のもっている分類のやり方には特徴があるということです。そんなことを、ブレント・バーリン(Brent Berlin)という人類学者が、今から30年ぐらい前にまとめました。彼はさまざまな部族が行っている分類のことを、「民俗分類=folk taxonomy」という言い方をしています。特徴は「ものごとはすべて階層的に分類される」ということ。要するに、大きな群、小さな群、さらに小さな群というふうに階層的に分類されます。もうひとつは「それほど深くはならない」ということ。いつまでもいつまでも、どんどん限りなく小さく分類をしていくというのは、行われない。そして、分けた群はサイズがほぼ同じになります。つまり、分類する相手は動植物で、地球のさまざまなところにいろんな動植物がいるわけですが、そういうものをどんなふうに分類をするのかというのは共通の様式があるということです。彼らが言うには、それらの共通の様式、通文化的特徴というのがあり、これは要するに人間がもともと分類をするときに持っている考え方なんだというわけです。

ちょっとまとめましょう。要するに分類をする者=われわれがいます。そして、相手には分類される側、対象となる「分類される物」がありますが、分類をするときにふたつの対極的な考え方があります。ひとつは実在論的な考え方です。分類をされる物の側に、「こう分けてほしい」、「ああ分けてほしい」という特徴があって、われわれ人間は、その分けるべき特徴を発見すればいいんだという考え方。要するに「分ける特徴は向こう側にあって、それをわれわれは見つければいい」というものです。ところがもう一方は、物を分けるわれわれの頭の中に、最初から「こんなふうに分けてやろう」という先入観があり、それに基づいて、相手に分け方を押しつけているというものです。つまりこの場合、われわれの頭の中が主で、相手に対して秩序を押しつけていますので、ある意味観念論という感じになります。ということは、分類すべき秩序が自然界の中に実在しているんだろうか、それとも単にわれわれの頭の中にあるだけなんだろうかというところで、非常に大きな問題が生じるわけです。もしも単に自然界側に分類される秩序があったとするならば、それを発見するのは、すんなりとサイエンスの話になってくるんですが、もしも頭の中にある固定観念があって、それを自然界に押しつけるとするならば、これはむしろ心理学、認知科学、そういったものが分類の大元になっている、そういう具合に考えてやる必要があるかと思います。

分類というのは意外に厄介なんです。分類学は、アリストテレス以来、生物学の中で非常に古い歴史を持っています。ただ、分類するということは、その分類をする主体があって、その対象があるわけですので、「分類とは何か」というのを考えるのは非常に難しい。昆虫の分類学者とか、魚類の分類学者というのはたくさんいますけれども、「分類そのもの」を考えている人は実はあんまりいないんです。せちがらい話ですが、あまり業績にならないというのがありまして(笑)、「分類そのもの」を考えるのは胃が痛いです。

ということで、第1のキーワードの「分類」に関して最初にお話をしました。ふたつめが「系統」。ここにも、また非常におもしろい話が多々あります。今日も、後半のところで系統に関する話をたくさんする予定です。

●どこかにいた祖先を、どうやって復元する?

系統という言葉だと、ちょっとなじみがないかもしれません。家系とか系図といいますと、もう少しなじみ深くなるかもしれませんね。いずれにしても大切なことは、系統、家系、系図、いずれも、現在存在している子孫は、ある祖先から分かれたものであるということ。われわれ人間は、自分の父母、あるいは祖父祖母とさかのぼっていけば、確かに祖先がいたことはわかるわけです。ただ、一般の生物の場合はどうでしょうか。たとえばそのへんに鳥がいますよね? その鳥が子孫ですね。そうすると、必ずどこかに祖先がいたはずなんだけれども、多くの生物の場合、祖先と呼ばれているものは、すでに絶滅してしまっている可能性があります。要するに、祖先はいたはずなんだけれども、それはすでに実在していない。ところがその子孫にあたるものはちゃんと存在して、たとえば鳥だったら今も飛び回っているわけです。

そうしたとき、われわれが考えなければいけないのは、現在存在している子孫、たとえばここにいるみなさんですね。みなさんから一代前、二代前、三代前、ほかの生物だったらもっと祖先をさかのぼっていきます。何百万年という単位でさかのぼっていったとき、どんどん祖先に関しての姿、形、風貌ってわからなくなってきますよね。にもかかわらず、現在われわれが子孫として存在しているわけですから、どこかに祖先がいたはずなんです。ではその祖先をどうやって復元すればいいんでしょう? というのが、家系図を決めたり、系統樹を作ったりするときの、一番大きな問題になります。要するに、現在の子孫は情報を持っています。たとえば生き物だったら姿かたちがありますし、最近だったら血の一滴もあればDNAを全部採れてしまいます。われわれはさまざまな情報を持っていますが、それに基づいて、どうやれば祖先をさかのぼって知ることができるだろうか、これが一番大きな問題になるのです。

●ダーウィンの系統樹

今まで長谷川眞理子さん、渡辺政隆さんが話されたと思いますが、モニターに出しているのが、ダーウィンの『種の起源』に出てくる、唯一のダイヤグラムです。すでに説明があったかもしれませんが、祖先がいて、それが分岐していくことによって、現在子孫がいるという図をダーウィンが『種の起源』の中で唯一書いた図なのです。でも、ダーウィンってすごい絵が下手なんですよ。奥さんのエマさんも「あなたって絵、下手ね」って言たということが、なにかに書かれているらしいです(笑)。

ところが、同じ生物学者でも、彼と同時代に生きたエルンスト・ヘッケル先生という方がいらっしゃいます。ここに分厚い本があります。値段を気にされている方がいらっしゃいますか? 2018年の新しい本なので、たった2万円です。その向かい側の古い本の方が、言えないぐらい高いです(笑)。あとでご覧になってくださいね。ヘッケルさんはダーウィンとほぼ同時代のドイツの人です。絵が非常にうまくて、絵描きになるか、動物学者になるかっていうんで、若いころ迷ったくらいの人です。すごい人は両方ともできるんだなと思います。海産動物専門だったんですが、示しているのは、彼が一番最初に描いた放散虫類というモノグラムです。彼はこの図版を全部自分で描いているんですね。単細胞生物という非常に小さい生物ですが、微細構造まで全部非常にきれいに描いています。今ではこれらは全部、インターネットで公開されています。そして、その十数年あとになりますが、イギリスが行いましたチャレンジャー号探検航海のレポートとして、その中に単細胞の生物に関する図版を描いています。彼は画才がありましたので、こういう絵をたくさん描くことによって、自然界にはいかに形態の多様性があって、われわれはそれを知らないままでいるのかということを示しました。専門的なモノグラムだけでなく、一般向きの本もたくさん書いています。

彼の非常に重要な業績は何だったかといいますと、ひとつひとつの生物がいかに多様であったのかという説明をすると同時に、そういうたくさんの生物は、全体としてどんな体系を作っているんだろうかということを図によって示したことです。先ほど「分類」という話をしましたね。「系統」というのは、それとは逆の捉え方をします。

モニターに出しているのは、脊椎動物の系統樹というものです。いかにも木のように書いてありますが、一番根元のところに祖先がいまして、分岐しますよね。そして、一番末端のところに、現在存在しているような脊椎動物の魚だったり、単孔類、頭索類など、さまざまな動物が分かれていく様子が、リアルな系統樹として描かれています。ダーウィンに比べると、やっぱりちょっと‥‥才能が違いますね(笑)。そんなことを言うと、ダーウィンに怒られてしまいますね。植物の系統樹でも、同じように、非常に繁茂するように系統樹を描いています。これのようにして、顕花植物、隠花植物、すべて描いていきました。こんなやり方で、彼は生物の体系、進化的な体系、それを示したわけです。

系統樹を書くことによって、単に時間的にどういうふうに祖先から子孫に分かれていくかを調べただけではありません。彼にとって非常に重要なもうひとつの要素は、空間的な生物の広がりを地図の上に描いたことです。1868年には『自然創造史』を書いています。これは何かというと、人間の系統樹です。当時はまだ、人間の祖先がどこに発生したのか、今だったらルーツはアフリカと言われていますが、彼の時代は、小アジアのあたりにルーツがあると。西に東に系統樹の枝が伸びていくわけです。そして、ベーリング海峡を通過して、新大陸のほうにも行って、一番最後は南アメリカの南端まで到達するということになります。ポリネシア、ミクロネシアのところにも、アジアから枝が伸びています。当時はこういう系統樹を地図の上にマップするためのデータが全然なかったんです。見ると非常にきれいですけど、データは全然なかった。彼の想像力です。こういう図が描けるようになったのは、最近の分子生物学、DNAの情報があってはじめてできるようになりました。人間の細かい分岐、地理的な分岐というのも含めてわかるようになったんです。ヘッケルはこんな考え方で、生物の系統発生を描くやり方があることを示したという点で、非常に重要な貢献をしたんだと考えられます。

