万葉集講座 
第5回 ピーター・ジェイ・マクミランさん

『百人一首』を英詩訳して

ピーター・ジェイ・マクミランさんの

プロフィール

この講座について

『小倉百人一首』を英訳し、世界初の英語百人一首カルタをつくった詩人のピーター・マクミランさんが、英訳の工夫を語るなかで、「和歌のこころ」を様々な角度から浮き彫りにしてくださいました。さらに、「大丈夫。日本のみなさんは心に歌をもっています。みんな詠めます」というマクミランさんの励ましを受けて、大半が初心者であるにもかかわらず、受講生のみなさんが和歌を詠みました。

講義ノート

河野:マクミランさんは、『万葉集』というよりも『小倉百人一首』の翻訳家として大変有名な方です。私がマクミランさんのことを存じ上げるようになったのも、それがきっかけでした。亡くなったドナルド・キーンさんが、ご自身の翻訳とも比べながら「現在最も卓越した名訳である」と、マクミランさんの『小倉百人一首』の翻訳を褒めておられます。「『万葉集』はそんなに詳しくない」と、最初はちょっとためらわれたんですけれど、ちょっと強引にお願いしたのかな(笑)、いや、喜んでやってくださるんだと思います。では、マクミランさん、どうぞ。

マクミラン:Good evening, ladies and gentlemen. みなさん、こんばんは。ピーター・マクミランと申します。今日は翻訳を通して『万葉集』の世界を紹介していきたいと思います。この授業は3つの部分に分けます。最初は『万葉集』の、今の時代の意味をみなさんに考えていただきたい。その次は、私が日本の古典を英訳し世界に発信していく、これまでの苦労と挑戦と楽しみを共有して、日本文化や日本文学を世界に紹介していく重要性とやり方について一緒に考えたいと思います。これまでに訳された『万葉集』の歌をいくつか紹介して、日本文学を翻訳することを一緒に考えたい。休憩のあとに、富士山と関係するクリエイティブな、実践の場を設けたいですね。どういうことをやらされるのか、サプライズにしたいので、今ちょっと申し上げられませんが、とても楽しい時間です。だから、第1部は授業を楽しく聞く。第2部が一生懸命勉強していただく。そして、第3部が、遊ぶ。遊びながら勉強するという構造ですね。

●和歌は必要ないものか?

『万葉集』は日本で最初に作られた和歌集です。それから1500年経った今、私たちが読む必要性があるのか、ということから考えていきたいです。今、日本の社会では、リベラルアーツは必要ないという考えを持っている方が多くいらっしゃって、どちらかといえば経済に専念して考えていけばいいという傾向を感じます。『万葉集』というのは、ポエム(詩)の世界ですね。ポエムはどう考えても、それぞれの社会の成果物(成果物という言葉は嫌いですが)として最も役に立たないものです。ポエムを書いたり読んだりすることは、経済につながらないから。私の本も採算は合わない、あんまり売れないですね(笑)。古典の歌を読まれる方が少なくなっていますし、翻訳されたものを読もうとしたら「えぇ?」というような感じです。役に立たないし、もしかすると必要ないかもしれない。それをみなさんと、この授業を通して一緒に考えていきたいです。もうひとつ、大きく考えていきたいのは、もし「やはり日本文学は大切だ」「日本文学を外国の方に理解してもらいたい」「もっと日本という国を理解してもらいたい」という気持ちがおありでしたら、どのようにそれを理解してもらえるか、ということです。日本文化と日本の古典には、特徴があります。ほかの国と、考え方と発想がかなり異なっている。最初の授業で、上野誠先生がシェイクスピア学者の河合祥一郎さんと読み比べているお姿を拝見し、先生方は「シェイクスピアと『万葉集』はすごく近うございます」という考えだったようですが、私はそうは思いません。なので、私が思うその違いについても説明していきたいと思います。ここから第1部が始まるのですが、これまでに工夫してきた翻訳について、少し紹介させていただきたいと思います。

●英訳するときの工夫

まず『伊勢物語』です。『伊勢物語』は実は『万葉集』の歌もたくさん引用して影響も受けているんですが……『伊勢物語』は恋の物語です。百二十五段のものが「恋愛百景」というぐらいに、たくさんの恋愛の場面が登場します。その中で主人公の在原業平が登場して、恋の歌をたくさん詠んで、平安時代の理想の恋人の姿になっていくわけです。この中で最も有名な段のひとつは九段ですね。東下り。たぶん、高校でお読みになったと思います。

から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ

この歌は在原業平が(のちに)お妃になる女性と共寝をなさって、都から離れていかないといけないのですが、八橋という所に友達と一緒にたどり着いたとき、ちょうど杜若(かきつばた)が咲いているわけです。それで、旅というテーマで折句の歌を詠みましょうと提案されて、それが「か」「き」「つ」「ば」「た」ですね。平安時代は濁点はないから、「は」か「ば」かどっちでも読めるわけです。これを訳したのが、これです。

In these familiar lovely robes I’m
Reminded of my beloved wife
I have left: stretching far behind—
Sadness, the hem of journeys.

わかりやすいと思いますけど、どのように工夫したか誰か見てわかりますか?

受講生:アイリス。

アイリスですね。同じく折句で作らせていただきまして、I、R、I、Sですね。和歌を訳すとき、基本は七五調なので5行で訳しますけれど、これは例外で4行だけになったんです。もともとの歌は〈から衣〉、素晴らしい着るものの名称ですね。その服の〝縁語〟が多く含まれている。例えば「きる」とか「なれにし」とか……、「つま」も褄と奥様のことと……。それと「はるばるきぬ」……、そういう縁語がたくさん含まれているわけです。それを英語の、familiar lovely robesとstretching far behindとか、hem of journeysというような言葉を入れることによって、もともとあった日本語の縁語を訳しました。hemは褄という訳ですね。stretchingは、stretching far behind。ふたつの意味があって、ひとつは服を「ストレッチする(伸ばす)」、もうひとつは「遠くなる」と抽象的な意味。日本語の「はるばる」も抽象的と具体的な意味の、どちらも含まれているわけですね。

この場面は日本美術史で最も描かれているもののひとつで、示している絵がアイルランドのチェスター・ビーティ・ライブラリのコレクションにあるんですけど、1610年ぐらいの古いものです。在原業平と八橋と杜若が描かれています。これを見ると、みなさんが「あ、『伊勢物語』の世界だね」と思われるんです。あまりにも有名になって、だんだん省略されていって、こちらの別の絵も同じ在原業平と八橋と杜若です。さらに省略されていって、八橋と杜若だけで、「これは『伊勢物語』の九段だね」と連想して喜ぶ。たしなみですね。で、最後に杜若だけで「これは『伊勢物語』だな」と言う。

