Hayano歌舞伎ゼミ 
第1回 矢内賢二さん

なぜ学校で歌舞伎を学ぶのか?

矢内賢二さんの

プロフィール

この講座について

江戸時代から400年以上もつづく歌舞伎はすばらしい。でも、「すばらしいから観てください」というだけでは、この伝統芸能を次の世代に渡していくことは難しいのではないか――静かな危機感を抱くフェロー・早野龍五が主宰する歌舞伎ゼミの第1回は、日本芸能史を専門とする矢内賢二ICU上級准教授をお迎えしました。枕はドリフとゴレンジャー。矢内教授の楽しい歌舞伎入門をお楽しみください。

講義ノート

早野:みなさま、こんばんは。今日から9回のシリーズで、歌舞伎ゼミを始めます。今を去る、2年ほど前、2016年某月某日、糸井さんから私に打診がありました。「歌舞伎の授業をやりませんか」と。これは僕がほぼ日に来る前のことです。何でそんなことを言われたのかなと振り返ってみると、大分・別府にある立命館アジア太平洋大学という、日本人が半分、日本人じゃない学生が半分いる非常にユニークな学校に、糸井さんと二人で行って学生たちと楽しくやってまいりました。あまりに楽しかったので、終わった後で僕がぽつっと言ったんですね。「アジア太平洋大学で英語で歌舞伎の授業をやるのもいいな」と。ほぼ日のサイトにも書きましたけれども、私、1986年ぐらいから3年ほど東大で歌舞伎のゼミをやっていました。若気の至りだったんですけども(笑)。その時の記憶もあり、外国人学生を相手に歌舞伎の授業をやったらいいかなというようなことを言ってました。

それで、「歌舞伎の授業をやりませんか」と言われて私が何と答えたかというと、「成り立たないと思います」。シェイクスピア講座がありましたが、シェイクスピアは観ようと思ってすぐに観られるかというと、毎日やっているようなものではない。でも歌舞伎の場合は、東京ではお正月なんかは歌舞伎座と国立劇場と浅草公会堂などでやっていて、普段だって、月の初めから終わりまでずっとやっているわけです。だから、観ようと思ったら行けるので、わざわざここで授業をやることはないんじゃないか。授業を受けるお金があったら、皆さん、歌舞伎座に行って下さいよ、と。それが僕の最初の反応で、ずっとそれを言い続けていて、ここで歌舞伎の授業をやるのは気が乗らないんですって言っていたところが、こうなっちゃったわけです。

河野学校長と私がほぼ日に呼ばれまして、「アートとサイエンスとライフ」ということになった。私は歌舞伎担当ではなくて、サイエンス担当でありまして、こうなることはその時点では想定はしていませんでした。糸井さんから、「『歌舞伎の授業をやりませんか』と言われたな」というのは心の片隅にはありましたが、私は「サイエンスフェロー」という肩書で参りましたので、こうなるとは思ってなかったんですね(笑)。だけど、さる拠所ない事情というか、だんだん河野校長以下、学校チームに包囲されまして、ついに逃げられないところに来ました。

9回の授業は私がすべてやるというわけではなく、講師の方々にお願いするわけですが、私が「この人の話を聞きたい」という方々を選んで組み立てました。そのおひとり目が矢内賢二先生であります。後でまた、矢内先生のどういうところに惹かれたかをお話しいたします。それから、8月に草月ホールで「2時間で『忠臣蔵』全部やっちゃうよ」という、ものすごい無謀な企てを、ツイッター友達の桂吉坊師匠にお願いしました。落語3席に踊りを入れて、ちゃんとやるとすごく長い時間がかかる「忠臣蔵」を2時間で観た気分になって満足してお帰りいただけるようなイベントになると良いなと思っています。そして3回目は中村梅丸丈に、「僕はこうやって歌舞伎役者になりました」というのを、私との対談でお話しいただきます。4回目は松竹の常務取締役・岡崎哲也さんが「歌舞伎座の130年」を。話しだすと止まらない。素晴らしいです。5回目は、福田尚武さん。歌舞伎座に行かれることが多い方はご存知だと思います。歌舞伎座で舞台写真を撮っておられます。それから、辻和子さん。すてきな歌舞伎のイラストを描かれる方ですね。こういう方々においでいただきまして、ビジュアル面からお話をしていただきます。そして、6回目は、11月の土曜日の昼の部。みんなで歌舞伎を観に行こう、と。7回目はマイクロソフトの社長をされて、いま書評サイトHONZの代表という成毛眞さんが、「ビジネスマンへの歌舞伎案内」と題して熱く語って下さいます。8回目は桂吉坊師匠2回目の登場です。落語のなかに芝居狂いの変な人たちがたくさん出てくる。そういう落語を2席ぐらいやっていただいて、みんなで芝居のセリフを言って遊ぶワークショップにしたいと思っています。最後の回は、また矢内さんにおいでいただきまして、仮タイトルとして「初めて観るなら何を?」。「ワンピース」から観るのがいいのか、何から観るのがいいのか、そういうあたりを、みなさんとも対話をしながらやっていければなと思っています。

さて、今年の1月の歌舞伎座のチラシです。歌舞伎をご覧にならない方でもニュースになったのでご存知かと思いますが、今年、白鸚、幸四郎、染五郎という、父、息子、孫という3名が同時襲名をするというたいへんにめでたいことがありました。歌舞伎の世界ではこうやって昔から血がつながっていようがいまいが、いろんな形、襲名というような形で芸が次の世代に引き継がれてきました。それが観客のほうはどうか、ということがあります。歌舞伎に詳しい元NHKアナウンサーの山川静夫さんと対談したことがありまして、山川さんも「観客のほうが心配だ」と言っておられました。私もちょっとそういう気がしておりましたので、この講座をやる動機の一つに、「観客が心配だ」と言われた山川さんの言葉があるのです。

私のとっても好きな絵が歌舞伎座にあります。2階の廊下、正面から見て左側、下手側の廊下です。鏑木清方(かぶらききよかた)という日本画家の「さじき」という絵で、お母さんと娘が歌舞伎を観ている絵が掛かっています。描かれたのは1945年ぐらいと言われています。昔の東京の家庭ではこうやって親子で歌舞伎を観ていたことがわかる絵です。この娘さんは大人になってもきっと歌舞伎を観る。そういう文化が引き継がれていたんだろうと思います。

いまのような女形がいる、要するに、成人男性だけが演じる歌舞伎になって350年ぐらいでしょうか、それが今も続いているわけですけれども、その歌舞伎の伝統でいちばん大事なのは何か。私がいちばん大事だと思っているのは、お金を払って観に来る観客がいることです。今でも歌舞伎は、松竹株式会社さんがちゃんと利益を上げて、それによって伝統を次の世代につなぎ、新しいチャレンジもして、毎月の舞台を作っておられるわけで、お金を払う観客がいなくなったら、役者がいてもつぶれます。ですので、身銭を切って芝居に行く観客がいかに次の世代に続いていくか。それがこのゼミを私がやるひとつの大きなテーマとなっています。

そういう意味では、国立劇場が大変に努力をしておられます。今月(2018年7月)のポスターを見ると、「歌舞伎のみかた」プラス「日本振袖始」。6月と7月に高校生を中心に歌舞伎鑑賞教室というのをやって、今年で51年目、これまでに600万人の来場者があったということです。高校時代に行ったという方はどのくらいおられますか? ついでにうかがいますね。その時は観たけど、その他では観たことがない方はどのくらい? では、今までに歌舞伎を1回観たことがあるという方はどのくらいおられますか。0回という方はおられます? 1回は? 2〜5回ぐらい。5〜10回ぐらい。10回以上。おっ、すごいですね。ありがとうございます。大変に良い組合せで座っておられることがよくわかりました。

ところで、私は「歌舞伎鑑賞教室」というのにちょっと引っ掛かるんです。松竹の岡崎さんもうなずいておられるので心強いですけれど、歌舞伎は「鑑賞する」もんじゃない。「見物する」ものなんです。そこの感覚が、一般の方々にとって歌舞伎を観にくくしているひとつの原因かもしれないと思っています。

歌舞伎十八番の有名な芝居に「助六」というのがありまして、はじまりの口上の一部を書き写してきました。「何と申すも古風な狂言にござりますれば、本日の御見物には万事お目まだるき事とは存じまするが、何卒鷹揚な御見物のほど只管希い上げ奉りまする」。こういう口上で「助六」が始まるわけです。

もうちょっとビジュアルに、見物とはどういうものかがわかるものをお見せします。歌舞伎座、いまは立派な椅子がありますが、大正期までは椅子席ではなかった。その時の雰囲気がわかる絵が歌舞伎座のロビー左側にあります。「暫(しばらく)」という絵でして、その暫さんが花道に立っているところなんですが、今日見ていただきたいのはこれではなくて、大勢いる観客がどんな姿をしているか。お銚子があります。必ずしも全員が舞台を見ていない。美味しそうなお料理があったりしますよね。こういうところ、つまり宴会場で劇が進行しているという、そういうのが昔はあった。いまはやっちゃダメですよ。だけど昔はそういうものがあった。昔の歌舞伎っていうのは、人々がしゃべって、ザワザワして、ものを食べて、お酒飲んでいるようなところであっても、「あ、ここは観なきゃ」っていうところはちゃんとみんなが観る。そうではないところは、食べたりしゃべったりしている。ずっと観てないといけないようなものではなかったはずなんです。今日の矢内さんのお話でもまた出て来ると思います。こういうのが見物ということ。だから、われわれが歌舞伎と付き合う時は、やっぱり「鑑賞」ではなくて「見物」であるという、そういう感覚が育ってくるといいかなと思います。