彼の場合はひとつひとつの生物、動植物の美しさというものを図版として描きました。晩年の1900年代はじめ、河出書房から翻訳がでている『生物の驚異的な形』の中でモニターに出ているような図を示しています。動物から植物、まわりに描いてあるもの、全部がカラー図版です。彼は、そういったものが、生物の系統樹の中でいったいどこを占めているのかということを常に気にしながら描いていたんだということを知っておいていただければと思います。「系統」ということを考えるときには、それぞれの生物そのものの多様性を可視化するとともに、その多様性全体がどんな体系を作っているのかも表すという、そんな必要が出てきたんだと考えていただければよろしいかと思います。

生物だけとっても、生物の「分類」と「系統」という考え方の違いというのが、登場してくるということになるのです。

これは、生物だけじゃないんです。おもしろくて厄介なことは、いわゆる畑違いというようなところ、いろんなところで踏み外していかないと出てこないんですよね。これからお話をするのは考古学です。全然生物とは関係ありません。

たとえば、バッシュフォード・ディーン(Bashford Dean)という人。この人は、おもしろい経歴を持っています。19世紀末から20世紀はじめのアメリカ人です。もともとは生物学者としてトレーニングを受けていました。魚類の分類が専門で、東大の三崎の臨海実験所にも来たことがあります。彼は、マンハッタンにあるアメリカ自然史博物館という巨大なミュージアムで、魚類学のキュレーターをしていました。これが彼の「片方の足」です。そして、もう片方の足、これがもっとすごいのですが、同じニューヨークにありますメトロポリタン美術館の考古学部門を創設したということです。生物学者と考古学者という二足のわらじを履き続けた人でした。さっきも言いましたが、彼は日本に来ています。アメリカ自然史博物館であったバッシュフォード・ディーンの展示の図録を見ると、日本に来たときに、戦国時代の鎧を身につけているんです。戦いの中でどんな道具が使われてきたのか、それが時代的にどういうふうに変わってきたのかが、考古学者として一番の関心だったんです。武器の形状と様式は、時代とともにどのように変遷していったのか? この「武器の」というのを、「生物の」と置き換える、つまり進化的な考え方が、そのままそっくり考古学に持ち込めるんです。それを彼はやりました。

たとえば西洋の甲冑、鎧兜です。彼は、甲冑の頭から足先まで、どんな部品がどういうふうに使われてきたのかを調べました。時代ごとの鎧兜の形状の変化を見てみたら、系統樹に描けるのではないかと考えたんです。もちろん鎧兜が自分で子供を産むわけじゃないですよ。それでも、最初のスタイルを先祖として、うまく改良して次のスタイル、つまり子孫のスタイルを作りますね。要するに、祖先的なスタイル、子孫的なスタイルと作っていけば、鎧兜はどんどん変化していきます。それを時間的に並べれば、系統樹的に描けるのではないかと思ったんです。彼はこの考え方をもっと進めました。胸当て、つまり胸甲ですね、この部分だけを見ても、いろいろな形状に分岐しているし、さらに剣(けん)を見たって分かれてくるだろうと。彼自身は鎧兜の時代的な変遷を系統樹的に描くことによって、はからずも進化的な考え方を考古学的なものの中に持ち込んでいきました。これが1910年代、100年前の話です。そんなことを考えますと、進化的な、あるいは系統的なものの考え方というのは、生物だけにとどまらず、昔からいろんな方面に使われているということを知っておいてください。

2番目の考古学の例は、もう1世紀飛びます。つい数年前、2014年です。オンライン誌の”Journal of Anthropological Archaeology” 人類学的考古学ジャーナルという雑誌がありまして、そこに石器の鏃(やじり)に関しての論文が出ました。オープンアクセスなので、どなたでも読むことができます。日本にも石器の鏃ってありますから、写真でご覧になったことがある方もいるかもしれません。黒曜石を剝いでつくったものです。この鏃はもちろん時代によって形状が変化していきます。これの形状の変遷をたどろうというのが、この論文の一番大きな特徴です。

まず、その鏃が何年ぐらいに作られ、どこで出土したのか。これは、考古学をやっていれば基礎データですからわかります。いろんな場所、年代で鏃がでてくるわけですが、その特徴を解析しようとしたものです。1本の鏃があった場合、その末端部分から根本部分にかけて、どんなふうな形状的特徴があるのか。そして、鏃の根元の部分は棒に結わえ付けますから、結わえ付ける部分の形状が丸かったりとがっていたりします。ここにも違いがあります。さらにこの結わえ付ける部分の深さの違いがあります。思い出してください、これはちょうど醤油鯛と同じですよ。鯛の形を見るのと同じように、1本の鏃からいろんな特徴を抽出することができますね。そうすると系統樹が書けるわけです。さらに言うならば、このひとつひとつの鏃は、どこで出土したのかという、地理的な情報を全部持っていますから、それをマップの上に書いていけば、アメリカの東海岸で、どこでどういうふうにそれが生じてきたのかというようなことがわかります。ある特徴のある鏃は、この地域だけに限定されているよというような、地理的な話まで含めて、私たちは知ることができます。最近の分子生物学などでは、各生物の遺伝子的な情報から、地理的にどんな分岐をしていったのかを知る研究があります。それと同じようなことが、考古学でも作ることができるわけなのです。

●文学への応用も

先ほどから、「最近の生物学ではDNAの情報を使って」などという言い方をしました。遺伝子の塩基配列から系統樹を推定するのは、たまに新聞なんかでもネタになります。みなさん、自分の遺伝子の塩基配列を見ることないと思いますけれども、示しているのが、人間を含むホモ・サピエンスの、ミトコンドリアのある遺伝子の塩基配列です。DNAというのは「A(アデニン)」「G(グアニン)」「C(シトシン)」「T(チミン)」という4種類の核酸塩基がずらっと鎖状に並んでいます。並び方は、種間でも違いがあったりします。この図は、同じ塩基は同じ色にしてあります。一行ずつ別々の生物種になっていますから、行ごとにみていきますと、同じ遺伝子の塩基配列のはずなのに、微妙に色が違っている場所があります。これは分子進化での塩基置換というんですが、この違いを見て、どの生物とどの生物が近縁かというのを調べられます。これを分子系統学といいます。例えば、今だったら非常に役に立つコンピュータソフトウェアがありますから、塩基配列データがあれば系統樹がさらさらと書けるわけです。

この話は遺伝子とか塩基配列などですから完璧に生物の話なんですが、いったん中世文学に飛びます。『カンタベリー物語』です。私は全部を読んだことありません。でもみなさんも、読んだことがなくても、そういう有名な物語が中世のイギリスにあったってご存知だと思います。この『カンタベリー物語』は、イギリスでは、日本でいうところの『源氏物語』みたいなものですから、イギリスの国家プロジェクトとして、『カンタベリー物語』の原稿、写本のどういうふうな伝承があるのかということが調べられています。

中世、『カンタベリー物語』が作られたころは、コピー機なんてありません。元の原稿があったら、必ず手で書き写さなきゃいけないんですね。『カンタベリー物語』が書き写されて現在にまで伝承されているということは、当然人間が書いていますから、いろんな間違いが生じたりするわけです。重要なのは、間違いが生じると、その間違いを含めて後世の人は書き写しますから、間違いが伝承していくことです。たとえば『カンタベリー物語』の場合、BRITISH LIBRARY(大英図書館)とか、CHRIST CHURCH(オックスフォードのカレッジ)とか、4カ所に伝承されている写本の、ある、同じ文章をピックアップする。中世英語ですから、今の英語とは全然違うんですけどね。同じ文章のはずなのに、違いがあります。たとえばwithです。ある本はwyth、昔の綴りですね。withが、そのまま書かれているか、略されているかの違い。his。これもhysとhisの違いがあります。固有名詞の綴りも違いがあります。ほかのところが同じなので、同じ文章であることはわかるんですけれども、一部分だけ違いがあるんですね。そうすると、先ほどみなさんに、塩基配列というのはAGCTという塩基がずらっと並んでいて、それで遺伝暗号を作っているという話をしましたが、この文章、要するに26文字のアルファベットを並べて作った配列データですね。とすると、塩基配列のAGCTの並びと、『カンタベリー物語』の二十数文字のアルファベットの並びって、同じじゃないですか。要するに配列情報ですよね。それで、今から20年前ですが、『ネイチャー』に載ったんですよ。『カンタベリー物語の系統発生』という論文です。これがすごいのは、解析に使ったソフトは、分子系統学で用いられているソフトと同じものを、アルファベット二十数文字の配列に対して当てはめたこと。だから一方では分子系統のDNAに関して、生物間の近縁関係の論議があり、もう一方では『カンタベリー物語』の文字の違いの話があり、一方は生物学、一方は中世文学、全然何の関係もないんですが、祖先を復元していくという点ではまったく同じで、理屈も同じ、使っているソフトウェアも同じ。

