万葉集講座 
第9回 梯久美子さん

『昭和万葉集』に思う

15分版・120分版の視聴方法は こちらをご覧ください。

梯久美子さんの

プロフィール

この講座について

戦時下に生きた人々を丹念に取材し、描いてきたノンフィクション作家の梯久美子さんが『昭和萬葉集』の中から、昭和16年から20年の間に詠まれた歌を集めた第6巻を中心に読み解いてくださいました。死を近いところに感じながら、人々は切実な思いをどう歌に込めたのか、「歴史の証言」としての側面にも光をあてての読み解きです。戦争を見つめつづけてきた作家の鋭い目線が光る講義です。(2019年5月8日)

講義ノート

河野:今日は『昭和萬葉集』ということで、ちょっと趣をかえて、梯久美子さんにお話をいただきます。昭和54年に、講談社創業70年記念として出された全20巻という大変な企画です。20巻あわせて実に192万部が発行されました。その中から、梯さんにお話しいただくのは戦争直前の昭和16年から終戦の20年までの歌を集めた第6巻。私自身、読み応えがあるなと思って手にした一冊です。梯さんがどんなふうにお話しになるか、とても楽しみです。

梯:すごいですね。192万部というのは知りませんでした。私は古本で買いまして、20巻プラス1巻別巻というのが最後についているんですけど、全部で2000円でした。すごくきれいで、読んだ跡のないものだったんですけれども、昨日値段を見てみたら、「令和」が『万葉集』から採られたのも関係しているのかもしれませんが、もうちょっと高い値段がついていました(笑)。お話があったように、昭和54年から翌年にかけて20巻プラス1巻出たんですけれども、『万葉集』って約4500首なんですが、『昭和萬葉集』には約8万2000首も入っているんです。この8万2000首に絞られるまでの経緯というのが、すごい。全集を買うと月報というのが入っているのですが、最初に配本されたのがこの第6巻なんですね。昭和16年から20年の日中戦争、太平洋戦争。太平洋戦争が始まった年からのものなんです。全集って第1巻から配本されるわけではなくて、一番売れそうなものを第1回配本に持ってくるのが鉄則でして、その全集が世の中に一番何を言いたかったのかというのは、最初に配本されたものに表れていると思うので、やはりなぜこの『昭和萬葉集』ができたのかというと、これは戦争の時代であった、その時代に詠まれた歌は歴史の証言であるという考え方があったのではないかと思います。

●『昭和萬葉集』最初の歌とは

今日は2冊だけ、1巻目と6巻目だけ持ってきました。箱入りです。私は箱は大体捨てるんです。いちいち出すのが面倒くさいので。でも、帯は取っておくんです。これが6巻目の帯です。帯というのはあとで見たときに、その時代性というか、何が売りだったのか、何が言いたかったのか、推薦文を誰が書いているかとか、そういう意味で貴重なので取っておくんですけれども、この謳い文句に何と書いてあるかといいますと、「太平洋戦争の記録」と書いてあります。「真珠湾攻撃から敗戦前夜まですべてその現場にまぎれなく居合せた人々の短歌による証言が綴る太平洋戦争史」。この3行がすべてを言っていると思うんですね。「悲劇の時代を生きた民衆の/散文では表現できない心の叫びを再現する」と書いてあり、そういうことだったんだなと思います。

一人の企画から始まったという話はけっこう有名で私も聞いたことがあったんですけれど、その人が200ページの企画書を書いたというのは今初めて河野さんの話で知りまして、よくぞ書いてくださったと思います。有名な方なんですけどね、その最初に企画をなさった方というのは。その人が言い出したことが8万2000首の本になったというのはすごいのですが、まず、有名な歌人とか、いろんな歌誌とか同人誌的なものとか結社の雑誌とか、新聞に投稿されたものとか、活字になったものから探す編集チームがあるわけです。それとは別に公募したんです。それが昭和51年3月から、同じ51年の7月まで、4か月余りなんですけども、それで48万首集まったんです。48万首。応募人数は、約5万人から。開封するだけで――月報に書いてあったんですけど――10人がかりで1か月半。開封して、まとめていかなきゃいけないですよね(笑)。公平を期すため、名前とか所属している結社とかを全部隠した状態で、選者は9人いるわけですが、この人たちが手分けしてそれを見るのではなくて、全員が見るんです、すべてを。だからそのファイルを段ボールに入れて、まず木俣修先生のところに行ったら、次は窪田章一郎先生のところにそれが行くわけです。グルグル回していくので、ちょっと滞ると、ある先生のところの玄関先に段ボールが山積みになったとか、そういう話が書いてある。私、この48万首を、本当に全部その有名な先生たちが見たのかってちょっと疑問に思うんですけれども、見たことになっています(笑)。

私、元編集者なんです。見ると、「編集協力」という名前が出ています。顧問はすごい偉い先生が3人いらっしゃって、9人の選者にもすごい先生がいらっしゃって、そのあとに、「協力」とか「編集協力」と書いてある方が何人かいまして、この「編集協力」というのが曲者なんですね(笑)。もしかしたら、そういう人たちがちょっと下選りに近いようなことをしたのかもしれないなという気はしないでもないですけれども、やっぱり基本的には載っている句は全員が見た句ということになります。それだけでも大変な作業で、『萬葉集』と名前を付けるのはどうかなという考え方もなくはなかったかもしれませんが、それはつけちゃってもいいんじゃないかなと思いました。

48万首が一般から集まったと言いましたけれど、半分のすでに活字になった、偉い歌人から初心者的な歌人まで、それも全部入れると、集めたすべての歌は1000万首を超えたと書いてあります。1000万首! 集めた人たちもすごいですけれど、やっぱりそれだけ書く人口がいたということ。本は昭和54年に出ていますが、実質的には昭和50年ぐらいまでの、50年ちょっとのあいだに集めていると思います。その昭和の約50年のあいだに、これだけの人たちがこれだけの歌を詠んだと。コピーは全部で150万枚になったと、それもすごい数字が書いてあります。

では、なぜ8万首も集めなければいけなかったのか。最初、新書にするつもりだったみたいな話が出ましたが、木俣修さんという選者の偉い先生が1回目の月報に何と書いているかといいますと、やはり『万葉集』を意識しているんですね、「かの『万葉集』の作品の作者の層は、天皇、皇后をはじめ皇族、貴族、官僚、僧侶、農民、漁民、遊女、門付けといった、当時における上下あらゆる階層に及んでいるのであるが、その時代に比べて今日の人間の階層は、何十倍もの複雑さを呈している。そのような階層の中に生き、細分化された職に就いている人びとの作品を網羅するということを目処しての努力が払われた」。やっぱり当時でもこれだけいろんな人たちが書いていたのだから、今の世の中で本当に日本のあらゆる階層の人たちの歌を集めようとすると、まあ8万首ぐらいにはなるよなと、そういうことだったのではないかと思います。

最初に河野さんのお話にもありましたけれど、いろんな人が書いているんですね。私が『昭和萬葉集』に興味を持ったのは、私、ノンフィクション作家でして、戦争の話を多く取材しているんですね。そうすると、遺書を読む機会がすごくあるんです。それは有名な人のもので本になっている遺書とかもあるんですけども、取材した先の方が持っていた遺書。

●硫黄島からの手紙

デビュー作が硫黄島の栗林中将という方の評伝を書いたんですけども、栗林さんも手紙をたくさん戦地からお家に送っていらっしゃいます。外地に行った兵隊さんがたくさんいますけれど、硫黄島って一応国内なんですね、すごく遠いですけれど。なので、飛行機の便がけっこうあって、郵便が届きやすかったんです。最前線だけれども、郵便が届きやすい。それで、手紙とか遺書とかがすごく残っているんですね。それは、ひとつには栗林さんが筆まめだったことと家族思いだったので、みんなに手紙を書くことを奨励したらしいんです。沖縄とかだと、まあ、そのために住民の犠牲も出ちゃったんですけども、住民のいるところに敵である米軍が来ちゃいましたよね。硫黄島ってすごく小さい島で、栗林さんは赴任してすぐに、住民を全員疎開させたんです。小さい島だったので疎開させやすかった。でも、逆に言うと、1年間ぐらい、住民は一人もいなくて軍人だけの島なんですね。何の楽しみもないし。楽しみがなくても、この『昭和萬葉集』に出てくる歌を読むと、行った先々の土地の自然の美しさを見たり、現地の子どもを見てちょっと心癒されたり、そういう歌が出てくるんですけども、硫黄島は何もないんです。あとで写真をお見せしますけど、本当にその名のごとく硫黄の岩石だけでできたような、ところどころ煙が噴いてるみたいなところなので、そういう心を慰めるものが何もないということもあって、家族に手紙を書きなさいということをおっしゃったんだと思うんですね。

逆にいうと、家族からの手紙も比較的届いている戦場なんです。水とか食料のあまりないところだったので、それを届ける定期便があって、そこに必ず一緒に家族からの手紙が積み込まれていた。ただし、家族は硫黄島にいることは知らないんです。それは軍の機密なので、どこにいるかはわからないし、どこにいるとか兵隊さんも書いちゃいけない。だから、木更津とかから飛行機で行くわけですけれど、どこにいるかわからないけど、手紙を送る。でも、これはちょっと、おもしろいといったら何なんですけど、すごい話なんですけども、小笠原諸島の硫黄島なんですけど、手紙が何行か書いてあって、その一番上の字だけを読んでいくと、「おがさわらいおうとう」と読めるような、暗号みたいな手紙を出している人がいて、実際に残っていたりするんです。

そんなこんなで、一番最初に本格的に取材した戦争の話が硫黄島というところのものだったので、手紙をいっぱい見ました。すると、そこに歌が書いてあるんですよね。この時代、みんなやっぱり遺書に近い気持ちで書いていますからね。もう多分生きて戻れない。実際、最終的に玉砕してしまったところなので。そうすると、胸を打たれるわけです。それを読んでいるうちに、『昭和萬葉集』というものがあることを知ったんです。

出ている比較的有名な名の知られた人にも硫黄島で亡くなっている人がいます。岡野弘彦先生のお話を私もみなさんと一緒に聞いたんですけれど、折口信夫おりくちしのぶさんが先生ですよね。歌人としては釈迢空とおっしゃいますが。その方の養子、まあ弟子なんですが、岡野先生の國學院の大先輩で折口の内弟子。折口信夫がすごく親しくしていた……折口信夫は女性を愛さない方でしたから、家族であり恋人であり弟子であったという立場の方がいたんですけど、藤井春洋さんという人です。春洋と書いてハルミさん。その人が結局、折口さんの養子になるんですね。ですから折口という名前なんですけれども、その方も硫黄島で戦死なさっているんです。そのとき38歳で國學院の教授だったんですね。それでも再召集された。20歳とかで徴兵検査を受けて、それを現役というのですが、若い人はみんな、戦時中ですし、戦争に行きますよね。その時代にも時にもよりますけど、3年とか5年とかで終えて1回戻ってきて、本来の仕事に就くわけです。彼は歌人でもあって、歌の研究をしていて、折口さんのお弟子さんで、38歳のとき國學院の教授だった。それなのに再召集されてしまうんです。もう若くて元気な兵隊さんがいないので。昭和18年に、もう一回呼ばれるわけです。そういう人がけっこうたくさんいました。もともと大学を出ていますし、一回現役でも入隊しているので、階級がそこそこ高い。少尉とか。少尉ってけっこう高いんですけれども、そうするとどうなるかというと、小隊長になるんです、いきなり。小隊長って大体数10~20人から50~60人ぐらいの部下を持つんです。そして、戦死率が一番高いんです。小さいグループのリーダーだから、自分から何でもしなければいけないし、大体最前線に行きます。折口春洋さんも戦死してしまいまして、硫黄島で詠んだ歌が『昭和萬葉集』の第6巻に入っているんです。そういうこともあって、あ、『昭和萬葉集』というのがあるんだと気づいた。もちろん折口信夫、釈迢空の歌は、トップテンに入るのではないかというぐらいたくさん載っています。やっぱり昭和を代表する歌人でもあったので。

そんなこんなで『昭和萬葉集』にすごく興味を持ちました。やはり死というものと近いところにあって詠まれた歌がものすごく多いんですね、時代を表していますので。1回目の上野誠先生の講義の、シェイクスピアに関する対談の中で、古典を読むときは、そこに生きていた人たちが今の私たちよりもすごく死に近いところで生きていた。シェイクスピアでもそうだし、そういうことを頭に入れて読んだほうがいいというようなお話をなさったのを覚えているんですけれど、そのとおりで、やっぱりこの時代に詠まれた歌たちが『昭和萬葉集』として編まれるに足る内実みたいなものを持っているというのは、みんなが死に近いところで生きていたから。それは兵隊さんだけではなくて、国内にいる人たちも非常に死に近いところに生きていて、それは自分自身の死に限らず、家族とか友達とか、そういう人たちの死の近くにいた。そのときに上野先生が、「歌でしか表現できないものがこの世にはある」というようなことをおっしゃっていて、その通りだなと思ったんですけれども、この昭和の時代に生死の関頭に立つというのでしょうか、生きるか死ぬかというところに自分がいたときに、やっぱり言葉、いろんな会話もあるし、散文で書いてもいいんだけれども、歌にしか託せない思いみたいなのを持っていた人たちがたくさんいた時代であったから、このような大部のものが編まれたのではないかなと思います。