さて、これご存知ですかね。昭和29年のミリオンセラー「お富さん」。山崎正作詞とありますが、糸井さん、ちょっとご説明をいただけませんか、山崎正さんについて。

糸井:私のご近所の人でした。作詞家ですけど、たしかピアノを弾きながら音楽教室をやっていた。息子が僕の1歳上で、運動も勉強も抜群みたいな子どもで、カッコよかったです。子どもは全員この歌を歌えました。以上でよろしいでしょうか(笑)。

早野:ありがとうございます。昭和29年、私は2歳、2歳の時には歌わなかったと思いますが、3歳の時に歌っていました。歌詞を見てみましょう。

♪粋な黒塀 見越しの松に

 仇な姿の 洗い髪

 死んだはずだよ お富さん……

これはどういう場面であるか? 何を歌っているのか? 昭和29年にはミリオンセラーですから、みんなわかったんです。今は、わからないですね。たとえば「粋な黒塀」を説明できるか? 「見越しの松」はもっと難しいかもしれない。「仇(婀娜=あだ)」っていう言葉は死語になりつつある。では、そもそもこれ全体はいったい何を歌っているものか、というのをお見せします。YouTubeに出ている1988年の「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」です。市川團十郎、いまの海老蔵のお父さん。坂東玉三郎のお富です。この場面は、黒板塀があって、その内側に松がある。そこに、お富がお湯屋から帰ってくる。洗い髪で、口からは糠袋をぶら下げて。これが「仇な姿の洗い髪」という場面です。

その次の場面はというと……。

「えゝ御新造さん、おかみさんへ、お富さんへ、いやさお富、ひさしぶりだなぁ」

「そういうお前は」

「与三郎。お主は俺を見忘れたか。しがねぇ恋の情けが仇。命の綱の切れたのをどう取りとめてか、木更津から。めぐる季節も三年越し。江戸の親にゃぁ勘当を受け、拠所なく鎌倉の。谷(やつ)七郷は食い詰めても、面に受けたる看板の、疵がもっけの幸いに、切られ与三と異名を取り、押借り強請りも習おうより慣れた時代の源氏店。その白化けか黒塀に、格子造りの囲いもの。死んだと思ったお富たぁお釈迦さまでも気が付くめぇ。よくまぁお主ゃぁ達者でいたなぁ。安やい、これじゃあ一分じゃぁ帰られめぇ」

というわけで、春日八郎の歌はここから来ているわけです。ついでにいうと、シェイクスピア講座では、演出家の串田和美さんが、「セリフに気持ちを込めることがとても大事である」とおっしゃいました。さきほどの團十郎がやっていた与三郎、いちばん大事なことはセリフに気持ちを込めることであったかどうかという観点から振り返っていただきたいと思います。状況は何となくおわかりですね。お富と与三郎はいい仲になったんだけれど、お富には赤間源左衛門という怖いおじさんがついていた。二人は見つかって、与三郎は全身を切られ、お富は海に飛び込んだ。与三郎はお富が死んだものと思っていたけれど、囲い者として結構な生活をしているお富を発見する。自分は全身に34ヶ所の刀傷。気持ちを込めて言ったならば、あのセリフになりません。だから、歌舞伎のセリフや歌舞伎の演技は違うんです。もっとも特徴的なことは、与三郎はお富のほうに向かってしゃべっていない。観客に向かってしゃべってるんですよ。だから、串田さんがシェイクスピア講座でおっしゃった、シェイクスピア劇のどこが大事かということと、まったく違う原則で歌舞伎の演劇はできている。それを楽しむものなんですね。

「お富さん」がヒットした昭和期半ばまでは、明らかに生活のなかに歌舞伎があった。あの歌を聴くと、みんなが、あのセリフが浮かび、その風景が思い浮かぶという、そういう時代に歌舞伎を観るのと、そういうものからかなり離れてしまった人たちがいま歌舞伎を観るのとはやっぱりちょっと違う時代になったのではないかと思います。ただ、現在でも完全に生活から歌舞伎が消えているわけではないことは、たとえばジャイアンツ対スワローズのポスターを見るとわかります。隅っこのほうに、「こいつあ春から縁起がいゝわえ」。ご存知ですか、このセリフ。みなさんこのくらいは何となくわかる。では、これの芝居を観たことがある方はどのくらいおられますか。10回以上観ておられる方々ですね。これは「三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)」という芝居のなかの、お嬢吉三という、女装した泥棒のセリフです。それが、こうやって、巨人対ヤクルトのポスターに出て来る。それで、まだ遅くはないのかなということも思いました。それで、伝統とつながって、次の世代にまで歌舞伎見物をつないでいく、そういう一助になるような学校をやりたい。そして、みなさんにも長く歌舞伎を観て楽しんでいただきたい。お子さんをお持ちの方はぜひ親子で観に行くようなことも楽しんでいただければ。あるいは、ご夫婦で観に行く、そういうことも楽しんでいただければと思います。

それで、1回目の講師は矢内先生にお願いするわけですが、『ちゃぶ台返しの歌舞伎入門』という本をお書きになりました。オビに「退屈な入門書よ、さようなら」と書いてあるんですけど、だいたい歌舞伎入門っていうのは、「見ればわかる系」が多いわけです。「素晴らしいものなので、とにかく行って観て下さい」と。僕が最初に「この学校やらなくてもいいんじゃないか」と思ったのもまさにそうでした。けれども、この本を読んで私もちょっと悔い改めたわけです。やっぱりそれでは、いまなかなか難しい場面もあると。では、「とにかく観て下さい」っていうのはどこが限界なのか? その限界を超えるには、どうするといいのか? それを語っていただきたいと思って矢内先生をお呼びしました。以上で私のパートはおしまいで、矢内先生に引き継ぎます。

矢内:こんばんは。何を狼狽しているかといいますと……一所懸命話を準備してきたんですよ。で、今の早野先生の格調高いお話をうかがいまして、こんな格調低い話やめときゃよかったなと後悔しておりまして……。しかも来てみると、松竹の岡崎さんがいらっしゃる。これから無断使用の写真がたくさん……やめときゃよかったなと思いますが、こうなった以上はもうやけくそでしゃべるしかないですね。お付き合いを願います。

今日の講義、「歌舞伎さん、こんばんは」というタイトルを付けてみました。この講座の予告動画で申し上げたのは、どうも最近、歌舞伎を現代のほうに引っ張ってきすぎじゃないかという話です。「現代人にもわかりやすい」「歌舞伎は現代的なものである」というけれども、ちょっと待って下さいと。基本的には江戸時代にできたものですから、現代人にとってはやっぱりわかりにくいところもあります。そのことについては、無理やりこっちに引っ張ってきて、「現代人にもわかる」というわかり方ではなくて、こちらから歌舞伎のほうに歩み寄って、「すみません、いろいろ教えていただけますか」と、ドアをノックするような姿勢が大事ではないかと思いまして、これから皆さんと一緒に歌舞伎のドアをノックしてみたいと思います。

歌舞伎、と聞いて何か思い浮かぶことを言って下さい、というのを、よく大学の授業なんかでやってみます。実にいろんなイメージが出て来ます。どんな言葉を連想しますかと聞くと、ポジティブな言葉と否定的な言葉がありまして、良いほうだとこんな感じ。上品、高級、洗練されている、由緒正しい、礼儀正しい、特別な家柄の人に許されたものである、と。一方、ネガティブな言葉としては、古臭い、わかりにくい、切符が高い、敷居が高い。なかには、艶聞が多いとか、いろんなイメージが出て来ます。他に、人間国宝とか、文化財とか、世襲、襲名とかっていう言葉を連想する方もいる。

実は、歌舞伎というのは縁遠いものではなくて、みなさんの生活のなかに「歌舞伎らしきもの」、「歌舞伎のイメージを掻き立てるもの」が、いろいろ散らばっています。学生でいちばん多いのは、永谷園のお茶づけ海苔。歌舞伎ですね、言われてみれば。それから、初音ミクと中村獅童さんが共演した超歌舞伎とか、「隈取りのフェイスパック」、スーパー歌舞伎「ワンピース」、三代襲名……。われわれが見て、「あ、歌舞伎だ」というイメージを掻き立てるものがいっぱいあるということは、歌舞伎が現代にちゃんと生きている、みなさんと同じ空気を吸って生きているということに他なりません。では、あなたは歌舞伎のことをどれだけ知ってますかと改めて聞かれると、「あわわわ」となる方が大半だろうと思います。「歌舞伎というのはね」と、正面切って説明できる人はなかなかいないと思います。

