シェイクスピア講座2018 
第10回 河合祥一郎さん

シェイクスピアと音楽

15分版・120分版の視聴方法は こちらをご覧ください。

河合祥一郎さんの

プロフィール

この講座について

シェイクスピア講座第10回は、「シェイクスピアの音楽会」と題し、いつもの教室を離れて草月ホールに飛び出しました。シェイクスピアの時代、音楽はどのように考えられていたのか、そして、シェイクスピアのセリフそれ自体が音楽のように書かれていたことについて、河合祥一郎さんが講義してくださいました。後半は、坂本龍右さん(リュート)、中山真一さん(ヴィオラ・ダ・ガンバ)、太田光子さん(リコーダー)の演奏と、佐藤裕希恵さん(ソプラノ)の歌で、シェイクスピアも耳にしたに違いない曲の数々を楽しみました。(講義日:2018年5月29日)

講義ノート

シェイクスピアにとって音楽とは何でしょうか。(シェイクスピアのイラストに向かって)この人に聞いていたんですけど答えてくれないので、私なりに回答を用意しました。プログラムと一緒にお配りした「『シェイクスピアの音楽会』解説」というのがありますので、ご覧ください。今日はシェイクスピアの時代の音楽、シェイクスピア自身が耳にした音楽を、演奏と歌でお楽しみいただくわけですが、その前に、シェイクスピアにとって音楽とは何だったのか、シェイクスピアの時代における音楽の意義とは何だったのかについて、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。

シェイクスピアの時代よりずっと昔の古代ギリシャの時代から、「天球の音楽」ないし「天体の音楽」という概念がありました。英語では“music of the spheres”といいます。当時は地球を中心にして太陽や月やそのほかの惑星が地球の周りを回っているというプトレマイオスの宇宙観が常識でした。その回っている様子が天球という形になるわけですが、この天球が音を——ハーモニー・調和・和声を——発していると考える発想が、古代ギリシャの時代からあったわけです。最初に言い出したのは、ピタゴラスの定理で有名なピタゴラス。それをプラトンやプトレマイオスらが継承しました。シェイクスピアの生きたルネサンス期には「ケプラーの法則」で有名な天文学者ヨハネス・ケプラーが、宇宙の不思議を解明するのに天球の音楽がハーモニーを成していると考えました。ケプラーは1571年生まれですから、シェイクスピアの7歳年下という同時代人です。ケプラーは、それまで惑星が真ん丸の円を描いて回っていると考えられていたのを訂正して、実は楕円の軌道があることを発見した偉い天文学者なんですが、その楕円の形になっていることを説明するのに、なんとこの「天球の音楽」という概念を利用しているんですね。

現代では音楽とは、ベートーヴェンの音楽とかモーツァルトの音楽とか個人の中から出てくるものとして、個人の感情を表現するものとして考えられがちですが、シェイクスピアの時代においては、音楽は宇宙的規模での調和を意味し、宇宙には音楽が満ちていると考えられていました。しかも天体の音楽は、やがて死んで土に還る肉体をまとう人間には聞こえないとされていました。人間はやがて死すべき運命の儚い命を持ったものであり、そんなちっぽけな存在には聞こえない素晴らしい音楽がこの宇宙に、この大自然に満ちていると考えられていた。そして、それに呼応する音楽が人間の体の中にも響いていると考えられていました。太陽や月や惑星といった大きな宇宙=マクロコスモスというものが、人間という小さな宇宙=ミクロコスモスと呼応しているという新プラトン主義の考え方です。マクロコスモスは地球規模で考えることもできます。たとえば大自然には山があり、谷があり、川が流れていますが、この小さな肉体の中にも血液という川のような流れがあります。この水の流れは、人間の体の中でその血が流れているのに呼応していると考えられていたわけです。

ちなみに、血液が循環していることは、シェイクスピアの死後12年の1628年にウィリアム・ハーヴェイが血液循環説を確立するまでは知られていませんでしたから、自然界においてつねに泉から水が湧き出る不思議さが、人間の体の中の不思議さと呼応して考えられていました。「神は細部に宿る」というふうに当時言われていました。人間はただ生まれてきただけなのに、誰もが心臓や血液を持っていて、なんでこんなふうにできているのだろうか、その不思議さは、自然の不思議さや、この大自然を作った神の神秘と呼応しているというふうに理解されていたわけです。雨が降るように人も涙を流します。人間と自然は呼応している、大宇宙と小宇宙、マクロコスモスとミクロコスモスは相関関係にあるのだという発想は、シェイクスピアの時代の常識でした。資料の挿絵を見てください。これは大宇宙と小宇宙を扱ったロバート・フラッド著の『両宇宙誌』第1巻の表紙にある挿絵です。

上部にIntegrae Naturaeとあって雲があって、その右にSpeculum, Artisque imagoとあります。「清らかな自然の鏡と人工の像」という意味です。雲にはヤーウェ=エホバと書かれていますから、これが神様の象徴だとわかります。その雲から神様の手がのびて、その手から裸体の女性を操る鎖がのびています。この女性は自然の象徴です。自然(女性)は左手にやはり鎖を持っていて、その鎖は地球にいる猿につながっています。自然が猿に象徴される人工を操っているという意味です。人間が行っているのは神の猿真似だという意味でしょう。地球の周りには円環が幾重にも重なっています。色がついているところは「鉱物」、「植物」、「動物」などと書かれており、地球の自然界を表しています。地球より外側の青い部分には、内側から順番に「空気、火、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、星々」と書かれてあります。金星は英語でヴィーナス、つまり美の女神ですから、人間界の女性と呼応します。一番外側にはサタン、土星の周期があり、土星はメランコリー、憂鬱を支配していましたので、地球界における憂鬱な人々と呼応しているわけです。こうした惑星がグルグル回って音楽を奏でていると信じられていたわけですが、大宇宙と小宇宙が呼応するわけですから、大宇宙の音楽は人間の肉体の中で奏でられているはずの音楽と呼応しているはずであるわけです。