そんなことを考えると、畑違いであっても、ここで行われている祖先の復元をすることというのは、実は非常に似たようなことをやっているんじゃないかということを、私たちは知ることになるわけです。だから理系やら文系やらっていう違いはもう何の意味もないんですね、場合によっては。だからこんなふうに考えると、分類とか系統というのは、単に生物だけと限定するのではなくて、いろんなものに同じような考え方が使われているということを知ることになります。

●「棒の手紙」

私、この手の話をするときは、必ず「棒の手紙」の例を出すんです。ここにいらっしゃるみなさんの年代を見ると、「不幸の手紙」を見たことがある、自分で書いたことがある方もいらっしゃると思いますが(笑)、不幸の手紙というのは、ある人に不幸の手紙なるものが来て、「何時間以内に何人に同じ文面で出さないと不幸がやってくる」と。1980年代から1990年代に起きた社会現象なんですが、「棒の手紙」というのはそのひとつなんですよ。読んでいただければわかります。ちょっとみんな怖いと思うんですけど、「28人の棒をお返しします。これは棒の手紙と言って知らない人から私の所に来た死神です。あなたの所で止めると必ず棒が訪れます」。怖いですね(笑)。「郵便番号180、東京都武蔵野市なんちゃらかんちゃらの成城大学法学部のなんちゃら美穂さんが止めたところで、川部なんちゃらさんに殺されました。12日以内に文章を変えずに28人に出してください。これはイタズラではありません」と。棒が来たら怖いですよね(笑)。当然笑うのは、「この棒って何だろう」って。「不幸」なんですね。わかります? もともとは「不幸」。くっつけて書いて「棒」。手書きで手紙を書いていた時代ならではの事例だと思います。棒ってどう考えても文脈的に変ですけれども、不幸の手紙というのでは、同じ文章をそのまま書かないと、棒が来るんです。怖いです。だからこの「棒の手紙」は師資相承伝わっていきまして、棒の手紙の系統樹となります。たいしたものでしょ。こんな話は本当にたくさんあります。何の役にも立ちませんけど、おもしろいでしょ。

もうひとつ、『百鬼夜行絵巻』というのは、室町時代に作られた日本でも非常に有名な絵巻図で、水木しげるとか京極夏彦とか、ネタを取るのに『百鬼夜行絵巻』を出してきますよね。絵巻という名前からわかりますように、ずるずるずるっとロール紙に書かれています。ダーッと横に伸びて、いろんな化け物が次々に登場する。重要なのは、文章がないんですね、これ。この『百鬼夜行絵巻』、国際日本文化研究センターの山田奨治さんという方が、こういった文化系統学的なものをやられていました。『百鬼夜行絵巻』という写本を見ていくと、文章が全然ないんですけれども、同じ化け物が写本によって登場する順番が違うんですよ。たとえば、真珠庵本に出てきた化け物が、別のやつだと違うところに出てきている。こういう違いを調べることによって、この絵巻とあの絵巻の近さ、遠さを調べることができないだろうかと。もちろんわかりますように、食い違いが少ない写本ほど近縁ですよね。そういうことを考えますと、食い違いの近い写本、遠い写本がある。数カ所で済むところもあれば、十数カ所違うところもあって、そんなふうなのを見てやれば、われわれはどの写本とどの写本が近いの、遠いのという系統関係を作ることができると。だから遺伝子塩基配列みたいに、配列情報があってはじめてわかる系統もあれば、「棒の手紙」みたいなものもあれば、あるいは『百鬼夜行絵巻』のように、全然テクスト、字はないけれども、特徴をつかめば系譜関係を調べることができるんだと、そんなふうなことをみなさんに見ていただいて、分類、系統というのがいかに幅広い世界を持っているのかというところ、これを知っていただきたいと思います。

で、こんな具合にいろんなネタを出せば、当然、やっぱり分類が大好きになるでしょ? ワクワクするでしょ。「こんな役に立たないもの」なんて思わないでしょ。お手元に紙が1枚配ってあります。休憩時間に、自分が関心を持っている分類体系、たとえば今日話を聞いて、こんなものに関心を持ったとか、あるいは思い起こせばあれはいったいどんな分類だったんだろう、あるいは逆にどんな系統だったんだとか、もしもそういうことを思いつくこと、あるいはインスパイアされることがありましたら、ぜひ書いてみて、自分の分類に対する愛を確かめていただきたいと思っております。ここで休憩を入れます。

(休憩)

●分類と系統の間の関係とは?

休憩前には、分類と系統というふたつのキーワードを中心にして、私たちが分類学、あるいは系統学という名前で知っている「ものの考え方」が、いわゆる文系、理系、両方にまたがるさまざまな分野で登場して、しかも日常生活に非常に近いところにあるという話をしました。では、その分類と系統の間の関係っていったい何なんだろうかということを、みなさんにお見せしようと思います。私は10年ぐらい前から、「多様なものを分けるには分類思考と系統樹思考があるんだ」という言い方をしてきました。要するに同じものであったとしても、それを分類的に分けるのか、それとも系統樹的につないでいくのか。今日のタイトルにも出てくる「わける」と「つなぐ」っていうのは、そういう考え方の違いですね。まずは、少し模式的な話を最初に出して、それから具体的な話に行こうと思います。

たとえば、これはとても模式的な話なんですが、分類しようとしている対象を、黒丸で表します。生き物でも、醤油鯛でもなんでもいいです。そういったものがあったときに、この目の前にあるオブジェクトをどういうふうに分けるか。分類的に考えるというのは、とにかく似ているものをひとつの群にしていくわけなので、近いもの同士をグルーピングしていく。そうすると似ているものは同じ群で、違っているものほど大きく外に分かれた群というふうになりますから、入れ子のグルーピングを考えてやれば、分類という整理整頓ができるでしょう。

一方で、系統的なものの考え方というのは、同じものに対して違うアプローチを取るんですね。今見ている黒い点々は、要するに「子孫」であると。この黒い点々の子孫をつなぐような系統樹を作り出せということなんです。これが系統的なものの考え方です。

並べて書きましょうか。分類というのは、似ているもの同士をグルーピングしていって、階層的に整理しました。ところが系統樹の方は、まったく同じ黒丸の対象物に対して、違うアプローチを取ります。黒い点々を末端とするような系統樹を作りなさいと。そうすると、ところどころ分岐点(この場合、赤い丸)ができる。これはなにかというと、「絶滅した祖先」であると。要するにわれわれが見ているのは、末端、要するに子孫ですね。そして、そういったものの血筋をたどれば、もうすでに死んでしまった祖先を経て、大元の大祖先にまでたどり着くだろうと。こんな具合に考えてやりますと、見ているものが同じであるけれども、考え方には分類と系統のふたつの考え方があることがわかる。

そうしたときに私たちが直面する問題は、では、その分類と系統の相互関係はどうなるか。たとえば、近いものをグルーピングしたら血縁的にも非常に近かった場合、分類と系統がイコールになるわけです。これだと非常にハッピーなんですが、「他人の空似」という言葉をご存知かと思うんです。要するに、よく似ているんだけれども、血筋をたどれば全然違うと。たとえばここ、非常に近い黒丸をひとつの群にして、「外見的に非常によく似ています」。ところが血縁をたどると、「ん? 全然違いますよ」。つまりこの場合、「他人の空似」で、最終的な枝の末端は似ているんだけれど、血筋をたどると、全然違うところに血筋があると。こういう場合困るのは、分類した結果と系統の結論がイコールじゃないことなんですね。そうした場合に、いったいどうするかというので、しばらく前には、生物分類学、生物系統学でも、けっこうな論争がありました。今でもそのわだかまりが残っているかもしれません。植物の分類がそうなんですが、基本的には、系統樹をまず考えて、それに整合的な分類体系を作ります。