今日、歌舞伎に興味を持ったみなさん、すでにお持ちだったみなさんがお集まりなわけですが、先ほどの早野先生のお話にもありました、歌舞伎に自分からアクセスしていこうというときに、ある程度予備知識を持ってから観るか、それとも、いきなり劇場に観に行って、それから情報を収集するか、というので迷う方が多いんですね。この点については、私も早野先生も意見が一致しておりまして、とにかく観なきゃ始まらないだろうと。勉強するのが悪いんじゃない。勉強していただきたいんですけども、やっぱり実際に観るというのがすべての出発点になる。とはいえ、歌舞伎をぜんぜん観たことない方が切符を自分で買って、歌舞伎座なり国立劇場なりに足を運んで、椅子に座って観るというのは、実際にはハードルが高い。2回目以降は普通に買えるんです。1回目がなかなか難しいんですね。

今日は、そういう、白紙の手ぶらで劇場に乗り込むのはちょっと気がひける、という方を主な対象としまして、歌舞伎を観るに当たってのちょっとしたコツというか、こういうことを脳の隅っこで意識しながら観ると吸収しやすいかなと私が考えたようなことを2、3ご紹介したいと思います。

歌舞伎との出会い、ドリフ

まず、私がどういう歌舞伎との出会いをしたかという個人的な体験からお話ししてみます。実は歌舞伎座に初めて行ったのが平成になってからです。エラそうにしゃべっておりますが、歌舞伎座のなかでは新参者です。どういうきっかけで行ったかというと、昔、『ぴあ』という雑誌があったのをご存知ですか。ネットを一般的に使う前は、この雑誌が拠り所だったわけです。大学生協で『ぴあ』を買って、何か観に行くものがあるかなって見ていたわけです。

私、四国の徳島の出身で、大学から東京に来ました。東京は興行物が多いので、せっかくだから何か観たいと思って『ぴあ』を見ていたら、演劇欄のいちばん最後のほうに伝統芸能というページが2、3ページありまして、最初に「歌舞伎」と書いてある。その時の風景をいまだに鮮明に覚えているんですけど、「歌舞伎か。観たことないから、1回観てもいいかも」と。なんか引っ掛かった。当時、18歳です。そばにオノデラ君とカワセ君っていうのがいて、「歌舞伎観に行ってみぃひん?」って誘ったんですね。奴らもいいかげんで、その場で切符を買って、歌舞伎座に行ったのが平成元年の5月。行った時に舞台に出ていたのが、中村歌右衛門という女形さんです。「名優」という言葉だけでは語りつくせない、神様のような役者さんです。岡崎さんの前で歌右衛門の話をすると、冷や汗が出てきます。頑張ります(笑)。

「摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」という、ちょっと難しいお芝居をやっておりました。3階席のてっぺんから見下ろすと、ちっちゃく歌右衛門が見えるわけです。顔を真っ白に塗って、髪をざんばらにして、なんだかわからないんです。何か言ってるんだけど、よくわからない。ところが、不思議なもんですよ、演劇っていうのは。3階席のてっぺんまで歌右衛門のオーラが上ってくるんです。湯気みたいな感じで上ってくるような気がしたんですね。私、歌舞伎初めてですよ。というか、お芝居を観るのが、たぶん3回目ぐらい。学校で見せられる公演を観たことがあるだけで、本格的なお芝居はほとんど初めてだったんですけど、この時にもうすっかりやられてしまいました。世の中にこういう奇っ怪なものがある。わからないけど、すごいインパクトのある不思議なものがあるんだというので、理屈抜きにやられてしまいまして、翌月から歌舞伎座に通うようになった。そして、今やそれで飯を食っているという、不思議なご縁でしたが、もとはといえば、『ぴあ』でした。

私の場合は、まったく予習せずに行きました。だから、「摂州合邦辻」っていう漢字も読めなかった。歌右衛門が戦後歌舞伎を代表する名優だということも知らなかった。後から知ったんです。幸運か不幸かわかりませんが、そういう出会い方をしてしまったわけです。それはたぶん、学生時代の18歳の自分のなかに、歌舞伎はとっつきにくいという先入観がなかったから、こういう無謀なことができたんだろうと思います。こうして、歌舞伎を毎月3階の上のほうの席で観はじめるわけですが、数年経って、はたと思い当ったのは、じつは私はすでに歌舞伎に出会っていたのではないかということでした。

それは何かというと、ドリフです。小学生の時にずーっと、3ヶ月に1回くらい、夜の7時半からフジテレビ系列で「ドリフ大爆笑」っていうスペシャル番組をやっていたんです。1時間半コントをやるわけですね。そのなかで、歌舞伎のコントがけっこうな割合で出てきたんです。歌舞伎役者をやるのはいつも加トちゃん(加藤茶)。加トちゃんが白塗りをして歌舞伎のパロディコントをやるのを観ていました。その時の私は歌舞伎が何かとか、演目のことなんかさっぱりわからない。でも、観て、腹を抱えて笑っていたんですね。後から思いますに、ゴールデンタイムにこういう番組が成立した。テレビの全盛期と言っていいと思うんですけど、そういう時に歌舞伎のパロディをやっていた。パロディというのは、元ネタを知らないと成立しません。みんなが元ネタを知ってるから、それをひっくり返す面白さが理解されるわけです。ということは、昭和50年代ぐらいまでは、テレビで歌舞伎のコントが堂々と放送されるぐらいには、歌舞伎のイメージは浸透していたのではないかなと思うんですね。「何だ、それは?」という方のために映像を用意してきました。

(*ドリフターズの歌舞伎コントの映像)

「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」という演目のなかの道行です。「吉野山(よしのやま)」という場面のパロディで、衣装もそこそこちゃんとしたのを着ています。

(*歌舞伎コントの映像)

「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」、通称「山門(さんもん)」というお芝居ですが、小学生の私はそんなことは全然知らずに、お母さんがむいてくれたリンゴを食べながらこれを見て、爆笑していたわけです。後から、「あ、あれが歌舞伎だったのか」と思い当ったわけです。

ゴレンジャーと白浪五人男

その初めて歌舞伎座に行った時に、役者さんの息子さん、小学生ぐらいの方々が「白浪五人男(しらなみごにんおとこ)」という演目をやっておりまして、これがもうたいへん気に入ったんですね。何が気に入ったかっていうと、非常に音楽が気持ちいい、セリフもなだらかで、体のリズムにふっと入ってくる感じがして快感を得たんですね。この快感はいったい何だったんだろうと、後から考えてみると、「秘密戦隊ゴレンジャー」……いや、アハハじゃない、ほんとうにそうなんです。気持ちよさが共通なのですね、私にとっては。後から考えると、あれはゴレンジャーだったんだと思い当った。歌舞伎は、最初に予備知識なしに手ぶらで観に行った時、私にとっては非常にカッコいいもの、気持ちのいいものであるという現われ方をしたわけです。

(*ゴレンジャーの映像)

なんか気持ちよくないですか、トントントンと来て、最後、ワッと決まる。リズムが気持ちいいですよね。一方、歌舞伎の「白浪五人男」。

「五つ連れ立つ雁金の 五人男にかたどりて」

「案に相違の顔ぶれは 誰白浪の五人連れ」

「その名もとどろく雷鳴の 音に響きしわれわれは」

「千人あまりのその中で 極印打った頭分」

「太えか布袋か盗人の 腹は大きな肝玉」

「ならば手柄に」

「からめてみろ」

気持ちいいでしょ? その気持ちよさはゴレンジャーと共通してますよね。ということに気付いて、気になって調べてみたら、スーパー戦隊の第一作である「秘密戦隊ゴレンジャー」を作ったプロデューサーの方が、本当に「白浪五人男」にヒントを得て作ったのがゴレンジャーなんです。私の直感は的中していました(笑)。

実は、こういう歌舞伎的な気持ちよさは、いろんなところにあるというのに気が付いたんです。私が「歌舞伎的だな」と思うものは、寅さん、エレクトリカルパレード、ヤッターマン、ウルトラマン。ジュディ・オングも、たいへん歌舞伎的だと思います、「魅せられて」。「仁義なき戦い」「犬神家の一族」、市川崑って非常に歌舞伎的な監督だと思います。宝塚の第2部のレビュー。こういうふうに集めてみると、日本における映画とか演劇とか、大衆向けのエンターテイメントには、どうやらこの「歌舞伎らしいもの」、「歌舞伎と通底するもの」が色濃く含まれている。

日本だけかというとそうでもなくて、以下も私が歌舞伎的だと思うものです。ハンフリー・ボガート主演の映画「カサブランカ」。西洋版「仁義なき戦い」(時系列で言うと、こっちが先なんですけど)の「ゴッド・ファーザー」。カラバッジオというイタリア人画家の作品。彫刻にもあります。タランティーノ監督の「レザボア・ドッグス」という映画。歌舞伎の見得だなと思うんですね。こういうふうに「歌舞伎的なもの」というのは世界のあちこちに転がっている。

