ダーウィンの贈りもの I 
第14回 鼎談 奥本大三郎さん岡ノ谷一夫さん長谷川眞理子さん

ダーウィンと現代

15分版・120分版の視聴方法は こちらをご覧ください。

奥本大三郎さんの

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岡ノ谷一夫さんの

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この講座について

講座の締めくくりとして、人類学者の長谷川眞理子さん、仏文学者の奥本大三郎さん、生物心理学者の岡ノ谷一夫さんに鼎談をお願いしました。お話は、ダーウィンからどんな「贈りもの」を受け取られたのかに始まって、果たして私たちは「生き物」でいたいのかどうか? どういう社会を持ちたいのか? という問いへと発展し、厳しい中にもかすかな希望が見えるお話となりました。授業が行われた時点では、新型コロナの影響はまだ日本に及んでいませんでしたが、人間と動物の関係や人間の本質など、いま見直すとさらに示唆に富む鼎談です。最初に長谷川眞理子さんに講座のまとめをしていただきました。そこからお楽しみください。(講義日:2019年12月11日)

講義ノート

長谷川:こんばんは。久しぶりでございます。最初のときに話をしました長谷川です。今日は最終回ですよね。まとめということで何をお話ししようかと、いろいろ迷っておりました。それで、久しぶりにパワーポイントなしで話します。なんかこの頃、全部パワーポイントになってしまって、本当の話のおもしろさみたいなことで勝負することがないので、今日はそうしてみました。たくさん講義があって、いろいろな側面でダーウィンのお話を聞いていただき、それぞれご本をお読みになったりもした方、たくさんいらっしゃると思います。それで、ダーウィンと、それから進化の考えと、この世の生き物というのをどういうふうに考えるか。そして、私たち人間というのをどういうふうに考えるか。ヒントをもらって考えていらっしゃると思います。今日は、そういうことをもう一度いろいろと考えていただくための取っかかりとかヒントとか、言い残したこととか、そういうことを含めて、私と岡ノ谷さんと奥本大三郎さんと、話をしたいと思います。

●全体像を見ることのできた最後の時代の人

ダーウィンの話をずっと聞いてきて、どのようなご感想ですか? ダーウィンから何を一番受け取りましたか? ダーウィンについて、何を一番考えましたか?
受講生:ダーウィンというと、最初に見せていただいた映像で、アオアシカツオドリ、ですよね? 鳥の色がものすごく鮮やかで、ダーウィンは私たちみたいにインターネットとかテレビとか、そういうものがある環境じゃない時代に、イギリスからああいう生き物がいるところに行って、どれだけ鮮やかに見えたんだろうというのをすごく考えました。今は情報機器があふれていて、ありがたいようだけど、ちょっとお手軽かなぁと。
長谷川:そうですよね、そうですよね。あのとき私、話したかどうか忘れましたけど、ダーウィンはイギリスの、結構のっぺりとして穏やかな全部草が生えてて羊がのこのこっていうようなところで育って、それでも昆虫少年で一生懸命カブトムシとか集めたりした、そういう人がアマゾンに行って、めくるめく生物多様性とその美しさというのに本当に感激しまくっていますよね。映画とかインターネットとかテレビとかないときに、文章で読んで、絵描きが描いた絵を見て熱帯などを知った人が、本物を見て、われわれが思う以上に感激したんだと思います。やっぱりダーウィンを知って今を考えるときに、私はこの「時代の違い」はすごく大事なことで、ダーウィンを理解するためにも、あのときどうしてこうだったかというのを理解するためにも、時代の違いはすごく重要な要素だなと思います。本当にいろんなダーウィンの話があったと思いますが、学問が細分化されていない時代だったんですね。ですので、ダーウィンが「考えなきゃいけない」と思って種をまいて、彼も100歳まで生きるわけじゃないから、途中でやめてしまわなきゃいけないで亡くなってしまう。その後に新しい学問分野として、いろいろなものが花開きました。そういうことがまだ何もできていない、生物をどう捉えようかということが、まだ学問としてそれぞれの分野が確立していない時代に、全体像を見ることのできた最後の時代の人かなという気がします。そのことが大変ではあったけれども、すごくのびのびと、生き生きと、いろんなことができた。それを今から思うと、うらやましいなという気がします。

私が修士論文を書いたときは手書きの時代でした。博士論文はちっちゃなパソコンでした。そのパソコンで5時間ぐらい入力していたら停電になって、全部飛んじゃったっていうことがありました。それでも若かったので、5時間分をほとんど思い出して書き直せたんです。そういうことは今はたぶんできないんじゃないかな。そういう意味で、私も、そんなに何でも簡単じゃなかった時代のことは知っています。私はチンパンジーの行動生態学をやろうと思って自然人類学の部門のひとつを勉強するようになって、博士号を取るまでの間に、当時チンパンジーの行動生態に関する論文は全部読んでいたと思います。自分が最先端の論文を全部読んでいて、先生より知っていると自負していました。狭い分野ですけど、プライマトロジー(霊長類学)の中のひとつの分野に関しては、自分は全部読んでいるという自信が持てました。だけど、いまやそういうことは不可能だと思います。自分の最先端分野でも、自分で全部を知ること、読むことはできなくて、そのちょっと周辺の分野というのも、私は全部見ている気がしていたんだけど、今はそれも無理ですね。山のように論文が出て、週刊で出る。毎週出る『ネイチャー』とか『サイエンス』とか、それから年に4号とか6号とか出る専門誌があって、それがあまりにもいろいろあるので、最近は『TRENDS journal』っていう、最近のいい論文の要素を全部まとめてくれる論文集を見ていますが、それも全部は……岡ノ谷さん、全部見てます?
岡ノ谷:いや、全然見てません。
長谷川:見てないでしょ。見られないですよね。
岡ノ谷:TRENDSも増えてきたでしょう?
長谷川:そうそう。TRENDS自体が増えてきた。Trends in Behavior & Ecology、Tends in 何々っていっぱいあって、見なきゃいけないものが多すぎ! 一説によると、年間200万本論文が生産されているんですって。全部の分野あわせて、ではあるけれど、それを全部読めるわけがないでしょ。それで、この前、情報学の人と話していたら、「だから、これからはAIに読んでもらうんだよ」って。「え? いったいあんた、何をしたいわけ?」と、私は嫌になっちゃうんですけど、そういう時代になってきた。

それじゃ、誰が全体像を見ているんだろう、っていうと、たぶんいないですよね。全体像を見ている人がいないと思う。それで細分化が進み、どうなったか? 物理学というのは世界全体を説明する原理を抽出したいんですよね。それでTheory of Everything=「全部に関する理論」を立てることが目的だという。それで、物事、物質の根源をどんどん、どんどん掘り下げていって、「分子でできている」「分子は原子でできている」「原子は中性子と陽子と電子があって」……と。「じゃあ、それは何でできて」というと「クォークで」っていうふうに、どんどん下げていって、それで今、ダークマターとダークエネルギーの話でつまずいていますよね。あれは、全然説明できないことになっていて、だからこそ彼らはおもしろいと思うわけですが。そういう意味で、どんどん下に下げて、細かいところを詰めて、「これだからこうなる」っていうことを見つけることが、そこから先をわかるために重要だと。還元的な方法ですよね。それを生物学にも当てはめていって、生物の体の中がどうなっていて、細胞がどうなっていて、細胞の中がどうなっていて、分子がどうなっていて、遺伝子がどうなっていて、遺伝子は塩基配列がどうなっていて……と、そこまで全部いったわけです。そうすると、生理学は、体の中でいろんな物質が相互作用し合いながら、こういう体になっているのかというのをやる。発生学は、卵からどうやって大きな体ができてくるかを時系列に沿って追う。じゃあ、生理学と発生学はどうなったかというと、それぞれ違う学会を作り、違う実験装置を使い、違う研究者集団を作って、生理学はさらにいろんな生理学に分かれて、発生学もいろんな発生学に分かれて、どんどん自分たちの仲間の研究者同士で学会を作り、さらに細かいことがわかり……どんどんわかったんです。その「わかる」ほうにはいっているんです。だけど、横串ってなかなか通せないし、本当は横に通していろんなことを発想しないと生き物の全体はわからないんですけれど、今はそういうことはなかなかしにくい時代になってしまいました。

ダーウィンは細かいことがわからない時代だったので、遺伝子もわからないし、内分泌とかそういうのもわからないから、どうして親と子が「似る」んだけれど「同じ」にならないのかとか、同じ卵から出てくるはずなのにどうして雄と雌になるのかとか、雄のクジャクの形質はどうして雄の子にだけ出るんだろうとか、細かいことがわからないので、一生懸命考えて、その当時手に入るマクロなデータを一生懸命集めたわけですね。ということは、ダーウィンは、生物がわかるためには何を知らなきゃいけないかということの全貌をたぶん頭の中に描けていた。それで、「これがわかるためにはこういうデータが必要」で、「これがわかるためにはこういうことが必要」っていうのを全部、生物地理学とか発生学とか形態学とか、そういうところを全部を覆って見ていられた、たぶん最後の世代になるのかなと思います。

それ以後、細かいひとつひとつの疑問は掘り下げられて、掘り下げられて、すごく掘り下げられて、そのおかげでこっち側の井戸とあっち側の井戸がつながるということも、もちろんたくさんあったんだけど、この「全貌」ってなかなかもう今、わからないのかな。一人の人間には、容量が大きすぎて、わかりようがないと思います。そのなかで今、合成生物学のお話もお聞きになったと思いますが、これから先、生物学はどうなるんでしょう? というのを私は、そして岡ノ谷さんとか一部の生物学に関わっている人たちも、すごく危惧しているというか、いったいこれから生物学はどうなっちゃうんだろうねと思ってしまいます。ひとつには、そういうふうに細かいことがわかるようになったので、それは結構なんだけど、それが何をもたらすかというと、細かいことがわかるがゆえに「ここを直してこうしたら作り変えられるだろう」ということにつながりますよね。それは病気を治すとか、ウィルスをやっつけるとか、そういうことにはいいんだけど、人間を作り変えることにもいきますよね。そのときに、「そのことしか知らない人」がそういうことをやると困るでしょ。だから、もっと大きい集まりを作って、大きな角度から、細かい話じゃなくて、「いったい私たちはどういう生き方をしたいのか」、「どういう世界を作りたいのか」っていうことを、もっと大きいところからみんなで話しながら、何かを考えていく場が、本当はもっと必要になるはずなのですが、どうもそういうふうになる気運が見えない気がします。細かいところでやって一攫千金を狙うほうが、はやっているんじゃないかなと思います。

●お金に結びつけられすぎた科学

そういう意味では、科学の発達って、そうだったんですよ、今までもずっと。科学は発展すれば細分化し、細分化するともっとより深くわかり、わかると、それで何か作って、もっと欲しいものを手に入れようと、そういうことになる。それで科学は技術を生み出して進んできたので、これは仕方のないというか、科学ってそういうものです。というか、人間ってそういうものなんですかね。どうも、この頃の科学は、お金に結びつけられすぎている。今、国立大学が一番求められていることは、国の税金の運営費交付金などに頼らずに自分で稼いで大学をやりなさいと言われています。うちの大学院(総合研究大学院大学)のように基礎研究しかやっていない研究所は、企業とのつながりもないし、お金を稼ぐ術はない。そうすると、「そういうところは潰れますか?」みたいに言われて、全然ダメなんですよ。好奇心とかで研究しているっていうのは、もう通用しない。少なくとも日本は、どんどん通用しなくなっています。そういうなかで、私がダーウィン先生のように大金持ちになって、「運営費交付金なんかいらないから私のお金でやってやる」って言えればうれしいですけど、そういうわけにはいかない。しかも、最近の研究はとてもお金のかかるものが多いから、大がかりな研究をしようとすると、とても大きなお金が必要です。