●歌と作者をつないでみよう

ちょっと戦争の話が多くなって、後半暗い話になりますので、最初は資料にあるように、「こんな人の歌も」入っているというのをご紹介します。すごいんです、これ。あらゆる人の歌が載っていて、政治家もいますし、軍人の偉い人はみんな歌を詠んでいますし、ノーベル賞をもらった科学者もいる。殺人犯とか犯罪者が獄中で詠んだ歌もけっこう入っています。有名なのは、「吉展ちゃん事件」という戦後最大の誘拐事件があって、男の子が殺されてしまうんですけれども、電話の逆探知が初めて使われたとか、いろんな話題のある有名な事件で、その犯人の歌も載っています。獄中で歌を詠むようになった人がけっこういるんですね、死刑囚とか。やっぱりそれも、生死のギリギリのところにいたときに、託したい思いが歌になる。たとえばこの吉展ちゃん事件の犯人は、教誨師という宗教的な相談に乗ってくれる人がきっかけで短歌に興味を持って、ある結社に入会しようと思うんです。大体、反対するんです。残酷な事件でしたし、しかも男の子を早い時期に殺してしまっているというのがあって。でも、結社の主宰者が、「いや、歌というものはどんな人でも受け入れることのできる器である」みたいなことをおっしゃって、ずっとその人は歌を詠み続けて、最後、死刑になって亡くなりますけれども、そういう人もいます。

芸能人も、徳川夢声とかいろんな方のが入っています。私たちがよく読んでいる文豪も入っているんですね。芥川龍之介、川端康成、竹久夢二、立原道造、谷崎潤一郎、三島由紀夫、野間宏。資料にその人たちの歌を書いておきましたが、作家と歌が対応していません(笑)。みなさんに、この人が詠んだのはどの歌だっていうのを当ててもらいたいと思って、その人っぽい歌を私が選んでみました。全員、複数の歌が収録されているんですけれども、一応一首ずつ。

歌を最初から紹介しますと、一首目は、〈①世を侘ぶる山の庵の床に活けて都わすれの花をめでけり〉(『昭和萬葉集 巻六』)。ヒントを言いますと、疎開先で詠った歌だそうです。2番目が、〈②陶器の白く光れる 我が風呂に静かにつかる。秋の夕暮れ。〉(『昭和萬葉集 巻一』)。ちょっと抒情的な感じがします。3首目はカタカナ。〈③ワガ門ノ薄クラガリニ人ノヰテアクビセルニモ恐ルル我ハ〉(『昭和萬葉集 巻一』)。ちょっと読書家の方なら、もしかしてあの人かなと思うような、ちょっと暗い感じがあります。次は、戦争の歌ですね。〈④夜は蚊ぜめの地獄昼は蠅ぜめの地獄地獄地獄地獄地獄〉(『昭和萬葉集 巻六』)。聞けば、「あ、それっぽいな」と思われると思います。次が、〈⑤益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜〉(『昭和萬葉集 巻十六』)。これは有名ですね。「太刀の鞘鳴り」というのは、刀の鞘が音が鳴るということなんですけど、これは気持ちが逸って、早く戦いたいみたいな表現だということです。次、〈⑥友みなのいのちはすでにほろびたりわれの生くるは火中の蓮華〉(『昭和萬葉集 巻十七』)。ヒントを言いますと自殺した人ですね。最後は、〈⑦ゆく春のものの匂ひのなつかしさ椿油をうる家のあり〉(『昭和萬葉集 巻一』)。これも抒情的な感じです。

これはわかった、というのありませんか。〈⑤益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜〉、わかりますよね。

受講生:三島。

そうですね。三島由紀夫ですね。辞世の歌。何首か残したうちの一首です。当時、報道されたのでご存知の方も多いと思います。次にわかりやすいのは③の〈ワガ門ノ薄クラガリニ人ノヰテアクビセルニモ恐ルル我ハ〉。家の前の薄暗がりのところに誰かがいて、あくびしているだけなんだけど、それも怖いなあっていう、ちょっと神経症っぽい感じの……。

受講生:芥川。

そうです、芥川龍之介です。他はどうですか?

受講生:⑥、自殺されたというのは川端康成?

そうですね、これ川端ですね。川端康成って、私はそんなに読んではいないんですけど、弔辞の名手と呼ばれていまして、葬儀委員長とかもやっています。文豪でノーベル賞もらっちゃったし、仕方ないというか頼まれてやっていたんだと思うんですけど、美しい弔辞をたくさん読んでいます。この〈友みなのいのちはすでにほろびたりわれの生くるは火中の蓮華〉。文学仲間とか、若いときの親しかった仲間とかもみんな死んでしまっていて、自殺した人もいれば戦争で死んだ人もいて、晩年、自殺してしまった理由は私たちには測り難いものはありますけれど、これを読む限りでは、「もうみんな死んでしまったな」みたいな、残された寂しさみたいなのもあったのかなと、この歌を読んでちょっと思いました。

川端は作家の横光利一と片岡鉄兵と3人すごく仲がよかったんですね。若いとき、新感覚派といわれて、3人とても仲よかったんですけど、昭和19年に片岡鉄兵が、22年に横光利一が死んじゃうんですね。そのときに川端が弔辞を読んでいるのですが、すごく美しい弔辞で、この〈友みなのいのちはすでにほろびたり〉というのを読んだときに思い出したので、ちょっとご紹介します。横光利一への川端康成の弔辞です。短いです。

〈君に遺された僕のさびしさは君が知つてくれるであらう。君と最後に会つた時、生死の境にたゆたふやうな君の目差の無限のなつかしさに、僕は生きて二度とほかでめぐりあへるであらうか〉。

これ全文ではなくて、もうちょっと長いです。〈君の目差の無限のなつかしさに、僕は生きて二度とほかでめぐりあへるであらうか〉。あんまり巡り合えなかったのかもしれないですね。昭和22年に大事な友達を亡くしてしまって、同世代だったんですけど、川端は72歳まで生きています。だから、そのあとで名作もたくさん書いて評価もされて、ある意味昇りつめた人ですけれども、亡くなる前にこういう思いがちょっと心に萌したのかなという感じがします。ほかにこれはわかったという人いますか?

受講生:④「地獄」は野間宏。

そうです。野間宏は『真空地帯』という小説で有名ですけれど、フィリピンに行って従軍して酷い目に遭うんですね。マラリアになったりして。帰ってきたあとは、左翼思想の持ち主じゃないかということで憲兵に検束されて、そのときもけっこう酷い目に遭っています。〈夜は蚊ぜめの地獄昼は蠅ぜめの地獄地獄地獄地獄地獄〉。これもまた時代の証言であり、歌だなと思いました。

余談ですけど、又吉さんが芥川賞を受賞した『火花』。あの最初のほうに漫才師の二人が熱海か何かで漫才したときに、片方のちょっと天才的な人が客席に向かって、「地獄地獄地獄地獄」と言うシーンがあるんです。読んだときにこの歌を思い出したんですけれども、文学的素養の豊かな又吉さんですので、もしかしたら過去に読んだ名歌が体に入っていて、それが出てきたのかもしれないなと思いました。今までの授業の中でも、古典というのはいつの間にか、意識してお勉強してでもいいんですけど、体に入っていて、それが何かのときに、また別の自分らしい形で出てくる。和歌というのはそれの最たるもの、みたいなお話をいろんな先生がなさっていましたけれど、歌を読んでそれが歌に出てくるだけではなくて、いつの間にか体に入っていて、違う形で出てくる。それも、文芸ってそういうものかしらみたいな感じがいたします。

あとはけっこう難しいかな。言ってしまうと、最初の〈世を侘ぶる山の庵の床に活けて都わすれの花をめでけり〉というのが谷崎潤一郎です。次の〈陶器の白く光れる 我が風呂に静かにつかる。秋の夕暮れ。〉は立原道造です。これを読んで私は、井上陽水のある歌を思い出しました。作った人が意識していたかどうかわかりませんけれども、それもこういう、先人の歌が体に入っていたりするのかなという感じもしました。〈ゆく春のものの匂ひのなつかしさ椿油をうる家のあり〉というのは竹久夢二です。なんとなく夢二の絵に出てきそうな感じですね。それぞれに、それぞれらしい歌だなというのもあるし、もうひとつは、ちょっと前の時代まで、文章を書く人は、ほとんど全員と言っていいぐらい歌を作っていたんですね。今、なかなかそういうことがなくなってしまいましたけれども、でも、私の知り合いの新聞記者とか若い作家の中で歌の会を作って、下手でもいいからみんなでやろうって感じでやっている人もいます。こんな感じでいろんな人が歌を詠んでいて、それが入っていて、192万部発行されたという、そういう本です。

●『昭和萬葉集』の最初の歌は何か

2回目の上野先生の講義のときに、『万葉集』の最初の歌は何かというのをやっていただきましたよね。雄略天皇の歌。私も、そういえばこの『昭和萬葉集』の一首目って何だろうと思って、第1巻を持ってきたんですけれど、実は若山牧水なんです。俵万智さんがすごく素敵な評伝『牧水の恋』を書かれましたね。『昭和萬葉集』一首目は、何という歌かといいますと、

おん病あつく永びきおはしましき今は終りとならせたまひぬ

大正天皇崩御なんです。昭和が始まるというのは、大正天皇が亡くなるということですよね。私は昭和天皇の即位の話から始まってるのかなと思ったら、即位は昭和3年です。大正天皇は、大正15年12月に亡くなってますから、昭和元年はちょっとしかなくて、次の1年間はもがりというか、喪の儀式とかいろいろあって、昭和天皇が亡くなられたときもそうでしたけど、即位はその次の年になるので、昭和3年。では、昭和元年の一番最初の歌はというと、死によって始まっているんですね。新しい元号の始まりは、歴史的に全部ではないけれども大体は、死によって始まっていたということに改めて気づかされました。今は令和が始まったばかりで、連休もありましたし、すごく明るいムードですよね。死によって始まった時代ではないので、なんとなくみんな手放しで喜んでいいのではないかというのがあって、それはそれで私はいいんじゃないかなと思っています。けれども、今まで長いあいだ、新しい時代が始まるというのは、その前の時代を象徴するものが死ぬという、死によって始まっていることを改めてこの1巻の最初の歌は何かなと思ったときに考えさせられるものがありました。何かが滅びて何かが生まれるというか、始まるというものなんだなと。

『万葉集』は雄略天皇から始まっていますよね。『昭和萬葉集』で天皇の歌はどこにあるかというと、5ページ目ぐらいにあるんです。昭和3年の歌会始の歌が最初に採られているので、読みますと、

山山の色はあらたにみゆれどもわがまつりごといかにかあるらむ

ずいぶん謙虚な歌だなと思ったんですけれど、この頃の歌会始って、今も題がありますけど、題が3つ。1個じゃないんですよね。今だと「山」とか「水」とかになりますけども、このときは、「山色新」。山と色と、新しいという字、山色新というのがお題だったそうなんです。昭和元年は1週間ぐらいしかなくて、昭和2年は亡くなったすぐあとだったので、昭和3年に歌会始が再開。昭和の初めての歌会始だったんですけど、それがこの歌で、〈山山の色はあらたにみゆれども〉、山の色は新しく見えるけれども、〈わがまつりごといかにかあるらむ〉。「らむ」だから現在推量で、今どうであろうか。天皇になってしばらくしか経っていないので、私の治めているこの世の中は、私の政はどうであろうかというような、けっこう謙虚な感じですね。昭和天皇は即位したとき何歳だったかわかります? 25歳なんですよね。この歌を詠んだときは27歳。その前、20歳から、大正天皇がご病気がちだったので、代わりに政を行う摂政という立場にいらしたので、非常に若くして責任を持たされてしまった。1901年生まれでいらっしゃるんですよね、昭和天皇。だから、1945年に戦争が終わったときは44歳くらいです。いかに若くしていろんな決断をしなければならなかったかということ、今考えるとすごいですよね。

『昭和萬葉集』は、最後の別巻に索引がついていて、名前でその人の歌が何巻目に入っているかがわかるようになっています。それぞれの巻にもまた索引がついていて、その巻の何ページ目に入っているかっていうのがあって、昭和天皇と香淳皇后、お二人の歌はけっこうたくさん入っています。ただ、平成の明仁天皇と美智子さまの歌は一首も入ってないんです。どうしてかよくわからない。誰かに聞けばわかるかもしれないんですが、私の推測では、この本が出た時点で昭和天皇と皇后は歌集を出していらっしゃるんですね。『あけぼの集』という歌集があって、すべての歌にどこから採ったかが書いてあるんですけど、昭和天皇の歌は全部その『あけぼの集』になっているので、歌集が出てればそこから採るけれども、そうじゃないものは採っていないのかなと思います。昭和の時代の、今の上皇と上皇后のお二人の歌は素晴らしいので、入っていてほしかったかなあという気がしますが入っておりません。私がすごく好きな昭和天皇の歌があります。