考え方としては、「分類というのは系統の切片である」と。示している図は、先ほど入口にも置きましたが、マックス・ヒュルブリンガー(Max Fürbringer)というドイツの鳥類学者が1888年に描いた、2000ぺージにわたる、鳥の神経のモノグラムの本の図版で、鳥の系統樹です。これが非常におもしろいのは、系統樹が3次元的なんですよ。2次元の大きいプレートの上に石版画で書いているんですけれども、それが紙の前と後ろ、ふくらみを持っている。要するに普通のリアルな樹木と同じですよ。リアルな樹木にふくらみがあるならば、スパンと横に切りますと、当然その切ったところに枝の断面がありますよね。で、それを彼は分類体系と見なしましょうと言う。つまり、根元の所で切れば細い枝が密集しているけれども、枝が広がっているところで切れば、もっと大きい枝の広がりがあって、さらに一番てっぺんまでいくと、別の切り口が見えてくる。彼に言わせれば、分類というのは系統樹から派生するものであって、どこの断面で切るかによって、その分類群の在り方は違ってくるでしょうと。これが彼の言う「鳥の分類と系統の相互関係」だと考えられるんですね。だからおそらく、理屈の上からいえば、分類体系というのは系統樹から派生するものだと考えるのが一番ロジカルではあるんですけれども、今日、一番最初に言いましたけど、分類というのは生身の人間が、世界に相対して、その世界の中にあるものを分けていくという、ものすごく生々しい話なので、理屈じゃないんですよ。理屈じゃない。つまり、理屈ではこうやってしまえばいいのかもしれないけど、理屈では太刀打ちできないところが分類のやっかいなところなのです。

●実はやっかいな学問、分類学

5年ぐらい前に翻訳した本があります。なぜ生物分類学を巡っては、いろんな論争が起きるんだろうかと。一番大きいのは、要するに一方では系統樹というロジックがあって、もう一方では分類というのは心理、認知の話なので、ロジックで切れないんですね。そういったものが分類学という世界の中には両方入っているから、必ずいろんなところで対立が起きてしまうという、これが一番重要な点であるかと思います。

だから分類学は実はやっかいな学問なんです。世の中に分類学者はたくさんいて、「分類とは何なのか」、「種とは何なんですか」というところで論争が起きるわけです。「新種発見」とか言うじゃないですか。「じゃあ、種っていったいなんだ、今までの種となにが違うんですか」っていわれたときに、答えはないですよ。ある分類学者が、「これ新種」と言ったら新種です。そのときたとえば、新種に関して論争が起きたときにどうしましょう。例えばAという分類学者は、今度新しく見つかったやつは新種であると言いたい。ところがBという大家は、「いやあ、それは新種とはいえない、今までのやつの変異にすぎない」と。そうしたとき、AさんとBさんの論争って、どうやって解決するんですか? これは、解決の仕方があるんですよ。2人とも死んでしまえばいいわけです(笑)。2人とも死んで、で、「ああ、2人ともいなくなった」って若い分類学者が言って、「実はこれはこうでした」と。それが一番いい。本当ですよ。分類学の世界というのは、論争が始まると、ケリがつかないんです。ケリがつくのは、2人とも向こうの世界に行ってしまってから。ほんとよくあります、それは。あ、これもひょっとしたら、全部録音されている(笑)?

それで、今日の2番目の大きな話題が、可視化。われわれは、多様なものを自分の目で理解しようとするときに、何らかの方法でビジュアライズ、可視化する必要に迫られます。2012年に、『系統樹曼荼羅』という図版ばかりの本で、文系理系を問わず、古今東西どんな系統樹、あるいは分類のダイヤグラムが使われてきたのかをまとめました。ダイヤグラムには、簡単な系統樹から複雑な系統樹まであります。今、そこで仮に言葉としてチェイン・ツリー・ネットワークと書きました。これは言葉で書くよりは、むしろ絵で描いた方が早いと思います。チェインというのは一本鎖ですね。ツリーというのはさっきのダーウィン、ヘッケルのやつで、祖先から分かれているもの。一番複雑なのは、ネットワークなんです。これはフォーロングの宗教系譜にもあるんですが、いったん分かれた枝が、もう1回くっつく。生物の場合でも、交雑、ハイブリッドってありますね。分かれたものがくっつくということです。チェインはもっとも単純なダイヤグラムで、ツリーがやや複雑、ネットワークはとても複雑、という具合に、同じダイヤグラムという名前で呼ばれていても、その簡単さ、複雑さによってグレードが違っているんですね。

たとえばチェインで表される多様性の例が一つあります。1745年にシャルル・ボネ(Charles Bonnet)というスイスの博物学者が書いた「存在の連鎖」。これは一番古い多様性に関する考え方で、「神はもっとも原始的なものからもっとも高等なものへ、一直線で登れるように書きました」ということです。「存在のはしご」と言います。ギリシャ時代以来、プラトンもそうですし、いろんな人が全部言ってきたんですが、ボネは実際の生物で「存在の連鎖」を図に書いたというのが一番重要な点です。フランス語で書いてあります。自然物に対する存在の連鎖と。一番てっぺん、L’Homme、これは人間ですね。その下にオランウータン。下がってQUADRUPÈDES、四足類ですね。OISEAUXというのは鳥です……という具合に、人間をてっぺんとして、下等な動物へとどんどん下りていく。どこまで下りていくのかというと、そのうちINSECTES、昆虫が出てきますね。さらにその下までいきますと、PLANTES、植物、プラントですね。さらに下りていくと無機物質。最後は火とか土とか、いわゆる四大元素と呼ばれる、昔ながらの考え方があるようで、それで全部おしまいということになります。神様から、高等な人間、下等なものまでずらずら一直線に書きましたよというのが、「存在の連鎖」の一番典型的な例です。

ダーウィンやヘッケルのツリーというのは、たどると実はキリスト教の美術に、「エッサイの樹」というのがあります。(今見られる最古のものは)12世紀です(サンティアゴ・コンポステーラにある)。エッサイは旧約聖書に出てくる聖人の名前です。そのおなかのところから木が生えて、その上に子々孫々、聖者がずらずらと並んでいて、その頂点がイエス・キリストだという。これを「エッサイの樹」といいます。生命の樹というのは、もう昔からある考え方なんですが、要するに繁栄の象徴です。木を伸ばすことによって子々孫々繁栄していくと。そういったものを宗教的に書いたのが「エッサイの樹」ということになります。ダーウィンは19世紀ですが、それよりはるか7世紀前の12世紀には、進化系統樹みたいなツリーによってつながりを書くということが行われていたわけです。モニターに出しているのは、フィオーレのヨアキムの歴史の樹、同じようなツリーですね。これは『デカメロン』を書いたジョバンニ・ボッカチオが、生前こっそり書いていた異教の神々の系図です。ギリシャ、ローマ神話で神々の系譜を描いています。ツタが絡まるように、祖先がいて、神様が分かれて出てくる。これも私、この写本の復刻版を持っていますが、これもけっこう高いんです(笑)。

●分類している人を見るのが好き

よく「なんでこんなの集めるんですか」と言われるんですが、私の場合はちょっと興味の持ち方が違っています。だいたい分類学者って、たとえば虫の分類とか、魚の分類とか、「これこれの分類」というじゃないですか。私はむしろ、分類している人を見るのが好きなんです。「この人、なんでこんなの分類しているのか?」、「どうやって分類しているのか?」って、要するに分類をしている人を横から見るっていう、ちょっと変わった性癖を持っています。だから分野を問わず、いろんなところでどんな分類をされているのかが、とても気になります。そんなふうなことは、ボッカチオの図にもありました。これは、すごいですよ。アタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher)という人のカバラ哲学の本で、これも17世紀だと思います。お見せしているのが「歴史の樹」で、おどろおどろしているのが「時間の樹」だと思います。カバラの樹です。こういうふうに分野を問わず、いろんなところでツリーが出てくる。部屋の外で見ていただいた、フォーロングの系統樹、これはもうネットワークの最たる例だと考えていただければよろしいかと思います。昔から現在に至るまで、時代を問わず、チェインだったり、ツリーだったり、あるいはネットワークだったり、そういったものが使われてたんだよということを、お見せしたわけです。

蒐集の対象はもうエンドレスです。みなさん、たとえばパソコンで文章などを書くとき、どんなフォントを使うか気にされますよね。このフォントというのは、アルファベットですと、一番祖先がもう決まっています。トラヤヌス帝の碑文という、紀元114年のイタリアにあります。これがローマン体の一番の祖先ですね。フォントというのは、ご存知かもしれませんが、何年にどこの工房でこのフォントを作ったっていうのがわかりますので、系統樹が書けるんです。これ、フォント(ほんと)の系統樹です。すいません、洒落にもなっていない(笑)。