資料の一番下にはラテン語が三つあります。ひとつが、muisica mundanamusicaは「音楽」です。mundanaは「世界」。(シェイクスピアによくでる概念のひとつ)theatrum mundi「世界劇場」のmundiと同じ「世界」を表します。即ち「世界の音楽」、世界の中に満ちている音楽という意味で、別の言い方をすればmusica universalis「宇宙の音楽」です。即ち「天体の音楽」の別な呼び方とご理解ください。これがマクロコスモスの音楽です。それに対応するミクロコスモスの音楽が、musica humana「人間の音楽」です。人間の体の中にはどんな音が奏でられているのでしょうか。普段は意識していなくても、心臓の鼓動の音がしているはずですね。普段聞こえていない音が体の中でしているはずです。つまりmusica mudanamusica humanaも、普段は人間の耳に聞こえてこない音楽であり、互いに呼応しているのです。これを人間の耳に聞こえるようにしたのが、musica instrumentalis「器楽の音楽」、楽器による音楽です。つまり今日、リュートやヴィオラ・ダ・ガンバ、リコーダーというルネサンス時代に用いられた楽器によって演奏していただく音楽は、大宇宙に満ち、人間の中にも満ちている、神秘の音楽を人の耳に聞こえるようにしたものであるわけです。ただし、地球中心の宇宙像をひっくり返したガリレオは、シェイクスピアと同じ1564年生まれですから、シェイクスピアは新しい時代にも片足を突っ込んでいることになります。シェイクスピアの作品に古い神秘的な考え方と新しい現代に通じる考え方の両方を兼ね備えたところがあるのは、そういう時代的な背景によるものです。

シェイクスピア作品における音楽の使われ方を見ていきますと、音楽に不思議な神秘的な力が与えられていることがわかります。美しい歌を聴くと心が落ち着くのは、そのとき人間の体が天上の世界とつながるからかもしれません。「天使の歌声」などという表現をするのも、その新プラトン主義的な発想かもしれません。いくつかシェイクスピア作品から例を見てみましょう。『ペリクリーズ』第3幕第2場。船で航海中のペリクリーズの妃タイーサが海の上で赤子を出産して死んでしまいます。嵐の中、荒れ狂う海を鎮めるために、船乗りたちは一刻も早く妃の遺体を海に葬ることを求めます。ペリクリーズは遺体を入れた箱に水が入らないようにタールを塗って、海に放ちます。箱はやがてエフェサスの海岸にたどり着き、その箱を開けた医者のセリモンが、箱の中の妃にまだ生気があると判断し、蘇生させようとしますが、そのときに叫ぶ言葉が「音楽を!」なのです。音楽には生命力を与える力があるからです。さらに、第5幕第1場。いったんは失われた娘マリーナが戻ってきたとき、ペリクリーズの耳に突然、音楽が聴こえてきます。周りの人には聴こえないその音楽を聴いたペリクリーズは、急に深い眠りに落ちて、眠りの中で女神ダイアナのお告げを聞きます。そのお告げによってペリクリーズは、妃タイーサと再び会うことになるのです。あるいは、『冬物語』第5幕第3場。死んだはずの妃ハーマイオニを彫像として登場させたポーリーナが、彫像に命を吹き込んで蘇らせようと言いますが、そのときに彼女が叫ぶのもやはり「音楽を!」という言葉です。

このようにシェイクスピア作品の中では、死者が蘇る場面や奇跡が起きる場面などで音楽が演奏されます。それは、音楽にはこの大宇宙に呼応する神秘の力があると信じられていたからにほかなりません。『ヴェニスの商人』第5幕第1場。ベルモントの丘でロレンゾーがジェシカに語ります。「ジェシカ、ほら、ご覧、空がまるで光り輝く黄金の小皿でぎっしり覆われた床のようだ。君の目に映るどんな小さな天体も、動きながら、天使のように歌っている。幼い目をした天使ケルビムたちと声を合わせて。そうした調べは、神や天使たちには聞こえるが、この腐敗する泥の体をまとう我々には聞こえないのだ」。そのあとジェシカが、「私、甘い調べを聴いても楽しくなったことないわ」と言うと、ロレンゾーはこのように語ります。「それは君があんまりまじめすぎるからだよ。だっていいかい、暴れまわる牛やまだ飼いならされていない子馬などは、狂ったように跳ね回り、大声で鳴いたり、いななくのが血気盛んで元気な証拠だが、不意にラッパの音を聞いたり、何か音楽が聞こえてくると、一斉に立ち止まって、それまで目を剝いていていたのにおだやかな目つきとなる。音楽のすばらしい力のせいだ。だからこそ、詩人は歌った。名手オルペウスの調べは、木も石も水の流れも動かしたと。どんな鈍感な人も、堅物も、乱暴者も音楽を聴いているときは、心が改まる。音楽を聴く耳を持たない人、あるいはすてきな和音に心動かされない人は、謀反、陰謀、略奪に向いている。そうした人の精神の動きは夜のように鈍っていて、感情は黄泉の国へ至る暗黒世界のように暗い。そんな人は信用ならない。音楽を聴いてごらん」。このロレンゾーの台詞は、シェイクスピアによる音楽の不思議な力を説明した最も重要な台詞かもしれません。

『テンペスト』第3幕第2場では、キャリバンが、「この島には聴いていると楽しくなって害のない、音や響きや素敵な音楽が満ちている」と言います。自然界に満ちている音楽が聴こえてくるということは、キャリバンの心に清らかなところがあるのを示唆するように思います。キャリバンはプロスペラーの娘ミランダに悪さをしようとした悪党とされていますが、島の原住民であり、むしろ迫害を受けているのだという側面もこうしたところから読み取れます。

これからみなさんがお聴きになるシェイクスピアの音楽は、宇宙に満ちている神秘の音楽musica mundanamusica instrumentalisとしてみなさんの耳に聞こえるように変えられたものなのです。私は常々、シェイクスピアの世界は狂言の世界に似ているということを申し上げますが、狂言師の野村萬斎さんとお話をしますと、舞台に立つとき狂言師は、一人の個人として立つのではなく、むしろ依り代(よりしろ)として、つまり天から降りてくる何かを受け取る、ある種、避雷針のようなものとして立っているのだということをお話しになります。今日これからご登場いただく4人の方々も、musica mundanaと私たちをつなげてくれる依り代なのだとご理解ください。

もうひとつお話ししておきたいのは、シェイクスピアの言葉それ自体が音楽となっているという点です。シェイクスピアの台詞は特定のリズム(韻律)のない散文と、リズムのある韻文とで書き分けられています。韻文のリズムは基本的に弱強五歩格(アイアンビック・ペンタミター)です。そして、普通、押韻(ライム)がないので、これをブランク・ヴァースと呼んでいます。資料の『ヴェニスの商人』第5幕第1場の、さきほど読みました「ジェシカ、ほら、ご覧、空がまるで光り輝く黄金の小皿でぎっしり覆われた床のようだ」のところに相当する原文を挙げました。ブランク・ヴァースで書かれていますのでちょっと読み上げてみます。一行につき5回強いところがあることをご確認ください。

Sit, Jessica. Look how the floor of heaven
Is thick inlaid with patines of bright gold.
There’s not the smallest orb which thou behold’st

But in his motion like an angel sings,
Still choiring to the young-eyed cherubins.
Such harmony is in immortal souls,
But whilst this muddy vesture of decay
Doth grossly close it in, we cannot hear it.