広き野をながれゆけども最上川海に入るまでにごらざりけり

これは山形の県民歌になったそうです。最上川だから。いい歌ですよね。広き野を長く流れてくるけれども、海に入るそのときまで、川の水が濁ってないという歌なんですね。私が一番好きな歌なので、入ってるかなと思って探したんですけれども、なぜか入ってない。なぜかと思ったら、これは大正14年の歌なんですね。大正時代だったということで、残念ながら入っていません。

この歌を私が知ったのは、実は吉本隆明さんに教えてもらったんです。吉本さんの生前、私は長くライターをやっていて、そのときは吉本さんの本を聞き書きでまとめる仕事をしていたんです、3冊分ぐらい。吉本さんは晩年、目を悪くなさったりして自分でお書きになるのが大変だったので、聞き書きの本を何冊か出してらっしゃるんですけど、お宅に行っていろんな話を伺っていたときに、昭和天皇の話になりました。吉本先生には『言語にとって美とはなにか』という有名な本があって、難しいんですけれども、短歌とか和歌のこともずいぶん書いていらっしゃって、昭和天皇の歌の話になったんです。そしたら、この〈広き野を〉というのを歌われたんです、メロディつけて。私、ビックリして、「何なんですか、それ」と聞いたら、「曲がついてるんです」と。吉本先生は20歳で終戦を迎えていらっしゃるんですが、その前に米沢高等工業に在学され、それで山形のことにいろいろ親しんで、そのときにこの歌を聞き覚えたらしく、吉本さんが歌を歌うのをその場で聞いて、しかも、「この歌は本当にいい歌だと思います」とおっしゃって、私もそうだなと思って、この歌を知ったわけです。貴重な体験でした。

昭和天皇の歌で、公表されている中で最後の歌というのがあるんです。公表されてないものをもしかして作っていらっしゃるかもしれませんが。それも今の歌と同じぐらい好きな歌です。

あかげらの叩く音するあさまだき 音たえてさびしうつりしならむ

〈あかげら〉って、キツツキみたいな鳥ですね。〈音たえて〉、「たえる」は多分、絶えるです。音がしなくなった。〈うつりしならむ〉、移って移動していく。朝、アカゲラの叩く音がしていたけれども、その音が聞えなくなって寂しい。どこかへ移って行っちゃった。飛んでいったのだろう。これが最後の歌とされている歌です。私、昭和天皇に興味があっていろいろ調べたことがあるんです。これが最後に作られた歌だと中村侍従という最後の侍従さんが書いているんですけれど、なぜこの歌ができたかというと、最後の夏に、お加減が悪くて那須の御用邸で療養していらっしゃったんですね。でも、8月15日が戦没者の追悼の日なので東京に戻られて、かなり無理をされたみたいなんです。それで、また御用邸に戻って療養していた。この歌を作られる前の日に、侍従さんが、「今朝、アカゲラの声を聞きましたよ」と昭和天皇にお教えしたら、「どこで」と言われて、「庭の建物のすぐそばでした」と答えた。すると昭和天皇が、「じゃ、明日の朝あたり叩くかもしれないね」っておっしゃったそうなんです。その次の日、本当にアカゲラが来たようで、その音が聞こえたので、この歌をお作りになった。

もうひとつ前の前段がありまして、「アカゲラの声がしましたよ」と中村侍従がなぜわざわざ昭和天皇にお伝えしたかというと、それより前に昭和天皇からこう言われたのだそうです。「今年はアカゲラの声を1回しか聞いていないけれども、それは天候が不順なためか」と。それで、侍従さんは専門家のところに行って、どうしてかといろいろ聞いて調べてお伝えしたそうなんです。それもあって、その何日かあとに、「今日は声が聞こえましたよ」と言ったら、「じゃ、明日あたり叩くかもしれないね」と昭和天皇がおっしゃってこの歌になった。鳥がお好きだったというのもあると思うんですけれど、「天候不良のためなのか」とお聞きになった。やはりそれは心配していらっしゃるんですよね。天気が悪いと農作物も穫れないんじゃないかとか、災害が起きるんじゃないかとか。これだけ聞くと、すごくいい歌だと思うんですけれど、ちょうど昭和が終わるちょっと寂しい感じ。たまたまだと思うんですけれど、〈うつりしならむ〉、今見ると時代が移るという感じもしますし、音が絶えて寂しいというのも、なにか昭和の終わりというのを象徴しているような、清らかで寂しい感じがいかにも最後の歌という感じがするのですが、この付随したストーリーを聞くと、ああ、そうか、亡くなる直前まで天候のことを心配されていたんだ、と思います。

それって多分、万葉の時代から脈々と続く、天皇というのは土地の支配者でもあるから、民のためにその土地に祈るとか、そういう役割を持っていた人で、最後までそういうことしていたんだという感じが伝わってきます。単に、「あ、アカゲラが好きだったんだ」とか、それでもいいと思うんですけれども、付随する物語を聞くと、この方がどういう方だったかがわかるというのもあるし、何かちょっと大きい歴史みたいなものに触れたような気持ちになるのではないかなと思いました。でも、これも『昭和萬葉集』に残念ながら入っていないんです。なぜならば、本は(歌が詠まれた10年前の)昭和54年に出たから。

このあとに岡野先生ですとか、永田和宏さん、奥様の 河野 かわの 裕子さんはこの講座の講師ではありませんが、相聞なのでお二人のを合わせて、今回の講師の先生たちの作品の中で『昭和萬葉集』に載っているものから、私の好きなものを抜粋させてもらいました。なぜ俵万智さんの歌がないかというと、俵さんがデビューなさったのは昭和62年か3年、もっとあとなんですね。俵さんは昭和を代表する歌人で、俵さんの歌は間違いなく昭和を代表する歌なんですけれど、残念ながらこれには入っていない。そういう意味では、昭和が全部最後まで網羅されてるわけではないんです。でも、それ、どうしてかなと思ったんですね。普通、今、たとえば『平成萬葉集』を作ろうと思うと、平成が終わってからというか、いつ終わるとわかってから作りますよね。でもこれ、昭和が終わる10年近く前に刊行が始まっている。さっき河野さんからお話がありましたように、昭和54年は講談社の創業70年だった。その記念事業として、この年に出したかったという事情がある。もうひとつはやはり、昭和50年に企画がスタートしたということ。昭和50年は戦後30年だったので盛り上がったというか、「あ、ここまで来た」って日本人がみんな思った年だったようなんです。私もなんとなくそういう雰囲気を覚えています。戦争の話がメインと、編者も企画した人たちも考えていたんだと思うんです。だから、昭和50年の区切りで『昭和萬葉集』を編んでしまってもいいんじゃないかなというふうに思ったような気がします。そう考えると、昭和って本当に長い。昭和天皇が若くして即位されたこともあって、非常に長い、あらゆることが詰まっている時代だったので、50年ぐらいになったときに、そろそろ昭和のまとめに入ったほうがいいんじゃないかって思ったのかなという気がいたします。でも、こういう名歌が入っていないのはちょっと残念な気がします。

●岡野弘彦さんの歌

資料2枚目に、岡野先生と永田先生と河野裕子さんの歌を抜粋してみました。岡野先生の講義をこのあいだ聞けて大変感動して、本当に貴重な機会だと思って、一生懸命メモを取っていたんですけど、戦争の話も少ししていらっしゃいましたよね。資料に採った歌の、一首目から三首目までは戦争に関わりのある歌です。

焼くることもつともおそき腹部よりふつふつと脂したたりやまず

戦死した戦友を焼いている歌ですよね。衝撃的ですけれど、岡野先生があのときおっしゃっていたことを思い出したんですね。岡野先生は、私のメモ帳によりますと、「僕は戦争の最後の頃、霞ヶ浦の沿岸防備の部隊にいた」とおっしゃっていましたよね。「大きな帆掛け船が魚を獲っていた。波は穏やかで、大きな白帆がスーッと緩やかに見えた。その中で僕たちは死ぬ訓練をしていました」と。

私、島尾敏雄という作家のことをずっと調べていまして、彼は終戦のとき27歳ですけれども、大学からいきなり海軍に入って、ボートに乗って特攻する部隊があったんですけど、その特攻隊の隊長にいきなりなって、奄美群島の 加計呂麻 かけろま 島というところに行くんですね。彼もやはり古典文学がすごく好きで、『古事記』と、斎藤茂吉の『万葉秀歌』という岩波文庫を持っていったそうです。彼は生き延びましたから、戦後に書かれたものを読むと、ものすごくきれいなところだったと書いてあるんですね。海がきれいな、『古事記』の世界が今、目の前に現れたような気がするみたいなことを戦時中も書いているんですけれど、本当に雅やかな古い雰囲気のところで、この美しい景色の中で特攻のボートに乗って、死ぬ訓練をしていたとお書きになっていますけれど、岡野先生も同じ。霞ヶ浦で白い帆の船がスーッと行って、そこで死ぬ訓練をしていたんですよとおっしゃったのに、「ああ」と思いました。そのとき、終戦間際にグラマンの飛行機の編隊が飛んできて、機銃掃射を受けた。鉾田飛行場にいらっしゃったようですが、「鉾田飛行場が襲われた。逃げ場がないので何人かが亡くなった。でも」、と私のメモにありますけど、「その晩は」、仲間が亡くなった晩ですね、「その晩は死者の衛兵として守って、そして」っておっしゃって、その後しばらく沈黙された。私のメモには「……」と書いてあります。その沈黙の後に「埋めるわけです」とおっしゃったんですね。「……」のところで何があったのかはおっしゃらなかった。その、語ることのできなかったところを、歌になさったんだと思います。遺体を焼いて、その焼いたときの情景だと思います。しかも多分、野焼きとまではいかないかもしれませんが、きちんと焼却するところがないわけですから、目の前で焼けるところを見ていたんだと思います。〈焼くることもつともおそき腹部よりふつふつと脂したたりやまず〉。

もう一首、『昭和萬葉集』の中にはそのときの歌が採られていましたけれども、これらの歌を詠んで、私はまた、上野先生がおっしゃったことを思い出したんです。歌でしか表現できないことというのがあるんじゃないか、そのために歌はある、みたいなことをおっしゃっていた。岡野先生のこの歌を私は知らなかったんですけど、今日の講義で、岡野先生や永田先生の歌をみなさんに紹介しようと思って見ていたら、この歌が出てきて、戦友が亡くなったことと、衛兵として死体の番をしたっていうのと、「そして……埋めるわけです」というのを伺ったけれど、そのあいだのことはやっぱり歌にするしかないようなご経験だったんだろうなというふうに思いました。

ご経験を話されたあと岡野先生は、「『万葉集』を読んでいると、死んでいった彼らの魂のことを考えざるを得ない」とおっしゃったんですね。それは戦友では、特攻の人、特殊潜航艇の隊員だった人もいたというお話をなさって、そういうふうに若くして死を目の前にした経験をなさっていて、そのときにやっぱり、岡野先生は古典を勉強していらっしゃるというのもあると思うんですけれども、『万葉集』のことを思っただろうし、今、『万葉集』を読んでも、そのとき亡くなっていったお友達たちのことを思い出す。何かそういう同じ日本という空間、土地にあって、時間軸は行ったり来たりするけれども、歌を媒介にしてつながるものあるんだろうなと。もし歌がなかったらと考えると、やはり思い出すためにも、自分の思いをそこに出すためにも、歌というものがあって本当に良かったと多分思っていらっしゃって、それで歌を大切にしていらっしゃるんだろうなというのも、この歌を知って改めてわかったような気がします。

私が代弁をするようで恐縮なんですけど、そのときの私のメモには、先生がそのときこうおっしゃったと書いてあります。「『万葉集』を読むと、古代の益荒男ますらおのすがすがしさが伝わってくる」。このとき、大伴家持の話でした。家持は武人でもあります。「すがすがしさが伝わってくるが、この健やかさが永遠に続いたわけではない。日本の、世界の近代は非常に物悲しいものだった。そのことを心に持ちながら『万葉集』の歌を心に刻んでもらいたい」とおっしゃっていて、本当にそういうメッセージだなと思ったんです。歌というのは時代を、時間を超えるというお話を講師のみなさんがなさっていて、だから、岡野先生がこういうふうに、悲惨な歌ですけれども、昭和の時代に、もう70年以上前ですけど、これを歌って残されたということも、後世の人たちがこの時代を見るときのよすがになるし、自分の時代を生きるときのヒントになったり、慰めになったり、過去とつながる結節点のようなものになるんだろうなと改めて思いました。そのあとの二首もすごくいい歌だなと思います。

目とづればたちまち見ゆるひたぶるに軍靴踏みしめて行きし足 足 (資料のみ)

銃身の菊花の章を潰せといふ敗れし日より五日めのこと

私は戦争の取材もしていますので、〈銃身の菊~〉もリアリティがあります。話には聞いたことがあるんです。銃に菊の御紋がついているんですね。天皇陛下から賜ったものだということで。でも、戦後にその菊の紋をつぶす、消させられたという話を聞いたことあるんです。あ、こういうふうに本当にやっていたんだと思います。『昭和萬葉集』の帯に「時代の証言」だと書いてありましたけれど、仕事柄、歴史関係のノンフィクションを調べたりしているので、本当に歴史の証言、時代の証言だなと、そういう目で見ても貴重なものだと思います。もともとの『万葉集』も文芸的な価値というか芸術として素晴らしいのと同時に、「あ、昔こういう生活をしたんだ」、「こういう習慣があったんだ」、「梅の花を見て宴を開いていたんだ。そのときお酒も飲んでいたんだ」とか、そういうことも含めてどういう生活をしていたかが、ほかの資料はみんな失われても、歌は残っているので、とても貴重なものだと思っています。

●戦後のフレッシュな相聞

永田先生と河野裕子さんの歌は、同じページに載っていました。第6巻じゃないです。もっとあとのほうです。これは相聞歌で、朗読すると照れる感じの歌なので(笑)、朗読しません。みなさん、心の中で読んでください。

<永田和宏>

泉のようにくちづけている しばらくはせめて裡なる闇繋ぐため

動こうとしないおまえのずぶ濡れの髪ずぶ濡れの肩 いじっぱり!