これが日本人の美意識です。連想するのが大好きなんです。連想の美ですね。お茶の世界でも、日本人のそういう美意識が根本にある。言葉でも、たとえば、みなさんの関係でも「縁がある」とか「縁がない」とか、縁を感じることによって日本人はとても安心感を感じる。美の世界では、連想ができればできるほど、たしなみを感じる。文学もそうですね。富士山を見るよりも、西行の歌を通して富士山を見るのが主流になっていくわけです。それこそ同じ九段の中に登場する富士山、その富士山を通して芭蕉とかは俳句を読むわけです。芭蕉の俳句の中に登場する五月富士は、『伊勢物語』で登場するから、「ことさら五月富士」になるわけですね。連想できればできるほど、それがたしなみとなるんです。古典の世界の連想はとても大切で、明治時代まで続きます。どんどん変わっていくんですけれども……。毎年、根津美術館で、この絵が展示されます。庭に杜若が咲いていて、頭の中に『伊勢物語』があって見ると、1000年前の『伊勢物語』と、これが描かれた江戸時代の屏風絵と、そのときに生えている杜若と、3つで最高の美学的な楽しみができるわけですね。これは日本ならではの美の楽しみ方なんです。

●掛詞

今度は『百人一首』のエピソードを少し紹介します。日本語の古典の世界では〝掛詞〟がありますね。掛詞というのは、今でいえば……みなさんに当ててもいいですか? 掛詞、どういう意味ですか?

受講生:ダジャレですか。

マクミラン:ダジャレ。そうそう、まさにダジャレですね。要はふたつの意味が重なっているわけですね。掛詞というとすごく美しい響きがあるんですけど、ダジャレだと、まあ、オヤジギャグとか、ちょっと引いてしまうような意味があります。実は英語も同じです。パン=punと私たちは言い、昔の歌とかには多少ありましたが、英語でpunを使うと、少しチープなイメージがあるんです。チープだし、子どもの子守歌とか、遊びの歌とか、どっちかというと軽い歌ですね。自分の心の思いを表現するようなレトリックではない。なので、日本語の掛詞をそのままで訳すと、ちょっと困ることもあるわけです。ちなみに、唯一、英語と日本語がひとつの掛詞になっている言葉があるんです。それは何でしょうか?

受講生:pine。

マクミラン:pineですね。素晴らしい。「松」です。「人を待つ」というのには「人を恋している」という意味が古典にはあるんです。松の木という意味でもあるわけですね。英語の場合ですと、pine treeがあって、I’m pining for youとは「あなたを恋しく思うよ」という意味なんです。まったく同じ掛詞、まったく同じ使い方ができる。その例はひとつしか私はまだ発見していません。みなさんご存知だったら、教えてください。

Though I may leave
For mount Inaba,
Whose peak is covered with pines.
If I hear that you pine for me,
I will come straight home to you.

立ち別れ
いなばの山の
峯におふる
まつとし聞かば
いな帰りこむ

在原行平ですね。在原業平の兄弟です。掛詞は、『万葉集』には少ないと思っていたんですが、意外とありますので、これからみなさんで力を合わせて『万葉集』の4500ぐらいの歌を翻訳するのであれば(笑)、そういうことも少し考えていかないといけないと思いますね。

●和歌にない「私」の存在

その次。これまたすごくおもしろいことなんですけど、『古今集』からの歌には「I」という言葉は出ないんです。「私」とか「われ」とかという言葉は現れない。なぜかというと、その時代から日本人はすでに婉曲の美で物事を表現しようとしているわけです。もちろん三十一文字の制約もひとつの理由だと思いますが、どちらかというと、言わなくてもわかる、その関係でわかる。『源氏物語』を読むと、敬語の使い方によって関係性がわかる、誰がしゃべっているかがわかるのと同様で、歌の世界では「I」という言葉はないんですね。そうしますと、この歌、

奥山に紅葉ふみわけ
鳴く鹿の
声聞くときぞ秋はかなしき          (猿丸大夫)

この中で、誰が紅葉を踏み分けているんでしょうか? 鹿でしょうか。歌人でしょうか。……歌人だと思う方、手を挙げてください。鹿だと思う方、手を挙げてください。若干、歌人のほうが多いですね。これは、正解がありません。文法的にどっちでも読めるんですね。とても不思議ですが、これは日本文化の心髄にかかわることだと思います。その前に英訳を紹介させてください。

1.
Autumn at its saddest—
Restling through the leaves
and moving on alone
deep into the mountains,
I hear the lonely stag
belling for his doe.

これは「I」がはっきりしていますね。

2.
In the deep mountains
making a path
through the fallen leaves,
the plaintive belling of the stag—
how forlorn the autumn feels.

これもみなさんに聞きます。1番がいいと思う方。2番目がいいと思う方、おお、全員ですね。初めてですね。その理由について、誰か語ってくださいますか?
受講生:ちゃんとした理由はないんですけど……音がいいような気がしました。
マクミラン:音が、ああ、はい。ほかは?
受講生:正直、英語がわからないんですけど、踏み分けてるのが鹿のほうだと思ったので、2のほうがいいと思いました。
マクミラン:はい、わかりました。実は、10年前に初めて『百人一首』を訳したときに、1をしたんですね。英語として「I」と主語がない文章は、文法的に成り立たないから。そういう文章を高校とかで作ると、先生に怒られます。何ていうか、英語の、書くことにおけるルールですね。もうひとつは、英語は主語中心の表現をします。ワーズワースという詩人が〈I wandered lonely as a cloud〉、私が雲のようにさまよって歩いた、と。デカルトという哲学者以来、考えている個人が宇宙の中心であるわけです。だから、「I」を通してそれが表現できる。けれども和歌の特徴は、それを曖昧にするんです。だから、踏み分けているのは歌人か鹿か、頭の中ではっきりしていないと思います。要は、人間が自然に一体化されていることを表現しているわけですね。その言葉遣いが、どっちにも読める。そういう世界観が、和歌の特徴であるわけです。それはとても素晴らしいと思いますが、これも英語でどういうふうに訳せばいいかと……。2回目に訳したときには2番目のほう。これは元の意味に忠実で、どっちにも取れるわけです。注釈でそう説明しました。こういう選択をしたのは、もっと外国の方に、その世界観を楽しんで理解してもらいたいからです。

●視覚的な翻訳とは

次に行きましょう。これも視覚翻訳です。和歌の世界は視覚的なものが多いので、視覚的な訳をしました。この訳も、吟じるように作っています。今、『百人一首』の世界初の英語のカルタを制作中(2019年7月発表)で、日本語で『百人一首』をやるときは吟じるので、英語でも吟じるように作りました。これもちょっと吟じます。ある音が何回か繰り返されているのを聞いていてください。

あしびきの――
山鳥の尾の――
しだり尾の――
ながながし夜を――
一人かも寝――む             (柿本人麻呂)