そういうなかで、1960年代ぐらいまでかしらね、生物学全体を見ても、のびのびと研究をされてきたように思います。というのは、DNAのらせん構造を発見した「ワトソンとクリック」の2人の、ワトソンは25歳ぐらいでアメリカからやってきたチャキチャキしたコスッ辛いやつだったけど、クリックは発見したとき38歳でしたっけ、ケンブリッジでほとんど研究成果なかったんですよね。だけど、ずっとケンブリッジは置いてくれたし、ほかにもDNA研究に関わった何人もの人がいますけど、その何人かは、ずっと業績とか何にもないんだけど、いられたんですよね。そういう余裕がどうも今、世界的にないんですね。みんな、科学研究は何らかの形でお金を生みだすことを期待されていて、それをかっこよく言うんですよ。「ソサエティー5.0のために」とか「イノベーションの何とか」とかね(笑)。私、あんな言葉、全然信じない。何がソサエティー5.0だ! 本当に嫌になるんだけど、そういうお砂糖の衣をつけて、「絶対いい世の中になるから、そのいい世の中になるための飛躍を生みだすイノベーションを君たちがやってくれ」みたいな、そういうことしか言わないんですね。

そのなかで生物学が生命科学になりつつあるんです。生物学、バイオロジーでしょ。バイオロジーって私すごくいいと思うんだけど、それがライフサイエンスになってきているんです。ライフサイエンスというと、バイオロジーよりももっと人間のためにいいこと、いいっていうのは人間の価値観が求めるところの「より健康で、より長生きして、何の苦労もないような体や社会を作るのにライフサイエンスは貢献します」みたいな感じで、「生き物って何なんだろうね」とか、「生き物ってこんなにおもしろいよね」、「生態系っていっぱいいろんな種類がいて、つながっているのがいいよね」とか、「絶滅させないようにしよう」とかが入る余地がないような風潮を強く感じています。

そうすると、今、だんだん怖いことになってきて……クリスパー・キャス9(ナイン)の話は出ました? ゲノム編集技術・クリスパー・キャス9みたいなものが、本当に使われてしまうでしょ。中国の大学の賀建奎(フー・ジェンクイ)っていう人が、人間の双子でゲノム編集をやったというので世界的に問題になりました。結局、あの人、完全に消えちゃったよね。どこに行ったのか知りませんけど、あれは組織的にやっていることだと思います。それも、「そこまでできる」というようなことができてきたけれど、生き物はもっともっと奥が深いので、本当にそんなことしてどうなるかわかりません。どれくらい、そういうことにリスクを取る気になる人間がいるのかもわからない。遺伝子って、本当に難しいので、まだわかっていないことたくさんあります。私も全貌を知っているわけじゃないけれど、どなたかの話を聞いていたら、遺伝子って「こっち側からこっち側に読んでいく」っていう方向があるでしょ。ところが逆に読む遺伝子っていうのもあるんですってね。だから、本当にどうできているかは、まだまだよくわからないんだと思います。それから、ひとつの遺伝子がいろんな形質に関わっているというのがあるから、「この遺伝子を潰してこの性質をなくそう」と思ったら、ほかのところにも影響があるかもしれない。そういうリスクと、「この子はもっと幸せに長生きしてほしい」っていう希望とがあるなかで、「ちょっとリスクはあるけれどやります」って、どのくらいの親が言うのかな? 加えて、個人の「親として子供の遺伝子を改変するかどうか」っていうことと、もうひとつは、「その技術を全員が使うようになったら、社会はどうなるか」って、2段で考えなきゃいけないですよね。そういうことを研究して、細かく解明して作っていく人って、本当に掘り下げて、掘り下げて、掘り下げて、一番下のところをやっているので、なかなか全体の、しかも生物学の枠を越えて哲学とか社会とか倫理とか、そういうことを本気で話をする時間もチャンスもあまりないと思います。倫理の問題って知らなきゃいけないっていうけれど、本気で研究者がそういうことを立ち止まって考えていく時間的余裕とそれをやる気があるかというと、法律を作ったりするときにはいろんなことがあるし、考えている人はいるし、学術会議とかで声明を出したりはしますけど、個々の研究者にはそこまでいろんなことを英知をもってやってくれみたいには言えないし、余裕がないような気がします。それをすごく危惧します。

●AIと、私たちの生き物観

あとは、やっぱり危惧するのはAI系ですね。AIのあたりで、人間と同じようなものを作ろうとしている人たちとか、「あと何年で機械は意識を持つようになる」と言っている人たちとか、そういう人たちは、本当に何をしたいのか? それは私たちの生物観、生き物観、生命観をどう変えるのか、変えないのか? 私たちの望む社会とは、本当にそういう社会なのか? そういうのが、生きるということの核心に迫ることだと思うので、生物学は生きることの核心を何らかのかたちで示していく学問なんだと思うんです。だけれど、そういうことはすごく表層的になってしまって、「生きる」ことをどのように私たちの欲望に従って変えていくか、という学問になっちゃうかもしれない。じゃあ、それは誰の欲望なんですか? みなさんの欲望ですか? というと、「開発している人の欲望」なわけよね。そのへんがこれからどうなるのか。生物学者としては、生物学全体の流れが、ダーウィンの時代からこんなに変わってしまって、ダーウィンが描いたような世界全体、生態系全体、生命の全体ということにあまり目を向けなくても生物学の研究ができるというこの状況に、私たち、私は何とかしてほしいなと、開発ばっかり進んでほしくないなと思っています。

だからダーウィン先生は、「立ち帰るところ」として彼の考えていたこととか、彼の時代とか、彼が思い描けた範囲の広さとか、そういうのをすごくうらやましくも思い、大事な人だったなと思っております。なんか、すごく悪いたとえなんだけど、今の生物学って、こっちからもこっちからも、蟻の穴みたいなものをどんどん掘っていって、ある分野はここを、ある分野は別のところを、どんどこどんどこ掘っていって、いろんなところで側溝もできて、たまたま出会うと、「おお、これとこれはつながったか」なんだけれど、全然そんなつもりはなくて、どんどん掘っていって、最後は小さくなって何にも見えない、一番下の底のどん底で、「わかった〜!」みたいに言っている生物学者たちが地面の下に山のようにいるって、すごく嫌なイメージなんだけど、そういう雰囲気になっちゃったかな。それを何とかみんなでボコッと土を掘り起こして、新しい空気のところにいかせたいなと思っています。
ありがとうございました。まとめになっているんだか、いないんだか(笑)。

河野:ありがとうございました。じゃあ奥本さんから、今の長谷川さんのお話を受けても受けなくても、お話をちょっといただきたいと思います。

●虫屋ダーウィン

奥本:私は、子供のときに八杉龍一という方の書いたダーウィンの伝記を読みました。講談社の函入りの叢書です。その中で一番気に入ったのは、ダーウィンの自伝から取っているんだと思いますが、学生時代に昆虫屋だったこと。あるとき木の幹を剝がして、虫を探していたんです。そうすると、すごい、いいやつが出てきたんです。片手につかんだ。また出てきた。右手につかんだ。そしたら、また出てきたんですね。逃がしたくないので、片手に持ってたやつを口に放り込んだんです。そうしたら、ものすごい苦い液を出して、ヒリヒリと舌が焼けるような思いをしたので、ペッと吐いて、とうとう2匹を逃がしちゃったって書いてあるんですね。欲張りの虫屋ですよね。ゴミムシ。それが、八杉さんの本にもカブトムシなんて書いてあったので、日本のカブトムシをイメージすると全然違うんですね。日本のカブトムシはヨーロッパにはいませんし、極東のほうのアジア、タイなんかにもいますけど、日本あたりが一番多い国ですね。ちっちゃいゴミムシ、あるいはゴミムシダマシみたいなやつが木の皮の下にいるやつを捕まえたんですね。ヨツボシゴミムシなんていう虫なんですけれども、ダーウィンはそれを採ってうれしくてたまらない。有名な昆虫図鑑にダーウィン氏採集って自分の名前が書いてあったので、天にも昇るようなうれしさを感じたっていうんですね。その虫の形は非常に詳しく心に刻みつけていて、20年もたって息子がそれと違う虫を採ったときにその違いがすぐわかった。ほんとにこれ繰り返しますけど、虫屋でした。

私の場合は、科学でも何でもなくて、もっと古い博物学が大好きでありまして、文学と科学の幸福な調和と言えばかっこいいんですけど、要するに、いい文章で表現された科学の思想、それが一番気に入っています。ダーウィンの場合も、さっきもお話がありましたけど、貧弱なファウナ(昆虫相)、フローラ(植物相)のイギリスから熱帯の地方、南米なんかに行くと、自然がものすごく豊かで生物の多様性に満ちているんですね。そこで、いろんな美しい鳥とか蝶とか、化石とかを見て、本当に驚いて、うれしくてしょうがない。ビーグル号の旅はそれですよね。だから、やっぱり一番大事なのは、生物の多様性に驚く気持ち、それを愛する気持ちがダーウィンの中核にあるんだろうと思います。デカルトの言葉をもじると、私は「愛するゆえに我はある」ということは確かです。我思う、ゆえに我在り。Je pense, donc je suisという言い方がありますけど、「われは愛するゆえに、その愛するという自分はある」というダーウィンという人を僕は非常に好きです。このヒゲのおじさんが、何もかも嫌になったときに逃げ込む鎮守の森というか、森林みたいな感じがしてしょうがない。南方熊楠とダーウィン、その2人は、それこそ教授会なんかで嫌になってうんざりしたときに空想する相手としてずっと存在しました。学校は2回辞めたんですけど、なんとか最後まで切り抜けてきました。やっぱり、亭々と茂る大きな木とか、青々と茂る草とか花とか、そういう世界に導いてくれる、それを持っている人という感じがします。

今日は、ダーウィンとファーブルと、それからウォレスという、ダーウィンと同時に進化論を発見したといわれている人。その人の話をちょっとずつやろうと思っております。

『ダーウィン自伝』という本を読んでみますと、なんていうかな、文学としても読める気がするんです。たとえばビーグル号の艦長だったフィッツロイという人の人物描写のところ、ちょっと引用してみたいんですけどね。このフィッツロイという人は、腹を立てるともうまったくわけがわからなくなってしまったという人なんです。我を失う。「たとえば、航海の初期に、ブラジルのバヒアで、かれは、私が嫌悪していた奴隷制度を弁護し賛美して、自分はいまちょうど大奴隷所有者を訪ねてきたところだが、その人がおおぜいの奴隷を呼んで幸福であるかどうかたずね、ついで自由の身になりたいかとたずねたら、みな『いいえ』と答えたと、私に話した。」そこでダーウィンは答えるんです。「そこで私は、たぶん冷笑を浮かべながら、主人の前での奴隷の答えがちょっとでも信用できるとお考えなのですかとかれに問うた。これはかれをひどく怒らせてしまった。かれは、私がかれの言葉を疑ったのだから、もうこれ以上いっしょに生活することはできないといった。私は船を下りねばならないことになろうと思った。しかし、艦長が自分の怒りを和らげるために大尉を呼んで私をののしったので、そのニュースは敏速に伝わり、そしてそれが広まるとすぐ、私は、士官次室の全員から会食の招待を受けて」いる。みんなが喜んで、飯に呼んでくれたんですね。「とてもうれしく思った。ところが二、三時間後、フィッツ・ロイは一人の士官を私のところによこして陳謝し、つづけていっしょに暮らすようにと頼み、かれのいつもの寛大さを示した」っていうんです。