背を抱けば四肢かろうじて耐えているなだれおつるを紅葉と呼べり

<河野裕子>

抱擁のきはまるうつつ巻き緊めし髪わらわらとゆるみ始めつ

今刈りし朝草のやうな匂ゐして寄り来しときに乳房とがりゐぬ

汝が胸のさみしき影のそのあたりきりん草の影かはみ出してゐる

昭和50年代の歌ですから、お二人が20代の頃に詠まれた歌ですけど、作家の澤地久枝さんが『昭和萬葉集』の月報の中で相聞歌について書いてらっしゃって、戦時中の相聞歌はすごくかわいそうだと。もとの『万葉集』の相聞歌は、エロティックだったり、恋愛を謳歌しているみたいな自由な感じで、エロスがある歌がたくさんあるけれど、昭和の戦争のときは、そういうのが許されなかったから、すごく抑えた感じのものもあって、悲しい気持ちになると書いていらっしゃったんです。でも、この昭和50年代、永田さんたちが現れてきたあたりから、こういうふうにすごくフレッシュで、性も含んだ性愛というものをこんなふうに素敵に歌う時代が来たんだなという感じが、順番に見ていくとわかっていくわけです。そう思って、永田先生の作品も『昭和萬葉集』にたくさん出ているんですけど、あえてこの素敵な恋愛時代の歌を引いてみました。先ほど申し上げたように、俵さんのも入れたかったんですけれど、『サラダ記念日』は昭和62年に出た本なので、残念ながら俵さんの作品は入っていません。

●二・二六事件の歌

資料の次のページを見ていただくと、戦争絡みの歌は素晴らしいものがあまりにも多くて、選ぶのが大変でしたが、日中戦争、太平洋戦争の話の前に二・二六事件の歌をちょっと見てみようと思いました。これはやっぱり前半の三首、最初の三首は記録性があるなと。衝迫性といいますか、今まさにという感じで詠んでいる。その時代の証言でもあり、引用してみました。

ひとつ目は、「兵×」。「×」は伏字です。『短歌研究』という雑誌の昭和11年5月号に載ったそうです。二・二六事件は11年の2月26日ですから、そのちょっとあとで、まさに同時代に詠まれているわけで、検閲を恐れて伏字にしたのではないかと注釈がついていました。最初から伏字にして発行されたのだと思うんですけど、多分、「乱」ではないかと書いてありますね。「兵乱」。

兵×はまさにまぢかに起りをれど伝へ来たらむ物音もなし    (岡山巌)

事件は市街地で起こっていますから、間近に起こっているのに情報も音も伝わってこないという、ちょっと不気味な、怖い感じです。次は、

重臣閣僚殺戮されしと知れながら一行も触れぬ新聞をつくる   (亀山美明)

新聞の仕事だったのだと思うのですが、書いちゃいけなかったんでしょうね。「殺戮されしと知りながら」ではなくて、「知れながら」になってるところが「おお」と思ったんですけれども、新聞記者はみんな知ってるんだよと言っている。「知りながら」じゃなくて「知れながら」世の中大体そのへんの人みんな知っていたわけですね。それなのにそれに触れない新聞を作っていると。これもやっぱり、そういうことだったんだなあ、と当時のことがわかりますね。次は、

市街戦つひに迫れるけはひあり辻守る兵らの黒き顎紐     (中村正爾)

写実的な歌ですけれど、「市街戦」という言葉が使われてるんだって、今見ると軽いショックを受けます。まさに二・二六事件は市街戦であったという歴史の証言だと思いました。

そのあとのふたつは斎藤史さんという有名な歌人で、もう亡くなられましたけれども、この方、私はすごく好きで、『昭和萬葉集』とは別に調べたりしました。お父さんが齋藤りゅうさんという軍人で、軍人歌人と呼ばれた有名な方です。この方も小さい頃から歌を詠んでいたのですが、お父さんが軍人なので、旭川の第七師団という勇猛果敢で知られる師団があるんです。私、北海道出身なのでよく知っているんですが、齋藤史さんは軍人の子弟なので、そこで育った。そのときに北鎮ほくちん小学校という小学校があって、当時は男女別のクラスだったんですけど、そこは陸軍の将校の子弟だけが行く学校で児童が少なかったので、男女同じクラスだったんですね。そのときに同じクラスだった同い年の幼なじみに栗原安秀という人がいたんですけど、その人が二・二六の将校だったんです。最終的には処刑されます。で、お父さんがその人たちの知り合いで、斎藤史さんのお父さんの齋藤瀏さんは、二・二六事件で、唯一、反乱軍じゃないのに捕まった軍人なんです。反乱を幇助したという罪で、禁固刑で済むんですが、その幼なじみに「おじさん」と呼ばれていた。同僚の軍人がいて、その子どもが二・二六の将校です。齋藤瀏の子どもが斎藤史さん。男と女だけれども幼なじみで同じクラスで、とても仲がよかった。斎藤史さんは、幼なじみも死んじゃったし、お父さんも捕まっちゃった、というので非常に複雑な思いがあったんですね。ご存知と思いますが、二・二六は今でも擁護する意見がけっこうあります。軍の中にも、あれは悪くない、死刑にまでしなくてもいいんじゃないかという意見がものすごくあったんですね。助けてやりたいという軍人もたくさんいた。でも、結局は昭和天皇の判断で、まあそれはクーデター以外の何物でもないですから、非常に短い裁判で、関わった人ほとんどみんな死刑になってしまうわけです。

斎藤史さんのお父さんは、反乱を起こした直後の栗原さんから電話がかかってきて、「あとの収拾をお願いします」みたいなことを言われるんですね。それで、「わかった」と言って軍に行って、青年将校寄りなので、なんとかうまくできないかみたいなことを進言するんですけど、それがもとで反乱の味方をしたということで捕まってしまって、でも、禁固刑で済んだ。史さんにすれば、友達が死んで、お父さんも捕まったのはつらいし、悔しいわけです。彼らはそんなに悪いことをしたんだろうかという思いがあったと思うんです。斎藤史さんの1首目は、額は「ぬか」と読むと思うんですけど、

額の真中に弾丸をうけたるおもかげの立居に憑きて夏のおどろや   (斎藤史)

死刑のときに、額の真ん中に弾を受けている。今、NHKの向かいの区役所のところが昔、刑務所で、あそこで死刑になったんですね、二・二六の将校は。ピストルで処刑されるんですが、撃つ人が少し離れていて、頭を狙うという決まりがあったみたいで、撃つ人が二人いて、一人目が頭を撃つ。それで即死しなかったときは二人目が心臓を撃つと決まっていたそうなんです。そして、頭に照準の目印をつけた白い布を巻かれたそうなんです。そこを目指して撃つ。だから、この〈額の真中に弾丸をうけたるおもかげの〉、こうやってみんな死んだわけで、死体はみんな額に弾丸の痕があったようです。死体を見たわけじゃないと思うんですけれど。そして、〈立居に憑きて〉、いつもそのことを思ってしまう。〈夏のおどろや〉というのは、夏だったんですね、処刑されたのが。2月に反乱を起こして、夏にはもう処刑されているので、そのことを詠っている。その次の

北蝦夷の古きアイヌのたたかひの矢の根など愛す少年なりき    (斎藤史)

これは私が個人的にすごい好きな歌です。反乱を起こして処刑された栗原安秀という幼なじみのことなんですね。小さい頃に一緒に遊んでいたので、どんな男の子だったのかよく知っている。「北蝦夷」というのは、北海道の北のほうという意味ではなくて、樺太のことです。樺太アイヌという人たちがいて、北海道のアイヌとはまた違う文化があったんですけれども、そこの矢の根みたいなのを手に入れたか、博物館とかで見たかというのだったと思うんですけど、そういうのが好きな少年だったな、というのを思い出している歌です。これは話すと長くなるんですけど、すごいドラマがあって、死刑判決のあとに独房みたいなのに入れられていて、そのときにちょっと離れた独房に、斎藤史さんのお父さんの齋藤瀏が入っていたんですね。そうすると看守がそこに入ってきて、何かくしゃくしゃと丸めた小さい紙屑をパッと落とすんです。開いてみると、「お別れです。おじさんに最後のお礼を申します。史さんとおばさんによろしく」と書いてあった。それは看守が青年将校たちに同情して、遺書みたいな紙を預かってきて、ゴミみたいにして齋藤瀏さんの独房に捨てていって、開けてみたら、そう書いてあった。それは本人、齋藤瀏さんが書いているので本当のことだと思います。「お別れです。おじさんに最後のお礼を申します。史さん、おばさんによろしく」。そこにカタカナで「クリコ」と書いてあった。栗原だからクリコというのは、子どものときに史さんと遊んでいたときのあだ名なんですね。史さんのことは「フミコウ」って男の子みたいに呼んで、栗原君は女の子みたいにわざとクリコと呼んでいた。小さいときにお互い呼び合っていた呼び名で最後の手紙を書いたという、そういうことがあったらずっと心に残りますよね、斎藤史さん。だから、相当あとになるまで二・二六のことを書いていて、天皇に抗議するように受け取れる衝撃的な歌も書いてらっしゃいます。

●宮柊二と滝口英子

次は日中戦争の話をしようと思います。資料に、日中戦争と太平洋戦争とありますよね。最初に挙げたのは、

涙拭ひて逆襲し来る敵兵は髪長き広西カンシー学生軍なりき   (渡辺直己)

涙を拭きながら逆襲してくる敵の兵隊は、髪の長い、中国・広西の学生軍だったと。作者の渡辺直己さんはとてもいい歌人で、戦争の歌をたくさん詠んでいる中で、これはけっこう有名な歌です。その次は宮柊二さん。

ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづほれて伏す  (宮柊二)

大変な名歌で、私はこれを読んだときにショックを受けました。〈ひきよせて寄り添ふごとく刺し〉、刺したんですね。〈声も立てなくくづほれて伏す〉、相手が。本当に接近戦で、抱き合うようにして刺したら、相手がそのまま声も立てずに、亡くなったのだと思います。詞書がついていまして、〈部隊は挺身隊。敵は避けてひたすら進入を心がけよ、銃は絶対に射つなと命令にあり〉。銃を撃ってはいけないので刺したんだと思う。銃剣ってわかります? 銃の先に刃物がついている、それで刺したんだと思います。このふたつ、写実的というか証言というか、「あ、戦争ってこういうものだったんだ」と思わせるんですよね。それが記録だけなら散文でもいいと思うんですけれど、歌になっていることによって衝迫性といいますか、衝撃と迫力とが一首に凝縮された何かがあると思って、とくにこの〈ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば〉というのは、私にとって印象的というか、歌でこういうことができるんだと初めて強く思った歌なんです、戦争の取材をしていて。たくさん戦争の取材をしてきたので、実際に兵士だった人とか、殺し殺される現場にいた人の話を聞いているのですが、「あ、こういう表現が歌でできるのだ」と思いました。

ただ、戦争の歌には2種類あって、そのとき詠んだものと、戦争が終わったあとで振り返って詠んだものがあるんですね。やっぱり私は仕事がノンフィクション作家だというのもあるんですけれど、あとになって回想したものは記憶の間違いとか、ちょっと綺麗事にしたりとか、ドラマにするとか、いろんな要素が働きます。日記とか手紙とか、その場で本人が直接書いた一次資料のほうが信用できるというか、リアリティがある。だから私たちはそれを大事にします。で、この歌も戦場で書かれているんです。実際に戦時中に雑誌に載っている。宮柊二さんという方は、戦争に行く前から北原白秋のお弟子さんで歌人だったんですね。それで、4年ぐらいもう中国大陸にいたんです。中国北部の山西省というところに。そのあいだに、自分が所属していた歌誌やその他の雑誌に投稿していて、この歌は昭和17年にもう掲載されていますから、本当に現場で、戦争の前線で詠まれた歌で、そういう意味でも貴重な歌だと思います。