絵と間

では、本題です。そういう「歌舞伎的な気持ちよさ」は、いったいどこからやってくるんだろうと、いまだに考え続けているわけですが、歌舞伎の秘密その1。秘密っていうほどたいそうなものではないんですが、それは、絵と間(ま)。絵と間が大事なのです。

まず、絵とは何か。歌舞伎というのは、どんな場面であろうとも、常に絵のような美しさがあります。現代人は比喩として、「絵のように美しい」と言いますが、文字通り、舞台全体が1枚の絵になるんです。見た目の美しさ、形の美しさ、色彩の美しさ、人間の動きの美しさというのを非常に重要視します。こういうのは現代演劇、西洋演劇と少し違うところですね。見た目の美しさって。たとえば、「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の「車引」という場面。どういう場面か大雑把に申し上げますと、三つ子の兄弟が運命のいたずらで、2対1、敵味方に分かれて対立する羽目になる。背後の牛車に乗っておりますのが、悪のラスボスである藤原時平。天下を我が手におさめようと狙っている大悪人です。そこに赤い衣装の正義の2人が(もう1人も正義といえば正義なんですけど)やっつけてしまおうと襲いかかるのを、白い衣装を着ている松王丸が止め立てする。つまり3人で牛車をめぐって格闘するシーンです。リアリズムでやると喧嘩のシーンになります。素手で戦う。ところが歌舞伎の場合は、どんなに激しい格闘シーンであっても、絵のように美しく見せなきゃいけないんですね。

(*映像)

絵になっているでしょう。最後、幕引きではこういう形になります。このまんま浮世絵になりますね。並んでいる配置のバランス、色彩、ポーズの美しさ。こういうのを歌舞伎では尊重いたします。大仰なお芝居以外でもそうでして、「花街模様薊色縫(さともようあざみのいろぬい)」(通称「十六夜清心(いざよいせいしん)」)という芝居。これは修行中のお坊さん清心と、十六夜という遊女がいい仲になるわけですが、一緒になれないから、あの世で一緒になろうって心中するしない、するしないって、二人でゴチャゴチャやってるシーンなんですけど、これもリアリズムでやると地味になる。二人で夜道の隅のほうでうずくまって、「いや、おまえ、やっぱり生きたほうがいいよ」「あなたと一緒に死にたいの」っていうような地味な会話になっちゃう。ところが歌舞伎の場合は、それもやっぱり絵になるわけです。

(*映像)

というふうにご覧になっていくと、「動きがあって、はい、ポーズ。動きがあって、はい、ポーズ」というふうに、「動く → 絵になる → 動く → 絵になる」というパターンで構成されているのがおわかりいただけると思います。

そういう「絵的な美しさ」だけを観る演目というのもありまして、「だんまり」と言います。「だんまり」とは沈黙、セリフがないこと。無言劇ですね。お見せするのは「音羽嶽(おとわがだけ)のだんまり」。成り立ちをご説明すると難しいのですが、舞台いっぱいにスター役者が、思い思いの衣装を着て、ずらっと並びます。若い侍だったり、ごついカツラをつけた盗賊だったり、お姫様が出て来たり、そうかと思うと、世話物ですね、庶民の女房みたいな人が出て来たり。つまりストーリーがないのです。お芝居と言いながら、ストーリーがない。何でこんなヘンテコなものが今も上演されているのかというと、元々は、[顔見世]という言葉をお聞きになったことがあると思うんですけど、江戸時代の劇場は役者と劇場が1年契約を結ぶのが基本的な形です。契約を結んだ後で、「みなさん、来シーズンはこの顔ぶれでお芝居を1年間やりますから、どうぞお楽しみに」という顔見世をするための演目というか、場面が、「だんまり」でした。だから、みんな自分がいちばん映える衣装を着て、舞台の上を動き回る。そのうち幕になっちゃう。事件は起こりません。それが「だんまり」なんですね。つまり、「絵のような美しさをご覧下さい。役者をご覧下さい」という演目が「だんまり」です。みんな歌舞伎の典型的な役柄の衣装を着ていますが、いったいこの人が何者なのか、よくわかりません。なぜかというと、見た目の美しさ、立派さを観るのが目的の場面だからです。というわけで、「動いてはポーズ、動いてはポーズ」、それをひたすら観て、「ああ、素敵」っていうのが、「だんまり」の正しい観方なのです。

やっぱり歌舞伎ってこういうところが大事だよなって思っている時に、それを事も無げに一言で説明してくれている人がいて、ショックを受けました。小林秀雄という有名な批評家です。「歌舞伎で発見した真理はたった一つ」だと。それは、「人間は形の美しさで充分に感動することができる」というんですね。「形が何を現しているか、何を意味しているかは問題ではない。最も問題ではない際に一番自分は見事に感動する事を確めたのである」という。先に言われたな……小林秀雄相手に恐ろしいこと言うでしょう、私は。ほんとうにその通りなんですね。

大学生の時、私はこれでもう、目から鱗がポロッポロッて50枚ぐらい落ちるような気がしました。つまり、われわれ現代人には悪い癖があって、何か形があったときに、形の裏には必ず意味があるはずだと無意識のうちに思い込んでいます。さらに言うと、形と意味を秤にかけると、意味のほうが大事だと思っています。つまり、言葉でも何でもいい、音符でも記号でもいい、形というのは意味を人に伝えるために存在している。ということは、人間はそこから適切な意味を汲み取って理解するべきだ。形というのは道具である。私もずっとそう思っていたんです。ところが、小林秀雄が見事に言ってくれたように、実は、そんなものなくたって、人間は形に感動できる。これを読んだ時に、「我が意を得たり」と、本当にショックを受けました。

形と意味

形の美しさを愛でるのに、何となくためらいを感じていませんか? 私はかつて感じていました。やはりそこに意味を汲み取ろうと、つい前のめりになってしまうんですね。これはいったい何を意味しているんだろう、と考えるわけですが、よくよく思えば、たとえば樹木を見た時とか、珍しい形の衣装を見た時とか、意味は考えないですよね。この木の曲線は何を意味しているかとか考えなくても、ああ、きれいなカーブだなって思いますよね。歌舞伎は木だと言うつもりはないんですけど、ある意味ではそういうことなんです。こうこうだから非常に悲しいとか、こうだから嬉しいんだとか、説明できるもので世の中はできているかというと、そんなことはない。意味がないけど感動するものはあって、私は歌舞伎がたぶんそうだろうと。全部がそうじゃないけれど、そういう要素もあるということです。

みなさんにお勧めしたいのは、生身の役者さんの体が作り出す形の美しさとか、手がスーッと動いてピタッと止まる、その軌跡の美しさを愛でることです。坂東玉三郎さんの舞踊など観ると如実にわかると思いますけど、いちばん気持ちいいところでピタッと手が止まるんですね。いちばん気持ちいい軌跡を描いてピタッと止まる。そういう体が作り出す絵の美しさを、「この意味は何だろう」っていう方向にいかずに、そのまま感じて愛でるのを躊躇わないでいただきたい、ということです。人間にとって根源的な部分だと思うんです。

逆に言うと、歌舞伎をご覧になっていて、何となくバランスが悪くて気持ちよくないとか、色彩はきれいなんだけど、なんかもっさりしている感じがするとか思った時は、役者さんが下手なんです。そういう直感はだいたい正しい。「いや、私、初心者ですから」って、みなさんおっしゃるんですけど、あんまり関係がない。パッと観た時に、「おっ、気持ちいい」「きれいにピタッとハマってる」っていう時と、なんかネジがちょっと曲がってる感じがする、なんか気持ち悪いという時が必ずあると思います。そういう時には、100%そうだとはいえないけれど、ある程度、

自分の直感を信じて構わないと思います。

「間」

これが、絵と間の「絵」というお話。次は「間」です。人間の動きには間があります。セリフにも間がある。流れている音、音楽にも間があります。あらゆるものに間があります。間というのは、何もない「無」とは違います。これは美術でよく言われます。水墨画は余白が多いですね。今、余白って言っちゃいましたが、余白じゃないんです。大きな掛け軸とかで下のほうにチョコチョコッと山水が描いてあって、上のほうが空いている。あれは「賛(さん)」という詩なんかを書いて、絵とコラボするためのスペースという意味もありますが、わざわざ空けてある。何でそんなことをするかというと、「動いてポーズ、動いてポーズ」じゃないですが、間があって、実体が存在する。さらに間があって、実体が存在する。間と、絵が描いてある部分とのバランスによって、動きが出てくるわけです。だから、間というのはすごく大事。セリフの間は、ただ沈黙しているのではなくて、人間にとって気持ちのいい間と、気持ちのよくない間というのは明らかにあって、上手い役者さんは、観ているほうがいちばん気持ちいい間でしゃべったり、動いたりしてくれるわけです。

なので、それをしくじると、「間が悪いやつ」、「間抜けなやつ」と言われるわけです。間抜けって、「間が抜けている。間の入れ方がまずい」ということですね。間は魔に通ずるとも言われます。つまり間というのは非常に恐ろしいもので、間をしくじると芝居がガタガタになってしまう。これはお芝居に限らず、日常生活の中でも間は非常に大事ですね。