どんな音が繰り返されましたか?
受講生:「お」。
マクミラン:「お」、素晴らしい。それと?
受講生:「の」。
マクミラン:「の」、素晴らしい。あしびき「の」、山鳥「の」「尾」「の」、しだり「尾」「の」、ながながし夜「を」、ひとりかも寝む。どうしてこんなに、この音は繰り返されていると思いますか? 私が考えたのは、山鳥の長い尾をたとえているということ。当時は山鳥のオスとメスが別々に寝ると思っていたらしく、自分が恋をしている女性と一緒に過ごせない(一人で過ごさないといけない)のは、その長い山鳥の尾のように長ーく長ーく感じますよと。音を繰り返すことによって、さらに長ーく感じさせる、ということだと思います。レトリックですね。「お」と「の」の繰り返しが、寂しさと、一人で過ごす夜を表現しているわけです。英語をどのように工夫したかというと、これをまず尾の形にしました。これもまた音が繰り返されているので、聞いてみてください。どれかあとで教えてくださいね。

The
long
tail
of
the
copper
pheasant
trails,
drags
on
and
on
like
this
long
night
alone
in
the
lonely
mountains,
longing
for
my
love.

受講生:on。
受講生:long。
受講生:alone。
マクミラン:aloneとlonelyとlongingとloveですね。英語で同じ音を繰り返したことで、同じような効果を出しました。これから私たちが『万葉集』の4500の歌に挑戦するときも、それぞれの歌に、翻訳によって違うレトリックがあって、違うことを表していくので、一緒に考えていきたいですね。

●西洋と日本の美に対する考え方

このあと『万葉集』に移りますが、ひとつだけ、西洋と日本の美に対する考え方を説明させていただきたい。私は大学で、学士と修士で哲学を勉強したんです。西洋哲学が中心でしたが、西洋の哲学の基本は「断定する」こと。たとえば、ジョン・キーツが歌の中で「美は真、真は美」、そういう断定をしたときに、普遍性がある、と。そうでないと哲学的には話が通らない。だから、「神が存在するか/しないか」、「私たちが物事を知ることはできるか/できないか」。その断定、普遍性がなければ、モノとして語れないのです。

西洋の美の根本は、永遠に生きることです。だから、「モナ・リザ」とか、シェイクスピアのソネットとか、ベートーヴェンとか、ミケランジェロの「ダビデ」とかは、ずっとある。あるからこそ神に近い存在になっている。人間は死ぬ。人間は不完全である。でも、芸術は完璧性を持っているから永遠に生きることができる。それがシェイクスピアのソネット18番、有名なソネットがあります。その終わりの部分です。

So long as men can breathe, or eyes can see,
So long lives this, and this gives life to thee.

つまり、愛している女性、または男性が死んでも、この歌の中では永遠に命を与えられていますという意味になるわけです。それが西洋の伝統的な考え方の基本です。

これを日本と比べますと、『伊勢物語』の八十二段ですね。惟喬親王(これたかのみこ)がお花見に行かれます。みなさん桜の木の下で、髪に花枝をかざって、お酒を飲みながら、歌を詠むわけですね。これは代表的な歌です。

世の中に
たえて桜のなかりせば
春の心は
のどけからまし              (在原業平)

If only there were
no cherry blossoms
in this world,
what calm would reign
in the heart of spring.

みなさん、これからお花の時期を迎える、なんとなくワクワクしてきていらっしゃると思います。まったく同じ気持ちを詠んでいる1000年前の在原業平ですが、桜がなければいいのになあ、と。なぜかというと、私たちが落ち着かないから。花びらの美しさと、すぐ散ってしまう儚さと……、落ち着かない、と。この返歌が素晴らしい。とても大切な歌です。

散ればこそ
いとど桜はめでたけれ
憂き世になにか
久しかるべき            (作者未詳)

It is because the blossoms scatter
that they are splendid.
In this world of sorrow
what lasts for long?

英語のほうがわかりやすいでしょう? 要は、散るからこそ愛でましょう。この憂き世の中に長く続くものはひとつもないから、すべてが儚い中で美しく散ってしまうお花を愛でましょう。それは日本人の心です。日本人の美意識ですね。私の知っている限りでは、ほかの国には存在しない、誇るべき、素晴らしい美学です。いかがでしょう(笑)。

『万葉集』には、ここまでは断定しませんけれども、こういう歌もあります。

わが園に
梅の花散る
ひさかたの
天より雪の
流れ来るかも              (大伴家持)

Plum-blossoms
scatter on my garden floor
are they snow-flakes
that whirled down
from the heavens?

儚さという断定がなくても、『万葉集』の中で梅の花(桜より梅の花)の散っていく姿を雪のように見立てたりすることが、そういう美学の始まりではないかと思っています。ということで第1段が終わりまして、楽しく、楽に聞ける話でしたね。第2段は、みなさんが集中して勉強する部です(笑)。

●これまでに翻訳された『万葉集』

「『万葉集』を訳してみる」。この授業をやってくださいと頼まれたとき、『万葉集』はあまり歌も訳してないし、とても不安だったんですが、上野先生がたくさんの歌を送ってくださって、これを訳しなさいと、とても丁寧に指示してくださったので(笑)安心したのですが……、すでに『万葉集』は何人かの方が翻訳されているので、それをちょっと比べてみましょう。これまでに3つの訳を発見しました。まず、クランストンさん(Edwin A. Cranston=ハーバード大学日本文学教授)。有名なアメリカの学者ですね。1998年にこの本を出しました。 “A Waka Anthology”

リービ英雄(Ian Hideo Levy)さんは、日本でも有名な方ですね。小説もお書きになるし。あとは、セオドア・ド・バリー(Theodore de Bary)ですね。日本学術振興会(“The Manyoshu: One Thousand Poems”)。ドナルド・キーン先生が序文を書いていらして、日本人の方が訳されています。おそらく大きな団体で、たくさんの学者のお名前が書かれています。比べてみると、一番内容を把握しているのはやっぱり日本人の方なんですね。英語がちょっと不自然だったりしますけど、内容はすごく踏まえて訳されているイメージです。これを少しずつ見ていきたいですね。まず、「万葉集」第1番からです。雄略天皇ですね。

籠もよ み籠もち
ふくしもよ みぶくしもち
この岡に 菜摘ます児
家告らせ 名告らさね
そらみつ 大和の国は
おしなべて 我こそをれ
しきなべて 我こそませ
我こそは 告らめ
家をも名をも

Girl with your basket,
With your pretty basket,
with your shovel,
With your pretty shovel,
gathering shoots on the hillside here,
……             (リービ英雄訳)