宮柊二さんは、奥さんが同じ白秋の弟子として後輩で、やはり歌を作る方だったんです。これもすごくいい話があります。二人はずっと手紙だけで4年間くらい愛を育むわけです。お互い好意は持っていたけれど、付き合っていたとまでいかないときに、宮さんは中国大陸に行ってしまって、お手紙を交換しながら彼女はずっと待っているんですね。今紹介したこの歌も、手紙が残っていて、その手紙に書いてあるんです。お互い歌のわかる人なので。投稿もしているんですけど、その前に、「これはまだ推敲中ですが」と書いて、そのときの歌を何首か送っているのがあった。私の職業的に言うと、〝信ずるに足る〟わけですね。あとで思い出して書いたのではなくて、まさにそのとき書いたという証拠が、手紙で日付も出ているので、まさに戦いの真っ最中にこうやって書いた。大変な戦場なんです、山西省って。そこからいつ死ぬかわからないときに出した手紙に書いてあったんだなあと思います。

出征して3年目、後に奥さんになる滝口英子さんからの手紙の中に、「待っていてもいいでしょうか」という文言があったんですね。そうすると、しばらくお返事が来なくて、来た返事の中にこう書いてあるんです。「小生も滝口さんのおこころと同じく友情以上のものを感じ居り候。愛し居り候」。愛していると書いています。でも、自分はいつ死ぬかわからないから待たないでくれ、と。ほかの人とぜひ結婚してくれと書いているんですね。それだったら、「愛してる」とか書かなきゃいいのに、というのもちょっとあります(笑)。

でも、この手紙の後半に宮さん、こう書いています。〈最後まで申上げずて置かんかと存じ候も、すでにお目にかかり得ぬ心きめて最後の愛情の一二行をしるし申し候〉と。この時代、女の人のほうから「待っていてもいいでしょうか」というのは、「結婚してください」みたいな話ですよね。やっぱりそこまで言ってくれたことに対して、死ぬかもしれない、もう会えないとわかっているけれど、本当の気持ちを言っておくべきじゃないかと思ったような気が私はします。ただ、そのあとに、〈只(ただ)この一二行によりて〉、「一二行によりて」は、その〈愛し居り候〉のところです。〈この一二行によりておこころ惑ふことなく宮よりも〉、「宮」は自分のことですね、〈宮よりも更に更によき人を求めらるべく、そのことをのみ祈念いたし申し候〉と書いてある。ただ書いてあるだけではなくて、そのあと、同じ結社のお友達に手紙を出して、もし瀧口さんが相談に来たら、ほかの人と結婚するように説得してくれと書いているんです。

私、滝口英子さんにお会いして取材したんです。もう亡くなられましたけれど。ご主人の宮さんはそのときもう亡くなっていました。英子さんは、ご本人が書いた本にもある話なんですけど、北原白秋に歌を見せるんです、戦時中も添削してもらうために。これもおもしろいところがありますけど、こんな歌を白秋先生に提出したんです。

あめつちのそきへのきはみ征きまして相会はむ日のなしと思へり

〈そきへ〉というのは「果て」という意味だそうです。果ての果てという感じですね。山西省って中国のすごい奥地に行った。この世の果ての本当の極みのところに行ってしまったので、もう会う日はないんだろうと思っていますという歌を書いて、北原白秋に見せたそうなんです。すると、白秋はふだん、口頭で「こうしたほうがいい」と指導するけれど、直接赤を入れることはあまりない人だったそうです。ところが、そのときに限って、赤で添削したのが戻ってきたそうなんですね。

あめつちのそきへのきはみ征きませど相会はむ日のなしとし思はず

「思わず」の前の「し」は強調の「し」ですね。習いましたね、古典文法で(笑)。遠くに行っちゃったけれども、会う日がないとは決して思いませんという詩に白秋は直したんです。いい話だと思いませんか。それで、「宮は元気にしているか。相聞歌をもっと作りなさい」と、おっしゃったそうです。白秋は宮さんのことをすごくかわいがって、才能も認めていて、戦争に行ったことをものすごく残念に思っていて、絶対に帰ってくると白秋は信じようとしたのだと思うんです。だから、「待っていてあげなさい」ということを、こういう形で……。結婚しろとは一言も言わないですよ。でも、これを直して、「相聞歌をもっと作りなさい」とおっしゃったそうです。いいですよね、白秋先生。

歌をなさる方はご存知かもしれませんけれども、宮柊二さんは普通の兵隊さんとして入っているんです。優秀で真面目だったし、4年もいたから、上官から何回も、幹部候補生に志願しろと言われるんです。幹部候補生に志願すると、学校に行って階級が上がる。士官になれるんですね。少尉、中尉、大尉とか。戦争のときの軍隊って、普通の兵と士官って天と地のような差があるんです。士官になれば命の危険もそれほどなくなるし、食べるものから着るものまで、全然違うんですけれど、4年間ずっと断り続けるんです。自分は一兵卒のままでいたいと。英子さんに手紙を書いてるんです。これもすごいんです。〈私は名前なんかちっとも知られない、歌なんかも知らない、只一人の兵隊でありたいのです。そして、歌が出来れば、その無名の一兵の心の中にひそかにはぐくんだ哀歓をしるしいのです〉。有名な歌人で戦場に行って戦争の歌とか書く人がいっぱいいたわけです。俺は歌人だというので戦争経験を表現する。それが悪いことだと私は思わないんですが、この人は歌人が兵士になったのではなくて、兵士がその生活の中で歌を詠むんだと考えていた。それがたまたまできれば、それはそれでいいと。でも、毎日すごい詠んでるんです。ものすごい数の歌を英子さんへの手紙に書いてるんですけれども、でも、そういう覚悟でずっといた。これは、なかなかできることではなくて、私も100人近い元兵隊さんに取材しましたけれど、幹部候補生になれと言われて断ったという人、一人もいませんからね。本当にそういう覚悟で、歌詠みである前に人間であって、そうでなければ、逆にいい歌を作れないと思っていたのだと思うんです。

『万葉集』の時代もそうですけれども、専門歌人は今のようにはいなかったわけで、みんな庶民とか普通の生活を送っている人たちが、その生活の体験を歌にした。だからこそ今まで続いているというのはありますよね。だから、私、宮さんの歌を読んで万葉調だとか思ったことは一度もなかったんですけど、この話を知ったときに、やはりそのスピリットというか、そういうものは昔から続いている、本当に歌を作るってどういうことかを教えられたような気がしました。宮さん、こんな歌があるんですよ。

おそらくは知らるるなけむ一兵の生きの有様ありざまをまつぶさに遂げむ

誰も知らないであろうような一兵士の、生きた姿、生きのありさまを、「まつぶさに」、つぶさに、歌うっていうんじゃないんですよ。「遂げむ」。何々し遂げるの遂げるですよね。「生きの有様をまつぶさに遂げむ」。誰も知らないであろう一人の兵隊の生き方を最後まで全うしよう。私は途中まで読むと、誰も知らないような一人の兵士の生きざまを誰かに伝えるために歌にしようっていうのかなと思ったら、そうじゃないんです。本当に終始一貫したこういう人だったんだというふうに思います。

続きを言いますと、生きて帰ることができたんですね。昭和19年に帰ってきて結婚するんです。でも、再召集されちゃう。でも、それはもう終戦直前で海外ではなく国内にいたので、結局生き延びて、そのあとお子さんもできて生活することができたんですけれども、その再召集されたときには、奥さんのお腹に初めての赤ちゃんがいたんですね。茨城に宮さんいらっしゃったのですが、子どもが産まれたという知らせを今か今かと待つ、そういう手紙のやりとりも残っていて、感動的なものがあります。

●太平洋戦争の歌

熱く語っていたら時間が過ぎてしまったので先を急ぎます。太平洋戦争は後半で加計呂麻島に特攻隊長で行った島尾敏雄の話をしますので、ここはそれほど詳しく言いませんけれども、資料に「太平洋戦争」と書いたひとつ目の歌、

鉄帽の紐ゆるめよと隊長は敵機迎へ射つ我に叫びをり  (小出幹三郎)

鉄帽ってヘルメットですね。なんで「紐を緩めよ」って言ったかわかります? 敵機が襲来して、爆撃されますよね。顎紐を締めていると、ヘルメットが爆風で飛んで首が絞まるんですって。それで窒息して死ぬ兵隊がいると。本当かどうかわかりませんけど、首が飛ぶこともあると書いてありました。そういうことも、戦争の取材をしていると聞いたことがなくはなかったんですけど、「あ、そうなんだ。本の帯に、すべてその現場にまぎれもなく居合わせた人々の、短歌による証言と書いてあるけど、本当にそうだなあ」と思います。こういうことも意外と歴史に残らない。歌の形にしたから残ったということもなくはないなと思います。次の、

防水区画今は全し我が部署に空気の通ふ孔二つだけ   (佐藤完一)

これも取材では聞いたことがありました。戦艦というか船の底にいる話なんですね。これを書いた人は真珠湾攻撃に参加した人で、「蒼龍」という航空母艦の乗組員だった。防水区画ってわかります? 船の底は小さい部屋に区切られて、そこが密封されるようになっている。なぜかというと、魚雷とかで撃たれて穴が開いて浸水してきますよね。すると船全体に水が入ってしまうので、入らないように小分けになっている。そこがやられたら、その中だけで浸水が済むようになっているんですね。逆にいうと、そこを閉められるので、中にいる人は出られなくて死ぬだけと、そういう厳しい、でも、そうじゃないと全体に浸水してしまう、その防水区画の話は、海軍の取材をしていたので聞いたことがあったんです。〈防水区画今は全し〉というのは、これから戦闘が始まることになったので、今ちゃんと密閉しましたよ、ということなんですね。〈空気の通ふ孔二つだけ〉、これは知りませんでした。空気の通う穴だけがあるんだということまでは思い及びませんでした。ただ読むとなんだかよくわからないものですが、ああ、そうか、そういうことだったんだと、何とも言えないリアリティがある。

作者の佐藤完一さん、このとき44歳の特務士官だったんです。特務士官は、学歴とかなくて、陸軍士官学校とかそういうところにも行ってなくて普通に兵隊さんとして入って、試験を何回も受けて上に行って、やっと士官になれたという人なんですね。このとき44歳。でも、このあと、ミッドウェーで戦死してしまうんです。この佐藤完一さんの息子さんが、佐藤さとるさんって知ってます? コロボックルの童話を書いている方です。ウィキペディアで知りました。その次の三首は学徒出陣の話から採りました。一首目は、倉田百三という有名な作家の、教え子についての歌です。

医となりていまだ習はぬ聴診器背囊に入れ君は征くなり   (倉田百三)

「医となりて」というのは、軍医になってというか医官になって、ということで、まだ聴診器を使うような実習もしていないのに、戦場に引っ張られてしまった学生の話だと思います。次は、

残りたるページを終へて征きなむとベエムの利子論今宵読み急ぐ   (内海洋一)

いのちながらへて還るうつつは想はねど民法総則といふを求めぬ   (吉野昌夫)

勉強したかったということですね。でも、それがかなわない時代であった。ベエムの利子論とか民法総則とかって具体的なものが書いてあると、余計に、ああ、そうだなと、目に見えるような感じがします。

日中戦争と太平洋戦争を比べると、これは前にある歌人の方と対談したときにもおっしゃっていたのですが、日中戦争の場合、敵の顔が見えているんですよね。「涙拭ひて逆襲し来る」、髪が長いとか、「ひきよせて」とか、だから、非常に近いところで戦っていたわけです。でも、太平洋戦争になると戦線が広がっていますから、相手の顔が見えない。一方的に敵機が飛行機で来たり、船同士戦ったり。日中戦争の接近戦で殺し合うのは一見こっちのほうが残酷なような感じがしますけれど、私、金子兜太さんという俳人に長くインタビューをしていたことがあって、トラック島にいらっしゃって、そこは敵がいつ来るかわからないわけです、島だから。太平洋戦争って島の戦いがすごく多かった。そこで日中戦争を経験した兵隊さんが来ると、そっちのほうがつらいんですって。いつ来るかわからないものを、いつ来るか、いつ来るかって待って、一方的に空からやられて、相手の顔も何もわからなくて、虫のように殺されていく。それをみんな恐れていたし、嫌がっていた。それに、島の場合、食料とかどんどんなくなっていくわけです。食べるものはないわ、水もなくなってくるわ、でも、いつ来るかわからない。もういいから早く攻めて来てくれというふうな心境になっていったり、精神的におかしくなる人がすごく出たそうです。戦争だからどっちがいいとは言えませんけれど、日中戦争と太平洋戦争は、やっぱり違う戦場だったんだなということも、短歌をたくさん読んでいくとすごくよくわかるんです。そういう意味でも歴史に残るものだなと思います。

●女たちの歌

資料の次の、「妻たち」というところ。銃後の人というか、女の人はどうだったのかなと思うと、この一首目、当時の戦争関係のことを調べている人はみんなこの歌が好きだと言います。

さがし物ありといざなひ夜の蔵に明日征くつまは吾を抱きしむ (成島やす子)