先ほども言いましたが、私、変なものが好きです。いったいどうやって分類されているんだろうかと、どこでそういうものに会うのかというのを見るのが好きなんです。この本は、漫画家とり・みきさんが10年以上前に書かれた、『街角のオジギビト』。言われるとおそらく気がつくと思います。街角の工事現場で、「危険ですのでお気をつけください」って看板が立っていたりするじゃないですか。あれがオジギビトです。1953年、大成建設の庶務課長さんが、オジギビトの祖先です。それまでオジギビトいなかったんですね。庶務課長さんが、オジギビトの創造主。そういうものがあれば、道行く人が用心するから、「あ、これは役に立つ」というので、オジギビトが増殖する。それを、とり・みきさんがコレクションして書かれているんです。今度、見てください。どっち方向におじぎしているか、何を持っているのか、いろんな特徴があって非常におもしろい。言われなければわからないですけど、言われればきっとわかると思います。非常におもしろい分類ですね。

次は、筑波大のにしむらたかひろ君というのが、ちゃんと系統推定の僕のソフトウェアで、ポケモンの系統分類学の系統樹を書いてくれました。

次は、またちょっと違うんですよ。先ほど、系統樹は本当にいろんなところにあると言いました。みなさん、JR九州に、ななつ星をはじめとした、非常に豪華な特急があるのはご存知ですね。あれは水戸岡鋭治さんというデザイナーが描いているんですが、これは彼が、JR九州の車両のデザインが時代的にどう変遷してきたのかを描いた、なにかの展示会のパンフレットです。見ていただきたいのは、JR九州の末端のところ。水戸岡さんが描いたななつ星があります。7、8年前のだと思いますが、まだちょっとさみしいんですね。ところがその4、5年後に、大分県で水戸岡さんの展示会があります。これ、もっと華やかなんです。同じJRの車両というので、なにか入らなきゃというので、前のは枝ばっかりで、枯れ枝みたいでしょ。ところが、新しいのはちゃんと葉っぱが出ている。すごいのは、ななつ星のところだけ花が咲いている(笑)。やっぱり重みがあるんだと思います。ななつ星だけ花が咲いている、そんな車両の系統樹です。

次はチキンラーメンです。食品というのは、いわゆる淘汰圧がものすごいかかっていて、売れなければ即絶滅ですよね。ところが売れれば、新商品が投入される。生物に比べはるかに厳しい世界を、カップラーメンにしろ、インスタントラーメンにしろ、経ているんですね。みなさんご存知かもしれませんが、1958年に最初のチキンラーメンが生まれました。私が生まれた年です。最初に生まれたチキンラーメンというのは、お鍋に麺を入れて、お湯をさして、3分でしたっけ? 煮れば食べられる。ヒット商品ですからいろいろな類似品が出たんですが、日清食品のラーメンの系統樹がおもしろいのは、あるところで大ブレイクするんです。71年、カップヌードルです。鍋がいらなくなったんですね。それまではお鍋を用意して、そこに入れてっていう手間が必要だったんですが、カップヌードルが出ると、容器にお湯をさして、待てばいい。これはすごいというので、このあと、カップラーメンの天下布武状態です。カップラーメンの天下で、カップラーメンだらけ。こういうふうなことを考えますと、食品の系統樹というのはかなりおもしろい。要するに、文化系統学的にというか、食品文化的に非常におもしろい素材を見せている。たしかラーメンの博物館が横浜かどこかにありましたね。あそこにこれの大きい系統樹があると聞いたことがあります。確認はしていません。

●ビールの系統樹

実は今、『ビールの自然誌』(勁草書房から2020年1月刊行)という本の翻訳の真っ最中です。ビールファンの方、いらっしゃると思いますけれども、ビールというのは、非常に種類がたくさんあるんですね。醸造するときの上面発酵酵母のエール類と、下面発酵酵母のラガー、要するにラガーとエールと大きく二つに分かれるんです。ビールの系統樹を書くときには、必ず最初にラガーとエール、上面発酵と下面発酵に分けるんですが、いろんな銘柄を全部つなげますと、系統樹になります。「ビールの系統樹」ってググっていただきますと、本当にいろんな人が、いろんな系統樹を書いているんですよ。おもしろいのは、示しているふたつとも、いわゆるツリーモデルで描いているんですが、ところどころ、ハイブリッド、交雑もあるんですね。ただ、人によっては、こういうツリーで分岐させるというのは、実はよろしくないと言います。ビールは元素の周期表になるんですね。これ、すごいです。Periodic Table of Beerでググっていただければすぐ出てくると思います。左側がエールの仲間、右側がラガーの仲間ですね。もう本当にメンデレーエフの元素の周期律表と同じように、こういう具合にまとめることができると。だからビールひとつとっても、系統樹を描くのか、それとも周期律表的に分類するのかという違いが出てくるということ、これを知っておいていただければと思います。

キリがないです、こんなのやり始めたら。本当に。でも、キリがないといいながら、私、数年間にわたって、「系統樹ハンターの狩猟記録」というのを書いております。本当に、キリがないとはこのことっていうやつです。アニメのロボットキャラクターの系統樹。調べれば調べるほど、変なところに系統樹があるんです。最近こそ、ちょっと頻度が減っていますけれども、2012、3年、さっきの『系統樹曼荼羅』を書いていたとき、鬼のように集めていました。車椅子の系統樹もあります。神話の系統樹。星の系統樹。本当にキリがなくあるんですよ。アップル社の製品系統樹とかね。その気になって探し出せば、私が知らないような系統樹も多々あるかと思いますので、「系統樹ハンターの記録」というのが多々あるということをお見せしておきたいと思います。ここで休憩にします。

●「個物の記載」と「原理の体系化」

最後の部に入ろうと思います。これまでのところでは、要するに人間というものは、なにかしら分類、あるいは系統に関して思い入れがあって、分野を問わずさまざまな題材を分類してきた、というふうな話をしました。では、人間というものが、分類に関して、ある一般的な性質を持っているとするならば、たとえば社会との、あるいは文化ごとの影響というのはいったいどうなるんだろうかというのが、次の問題になってきます。つまり、一般的なホモ・サピエンスだけではなくて、たとえば日本に住むわれわれは、分類に関してどんな特徴を持っているんだろうかとか、そういうローカルな話に落としていく必要があるかと思います。そうしたときに、日本を含む東アジア文化圏というのは、非常におもしろい特徴があります。それを今、個物崇拝と普遍原理というふうな言い方で表そうと思います。

日本人全般にそうなんですが、ひとつひとつの物に対しての思い入れがものすごくあるんですね。たとえば、コレクションだったり、家宝でもいいですけど、自分が持っているその物に対しての思い入れがすごくあります。今、「個物」って書いたのは、そういう意味です。ところが、西洋の博物学なんていうのを考えると、彼らは原理がすごく重要で、どういうふうな原理でもって、分類、整理、体系化すればいいのかという、こちらの方にむしろ非常に意欲を燃やしているわけです。そうすると、ひとつひとつの物は、さっきの醤油鯛もそうですけれども、パン袋クリップもそうですけれども、記載しますよね。一方、原理というのは、「体系のための規則」みたいなものを作るわけです。そうすると、個物を記載するという部分と、原理を体系化する部分って、実は別々なんですね。

グローバルの説明原理についての原理、体系というのは、たとえば西洋の博物学なんかではよくあるんですけれども、日本あるいは日本を含む東アジアは、「個物の記載」が大好きなんです。日本の分類学者もかなりの部分、そういうところがありますね。原理原則はどうだっていい。自分が持っているもの、「この虫のこれが大事だ」と、そういうのがある。ほとんどそうなんですよ。虫だけじゃないですよ、貝でもそうですけど、あるんですよ。だからそういう意味で言いますと、この「個物の記載」と、「原理の体系化」というのは、同じナチュラルヒストリー、博物学っていうのを考えると、全然違う世界というふうに考えたほうがよろしいのかもしれません。

日本あるいは東アジア文化圏の分類学は、どんな特徴を持っていたのかというと、かなり的確に指摘されている本が何冊かあります。3冊、これはというのを挙げたんですが、特に西村三郎さん、京大の旧教養部にいた生物の先生なんですけれども、亡くなられるちょっと前に、『文明のなかの博物学:西欧と日本』という、上下巻で750ページぐらいの大きい本を書かれました。この中で、博物学というのをキーにしたときに、西欧と日本で考え方が全然違うと。なにがどう違うのかというと、普遍的な「原理」ではなくて、「個物」を崇拝してしまうという強い傾向が、日本ならびに東アジアには確固としてあるんだと。コレクション大好きっていうやつですよね。この原理ではなく個物を崇拝するというのは、いったいどんなふうに発現するのか。西村さんの本の一節なんですが、こういうふうな弊害になります。