With a basket,
A pretty basket,
And a trowel,
A pretty trowel in hand,
Here on this hillside
Gathering herbs: young one,
……                 (クランストン)

trowel(こて)とshovel(シャベル)の違いですね。登場してくるのでイメージしてほしいんです。リービさんの訳とクランストンさんの訳です。どっちがいいですか? shovelかtrowel。
受講生:trowel。
マクミラン:trowelがいいのはなぜですか?
受講生:摘むから。
マクミラン:そうですね、おそらくtrowelでないといけないと思います。もうひとつ違いがあって、shoots(若芽)とherbs(ハーブ)、どっちがいいですか?
受講生:herbs。
マクミラン:herbsがいいと思う方? shootsがいいと思う方? おお、みんな間違えてる(笑)。いや、間違えてはいないんですけども、英語だとherbsはバジル、ローズマリー、ディル、そういう世界なんですね。shootsは七草。どっち?
受講生:shoots。
マクミラン:shootsがいいですね。和の世界ですね。herbはちょっと違う。まあ、山椒はherbといったらherbですが(笑)。なので、trowelとshootsですね。翻訳したとき、その語彙、というか言葉の選択がとても大切なんです。shootsには和の世界観がある。上に行こうとする、まだ出てきたばっかりだけど芽生えていく植物のことで、すごく美しい英語の和語みたいな感じなんですね。herbだと、ちょっと学問的だし、ちょっと硬い言葉ですね。次は、girlとyoung oneです。どっちがいいですか?
受講生:girl。
マクミラン:girlがいいですね。girlと(日本学術振興会訳の)maidenは全然世界観が違うんです。クランストンはyoung oneですね。maidenかgirl、どっちがいいですか。girlがいいと思う方は? maidenがいいと思う方は? おもしろいですね。半々ですね。maidenはどっちかというと古風。今はあまり使わない言葉で、中世の物語とかで連想される、まさに「乙女」のイメージです。「乙女」の一番適切な訳はmaidenなんですけど、今、日本語で「乙女」って使わないのと同様で、同じような言葉です。これに限っては、すごく目上の方が目下に語りかけているので、girlでもmaidenでもいいんです。ただ、イメージはけっこう異なります。だから、今、生きている英語としてはgirlのほうがよくて、ちょっと古風なニュアンスとか格調の高さを表現したければmaiden。最終的に自分で選択しないといけないです。

これがこの歌の冒頭なんですが、もうひとつの特徴として、途中で格調の高い語りになっていく。それも翻訳したときにすごく大切だけれど、今は冒頭だけなので、気さくに話しかけているわけです。もうひとつは〈籠もよ〉ですね。籠から始まるというのは、私から見れば一番、詩らしい(詩的)。籠を呼びかけていることがとても新鮮で斬新で、歌らしいと思います。クランストン訳のほうがwith a basketですね。これがgirl with your basketだとわかりやすいけれど、これに限っては少しわかりにくいほうがいいですね。最後に、「あ、やっぱり女の子が摘んでいる」とわかったほうが、歌らしいです。そういう意味ではクランストンのほうがいいかなと思いました。

●曖昧な因果関係の説明

次もクランストンの訳です。2番の歌です。飛鳥の風が吹いているけれども、都が藤原京に移っているから無駄に吹いてるという歌なんですが、

采女の
袖吹きかへす
明日香風
みやこをとほみ
いたづらにふく         (志貴皇子)

Winds of Asuka
Blowing back the waving sleeves
Of palace women-
Now the capital is far,
And you blow in vain.       (マクミラン訳)

因果関係がこれだと読めないんです。藤原京に都が移っているから、今、飛鳥に無駄に風が吹いているという因果関係が、この訳だと伝わらない。2つのものとして成っている。飛鳥の風が吹いている、それでcapital is farということはわからないですよね。だから新しい訳で、それを補いました。

Winds of Asuka,
you used to blow
the waving sleeves
of the young ladies
of the palace—
But now the capital is far,
so you blow in vain.(マクミラン訳)

以前はそこで都にいた女性に吹いていたけれども、今はそのcapitalが遠くなっているので、風が無駄に吹いているよという訳になっているわけです。

『万葉集』の訳を調べると、わりとこういうことが多いです。日本人が訳していると気づくのですが、外国人の先生の訳はちょっと物足りないことがあります。また、「吹きかへす」がblowing backになっていたんですが、blowing backって英語としてはあまり通じない。もともと「吹きかへす」は、「吹く」という意味合いで良いと思いますけど、この「吹く」という言葉の、袖に翻るとか、ひらひらするというような意味でとれば、素直に訳せると思いました。

次に、日本語では曖昧にしている因果関係を英語にしたとき、それをはっきりと表現しないといけない。万葉集3番目の歌です。

君待つと
我が恋ひをれば
我が屋戸の
簾動かし
秋の風吹く           (額田王)

Waiting for you, my Lord,
I sit here longing;
and the autumn wind blows,
fluttering the bamboo blinds
on the door to my house.      (リービ英雄訳)

あなたを恋しく思ってここで待っている。そして、その秋風が私の家の入り口のbamboo blinds(簾)に吹いているよという額田王の歌です。クランストンです。

While I wait for you,
My lord, lost in this longing,
Suddenly there comes
A stirring of my window blind:
The autumn wind is blowing.     (クランストン訳)

待っているあいだに突然に、私の窓に秋風が聞こえてきたと。今度は日本学術振興会が、

While, waiting for you,
My heart is filled with longing,
The autumn wind blows-
As if it were you-
Swaying the bamboo blinds of my door.  (日本学術振興会)

この訳が一番よく理解している。曖昧にされている因果関係がはっきりと訳されているわけです。要は、待っていた風が吹いたときに、あなただと思ったけれど、実は秋風だったという……詠まれている風景がさっきの2つの英語では訳されていないけれど、この訳にはちゃんと表現されています。ただ、この英語はちょっと、まあ……あの、まあ、という感じですね(笑)。それで、

Waiting for you
my heart is filled with longing,
then, as if you had come
the bamboo blinds sway,
but it was the autumn wind blowing.                (マクミラン訳)

まるであなたが来たように、このbamboo blinds sway。でも、but it was the autumn wind blowing。わかりやすいですね。もともとの歌にそういう状況が詠まれているかなと訳しましたが、『万葉集』に詳しい方から「違うんだよ! そういう意味じゃないよ」とか言われる、かな?(笑)。あとね、これは実はすごく情緒的で美しい歌です。だから、こういう訳がいいか悪いか別として、そのコンテンツ ――あなたが待っているあいだに風が吹いていて、「あ、あなたが来たかな」と思ったけれど、実は風だけだったという―― その情緒と寂しさと虚しさを伝えることは大切かなと思いますね。

次は笠郎女(かさのいらつめ)ですね。

思ひにし
死にするものに
あらませば
千度ぞわれは
死に返らまし

If longing were a thing
one could die from,
death would have come to me
and come again
a thousand times!           (リービ英雄訳)

次は日本学術振興会

If it were death to love,
I should have died-
And died again
One thousand times over.