最後の1行は強では終わっていません。このように弱で終わるのを女性行末(フェミニン・エンディング)と呼び、不安や暗い気持ちを表します。ここは私たち人間には聞こえないのだという悲しい現実に言及しているがゆえにわざと女性行末にしているのです。反対に強で終わるのは男性行末(マスキュリン・エンディング)と呼び、決意や朗々たる強い気持ちを表します。基本的にブランク・ヴァースは、男性行末で朗々と続いていくわけです。

ブランク・ヴァースのリズムは弱強五歩格ですが、シェイクスピアはときどき別のリズムも用います。例えば強弱四歩格、これはマザーグースのリズムです。マザーグースは子どもが歌う童謡です。Twinkle twinkle little star, How I wonder what you are. 「きらきら星」などは、1行について4回強いところがある強弱四歩格のリズムなわけです。この同じリズムが『マクベス』の魔女たちが魔法の鍋をかきまわすときに用いるリズムです。

Swelter’d venom, sleeping got,    冷たい石の下に寝て、ひと月かいた毒の汗、

Boil thou first i’th’charmed pot.     魔法の釜で煮込みましょ

Double, double toil and trouble:    増やせ、不幸を、ぶつぶつぶつ

Fire, burn; and cauldron, bubble.   燃やせ、猛毒、ぐつぐつぐつ

リズムのいい感じで、四歩格になると、歌いたくなる調子のいい感じのリズムになります。『夏の夜の夢』の妖精パックの台詞でも、やはり四歩格なので歌いたくなるんですね。

Captain of our fairy band,           申し上げます、王さまに。

Helena is here at hand;       ヘレナが来ますよ、今まさに。

And the youth, mistook by me,    おいらが間違えた男もいっしょ。

Pleading for a lover’s fee.      ヘレナを口説いて汗びっしょ。

Shall we their fond pageant see?   さ、馬鹿げた芝居を観てみましょ。

Lord, what fools these mortals be!  ほんと、人間ってなんて馬鹿なんでしょ!

最後のこの「しょ」「しょ」というところが2行ずつ同じ音で終わるライムになっています。頭の“Captain of our fairy band”、このbandと次の行の一番右のhandがライムし、次の行の終わりのmefee、そしてseebeが2行連句となっているわけです。ちょっと宣伝をしちゃいますが、2018年9月にシアタートラムほかで『お気に召すまま(As you like it)』の公演があります。私の新訳・演出で、太田緑ロランスさんや玉置玲央さんがご出演なさいます。そのお芝居の中にも、こういうライムがいっぱい入っています。私の翻訳では、原文にライムがあるときには必ず日本語でもライムを入れようと頑張っています。「ラップみたいでおもしろい」と思っていただけるといいんですが、場合によっては、「オヤジギャグかよ」と思われるかもしれません(笑)。ここで紹介するのはライムたっぷりの恋愛の歌を聞いた道化のタッチストーンが、その歌をからかって、「それじゃまるでしっちゃかめっちゃか調だな」と称して、パロディを披露する一節です。

森の木に貼りつけてあったオーランドーの詩をまずヒロインのロザリンドが読み上げます。こんな感じです。「東のはてから西のインド、輝く宝石ロザリンド。噂を聞くよ、二度三度、みんなが知ってるロザリンド。比べてみるならダイヤモンド、それより貴重なロザリンド。誰より優れた好感度、きれいなお顔のロザリンド」。みんな「ンド」で終わってるわけですね。それを聞いた道化が、「そんな調子でいいなら、8年間ぶっ続けで韻を踏んでやるよ」と言って、即興でライムを踏み出すわけです。

募集中です、ガールフレンド、

差し上げましょう、ロザリンド。

盛りのついた猫なんど

よりもお盛ん、ロザリンド。

寒い冬だと低いよ、温度。

温めましょう、ロザリンド。

これはもちろん、おふざけでこんなこともできますという一例です。シェイクスピアは真面目な場面で使うライムというのがあって、そういう場合にはもっと劇的な効果があります。

韻文の効果というのは、わかりやすく言えば、朗々と歌うように語る、あるいはある様式性に則って語るということですから、たとえば狂言であるような、普通の台詞の中に急に謡が入るのとよく似ているわけです。『お気に召すまま』は散文で始まるんですが、途中で急に韻文に変わっていく。どこから変わるかというと、主人公の一人であるオーランドーがレスリングの試合に勝って、自分の正体を明かしてサー・ローランドの息子だと言います。そうすると、それまで「あっぱれ、あっぱれ、よくやった。レスリングに勝って褒美をやろうか」と言っていた公爵の顔が曇って、「サー・ローランドはわが敵だ。おまえは憎いやつだ」と言いだすのですが、その台詞が急によそよそしく様式的になる。それが韻文です。つまり、そこまでは普通にある種リアリスティックに描くことができたのが、突然韻文に変わっていく。すると、その様子を見守っていたヒロインのロザリンドが、「サー・ローランドは追放された父の心の友だわ」と言って、やはり韻文で語りだし、ロザリンドがオーランドーに恋をするところが韻文、そして、それに答えていくところも韻文、形式に則った形で韻文を語り出していく。普通に話をしていた人たちが突然歌いだすという、ちょっとミュージカルの感覚と似ている。しかし、韻文は急にメロディにのせるわけではなく、弱強五歩格のリズムは自然に話すことができるリズムです。今、五歩格と言いましたが、四歩格だと先ほど言ったように歌いだしたくなっちゃう。六歩格だと息が続かない。その中間が五歩格で、普通にちょっと格好つけた話し方ができるというふうになるわけです。

韻文である以上は、どのタイミングでどの音を出すかが決まっているので、音楽の音符のように台詞の1音1音の配列が決まっています。1行は弱強という2音が5回繰り返されるわけですから、10の音符で成り立っているといえます。楽譜ではたとえば休止符というのがありますね。シェイクスピアの韻文でも、ここで音がない、休止符が入る、それが2分休符だったり4分休符だったりというのも、実はシェイクスピアが指定しています。スキャンションといって韻律分析をしていけば、「あ、ここが休みだな」とわかるように書かれています。現代のお芝居ですと、台詞のないところは黙っているだけですが、シェイクスピアの韻文の台詞は楽譜と同じで、音がないところはどれだけ休むかということまで決まっていることになります。このあたりになると専門的な話になりますので、ぜひお芝居を観に来ていただいて(笑)、体験していただければと思います。