「個々の事物に対する強い関心・好奇心とはうらはらに、事物全体を見通してそれを総括し、ある理論なり体系なりをみずから構築しようとする意識の低さないし欠如」。よくありますね。つまり一個一個のものは好きなんだけれども、全体を上から見下ろす体系化がなかなか日本では育ってこなかったというのが博物学なんです。日本の本草学と西洋の博物学の大きな違いとして、西村さんは言っています。みなさん、「あ、うん、あるある」というのがおありかもしれませんけれども、これがすごいんですね。

では、日本人は原理原則が嫌いなのかというと、嫌いじゃないんですよ。これがちょっと困ったところ。「東洋の原理的思考なるものは『陰陽思想』に代表される超越的思弁であって、自然界を『説明したような気分、理解したような気分』をもたらした点で有害であった」。超越的思弁といわれても、おそらくぴんと来ないでしょうけども、こんな例をお見せしようと思います。三浦梅園は、江戸時代に大分にいた思想家です。彼はほとんど藩の外には出なかったんですが、18世紀に彼が取り組んだのが、非常に難解な著作で、森羅万象を陰陽思想に基づいて分類しようとしました。この『玄語』という著作は生前は未発表でしたけれど、大分の彼の記念館で出しています。要するに、陰陽思想で未分岐的にすべてのものを全部分けていると。天、地、水、要するに自然界全体ですけれども、生物だったら生物に関してもこういうふうなことを出してきます。だから三浦梅園の場合、分類をするよりどころは、昔ながらの陰陽思想というものがあったわけです。そういうふうなものもあったんだなと思います。

ところがもうひとつあります。ご覧になった方いるかな、南方熊楠の南方曼荼羅です。これはもうちょっと有名かもしれません。なにかというと、けっこう落書きみたいなのを書いています(笑)。これは、森羅万象を理解するためには、いくつかの点をネットワークで結ばないといけないんだと。これはいったい何に起源するのかっていうのが議論されてきたんですが、要するにこれは仏教的な世界観なんですね。ネットワークで全部つないでしまおうというのは。なんでそんなことを言うのかといいますと、東大の植物学科に早田文蔵という人がいまして、東大で植物分類学を教えていた人なんですが、彼が実はそっくりの図を1920年代、熊楠よりももっと前に書いているんですよ。非常におもしろいのは、ぱっと見、すごいきれいでしょ。ビーズを糸で通したみたいに。早田に言わせれば、一個一個のビーズの玉が遺伝子で、こういったものがネットワーク的な網によって絡めとられている。それが発現することで森羅万象となる、というわけです。確かに早田文蔵は植物分類学のサイエンティストだし、彼が言うんだったらなにかしら根拠があるんじゃないかと思いがちでしょ。

ところが、ちょっと話が違っていました。彼に関して日本ではまだ伝記は出ていないんですが、2016年に台湾で――早田文蔵は台湾の総督府で長らく台湾の植物相を研究していましたから、むしろ台湾では名前が売れているんです――、分厚い、400ページぐらいの本が出版されました。台湾語が読み書きできる方なんて、そういらっしゃらないと思いますが、旧字体が読める方でしたら、台湾の本って全部読めるんですね。むしろ、中国の簡体字より、はるかに読みやすいです。私、台湾語できませんけど、文章を見ていると何が書いてあるか全部わかる。そんな意味では、台湾の本って、普通におもしろいです。この中で著者が言っているのは、早田文蔵がもともと台湾にいたときに、先ほどのネットワークを書きました。それはこの最後の『台湾植物図譜』という、1921年に出版された本の中で書いているんですけれども、いきなり図が出てくる。どういうことかといいますと、この本は、台湾にどんな植物が生えていて、分類すればどうなるのかと、割と地味な分類学の本なんですね。確かに台湾の植物相に関してのまともなモノグラムで、植物の絵もあり、さすがに早田文蔵と思うんですが、いきなり差し込み図版でこれが出るんです。全然脈絡ないんです。要するに植物の絵がたくさん描いてあって、どこそこにはこの植物がいてと、いきなりバーンとあのカラー図版が出てくるんです、間に。この図版があって、脚注にこんなことが書いてあるんです。先ほどのネットワーク、「この比喩的な図は天台宗華厳経の寓意図〈インドラの網〉であって、これにヒントを得たものである」と。科学論文ですよ(笑)。天台宗華厳経ですよ。熊楠の南方曼荼羅も、おそらく華厳経の影響があることは間違いない。ネットワークで万物をとらえる。考えようによっては、ものすごくモダンなやり方なんですけれども、少なくとも早田文蔵が1921年にネットワークを出したときには、天台宗華厳経ですよ。僕が論文を書くときに、「この発想は天台宗の華厳経から得た」って書いてみたいなと思うことがあるんですけど、ちょっと怖くて書けないですね(笑)。そういうふうな意味で言いますと、彼自身が書いた先ほどのネットワークというのは、宗教的な背景がある。南方熊楠の南方曼荼羅もおそらく、仏教的な背景があるんだろうと思います。

宮沢賢治に「インドラの網」という詩がありまして。いろいろ書いてあるんですが、要するに、天空をガラスのビーズのような網が覆っていると。これっていったい、リアルな現象としては何なのかというと、くもの巣に朝方水滴がついている状態、ハイキングなんかでありますよね。それを見ていただければ、一個一個の水滴が周りの風景を全部映し込んでいる。これがインドラなんです。そういう意味でいうと、自然界のリアルな現象なんですけれども、それを華厳経を通じて論文の中に書くという。それがまたすごいなというのが、ここでみなさんにお話をしたい、最後の話になります。

要するに、日本には日本の分類の考え方というのがあって、そういうものが、いろんなところで出てきている。それはおそらく、意識にはのぼらないのだけれど、可視化のための、あるいは分類系統のための手段、ダイヤグラム、そういったものが出てきているんだということ、これをちょっと知っておいていただければ、今日の話の最後のまとめになるんじゃないかと思います。

●まとめ

まとめます。まず第1点。多様なオブジェクトを体系化することは人にとって原初的な欲望であって、「分類」「系統」はその欲望から生まれている。役に立たなくても、しなくてよくても、私たちは分類してしまうんですね。そういう性質を持っております。

2点目。人間はオブジェクトの多様性を可視化しながら深く理解してきた。そして、過去一千年以上にわたってオブジェクトの多様性の可視化に用いられてきたグラフィック・ツールであるチェイン、ツリー、ネットワーク、こういったものは現在でもやはり実用的で有用である。

3点目。多様性の可視化を目指すインフォグラフィクスというのは、家系、写本、図書、言語、考古学遺物、文化的様式などなど、いろんな部分で、昔から利用されてきた。ここが重要なんですよ。ついわれわれは、系統樹というと、進化生物学が出てきたダーウィン以降だと思いますが、全然そんなことはないです。9世紀頃からあります。そういうことを考えると、生物体系学における系統樹の使用はむしろ新参者と言える。今までいろんな場面で使われてきたツリーというものを、生物の時間的、空間的変化の記述、可視化に用いたという意味では、生物体系学での利用は新参であるということです。

最後。人類が持っている分類体系化のグローバルな認知特性、これはもちろんあります。一方でそれは、地域ごとのローカルな文化背景、社会構造、こういったものに制約を受けながら発現してくる。こういう具合に考えると、身の回りの一見何の役にも立たないものも、ついわれわれは分類したり、系統樹を考えてみたりするわけですが、そういったものにも、かなり深い文化的な話、人間の持っている認知的な特性、そういうものがあるのではないかというのが、今日の「分類」「系統」の話のまとめになるかと思います。

●系統樹の発表、質疑応答

——みなさんに書いてもらった自分なりの系統樹、「こういうのを書きました」「こういう系統をしてみました」というのを発表してくださる方がいれば、ぜひ聞いてみたいと思います。