マルセル・プルーストの小説にも、身分の高い貴族やなんかで、こういう、身分の低い者が自分の言うことに反対するのは信じられないという人がいて、めちゃくちゃ怒りだしたりするような場面があります。それと同じですね。フィッツロイも身分の高い人で、艦長になる。当然、その下にいる者たちが反対もしない。全部、自分が言ったことは、「はい、そうです」と言うに決まっていると思い込んでいる人なんですね。そういう人物が、すごくよく書かれていて、ダーウィンは人物に対する観察も非常に優れているように思いますね。ダーウィンはビーグル号に乗るときに鼻の形が良くないというので、あやうく落とされるところだった。そういうところを年をとってから、家族のために自伝に書いたらしいんですけど、非常におもしろく書けていて、文学としても読めると思います。ただ英語の婉曲表現なんかが日本語となじまないみたいで、何を言っているかわからないようなところもありますね。翻訳、すごく難しかったと思います。こんなにおもしろい読み物はない気がします。

●ダーウィンとファーブル

ダーウィンの進化論をちっとも認めようとしなかったのが、アンリ・ファーブルです。彼は、ダーウィンのおじいさんの書いたものをボロクソに言っているんですね。ところがダーウィンは、そのファーブルに対して非常に寛大で、公平で、許しているんです。そして、「あのたぐいまれなファーブルが」といって、『種の起源』の中にも引用しています。で、ダーウィン自身からファーブルに手紙を寄こして、「ハチの観察でこういうことをしたらどうでしょうか」って提案しているぐらいなんですね。それはマルハナバチの背中に細い磁石を帯びさせた鉄針をつけて、それが地磁気とどう反応するかを実験してみてくれませんか、と提案しています。ハチは生き物ですから、鉄の針を体に貼りつけられると嫌がって背中をこすって実験にならなかった、という笑い話みたいなこともあります。

ちょっとお絵描きをしようと思うのですが、カリバチをご存知でしょうか? ジガバチとか、アナバチとか、そういうハチです。黙々と絵を描きますので、帰らないでくださいね(笑)。ハチの顔があって、首が細い。複眼です。体、胸の筋肉って3つに分かれて、それぞれに足がついているんですね。その先はまた5つに分かれるとかあって、そこに毛が生えたりするんです。最後の後ろ足は、すごく長い。背中に別の筋肉があって羽を動かすようになっている。腰柄(ヨウヘイ)と書きます。それに尻尾がついています。草の茎なんかをくわえて、その力だけで寝ることができます。すごいでしょ。顎で茎をくわえて、ぶらさがって眠るなんて、人間にはできませんよね。ですので、全然別の世界の生き物という感じがしますけれど、腰がなんでこんなに細いか? なんでだと思いますか? おかげで、花の蜜しか吸えないんです。細いのは、自由自在に針を獲物の体に刺すように腰をめぐらすためなんですね。獲物の、たとえばイモムシ、シャクトリムシがいるとすると、12ぐらい体節があるわけです。そのひとつひとつに丹念に針を刺して、獲物の運動神経を麻痺させます。そして、その麻痺させた幼虫を穴の中に入れて卵を産みつける。すると、卵から孵った幼虫が麻痺させられて動けないイモムシを命に別状のないところから食べていく。生きた肉を食べるんですね。だから腐らない。そういうことをファーブルは発見したわけです。そういう観察をしたファーブルから見ると、ダーウィンの進化論が信じられないというのは、「一番最初のハチはどうしたんだ? どうやって進化してきたんだ」ということなんです。「偶然、イモムシの運動神経を刺したっていうのか。そして、その偶然刺したのが、うまく獲物の幼虫を麻痺させることに成功して、眠っている幼虫に産みつけた卵から孵った幼虫が、偶然命に別状のないところから食べていって、全部食べつくすのか。これに答えないかぎり私は信じない」って、そういう言い方です。どうなんでしょうね(笑)。ハチ全体の、徐々に徐々に大きなグループでの進化、ということで今考えられているようですけれど、当時の、この問題に答えるファーブルの態度だと、ダーウィンの進化論は認められないということです。ちょっと下手な説明でしたが、そういうことで、ファーブルはダーウィンの進化論を認めませんでした。ダーウィンはそれを謙虚に受け止めて、「もうちょっとよく考えてみる」ぐらいの返事をしているんだと思いますが、このファーブルの観察力を重んじて、さっき言ったみたいに実験を依頼するというようなことがありました。

長谷川:ダーウィンの自伝は、私も読みました。本当に文学的にもおもしろいんですよね。そういう描写のすごいところもそう思いましたけど、私が高校生の頃に読んだときに一番覚えているのは、ダーウィンって、子供のときに結構噓つきで、鳥の卵を盗んで自分でどこかに置いておいて、それで「わー! すごいものを発見した!」ってみんなに言って人気者になりたかったとか書いてあって。
奥本:しかも非常に傷ついて、いつまでも覚えているんですね、それを。
長谷川:そう、そう。そういう悪いことをしたというのをずっと覚えている。そのへん、すごくおもしろかったです。あとファーブルも、今でも攻撃する人って、そういう言い方しますよね。だから、ある種の典型的な理論の攻撃の仕方なのかなとも思います。
奥本:ファーブルの場合は、自分の目で見たもの以外は信じられませんという言い方で、非常にかたくなな田舎の教師だったんですね。そういう意味で、流行の学説だという進化論も信じない田舎の教師ということで、フランスでもさんざんバカにされます。ファーブルは、適当に進化論を受け入れていれば、もうちょっと人気が出た。
長谷川:そうですか。
奥本:アカデミーでも入れてもらったかもしれない。やっぱり世の流れには従ったほうがいいかなと(笑)。独立行政法人だって、言うことを聞いてれば、みなさん残れるかもしらん(笑)。
長谷川:はい。ありがとうございました。では、次を岡ノ谷さんにお願いします。
岡ノ谷:奥本先生に質問があるんですけど、ウォレスはダーウィンのことは尊敬していたと考えていいのでしょうか。
奥本:ウォレスのことは、また後で。
岡ノ谷:わかりました。じゃあ、あとで聞くことにします。

●生命とは「変わりゆき、滅びゆくもの」

岡ノ谷:ファーブルの話でいうと、リチャード・ドーキンスが『盲目の時計職人』という本を書いていまして、どういうことかというと、砂浜を歩いていたら時計が落ちていた。時計が落ちている以上、時計職人がいるはずだと考えるのが普通であり、その時計が自然淘汰でできたと考えるのはおかしいじゃないかということに対する反論です。それをファーブルに読ませたかったなと思いました。
奥本:『盲目の時計職人』という言い方は、ずっとありますよね。「見えざる神の手」という経済学の話も似たような気がするんですけど。
岡ノ谷:そうですね。はい。
奥本:結局、神のことなんでしょ?
岡ノ谷:いや。それはね、神の不在についてなんです。むしろ。
奥本:不在についてですか。
岡ノ谷:はい。
長谷川:時計職人は目的を持っているけれど、そういう目的を持っている時計職人がいなくて、盲目の時計職人でも自然淘汰とはそういうもので、最終的には何かができるっていうこと。
岡ノ谷:そういう話です。それで、ちょっと僕はお二人の話にまずコメントしたくなっちゃったんですけど。第一に、長谷川先生がいきなり「最近はみんなパワーポイントでプレゼンテーションする」と言うものだから、僕はそうしようと思っていたのに、できなくなった(笑)。でもね、私のことを言わせていただけば、手帳を持たなくなったら自分はダメだなと思って、私は手帳とパソコンと両方持っています。でも、手帳にはほとんど何も書いていない。手帳にノート取ると、あとで読めないんだよね。だから、ちょっと僕も、いろいろ反省しました。それから、ソサエティー5.0とか、イノベーションとか、私の大学の総長がよく言うんですよね。私は困ったなと思いながら、やっぱり運営費交付金を分けてもらいたいので、総長に自分の概算要求をしにいくときに、なんとなく「ソサエティー5.0」とか入れてみたりするわけです。悲しいなぁと思います(笑)。

さて、私がダーウィンから学んだことというのは、「生命というのは、変わりゆき滅びゆくもの」だということだと感じています。ということと、「科学者として、メカニズムを知らないことの強みがあるな」ということ。当時、遺伝の仕組みはわかっていなかった。だからこそ、生き物全体を見なければならなかったわけですね。今、あまりに細かいことがわかりすぎてしまい、雑誌がたくさんあるし、論文が年間200万本とか出てくる。だから、最近、日本の論文の数が減っているとか出ていますけど、少しぐらい減ってもいいじゃないかと思ったりするわけです。そうだ。私は卒論はたしか手で書きました。修論はワープロで書きました。そういうギリギリの世代です。これからダーウィンを知らない生物学者も出てくるんじゃないかなって思うと、なかなか恐ろしくなってきます。
長谷川:あのね、10年前の私の授業で、いろんな人の名前を出したら、ウォレスを知らない学生、全員でした。ダーウィンは知らない人が45人ぐらいのクラスで1人か2人。木村資生を知らない。ウォレスは全員知らなかった。
河野:ファーブルはどのくらい知ってる?
長谷川:ファーブル、私、挙げなかったような気がする。
奥本:ファーブルは日本では子供の読み物と見られていて、大人扱いはされていない。
岡ノ谷:でも僕は、ファーブルは子供の読み物として消えてしまうことはないと思うんですよね。ということで、私とダーウィンの出会いは、小学校5年生ぐらいのときに船のプラモデルを作るのが好きだったんです。いろいろ作っているうちに、ビーグル号というのが売っていて、昔のプラモデルというのはすごいんです。ビーグル号に乗った人は誰で、なんでこれが歴史上大事なのかっていうのが、プラモデルの設計図のところに2ページぐらい載っているんですよ。ちょっとしたダーウィン伝が読めるんですね。僕は、この講座を引き受けたとき、もう一回あのプラモデルを作りたいと思って探したんですけど、残念ながら絶版でした。だから、いろいろなくなっていくな。でも「変わりゆき滅びゆくものが生物」だからしょうがないなというふうに思いました。先生が八杉龍一さんの翻訳で読まれたというのが……
奥本:翻訳というか、子供の読み物。
岡ノ谷:八杉龍一さんとか、丘浅次郎さんとかですね。あの時代の方たちはエスペラント語にも興味を持っていらっしゃって、エスペラント語って、世界共通語を目指していろんな言語の特徴を合わせて作った人工言語です。そういう言葉があれば、英語をしゃべる人だけが有利とか、フランス語をしゃべる人だけが有利ということはないから、そういうのをみんなでしゃべろうとしたんだけど、全然うまくいかなくて、なんとなく左翼運動と結びついていく感じになっちゃった。日本動物心理学会というのがあるんですけど、この学会が数年前まで、エスペラント語の論文も受け付けますって、投稿規定に書いていたんですよ。ところが先々代の学会長が、ここ何十年かエスペラント語の投稿はないので、この項目は切りますといって切っちゃったんですよね。とても残念です、僕は。エスペラント語の論文を書けばよかったと思っています。
奥本:割合、簡単ですね。
岡ノ谷:本当に簡単ですね。規則変化しかしないし。

●抵抗力とも絡む多様性はこれからどうなっていくか?