という訳になっています。みなさんにちょっと聞きたいんですけど、この違いについて、one thousand timesか、a thousand timesか、どっちがいいでしょうか。誰か説明できますか? はい、どうぞ。

受講生:「たくさん」という比喩なので、oneと強調しなくてもよいのでは。

マクミラン:素晴らしい。まさにそのとおりです。one thousandはまさに1000。a thousand timesはどちらかといえば「たくさん」という意味だから1000以上。one thousandというのは、1000ぴったりになるから、ネイティブが書いていないことがバレちゃうんですね。ちょっと計算的になってしまって詩意から外れるんです。こんな些細なことが、腕の見せ所というか、ポイントになるわけです。

リービさんの訳のlongingというのは人を恋しくなるという意味だけじゃないので、弱い。この歌はとても強い歌です。1000回以上死んでいるはずですね。もうひとつ、これはちょっと難しいところなんですけど、could die from。詩意は……恋は死に至る可能性のあるものだと訳されていますね。そういう可能性はありますよ。ただ、原文は、〈死にするものに/あらませば〉。死ぬものならば、ですね。もっと強く断定しているわけです。可能性じゃなくて、恋は死ぬものであるとしたら、ということで、この訳はちょっと弱い。原文のインパクトの強い訳になってないですね。

If love were a thing
that causes one to die,
I would have died
again and again,
a thousand times over.(マクミラン訳)

こういう歌であれば、その2つのポイントを補っていける。そういう世界観なんです。言葉の選び方によって全然意味も違うことになるのですね。

●sky と heaven と heavens と

次は大伴旅人です。

わが園に
梅の花散る
ひさかたの
天より雪の
流れ来るかも

In my garden fall the plum-blossoms-
Are they indeed snow-flakes
Whirling from the sky?           (日本学術振興会)

Plum-blossoms
scatter on my garden floor
are they snow-flakes
that whirled down
from the heavens?                    (マクミラン訳)

ここでもうひとつ質問があります。heavensとskyはどう違いますか?
受講生:skyは空で、heavenは天。
マクミラン:どっちが合っていると思いますか?
受講生:heavens?
マクミラン:heavensですよね。heavensの宇宙と、空の宇宙と、まったく異なっている。要はheavensは、死の世界の神々、八百万の神々のおられる所で、美しく、いい所ですけども……。これがheavenだけだと、どう変わりますか?
受講生:天国。
マクミラン:天国ですね。それもまた全然違う意味で、そういうところも気をつけないといけないですね。whirled down from heavenだと、天国から落ちてきた。heavensだったら天(あめ)ですね。空だとskyですね。skyではちょっと散文っぽいですよね。そのような工夫が、その訳を見てわかるわけですね。

これが最後の歌です。「見ゆ」という言葉が出てきます。

天の海に
雲の波立ち
月の舟
星の林に
こぎ隠る見ゆ           (柿本人麻呂)

日本学術振興会訳は、

On the sea of heaven the waves of cloud arise,
And the moon’s ship is seen sailing
To hide in a forest of stars.

「見ゆ」という言葉を調べましたが、状態の起きている様子とか、何々をしようとしている瞬間だという意味ですね。すごく不思議な発見だったんですが、英語もまったく一緒なんです。何々しようとする瞬間……、「意図的に私が何かしようとしている」という解釈もできますし、「その事態が起こっている」という解釈もできるわけです。この歌の中では、「月が意図的に自分の身を星の林の中に隠そうとしている」という解釈もできるし、「月は今、隠れているところです」という解釈もできる。どう解釈しますか? 月が意図的に自分を隠そうとしていると解釈する方、手を挙げてください。今ちょうど隠れようとしていると解釈する……ほとんどですね。それは多分、日本人と外国人の違いなんです。意図的に物事を考えるから、月が自分から身を隠そうとするほうが、私たちには詩的なんです。要は擬人化して……月が魂を持っていて、自分を一生懸命隠そうというのは、私たちには美しく感じるんですね。でも、多分、日本人はそうなっている瞬間(その起こっている瞬間)だけでも十分楽しめるというか、情緒を感じるかもしれないと、初めて考えました。

1.
In the sea of heaven
cloud waves rise.
The moon is a boat
that rows, is about to hide itself
in a forest of stars.          (マクミラン訳)

2.
In the sea of heaven
cloud waves rise.
The moon is a boat
that’s rowing into a forest of stars
about to hide itself.                    (同上)

この歌はとても美しいですね。だから、「月の舟」を私の会社の名前にしたんです。みんな「なんでそんな変な名前つけたの?」と言います。「温泉じゃあるまいし」とか言われるんですけど、私としては、この表現の仕方が極めて日本的なんです。みな様のご先祖様が遠い昔に、半月(三日月と思ってたんですけど、半月らしい)を見て、それを小舟に見立てて、星の林の中で漕いでいく姿、隠れる姿。「ああ、日本に来てよかった」、読むたびにそう思う。実は、昨日初めて気づいたんですけど、この歌は矛盾しているわけ。「星の林」でしょ? 星と星のあいだに見えるから、隠れるわけがないんですよね。でも、それも楽しめるんですよね、その情緒が。隠れていないのに隠れていることがとても新鮮で斬新で、歌心の心髄ですね。

もうひとつ難しいのは、「こぎ隠る」です。どっちが大事ですか? 漕いでいく姿か、隠れようとする姿か。
受講生:隠れる。
マクミラン:「隠れる」が大事だと思う人? 「漕ぐ」が大事だと思う人? やっぱり分かれますね。こういうふうに、翻訳することによって、新たな視点から、愛されてきた文学を考える機会になるのではないでしょうか。

受講生:私は国語が得意で英語は苦手なんですが、英語で説明されたほうがわかるなと思いました。
マクミラン:日本人の方に、「『百人一首』を英語で読んで、初めてそういう意味なんだとわかりました」とよく言われます(笑)。
受講生:さっきのheavenが単数形なのはどうしてですか? In the sea of heaven。
マクミラン:実際に、その空を見ているわけですね。
受講生:heavensじゃない?
マクミラン:ええ。見ているのもheavenになるわけです。
受講生:天国じゃないんですね。
マクミラン:天国じゃない。
受講生:難しい(笑)。
マクミラン:それは難しい。sea of heavenといったら、天国ではなくなるんですね。ほかに質問ありますか?