たとえばセリフの間で言いますと、通称「弁天小僧」、「弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)」という演目がありまして、「知らざあ言って聞かせやしょう」というセリフで有名ですね。あれも、バックには三味線のゆったりした音楽が流れておりまして、それに乗るような乗らないような具合で、七五調です。「何が何して何とやら」。基本的には七五調でできているセリフを流れるように、でも、スムーズに流れるんじゃなくて、運転が上手な人がアクセルとブレーキを上手に使うような感じです。役者さんにとっては難しいところだし、お客さんにとってはそれがピタッとハマると気持ちがいいところなのですね。

(*『弁天小僧』の映像)

「知るものか」

「知らざあ言って聞かせやしょう」

長く延びるところもあれば、トントントンといくところもあります。

浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の

種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き

以前を言やあ江の島で、年季勤めの児ヶ淵

江戸の百味講の蒔き銭をあてに小皿の一文子

百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に

(中略)

それから若衆の美人局

ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた祖父さんの

似ぬ声色でこゆすりかたり

名さえ由縁の弁天小僧菊之助とはおれがこった

もう一つ、間が気持ちいいのをご覧いただきます。「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」というお芝居で、乳母の政岡という女性が、大事な若君様(敵に命を狙われています)を自分の手元で何とか守らなきゃ、と孤軍奮闘している。ところが、毒殺の危機。そこで、その政岡の実の息子が身代わりになって、毒入りのお菓子を食べてしまう。それを隠蔽しようとした悪人に息子が惨殺されてしまう。誰もいなくなった後で、政岡は自分の息子の遺骸と二人きりになって、息子が死んでしまってもう身も世もあらぬと身をよじって嘆き悲しむシーンですが、これもリアリズムではやらないようなことをやります。義太夫節という浄瑠璃がバックに入ります。その三味線と語りも合わせて、ストーリーをご存知ない外国の方がこれをご覧になると、「彼女はなぜ踊っているのか?」というくらい派手な動きとセリフでリズミカルに動く。義太夫の間に乗って、気持ちいいシーン、あんまり気持ちいいっていうのも憚られる悲劇的なシーンなんですけど、ご覧いただきます。

(*映像)

「三千世界に子を持った親の心は皆一つ。

子の可愛さに毒なもの食べるなと言うて叱るのに、

毒と見たらば試みて、死んで死んでくれよと言うような

胴欲非道な母親がまたと一人あるものぞ」

もうひとつ、絵と間が完璧に揃っているのをご覧いただきます。私、気分が落ち込むと、この映像を観て元気になるんですけど、「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」という舞踊劇です。通称「関の扉(関の戸)」。これまたちょっと難しい話なんですが、舞台上で男と女が戦います。男のほうは天下を狙う大悪人、大伴黒主。この国を我が手におさめようと狙っているわけです。女性のほうは人間ではありません。桜の木の精、妖精ですね。桜の木が人間の形に変身して、この世に現われたという。何てファンタジックなんでしょう! 恋人をその悪人に殺されたというので、敵討ちのために、男女が戦う。激しい格闘シーンなんですが、憎いぐらい絵になってキマるんですね。バックに流れる常磐津という浄瑠璃とも、音楽的な間がピタッと合う気持ち良さを、気持ちいいなと思いながらご覧いただきたいと思います。

(*映像)

気持ちいいでしょう。ほんとこれが好きでね、つい見入ってしまいます。

絵と間というお話をいたしました。絵の美しさと、間の良さですね。今、私がお話しする時に、みなさんが気になるであろうあらすじの部分は極力省いて必要最低限のことしか申し上げておりません。それはストーリーが不要だという意味ではない。本当のことを言うと、できるだけ詳しくあらすじとか歴史的な事柄を知っているほうが美しさもよくわかります。いつも「勉強して下さい」っていうのはそのあたりのことなんです。ですから、絵の美しさと言っても、単に「わぁ、きれいね」っていうだけの観方をお勧めしているわけではありません。裏にはストーリーがあって、役者さんという肉体があって、というのを情報として知った上でご覧になると、よりその美しさ、間の良さというのは楽しめますよ、というつもりでお話をしております。

型について

話は変わりまして、型というのがあります。これは歌舞伎に限らず、能でも、武道、生け花でも、何でも型があります。歌舞伎では役柄によって衣装、化粧、髪型、それからどういう姿勢を取るか、どういう動き方か、発声か、声の高さ……が決まっています。どういうことかというと、お姫様はこういう衣装を着て、こういうカツラをつけて、こういうお化粧をして、こういうポーズをして、こういう動きをして、こういう声を出すものですっていうのが、きっちり決まっているわけです。隈取りなどの化粧の仕方も全部型が決まっています。役者さんたちは何をしているかというと、その型を正確に模倣、再現する。つまりお師匠さんとかお父さんに教わった型を自分の体でコピーする。再現する。みんながその型を同時に再現することによって、歌舞伎の舞台というのは――これが大事なんですけど――いかにもそのように見える。いかにもお姫様がそこに座っているように見える、いかにも超人的なパワーを持った荒事の主人公が花道から出て来たように見える、異常なものが出て来たように見える。現代風に言うと、型はプログラミングです。間違えずにプログラムを動かすと、結果はきちんと出るようにできているのですね。

桂米朝さんという噺家さんが、型について時々、噺の枕でお話しされることがありました。これまたしつこく言いますけど、人が泣くとき、リアリズムで泣くと無限の選択肢がありますよね。台本に「……と泣く」って書いてあったら、新劇の役者さんなら数限りない選択肢があると思います。号泣するのか、声を上げずに泣くのか、泣き笑いなのか。ところが、たとえば型でいうと、能の場合は、泣く型は1個しかありません。「シオリ」という。年寄りだろうが、男だろうが、女だろうが、目のこのあたりにこう、指先を揃えて手を持ってくると、これで「泣いている」っていうことになるわけですね。歌舞伎の場合はもう少しリアルですが、だいたい役柄によって泣き方が決まっています。

型の一例です。だから、地芝居とか、最近は農村歌舞伎なんて言いますけど、地方に歌舞伎のお芝居が残っていて、普段働いてらっしゃる方がお祭りの時に歌舞伎をやるなんていうのがありますが、けっこう様になるんです。何でかというと、型があるから。きちんと型を真似すると、素人が集まってやっても、それなりに本格的なお芝居ができちゃうんですね。それは型がプログラムだからです。

では、型がガチッと決まっているとすると、個人差はないんじゃないの? と疑問を持たれる方がいらっしゃるかもしれません。ところが、お料理もそうでしょう、非常に精密なレシピがネットにも上がっていますが、3人がその通りに作っても、それぞれ違う味のものができますね。型というのはレシピのようなもので、作り手によって結果は変わってきます。真似するといっても、生身の人間ですから、出来具合はまったく変わるわけです。では、その違いが何から来るのかというと……歌舞伎の秘密その2、歌舞伎とは役者を観るものである。当たり前ですけど、お芝居というのは生身の人間がやるものですから、肉体によってものすごい差が出て来ます。

お示ししているのは、写楽をはじめとする、近世、江戸時代の錦絵です。役者絵。とくに画面いっぱいに顔を描いたものは大首絵と呼ばれますが、何で江戸時代にこんなものが大流行したかというと、みんなが、あの役者のこの役の顔をずっと見ていたかったからですよね。写真がない時代に、何とか手元に残したいというので、こういうものが流行した。いまだってそうです。いいグラビアがあるとつい見惚れちゃいますよね。

役者について語る時には、やはり「ニン」という言葉に触れないわけにはいかない。仁義の「仁」という字をあてることもありますが、あくまで当て字です。決まった表記はありません。「ニン」とは何かというと、その人が身につけている雰囲気、持ち味のこと。わかりにくいですね。もちろん顔とか背の高さとか、ガッチリしている、痩せている、声の調子、そういう肉体的な要素は含みますが、それだけではないというのが一筋縄ではいかないところ。たとえば、日常生活のなかでもあると思うんですけど、この人は本当はいい人なんだけど、どことなく冷たそうに見えるとか、顔とかすごく地味なのに、この人がいると華やかな雰囲気になるとか、そういうのって、顔の造作とか身長とか声とか、もしかしたら微妙に関係してるのかもしれませんが、そういうのとはまた違う次元で身にまとってる、非科学的な表現をすると「オーラ」っていうやつですね、そういうのがあると思うんです。役者さんは、オーラが濃い人たちが集まっております。

この「ニン」に合うとか合わないっていうのが、歌舞伎にとってすごく重要です。たとえば新劇などは、「ニン」も大事だけれど、どっちかというとテクニック。どういう演技術で役を表現するかが勝負なわけです。歌舞伎の場合も、もちろんテクニックは大事ですが、それだけではどうしても満たされないものがあって、それが何かというと、「ニン」なんですね。

つまりどんなに上手な、パーフェクトな役者さんがやっても、なんかこう、ピースが1つ欠けている感じがする。お姫様なのに、お姫様っぽく見えないとか、極悪人をやっているのに善人のにおいがする人とかいるでしょう。そういうことを「ニン」というんですね。だから、「ニンにない役」という言い方もあります。「あの人、上手なんだけどね、今月は『ニン』にない役をやらされて可哀想だね」とか。何となく「ニン」わかっていただけましたか。