というわけでシェイクスピアにはさまざまな魅力がありますが、その魅力のひとつが音なわけです。台詞のリズム、ライムを駆使して、台詞そのものを音楽のように組み立てているのです。

さて、『ハムレット』第3幕第2場で、ハムレットがリコーダーに言及してこう言います。ハムレットがギルデンスターンに「リコーダーを吹いてくれ」と頼んで、ギルデンスターンが「吹けません」と答える。すると、ハムレットが怒るんですね。

「なんだと、この俺をずいぶん馬鹿にしてくれるじゃないか。俺の押さえどころは心得たとばかりに、この俺を吹きこなし、俺の謎を解き明かしてやろう、一番低い音から一番高い音まで俺のすべてに探りを入れて鳴らしてやろうというおまえたちが、すてきな音色が出るこの小さな楽器を吹けませんときたものだ。おい、俺は笛よりも扱いやすいというつもりか。どんな楽器呼ばわりされてもいいが、この俺は音をあげないぞ。おまえたちの思いどおりの音色は出さぬ」。

シェイクスピアが「すてきな音色が出るこの小さな楽器」と呼んだリコーダーを、太田光子先生に習いましょうという講座が「ほぼ日の学校」のスピンオフとして行われました。シェイクスピア講座の生徒さんたちも多数参加されて、今日、40名がこの舞台でリコーダーを演奏してくださることになっています。それでは太田先生、どうぞよろしくお願いいたします。

太田:ご紹介にあずかりましたリコーダー奏者の太田光子と申します。シェイクスピアの時代のリコーダー、河合先生のお話にもあったように、盛んに用いられていたわけなんですけれども、この時代のリコーダーに関しては、その前の時代のイングランドを知ると、よりよく見えてきます。エリザベス朝のエリザベス1世の時代の前にイングランドを治めていた王様にヘンリー8世という大変有名な王様がいます。ヘンリー8世は大変な音楽の愛好家でした。そして、どうやらリコーダーの愛好家でもあったようなんです。ヘンリー8世の家財目録というのが残っているんですけれども、それを見ると、リコーダーがズラーッと書いてあるんですね。それも、金の飾りのついたリコーダー、銀の飾りのついたリコーダーなんていうふうに、立派なリコーダーが合計80本ぐらいあったようなんです(注・正確には76本)。私にしてみたら、もう大変うらやましい王様でございます。そして、ヘンリー8世は大変音楽好きでしたから、各地から音楽家を呼び寄せて、自分の宮廷の音楽家にするわけです。リコーダー奏者兼リコーダー製作家である一家を呼び寄せたりもしました。そうやって増えたヘンリー8世の宮廷音楽家たちが、次のエリザベス朝の時代にも引き継がれていくわけなんですね。イタリアから行ったリコーダー奏者たちも、その息子、孫の時代に引き継がれて、エリザベス1世の宮廷でも宮廷音楽家としてリコーダーを吹いていたようなんです。

では、シェイクスピアの時代、どんな音楽をリコーダーで演奏していたのでしょうか。それを今から40名のリコーダー愛好家のみなさんに演奏していただきます。1599年に出版されましたアントニー・ホルボーン、この人もエリザベス1世の宮廷音楽家だったんですけれども、その曲集に入っている踊りの曲を3つ演奏いたします。最初は「パヴァーヌ」。しずしずと歩いていく、ゆったりした踊りです。その次は「ガリアルド」。これは三拍子のとても快活な、はねるようなダンスです。そして、最後にHonie-suckleという題名のついたアルメイン、ハニーサックルは「スイカズラ」と訳されますけれども、この「パヴァーヌ」、「ガリアルド」、そして「アルメイン」、この3つの踊りはセットで演奏されることが多かった。それでは、3曲続けて演奏いたします。リコーダーの皆さんは、5月19日のリコーダー・ワークショップで練習しました。練習の成果をどうぞお聴きください。

(リコーダー合奏)

河合:すごいですね、40数本のリコーダー。リハーサルのときに楽屋で話していたんですけども、これから登場する演奏家も、こんな壮観な画は見たことがないと。リコーダー40数本だったら、シェイクスピアの時代だったら小さな村の人口全部なんじゃないかとか。しかもすごいのは、太田先生が初心者まで含めて対応できるようにアレンジして美しくまとめてくださったそうです。ほぼ日の学校はすごいなっていうのが、このことでもわかるという気がしています。私どもも今日初めて拝聴して、「すごいね」と楽屋で言っていたわけです。

それでは準備が整ったようですので、演奏と歌を担当してくださる4人の「依り代」の方々にご登場いただきたいと思います。まずはリコーダーの太田光子先生です。お持ちになっているリコーダーの種類がいくつかありますね。これはどういうものですか。

太田:さっき合奏で使っていたリコーダーとはちょっと違うと思いませんか? 合奏のときに使っていた楽器は、学校で使うリコーダーと同じように、でこぼこした形ですね。あれはバロック時代、つまり1700年代に主に使われていたバロックタイプのリコーダーです。これは、1500年、1600年代に主に使われていたルネサンスタイプのリコーダーで、すとーんとしてるのが特徴です。私が持ってるのはテナーリコーダー。こちらが、アルトリコーダー。テナーリコーダーの半分の大きさで、ちょうどオクターブ上の音がでるのがソプラノリコーダー。本日はこの3本を主に使います。

河合:次はヴィオラ・ダ・ガンバ奏者の中山真一さんです。ヴィオラ・ダ・ガンバというのは、『十二夜』の中でもサー・トービーが「ヴィオラ・ダ・ガンバ」という言葉を言いますけれども、これはどういう楽器なんですか。

中山:「ガンバ」というのは、どこかの町のサッカーチームにそういうとこがありますが(笑)、「脚」。腿より下の脚の部分を指します。脚の上に楽器をのせて弾くんですね。いろんなサイズのがあるんですが、これはバス。低音のヴィオラ・ダ・ガンバです。これの半分のソプラノとか、アルトもありまして、そうなるとちっちゃくてヴァイオリンみたいな大きさにもなってくるんですが、それでも脚の上にのっける。意地でも脚の上にのっけて弾くので、ヴィオラ・ダ・ガンバ。ヴィオラというのは弦楽器という意味です。シェイクスピアの時代の劇場音楽では、このヴィオラ・ダ・ガンバの人間が他の方を支える。サービスをする楽器ということで、低音としてよく用いられたので、今日は召使い役です(笑)。楽器に詳しい方は、チェロと同じような楽器なのに、横にフレットがついててギターみたいじゃないかと思われると思うんですが、そのとおりで、チェロとかヴァイオリンの仲間ではなくて、実はギターの仲間なんですね。ヴィオラという弦楽器の仲間でこの時代に技術革新が起こりまして、弓で旋律を弾く楽器として確立しました。今日持ってきたのは弦の数がちょっと多い、17世紀終わりから18世紀はじめのタイプの楽器なんですが、実はシェイクスピアの時代に、そののちの時代の楽器の構造が出来上がったということで、今日はあえてそのあとの時代のタイプの楽器を持ってきました。