岡ノ谷:なんでそういうことを言ったかというと、「言葉を身につける」ということが、これからどうなっていくのかというのが、ひとつ心配していることだからです。私たちは、どんどん「英語を使うことが大事なことだ」と思わされてきたのですが、いろんな考え方があるんですけど、旅行に行ってどこかへ行きたいときとか、もう自動翻訳機で済むんだと思うんですよね。だから、聞いたり話したりする能力は、むしろ勉強しなくてよくて、読み書きだけしっかりやって、要するに、「われわれ人間というのは、どういう論理で考えているのか」ということを考える。なんで外国語を学ぶかというと、アメリカ人にトイレの場所を教えるためじゃなくて、われわれ人間が普遍的に持っている論理を、他の言葉を学ぶことによって知ることが大事なんじゃないかなと思っています。入試がいろいろ変わっていくというような話もありますが、紛糾してまた元に戻りそうな感じです。ともあれ、今後、英語が世界中を支配し、言語の多様性が失われていくのではないかというのは、ひとつ危惧していることです。

ダーウィンの本は、「いかに多様性が生まれていったか」という本だと読んでもいいのかなと思う。そう考えると、せっかく出てきた多様性がまたなくなっていくということは、寂しいだけではなくて、そのことは私たちが持っている抵抗力を失わせることなんじゃないかと心配します。生物種の多様性というのも、いろんな動物がいるから、いろいろバランスが取られていて、ちょっとぐらい変化が起きても、いろんな動物がいて植物がいて、環境の変化をうまく受け止めて、生き物全体が生き残ってきて、変わっていって滅びていって、変わっていって……ということをしてきたのです。ところが、人間の影響によってそういう変化の仕方自体が多様性をへらす方向に変わっていくんじゃないか。人間の短期的な興味によって、興味というのはつまり利益とかですね、利益によって、どんどん変わっていくんじゃないかという心配をしています。

なので、ダーウィンから学んだことって、「生命とは変わりゆき滅びゆくもの」だから、その「変わりゆき滅びゆく」っていうことに抵抗するようなことを人間が今しているんじゃないかなっていう気もするんです。抵抗していいんだろうかって思うんだけれども、私たちにはできることはやっちゃうという性質がある。だから中国で遺伝子編集した双子を作った人は、きっとどっかで研究を続けています。世界的には、倫理的な判断ができないうちからそういうことをするのはけしからんと言われているけど、たぶん中国の科学界というのは、その人を牢屋に入れたりしなくて、どこか外に出ないですむようなところで研究を続けているんじゃないかなと私は危惧します。

その流れでいくと、生殖技術がどうなるかっていうことですけれど、たぶん須田さんもお話ししたのかもしれませんが、私は生殖技術というのも、基本、子供が欲しいという方が子供が得られるような技術というのは、反対することが難しいでしょう。だから、どんどん進んでいくでしょうね。そのことで生殖技術に興味があるというよりは、自分の名声を上げるのに興味があるような人もどんどん、そういう研究をしていくでしょう。そうすると、たぶん人間の人工的な繁殖というのができて、雄と雌がいなくても、もしかしたら子供を作れるかもしれない。でも、そんなに甘いもんじゃないというのを長谷川先生もおっしゃっていたけど、iPS細胞で確かに卵子も作れる、精子も作れる。だからといって、それで受精卵を作って、そのまま健全に発育していくのかというのは、まだわからないわけです。わからないし、その過程でたくさん倫理的な問題が起こり、「生命が変わりゆき滅びゆくもの」だというダーウィンの原則が壊れていくんじゃないかなっていうことを心配します。

●意識、永遠の命

もうひとつの心配は意識についてです。意識というのは、このまえ私の講義で「哲学的ゾンビ」っていう話をしましたけれども。自分の心しかわからないのです。「われ思う、ゆえにわれ在り」(デカルト)なんですけど、自分の心しか本当はわからない。自分じゃない人たちの心は類推で理解していくし、動物たちの心も類推で理解していて、それで、まあわれわれはうまくやっているんですよね。それなのに数年以内にAIに〝意識〟を持たせて、その〝意識〟を持ったAIが株の取引きをしてお金儲けするようなことを言っている人もいるわけです。意識を持たせるということはどういうことなのかって、もっと考えてほしいなと思うんですね。

あと、「私たちはいずれ永遠に生きるようになるだろう」っていうことを言う人もいるけれど、まず宇宙が永遠ではないので永遠に生きることはないと思います。私たちが永遠に生きるために脳の情報を全部スキャンして同じものを作ればいいと言っている人はいますが、脳の情報というのは非常に膨大で、何兆単位の神経細胞がその何倍ものつながり方を作っているんです。工学的に「同じものを作る」といえば確かにできそうな気がするんだけれど、「同じもの」はたぶん作れなくて、「同じもの」を作ろうとするうちに脳自体がどんどん変わっていってしまうから、同じものは作れません。簡単なのは、双子がいても同じ意識は持っていませんよね。これは環境との相互作用でどんどん変わっていくのと、遺伝子の読み出しのメカニズム=エピジェネティクスというものもどんどん変わっていくからです。だから、コンピュータ上に自分の意識を乗せることは、「論理的に可能だ」といっても、資源が有限ですから、時間と資源の問題でたぶんそれはできないと僕は思っているんです。みなさんも意識を作るとかいうベンチャーにお金を出さないで、私たちの基礎研究にお金を出してくれるほうがいいかなと思いますね。

われわれはこれからどうなるか。僕、アメリカの大学院にいて、生物系の研究室だったんですけど、その中にも創造説を信じている人がいたんです。びっくりするじゃないですか。いろんな動物の脳の比較をしている研究室の中に「脳の比較をするのは何のためだと思う?」とかいきなり言われて、「それは神の計画を知るためだ」って言うんですよ、その人は。ちゃんと研究してた人なんだけど、ただ神の計画を知るためにそんなことをしてるのかって、逆に寂しいなと僕は思ったんですよね。アメリカの人口の半分から3分の1ぐらいの人は依然としてそういうことを考えていて、最近、ドナルド・トランプが再選されたくて演説でそれに近いことを言ったというニュースがありました。日本の教育が、教育の自由の名のもとに進化論と創造説を並行して教えるようなことをしていないのは良かったと思います。何を信じるかってもちろん選択なんですけれど、私たちがこれからどうなるかを考えるときに「神」という答えは安易すぎると思うんですね。

今年(2019年)のノーベル物理学賞は、太陽系の外にある恒星系にも惑星がどうもあるらしいっていう研究が取りました。つまり、地球じゃないところにも生命があって、そこでも意識が芽生えているかもしれません。でも生命があって意識が芽生えているのであれば、ダーウィンの原則はその星でも当てはまっているのではないかなって思います。一方、これから人工知能が人間に置き換わっていくと言う人もいるけれど、人工知能が論文を読んで要約しても、なんでそれがおもしろいんだろうって思うよね。だって、留守番電話が始まったときも思ったんですけど、留守番電話にメッセージを入れて、返す人もまた留守電に入れておく。あれ、何がおもしろいんだろうって思うわけですよ。それと同じっていうのは変な言い方だけど、そうやって研究が進んだとして何がおもしろいのかなって思うわけです。人工知能で〝意識〟ができるって言っている人もいるけど、一方で、意識がなくたって情報処理だけできればそういう機械はどんどんできていくだろうと言う人もいる。『サピエンス全史』著者のユヴァル・ハラリが、その次の『ホモ・デウス』という本でそんなことを言っていますよね。われわれが「意識を持っている」という状態にあるのはなぜかというのを、私としてはダーウィンの教えのもとに考えていきたいなと思っています。そのためには、もしかしたら私が生きているうちに宇宙から何か来て……。でも宇宙から何か来たら絶対に敵対的な関係しか持てないんじゃないかなって思うんだけど。
奥本:あまりに人が良すぎる。
岡ノ谷:私たちが「人がいい」ように進化しちゃったから、そう思うんだよね。というわけで、とりとめもない話でしたが、ダーウィンの原則というのはたぶん宇宙中に広がっているかなと思っています。

●動物の「心」と教会

長谷川:では、残りの時間でいろいろ茶々を入れたいんですけど。まず奥本さん、何か?
奥本:さっきおっしゃった、言葉が多様性を失っていくという話ですけど。もうすでに日本だって方言が消えていって、どこの田舎へ行ってもみんなテレビ、ラジオで聞いたような流行語を使っていますよね。どこかで聞いたような言葉ばっかり。ツルツルになってきていますよね。それが集約。日本語の中に英語の語彙もいっぱい入ってくるんですけど、でもまあ安心なのは、日本人は外国語下手ですから、文化侵略されることはないと思いますね。外国語が下手というのは、独立を守るひとつの大きな武器だと思っています。そうでなければ、戦後もう英語になっているんじゃないですか、と思いますね。
長谷川:ダーウィンはファーブルに手紙を書いたときに英語で書いたんですか?
奥本:そうです。
長谷川:で、英語で返事が来たんですか?
奥本:ファーブルも英語を勉強したりしているんです、けなげに。
長谷川:じゃあ、田舎の先生で、英語は読めたんですね?
奥本:勉強したんでしょ。普通フランスの田舎にいれば、英語なんかいりませんからね。
長谷川:いりませんよね。私、1992年にシャブリの村に行ったときに絶対フランス語しかできないだろうと思って一生懸命用意していったら、シャトーのおやじが英語で来ました。
奥本:それは、商売ですから。ワインでしょ。
長谷川:そうなんですよ。ワインを売るためにシャブリのシャトーのおやじも英語をしゃべるようになったっていうのが……。
奥本:やる気になれば文法はほとんど同じようなもんですから、単語を置き換えればいいわけで。

長谷川:ダーウィンって、意識のことって書いていませんでしたっけ?
岡ノ谷:たしか『人間の由来』、長谷川先生が訳された本にちょっとだけ触れていると思います。
奥本:その前に動物に心があるっていうのは、カトリック教会は許さないでしょ。
岡ノ谷:今は許すんじゃないかな。
奥本:今はね。18世紀以前だったら、下手すると火あぶりじゃないですか。
岡ノ谷:そうですね。ダーウィンの頃だと許されなかったかもしれないけれども、ほんのちょっとだけ書いてあったと思いますよ。
長谷川:私、自分で訳したのに忘れちゃった。下等な動物から人間の能力が出てくる仕組みについての章なんですね、それ。
岡ノ谷:そうです。ダーウィンは意識と言わず、感情と言っている。
長谷川:感情の問題ね。うん、感情はいいですよね、感情は。
奥本:犬なんか、人間よりずっと気配が読めますよ。
長谷川:クレバー・ハンス(19世紀末から20世紀初頭、ドイツにいた「賢い馬」)もそうですよ。馬さんだって人間の無意識の微妙な表情を読み取って、2+2は? って聞いたら、トントン、トントンってやったわけでしょ。
奥本:そうですね。
長谷川:人間が感知できるのが、すべての動物の感覚ではないから。ダーウィンはそういうようなことをいっぱい見ていますよね。でも「意識」という言葉は使っていなかった。
岡ノ谷:たぶん「感情」と言い換えることによって教会の怒りを買わないようにしていたんじゃないかな。「感情」っていうと、みなさん、何ですか、感情って?
長谷川:怒りとか?
岡ノ谷:ですよね。感情っていうとね、一応外から測定可能なのね。でも、意識というと、また違うわけ。だから感情。ただ文脈的には、ダーウィンは意識の話がしたかっただろうなと思います。
長谷川:そうですか……そうですね。
奥本:ダーウィンのまわりを取り囲んでいる親戚とか、教会でも何でも、えらい人ばっかりでしょ。本当は進化論は最後まで発表したくなかったんじゃないですか。それで持ち帰ってきたものを、ああでもない、こうでもないって、ずっといじっているのが楽しかったんでしょ。ウォレスが論文を書かなければ。
長谷川:そこでウォレスですね。
奥本:ということだと思います。ダーウィンぐらい楽しんでいる人はないと思うんです。
長谷川:暇とお金があったしね。
岡ノ谷:でも、書き物を並べてみると、よくこんなに書いたなって思うんですよ。
奥本:手紙は今のメール以上でしょ。
長谷川:そう。何巻でしたっけ、手紙の本? 私、6巻くらいまで買って、諦めました。きりがないし、読めないから。
奥本:プロがそんなことを言ったら、買い支えてくれる人がないじゃない。買ってあげないと。長谷川先生が買わなくてどうするの。
長谷川:でも、ほんとに、あの当時メールなんかなくて、手紙を書いて、投函するのにポストに行くまで20分歩かなきゃいけないとか、そういうところで。投函した先の船便がどこかに着くまでに6ヵ月かかって、というようなことをやりながら全世界にダーウィンは手紙を書いて、質問をし、実験を提案しってやっていますよね。
奥本:筆まめダーウィン。それと、よく歩きますね、若いときから。毎日毎日、何十マイルと歩いています。
長谷川:集中力と持続力。そういうのが、どんどん機械によって短くなってきている気がします。
岡ノ谷:しますね。メールは何が良くないかというと、返事を書かないことが怒りの表出と勘違いされるんですよね。「返事、来ないんだよ」とか、怒るでしょ。
奥本:「既読」って。
岡ノ谷:でも「読んだわりには返事来ないじゃん」って。とにかく「すぐに餌がもらえないと何もできない」っていうふうになっちゃっているんですよね。ダーウィンなんて、「餌がもらえる」かどうかわからないのに。長い手紙を書いて、20分かけてポストに行って、本当に着くかどうかわからないその手紙の返事をずっと待っていた。
奥本:ミミズが這ったみたいな字の手紙を書いて、そのうちにミミズの研究をしようと思ったとか(笑)。