歌舞伎というのは、「出てきただけでそう見える」というのが、ものすごく大事なんです。ただここに座っている、立っているだけで、その人物に見えてしまう。これが新劇的なテクニックとは種類が違うんですね。本人の努力ではいかんともしがたいものがあって、たとえば『勧進帳』の源義経が出て来ると、「ああ、この人はやっぱり貴公子だ」。それで、みんなが義経を守るために頑張るという話ですから。みんなが「この人のために命を捨ててもいい」と思うぐらいの雰囲気を身にまとっている役者さんと、頑張ってるんだけど、この雰囲気が出ない役者さん、というのがどうしてもいるんです。

舞台に出て、「ニン」に合ってるけど下手な役者さんと、「ニン」にないけど上手い役者さんを比べると、実は歌舞伎の場合は下手な役者さんのほうが輝いてしまうことがよくある。それぐらい「ニン」というのは難しい。つまりテクニックと「ニン」が五分五分なんです。新劇が八割二割ぐらいだとすると、歌舞伎の場合は五分五分。逆に言うと、「ニン」にピタッとハマると、無敵の演技ができてしまうわけです。多少下手だろうが、顔がおへちゃだろうが関係ない。光り輝くようなお姫様、大悪人というのが出来上がってしまう。これがまた難しいところなんですね。

「役者を観る」っていうと、お芝居をご覧になる時に、パッと出て来て、「わぁ、きれい!」っていう反応をする。それはもちろん大事ですが、「ニン」を知った上で、「この人はすごくいいけど、ちょっと寂しい。もうちょっと華やかなほうがいいよね」とか、「同じ役で、この人とこの人を観た時に、あの人はこうだったけど、この人はその寂しい部分がなくて、大輪の花が咲いたようだった」とか、「ニン」という視点を導入することで、あらすじに縛られたお芝居の観方とは違う観方ができるのではないかと思います。「この人、なんか下手な人だなと思ってたけど、こういう役をするとものすごくいい」とか、「きれいなんだけど、この役に限っては、やっぱりあっちの人のほうが輝いてた」とか。役者を観る時、美しい人たちが集まっていますから、どうしても外形の美しさに目がいっちゃう。それも大事ですが、役と役者さんとの関係、そこには「ニン」が介在しているというのを、ぜひ覚えて帰っていただきたい。

ガッチリとゆったり

歌舞伎の秘密その3。歌舞伎にはいろんな登場人物がいますが、まずガッチリです。それから、ゆったりです。どういう意味でしょうか。歌舞伎に出て来る人たちは、現代人には縁遠い「義理、忠義、親孝行、勧善懲悪」、それから、声を小さくしますが「男尊女卑」とか、封建的な価値観にガッチリ縛られて行動しています。舞台の上では。若いお客様のなかには、そういうのが受け付けないという人がいらっしゃる。封建的で、非合理的で、人権はどうなってるんだっていうのが、理屈抜きに気になるっていう人がいて、それはそれでわかるんです。現代人とは世界が違い過ぎるわって。たしかにその通りですね。

たとえば、松王丸。「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」という場面の主人公です。大雑把に申し上げますと、菅原道真、お芝居では菅丞相(かんしょうじょう)という名前で出て来ます。菅丞相が藤原時平の罠にはまって太宰府に流されちゃう話です。道真の息子の菅秀才にも魔の手が迫っている。この若君様を守らなきゃいけない。ところが、松王丸、梅王丸、桜丸の3人の兄弟のうち、松王丸だけは敵方の家来になっているわけです。本当は道真方の出身なんです。道真にお世話になって、内心では道真のことが心配でしょうがないんだけど、今は敵方の大将に忠誠を尽くさなくてはいけない立場にあります。ところが、よりによって、自分がその菅秀才の斬った首を本人かどうか確認してこいという役目を言い渡されてしまう。さあ、どうする。菅秀才を守りたい。でも、自分は敵方の者としてそこに行って、首を確認しなきゃいけない。そこで松王丸はちょうど年齢が同じぐらいの自分の息子を身代わりに差し出す。ここに写真が出ています。子どもの生首。松王丸の息子、小太郎の首です。松王丸はあくまで敵方の使者として、自分の息子の生首を見なきゃいけないわけです。それを見て、「これは菅秀才の首に間違いない」と宣言することによって、菅秀才は命が助かるというお芝居なんですね。これを初心者の方に見せると、評判がよかったり悪かったり、極端です。「泣きました」と言う人もいれば、「どうしてもわかりません。自分の子を死なせる必要があるんですか」と言う人もいます。

「……菅秀才の首に相違ない。相違ござらぬ。出かした、源蔵、よく討ったな」

これが一番の山場、「首実検」と呼ばれます。「死なせる必要があるんですか」って言われると、あるんです。松王丸にとってはそういう必要があるというよりも、もうこれしか選択肢が残されていないのです。というのは、台本とか、義太夫節の浄瑠璃本を読むと、そういうふうに書いてあります。松王丸としては、もうそれしか行動の余地がないときちんと書かれています。

明治の歌舞伎もあるし、いろんな新作もあるんですが、古典に関して言えば、出て来る人物は基本的には江戸時代の人物です。江戸時代ではないという建前をとっているものでも、本当は江戸時代の人物です。江戸時代とはどういう時代かというと、何百年も前ですから、現代とは価値観とか、社会的な制度とか、感覚が違う時代ですね。よく、「江戸も現代っぽいですね」とか、素直におっしゃる方がいるんですけど、とんでもない。共通点はありますけど、何百年も前ですから、それは全然違うわけです。

ポイントになるのは、個人が社会的なポジションの座標軸上に……難しいな……ガッチリと嵌め込まれている時代。社会的なポジションというのは、たとえば身分ですね。武士か、町人か、それともお坊さんか、お医者さんか、お百姓さんか、商人か。まず身分によって振り分けられます。それから、身分のなかでもちゃんと階層があるわけです。「武士です」といっても、下は足軽から、上は大名、将軍まで、ヒエラルキーが決まっているわけです。年齢や性別だってそうです。いろんな要素によって、ここにあなたはいますよ、というのが決まる時代なんですね。今でもある程度そういうところはありますが、自分で動こうと思えば動けるでしょう。江戸時代は基本的には動くことが許されていない時代。もちろん例外はありますが、「あなたのポジションはここです」って言われると、そこで一生を終えるっていうのが基本ですね。それに応じた行動を求められるというのは、つまり社会的にある地点にいる人はこういう行動を取りなさい、こういう格好をしなさいというのが決まっているということです。

われわれも、そういうものに縛られて、何かを制約されることはあります。社会的ポジションによって、髪型、服装、言葉遣いなどある程度選択肢が限られるところがある。逆に言うと、どんな着物を着ている、どういう言葉遣いをしているかというところから身分やポジションがわかることがある。江戸時代はそれがもっと強くて、たとえば裕福な商家の跡取り息子が着るような着物は大体決まっていて、振る舞い方も社会的な規範として決まっているわけです。しかし、生身の人間ですから、その通りにいくかというと、必ずしもそうではない。どうしてもそこにはおさまらない人間の感情というのがあるわけです。どうしてもこの人が好きだとか、お金が欲しいとか、権力が欲しいとか、制度のなかにおさまらない欲望、感情というのが、人間にはふつふつと沸きたぎる瞬間があるわけですね。ついにそれが決壊して、秩序を乱すような行動に踏み出してしまう。その瞬間にドラマが発生する。それを、「立場が立場だから我慢しよう」って我慢しちゃうと、歌舞伎は成立しないわけです。

だから、松王丸も好き好んで自分の息子を身代わりにするわけはない。可愛い一人息子ですから。当然、劇の後半では嘆き悲しむわけです。じゃ、そんなことしなきゃいいじゃん、と、現代人はつい考えてしまうのですが、よく作品を読むと、それ以外に松王丸に取れる行動はありません。逃亡できません。包囲網が張られていて、逃げるのは不可能。だからといって、正面切って戦っても、かないっこありません。死ぬのは目に見えてるわけですね。そこで助けるためには、身代わりしかない。でも、田舎なので周りはお百姓さんの小せがればっかりで、菅秀才の身代わりになるようなきれいな「お首」がない。そこで、松王丸は自分の息子を身代わりに差し出す。現代人から見ると、たしかに残酷であり、非合理的であり、封建的であり、許しがたい行動かもしれませんが、これお芝居ですから。お芝居の、彼らの世界のなかでは筋が通った行動なんです。その筋の通り方というのは、最初に申し上げたとおり、こっちから歩み寄っていかないと、わからないんです。残念ながら。

考えてみると、こういう「こうしなければいけない。立場上はこうなんだけど、でも、それだけではどうしてもおさまらないの、この私のモヤモヤが」っていうのは、江戸時代に限らず、人間が生まれて以来ずっとあるわけですね。社会というものができてからずっとあるわけで、今もみなさん何か抱えているはずです。それがどうしても我慢できない瞬間に、事件を起こしたりするわけですね。それが舞台の上で展開されると、お芝居になっちゃうということですね。