つまは夫ですね。明日出征するわけです。召集令状というのは、来て大体2、3日から1週間ぐらいで行かなきゃいけないので、やることがいっぱいあるんです。いろんな準備をしたり、挨拶回りとかもしなきゃいけない。明日行くというときは、親戚の人とかいろいろ来ていて、多分夫婦でゆっくり話したりする時間がないんだと思うんです。で、旦那さんが、「あ、ちょっと探さなきゃいけないものがあるから、ちょっと蔵に来てくれ」とか言って、そこで夫から抱きしめられたという、それだけのことなんですけど、ものすごく切ない。澤地久枝さんが、戦時中の妻とか恋の話って本当にかわいそうだとお書きになっていましたけれど……この時代に「抱きしむ」と書くだけでも相当勇気の要ることだったと思います。ちょっと調べると、成島やす子さんという人は、歌集も出していないし、結社にも入っていないし、雑誌にも全然載っていないので、応募なさったのではないかと思うんですけど、歌をそれほど詠んでない人が、でも、やっぱりこのときのことは書き留めておきたいなって思ったんだろうと思います。この旦那さんが帰ってきたかどうかもわかりません。その次の歌もそんな感じのものです。

生きて再び逢ふ日のありや召されゆく君の手をにぎる離さじとにぎる  (下田基洋子)

何年生まれの人が作った歌か全部書いてあるんですけど、この人たちは戦時中20代の若い奥さんです。次も好きな歌です。

配給の品々とともに求めこし矢車草も家計簿にしるす  (滝口英子)

滝口英子さんと書いてあるんですけど、宮柊二さんの奥さんです。結婚したあとなので、本当は宮さんですけど、『昭和萬葉集』は統一して滝口さんと書いてあったので、そのままにしました。さっきの宮柊二さんの奥さんで昭和19年の歌で、19年に雑誌に発表されているので、戦時中に書いたのがそのまま載っているのだと思います。すごく短い新婚生活を東京で送っていて、そのときに矢車草を買ってきたという話なんですね。戦時中に配給で「ダイコン半分」とかそういうときに、矢車草を売っていたというのも、へぇーと思いました。戦争ってただただ悲惨と思いますけど、こういうこともあったんだなという話がインタビューをしていてもよく出てくるんです。みんな、日々生活しているわけですから、いろんなことがあって、「そうか、矢車草も売ってたんだな、そのお花のことも家計簿に書いたんだな」って、ちょっと新婚の幸福感みたいなのがあって、新妻らしくて……こういうことを読むと、今も昔もあまり変わらないんじゃないかなって気がして、この「矢車草」という3文字でつながれるというか、遠いと思っていた時代が近くなるような感じがあるなと思いました。次は、

汝がもとへ届かで帰りきたりける荷のなかに鳴るよ土鈴くだけて (生方たつゑ)

生方たつゑさんは有名な歌人の方です。これは、ある歌人の先生と私でお話ししたときに意見の相違がありました。荷物を送ったけれども、届かないで返ってきた。そこに土鈴を入れていたのが砕けてて、でも、中に鈴が入ってたんだと思うんですね。リンリンと鳴ったという、私、けっこう好きな歌なんですけども、その大先生は、「うーん、これはちょっとなんか、フィクションじゃないですか?」っておっしゃるんです。「だってそんな荷物に土鈴とか入れますか」って、そのすごい年配の立派な先生が(笑)。私は入れたと思うんですよね。あり得ると思うんです。お守りについてるようなちっちゃい土鈴。それを旦那さんか、歌人の方が年配の方ですから息子さんだったのかもしれませんけれども、私はこれあったんじゃないかなと。なかったら、こんなことちょっと思いつかないですもんね。その〈汝がもとへ届かで帰りきたりける荷〉というのにも、ものすごく胸を打たれて。私、硫黄島の取材をしたときに、奥さまが旦那さんから来た手紙をきれいにファイルしてるのを見せていただいて、その中に旦那さんから来たのではなくて、自分が送った手紙が入っていたことがあったんですね。エッと思ったら、送ったものは玉砕していますから全部ないわけですけど、なぜ送ったものがあるかというと、封筒にハトロン紙の小さい紙が貼ってあって、そこに「尋ね得ず」と書いてあるんです。その送られていった場所にもうその人はいなかったということなんです。日にち的に見ると、まだ玉砕までは至っていないけれど、米軍がすでに上陸してきていて、届かなかった。飛行機はもう行けなかったという時期なんです。だから、そういうことってあるんですよね。その「尋ね得ず」の付箋を見たときの本当に悲しい気持ちというか、きっとすごい絶望的な気持ちになったと思うんです、その奥さま。そんなことを思い出して、この〈くだけて〉っていうところが、なんとなく悪い予感というか、どうして荷物が届かないで返ってきたんだろうとか、転戦していたのかもしれませんけど、届かないということは、もうそこで大きな戦いがあって連絡ができない状態になっているんだな、と。だから、非常に心にしみたんですけれど、その歌人の男の先生は、生方さんが巧みな歌人だというのもあると思うんですけれど、「そんな送るかなあ。土鈴なんて」って。前半はこのへんにして、後半は島尾敏雄さんの話と、折口さんの養子の方が行かれた硫黄島の話をさせていただきたいと思います。

●硫黄島と折口信夫・春洋

硫黄島の話を先にしましょうか、折口信夫さんとの話があるので。少しお話ししましたけれど、岡野先生の先生である折口信夫、歌人・釈迢空のお弟子さんの藤井春洋さんという人は、さっき申し上げたような事情で、大学の教授だったけれども召集がかかって、もう行くときから相当厳しいと思ったであろう硫黄島に行って、いわゆる小隊長になります。戦地に行っているときに養子にする手続きをして、折口春洋として亡くなりました。『鵠が音たづがね』というのが彼の唯一の歌集です。折口信夫さんが編纂なさった『鵠が音』。鵠は白鳥のことです。白鳥の声。ああいう亡くなり方をなさったことを考えると象徴的な感じがしますけれども、その前からずっとこのタイトルで戦時中に出してあげたいと思っていらしたみたいですが、いろいろな事情があって、戦後しばらく経ってから出た。これは古本屋さんで手に入れましたが、昭和28年に初めて歌集として出ていまして、ちゃんと折口って昔の商習慣で検印があるんですけど、奥付のところに「校正」として岡野先生の名前も出ています。この本が出たときは折口先生のお弟子さんで手伝いをなさっていたんだと思います。

これが、手紙がやっぱりあるんです。折口信夫に春洋が出した手紙というのが残っていて、硫黄島は申し上げたように手紙が比較的たくさん届く戦場でしたので、その手紙があります。春洋さんという人が一体どういう人だったのかがよくわかるようなお手紙を書いていらっしゃって、すごく泣けてくるといいますか、つらい気持ちになるようなものです。

どうして私が折口信夫の養子になった人が硫黄島で亡くなったのかを知ったかといいますと、『昭和萬葉集』がきっかけで興味を持った話もしましたけれど、私、硫黄島に行ったんですね。硫黄島の本を書くために、忘れもしない2004年の12月2日に初めて取材として行ったんですけれど、島のいろんなところを回って、スライドはそのときの写真です。硫黄島がどういうところか。これが硫黄島の空撮写真です。私が撮ったんです、飛行機の窓から。手前に摺鉢すりばち山があって、あとは平坦な島なので、飛行場に適していた。ここは東京とサイパンのちょうど真ん中ぐらいにある島なんですね。B29ってみんなサイパンとかテニアンから飛んできて、広島に原爆を落としたエノラ・ゲイも、サイパンの隣のテニアン島から飛んできているんですけど、B29の中継基地として硫黄島が欲しかったわけです。ずっと飛んでいくと遠いので。日本を爆撃したあとに攻撃されて、飛行機が部分的に壊れたりしたときに、不時着したかったので、ここを不沈空母みたいなイメージで欲しかったようです。

これは私が乗った飛行機が着陸する直前に撮った写真です。見てわかるように、火山なので黒い砂があって、岩がゴツゴツしていて、基本的に農業とかできないような島です。住民は1000人か1500人ぐらいいたみたいですけど、レモングラスとかコカの葉とか、暖かいところに生えるハーブとかを育てていたぐらいで、お米が穫れたりとかはないところです。崖ばっかりなので魚も獲れない。今は自衛隊がいるのと、米軍が訓練のために滑走路を使っているだけで住民はいません。昔使っていた機銃が今も残っている、こんな風景のところです。これは硫黄島に初めて行ったときに撮った写真なんですけれど、歌碑です。〈硫黄噴く島〉と書いてあって、

たたかひに 果てにしひとを かへせとぞ 我はよばむとす 大海にむきて

〈釈迢空〉と書いてあるんです。なんで釈迢空の歌碑がこんなのところにあるのってその時に思って、調べてみたら、弟子である春洋さんがここで亡くなっていた。この歌碑がある場所は、硫黄島で唯一、すごくきれいなところなんです。ここだけ慰霊地になっていて、きれいな池があって、花とか植えてあって、ちょっとホッとするようなきれいなところなんです。そこへ突然、端っこのほうですけれども、ものすごい激しい言葉ですよね。〈たたかひに 果てにしひとを かへせとぞ〉、大海に向かって叫ぶみたいな。私、釈迢空ってもうちょっと柔らかい歌を詠む人だとそのときまで思っていたので、なんでここにあるんだろうと思っていろいろと調べて、あ、そうだったのかと。そういう人がいて、ここで亡くなったんだと知ったわけです。『昭和萬葉集』にもこんな感じの歌がいっぱい出ています。

たゝかひに死にしわが子の 果てのさま―委曲ツバラに思へ。カラき最期を

「委曲に」というのは「詳しく」、詳しく想像しよう。「苛き最期」。苛酷の苛ですね。

愚痴蒙昧の民として 我を哭かしめよ。あまりに惨く 死にしわが子ぞ

本当に慟哭というか、あまりにもひどい死に方をしたのをすごく悲しんでいる歌です。『昭和萬葉集』には折口春洋の歌も入っているんですけれども、『鵠が音』には硫黄島で折口春洋が詠んだ歌は、本文には入っていないんです。硫黄島で詠んだ歌のほうが、歴史的価値といっては何ですが、私はいい歌だと思うし、硫黄島ってこういうところだったんだというのがすごくよくわかるんですけれど、折口信夫は、あえてそれは入れなかったとあとがきに書いていました。それはやっぱり未完成だと。推敲する時間もなくて、歌詠みである彼が、歌を詠むことで生きることのできなかった場所であると。それを思うと、本当にかわいそうになると書いていらっしゃいます。どんな歌があるかというと……。伏字があるので読むのが難しいんですね。書いたらわかると思いますけれども、本人は折口信夫へのお手紙に歌を書いているんです。でも、実物を私は見ていなくて、活字になったのしか見てないんですけど、「○○○」になっている。さっきの「兵乱」の「乱」が「×」になっているように。手紙はすべて検閲があるので、検閲で消されているんだと思うんです。それも含めて時代の証言というか、そういう気がします。

この手紙の文章をちょっと読みますね。折口春洋が折口信夫に送った手紙は20通近くありました。〈こゝは殺風景なものです。人生らしきものは見られず、跡はあつても、昨日あつたといふばかりの新しい歴史にもなつてゐないものゝ痕跡しかない――自然と言へば、あまりに自然に近いこの島の姿は、われわれの様な教養の偏した心には、さびしくて堪へられないものです〉。別の手紙には、〈時々、風のやうに聞えて来る、独逸の狭まつて行く戦況なども、皆の心をさびしくします〉と書いてあって、「さびしい」って言葉が何回も出てくるんですね。

私、『硫黄島栗林中将の最期』に載せたんですけど、この原稿を書いたときに岡野先生に取材に行ったんです。岡野先生は、藤井春洋、折口春洋を知っていますからね。一緒の弟子だった。先生がおっしゃったのは、「春洋は沈着で冷静、ときには師である折口のわがままを叱咤するような剛毅なところがあり、決して感傷的な人ではなかった」。でも、そういう人があの硫黄島に行ったときに、「さびしい」という言葉を何回も使わなければいけないような、そういう場所であったのだなということをその手紙から改めて思いました。どんな歌があったか、ちょっと書きましょうか。『昭和萬葉集』に収録されている歌は、

朝つひに命たえたる兵一人 木陰に据ゑて、日中をさびしき

やっぱり「さびしい」という言葉を使っていますね。他に春洋の歌で伏字があるのを書きますと、

幕舎近○○○の残骸ありて、このきびしさの、夜々を身にしむ

幕舎はテントのことですね。伏字のところは検閲で多分、検閲官に消されたかと。多分「飛行機」ではないかといわれています。飛行機が硫黄島にもあったけれど、米軍の空爆で滑走路にある飛行機がみんな壊れてしまっていたという状況があるので。ほかにもありますけど、検閲で消されたような跡のある歌が送られてきた。これはやっぱり歌集には入れてないです。折口信夫があとがきを書いていて、いろんな事情があって出版がどんどん延びていったせいもあるんですけど、最初のあとがきに何度も追加していて「追ひ書き その一」、「追ひ書き その二」、「追ひ書き その三」、「追ひ書き その四」、「追ひ書き その五」って5回にわたって昭和28年までのあいだ、折々にいろんなことを思い出して書いているんですね。いかにこの弟子への思いが深かったかがすごくよくわかります。