●人間と機械の学習のちがい

長谷川:その忍耐力と、期待に対してすぐに報酬がなくてもずっと続ける持続力みたいなのは、どんどんメールで破壊されていると思いますね。最初のときに言ったっけ? トーマス・ヘンリー・ハクスレーの奥さん、ヘンリエッタと結婚したときって、最初にハクスレーが軍艦に乗って世界一周の5年間か6年間の旅に出るとき、最初に寄港したシドニーで出会った女の人なんですよね。そこでヘンリエッタと出会って恋に落ちて「結婚しようね」と言った。でもその次の週に軍艦は出ていって、イギリスに帰り着くまでに5年くらいかかる。その間、ずっと手紙を船上からシドニーに。そして、シドニーから寄港するはずの港の軍艦へってお互いに手紙のやりとりをして恋をつないで、帰ってきてからまた……。
奥本:船の上でほかにすることないし。
長谷川:いや、でもね、ヘンリエッタはすることあるでしょう? シドニーに住んでるんだから。
奥本:来るから、しょうがなくて返事書いた。
長谷川:今のメールで、「5秒後に返事が来なかったら友だちじゃない」とかいう人たちと、この感覚のズレっていうのはすごいと思いますね。
岡ノ谷:内発的動機づけという心理学の言葉があって、それは、すぐに餌をもらえなくても、「長期的にこういうことを達成したい」ということを「餌がわり」に、われわれは仕事ができていたんですよ。そういう修行がだんだんとなされなくなっていますよね。
長谷川:そうするとね、何かで読んだんですけど、マーティン・リース(物理学者)の本だったかな、AIに教える機械学習のやり方って、機械だから何万回と学習チャンスがあるわけですよね。だけど、その何万回に必ず明白な「餌」が来るんですね。「これは正しい。これは正しくない」っていうのが、機械が学習していくその何百万回やっても何千万回やっても、機械ですからやればいいんだけど、その一回一回に必ず「はい、それは正しかったです」「はい、それは正しくないです」と確実な答えが来て強化されて学習する。だけど人間ってそうじゃないんですよ。人間の学習は、必ずそれが確実に良かったというふうにはわからないし、もしかしたら半分ぐらい良くなかったのかもしれないけど、「まあまあ、自分は満足したかな」っていうくらいのことは「このへんに覚えておこう」みたいな、そういう学習の仕方で人間は、曖昧なところをいっぱい持って、報酬が確実というわけではなく学習するから、いろんな状況に応用可能な学習になるでしょう? だから私、結局、そういう1対1の確実な報酬ということしかできない機械学習は、人間みたいな脳のネットワークを生み出さないのではないかと思ったの。ところが人間がそうなることによって、「機械と同じになっていく」シンギュラリティー(人工知能が人間の知能を超える)は来るかもしれないという気がします。
岡ノ谷:そうですね。人間が逆に機械に近づいていっちゃって、「すぐに返事が来ないといやだ人間」になっちゃうと困りますね。
長谷川:我慢しない人間になって、良くないことばっかりになりそうですね。というところで、50分たちました。また続きは後ほど。ウォレスのお話を次にやりましょう。ありがとうございました。
(休憩)

●「ウォレスの進化論」

長谷川:では再開したいと思います。ここからは、ダーウィンを学んで、ダーウィンを知ったことを通じて、これからどういう社会になるのか、私たちはどういう人間になるのか、どういう世界になるのかという話をしたいと思います。その前に、アルフレッド・ラッセル・ウォレスのことをぜひ話していただきたいので、まず奥本先生、ウォレスの話をお願いいたします。
奥本:19世紀のイギリスで、イギリスの自然だけ見ていたのではわからないのかもしれないけれど、世界を回って生物の多様性を見ていると、進化論を思いつくのは時間の問題だったんじゃないかという気がします。もしキリスト教という大きな壁がなければ、同時多発的にいろんな人が思いついたんじゃないかと。特に日本人は思いつくんじゃないですか? たとえば、明治の初めにエドワード・モースという人が来て、日本で進化論の講義をしていますよね。そのときに集まった聴衆が、みんなすんなり聞いて拍手してくれた。なんて素晴らしい知的な国民だろうって、モース、たしか『日本その日その日』に書いていると思います。日本人としては、進化論は当たり前ですよね。だってニワトリでも、金魚でも鯉でも何でも飼ってて、いいのだけ選んでいけば、思ったように変化していくじゃないですか。あれ、飼育している動物の進化ではないんでしょうかね。ついでに言えば、メンデルの法則だって、子供が親に似ているのは当たり前で、これもすんなりと日本では納得されるんじゃないかというか、みんなが気持ちの中に持っていたんじゃないかという気がします。しかし、ヨーロッパではそうではなかった。それはやっぱりキリスト教の創造説があったから、怖くて言いだせなかったということもあるでしょう。考えることさえ、怖かったんじゃないでしょうかね。

ダーウィンは、いい家の地主の息子みたいないい境遇で、特に働かなくてもいいけれども、体裁があるから医者になるか牧師になるか、何かになれと言われたわけですね。でも血を見ると卒倒しそうだし、医者にはなれないというようなタイプで、そのうちビーグル号の話があって、それに乗って世界をまわります。そして、進化論を思いついて、ああでもない、こうでもないと、本当に博物学三昧の日を送っていたんじゃないでしょうか。博物学というのは枚挙の学問と言われますけれど、いろんなものを取り出して、共通するものとか変わったものとかについて、あれこれ考える学問ですね。そうやって時間を過ごしているうちに、テルナテ島という島からウォレスという聞いたことのないやつが自分のところに論文を送ってきた。その内容を読んでみると、自分の考えていたことと基本的に同じなんですね。これはいかんというので、ハクスレーとか仲間たちが集まって、ウォレスとダーウィンの理論を同時に発表するということになったのです。

写真はウォレスの肖像です。身長は2メートル近くあったらしいですね。ずいぶん大きい。ウェールズの人らしいですが、この名前がそうなんですね。大きなヒゲの人で、はじめベイツという友だちと一緒に南米に行きます。南米に行って、鳥とか獣の剝製とか、昆虫とかを採ってはロンドンに送るわけです。そうすると、スティーブンズという人が売りさばいてお金を送ってくれる。ただ、南米に2人いると、同じものを採って別々に送ったりすることになるので、ウォレスは「じゃあ、俺はインドネシアに行く」ということになります。その頃は「オランダ領東インド」なんていってましたけど、マレー諸島という名前もついています。インドネシアの島々、名前わかりますでしょうか? 地図の赤いのは火山の分布らしいです。ジャワとかスマトラ、ボルネオ、いろんな大きな島があります。今、人口も多くて巨大な国家になっていますね。いろんな島に彼は渡っていって、極楽鳥を採ったりします。極楽鳥が一番の収穫です。新種がいるんですから、まだ。そんな時代です。昆虫もさんざん採取します。日本では南に進む南進論が盛んになりまして、インドネシアのパレンバンで石油が採れるとか、そういう時代。日本も南方諸島を自分の領土にしようという意気盛んな昭和17年頃に、ウォレスの『馬来諸島』が翻訳された。はじめ『南洋』というタイトルで翻訳され、すぐに版を重ねて『馬来諸島』になった。著者は「ウォーレス」と書いてあります。いまは、若くして亡くなった新妻昭夫さんの翻訳で、いい注釈もいっぱいついたのが、ちくま文庫から出ています。これが一番読みやすい、手に入りやすい翻訳書だと思います。写真のカエル(ツリーフロッグ)って、進化の結果なんでしょうか。標本を持っていますけど、指の間の膜が発達して、木の上から飛び降りるとか、空中を浮遊してショックなく着地できるんだそうです。
長谷川:これ、「ウォレスのツリーフロッグ」って、ウォレスの名前がついているやつですよね?
奥本 はい。ワラストビガエルですね。ちくま文庫には「オランウータンと極楽鳥の土地」というサブタイトルがついていますけど、オランウータンの標本を採るためにずいぶん撃ち殺しています。いろんなものを採集するわけで、大きい鉄砲、小さい鉄砲、いろいろ持っていたと思います。オランウータンを撃つのは嫌だったと思いますけれども、採集して大きな樽の中で煮て、肉を取って、骨格標本を送るんですね。結構しんどい仕事だと思います。ボルネオで、世界で誰も見たことのない新種のチョウチョを発見します。オルニトプテラ。「オルニト」が鳥で、「プテラ」が羽ですね。まるで南米の鳥キヌバネドリの羽を敷いたような、鳥の翼みたいなチョウチョだというので、オルニトプテラといいます。次の写真はブルッキアーナ。その当時、マレー諸島に、イギリス人で海賊退治をして藩王=ラジャに任命された、ブルックという人がいます。その人の名前をとって、ブルキアナ。ブルックのトリバネアゲハという名前をつけています。これは珍品で、なかなか採れない。雌はもっと採れない。雄2000匹に雌1匹ぐらいの割合でしかいないんじゃないかというんですが、マレーシアにキャメロン・ハイランドというところがあって、川に温泉が湧いているところがある。そこの温泉成分を吸いに地面にこのチョウチョがいっぱい集まっています。指でつまめるぐらい、いくらでも採れました。今は採集禁止ですけど、昔は75円でした。はじめ2万円ぐらいして、それから1万円になり、1000円になり、75円ぐらいになる。ほんとにいくらでもいたんですけど、絶滅危惧ということで採集禁止になっています。キャメロン・ハイランドは別荘地に開拓してどんどん木を伐っているけれども、採集はさせない。標本がないままに絶滅するかもしれない。うちにたくさんあります。自慢じゃないですけど。
長谷川:私もひとつ持っています(笑)。
奥本:裏がこれです。体は赤いんですね。これを採ったときの話、読みますか?
長谷川:『マレー諸島』ですね。

●次々に新種を発見したウォレス

奥本:はい。ここですね……。たくさんカミキリムシが採れたんです。「優美な形態と長い触角が特徴のカミキリムシ類はとくに多く、合計で三〇〇種近くを採集し、その九割はまったくの新種であり」って、すごいですね。ウォレスは、自分のような人間のために神様が饗宴の場を用意しておいてくれて、そこに自分がまっさきに到着したんだって言っています。楽しかったと思いますね。「チョウ類のコレクションはさほどでもなかった。しかし稀少種や美麗種を捕まえ、なかでもとくに注目されたのは既知の種のなかで最高に華麗なアカエリトリバネアゲハ(Ornithoptera brookeana)であった」と。「この美しい生きものは、翅が非常に長く尖り、形状はスズメガ類によく似ている。深いベルベット状の黒色で、燦然たる金属緑色の斑点が並ぶ湾曲した帯が翅の端から端まで走り……」と。そうですよね。「それぞれの斑紋は小さな三角形の羽毛に似ていて、メキシコキヌバネドリの翼の雨覆羽(アマオオイバネ)を黒いベルベットの上に一列に並べたように見える。(中略)私がブルック卿にちなんで命名したが、非常に数が少なかった。伐採地を素早く飛んでいるところや、水たまりや泥地にほんの一瞬止まっていたりするのをときどき見かけただけだったので、私は数頭の標本しか捕獲できなかった」。珍品で立派でうれしかったと書いてあります。ウォレスは鳥よりもチョウチョや昆虫が好きだったんじゃないかと思いますが、次々に新種を発見していきます。