河合:ちなみに2016年に私が『まちがいの喜劇』を演出したときに、中山さんにヴィオラ・ダ・ガンバを芝居中に演奏していただきました。中山さんの演奏から芝居が始まった。その節はお世話になりました(笑)。続きましてリュート奏者の坂本龍右さんです。楽器の説明をお願いします。

坂本:私はいつも自己紹介をするとき、「西洋琵琶法師でございます」と言ってるんですが、実は笑いごとではございません。西洋のリュートというのは、この洋ナシを縦に割ったような形であるとか、折れ曲がったネックの形などが、日本で弾かれている琵琶とか、中国の琵琶とも共通していますが、実はこれらは共通の祖先を持つといわれています。中近東にウードという民族楽器が残っていますが、あれがどうやら両者の直接の祖先です。ウードがシルクロード経由で中国に伝わり、そして日本に伝わったのが、日本の琵琶です。私は奈良出身ですが、正倉院にも五弦琵琶とか四弦琵琶が残っております。他方、イベリア半島を通過して、これは十字軍の人たちが持ち帰ったという説もありますが、イベリア半島を経由して、さらに陸伝いでヨーロッパに入っていったのが、そのあとヨーロッパのリュートという形になったと今では考えられています。一見しますと弦が非常に多い楽器なんですが、ヴィオラ・ダ・ガンバと同じく、可動式のフレットがついていて、音程を調節できるようになっています。弦はトップの弦を除いて1対(2本)で張られておりますが、これをあたかも1本であるかのようにつまびくのが基本的な奏法です。この楽器はシェイクスピアの時代のリュートのコピーを、英国の製作家に依頼して作っていただきました。今回のプログラムには本当にうってつけの楽器です。楽器も喜んでいるように見えます。

河合:そして、ソプラノ歌手の佐藤裕希恵さんです。佐藤さんはシェイクスピアと何か因縁があるとうかがっていますが?

佐藤:因縁‥‥(笑)。私はもともとお芝居が大好きなので、シェイクスピアの作品には魅力を感じています。いわゆる「古楽」を勉強していて、スイスに留学時代に坂本さんにリュートを弾いていただきまして、シェイクスピアの音楽、シェイクスピアの詩に音楽がつけられたものをテーマにして演奏させていただきました。

河合:今日はよろしくお願いいたします。それでは早速1曲目。シェイクスピアの時代に流行していた「グリーン・スリーヴズ」です。『ウィンザーの陽気な女房たち』で言及されています。

(演奏)

河合:坂本さん、これについて何か面白いお話があると。

坂本:これ日本では電話の保留音でよく使われるメロディとしてご存知だと思うんですけど、それだけじゃなしに、坪内逍遥が一番最初にシェイクスピアを日本語に訳したとき、明治期に出版されたものの中でこれをどう訳しているかというと、「緑の小袖節」、別名「ストトン節」と書いております。何が言いたいといいますと、つまり、当時「ストトン節」というのは誰もが知っているメロディだったんです。「グリーン・スリーヴズ」は、この時代のいわば一番のヒットメロディで、歌詞もメロディも誰もが口ずさめた。そういうものをシェイクスピアが劇中に使っていることを表したかったがために、坪内逍遥は実にうまい訳し方をしたものだなと思った次第でございます。ちょっとしたトリビアでした。

河合:続きまして『ロミオとジュリエット』で言及される曲です。ジュリエットはパリス伯爵との結婚を避けるために、ロレンス神父からもらった薬を飲んで、翌昼、仮死状態となって発見されます。誰もがジュリエットが死んだと思い込んで悲しみにふける場面で、道化のピーターがこう言います。「おお、楽隊の諸君、Heart’ Ease(心の慰め)をやってくれたまえ。おいらに元気をくれる気があれば、『心の慰め』を弾いてくれ」。するとヴァイオリン弾きが尋ねます。「なぜ『心の慰め』を?」。ピーターが答えて曰く、「ここの心はすでにつらい心を演奏しているからさ。何でもいいから陽気な曲をパーッとやって元気づけてくれ」。すると、楽師が「ダメです。今は演奏するときではありません」と断るのです。つまり実際には劇中では演奏されない曲なんですが、当時かなり人気のあった曲でした。作曲者は誰だかわかっておらず、歌詞もついていません。題名のHeart’ Easeにはアポストロフィーがついていますが、あとの「s」が省略されていて、「心の慰め」という意味になります。ジュリエットはキャピュレット家の大事な一人娘。その子が亡くなって誰もが悲しみに浸っているときにこの曲が演奏されなかった理由は、これが陽気な曲であることをお聴きになればおわかりになると思います。

(演奏)

河合:次の曲は「わが敵運命よ(Fortune my foe)」です。ここまでお聴きいただいた2つの曲は、芝居の中で題名が言及されるだけの曲でしたが、次の曲もそうです。『ウィンザーの陽気な女房たち』第3幕第3場で、大酒飲みで太鼓腹の騎士フォルスタッフが、ウィンザーの陽気な女房の一人、フォード夫人を口説いてこう言います。「あんたなら完璧な貴婦人になれる。そのしっかりした足取りは、丸く膨らんだスカートの中で、あんたの歩みに素晴らしい動きを与えることだろう。汝が敵運命が汝が友であったなら、あんたがどんな身分となったか私にはわかっている」。この「汝が敵運命」とは、当時流行していた曲の題名でした。現在、新国立劇場で上演中の『ヘンリー五世』でも、岡本健一さん演じるピストルが「運命はバードルフの敵だ」(Fortune is Bardolph’s foe)と言います。歌詞の内容を確認しておきましょう。「わが敵運命よ、なぜおまえは私に渋い顔をするのか。おまえの恵みはよくならないのか。おまえはいつまでもわが苦しみを育むつもりか。わが喜びを取り戻してはくれないのか」。歌はヴィオラ・ダ・ガンバ奏者の中山真一さんと、あと酔っぱらった親父の雰囲気で歌うのがよいという坂本さんの演出がありましたので、ご愛敬までに私も一緒に歌わせていただきます(笑)。

(演奏)