受講生:ずいぶん前の講義で、「メメント・モリ(死を思え)」という西洋の思想をお話しいただいたんですが、人はいずれ死ぬから今を楽しもうという思想は、(「永遠に生きる」という)西洋の美とはあまり関係ないものなんですか?
マクミラン:私の知る限りでは、それはあまり関係ないですね。どちらかというと、苦しむために生まれてきて、苦しみが当たり前で、罪があって当たり前で、懺悔をして、苦しい人生を送ったあとに亡くなって、天国で過ごすというあたりは違うかなと。
受講生:では、日本の美意識と共通するものではないんですね。日本の、永遠ではないからこそ美しいというのと、共通するものではないのでしょうか?
マクミラン:私はそう考えます。ただ、それを外国の方が理解できないということはない。たとえば私の場合だと、これまでの概念と新たな概念と、両方の概念を今楽しんでいるわけです。アイルランドで哲学を勉強し、そういうアイデンティティがあって、日本に来て、日本の美学と出会うことによって、これまでの自分のアイデンティティが破壊されました。私が信じていた美学が普遍的だと思っていたんですが、でも普遍的であれば、儚さは美と関係ないでしょ? でも、日本に来て、儚さが美のもとである、儚いからこそ愛でましょうということで、それまでの概念が破壊されたんですね。自分の中に今、ふたつのアイデンティティがあって、ひとつは生まれ育ったアイルランド人として西洋の哲学、そして、新しく出会った日本の美学ですね。私から見れば、日本の美学には普遍性もあるんです。同じようにどこの国でも理解できる……、素晴らしいと思いますね。日本人だけのものではない。だから私のライフワークは、日本文学と日本文化を世界に発信して、その素晴らしさを紹介していきたい、ということです。

●富士山の歌

後半、富士山の歌を少しやります。これも有名な歌です。

田子の浦に
うち出でて見れば
白妙の
富士の高嶺に
雪は降りつつ           (山部赤人)

Coming out on the Bay of Tago,
there before me,
Mount Fuji –
snow still falling on her peak,
a splendid cloak of white.

こういう歌を通して、いにしえから日本人が富士山を称賛しているとわかりますね。日本人の魂に富士山はとても特別な存在であるとわかります。これは時代によって変わっていくんですね。江戸時代には富士山信仰があって、みんな1回は富士山に登らないといけないとか、『万葉集』と『古今集』の時代に富士山の高嶺が燃えていると思われていて、自分の恋心をそれに見立てて詠むなど、数えきれないほどの歌があります。

今、私がちょうど完成しようとしている新しい本が『富士文学百景』です。『万葉集』から 現代に至るまで――今、俵万智が最後です――富士山はどんな時代でも文学で詠まれていますが、時代によってその姿を変えていくわけです。これからの時代は世界遺産の仮面をかぶっていくんですけども、それまでにいろんな顔があって、変わっていくわけです。後半は、みなさんに歌を詠んでもらいます。学校長から、みんなすごい短歌が上手だと伺っていて、とても楽しいと思います。

今、京都の冷泉家の仕事をさせていただいていて、この前、ご当主とお会いして、和歌の書き方と短歌の書き方を説明していただきました。みなさん、ご存知ですか? 「短歌」は、要は自分のことを表現していく(自分の個性が詠まれる)わけです。「和歌」はみんなが共有している「たしなみ」が詠まれるわけです。だから、季節によって題も決まりますし、言葉なども決まるわけですね。そして、みんな同じ題について書く。共有している世界ですね。これもまたすごく日本的です。外国では、共有した世界では、詩は詠まれない。詩は、個、個人が中心だから。自分のことしか書けないのが、詩の中心ということです。

この歌はとても素晴らしいですが、富士山の偉大さが詠まれていて、古典では珍しい歌です。どちらかというと、歌人は細かいディテール(詳細)を詠むのですが、この歌は富士山の偉大さを愛でるんですね。

我妹子(わぎもこ)に
逢ふよしをなみ
駿河なる
富士の高嶺の
燃えつつかあらむ          (作者不詳)

There is no way
to meet the one I love.
That is why
my heart blazes
like the peak of Fuji.     (マクミラン訳)

富士山に重ねて自分の恋心を語る歌です。これも先ほど申しましたように、数えきれないほどの歌に、富士山の燃えている高嶺というイメージで、相手に対する自分の恋心が詠まれるわけです。みなさんに、まず富士山の絵を描いてほしいんです。描いたあとで歌を詠みます。配付した資料が見本です。これを見ながら、共通している世界観で和歌を詠みます。短歌ではなく、和歌を詠むわけです。自分の個性というよりも、みんなの富士山に対する思いとか、富士山の燃えている高嶺とか、積もっている雪とか、そういうみんなが共有しているイメージで、自分の歌を詠むわけです。もうひとつ見ましょう。

富士の嶺の
いや遠長き
山路をも
妹がりとへば
けによばず来ぬ         (作者未詳)

Thinking nothing of Fuji’s height
nor the long winding roads
to cross her, I came all the way
knowing I could see you
on the other side.        (マクミラン訳)

富士山の高さとか越えていく長い道を考えずに渡ってきた、渡ったあとに必ずあなたに出会えると知っているから、という歌ですね。私が愛している方に会えないからこそ、私の心が富士山の高嶺のように燃えていますよ、という歌です。休憩のあとに、その和歌の世界を楽しみたいと思います。書き終えてから、みなさんで共有しつつ、和歌を詠む日本人について少し語りたいと思います。

●即座に歌が詠める、それが日本人

それでは後半を始めます。まずはみなさんに絵を楽しく描いていただきたいんですね。富士山の絵ですから、難しいと思われるかもしれないけれど、どのような描き方でもいいし、太陽でも月でも何でも加えていい。間違えて描くことはあり得ないので、楽しくみんなでまず描いてみましょう。

大体みんな描けました? それでは、今度はみなさんにシェアしましょう。自分の描いた絵を、みんなに見せてください。はい、どうぞ。共有の時間です。次に、歌を詠んで書きましょう。自分の絵の中に歌を飾ってもいいですし、普通に書いてもいいです。もちろん日本語も結構ですけど、英語でも結構ですよ。英語だとボーナスポイントをもらえる(笑)。もちろんフランス語とか何語でも大丈夫です。

在原業平が『伊勢物語』の主人公になったことには、いくつかの理由があったんですけど、まず文武両道だったんですね。イケメンで文学も達者である。もうひとつは歌心がある。一途に恋をすることと、即座に歌が詠めること、それが日本人なんですね。即座に歌を詠みましょう。先ほど配付しました資料の歌を真似してもOKですよ。それを見本として、それに近いような歌。複雑に考えないで。一応、歌のテーマはloveです。日本の文学はloveなんですね。『百人一首』は60ぐらいの歌がloveポエムです。だから、日本人は大体6割の時間はloveについて考えているということだと思いますので(笑)、ぜひともloveポエムを書いてください。自分の子どもでも、恋人でも、お母さんでも、自分のloveを富士山のイメージを通して表現してください。はい、どうぞ。難しいなと思ったら、散文で書いてください。「私の恋は、富士山に積もっている雪のように、私の愛の気持ちも積もっていますよ」と。それでもOKですよ。〈以下、ワークショップ〉