次の写真が、トリバネアゲハの雌です。雄2000匹に雌1匹というのは噓で、同じぐらいの数いるんですけど、いる場所が違うんですね。花のところにいると、いくらでも採れます。次はオルニトプテラのポセイドン、ミドリメガネトリバネアゲハっていいます。ポセイドンアドベンチャーのポセイドン(海神)ですね。島によって青になる。ソロモン諸島では、アオメガネトリバネです。写真の汚いのが雌です。でかいんですね。破れた雑巾が飛んでいるみたい。雄が緑色のきれいなやつで、雌がこういう大きな姿をしていて、性的二形というか、セックスによって型がまったく違うものの良い見本ですね。インドネシアのハルマヘラ島とかバチャン島に行くと、今度はオレンジ色になります。これもまったくの新種でして、これを狙って、見つけて、やっと採って、その晩卒倒しそうになって熱が出たという有名な場面があります。また縁があったらお読みします。こういうものをウォレスは採っておりました。写真は、赤いメガネトリバネアゲハの雌。次は、大きなカミキリ、日本のシロスジカミキリの数倍あるような大きなやつがインドネシアにはゴロゴロいます。こういうのを採るには、ジャングルの木を伐採して空き地を作ってくるんです。そうすると、伐られたばかりの木の発散する匂いに惹かれて、卵を産みつけるためにこのカミキリムシがわんさと飛んできます。カマキリ、タマムシ、いっぱい来ます。写真の標本には、(インドネシア)アルー諸島のラベルがついています。

私のファーブル昆虫館にこういう箱が3000箱あります。そろそろ断捨離しなきゃいけないんですけど。冗談じゃなくて、本当に。どうしたらいいんでしょうね。日本の博物館は、スペースもないし人手もないので、受け入れてくれません。みんな断られますし、私のところにほかの人が「預かってくれ」と言って持ってくるので、途方に暮れているところです。あと5年ぐらいの間に解決しないといけないんですけど、なんとかなりませんか(笑)? 次の写真のシロスジカミキリの仲間にウォレスの名前がついています。ウォレスシロスジカミキリ。その次は、ニューギニアの昆虫。クワガタとかタマムシとか、いろいろあります。きちんと足を揃えると、きれいでしょ?

次の標本はもっと細かくて、もっときちんとプロの仕事です。昔は、昆虫浪人というのがいまして、大学を卒業したりなんかした後、定職につかずに昆虫関係の仕事ばっかりやっている。そういうなかに、すごく腕のいい標本制作をしてくれる人がいました。ただし性格が悪くて、ときどき標本を盗むので、本当に良し悪しでした。次はホウセキゾウムシという名前で、ニューギニアです。これも基本的な形があって、それが本当に無限に分かれていくんです。まだまだ種類があります。こういうのを見て、ウォレスは自然はなんと多様なんだろうと感心して、毎日毎日見ているわけです。そして、マラリアの熱にうなされているときに、進化論の理論を思いつきます。そして、バーッと書いて、ダーウィンに送った。それで、ダーウィンがびっくりしたというわけです。次は、(インドネシア)セレベス島にいるバビルサという。バビが豚で、ルサが鹿ですね。鹿豚っていうんですかね。なんでこんなツノが伸びているのか。暴走進化という言い方もありますけど、下から伸びたツノが脳みそを突き破りそうになって生えてきます。こんなの、まったく役に立たない、邪魔になるようなツノですけど、それぞれに理由があるんではないかとダーウィンも考えるわけです。以上、ウォレスの話はこんなもんにします。

長谷川:ありがとうございました。ウォレスという人も、本当にすごく貢献をしたはずなんだけど、何かひとつ、日陰になっちゃいましたよね。そのへんは階級ですかね?
奥本:ダーウィンが立派な階級の人であって、ウォレスのような階級は引き下がらざるを得なかったようなところはありますね。遠慮したというか。ヨーロッパを通じて、いろんなところでそういう現象が見られます。フランス文学でいえば、アルチュール・ランボーなんていう人も、階級の壁にぶつかって、バカヤロウってやめちゃうんですね。
長谷川:あの当時の明確な階級差っていうのが、論理的なことで勝負する自然科学の学問の世界にも、やっぱり影を濃く落としていたということでしょうね。
奥本:そのかわり裕福な家に生まれた人は簡単に人が雇えるので、たとえばダーウィンの昆虫採集でも、人を雇って集めさせておくとか、船の中のゴミを集めて大きな袋に入れておいて、そこから出てくる虫を採るとか、そういうときに人手はいくらでも使っています。いい家に生まれた人にとっては、便利な時代だったんじゃないでしょうか。
長谷川:そうですね。今は科学研究費で人を雇うのも大変ですもんね(笑)。

●ウォレスに対するフェアな扱い

岡ノ谷:渋谷に志賀昆虫っていう店があったけど、あれって、まだやっているんですかね。
奥本:よそに移りましたけど、あれはね、明治36年に志賀卯助さんっていう人が生まれまして、上京してきて、大正15年でしたかね、駒場の前にあった平山昆虫標本製作所というところで丁稚修行をして、それから独立したのがあれです。志賀昆虫普及社って、意味がわからない名前でしょ。
岡ノ谷:でも、そこに行くと、きれいにできた標本とか、いろんな捕虫網とか売っていましてね、おもしろいところでしたよ。
奥本:剝製があったでしょ、コウテイペンギンの。
長谷川:なんか、かなりオタクっぽくなってきました(笑)。
岡ノ谷:はい、ダーウィンですよね。ダーウィンって、上流階級なのにウォレスから手紙をもらって、なんでそんな焦ったんですかね?
奥本:発表されちゃうと先取権がないから。特許権みたいなものじゃないでしょうか。
岡ノ谷:やっぱり先取権って重要だったんですか、ダーウィンにとって。
奥本:「2番じゃいけないんですか」って、ありましたね(笑)? 2番じゃ特許を取れないですもん。
岡ノ谷:ウォレス自身は、どうでも良かった? それとも、自分の階級からして、自分の名前では出ないだろうと思っていたんですか?
奥本:それはどうでも良かったんじゃないでしょうかね。
長谷川:でも、これをダーウィン先生を通じて学会でちゃんと発表してくださいというふうに言ったんですよね。手紙があったんですよね。それで、ダーウィンも青ざめたけど、まわりがずいぶんびっくりしていますよね。そのときに、ダーウィンを含めてまわりを取り巻いている上流の中枢にいる人も偉かったと思うのは、握り潰さないで、変なこともしないで、共同論文発表に持っていったこと。
奥本:その点はフェアですよ。
長谷川:ね、フェアですよね。あそこは私、すごく感心しました。

●昆虫館が「気持ち悪い」か?

岡ノ谷:ところで、昆虫少年というのがそんなに見られなくなり、昆虫はデパートで買うものになってしまいましたね。
奥本:昆虫少年もそうだし、野球少年も減ってますし、将棋少年も減ってますね。何が増えているのかな。ゲーム少年。
長谷川:ゲームでしょ。そういえば、多摩動物園に昆虫館ってあるでしょう? あそこで亭主に会うために昆虫館の前に立っていたら、結構来なくて20分ぐらい待たされたら、その間にカップルやらお子さんやらが通る声を聞いちゃったんですよ。そしたら、みんな、昆虫館で「きゃあ、気持ち悪い!」で、出ていっちゃう。まず第一に「気持ち悪い」っていうのと、「嫌だ!」っていうのがほとんどだったんですね。いつの間にああなっちゃったんだろう。
奥本:いつの間にか。マンションにみんなが住むようになって、隅々まできれいで明るくなったでしょ。昔の家みたいに廊下の隅にトイレがあって、そのへんが暗くてお化けが出そうだった。虫もいっぱい出た。あれが当たり前だったけど、それがなくなってからですよね。ファーブル昆虫館に来る親は好きな人ばっかりです。イモリなんか、1匹500円で売ってるんですけど、お母さんが「かわいい!」とか言うと、子供はすぐ「かわいい!」って言いますね。お母さんが「気持ち悪い」って言うと、もう決定的です。
長谷川:そうですね。
岡ノ谷:最近は俳優の香川照之さんが、知ってます? カマキリ先生。『昆虫すごいぜ!』っていうテレビ番組をやってるんですね。それがたぶん子供たちと昆虫との唯一の接点になっている。われわれ人間は、そもそも博物学的な興味というのは、みんな持っているんですよ。それが、ポケモンに乗っ取られてるなっていう気がする。あのね、うちの子はハムスター飼ってるの。でもね、ハムスターの世話をするよりポケモンの世話をしている時間のほうが長い。だから僕はほんと残念で、自分の子供だったらポケモンよりハムスターのほうが好きだと思ってたら、ダメですね。
奥本:僕はフクロモモンガというのを飼ってまして、さっきのウォレスの表紙みたいなやつ。夜中の3時ぐらいに僕の話し相手になってくれるのは、あいつだけ(笑)。
岡ノ谷:今、飼ってらっしゃるの?
奥本:はい。方法は簡単で、世話しないの。
岡ノ谷:僕もハムスターの世話してます(笑)。つい、こういう話に走りがちです。

●スマホの支配からいかに逃げるか

長谷川:あと15分。これから人間はどうするのか。私たちはどこに向かうのか、という話をまとめないといけません。
奥本:人間は退化すると思いますよ。だって便利な機器……たとえば、ナイフが手に入ったら犬歯は衰えたんじゃないですか。紙と鉛筆ができたら、ユーカラとか古事記とか、ホメーロスだのの叙事詩を誰も暗唱できなくなったでしょ。
長谷川:機械の発展というのは、ほとんど人間の身体能力の増強だから、その身体能力を使わなくていいように進歩したわけですよね。
奥本:スマホとパソコンができたので、もう字も書けなくなったし。
長谷川:そう。外部記憶装置ができたので、自分のいろんな関係の電話番号だって昔は覚えていたけれど、今誰も覚えていないでしょ。それでも生きていける時代になったので、記憶容量みたいなこととか、字を覚えて反復する能力とかいらなくなってきたんですよね。
奥本:未来の作家の記念館なんて、何を飾るんですかね。
長谷川:パソコン。
奥本:パソコンか。そのまえはワープロとかですかね。
長谷川:ワープロ……見てもおもしろくないですね。
岡ノ谷:万年筆じゃなくてね。
奥本:その前は万年筆と原稿用紙でしたね。
長谷川:原稿用紙に手書きで吹き出しになっているようなのが、ありましたけどね。
奥本:そうそう。
岡ノ谷:ギリシャ時代、ソクラテスは書かなかったでしょ。書き物を残すと堕落するとかで。
奥本:偉い人は書かないんです。
岡ノ谷:二宮金次郎は、本を読みながら歩いているでしょ。あれは、危ないですよね。スマホ見ながら歩いているのも一緒で、もちろん機械は変わっていくけれども、創造的な人っていうのは常にいるんじゃないかなと思うんだけど、どうですか?
奥本:だけど、早い話が、スマホを忘れてきたら、みんな取りに帰りますね。誰か悪いやつのところにスマホを忘れてきたら、魂を裸で置き忘れてきたみたいに、不安でしょうがないんじゃないですか。まるで、われわれ全部入っているというような存在です。
岡ノ谷:ピクサーが作った『ウォーリー』っていう映画だったかな。ゴミ掃除ロボットが1輪の花と恋をするんですけど、その頃人間がどうなっているかというと、浮かぶ車みたいなものに座って、ぶくぶくと太り、きちっと私も見てないんですけど、ずっとNetflixを見ているという、そういう状態。すごいやばいなと思いました。選択肢というんじゃないですよね、こう、ある方向に力が来ちゃうと。
奥本:スマホの支配からいかに逃げるかですよ。
岡ノ谷:そういうところから逃げるところで、創造的な人が出てくるといいなと思います。
奥本:逃げられないと思うんですよ。
岡ノ谷:そんな悲観的なことを。
奥本:いま来たこの道通りゃんせって言われても、帰れないんですから。
岡ノ谷:帰るんではなくて、そういうものがあることを前提とした創造性のあり方っていうのは、あるのでは?
奥本:ごまかしじゃないですか(笑)。
長谷川:どうして、スマホでも何でもここまで広まって、あっという間にこういう状態になるかといったら、いいところに目をつけて売れるものを作った人がいて、それを買っちゃう人がいる。両方いるからですよね。そういうことをする動機が金儲けなんです。貨幣という、よくわからない抽象価値があって、それを信じて、1万とか1000とか書いてあったら何にでも使えるという、抽象的な価値としての貨幣が蔓延したことによって、私は人間性がひん曲がったんだと思うんですよ。もし、物でやっていたら、物には用途があるから、それ以外は使えないでしょ。金貨とか物とかで持っていたら、永遠に持っておくことはできないでしょう? 腐ったりするでしょう? ところが、紙幣はコンパクトだし、しかも銀行預金だったら数字だけなので、何兆円あろうが問題にならないんですよ。それで、それがすべての欲望の充実に使える抽象価値だから、人間はそれに絡め取られて、蓄財と強欲の世の中を自ら作って、そこから抜けられないんだと思うんですね。
奥本:それは作ってきたし、やっぱり国家は人間を管理するのにスマートシティーで、自動運転で、お金だって何に使ったか、誰と付き合ったか全部管理できるんだったら、それはそっちの方向に行くでしょうね。
長谷川:それをどうやって阻止するか。