河合:次はトマス・モーリーの「それは恋人たち(It was a lover and his lass)」で、『お気に召すまま』の第5幕第3場から。エリザベス朝の作曲家トマス・モーリーは、シェイクスピアより7歳年上で、ロンドンの同じ地域に住んでいました。ただ、2人が顔見知りであったかどうかはわかりません。『お気に召すまま』が書かれたのが1599年であり、モーリーのこの曲が出版されたのが1600年であるということから、モーリーはシェイクスピアのために作曲したのではないかと考える人もいますが、詳細はわかりません。曲が先にあって、シェイクスピアがそれを劇中で使ったということも考えられます。『お気に召すまま』は恋愛喜劇で、最後に4組のカップルが出来上がります。そのうち最後のカップル、道化のタッチストーンとその恋人オードリーの前へ公爵の小姓がやってきて、この曲を歌います。日本語の歌詞はこんな感じです。「惚れたあの娘に首ったけ、それヘイホー、ヘイノニノ。麦畑が続く中、それヘイホー、ヘイノニノ。二人が抱き合うそんな中、歌を歌うよこの二人、それヘイホー、ヘイノニノ。命は花によく似たり、恋たけなわと時惜しみ、それヘイホー、ヘイノニノ。恋人たちはお楽しみ」。ここではオリジナルの英語で佐藤裕希恵さんと坂本龍右さんに歌っていただきましょう。

(演奏)

河合:すばらしいですね。次の曲はO mistress mineという『十二夜』からの曲なんですが、坂本さんに解説をお願いしようと思います。

坂本:今から演奏いたします曲ですが、『十二夜』に出てきます。どうやってこの曲を復元できたかといいますと、1599年、『お気に召すまま』の上演された年に現れたトマス・モーリーが編纂しました『The First Book of Consort Lessons』という曲集がございます。Consortは「合奏」の意味です。lessonは、今でいうレッスンを受けるとかではなく、「曲集」という程度の意味なんですが、この曲集に収められている作品は、リュートを中心としたmixed consortといわれる編成用に書かれたものです。これは、今日われわれが演奏しています縦笛または横笛、先ほど中山さんがおっしゃっていたトレブル・ヴィオール、これより小さい形のヴィオラ・ダ・ガンバ、またはヴァイオリン、そしてこのバス・ガンバ、さらにリュートに加えまして、2種類の金属弦を使ったシターンおよびパンドーラという非常に珍しい楽器、この6つの楽器を使ったconsortのために書かれたものです。この時代のグローブ座では、このmixed consortがいわゆる劇伴の音楽隊として活動していた形跡もあり、現在のロンドンのグローブ座でのいわゆる復活上演に際しては、こうしたmixed consortの編成が用いられることもございます。それにぜひとも言及しておきたかったんですが、その曲集からとりましたこのO mistress mineというのも、リュートを中心にした編成のために書かれました。

(演奏)

河合:お聞きいただいたのはO mistress mine、『十二夜』第2幕第3場で、サー・トービーとサー・アンドルー・エイギュチークのために、道化フェステが真夜中に歌った曲でした。同じ場面の曲が三つ続きます。三つ目に「この野郎(Thou Knave)」という輪唱曲がありますが、今のO mistress mineに引き続きサー・トービーたちが大声で歌って騒ぐ曲がこの曲です。そうして大騒ぎをしていますと、眠っていた執事のマルヴォーリオが飛び起きてやってきて、「一体何時だと思っているんだ」と叱りつけるという流れになります。「オリヴィア姫のお屋敷を居酒屋と間違えているのか」とマルヴォーリオがずいぶん高飛車に文句を言うために、オリヴィアの叔父であるサー・トービーは、「執事風情に大きな顔はされたくない」と、当時の流行曲だったこのロバート・ジョーンズ作曲の「さようなら、愛しの人よ(Farewell, dear love)」を替え歌にしてマルヴォーリオをからかうのです。ロバート・ジョーンズは1597年にオックスフォード大学を卒業して、たくさんのリュート歌曲集を出版しました。この曲は1600年に出版された歌曲集第1巻に収められています。歌の内容は、「愛する女性に別れを告げ、私の一生もこれまでだが、それでも私は決して死んだりはしない。愛する人と別れても生き続けよう。おまえは行ってしまうのか。では、さらばだ。いや、待ってくれ。どうか私を見捨てないでくれ」と歌う失恋の歌です。サー・トービーがこの歌をどんなふうに替え歌にしたかは、まずオリジナルの曲を聴いたあとで説明することにいたしましょう。

(演奏)

この曲をサー・トービーがどんな替え歌にしたのか。『十二夜』第2幕第3場をちょっと読んでみます。マルヴォーリオが怒って飛び込んでくるところからです。マルヴォーリオの台詞です。

マルヴォーリオ 皆さん、気でも狂われたか? どういうおつもりです? 分別も行儀も慎みも忘れて夜の夜中に鋳掛け屋まがいに騒ぐとは? お嬢様のお邸(やしき)を居酒屋にでもするおつもりですか。靴直し風情の追いかけ歌をがなりたて、声をひそめようとも低めようともなさらないとは? 場所、身分、時間を一切わきまえぬとは、まったく拍子抜けだ。

サー・トービー 拍子なら歌ってとってたぜ。うるせえな!

マルヴォーリオ サー・トービー、はっきり申し上げねばなりません。お嬢様からこう申しつかっております。ご親族としてお邸にご滞在頂いておりますが、あなたの狼藉とは一切血のつながりはございません。あなたが不行跡と手を切られるのであれば、この家にいらして頂いて結構ですが、そうでなく、お嬢様とお別れしたいというのであれば、喜んでお別れのご挨拶をなさるとのことです。

サー・トービー (歌う。)さらば、君よ、さ、お別れだ。

マライヤ だめよ、サー・トービー。

道化 (歌う。)死んじゃったあ、お別れだ。

マルヴォーリオ なんですか、一体?