戦後にも折口信夫はいろいろな本を書いていますけれど、それを読んでいると、やっぱりどこかでこの最も愛する家族であり恋人であり弟子を、戦争で非常にむごい形で亡くしたというのは、そのあとの人生にもすごく影響を与えているし、あの激しい歌を読んでも――さっきも言いましたが、あれに類する歌をたくさん詠んでるんですね――いかにその、老境に達しつつあったこの偉大な歌人であり研究者の心を揺さぶったことだったのかと思います。

折口春洋が歌を始めたのは10代の頃で、それから硫黄島に行く前までの歌が本文にあって、あとがきに、こう書いてあります。〈彼の周囲には、小人数ながら、彼の命令のまゝ、死んで行かうとしてゐる清い魂があつた。この魂を見つめることが、彼の最高のつとめであり、意義ある詩を生んでゐることになつてゐたのであらう。歌人である彼が、歌を作ると言ふことで、第一義の生活をすることが出来なかつた時代である。さう、私は思つてゐる。かう言ふ風に、彼の心を思ふ時、私はかあいさうでたまらなくなる〉。そのあと、こう書いています。〈だが昔風の宿命を背負うてゐた。――戦争以前の日本人は皆さうだつたのである〉。これも胸を打たれますけれども、非常に優秀な弟子で、歌人として大成もするだろうし、自分も心を込めて教えていたけれども、その人が戦争に取られて、戦場から送られてきた歌は、やはり折口にとっては、ずっと自分が教えてきた歌ではない。だけど、それはなぜかというと、彼にはもっと大事な仕事があった。小隊長ですから、若者の命を預かるという仕事が。歌を見ても、やっぱり部下のことを詠んでいるんですね。部下が亡くなってしまって、その遺体を木陰に持っていったとか。あと、〈あまりにも月明ければ、〉っていうのがあるんですけど、まだ寝に行かぬ兵とかたる(*草の上にまだ寝に行かぬ兵とかたるも)みたいな。眠れない兵隊さんと一夜ずっと朝まで話をしたとか、そういう歌が多い。だから、何ていうんでしょうね、仕方がなかったというか、その場所で歌を作ることを第一義にすることは、やっぱりできなかったであろうことに理解を示しつつ、本当に心から悲しんでいるということですね。

春洋さんは本当に部下のことばかりを考えていたみたいで、手紙にも、〈たゞだ頻りに心をうつのは、兵士等が健康のうへです。わづらふ者があると、責任と謂ったことをのり越えて、身にして来ます〉。これは本当にそう思っていらっしゃったと思うので、それも含めて、折口信夫が追い書きに書いたような、「かわいそうだ」ということになったのだと思います。

どうして昭和28年まで追い書きが5つも書いてあるかというと、硫黄島は沖縄と同じでずっと米軍の占領下にあったんです。昭和43年まで日本に返還されなかったんですけど、昭和27年に初めて遺骨収集の飛行機が飛ぶことになったんです。そのときは新聞社が合同で飛行機を飛ばしました。そのときに、新聞記者に折口さんが自分の歌を書いた短冊を託すんです。これを硫黄島の砂に埋めてきてくれというわけです、地下に。そういう思いを込めて渡したら、帰ってきた読売新聞の記者の人が1枚の写真を見せてくれるんですね。どこかの洞窟の中にいろんな書類とかがぐちゃぐちゃぐちゃとなっていて、戦後7年も経っているし、ほとんど崩れそうになっているんですけど、その写真を折口さんに見せてくれるんです。それが「藤井春洋」と書いた考課表で、体重が何キロで、その前は金沢の原隊にいてとか、それを偶然その短冊を託した記者が発見しちゃうんです、洞窟の中で。すぐに崩れてしまって持って帰ることはできなかったから、その記者が写真を折口さんにくれたわけなんです。こういうことが何度も起こって、忘れられない気持ちが余計大きくなるみたいなことを最後の追い書きに書いていらっしゃいました。考科表みたいなものには、「身体強健にして、どんな訓練にも耐ふ」とか、そういう文言が書いてあったみたいで、岡野先生がおっしゃったように体も丈夫で、そういう方だったみたいです。硫黄島って映画にもなりましたけれど、2万1000人の兵隊さんがいて、生きて帰ってきたのは1000人か2000人ぐらいで、その全員が捕虜になった人です。いわゆる玉砕ですね。戦争が終わる年の2月に戦闘が始まって、3月下旬に玉砕してしまったという、そういうところです。

●散るぞ悲しき

硫黄島の話をするとけっこうキリがなくて(笑)、資料に歌を三首書いてあります。あまり細かく説明する時間はないですけれど、栗林忠道という人は、映画「硫黄島からの手紙」で渡辺謙さんが役をなさった、硫黄島の指揮官だった人です。とても素晴らしい人で、兵士思いだったことで有名な人です。指揮官は、いわゆる玉砕というか、最後の突撃をするときは歌を詠むんですね。沖縄の牛島満中将も詠んでいますし、サイパンでもどこでも、みなさん亡くなる前に歌を詠むわけです。一首目に挙げてあるのが、栗林さんが最後に詠んだ歌、三首あるんですけど、そのうちの一首です。

国の為重きつとめを果し得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき

遠い島なので、弾薬とかも来ないし、何よりももう水がなくて、本当に水のないことに苦しんだ、かわいそうな大変な戦場だったんですけれど、これを読むと、大変だったんですね、そういう戦場だったんですね、と思います。「重きつとめを」って、軍人が書く中で、よく使われる言葉ではあるんです。なので、最初気にも留めていませんでした。これが本当の歌なんですけど、大本営が玉砕しましたといって発表するときに、「これが将軍の最後の歌です」って大体新聞に載るんですけど、これも載ったんです。そのときに「散るぞ悲しき」が、「散るぞ口惜し」と改竄されて載ったんですね。すべての新聞にそういうふうに載りました。それを知ったときに、ああ、そうか、「悲しき」って書いちゃいけなかったんだということに気がついたんです。「悲しき」なんていう言葉、女々しいわけです。「かなしい」は『万葉集』でも使われている言葉で、「いとしい」とか「かわいい」とか「かなしい」とか、すべてを含んだようなとてもいい言葉ですが、「散るぞ悲しき」、「散る」は死ぬってことですよね。この人は指揮官だから、自分の部下たちが死んでいくのがすごく悲しいと。でも、それを悲しいと書いたらよくないというか、改竄されるのではないかということはわかっていたと思うんです。職業軍人で、もう50歳をすぎた指揮官ですから。でも、それでもなお、「悲しき」と書きたかったんだな、と。

当時どういう状況だったか。そんな女々しい言葉は新聞に載せられないから、「口惜し」と書いて、仕返ししようと国民に思ってもらわなきゃ困る。悲しいというのは、栗林さんが自分の部下たちが悲惨に亡くなっていった悲しさを訴えようとした歌に託した最後の言葉ですよね。本文では書けない。訣別電報という一番最後の電報を打つんですけど、その訣別電報を打ったあとで電信機を壊す。敵に使われたら困るので。本当に最後の言葉です。しかもこれ、暗号で打っているので、受けたほうが暗号を解読して、「散るぞ悲しき」だったのを、大本営が「口惜し」に変えた。私、その電報の現物を取材のときに見ました。赤線が引いてあって、「悲しき」の横に「口惜し」と書き直してある、すごい生々しいものを見ました。

本当に水もないし、援軍も来ないし、武器もない。しかも持久戦をしたんですね。普通は水際作戦といって、敵が島に上陸してきたら水際で殲滅するという作戦があって、よく映画とかでも全員で突撃するのがありますね。でも、あれをやると1日で戦闘が終わってしまうので、地下に洞窟を掘って、そこにこもって持久戦をやれと命令するんですね。それはなぜかというと、さっきも言ったように、米軍が硫黄島をB29爆撃機の中継基地にしたかったわけなので、島が全部落ちてしまったら、日本への空襲がすごく激しくなるわけです。勝つことはもうありえない。こっちが2万人で、米軍は6万人来ましたので。制空権も奪われていて、飛行機からもどんどん爆撃があって、だけど滑走路を守らなければいけないので、地下に潜んでゲリラ戦をやるんです。どうせ死ぬとわかっているんですよ。援軍ももう絶対来ないし、絶海の孤島だし。どうせ死ぬなら、最初の日にワーッと行って華々しく散ったほうがいいと幕僚、位の高い部下たちはみんなそう言うんです。モグラみたいな死に方は日本の武人としてできないとか言うんだけど、でも、なんでこれをやっているかという目的を考えたら、1日でも長くそこで持ちこたえたら、1日日本に空襲が行く日が遅くなりますよね。昭和20年の3月の末とかなので、栗林さんはそろそろ戦争が終わるのではないかと思っている。日本からも和平の交渉をしたほうがいいと大本営に提言したりして嫌われたりしているんです。けれども、彼は、もうちょっと持ちこたえれば、なんとかなるんじゃないかと言う。そうすることで、本土空襲の被害を1日でも少なくしたい。

何を言いたかったかというと、早く死んだほうが楽なんです。もう死ぬとわかっているんだから。でも、それでも1か月持ちこたえろとか言うと、みんな頑張るわけです。飲み物もないし、怪我とかもしているし、大変なんだけど、頑張る。栗林さんはすごくいい指揮官だったので、「栗林さんが言うなら」みたいな気持ちもあったんだと思います。だから、みんなものすごく苦しんで、苦しんで、死んでいくわけです。そして、一番最後に近いときまで、指揮官ですから生き残ります。最後400人ぐらい残って、明日突撃しますというときに、その電報を打って、それっきり電信機器は壊すわけです。そんなこんなで「矢弾尽き果て散るぞ悲しき」と歌ったわけで、玉砕ですから基本的には一人も残らないのが前提なんです。捕虜になったら仕方ないですけど、日本は「捕虜になるな」と教えていますから。そうすると、ここで部下がどう戦ったのかは、誰も知ることがないわけです。そこで、栗林さんは電報でも、いかに部下が果敢に戦ったかを延々と述べているんですね。

大体ほかの人の電報は、天皇陛下に申し訳ないという話で始まるんですけど、まあ、そういうことも書いてなくはないですが、〈敵来攻以来、麾下きか将兵の敢闘は真に鬼神をなきしむるものあり〉。鬼とか神様も泣くような戦い方を自分の部下はしました、と。そのあとに、〈宛然徒手空拳を以て克く健闘を続けたるは、小職自らいささか悦びとする所なり〉。徒手空拳だったと言っているんです。これは新聞掲載のときに削除されています。この電文は全文変えられていて、改竄された電報の最初は、〈皇国の必勝と安泰とを祈念しつゝ全員壮烈なる総攻撃を敢行す〉と始まっていますが、栗林さんが実際に書いたのは、〈敵来攻以来、麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり〉で始まっている。そんなことを書いて最後に〈散るぞ悲しき〉と書いたら、それが〈散るぞ口惜し〉に変えられてしまった。

でも、改竄はされましたけど、電報の原文が残っているわけです。私も見ました。これはやっぱり、自分の部下を代表して、歴史にこの姿を、2万人の死者の姿を残したいと思ったんだと思うんです。でも、ずっと新聞には、〈散るぞ口惜し〉と載っていた。日本の正式な戦史みたいのがあるんです。防衛庁が作った、世界的には公刊戦史と呼ばれるようなものがあるんですけど、そこにはちゃんと正しいものが書いてあるんです。でも、そんなの誰も読まないですからね。買おうしたら1冊3万円とかしちゃって、図書館でも大きな図書館にしかないようなものです。だから、当時の昭和20年の3月に新聞を読んだ人は、「栗林中将という人は硫黄島で『散るぞ口惜し』と言って死んでいったんだな」と思っているわけです。ずっとそう思われてきたけれど、私は改竄されていたことに気がついたので、それもあってこの人の伝記みたいなのを書いたんです。

●呼応する追悼の歌

資料で、そのあとにある二首は、平成の明仁天皇です。今の上皇さま。

精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき

平成6年に硫黄島に行っていらっしゃるんですね。正式な慰霊の旅ではなかったけれど、小笠原諸島など視察に行かれて、どうしても硫黄島に行きたいとおっしゃって行かれた。これを知って、そうかと思いました。当時の新聞では「口惜し」なんだけど本当は「悲しき」だってことも、その時点で私が発見して世に知らしめたと思っていたんですけど、天皇皇后両陛下はご存じだったのではないかなと思ったんです。「悲しき」と同じ言葉で書かれたので。それから何年か経って、皇后さま、美智子さまですね、今、上皇后ですけど、美智子さまの御歌を発見したんです。これは本に載っていなくて、年末にその年に天皇皇后両陛下がお作りになった歌の中から三首ぐらいが新聞に載るの知ってますか。そのときこの歌は入っていなかったんです。だから、あとになって、今、宮内庁のホームページを見るとこれが載っています。