●「生き物」でいたいか、「人でなし」になっていくか

岡ノ谷:阻止というか、「われわれは生き物でいたいのかどうか」っていう問題で、このままだと、これから「生き物」でなく「人でなし」になっていく。こういう講座に来る奇特な方たちは、スマホを忘れても動揺しないでしょうけれど、電子装置への依存を阻止するのは、僕は難しいと思う。そして、どこかの時点で「シンギュラリティー」じゃなくて「カタストロフィー(破滅)」が起こると思う。実際、やっぱり電子通貨って、それを保証するものが脆弱だと思うんです。結局は、いろんなところで潰れているじゃないですか。今の通貨だって実は脆弱で、プラザ合意ってやつがありまして、米国が出すドルが基準となってきたわけですよ、しばらくね。でも、これもやっぱりいつか、ああいう大統領が続いたりすると、どうなるかわからないですよね。だからわれわれは、ハラリが言ったように「われわれは虚構を信じて生きていて、その虚構を信じないとならなくなっちゃった」んですよね。その虚構を描く人たちが、GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)ではなくて、もっと生き物に寄り添った人たちが虚構を描くといいなと思っています。長谷川先生、描いてください。
長谷川:「いいなぁ」って言ってもねえ。虚構に絡め取られているのは、そのとおりだと思うんです。自由主義の貨幣の金融資本主義っていうのは、本当にひとつの空想ですよね。それをみんなが信じているからこそお金でまわっているわけです。右肩上がりで増え続けないといけないのが今までの資本主義だけど、人間も生物なんだから、生命現象としてずっと指数関数的に増え続けることは不可能でしょ。だから資本主義の発展も、絶対、動物のポピュレーションと同じで、増えたら一定、定常状態にいかざるを得ないですよね。そういう資本主義ができるのかできないのか、資本主義が持続可能で存続できるのかどうかって、今、いろんな人が言っていることにあるのではないでしょうか。
奥本:とにかく人間が増えすぎたでしょう? こんなに大型の哺乳類が、石を投げると人間に当たるぐらいいるわけですから、それがもうそもそも無理ですよね。
長谷川:人間の人口がどんどん増えて環境収容力の頭打ちになるところで、科学技術の発展によって、肥料を増やしたり、化学肥料をやったり、原子力エネルギーを使ったり、いろんなことをやったので、環境収容力(ロジスティック方程式のK)で人口は頭打ちになるはずなのに、そのKをどんどん人工的に上げてきたんですよね。でも、これも上がり続けることはできない。本当のところ、人間の大きさだと1平方キロに1.5人しか住めないんですけど、今は世界中を平均して1平方キロに44人住んでいるんだから、おかしいです。おかしいですよね。しかもこんなにエネルギーを使ってやっているということは、絶対、持続可能じゃない。貨幣経済、金融資本主義というのも、私、絶対、持続可能じゃないと思う。でも、どうやって……阻止はできないとしたら、阻止じゃなくて、どう?
岡ノ谷:カタストロフィーが起こる。
長谷川:カタストロフィーが起こる。みんなが不幸にならないように……。
岡ノ谷:ソフトランディングする。
長谷川:ソフトカタストロフィーにするにはどうしたらいいか(笑)。

奥本 人間というのは過去に学び、未来を予測し、あれこれ悩んでいるんですけど、虫はそういうことを、親からも友だちからも何も教えられていない。たとえば、アリがトコトコ歩いていると、いきなりマンホールの蓋のようなもの(ハンミョウの頭部)がバッと地面から持ち上がって、アリをグワッとくわえる。100分の1秒ぐらいですかね、ハンミョウがアリをくわえるのは。だから100分の1秒先の未来って、アリにはわからない。人間も、実は同じようなものじゃないんでしょうか。ひょっとしてお隣の国がバーンと何かを投げてくるとか、そういうこともあり得るし。
長谷川:私、人間の知能とか知性が、本当に持続可能かどうかっていうのはわからないと思うんです。だって、30万年しかいないんだもん、私たちの歴史。ホモ・サピエンスが出現したのは30万年前で、一番新しいタイプの哺乳類でしょう? この30万年の中でも、ずっと何万年かは、ほとんど道具が変わらなかったんですよね。石器なんか変わらなかった。25万年前にルヴァロワていう石器とか、ちょっといろんな種類が出てきて、後期旧石器時代のものもいろいろ出てきた。でも、たいした道具なんてなかったのに、最後の1万年で農耕と牧畜ができて、農耕と牧畜ができたから物を蓄えることができるようになって、一生懸命工夫すると明日は今日よりも良くなるということが始まっちゃった。狩猟採集民は、全然そんなこと考えていなくて、明日は今日より良くなると思っていないですよ。定常状態でいかに満足するかで、飢えるときは飢えてしょうがないよねと。
奥本:(今は)欲があるし、能率良くものを生産するとかいう、それができちゃったから。
長谷川:(当時はそういう)概念がない。
岡ノ谷:それって、必ずしも言葉のせいじゃないですよ。狩猟採集民だって言葉はあって、それでも定常状態で、幸せでいられたわけですから。
長谷川:そう。言葉のせいじゃないんですよ。定住生活したから。
岡ノ谷:そうか。固まっちゃったからですね。
長谷川:定住生活をして、食料の蓄えができて、頻繁に飢えなくなって、都市ができて、人が密集して住むと分業ができて……なんですよ。
奥本:また繰り返し。
長谷川:うん、また繰り返し(笑)。人がたくさん集まって分業しないと、こんなにいろんな職業があって、「私はここしかできないけれどあの人がやってくれるから、それをお金で買いましょう」みたいな社会は成り立たないじゃない? 狩猟採集社会は、150人ぐらいしか一時にいられないから、いつも150人もいられないですね。10人とか50人ぐらいが限度で集まって移動しているから、人々がお互いにいろんなアイディアを交換して分業してやることができないんですよ。それができるようになっちゃった定住社会の農耕牧畜社会から、私はこの不幸が始まったのではないかと思うんです。でも、不幸でもないんですよね、いろんなところでいいことはあったから。ああ、もう時間になりました。最後に希望的なことはないですか?

●「きれいごと」をシェアするのが教育

岡ノ谷:僕は、「われわれはちょっとおかしいんだ」っていうのは、わからなきゃいけないと思う。ホモ・エレクトスってやつは200万年ぐらい生きていた。僕らはまだたった30万年で、ほんとにどうなるかわからないけど、もうちょっと生きたいじゃないですか、みんなね。そのためには、われわれがいかに無茶をしてきたのかを進化生物学的に知っておく必要があり、そういうことを知っている人たちがもっと増えていけばいいと思うんです。なので、進化生物学を中学の必修科目にしてほしい。
奥本:だけど、いかに人を出し抜いて金を稼ぐかばっかり考えている人がいるわけでしょう? それは、ファイナルカウントダウンを避けられないですね。
長谷川:やっぱりファイナルカウントダウンですかね。じゃあ、いかに有終の美を飾るか。
岡ノ谷:そうですね。美しく消えていく。考えなきゃなぁと思いますね、人類の終活。
長谷川:いや、でも、生まれてくる赤ちゃんに「これから終活だよ」って言えないじゃん。
岡ノ谷:胎児にそんなこと言えないって、(産婦人科医の)増﨑英明先生に怒られちゃいますよね。
長谷川:私は、気づきはじめている人はたくさんいると思う。「何ができるか」じゃなくて「何をしたいか」、「どういう社会を持ちたいか」ということを描いて、バックキャスト(未来を思い描いてそこを起点に現在を考える)で、そこに向かっていかなきゃいけないということを言う人たちがいるんですよね。でも私、今の段階で、お金を持ちたい人とか、いろんな価値観があるなかで、「どういう未来を持ちたいか」ということでこれだけの人の意見が一致しないと思うんですよ。その一致しないところで、どうやってバックキャストでそっちに向かうって「きれいごと」が言えるのかねっていうのが……やっぱりきれいごとですかね。
岡ノ谷:そうですね。われわれの「きれいごと」を、みんなにシェアしたいです。それが教育だと思います。
長谷川:ダーウィンの教えてくれたことっていうのは、生命を考える上でものすごくいろんなことがあったと思いますので、みなさんこの講座を全部お聴きになった上で、今日の私たちの漫談を乗り越えて、ダーウィンの知恵をなんとか引き継いで、いい社会をつくっていく一助になればと思います。
奥本:ダーウィンの森に逃げ込みましょう。数的には少なくとも。
長谷川:少なくとも。はい。どうもありがとうございました。
河野:ありがとうございました。少し質問などを受けたいと思います。どの方に聞いても、おもしろい答えが聞けると思います。