ほぼ日今村:プロ野球のユニフォームの系統樹を書きました。
三中:ああ~。あれはやっぱり、祖先、子孫関係あるんですか。
今村:阪神タイガースは、縦縞が一番最初のユニフォームで。デトロイトタイガースっていう、阪神工業地帯とデトロイト工業地帯にもじって、ニューヨークジャイアンツに対抗したということから始まっているんですけど、縦縞が微妙に変わっているのがわかりました。それから無地の系統がある。無地も濃紺と白とブルーという系統があります。ほとんどはメジャーリーグからユニフォームを取っていて、読売ジャイアンツもそうです。そんなことも含めると、アメリカ大陸を巻き込むような系統樹ができると思いました。
三中:やっぱり、縞模様はタイガーということですかね。縞になるのは。
今村:そうですね。デトロイトタイガースがピンストライプを使うのは3シーズンしかないんですけど、あとずっと阪神が継承しているということを感じました。

河野学校長:書こうとしたんですけど、なかなか難しかったです。小説で、座標軸をふたつ切って、だいたいテーマといったら生老病死ですよね。それと激しいとか静とか。だから横軸にドラマチックな、劇的な度合い。右端に、割と静かな、スタティックな問題。上は生命、生きる方。下は死ぬ方。で、作品と作家を分類しようと思ったんです。まさに似ている、似ていない。実に難しいということがよくわかりました。作家もいろんな作品を書いていて、静かで死の作品だけを書いているっていう小説家はなかなかいないですね。画家とかにすれば、あるいは分類できたかなと思ったんですけど、小説だとなかなか。シェークスピアとか……
三中:死、病とかだめですか。
河野:ええ、『ロミオとジュリエット』が「生きる」、あれ? でも最後死ぬよなとか。これだけでグラグラしてしまって、なかなか難しいと思いました。

受講生:オフィス街のお昼ごはんです。左に、机で食べる人、社員食堂。外食する人を右に置きました。一番左は、絶対自分が作った弁当しか食べない人、右端が、ストレス解消のために絶対外食しなきゃ済まない人です。その間に、弁当を買う人、外食でもお弁当を買う人とか。社員食堂は今、コンビニに変わったりしているので、カップヌードルのところがコンビニになって、全部集まっているような感じがして、これから突然変異はどこに行くんだろうというのにすごく興味が出てきました。
三中:いったんコンビニに集結、収束してしまって、きっと分化しますね、これ。どう分化するのか。
受講生:それは予測はつかないです。
三中:なるほど。ありがとうございます。

受講生:音楽が好きなので、オペラからミュージカルに至る変遷を系統樹で書けるかなと思いました。1600年ぐらいに始まったのが、フランスとドイツとイタリアに分かれて、そこで分化して。フランス、ドイツぐらいはまた重なって、オペレッタというのができた。それがアメリカに行くと、アメリカの音楽、黒人音楽なんかも入り混じって、ミュージカルができる。さらにミュージカルも、ロンドンとニューヨークに分かれて。おそらくロンドンの影響を受けて日本独自とか、そういうふうにいろいろネットワークかもしれないです。
三中:オペラというのは、師匠と弟子の関係みたいなので伝承されるんですかね。スタイルみたいなものが。
受講生:というよりは、その土地のお客さんがどういうのを聴きたいかというような方が強いんじゃないかなと思います。たとえばフランスのオペラって、必ずバレエが入るというか、踊りがないとお客さんが行かない。
三中:歌っているだけは、だめ?
受講生:歌っているだけじゃだめで、そこもちょっと、もしかしたらミュージカルに影響しているのかもしれません。でもドイツとかイタリアはそうでもない。どちらかというと、ある意味オペラももともとは大衆というか、みんなが見るもので、お客さんのウケが大事。だからドイツの作曲家も、フランスでやるときはオペラにバレエを入れたりとかするとか、そういうことはしていました。
三中:ありがとうございます。

受講生:病院で看護師をしているので、病棟の診療科の系統樹と分類を書きました。20年ぐらい前までは、薬を飲むか、切って治療するかの、内科、外科の分類がメインだったんですけど、ここ20年ぐらいで考え方が変わってきて、臓器ごとの分類の方がわかりやすいのではということで、脳外科、循環器科、というような診療科分けが主流になりました。もっと最近になると、時系列順に病棟を変わった方がより治療がしやすいということで、救急か、病棟か、リハビリかというふうに、必要な時期によって病棟を変わるのが最近の主流になっているという変化があります。
三中:病院と医療行為の分類について、診療行為、ナーシングも、それをどういうふうに分類するのかっていう1990年代の本がありますよ。
受講生:講義の中で、分類はあまり役に立たないというお話があったんですけれども、看護師が患者様に、今、一番必要なケアは何かというのを考えたときに、関連図という、患者様の状況を整理するための手法があります。その患者様のわかっていることと、これから起こりそうなこととを図式化して、まとめて分類化することで、一番必要なケアを考えるというのを日常的に行っているので、逆に分類が。
三中:それはすごい役に立っていますね。もっと声を大にして言いたい(笑)。それは役に立つ。ありがとうございます。

受講生:ちょっと真面目な質問なんですけども。系統樹と分類の話、すごく、ロジックと心理学的な違いというのがすごく面白いなと思いながら聞いていたんですけれど、分類することの弊害ってあるのかな、というのが、さっきから自分の中でもやもやしています。最近、海外と日本で博物館に行ったんですけれど、人類の違いって生物の中でも本当にごくごく小さな差ですよみたいなことを言いながら、分けることでやっぱり、うまくいってないことがあると思うんです。「障害」という言葉ができたことで、「障害者」というふうに分けられるとか。そういうような議論というのは、あるのでしょうか。
三中:分類と系統の一番の違いなんですが、「正しい分類」ってないんですね。ところが系統の方は、「正しい系統」ってあるんです。歴史というのは必ずあったはずだから。それがちゃんと推定できるかどうかだけの問題。ところが分類に関しては、基準が違えば変わりますし、妥当な分類というのはあると思います。ただ、それが「正しいんです」、「真実の分類なんです」と言われたときには、おそらくそれは当てはまらないでしょう。分類は真偽を問えません。けど、われわれが納得するかどうかという、そういう体系ですね。ところが系統の方に関しては、真偽が問えるんですね。本当にそういう系統があったのかどうか。それはやっぱり、対象物が同じであっても、全然違うと考えたらよろしいかと思います。

受講生:アジアの人は個別の描写が好きで原理原則はあまり上手じゃないみたいなお話、すごくよくわかるんですけど、これはなにか背景とか理由があるのでしょうか? 今の時代、グローバル化が進んで人の行き来が激しくなる段階において、その傾向は少しは変わりつつあるのでしょうか、ということをお聞きしたいです。
三中:わからないんですけれど、少なくとも日本に関しては、中国の思想が丸ごとドーンと入りましたね。だから本草学ももともとは中国にあったやつがそのまま入ってきた。さっき言った陰陽思想、陰陽五行のような考え方も、そのまま入ってきていますから、ある意味、日本のそういう超越論的思弁みたいなものは、中国からの直輸入と考えたほうがいいのかもしれません。思想的な話になってくると、きっと難しいことは、もう全部どこかでやっている。インドの哲学も、難しいところはものすごく難しい。だからああいう話は、もうあそこでやっているんだから、われわれは目の前にある個物だけ見ていりゃいいやという、そういうふうな意味合いがあったんじゃないかと思います。逆にいうと、目の前にある物から、それをベースにして、原理原則をボトムアップで改良しましょうねという機運がなかったっていうことですね。落ちてくるときには、そういう体系が天の上からドーンと隕石のように降ってきた。それがもう、神聖不可侵なものだと、そんな感じです。ただ、それだと、日本の本草学も最終的に西洋的な博物学に流されてしまったことになりますから、そういう意味でいうと、今では通用しないのかもしれませんけれど、死に絶えたのかというと、生き残っていると思いますね。それは微妙な、それぞれの個人個人の気質みたいなものに残っているんじゃないかという気はしています。

受講生:ふたつあって、ひとつは、その時々の「よりおいしく」とか、「より便利に」みたいな価値観というか、流行り廃りみたいなもの、そういうことを読み取ったりって、おもしろいのかなと思いました。
三中:たとえば食品なんて、すごい淘汰圧がかかりますから、売れるものはどんどん売れますよね。そうするとその場合、売れて、新しい商品が投入されて、ものすごいタイムスパンが短いじゃないですか。すると、ちょっと先には何が売れそうとか予測ができるはずですよね。それはきっとあると思います。たとえばウイルス。インフルエンザウイルス。あれだって今、こういう変異があるんだけど、次、これが来るんじゃないかと予測できるんです。短期間でどんどん変わってきますから。だからウイルスの進化と、カップラーメンの進化って、割に短期間で動いていくっていう意味では似ているんじゃないかという気がします。復元だけじゃなくて、将来予測ができるというのがあるかと思います。