もう一度言いますと、いったい松王丸という人は今どんな立場にあるかを考える。彼は家来として、使者とならなければいけないけれど、菅秀才も守らなければいけない。引き裂かれるわけです。そういう江戸時代独特の――これ大事なところです――江戸時代独特の、いまとは違う事情を、こちらから歩み寄って、つまり勉強して、当時の主従関係は絶対なんだと理解する。彼は本当はそういう生まれなんだけど敵方になっていて、というような前提を知っておく。これは文字で読むしかない。「寺子屋」を観ただけではわからない。いま幸いネットがありますので、検索すると詳細なストーリーが出て来ます。それでちょっと予習していくと、何百年という時代を超えて、彼らと感情を共有して喜んだり、泣いたり、笑ったりできるのではないかと思います。

次は「勧進帳」の富樫です。義経一行が逃げて、安宅の関という関所に通りかかる。武士の情けとよく言われますが、義経だと知っているんだけど、あえてそこを通してやるのが富樫という関守です。これ実は、武士の情けでいい話というだけではないんですね。富樫は頼朝方の官僚で、おそらくこの一件は頼朝に報告されるでしょう。あるいはどこかから情報が漏れる。どうも義経らしいのを逃がしたぞと。そんな時に富樫はどうするかというと、腹切って死ぬしかないわけです。自分が死ぬつもりで通してるわけですよ。義経も、いざとなったら敵に殺されるよりは自害してもかまわないという覚悟ができている。弁慶だって、死ぬ覚悟で義経を叩いて逃がすわけです。……ということを知っていると、『勧進帳』で幕が閉まって飛び六方があった後に、カーテンコールで弁慶が出て来るのがいかにお芝居の余韻を削いでしまうかが、おわかりになると思います。

ですから、見た目の美しさも大事ですが、こういう背景を知るのにぜひ不精しないで、手間を惜しまずに、よくよく調べていただきたい。調べて、こちらから歩み寄ることによって、昔の人と同じ土俵に乗ることができるというのが、古典の値打ちです。何でもそうです。和歌だろうが、漢詩だろうが、何でもそうです。シェイクスピアだってそうです。ちょっと調べてあげるだけで、彼らの土俵にわれわれはポンと乗ることができるというのが大事なところですね。 

あらすじにとらわれない

これがガッチリの話で、次は、ゆったりの話。江戸時代の人々はゆったりしています。すでに申し上げましたが、「あらすじにとらわれるな」ということです。次どうなるの、次どうなるの? それで? 次どうなるの? と思っていると、歌舞伎はとてもじゃないけど観られない。全然話は進みません。ゆっくり流れていきます。あっちが「実は身どもは酒井雅楽頭様の藩中にて二階堂徳之進と申す者でござる」って言うと、こっちが、「へっ、そんなら貴殿は酒井雅楽頭様の藩中、二階堂徳之進様でござるか」って、同じことを繰り返すんですね。能でも狂言でもそうですが、あれは1回聞いただけではよくわからない人のために、繰り返しているわけです。だから、その分リズムがゆったりになるわけですね。「忠臣蔵」の六段目で切腹して死ぬ早野勘平は、腹に刀を突っ込んで、それから10分以上動かない。そのままで「いかなればこそ勘平は……」と、自分の生い立ちから紹介を始める。「私のお父さんはこういう名前で、代々お殿様に仕えてきたんだけど……」っていう話を、血まみれになりながらするんですね。いつ死ぬんですかっていう感じなんですけど、それが見どころなんです。「ああ、勘平は気の毒になぁ」って観るためには、ギアを2つぐらい落としてやらないといけないんです。「この人死ぬんでしょ。それで?」と思って観ていると、歌舞伎はちっとも楽しめません。ギアを「ロー」ぐらいまで思い切って下げて、ゆっくり観ていただきたいというのが、「ガッチリ、ゆったり」の「ゆったり」の部です。

岡鬼太郎という辛辣な劇評家が、大正4年の時点で、「いまの人はせっかちでしょうがない」と言っています。「これがこうなって、こうなるでしょ」っていう段取りを踏んでいく芝居は、今の人はせっかちで観ていられないから、「見取り」といって、いま歌舞伎座でよくやっているような、短い、違う演目を2つとか3つとか4つとか並べる興行の仕方をやるようになった。元々は長い1つの演目を上演していたわけです。それを細切れにして、いろんな演目のバラエティでやるようになった。それはなぜか。「いまの人はせっかちだから」と言っているので、せっかちなのはみなさんだけではありません。大正4年の時点で、みんなせっかちだったわけですね。ギアを落として下さいというお話です。

さて、今日は、ちょっとしたお遊びを用意してみました。「仮名手本忠臣蔵」の浄瑠璃にはない場面で、歌舞伎オリジナルなんですけど、「道行旅路花聟(みちゆきたびじのはなむこ)」という場面があります。通称「落人(おちうど)」。これの配役を考えてみましょうという課題です。

あらすじ。勘平君です。殿様・塩冶判官(えんやはんがん)のお供として重要な儀式の場に出勤しました。だから、お殿様の傍に付いてないといけないのに、そこに現われた恋人の腰元のお軽ちゃんにエロチックに誘われて、つい勤務中に逢引きに出かけてしまう。ところが、ちょうどそのいなくなった最中に、塩冶判官が高師直(こうのもろのお)という人物に斬りつける。重要な儀式の場で傷害事件を起こしてしまう。これは大事です。本当は勘平君はここにいて、真っ先に事件の事後処理に当たらなきゃいけない役割なわけですね。ところが、その時、恋人と外でデートをしていた。下品に言うと行為に及んでいた。いや、ほんとうにそう書いてあるんですよ。屋敷にも戻れず、行き場所がなくなって、勘平は潔く切腹しようとするんですが、お軽ちゃんが止めて、一旦、私の実家に行きませんかと誘う。そこでまた、再起するきっかけがあるかもしれません、と。実家は京都の山崎。ウイスキーの山崎の蒸留所のあるところで、東海道をずっと下っていく。その旅をしていく場面が「落人」という演目なんですね。勘平さん、先祖代々お殿様に仕えているエリートです。若いのに給料もいい。しかもイケメン。順調にいっていたのに、肝心なところで、「色に耽ったばっかりに」、人生を棒に振って、腹切って死ななきゃいけなくなる。可哀想でもあり、自業自得でもある。一方のお軽ちゃん。実家はお百姓さんです。でも、この人、ちゃんと書いてあるんですよ。田舎が嫌いなんです。こんな草深い田舎はイヤだって言って、都会に出て、塩冶家という一流企業に勤めて、勘平君という男とラブラブになった。ところが、その天性の無邪気さと大胆さが仇になって、結果として、大事な勘平さんを窮地に追い込んでしまった。こういうのが前提になって、「落人」という場面になります。

さて、やっていただく課題です。この二人にはどういう配役がいいか、みなさんにお遊びで考えていただきたい。舞台は春爛漫の東海道です。戸塚という宿場に近い山道。桜が満開、菜の花が一面に咲いていて、晴れ渡ったなかでバックには富士山がドーンと姿を見せている。そういう舞台で、美男美女の二人がゆったり踊るわけです。つまり、美男美女でなくてはいけないわけです。そうでないと絵にならないから。でも、実は、背景には非常に困った問題を抱えている。けっして楽しい旅ではないわけです。これからお軽ちゃんの実家に、重苦しい気持ちを抱えて行くんだけど、見た目はふわーっとしていないといけない。題して「私の見たいお軽、勘平」。この配役を1分間で考えてみて下さい。歌舞伎役者でなくていいです。映画俳優でもいいし、お笑いタレントでもいいし、ハリウッドの俳優さんでもかまわない。みんなが知っている人、スターで、この美男美女にあてはめるとしたらいったい誰でしょうか。たとえば嵐で言うと、私は二宮君ではないと思う。勘平はやっぱり松潤だろうという気がする。こういう調子で、誰をあてはめると自分にとってピタッと気持ちよくハマるかを、今から1分勝負です。

ちょっとうかがってみましょうか。

受講生:ウェンツ瑛士さんと松岡茉優さん。

受講生:綾瀬はるかと田中圭さん。

受講生:岡田将生、石原さとみ。

受講生:稲垣吾郎。

矢内:お軽ちゃんは?