サー・トービー (歌う。)俺は死なねえ。

道化 (歌う。)そりゃありえねえ。

マルヴォーリオ 驚いたものです。

サー・トービー (歌う。)怒鳴ろうか。

道化 (歌う。)どうだろか。

サー・トービー (歌う。)こいつに、出てけと怒鳴ろうか。

道化 (歌う。)そりゃだめだめだめ、どうなるもんか。

そうすると、サー・トービーが「調子を外すな、馬鹿野郎」と言います。今、マルヴォーリオが「靴直し風情の追いかけ歌」と言ってたのが次の「この野郎」という輪唱曲です。お手元のプログラムの中に楽譜が入っています。あとでみなさんにも歌っていただきますので(笑)、ご用意いただきたいと思います。タイトルがHold Thy Peace(黙っていろ)とされる場合がありますが、ここではThou Knaveとしました。追いかけ歌は英語でcatchといいます。この歌は17世紀初頭に活躍した作曲家、トマス・レイヴァンズクロフトが当時のcatchを集めて1609年に出版した本に収められています。『十二夜』の中で、サー・トービー、サー・アンドルー、そして道化フェステの3人が歌います。まずは英語のオリジナル曲を聴いていただきましょう。

(演奏)

さあ、これをみなさん、今度は日本語で歌います。サー・トービー・チーム、サー・アンドルー・エイギュチーク・チーム、そして道化フェステ・チームに分かれて輪唱します。歌はこういう感じです。「♪だーまれー、このやろだまれー、ばーか」。これが基本です。大声で「ばーか」って歌っていただくんですが、現代人のすさんだ気持ちで歌わないでください。私が最初に一生懸命説明した、大宇宙と小宇宙の呼応を考えていただきたい(笑)。どういうことかというと、当時は人文主義=ユマニスムという考え方があったんですね。つまり、偉いのはどこかにいる神様で、人間は必ず間違いを犯す。人間は必ず失敗する愚か者なんだという絶対的な自覚です。いいですか? 「あんた馬鹿だよ」と言われて怒っちゃいけない。「馬鹿だよ」と言われたら、「うん、そうだね。自分の馬鹿さ加減を教えてくれてありがとう」って言わないといけません。

シェイクスピアが作品の中に道化(fool=バカという意味です)を入れた理由というのは、登場人物たちに出会って、「あんた馬鹿だよ」と教えてあげる役割なんですね。教えられた人は、「俺の未熟さを教えてくれてありがとう」という気持ちにならないといけない。今日、草月ホールから帰るときにはみなさん、新しい次元の人生を送ることができると思います。自分の中の愚かさをかみしめながら生きていく。幸せになるためには愚かである必要があるわけです。

では、私がサー・トービー・チームのリーダーをやります。サー・アンドルー・エイギュチーク・チームのリーダーは、「ほぼ日」いちの美声の持ち主である佐藤さんにリーダーをお願いします。もう一人、カクシンハンの岩崎MARK雄大さんにフェステ・チームのリーダーをお願いします。はい。すさんだ現代人の心は捨てて、愚かしさを自らかみしめて、その気持ちでお願いします。

(みんなで輪唱)

これでみなさん、『十二夜』のサー・トービーたちのドンチャン騒ぎに参加することができたということですね。おめでとうございます。「おめでたい」といえば、「めでたいやつだな」というときの「めでたい」には、「馬鹿なやつ」「まぬけなやつ」という意味もあります。さっきも言いましたけれども、人は幸せになるためには馬鹿にならなきゃいけない。たとえば『お気に召すまま』の中でもジェイクィズがオーランドーに、「君の最大の欠点は恋をしてることだな」なんてことを言います。するとオーランドーが、「いや、その欠点は、あなたの最上の美徳とも換えたくはありません」と言うんですね。つまり恋をするという愚かしさ、これがあるからこそ人間なんだということです。

『夏の夜の夢』の中でも妖精パックが、「さ、馬鹿げた芝居を見てみましょ。ほんと、人間って何て馬鹿なんでしょ!」と言いますが、あれも決して上から目線ではありません。人間は馬鹿だということを寿(ことほ)ぐ。愚かであるから幸せになるんだと。馬鹿な人間って本当にすばらしいなということです。そういうお話でした。

次は真面目に深刻に『ハムレット』。『ハムレット』よりジョン・ダウランドの作曲した「ウォルシンガム(Walshingham)」です。オフィーリアが悲しみの中で歌う曲です。ちょっとここで坂本さんに解説をお願いします。

坂本:プログラムの表紙に印刷されている楽譜をご覧ください。これはテーブルブックと呼ばれるものでして、歌のパートの下にリュートの譜面がついてまして、さらにほかのパートの人たちも、これをテーブルの上に置いて、それを四方から囲むようにして演奏できるようになっています。こういうものがたくさん印刷されたんですが、リュートのパートをご覧ください。これはタブラチュアといいまして、左手で押さえる位置をアルファベットで表したものです。Aが書かれていたら何も押さえない、Bなら最初のフレットを押さえるみたいな感じで、押さえる場所とリズムが書いてあるんですね。これがあると何がいいかといいますと、五線譜が読めなくても、リュートさえちゃんと調弦してあれば、押さえる場所をそのとおりやるだけで出したい和音が出せる、メロディが弾けるということで、ものすごく重宝されました。この時代のタブラチュア譜が残っているおかげで、復元が可能になりました。

今からやります「ウォルシンガム」という曲も、このタブラチュアを演奏します。これはシェイクスピアの時代の人たちが実際に残した手書きのリュートのための譜面です。次に演奏するThe Willow Songも、シェイクスピアの時代の手書きの譜面が残っておりまして、タブラチュアがあるおかげで、シェイクスピア時代の人たちの譜面をそのまま見ながら音にできるという特権が我々にあるわけでございます。

(演奏)

河合:悲しい曲が続きます。今度は『オセロー』のThe Willow Song(柳の歌)。「柳の歌」といえば、ヴェルディのオペラ『オテロ』で歌われるアリアも有名ですけれども、これからお聴かせするのはそれとは違い、エリザベス朝時代に知られていたものです。誰が作ったかはわかっていませんが、シェイクスピアはこのよく知られた歌を『オセロー』の中に取り入れたのだと考えられています。ヴェニスいち美女のデズデモーナは、黒人の将軍オセローの妻となりますが、悪党イアーゴーの策略ゆえに、夫オセローから不倫をしたとあらぬ疑いをかけられて責められ、やがて自分の死を予感します。そして、悲しみの歌「柳の歌」を歌うのです。エリザベス朝演劇においては、柳の枝を持って登場するということは、「私は失恋をしました」というサインであるという約束事がありました。そして、この歌でも、「真実の恋が失われた。私にはもう喜びはない」と歌われます。趣向を変えて、ちょっと芝居仕立てにしていきたいと思います。佐藤裕希恵さんにデズデモーナ、そして太田光子さんにエミリア役を演じていただいて、台詞を交えながら歌っていただきます。

(演奏)

すばらしい歌声ですね。シェイクスピアの初演のときにここまできれいなソプラノでデズデモーナは歌わなかったんじゃないかと思います。ただ、デズデモーナを演じたのは初演のときには少年俳優で、当時の少年俳優たちは、教会の合唱隊から歌の上手な子を引き抜いてくるなんてことをやっていましたので、デズデモーナ役の子は演技が上手であるだけではなく、ボーイソプラノのきれいな子を連れてきたとも考えられます。