受講生:もうひとつが、生物は当然、系統樹でどんどん広がっていきますけど、ラーメンとか人間が作るものって、人間の意思が働くじゃないですか。たとえばラインナップが多すぎるとみんな迷っちゃうから、数を減らした方が売れるみたいな話ってありますよね。そうすると、人間の作ったものの場合は、収束もあるんでしょうか。
三中:おそらく……たとえば、商品は必ず購買層を考えないといけませんよね。購買層の総力を考えた場合に、こんなにたくさん新製品を投入してもだめだろうっていうのがきっと予測できますよね。あまりたくさん作りすぎては、買われない。新しいのを投入したときに、よく買われるんだけど、数が増えすぎてそれがマイナスになる、トレードオフみたいなものが出るんじゃないかという気はします。
受講生:復刻版のような、結局同じものを、似たようなパターンで繰り返したりみたいなことがあるのでしょうか。
三中:昔のものがもう1回ブームになるってありますよね。あれはひとつには、昔のものを投入するのが、逆に新奇性があって意外に受けたとか、そういうのはやっぱりあるんじゃないですか。
受講生:トータルで見ると、どんどん増えていくということなんでしょうか。
三中:ただ、増えていくんだけれども、おそらく絶滅のスピードもバカにならないと思います。生き残った枝だけあるから、こうやって広がっているんであって、おそらく絶滅したところも少なくないかと思いますから、単に広がっているだけじゃないと思うんですよ。

受講生:オリンピックのチケット、ラグビーとシンクロナイズドスイミングが当たりまして、娘2人それぞれが、1人はラグビー、こっちはシンクロに行きたいというので、見事に分かれたので、子供たちがそれぞれ、どういうスポーツを観るかで分類をしました。分類はあまり客観的じゃないというお話だったと思うんですが、AIが発達したり、ビッグデータを分析することで、人間ではわからない分類の法則を見つけるというような研究は今、進んでいるのでしょうか。
三中:ディープラーニングが本当に新しいものを出してくるのかなっていう気がして仕方がないんですね。僕、基本的にビッグデータっていう言葉はあまり好きじゃないし、AIと言ったって、ただディープラーニングなだけだから。そんなに神がかったものではないと僕は思います。
受講生:ありがとうございます。

受講生:人間も進化論を考えたら、当然そのうちに新しく、いずれ次のところに変わるんだろうと思っていますけど、もしかしたら世界中どこかで、もう生まれているかもしれないんですけど、「あ、あれは新種の人間だ」ってわかるものでしょうか。または、どういう条件とか、どういう状況になったら、新種の人間だとかわかるんでしょうか。
三中:おそらく、1回の突然変異で新種の人間が出るというのは、ちょっとないような気がする。たとえばいきなり、染色体が何本も増えましたとかいうんだったらちょっと考えるんだけど、おそらく生物として生き残れないことの方が多いでしょうし、なかなか難しいと思います。ただ人間の場合、環境がずいぶん変わっていけば、淘汰圧も変わりますから、微妙に変化していくのは間違いないと思いますね。今でも、いろんな人間の亜種にあたる――人種とか亜種っていうのは、あまりいい言葉じゃないので、遺伝的変異と言うのがいいですけど――変異はたくさんあります。その意味でいうと、そのプロセスはきっと続くと思うんです。ただ、それが新種になるのかどうかは、ちょっと私には予言はできません。
受講生:たとえば、環境変化で人口が減り始めて、どう手を打っても増えない、減っていく。そうなって、何千年かたったら、なんとなしにその中でも増えているグループがあって、最初のうちは結婚とかできるんだけど、また何千年か何万年かたったら、今のホモ・サピエンスの夫婦には子供ができなかったりすることによって、「あっちが新種だね」ってわかる。そんな感じというのはあるのかなと思ったんですけど、どうでしょうか。
三中:おそらく、集団がすごく小さくなって、ボトルネックといいますけども、それでワッと進化プロセスが進むということはあると思いますね。ただ、それが別種かどうか? それこそ交尾できないとか、それぐらいになりますと考えないわけにはいかないけれども、ちょっとそれは現実的じゃないかなという気がします。

糸井:前から考えてもやもやしていた、進化のプロセスにある生き物のことなんですけど。分類だとそばに置かれるけれど、系統樹からすると全然違っていたりという。
三中:他人の空似というやつですね。
糸井:はい。あれが僕はすごく大好きで。趣味といっていいような感じなんですけど。たとえばセミの一種でワニの顔に見えるやつがいたり、コノハムシがいたり、
三中:擬態ですね。
糸井:擬態をするっていうことが、こういう研究の中で言及されている部分というのがあるのかな。つまり、自分には自分が認識できないはずなのに、誰かが見たら葉っぱに似ているっていうことを、誰がやっているんだろう?
三中:コノハムシとかそういうやつだと、捕って食う捕食者が見ている。いかに葉っぱにうまく擬態するかで生き死にが決まりますから、かなり強い自然淘汰圧がかかります。だからその場合、見ているのは食べる側ですね。
糸井:はい。
三中:ただ、擬態っていろんな擬態がありますけれども、多くの場合は、たとえば本当は毒はないのに、毒バチの姿をしてたりします。毒はないんだけれども、外側だけ毒バチのふうを見せて外敵から襲われないようにする。それも非常に強い淘汰圧がかかりますよね。だから擬態に関しては、強く、いわゆる自然選択というのがかかっていると思うんです。
糸井:ものすごい時間をかけると、ということですか。
三中:もちろんそうです。
糸井:めちゃくちゃ似ているじゃないですか、でも。葉っぱでいうと、穴が開いているのだとか。
三中:枯れ葉そっくりとか、ありますよね。
糸井:あるいは、なんとかっていう鳥が、ヒナが何匹いるかのように翼に絵が描いてあるみたいになっていて。「ごはんちょうだい」ってやっていったら、実は巣の乗っ取りだったとかっていうのは、自分から、どうやって?
三中:おそらく、自発的にはできないんですね。枯れ葉になりたいとか、思わないです。自分はわからないんだけれども、他から見て枯れ葉に似ている、似ていないの判断をされているわけです。
糸井:されているっていうのは、どうしようもないですよ。されているから自分が変化するっていう。
三中:いや、自分は変化しない。たとえばコノハムシだったらコノハムシで、いろんな木の葉によく似ている。似ていないのばらつきがありますでしょ。似ていないやつは食われやすいわけです。そうすると、似ているやつだけ残って、それが子孫を残せば、より似ているものが生まれる率が増えてくる、そんな感じです。
糸井:その説明、僕は何度も聞いているんですけど。もっと説得してくれないかなと。
三中:もっと、自発的に変わるとか?
糸井:それは無理だと思うんですよね。だけど、今の説明をずっと繰り返していると、偶然ですよね。それでそんなに、「穴がちょっと開いている葉っぱ」対「葉っぱとしてはあまりよくないなっていう葉っぱ」っぽい同じ虫が、そんなに有意の差があって、その子孫が生き残るんだっていうのは、無限の時間でもないとできないんじゃないかって、感覚的には思うんですよね。
三中:本当にエンドレスな世代がダーっとあってはじめて、そういう現象が生じるというふうに説明されていますよね。
糸井:やっぱりその説明ですね。
三中:ですね。時間は強いということです。
糸井:ありがとうございました。

河野:今日はどうもありがとうございました。
三中:どうもありがとうございました。

受講生の感想

  • ほぼ日の学校に参加する前はどんな授業なのかな? 生物について学ぶのかな、とザックリと思っていましたが、まさかカップヌードルやポケモンの系統樹が出てくるとは! 良い意味で予想を裏切られました。講座の余韻のせいか、帰りにカップヌードルを買って食べてしまいました。「分類をしている人が好き」と言った先生の姿がキラキラしていて素敵だなと思いました。世の中がこんなにも分類されていることに驚き、授業が終わったら「分類って楽しいかも!」という気持ちになりました。私は好きなアイドルグループから系統樹を書きました。今まで点でしか考えられていませんでしたが、系統樹を書くことで先に想いを馳せることができて、つながりを感じられました。

  • 「わける」と「つなぐ」——思ってもみない発想でした。すごく勉強になりました。

  • 人間はわける生き物。そんな定義の仕方があるなんて、考えてもみませんでした。でも、言われてみれば確かに、私たちは自分が見ているもの、接しているものを、いつもわけたり、知っているものとつなげたりして認識しているのですね。自分が無意識にやっていることについて、新しい発見ができてうれしかったです。