●受け継がれている『万葉集』の遺伝子

みなさん、描かれている絵と歌をシェアしてください。すぐにわかるのは、簡単に描ける三角形にもかかわらず、どの絵もみんな全然違うことです。自分しか描けない絵を描いてますね。けれども、みんな富士山について、自分の恋心を詠んでいるわけです。これが和歌の世界です。自分の個性はちゃんとありながら、共有しているたしなみのもとで表現するのは和歌なんです。今、それを教えている家が、1か所しかない。京都の冷泉家です。

みなさん素晴らしい個性、感性の持ち主ですが、一番気づいてほしいのは、万葉の時代から日本という国の国民は変わってないこと。1500年前にご先祖様が書かれた歌と、みなさんが書かれた歌は、そう変わらない。ということは、みなさんは『万葉集』の遺伝子を伝承されている。それを考えたことありますか? ないですよね。誇るべき、喜ばしいことで、私の知っている限りでは、ほかの国にこういう例はございません。〈以上、ワークショップ〉

休憩のときに学校長が、「後半どうしましょうか……」と、すごく心配していらしたんです。なので、私が「大丈夫ですよ」と言いました。日本のどこの遠い遠い田舎に行っても、みんなが短歌を即座に書けるんです。書けないところは体験したことがない。みなさんが歌心を持っているんです。それはとてもすごいことだと思いますね。

はじめに、『万葉集』は今の時代に必要か、全然役に立たないじゃないか、経済にまったく貢献しないのでは? と聞きました。でも、これはみなさんの心の世界ですよ。日本人のアイデンティティとして共有している世界なんですよね。日本人として生まれてきたことに感謝ですね。ご先祖様にこういう立派な歌集を残していただいた。それが、今でも生きているわけです。今でも、読んでいて「あ、こうやって自分の恋の心を表現できるんだな」と自分の感性を磨くことができる。それプラス、自分が同じ歌心を持っているのは、すごいことだと思いませんか。私はすごいことだと思います。どうですか。
受講生:すごい。
マクミラン:本当ですか(笑)。どうですか。
受講生:感動しました。
マクミラン:ありがとうございます。とにかく、『万葉集』は私としては欠かせない作品です。日本人には、ぜひとも読んでいただきたいと思っています。

●『万葉集』を世界に紹介していきましょう

もうひとつみなさんに、この講義を通して考えてほしかったことがあります。これまで日本の中で生きて伝承してきた『万葉集』は、あまり海外に伝わっていないんですね。だからこれまでの翻訳にも、いろんな問題がある。私たちで力を合わせて、4500首をぜひとも翻訳しましょう。今、私は700年大事にされてきた『百人一首』を英訳し、世界に発信して、世界初の英語のカルタを作っています(2019年7月発表)。そういうカルタをやりながら、世界に日本文化を広めていきたい。なぜなら、『百人一首』の100首の中に、日本人の心が凝縮されていると思っていますから。これまで日本という国で読まれてきた『万葉集』を、これからの時代、日本のため、世界のために、世界にぜひとも紹介していきましょう。受講生が約100人ですから、何首ずつ訳していけば成り立つでしょうか(笑)……。

私が日本に来て30年です。私が来たのは昭和ですよ。アイルランドでは「香港は楽しいですか」と聞かれたりしました。それと同じで、日本人からは「アイスランドはどうですか? 一年間凍っていますか」と、今でも聞かれます。要は、日本の知名度がなかったんです。でも、今、どんどん日本の知名度が上がってきて、観光客もたくさん増えているから、そろそろ日本の一番心髄のところに、みんな興味を示してくると思います。『万葉集』は、まだ秘められている宝箱だと思いますね。そういう意味では、今日の講義のメインポイントのひとつは、みなさんが『万葉集』の遺伝子を受け継がれているということ。それを歌を詠むことによって、私たちに見せてくださった。多分、学校長、驚かれていらっしゃいます。みんなが書けたことにではなくて、その質の高さにです。素晴らしい歌をみなさんが詠まれて、私もすごいなと思いました。これから世界にどのように『万葉集』を広めていくかを、みんなで考えていただきたいと思います。

最後にみなさんに歌のおみやげを用意しましたので、それをちょっと読ませていただいて、最後の10分にもし何か難しくない質問があれば、お答えいたします。

新しき
年の初めの
初春の
今日降る雪の
いやしけ吉事(よごと)        (大伴家持)

正月の日に立春が重なっていく ――珍しい、まあ、20年に1度ぐらい―― ことが詠まれていて、「新しき年の初め」に「初春」とか、今日は積もって重なっていく「雪」が、とか詠まれているわけですね。それと同様に、たくさんの良いことが重なっていきますよ、という歌なんですね。これをちょっと訳してみました。

On this New Year’s Day
which falls on the first day of spring
like the snow that also falls today
may all good things in life
pile up and up.

その年の初め、New Year’s Day、元旦の日に、それで立春ですね、the first day of springと、like the snow that also falls、also fallsと掛詞にしたんです。で、あなたの人生にたくさんの良いことが重なっていきますよと。これが『万葉集』の最後の歌なんです。こういう縁起いい吉事が重なっていくような歌で終わらせたことが、今まだ続いている『万葉集』ですね。皆さんの人生にもこういう吉事が重なっていくとともに、これからの1600年、世界に紹介していく『万葉集』を一緒にどのように紹介できるか、あと自分がどの歌を担当するか、ということですね。

これも吟じます。めでたい歌ですね。日本の方たちは、めでたいことが大好きですね。「言祝(ことほ)ぐ」という言葉があります。言葉で祝うということですね。そういう発想はあまり英語にはないんですけど、とても美しいですね。『伊勢物語』の中では、在原業平が翁になったときにこそ言祝ぐことを頼まれるんです、帝にね。だから、言祝ぐことは、日本文化にもとても大切なことです。

●質疑応答

最後の10分ですが、もし何か気になったことや、どうしてもこれが違うぞ、とか……コメントでも大丈夫です。
受講生:どうして日本に来ようと思われたんですか?
マクミラン:あなたに出会うため。答えになってますか?
受講生:なってないです(笑)。

受講生:先ほど、儚さというのが非常に日本的な美とおっしゃっていたことに関する質問です。『万葉集』に出てくる伝統的な日本の美学のキーワードで、雪月花、雪と月と花。全部見る、変わっていくものであると。そういう価値観が多分、僕は母語が日本語なので、みんなそうなのかなと思っていたんです。要するに、桜は散りぎわが美しいだとか、月は隠れるから美しいとか、雪は溶けるから……と思っていたんですが、これは世界的には珍しいことなのかどうかを伺えればと。