次にお送りするのは、『シンベリン』第2幕第3場より、「きけ、きけ、ひばり(Hark, hark, the lark)」です。ヒロインのイノージェンに求愛する若者クロートンが楽師たちを連れてきて、彼女の部屋の窓の下でこの歌を演奏させます。ひばりといえばエリザベス朝演劇では、朝を告げる鳥として利用されます。『ロミオとジュリエット』でも、後朝(きぬぎぬ)の朝を迎えたロミオとジュリエットが朝が来たかどうかを、今さえずった鳥が夜鶯ともいわれるナイチンゲールなのか、それともひばりなのかと語り合います。朝がまだ来ていない、だから、ロミオとは別れたくないと思うジュリエットはこう言います。「あれはナイチンゲール。ひばりじゃない。夜な夜な向こうの柘榴(ざくろ)の木で歌うの。本当よ、あれはナイチンゲール」。すると、ロミオが「ひばりだった。朝を告げる鳥だ」と答えるのです。「きけ、きけ、ひばり」というこの曲は、したがって、朝が来ましたよ、起きてくださいという歌です。こうして恋する男性が好きな女性の部屋の前で音楽を演奏させるというのは、ルネサンスの洒落た求愛方法の一つでした。作曲は、当時のリュート奏者で作曲家だったロバート・ジョンソンです。

(演奏)

次の曲はロバート・ジョンソン作曲、「蜂が蜜吸うところで(Where the bee sucks)」です。『テンペスト』第5幕第1場。妖精エアリエルは主人のプロスペローに最後の仕事を命じられます。この任務を果たせば自由にしてやると言われて喜ぶエアリエルが歌う、楽しい歌です。プロスペローがこう言います。「エアリエル、わが洞窟から帽子と短剣を持ってこい。私は正体を明かし、元のミラノ公爵として姿を見せよう。急げ、精霊よ。間もなく自由にしてやろう」。するとエアリエルは、この歌を歌いながら、あっという間に帽子と短剣を持ってきて、プロスペローの着替えを手伝うのです。歌の内容です。「蜂が蜜を吸うところで私も吸い、キバナノクリンザクラの花の中に私は寝る。そこで横になると、フクロウが鳴く。私はコウモリの背に乗って飛ぶ。夏を追って陽気に、陽気に、陽気に私は生きる。枝に咲き誇る花の下で」。ではお聴きください。

(演奏)

時の経つのは早いもので、最後の曲となってしまいました。これまでずっとシェイクスピア自身が耳にしてきた当時の音楽をお送りしてきましたが、最後だけ例外で、18世紀に作曲された曲をお届けします。よく知られたメロディで、エリザベス朝の雰囲気を非常によく伝えている曲です。シェイクスピアが『十二夜』を上演したとき、道化フェステを演じたのは、劇団員の道化役者ロバート・アーミンでした。アーミンは悲劇『リア王』でも道化を演じて、同じリフレインがついた歌を歌っています。ついでにまた宣伝してしまいますが、2018年7月にこまばアゴラ劇場で、私が書いた新作芝居『ウィルを待ちながら』を上演し、そこに出てくださる俳優の田代隆秀さんがこの道化の歌を歌ってくださることになっています。日本語の歌詞と楽譜がプログラムに載っていますので、あとでご覧ください。まずは英語と日本語で佐藤裕希恵さんに歌っていただき、最後にみなさんに日本語で歌っていただきましょう。3回繰り返して、1回目は普通のテンポで、2回目はもう少し速く。一番速いテンポで最後歌って、本日を締めくくろうと思います。

(合唱)

ありがとうございました。これをもちまして「シェイクスピアの音楽会」は終了です。最後にちょっと河野校長に今日のご感想などを。

河野:河合先生がこれほど芸域が広いというのは発見でした。昔、役者になろうと思っておられたということは知っておりましたが、演じ分けてましたね、いろいろ(笑)。本当に楽しみました。演奏はみなさんすばらしかったし、河合先生も全体にわたる水先案内人、そしてレクチャーもありがとうございました。何より心配だったのはリコーダー合奏です。シェイクスピア講座が始まったときには影も形もないアイディアだったんですけれども、授業を続ける中で、こういうのをやってみようとスタッフの中からアイディアが出てきて、受講生の方が積極的に参加してくださった。今日は学校長というよりは父兄の気持ちで見ていました(笑)。

河合:着てらっしゃるのはカクシンハンのTシャツですね。これは、みなさんにカクシンハンのお芝居観てくださいというメッセージでもあり、私からはKawai Projectの公演をぜひ観てくださいとお願いしたいと思います。

河野:今年の夏は、カクシンハンのシェイクスピアTシャツで街を歩こうと思っております。みなさんもヘイホーヘイホーと街を闊歩していただきたいなと思います。

河合:では、みなさま、人文主義の気持ちを大切に(笑)、お帰りいただければと思います。今日は本当にありがとうございました。

おわり

受講生の感想

  • 以前、古楽をよく聴いていましたが、河合先生の講義で時代背景をうかがった後のほうが、天上の音楽としてより楽めました。また、演奏者の皆様から人文主義の恩恵をいただきました。恒例となったワークショップの合唱も楽しかったです。声を出したり、体を動かすことが、最もその世界観を実感できますね。

  • シェイクスピア時代の音楽とは、「天体の音楽」である。神々が奏でるものだから、心の清い人しか聞こえない、 と、先生の朗々たる美声で語られると、それ自体がお芝居のセリフのようでした。シェイクスピアの劇中でも大事な役割を担う音楽。当時の音楽ってどんな感じなのか分かるのが、第3部のプロの演奏でした。古楽器の音色は温かみがあり、リュートは歌声に実にぴったり。歌声に寄り添りそう風のような音色でした。そんな当時の音楽を聴き、その時代に思いを飛ばすだけでも楽しいことなのに、今回は、リコーダー合奏に参加したという点でも私にとって特別な音楽会となりました。本番もですが、そこに至るまでの過程が本当に楽しかったです。太田先生の、音楽愛に満ち、熱意のこもった、明るい指導にのせられ、何とか形になってきた時の嬉しかったこと。初めてのグループなのに、一体感を感じて演奏できました。

  • シェイクスピアの時代の音楽に触れるということで、思いもかけずリコーダーを手にすることになった。全くの未経験者で、日々の練習もままならない身には結構しんどいけれど、ワクワクする気持ちに背中を押されて、本番までの短い期間を何とか乗り切ろうと頑張りました。