●質疑応答

受講生:最後にお話しされたようなことを知りたいと思ってこの講座に来ました。ずっと人間はこれからどうなるのかなって思っていました。普通の一市民で学者でもないので、人間がもっと進化しないといけないのかなと思っていたんです。そうしないと、いろんなものがおかしくなっちゃうのかなとか思って。今ずっとお話を聞いていて、教育が大事だというの、すごくそう思うんですけど。今、普通に生きている私たちができることって何だと思われますか?
岡ノ谷:私たちは、コンビニに行って「被災地に寄付しよう」とか募金箱があると、寄付するじゃないですか。だから、「抽象的な人間」には優しいんですけど、「具体的な人間」にはむかつくんですよね。そこを、具体的な人間にも優しくしましょう。
長谷川:人間は、たぶん生物進化は今後そんなにできないですよ。速度が遅いからね。それより先に文化や技術の進歩というか、新しいものを自分たちの脳みそで作っていくほうが速いでしょう? 今の変化っていうのは、自分が生物的に進化して起こしたことじゃなくて、全部人間の脳の働きが次のものを考えついて、社会に広めて変わっていっているので。だから、生物進化はできないと思って、なんとかいい状態に、頭で考えて作らないとダメなんですよ。今までは短期的に個別の欲求を満たす方向で、車を作って楽に動けるとか、病気を治せるとか、そういうことをやって、あげくにたどり着いているのが、大規模環境破壊と、生命の改編と、AIだと思うんですね。今までよりも大きな影響を与えるから、これをどう使っていくというか、地球温暖化とか、環境破壊をどうやって止めるかも大事ですけど、結局、これらをどうしていくかということの岐路に立っていると私は思うんですね。それをどうやって、でもさっき言ったように、みんなが同じ方向は向かないかもしれないなかで、どうやっていけるか。それぞれのリーダーになる人が、自分の影響が及ぶ範囲の中で、みんなやっていったら変わっていくかな。
岡ノ谷:解決の方向について一致しなくても、人類が岐路に立っているという認識を一致させることはできて、その上でみんなが多様な解決を考えれば、少しはいいんじゃないかなと思います。誰かが一人で考えたことというのは危ないんだと思います。
奥本:少子高齢化、いいんじゃないですか。それでどんどん人口が減っていけば。セックスレスもいいんじゃないですか。だいたい日本だって、大洪水とか地震とか来るんでしょ。今の山を見たって、全部杉の林ばっかりで、大洪水でボキボキ折れて川に流れてドーンと橋げたにぶつかる光景、あれ見たって、もう心配しますよね。山は結局材木に使わなかったわけですから、放っておけばよかったんですね。広葉樹の林だったら保水力もあるし、根もしっかりしていて、あんなに洪水が起きることはなかった。山崩れも。何もしないのが一番じゃないか。それで人が減ったほうがいいですね。

河野:ほかに質問は? じゃあ、講師の増﨑さん。
増﨑:奥本先生が最初の頃にモースの話をされて、日本にモースがやってきて話をしたけれども、ほとんど日本人は反論もなくて実にスムーズに進化論を取り入れたというふうにおっしゃいましたね。
奥本:『日本その日その日』という本に、そう書いてあったように思います。
増﨑:日本にはキリスト教とか、それほど多くいなかったということと、もともと八百万の神みたいな考えがあって、そういうものも受け入れやすかったという文化があって、それほど反応しなかったというか、スムーズに受け入れたと思うんですけど、でも、創造論者でもないわけですよね。
奥本:そうですね。
増﨑:進化論者でも創造論者でもない。
奥本:いろんな新しいアイディアが来ると、あんまり抵抗しないんですね。そのかわりすぐ忘れますけどね。進化論も、あんまり発展はしてませんよね。
増﨑:たとえば、1549年にザビエルがやってきてキリスト教の本筋のカトリックを教えたら、日本はスムーズに取り入れて、あっという間に70万人とか信者が増えた。日本人の特殊性というか、昔から、何にでも適応できる、あるいは何でも引き受ける国民だったんじゃないかと思うんですよ。そしたら、日本にもし創造論が先に入ってきていれば、今も創造論者がいっぱいいて、むしろアメリカの「両方教えろ」って言っているような世界よりも、もっとスムーズに創造論を受け入れていたんじゃないかという気もします。
奥本:インドの神話とか中国の神話とか、いろいろ入ってましたから、それを振り捨てて新しい創造論を入れているかもしれませんね。あんまり何でも抵抗がないんですよね、日本の場合は。学ぶのが早いけど忘れるのも早い。
増﨑:そう考えると、お三人にお聞きしたいんですけど、創造論に反対できます?
奥本:創造論にですか? 反対って?
増﨑:たとえば、ファーブルは創造論者ですよね。
奥本:ファーブルは反カトリックですから。そういうときには何も言っていませんね。神も信じていないです。
増﨑:信じていない。じゃあ、本能をどう説明していたんでしょう?
奥本:本能は、神と全然違う。
増﨑:関係ないところで起きてきていると思っていたわけですか。
奥本:ファーブルは師範学校を出たんですが、師範学校は教育からカトリック教会の影響を切り離そうという非常に強い力です。カトリック教会と師範派とが、教育の場で綱引きをずっと繰り返しています。
増﨑:フランスはカトリックの国ですよね。そういう意味では、神学的にはちょっと外れたほうにいたっていうことですか?
奥本:まあ、そうですね。だけど死ぬときは秘跡を受け入れていますけどね。

増﨑:長谷川先生、どうでしょうか。進化論と創造論があって、創造説が先にあったから、それのアンチとして進化論が出てきたと考えると、もう一回、創造論を取り返してみれば、何か完璧に否定できることがあるんでしょうか。私は神様と関係ない人間なのでこういう質問ができるんですけど。
長谷川:私は神様話は納得できないです。
増﨑:なぜ納得できないかと聞かれたら、どう答えられるんですか?
長谷川:それは私の世界観というか、私が世界を理解しようというときには、自然界に起こっている因果関係で説明したい、というのが私の性質だから。
増﨑:よくわかります。おそらくダーウィンもそうだったと思います。
長谷川:だと思います。

増﨑:岡ノ谷先生、いかがでしょうか。
岡ノ谷:私、アメリカに行っていたときに創造説の信者の女の子を好きになってしまい、創造説の集会に行ったんですよ。その子は好きだったんだけど、やっぱり創造説は無理だなと思いました。というのは、いろんなこと言うんですよね。「ビートルズのレコードには悪魔のささやきが入っている。ビートルズのレコードを逆向きに回転させると悪魔のささやきが聞こえる」とか言って、みんなで「ああ、確かに悪魔のささやきだ」とか言っているわけですよ。それ以外にも、とにかく生物学的な事実を創造説で説明しようとするためには、論理の段階がものすごくたくさん必要で、科学的説明のほうが簡単なんです。だから、創造説よりも科学的な説明のほうを僕はとりたいと思っています。

受講生:岡ノ谷先生におうかがいしたいんですけど。シェイクスピア講座のときに、『言葉はなぜ生まれたのか』という本を紹介されたかと思うのですが、聞きたかったのは、岡ノ谷先生は動物を観察しながら、どういうふうにその動物を見ているのかなというか、その動物を観察していながら「言葉が」とか、意識のお話とかされていたかと思うんですけど、動物たちを通して、どんなふうに、どんなことを考えていらっしゃるのか聞いてみたいです。
岡ノ谷:私は、動物はコミュニケーションはするけれども、われわれと同じような意味において言葉を持っていないと考えます。持っていないです。けれども、彼らに僕らとは違うなんらかの意識状態があるというのも当然だと思っています。それで、私の意識状態とうちのハムスターの意識状態が、いったいどうやったらつながるのかなということには興味があり、だから言葉がどうやって生まれたのかには興味があり、しかし、それをあくまで進化論の文脈で理解したい。「(聖書の)はじめに言葉があった」とかじゃなくて、進化論として理解したいと思っています。
受講生:それは、はじめに言葉とか意識に対して興味があったというよりかは、動物を見ながら興味が出てきたっていうことなんですか?
岡ノ谷:そうですね。人間より動物が好きなんですよ。自分はどうしてこんなネチネチ考えているんだろうかっていうことを考えていたために、言葉がなんでできちゃったのかなということに興味を持ってしまったのです。そして、それがわかると、私たちと彼らがなんとなくつながるんじゃないかなと思っています。

河野:どなたか最後に。
受講生:難しい質問ができないんですけど、今まで見てきた生き物のなかで、この生き物の生き方をすごくいいなと思うのがいれば、教えてください。
河野:奥本さん、たくさんありそうですね。
奥本:ナマケモノとかね(笑)。しかし野生動物は辛いですよ。アフリカの草原だってなんだって。ライオンだってね、当たり前か、元気でハーレム支配する間は短いですもんね。だいたい5歳とか6歳で死ぬわけでしょう? 人間だったら40ですよ。カモシカなんかもそうでしょう? ぴょんぴょん、全力で走れる間は生きていけるけれども、そうでなくなったら食われてしまうわけですし、まわりにハイエナが寄ってきて取り囲まれたりしたら、もう嫌ですよね。彼らはそういう生涯でしょ? 昆虫も、もっとそうですね。だから人間で、いい時代の人間で、いい家に生まれるのが一番いいんじゃないですか。ダーウィンなんか理想的な人生だと思いますね。違いますか?
長谷川:私は、学部の3年のときから千葉県の高宕山のニホンザルを調査していて、それからアフリカに行ってチンパンジーの研究をして、そのほかにマダガスカルのキツネザルとイギリスのダマジカと、セントキルダ島の野生羊と、インドのクジャクと、スリランカのクジャクと、まあ、いろいろ見てきたんですけど、野生動物っていうのは、本当に厳しい生活をしています。本当にほとんど死ぬんですよ。ほとんど死ぬから、個体数が維持されていく。動物はそれぞれものすごく素晴らしい。形もきれいだし、生きているそれは素晴らしいんだけど、ほとんどが死ぬというのが現実なので、みんなすごく一生懸命生きているけど、天寿を全うというのはほとんどなくて、早死にするんですね。そういうことを最初に、ニホンザルの本で書いたら母が「ほんとになんか辛くなるわね」って感想を言っていました。そういう意味で、私はどの動物もみんな素晴らしいと思うけれど、みんな、かなしいと思います。
岡ノ谷:私はハムスターではなく、手塚治虫ですが、『ブッダ』っていう本の中で、ウサギの親子がいて、楽しく過ごしているのに、子供がいきなりキツネに食われちゃう。で、食べられている子供が「しかたがないよ」って言う。その「しかたがないよ」って言えるのが、すごいなって思うんだけど、僕は、この時代の人間として生まれてきて良かったなって思います。それは、人間と動物のつながり方を、今こそ考えることに意味があるからだと思っています。
河野:今日はどうも楽しいお話をありがとうございました。

受講生の感想

  • ずっと講義を受け続けて、思ったことがあります。 「俺なんて世界ではちっぽけな存在なんだ」というと卑屈な感じがするのですが、何万年、何十万年のスケールで繰り広げられる講義を受け続けると、「世界ではちっぽけな存在なんだ」ということが、とても肯定的に受け止められると言いますか、たまたま幸運にもこの世に存在しているにすぎないんだ、と思うとなんだか、毎回、元気になって家路についた気がします。 今日の3人の先生方の「メールに即レスしなくてはならない世の中」という話につながるのですが、あまりにも短いスパンで生きている日常で、本当に貴重な時間をいただきました。 多様性を認める、という言葉も、「たまたま幸運にも存在しているにすぎない」と思えればこそリアリティがあるということを痛感しています。 もうひとつ、とても感動したのは、小網代にハマカンゾウを植えに行ったときの、岸由二先生の言葉でした。 地球温暖化と言われるけど、地球にとっては一瞬で、まもなく氷河期が来る。人類も絶滅するかもしれない。でもそれでもハマカンゾウが群生している小網代の森は素敵でしょう、と。 ここまでの想像力はメール即レスの世界では無理です。これから忘れないと思います。 それだけに、きょうの鼎談の暗い結末は、なんだかなあ、と思いながらも岡ノ谷先生のひとことに目を開かされました。 「きれいごとを広めていこう」。 これがいま一番世間から欠けていることなのだろうな、と。きれいごとが岩盤のようにあるから文学も存在価値がある、と乱暴に言ってしまえば思うのです。はっとさせられました。

  • 最終回は講座の集大成でもあり、盛り沢山の内容でした。 生物学と環境問題は中学、高校と好きな科目、気になる問題であっため、進化の観点より、過去から現在まで色々伺えて充実した時間をいただきました。人として、どうしていきたいのか、改めて中学生の頃の自分に立ち戻って考えていきたいです。

  • 言葉の端々から伝わってくるダーウィン愛溢れる長谷川先生。 難題と思われるテーマにもちょっぴりユーモアを加えた見方をされる岡ノ谷先生。 物事の本質を見極めたお答えをさらりと話される素敵な奥本先生。 様々な分野で学問を追求されていらっしゃる先生方の講義は毎回興味津々。私に新しい世界をイメージさせてくださいました。 日常から離れて考える時間が、毎回、とても楽しかったです。