受講生:長澤まさみ。

矢内:実は最初に思いついたのが長澤まさみなんです。イケるでしょう。

受講生:ちょっと年齢上がりますけど、渡辺謙さんと宮沢りえさん。

受講生:ディカプリオと満島ひかり。

矢内:ディカプリオはけっこうイケる感じがしますね、顔立ち的には。で、いかにもそういう失敗をしそう。

受講生:岩下志麻と田村正和。

矢内:田村正和、やっぱり色っぽいので、そういう色恋で失敗するっていう感じしますよね。

受講生:ベッキーと草彅剛。

矢内:生々しい。草彅君も悪くないと思いますね。べッキーも似合いそうな感じはします。いいとこじゃないですかね。私が最終的に辿り着いた「私が観たいお軽、勘平」は、いろんなのを経たうえで選んだのが、これです。佐田啓二。いいでしょう? 色っぽいし。本人はすごく真面目なんだけど、ちょっとヌケてる感じもしますね。女性はドリュー・バリモアです。バランスも取れてるんじゃないかっていう気がするんですよね。

何の話をしていたかというと、今日は、歌舞伎を観るためのコツというと大袈裟ですが、こういう視点もありますよ、というので、秘密を3つご紹介しました。

1つは、絵と間が大事ということ。

2つ目は、どうぞ役者をご覧下さい。「ニン」っていう、すごく重要な要素もありますよ。

3つ目はあらすじに関わるお話です。ガッチリであり、ゆったりである。そのつもりでこちらもドアをノックしないと、本当の面白さはドアを開いて見せてくれないんじゃないかなという気がします。

どんな本を読めばいいですかって、よく聞かれるんですけど、これを読めばOKという本はありません。最初にご紹介がありましたが、入門書と称して売っているのは、だいたい中身は似たり寄ったり。歴史があって、演目解説があって、で、「隈取りとは」とか演出の話があって、切符の買い方が最後にちょっと付いている。どれを見ても、だいたい必要な情報は得られるでしょうし、ネットをお使いの方はネットのほうが情報は詳しいかもしれません。

「ニン」については、ある役にハマる人、ハマらない人というのは、おそらく生の舞台を観るとピンとくると思います。で、2回、3回、4回、5回と観て、なおかつ、同じ演目を違う配役で観ていくと、この人はこういう個性なんだなとか、「忠臣蔵」の勘平というのはこういう人なんだなとかわかってきます。ある程度回数は必要です。1回観て、「歌舞伎ってこんなもんなんだ」とは、なかなかそううまくはいかないので、最初におもしろくないのに当たっても、少し我慢して、何回か、少なくとも3回、4回ご覧いただくと、これ当たり! というヒットが必ず見つかるだろうと思います。

それぐらい歌舞伎は間口が広い。いろんな種類のお芝居があるんです。踊りもあれば、義太夫が入るものもあるし、セリフだけで進んでいくのもあるし、「だんまり」みたいにあらすじのないものだってある。いろんなものを観て、おもしろかったら、それは何でおもしろかったのかを考える。「顔や姿がきれいだった」というのも重要な要素ではあるのですが、それを役者の面と演目の面から考える。それから、少し観た後も、記憶を反芻しながら振り返ってみたりすると、歌舞伎というのは、ある時突然ドアを開いてくれる。私は、たまたま初回で「どうぞ!」っていう感じで吸い込まれたんですけど、そうじゃなくても、3回、4回観てると、そういう瞬間が必ず訪れますから、どうぞこの講座をきっかけに、まだ観たことがない方は、切符を取ってご覧になるといいと思います。とりとめもありませんが、今日は「歌舞伎さん、こんばんは」と題して、「歌舞伎の秘密」というお話を申し上げました。ありがとうございました。

河野:ご質問ある方がいらしたら、どうぞお手を挙げて下さい。

受講生:「だんまり」は顔見世とおっしゃってましたけど、今は、小屋と契約じゃないけど、やっているんですか。

矢内:完全に形骸化して場面だけが残ったんですね。ですから、いま顔見世の意味は、まったくありません。元々は1つの演目を長く1日中やるなかの1場面だったんですけど、そこだけが残って他の場面は上演されなくなってしまった。「だんまり」だけで独立して作られたものも、あることはあるんですけど、意味はないのです。顔見世という意味でも意味がない。ストーリー的にも意味がない。でも、おもしろい。

受講生:「積恋雪関扉」を観ると元気が出るっておっしゃったんですけど、私はちょっとわかりませんでした。どこに感じるものがあるんでしょうか。

矢内:やっぱり歌右衛門って、見てるだけで非常に不思議な生物でしょう。お年を召してからの映像だと、よく見るとシワシワなわけです。それは70過ぎてやってるわけですから。ところが、「桜の精です」って出て来ると、ほんとうに桜の精に見えちゃう。短い映像だけではお感じになりにくいと思いますが、「ただの人間じゃないな」という妖気が感じ取れるような気がする。決まる時の間が気持ちいい。最後のチョーンって入る時のタイミングとか、ゾクゾクっときますね。早野先生、もう歌右衛門はねぇ……。

早野:僕は歌右衛門を、昭和40年代ぐらいから観ています。僕が歌舞伎を観始めた最初の頃の一番の課題は、僕は矢内さんと違って、歌右衛門との出会い方が不幸だったんですね、たぶん。『演劇界』とかの劇評を読むと、絶賛されてるわけですね、歌右衛門。それで、僕は自分で観て、絶賛しなかったんですよ。「異質なものである」ということはよくわかったんです。だけれども、みんながあれほど素晴らしいと言っている歌右衛門が、自分にはなぜ違和感があるかを考えて、腑に落ちるようになるまで10年間ぐらいかかりましたね。

矢内:なるほど。いずれにしても、「これはなんか普通の人間ではないな」っていう。

早野:それはそうだった感じはしますね。

矢内:女形さんって、多かれ少なかれそういう異常さをまとっている……だって、男が女をやってるわけですからね。とくに歌右衛門なんていう人は、私はかろうじて最晩年の生の舞台を観られたっていうだけで、語る資格はないんですけど。

早野:でも、僕が最初に観始めたときに違和感があったのは、「なぜこんなにくどいのか」ということでした。

矢内:くどいですね(笑)。

早野:これでもか、っていうぐらいくどい。あのくどさが良さだと思えるまでに、僕は時間がかかりました。

矢内:なるほど。いろんな役者さんがいて、いろんな観方があるということが、またおもしろいところですね。

受講生:勉強してから行くと、近づけるとおっしゃったんですけど、イヤホンガイドがありますよね。あれは聞かないで、自分の感覚で観たほうがいいんでしょうか。

矢内:これ難しいですね。実は、私、イヤホンガイドって聞いたことがないんです。試しにちょっとだけ部分的に聞いたことがあるんですけど、通して聞いたことがないので、何とも申し上げにくいんですけど、人それぞれと言うと身も蓋もないんですが、邪魔にならないように、ちゃんとセリフとか音楽の間を縫って解説が聞こえてくるんですね、レシーバーを通して。それがやっぱり気になるという人もいらっしゃるし、あったからよくわかったっていう方もいらして、なかなか難しい。試しに1度やってごらんになると、好きか嫌いかわかるんじゃないですかね。補助的にお使いになるのもお勧めかなという気がします。

受講生:江戸時代の歌舞伎と、いまの歌舞伎座とかでやってるのと、普通の人が行くのは、ハードルがだいぶ違うと思うんですけど、今の歌舞伎座がちょっと気楽に行けるところではないような感じがあるんですね。一方、田舎の芝居小屋を復活させてやるとまた違うと思うんですけど、その場所の雰囲気によって感じ方も変わってきますか? 田舎の芝居小屋のほうがとっつきやすい感じで観られる。そういうのは?

矢内:まったく別物だと思いますね。たとえば香川の金毘羅大芝居とか、熊本の八千代座とか、昔の芝居小屋の空間は、それはそれでいいものです。舞台も近いし、お客さん同士の一体感はかけがえのない空間だと思うんですけど、それがベストかというと、必ずしもそうではなくて、やはり大劇場には大劇場の良さがある。劇場は生き物なんですね。劇場に限らず、人間が出入りする場所は、ある種の生き物みたいに呼吸をしていて、歌舞伎座には歌舞伎座の空気があります。国立には国立の、ちょっとよそよそしい空気。歌舞伎座には歌舞伎座じゃないと味わえない華やかさとか、盛り上がりがあります。歌舞伎座は敷居が高いと思っている方が多いですが、行ってみると、そんなことはない。3階席に入ってみると、みんなアイス最中とかバリバリ食べていたりします。上演中はダメですけど。

早野:ホールやシアターでやる歌舞伎もありますが、そういうところと、歌舞伎をやる劇場の形としての違いは、舞台を観た時の縦横比が違うんです。歌舞伎をやる舞台は、横に長くて縦に低い。それが、オペラをやるような四角い縦横比のところで歌舞伎をやると、やっぱり何となく違う感じがします。上を隠したりしますけれどもね。だから、やっぱり歌舞伎座はいまの歌舞伎をやるようにできているという感じがします。いずれ松竹専務の岡崎さんが講師の「歌舞伎座の130年」の話のときに、歌舞伎座の秘密なども話していただけると思います。

終わり

受講生の感想

  • 白浪五人男とゴレンジャー……目からウロコが落ちました。

  • 早野先生よりはじめにお話がありましたが、歌舞伎鑑賞ではなく、本来は「見物」である、ということが、とても印象に残りました。演劇、映画、テレビ、ネット動画と、なんとなく大衆娯楽は移ろう歴史がありますけれど、マンガはいつまでも「見物気分」だなと思い、マンガの良さを改めて実感しました。受講をへて、歌舞伎を「見物」できるようになることが目標になりました。

  • 歌舞伎は「間と絵」。わかりやすかったです。