銀ネムの木木茂りゐるこの島に五十年眠るみ魂かなしき

銀ネムの木木茂る島は、硫黄島のことです。終戦50年の時に行っていらっしゃるので「五十年眠る」になっているのだと思います。ここでも「かなしき」。だから、歌ってすごいなと思って。お二人は、どこか行かれるときにご進講というか専門家のレクチャーを受けられるそうなので、何かでこの正しい電文をお知りになったのだと思います。そんなこと世間の人、誰も知らないんだけど、やっぱりこれに対する返歌というかお返事というか、「あなたのおっしゃっていることは受け止めましたよ」というふうに、きっとお二人でおっしゃっているのではないかと思いました。私はこれは絶対に偶然ではないと思っています。同じく「悲しき」で終わる歌をお二人とも作っていらっしゃるので。そのときに、今までお話ししてきた『万葉集』からの脈々たる歌の流れといいますか、こういう大きな悲劇とか人の生き死にとかがあったときに、歌の力のようなものが蘇るというとちょっとありがちな感じですけれど、こうやって、亡くなった人とも応答できるような力を感じます。栗林さん、この歌の50年前に亡くなっていますが、その人に呼びかけることが歌の力をもってするとできるんじゃないかな。上野先生が「歌にしかできないことがある」とおっしゃっていたように、そう思います。

天皇陛下の歌に、〈精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて〉とありますね。戦後50年の時点でも、私が行ったときも、地下に1万3000柱の遺骨がまだ埋まったままになっていました。2万人ほど亡くなっていて、そのうち1万3000人分の遺骨はまだ収集できていなかったんですね。そのあと、映画とかで硫黄島が話題になったこともあって、だいぶ収集は進みましたが、それでも、今も1万柱ぐらいのご遺骨は、この島の地下に眠ったままになっています。だから、これを知らない人が読むとピンと来ないかもしれませんが、そのことをやっぱりご存知で、こういうふうに詠われているのですね。これもやはり、歴史の中に事実を残していくというか、言葉によって、忘れてはいけない事実を歴史に刻むというのも、こういう歌を見ていると、そういう役割があるのではないかなと思います。

美智子さまの歌に〈銀ネムの木木茂りゐるこの島〉とありますね。銀ネムという木があるんです。私も行って見ました。その木がどうして硫黄島にたくさんあるのかというと、もともとは硫黄島になかった木なんです。でも、米軍が硫黄島を占領したとき、2万人分の遺体が全部あるわけです。自国の兵士の遺体はもちろん回収しますが、日本の兵士の遺体は回収してくれない。そうすると死臭がするわけです。そこで、空からヘリコプターで銀ネムの種を蒔いたそうです。銀ネムというのは成長が速くて荒れた土地にでもはびこるので、死体を隠して、死臭も消すという役割があったようです。それも私はすごくいろいろ調べて、アメリカの文献も読んで、「あ、そういうことだったんだ」と。それもご存知で、〈銀ネムの木木茂りゐるこの島〉。これに関して、誰も説明しないですよね。ご本人の詞書とかついていないんですけれど、でも、そういう事実があるわけです。読む人が誰もわからなくても、やっぱり長い歴史の中にそのことを刻むとか、死んだ人に呼びかけるとか、そういう役割が歌にはあるんだなと、硫黄島を通しても私は気がついたところです。

●日本人は歌を捨てなかった

本当はこのあと島尾敏雄と島尾ミホの話をしようと思っていましたが、時間がないので今日はその話はしませんが、先ほど申し上げたように島尾敏雄の『死の棘』という小説は、夫が浮気したことで奥さんが心を病んで精神病院に入る。で、夫は浮気したことを反省して、奥さんと一緒に精神病院に入るんです。そういう私小説なんですけれど、実話なんですね。二人は過去どうやって知り合ったかというと、島尾さんは海軍の特攻隊長として奄美群島の奄美大島の南側にある小さな加計呂麻かけろま島に行った。内海で海峡があって、湾がとても静かで、戦艦大和も停泊したことのあるような泊地なわけです。波が静かで、外海から見えにくいので。ここで「震洋」という一人乗りのベニヤ板でできた特攻ボートで、敵艦に突っ込む訓練をした。エンジンも足りなかったので、トラックのエンジンを転用して、一人しか乗れない小さなボートですから1隻で行ってもダメなので、50隻ぐらいで一斉に殺到して敵艦にぶつかる。日本各地の海岸と、フィリピンとかにも配備されました。ここには50隻あって、島尾さんは隊長で、その2年前に大学を出たばっかりなのに180人の部下を持って、先頭に立って敵に突っ込むという任務を帯びた。そして、8月13日の夜に特攻の命令が出るんです。15日に戦争終わるって知らないわけですから、もう全部準備をして最終的なゴーサインを待っていたら、翌日、14日の朝まで命令が出ない。昼だと制空権を持っている敵に見つかるので、夜しか出撃がないんですね。13日の夜、出撃しなくて、14日の夜もなくて、15日の明け方に、偉い人から「隊長はみんな集まれ」と言われて、島の中心に行ったら、正午の玉音放送を聞かされたということで、結局ギリギリで死なずに済んで、戦後……あ、奥さんになった人は島の娘だったんです。ミホさんという人で、島の小学校の先生だったんですね。それで、島にいるあいだに恋愛になって、部下がみんな二人の恋を応援しているから、「隊長に出撃命令が出ました」とかって教えに来てくれるんです、夜中に。すると、彼女は喪服の上にもんぺを穿いて、島尾さんから前にもらった短剣を持って、出撃していくボートが見える海辺に行って、ずっと待つわけです、正座して。出発するのが見えたら、短剣で喉を刺して海に飛び込んで死のうと思って、ずっと13日の夜も、14日の夜も待っているんです。そんなの止めればいいじゃんって私なんか思うんですけど、島尾敏雄は、とくに止めない。二人は愛し合っていますから、当時はそういうちょっとヒロイックな何かがあったんでしょうね。そんなにまでして、終戦になったので、戦後めでたく結婚するわけですけれども、9年目とかに浮気事件を起こして、浮気していることを書いた日記を奥さんが見ちゃっておかしくなって、それが全然収まらなくて、かなり長期間、精神病院に入院するんです。閉鎖病棟の中に。一緒にその病院に入るまでの話が『死の棘』という名作の私小説になっています。

このものすごく美しい南の島に、写真は手前がミホさんが住んでいた家のあるところで、奥のほうに島尾さんのいた部隊がありました。この海岸で逢引きするわけです。ミホさんは海岸を歩いていかなきゃいけないんですね。夜は真っ暗なんですけど、そうやって逢瀬を繰り返して、そのとき二人は手紙の交換をしているわけです。会ってもあまり話さなかったとか。二人ともすごい教養のある、のちに作家になる人たちですし、ミホさんは短歌をやっていたので、手紙をやりとりしていて、その中に『古事記』の話とか『万葉集』の歌とかがすごく出てくるんです。島尾さんは、『古事記』と茂吉の『万葉秀歌』を持って戦場に行った。そういう文系の学生はすごく多かったみたいで、今でも行くのが大変な僻地に持っていった。ミホさんは東京の女学校に行ったりしているし、お家も裕福で文学少女だったので、全部知っているわけです、『古事記』も『万葉集』も。なので、二人の恋愛が盛り上がるわけです、文章を通して。

結局、死ななくて済んだのでよかったんです。ミホさんは最近まで生きていました。この二つの本は今も読んでいる人がたくさんいますけど、その時代もやっぱり、昔の『万葉集』とか『古事記』の時代の恋人たちに自分たちをなぞらえて、目の前の現実に耐えようとしていた人たちがいたんですよね。ヤマトタケルとか、戦いに赴いて、そこで死んだ人と、そのお妃さまの話とか、彼らが詠った歌とかみんな手紙のやりとりの中に入ってきているんです。

短歌って、戦後にやっぱり戦意高揚とか美しく死ぬとか、そういうことに利用されたという側面がものすごく批判されたんですね。「海ゆかば」(注・帝国海軍の象徴として軍艦行進曲の歌詞にも使われた)という歌詞も『万葉集』から来ているとか。本当は、『万葉集』をきちんと読めば、そんなことばかりではなくて、戦意高揚で美しく死のうとか、天皇のために命を捧げましょうとか、そんな歌ばかりでは決してないのですけれど、そのときの為政者がそういうことを利用した。5・7・5・7・7とか和歌の伝統みたいなものは、日本人の体の中に入っているので、そこに引きずられて美しく死ぬとか、ヒロイックな発想とかにいってしまったのは、まあ、間違いのないことなんですね。岡野先生がちょっとだけおっしゃっていましたけれど、戦後、短歌は非常に批判されたこともあって、「第二芸術」とか「奴隷の韻律」といわれたりしました。短歌の抒情性が非常に危ういものであると。

島尾敏雄とミホって実はすごく近代的な人で、ミホさんは戦争が始まる前に東京でビリヤードを習っていたり、戦争が始まっているのにパーマをかけて町をハイヒール履いて歩いたり、そういうモダンガールだったのに、戦争がいざ近くで始まると、『万葉集』の歌とかをやりとりして、「今日出撃です」って言われると、井戸で水をかぶる水垢離(みずごり)をして、喪服を身につけて短剣を持って一緒に死ぬとかってやっちゃう。やっぱりこの二人は、やりとりの手紙とかを見ていると、言葉の力に魅入られた部分があって、島尾さんが止めなかったのも、「美しい死」みたいな、そういうムードみたいなのが、とくにインテリの学生たちの中にもあったみたいなんですね。

だから、私たちの中にある、歌に心をこめたり、歌でないと表現できないものがあるとか、そういうものを大事にしつつ、こうした現実を知っておくことも大事なのではないかと、戦争の歴史をちょっと勉強した者として、私は思います。

岡野先生は、それを非常によくわかっていらっしゃって、このあいだの講義で、「第二芸術といわれたんです。批判もされました」。さらに、「日本の近代、世界の近代、非常に悲しいことがあって、『万葉集』に出ているような、本当に清らかなすがすがしい益荒男のことだけではなかった」ということをあのときおっしゃっていました。でも、先生はそのとき何とおっしゃったかというと、「第二芸術ともいわれました。でも、私は歌を捨てなかった」と、おっしゃったんですね。やっぱりそれだけの覚悟をきちんと持って、ずっと歌を詠んでくださったんだなと思いますし、戦後七十何年経ってみると、それは岡野先生が歌を捨てなかっただけではなく、日本人はみんな歌を捨てなかったんだなと思います。戦争で酷い目に遭って、文学者も批判されたりして、でも、やっぱり日本人は歌を捨てなかった。ということもあるなと思います。

この講座の授業のはじめのほうから、「みんな歌を作りましょう」という話になっていて、みなさん実際に、何回も素晴らしい歌を詠んでいらっしゃいます。私もずっと授業に出ていたので、前回も一緒に作ったんですけど、グループ予選の段階でぜんぶ落ちて、1回も紹介されませんでした(笑)。私は文学は好きなんですけれど、歌は才能がなかったら、やってもあまり意味がないとずっと思っていたんです。文学表現ってそういうものだと思っていたんですが、歌に限ってはこうやって勉強していくと、上手い下手ではなくて、歌に込めなければいけない思いとか日常の小さいことでも歌にすることがものすごく大事な経験というか、それは単に伝統というだけでなく、戦争の時代も乗り越えて、私たちが持っている大事な宝物だなと思うようになりました。たとえば何か悲しいこと、まあ、これから戦争はないようにしたいと思いますが、身近な人が亡くなったり、自分が病気になったり、いろんなつらいことがあったりしたときに、そういう思いを受け止めてくれる器というのが、あの5・7・5・7・7という、先人がみんな使ってきた器。その器を自分も使うことができる、すでにそれを持っている、ということを大切にしていきたいなと思っています。

(おわり)

受講生の感想

  • 改元のタイミングでこの授業を受けられたことは、とても意義のあることになりました。昭和萬葉集から戦争を読み取ることで戦争を身近に感じることができました。戦争は遠い昔のこと、自分とは関係ない遠い国で起こっていること、戦争を実体験していない世代だからと、他人事のようなものになりつつあります。授業を受けたことで、これまで映像や文章だけで触れていた戦争のにおいとか温度とか、今までとは違った感覚で戦争に触れられた気がします。短歌はとても不思議ですね。

  • 亡くなった方とも歌を通してコミュニケーションができるというのは素晴らしいことですね。その時代、その場所で生きた方の心がストレートに刺さってくる歌ばかりでぐっときました。戦争の記憶がない私も、彼らの歌から追体験をすることができるようでした。帰り道に早速、硫黄島の戦いを調べてみました。歌を通して、今まで気にも留めてこなかったことにも思いを向けることができるのはとてもありがたいことだと思います。

  • 文章として伝える技術は誰もが持てるわけではありませんが、日本には和歌という血肉に染みこんだリズム、形式があった。そのために、個人の肉体や精神とともに消え去ってしまうしかなかった言葉が残ったという事実に心が動かされます。昭和萬葉集の成り立ちについてエピソードを聞き、このおそろしいような企画を立案実行した出版社や編集に携わった歌人たちの偉業が1000年のちも残ること、1000年のちに受け取る日本があり、日本人がいることを祈らずにいられません。

  • それぞれの先生方が万葉集を通して和歌とはどういうものかを語ってきてくださって、梯先生のお話で焦点を結んだように思いました。極限状態で見たこと、感じたことを、あんな風に書き残すことは他の形ではきっと無理だったのですね。三十一文字という定型に、日常的に気持ちをのせてきた人たちだったからそれができたのですね。