マクミラン:わかりました。まず、さきほどの女性の質問に真面目に答えますね。20代の、博士課程が終わった時期に、大学の先生になりたくて、学会に行って面接を受けて、あちこちの仕事がオファーされたんですけど、1か所はテキサスで、もう1か所は日本だったんです。それが横田基地にあるメリーランド大学 ――夜間大学ですね―― で、その前に来られていた先生が1リットルのジンを授業でガブガブ飲んでクビになったんですね。それで「あなたは理想的な候補者です。いつから来られますか?」と聞かれたのが木曜日だったんです。「来週の月曜日からお願いします」。だから5日間しかなくて……大学院生だった当時は、1年間で50万円の収入で生きていました。毎日、ポテトと卵ですけど、そのときは何も不自由は感じなかったんです。それで、日本に来て1年間いようと思っていたんです。で、地図を見たら、アイルランドの真反対だったんで、すごい冒険ができるかなと。当時は日本語もしゃべれない ――日本の大学に移ったあとに副理事長から理事長のところに挨拶に連れられて、理事長が「よろしくお願いします」と言ったんです。「どういう意味ですか?」。英語で「Work hard」。まさにそういう意味だったんですけど―― そのぐらい日本語がわからなかった。今でもよくわからないと思うんですけど、まあでも、どっちかというと、30年が経った今のほうが毎日冒険なんですね。歌の世界はそれこそ星の林。無限な可能性と無限の美しさを感じている毎日でございます。答えになりましたか?
受講生:ありがとうございました(笑)。

マクミラン:次に雪月花の話なんですけど、雪月花というのはもともと日本の概念ではなく中国から。詩人が恋している男性(だとされていますね)のことを一番恋しく思う時期は、月の時期と秋ですね。あと雪が降ったときとか、花(そのときは多分、桜じゃなくて梅)なので、みんな白いものなんです。その世界観、美学、白に対する美しさですね。藤原定家の『百人一首』には、白いという歌しかないんです。だから、もともとは日本というよりも中国かなと考えていますけど、日本はそれも美学として考えてきた文化だと思います。すごくわかりやすいですね、私たちには。月が出ているとき、あなたのことを思うとか、私たちも同じような発想があるんですね。月を見ていて、あなたがその下にいるとか。雪とか花とか……「花」と、私たちは限定しないんですね。だから、雪月花、日本では和歌の世界、共有している世界なんですね。だから、春には桜を詠む、冬に雪を詠む、秋には月を詠む。だけど、短歌は春でも月を詠めるんです。自分の個性を詠むわけですね。その違いがあると思いますけど、それは日本だけではないとしても、世界的にはあるとは限らないと思いますね。

受講生:和歌とか短歌を読まれるきっかけは何だったんでしょうか。
マクミラン:すごくいい質問ですね。日本に来て10年が経った頃、日本にいようか、国へ帰ろうかと思った時期があって、私の恩師(同じアイルランド人の女性、もう他界されました)がそのとき天皇陛下の御用掛をお務めになっていたんです。ドナルド・キーン先生のお弟子で、お能に詳しいし、日本の歌の世界をとてもよくご存知だったんですね。その方が『百人一首』を紹介して、「この詩集を訳したら」とおっしゃったんです。私は英語で詩集も出しているから、日本の歌の世界にすごく興味を持っていた。それで、その本を紹介していただいて、当時は古典もできないから、高校生の教科書の解説を読みながら、なんとかできたんですね。で、そのアイリーンさんという方に見せると、真っ赤な字でいつも戻ってきて……すごいガッカリして「もう諦めます」と言ったら、「いや、もうできてるわよ」とおっしゃって、キーン先生に見せたら、キーン先生が絶賛してくださったんです。アイリーンさんは、「多分キーン先生は好きじゃないと思いますけどね」と言ったんですけど、本になって、翻訳する免許を与えられたということですね。それがきっかけですね。その本を訳すことによって、まあ、答えが出たんですね。まだ日本にいるって。それまでは剣道とか、書道とか、お茶とかの稽古を受けたりしていたんですけど、やっぱり文学を勉強することによって人生が変わったという感じですかね。

受講生:翻訳された詩を読まれて、海外の方たちって、五七五七七の韻文というのを感じられるんでしょうか。英訳を読むことによって、その音感というのも一緒に感じられるものでしょうか。
マクミラン:すごくいい質問ですね。まずは七五調という言葉なんですけど、要はひとつの音律です。韻は踏んではいないですね。アイリーンさんがキーン先生に見せたくなかったのは、それまでに英語で訳したときに、三十一文字で訳さないといけなかったルールがあったからなんですね(笑)。それを私はとってもおかしいと思ってね、とても人工的だと。英語が母国語である方たちに七五調はまったく通じないんです、音律として。私たちにはiambic pentameter(シェイクスピアなどの弱強五歩格)とか、いろんな違うリズム感があるんですよ。そのリズム感に訳したんですね。一応どれも吟じるように訳しました。吟じることを通して、音律とか元の歌の世界観――やっぱり声で発声するって大切ですね―― を表現しようと思っているんですね。

河野:そろそろ締めてもいいのかなと思います。さっきマクミランさんがおっしゃっていたように、みなさんが本当に歌を詠んでくださるかなと一番不安に思っていたのが私で、認識を改めないといけないなと今すごく反省しています。一番自信を持っていたのはマクミランさんで、「大丈夫。絶対に心配ない」と。それを本当に目の当たりにして、大変深く反省しております。
マクミラン:いえいえ。
河野:マクミランさんに熱く日本人のDNAを語っていただくことまでは考えていなかったんですが、その空気を作ってくださったのはみなさんです。
マクミラン:そうですね。
河野:はい、本当にいい授業になったと喜んでおります。
マクミラン:みなさん、ありがとうございました。とても楽しかったです。気づいたんですけど、日本の歌の世界は自然と一体化されているんですね。鹿とか歌人とかみんな一体化されている。それも和歌の世界なんですね。で、みなさんの今日の反応などを拝見しましたら、私たちも今日まさに一体化できたのかなと。それは大変喜ばしいことだと思いますので、本当にどうもありがとうございました。校長もありがとうございました。みなさんにボーナスポイントを(笑)。
河野:どうもお疲れ様でした。ありがとうございました。

おわり

受講生の感想

  • 久しぶりに「当てられるかも」のドキドキを味わい、全身の細胞が活性化された気がいたします。(中略)「ことば」を訳すんじゃなく、「こころ」を訳すんですね。

  • 自分のDNAのどこかに未だ隠れているであろう歌を詠む心を、これから開拓していきたいと思います。

  • 英語がわかりやすいほど英語が得意ではないけど、たしかに英語でわかりやすいと感じた。(中略)グループになって富士山について一首詠むというのは予想外だったが、追い込まれてなにげなく詠んでいた自分にはもっと驚いた。

  • あんなにも 気楽に描けた富士の筆 恋を思うと遅々として進まず